大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

瀬川裕美子ピアノ・リサイタル「ブーレーズ:第2ソナタ別様の作動」とジュリアード弦楽四重奏団「カヴァティーナ」とアート脳を描写する神経美学<STOP WAR IN UKRAINE>

▼アート脳を描写する神経美学(ブログの枕単編)
今回も公演数が多くなりましたので、ブログの枕は単編にします。前々回のブログ記事では現代アートの歴史を簡単に俯瞰しながら美意識の拡張について触れましたが、今回はその続編として最先端の学問である神経美学の概要を簡単に概観しながら美意識の拡張について触れてみたいと思います。現在、「美」に関する普遍的な定義は存在しませんが、「分析美学」(1950年頃に生まれた分析哲学の手法を用いて「美」の主観的な側面を扱う哲学的なアプローチ)や「神経美学」(2000年頃に生まれた脳科学や心理学の手法を用いて「美」の客観的な側面を扱う科学的なアプローチ)などの学問領域で「美」の諸相が探求されています。これまで哲学的にアプローチされてきた「美」の概念に科学的なアプローチが加わったことで、より高い解像度で「美」の実相に迫ることができるようになり「美学」が見通しの良い学問へ発展しているように感じられます。さて、前々回のブログ記事で現代アートの歴史を簡単に俯瞰しましたので、それ以前のアートの歴史を美学的な視点から大雑把に俯瞰しておくと、中世までは「美」と「アート」の概念は区別されて「美」(神の秩序)は神学の領域、「アート」(人の技芸)は「美」を本質的な要素としない学芸(知識人が頭脳を使う文芸及び音楽)及び技術(職業人が身体を使う絵画、彫刻及び建築などの造形)の領域で扱うものとされ、「美」は神の秩序を模倣する完全な調和や均整を体現したシンメトリーなものとされていたなど、宗教権威が「美」を独占して「美」の客観的な規範を定めていました(客観主義)。やがて十字軍遠征の失敗による宗教権威の失墜などを契機として近代前期(15~16世紀)にルネサンスが勃興すると(宗教権威による神の支配から絶対王政による人の支配へと移行)、王立アカデミーが設立されて「美」が神学の領域から学芸の領域で扱うものとされ、「美」と「アート」の概念が融合されて「アート」のうち「美」(神の秩序から人の理性へと変遷)を本質的な要素とする「芸術」(文芸、音楽、絵画、彫刻や建築など)が発展しました。その後、近代後期(17~19世紀)に科学革命(N.コペルニクスの地動説、I.ニュートンのニュートン力学など)や啓蒙思想(J.ロックの経験主義など)の影響から神の秩序に基づく世界観が崩壊し、宗教権威や絶対王政による「美」の独占を逸脱して「美」(人の理性から人の本能へと変遷)は自らの感覚で主観的に発見するものであるという考え方が生まれ(主観主義)、芸術家の感情を表現する不完全で混沌としたアシンメトリーなものにも「美」を発見するようになり「美」の概念が客観主義から主観主義へ大きく転換しました。なお、I.カントは真や善などの宗教的又は理性的な概念から「美」を解放して「美」の自律性を説きましたが(19世紀の耽美主義へと発展)、その一方で「美」は普遍的妥当性も要求されるものとして客観主義との折衷的な考え方を採り入れました(美学の誕生)。現代(20~21世紀)は、「イズム」(モダニズムに基づく規格化された価値観)から「アート」(ポスト・モダンに基づく多様な価値観)を志向する潮流が生まれ(芸術からアートへ美意識を拡張)、客観主義又は主観主義、自然主義又は耽美主義などの二項対立で「美」の概念を捉える硬直化した態度は廃れ(例えば、コンセプチャル・アートは「概念」を採り入れ↔美の自律性、ソーシャルエンゲージメント・アートは「実用表現」を目的としている↔耽美主義など)、また、従来の「美」の概念を逸脱して「醜」をアート表現として採り入れ(例えば、F.ベーコンは「醜」を人間の真実を映し出すものとして利用したなど)、さらに、従来の「アート」の概念を逸脱して人の技芸を必要としないものもアート表現として採り入れるなど、「美」や「アート」の概念を柔軟に捉えた多様なアートが生み出されています。上述のとおり「美」に関する普遍的な定義は存在しませんが、1990年代後半に開発された脳の血流の変化を調べる機能的MRI(BOLD法)が開発され、人間の知覚、認知、情動や行為などに関する脳の機能を研究する学問(認知神経科学)が大幅に進歩したことで人間が「美」を感じる際の脳の機能が徐々に解明されてきています。その研究成果として人間が具象や抽象などのジャンルを問わずアートに「美」を感じる際には常に「内側眼窩前頭皮質」(左上の脳のイラストの赤色下部にある新しい脳)が活発に活動することが解明され、また、アート以外のもの(身体、道徳、数理など)に「美」を感じる際にも同じく「内側眼窩前頭皮質」が活発に活動することが解明されています。また、脳の機能の観点から見ると「美」には、身体、感覚、欲望など生物(自然)的欲求に関係する先天的に備わる普遍的・不変的な「本能的美」と心根、芸術、道徳など社会(人工)的欲求に関係する文化や学習など後天的に備わる個別的・可変的な「理性的美」の大きく2種類に分類することができ(過去のブログ記事で触れたとおり、西洋音楽の和声法に由来する美は理性的美として後天的に備わったもので普遍的な美意識でないという研究結果があります。)、「本能的美」は「内側眼窩前頭皮質」+「腹側線条体」(左上の脳のイラストの黄色部位にある古い脳)が、また、「理性的美」は「内側眼窩前頭皮質」+「背側前頭前皮質」(左上の脳のイラストの赤色上部にある新しい脳)がそれぞれ活発に活動していることが分かっています(下図参照)。宛ら、人間が「美」を感じる際に共通して活動する「内側眼窩前頭皮質」は美のオペレーティング・システム(統合処理を行うOS)、「美」の種類に応じて活動する「腹側線条体」及び「背側前頭前皮質」などは美のアプリケーション(分散処理を行うAP)として、これらが連携して多様な美意識を生成していると形容することができるかもしれません。過去のブログ記事でも触れたとおり、人類は約5億年前の認知革命(突然変異)を契機として徐々にアート脳にアップグレードされてきましたが、人間が進化する過程で迅速な判断と行動を可能とするために、先ず、「腹側線条体」(古い脳)が生命活動において生存可能性を高めるもの(例えば、肉食の動物とは異なって、人間の視覚には食用の果物は色鮮やかに見えるなど)を「美」として認知する認知パターンを構築し、自然環境に迅速に適応するために普遍的・不変的な美意識(主な対象は自然の事物)を生成するようになり、次に、人間が社会を形成するようになると「背側前頭前皮質」(新しい脳)が社会活動において生存可能性を高めるものを「美」として認知する認知パターンを構築し、流動的な社会環境に柔軟に適応するために個別的・可変的な美意識(主な対象は人工の事物)を生成するようになったと考えられます(美意識の拡張)。
 
【認知テスト】何が見えますか?
https://htsuda.net/wp-content/uploads/2017/09/dalmatiandog.png
 
さて、ここで突然の謎掛け(認知テスト)ですが、上の画像に何が見えますか?過去のブログ記事で何度か触れているとおり、人間は「知覚」X「記憶」の組合せで「認知」しますが、この組合せを越えて「認知」することは不可能と言われています。この点、人間が「認知」を拡張するためには、「知覚」X「記憶」の組合せのパターンを変えること(新しい視点)又は「知覚」(体験)や「記憶」(学習)を増やすこと(新しい知識)が必要であると言われています。また、人間の「認知」は認知対象以外の環境(知覚)や文脈(記憶)などからも影響を受け易いと言われており、例えば、同じワインでもワインラベルやストーリーテリングによってそのワインの風味が違って感じられるという研究結果もありますので(ラベリング効果による同調バイアス)、美意識を含む人間の「認知」はいい加減なものと言えそうです。A.アインシュタインが人間嫌いであったことは有名な話ですが、独創的な発想とは他人との交流(同調バイアスを受け易い状態)の中から生まれるのではなく、他人との交流を遮断した環境(同調バイアスを受け難い状態)の中から生まれると言われています。例えば、即興演奏を行うアーティストの脳内では「デフォルトモード・ネットワーク」(自分の内面から生じる音楽的な衝動に意識を向かわせる脳の機能)や「背側前頭前皮質」(他人への注意や批判に意識を向けることを抑制する脳の機能)が活発に活動していることが分かっており、他人への関心を弱めて自己の内面に向かうことが独創的な発想を育み、閃きに満ちた創造的な営為へと昇華するために必要であると考えられています。日本人には同調バイアスが強く全体主義的な傾向(西洋音楽の対位法に対して伝統邦楽のユニゾンに象徴される日本社会の文化的な基層)が見られることから欧米人に比べて独創的な発想を育み難いことが指摘されていますが、これが日本人は欧米人に比べて現代アートに対する不寛容な態度に陥り易く、また、時代の変革期に脆い凋落日本の原因の1つになっているのではないかと思われます。閑話休題。上記の謎掛けの解題ですが、上の画像(知覚)に何(記憶)が見えますか?と質問されても何も見えてこない(認知)かもしれませんが、上の画像(知覚)に犬(記憶+)が見えますか?と質問されるとダルメシアンの姿が見えてくる(認知)のではないかと思います(それでも分からない方のためにキュレーションをリンクしておきますが、人間の色覚は物の境界線を明確にすることで迅速な認知を可能にする重要な機能を担っています)。この点、「記憶」(犬という属性情報)を補足するだけで格段に認知が容易になることが分かります。このように抽象的なイメージの中に具象的なイメージを認知する現象をワンショット・ラーニング(アハ体験)と言いますが、人間は生存可能性を高めるために曖昧な認知を嫌う特性(認知的完結欲求)がありますので、一度、このような認知パターンを獲得すると、以後、上の画像からダルメシアンの姿を消すことは困難になります(認知バイアス)。P.クレー、W.カディンスキーやP.ピカソなどの画家は、このような認知バイアス(常識)から逃れるために、未だ認知バイアスに支配されていない純粋な目(イノセント・アイ)を持つ子供達が描いた絵画(プリミティブ・アート)を熱心に研究し、人間の認知力の限界に挑戦して新しい世界の発見に心を砕いたと言われています。抽象的なアート表現は、具象的な世界の基本的な構成要素を解体し又はその構成要素の一部を無効にすることで、鑑賞者が自らの記憶に基づいてその世界を創造的に再構築するための機会を与えてくれることがありますが、(個人的な嗜好の問題であることは十分に踏まえたうえで)鑑賞者が知覚から得られる「本能的美」の受容(プリミティブな芸術体験)に留まって記憶から得られる「理性的美」の発見(ソフィスティケートされた芸術体験)に心を拓かない限り「芸術認知症」から抜け出すことは難しいかもしれません。キュレーションは同調バイアスが働いて鑑賞の可能性を狭めてしまう副作用(知識の監獄)が指摘されていますが、その一方で人間を相手にするアート表現である限り記憶から得られる「理性的美」の発見(ソフィスティケートされた芸術体験)の手掛りとなり深い鑑賞を可能にするものとして必要的かつ有用なものであるとも言え、キュレーターから「新しい視点」を学ぶことで新しい視野が拓かれ、「理性的美」の感度が上がって行くことが実感できます(美意識の拡張の実践)。僕の座右の銘の1つに「花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり。」(世阿弥)という言葉がありますが、「花」の存在に気付き得る人間でありたいと願っています。
 
▼美意識を拡張するアート脳
  対象
体に作用する本能的美
(身体・感覚・欲望)
心に作用する理性的美
(心根・芸術・道徳)
脳の認知 知覚
(現在の情報:体験)
記憶
(過去の情報:学習)
脳の部位 新しい脳 (内側)眼窩前頭皮質
(背側)前頭前皮質など
古い脳 (腹側)線条体
脳の報酬 生物的報酬
(好き>欲しい)
社会的報酬
(好き<欲しい)
脳の特性 先天的・普遍的・不変的 後天的・個別的・可変的
アート脳の誕生 認知革命
 
▼瀬川裕美子ピアノ・リサイタル「ブーレーズ:第2ソナタ別様の作動」
【演題】瀬川裕美子ピアノ・リサイタル Vol.9
    「ブーレーズ:第2ソナタ別様の作動」2 in 1 in 2【その1】
    双生の場所:B✕B✕...地続きの間隙・モザイク・透過
【演目】①クルターク 8つのピアノ小品
    ②ベートーヴェン ピアノソナタ第29番変ロ長調
                「ハンマークラヴィーア」から第1、2楽章
    ③ブーレーズ ピアノソナタ第2番から 第1楽章
    ④福士則夫 とぎれた記憶(2000年)
    ⑤ブーレーズ ピアノソナタ第2番 から第3、4楽章
    ⑥ベートーヴェン ピアノソナタ第29番変ロ長調
                「ハンマークラヴィーア」から第3楽章
    ⑦ブーレーズ ピアノソナタ第2番 から第2楽章
    ⑧ブクレシュリエフ 群島Ⅳ(1970年)
    ⑨ベートーヴェン ピアノソナタ第29番変ロ長調
                「ハンマークラヴィーア」から第4楽章
【演奏】<Pf>瀬川裕美子
【場所】トッパンホール
【日時】2023年10月14日(土)16:00~
【一言感想】
伝統の中の革新とその伝統の革新の諸相(解体と再構築):B(ベートーヴェン)→B(ブーレーズ)の世界。演奏会を聴いた後に簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
今日はピアニストの瀬川裕美子さんが2016年から続けているクレーの造形思考をフィーチャーしたコンセプチャルな(かつ、実験的とも言える)演奏会を聴きに行きましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。先ず、約40ページにも及ぶ「私の想形・造形・造響思考ノート」なる冊子が頒布されました。非常に分量が多く、また、濃厚な内容なので未だ冊子に目を通せていませんが、ブーレーズの作品について譜例を用いたアナリーゼが詳述されているようなので、この冊子だけでも十分に元が取れてしまいそうです。2024年1月27日の演奏会でも同じ冊子が頒布されるそうなので、ご興味のある方は入手されることをお勧めします。本日と次回の演奏会の演題はクレーの作品のタイトルから借用されたものであり、また、本日の演奏会は特殊なプログラム構成(上記演目を参照)になっていますが、この冊子の序章には、これらの意図について『「ひとつ」のうちの「ふたつ」と、それを通じた「複次性」。次元を異にしつつも互いに損ねることなく、「対立」ではなく、「両立」しているように見える、<一様ではない複層的な出来事>』を『<統合とは別のあり様の全体性>から、新たに「引き受け直し」、自らを「語ること」』により『ブーレーズの作品の「演奏と解釈」の、更なる「飛躍」への個人的な足掛かり』にしたいと述べられており、瀬川ワールドのエッセンスが僕にも分かる言葉で翻訳されていました。「全体は部分の総和以上である。」(アリストテレス)と言いますが、複雑な全体を部分に分節し、その分節された部分やそれらの部分相互の繋がりを捉え直すことで、全体への新しい視座を獲得するというアプローチは有効な手法ではないかと思われ、それを瀬川さんと一緒に体験するという趣向(一種の実験)が面白く感じられました。以下では、本日のプログラム全体を1つのコンセプチャルな作品として捉え、全ての演目を一括りにして簡単に感想を残しておきたいと思います。先ず、ブーレーズと同年代のクルタークの曲が演奏されましたが、音域を広く使った跳躍音が多く、強音の打鍵や弱音のトリルで描かれる点描、重厚なトーン・クラスターや軽快なグリサンドで描かれる線描、残響と静寂のコントラストなどピアノの多彩な音響を使った視覚的な演奏を楽しむことができました。これに続いて、ベートーヴェンの第1楽章及び第2楽章、ブーレーズの第1楽章と福士さんの曲を挟んで第3楽章及び第4楽章が演奏されました。ベートーヴェンの曲はまるでブーレーズの曲を演奏するように演奏されていたような印象を受けましたが、多少の向こう傷は厭わないアグレッシブな演奏が展開されました。その一方で、ブーレーズの曲は自家薬籠中のものとする洗練された演奏が展開され(この曲を暗譜で演奏されていましたが、それだけ弾き込まれているということなのでしょうか。この曲を暗譜で演奏できるピアニストは世界中を探しても瀬川さんくらいではないかと思います。)、この複雑、難解な曲を後味良く聴かせてしまう力量に舌を巻きました。この後に演奏された福士さんの曲では、その中間部と最終部にバッハのマタイ受難曲から受難コラール「おお、血と傷にまみれし御頭」の和音が借用されており、これがブーレーズの第4楽章やベートーヴェンの第4楽章と呼応して、本日のプログラム構成に有機的な関係性を与える重要な役割を担っていたように感じられました。さらに、この曲では、ペダリングによる息の長い残響が音楽に淡い色彩感を添える効果を生んでいましたが、後半の演目との「間隙の地続き」を演出しているようにも感じられ、非常に考え抜かれたプログラム構成に感心させられました。休憩を挟んで、ベートーヴェンの第3楽章とブーレーズの第2楽章が演奏されました。このように並べて聴いても伝統音楽と現代音楽の隔たりが生む全く異質な曲であるという印象は変わりませんでしたが、その基底にはブーレーズがベートーヴェンの曲を参照しながら作曲した(であろう)ことから生じる親和性のようなものも感じられる貴重な体験となりました。また、両曲ともペダリングによる残響を効果的に使って演奏されていましたが、福士さんの曲との「間隙の地続き」を強く印象付けるものになっていました。これに続いて、ブクレシュリエフの曲が演奏されましたが、本日のプログラム構成自体を群島と形容することもでき、いわば劇中劇を聴くような趣向が面白く感じられました。この曲の楽譜(これは図形楽譜?)がロビーに展示されていましたが、楽譜のどの部分からどのような順番でどのように演奏するのかは演奏者の自由に委ねられているようなので、不確定性の音楽ではなく即興音楽に分類されると思います。多彩な響きで、それぞれの島の個性が際立つ演奏を楽しめました。最後に、ベートーヴェンの第4楽章が演奏されました。この曲はソナタ形式(和声法)にバッハに極まるフーガ(対位法)を採り入れ、これらを凌駕する革新的な試みによって伝統の中の革新が企てられており、ブーレーズなど20世紀の作曲家にも多大な影響を与えていますが、音楽の表現可能性を追究して伝統に挑戦する精神はバッハ(B)からベートーヴェン(B)、ブーレーズ(B)へと受け継がれ、ソナタ形式の解体の試みに見られる伝統の革新に息衝いていることを感じさせる感慨深い終曲になっていました。アンコールではバッハのマタイ受難曲から第39曲アリア「憐れみたまえ、我が神よ」が瀬川さんの独唱付で演奏されましたが、現在も発声レッスンを行われている?ような美声による祈りの歌が心を捉え、涙の音型が心に沁みてきましたが、さながら神のような存在である3Bへのオマージュのようにも聴こえました。
 
▼ジュリアード弦楽四重奏団「カヴァティーナ」
【演題】ジュリアード弦楽四重奏団「カヴァティーナ」
【演目】①ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第13番
    ②ヴィトマン 弦楽四重奏曲第8番(2022年)日本初演
    ③ヴィトマン 弦楽四重奏曲第10番「カヴァティーナ」
                       (2022年)日本初演
    ④ベートーヴェン 弦楽四重奏曲「大フーガ」
【演奏】ジュリアード弦楽四重奏団
     <1stVn>アレタ・ズラ
     <2ndVn>ロナルド・コープス
     <Va>モリー・カー
     <Vc>アストリッド・シュウィーン
【場所】紀尾井ホール
【日時】2023年10月20日(金)19:00~
【一言感想】
伝統の中の革新とその伝統の革新の諸相(融合と進化):B(ベートーヴェン)→W(ヴィトマン)の世界。演奏会を聴いた後に簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
ヴラヴィ〜!!今日はドイツ人現代作曲家、指揮者兼クラリネット奏者のJ.ヴィトマン(1973年~)さんの後期弦楽四重奏曲が日本初演されるというので聴きに行くことにしました。ワールドプレミアの評判などは聞こえてきていましたが、100年後も聴き継がれているであろう名曲の誕生を確信し、その日本初演に立ち会えたことに興奮を禁じ得ません。ヴィトマンさんは、2022年に最も演奏された現代作曲家ランキングで第6位(英国バックトラック社のクラシック音楽統計2022より抜粋)にエントリーされており、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンポーザー・イン・レジデンスを務めるなど、現在、最も旬な現代作曲家の1人です。2026年度の武満徹作曲賞の審査員にも指名されており、どのような視点でどのような曲を選考するのか楽しみです。さて、1997年から2005年までの前期に作曲された弦楽四重奏曲第1番から第5番は既に複数の音盤がリリースされており日本でも演奏会で度々採り上げられている人気曲ですが、今日は2019年から2022年までの後期に「ベートーヴェン・スタディー」というシリーズとして作曲された弦楽四重奏曲第6番から第10番のうち、ジュリアード弦楽四重奏団の委嘱により作曲された弦楽四重奏曲第8番(ベートーヴェン・スタディーⅢ)及び弦楽四重奏曲第10番「カヴァティーナ」(ベートーヴェン・スタディーⅤ)の2曲が日本初演されました。この2曲は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第13番変ロ長調及び弦楽四重奏曲「大フーガ」変ロ長調から主題の一部を借用し、ベートーヴェンの音楽語法のエッセンスを模倣していますが、俄かに調性や様式などを逸脱して自在な書法で次元の異なる地平へと誘う「21世紀の幻想曲」風の曲想が非常に面白く感じられました。先ず、第一ヴァイオリンのアレタ・ズラさんがイニシアティブを発揮する統率のとれた演奏でベートーヴェンの弦楽四重奏曲第13番を手堅く聴かせた後に、ヴィトマンの弦楽四重奏曲第8番(ベートーヴェン・スタディーⅢ)が演奏されました。ヴィトマンの第1楽章の重厚なユニゾンはベートーヴェンの第1楽章のユニゾンを意識したものと思われますが、緩急を自在に操り和声を拡大した浮遊感のあるスリリングな演奏が展開され、これに続く第2楽章ではベートーヴェンの第4楽章のドイツ舞曲風の主題が引用され、それが多様に変奏されましたが、どこかシュールな印象を醸し出す曲調でユーモラスに感じられました。最終の第3楽章ではベートーヴェンの第6楽章の主題に着想を得たものかスタッカートを多用したリズミカルな主題が密度濃く展開され、まるで百花繚乱と形容したくなる多彩で華々しい終曲にまとめられていましたが、ベートーヴェンが伝統の中の革新を企てたエッセンスを使いながらそれを伝統の革新へと進化させる既聴感のない新しい音楽にドーパミンの分泌が促されてシナプス可塑性が活発化することによる知的な興奮や満足を堪能できました。休憩を挟んで、ヴィトマンの弦楽四重奏曲第10番「カヴァティーナ」(ベートーヴェン・スタディーⅤ)が演奏されましたが、ベートーヴェン自身が会心の作と言っている第5楽章「カヴァティーナ」の名前を冠するに相応しい傑作で、ベートーヴェンの時代の叙情とは異なる「21世紀の叙情」とも言うべき独特な情趣を湛え、実に感銘深い恍惚感にすっかり魅了されました。ハーモニクスの使い方が上手く、高弦の清澄なハーモニクスと中低弦の豊かな内声が織り成すコントラストを美しく聴かせ、さらに、コーダでは弱音器を使った微弱音による透徹のハーモニクスが白眉で深い余韻と静寂を湛えて劇的な演奏効果を生んでいました。最後のベートーヴェンの弦楽四重奏曲「大フーガ」は弦楽四重奏曲第13番の最終楽章として作曲されたものですが(当時の聴衆には難解で理解されなかったことから、楽譜の売れ行きを心配した出版社の意向で最終楽章を書き直し、この大フーガだけを独立させて別に出版しています)、今日はヴィトマンの第10番に続けてベートーヴェンの大フーガを演奏するという趣向でした。神のための音楽を作曲したバッハのフーガは理路整然とした端正な彫塑、彫琢により天に向かって祈り上げる荘厳な大伽藍というイメージがある一方で、人間のための音楽を作曲したベートーヴェンのフーガは人間味溢れる荒々しいタッチで地を這いながら何か不条理なものと葛藤している魂の慟哭というイメージがあり全く肌触りの異なるものですが、今日のジュリアード弦楽四重奏団の演奏にはベートーヴェンのフーガに熱い血潮を通わせる凄まじい情念のようなものが感じられ、この曲の精髄に触れる高揚感のある熱演に心腹させられました。なお、最後に愚痴になりますが、今日は超一流のプレーヤー及び演目であったにも拘らず、残念ながら、現代音楽を採り上げている公演のためなのか空席が目立ちました。個々人の嗜好の問題ではありますが、現代音楽や現代アートなど「新しいもの」を受容できないフラジャイルな日本人が多い現状に眉を顰めたくなります。これが日本の優秀、有能なアーティストが国内ではなく海外で活動したがる原因の1つと思われ、また、海外の優秀、有能なアーティストが新作の日本初演にあまりインセンティブが働かない原因の1つでもあると思うと、本当につまりません。さながらエンジン車へのノスタルジーからEVシフトに出遅れ、世界のマーケットから締め出されつつある日本の自動車産業の姿と重なってきます。色々な意味で随分と肌寒くなってきました。
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.29
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼キャロライン・ショウの「マイクロフィクション・ボリューム1」(2022年)
アメリカ人現代作曲家のキャロライン・ショウ(1982年~)さんは、2013年に「8声のためのパルティータ」でピューリッツァー賞、2022年に「海峡」でグラミー賞(最優秀現代クラシック作曲部門)、また、2014年に「Roomful of Teeth」のメンバーとしてグラミー賞(最優秀小規模アンサンブル部門)を受賞するなど、現在、世界で最も注目されている現代作曲家です。この動画はミロ弦楽四重奏団により世界初演された際の模様を収録したものですが、ショウさんは声楽作品を中心にして非常に独創的な曲が多く個人的に注目している作曲家の1人です。
 
▼茂木宏文のチェロ協奏曲「雲の記憶」(2019年)
日本人現代作曲家の茂木宏文(1988年~)さんは、2014年にヴァイオリン協奏曲「波の記憶」で第3回山響作曲賞21、2016年に交響曲「不思議な言葉でお話しましょ!」で武満徹作曲賞第1位、2017年にチェロ組曲「雲の記憶」で芥川作曲賞第1位を受賞するなど、現在、最も注目されている若手の現代作曲家です。この録音は2017年の芥川作曲賞で世界演奏された際の模様を収録したもので、この曲はチェリスト・山澤彗さんに献呈されています。山澤さんは現代音楽のスペシャリストで委嘱初演を含む活発な活動を続けており最も注目しているチェリストの1人です。
 
▼近藤嶺のゲーム音楽「大神」から「太陽は昇る」(2006年)
日本人現代作曲家の近藤嶺(1982年~)さんは、カプコンから発売されているゲームソフト「大神」で現代作曲家の上田雅美さんらと共に作曲を担当されています。米国グラミー賞では2023年からゲーム音楽部門が新設されてゲーム音楽が社会的に認知されましたが、この曲はゲーム音楽の日本版グラミー賞とも言える「みんなで決めるゲーム音楽ベスト100」で2007年から16年間に亘り上位をキープし続けています。この曲は西洋音楽の語法を基調としていますが、伝統邦楽器やその奏法が利用されており、若い世代が伝統邦楽及び現代邦楽に興味を抱く契機としても注目されています。