大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用、拡散などは固くお断りします。※※

細川俊夫のヴァイオリン協奏曲「祈る人」(日本初演)とフランソワ・ファイのオペラ「卒塔婆小町」(世界初演)とミラーニューロンが彩る心映え<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ミラーニューロンが彩る心映え(ブログの枕)
今年は1923年9月1日に発生した関東大震災から100年の節目にあたりますが、この教訓を語り継ぐために9月1は「防災の日」に指定されています。また、1854年11月5日に伊豆から四国にかけて発生した安政南海地震では約15mの津波が発生し、和歌山県有田郡広川町の濱口梧陵さん(後にヤマサ醤油社長)が稲に火をつけて村民の避難を誘導した話が残されており、この教訓を語り継ぐために11月5日は「津波防災の日」に指定されています。さらに、今年は2011年3月11日に発生した東日本大震災の犠牲者の十三回忌を迎えましたが、地元の方々の話を伺うと、一旦は高所に避難した人が予想よりも津波の到達が遅れたことから油断して家の様子を見に帰り津波の犠牲になったケースが多かったと涙ながらに語られており、この教訓を後世に語り継ぎたいと心を砕かれている姿を印象深く思い出します。この点、仏教では、初七日、四十九日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌などの宗教的な節目に追善供養を行い、経文が書かれた「卒塔婆」を立て善行を積むことで故人の冥福を「祈り」ますが、「卒塔婆」(ソトバ)は古代インドのサンスクリット語「ストゥーパ」(仏塔)が起源と言われ、これが中国に渡って「卒塔婆」(層塔)になり、そのまま日本に「卒塔婆」(層塔)が伝来して、これを簡素化したもの(層塔を擬した角塔婆板塔婆)が普及したと言われています。また、日本語の「祈り」という言葉は「い」(生)+「のり」(宣り)から構成され、「故人の冥福を祈る」とは生人が善行を積むことで故人が界で無事に転して幸になることを仏に願う(る)ことを意味しています。このように、本来、「祈り」とは、人ならぬもの(神仏、自然界の精霊、先祖の霊など)との交信を試み、故人、家族や共同体などの無事な生を願い、これを感謝すること(清浄)を言いますので、年末に除夜の鐘で煩悩を祓った直後に初詣で自らの欲望を叶えるために願掛けをして煩悩を逞しくすること(不浄)は「祈り」とは異なる節操のない行為と言えるかもしれません。過去のブログ記事でも触れましたが、人間は約500万円前頃に直立二足歩行を開始して両手が解放されると道具やそれを操る技術等を発明しますが、その過程で脳の発達が促されて紀元前5万年頃の突然変異によりイメージや言葉などの観念的なものを操る高度な認知能力を獲得し(認知革命)、それらの観念的なものを他人と共有する能力を身に付けたことで社会を形成するようになりました。また、人間は生存可能性を高めるべく十分な知覚情報を得られなくても素早く判断ができるように、脳が不足している知覚情報をイメージ(予測)して認知するようになり(シミュラクラ現象)、さらに、社会を形成するようになったことで他人の表情や行動の背後にある意図をイメージ(共感)する能力を身に付けますが(芸術鑑賞に欠かせない能力)、これらの能力が過剰に働いて全く意味のない現象や刺激に意図や気配を認知するようになりました(代理検出装置)。果たして、これらの能力を身に付けた人間は、疫病、飢饉や天変地異など人知の及ばない不条理に対して人ならぬものの力をイメージ(想像)し、それらを儀式、芸能や物語などで知覚化させて取り除くこと(例えば、桃太郎の鬼退治など)により社会の不安を和らげる知恵を働かせるようになりました。過去のブログ記事でも触れたとおり、人ならぬものとの交信を試みるために肉体的な境界を超える技能を身に付けたシャーマンが誕生し、狩猟社会(神の恵みである動物を追う生活)では肉体から魂が離脱して人ならぬものを追う脱魂型シャーマニズムが主流となり(肉体から精神を解放するために陶酔状態になりますが、それがゴスペルのコール・アンド・シャウトからロックのシャウトへと発展)、農耕社会(神の恵みである植物の収穫を待つ社会)では肉体を依り代として人ならぬものの憑依を待つ憑依型シャーマニズムが主流になりましたが(精神から肉体を解放するために瞑想状態になりますが、それが人ならぬものを顕在させる依り代としての夢幻能へと発展)、これらは音楽や舞踊などを効果的に利用し、場合によっては向精神作用がある薬草(例えば、魔女が箒に跨って空を飛ぶ姿は、20世紀まで女性はパンツを履く習慣がなく、箒の柄にベラドンナの成分を塗布して、それが性器の粘膜から吸収されて浮揚感を覚えたことが起源になったと言われているなど)なども利用していました(これに対して、キリスト教では聖書に書かれた神の言葉(ロゴス、理性)が信仰の拠り所とされ、理性で本能をコントロールすることが重視されましたので、人々から理性を奪う可能性がある肉体的な興奮を喚起し、人々を狂気(トランス)させる本能的・野性的なリズムの使用を忌避しましたが、I.ストラヴィンスキーが本能的・野性的なリズムを西洋音楽に採り入れたバーバリズムによってリズムの解放を果たしています。)。この点、シャーマニックな知性とは、人間が人間以外の多様な視点を持って自然や世界を捉えることに特徴がありますが、人間中心主義的な自然観や世界観の矛盾や破綻等が明確に意識されている現代にあって、再び、シャーマニック・マインド(ネオ・シャーマニズム)が見直されるようになっています。因みに、人間が人間以外の多様な視点をもって自然や世界を捉えることができるのは、脳のミラーニューロン(共感細胞)の働きによるものであることが分かっています。人間は道具を使って狩猟を行う際に動物と自分の位置関係を把握するために自分の外側(三人称)から客観的に自分を眺めるオフ・ステージの視点(自我の発見)を持つ必要が生じたことからミラーニューロン(共感細胞)が発達したと考えられており、これが他人の表情や行動の背後にある意図をイメージするなど非言語コミュニケーションでも重要な役割を担うようになったと言われています。この点、人間は本能的に向社会性(利他的な行動をとる特徴)を有していると言われており、例えば、他人の幸福を祈ると神経伝達物質「オキシトシン」(ハッピーホルモン)が分泌されて自分も幸福を感じ、他人の不幸を祈ると神経伝達物質「コルチゾール」(ストレスホルモン)が分泌されて自分も不幸を感じること(ミラーリング)が分かっています。「人を呪わば穴二つ」という格言にも表れていますが、「祈り」とはミラーニューロンのミラーリングによって自分自身の意識に作用し、それによって自然や世界の捉え方も変わってくるという意味で、その行為自体が自分の生き方を定め、また、他人のミラーニューロンのミラーリングに作用して他人の意識にも影響を与え得るシャーマニックな効果を持つものと言えるかもしれません。
 
①奇跡のピアノ(いわき震災伝承みらい館)(福島県いわき市薄磯3-11
②旧豊間中学校校舎跡(福島県いわき市平薄磯南街63-16
③祈りの鐘(塩屋岬)(福島県いわき市平薄磯宿崎33-3
④東日本大震災慰霊碑(福島県いわき市平豊間榎町102-1
奇跡のピアノ(いわき震災伝承みらい館):東日本大震災の津波で被災した旧豊間中学校体育館のグランドピアノを調律師・遠藤洋さんが修復し、ピアニストの西村由紀江さん及びシンガーソングライターのKiroroさんが弔問演奏しています。その後、遠藤さんは熊本県豪雨災害で浸水したグランドピアノも修復し、2022年9月に福島県いわき市の「奇跡のピアノ」と熊本県球磨村「希望のピアノ」の初共演が実現しています。 旧豊間中学校校舎跡旧豊間中学校校舎は薄磯海水浴場に面した風光明媚な場所にありましたが、現在は防災緑地として整備され、旧豊間中学校校舎前にあった「豊かな人間性」石碑のみが往時の記憶を留めています。いわき震災伝承みらい館には旧豊間中学校に設置されていたタイムレコーダーが津波被害が発生した時刻を指したままの状態で保存され、その生々しい爪跡が現在も続く自然災害に対する警鐘を鳴らし続けています。 祈りの鐘(塩屋岬):旧豊間中学校校舎跡の近くに美空ひばりの大ヒット曲「みだれ髪」(星野哲郎作詞)に「憎や恋しや塩屋の岬」、「暗や涯てなや塩屋の岬」、「祈る女の性かなし」と歌われた風光明媚な塩屋岬があり、美空ひばり像や祈りの鐘(震災慰霊)が設置されています。また、薄磯海水浴場は外洋の良質な波が多いことから、湘南やその他の県外のサーファーが詰め掛けるサーフィンスポットとしても知られています。 東日本大震災慰霊碑:東日本大震災では福島県、宮城県及び岩手県を中心に約2万人の死者・行方不明者が出る大惨事になりましたが、これらの被災地では各所に慰霊碑が建立され、犠牲者が慰霊されています。なお、この慰霊碑の直ぐ近くには、映画「超高速!参勤交代」に登場する岩城湯長谷藩岩城平藩の城跡があり、また、岩城平藩には近代筝曲の開祖・八橋検校が専属音楽家として召し抱えられていたことがありました。
 
▼細川俊夫のヴァイオリン協奏曲「祈る人」(日本初演・読響定期)
【演題】第630回定期演奏会
【演目】モーツァルト フリーメイソンのための葬送音楽ハ短調
    細川俊夫 ヴァイオリン協奏曲「祈る人」(国際共同委嘱/日本初演)
     <Vn>樫本大進
    モーツァルト 交響曲第31番ニ長調「パリ」
    シュレーカー あるドラマへの前奏曲
【指揮】セバスティアン・ヴァイグレ
【演奏】読売日本交響楽団
【場所】サントリーホール
【日時】2023年7月27日(木)19:00~
【感想】
今日は日本が誇る世界的な作曲家・細川俊夫さんのヴァイオリン協奏曲「祈る人」の日本初演があるというので、その歴史的な瞬間に立ち会うべく聴きに行くことにしました。この曲はベルリンフィルハーモニー管弦楽団(ドイツ)、ルツェルン交響楽団(スイス)及び読売日本交響楽団(日本)の共同委嘱で作曲され、2009年9月からベルリンフィルハーモニー管弦楽団の第1コンサートマスターを務めているヴァイオリニストの樫本大進さんに献呈されています。因みに、2009年3月にヴァイオリニストの安永徹さんがベルリンフィルハーモニー管弦楽団の第1コンサートマスターを退任していますが、その空席を樫本さんが埋めていますので、1983年から実に40年間に亘って日本人が第一コンサートマスターとしてベルリンフィルハーモニー管弦楽団のサウンド作りに貢献しています。この曲は2023年3月2日にパーヴォ・ヤルヴィ指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団が世界初演していますが、3日間の公演は全て完売で会場から多くのヴラヴォーが飛ぶ盛会だったそうです。細川さんは「旅」や「花」をテーマにした曲が多く、東日本大震災以降は「祈り」をテーマにした曲も多く作曲されていますが、パンデミック、ウクライナ戦争や異常気象など世界が多くの危機に直面して各地で「祈り」を捧げる人が増えている状況にあることから、この曲の作曲を決意したそうです。この曲はソリストをシャーマン、オーケストラをシャーマンの内(憑依)と外(脱魂)に拡がる宇宙(自然)に見立て、シャーマンが祈りの歌を紡ぎながら宇宙(自然)と調和していく世界観が表現されていますが、人間による環境破壊が自然と人間の関係を崩し始めている現状を憂慮し、自然と人間の調和を取り戻したいという細川さんの「祈り」が込められているように感じられます。因みに、細川さんのご祖父は華道家だそうですが、「花一輪に飼い慣らされる」という華道の境地は、花本来の美しさに身を委ね、花の移ろい(命の営み)に心を澄ませながら、自らも自然の一部として調和する日本の伝統的な自然観を表しており、このような価値観が細川さんの創作の源泉にあるように感じられます。この曲は「序奏」「間奏」「祈りの歌」「闘い」「浄化」の5つのパートから構成され、それぞれのパートが間断なく演奏されますが、樫本さんによるテンションの高い神憑かった演奏とこれに敏感に呼応するオーケストラの多彩で隙のない演奏とが相俟って、この世ならざる独特の世界観を描き出し、これを聴く者の意識が徐々に別次元へ誘われ(但し、トランス状態になるという意味ではなく、音楽的なイメージが明確に伝ってくる説得力のある表現という意味)、自然(宇宙)との繋がりを取り戻して行くような感覚(対称性の回復)を生起するという意味で、これまでのクラシック音楽にはない新しい芸術体験をもたらしてくれる音楽に感じ入りました。「序奏」及び「間奏」では、樫本さんがロングトーンを静かに奏で出すと静謐な空間が広がりシャーマンの祈りが始まりますが、そのテンションの高い演奏にはさながら能楽のシテを見ているような静謐さの中に凝縮された激しいエネルギーの動きのようなものが感じられ、それが徐々に沸点に達するようにトレモロが次第に強さを増しながらオーケストラのヴィブラフォン、木管、弦(スピッカート)へ伝播し、神秘的な世界が拓かれて行く様子が色彩豊かに幻想的に描き出されていました。所々、樫本さんとコンマスの二重奏が協和音を奏でますが、さながらシャーマンが脱魂して自然の一部として調和ていることをイメージさせるものであり、前回のブログ記事で触れた松尾芭蕉の俳句にも通底する世界観に感じ入りました。「祈りの歌」では、樫本さんがカデンツァ風に祈りの歌を歌い上げ、これにオーケストラが敏感に呼応しながら緊密なアンサンブルが展開されましたが、まるでシャーマンの祈りが自然に木魂しているような不思議な感興に包まれ、樫本さんとオーケストラの信頼関係を感じさせる精妙な呼吸感が出色でした。「闘い」では、金管が奏でる重厚なハーモニー(災害や戦争のメタファー?)と共に、樫本さんとチェロ首席が不協和音を奏でますが、ルネサンス期に広まったヒューマニズムは人間中心主義(自然と人間を非連続に分離する二元論的な世界観)を生み、その驕りが招いた環境破壊に対する自然の慟哭のようにも感じられました。樫本さんによる力強い祈りの歌とオーケストラによる金切音や打撃音(自然の悲鳴)は自然と人間の厳しい対立をイメージさせますが、人間による環境破壊が自然と人間の関係を崩し始めている様子が痛々しく描かれているのに対し、樫本さんによる力強い祈りは人間が自然(宇宙)との繋がりを取り戻す決意の表明(生+宣り)のようでもあり、その未来に繋ぐ希望が一隅を照らしているようにも感じられました。「浄化」では、オーケストラは鎮まり、仏教の供養に用いる鈴(りん)、鈴鉦、大きんなどの楽器が鳴らされ、樫本さんとオーケストラが調和して優しいアンサンブルを奏でながら静寂のうちに消え入るように終わりますが、さながら揚幕に消え失せる能楽のシテを想起させる余韻が心を満たします。自然(宇宙)との繋がりを取り戻すようなシャーマニックな体験を通して、人間と自然のあるべき姿を見詰め直す契機となるような傑作であり、音楽だけでここまでの世界観を描き出せるものなのかと感嘆させられました。なお、樫本さんにはシャーマンの資質があるとしか思えない霊性を湛えた演奏で魅了してくれましたが、このような懐の深いヴァイオリニストをソリストに迎えたことが、この曲の初演を成功に導いた大きな要因と言っても過言ではないと思います。次世代に聴き継がれることになる傑作の初演に立ち会えた興奮を禁じ得ません。ヴラヴォー!!樫本さんのような傑出した奏力がなければこの世界観を描き出すのは並大抵ではないと思いますが、是非、若く有能なヴァイオリニストの皆さんにも挑戦して貰いたいと思いますし、これからの時代にレパートリーに加えておくべき1曲になるのではないかと思います。是非、再演が待ち望まれます。なお、現代音楽を採り上げる演奏会では団員の練習時間の制約からモーツァルトの名曲やラヴェルのボレロなどあまり練習を必要としない演目とカップリングされることが多いですが(オーケストラの経営を圧迫しないための止むを得ない措置)、これらの演目はイマサラ感がありますので感想は割愛させて頂きます。
 
 
▼フランソワ・ファイトのオペラ「卒塔婆小町」(世界初演)
【演題】オペラ「卒塔婆小町」(世界初演)
【作曲】フランソワ・ファイト
【台本】三島由紀夫「近代能楽集」(仏訳:マルグリット・ユルスナール)
【出演】<Mes>小林真理(卒塔婆小町)
    <Bar>リオネル・サドゥン(詩人、男1)
    <Sop>柚木たまみ(女1)
    <Sop>谷口美也(女1)
    <Mes>筧明絵(男2)
    <Pf>松田琴子
    <Vib>沓野勢津子
【場所】京都文化博物館別館ホール
【日時】2023年8月1日(火)~(アーカイブ配信)
    ※実演:2023年7月15日(日)17時00分~
【一言感想】
三島由紀夫さんの近代能楽集「卒塔婆小町」を題材にしたオペラとしては、作曲家・石桁真礼生さんのオペラ「卒塔婆小町」(1956年初演)がありますが、これは日本で最初に十二音技法を使って作曲されたオペラとしても知られています。今回はフランス人作曲家・フランソワ・ファイトさんがメゾソプラノ歌手・小林真理さんのために三島由紀夫さんの近代能楽集「卒塔婆小町」を題材にして作曲したオペラが京都で初演されるというのでアーカイブ配信を視聴することにしました。コロナ後は新曲の初演ブームとでも呼ぶべき喜ばしい状況が生まれていますが(もちろん時代の風雪に耐えて次世代に聴き継がれる名曲に育つのはごく僅かだと思いますが)、本来、これがクラシック音楽の伝統ではないかと思われ、100年以上も昔に作曲された曲の再演しか行われなかった戦後のクラシック音楽界の状況が異常であったと言わざるを得ません。さて、能「卒都婆小町」は老女をシテとする老女物(「卒都婆小町」「鸚鵡小町」「姥捨」「檜垣」「関寺小町」が老女物五曲と言われ、とりわけ後者の三曲は三老女として最高の秘曲とされています。)に数えられ、「老い」をテーマとして扱う深い内容であることから、未熟な能楽師には披くことが許されない位の高い曲とされています。因みに、原作である観阿弥作の能の題名は「卒婆小町」ではなく「卒婆小町」ですが、これは「卒」(ソト)と「」(都落ち)の掛詞になっており、曲中で「極楽の内ならばこそ悪しからめ そとは何かは苦しかるべき」(そとは=卒都婆)という詞章が出てきますので、現世極楽(都生活)の外にある現世地獄(乞食)に身を堕とした小野小町の過去の栄華(都生活、美貌)と現在の不遇(乞食、老醜)を暗喩したものと考えられ、これを現代劇に翻案した三島由紀夫さんが現代の時代状況を踏まえて近代能楽集の題名を「卒婆小町」に戻しています。なお、三島由紀夫さんの近代能楽集は数多くの舞台等で上演されているほか、近代能楽集「卒塔婆小町」及び近代能楽集「葵上」は映画化されています。因みに、能「葵上」及び近代能楽集「葵上」は共に六条御息所の生霊が葵上を祟る脱魂型シャーマニズムの物語ですが、能「卒都婆小町」は深草少々の亡霊が小野小町に憑依する憑依型シャーマニズムの物語であるのに対し、近代能楽集「卒塔婆小町」は小野小町の亡霊が老婆、深草少々の亡霊が詩人にそれぞれ転生して物語を展開していますので、小野小町の亡霊と深草少々の亡霊が転生せずに顕在する能「通小町」とも異なり独特な内容になっています。このほか、老婆(小野小町の亡霊の転生)は朽木の卒塔婆ではなく公園のベンチに腰掛けて榧の実ではなくタバコの吸い殻を拾い集めている点、仏法を巡る僧侶との問答が死生観を巡る詩人(深草少々の亡霊の転生)との語り合いに置き換えられている点、また、深草少々の亡霊が小野小町に憑依して物狂いするシーンは老婆と詩人が鹿鳴館で社交ダンスを踊るシーンに置き換えられている点など、現代の時代状況を踏まえて宗教色を希釈化した内容に翻案されています。因みに、能「卒都婆小町」の題材になっている「百夜通い」は、小野小町が言い寄ってくる深草少々に対して深草少々の屋敷(欣浄寺)から小野小町の屋敷(隋心院)までの片道約5kmの道程を100夜通うことができれば気持ちを受け入れると約束し(深草少将が小野小町への愛に陶酔してその切なさのあまりに涙を落した「少将姿見の井戸(涙の水)」)、深草少々は小野小町の屋敷に通ってきた証として1夜毎に1つの榧の実を門前に置いて帰りましたが(小野小町の屋敷があった「隋心院の山門」、小野小町に縁の「榧の実」)、100夜目に大雪が降って凍死した悲恋(小野小町が深草少々の通った道すがら植えた榧の実が育ったものと伝わる樹齢1000年以上の「西浦の小町榧」「小野葛籠尻町の小町榧」「随心院の小町榧」)が語り継がれています。この物語を受けて、近代能楽集「卒塔婆小町」では100年毎に深草少々の亡霊が転生した詩人が同じく100年毎に小野小町の亡霊が転生した老婆に出会い、詩人が老婆への愛の陶酔から美しいという呪いの言葉を発して絶命してしまうという物語です。この曲では能楽の囃子方を意識してピアノ(弦打楽器)及びヴィヴラフォン(鍵盤打楽器)が使用されたのではないかと思われますが、メロディーやハーモニーではなくリズム(打撃音と間)を主体として舞台空間を音楽的に演出する工夫が見られました。舞台構成は①公園の場面、②鹿鳴館の場面、③公園の場面の3場となり、先ず、①公園の場面では、タバコの吸い殻を拾い集める老婆がベンチに座っている若いカップルを追い払いますが、そこに酔っ払った詩人が登場して老婆と死生観を巡り語り合う楽劇風の舞台が展開されました。次に、②鹿鳴館の場面では、舞踏会の喧騒が影絵で表現され、99歳の老婆から20歳の美女に早変わりしたメゾソプラノの小林さんとバリトンのサドゥンさんがワルツを踊りますが、ピアノがワルツのステップを刻み、ヴィヴラフォンが可憐な歌を奏でる美しい音楽が出色でした。再び、メゾソプラノの小林さんが20歳の美女から99歳の老婆に早変わりして③公園の場面に戻り、ヴィヴラフォンが100夜目を告げる鐘の音を奏し、詩人が老婆への愛の陶酔から美しいという呪いの言葉を発して絶命しますが、これとは対照的に老婆は「ちゅうちゅうたこかいな」とタバコの吸い殻を数え出し、冒頭で奏でられた音楽が終曲でも繰り返される循環形式になっており、次の100年目の到来を予感させる印象的な終曲になっています。陶酔のうちに死を選ぶというロマン主義的な悲劇への意思を持った詩的な存在である詩人の生き方に対し、現実の空虚さを冷静に見詰めて生き長らえる観念的な存在である老婆の生き方が対照的に描かれていますが、近代能楽集は1956年に出版されてから既に半世紀以上の歳月が流れていますので、ストイックな時代に生きる現代人にとって詩人の生き方に共感できる要素を見付けるのは困難になっているようにも感じられます。因みに、能「卒都婆小町」には「これは出羽郡司 小野良実が娘 小野小町が成れの果てにて候なり」という詞章が出てきますが、小野篁の子・小野良実は807年に出羽国郡司(国司の誤りか?)として秋田県湯沢市小野桐木田に桐木田館を構え、地元の女性(小野良実が見染めた美人)との間に設けた子が秋田美人の元祖・小野小町と言われています。小野小町は809年に桐木田館で生まれており、道の駅おがち「小町の郷」、小野小町の産湯に使われた「桐木田の井戸」、小野小町の母の墓「姥子石」などの観光施設も多く、小野小町を祀る「小町堂」を参詣すると美しさに一段と磨きが掛かるという評判から女性の観光客が後を絶ちません。
 
 
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▼境界を越えて新しい世界へ(編集後記)
人間は同じ刺激が繰り返されると慣れが生じ、幸福を感じる神経伝達物質の分泌量が減ってくることが分かっています。この点、S.ジョブズも「共感」よりも「意外性」が重要だと語っていますが、神経伝達物質の分泌量は脳の報酬量に比例して増えるのではなく、予測していた脳の報酬量と結果的に得られた脳の報酬量の差分に比例して増えることが分かっていますので、独創性や新鮮みがないマンネリズムは人間に良い影響を与えず、人間の幸福にとって独創性や新鮮みが重要であることが分かっています。この点、先日の鈴木@読響によるミシェル・カミロのピアノ協奏曲第2番「テネリフェ」(日本初演)に続いて、今回のヴァイグレ@読響による細川俊夫のヴァイオリン協奏曲「祈る人」(日本初演)と、新しい芸術体験をもたらしてくれる読響の革新的なプログラムには溜飲が下がる思いがします。現状、演奏会のプログラムの革新性という点では西高東低の印象を否めませんが(革新の風は常に西から吹いてくる)、主要な在京オケに限って言えば、読響、都響や日フィルは現代音楽を積極的に採り上げる革新的なプログラムが比較的に多く好印象を受けますが、それ以外は保守的なプログラムが比較的に多い印象を否めず、色々な事情はあると思いますが、やや「握りキンタマ」(夏目漱石の金言)の傾向がチラチラと見え隠れするのがタマに傷です。時代の変革期に世界から取り残されている日本の凋落に頭の中まで付き合わされるつもりはありませんので革新の風に吹かれて未来志向で豊かに心を養っていきたいと思っています。ついては、毎年恒例の年末のベートーヴェンや年始のニューイヤーを聴きに行って満足できるほどオメデタイ脳(シナプス可塑性が不活発な状態)ではありませんので、年末年始の演奏会難民からの切実な祈りとして、年末年始に何か気の利いたプログラムの演奏会を企画して頂けると大変に有難いと思っています。「音楽は音を楽しむと書くのだから気軽に楽しめばいい!」というレベルの薄っぺらな芸術体験ではなく、新しい世界観に触れて視野が拓かれるような芸術体験(シナプス可塑性の活発化)を通して初めて味わうことができる本当の楽しさを求めています。
 
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.26
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼エリック・ネイサンの2つのオーボエのための「Just a Moment」(2021年)
アメリカ人現代作曲家のエリック・ネイサン(1983年~)は、BMIのウィリアム・シューマン賞(2008年)、ASCAP財団のモートン・グールド賞(2008年、2010年)及びルドルフ・ニッシム賞(2011年)など数々の賞を受賞されている非常に注目されている現代作曲家です。この曲は、2本のオーボエをステージとバルコニーに距離を置いて配置し、まるでロミオとジュリエットのようにお互いに音やフレーズを呼応しながら音楽を奏でるユニークな着想の曲で、微妙なズレや不協和が物語を生み出し、それらの音が空間的に広がり絡み合いながら1つの世界を形作っています。現代はスマホの普及によって何時でも何処でも誰でも「つながる」ことができる距離を感じさせない社会ですが、その一方で、和歌等に詠まれているように距離が育む人間の想像力や思慕の情のようなものを感じられない無粋な時代に生きているとも言え、心を募らせるという体験がどれだけ人間の感受性や生きる力を育んでいるのかということを考えさせられる面白い作品です。
 
▼ジェームス・オキャラハンの「Doubt is a body」(2018年)
カナダ人現代作曲家のジェームズ・オキャラハン(1988年~)は、サルヴァトーレ・マルティラーノ記念作曲賞(2016年)、ISCM若手作曲家賞(2017年)、カナダのグラミー賞に相当するジュノー賞(2014年、2020年)など数々の賞を受賞されている非常に注目されている現代作曲家です。今日は2台の楽器を使った作品をフォーカスしていますが、この曲は、演奏家が楽器で奏でるアコースティックな音と、これに反応するトランスデューサー・スピーカーを使って生成されるエレクトロニックな音によるアンサンブルという点でユニークな着想の曲です。演奏家は楽器を自らの身体機能の拡張として捉えていますが、その身体性すら超越している点で新しい試みと言えます。過去のブログ記事でも触れたとおり、BMI技術による人工指が開発されていますが、これまでは1人の演奏家が複数の声部を演奏するために身体機能の限界に挑戦して様々な演奏技法を開発してきましたが、その限界すら超えて1人の演奏家が複数の声部を演奏する時代が来ています。
 
▼山根明季子の2台ピアノのための「eye glitch animated eye」(2021年)
日本人現代作曲家の山根明季子(1982年~)は、いまさら紹介の必要がないビックネームですが、武生作曲賞入選(2005年)、第22回日本現代音楽協会作曲新人賞(富樫賞)(2005年)、第20回芥川作曲賞(2010年)などを受賞されている現代最も注目されている現代作曲家です。この曲は、第6回両国アートフェスティバルで初演された際の映像ですが、四分音ピアノを使ってアニメキャラクターのパッチリ目がグリッチしている様子を音楽的に表現し、アコースティックなピアノでエレクトリックな音世界を描き出すことに成功している面白い作品です。なお、この曲の初演を成功に導いたピアニストの及川夕美さん及び大須賀かおりさんは現代音楽作品の魅力の発掘やその紹介に尽力されている現代に欠かせない演奏家なので、併せて、この機会にご紹介しておきます。来る9月9日~9月15日に日本の現代音楽の聖地となっている両国門天ホールで第8回両国アートフェスティバルが開催されますので、お時間の許す方は新しい世界観を拓いてみませんか。