大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

アンサンブル室町「室町のミサ」とボンクリ・フェス2023「スペシャル・コンサートA面」と日本の耳が聞く蝉の声<STOP WAR IN UKRAINE>

▼日本の耳が聞く蝉の声(ブログの枕)
去る7月1日は郵便番号記念日でしたが、1968年に郵便番号制度が開始されたことで、日本全国津々浦々へ郵便物の効率的な配送が可能になりました。因みに、ナンバー君は郵便番号制度を宣伝するためのシンボルマークとして活躍し、その後、1998年に郵便番号7桁化を宣伝するための新しいシンボルマークとしてポストンが考案されましたが、日本語入力ソフトのIMEで「郵便」と入力して変換すると現在でもナンバー君(〠)が表示されます。郵便番号の起点は東京中央郵便局がある東京都千代田区の「100-0000」で、その終点は北海道別町南兵村一区の「099-6509」ですが、ここで洞察力の鋭い方はお気付きのとおり、これを見ると起点よりも終点の方が若番になっています。これは郵便番号が不足して1000番台の郵便番号を使用せざるを得なくなりましたが、郵便局のシステム上で郵便番号の桁数を増やすことができなかったのでやむを得ずに0番台の郵便番号を使用さざるを得なくなり、これに伴って最も小さい数字の郵便番号は北海道札幌市北区の「001-0000」で、最も大きい数字の郵便番号は山形県遊佐町の「999ー8531」(道の駅「鳥海ふらっと」)となり、山形県遊佐町は最も大きい数字の郵便番号の町としてPR動画(04:00~)まで制作する熱の入れようです。この周辺は、鳥海山のほかに松尾芭蕉がおくの細道で俳句を詠んだ「象潟」(汐越や 鶴はぎぬれて 海涼し)や「吹浦」(あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ)などがある日本でも屈指の景勝地&避暑地なので、今年のような猛烈な酷暑が予想される年のバケーションにオススメです。因みに、日本一高地にある郵便ポストは富士山頂でブルドーザーによって郵便物を集荷しますが、(公式の記録上では)日本一低地にある郵便ポストは和歌山県すさみ町沖の海中10mにある海中ポスト(2002年に世界一深いところにある海中ポストとしてギネスブック認定)でダイビングガイドが郵便物を集荷します。その後、伊豆の海中ポスト(海中20mなので、現在は、こちらが日本一低地にある郵便ポストかもしれません。)や沖縄の海中ポスト(海中7m)なども設置されています。その他にも、新穂高(西穂高口駅)、立山(室堂駅)、葛城山(山上駅)や鋸山(山頂駅)などの高地にある郵便ポストは交通機関によって郵便物を集荷し、また、白馬岳山頂にある郵便ポストは山岳ガイドが郵便物を集荷しますが、尾瀬ロッジ(群馬県)にある郵便ポスト(〒378-0411 群馬県片品村戸倉898-9)は郵便局員が鳩待峠休憩所から片道約3kmの道程を徒歩で郵便物を集荷します。また、立石寺(山形県)にある山寺郵便ポスト(〒999-3301 山形県山形市山寺4456-3)も郵便局員が徒歩で郵便物を集荷しますが、俳聖・松尾芭蕉がおくの細道紀行で立石寺について「岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ」と記しているとおり、(現在は石段の登山道が整備されているものの)1000段以上の石段が続く峻険とした登り坂を炎天下や吹雪など過酷な環境下でも毎日欠かさずに郵便物を集荷するために往復しなければならない郵便局員の苦労が偲ばれます。その意味では立石寺参拝の記念として山寺郵便ポストから投函した絵ハガキは、その想いを届ける郵便局員の功徳が積まれた有難い下され物と言えるかもしれません(拝)。
 
立石寺(山形県山形市山寺4456
立石寺(登山口):立石寺は860年に清和天皇の勅願によって慈覚大師円仁が開山した天台宗の寺院で、その境内には清和天皇御宝塔(供養塔)が安置されています。1686年7月13日(新暦)に俳聖・松尾芭蕉及び門人・河合曾良が立石寺を訪れた模様がおくのほそ道の紀行文に詳しく記されています。 俳聖・松尾芭蕉及び門人・河合曾良の銅像:天地総子さんのCMソングで一世を風靡したでん六豆を製造する株式会社でん六は山形県で創業していますが、その創業者・鈴木伝六さんは地域への恩返しとして1972年に松尾芭蕉の像を寄贈し、1989年に二代目の鈴木伝四郎さんが河合曾良の像を寄贈しています。 せみ塚(百丈岩):俳聖・松尾芭蕉及び門人・河合曾良は、門人・鈴木清風を訪ねて銀山温泉で有名な尾花沢に逗留していましたが、人々から静閑の地である立石寺を訪れるように勧められて、尾花沢から七里ほど引き返して立石寺に立ち寄り、松尾芭蕉が有名な句「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」を詠んでいます。 納経堂(入定洞)と開山堂(百丈岩):毎日、郵便物の集荷のために立石寺中性院にある山寺郵便ポストまで自らの足で登り、功徳を積む天空の郵便局員の姿には後光が射しているかのようです。一緒に登山させて頂きましたが、参詣を終えて下山する地元民や旅行客から暖かい言葉を掛けられ、皆から愛されています。
 
ウクライナでは小学校5年生から外国文学を学び、その中では日本文学として松尾芭蕉の俳句も採り上げられ、日本文化の特徴である「わび」「さび」などを勉強するそうですが、日本では小学校3年生から松尾芭蕉の俳句を学びますので、ウクライナの小学生は日本の小学生と比べても遜色ないレベルで日本文化を理解していると言えるかもしれません。上述のとおり、松尾芭蕉はおくの細道で「吹浦」や「象潟」を訪れる前に「立石寺」に立ち寄り有名な俳句「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」を詠んでいますが、現代作曲家の故・小倉朗さん(1916年~1990年)が著書「日本の耳」の中で、この俳句を採り上げながら日本の音世界に関する興味深い考察を展開されていますので、その概要に簡単に触れながら個人的な理解を述べてみたいと思います。小倉さんはこの俳句について蝉の声が「激しく耳を打っているうちに、やがて耳鳴りのように無感覚になって、いつの間にか深い静寂に取り囲まれて行く(中略)意識と無意識の間を去来する遠近の感情」(この句境を松尾芭蕉はおくの細道紀行で「佳景寂莫として心すみ行」と表現しています)を「岩にしみ入」と聞き分けたのではないかと考察しています。個人的には、この俳句を詠むと、雄大な自然の中で育まれる生命の営みを音として感じ取り、その営み(自らの存在を含む)が雄大な自然の中に取り込まれて、溶け込んで行くような仏教の世界観(一即一切、一切即一)が眼前に拓かれるような感興を覚えます。小倉さんは、これは寺の鐘の鳴る音よりもその響きがゆっくりと無の空間に吸い込まれて行く余韻を楽しむと言った風趣にも似ていると語っていますが、その音と音の間隙の無音に澄み渡る緊張を聞き分けて、その余韻を追って限りない静寂と出会う閑寂とした音世界に「さび」(閑寂な趣(寂色)に顕れる味わい)や「わび」(閑寂な趣(寂色)を楽しむ境地)の精神が生まれます。この点、現代人は松尾芭蕉が詠んだ俳句(「わび」の世界)に出会うことで、その閑寂の趣(寂色)が持つ奥ゆかしさ(「さび」の世界)に触れ、心に沁みるということなのだろうと思います。日本では、このような美意識を背景として静寂を乱す一切の音を極限まで削ぎ落して、その音と音の間隙の無音に澄み渡る緊張から「間」の感覚を生み出しましたが、能楽は囃子方が気魄を込めた掛声と共に息を詰め、その張り詰めた緊張によって見物の息も殺して絶対の静寂を作り出し、その無の空間にこの世ならざる者を顕在させるという「日本の耳」が生んだ究極の美的表現と言うことができるかもしれません。過去のブログ記事で触れましたが、日本語は「母音」で終わる言葉が殆どなので声帯が震える有声音として音素がはっきりと聞こえるのが特徴ですが(日本語は声の音と言われ、母音を自在に延ばせることが邦楽ホールで残響を必要としなかった理由の1つ)、これに対して、英語(西洋の言語)は「子音」で終わる言葉が多く声帯が震えない無声音として音素がはっきりと聞こえず息を吐いたような音になるのが特徴と言われています(英語(西洋の言語)は息の音と言われ、子音を延ばすことが難しいことがクラシック音楽ホールで残響を必要とした理由の1つ)。このような特徴から日本語は発声を延ばし易い母音の性質を活かして母音に感情を乗せる延音が好まれ、その延音によって喉(感情の綾)を聞かせながら緩やかな調子で唄う長唄などが生まれる(過去のブログ記事で触れましたが、オン・ステージの視点から延音に感情を乗せてイメージを共有)と共に、声楽を中心に発展した邦楽器は一音一音の余韻を楽しみ、その余韻に拡がる静寂に音楽的な意味を見い出す「日本の耳」を育みました。日本では、尺八、能管、篠笛などの木管楽器、三絃、琵琶、琴などの撥弦楽器や鼓、鉦などの打楽器が発展しましたが、胡弓などの擦弦楽器が発展しなかったのはこのような文化的な背景も関係しているかもしれません。これに対して、英語(西洋の言語)は子音を発音し易いように単語(子音)と単語(母音)を繋げて発音する連音が好まれ(例えば、“This is a pen”は“Thi/si/sa/pen”のように子音と母音を繋げてリエゾン)、息の強弱(ストレス・アクセント)によって音節を区切ることで言葉の意味を聞き分け(例えば、“Christmas”は、Christ(キリスト)+mas(ミサ)の2音節で聞き分けますが、日本語は雨と飴、箸と橋などのように声の高低(ピッチ・アクセント)によって言葉の意味を聞き分けるという点が異なっています。)、その音節と音節をリズムなどで繋げて歌う歌曲が生まれました。この点、過去のブログ記事でも触れましたが、西洋では自分(主体)と相手(客体)との間に共同視点を持たずに客観的な視点(三人称)から「分別」(対象の属性を捉えて分ける→木を見る西洋人)により世界を捉える特徴がある(二元論的な世界観)のに対して、日本では自分(主体)と相手(客体)との間に共同視点を持ち主観的な視点(一人称)から「無分別」(対象の本質を捉えて和える→森を見る日本人)により世界を捉える特徴がある(一元論的な世界観)という違いがあり、それが禅(瞑想)では自然と同化した呼吸状態になること(一元論)を目指し、浄土真宗(念仏)では阿弥陀如来と同じ境地になること(一元論)を目指すという特徴になって現れていると述べましたが、このような特徴は伝統邦楽が全てユニゾン(単一の旋律)で唄われるという特徴にも現れていると考えられ(母子が肉体的に一体であるように主客の別がない母性原理、仏教)、このために伝統邦楽にはメロディやリズム(間)の概念が必要だった一方で、(音楽的な分別を前提とする)ハーモニーの概念は必要なく、日本社会で同調圧力(ユニゾンの欲求)が強いのはこのような文化的な背景があったためかもしれません。これに対して、クラシック音楽はコーラス(複数の旋律)で歌われるという特徴にも現れていると考えられ(父子が肉体的に一体ではないように主客の別がある父性原理、キリスト教)、このためにクラシック音楽にはメロディやリズム(ビート)の概念に加えて、(音楽的な分別を前提とする)ハーモニーの概念が必要とされ、社会契約(和声法)によって一定のルールを設けて社会の調和(ハーモニー)を図るという発想はこのような文化的な背景があるためかもしれません。さらに、このような特徴から伝統邦楽ではリズム(間)は呼吸の同調によって自在に伸縮する不規則な時間間隔、小節(こぶし)は不規則な音の高低差として発展し(主観的、体験的)、クラシック音楽ではリズム(ビート)は数学的な規則性を持った時間間隔、ビブラートは規則的な音の高低差として発展した(客観的、理論的)という違いも生まれたと言えるかもしれません。この点、日本のリズム(間)と西洋のリズム(ビート)の特徴的な違いは、農耕民族が田畑を耕すために鍬を入れる動作として手と足の動きを一致させながら一歩づつ間(ゆっくりとした動作で感じる呼吸の伸縮)を置いて進む不連続的で不規則な運動を基調としていたのに対して、狩猟民族が獲物を追って早く走る動作としてビート(迅速な動作で感じる心臓の鼓動)を感じながら手と足を交互に交差して進む連続的で規則的な運動を基調としていたという違いも関係しているのではないかとも考えられ、多面的な理解が必要な問題なのかもしれません。小倉さんによれば、尺八は息を吹いて鳴らすものなので息の切れ目が音の切れ目になり、その一音一音に没入して一音で描き切る音世界という基本的な特徴を持っているのに対して、フルートはタギング(drdrdr、trtrtrなど)を練磨して音の切れ目を作らないように全体の流れを追って集中して行く音の連なり重なりで描き出す音世界という基本的な特徴を持っているという趣旨のことを解説されていますが、これは線と余白の広がりで世界を描く日本画と色の連なり重なりで世界を描く西洋画の特徴的な違いなどにも通底するものがあり、その感性が松尾芭蕉の俳句に詠まれた蝉の声の果てに広がる閑寂の趣きを聞き分ける、五線譜に書くことができない「日本の耳」になり、過去のブログ記事でも触れたとおり、それが西洋の現代作曲家などにも多大な影響を与えていると言えるかもしれません。
 
 
▼柿沼唯「室町のミサ」
【演題】室町のミサ(委嘱作品・初演)
【作曲】柿沼唯
【舞踊】田中誠司
【監督】大平健介
【照明】松本永
【演奏】アンサンブル室町
    和楽器
     <尺八>黒田鈴尊
     <篳篥>三浦元則
     <笙>石川高
     <箏>日原暢子
     <琵琶>久保田晶子
    古楽器
     <Vn>須賀麻里江
     <Vn>髙岸卓人
     <Vag>和田達也
     <Vc>山田慧
     <Cem>桒形亜樹子
     <Org>大平健介
     <Ct>久保法之
【料金】5000円
【感想】
アンサンブル室町は、2007年にフランス人のチェンバロ奏者であるローラン・テシュネさんを中心として西洋の古楽器と日本の邦楽器による世界初のアンサンブルとして結成されましたが、予てから古楽器や邦楽器を使った現代音楽に興味があり、作曲家・柿沼唯さんの能とパイプオルガンと合唱のためのオペラ「天鼓」(2021年世界初演)の好評も耳にしていましたので、柿沼唯さんの新作「室町のミサ」(世界初演)を聴きに行くことにしました。なお、アンサンブル室町の「室町」は最初に日本に西洋楽器が伝来したのが室町時代であったことから命名したそうですが、公式の記録上は1582年に織田信長が日本人で初めて舞踊付の西洋音楽を鑑賞したそうなので、それから440年後の現代の感性で創作された舞踊付の西洋音楽を鑑賞することになりました。一言で感想を言えば、「多様性の時代」を表現した秀作ということになりますが、料理に喩えれば、それぞれの素材を加工して全く別のものを作る「混ぜる」ではなく、それぞれの素材の個性を生かしながら全体として調和しているものを作る「和える」作品として成功しているのではないかと思います。その意味では、室町時代に日本文化と西洋文化が出会った異文化の出会いがどのようなものであったのか、その戸惑いや驚き、覚醒などが音楽的に表現された作品になっていると思います。柿沼さんによれば、この曲は伝統的なミサの形式に従って構成されており、アンサンブル室町の12人の奏者を最後の晩餐に登場する12使徒に準えて、クレド(琵琶と箏のデュオによる隠れキリシタンの信仰告白)以外の曲はグレゴリオ聖歌のミサ曲第11番の旋律を低旋律に使用し、また、長崎県生月島に伝わる隠れキリシタンの祈りと言われる唄オラショ「ぐるりようざ」の旋律をモチーフとして使用しているとのことです。個人的な印象としては、舞台上(=地上界)に古楽器5人(=キリスト教宣教師のメタファー)、和楽器5人(=隠れキリシタンのメタファー)、ダンサー1人(=イエス・キリストのメタファー)と、オルガンコンソール(=天上界)にオルガニスト及びカウンターテナー(=父なる神とその啓示のメタファー)を配し、舞台上では古楽器と和楽器がそれぞれの世界観を交錯しながら舞踊劇としてイエス・キリストによる受難の物語が表現されたいたのではないかと感じられました。舞台上に置かれた藁束はイエス・キリストが馬小屋で誕生したという故事を象徴するものに感じられ、また、ダンサーが脚立を背負って客席を巡り(=ゴルゴダの丘と受難を目撃する群衆のメタファー)、舞台上に脚立を据え付けてオルガンコンソールに向かって登りますが、その脚立は十字架と昇天を象徴するものに感じられ、舞台と客席、室町時代と現代をクロスオーバーするスケールの大きな舞台を楽しむことができました。田中さんは「肉体と空間と精神の震え」(存在証明)を大事に踊られているそうですが、正しく受難劇の大きなテーマである肉体(本能)と精神(理性)の鬩ぎ合いが感じられる魂の叫びとでも言うような息を呑む気魄のダンスが圧巻でしてイエス・キリストの迷いや強さを繊細に表現するパフォーマンスに惹き込まれました。柿沼さんは、古楽器も和楽器も楽譜至上主義ではなく演奏者の自由な表現(装飾や即興など)を許容する懐の広い音楽である点は共通しているものの、その一方で、西洋と日本の感性の違いによる異質な部分が多い点も指摘されていましたが、その異質な部分を繕って誤魔化さない誠実な創作姿勢が感じられ(これこそ異文化の出会いのダイナミズム)、それぞれの個性を尊重しながら1つの楽想として調和するための工夫が随所に施され、チェンバロと篳篥、オルガンと笙、チェロと琵琶、ヴァイオリンと尺八や琴、カウンターテナーと篳篥などの異色の組合せによるアンサンブルには新しい表現可能性を発見するような面白さが感じられて出色でした。その他にも、琴の唄い物と琵琶の語り物のアンサンブルや琴によるミニマルミュージックなど新鮮な音楽も聞かれ、古典的な曲調でありながら、それでいて古臭さのようなものを感じさせない新しさをふんだんに盛り込んだ非常に聴き易く、かつ、聴き応えのある秀作であると思います。いずれかの作曲賞にエントリーされてもおかしくない完成度の高い充実した内容であり、是非、再演が待ち望まれます。なお、カウンターテナーの久保さんの歌唱を初めて聴きましたが、その清潔感溢れる清澄な歌声と伸びのある洗練された歌唱が白眉でした。注目される期待の新星です。なお、アンサンブル室町は「ヒューマニズムの精神」を探求されているそうですが、現代はヒューマニズムの矛盾や破綻が明確に意識され、新しい価値観が模索されている時代にあり、その意味では「ヒューマニズムの精神」を越える新しい世界観を表現する舞台にも挑戦して貰いたいと期待しています。
 
 
▼ボンクリ・フェス2023「スペシャル・コンサートA面」
【演題】ボンクリ・フェス2023「スペシャルコンサートA面」
【演目】ハリス・キトス ファイブ・ウェイズ・トゥ・ムーブ(世界初演)
     <映像>ハリス・キトス
    ドゥ・ユン スロー・ポートレーツ(日本初演)
     <映像>デイヴィット・ミヒャレック
    藤倉大 尺八協奏曲(アンサンブル版世界初演)
     <写真>二コラ・フロック
     <アート・ディレクション>フローレンス・ドゥルーエ
     <尺八>小濱明人(尺八)
【演奏】アンサンブル・ノマド
     <Con/Gt>佐藤紀雄
     <Fl>木之脇道元
     <Ob>林憲秀
     <Cl>菊地秀夫
     <Fg>塚原里江
     <Hr>岸上穣
     <Tp>佐藤秀徳
     <Tb>今込治
     <Pf/Cel>中川賢一
     <Pec>宮本典子
     <hrp>高野麗音
     <Vn>野口千代光、花田和加子
     <Va>甲斐史子
     <Vc>竹本聖子
     <Cb>佐藤洋嗣
【場所】東京芸術劇場
【日時】7月8日13時00分~
【料金】1500円
【一言感想】
2017年から毎年、作曲家・藤倉大さんをアーティスティック・ディレクターに迎えて「今の時代の音楽をより多くの人々に楽しんで頂くこと」というコンセプトのもとに東京芸術劇場で開催されている「ボンクリ・フェス」(ボンクリとは、ボーン・クリエイティブの略で「人間はみんな、生まれつきクリエイティヴだ」という意味)ですが、今年はスペシャルコンサートA面に参加しましたので、その感想をごく簡単に残しておきたいと思います。スペシャルコンサートA面は映像と音楽のコラボレーションがテーマになっているらしく、先日、尾高賞を受賞した藤倉さんの尺八協奏曲のアンサンブル編曲版を含む3曲が映像付きで上演されました。
 
▼ハリス・キトス「ファイブ・ウェイズ・トゥ・ムーブ」(世界初演)
この作品はギリシャ人作曲家のハリス・キトスさんが旅先で「動き」をテーマに撮り溜めた森林(徒歩)、街並み(電車の車窓)、波、風車、スキー場(飛行機の車窓)の短編映像作品(モノトーン)と、これらの映像作品に着想を得て作曲した5つの小曲で構成されています。冒頭の森林(徒歩)の短編映像作品に弦楽器のトレモロによる演奏が添えられましたが、客観的な映像作品(モノトーン)に心象風景としての色彩が音楽的に添えられて作品の世界観が広がって行くような芸術体験が得られ、映像と音楽をコラボレーションする醍醐味が感じられました。また、映像作品は楽譜情報を越える音楽的なイメージを演奏者に与えるもの(映像楽譜)として機能する意味でも芸術表現の可能性を広げるメディアとして注目されます。過去のブログ記事でも触れましたが、人間の脳は複数の感覚情報を統合して認知し、音楽鑑賞も聴覚情報だけではなくマルチモダールな知覚を統合して認知することが分かっており、例えば、作品のタイトル、演奏者の衣装やレコードのジャケットなども聴覚情報以外の要素による意図された聴衆への働き掛けとして音楽鑑賞に大きな影響を与えています。
 
▼ドゥ・ユン「スロー・ポートレーツ」(日本初演)
この作品は中国人作曲家のドゥ・ユンさんがアメリカ人映像作家のデヴィット・ミヒャレックさんが創作した映像作品「Portraits in Dramatic Time」(全45作品)から採り上げた2つの映像作品と、その2つの映像作品から着想を得て作曲した2つの小曲で構成されています。D.ミヒャレックさんの映像作品は超高速・高精細カメラを使って有名な俳優のパフォーマンスを収録したもので、この作品には中国人棍劇俳優・チェン・イーさんとアメリカ人舞台俳優・ルース・マレチェックさんのパフォーマンスを収録した映像作品が使われています。瞬間を切り取った動きのある映像をスローモーションで再生し、それに音楽を添えていますが、我々が一瞬一瞬に感じては消えて行く無意識の感情の移ろいに焦点をあて、その瞬間の中に永遠を発見して行くような含蓄のある作品で、さながら松尾芭蕉の俳句を鑑賞するような奥深い世界観が感じられるものであり、その意味で映像と音楽をコラボレーションした作品として非常に新しく、豊かな芸術体験をもたらしてくれる充実した内容を持っているように感じられます。ヴラヴォー!是非、シリーズ化して貰いたい面白い作品でした。
 
▼藤倉大「尺八協奏曲」(アンサンブル版世界初演)
この作品はイギリス在住の日本人作曲家・藤倉大さんがブリュターニュ管弦楽団の委嘱を受け、尺八という楽器の特徴に加えて、ブルターニュや下田などで研究するフランス人海洋研究家&海洋写真家のニコラ・フロックさんの海洋写真(モノクロ)に着想を得て作曲したものです。かつて藤倉さんが尺八奏者・藤原道山さんのために作曲した独奏尺八曲「ころころ」を協奏曲に発展させたものだそうで、今年、藤倉さんの尺八協奏曲が第70回尾高賞を受賞されましたが(もちろん尾高賞なのでオーケストラ版)、それをボンクリ・フェスのためにアンサンブル版に編曲してアンサンブル・ノマドにより世界初演されました。藤倉さんによれば、N.フロックさんの海洋写真(モノクロ)は、海の底に風が吹き、水面が空のように映る美しい写真で境界を曖昧にするような不思議な感覚を与えてくれると語っていますが、尺八奏者の小濱明人さんが奏でる尺八の息の音は海底に吹く風のようであり、アンサンブル・ノマドが奏でるトレモロやタギングは風に揺らいで変幻自在な海水又は海藻のようであり、金管が奏でる和音は海底に差し込む太陽の光のようであり、海洋写真と相俟って幻想世界を楽しめました。
 
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.25
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼ミヒャエル・ゼルテンライクの弦楽四重奏曲「鍾乳石と石筍」(2018年)
イスラエル人現代作曲家のミヒャエル・ゼルテンライク(1988年~)は、武満徹作曲賞(2016年)、イスラエル首相賞作曲賞(2016年)、国際現代音楽協会若手作曲賞(2018年)を受賞するなど現在最も注目されている若手の現代作曲家です。この曲はサンタフェ室内楽音楽祭の委嘱により作曲され、フラックス弦楽四重奏団によって世界初演されていますが、タイトルと楽想との間にどのような関係があるのか否かは分かりませんが、非常に緻密な筆致で響きの質感が感じられる曲調が魅力です。
 
▼ジャグ・マルコヴィッチのソプラノと弦楽四重奏曲のための「セルビアの愛の歌」(2016年)
セルビア人現代作曲家のジャグ・マルコヴィッチ(1987年~)は、釜山丸国際コンクール特別賞(2016年)、香港打楽器作曲コンクール第1位(2016年)、TENSO若手作曲家賞(2017年)、第3回アントン・マタソフスキー作曲家コンクール第1位(2017年)、ISCM若手作曲家賞(2019年)を受賞するなど現在最も注目されている若手の現代作曲家です。この曲は7つのセルビア語で書かれた詩を選び、その詩に古風ながらモダールハーモニーを使った先進的な曲が付されています。
 
▼坂田直樹の「残像の器」(2022年)
日本人現代作曲家の坂田直樹(1981年~)は、もはや紹介の必要がないビックネームですが、武生作曲賞(2011年)、第36回入野賞(2015年)武満徹作曲賞第1位(2017年、2018年)、第28回芥川作曲賞(2018年)、第66回尾高賞(2018年)などを受賞し、未だ受賞していない賞を見付けるのが困難です。この曲は、いずみシンフォニエッタ大阪の関西出身若手作曲家プロジェクト第8弾で委嘱された作品ですが、革新の風は常に西から吹いてくることを感じさせる垂涎の企画です。