大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用、拡散などは固くお断りします。※※

小劇場オペラ「出雲阿国」神奈川公演(作曲:永井秀和、台本:角直之)と2026年度モーニング・コンサート第5回(東京藝術大学)とオペラ「ZEN」(作曲:権代敦彦)とホール・オペラ「TEA~茶は魂の鏡~」(作曲:タン・ドゥン)とブログの枕「世界と対話する手」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ブログの枕「世界と対話する手」
前々回のブログの枕前回のブログの枕では進化生物学の観点からエリクソンの漸成的発達理論(ライフサイクル理論)をベースにして意識と自我の関係性に簡単に触れましたが、乳児期(0~1歳)は「感覚」→「行動」→「探索」というプロセスを繰り返しながら「自己」と「外界」を十分に区別できない低次の覚醒モード(外界から受動的にエネルギーを摂取する進化過程)から「自己」と「外界」を十分に区別できる高次の覚醒モード(外界から能動的にエネルギーを摂取する進化過程)へと成長し、更に「自己」と「他者」と「外界」を十分に区別できる意識モード(集団生活に適応する進化過程)へと発達して自我(メタ認知)を発現すると考えられています。この点、ギリシャ人哲学者のアリストテレスは著書「魂について」において「五感の中で第一のものとして全ての動物に不可欠なものは触覚である。触覚を欠いては動物として存在することは不可能だ。」と述べていますが、乳児期は視力が0.02~0.2程度しかなく、聴力も音のする方向に目を向けるように発達するのが生後約2~3ケ月頃と言われており、五感の中で最も早く発達する触覚(口に触れる範囲→手が届く範囲→這って又は歩いて動ける範囲へと拡大)を主に使って「感覚」→「行動」→「探索」というプロセスを繰り返しながら自分と世界の関係(身体境界と世界モデル)を学習すると言われており、触覚は動物が自らの生存を規律する根源的な感覚と言えるかもしれません。フランス人社会学者のマルセル・モースは論文「身体技法」において「身体は社会によって教育され、社会毎に異なる技法を身に付ける。」と述べ、例えば、座る、歩く、食べる、話す、呼吸法、身振り、寝姿勢などの無意識的な所作は文化や時代によって異なり又は変化すると論じていますが、これらは意識が生成される以前の乳児期から「感覚」→「行動」→「探索」というプロセスを繰り返しながら主に触覚を通じて身に付けられる文化的な身体知(暗黙知)と言えるかもしれません。
 
▼感覚のホルンクルス(脳がデザインする世界との境界面)
人間の脳は、遠隔感覚(視覚・聴覚・嗅覚)や化学感覚(味覚)を処理する領域よりも、体性感覚(触覚)を処理する領域の方が占有面積が大きく、脳幹は遠隔感覚や化学感覚よりも体性感覚の処理を優先しています。また、体性感覚の中でも触覚受容器が密集し、能動的なエネルギー摂取に重要な働きを担う手、唇、舌を最も重視していると考えられています。因みに、感覚のホルンクルスには個体差があり、例えば、体性感覚を処理する領域のうち、ピアニストは指の領域が大きい、ダンサーは足の領域が大きい、盲人は触覚の領域が視覚の領域まで拡張しているなどの特徴的な傾向があると言われており、上述したモースの身体技法でも説かれているとおり個人の経験などにより脳がデザインする世界との境界面も変化すると言えそうです。
 
▼触感=触覚+イメージ(他感覚、言語、記憶)
人間の脳は、触覚とイメージ(他の感覚、言語、記憶)を統合して触感という認知パターンを生成しており、それはオノマトペ(野菜=シャキシャキ、パン=サクサク)などで表されます。例えば、ポテトチップスパリパリ音は、音で触覚や食感を増幅するクロスモダール効果によっておいしさを演出しており、これはASMR(自律感覚絶頂反応)と同様に脳の快感系を強調する働きを持っています。因みに、過去のブログ記事でも触れたとおり、話し手と聞き手が共同視点を持つこと(ハイコンテクストな文化)を前提とする日本語のコミュニケーションは触感を「再現」する表現(例えば、彼は水をゴクゴクと飲んだ)によって聞き手に感覚的な理解を誘うオノマトペが発達しましたが、話し手と聞き手が共同視点を持たないこと(ローコンテクストな文化)を前提とする英語のコミュニケーションは触感を「説明」する表現(例えば、He gulped water)によって聞き手に論理的な理解を誘う動詞が発達したという違いがあります。また、前回のブログ記事で触れたとおり、この特徴的な傾向は日本の稽古(師匠の模倣による感覚的な理解、オン・ステージの視点)と欧米のレッスン(技術の習得による論理的な理解、オフ・ステージの視点)の違いにも現れていると思います。
 
様々な技術革新の影響を受けて消費活動は19世紀までのバザールから20世紀のウィンドウショッピング(ガラス、セロハンの普及)、21世紀のオンラインショッピング(インターネットの普及)へと移行し、これに伴って触覚による身体知(暗黙知)を基調とするものから視覚による表象知(形式知)を基調とするものへと変質しました。また、デジタル技術は文字情報から感覚的なノイズを削ぎ落して純粋な記号として抽象化し、さらに、AI技術は知的活動から身体知(暗黙知)を捨象して純粋な表象知(形式知)のみを編集するようになり、現在は人間の消費活動や知的活動から触覚に裏付けられた身体知(暗黙知)が失われつつある状況にあります。この点、アメリカ人心理学者のパム・ミュラー及びダニエル・オッペンハイマーは論文「ペンはキーボードよりも強し」において「ノートパソコンでノートをとった学生は手書きでノートをとった学生よりも概念理解に関する成績が悪かった」という実験結果を発表しています。また、アメリカ人心理学者のマリリー・オペッツォ及びダニエル・シュワルツは論文「アイディアに足を授けよう」において「歩行が創造的発想力を高める」という実験結果を発表していますが、歩行のリズムが海馬と前頭前野のシータ派の同期を高め、記憶、空間認知や意思決定などの機能を活性化させる効果があることが分かっています。このように触覚を刺激することで脳の機能が高まることが分かっており、消費活動や知的活動において「触感を伴う体験」(身体知)の重要性が見直されてきています。例えば、ファセテラピーの分野で施術(触感)を記録するためのメディアとして楽譜ならぬ「触譜」が開発され、また、デジタル技術やオンライン技術を使って触感をデザインする「テクタイル」が注目を集めており、新しい触感を創出したり、その触感をオンラインで共有することが可能となりつつあります。さらに、VR技術やハプティクス技術を使って外界と接続された身体を感覚(環世界=人間が知り得る世界)から切り離し、新しい身体性を再構築して「VR感覚」(ファントムセンス)を体感させることで人間の感覚をひらく試み(環世界=人間が知り得る世界の再編集に留まらず、環境世界=人間が知り得ない世界の疑似体験を含む)なども注目されています。これを芸術表現に擬えて言い換えれば、環世界を表現するための洗練されたローテクがクラシック音楽であるとすると、環境世界を表現しようと試みているハイテクがコンテンポラリー作品と言えるかもしれません。
 
 
▼小劇場オペラ「出雲阿国」
【演題】Camerata Project 10周年記念
【作曲・指揮】永井秀和
【台本・演出】角直之
【演目】小劇場オペラ「出雲阿国」(新制作/全3幕/日本語上演)
     <出雲阿国>杉田彩織
     <名古屋山三郎>堀越俊成
     <加賀菊>日高千聡
【演奏】<Pf>高倉圭吾
【振付・舞踊】中村瑞乃
【美術・空間構成】星野善晴
【主催】NPO法人日本音楽国際交流会
【日時】2026年6月20日(土)14:00~
【会場】かなわがアートホール
【一言感想】
第四世鶴屋南北作の歌舞伎「浮世柄比翼稲妻」で有名な名古屋山三郎は戦国三大美少年の1人に数えられ、遊芸に通じた伊達男として数々の浮名を流した色男と言われています。蒲生氏郷の小姓として仕えて蒲生氏郷の死後は出家しますが、その後還俗して森忠政に仕え、森忠政から不忠者の宇右衛門の誅殺を命じられますが、却って返り討ちにあってしまいます。名古屋山三郎は歌舞伎踊りの創始者の出雲阿国を妻(又は愛人)に持ち歌舞伎踊りを広めたという俗説もありますが、これは出雲阿国が歌舞伎踊りを披露する際に名古屋山三郎の亡霊役を演じる男性役者と共に踊ったことからそのような噂が広まったのではないかと言われていますが、この作品ではこの俗説に着想を得て創作されているようです。
 
白舞台に敷き詰められた白洲は能舞台又は鴨川河川敷を象徴するもの?
 
このオペラは出雲阿国、名古屋山三郎(阿国の恋人)、加賀菊(阿国の付人)の三角関係を物語の基軸として、オペラの伝統に則って出雲阿国(歌手)と藝能の精霊(バレエ)を分離し、古事記に登場する藝能の伝統(天宇受賣命:芸能の始祖、須佐之男命:和歌の始祖)が紡ぐ歴史の流れ、鴨川が育んだ藝能の革新(世阿弥:能楽の大成、出雲阿国:歌舞伎の創始)が彩る時代の流れを基底に据えた重層的な舞台に感じられました。尤も、このオペラは出雲阿国の半生を描いた伝記オペラではなく、出雲阿国は鴨川の流れのような優美な「舞」で評判の芸能者という設定になっており(歌詞には「踊」ではなく「舞」という言葉を多用)、武士(名古屋山三郎)の血を体現する迸る「朱」(隈取の赤)を身に纏うというプロットに仕立てられていました。この点、過去のブログ記事で触れたとおり、王朝文化を象徴する雅楽(舞)に対し、世阿弥は武家文化を象徴する能楽(舞)を大成して時代をブレイクスルーしましたが、さらに、出雲阿国は武家文化を象徴する能楽(憂世)の「舞」とは対照的な特徴を持つ庶民文化を象徴する歌舞伎(浮世)の「踊」を創始して時代の革新を仕掛けた独創性に底知れない魅力があるような気がしています。また、隈取は初代・市川団十郎が荒事芸のために発明した奇抜な化粧で武士の血というよりも武家社会に対する鬱憤を晴らす庶民の粋(武家社会の中で「四民の外」に置かれて虐げられていた歌舞伎役者を庶民のスーパースターに祭り上げるパラダイムシフト)を象徴するものと捉える方が自然に感じられ、やや出雲阿国と歌舞伎の歴史的な位置付けやその魅力と異なるプロットに違和感を覚えた点もありました。なお、音楽は和歌を多用していた点やピアノ・リダクション版の上演であった点などが奏功し、過去のブログ記事で触れた日本語のモーラ構造から生まれる違和感を上手く解消し、詩情豊かな言葉を分散和音で彩る美しい音楽に魅せられました。以下、簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
 
舞台を鑑賞後に時間を見付けて簡単に感想を書きます。
 
 
 
▼2026年度モーニング・コンサート第5回
【演題】2026年度モーニング・コンサート第5回
【演目】鎌倉航 「彼らは・・・・・・」(世界初演)
    吉松隆 サイバーバード協奏曲
     <Sax>関谷鳳翔
     <Pf>半田珠璃
     <Perc>藤本隆文
【演奏】<Conp>梅田俊明
    <Orch>藝大フィルハーモニア管弦楽団
【日時】2026年6月25日(木)19:45~
【会場】東京藝術大学音楽学部第6ホール
【一言感想】
https://www.n-kokudo.co.jp/wp/wp-content/uploads/2022/07/geijyutsudai_2.jpg
奏楽堂天井反射板落下事故の影響で(昔から奏楽堂は残響が過剰な傾向にあり残響に「棘」があったので天井反響板は不要かもしれません。良い湯守がいる温泉は湯に「棘」はないものです。)、この数年の鬱憤を見事に晴らすような優れた企画であった藝大21第19回奏楽堂企画学内公募最優秀企画「Welcome to...」が公演中止になってしまって大変に悔しい思いをしていましたが(是非、今年度の開催を期待したいです)、その反面として社会人は絶対に聴きに行くことができないモーニング・コンサートがソワレの開催になり現代音楽を採り上げるというので聴きに行くことにしました。
 
 
演奏会を鑑賞後に時間を見付けて簡単に感想を書きます。
 
 
 
▼オペラ「ZEN」
【演題】調布国際音楽祭2026
【作曲】権代敦彦
【脚本】堤春恵
【演出】田尾下哲
【演目】オペラ「ZEN」(世界初演)
     <鈴木大拙>加耒 徹(バリトン)
     <西田幾多郎>与那城敬(バリトン)
     <木村和夫>櫻田亮(テノール)
     <鷹野清一>加藤宏隆(バスバリトン)
     <木村正子>村松稔之(カウンターテナー)
     <看守>渡辺祐介(バス)
【演奏】<指揮>鈴木優人
    <尺八>黒田鈴尊
    <楽団・合唱>バッハ・コレギウム・ジャパン
【日時】2026年6月26日(金)19:00~
【会場】調布市文化会館たづくり くすのきホール
【一言感想】
金沢出身の哲学者・鈴木大拙と西田幾多郎の半生を描いた渡辺俊幸さんのオペラ「禅~ZEN~」が有名ですが、首都防空の要となった調布飛行場があり戦争の爪痕を深く刻む調布で哲学者・鈴木大拙と西田幾多郎の思想を通して戦争と平和という重いテーマを描いた権代敦彦さんのオペラ「ZEN」が世界初演されるというので聴きに行く予定にしています。
 
 
舞台を鑑賞後に時間を見付けて簡単に感想を書きます。
 
 
 
▼オペラ「TEA~茶は魂の鏡~」
【演題】サントリーホール開館40周年記念
【作曲・指揮】タン・ドゥン
【台本】タン・ドゥン、シュ・イン
【英語翻訳】ダイアナ・リャオ
【演出】シャーウッド・フー
【演目】オペラ「TEA~茶は魂の鏡~」(全3幕・日本語&英語字幕付)
     <聖嚮(日本の高僧)>ジェンジョン・ジョウ(バリトン)
     <蘭(唐の皇女)>ルーシー・フィッツ・ギボン(ソプラノ)
     <唐の皇子>石井基幾(テノール)
     <唐の皇帝>アポロ・ウォン(バス)
     <陸(陸羽の娘)>イン・デン(メゾ・ソプラノ)
     <僧侶たち>新国立劇場合唱団
【演奏】<指揮>高倉圭吾
    <Perc>チェンチュー・ロン、稲野珠緒、神田佳子
    <楽団>東京フィルハーモニー交響楽団
【日時】2026年7月4日(土)17:00~
【会場】サントリーホール 大ホール
【一言感想】
唐代の茶聖・陸羽が著した世界最古の茶道の著書「茶経」を巡る愛の物語を描いた中国人作曲家のタン・ドゥンさんのホール・オペラ「TEA~茶は魂の鏡~」(2002年にサントリーホールで世界初演)がサントリーホール開館40周年を記念して再々演されるというので聴きに行く予定にしています。来る7月17日から映画「キングダム 魂の決戦」が公開されますが、秦の始皇帝は不老不死の効果がある霊薬として「天台烏薬」を煎じた茶を飲んでいたと言われており古くから茶は薬として愛飲され、豊かな飲茶文化を育んできました。体だけではなく心にも効くホール・オペラ「TEA~茶は魂の鏡~」を愛飲してみたいと思っています。

 
舞台を鑑賞後に時間を見付けて簡単に感想を書きます。
 
 
 
▼三村奈々恵「マリンバ・クリスタル2-ジオメトリック-」
国際的に活躍する日本人マリンバ奏者の三村奈々恵さんはクラシック音楽+エレクトロニカが融合した現代人のための新ジャンル「現代の音楽」を収録したアルバム「マリンバ・クリスタル2-ジオメトリック-」をリリースしましたが、グラミー賞の常連である有名なアメリカ人作曲家のアンディ・アキホさんの曲や新進気鋭のアーティストとして注目されているアメリカ人作曲家のニコ・ミューリーさんの曲など非常に個性的で面白い音楽が収録されているので紹介しておきます。過去のブログ記事でも簡単に触れましたが、前衛のドグマによって「誰にも聴かれない音楽」と化してしまった「現代音楽」とは一線を画し(但し、「現代音楽」の中にもマリンバのために書かれた美しいピースは多く、未だ正当な評価を受けていないものもありますが)、音楽の蘇りを果たすべく新ジャンル「現代音楽」を標榜する活動が注目されます。
 
▼TVアニメ「ワールド イズ ダンシング」
世阿弥が幼名「鬼夜叉」を名乗っていた時代を中心に描いたTVアニメ「ワールド イズ ダンシング」が7月22日(木)22時からTOKYO MXなど全国9局で放送開始されます。世阿弥は1363年に大和猿楽(観世座)の創始者・観阿弥の長男として誕生してから12歳まで幼名「鬼夜叉」を名乗ります。1374年に京都今熊野神社における勧進猿楽で鬼夜叉の舞が将軍・足利義満の目に留まって庇護を受けるようになり(三条公忠の日記「後愚昧記」に鬼夜叉に対する嫉妬から恨み節が認められています)、その後、鬼夜叉が和歌や古典文学などの英才教育を受けた関白・二条良基からその舞の美しさを讃えて名付けられた「藤若」という名前を13歳から20歳前半頃まで名乗ります(インプット期)。1384年に父・観阿弥の急逝に伴って観世座の座長を承継して本名「元清」を名乗るようになりますが、過去のブログ記事で簡単に感想を書いた映画「犬王」で触れたとおり、この時期に犬王などの影響を受けて「物真似」から「幽玄」へと能をアップデートし、能楽論書「風姿家伝」を執筆しています。1401年から世阿弥と名乗るようになりますが、このアニメは幼名「鬼夜叉」の時代を中心にして幽玄能を大成する時期までを描いたもので、壮年期以降は描かれていないようです。今更ながら世阿弥は猿楽の能に「革新」を仕掛けて幽玄能を大成した時代の寵児ですが、いつまでも世阿弥頼みに終始することなく、時代の変化に合わせて能楽に「革新」を仕掛けて行く取組みが現代の能学界には求められており、そのことを世阿弥のアニメから学ぶ機会であるようにも感じられます。

美少女革命プロジェクト(作曲:向井響)とオラトリオ「光のみちを~細川ガラシャの愛」(作曲:徳山美奈子、原作:大江捷也)と読売交響楽団第658回定期演奏会(指揮:シルヴァン・カンブルラン、ヴィオラ:アミハイ・グロス)と東京都交響楽団第1044回定期演奏会Bシリーズ(指揮・作曲:ジョン・アダムズ)とブログの枕「自我を育む人生のレッスン~ダンデライオン」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ブログの枕「自我を育む人生のレッスン~ダンデライオン
前回のブログの枕では進化生物学の観点から「感覚」→「意識」→「自我」の関係性について簡単に触れましたが、多忙を極めていたのでショートバージョンでお茶を濁すこと(寂び=物の状態)にしました。今回のブログの枕ではその後半の部分を書き足すという位置付けで再びショートバージョンでお茶を濁すこと(侘び=心の状態)にします。前回のブログの枕の内容をエリクソンの漸成的発達理論(ライフサイクル理論)に従って捉え直すと、乳幼児(0~1歳)は「自己」と「外界」を十分に区別できない低次の覚醒モードにありますが、幼児期前期(1~3歳)になると二足歩行を開始し歯も生え始めるので「他の生物を捕食」(離乳食へ移行)する準備が整い、「自己」と「外界」を十分に区別できる高次の覚醒モードへと移行して「感覚」→「行動」→「探索」を繰り返しながら急速に成長します。その後、「自己」と「他者」と「外界」を十分に区別し始める「魔の2歳児」(イヤイヤ期)になると世界モデルを生成するようになり、自分が何かを体験しているという主観的な感覚とそれを三者関係の中に位置付ける能力(自我の発現:メタ認知)が発達して意識モードへと移行して世界に一つだけの自我という花を咲かせるようになります。この時期は生存可能性を高めるべく急速に世界モデルの精度を高めるために「他者」や「外界」への好奇心が強く働き、自分を上手くコントロールすることが難しいと言われており、既に精度高く世界モデルを構築できる大人が求めることと未だ精度高く世界モデルを構築できない子供が求めることが合わないという気持ちを上手く伝えられずに駄々を捏ねる(駄々っ子)という反応になって現れると考えられます。上述したとおり、子供の視覚は幼児期前期(1~3歳)までに急速に発達し、学童期前半(6~8歳)までには完成すると考えられています。この時期には両眼視機能が発達して世界を遠近感や立体感のある映像として認知できるようになり、視覚、聴覚、触覚などの正確な知覚が脳に伝わることで、これらの知覚を統合した記憶を蓄積し脳の認知機能が発達すると考えられています。この点、過去のブログ記事で触れましたが、世阿弥の能の理論書「風姿花伝」の第一の年来稽古条々に「この藝において、大方、七歳をもて初めとす。この此の能の稽古、必ず、その者自然とし出す事に、得たる風體あるべし。舞・働きの間、音曲、もしくは怒れる事などにてもあれ、ふとし出ださんかかりを、うちまかせて、心のままにせさ、すべし。」と記載されており、これを踏まえて能楽、歌舞伎、舞踊、邦楽などでは「稽古始めは6歳の6月6日」( ≒7歳)というシキタリが生まれましたが(日本では6月6日は「楽器の日」や「邦楽の日」)、これは科学的にも根拠がある稽古論と言えるのではないかと思います。過去のブログ記事で簡単に触れたとおり、邦楽では弟子が師匠の型を「真似ぶ」ことで自発的、内発的な道の探求を促す稽古(道の成就を量る階級)を基調としており、これは憑依型シャーマニズム(神人合一)や調和的な母性原理社会に通底する価値観があるのに対して、洋楽では教師が生徒に理を「愛しむ(押す)」ことで外発的、規範的な技の習得を促すレッスン(技の優劣を比べる競技)を基調としており、これは脱魂型シャーマニズムや支配的な父性原理社会に通底する価値観があるように感じられます。この点、最近の薄っぺらい伝記映画や青春映画などとは一線を画して異彩を放つ映画「TAR(ター)」ではバッハやベートーヴェンのレッスンを拒む学生の姿が描かれていましたが、これはガンダム世代(自己犠牲)と親和的であったレッスン=外部基準で自我の教化を強いることに対して、自我が主導する学びを好むワンピース世代(自己実現)が違和を感じる時代の価値観の相克(即ち、ハラスメント)を象徴的に描いた名場面ではないかと思います。おそらくワンピース世代は既に過去の規範(外在基準)が通用しない時代に突入しつつあり、その過去の規範(外在基準)で現代性を敏感に捉えている個性豊かな自我(内在基準)を歪められてしまうことを本能的に拒否していると言えるかもしれません。前回のブログ記事で触れたとおり、武満徹さんも外在基準に違和を覚えて内在基準を磨き上げたからこそ大成したのだろうと思います。最近、日本でもアメリカ人教育心理学者のバリー・J・ジマーマンさんが提唱する自己調整学習理論(その実践の1つとしてのSTEAM教育)が注目されていますが、これからの時代はフィジカルAIに真っ先に取って代わられるであろう「答えを磨く力」(コンクール型人材)を育む規範(外在基準)を優先する人材育成よりも、「問いを創る力」(芸術賞型人財)を育む自我(内在基準)を尊重する人財育成の方向にシフトして行く必要性があるのかもしれません。
 
▼自我を育む人生のレッスン~ダンデライオン
過去のブログ記事で簡単に触れましたが、邦楽の「手習い」「稽古」は自ら「学」ぶことで内在基準に基づく自我の充実を図り、洋楽の「レッスン」は先生から「教」わることで外在基準に基づく自我の教化を図るというアプローチによって「拡張自己」を促すという違いがあり、邦楽及び洋楽の「練習」「訓練」はそれらに慣(「習」)れることで「自己拡張」を促すと言えるかもしれません。さらに、研鑽を積み重ねた末に自我(自己意識)から解放されて天衣無縫の境地(人外に遊ぶ境地)へと至ると言えるかもしれません。
ライフサイクル ステップ
自我(成る)
自己モデルの生成
世界を学ぶ自我
拡張自己
内在基準
(道)

手習い、稽古
(階級)
世界に従う自我
教化自己
外在基準
(技)

レッスン(※)
(競技)
我執(拘る)
自己モデルの熟成
世界を習う自我
自己拡張
受肉
練習、訓練
無我(悟る)
自己モデルの解脱
世界を遊ぶ自我
天衣無縫
自由 大成
※松任谷由美の名曲「ダンデライオン」は孤児院で育った主人公の少女ジュディの成長を描いたミュージカル「あしながおじさん」の主題歌として書き下ろされたものですが、この曲のタイトルはタンポポ(花言葉:真心の愛)という意味です。この曲の中で「・・そうよ運命が用意してくれた大切なレッスン、いま素敵なレディーに成る・・」という歌詞が登場しますが、主人公ジュディがあしながおじさんとの真心のある書簡の往還(タンポポの種)という人生のレッスンを通して自我を育み、やがて愛の花(タンポポ)を咲かるという世界を歌っています。
 
▼美少女革命プロジェクト
【演題】美少女革命プロジェクト
【演目】▼第一部
    ①「禁じられた声Ⅱ」フルートとライブエレクトロニクスのための
      <作曲、Elc>向井響
      <Fl>佐久間未帆
    ②ポルト人形劇団新制作
     「プリンセッサ・ヤエガキ」(世界初演)
      <原作>本朝廿四孝 奥庭狐火の段
      <脚本、演出、ドラマトゥルク>
           Micaera Soares(ポルト人形劇団)
      <照明デザイン>
           Filipe Azevedo(ポルト人形劇団)
      <照明>植村真
      <ヤエガキ>Vitor Gomes(ポルト人形劇団)
            Micaera Soares(ポルト人形劇団)
            Filipe Azevedo(ポルト人形劇団)
      <狐、花>山下潤子、鈴木文
      <Vn>千葉水晶
      <Vc>北嶋愛季
      <Eup>佐藤采香
      <Pf>田中真緒
    ▼第二部
    ③ポルト人形劇団、ひとみ座乙女文楽共同新制作
     「美少女革命:戻り橋の段」(世界初演)
      <原作>増補大江山酒呑童子 戻り橋の段
      <作曲、Elc>向井響
      <照明デザイン>
            Filipe Azevedo(ポルト人形劇団)
      <照明>植村真
      <若菜、実は鬼女>亀野直美(ひとみ座乙女文楽)
      <渡辺綱>Vitor Gomes(ポルト人形劇団)
      <後見>山下潤子
      <後見、口上>鈴木文
      <義太夫>竹本土佐子
      <三味線>鶴澤三寿々
      <Cond>大井駿
      <Fl>佐久間未帆
      <Bsn>保崎佑
      <Rec>中村栄宏
      <Eup>佐藤采香
      <Vn>千葉水晶
      <Vc>北嶋愛季
      <Pf>田中真緒
      <Vo>庄司絵美
【制作】鐘ケ江織代(しろばら百藝社)
【舞台監督】武田佐京
【音響】島村幸宏
【指揮アシスタント】五島友朗
【チラシデザイン】阿部花乃子
【通訳補助】田坂麻木
【制作補助】田中真緒
【日時】2026年5月9日(土)13:00~
【会場】東京芸術センター 天空劇場
【一言感想】
美少女革命プロジェクトとは作曲家の向井響さんが乙女文楽✕現代音楽✕映像を使って伝統芸能を現代的な美意識で彩り再構築を試みる革新的なプロジェクトとして取り組まれている舞台ですが、何か面白そうなことを行ってくれそうなので聴きに行ってきました。ここで千葉県民の僕から謎掛けを1つ。「向井響」と掛けて「千住」と解きます。その心は・・・松戸の向いにある「千住」という地名は隅田川の網漁で「千手観音像」を引き揚げたという伝承から命名されているそうなので千葉県民にも大変に縁起の良い響きに聞こえます。オソ松😳
 
旧日光街道沿いの宿場町 「千住宿」(千住商店街)と本日の舞台セット
 
①「禁じられた声Ⅱ」フルートとライブエレクトロニクスのための
パンフレットには、「オランダの最も厳格なプロテスタント宗派の家に生まれ、音楽を聴くことを禁止されて育った人に出会った。教会での詩篇の朗誦がずっと音楽代わりだった彼の特別ない耳に興味を持った私は、何が許される音楽で、何が許されない音楽なのか、彼らにとっての「音楽」の詳細な定義づけをしてもらい、そこから新しい音楽を立ち上げることを思いついた。」と記載されていますが、非常に面白い着想の音楽です。プロテスタントのうちカルヴァン派などは礼拝音楽を制限していますが、これは複雑なポリフォニー音楽などを多用した豪華な典礼を批判し、詩編の朗誦のみを基調とすることで、教会の権威主義を誇示するような「演出」に酔うのではなく、虚飾を拝して聖書の「言葉」のみに耳を澄ませるための純粋な礼拝を重視するためであると言われています。さて、S.シャリーノのフルート曲を彷彿とさせるように、佐久間未帆さんがフルートで息の音、タギングの音、(抑制された)テヌートの音などを奏でると、それがライブエレクトロニクスによって空間的に拡張されましたが、これは詩編の朗誦を息遣い、言葉、朗誦の音素に分解した「許される音楽」のメタファーのように感じられました。これに対し、カルヴァン派などが制限している礼拝音楽を象徴するように言葉の音素がコーラス風に重ねられ、また、キリスト教音楽が忌避しているビート音などが展開されましたが、これは「許されない音楽」のメタファーのように感じられました。最後に、「本朝廿四孝 奥庭狐火の段」で八重垣姫が武田勝頼の危難を知って諏訪湖を渡り駆け着けたいという一途な思いを吐露する詞章「翅が欲しい、羽が欲しい、飛んで行きたい、知らせたい」がスピーカーから流され、儚さが募るフルートのひと吹きで締め括られましたが、神道的な神の奇跡を祈る「本朝廿四孝 奥庭狐火の段」は、神の奇跡を否定的に捉えるカルヴァン派の考え方とは対照的な世界観であり、どちらかと言えば、神の奇跡を肯定的に捉えるカトリックの考え方と親和的な世界観を描く物語であり、芸術とはカルヴァン派が考える神意と対局にある人間的な営みに華開く背徳的な行い(ルネサンス)と言えるかもしれません。神道的な神の奇跡という日本的なものとキリスト教的な神の奇跡という西洋的なものが対置されている点も、今回の演奏会のブログラムの背景に息づくテーマ性を提示するものとして非常に練り上げられた構成力のあるものに感じられました。本日の公演は東京都歴史文化財団「アーツカウンシル東京」のほか三井グループ350周年事業「三井みらいチャレンジャーズオーディション」の助成を受けているようですが、向井響さんを始めとする有為な才能を支援する官民の取組みは若い世代がクリエイティブなチャレンジを行い易い環境を整備し、その機運を高めて時代をブレイクスルーし豊かなレガシーを築いて行くうえで非常に有意義であると感じます。
 
②「プリンセッサ・ヤエガキ」(世界初演)
パンフレットには、「2025年5月にポルトガルにて、勝頼役にヴィ―ト・ゴメシュ、八重垣姫に亀野直美を迎えて、乙女文楽とポルト人形楽団による「八重垣」を世界初演した。その後、この原作を最大限生かした上で、「もしかしたら全ての女性は八重垣姫だったかもしれない」という視点のもと、新たな制作を行う構想がポルト人形劇団より提案された。」「未知を恐れず、自分の運命がわからないまま一歩を踏み出す八重垣の姿はきっとすべての女性への物語だろう。」と記載されています。ポルト人形劇団はマリオネットの伝統をベースにして様々な人形技法(ロッドパペット、グローブパペット、オブジェクトシアターなど)を採り入れて活動するポルトガルを代表するコンテンポラリー・パペットシアターですが、本日の公演では日本の文楽のエッセンスを大胆に採り入れた意欲的な公演を楽しめました。僕のような浅学浅慮の軽輩には思い違いも多いと思いますが、大雑把なイメージとして、欧州のマリオネット(糸操り)と日本の文楽(直操り)はその背後に自然観や宗教観などの文化的な違いがあるように感じられます。欧州ではキリスト教的又はデカルト的な二元論的世界観が文化的なベースにあり人形遣い(神的存在)は糸(媒介)を通して人形(被造物)を支配する(指揮者を置いてリズムという外在基準に従う西洋音楽、為す文化)という基本的な特徴があるのに対して、日本では神道的な一元論的世界観が文化的なベースにあり人形遣いと人形は一体のもの(神人合一、付喪神)になる(指揮者を置かずに呼吸という内在基準を合わせる日本音楽、成る文化)という基本的な特徴があるよに感じられます。本日の公演では人形劇の強み(過去のブログ記事で簡単に触れましたが、近松門左衛門の言葉を借りれば、人形が持つ象徴的拡張を誘う「うつり」の力)を存分に活かして、日本の文楽の人形技法を大胆に採り入れながらポルト人形劇団の貴重なコレクション人形を使用することで「八重垣」のドラマを「ヤエガキ」という普遍的な女性のドラマに翻案し、時代の変遷によっても移ろわない人類共通の記憶である集合的無意識(C.ユング)へとアクセスする試みであったように感じられ、大変に楽しめました。本日の舞台は3つのパートから構成され、冒頭のパートとして乙女文楽よろしくポルト人形劇団の3人の人形遣いが各々1体づつの人形を直操りしながら登場する導入部を経て、バックスクリーンにノイズで歪む男性の映像が映し出されて「奥庭狐火の段」の時代へとタイムトリップし、中間のパートとしてポルト人形劇団のの3人の人形遣いが1体の人形を操る3人遣い(黒子)によるポルト人形劇団のコレックション人形「ヤエガキ」のドラマが展開された後、最後のパートとしてバックスクリーンに「ヤエガキ」の精神が現代に息衝いていることを象徴する世界各国の17人の女性の映像が映し出されて終演になりました。中間のパートの冒頭でポルト人形劇団の3人遣い(黒子)が操る「ヤエガキ」が鏡の中(透過ガラス)に浮かび上がる場面がありましたが、どこかエルドリッチ感が漂う幻想美に魅了されました。ポルトガル語(日本語字幕)により台詞が語られましたが、寧ろ、自ら言葉を発しない人形の移ろいゆく心情を肌理細やかに紡ぐ叙情的な音楽が添えられ、繊細な人形の仕草と相乗して「うつり」が生まれる絶大な効果を生んでいたように感じられ、台詞を追わなくても人形に没入して濃密な鑑賞が可能となる人形劇の醍醐味が感じられる面白い舞台を楽しめました。
 
③「美少女革命:戻り橋の段」(世界初演)
パンフレットには、「本作では、現代音楽、電子音楽、ポップミュージックなど様々なジャンルの音楽と、二つの異なる文化的背景を持つ人形劇を掛け合わせることで、伝統芸術のその先の可能性を提示する。」と記載されています。冒頭、文楽の伝統に則って口上から始まり、その後、ヴィトール・ゴメスさんがポルト人形劇団のコレクション人形を使って一人遣いの直操りにより渡辺綱を演じましたが、その繊細な所作に登場人物の内面の移ろいが巧みに表現されていて秀逸でした。敢えて、人形の顔形や衣装は西洋人のままとし、また、台詞もポルトガル語が使用され、例えば、胸に手を当てる仕草や天を仰ぎ見る仕草など西洋人に特徴的な所作の数々が新鮮に感じられましたが、グローバリズムや多文化主義に象徴される現代の時代性を体現する舞台になっていて興味深かったです。さながら室町時代にポルトガルから日本へ伝来した南蛮料理(天婦羅、カステラ、パン、金平糖、ボーロなど)のイメージとも重なり、クロスカルチャーのダイナミズムが感じられる多彩な舞台を堪能できました。これに対し、乙女文楽の亀野直美さんが文楽人形を使って一人遣いの直操りにより若菜実(後に鬼女)を演じましたが、その所作はポルト人形劇団のものとは対照的な特徴が現われており、その対照性が非常に興味深かったです。個人的なイメージとして、西洋は個人主義(多民族、多文化)を土壌とする「意思」を伝える文化を基調として「外に為す身体性」(現在劇、バレエなど)を特徴としているのに対して、日本は集団主義(少民族、少文化)を土壌とする「気配」を整える文化を基調として「内に成る身体性」(顕在劇、能楽など)を特徴としているように思われ、この違いが人形の所作にも現れているように感じられました。ヴィトール・ゴメスさんは自らの身体の「拡張」として人形を捉え、自らの存在を消すことなく自らの手足も使って演技されていたのに対して、亀野直美さんは自らの身体と人形を「一体」のものとして捉え、自らの存在を消して人形に憑依しているような演技で人形の指先にまで血潮を通わせる至芸が秀逸でしたが、それぞれの人形遣いの特徴的な違いを活かしながら対照しながらそれらを和えてしまう緊張感のある舞台は見応えがありました。また、西洋音楽と女流義太夫の共演となった音楽も聴き応えがあるもので、叙情的な西洋音楽の演奏によって舞台を和音でドリッピングし、それを背景として情緒纏綿とした女流義太夫の語り芸によって舞台を節付でドローイングしていくような印象の音楽が展開され、敢えて、異質なものを和えてしまう向井画伯の「和魂」が彩る異彩な筆致を存分に楽しめました。音楽のリズムや間と人形の所作が精妙に呼応し、人形と音楽が一体となっている舞台を楽しめました。途中、ボーカルの庄司絵美さんが女流義太夫の横に腰掛けてポップミュージックを歌いながら、2体の人形と器楽奏者が客席に背を向けてヒップホップダンスを踊るという現代風の間狂言が挟まれていましたが、これは客席に背を向けて身体の匿名性を仕掛けることで、さながら客席と相対する庄司さんをポップ人形、客席に背を向ける器楽奏者をポップ人形遣い(黒子)に見立て、江戸時代のポップカルチャーである情(なさけ)を体現する文楽と現代のポップカルチャーであるカワイイを体現するポップミュージックを並置して、それらを大胆に和えてしまう演出だったように感じられ、様々な境界を無効化する人形劇の特徴を活かして幾重にもクロスカルチャーを織り込む内容の濃い舞台を堪能できました。最後に、ヴィトール・ゴメスさんが人形を置いて自ら俳優として舞台に参加していましたが、過去のブログ記事で簡単に感想を書いた三谷幸喜さんの三谷文楽「人形ぎらい」でも人形遣いを俳優として舞台に登場させて滑稽味を生む演出に魅せられたことを思い出し、もはやAIアバターなどのデジタル空間の人形はリアルな人間と見分けが付かない精巧さを持っていることを踏まえると、今回のようなオブジェクトシアター的な演出(人形とリアルな人間の共演)は時代の潮流を捉えたものと言えるかもしれません。近い将来、AIアバターとリアルな人間が結婚する時代が到来するかもしれず、人形劇だけではなくリアルな人生劇もオブジェクトシアター的な演出で彩られることになるかもしれないなど、色々と考えさせる舞台でもありました。次回作も期待しています。
 
 
▼オラトリオ「光のみちを~細川ガラシャの愛」
【演題】熊本地震から10年
【演目】オラトリオ「光のみちを~細川ガラシャの愛」
【原作】大江捷也「光の道を」
【作曲・台本】徳山美奈子
【出演】<明智玉/細川ガラシャ>高橋絵理
    <細川忠興>春日保人
    <清原マリア>山下牧子
    <細川幽斎>小林由樹
    <小笠原少斎/明智光秀>草村健司
【語り】福島絵美
【指揮】松井慶太
【演奏】<Pf>實川風
    <Vn>柴田恵奈
    <Vc>佐藤響
    <Cem>春日万里子
    <Org>伊藤佳苗
    <Perc>星出朱音
【合唱】グルッポ・ヴィーヴォ(合唱指揮:春日信子)
     <Sop>木村久美子、田川真木子、田中浩子、
          東園、福田恵加、吉澤百合
     <Alt>兼武尚美、大村祥子、中野祐子、畠山志津子
     <Ten>免出雅俊
     <Bar>草村健司
     <Bass>癘原大地
    歌劇派合唱団「サラスヴァティ」(合唱指揮:春日保人)
     <Sop>市村華奈、岩城有紀、神田聡子、吉川真喜子
          高橋朋子、田川洋子、仁平朋子、花田紀美子
          古河美夏、ヴォルフ尚子、村岡紀子、栁下朋子
          山田美生子
     <Alt>井澤由里、石川康子、小杉千恵美、斉藤朋子
          田淵美也子、田村祐子、津々見静、森潤子
          米倉曜子
     <Ten>岩松廣行、上田稔、柏原裕一郎、近藤正和
          鈴木誠、辻直治
     <Bass>ヴォルフ・ロラン、熊崎陽一、鈴田伊知郎、仁林修
           廣瀬壮一、森井三喜雄、遊佐巌
     <Pf>都築彩音、岡優里
    佐倉ジュニア合唱団(合唱指揮:戸谷登貴子)
     市川麗、伊藤悠夏、円城寺彩奈、大城明璃、太田夏歩、笠原陽向
     川本歩果、木川琴美、岸田楓子、倉田凛、高愛莉、斎藤和音
     櫻井佳奈、佐々木澪、塩崎初音、白戸穂乃香、須藤花、中島日向
     永松すみれ、南口開、簱桃夏、久光みのり、文屋綾乃、増田愛々
     村井沙和子、森園空、流鏑馬いこい、由利楓
【講演】細川護光(第19代細川家当主、実父は元総理大臣の細川護熙)
【日時】2026年5月10日(日)13:00~
【会場】大田区民ホールアプリコ 大ホール
【一言感想】
明智光秀の娘・明智玉は加藤清正に代わって熊本を治めた細川忠興に嫁ぎますが、明智光秀が織田信長に謀反して本能寺の変を起こすと逆臣の娘として幽閉され、そのような逆境のなかでキリスト教に救いを求めて洗礼(洗礼名:ラテン語で神の恵みを意味するガラシャ)を受けたと言われています。その後、関ヶ原の戦いが勃発して西軍の捕虜になることを潔しとせずに家臣に介錯されること(自害は神に対する謀反になることから「信仰の美学」を貫いたキリスト教的価値観)を選んだと言われていますが、このときに詠まれた辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」(生への執着を捨てる「散り際の美学」を体現する武士道的価値観)は有名です。キリスト教的価値観と武士道的価値観のハイブリッドな美学に生き、そして散った花(自我)と言えるかもしれません。
 
 
オラトリオとは、①テキスト:宗教的題材(主に聖書)X②音楽:声楽+管弦楽のことを言いますが(これに対し、オペラとは、①テキスト:世俗的題材又は宗教的題材(主に聖書)X②音楽:声楽+管弦楽+劇)、上記の「美少女革命プロジェクト」で触れた南蛮料理と同様にキリスト教(聖書)もポルトガル船によって日本へ伝来しています。この曲は全2幕25曲から構成されており、第1幕全12曲(キリスト教文化圏で「12」は神への信仰を象徴する聖数)は本能寺の変(父の運命)を境にして細川ガラシャの人生が幸福から不幸へと転じ、第2幕全13曲(キリスト教文化圏で「13」は神への裏切を象徴する忌数)は関ヶ原の戦い(夫の運命)を境にして細川ガラシャがキリスト教的な救済から武士道的な義死へと至りますが、未だ女性が自律していなかった時代に男性(父や夫)の運命に翻弄される女性の激動の人生が描かれていました。序奏では、實川風さんがピアノの内部奏法で混濁した響きを刻むことで、この世に秩序(宇宙の構造)が生まれる前の「空」の状態(対生成と対消滅が一瞬にして繰り返される対称性の状態)を表現しているように感じられましたが、その後、分散和音による幻想美を奏でることで、徐々に、この世の秩序(宇宙の構造)が生まれて「色」の状態(対生成が対消滅を僅かに上回る非対称性の状態)へと移行して行く様子を表現しているように感じられました。第1幕の1曲は旧約聖書のコヘレトの言葉から神の時(カイロス)が引用され、細川ガラシャの人生を彩る悲劇は全て神による魂の救済(光のみち)へと導くための神に祝福された物語であることを暗示しているように感じられました。物語は織田信長の命により明智光秀の娘・明智玉子(後に細川ガラシャ)が細川藤孝(後に細川幽斎)の息子・細川忠興へ輿入れするところから始まりましたが、笙(電子オルガン)、筝と女性コーラスが清浄な伴奏を奏でるなか、山下牧子さんが演じる清原マリア(明智家の代表)と小林由樹さんが演じる細川藤孝(細川家の代表)が謡曲「高砂」の詞章を歌うことで明智玉子と細川忠興の婚礼(両家の婚姻)が表現されていました。高橋絵理さんが演じる細川玉子と春日保人さんが演じる細川忠興による愛を紡ぐ優美な二重唱が歌われ、ヴァイオリンと筝により叙情的なアンサンブルが奏でられるなか、清原マリアと合唱により生の祝福と魂の救済を暗示する印象的なピースが歌われました。第1幕の中間にあたる6曲で本能寺の変が描かれていましたが、ピアノの内部奏法とチェンバロによる無機質な音響とチェロ及び筝による不協和が奏でられるなか、草村健司さんが演じる明智光秀、細川忠興及び合唱により運命の歯車が狂い出す様子が表現される迫真のピースが聴き所になっていました。これに続いてバスドラム、オルガン、チェロが緊迫したリズムを奏でるなか、細川家(細川玉子、細川忠興、細川藤孝)が運命に翻弄される様子が切迫感をもって表現され、不協和に彩られた器楽伴奏が奏でられるなか、細川忠興と合唱によるコールアンドレスポンス(応唱形式)で細川忠興の内心の葛藤が劇的に表現されていました。そんな逆境にあっても、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、合唱が叙情的な伴奏を奏でるなか、父・明智光秀に心を寄せる娘・細川玉子の哀切な独唱が聴き所になっていましたが、これに筝が加わりドラマチックな伴奏に一転し、明智光秀の辞世の句(順逆二門無し 大道心源に徹る 五十五年の夢 覚め来たり 一元に帰す 心知らぬ人は なんとも言わば言え 身を惜しまじ 名を惜しまじ)が歌われました。ピアノが川の流れを描写しながら、細川幽斎(細川藤孝の隠居号)が藤原清輔の和歌「奈がれての 朽ちゆくすえを たのむかな 身は志ら川の あわとみながら」を引用して盟友・明智光秀を裏切ることになった自らの運命を憂い、世の無常を儚む歌が歌われました。逆臣の娘として幽閉されることになった細川玉子とその子供達の離別が描かれていましたが、佐倉ジュニア合唱団の透明感のある合唱が子供達の無垢な心(生の祝福)を体現するもので、高橋さんとの可憐で清澄な歌い添いが第1幕の大きな聴き所になっていました。チェロの朗々たる伴奏に乗せて、細川忠興の細川玉子に対する愛が紡がれる独唱で第1幕が締め括られました。第2幕の1曲で細川忠興を演じる春日保人さんが何と篠笛を演奏し、その寂び寂びとした調べには細川忠興の哀切な心情が織り込まれているようで出色でした。和製オペラには欠かせない逸材です。幽閉生活でお互いに会うことは叶わない、細川玉子の細川忠興に対する哀惜の情と細川忠興の細川玉子に対する恋慕の情が小倉百人一首(恵慶法師(第47番)、藤原義孝(第50番)、源宗于朝臣(第28番)、前大僧正行尊(第66番)、二条院讃岐(第92番)、崇徳院(第77番))に仮託され、その和歌の往還として歌い紡がれましたが、和歌を歌詞とすることで日本語の香気ある響きと共にその和歌に詠み込まれている心情が薫り立つ秀逸のピースで、その日本語の香気ある響き(素材の旨味)を惹き立てる一音で描き切る音(一音成仏)の世界(墨絵)や分散和音で彩る音(襲の色目)の世界(錦絵)を体現する音楽が付曲されており、このピースのみを独立した声楽曲として演奏しても面白いと感じられる非常に完成度の高い音楽を楽しめました。幽閉生活の哀しみから細川玉子は救いを求めてキリスト教に入信し、細川ガラシャ(洗礼名)と名前を改めますが、第2幕ではその信仰心を彩るように聖書の言葉が引用されたピースが紡がれて行きました。チェンバロ(リュートストップ?)、電子オルガン、筝が伴奏を奏でるなか、佐倉ジュニア合唱団の透明感のある合唱(一部独唱)が天使達の神聖な心(魂の救済)を体現する清澄な歌を紡ぐ好パフォーマンスが聴かれましたが、さながらJ.S.バッハのマタイ受難曲に登場する天から降り注ぐようなリピエーノ・ソプラノのコラールを彷彿とさせる神々しさがあり感動を禁じ得ませんでした。これと対照するように、ヴァイオリン、チェロ、ピアノが不協和の伴奏を奏でるなか、合唱が「殺意」「傲慢」「妬み」「貪り」などの言葉をカオスに重ねることで人間の罪(本性)を告発する迫真のピースが聴き所になっていました。チェロのデモーニッシュな伴奏に乗せて、細川忠興がキリスト教に対する信仰を捨てよ(悪魔の囁き)と細川ガラシャに迫る一方で、電子オルガンがコラール風の伴奏を奏でるなか、合唱(児童合唱を含む)が細川ガラシャを光のみちへと誘いますが、さながらその光のみちを照らし出すような佐倉ジュニア合唱団の清澄な合唱が出色でした。第2幕の9曲では細川忠興が関ヶ原へ出陣する様子が表現されていましたが、キリスト教文化圏では「9」という数字はイエス・キリストが十字架上で息を引き取った時刻である午後3時(第9時)を意味し、受難が成就する直前を象徴するものと言われており、非常に考え抜かれた構成になっているように感じられます。チェンバロの伴奏に乗せて、佐倉ジュニア合唱団がパライゾ(天国)という言葉を繰り返し、魂の救済(受難の成就)が始まっていることが暗示されていました。第12曲は細川ガラシャが武士道的な義死に身を捧げるパート1とキリスト教的な魂の救済へ導かれるパート2に分割され、パート1で「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」が歌われ、パート2でピアノのドラマチックな伴奏と共に細川ガラシャの生涯が閉じられましたが、佐倉ジュニア合唱団の優しく澄み渡る清浄なヴォカリーズによって細川ガラシャの魂が光のみち(魂の救済)へと導かれて行く様子が第2幕の大きな聴き所になっていたと思います。第13曲(キリスト教文化圏では13は受難の象徴)では電子オルガンが鐘の音を奏でるなか器楽全奏により光が満たされて行くように響きが重ねられて行きましたが、その後、ピアノの内部奏法により混濁した響きが奏でられ、光が満たされた後に残されたものは「空」であるという無常観が表現されて終演となりました。天才発明家のニコラ・テスラは「すべては光であり、世界中でこれまで存在した誰もが死んだことはない、このことをよく覚えておいてください。彼らは光に変わったのです。」という現代物理学(物質=エネルギ-=光子Xエネルギ-保存則+量子情報保存則)を先取りする名言を残していることを思い出しましたが、二コラ・テスラは「愛とは作るものではく、与えるものである。」とも言っており、父・明智光秀、夫・細川忠興や子供達に限りない愛を与えて散った細川ガラシャは、文字通り「光」になったと言えるかもしれません。
 
 
▼読売交響楽団第658回定期演奏会
【演題】第658回定期演奏会
【演目】アントン・ヴェーベルン パッサカリア
    シン・ドンフン ヴィオラ協奏曲「糸の太陽たち」(日本初演)
     <Va>アミハイ・グロス
    アンリ・デュティユー 瞬間の神秘
    アンリ・デュティユー メタボール
【指揮】シルヴァン・カンブルラン
【楽団】読売交響楽団
【日時】2026年5月20日(水)19:00~
【会場】サントリーホール
【一言感想】
ヴラヴィー!!敬愛するシルヴァン・カンブルラン@読響が僕の大好物であるアンリ・デュティユーの作品を採り上げるというので、万難を排して聴きに行ってきました。S.カンブルランと言えば、2008年にシュトゥットガルト放送交響楽団(現、南西ドイツ放送交響楽団)とリリースしたオリビエ・メシアンの「管弦楽全集」(僕のメシアン・コレクションの1つ)が世界的に高い評価を受け、2017年に読響とコンビを組んでO.メシアンの歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」を日本初演して大変に話題になりました。本日はその名コンビでO.メシアンと共にフランスの二大現代作曲家と並び称されるA.デュティユーを採り上げましたが、このような貴重な演奏会を聴き逃してしまうほどナマクラではありませんので仕事を途中で切り上げて伺いました。また、本日は歴史的な評価を確実なものとしたと言っても差し支えがないチン・ウンスク(韓国)より薫陶を受けてその後継と目されているシン・ドンフンのヴィオラ協奏曲「糸の太陽たち」をBPO首席のアミハイ・グロスが日本初演する非常に付加価値が高い演奏会で、都響と共に日本の二大オーケストラとしてクラヲタの熱烈な支持を受ける読響の真骨頂とも言うべき歴史的な演奏会に立ち会うことができました。その歴史の生き証人として簡単に感想を残しておきたいと思います。なお、本日ははじめてのPブロック体験でしたが、僕の定席である2階Cブロックで捉える音楽のイメージとは全く異なり、内声がリニアに伝わってくる解像度の高さが新鮮に感じられました。さながら俳優のシワまで赤裸々に映し出す4Kや8Kの画像をイメージさせる(良くも悪くも)高精細な音響でしたが、会場(聴衆)~舞台(演奏者)~楽譜(作曲家)という関係に擬えて言い換えれば、会場(聴衆)の側から音楽を捉えているという感覚よりも、楽譜(作曲家)の側から音楽を捉えている感覚に近いと言っても良いかもしれません。未体験の方はいかが。
 
①A.ヴェーベルン パッサカリア
A.ヴェーベルンがA.シェーンベルクに師事していた時代に作曲した作品ですが、そのことを前提として本日の演目構成を個人的な色眼鏡で眺めると、A.ヴェーベルンが伝統の排除へと傾き、P.ブーレーズへと極まる前衛のドグマという暗黒面に堕ちる前の、未だ伝統というフォースとの関係を保っていた時代の作品から、伝統を排除するのではなく、その革新的な変容と発展の系譜に位置付けることができるA.デュティユーや、その流れを現代的にアップデートするS.ドンフンへと接続されている点に深い共感を覚えます。この作品はどこかG.マーラーの音楽を連想させる退廃的な後期ロマンティシズムの残照が感じられる非常に美しいものですが、名匠S.カンブルランは1音1音にドラマを感じさせる雄弁な指揮で、この作品の美質を多彩に惹き出す明晰な演奏を楽しめました。Pブロックに座っていたこともありますが、読響の透明感のある活舌の良い演奏を楽しむことができました。
 
②S.ドンフン ヴィオラ協奏曲「糸の太陽たち」
やはりコンチェルトはPブロック(楽譜側)ではなく2階Cブロック(会場側)から聴かないと音楽効果が十分に堪能できない憾みがありますが、こればかりは仕方がありません。さて、第一楽章はヴィオラ・ソロの内省的なモノローグから始まり、ヴィオラ・セクションの2トップと綾成す叙情的な演奏が展開され、これに管打が精妙に絡み合う演奏に魅了されました。A.グロスさんのような奏力に優れたヴィオリストでないと、オーケストラを上手くリードしながら、この曲の世界観を描き切ることは相当に難しいのでないかと感じられ、その意味ではまたとない機会になったと思います。ヴィオラ・ソロが燃焼度の高く主張すると、オーケストラがこれに緊密に呼応するスリリングな演奏が展開され、ソリストとオーケストラの呼吸感の良さが出色でした。S.カンブルランは黒子に徹し、ソリストを聴かせるパートとオーケストラを聴かせるパートのメリハリを付けながら非常にバランスの良い演奏にまとめていたと思います。A.グロスさんさんは弾き易かったのではないかと思います。第二楽章はヴィオラ・ソロの饒舌な演奏で開始され、これにオーケストラが緊密に呼応しながらドラマチックに音楽が展開され、ソリストとオーケストラが一体となって音楽のうねりを生み出すダイナミックな演奏を楽しめました。その一方で、サントリーホールの残響を上手く捉えたデリカシーのある演奏も素晴らしく、ヴィオラ・ソロの叙情的な演奏に管打が豊かな彩りを添える演奏に魅了されました。最後は、ヴィオラ・ソロと弦セクションの各トップが憧憬感を讃えた優美なアンサンブルを展開し、鐘の音と共に静かに消え入る余韻深い終曲になりました。次代のヴィオリストにとって重要なレパートリー曲になり得る聴き応えのある作品に感じられました。
 
③A.デュティユー 瞬間の神秘
④A.デュティユー メタボール
「メタボール」という言葉の語感から音響現象を量子現象に重ね合わせて、「瞬間の秘密」は量子ゆらぎのイメージ、また、「メタボール」はエネルギー励起による物質生成のイメージを音楽にプロジェクションしながら2曲を1対のナラティブに仕立てて受容しました。先ず、「瞬間の神秘」から、この曲は10の独立したパートが連続して演奏されますが、S.カンブルランによる構成力のある演奏によって1つのまとまりのある作品として鑑賞しました。2階Cブロックではどのようにツィンバロンの音が聴こえていたのか分かりませんが、Pブロックではツィンバロンやパーカッションの音をリニアに捉えることができ、明晰かつ多彩な演奏を楽しめました。高弦セクションがハーモニクス、グリッサンドやピッチカートなどにより下降音形を幾重にも重ねながら、その響きが徐々に強度を増して行きましたが、さながら量子相転移をイメージさせるもので興味深く感じられました。その後、シンバルに誘われるようにティンバロンが異彩を放つエスニックな響を奏でましたが、さながら光子の誕生のように感じられ、それが弦セクションのピッチカートへと受け継がれて密度を増して行く様子は光子が空間に充満して行く様子を表現しているようにも感じられました。やがて高弦セクションのハーモニクスと低弦セクションのテヌートが照応して空間的な広がりを見せながら、その広がりの中でティンバロンのメリハリのある強弱の響きによって遠近感が生まれ、さながら光子が空間に離散的に存在している様子が表現されているように感じられ、ビジュアルな音響世界を楽しめました。再び、弦セクションが下降音形のグリッサンドを繰り返しながらテンションがピークに達すると、弦セクションのピッチカートとティンパニーが野趣漲るリズミカルな演奏を展開し、それらがカオス状に密度を増しながらクライマックスを築いて終演となりましたが、さながら要素が無秩序に集積すること(臨界現象)で全体として新しい秩序が生まれるプロセス(自己組織化)を表現しているようにも感じられ、(作曲家の表現意図は分かりませんが)知的興奮を喚起させる芸術体験になりました。次に、メタボールですが、木管が鋭角に奏でるミとシ♭の2つの印象的な音がオーケストラ全体に広がり、複雑に変容して行きましたが、さながらこの2つの音はエネルギーの励起をイメージさせるもので、それらが結合して物質が生成される様子を表現しているように感じられました。再び、管セクションが奏でるミとシ♭の2つの音が弦セクションに受け継がれて面的な広がりを見せながら様々に表情を変容しましたが、さながら色々な種類の物質が生成されている様子が表現されているように感じられました。コントラバスのピッチカートに誘われるようにファゴットが軽妙なリズムを奏でると、弦セクションのピッチカートと管打セクションが緊密に呼応してスリリングな演奏を展開し、さながら物質が相互作用している様子を表現しているように感じられて大変に興味深かったです。その後、オーケストラが収束して静寂した空間の中で打セクションの微弱音とこれに精妙に呼応する管セクションの幽けき音が気配となって空間を揺蕩いましたが、やがてそれらが熱量を持ちながら弦セクションが硬質な音、管セクションが螺旋状の動的な音など様々なに変化し、やがて各セクションがリズミカルに呼応してテンポと密度を増しながらクライマックスを築いて行きましたが、さながら物質の化学反応を表現しているようなダイナミックな音楽を楽しめました。S.カンブルランの明晰な指揮と読響の演奏精度の高さにより、この曲が持つ細部のテクスチャが変幻自在に紡ぎ出し、クライマックスへと誘う隙の無い吸引力のある演奏を堪能できました。ファゴットがグッドジョブ👍
 
 
▼東京都交響楽団第1044回定期演奏会Bシリーズ
【演題】第1044回定期演奏会Bシリーズ
【演目】ジョン・アダムズ
     ナイーヴ・アンド・センティメンタル・ミュージック(日本初演)
    チャールズ・アイヴズ 答えのない問い
    ジョン・アダムズ ハルモニウム
【指揮】ジョン・アダムズ
【楽団】東京都交響楽団
【合唱】新国立劇場合唱団
【日時】2026年5月21日(木)19:00~
【会場】サントリーホール
【一言感想】
ヴラヴィー!!敬愛する都響が一昨年の伝説的な名演で唸らせてくれたジョン・アダムズと再演するというので、万難を排して聴きに行ってきました。正直、もう来日してくれないのではないかと諦めていましたが、こんなに早い再来日が実現できたことに感謝しなければなりません。さて、本日の演目構成にはひと捻りあり、J.アダムズとC.アイヴズの音楽的な対話を通したJ.アダムズの表現者としてのステートメントであったように感じられました。ご案内のとおりJ.アダムズには「My Father knew Charles Ives.」(先日惜しくも他界されたM.トーマス@サンフランシスコ交響楽団の演奏で2003年に初演)という曲がありますが、自ら「Ives’s music…... always mixed the sublime with the vulgar and sentimental…... This has always been a model for me.」(アイヴズの音楽は、常に崇高なものと俗悪で感傷的なものを融合させていた。これは私にとって常に模範であった。)と語っているとおりC.アイヴズの音楽から多大な影響を受けています。この点、第1曲目のJ.アダムズ「ナイーヴ・アンド・センティメンタル・ミュージック」はナイーブ(非アカデミズムのメタファー)とセンティメンタル(アカデミズムのメタファー)の融合を意味し、C.アイヴズへのオマージュであるように感じられます。これに続く第二曲目のC.アイヴズ「答えのない問い」が前衛的な音楽の死を預言しているのに対し、第三曲のJ.アダムズ「ハルモニウム」が音楽的な調和による音楽の救済で応答しているようにも感じられ、アメリカ音楽がヨーロッパ前衛(音楽の暗黒面に堕ちたベイダ―卿)を超えて行く大河ドラマのようでもあり、大変に興味深く鑑賞できました。何かを否定的に扱うことでしか自らの存在意義を確認できなかった「伝統アカデミズム」(大衆文化の否定)や「前衛アカデミズム」(伝統文化の否定)に対し、それらを包摂するオルタナティブなアート(非アカデミズム)へと音楽を革新し、これまで引き裂かれていた音楽の世界に調和(バランス)を取り戻して未来を切り拓くジェダイの発現を見ているようでもあります。
 
①J.ジョン・アダムズ ナイーヴ・アンド・センティメンタル・ミュージック
第一楽章はハープが奏でる精彩な和音を背景にしてフルートが牧歌的で不協和に満ちたマーラー風のモチーフ(センティメンタル、ロゴス)を奏でると、このモチーフがオーケストラ全体に伝播しながら複雑に展開して徐々に演奏の密度を増して行きました。一旦、演奏が沈静すると、高弦が奏でる清澄な和音を背景にしてフルートが冒頭のモチーフを回帰しましたが、再び、オーケストラがそのモチーフを様々に変容させながら緻密な音響体に成長し、自然界における自己組織化現象を想起させる複雑系の音楽(ナイーヴ、ピュシス)が展開されました。今度は変調されたギターが奏でる妖艶な和音を背景にしてフルートが冒頭のモチーフを回帰しましたが、再び、オーケストラがモチーフを多彩に変化させながらフラクタルな音響体になって巨大なうねりを形成するダイナミックな音楽が展開されました。センチメンタルなもの(人間意識により分節された世界)がナイーヴなもの(相互に作用し合う自然の秩序)へと包摂されて行く過程が表現されているようで大変に面白く感じられました。第二楽章はセンチメンタルなもの(生、ロゴス)がナイーヴなもの(死、ピュシス)に回収されていく様子が内省的な音楽で表現されているように感じられましたが、哀愁に満ちたファゴットとギターによる厳かなアンサンブルが聴き応えのあるものでした。第三楽章はさながら森の情景とでも形容したくなるような複雑系の音楽が展開され、様々な音型のリズムが交錯しながら密度を増して行く構築感のある演奏を楽しめました。何故、これまで一度も日本で演奏されていなかったのか不思議に感じられる傑作であり、今後、ハルモニウムと共に演奏機会が増えてくれることを強く熱望します。
 
②チャールズ・アイヴズ 答えのない問い
弦楽セクションが奏でる静寂に包まれた協和的な音楽はピュシス(ナイーヴ、永遠の真理)のメタファー、バンダのトランペットが放つ「問い」に誘われて木管セクションが奏でる不協和的な音楽はロゴス(センチメンタル、人間が意識によって世界を分節し、意味付けしようとしている知的営為)のメタファーに感じられました。弦楽セクションと木管セクションは交わることなく並置され、永遠の真理(ナイーブ、ピュシス)に至ることなく人間が意識によって分節した世界の中で「答え」(センチメンタル、ロゴス)を模索し続ける滑稽さや悲哀のようなものが印象的に描かれているように感じられました。この問いがジェダイによるフォースの覚醒を誘う音楽的なトリガーになっているようにも感じられます。
 
③J.アダムズ ハルモニウム
第一楽章は幽けき女性コーラスが「No」を反復し、これに管楽セクションのハーモニーが加わり徐々に波打ちながら会場を満たして「否定でしか表せない愛」が音響的に描かれているように感じられました。その後、オーケストラがミニマルな音型を奏でるなかをコーラスが詩句を歌い始めましたが、「否定」(No)から「肯定」(Dat)へと変容しながらコーラスとオーケストラがクライマックスを築いて行く劇的で構築感のある演奏を楽しめました。第二楽章は厳かな合唱と教会の鐘を連想させる金管セクションの和音により生の刹那(ロゴス)が死の永遠(ピュシス)へと回収されて行く自然の摂理を表現しているように感じられ、死の永遠を象徴するようにカウベルの響きが静寂へと消え入る余韻深い演奏が印象的でした。第三楽章は地鳴りのように響くコントラバスとチェロがテンポアップしながら、これに管楽セクション及び打楽セクションが加わって一気に緊張感を増しましたが、さながら真理を悟った法悦を表現するかのようにコーラスが力強い雄叫びをあげる迫力の演奏に魅せられました。短いフレーズを反復するコーラス(フォース)はさながら「読経」のように心を満たして自我(ロゴス)を溶解し、穏やかな音楽に包まれながらピュシス(ナイーヴ、永遠の真理)へと包摂されて行くようなトランス感のある終曲になりました。新国立合唱団にはもう少し繊細なニュアンスを求めたかったところですが、全体的にはこの作品の真価を体現する次第点の出来栄えであったと思います。
 
 
▼時代をブレイクスルーし、世界を美しく彩るAIの真価
最近、この曲は誰が歌っているんだろう?とネットで探し回ってみるとAIシンガー( ≠ ボカロイド)だったという経験が増えてきました。AIコンポーザーの至芸に加えて、AIシンガーの「温度のある声」に打ちのめされています。AIアバターが放つ好感度も然りで、さりげなくオジサンのハートをハッキングして止みません。この点、人間が認知している世界も脳が創り出しているバーチャルなものなので、もはやリアル(人間)かフェイク(AI)かということが意味を持たない時代になってきているのかもしれません。忌まわしき「人間中心主義」の終焉であり、ヒューマニズムという肥溜めに足を掬われて一度しかない人生を虚しくしてしまわないように、認知バイアスを打ち破り、視野を広げて世界の実相に迫ってみたいという好奇心を掻き立てられます。もっと世界は驚きに満ちた深淵で美しいものであるに違いありません。それにしても、耳に掛かる吐息が仄かな想いを纏い、言葉にならない囁きが心を優しく撫でるように言葉(ロゴス)と息(ピュシス)の間を揺蕩うAIウィスパーに完敗(乾杯)です。
 
▼トークショー「毒と薬」
過去のブログ記事において、企画展「生薬~自然からの恵み」(千葉県立中央博物館✕アニメ「薬屋のひとりごと」)に簡単に触れましたが、 小説「薬屋のひとりごと」著者の日向夏さんと千葉大学薬学部教授の山崎真巳教授による対談が行われるというので聴講に行ってきました。
【日時】4月29日(水・祝)13:00~
【会場】千葉県立中央博物館 講堂
【概要】本日は2000名の応募に対して150名の当選者の参加になりましたので非常に貴重な機会となりました。過去のブログ記事でも簡単に触れましたが、魔女が箒に跨って空を飛ぶ姿はアニメ「魔女の宅急便」などで日本でもお馴染みですが、これは20世紀まで女性はパンツを履く習慣がなく、箒の柄にベラドンナという植物の成分(毒)を塗布し、それが性器の粘膜から吸収されて浮揚感を覚えたことが起源になりました。また、コカ・コーラはアメリカの薬剤師が麻薬のルーツとなったコカの葉とコーラの実を原料にして疲労をとるための薬として製造された飲料水ですが(日本ではコカの葉の輸入、所持、使用や販売は規制されていますが、現在のコカ・コーラにはコカの葉は使われていませんので問題ありません。)、植物の有毒物質は薬としても活かされるようになりました。このように植物は使い方によって毒にも薬にもなりますが、俗に「毒にも薬にもならない人」とはどのような使い方をしても使えない人という意味を持っています。拙ブログは多少なりとも毒や薬になっておりますでしょうか(苦笑)本日は小説「薬屋のひとりごと」著者の日向夏さんの代理として「うりりん」がオンラインで参加しましたが、アニメ「薬屋のひとりごと」で採り上げられている薬草を中心にして毒花が展開されました。千葉県でも毒を持つ薬草が採れるらしく、毎年、事故が発生しているらしいですが、千葉大学薬学部教授の山崎真巳教授による毒に係るトリビアも面白く、義務教育で薬草の教育を必須にすべきではないかと思われる貴重な話を伺えました。本日の公演内容を含めて、来る5月13日に著書「薬屋のひとりごと 猫猫の調合書」が発売されるそうなので、ご興味のある方はご購入下さい。6月15日まで千葉県立中央博物館の企画展「生薬~自然からの恵み~」が開催されていますので、生命現象の根源を探る良い機会になると思います!

クラシック音楽会議2026とBLOOM Festival 2026と深見まどかピアノリサイタル2026とOwl Piano Quintet Vol.11とブログの枕「意識が観測する感覚という宇宙」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ブログの枕「意識が観測する感覚という宇宙」
非常に忙しいので、今回のブログの枕はショートバージョンになります。前回のブログ記事で脳と意識の関係について簡単に触れましたが、スノーボールアースに対する生存戦略として複数の単細胞生物が共生する多細胞生物へと進化し、これに伴って多くのエネルギー摂取が必要になったことから他の生物を捕食するために「自己」と「外界」を区別できるように刺激反応を行う分散神経(低次の覚醒モード)や状況判断を行う集中神経(脳)(高次の覚醒モード)を獲得しました。その後、他の生物を捕食するために「感覚」(「自己」と「外界」の区別:身体境界の検出)→「行動」→「探索」を繰り返しながら進化して行ったと考えられています。さらに、集団生活に適応する必要から「自己」と「他者」と「外界」を区別できるように集中神経(脳)を進化させて「意識」(「自己」と「他者」と「外界」の区別とそれらの関係性の構築:世界モデルの生成)を獲得しました。意識とは自分が何かを体験しているという主観的な感覚とそれを三者関係の中に位置付ける能力を言いますが(自我の発現:メタ認知)、その主観的な感覚として知られているアリストテレスが分類した「五感」に対し、現代では「三十三感 +α」があると考えられています。それらの感覚が単独で又は複数が組み合わされ、環境の変化に適応して千変万化する世界に一つだけの自我を発現させています。このように「感覚」(認知パターンを含む)がなければ「意識」は生まれませんが、脳は生存可能性を高めるために世界モデルを効率的に生成する必要から膨大に入力される感覚(宇宙)のうちのどの「感覚」を「意識」として顕在させるかを選別しており、僅か1%の「感覚」しか「意識」に顕在(観測)しないと考えられています。具体的には、脳の視床下部が「意識」のゲートとして機能し、生存可能性を高めるために重要な感覚(注意の焦点)だけを前頭前野へ送ります。その後、サリエンスネットワーク(前帯状皮質+島皮質)が重要な感覚(注意の焦点)のみを強調することで意識に顕在しますが、環境変化に適応するために注意の焦点を変化させることで同じ種類の感覚でも時に意識に顕在し又は時に顕在せず、様々な環境変化に適応して多彩な自我を発現させています。このように「感覚」から「意識」が生まれ、「意識」が「感覚」を選り選って自我を彩っていますが、前帯状皮質が何かを体験している自分をモニタリングし、これに自らの記憶や感情を結び付けて世界モデルを生成しながら自らのナラティブに組み込んでいます。上述のとおり脳は入力された感覚のうち僅か1%しか「意識」に顕在せず、残りの99%は「意識」の外(無意識又は潜在意識)に眠っていると考えられていますが、現在、文化庁では新しい芸術体験によって残りの99%の感覚を覚醒させて豊かに自我を彩るために「感覚をひらく」プロジェクトを推進しており非常に注目されます。芸術の受容にあたっては、その作品(あなたの世界:オフ・ステージの視点)に自己のアイデンティティをプロジェクションしてナラティブ(わたしたちの世界:オン・ステージの視点→拡張自己)へと昇華し、その芸術体験によって自己のアイデンティティを再構築してインカネーション(わたしの世界:アイデンティティの拡充→自己拡張)することで受肉するというプロセスを踏み、拡張自己(同化)と自己拡張(異化)を往還しながら自己のアイデンティティのアップデートを図ることで「面白い」と感じますが、感覚をひらいて多彩な自我を発現させ、知らない自分と巡り合うことに芸術鑑賞の醍醐味の1つがあると思います。
 
▼三十三感覚+α
三十三間堂には千体を超える千手観音立像が祀られていますが、三十三感覚にも三千世界をひらくために多様な多感覚知覚が道を示しています。
感覚 種類
視覚 光、赤色、緑色、青色
聴覚
嗅覚
味覚 甘味、塩味、酸味、苦味、うま味
触覚 軽い接触、圧力
痛覚 皮膚の痛み、体性痛、内臓痛
平衡感覚 回転加速度、直線加速度
身体感覚 固有受容感覚:関節位置、筋紡錘:筋肉伸び、ゴルジ腱器官:筋肉張力
温度感覚 熱感、冷感
生体感覚 動脈血圧、中心静脈血圧、頭部の血液温度、血中酸素濃度、脳脊髄液のpH、喉の渇き、空腹感、肺の膨張、尿意、満腹感
+α
時間感覚 光の明暗に同期する体内時計
方向感覚 地球の磁場を感じる能力
フェロモン感受性 化学的シグナルによる行動変化
触覚拡張 触覚による空間把
握嗅覚超高精度性 1兆種類の匂いの識別
 
▼感覚と意識の関係性
前回のブログ記事でも簡単に触れた「休眠モード」→「覚醒モード」→「意識モード」という進化生物学の世界観を題材に、感覚と意識の関係性を「感覚」という種が蒔かれ、「意識」という実を結び、「自我」という花を咲かせるというプロットに仕立てました。誰かこれに曲を付けて貰えませんか?(笑)
【感覚】
(休眠モード)
無意識による選別
(注意の焦点)
【感覚意識】
(低次の覚醒モード)
潜在意識による統合
(複数の世界モデルの構築)
潜在意識による選別
(1つの世界モデルが浮上)
【顕在意識】
(高次の覚醒モード)
【自己意識】
(意識モード)
その世界モデルの中の自我(メタ認知)
 
▼クラシック音楽会議2026
【演題】クラシック音楽会議2026
    第1回「音大いって、そのあとどうする?」
【演目】①講演「音楽と世界」
     成田悠輔(経済学者)
    ②演奏
     西村大地、小倉完太、水沼志帆(東京藝大附属高校)
    ③ディスカッションⅠ「セルフブランディングの重要性」
     小針侑也(桐朋学園大学カレッジディプロマコース在籍)
     篠田大介(東京藝術大学音楽学部作曲科卒業)
     高松亜衣(東京藝術大学器楽科卒業)
     中井恒仁(桐朋学園大学教授)
     永藤まな(TBS「THE TIME,」レギュラー)
    ④ディスカッションⅡ「進路・キャリアの情報収集」
     浦田拳一(東京藝術大学ファゴット専攻卒業)
     岡本彩(東京藝術大学声楽科卒業)
     笹森壮大(桐朋学園女子高等学校音楽科卒)
     白鳥さゆり(大阪教育大学卒)
     富塚絵美(東京藝術大学のキャリア支援教員)
     川嶋由美子(doda副編集長)
【司会】高橋弘樹、堀井美香
【日時】2026年3月28日(日)12:00~
【会場】立教大学 池袋キャンパス9号館9000教室
【一言感想】
クラシック音楽会議2026の開催趣意として「近年、クラシック音楽業界は大きな転換期を迎えています。(中略)従来の活動様式だけでは、変わりゆく社会のニーズに応え、アートフォームとしての価値を守り高めることが難しくなりつつあります。(中略)この変革期における喫緊の課題を乗り越え、業界全体を次のステージへ導くための羅針盤となるべく企画されました。」と記載されていますが、もはやクラシック音楽は「オワコン」だと囁かれる状況があるなかで、この分野をアップグレードするための戦略会議のようなので聴講することにしました。「変わらないために変わり続ける」「変わり続けなければ変わり果てる」という摂理は芸術も例外ではなく、労使が一体となって時代に適応して行けなけば淘汰されます(ページ末尾の囲み記事:クラシック音楽統計2026を参照)。
 
 
①講演「音楽と世界」
音楽と言葉の関係やバベルの塔の逸話などの話題を採り上げながら音楽の正体について取り留めのない話が続きましたが、前回のブログ記事でも触れたとおり、音楽は生(熱狂)と死(救済)の狭間にあるものだという音楽観(即ち、魂振の楽と魂鎮の楽)は首肯できるものでした。そのうえで、成田さんのXツイートを引用しながら世界中のライブ、ストリーミング、CDなどの全媒体を対象にしてクラシック、ポップス、ロックなどの全ジャンルを総合した音楽業界の年間売上額が総額で10兆円未満であり、これは三菱商事1社の年間売上額よりも低いという統計データを紹介したうえで、「音楽は赤い海」(血の海)であると結論付けるなど、成田節が冴え渡るウィットとアイロニーに彩られた講演を楽しめました。成田さんは、芸術家の存在意義は社会の価値観に衝突してそれらを解体して再構築できることだと語ったうえで、既に創作活動やその他の知的活動はAIに取って代わられ、人間がやらなくても良い時代がやって来ていると看破されていました。この点、若者に偽りの舌で毒リンゴを食べさせて思考を麻痺させる悪魔的な大人が多いなか、嘘や誤魔化しのない時代の真実を語る真摯な姿勢に好感しました。この時代の潮流は良し悪しや好き嫌いの問題ではなく、現代人が逃げられない直視すべき現実だと思います。個人的には、人間は産業革命によって重労働から解放され、AI革命によって労働そのものから解放されようとしているという文脈において、人類の究極の夢を実現するものであるとポジティブに捉えています。その後の質疑応答で、①AIの進化によって著作権は価値を失い、やがて著作権はなくなると考えられることや②芸術家にとってのArt(技術)は価値を持たなくなり、それぞれの芸術家がどのようなストーリーを発信しているかが重視されるようになること(宗教家や政治家などに近い存在)など示唆に富む見解が示され、面白く有意義な話を伺えました。「オワコン」などと破壊的なことを書いてしまうと「オワハラ」だと批判されそうですが、既にアカデミズムの終わりの始まりと言える時代状況があるなかで、音大にとっては試練の時代が本格的に到来していると言えるかもしれません。
 
②演奏
東京藝高の学生による演奏が披露されました。非常に上手な演奏でしたが、やや辛口の感想を残しておきたいと思います。お互いの音をよく聴くのは基本だと思いますが、客席で聴いていると「合わせようとしている」ことが感じられてしまい、やや興覚めしてしまう部分がありました。寧ろ、「崩そうとしている」ような遊び(小狡さではなく演奏を楽しむ感覚、上手く演奏しようという邪心を捨て人外に遊ぶ境地)がないと演奏が退屈に感じられてしまう憾みがあります。芸能の本義は「魂振の楽」にあり、モダニズム(コンクール)的な上手い演奏ではなく、ポスト・モダニズム(音楽賞)的な面白い演奏に聴衆は惹かれるのではないかと思いますが、映画「ドラゴン・キングダム」の名言「型を学んで、型を追わず」のとおり(音高に入る前に型を仕上げているのではなく音高に入ってから型を学んでいる?)、「型無し」や「型通り」のアマチュアリズムではなく「型破り」のプロフェッショナルな演奏を期待しています。
 
③ディスカッションⅠ「セルフブランディングの重要性」
生き残りを掛けて自分の特色をアピールするためのSNSの活用術などセルフブランディングの実情について涙ながらの話が伺えました。東京藝大などを卒業してもクラシック音楽だけで食べて行くことは難しいらしく、厳しい現実が語られていたのが印象的でした。確かに会社にも音楽活動を続けながら派遣社員として活躍している音大卒の方の姿は珍しくありません。この点、音大卒だからと言って一般大卒と比べて実務力が劣るとか、その一方で、一般大卒と比べて創造力が優れているということはなく、良くも悪くも普通なのでご安心下さい。セルフブランディングは芸術家だけに重要なものではなく、当然に一般社会人にも重要なものであり、芸術家としてのセルフブランディングの経験は一般社会人としても有用なものなので、その経験は強みとして活かせるのではないかと思います。
 
④ディスカッションⅡ「進路・キャリアの情報収集」
ミュジキャリを運営されている白鳥さゆりさんによれば、音大を出て音楽だけで食べて行ける人は0.05%のみで殆どの人が何らかの形で他の職業に就いている実情が紹介されました。その一方で、音大には他の職業に就職することに後ろめたい雰囲気があるそうで、音大の就職支援も望めない実態があることが紹介されました。企業の立場から言えば、音大だから面接で落とすということはなく、これまで何をやってきたのか、これから何をやりたいのか、それらが会社の方向性と親和的であれば採用意欲はあると思いますので、ミュジキャリのような専門業者を活用してみるのも良いかもしれません。東京藝大声楽科卒の岡本彩さんは文化庁に就職され、ユネスコへの栄転が決まっているそうですが、流石は声楽科卒だけあって非常に訴求力の高いプレゼンが印象的でしたので、是非、これまでの経験を活かして文化の発展、醸成にご尽力頂くことを期待しています。なお、(岡本さんとは別の方の発言を拝聴していると)未だ東京藝大にはまるでP.ブーレーズのような芸術至上主義的な考え方(芸術の自律性)を信奉している人がいることに正直驚かされました。どの時代も芸術は社会と共に育まれてきたと思いますが(芸術の社会性:「音楽の目的は神の栄光と人々の楽しみである」(バッハ)、「人々が喜んでくれる音楽を書きたい」(モーツァルト)、「私は万人のために書く」(ベートーベン)、「芸術は民衆のものである」(ワグナー)、「芸術家は社会から逃げることはできない」(ショスタコーヴィチ)、「芸術は社会の中で機能するときにのみ生きる」(ストラビンスキー)、「芸術は社会の外側に存在することはできない」(アデス)、「芸術は社会の現実に応答しなければならない」(アダムズ)など)、芸術の社会性と創作意欲の相克で凌ぎを削れることを放棄したもの(マスターベーション)にどのような価値を見出すことができるのか理解に苦しみます。なお、これからの日本は少子化対策貧困家庭問題などの深刻な社会問題に対応するためにお金が足りない状況にあるなかで、日本の伝統芸術を保護するために日本の税金を活用するのであれば兎も角としても、(冷たいことを言うようですが)本当に日本の税金を投入してヨーロッパの伝統芸術まで保護する許容性があるのかについては議論の余地がある問題ではないかと思います。芸術の社会性よりも芸術の自律性を重視する立場をとられるのであれば、端から社会支援に頼ろうとする姿勢は自己矛盾のようにも感じられます。現代における音楽の意義は多様になっており、単に旧来型の音楽家を養成することに留まらず、多様な社会ニーズ(企業ニーズを含む)に応えて行けるような人材の育成に意を尽くして行く必要もあるのではないかと思われ(国立大学であれば尚更に)、その意味で、もう少し柔軟な考え方に切り替えて行かないと猿山の大将になり兼ねないように感じますが、いかが?
 
 
▼BLOOM Festival 2026
【演題】BLOOM Festival 2026
【演目】JUST MESSIAEN 鳥たちの天国
    ①O.メシアン 時の終わりのための四重奏曲
     <語り>秋田かおる
     <Cl>コハーン・イシュトヴァーン
     <Vn>滝千春
     <Vc>山本裕康
     <Pf>西本夏生
     <Danz>土田貴好、小倉藍歌
    未来が咲く瞬間を。チェロよ、歌え!
    ②J.S.バッハ 無伴奏チェロ組曲第1番より「プレリュード」
     <Vc>山本裕康
    ③F.ハイドン ディヴェルティメント第1楽章
     <Vc>佐藤玖哉、堀内真名、進野由記
    ④P.ヒンデミット 無伴奏チェロソナタより第4、5楽章
     <Vc>小粥麻莉菜
    ⑤G.リゲティ 無伴奏チェロソナタ
     <Vc>藤原寛太
    ⑥G.マッソリ チェロよ、歌え!
     <Vc>岸田晄輔(ソロ)、梶原葉子(ソロ)
         藤原寛太、小粥麻莉菜、堀内真名
         進野由記、佐藤玖哉、山本裕康    
【日時】2026年3月29日(日)10:00~
    2026年3月29日(日)13:00~
【会場】東京音楽大学 TCMホール
【一言感想】
3月27日(金)から3月29日(日)までの3日間に亘って代官山界隈で、未来を担う子供達がアートに触れる機会を無料で届けること及びそれにより次世代にアートを継承することを趣意とするBLOOM Festhival 2026が開催されており、0歳から15歳までは無料、25歳以下は半額で参加することができる意欲的なフェスティバルでした。しかも、クラシック作品(第一次世界大戦前)に留まらず、コンテンポラリー作品(第一次世界大戦後)を積極的に採り上げている点が特徴で、大人に比べて認知バイアスが少ない子供達はコンテンポラリー作品を柔軟に受容できる可能性を秘めており、将来のアートを育むうえで効果的な取組みであるように感じられました。丁度、目黒川の桜が満開で、代官山界隈は春休みの親子連れで大変な賑いでした。
 
▼東京音楽大学代官山キャンパス
東京音楽大学代官山キャンパスは塀で仕切られることなく、その敷地の中央に代官山と目黒川を結ぶ階段が通じており、大学が街に開かれ、街の営みに溶け込むように設計されている印象を受けます。常に芸術は社会と接続し、社会と共に育まれてきたことを体現する魅力的なキャンパスです。
剪定された
目黒川のハゲ桜
代官山の中腹の
TMC
まろやかな残響の
TMCホール
TMC画廊に咲く
玉咲姫花忍(星智)
 
①時の終わりのための四重奏曲
ヴラヴィー!!この曲は、O.メシアンが第二次世界大戦下でナチス・ドイツ軍の捕虜としてゲルリッツ捕虜収容所に収容されていた際にヨハネの黙示録10章(ヨハネの黙示録は神の裁きにより世界の構造的な悪を浄化して世界を再創造することを趣意とし、その裁きの意味を預言者に理解させるための章)をテーマにして作曲されたものですが、さながら預言者(演奏者)が神の言葉(作曲家の世界観)を民衆(聴衆)に伝えるように、この曲の世界観を子供達にも想像し易い動物達の寓話に翻案し、語りとダンスを交えた音楽劇として上演されました。朝公演「鳥たちの天国」と夜公演「闇の中に祈りの音が響く」という2つの異なる演出で上演されましたが、朝公演を視聴しました。上述のような「音楽は進歩しなければならない。理解されるかどうかは問題ではない。」という前衛主義的な独り善がりな態度(前者のために後者を放棄する安易さ=閉じた自己完結(表現者のマスターベーション))に陥ることなく、それをどのように聴衆に受容して貰うのか一段と高い志のために意を尽くす態度(前者と後者を両立させようとする厳しさ=開かれた交感(表現者と聴衆のセックス))が素晴らしく、そこに真のプロフェッショナリズム=表現者の存在意義を感じます。
 
1.水晶の典礼
冒頭、舞台俳優の秋田かおるさんが黒いフード付きのローブを着用した修道士風の姿で登場し、(おそらく第二次世界大戦の時代状況とイメージを重ねて)「黒い雨が時間を凍らせ、鉄の狼が煙の柵で森を囲む。」と詩的なナレーションを語りました。ピアノが時間を凍らせるような透明感のある神秘的な和音、チェロが時間を凍らせた世界を体現するような浮遊感のあるグリッサンドを奏でるなか、ヴァイオリンがクロウタドリの歌、クラリネットがナイチンゲールの歌を自由なリズムで繰り返して永遠な自由を体現していましたが、ダンサーの土田貴好さんと小倉藍歌さんが同じく黒いフード付きのローブを着用した修道士風の姿で登場して鳥たちの歌(自由なリズム)をダンスで表現していました。音楽的なイメージを立体的な動き(フォルム)にすることで、子供達のインスピレーションを刺激する工夫が面白く感じられました。
 
2.世の終わりを告げる天使のためのヴォカリーズ
冒頭、秋田さんが「鉄の狼は数に合わない動物達を鉄の柵に閉じ込める。動物達は声を潜めて物語を語り合うと、色が戻る。」と詩的なナレーションを語りました。ピアノが激しいタッチで奏でるリズムに触発されるようにクラリネットが狂乱する鳥たちを描き、その切迫した様子をヴァイオリンとチェロがテンションの高いリズムで表現していましたが、やがてピアノが鐘の響き(世の終わりを告げる天使のメタファー)を連想させる硬質な和音を繰り返すなかをヴァイオリンとチェロが幻想的な旋律をユニゾンで奏でる穏やかな音楽に転じ(救済)、再び、狂乱の音楽(構造的な悪)で締め括られました。ダンサーの小倉さんの雄弁にパフォーマンスによって柵に閉じ込められた動物達の様子が迫真をもって表現されていました。
 
3.鳥たちの深淵
冒頭、秋田さんが「鳥は歌で暗闇を渡る虹の橋を架け、鉄の狼は『歌で鉄が壊せるか』と笑いますが、鳥は『鉄も永遠の前で錆びる』ことを知っていた。」と詩的なナレーションを語りました。クラリネットが奏でる静謐な調べが限りない静寂へと回収され、再び、その静寂の中から幽けき音が立ち上がり長いクレッシェンド(虹の橋)から鳥たちの歌が生まれる様子が奏でられているようでしたが、その音に誘われるようなダンサーの土田さんのパフォーマンスは神の威光が地へと振り注ぐ深淵な世界観を体現しているようであり、さながら何者かが憑依する能の舞を連想されるもので惹き込まれました。TMCホールのクリアで包容力のある残響が音楽的な効果を一層のものとしていたことも特筆されます。
 
4.間奏曲
冒頭、秋田さんが「鉄の狼は動物達を行進させた。4人の仲間はもう一つの世界のリズムを踏み鳴らし、次第に大きくなっていった。」と詩的なナレーションを語りました。ヴァイオリン、チェロ、クラリネットの快活な演奏に合わせて、ダンサーの土田さん、小倉さんの激しいダンスが展開されました。
 
5.イエスの永遠性への賛歌
冒頭、秋田さんが「天使が『もはや時間はない。ただ愛だけがある。』と告げ、動物達は泣いた。」と詩的なナレーションを語りました。ピアノが奏でる静謐な和音のなか、チェロが祈りを思わせる息の長い旋律を朗々と紡ぎ、やがて静寂へと回収されて行く深い余韻を湛えた終曲が永遠性を体現しているようで惹き込まれました。ダンサーの土田さん、小倉さんは天に向かって静かに祈り上げるようなダンスを展開する息を呑む美しいピースが印象的でした。
 
6.7つのトランペットのための狂乱の踊り
冒頭、秋田さんが「鉄の狼は更に大きな機械を作り空は真っ赤に燃えた。動物達は恐れに屈しないために踊り始めた。」と詩的なナレーションを語りました。ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、クラリネットがユニゾンで力強いリズムによるテンションの高いアンサンブルが奏でられましたが、その音楽に合わせてダンスの土田さん、小倉さんによる狂乱のパフォーマンスが展開されました。非可逆リズム(可逆リズムは過去から未来へと流れる人間の時間、非可逆リズムは回文構造による終わりも始まりもない神の時間)が刻印される印象的なピースでした。
 
7.世の終わりを告げる天使のための虹の混乱
冒頭、秋田さんが「嵐が去って壊れた柵の間から虹が現われ、動物達は虹を辿った。歌のように響いていた。」と詩的なナレーションを語りました。ピアノとチェロが第5曲目のモチーフを回帰した後に、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、クラリネットが世界の構造的な悪の崩壊を象徴するように切迫感のある音楽を奏でましたが、この世界の構造的な悪の崩壊が世界の諸相に及んで行く様子を表現するように編成や奏法を変えながら繰り替えされました。なお、この楽章はダンスがなく器楽のみの舞台でした。
 
8.イエスの不滅性への賛歌
冒頭、秋田さんが「風邪が森を通り抜けるとき、鳥の声が聞こえる。世界は時の外側にある。」と詩的なナレーションを語りました。ピアノが透明感のある和音を奏でるなか、ヴァイオリンがこの世ならざる美しさを湛えて祈り上げる演奏に鳥肌が立ちました。ダンスの小倉さんが横たわる周りを土田さんが花びらを撒きながら回りましたが、これは永遠性や不滅性の象徴しているように感じられ、日本の無常美に対する西洋の永遠美を堪能できる舞台を楽しめました。このプロダクションは非常に完成度が高く一回限りの公演では非常に勿体ないと思いますので、再演の機会に恵まれることを願います。
 
④P.ヒンデミット 無伴奏チェロソナタより第4、5楽章
チェロ音楽の変遷を俯瞰するという趣向として、②バロック音楽~約100年~③古典派音楽~約100年~④現代音楽の順番で演奏されました。以下の囲み記事で紹介しているとおりバロック音楽や古典派音楽は聴き飽きましたので、現代音楽の感想のみを簡単に残しておきたいと思います。ヒンデミットの無伴奏チェロソナタでは第4楽章のストイックで軽やかな曲調と第5楽章の彫り深い重厚な曲調が鮮やかに対照され、構造美が際立つ明晰な演奏を楽しめました。バッハの無伴奏チェロ組曲が神の絶対的秩序を体現する天界を仰ぎ見るような音楽という印象を受けるのに対し、ヒンデミットの無伴奏チェロソナタは社会を形成する相対的秩序を地に刻み付けるような音楽という印象を受けるもので、それぞれの時代性を象徴するものに感じられる面白い対比になっていました。
 
⑤G.リゲティ 無伴奏チェロソナタ
ヴラヴォ―!!こうして並べて聴いてくると、丁度、リゲティの無伴奏チェロソナタはバッハの無伴奏チェロ組曲とヒンデミットの無伴奏チェロソナタの両方の性格を併せ持つ音楽に聴こえて非常に面白く感じられました。何度か楽曲の途中に挟まれるピッチカートのグリッサンドはタイムトラベルのようにも感じられましたが、前半は重厚な曲調から軽快な曲調へと転調し、モチーフを拡張しながら拡張高く歌うチェロはバッハの無伴奏チェロ組曲を連想させる肌触り感があり、ピッチカートのグリッサンドを挟んで、後半は緩急を織り交ぜながら忙しなく肌理の詰まった忙しないパッセージを快速調で駆け抜けるチェロはヒンデミットの無伴奏チェロソナタの肌触り感があるもので、最後はピッチカートのグリッサンドを繰り返しながらバッハとヒンデミットが交互に顔を見せる寸劇のようにも感じられて非常に面白く感じられました。藤原寛太さんの演奏を聴くのは初めてですが、おそらく山本門下生のエース級と思われ、慟哭する深い低音からノーブルな高音まで音色のあしらいが巧みな印象で、快活な中にもデリカシーを併せ持ち自在にチェロを歌わせる雄弁で情理に通じた秀演に感じられました。このままどこかのコンクールに持って行けば入賞間違いなしと思われるような高い音楽性とそれを下支えする確かな技巧が感じられました。
 
⑥G.マッソリ チェロよ、歌え!
最後は、G.マッソリの「チェロよ、歌え!」が採り上げられる心憎い演目構成で、戦後遺症に苦しんだ気難しい20世紀音楽を超克して、垢抜けた21世紀音楽へとブレークスルーする時代感覚を象徴する演目に感じられ、チェロ音楽の1つの現在地を示す趣向でした。山本さんがG.ソッリマの言葉「生きるとは、心の底から歌うことだ」を紹介されていましたが、自己犠牲を美徳とするガンダム世代から世代間の摩擦(ハラスメント)を経て自己実現を信条とするワンピース世代の心に響く言葉にも感じられます。人間の声域に最も近い楽器であるチェロの豊かな表現力を活かして多彩なニュアンス(微分音も使われている?)で彩る有機的なチェロ・アンサンブルは力強い推進力で感興に乗じた自在な演奏を展開し、これに触発されるようにソリストの岸田晄輔さんと梶原葉子梶原さんはグルーブ感や即興感のある好パフォーマンスで応えて、最後はアッチェレランドしながらロック張りの燃焼度の高い演奏を楽しめました。バッハ(神)、ハイドン(貴族)からマッソリ(大衆)へと至る音楽歴史劇にも感じられて大変に楽しめました。
 
 
▼深見まどかピアノリサイタル2026
【演題】深見まどかピアノリサイタル2026
【演目】第一部 武満に影響を与えた作品
    ①F.モンポウ 前奏曲第5番
    ②F.ショパン 24の前奏曲
    ③C.ドビュッシー 
       12の練習曲より組み合わされたアルペジオのための
    第二部 武満徹ピアノ作品(1940-70年代)
    ④ロマンス(1948)
    ⑤サーカスにて(1952)
    ⑥遮られない休息(1952)
    ⑦ピアノ・ディスタンス(1961)
    ⑧ピアニストのためのコロナ(1962)
    ⑨フォー・アウェイ(1973)
    ⑩こどものためのピアノ小品(1978)
    第三部 武満徹ピアノ作品(1980-90年代)
    ⑪閉じた眼-瀧口修造を追憶して(1979)
    ⑫雨の樹素描(1982)
    ⑬閉じた眼Ⅱ(1988)
    ⑭リタニー~マイケル・ヴァイナーの追憶に(1950/89)
    ⑮雨の樹素描Ⅱ~オリヴィエ・メシアンの追憶に(1992)
【演奏】<Pf>深見まどか
【キュレーション】小野光子(音楽学者)
【日時】2026年4月5日(日)14:00~
【会場】王子ホール
【一言感想】
ヴラヴァー!武満徹さんのピアノ独奏曲チクルスが開催されるというので聴きに行ってきました。このような演奏会が日本でも開催される時代がやって来たことを嬉しく思います。武満徹さんは若い頃にF.モンポウのピアノ作品(とりわけ「ひそやかな音楽」)を好んで聴いていたというエピソードは有名ですが、その音楽的な美学に共通するものが多いように感じられ、非常に興味深いプログラムになっていたように思われます。
 
王子製紙の木製ムーミン像✕雨の樹素描と本日の演奏会で使用されたトイピアノ
 
▼第一部 武満に影響を与えた作品
武満徹さんは15歳のときに戦時体制下の勤務動員で知り合った学徒出陣の見習士官から敵性音楽として禁じられていたボワイエ・リュシエンヌが歌うシャンソン「パルレ・モア・ダムール」のレコ―ドを聴かされて衝撃を受けたことが音楽家を志望する直接の動機になったそうですが、武満さんの父親はジャズ愛好家、母親は筝演奏家でしたので、もともと音楽的な素養をお持ちだったと言えるかもしれません。武満さんは清瀬保二さんのヴァイオリン・ソナタ第1番に感動して師事したそうですが、清瀬さんは武満さんの個性を尊重して作曲の指導は殆ど行わず、武満さんは独学で作曲家として大成したそうです。清瀬さんは武満さんの個性に合いそうな作曲家を選んでその楽譜を貸していたそうですが、そのうち1人にスペイン人作曲家のフェデリコ・モンポウがいて、武満さんはF.モンポウの曲を気に入り影響を受けたそうです。その後、武満さんは東京音楽学校(現、東京藝術大学)の作曲科を受験し、その受験科目として最も簡単であるという理由からフレデリック・ショパンの「24の前奏曲」を選曲したそうですが、東京音楽学校で作曲を学ぶことに違和を覚えて途中で試験を放棄したという逸話は有名です。このことが武満さんの才能をアカデミズムという金魚鉢(時代の認知バイアス)に閉じ込めることなく、西も東もない、無調も調性もない、芸術も商業もない、それらの時代の認知バイアスから解放された大海原を、まるで鯨のように優雅に泳いで魅せた規格外の作曲家だったように感じられます。個人的には、本日のプログラムは武満さんの人生の転機(金魚鉢からの逃走)をモンポウ(沈黙)とドビュッシー(音)が挟むというシニカルな構成になっているようにも感じられて興味深く拝聴しました。宇宙は絶対性(神)ではなく相対性関係)で成り立っていますが、個人的には、武満さんの音楽にも通底する世界観を感じます。F.ショパンは機能和声の極致にあってその筆致は様式(文脈)に縛られず自由な和声(感性)へと音楽を解き放ち、C.ドビュッシーは機能和声からも自由になってその筆致は和声から音響(色彩)へと音楽を洗練し、F.モンポウは音響からその揺らぎや沈黙(気配)へと音楽を拡張したように感じられ、過去のブログ記事でも触れましたが、これらを和魂洋才の精神(母性原理)で調和して魅せたのが武満さんの音楽ではないかと感じます。その意味では、F.ショパン→C.ドビュッシー→F.モンポウ→武満さんと時代順に追うのがしっくり来ますので、その順番で感想を簡単に残しておます。
 
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「西も東もない海を泳ぎたい」
(東京オペラシティーコンサートホール:タケミツメモリアルの銘板)
 
②24の前奏曲
全曲を1つの作品として通して聴くのは20年振りですが、こうして深見さんの洞察力の鋭い演奏で聴き直してみると、音が文脈(機能)に組み込まれながらも1つ1つの音響(和声)そのものが重要な働きを担っている曲であることが分かり、それによって各ピースのキャラクターが際立つ感性豊かな好演(上記のブログ記事に擬えて言えば感覚をひらくような聴感)を楽しめました。L.ベートーヴェンのようにクドクドと語り掛けてくるような暑苦しさはなく、ある音響から次の音響に移る「間」に詩情が宿り、それが花の香りように時に優雅に、時に情熱的に聴衆を包み込む心地良さが感じられる薫り高い演奏を楽しめました。
③12の練習曲
音が文脈(機能)から解放され、1つ1つの磨き上げられた音響(音粒)が色彩を放ちながら自在に舞い散っているような幻想美を堪能できました。約20年前にA.チッコリーニさんが東京文化会館でC.ドビュッシーの「花火」を演奏したときの奇跡の音響を思い出しながら聴き入りました。
①前奏曲第5番
音が文脈(機能)から解放され、音の戯れと形容したくなるような自由なあしらいが魅力的で、その音響は微風に撫でられるように優しく揺らぎ、やがて静寂へと溶け込むように消え入る儚さ(気配)が魅力的に感じられました。過去のブログ記事で触れたとおり、社会の文脈に囚われていたガンダム世代(自己犠牲)を経て社会の文脈から解放されて個を生き始めたワンピース世代(自己実現)へとパラダイムシフトし、石田衣良さんの小説「眠れぬ真珠」に描かれているようなフライジャイルな現代人の感性を体現しているようにも感じられて非常に興味深かったです。
 
▼第二部 武満徹ピアノ作品(1940~70年代)
④ロマンス(1948)
演奏指示である「アダージョ・ソステヌート」(音を十分に保って)と「ノビーレ・エ・フネブレ」(気高く悲しげに)のとおり、哀愁を湛えた響きが空間に焚き染められ、その響きの余韻を追いながら、やがて5音音階のノスタルジックな旋律に包まれて感情的な高まりを見せますが、再び、静かに曲で締め括られました。F.ショパンを彷彿とさせる音楽ですが、既に武満さんの晩年の作品の特徴も現れているように感じられます。
⑤サーカスにて(1952)
この曲は雑誌「美術手帖」(1952年6月号)でサーカス特集が組まれた際に作曲されたらしく、その楽譜の冒頭部分のみが雑誌に掲載されて残されているそうです。本日はその残されている楽譜を深見さんが補筆完成した版が演奏されましたが、快活な跳躍音の賑々しい音楽で、深見さんの補筆部分がトイピアノを使ってチャーミングに演奏されました。なお、未だに「芸術音楽」=崇高、「商業音楽」=陳腐という認知バイアスを信奉している旧人類を見掛けることがありますが、(それぞれの自由ではありますが)新興宗教の被害者の姿と重なって不憫に感じられます。
⑥遮られない休息(1952)
実験工房を主宰した詩人・瀧口修造さんの詩画集「妖精の距離」に収録されている「遮られない休息」に武満さんが作曲したものです。第1曲「ゆっくりと悲しく、語りかけるように」(1952年)、第2曲「静かに残酷な響きで」(1959年)、第3曲「愛のうた」(1959年)が作曲され、第3曲はアルバン・ベルクに捧げられています。第1曲は何かを語り掛けられているような曲調の音楽が展開されましたが、全体を通して無機質な響きが支配する深い静けさに包まれた曲であり、正直、人により好みが分かれるかもしれません。
⑦ピアノ・ディスタンス(1961)
ピアニスト・高橋悠治さんのために書かれた曲ですが、ディスタンスの語源である「離れて(dis-)」+「立つ(stare)」のとおり、2つのストイックな音(色)が距離を持つことから生まれる「間」(空)に緊張や沈黙が宿って「間」(空)が音楽を支配しましたが、さながらシテ、ワキ、囃子が織り成す能舞台を体現しているような音楽に感じられて楽しめました。
⑧ピアニストのためのコロナ(1962)
過去のブログ記事でコロナ禍の緊急事態宣言の憂さを晴らすためにこの曲について投稿したことを思い出しましたが、この曲は青、赤、灰、黄、白の5色のシートに同心円に描かれた図形楽譜が使用され、演奏者はそれぞれのシートのどこかに切り込みを入れて組み合わせ、その図形の色と形に感応しながら即興的に演奏します。本日の演奏ではプリペアドピアノを用意することができなかったので、その代わりに2種類のトイピアノが使用されました。硬質な音粒とソフトテヌートペダルの残響が織り成す武満さんの音楽に、内部奏法を代用するためのトイピアノの響きが加わって生まれるユーモラスな風合いが非常に新鮮に感じられました。
⑨フォー・アウェイ(1973)
1967年に小澤征爾さんの指揮でニューヨークフィルにより「ノヴェンバー・ステップス」の初演が成功した後に作曲された作品です。この曲はガムラン音楽の影響を受けているそうですが、硬質な音粒とソフトテヌートペダルの残響が織り成す武満さんの音響設計にガムラン音楽の奥行きが加わって「間」が空間的な広がりを持つように感じられる面白い演奏が聴けました。あまり武満さんの曲を年代順に並べて聴く機会がないので、こうして全曲を通して聴いてみるとその作風の変遷を俯瞰できて貴重な体験になりました。
⑩こどものためのピアノ小品(1978)
NHK教育テレビ「ピアノのおけいこ」のために作曲された非常に可愛らしいピースで、さながら揺り篭に揺られているような心地よさがあり、「頭や指で弾く音楽」ではなく「体で感じる音楽」を習うための曲であるように感じられます。深見さんが茶目っ気たっぷりな演奏で楽しませてくれました。
 
▼第三部 武満徹ピアノ作品(1980-90年代)
⑪閉じた眼-瀧口修造を追憶して(1979)
この曲は、武満さんが1968年にシカゴ美術館で鑑賞したフランス人画家オディロン・ルドンの「閉じた眼」に着想を得て作曲されました。以下の囲み記事でも触れたとおり、この曲を含む第三部では粒際立った硬質なタッチから生まれる光沢感のある響きがソステヌートペダルのデリケートなあしらいによって淡い霞へと儚く解けて行き、やがて限りない静寂(沈黙)へと回収されて行く、武満徹さんの「音、沈黙と測りあえるほどに」の世界観を体現する演奏が続くもので白眉でした。どこかで深見さんが「さわり」について触れられているのを思い出しましたが、ソステアートペダルから生まれるピアノの「さわり」が印象深く使用され、その感触が余韻にグラデーションを与えているように感じられました。
⑬閉じた眼Ⅱ(1988
上記の「閉じた眼-瀧口修造を追憶して」では記憶の残照が彼方(低音)へと消え入るような余韻深い演奏でしたが、「閉じた眼Ⅱ」ではさながら記憶の残照を追うように幽けき音から音像(高音)が浮かび上がってくるようなイメージが対照されているように感じられて面白い演奏を楽しめました。
⑭リタニー~マイケル・ヴァイナーの追憶に(1950/89)
この曲は、武満さんがO.メシアンの影響を受けてその作風に色彩を帯びるようになった時期に「二つのレント」というタイトルで作曲された曲で、第1曲「アダージョ・エ・テンポ・ディ・リベロ」(ゆっくりとしたテンポルバート)、第2曲「レント・ミステリオーサメンテ」(遅く神秘的に)から構成されます。その後、1889年にタイトルを「リタニ」に改めて編曲しています。さながら香を焚き染めるように空間に響きが澄み渡る、内省的・思索的な演奏を楽しめました。
雨の樹素描(1982)
この曲は武満さんが大江健三郎さんの小説「頭のいい「雨の木」」に着想を得て作曲し、大江さんがこの曲の初演に着想を得て小説「「雨の木」を聴く女たち」を執筆したという逸話は有名です。武満さんは木の生命力から宇宙樹へ、雨から宇宙を循環する水へとイメージを膨らませて作曲したと言われていますが、僕は「宇宙」と力まずに、雨の降る森で大樹を仰ぎ見る顔に雨雫を浴びているような等身大のイメージを膨らませながら心で音楽を浴びるように聴くのが好きです。粒際立ったタッチにより大樹を滑り落ちる雨雫が美しく描写され、雨、風、光、葉などの移ろいがニュアンス豊かな音の情景として展開されて行くような音のスケッチとも言うべき好演に魅了されました。
雨の樹素描Ⅱ~オリヴィエ・メシアンの追憶に(1992)
武満さんは音を探し続けた作曲家ですが、雨雫が滴る1音が持つ神秘的な煌きは1音成仏の世界観に通底する深い精神性を体現しているように感じられ、日本の無常美とO.メシアンの永遠美が交錯しているような1音1音が研ぎ澄まされたピアノという楽器が持つ美観が極まる好演を楽しめました。
 
深見まどかさんは、務川彗悟さん(チケットが取れません)などと共に次の時代を拓く「」の1人として注目しているピアニストです。演奏家が楽譜からどのように音楽を紡ぎ出して行くのかその試行錯誤が収録されている動画が公開されており大変に興味深いのでアップしておきます。聴衆は演奏の総体から受ける音楽の世界観を受容していますが、その世界観を紡ぎ出すために繊細に注意深く楽譜と対話するピアニストの姿を垣間見ることができます。本日の演奏会では粒際立った硬質なタッチから生まれる光沢感のある響きがソステヌートペダルのデリケートなあしらいによって淡い霞へと儚く解けて行き、やがて限りない静寂(沈黙)へと回収されて行く・・・武満徹さんの「音、沈黙と測りあえるほどに」の世界観を体現する演奏が白眉でした。
 
 
▼Owl Piano Quintet Vol.11
【演題】Owl Piano Quintet Vol.11
    ロマン派から現代へ
【演目】①ヘルマン・ゲッツ ピアノ五重奏曲ハ短調
    ②ジェラルド・レシュ ピアノ五重奏のための「池と泉」(日本初演)
    ③高橋幸代 ピアノ五重奏のための「BERLIN 1920s」
    ④ステファン・シェーファー ピアノ五重奏曲「ふくろう」
【演奏】アウル・ピアノ・クインテット
    <Vn>高橋和歌
    <Va>恵藤あゆ
    <Vc>櫻井慶喜
    <Cb>中村勇一
    <Pf>柴田かんな
【日時】2026年4月19日(日)14:00~
【会場】豊洲シビックセンターホール
【一言感想】
日本の弦楽四重奏団が現代音楽を採り上げることは非常に珍しい状況にありますが、この演奏会では全4曲中3曲が現代音楽という意欲的なプログラムになっているので聴きに行くことにしました。アウル・ピアノ・クインテットはハンブルグ・フィルハーモニー管弦楽団のコントラバス首席奏者ステファン・シェーファーさんのピアノ五重奏曲「ふくろう」が名前の由来になっているそうですが、アウルとはフクロウの鳴き声を模した擬音語(古英語)です。
 
舞台までの距離が近いので、壁面と天上の響板は音響が回り込むように設えられています。
 
①ピアノ五重奏曲ハ短調
19世紀の作曲家、ヘルマン・ゲッツのピアノ・クインテットは初聴でしたが、F.シューベルトのピアノ・クインテット「鱒」と同じくコントラバスを加えて響きに厚みを増した編成になっています。第一楽章では5つの楽器が有機的に絡み合う非常にバランスの良いアンサンブルが展開され、何を聴かせたいのか表現意図が明確な演奏を楽しむことができました。第二楽章では憧憬感を湛えた叙情性豊かな演奏が展開されましたが、ピアノが光沢感のある柔らかい音粒を軽やかに響かせる好パフォーマンスが出色で、コントラバスの陰影のある響きが高弦と対照され、アンサンブルの明暗に深いコントラストを生む色彩豊かな演奏を楽しめました。第三楽章では久しぶりにロマン臭(渇望)が芬々とする噎せ返るほどの濃厚な力奏が展開され、チェロとピアノのチャーミングに彩る表情豊かな演奏を楽しめました。この曲は、ピアノ・クインテットの編成になっていますが、高弦(ヴァイオリン、ヴィオラ)、低弦(チェロ、コントラバス)、ピアノのピアノ・トリオとも捉え得るシンプルな構造を基調とし、これに弦の響きの厚みを増すことで音楽的な表現の幅を増しているように感じられました。第四楽章では鮮やかな対位法による構築感ある演奏が展開され、推進力のある快活で力強いアンサンブルを楽しめました。ジョン・ケージは(西洋の)アコースティック楽器は調性音楽を奏でるために改良されてきた歴史があり、そのために調性音楽以外の音楽を奏でることに不向きであると語っていますが、前半の文脈において、そのことを得心させられるピアノ・クインテットの美観極まる作品でした。だからこそ、却って後半の文脈においては、エレクトロニクスを含む新しい楽器や特殊奏法による新しい演奏法などにより音楽的な世界観を大幅に拡張する必要があったのだろうと思います。
 
②ピアノ五重奏のための「池と泉」(日本初演)
この曲は、F.シューベルトのピアノ・クインテット「鱒」のモチーフ(のフラグメント)を使って作曲されていますが、F.シューベルトのピアノ・クインテットが食材の輪郭や食感を活かした鱒のポワレであるとすれば、H.ゲッツのピアノ・クインテットは食材に香りと厚みを増した鱒のムニエル、G.レッシュのピアノ・クインテットは食材をミニマルに解体し、現代的な感性で再構成した鱒のソテーといった印象でしょうか。シューベルトのモチーフがフラグメントとして調理されて散りばめられ、どこかユーモラスな風合いや即興感などが感じられるジャズ・テイストの演奏を楽しめました。
 
③ピアノ五重奏のための「BERLIN 1920s」
本日は、会場に作曲家の高橋幸代さんと、この曲の作曲を委嘱したコントラバス奏者の高橋徹さんが見えられていましたが、この二人は夫婦ではないそうで、また、ヴァイオリンの高橋和歌さんとも血縁関係にはないそうなので、偶然に高橋姓が集う奇縁となりました。1920年代のベルリンは第一次世界大戦の敗戦に伴うインフレや政治的緊張、ドイツ啓蒙主義(理性、秩序、進歩等)の破綻の露呈のなか、退廃的なロマンティシズムが蔓延し、ジャズの隆盛やキャバレー文化の爛熟して自由や享楽に溺れていた時代(ナチスが台頭する歴史的危機の前夜)でした。1920年代のベルリンがどんな雰囲気であったのかはよく知りませんが、この作品はダンス、ポップス、バラードなどの音楽的なコラージュで綴る1920年代のベルリンのポートレートという印象の音楽が展開され、さながら映画「ラ・ラ・ランド」で音楽が綴るノスタルジックな雰囲気と形容すれば良いでしょうか(但し、この曲はノスタルジックというより敗退的)、混沌、多様、刺激などが交錯するベルリンの街を彩る風情や人情などの雰囲気がビビットに伝わってくる音楽を楽しめました。
 
④ピアノ五重奏曲「ふくろう」
アウル・ピアノ・クインテットは、クレアこうのすをフランチャイズホールにする弦楽合奏団「アンサンブル鴻巣ヴィルトゥオーゾ」のメンバーで構成されているそうですが、鴻巣の地名は、昔、この地にコウノトリが巣を作って大蛇から卵を守ったという伝説が地名の由来だそうですが、コウノトリ(子宝を運ぶ鳥)とフクロウ(知恵を運ぶ鳥)はいずれも縁起の良い「幸福を運ぶ鳥」と言われており、ヴィルヘルム・ハウフの童話「コウノトリになった王さま」ではコウノトリに変えられた王様とフクロウに変えられたお姫様が登場しますので、この童話をモチーフにした続編も期待したいところです。第一楽章はピアノが不気味な和音を奏でるなかをコントラバスが孤高に歌う様子は闇夜に低く響くフクロウの鳴き声を彷彿とさせるものがあり、このモチーフを受け継いだチェロが音楽的に展開する聴き所になっていました。ヴィジュアルな音響と飛翔感のあるドラマチックなアンサンブルによりフクロウの世界観を活写する面白い演奏を楽しめました。第二楽章は優美で叙情的なアンサンブルが展開され、雄大な自然をイメージさせる母性的な癒しを感じさせる包容力のある演奏に魅せられました。ヴァイオリンの清澄な高音がさながら夜明けをイメージさせる開放感があるもので闇夜と対照されていましたが、NHKの動物番組のBGMにピッタリな印象なので(余計なお世話ですが)NHKにリスクエストしてみました。個人的には、知里幸恵のアイヌ神謡集の序文を思い出しながらイメージを膨らませて聴き入りましたが、ヴィジュアルアートなどと組み合わせて演奏すると臨場感が増して子供達にもより豊かにフクロウの世界観を堪能できるのではないかと思われる懐の広さを感じさせる演奏した。銀のしずく降る降るまわりに、金のしずく降る降るまわりに・・・・🦉第三楽章はジャジーなテイストのグルーブ感のある演奏が展開されましたが、獲物のメタファーなのでしょうかピアノの跳躍感のあるリズムが奏でられるかなかをフクロウのメタファーであるコントラバスの推進力ある演奏が展開され、さながらフクロウの狩猟の様子を描写するような快活な演奏を楽しめました。自然に対する感度を高めて情操を育む作品であるようにも感じられ、アウトリーチ公演などにも適しているように思われます。
 
 
▼クラシック音楽統計2025
先日、イギリスのクラシック情報サイト「バッハトラック」でクラシック音楽統計2025が公表されました。このなかで2025年に開催された演奏会の演目構成比(下表)が紹介されていましたが、現代作品がバロック作品や古典派作品を凌ぐ人気になっており、これが最近の世界的なトレンドになっています。10年以上前からモーツァルトを含む古典作品の演奏機会が漸減傾向にありましたが、一層、そのトレンドが顕著になってきています。おそらく殆どのコンサート・ゴアがそうであったように、ニューカマーの客層もロマン派作品を直ぐに聴き飽きると思いますので、益々、現代作品のプレゼンスは増してくることになるのではないかと思います。その意味では、このジャンルがオワコンになってしまうのか否かは現代作品の魅力次第ということになりそうです。100人の秀才(Talent:答えを磨く力)より1人の天才(Genius:問いを創る力)が新しい時代を拓きますので、時代に埋もれる天才の発現が待望されます。
 
▼2025年に開催された演奏会で採り上げられた演目構成比
分類 器楽 オペラ
バロック 15% 5%
古典派 5% 10%
ロマン派 60% 70%
現代 20% 15%
※上表の数字はトレンドを把握し易いように端数を丸めてあります。
※20世紀初頭(第一次世界大戦以前)の旧世界の作品はロマン派に含めていますが、そのうち19世紀以前の作品は器楽:40%とオペラ:60%、20世紀初期の作品は器楽:20%とオペラ:10%になっています。
 
Bachtrack

Born Creative Festival 2026(ボンクリ・フェス 2026)と新作オペラ「奇跡のプリマ・ドンナ-オペラ歌手・三浦環の「声」を求めて-」(原作・脚本:大石みちこ、作曲:渡辺俊幸)とハンス・ヴェルナー・ヘンツェをめぐる「おと」(日本アルバン・ベルク協会)と日本人の記憶~和洋の音楽でうたう~(J-TRAD Ensemble MAHOROBA)とブログの枕「脳と意識の関係」 <STOP WAR IN UKRAINE>

▼ブログの枕「脳と意識の関係」
前回のブログの枕では進化生物学の観点から休眠と覚醒のコントロールについて簡単に触れましたが、脳や神経を持たない単細胞生物は周囲の水に溶けている水素や糖などのエネルギーを自然に吸収して代謝していたことから「外界」と「自己」を明確に区分しない「休眠モード」をデフォルトにしていましたが、過去のブログ記事でも触れたとおりスノーボールアース(2回目)を契機にして生存戦略(単細胞から多細胞による共生)として神経を持つ多細胞生物が登場し、それによってより多くのエネルギーを効率的に摂取する必要から他の生物を捕食するようになると「外界」と「自己」を明確に区別する「覚醒モード」を発達させました。その後、スノーボールアース(3回目)を契機にして生存戦略(多細胞による多様性)としてカンブリア大爆発が発生すると複雑化した外界の状況を迅速に判断して適切に対応する必要が生じたことから刺激反応を行う分散神経だけではなく状況判断を行う集中神経(脳)を発達させました。さらに、過去のブログ記事でも触れたとおり集団生活などに適応して脳が進化すると「自己」と「外界」を明確に区別するだけではなく「外界」と「集団」と「自己」を区別する「意識モード」を発達させたと言われています(自我の発見:メタ認知)。この点、過去のブログ記事で宗教言語などの文化面からもアプローチを試みていますが、寒冷や乾燥などの地理面から狩猟牧畜を基盤とする肉食を中心とする社会(個人の技量を重視)を基調に発展した西洋文化圏では「集団」を客体化して社会と捉え、「自己」と厳格に区別する「意識モード」を発達させて世界をオフ・ステージの視点で分析的に捉える特徴的な傾向(二元論的な世界観)を備えたのに対し、湿潤などの地理面から農耕採集を基盤とする穀物を中心とする社会(共同体の協力を重視)を基調に発展した東洋文化圏では「集団」を客体化せずに世間と捉え、「自己」と厳格に区別することなく「覚醒モード」を深化させて世界をオン・ステージの視点から関係性で捉える特徴的な傾向(一元論的な世界観)を備えたと言われています。このように地理面や文化面などの多面的な要因により意識の発現の仕方にはグラデーションが生まれたと言えるかもしれません。
 
脳の状態と意識の発現の関係
脳の状態 意識の状態
休眠モード 意識OFF
覚醒モード 意識ON(低次)
意識モード 意識ON(高次)
意識喪失 意識LOSS
認知症 意識BUGる
 
意識の発現形態
脳は知覚(現在の情報)+記憶(過去の情報)で認知し、また、過去の記憶から認知パターン(例えば、ニャオ=猫、ガァオ=虎など)を生成して効率的な認知を可能にしています。この点、脳は知覚がなくても記憶のみを参照することで、例えば、リンゴを思い出すとリンゴの色味、風味、食感などの「感じ」(認知パターンなどの記憶として脳内に蓄積されている主観的な感覚)も発現します。このように意識とは人間の認知世界を拡張しますが(「環世界」(人間の世界観)=「認知」+「想像」(認知の拡張))ですが、「意識」(とりわけ認知バイアス)に揺さぶりを仕掛けて世界の実相に迫る演出を行って聴衆の自己拡張の契機となる点に芸術鑑賞の醍醐味の1つがあると思います。なお、意識の説明にあたってクオリアという言葉を使う人もいますが、科学的に解明されていないことにネーミングだけして分かったような気分にさせるという意味でエーテルと同じような「感じ」を抱きますので、拙ブログではクオリアという言葉は使いません。
分類 構成要素 意識の発現
認知 知覚(外受容)

記憶
外界に対する認知 顕在意識
(注意スキーマ)
知覚(内受容)

記憶
内界に対する認知 潜在意識
(心)
無意識
(身)
想像 記憶のみ 認知の拡張 顕在意識
(予測、回想、自我)
潜在意識
(夢、幻覚)
無想 知覚のみ 認知の遮断 無意識
(心身)
※西洋文化圏は外界に対する認知(父と子の関係に見られる父性原理)と想像を駆使してオフ・ステージの視点から異化のプロセスを重視しているのに対し、東洋文化圏は内界に対する認知(母と子の関係に見られる母性原理)と無想を深めることでオン・ステージの視点から同化のプロセスを重視していると言えるかもしれません。
 
そもそも意識とは自分が何かを体験しているという主観的な感覚のこと(例えば、赤色を見て鮮やかだと感じること)ですが、意識の発現の仕組みに関する考え方について(細かい点などは捨象しますが)歴史的な変遷のみを大雑把に俯瞰してみると、<古代>プラトン(心身二元論:イデア論)vsアリストテレス(心身一元論:プシュケー論)、<中世>キリスト教(心身二元論:魂と体を区別した宗教的救済思想)、<近代>デカルト(心身二元論:魂と体を区別した機械的自然論)、<現代>現代科学(心身一元論:意識は脳の物理的活動で発現)となりますが、心身一元論の立場でも脳の物理的活動から主観的な感覚が生まれる仕組み(ハードプロブレム)については論争があり、また、量子脳理論では脳の物理的活動には量子場が作用しているという心身二元論的な考え方も依然として存在し、意識の発現の仕組みについては科学的に完全に解明されていない難題とも言えます。この点、脳の物理的活動とは電気信号と化学物質(神経伝達物資)を使って神経細胞(ニューロン)間で情報をやり取りするネットワーク活動のことであり、その膨大なネットワーク活動から意識が発現すると考えられています。単細胞生物の「休眠モード」は神経細胞(ニューロン)がなく生体反応のみを行う無想(無意識)の状態にありましたが、多細胞生物の「覚醒モード」は分散神経から集中神経(脳)を発達させて状況判断を行う認知(顕在意識、潜在意識)を行うようになり、さらに、脳を発達させた多細胞生物の「意識モード」は複雑な状況判断を行う想像(顕在意識、潜在意識の拡張)を行うようになり、脳の発達と共に意識も深化しました。上述のとおり、未だ意識の発現の仕組みは科学的に完全には解明されておらず、脳疾患による意識喪失に頭頂葉から前頭葉に伸びるネットワークが最も関係していることから、この脳領域が意識の発現に中心的な働きをしていることが分かっていますが、脳は各々の脳領域が異なる情報を処理する分散型ネットワークであり特定の脳領域だけではなく各々の脳領域が相互に作用して影響を及ぼし合いながら脳全体のネットワークで意識を発現し、注意スキーマなどによって特定の情報の信号を強めたり弱めたりしながら意識を変化させているのではないかと考えられています。なお、現在、予測符号化理論、高次表象理論、注意スキーマ理論、グローバルワークスペース理論、情報統合理論などの学説がありますが、いずれも一長一短があり解決を見ていないことからこれ以上の深い入りは避けたいと思います。例えば、蛇を怖いという意識の発現は視覚野から送られてきた蛇という視覚情報(知覚)と偏桃体から送られてきた恐怖情報(記憶)を前頭前野で組み合わせて認知(脳が外界の情報を分析)し、これに伴って怖いという情動(心拍数が上昇するなど無意識としての身体的反応)を生じることで意識(それをモニタリングしている脳が認知パターンなどの記憶を参照して生み出す顕在意識としての怖いという主観的な感覚(感情を含む))を発現すると考えられています。最近、この仕組みを利用してニューロフィードバックの技術開発が進んでいますが、脳を解読した情報をリアルタイムで本人にフィードバックし、本人が自分の脳活動を別のプロセスへと誘導することで認知パターンを意図的に変更し、意識の発現パターンをコントロールすることが試されています。具体的には、視覚野から蛇という視覚情報が前頭前野に送られてきた際に偏桃体から送られてきた恐怖情報を弱めるというコントロールを繰り返すことで前頭前野が視覚情報と恐怖情報の組み合わせを変更し(認知パターンの書き換え)、やがて蛇は怖くないという意識を発現するようになったという実験結果があります。また、これと同様のことは脳の変性(劣化)によっても生じ、例えば、神経細胞間の情報伝達に係るシナプスの異常やエネルギー産生に係るミトコンドリアの異常などの分子レベルの変化により神経細胞の機能低下を招くことで精神疾患を発症し、これが続くことで異常な形のタンパク質を蓄積して、徐々に神経細胞が死んで行くと神経変性疾患(アルツハイマー型認知症などの意識障害)を罹患すると言われており、脳の状態が意識の発現を左右することが分かっています。因みに、「心」と「意識」の関係にも簡単に触れておくと、心=無意識+潜在意識+顕在意識という関係にあり、心を人生の舞台に喩えれば、顕在意識が主役、潜在意識が主役を惹き立てる脇役、無意識が脚本家、演出家、照明、音響、美術などの裏方という関係になり、心という人生の舞台はそれら全ての関係者(意識)によって成立しています。この点、顕在意識という主役は観客の反応ばかりを気に掛けて勝手に振る舞い、潜在意識という脇役や無意識という裏方と亀裂を生じ易いと形容することができるかもしれません。この点、前回のブログ記事で40ヘルツの音や光、森林効果(揮発性物質のフィトンチッドなど)などに脳をリフレッシュさせる効果があることに簡単に触れましたが、最近のニューロテックではAIが交感神経の異常などを特定し、それを物理的に抑制するための周波数やBPMを脳に与えることで脳を調律する技術なども開発されています。人間が顕在意識をコントロールすることは比較的に容易でも潜在意識や無意識をコントロールすることは難しく、脳を調律することで顕在意識だけではなく潜在意識や無意識に潜むノイズも適切にコントロールして心という人生の舞台の調和を演出することが技術的に可能になりつつあります。その意味では脳と意識の関係を解明する科学的な成果とそれを社会実装するためのニューロテックの開発は現代の閉塞感を未来へとブレイクスルーし、心という人生の舞台を素敵に彩るためのゲームチェンジャーになり得ると言えかもしれません。
 
 
▼ボンクリ・フェス2026
【演題】ボンクリ・フェス2026
    Born Creative Festival 2026
【演目】▼ポーランドの部屋~弦楽カルテット✕電子音✕映像
    ①ネオ・カルテット ストリング・セオリー
     <SQ>ネオ・カルテット
         カロリナ・ピョンコフスカ=ノヴィツカ(1st)
         パヴェウ・カピツァ(2nd)
         ミハウ・マルキェヴィチ(Va)
         クシシュトフ・パヴウォフスキ(Vc)   
    ▼アンサンブル・ノマドの部屋~室内楽アラカルト!
    ②リサ・イリーン タイディングⅠ
    ③テリー・ライリー G Song
    ④ジグムント・クラウゼ エレジー
    ⑤蓮沼執太 Pierrepont
    ⑥藤倉大 笙協奏曲
     <Cme>アンサンブル・ノマド
     <指揮/Gt>佐藤紀雄
     <笙>出会ユキ
    ▼ノルウェーの部屋
     ~ヤン・バングと仲間たちによるエレクトロ・セッション
    ⑦セッション Under oak tree
     <SMP>ヤン・バング
     <Tp>ニルス・ペッター・モルヴェル
     <Gt/Elc>アイヴィン・オールセット
     <Gt/タンテ>大友良英
     <Syn>藤倉大
    ▼スロバキアの部屋
     ~クエーサーズ・アンサンブルがやってくる!
    ⑧イリヤ・ゼリェンカ ムジカ・スロヴァカ
    ⑨ヴラディミール・ゴダール リチェルカーレ
    ⑩サミュエル・チャマーク トレマーズ(世界初演)
    ⑪ウラジミール・ボケシュ コラージュ
    ⑫イヴァン・ブッファ 弦楽四重奏曲
【日時】2026年3月1日(日)11:00~
【会場】東京芸術劇場
【一言感想】
ヴラヴィー!!2017年から作曲家の藤倉大さんを芸術監督に迎えて「世界中の新しい音」をテーマに東京芸術劇場の主催で開催されている現代音楽フェスですが、「ボンクリ」とは「ボーン・クリエイティヴ」=「人間はみんな生まれつきクリエイティヴだ」という意味だそうです。ボンクリ・フェスは今年で8回目を迎え、これまでに500曲以上の現代音楽を採り上げているそうですが、サントリー・サマーフェスティバルが1人の作曲家の作品に焦点を絞って深堀りするプログラムになっているのに対し、ボンクリ・フェスは藤倉さんを含む幅広い作曲家の作品を採り上げるプログラムになっているという特徴的な違いがあり、関東で開催される2大現代音楽フェスの片翼を担う一大イヴェントに成長し、今年は現代音楽ブームに乗って完売公演が目立つ盛況振りで例年に比べて観客の熱量も高かったように感じます。コア層から熱烈な支持を受けて不動の人気を誇るアンサンブル・ノマドに加えて、(僕は初聴でしたが)ポーランドのネオ・カルテットやスロバキアのクエーサーズ・アンサンブルが非常にセンスの良い選曲で単なる上手さではなく一段とレベルが高い面白さを伝えてくれる好演に満足感の高いフェスになりました。残念ながら所用のために夜公演の大人ボンクリには参加できませんでしたが、これだけ充実した内容であれば、正直、1日のイヴェントでは物足りません(笑)非常に演目数が多く全ての感想は書けませんので、昼公演のうち特に印象に残った有料公演の一部演目に限り感想を簡単に残しておきたいと思います。
 
▼アトリウム・コンサート(無料ロビコン)の様子
花田和加子×甲斐史子 MAHOROBA ネオ・カルテット 山崎阿弥
 
▼ポーランドの部屋
● ストリング・セオリー
ヴラヴィー!ネオ・カルテットは「エレクトロアコースティック弦楽四重奏団」という新ジャンルを確立し、ライブエレクトロニクス、マルチエフェクトやループステーションを使ってアコースティックの音源を変容することで異次元の音響世界を創り出す点に特徴があります。この作品は、クラシック、ジャズ、ミニマリズム、ロック、フュージョン、トランス、テクノなどのジャンルレスな音楽語法を使ってストリング・セオリー(ひも理論)の世界観を弦(ひも)で描く壮大なスケールを持つものでした。本日、大ホールではJ.S.バッハのマタイ受難曲の演奏会も行われていたようですが、神の世界観(中世までの知性)を描く旧世界の音楽に対し、ネオ・カルテットのストリング・セオリーは自然科学の世界観(近代以降の知性)を描く新世界の音楽と位置付けることができるかもしれません。ネオ・カルテットの4挺の弦楽器は宇宙を支配する4つの力(重力、強い力、電磁気力、弱い力)のメタファーと捉えることができるかもしれませんが、ラドスワフ・デルバさんのライブ・ビジュアライゼーションはひも理論が記述する宇宙の世界観を拡げる秀逸なものでした。過去のブログ記事で宇宙の歴史に簡単に触れましたが、冒頭はカルテットが奏でるアコースティックな音源がライブエレクトロニクスによって拡張され、それと呼応するようにビジュアルアートとしてカオスな映像が流されましたが、やがて4挺の弦楽器(宇宙を支配する4つの力のメタファー)が紡ぐピッチカートが文脈(ムラ)を創り出して音響を集積すると、カオスな映像はさながらエネルギーの対消滅と対生成を繰り返すように明滅しながら徐々に対称性の破れによってエネルギーのムラ(秩序)が生まれてくる様子をイメージさせるもので、非常に興味深かったです。ヴィオラが奏でる分散和音がライブエレクトロニクスによって音響の密度を増すと、宇宙の泡構造(大規模構造)が生まれる様子を描いたような映像が流され、さらに、ライブエレクトロニクスから言葉のような音響(音の対称性の破れ)を発するなか、エネルギーのムラ(秩序)が様々な生物のフォルムに変容しながら生物の進化の歴史を映し出し、宇宙に構造が生まれて対称性の破れによって生まれた多様なエネルギーのムラが銀河、星、生物を誕生させる様子が描かれているようで、非常に興味深かったです。ヴァイオリンがコラールをイメージさせる清澄な音楽を奏でると、人間のフォルム、ボイジャーによる宇宙探査や宇宙空間に浮かぶ大きな構造物が時空の歪みによって揺らいでいる様子を描いたような映像が流され、文明の発展と世界の実相に迫る現代科学を表現しているようでしたが、音や映像を使って人間の環世界=定規で引ける音、映像、旧世界(分節)と宇宙(自然)の環境世界=定規で引けない音、映像、新世界(連節)が対比されているようで、現代人の教養を育む面白い作品に感じられました。ポーランド民謡のような郷愁漂うエスニックな音楽(アイデンティティ、存在の実感)が奏でられるなか、格子模様(時空を揺らす一次元の振動体=ひも)が柔らかく歪む映像が流され、ひも理論の世界観を直観的に捉えられる面白いピースになっており、人間はひもの振動によって生まれる時空の歪みを力や物質として認知し、それを存在の実感として捉えているということを暗示するピースになっており秀逸でした。これが現代の世界観や生命観であり、神というブラックボックスを設えて神秘に彩ってきた世界の実相を現代科学によって精度高く記述できるようになってきましたが、それを人間が直感的に理解し易いように芸術を使って分かり易く表現した新しい世界観を拓く作品に感じられ、これからの時代に求められる新しい傑作に感じられました。なお、ネオ・カルテットの無料ロビコンも拝聴しましたが、緻密な構造美や繊細なニュアンスを巧みに表現する明晰な演奏が魅力で現代音楽を分かり易く伝えてくれる面白さが感じられ、是非、今後の日本ツアーに期待したいです。
 
▼アンサンブル・ノマドの部屋
ヴラヴィー!アンサンブル・ノマドの部屋では全ての曲が面白い選曲でしたが、紙片の都合から、会場に見えられていた蓮沼さんの曲と藤倉さんの曲の感想を簡単に残しておきたいと思います。
● Pierrepont
藤倉大さんは防水スピーカーを風呂場に持ち込んで入浴中に色々な音楽を聴くそうですが、この曲が耳に留まり蓮沼執太さんにボンクリフェスのためにアレンジを依頼したところ、結果的に原曲とは全く異なる曲にアレンジされて届いたというエピソードが語られましたが、風呂場からイメージを拡げて大幅なアレンジが加えられた作品ということかもしれません。舞台には机上に置かれた透明の水槽と扇風機に吹かれる楽譜のカーテンが設えられ、蓮沼さんが水槽に指を入れて掻き混ぜる音がマイクでサンプリングされて水の質感を伝える音としてスピーカーから流され、また、楽譜は音符を記載するメディアではなく楽譜という紙そのものが発する音がサウンドスケープを構成する音として使われていました。アンサンブル・ノマドは文脈を持った音楽を奏でるのではなく、それぞれの楽器が持つ響きの特性を活かして風呂の清浄な空気感を彩り、独り湯舟に揺られているような心地良い音場が出現しました。作曲意図を一方的に伝達するために聴衆にマウントしてくる旧来の音楽とは異なり、音場の肌触りが聴衆の記憶や情感などを覚醒させて大脳皮質(感情)ではなく脳幹(情動)に働き掛けてくる優しい作品に感じられ、音場から立ち上がる自分自身の世界観(プロジェクション)を鑑賞しているような面白い芸術体験になりました。
● 笙協奏曲
この曲は笙の存在感を残しながら笙と西洋楽器の融合を図った意欲的な作品に感じられましたが、笙とピッコロのアンサンブルではピッコロが龍笛のようにも聴こえ、また、笙と低楽器のアンサンブルでは低弦楽器が楽琵琶のようにも聴こえて、白味噌クリームを和えたパスタを食しているような和の食材と洋の食材の幸福なマリアージュを感じさせる音楽を楽しめました。笙と管楽器はハーモニーとタギング、弦楽器はフラジョレットとグリッサンドを組み合わせながら多彩に絡み合い、時に笙が前面に出て主張し、時に笙とオーケストラが溶け合い、しっかり和の食材の風味を感じさせながら洋の食材と調和する極上の一品に舌鼓を打ちました。日本には明治以降に誕生し国民食として広く受け入れられている和洋食(あんぱんなどが典型で、それがアンパンマンというちびっ子の文化にも拡張しています。)が数多く存在しますが、笙と西洋音楽を融合した作品としては藤倉さんのほかにも、ジョン・ケージさん、武満徹さん、細川俊夫さん、カイヤ・サーリアホさん、ヘルムート・ラッヘンマンさん、一柳慧さん、坂本龍一さん、石井眞木さん、石田多朗さんなど枚挙に暇がなく、その意味では宮田まゆみさんが笙という楽器を国際的に広めることに貢献し、出会ユキさんなどの次世代の国際的な活躍がそれを不動なものとしている結果と言えるかもしれません。この点、能声楽家の青木涼子さんが能の謡を国際的に広めることに貢献し、日本やヨーロッパの作曲家達が能の謡を題材にした作品を沢山創作していますが、是非、能の謡を題材にした藤倉さんの作品も鑑賞してみたいと願って止みません。
 
▼スロバキアの部屋
ヴラヴィー!スロバキアの部屋ではクエーサーズ・アンサンブルの演奏が音楽の面白さを容赦なく伝えてくる雄弁なもので出色でした。昔、日本車が上質な水だとすれば、欧州車はワインだと形容した自動車評論家がいましたが、この特徴的な傾向は演奏家についても言え、日本人は上手さ、欧州人は面白さを感じさせる演奏が比較的に多い印象を受けます。会場に見えられていたサミュエル・チャマークさんの曲とイヴァン・ブッファさんの曲の感想を簡単に残しておきたいと思います。
● ピアノ三重奏曲「トレマーズ」(世界初演)
スロバキア人作曲家のS.チャマークさんはサクソフォン四重奏曲「トランスミッション」で第3回サクソフォビア・ブラティスラバ作曲コンクールに優勝し、来年に同曲が世界初演されることが決まっている大注目の若手作曲家です。そんな旬の作曲家であるS.チャマークさんの最新作であるピアノ三重奏曲「トレマーズ」はクエーサーズ・アンサンブルがS.チャマークさんに作曲を委嘱し、大変に光栄なことに本日が世界初演でした。パンフレットによれば「モールス信号に着想を得たリズムを基盤」に作曲されたそうですが、ピアノが1音1音の響きを空間に焚き染めるように慎重に紡ぐと、その中からヴァイオリンとチェロがグリッサンドやトレモロで揺蕩う微細なアンサンブルが展開され、徐々に響きの密度を増しては弛緩することを繰り返す静寂の中にも緊張感が感じられる吸引力のある演奏に惹き込まれました。その繊細な響きが多彩に変化しながらグラデーションを作りピアノが硬質で透明感のある響きを散りばめる美しい音楽に魅せられましたが、やがてその微細な響きがエネルギーを発散するように集積しながらクライマックスを築く構築感のある音楽を楽しめました。この曲のフラジャイルな美質を巧みに組み尽くし、この音楽が体現する世界観を鮮明に描き出すクエーサーズ・アンサンブルの緻密な演奏も出色でした。
● 弦楽四重奏曲
スロバキア人作曲家のI.ブッファさんはクエーサーズ・アンサンブルを創設し(その活動が認められてスロバキアで最も権威のあるクリスタル・ウィング賞を受賞)、現在は芸術監督を務められています。パンフレットによれば「伝統と現代的な音響技法が交差し、緊張感、色彩、そして豊かな想像力に満ちた実験的」な作品として作曲されたそうですが、フラジョレットの幽き音やグリサンドの精妙な音などがテンションを高めながら密度を増し、やがてデュナーミクを変化させながらうねり出すニュアンスが豊かなアンサンブルが展開されました。西洋音楽は楽器を鳴らすために奏法や楽器を改良してきた伝統がありますが、そのアンチテーゼなのか特殊奏法などを駆使して楽器を鳴らさずに音を出し、その音の減衰や残響などを表現の一部として有効に採り入れながら音の揺れや滲みなどを巧みに演出することで抑揚や濃淡などを生み出すユニークな語り口の音楽に感じられて楽しめました。鋭さと儚さ、張りと揺れなど相反する質感が同居しているような面白い音響世界を堪能することができました。
 
 
▼新作オペラ「奇跡のプリマ・ドンナ-オペラ歌手・三浦環の「声」を求めて-」
【演目】新作オペラ「奇跡のプリマ・ドンナ-オペラ歌手・三浦環の「声」を求めて-」
【原作・脚本】大石みちこ
【作曲】渡辺俊幸
【演出】岩田達宗
【出演】<三浦環>佐藤美枝子
    <プッチーニ>須藤慎吾
    <三浦政太郎>渡辺康(夫)
    <登波>鳥木弥生(母)
    <熊太郎>久保田真澄(父)
    <安井>川久保博史(新聞記者)
    <高木チカ>沢崎恵美(音楽教師)
    <お雪>鈴木美也子(芸者)
    <ナビゲーター>江原啓之
【演奏】<Cond>田中祐子
    <Orch>神奈川フィルハーモニー管弦楽団
    <Chor>日本オペラ協会合唱団
    <白い少女>山口遥輝、鎌谷実芽、髙階ちひろ、遠藤美紗子
    <女性合唱>中川悠子、松山美帆、小林教子、林真悠美
    <写真屋>脇坂和
    <軍人>平本英一
    <進駐軍>新後閑大介
    <批評家>山原卓実
    <写真屋>青鹿博史
    <オペラ座の男>東玄彦
    <軍人>妹尾寿住
    <プロデューサー>勝俣祐哉
    <新聞記者A>脇坂和
    <新聞記者B>妹尾寿住
    <新聞記者C>青鹿博史
    <新聞記者D>山原宅実
【合唱指揮】山館冬樹
【美術】松生紘子
【衣裳】下斗米大輔、鶴岡雅子
【照明】稲葉直人
【舞台監督】伊藤潤
【副指揮】山館冬樹、下村景、小林雄太
【演出助手】三浦奈綾
【音楽スタッフ】奥谷恭代、久保晃子、松本康子、本橋亮子
【舞台監督助手】角田奈緒子、相澤隆史、中間果帆、二葉泰夫、外崎碧
【総監督】郡愛子
【公演監督】家田紀子
【副公演監督】森山京子
【主催】公益財団法人日本オペラ振興会
【共催】公益財団法人新宿未来創造財団
【日時】2026年3月7日(土)14:00~
【会場】新宿文化センター 大ホール
【一言感想】
日本オペラ協会は、日本オペラ振興会の「日本オペラ」を担当する事業部門として、「日本の伝統文化に根ざしたオペラの創造と普及」を目的として活動されており、非常に注目しています。知る限り、実在のオペラ歌手の半生を題材にしたオペラ作品は珍しいのではないかと思いますが、その意味でも興味深いです。三浦環の両親は静岡県出身ですが、それに因んで三浦環の没後50年にあたる1996年から声楽界の有能な人材を発掘する目的で3年毎に静岡国際オペラコンクール(今年で10回目)が開催されています。
 
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三浦環直筆の「声」の色紙とG.プッチーニとのツーショット写真
パンフレットの題字は書道家・中澤希水さんの揮毫ですが、三浦環の字体と似ています。
 
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原作は大石みちこさんのノンフィクション伝記「奇跡のプリマドンナ・オペラ歌手・三浦環の「声」を求めて」ですが、これをベースにして三浦環が「声」を求めて運命を切り拓く姿にフォーカスした全二幕四場(第一幕(立身篇):三浦環が封建的な時代に誕生してから二度の結婚、芸能ブローカーとの蜜月などを経て声楽家として立身するまでの物語(1887年~1914年)と、第二幕(出世篇):三浦環がドイツに留学して第一次世界大戦、G.プッチーニとの出会いなどを経て世界のプリマドンナとして出世するまでの物語(1914年~)から構成され、三浦環の半生に多少の脚色を加えた台本が使用されていました。第一幕では三浦環が声楽家として立身する過程で、それを後押しした東京女学館音楽教師・高木チカ(自由)とそれを快く思わない父・柴田熊太郎(支配)の対照(第一場)、それを支援した夫・三浦政太郎(自由)とそれを支配しようとした新聞記者・安井(支配)の対照(第二場)が描かれており、第二幕では三浦環が世界のプリマドンナとして出世する過程で、「声」(夢)を求めるために夫・三浦政太郎(愛)を失い(第一場)、戦争(支配)のために「声」(夢)をも失いますが(第二場)、全幕に亘り「声」を求める三浦環を支える物語の通奏低音的な存在として母・登波(愛)、G.プッチーニ(夢)と高木チカ(自由)が要所要所で登場し、それらの人々の篤志も手伝って再び三浦環は「声」を取り戻すという展開になっています。過去のブログ記事で触れたタテ型社会(ヒエラルキー)を基調とする自己犠牲に彩られた拡張自己的な価値観をヨコ型社会(ホラルキー)を基調とする自己実現に彩られた自己拡張的な価値観で超克する(現代ではその摩擦をハラスメントとして認識)、現代人の感性に敵う物語に感じられました。この点、三浦環は1900年に東京音楽学校に入学し(三浦環は東京音楽学校で幸田延から声楽の薫陶を受けていますが、残念ながら、その貴重な場面は描かれていませんでした)、当時、海老茶色の袴姿で(当時では珍しい)自転車に乗って虎ノ門の自宅から上野まで颯爽と通学する様子が「自転車美人」として話題になりましたが、それを象徴するように舞台にはレトロな自転車が置かれていました。因みに、三浦環は東京音楽学校の予科で声楽を指導していた際に教え子の山田耕作の悪戯によって上野精養軒脇の側溝に自転車に乗ったまま落とされるなどの武勇伝が残されていますのでハイカラな青春時代を送っていたようです。第一幕の冒頭では弦楽器とグロッケンシュピーゲルの清浄&可憐な響きによって三浦環=「声」の誕生と母・登波の愛が音楽的に表現され、指揮者の田中祐子さんが神奈フィルからシルキーな音を紡ぎ出す幻想的で美しい序奏が聴き所になっていました。これと対照するようにティンパニーとバスドラムによって父・柴田熊太郎(支配)の武骨な性格を滑稽に彩る音楽が付され、男尊女卑の時代感覚を印象付ける効果を上げていたと思います。父・柴田熊太郎(支配)は音楽家=芸者という偏見から三浦環が東京音楽学校へ入学することに猛反対したので、三浦環は父・柴田熊太郎が気に入る陸軍軍医・藤井善一との結婚を応諾することを条件に東京音楽学校の入学を認めて貰いましたが、このような三浦環と父・熊太郎(支配)の緊張関係を象徴するような快活な音楽が付されており、それぞれのキャラクター設定や人間模様を巧みに彩る音楽が面白く感じられました。三浦環役の佐藤美枝子さんと三浦環が声楽家を目指すことを後押しした高木チカ(自由)役のソプラノ・沢崎恵美さんによるハートフルな二重唱とこれに清澄な合唱が加わった夢見心地な舞台が出色で、さながら蛹から羽化して蝶が羽搏き始める美しい姿をイメージさせるような場面が第一幕の最大の聴き所になっていたように思います。その一方で、(あくまでも個人的な嗜好の問題であるとお断りしたうえで)上述のとおり全幕に亘り物語の通奏低音的な存在としてG.プッチーニが要所要所で舞台に登場しますが、やや唐突な印象を受けてしまい、その展開をキャッチアップするストレスからノイジーな演出に感じられた点が残念でした。この点、例えば、メトロポリタン歌劇場は場所や時間の隔たりを二階建ての舞台を設えて空間的に演出する工夫で劇的な効果を生んでいましたが、再演時にはもう少し分かり易い演出を工夫して頂けると更に舞台に没入できるような気もします。もう1つ、第二場では三浦政太郎(自由)との再婚と対照的に描かれていた三浦環の芸能ブローカー的な存在として暗躍していた新聞記者・安井(支配)との蜜月が描かれていましたが、おそらく新聞記者・千葉秀甫(柴田(三浦)環著「世界のオペラ」(共益商社書店)のゴーストライターとも噂される人物)との関係を脚色して象徴的に描くことで当時の音楽家を取り巻く社会状況を浮き彫りにする意図があったのであろうと思いますが、当時のジェンダーギャップの深刻さとその逆境を男を手玉に取りながら克服して行く三浦環の強かさを描く場面として大変に興味深いものであったものの、それが第一場の父・柴田熊太郎(支配)から第二場の新聞記者・安井(支配)まで続くと、やや冗長な印象から中弛み(以下の囲み記事にあるG.プッチーニの言葉を引用すれば「第二幕は長すぎる。観客は疲れ、私の意図した緊張が消えてしまった。」)を覚えた点が残念でした。この点、起承転結の物語構成(四場面)ではなくハリウッドマジックの物語構成(三場面)をベースにして物語を圧縮した方が物語展開にメリハリが生まれて更に舞台に没入感が生まれるような気もします。第二幕の冒頭では(現在では地球環境破壊の象徴として滅多にお目に掛からなくなった)貴族文化の象徴であるシャンデリア(吊り下げ式燭台)が飾られ、三浦環がロンドンでプリマドンナとして出世する華々しい舞台で始まりましたが、第二幕全体に亘りG.プッチーニの音楽へオマージュが捧げられ、フルートによって蝶が羽搏くような音型が奏でられるなど三浦環がプリマドンナとして世界の檜舞台で羽搏くイメージを想起させる音楽が散りばめられていましたが、そのような華々しさとは裏腹にプッチーニ役のテノール・須藤慎吾さんは自らの創作意欲と出版社の経済合理性を優先する姿勢の軋轢によって不本意な書き換えを余儀なくされる作曲家の苦悩を繊細に歌い上げる場面が印象的でした。しかし、第一次世界大戦が勃発すると切迫感のある音楽に一転し、空襲によって舞台が中断される様子がドラマチックに描かれていました。これによって三浦環は「声」を失い掛けますが、母・登波役のメゾソプラノ・鳥木弥生さんが牧歌的な音楽に乗せて歌う梅干しのアリア(母・登波は日本から三浦環の大好物の梅干しを送るなど海外での生活を献身的に支えたことが知られています)では非常に感情の乗せ方が上手い老練巧みな歌唱によって三浦環を支え続ける母・登波の大らかな愛を感じさせる好演を楽しめました。三浦環は1920年にG.プッチーニの別荘に招かれ、そこでG.プッチーニとの初対面(上の写真)を果たし、G.プッチーニから「世界界でたった一人しかいない、最も理想的な蝶々さん」という賛辞を受けていますが、三浦環とG.プッチーニの運命的な出会いによって2人の想いが共鳴する二重唱が大きな聴き所になっていました。その一方で、夫・三浦政太郎役のテノール・渡辺康さんは三浦環の海外での活動を献身的に支えながらも医学者の道(夢)を断ち難く三浦環(愛)との袂を分かつ決意を固めて歌う悲しみを湛えたアリアと、これに続いて三浦環が「声」(夢)と夫・三浦政太郎(愛)の板挟みで身を割くような想いを募らせるアリアも大きな聴き所になっていました。この点、実際に三浦環は舞台のために夫・三浦政太郎の葬儀には参列できず、数年後に帰国して夫・三浦政太郎の墓参りをした際に墓前で泣き崩れますが、その様子を捉えて「悲劇のヒロインを演じている」という批判が一部にあったそうですが、寧ろ、プリマドンナとして世界の檜舞台に立ち続けた三浦環の凄まじい覚悟のようなものを感じさせるエピソードではないかと感じます。第一次世界大戦中の時代状況を映すようにバスドラムの連打が主導する鋭角なリズムに彩られた破壊的な音楽に一転すると、日本軍人が登場して敵勢国家の音楽を歌うことを禁じ、三浦環は完全に「声」を失って悲嘆に暮れる様子が描かれていました。ここで高木チカ先生が三浦環を支えるように「あなたの「声」を聴きたい」とアリアを歌いますが(ソプラノ・沢崎さんの清澄な歌唱はこのオペラのもう一人のプリマドンナと評し得る存在感がありました)、実はここで登場する高木チカ先生は亡霊という設定だったようで上述のとおりもう少し分かり易い演出上の工夫があると一段と鑑賞が深まったような気もします。第一次世界戦争が終わり三浦環が「声」を取り戻す場面では高木チカ先生の呼び掛けに応えるように「わたしの「声」を聴いて欲しい」とアリアを歌うと、そこへ四人の少女(「声」の精霊?)が舞台に現われ、大らかな合唱で「あなたの「声」を聴きたい」と歌い添う清浄で幻想的な場面が出色でした。三浦環はオペラ「蝶々夫人」のアリア「ある晴れた日に」をイタリア語で歌うと(このように聴き直してみると、感情の襞が丹念に織り込まれ、その移ろいが繊細に描写されている珠玉のピースであることを再認識させられます)、照明効果によって舞台も晴れ渡り、「声」の生まれ直しを印象付ける清浄な合唱(冒頭回帰)が加わって終演を迎え、非常に後味の良い聴後感となりました。ヴラヴィー!!なお、第二幕の全体的な印象として、ミュージカル風の耳に馴染み易いアリアを含めて甘美な音楽に彩られた力作に感じられましたが、その一方で、甘美なアリアに接ぐ甘美なアリアで聴き所が相対的に希釈化されてしまっている(以下の囲み記事にあるG.プッチーニの言葉を引用すれば「音楽が詰まりすぎている。もっと呼吸が必要だ。」)という印象を受けるところもありました。尤も、2時間に亘って、ここまで魅力的な音楽を揃えられる力量を備えた作曲家をあまり知りませんので、寧ろ、その点にこそ感嘆を覚えます。初聴の音楽を大向うの席から一聴しただけなので細かい点まで聴き分けることが叶わず、おそらく何度か聴き込むと細部の筆致の卓越した魅力に気付くことも多いのではないかと思われ、聴き込む度に印象が変わってくるような気もしますので、是非、いまから再演の機会を待ちたいと思います。オペラ「蝶々夫人」は未だ映画やテレビなどがなかった時代の舞台芸術ですが、インターネットやAIが全盛の現代にあって新しい時代のオペラの在り方を考えさせられる作品でもありました。
 
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カーテンコールと扇をモチーフにした舞台セット
 
オペラ「蝶々夫人」に関する覚書
オペラ「蝶々夫人」やこれを翻案したミュージカル「ミス・サイゴン」は「構造的な暴力」を「悲劇の美」(いい話)に昇華してしまい兼ねない作品として国際的に批判が多いですが(とりわけ後者は歴史的な作品であるという免罪符もなく厳しい批判があり)、前者の成立背景に簡単に触れておきたいと思います。オペラ「蝶々夫人」の題材は長崎の遊女屋から斡旋されたお菊という芸者との2ケ月余りの「日本式結婚」(有期の契約売春)の実体験を綴ったフランス人軍人ピエール・ロティの小説「お菊さん」にまで遡りますが、これがアメリカ人作家ジョン・ロングの小説「蝶々夫人」やアメリカ人劇作家ダヴィッド・ベラスコの戯曲「蝶々夫人」に翻案され、オペラ「トスカ」公演のためにロンドンに滞在していたジャコモ・プッチーニが戯曲「蝶々夫人」を観劇して直ぐにオペラ化を決意したようです。折からのジャポニズムの潮流に乗って興行として成功させるために、より多くの人の共感を得易いように原作、小説、戯曲から歌劇へと翻案される過程でキャラクター設定やストーリ展開が変更されて「エロドラマ」から「メロドラマ」へと変遷して行ったようです。
物語 ピンカートン 蝶々さん
原作
1887
自らの体験を日記形式で綴った私小説で、ビジネスライクな関係 遊女屋に斡旋された芸者との日本式結婚(有期の契約売春)
小説
1898
冷酷(最後に姿を見せず、良心の呵責なし) 冷酷 ピンカートン=神
自死の理由:名誉
最後は生(キリスト教的価値観)を選択
戯曲
1900
軟弱な態度(最後に姿を見せず、責任から逃避) 博愛精神(優越的な立場から蝶々さんに同情) 自死の理由:子供
最後は死(武士道的価値観)を選択
歌劇
1904
改心(最後に姿を現わし、良心の呵責あり) 良識(対等的な立場から蝶々さんに謝罪) ヒロイン像に装飾
自死の理由:子供
最後は死(武士道的価値観)を選択
※興行的な成功を収めるために幅広い人々からの共感を得易くするように人種差別、女性蔑視や児童買春の色彩が希釈化
※オペラ「蝶々夫人」の楽譜には5種類の版が存在しますが、初演版(スカラ座)に対して「第二幕は長すぎる。観客は疲れ、私の意図した緊張が消えてしまった。」として蝶々さんがピンカートンを夜通し待つ場面を大幅にカットした第2版(ブレシア)、「音楽が詰まりすぎている。もっと呼吸が必要だ。」として観客がどこを聴けば良いか迷わないようにアリアの焦点を絞るように改訂した第3版(パリ)、「ピンカートンは単なる悪党ではない。彼にも後悔があるはずだ。」としてピンカートンの後悔のアリアを追加した第4版(メト)、「ベラスコの「沈黙」こそがドラマだ。私はそれを音楽で描きたい。」として心理劇を深化させた第5版が最終版になりました。後知恵で何らかの大義名分を仕立てG.プッチーニを持ち上げることは快しとしませんので敢えて無粋な物言いをしますが、こうしてG.プッチーニの書簡などを眺めていると意識的であったのか否かは別としても興行的な理由から「構造的な問題」を希釈化して「悲劇の美」(いい話)に変容してしまった側面があることは否めず、そのことを含めて清濁が彩る人間的な物語なのだろうと捉えています。いつの時代も男の分別は槍先にあると言ってしまえば、それまでの話かもしれませんが....。
 
 
▼ハンス・ヴェルナー・ヘンツェをめぐる「おと」
【演目】H.W.ヘンツェ 王宮の冬の音楽第1番
【演奏】<Gt>藤元高輝
【公演】内藤眞帆(ボン大学) ヘンツェとギター
     「王宮の冬の音楽」第1番における響きの探求
    小島広之(東京大学) ヘンツェが追求した「新しさ」
     モダニズム、現代音楽、ポストモダニズムから
    溝淵加奈枝(情報科学芸術大学) ふしの裂け目
     歌と語りから捉え直すヘンツェ
【テキスト】若山真理子(ベルリン自由大学)
【主催】日本アルバン・ベルク協会
【日時】2026年3月9日(月)19:00~
【会場】渋谷宮益坂十間スタジオ内Aスタジオ
【一言感想】
今年、生誕100周年を迎えたドイツ人作曲家のH.W.ヘンツェは日本でも人気が高く作品が演奏される機会も多いと思いますが、H.W.ヘンツェの作品に関するレクコンは非常に珍しく貴重な機会なので、(平日の公演に参加するのは難しいのですが)何とか時間の都合を付けて参加しました。著作権に配慮してあまり詳細にレクチャー内容を記載しませんが、レクチャーの触りと演奏の感想をごく簡単に残しておきたいと思います。本日は現代音楽のレクコンにも拘らず、ほぼ満席の盛会で時代(観客の興味)の移ろいを感じさせます。冒頭はギタリストの藤元高輝さんがH.W.ヘンツェの「王宮の冬の音楽」第1番より第二楽章「ロミオとジュリエット」を演奏した後にレクチャーに入り、最後に同曲全曲が通して演奏するというプログラム構成で公演されました。未だ日本では現代音楽のレクコンは珍しいですが、近年、ドイツでは本日のようなプログラム構成をとる現代音楽のレクコンが増えており、観客の育成(マーケットの醸成)に熱心に取り組んでいる状況があるようです(羨ましい限り)。過去のブログ記事でH.W.ヘンツェの傑作オペラ「午後の曳航」の感想を簡単に残しましたが、藤元さんは東京音高生時代に入手した「王宮の冬の音楽」第1番の楽譜(ブリーム版)を使い続けているそうで、本日もその楽譜を使って演奏されました。内藤真帆さんによれば、H.W.ヘンツェの「王宮の冬の音楽」にはイギリス人ギターリスト・J.ブリームが編集した版(演奏家の視点から自筆譜を修正)とイタリア人ギタリスト・M.ミナが編集した版(自筆譜に忠実)の2種類の出版譜があり、H.W.ヘンツェはブリーム版をもって正式な版と考えていたそうです。本日はブリーム版を使用してアナリーゼが披露され、例えば、第一楽章のグロスターではその邪悪さを表現するために悪魔の音程である三全音が使用されていることや第二楽章のロミオとジュリエットでは上声部と下声部が半音まで接近しても決してユニゾンにはならないことなど、「この曲では、生涯を通して私を魅了してきた人たち、シェイクスピアの舞台作品の登場人物の何人かを音楽で、且つ劇中場面を再現するのではない形で表現した」「それぞれの楽章がいわばエリザベス朝の巨匠たちの様式に倣った肖像画」(H.W.ヘンツェ)がどのように描かれているのかを具体的な譜例を示して解説されました。個人的には現代音楽のアナリーゼを拝聴するのは初めての経験で目鱗でしたが、このようなアナリーゼはH.W.ヘンツェの作品だから可能だったと言えるかもしれません。また、溝渕加奈枝さんは、声楽家の視点からH.W.ヘンツェの作品にアプローチすることを試み、詩を引用、朗読しながら「私が目指しているのは音楽が言語となることであり、ただ野放しに、そして「空虚に」感情が反映されるだけの音響空間という存在から音楽が脱することです。音楽は原語のように理解されるようにならなければ。」(H.W.ヘンツェ)というH.W.ヘンツェの考え方について解説されていました。さらに、小島広之さんは、同時代人の作曲家であるP.ブーレーズと比較し、P.ブーレーズは伝統を破壊して排除することで音楽を革新することを目指し、音楽は「分析」されるもの(片方向性、構造的革新)であると捉えていたのに対し、H.W.ヘンツェは伝統を異化して活用することで音楽を革新することを目指し、音楽は「理解」されるもの(双方向性、関係的革新)であると捉えていた点に本質的な違いがあることを解説されていました。このような音楽観の違いが、P.ブーレーズの作品に見られる抽象的・非人間的な特徴になり、H.W.ヘンツェの作品に見られる具象的・人間的な特徴になって現れているのだろうと思います。最後に、藤元高輝さんが「王宮の冬の音楽」第1番を全曲演奏しましたが、特殊奏法を駆使して紡がれるメリハリのある音はストイックながらはっきりとしたキャラクターを体現しており、それが豊かなニュアンスを生みながらドラマを深める効果を生んでいたように思います。やはりアナリーゼを受けた後に鑑賞すると気付きが多く鑑賞を深めるうえで絶大の効果があったように感じます。クラシック音楽(第一次世界大戦前の旧世界の音楽)を解説した本はいくつも出版され、いずれも表装だけが異なる焼き直しのような内容ばかりで手に取る気になりませんが、その一方で、現代音楽(第一次世界大戦後の新世界の音楽)を解説した本は皆無に等しく、観客が現代音楽の鑑賞を深める手立ては非常に限定的であることを踏まえると、日本でも現代音楽のレクコンが増えてくれることを強く望みたいです。
 
 
▼日本人の記憶~和洋の音楽でうたう~
【演題】日本人の記憶~和洋の音楽でうたう~
    日本音楽の魅力発信プロジェクト~和の文化活動を通じた若手育成~
【演目】▼第一部 鄙のグラグティーと江戸時代の流行歌
    ①本條秀太郎 繭子
    ②桑原ゆう 吉原木遣りくづし
    ③本條秀太郎 花の風雅(桑原ゆう編曲)
    ▼第二部 古代神話の世界
    ④本條秀太郎 現代神楽「スサノヲ頌歌」(桑原ゆう編曲)
【演奏】J-TRAD Ensemble MAHOROBA
    <三味線>本條秀慈郎(①③④)
    <三味線・近江胡弓>本條秀英二(①③④)
    <唄・二十五絃箏>木村麻耶(①③④)
    <十七絃箏>吉澤延隆(①③④)
    <尺八>川村葵山(①③④)
    <囃子>堅田喜三郎(①③④)
    <唄・三味線>本條秀太郎(特別出演)(①③④)
    <Vn>三瀬俊吾(ゲスト)(①②③④)
    <Vn>山縣郁音(ゲスト)(②③④)
    <Va>甲斐史子(ゲスト)(②③④)
    <Vc>竹本聖子(ゲスト)(②③④)
【主催】NPO法人日本音楽国際交流会
【日時】2026年3月22日(日)14:00~
【会場】青葉の森公園芸術文化ホール
【一言感想】
ヴラヴィー!!NPO法人日本音楽国際交流会は1988年に日本音楽の普及を目的として設立された団体で、現在、文化庁の「文化芸術活動基盤強化基金(クリエイター・アーティスト等育成事業)」の委託により「日本音楽の魅力発信プロジェクト-和の文化活動を通じた若手育成-」を推進し、日本の伝統音楽に携わる若手音楽家や制作者の育成に取り組まれ、その一環としてJ-TRAD Ensemble MAHOROBAのアメリカ公演(カーネギーホール)を予定しています。本日の公演ではJ-TRAD Ensemble MAHOROBAのレギュラーメンバーに本條流家元の本條秀太朗さん、作曲家の桑原ゆうさん及び弦楽四重奏(三瀬俊吾さん、山縣郁音さん、甲斐史子さん、竹本聖子さん)が加わって弦楽四重奏をキャンバス(線描、面描によるフォルム)に伝統邦楽が活写(点描、間合によるイヴェント)して行くようなイメージの音楽が展開されましたが、過去のブログ記事で触れた考え方を援用すれば、日本音楽に西洋音楽を採り込む拡張自己的な表現(摂取)から一段と深化し、日本音楽の伝統的な特徴に西洋の音楽のDNAを丹念に織り込むことで、それぞれの特徴が深層で調和されて自己拡張的な表現(受肉)へと昇華しているような感触の音楽が聴かれ、現代日本文化の肖像を体現する興味深い公演に感じられました。なお、本日、最後に演奏された本條秀太郎さんの現代神楽「スサノヲ頌歌」(桑原ゆう編曲)は新ジャンルを確立したと評し得る完成度の高さで非常に面白い作品でしたが、チェンバーミュージックガーデン2026で再演されるそうなので未聴の方はご予定下さい。
 
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左:青葉の森芸術文化ホール
右:企画展「生薬~自然からの恵み」(千葉県立中央博物館×アニメ「薬屋のひとりごと」)
 
①繭子
本條秀太郎さんが1997年にNHK収録のために作曲した機織グラフティー~機織唄によせて~俚奏楽「繭子」ですが、徳島、奄美、美濃、群馬の機織唄を組唄としてグラフィティーにした作品だそうです。冒頭ではトンカラリン、トンカラリンと仕事唄が唄われるなか三味線、ヴァイオリン、拍子木により機織りのリズムを繰り返すミニマル音楽風の音楽が奏でられ、これに筝が滑らかな分散和音で織り上がる生地のシルキーな質感を醸し出す視覚、聴覚、触覚に訴えるクロスモダールな音楽が展開され、鄙びた風情を楽しむことができました。どなたかのMCで日本の音楽はリズムや音程を合わせるという発想がなくそれによって生まれる綾のようなものに魅力があると語られていましたが、上記のブログの枕でも触れたとおり、西洋の仕事歌はオフ・ステージの視点から歌に合わせて体を動かす(歌が動きを支える)という特徴があり、拍や音程などのグリッド(外在的基準)に合わせて歌うという感覚が強いのに対し、日本の仕事唄はオン・ステージの視点から体の動きに合わせて唄う(動きが唄を支える)という特徴があり、拍や音程などのグリッドに合わせて唄うのではなく体の動きに伴って揺らぐ呼吸=間(内在的基準)に合わせて唄うという感覚が強いように感じます。仕事唄の縦線、横線の揺らぎが縦糸、横糸が紡ぐ綾(彩)になって織り上げられて行くような音楽を楽しめました。なお、木村さんのソプラノ声による清澄な唄と川村さんの情緒纏綿とした尺八が出色で聴き所になっていました。
 
②吉原木遣りくづし
桑原ゆうさんが2023年にNHKの国際女性デーを記念したプログラムのために「女性性」をテーマにして作曲された「吉原木遣りくづし」ですが、吉原芸者が女人禁制の木遣り唄をお座敷芸に採り入れた「吉原木遣り」を素材として弦楽四重奏曲に仕立てたそうで、原曲には「木遣り」(=男の槍先)を巧みに操る吉原芸者らしい洒落が感じられます。あくまでも個人的なイメージとして、桑原さんの作品には霞の呼吸と形容したくなるような肌触り感があり、呼吸の微細な揺らぎが生む気配や間のようなものが体現する独特の世界観に魅力を感じます。冒頭ではベートーヴェンを想起させるような男性的なリズムが奏でられると、スピッカートやスクラッチトーンなどの木が軋むようなノイジーな音響や息の長いテヌートからグリッサンドへと変化する木が撓むようなイメージの音響などが奏でられ、木の声や質感が存分に表現されているように感じられました。その後、セカンドヴァイオリンが木遣り唄のモチーフを奏でると、それがヴィオラやチェロのピッチカートへと変容し、やがて水面に浮かぶ木材を連想させるアンサンブルのうねりになってクライマックスを築く吉原芸者の心意気すら感じさせる威勢の良い音楽で締め括られました。敢えて女性性をイメージさせる吉原の艶は表に出さずに男性の分別を狂わされる意外性の演出(くづし)によって仄かなエロスと共に女性性を薫らせるような印象を受ける面白い音楽に感じられました。
 
③花の風雅
本條秀太郎さんが1995年に作曲し、桑原ゆうさんが2026年に弦楽四重奏のパートを新たに付曲した俚奏楽「花の風雅」ですが、パンフレットには「春の隅田川を下り、江戸、明治、大正、昭和と移り変わってきた水辺を眺めながら、最後は、豪快に鳴り響く囃子の金物で現代的な建物が立ち並ぶお台場へと抜けて行くという物語」という解説が記載されています。過去のブログ記事で小唄、浮世絵と写真・スケッチで現代と江戸を往還しながら柳橋から山谷堀(吉原)へと通う川上りの舟から臨む隅田川の春夏秋冬の風物詩を綴る明暮れ小唄の演奏会の感想を簡単に書いたことがありましたが、本日のJ-TRAD Ensemble MAHOROBAは伝統邦楽と弦楽四重奏で江戸から現代までの移り変わりを重ねて前曲の吉原(三谷堀)界隈から佃、台場へと通う川下りの舟から臨む隅田川の春の風情を綴る演奏になりました。隅田川の春の賑いを伝える華やかなアンサンブルで開始され、尺八が隅田川を渡る春風、金物が祭囃子をイメージさせる風情を醸し出し、聴覚から視覚や触覚を想起させるクロスモダールな音楽が展開されました。伝統邦楽が点描や間合で活写する隅田川の春の賑いを弦楽四重奏が線描や面描で色付けすることで立体的に浮き立たせてより鮮やかに隅田川の風情を彩る効果を上げる音楽が面白かったです。最後は快活なリズムでクライマックスを築く賑々しい演奏で締め括られ、隅田川の春の賑いが肌感覚で感じられる面白い演奏を楽しめました。
 
④現代神楽「スサノヲ頌歌」
ヴラヴィー!!本日の白眉でした。本條秀太郎さんが2015年に作曲し、桑原ゆうさんが2026年にミサ形式を採り入れて再構成し、編曲した現代神楽「スサノヲ頌歌」ですが、この曲はアメリカ公演でも演奏される予定があるそうで非常に完成度の高い作品に感じられました。第一抄「混沌」(Kyrie):元始混沌(神)、第二抄「荒神」(Gloria):天地開闢(栄光)、第三抄「岩戸」(Tenebrae):天岩戸(暗闇)、第四抄「回帰」(Credo):八岐大蛇(信念)、第五抄「巡行」(Agnus Dei):天孫降臨(神の子羊)という物語構成になっています。第一抄「混沌」(Kyrie)から木村さんの清澄なソプラノ声で唄われる「水のまつり」(キリエ)が出色で、寂び寂びとした三味線の音に誘われ、尺八、筝と弦楽四重奏が精妙な音楽を奏でるなかで唄われる邦楽アリアとでも形容したくなる音楽で、日本音楽の伝統的な特徴に西洋音楽のDNAが丹念に織り込まれ、全体としては日本音楽として調和されながら、その風味として西洋音楽の存在もしっかりと感じることができる、これまでに聴いたことがない音楽に感嘆しました。アメリカ公演で外国人の観客がどのように捉えるのか楽しみなピースです。弦楽四重奏のフラジョレットと尺八という異色の取り合わせが相性良く絶妙な風情を醸し出す幸福なマリアージュに舌鼓を打ちました。第二抄「荒神」(Gloria)では三味線の閑寂とした風情に弦楽四重奏のフラジョレットが精妙な彩りを添えるなか尺八と近江胡弓が叙情的な旋律を奏で出し、モチーフが幾重にも重ねられながら世界が徐々に拓かれて行く天地開闢の様子がビジュアルに表現されているようでした。第三抄「岩戸」(Tenebrae)ではさながら義太夫節、長唄や能を想起される唄(謡)が紡がれましたが、過去のブログ記事でも簡単に触れたとおり日本芸能の原点は天岩戸伝説における天鈿女命の「魂振の楽」にあり、そのことを暗示し、日本芸能のDNAを音楽的に感じさせることに成功している面白いピースに思われました。第四抄「回帰」(Credo)ではスサノヲが詠んだ日本最古の和歌である妻籠み(八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を)が唄われ、これに続いて「玉繭の歌」では木村さんの静々とした唄に合わせて三味線と鼓が日本音楽の伝統である一音で描き切る世界観(一音成仏)を体現する演奏が出色でした。さらに、「出雲恋歌」では弦楽四重奏のハーモニー(面描)をキャンバスにして鼓(点描)、尺八(線描)が奏でる情的な伴奏に合わせて木村さんと吉澤さんが情緒纏綿と唄を紡ぎ、また、「水宮」では尺八と筝が水のモチーフを奏でるなか、その中を弦楽四重奏が揺蕩っていたかと思えば、一転、弦楽四重奏によるジャズテイストのリズミカルな伴奏に合わせて太鼓の連打、尺八の激しいタギングによる快活な演奏が展開され、再び、最後は何事もなかったように波の音型が奏でられる寂び寂びとした演奏で締め括られ、さながら栄枯盛衰(無常観)が表現されているようにも感じられました。この抄は音楽的に充実した聴き応えのあるピースになっていました。第五抄「巡行」(Agnus Dei)では弦楽四重奏が短いモチーフを繰り返し、筝が分散和音を奏でるなか、三味線、近江胡弓、尺八、囃子が加わって徐々にデュナーミクを増しながら神楽(神道)を連想させる音楽が奏でられ、これに続く木村さんと吉澤さんが唄うアニュスデイは声明(仏教)を連想させるもので、子孫繁栄を象徴した音楽にも感じられました。最後は楚々とした印象の曲で余韻深く終曲となりました。この作品が描いている世界観のスケールが大きく、また、神話や宗教に体現されている時代や場所を超えて人類に共通して見られる集合的無意識の世界観(神道、仏教、キリスト教)を伝統邦楽と伝統洋楽をDNAレベルで調和することで音楽的に表現することに成功している秀作に感じられました。
 
 
▼企画展「観世寿夫が見た能楽の未来」
現在、野上記念法政大学能楽研究所の主催で、観世寿夫さんの遺品や関係資料を展示し、その革新的な活動を回顧する企画展「観世寿夫が見た能楽の未来」が開催されているので立ち寄りました。誰か新作能「奇跡のシテ-能楽師・観世寿夫の「謡」を求めて-」を創作して貰えないかと思いますが、明治時代以前の名人上手はいざ知らず、観世寿夫さんの謡を超える謡を聴いたことはありませんし、観世寿夫さんほど能楽の革新に心を尽くされた方も知りませんが、今尚、観世寿夫さんは能楽の伝統と革新の両面において傑出した存在感があり、もう観世寿夫さんのような能楽師は登場しないかもしれません。宝生閑さんも他界されてから久しく、本当に寂しい限りです。
 
▼バッハの魂が憑依したグールドとトランスする擬き
この2つの動画を拝見して「霊感」とはこのようなことを言うのだろうと得心させられます。誰か新曲「奇跡のマエストローピアニスト・グレングールドの「歌」を求めて-」を創作して貰えないかと思いますが、おそらく作曲家と演奏家が分離した時代から失われていた何かがここには息衝いているのではないかと感じます。天岩戸伝説の天鈿女命に起源する「魂振の楽」(芸能で魂を慰撫する「魂鎮の楽」(たましずめのがく)に対して、芸能で魂を鼓舞する「魂振の楽」(たまふりのがく))とはこのようなことを言うのではないかと思います。

Cabinet Of Curiosities 2026 New Music Theaterと読売交響楽団第655回定期演奏会(作曲:細川俊夫、独奏:諏訪内晶子)と国際音楽祭NIPPONフェスティヴァル・オーケストラ(作曲:アルヴォ・ペルト、独奏:諏訪内晶子)と山司恵莉20世紀後半におけるオルガン協奏曲の多様化(東京藝術大学大学院博士後期課程/博士リサイタル)とブログの枕「眠らぬ脳の暴走」 <STOP WAR IN UKRAINE>

▼ブログの枕「眠らぬ脳の暴走」
近年、高齢ドライバーによるアクセルとブレーキの踏み間違いによる自動車事故が社会問題になっていますが、例えば、認知症を罹患している高齢ドライバーが加害者になる事故において家族がその状況を認識しながら運転を黙認していたなどの事情がある場合にはその家族も損害賠償責任を負う可能性がありますので(民法714条類推適用の法理/最判平28.3.1)、「本人の意志」だけでは済まされない問題とも言えます。最近、僕は電動アシスト自転車を購入し、運動不足の解消(認知症予防にも効果的!)を兼ねて徐々に自動車レスの生活に移行しようと試みていますが、若者達に交じりその息吹を感じながら自転車を漕ぐのは実に気持ちの良いものです。H.パーセルの歌劇「アーサー王」のコールドソング(半音階的和音)を効果的に使った映画「ファーザー」は名優アンソニー・ホプキンスさんが自らのアイデンティティが崩壊して行く認知症患者の世界観を好演した傑作ですが、一般に認知症の初期症状の1つとして睡眠障害(脳の制御機能の低下)が現われると言われており、その兆候が現われたら脳が変性(劣化)し始めている可能性がありますので、自分のためだけではなく、家族や社会(他人)のためにも自ら運転免許を返納する覚悟(人生設計の見直し)が必要かもしれません。そこで、今回のブログの枕では眠らぬ脳の暴走と題して休眠と覚醒のコントロール(進化生物学)について簡単に触れてみたいと思います。
 
休眠と覚醒をコントロールする2種類のシステム
単細胞生物や単純な多細胞生物(~約6億年)は、1つの細胞内又は少数の細胞間で休眠と覚醒をコントロールするだけでしたので、「疲労」(内的要因:体)をトリガーとして神経物質(神経を使って局所に作用するナノメディア:通信)を使ってコントロールするシステムを持っていましたが、カンブリア大爆発によって複雑な多細胞生物(約5億4000万年~)が誕生して身体が大きくなったことで複数の細胞間で休眠と覚醒をコントロールする必要が生じると共に、多種多様な生物が誕生したことで他の生物から捕食されないように覚醒のタイミングを調整する必要が生じたことから「時間」(外的要因:光)をトリガーとしてホルモン(血液を使って全身に作用するマスメディア:放送)を使ってコントロールするシステムを進化的に獲得し、この2種類のシステムを同期させて休眠と覚醒をコントロールしています。
因子 基準 手段 効果
疲労 内的要因 疲労蓄積 神経物質 アデノシン 休眠
疲労解消 オレキシン 覚醒
時間 外的要因 ホルモン メラトニン 休眠
コルチゾール 覚醒
※社会環境の変化(社会の高機能化、ジャンクフードや高負荷食品の普及、コンビニ、深夜放送やスマホの普及など)により、ストレス、運動不足や食生活などに起因する「疲労システム」の乱れ又は生活リズムなどに起因する「時間システム」の乱れに伴って両システムが同期し難い状況が生まれて寝付きの悪さなどの睡眠障害が起こり、それによって脳の老廃物が十分に除去されず(後述)、脳の機能低下や機能不全などを招くことで認知症や精神障害などが起こると言われています。
 
過去のブログ記事でも簡単に触れましたが、約38億年前に化学物質や光などの刺激には生体反応するものの神経や脳がない単細胞生物が誕生し、周囲の水に溶けている水素や糖などを自然に吸収して代謝を行いながら、無駄なエネルギーを消費しないように常に「休眠モード」(自然と一体化)の状態にありました。しかし、約6億年前に多細胞生物が誕生し、神経(分散神経)はあるものの脳がない刺胞動物や有櫛動物(ヒドラやクラゲなど)が登場し、細胞膜を伸ばして他の生物を包み込みながら消化することでエネルギーを摂取するようになり、通常は「休眠モード」の状態にありますが他の生物を摂取するときだけ「覚醒モード」(自然を相対化する関係性)に切り替わるように進化しました。さらに、約5億4千年前にカンブリア大爆発によって神経が結合した脳(集中神経)がある扁形動物、節足動物、軟体動物や脊椎動物が登場し、激しい生存競争を勝ち抜くために感覚器官や運動機能を飛躍的に進化させながら沢山の情報を処理及び記憶して他の生物を摂取し又は他の生物から捕食されないように適切に判断して行動できるように「覚醒モード」を大幅に拡張しました。このように生物はエネルギーの消費を抑えるために「休眠モード」をデフォルトにしていましたが、他の生物を摂取し又は他の生物から捕食されないように「覚醒モード」を進化させて生存可能性を高めたと言われています。これに伴って知覚と記憶を組み合わせて外界を効率的に認知するように進化すると共に、更に生存可能性を高めるために外界の変化を「予測」する能力を獲得して「意識モード」(自然を相対化する関係性の中で自我を萌芽)を進化させたと言われています。この「休眠モード」と「覚醒モード」は周期的に切り替わるようになっていますが、その仕組みとして①「疲労」(内的要因:体)をトリガーとして分泌されるアデノシン(疲労蓄積→休眠モード)とオレキシン(疲労解消→覚醒モード)という脳内で働く神経物質を使ってコントロールするシステムと②「時間」(外的要因:光)をトリガーとして分泌されるメラトニン(夜→休眠モード)とコルチゾール(朝→覚醒モード)という血液で全身に作用するホルモンを使ってコントロールするシステムの2種類があると考えられています(上表を参照)。上記①の疲労システムは脳が「覚醒モード」中にATP(エネルギー分子)を分解することにより生成される老廃物(認知症の原因物質であるアミロイド βなどのタンパク質の残骸)が堆積して行くことで脳の機能低下を招くことから「睡眠モード」に切り替えて(睡眠圧)、脳内に堆積している老廃物を脳脊髄液で洗い流すことによって脳の機能回復を図ると言われています(グリンパティックシステム)。この点、「休眠モード」は脳内に堆積している老廃物を洗い流すことはできますが、いわゆる寝溜めはできない仕組みになっています。また、脳は「覚醒モード」で活発に活動したことによってニューロンを結ぶシナプスの強度が上昇しますが、「睡眠モード」でニューロンを結ぶシナプスの新生を抑えると共に不必要なシナプスを削除することで脳の負荷を低減して脳内の最適化を図り脳(精神)の健康を保っていると言われています。さらに、上記②の時間システムは、サーカディアンリズムを制御する時計遺伝子が合成するPERタンパク質の量が増えるとPERタンパク質が細胞核に入ってPERタンパク質の合成を抑制し(夜の時報)、PERタンパク質の量が減少すると時計遺伝子がPERタンパク質の合成を再開する(朝の時報)というサイクルを約24時間周期(体内時計)で繰り返しますが(さながら電波時計)、外界の光(さながらセシウム原子時計に基づく高精度な標準電波)が脳の視交叉上核(SCN)に入力されることで体内時計が太陽の動きと同期される仕組みになっています。このサーカディアンリズムに合わせて夜にメラトニンというホルモンを血液で全身に分泌することで「夜の自分」という状態に切り替え、朝にコルチゾールというホルモンを血液で全身に分泌することで「朝の自分」という状態に切り替えています。この点、生物はホメオスタシス(環境変化に適応して自分の状態を保とうとする力)のためにエネルギーを摂取する必要があり、とりわけ動物は他の生物を摂取するために危険を犯して行動する必要があるために危険に適切に対応できるように高いレベルの覚醒モードと恐怖や不安などの情動が必要になったことから神経が結合して脳(集中神経)に進化したのではないかと考えられています。このような仕組みで睡眠と覚醒がコントロールされており、上記①の疲労システムと上記②の時間システムの同期を乱さないように心掛けることが良質な睡眠を確保し、脳の機能低下や機能不全を防いで心身の健康を維持するための最低条件と言えるかもしれません。
 
▼睡眠と覚醒のハイブリッドシステム
人間は「疲労システム」と「時間システム」を組み合わせたハイブリッドシステムを採用して睡眠と覚醒をダイナミックにコントロールしています。
 
上述のとおり脳は不必要なシナプスを削除することで脳の最適化を図っていますが、人間は生存可能性を高めるために「正確さ」よりも「素早さ」や「省エネ」を優先して脳の効率的な認知を可能にしましたが、外界の情報を取捨選択(フィルタリング)して抽象化・一般化することでステレオタイプ(認知バイアス)を形成し、効率的な予測と認知(ヒューリスティック)を可能にしています。このような認知バイアスは危険の察知、迅速な判断や集団の協調などに有利に働く反面として、創造的な営みや真理の探究などには足枷となる傾向があります。この点、芸術や科学では、この認知バイアスを疑って、これを揺さぶり又は破ることを試みる営みと言えるかもしれません。また、上述のとおりアミロイド βなどによって脳の機能低下を招くことで、脳内の信号が上手く伝わらない、集中力が低下する、体がだるくなるなどの症状が現われ、これが認知症の発症リスクを高める一因であると考えられています。一般的な認知症の進行は①「時間」が分からなくなる→②「場所」が分からなくなる→③「人物」が分からなくなるの順序を辿ると言われていますが、これは脳の機能低下が生じる部位の順序(海馬→頭頂葉→前頭葉など)に対応しており、また、①反応(休眠モード)→②世界の認知(覚醒モード)→③自己の認知(意識モード)へと進化した経路と重ね合わせて理解することができます。このように「休眠モード」と「覚醒モード」のコントロールができなくなることで夜中の徘徊などの認知症の典型的な症状が現われ、ついには「意識モード」のコントロールができなくなることで自己のアイデンティティが崩壊していきますが、上述のとおりこの過程が映画「ファーザー」で丹念に描かれています。OECDの調査によれば、日本やイタリアなどの高齢者が多い国では認知症の有病率が高く(長寿国=認知症大国)、日本の認知症患者は推定で440万人と言われ、2040年には584万人に達すると予測されています。最近の研究では、40ヘルツの音や光の刺激は脳のガンマ波を誘発してミクログリア細胞を活発化させることで認知症の原因物質であるアミロイド βを減少させる効果があると考えられています。また、森林効果(植物が分泌している揮発性物質のフィトンチッドなど)には脳の抗酸化作用やストレスホルモンの減少などを促す作用があり、15分~30分程度の森林浴で効果が現われ始めて、1~2時間程度の森林浴で脳をリフレッシュさせることができると言われています。かつて「休眠モード」がデフォルトであった生物が「覚醒モード」を進化させる過程で誕生した脳は24時間眠らずに働いていますが、その脳がアクセルとブレーキを踏み間違えて暴走してしまわないように、人生の免許を返納するまでは常日頃から脳の整備が欠かせないということかもしれません。その意味で、これからの時代は平均寿命の長寿国=認知症大国からステップアップし、健康寿命の長寿国=ウェルビーイング大国という指標が重要になってくるのではないかと思います。
 
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▼Cabinet Of Curiosities 2026
【演題】Cabinet Of Curiosities 2026
    New Music Theater
【演目】①森 紀明 私と世界のあいだ|界面として(世界初演)
     <Perc>安藤巴、柴田知明、谷本麻実
     <E-Gt、Syn>山田岳
     <Elec>磯部英彬
     <演出>森紀明
     <映像・美術>山田聖
     <アーティスティック・アドバイザー>根本しゅん平
    ②キャシー・ファン・エック ワーズ、ワーズ、ワーズ(2022)
     <Perf>安藤巴、柴田知明、谷本麻実、廣庭賢里、山田岳
     <Elec>磯部英彬
    ③渡辺裕紀子 柔らかい月(2013/14)
     <Sop>根本真澄
     <Chor>伊藤和奏、藤原優花、渡辺智美
     <Fl>齋藤志野
     <Cl>鄭圭祥
     <Vn>松岡麻衣子
     <Vc>下島万乃
     <Perc>難波芙美加
     <Acc>大田智美
     <Cond>馬場武蔵、照沼夢輝(副)
     <演出>布施砂丘彦
     <映像>銀色なつみ
     <コレペティトゥア>古野七央佳
    ④小林 夏衣 子供部屋のトポロジー(世界初演)
     <Mez>小阪亜矢子
     <B-Fl>内山貴博
     <Cl>照沼夢輝
     <Gt>藤元高輝
     <Va>迫田圭
     <Cb>山本昌史
     <演出>小林夏衣
     <美術>足立沙樹
【舞台監督】近藤元
【照明】植村真
【音響】磯部英彬
【舞台アシスタント】伊賀並公佳、茶木修平
【運営】神田瀬名、篠原美奈、中林零、山田奈直
【撮影】今村采加、北原和明、中村光男
【制作】森紀明、渡辺裕紀子(Cabinet of Curiosities
【日時】2026年1月31日(土)15:00~
【会場】ゲーテ・インスティトゥート東京ホール
【一言感想】
人間は世界のムラを知覚するためのセンサーとして五感を備え、それらのセンサーから得られる断片的な情報を生存可能性を高める観点から編集、統合して世界を認知していますが(人間以外の生物には磁気、電気、赤外線、超音波などを知覚するためのセンサーを持ち、人間の認知世界とは異なる世界を生きているものもあり)、現代はそれらのセンサーに多様に働き掛けるマルチメディア技術が発達し、また、それらのセンサーだけでは捉え切れない世界のムラをそれらのセンサーと互換性のある様式に変換し又は演出することなども可能になっています。このような社会状況にあって、伝統的なオペラを構成する「言葉」(世界を分節する記号体系)が誕生する以前の「音」と「パフォーマンス」という要素に分解し、「物語」(世界を分節して語られるもの)ではなく「状況」(世界と連節して立ち現われるもの)を伝えるプリミティブなコミュニケーション方法に還元することで、その表現可能性を大きく拡張しようと試みているのがミュージック・シアターの魅力ではないかと個人的には捉えています。さて、本日は、2021年にリサーチ型キュレーションを行うプラットフォームとして結成されたキャビネット・オブ・キュリオシティーズが日本では珍しくミュージック・シアター4作品を公演するというので鑑賞しました。この公演には「舞台芸術としての音楽の境界線を探る」という副題が付されていましたが、個人的には、本日の4作品に共通するテーマ性として観客の認知バイアス(人間中心主義で分節された世界観)を破り観客の五感を揺さぶることで世界の実相に迫る試みのように感じられましたので、その観点から各演目についてごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
〇私と世界のあいだ|界面として
パンフレットには「布、膜、音、身体、像、そして観客。それぞれは独立した存在でありながら、接触と反復、わずかなズレを通して相互に影響し合い、舞台という共有された時間のなかで一時的な回路を形成していきます。そこに表れるのは、確定された像ではなく、行為のあとに残る痕跡や、判断の手前に立ち上がる感覚です。」と記載されています。冒頭では楽器が奏でる音を音楽的な文脈を伝えるための「シグニファイア」(認知的作用)ではなく、楽器そのものの素材性(木、石や金属)などを感覚するための「アフォーダンス」(知覚的作用)と再定義して観客(人間)と楽器(世界)の界面(インターフェイス)を前景化することで、観客を音楽的な文脈の理解(文化的記号により世界を分節する認知バイアス)から解放し、楽器そのものの素材性などの感覚(自然的現象をありのままに受容するイノセンス)に還元して観客の感受性を世界に拓き、人間と世界の関係性を捉え直す作品に感じられました。現代人は古代人のように音を「自然のシグナル」(世界との連節)として感覚的に捉えるのではなく「文化のシンボル」(世界との分節)として理性的に分析する傾向が強く、それによって失われてきた感受性を再起動させる面白い芸術体験になりました。また、この作品では人間と世界の界面を多様に捉えて、スネアドラム、掌、光、影、映像や透過布を使って人間と世界(リアルとバーチャルが交錯する世界)の界面を視覚的に演出したり、アコースティックの音やエレクトロニクスの音を使って人間と世界(アナログとデジタルが交錯する世界)の界面を聴覚的に演出していましたが、現代は技術革新によって世界との界面が多様になっており、それによって磨かれる新しい感受性を覚醒して世界観を広げる契機にもなる意欲的な作品に感じられました。
 
〇ワーズ、ワーズ、ワーズ
パンフレットには「本作は、言葉が意味を伝える通常の役割を離れ、音と動きが「話すことのかたち」をどのように提示し得るかを問いかける。観客は言葉の意味を期待するのではなく、発話をめぐる身振りや音の輪郭、そして沈黙へと回帰する瞬間に注意を向けることになるだろう。」と記載されています。エレクトロニクスで非楽音(ノイズ)が流されるなか、4人のパフォーマーが中央にスピーカーを設えた白い厚紙で顔を覆いながら、そのスピーカーにマイクを近づけてエレクトロニクスの楽音が流されるという行為が繰り返されました。非楽音(ノイズ)は方向性(波形の規則性)を持たない自然的な音であり、それを人間が認知(世界を分節)し易いように方向性(波形の規則性)を持つ人工的な音に整えて(不協和音は色々なものを削ぎ落さない自然的に発生する方向性を持たない音であるとすれば、協和音は人工的に色々なものを削ぎ落して加工した方向性を持つ音のこと)、それを体系化して文化的記号としたものが言語や古典的な音楽だと思いますが、言葉という文化的記号によって世界を分節するのではなく、言語以前の音やパフォーマンスを交えて分節される以前の世界との連節を試み、ありのまま世界観を感覚する体験を俎上することで、カオスな音(非楽音)からロゴスな音(楽音)が生成されて行くプロセスを表現した非常に示唆に富む作品に感じられました。
 
〇柔らかい月
パンフレットには「20世紀のイタリア文学を代表する作家、イタロ・カルヴィーノの同盟短編小説を出発点に構想されました。物語の核となる「月と地球の引力関係の異常-月が溶けて落ちてくる」という比喩的なイメージを土台に、この素材をより広い寓意へと開くことにしました。(中略)月が落ちるという極端な事態は、確かだと思い込んでいた「地盤」や「常識」が突如として揺らぎ始める瞬間の比喩でもあります。」と記載されています。ギロとヴァイオリンのリコシェ(又はスピッカート?)が天の岩戸(=月)が落下してくる様子をイメージさせる音をまぶすと、ソプラノ(最も高い声域=天の岩戸のメタファー)の根本真澄さんが白い服を着て舞台に現われ、清澄な歌声で「月が近づいている」(ドイツ語)で歌いました。カオスな音響に包まれるなか、ヴィジュアルアートとしてドローイングや文字が水中で揺らぎながら滲んで行く様子がバックスクリーンに投影されましたが、ドローイングや文字はロゴス(方向性を持つ世界のメタファー)、水はカオス(方向性を持たない世界のメタファー)を体現しているようであり、確かなもの(方向性を持つ状態=ムラ)が不確かなもの(方向性を持たない状態=均質)によって揺らぎ、回収されて行く様子を表現しているようで面白く感じられました。これに続いてワイングラス(ロゴスのメタファー)に水(カオスのまたファー)が注ぎ込まれる様子がバックスクリーンに投影されていましたが、無色のワイングラスと水が重なり合い透過している様子はロゴスとカオスがシームレスに連節している世界観(複雑性理論)を表現しているようで大変に興味深いシーンでした。オーケストラが点描を奏でるなか、会場の照明が落とされて真っ暗な中で豆電球が灯る演出があり、おそらく月の落下を視覚的に演出したものではないかと思いますが、寧ろ、万物は光から生まれたことを象徴するシーン(宇宙創成の物語として電子と陽電子が対生成と対消滅を繰り返すことで大量の光が誕生し、その過程で余った電子が陽子と結合して万物の素である原子が生成され、やがて星や生命に結実したことをイメージさせる演出)のように感じられました。過去のブログ記事でも触れたとおり「地球と月」や「男と女」などはもともとは1つのものであり、約45億年前に地球に隕石が衝突して月が誕生したことで地球は生命を育むために最適な安定した環境を獲得し、また、生物は生存可能性を高めるために無性生殖から有性生殖に進化したことで男性と女性という2つの性を獲得しましたが、天の岩戸(=月)の落下を連想させる下降形のモチーフや点描表現などが生むフラジャイルな感触は、人間が確かなものであると信じている分節された世界(認知バイアス)は常に揺らぎながら変化し続けている儚いものであることを強く印象付ける面白い作品に感じられました。
 
〇子供部屋のトポロジー
パンフレットには「宮沢賢治の「雪渡り」をほとんど忘れていたのですが、実際に私が使っていた教科書を見ると色々と線が引いてあったりして、読んでみると色々思い出すことがあるんです。こうした題材の断片を再配置して、その「間」を探求したいと思い、「トポロジー」という言葉を選びました。」と記載されています。この作品はインスタレーションとして舞台と客席の区別がないホワイエに客席が円形に配置され、その空間全体に演奏者、ゴミ袋のようなオブジェ(記憶の断章のメタファー)、映像、照明が配置されました。点描的な音響とドイツ語の音素が繰り返されて文脈を帯びる前の音が散りばめられ、それに呼応して空間全体に配置されたゴミ袋のようなオブジェが明滅しましたが、やがてメゾ・ソプラノの小阪亜矢子さんがゴミ袋のようなオブジェを手繰り寄せながら会場を回遊して宮沢賢治の小説「雪渡り」の断章を反芻し、ゴミ袋のようなオブジェを身に纏いながら作品が展開して行きました。過去のブログ記事でも触れたとおり人間は知覚(現在の情報)と記憶(過去の情報)を組み合わせて認知しますが、芸術の受容にあたってはその作品(あなたの世界:オフ・ステージの視点)に自己のアイデンティティをプロジェクションしてナラティブ(わたしたちの世界:オン・ステージの視点→拡張自己)へと昇華し、その芸術体験によって自己のアイデンティティを再構築してインカネーション(わたしのの世界:アイデンティティの拡充→自己拡張)することで受肉するというプロセスを踏み、拡張自己(同化)と自己拡張(異化)を往還しながら自己のアイデンティティのアップデートを図ること(知らない自分と巡り合うこと)で「面白い」と感じます。この点、宮沢賢治の小説「雪渡り」を読んだことがない人にとっては、その断章を反芻されても何らかの記憶や感覚のようなもの(ナラティブに仕立てる手掛り)が喚起されない可能性もあり、この種の顧客参加型のインスタレーション作品の難しさも感じさせます。この変革の時代には創発を誘う「有効な無駄」の効用が見直されていますが、ゴミ袋のようなオブジェ(義務教育で学習した記憶)を手繰り寄せて身に纏うパフォーマンスは変革の時代における価値倒置を象徴するものに感じられ、新しい芸術体験によって観客の認知バイアスに揺さぶりを仕掛けて価値倒置を促すことを試みた意欲作に感じられました。前回のブログ記事で触れた2026年問題(AI開発)では「記憶」だけではなく「知覚」の重要性(ロボティクスやシュミレーションなど)が再認識されており、日々の「知覚」(体験)により「記憶」が再構築されて新しい価値を生むことを表現した現代の時代性を感じさせる面白い作品に感じられました。
 
 
▼読売交響楽団第655回定期演奏会
【演目】細川俊夫:ヴァイオリン協奏曲「ゲネシス(生成)」
     <Vn>諏訪内晶子
    ブルックナー 交響曲第7番ホ長調(ノヴァーク版)
【演奏】<Cond>ジェームズ・フェデック
    <Orch>読売日本交響楽団
【日時】2026年2月4日(水)19:00~
【会場】サントリーホール
【一言感想】
2023年に樫本大進さんと読売交響楽団がサントリーホールで細川俊夫さんのヴァイオリン協奏曲「祈る人」を日本初演したときの感動が記憶に新鮮ですが、今回は諏訪内晶子さんと読売交響楽団がサントリーホールで細川俊夫さんのヴァイオリン協奏曲「ゲネシス(生成)」を再演するというので、万難を排して聴きに行ってきました。当初は望月京さんのヴァイオリン協奏曲(新作)を世界初演する予定でしたが、残念ながら、作曲家の都合により演目が変更になったようです。しかし、結果的に、ヨーロッパばかりで再演されている同曲の日本再演が実現する非常に貴重な演奏会になったことは喜ばしい限りで、この演奏会を聴き逃してしまう自称クラシックファンはウカツモノ又はモグリと揶揄されても仕方がありません。仕事を休んでも聴きに行くべき演奏会と言えましょう。もし日本に読売交響楽団がなければ、どれだけ日本の音楽シーンは痩せたものになっていたのかと思うこの頃です。なお、ブル7のマイナスイオンの風に吹かれても良かったのですが、週中の公演で仕事が残っており後半は失礼させて頂きましたので、ヴァイオリン協奏曲「ゲネシス(生成)」の感想のみを簡単に残しておきたいと思います。
 
〇ヴァイオリン協奏曲「ゲネシス(生成)」
パンフレットには「作曲家はエーベルレの出産を祝い、「彼女とその息子マキシムへのプレゼント」としてこの作品を贈る。ヴァイオリニストが最初に受け取った楽譜には、「マキシムのために歌うこと」という注釈/表現記号があったという。」とエピソードに触れ、「ゲネシス(生成)はその名の通り、人間の誕生とその後の歩みとを象徴的に表現している。」と記載されています。冒頭はトゥッティーのグリサンドとソリストの繊細なヴィブラートが揺らぐなか(細川さん曰く「羊水の追憶」)、ハープとコントラバスのピッチカートの点描が散りばめられ、生命の誕生を予感させる神秘的な演奏が展開されましたが、宇宙が誕生する前の量子ゆらぎの状態ともイメージが重なって生命を含む万物を生み出す根源的なものに触れているような深淵な世界観に魅せられました。ソリストの諏訪内晶子さんがスピッカートの密度を増しながら生命が育まれようとているイメージを繊細に紡ぎ出すと、これにトゥッティーが緊張に絡み合い、ソリストとトゥッティーが相互に溶合(対称性)や励起(非対称性)を繰り返しながら揺蕩い、生命の誕生(又は真空の相転移とエネルギーの励起という根源的なイメージ)が繊細に描き出されているような当意即妙な演奏に惹き込まれました。ソリストと緊密に呼応するようにフルートトップが尺八のようなプラグメント、チェロトップが琵琶のようなフラグメントを奏でましたが、日本人作曲家とその作品(邦楽器を含む)が世界的に認知される契機となった武満徹さんとノベンバーステップ(日本人作曲家のゲネシス(生成))へのオマージュの意味合いが込められているのかもしれないと思い巡らせると感慨深いものを感じました。また、ソリストと呼応して哀切に歌うセカンドトップの好演も出色でした(セカンドトップは誰かしら?)。ソリストは高音の微弱音を繊細に揺蕩わせて幽玄な世界観を紡ぎ出していましたが、さながら生命の儚さや清浄さのようなものが丹念に織り込まれて行くような演奏に息を呑みました。ソリストとトゥッティーが静寂の中へ消え入る瞬間が何度かありましたが、その限りない静寂(母なるもの)の中で、さながら絶えることなく受け継がれて行く儚い生命の灯のように微かに揺らぐ超微弱音が聴かれ(さすがフェデック@読響!)、キャプテン・ハーロックの名言「親から子へ、子からまたその子へ血は流れ、永遠に続いていく。それが本当の永遠の命だと、俺は信じる。」を思い出しながら独り感動を深くしていました(孫が欲しい!)。諏訪内晶子さん及びフェデック@読響の高い音楽性によってこの傑作にも生命が吹き込まれ、親から子へと受け継がれて行く生命の尊さを噛みしめることができる好演を堪能できました。次の時代に聴き継がれる傑作であり、未聴の方に強くオススメします。ヴラヴィー!!
 
 
▼国際音楽祭NIPPONフェスティヴァル・オーケストラ
【演目】J.ハイドン 交響曲第39番ト短調
    J.ハイドン ヴァイオリン協奏曲第3番「メルク協奏曲」イ長調
     <Vn>諏訪内晶子
    アルヴォ・ペルト フラトレス
     <Vn>諏訪内晶子
    W.モーツァルト 交響曲第40番ト短調
【演奏】<Cond>サッシャ・ゲッツェル
    <Orch>国際音楽祭NIPPONフェスティヴァル・オーケストラ
【日時】2026年2月11日(水・祝)17:00~
【会場】横浜みなとみらいホール 大ホール
【一言感想】
スワナイ詣で2日目。先日の細川俊夫さんのヴァイオリン協奏曲「ゲネシス(生成)」で作品の真価を伝える好奏を聴かせてくれた諏訪内さんですが、今回はA.ペルトさんのフラトレスを採り上げるというので聴きに行きました。大谷祥平さんが岩手の星ならば、僕が幼少期を過ごした実家近くの成瀬の星だった時代を経て世界的なヴァイオリニストとして不動の地位を築かれた諏訪内さんが次の時代の傑作(シン・ボンカレー)を積極的に採り上げ、その魅力を余すところなく伝えてくれる活躍に真のミューズ性を感じます。伝統の重要さは語り尽くされており論を待ちませんが、その一方で、いつまでも伝統に留まって満足していられるほど人生の時間は長くなく時代も待ってくれませんので、昔、大変にお世話になったハイドン・ボンカレーとモーツァルト・ボンカレーの懐かしの味の感想は敬意を払いつつも割愛させて頂いて、A.ペルトの人気作であるフラトレス(シン・ボンカレー)の感想のみを残しておきたいと思います。本日はやや客入りが芳しくありませんでしたが、やはり懐かしの味では食指が動かない客層が増えてきているということかもしれません。さて、1977年に作曲された「フラトレス」はラテン語で兄弟という宗教的な意味(キリスト教徒)を持つ言葉ですが、(A.ペルトさんが政治的な意図を持っていたのか否かは分かりませんが)ソ連支配下におけるエストニア民族の弾圧やロシア語の強制などの当時の時代状況を踏まえると民族的な意味(エストニア民族)を含意していると捉えることもできるかもしれません。A.ペルトさんの独自の作曲技法「ティンティナブリ様式」(ティンティナブリとは鐘の音(三和音的な響き)の意味ですが、旋律声部を構成する各音に対して三和音の関係にある音を一定の規則性に従って数学的に選び組み合わせて作られるティンティナブリ声部の2声部からなるホモフォニー的な音楽)を使った作品として人気を博しており、現代音楽後進国の日本でも比較的に演奏機会が多い演目ではないかと思います。この曲は様々な編成に編曲されており、ギンドン・クレーメルさんとキース・ジャレットさんが録音を残しているヴァイオリン+ピアノ版が最も有名ですが、本日はヴァイオリン独奏+弦楽合奏+打楽器版で演奏されました。ヴァイオリン+ピアノ版が深い内省的な世界観を体現しているのに対し、ヴァイオリン独奏+弦楽合奏+打楽器版は荘厳でありながら赦しに満たされた世界観に感じられました。冒頭でヴァイオリン独奏が奏でる旋律声部の分散和音は心の乱れのように感じられましたが、クラーベスの硬質な響きによって生み出される静謐な緊張感が心を研ぎ澄ませると、これに誘われるようにヴァイオリン独奏が透徹のフラジョレットで深く静かな祈りを紡ぎ、これを弦楽合奏が奏でるティンティナブリ声部が大きく包み込むように絡み合いながら赦しに満たされて行くような演奏を展開し、さながら鐘の音(聖霊のメタファー)に包まれているような恍惚感に魅せられました。ヴァイオリンド独奏が奏でる旋律声部(祈りや罪のメタファー)と弦楽合奏が奏でるティンティナブリ声部(清浄や赦しのメタファー)が絡み合いながら時に協和音、時に不協和音を奏でますが、クラーベス、スモール・シンバルやバスドラムが生む静謐な空気感に心を澄まされ、ティンティナブリ声部が奏でるハーモニーに誘われて深い祈りと瞑想へと至る、久遠の鐘の音に包まれる平安な世界に心を整えられるような好演でした。ヴラヴィー!
 
 
▼山司恵莉子20世紀後半におけるオルガン協奏曲の多様化
【演目】東京藝術大学大学院博士後期課程/第三回博士リサイタル
    山司恵莉子20世紀後半におけるオルガン協奏曲の多様化
【演目】ウィリアム・オルブライト オルガンのための交響曲
    ティエリー・エスケシュ オルガン協奏曲第1番
【演奏】<Org>山司恵莉子
    <Cond>西村広幸
    <Perc>長澤莉佳
    <Orch>学生有志オーケストラ(コンマス:大光嘉理人)
【日時】2026年2月12日(木)18:00~
【会場】東京藝術大学奏楽堂
【一言感想】
社会人が平日の(しかも18時)に東京藝大へ推参できるものなのかチェレンジでしたが、非常に興味深い演奏会が開催されるので、何とか聴きに行ってきました。口で吹くオルガンと言われる笙の起源は紀元前9世紀頃(詩篇「詩経」の小雅・鹿鳴之什より「我有嘉賓、鼓瑟吹。吹鼓簧、承筐是將。」)と言われており、また、オルガンの起源は紀元前3世紀頃(エジプトのヒュドラリウス)と言われていますが、これらの伝統的な楽器を「過去」のものとして冷凍保存することを良しとせず、歴史上の偉人が常にそうであったように伝統を「未来」に向って革新するための創造的な活動に食指が動かされます。第一回は「ロマン派におけるオルガン協奏曲の黎明期」、第二回は「両大戦間におけるオルガン協奏曲の興隆」に続く、第三回は「20世紀後半におけるオルガン協奏曲の多様化」という意欲的なシリーズ演奏会ですが、20世紀後半の多様化の縦軸に対し、21世紀はルー・ハリソンナジ・ハキムカレヴィ・アホヴェリ・クラヤなどの多元化の横軸が交錯してオルガン協奏曲の表現可能性が大幅に飛躍しているように感じられますので第四回にも期待したいです。
 
〇オルガンのための協奏曲
アメリカ人作曲家のウィリアム・オルブライトさんの晩年の作品である「オルガンのための協奏曲」が採り上げられました。様々なストップという調味料やレジスターというレシピを使って調性音楽、無調音楽やジャズなどの多様な素材を織り交ぜたシュールな音楽という印象で、聴衆の覚悟を試すような難解さがチャームポイントではないかと思います。第一楽章ではABA形式が採られており、冒頭のAでは常に低音部の重圧感に囚われるように高音部のモチーフが変形しながら繰り返されましたが、中間のBでは一転して忙しないリズムによる狂乱の音楽が展開され、再び、冒頭のAが回帰して息絶えるように終わり、第二楽章では低音部の重圧感に抗う術もなく下降形のモチーフが印象的に繰り返されました。第三楽章では高音部と低音部が緊密に呼応しながらリズミカルで快活なテンションの高い音楽を展開し、そのグロテスクな音響に包まれた聴衆は困惑と不快の深淵へと容赦なく放り込まれて為す術がありませんでしたが、ここでバスドラムとゴングの一撃が悪夢を粉砕して聴衆を救済し、これに続く第四楽章ではオルガンと打楽器が互いにマウントを仕掛ける緊張感のあるバトルを展開し、聴衆も揉みくちゃにされているような聴後感が素敵でした。どこかに録音がリリースされていたら、少し聴き込んでみたいと思います。藝大はボンカレー専門店なのかなと勘違いしていましたが、このようなシン・ボンカレーで聴衆の舌を痺れさせるような毒性を待ち合わせており、また奏楽堂に通ってみたくなる刺激的な演奏会でした。
 
〇オルガン協奏曲第1番
フランス人作曲家のティエリー・エスケシュさんと言えば、パリ・ノートルダム大聖堂の大火災修復後の首席オルガニストに任命され、昨年、その復活を祝うための記念碑的作品「パリ・ノートルダム大聖堂に捧ぐテ・デウム」をリリースされて話題になりました。第一楽章ではモチーフのフラグメントが重なり合いながらオーケストラとオルガンが緊迫感を持って呼応してテンションの高い音響を構築し、第二楽章ではオーケストラが色彩豊かな響きを奏でると、これに内省的なオルガンが絡み合いながら叙情豊かで美しい音楽が展開されました。第三楽章ではオーケストラの推進力あるリズムとオルガンの重厚な響きが緊密に拮抗し、さながらウェストサイドストーリーよろしくオーケストラvsオルガンのギャング団による決闘(ランブル)と形容したくなる暴力的でスリリングな演奏を展開しながらクライマックスを築く劇的な演奏を堪能でき、非常に聴き易く楽しい作品でした。なお、ファゴットとホルンが出色て、指導教官のお目に触れることがあれば褒めてあげて下さい。
 
 
▼ドイツ・オペラ賞2027ノミネート作品
ドイツ・オペラ賞2027のノミネート作品が発表され、過去のブログ記事で新作オペラ「船はついに安らぎぬ」の感想を書いた日本人作曲家の永井みなみさんの作品が最終選考に選ばれています。このオペラ賞は1997年から開催され、次の時代を担う若手作曲家の育成と現代の時代性を採り入れた現代オペラの振興を目的としています。今回は、過去のブログ記事でも触れた近松門左衛門の虚実皮膜論(実>虚)に対する異化効果論(実<虚)で有名なベルトルト・ブレヒトさんの戯曲「バール」を課題にして50名を超えるドイツ国内外の作曲家から応募された作品の中から、ヴィースバーデン国立劇場芸術監督のドロテア・ハルトマンさん、ドイツ人作曲家のブリギッタ・ミュンテンドルフさん及びベルリン・ハンス・アイスラー音楽大学、ミュンヘン音楽演劇大学、ノイケルン歌劇場の代表者から構成された審査員によって以下の3作品が最終選考に選ばれています。ドイツ・オペラ賞にノミネートされること自体が非常に光栄なことであり、日本国内での以下の3作品の公演が待ち望まれます。日本の音楽界がプリミティブな客の舌に合わせて定番しか乗せられない死に体でないことを心から祈って。
エイドリアン・ラウグシュ BAAL BAAL BAAL
永井みなみ バールによる短編オペラ
アライン・サラ・ミュラー データラッシュの中-バールの後(仮題)
 
▼DIG SHIBUYA 2026
今年も2月13日(金)から2月15日(日)までの3日間に亘り渋谷の街全体を舞台にした回遊型のアート&テクノロジー・イヴェント「DIG SHIBUYA 2026」が開催されます。オフィシャル・プログラムは以下のとおり予定されていますが、今年も坂本龍一さんのスピリッツを受け継いだ音楽フェス「RADIO SAKAMOTO Uday-New Context Fes✕DIG SHIBUYA-」 が開催される予定です。坂本さんが生前に追求していた「新しい文脈をつくる」精神を象徴するイベントで、渋谷を「未来の音が立ち上がる都市」として再定義し、「未来の音楽が生まれる夜」を創出する意欲的なものになるようです。
● オフィシャルプログラム①
道路が劇場になる日「DIG SHIBUYA THEATRON」 by ALTEMY
● オフィシャルプログラム②
街全体が美術館になる、サイネージ展覧会「SCREENS CONTEXTUALIZED」
● オフィシャルプログラム③
三島賞作家である中原昌也の全小説から学習したAI作家と対話しながら共著できる-AI中原昌也「声帯で小説を描く!」 Presended by 宇川直宏&DOMMNUNE
● オフィシャルプログラム④
渋谷の夜を巡る、未来の音楽フェス「RADIO SAKAMOTO-Uday」
● オフィシャルプログラム⑤
テクノロジー✕アートで渋谷が進化する-ワークショップ、ピッチ・セッション&ミートアップ「DIG SHIBUYA 2026 Opening Event」

【新年の挨拶②】現音 Music of Our Time 2025(ルイジ・ノーノ✕イサオ・ナカムラ)とアンサンブル・ノマド第86回定期演奏会と古事記・総合芸術舞台「一粒萬倍 A SEED」とモルゴーア・クァルテット第56回定期演奏会と「この世界のムラを運ぶ」 <STOP WAR IN UKRAINE>

 
▼ブログの枕「この世界のムラを運ぶ」
謹賀新年。少し気は早いですが、正月は多忙を極めますので12月に「新年の挨拶①」及び「新年の挨拶②」と二回に分けて新年の挨拶を投稿します。2026年は「老驥櫪に伏すとも志千里に在り」という意気込みで1年を駆け抜けて行きたいと思います。前9回のブログの枕では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」、「行動遺伝学」、「行動経済学」、「ニューロ・ダイバーシティ」、「文化心理学:拡張自己」、「社会心理学:自己拡張」、「認知心理学:心のフレームワーク」、「複雑系科学:複雑性理論」、「アンスロズオロジー」とリベラルアーツ擬きを試みてきましたが、「ムラ」シリーズの最終回(第10回)として、来年の干支である「午」(馬)に因んで、この世界の「ムラ」を運ぶと題して流通革命(2026年問題)についてごく簡単に触れてみたいと思います。前回のブログ記事でも触れたとおり、古代日本には馬は生息しておらず、古墳時代中期(5世紀頃)に朝鮮半島から渡来人が馬を日本へ持ち込み、6世紀頃までには日本全国へ普及したと考えられています。古代から馬は、「労働」(馬力)、「移動」(持久馬)や「軍事」(駿馬)などの幅広い分野で「人間の限界」を超えるための優れたパートナーとして重用され、「人」、「物」や「情報」(ムラ)の流通を革新する神の力を宿す特別な存在として神聖観されてきました。この点、世界中で「人間の限界」を超える特別な力に神秘を感じて馬を神霊の乗り物であると捉えるようになり、ギリシャインドでは太陽神が乗る車を引く聖獣とされ、また、中国では黄河から河図(八卦)が刻まれた龍馬が現れたという龍馬伝説(緯書)として敬われました。日本でも神前に馬を祈願奉納する習慣が根付き、それが現在でも「絵馬」を奉納する風習として残されています。前回のブログ記事でも触れたアンスロズオロジーよろしく、仏教では修行者が自らの煩悩を馬に擬えて上手にコミュニケーションをとりながらコントロールすることができるようになれば涅槃の境地に至ると説かれていますので、読経、写経や座禅などと同様にホースマンシップは自らの心を澄ませる仏教的な宗教実践と似たところがある、即ち、馬の直観に触れること(拡張自己)で人の心を養う相互作用(自己拡張)が期待できるということなのかもしれません。その意味で馬が神霊の乗り物であるというイメージは観念的なものに留まらず実利に叶うものと捉えることができるかもしれません。20世紀を象徴する第一次産業革命(蒸気機関と機械化)及び第二次産業革命(電力と大量生産)により「人」、「物」や「情報」を運ぶための流通手段として馬に代わって自動車、鉄道、飛行機などが新たに登場し、その後、21世紀を象徴する第三次産業革命(デジタルとコンピュータ)及び第四次産業革命(サイバーとAI、フィジカルシステム)により「情報」を運ぶための流通手段として自動車、鉄道、飛行機や船に代わってインターネットやAIなどが新たに登場し、流通革命がダイナミックに進展しました(現在は「物」と「情報」が結び付いた流通革命3.0から、それを高機能化した流通革命4.0へ移行するフェーズ)。これに伴って「物の流通」では2024年問題(ドライバー不足)を克服するための物流効率化法改正、「人の流通」では労働市場を流動化して労働力不足を解消するための労働関連法制定又は改正、「情報の流通」では情報の健全な流通を促進するための情報流通プラットフォーム対処法改正などが行われています。そんななかカリフォルニア大学のスチュアート・ラッセル教授が2023年7月にジュネーブで開催されたITUのAIサミットでAIの学習データ枯渇を問題提起して話題になりましたが、2026年までにチャットGPTのような大規模言語モデルが学習するための高品質テキストデータが枯渇し、AI開発の進歩が鈍化する可能性(2026年問題)が指摘されています。過去のブログ記事でも触れたとおり、人間は「知覚」(現在の情報:経験)と「記憶」(過去の情報:知識)を組み合わせて認知し、学習しますので、自ら学習しながら学習データを増やし続けることができますが、AIは「記憶」(過去の情報:知識)のみにより学習し、モデルを生成しますが、自ら学習しながら学習データを増やし続けることは難しい(但し、RLHFなどの例外もあり)と言われています。そこで、現存する限られた学習データを有効活用するためにアルゴリズムの改良や特定の分野に専門特化したモデルの開発などにより質の向上を図ることが考えられています。また、現存する限られた学習データを二次利用する合成データ(既存の学習データを加工して別の学習データを合成)の生成やマルチモダール学習(テキスト、画像、音声などの異なる種類の学習データの組合せ)の採用などが考えられていますが、学習データに偏りが生まれるなどのデータ汚染の問題が懸念されています。さらに、技術的に課題は多いですが、人間と同様にAIに「知覚」(現在の情報:経験)を仕掛けるためにロボティクス(物理的な経験)やシュミレーション(仮想的な経験)を組み合わせることで自律的に学習データを増やし続けることができるようにすることなどが検討されており、これらの対策によってAI開発の進歩が鈍化する可能性は大幅に低減できると考えられています。そもそもデータ(情報)とは世界の構造のムラ(秩序)をパターン化(表現)したものでしかなく、データ(情報)そのものは中立的なものですが、これに人間が「知覚」(現在の情報:経験)と「記憶」(過去の情報:知識)を組み合わせて意味(セマンティクス:分節)を観念しているに過ぎませんので、その文脈で言えば、人間の認知世界は実態のないもの(仏教の空性理論の世界観に相似するもの)と捉えることもできるかもしれません。過去のブログ記事でも触れたとおり、人間が「知覚」(現在の情報:経験)と「記憶」(過去の情報:知識)を組み合わせて観念している意味(セマンティクス:分節)を採集し、資本主義の回路に組み込んでいる典型がターゲティング広告であり、サイバー上では人間の可処分時間や注意を奪い合う仁義なき戦いが繰り広げられています。このように現実の世界とはデータ(情報)から構成され、そのデータ(情報)に意味を観念して新しい価値観、人間観、自然観や世界観(リアリティ)を創造しており、その実態のない観念としての意味が実態のある世界(世界の構造=ムラ)に揺さぶりを仕掛けていると言え、人間は実態のない意味に囚われて一生をかけて必死にムラに群がる不思議な存在(ムラ)と言えるかもしれません。因みに、血液型による性格診断が根強い人気ですが(バーナム効果)、人間の血液型はA型、B型、O型、AB型の4系統、猫の血液型はA型、B型、AB型の3系統、ゴリラに至っては約90%がB型の1系統、残り約10%がO型、A型の2系統に分類されます。これに対して、馬の血液型はA型、C型、D型、K型、P型、Q型、U型の7系統あり、これと組み合わせる赤血球抗原のパターン(例えば、Aa型、Ab型、Ac型など)も多様なので実に約3兆通りの血液型が存在すると言われています。この点、人間は赤血球抗原のパターンが少なく約数千万通りの血液型しか存在しないので、仮に血液型による性格診断が有効であるとすれば、馬は人間以上に個体差への肌理細かい配慮が必要な繊細な生き物と言えるかもしれません。なお、人間の血液型はA型、B型、O型、AB型の4系統(これにRh型を追加)が一般に知られていますが、これは輸血などの医療的な観点から重要な意義を持つ血液型に便宜的に集約されているだけで(さながら血液型の全音階)、上述のとおり実際には人間の血液型(=赤血球抗原)は数千万通り存在している(さながら血液型の微分音)と言われています。この点、自分の正確な血液型を知るためには遺伝子検査が必要になりますが、それによって自分の体質なども分かるそうなので、やはり血液型に応じた何らかの特徴的な傾向はありそうです。
 
▼2026年問題
最近、人間が制作した音楽や画像よりもAIが生成した音楽や画像を鑑賞している時間の方が長いような気がしますが、既にAIが人間を凌駕するレベルに達しつつあるように感じます。2026年以降は自律的にタスクを実行するAIアシスタントが登場して労働市場が大きく変容することが予想されており、人間をマネジメントする能力よりもAIをマネジメントする能力の方が重要視される時代に移行しつつあるように感じます。また、AIがサイバー空間からリアル空間(自動運転、ロボット、IoTなど)に急速に浸透し、AIの普及に伴う爆発的なエネルギー需要が新たな社会課題として顕在化することが予想されていますが、これらの新しい社会課題もAIが最適解を見付けてくれるのではないかと思います。2025年は本ブログ記事の末尾に貼付しているMVの歌詞「君は不要だと囁くアルゴリズム♬」という時代が到来する予兆のようなものが感じられる年でしたが、2026年はその時代の潮流が更に加速度的に進展する年になるかもしれません。別のMVの中でAIによって花の色が白から赤に一瞬で切り替わる場面がありますが、人間の知覚では白い花に見えていても他の生物には別の色に見えており、人間が知覚している白い花も実態がないバーチャルなものであって、その意味では何をもってリアルと言い得るのかAIが生成する世界観と人間の脳が生成する世界観に大差はないと言えるかもしれません。これからは何でも人間がやらなければ気が済まなかった人間中心主義の時代から、馬だけではなくAIとの異種間共生も模索する時代がやってきつつあるということかもしれません。
学習データ 枯渇時期 影響範囲 追加要因
高品質データ 2026年 大規模言語M 著作権保護
低品質データ 2030年
~2050年
汎用言語M API制限
プライバシー
視覚データ 2030年
~2060年
画像・動画 著作権保護
プライバシー
 
▼ルイジ・ノーノ✕イサオ・ナカムラ
【演題】ルイジ・ノーノ✕イサオ・ナカムラ
【演目】①ヘルムート・ラッヘンマン Interieur Ⅰ(1996年)
     <Perc>高瀬真吾
    ②ルイジ・ノーノ
         Risonanze erranti(1986/87年)
     <Cond>イサオ・ナカムラ
     <C-Alt>福原寿美枝
     <Fl>木ノ脇道元
     <Tb>橋本晋哉
     <Perc>大場章裕、大家一将、神田佳子
           窪田健志、新野将之、藤井里佳
     <Elc>有馬純寿
【対談】長木誠司×イサオ・ナカムラ
【日時】2025年12月23日(火)19:00~
【会場】日暮里サニーホール
【一言感想】
L.ノーノの晩年の傑作「リソナンツェ・エッランティ」を日本初演するというので鑑賞してきました。しかも、L.ノーノの弟子であり盟友として親交が深かったH.ラッヘンマンの作品をカップリングする気の利きようで食指が動きました。
 
①Interieur Ⅰ
個人的な印象では、H.ラッヘンマンは「伝統の否定」(前衛)から「伝統の異化」(ポスト前衛)へと革新した作曲家として語られることが多いですが、特殊奏法などの作曲(演奏)技法は表現手段に過ぎないという立場を鮮明にして「方法」の探求から「世界観」の表現へと音楽を深化した作曲家であり、そこに大きな魅力を感じます。客は新しい調味料や新しい調理法に舌を巻くのではなく、その料理が体現している世界観を味わうものであって、その世界観を体現するための手段として新しい調味料や新しい調理法は意義を持つに過ぎないと思います。その文脈で言えば、この曲はH.ラッヘンマンが「伝統の異化」から「世界観」へと音楽表現を深化させるための重要な基盤を確立した時期の作品と言え、「世界観」を表現するための音楽的な語彙を磨き上げた作品と位置付けることができるかもしれません。この曲は1966年に打楽器奏者の中村功さんによって日本初演されていますが、本日は中村さんがR.ノーノの曲を、また、中村さんの弟子である高瀬真悟さんがR.ノーノの弟子であるH.ラッヘンマンの曲を演奏しました。演奏者を取り囲むようにマルチ・パーカッション(ビブラフォン、マリンバ、ティンパニー、トムトム、トライアングル、シンバル、タムタム、テンプルブロック、カウベル、ハイハット、アンティークシンバルなど)が配置され、パーカッションのインテリアと形容できる多彩な音響で空間装飾されましたが、何らかの明確な文脈(分節)をもった音の集積から構成される「定規で描ける世界観」(線形思考、人工美:神や王の絶対秩序を基調とする第一次世界大戦までの音楽)とは異なって、時折、秩序付けられた構造(フラグメント)が見え隠れはしますが、それらが因果を結ぶことはなく、マルチ・パーカッションが奏でる皮、木、金属の多彩な音響がカオス又はランダムに配置され、それらが音質、音色、密度や組合せなどを変化させながら多様な関係性で彩る「定規で描けない世界観」(非線形思考、自然美:自然の相対秩序を基調とする第二次世界大戦以降の音楽)を体現する音楽に感じられました。この点、マルチ・パーカッションが紡ぐ多彩な音響を調度品に擬えて言えば、さながら数寄屋造りに見られる「取り合わせの美」を体現するような音響空間が出現し、マルチ・パーカッションの多彩な音響を「混ぜる」(均質)や「整える」(人工)こと(自ら=みずから)ではなく「和える」(異質)や「活かす」(自然)こと(自ら=おのずから)から生まれる精妙で味わい深い趣きを味わい尽くすような作品の面白みを堪能できました。この作品の魅力を組み尽くすように多彩な表情を紡ぎ出すことに成功していた高瀬さんの秀演が出色でした。
 
②Risonanze erranti
打楽器奏者の中村功さんは、L.ノーノが求める「大きい音」を発見するための「音探し」に協力し、その研究成果をもとにしてRisonanze errantiが創作されたそうです。ミニ・トークで中村さんから貴重な創作秘話を伺うことができましたが、そこからL.ノーノの「音探し」の趣意を個人的に推し量ってみると「音を創作する」というよりも「音を発見する」というアプローチに近かったのではないかと推測されます。即ち、単に撥を振り上げて打楽器を強く叩くことから生まれる大きい音はそれが生まれる前から演奏者の身振りを介してエネルギーの凝縮や発散が視覚的に伝わってきますが、そうではなく音そのものから立ち上がる大きな音を感じるために聴衆からは見えないように撥をしならせて打楽器を叩くことで音そのものから生まれる大きな音が聴覚的に伝わることに成功したのではないかと思われ、それがL.ノーノが求めていた「大きな音」だったのではないかと感じます。さて、この曲はコントラルトという希少な声域と10台のスピーカーを使用したライブエレクトロニクスという特殊な編成を必要とするために演奏機会が少なく、世界初演から40年を経て漸く日本初演が実現しました。静寂からコントラルトの幽き声(但し、言葉(意味)で世界を分節する前の、感覚で世界と連節することにより自然の揺らぎと共鳴しているような音響)が発せられると、突然、打楽器の「大きな音」に遮られて静寂へと回収されていきます。再び、静寂からコントラルトの幽き声が発せられると、これにチューバやフルートが感応しますが、打楽器の「大きな音」に遮されて静寂へと回収されて行くことを繰り返しました。作曲意図は兎も角として個人的には、静寂(無:対称性)からムラ(有:対称性の破れ)が励起し、やがてそのムラ(有:対称性の破れ)がエントロピー増大の原則によって散らばりながら静寂(無:対称性)へと回収されて行く様子がイメージされ、非常にストイックな音響が生む凝縮(緊張)と発散(弛緩)の繰り返しによって演出される研ぎ澄まされた澄んだ空間にライブエレクトロニクスによる浮遊感のある残響がたゆたう幻想的な世界が広がり、対称性の破れ(生命を含む物質が励起・自己組織化)と対称性(生命を含む物質が基底状態へと回帰)を繰り返す生滅流転する宇宙の根本原理を体現しているような面白い音楽に感じられました。
 
 
▼アンサンブル・ノマド第86回定期公演
【演題】アンサンブル・ノマド第86回定期公演
    まなざし、あるいは差異の煌めきvol.3 :振り返るまなざし
【演目】①ヴィクトル・ウルマン 弦楽四重奏曲第3番(1943年)
     <1stVn>甲斐史子
     <2ndVn>大鹿由紀
     <Va>迫田圭
     <Vc>菊地知也
    ②ヴィクトル・ウルマン 
            オペラ「アトランティスの皇帝」(1943年)
     <オーバーオール皇帝>須藤慎吾(Br)
     <ラウドスピーカー>小森輝彦(Br)
     <死神>大塚博章(Bass)
     <ハルレキン>升島唯博(Ten)
     <兵士>澤原行正(ten)
     <少女>青木エマ(Sop)
     <鼓手>手羽明恵(Sop)
     <Cond>佐藤紀雄
     <Vn>甲斐史子、大鹿由紀
     <Va>迫田圭
     <Vc>菊地知也
     <Cb>佐藤洋嗣
     <Fl>木ノ脇道元
     <Cl>菊地秀夫
     <Ob>南方総子
     <Sax>坂口大介
     <Tp>東川理恩
     <Perc>宮本典子、上野美菜
     <Pf>中川賢一
     <Cemb/Harm>小坂圭太
     <Gt/Banj>土橋庸人
【演出】稲垣聡
【アーティスティック・アドヴァイザー】升島唯博
【コレペティトゥール】村上寿昭、矢田信子
【字幕】水野明人
【舞台監督】加藤和美
【美術】稲垣聡
【制作】田尾直史(NHKアート)、加藤工房
【プロデューサー】花田和花子
【日時】2025年12月28日(日)14:00~
【会場】東京オペラシティーリサイタルホール
【一言感想】
今年は新作オペラをフィーチャーしてきましたが、その年の最後を締め括るに相応しいV.ウルマンのオペラ「アトランティスの皇帝」を聴きに行きました。毎年、年末年始は第九やニューイヤーなど正月のTV番組のようなツマラナイ演奏会が並ぶなかで、このような真心のある演奏会を開催して頂けるアンサンブル・ノマドには足を向けて寝られません。辛うじて、日本も捨てたものではないと思えます。因みに、過去のブログ記事でも紹介しましたが、現存するV.ウルマンの音楽はナチス・ドイツが「退廃音楽」の烙印を押したことで、皮肉にも、その芸術的な価値を歴史に刻印することになりましたが(謂わば、ナチス・ドイツが授与した20世紀最大の音楽賞)、かつてデッカ・レーベルがV.ウルマンの音楽などを「退廃音楽シーズ」としてリリースして話題になったことを思い出します。
 
〇弦楽四重奏曲第3番
ユダヤ人作曲家のV.ウルマンは1942年にナチスが「模範ユダヤ人居住地」という表向きの名目で設けたテレジン強制収容所に収監され、そこで弦楽四重奏曲第3番やオペラ「アトランティスの皇帝」などを作曲していますが、1944年にアウシュビッツ強制収容所に移送される直前に友人に自筆譜を託したことでV.ウルマンの作品は後世に伝えられ、上述のとおりデッカ・レーベルから「退廃音楽シリーズ」としてリリースされて注目を集めました。V.ウルマンはA.シェーンベルクの弟子でしたが、A.シェーンベルクが十二音技法を確立する以前の調性の拡張(その到達点としての汎調性、無調性)を模索していた時代に師事しており、その影響はV.ウルマンの作風(後期ロマン派+表現主義)に色濃く現れているように感じられます。さすがはアンサンブル・ノマドが誇る弦セクションでして、4人がバランス良く主張し合いながら有機的に絡み合う構成感のあるアンサンブルを堪能することができました。冒頭で溜息を連想させるメランコリックなモチーフ(溜息のモチーフ?)が揺蕩い、時折、気分の高揚のような燃焼を見せるものの直ぐに気分の沈み込みのような下降音形に回収されることを繰り返しますが、V.ウルマンの収容所でのメンタリティーが生々しく表現されているようで、その絶望的な境遇に思い遣られました。やがてエッジの効いた鋭い響きによるテンションの高いアンサンブルが展開されましたが、その動揺が過ぎ去って、再び、チェロが溜息のモチーフを奏で出すとアンサンブル全体に陰鬱とした雰囲気が広がり、収容所での理不尽な境遇が偲ばれるピースに感じられました。その後、ヴィオラが半音階風の重苦しいモチーフを奏でると、そのモチーフを対位法的に絡み合わせながら心の襞を紡ぐような内省的なアンサンブルが展開されました。最後は溜息のモチーフがユニゾンで提示され、それが変容しながらクライマックスを築く、ナチスに抗うために心を鼓舞する悲壮な覚悟のようなものが感じられる終曲になりました。V.ウルマンはナチスのプロパガンダのために作曲したのではなく自らの精神を保ちナチスに抗うために創作を続けたと言われていますが、そのことが実感できる曲に感じられ、その意味ではV.ウルマンの白鳥の歌と言い得る1曲と言えるかもしれません。因みに、V.ウルマンは1944年10月18日にナチスによりアウシュビッツ強制収容所のガス室で虐殺されていますが、その精神がV.ウルマンの作品の中に息衝いていることを感じさせてくれる好演を堪能できました。なお、ナチスがユダヤ人を大量虐殺した理由について簡単に触れておくと、中世以来の宗教的反ユダヤ主義(キリストの処刑を求めたというスティグマ)を背景としてドイツ啓蒙主義が孕んでいた普遍主義と民族主義という矛盾に科学的人種主義(偽科学)が付け入り、それを奇貨としたナチスが第一次世界大戦敗戦に伴う社会不安のスケープゴートとしてユダヤ人を恰好の標的にしたものと個人的には理解しています。例えば、第九の合唱に見られるように善き市民を自称する人々が屯して声高に理想を唱え、それを善きものとして無批判に受け入れて熱狂するような感傷的な態度が最も危険なもの(同調圧力が成立し易い風土に象徴される感化され易い民族性を持つ日本人はとりわけ)ではないかと感じます。
 
〇オペラ「アトランティスの皇帝」
このオペラはV.ウルマンがテレジン強制収容所に収監されていた1943年に収容所で出会ったペーター・キエンが創作した台本に作曲したものですが、ナチスは暴君に対する痛烈な批判を内容とするものなので最終リハーサル後に上演禁止にしました。このオペラのプロットは、死神がアトランティスの皇帝の横暴な振舞いに腹を立て死神の職責を放棄して誰も死な無い世界になりましたが、それによって死の恐怖を拠り所として民衆を統治していたアトランティスの皇帝の権力基盤は脅かされることになりました。その一方で、民衆は死ねない人生の苦しみを嘆いて反乱を起こし、アトランティスの皇帝は自らの命と引き換えに死神の職責を全うするように死神にお願いするという荒唐無稽なものです。死は恐怖ではなく苦しみからの解放であるという強い精神を持つことでナチスが民衆支配の拠り所としていた圧政を無力化できるというメッセージ性が含まれているように感じられ、しかも死神がアトランティスの皇帝の圧政から民衆を救済するという逆説的な皮肉(死神=救世主)も込められているように感じられました。本日は演奏会形式の公演かと思っていましたが、簡素な舞台セット、衣装、美術、照明などが設けられ、演出も施される舞台上演形式の公演になっていました。現代オペラには「歌」らしいものが殆どないものも少なくなく(さながら麵がないラーメンのようなもの)、久しぶりに「歌」を堪能させてくれる「歌劇」としての現代オペラを楽しめ、また、そのことを十分に堪能させてくれる歌手陣のクオリティーの高さは特筆に値するものがあったと思います。アンサンブル・ノマドは歌手陣にぴったりと寄り沿いながらドラマチックに音楽をドライブする好演で魅了し、器楽から歌劇まで幅広いジャンルを巧みに熟す懐の広さを示していました。このオペラは収容所での上演という制約を踏まえた小編成のオーケストラになっていますが、音型による動機(ファンファーレ:皇帝のモチーフ、跳躍音型:ハルキンのモチーフ、ドラムロール:戦争又は軍隊のモチーフ、下降音型:死のモチーフなど)に加えて音色(楽器)による動機(金管、ドラムやハーモニウムは権力や権威のメタファー、サックスやバンジョーはナチスが退廃的と形容した新世界のメタファー、チェンバロは死のメタファーなど)が重要な働きを担っているように思われ、旧世界を象徴するバロック、宗教音楽(管弦楽)、調性音楽と対照する形で新世界を象徴するジャズ、軍楽(吹奏楽)、無調音楽という時代の価値観の交錯が巧みに音楽に織り込まれているように感じられました。冒頭はバリトンの小森輝彦さんが扮するラウドスピーカー(レチタティーヴォのような役割)が舞台設定を物語る前場(イントロダクション)を経て第一場に入りましたが、生のメタファーであるテノールの升島唯博さんが扮するハルキン(白を基調とする衣装)による時代の闇に色目を使う道化振りとソプラノの天羽明惠さんが扮する鼓手(赤を基調とする衣装)によるA.ヒトラーの演説を彷彿とさせる威圧振りが印象的に対比され、これに死のメタファーであるバスの大塚博章さんが扮する死神(黒を基調とする衣装)の凋落振りが加わって、この時代の価値倒錯を象徴的に描く場面になっていました。上述のとおり歌手陣のクオリティーが高く、ブラックユーモアを感じさせるアイロニカルな音楽を交えながら、それぞれの配役のキャラクターが際立つ雄弁な歌唱に魅了されました。また、このオペラではサックスが象徴的な楽器として使用されていますが、サックス奏者の坂口大介さんが奏でるジャズテイストの音楽が風刺的な彩りを添え、V.ウルマンの心意気を感じさせるピースになっていました。第二場はオーケストラのドラマチックな伴奏と共にバリトンの須藤慎吾さんが扮するアトランティスの皇帝(偽善のメタファー)と死神(真理のメタファー)が倒置される迫力の二重唱が聴き所になっていました。チェンバロによる死を象徴する下降音型が印象的に使用され、また、後半では皇帝のモチーフ(絶対性を意味する完全五度?)が死のモチーフ(冥界を連想させる下降音型)に覆い尽されて皇帝の威厳(偽善)が死の普遍性(真理)に回収されていく様子が音楽的に巧みに描写がされているなど細部に亘って音楽的な創意が尽くされているV.ウルマンの職人気質に感じ入りました。間奏曲を経て第三場ではテノールの澤原正行さんが扮する兵士(ブルーを基調とする衣装)とソプラノの青木エマさん(ピンクを基調とする衣装)が扮する少女が鼓手の妨害を退けて戦場での殺し合いを止めて愛し合うことの素晴らしさを歌う場面では「歌劇」としての魅力を湛えた耽美的な歌唱を存分に堪能することができましたが、この音楽的なメッセージを舞台に乗せることが叶わないままアウシュビッツ収容所に移送されたV.ウルマンの無念に思いを馳せると一層と心に沁みるピースに感じられました。なお、敢えてジェンダーカラーを使って男女の愛を表現する演出は当時の時代感覚を反映するものだと思いますが、それがユダヤ人に対するジェノサイドと同じくマイノリティに対するネグレクトという別の現代的なメッセージ性を内包する場面にも見える演出が興味深かったです。第四場では民衆の反乱(真理への希求)とアトランティスの皇帝(偽善)による死神(真理)との和解が描かれていましたが、生のメタファーであるハレルキン、鼓手、アトランティスの皇帝が憎悪と不寛恕がなくならなければ平安は訪れないと歌う三重唱が出色でした。アトランティスの皇帝は鏡の向こう側の死神と向かい合いますが、ヴィオラのデモーニッシュな伴奏とオーボエの寂寥感が漂う叙情的な伴奏に乗せて死は人生の悩みや苦しみを取り除いて安らぎを与えてくれると歌い、死神とアトランティスの皇帝の和解が印象的に描かれていました。V.ウルマンが抗し難い運命を前にしてもなお気高く生きる様子が伝わってくるピースでしたが、現代でもナチスによるユダヤ人に対するジェノサイドと同じようなことが世界で繰り返されており、日本でも見られるマイノリティに対するネグレクトや排外主義的な潮流など現代の時代性に通底するテーマを備えた現代オペラに感じられ、もっとこのオペラの真価に光が当てられて再演機会が増えても良いのではないかと感じます。
 
 
 
🐎🐎🐎 うまくはこぶ 🐎🐎🐎
 
 
▼古事記・総合芸術舞台「一粒萬倍 A SEED」
【演題】古事記・総合芸術舞台「一粒萬倍 A SEED」
【作・演出】松浦靖
【音楽監督・作曲】由有、織川ヒロタカ
【演目】日本の創生と五穀豊穣の物語
    第一幕
     第一場 序章
     第二場 はじめのはじまり
     第三場 天の御心
     第四場 天の浮橋
     第五場 国生み
     第六場 黄泉の国
     第七場 黄泉比良坂
     第八場 三貴神の誕生
     第九場 スサノオ
    第二幕
     特別演奏・語り~一つの思い・渋沢栄一と盟友篇
     第十場 暗黒世界・天の岩戸隠れ
     第十一場 アメノウズメの舞~天の岩戸開き
     第十二場 スサノオと食の神・オオゲツヒメ
     第十三場 五穀の起源
     第十四場 アマテラス
     第十五場 一粒萬倍
     第十六場 天の御心
【出演】<能>武田文志(アメノミナカヌシ)
    <日本舞踊>藤間翔(イザナギ)
          藤間掬美奈(イアザナミ・オオゲツヒメ)
          花柳茂義実(カムムスヒ)
    <ボールルームダンス>金光進陪(スサノオ)
    <現代舞踊>大橋美帆(波・シコメ・アメノウズメ)
          百世(波・御柱・光)
          小川麻里子(波・シコメ)
          久保田朱沙(波・御柱・闇・アマテラス)
    <小鼓>望月左武郎(長唄囃子)
    <大鼓>重草由美子
    <篠笛・能管>鳳聲晴久
    <大鼓>由有(太鼓プロジェクト「indra-因陀羅-」)
        奈々星悠華(太鼓プロジェクト「indra-因陀羅-」)
        悠華(太鼓プロジェクト「indra-因陀羅-」)
    <尺八>櫻井咲山
    <箏>日吉章吾
    <Vn>柳垣智子
    <Vc>谷口賢記
    <Acc>増井裕子
    <Tp>原朋直
    <法螺貝>園部浩誉
    <語り>鈴木ともみ
【衣装】押元須上子、松浦真渡、高橋はぎ乃、帯刀映美
【ヘアメイク】木村三喜
【スチール】新井勇祐
【グラフィックデザイン】宰田伸太郎 ほか
【日時】2025年1月10日(土)12:00~
【会場】観世能楽堂
【一言感想】
「初春(新年)が明ける」「皆既日食(天岩戸)が明ける」ことにより新(恵み)がるための環境が整うので「芽出たい」(メデタイ)になりますが、一粒萬倍を寿ぎ、その恵沢を祈念し、感謝する芸能の原点に触れる正月に相応しい舞台がありますので鑑賞する予定にしています。なお、松濤から銀座に移転した新しい観世能楽堂に伺うのは初めてでしたが、ウナギの寝床のような細長い会場にすることで脇正面席を減らし、正面席及び中正面席を増やして、中正面席の視界を確保するためにシテ柱をなくしてしまうという独特な構造になっていましたが、ハードに加えてソフトの革新にも期待したいと思います。
 

土地に刻まれた伝統と革新
(銀座駅)

新しい観世能楽堂
(GINZA SIX)

ワイン専門店「エノテカ」
(GINZA SIX)
 
過去のブログ記事(, , )で古事記と風姿花伝の関係について簡単に触れましたが、古事記はギリシャ神話よろしく「古代の王権支配の歴史を神格化したもの」と捉えられ、古代日本の支配状況(造化三神を含む五柱の別天津神)とその系譜(神世七代)をファンタジックに物語り、その後、地方勢力(国津神)の国譲りで実現した中央勢力(天津国)による国家統治の正統性を天孫降臨や天の岩戸隠れ(天の岩戸隠れとは太陽が月(=天の岩戸)に隠れる皆既日食のこと)などの神話に仮託して詩的に綴ったものと思われます。諸兄姉のお叱りを覚悟で寅さんの啖呵売口上を借りれば「物の始まりが1ならば、国の始まりが大和の国、島の始まりが淡路島。泥棒の始まりが石川の五右衛門なら、博打打ちの始まりが熊坂の長範。」に続けて「力による現状変更でシマを拡げるヤクザの始まりが神武東征。」(ドンロー主義よろしくジンロー主義)と言えるかもしれません。さて、パンフレットには、古事記の詩的な表現(一粒)からどのようにインスパイアされ、この作品へと実を結んだのか(萬倍)に触れられています。少し長い抜粋になりますが、この作品の鑑賞にあたり重要なイメージ共有と思われますのでご紹介しておきますと「『古事記』の冒頭、天と地が二つに分かれた時に姿を現わしたのは、独り神・アメノミナカヌシです。続いて現れた二柱の神と合わせ、これらの神は世界の根源を司る「造化三神」と呼ばれます。その後、五柱の独り神を経て夫婦の神々が誕生し、十六・十七番目の夫婦神・イザナギとイザナミによって、ようやくこの国が形作られました。なぜ国生みまでにこれほど多くの物語が必要だったのでしょうか。実はこの過程は、一粒の「もみ」が成長する姿と重なっているのではないでしょうか。最初の神アメノミナカヌシを「種」とし、そこから「根」が張り「芽」が出る生命の躍動を「造化三神」にたとえているのではないでしょうか。やがて芽が伸び、葉が広がり、夫婦神という「稲の花のおしべとめしべ」が受粉することで、満倍の実りをもたらす稲穂となります。」と続けられています。上記を踏まえ、個人的な理解として全二幕十六場を4つのテーマに分けて簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
第一幕第一場から第一幕第三場までは天地開闢によって顕在した天之御中主神(アメノミナカヌシ)が体現する天の摂理(万物の根源)が描写されている場面でしたが、ちびっ子にも直感的に理解し易いように説明するとすれば、過去のブログ記事でごく簡単に触れたとおり、原始の宇宙は「対称性」(エネルギーの+と-が均等に打ち消し合いながら揺らいでいるようなイメージ)から「対称性の破れ」(エネルギーの+と-が不均等になってエネルギーのムラ(物質)が生じるようなイメージ)が起こり、そのムラが急速に増加して宇宙に構造(時空間と生物を含む万物)が誕生しましたが、丁度、宇宙の根源を体現する天之御中主神(アメノミナカヌシ)、天(陽、男)を体現する高御産巣日神(タカムスヒノカミ)、地(陰、女)を体現する神産巣日神(カミムスヒノカミ)は上記の宇宙論を造化三神に仮託(擬人化)して詩的に表現したものと捉えることができるかもしれません。青い照明のもと、躍動感のある太鼓の伴奏に乗せて現代舞踊の4人の女性ダンサーが扮する波が躍動感のあるダンスを展開しましたが、丁度、原始の宇宙で対称性から対称性の破れ(ムラ)が励起する様子が表現されているように感じられました。その後、赤い照明のもと、能楽囃子の精妙な伴奏に乗せて観世流シテ方能楽師・武田文志さんが扮する天之御中主神(アメノミナカヌシ)が国家「君が代」(古今和歌集の和歌)を謡い、これに続いてお祓いを象徴するものでしょうか能楽囃子や太鼓が三番叟のようなリズムを奏でるなかを静々と序の舞を舞う趣きのある美しい舞台になりました。
 
第一幕第四場から第一幕第七場までは伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)が体現する地の摂理(男女や生死などの陰陽思想)を描写されている場面でしたが、ピンクの照明のもと、国生みを象徴するものでしょうか筝、篠笛、太鼓、尺八、Vn、Vcなどが短いリズムパターンを繰り返すミニマル風の音楽(さながらT.アデスの「In Seven Days」)を伴奏するなか日本舞踊の藤間翔さんが扮する伊邪那岐命(イザナギノミコト)と藤間掬美奈さんが扮する伊邪那美命(イザナミノミコト)が男女の情を交わすような優美な舞で魅了し、日本人の死生観を象徴する伊邪那美命(イザナミ)の死(穢)と伊邪那岐命(イザナギノミコト)の冥界下り(カタバシス)に伴う忌(禊、祓)などが日本舞踊の型、躍動感のあるダンス、邦楽やクラシックだけではなくロックやタンゴなどを織り交ぜたジャンルレスな音楽表現や照明効果などを使った多彩で劇的な舞台を楽しめました。
 
第一幕第八場から第二幕第十一場までは須佐之男命(スサノオノミコト)が体現する地(人)に働き掛ける実践業(剣、農、言(=人の心を詠う和歌の祖))と、天鈿女命(アメノウズメノミコト)が体現する天(神)に働き掛ける信心業(神楽(=神の心を誘う芸能の祖))が対照的に描写されている場面でしたが、C.ベーカー張りのいぶし銀のトランペットの伴奏に乗せて第一幕と第二幕の幕間に近世日本から近代日本をスクラップ&ビルドした渋沢栄一の思想(著作「論語と算術」など)に触れる朗読劇が挟まれましたが、これは天鈿女命(アメノウズメノミコト)が体現する天に働き掛ける信心業→論語、須佐之男命(スサノオノミコト)が体現する地に働き掛ける実践業→算術に対応するものであり、古代から近世までの日本の文化的な礎を築いた須佐之男命(スサノオノミコト)と天鈿女命(アメノウズメノミコト)、近代から現代までの日本の経済的な礎を築いた渋沢栄一が対照されていたのが非常に面白く感じられました。ボールルームダンスの金光進陪さんが扮する須佐之男命(スサノオノミコト)や現代舞踊の大橋美帆さんが扮する天鈿女命(アメノウズメノミコト)によるフラメンコやタンゴを彷彿させる情熱的なダンス、光のメタファーである白い衣装と闇のメタファーである黒い衣装のダンサーが天の岩戸隠れをアーティスティックに描写するダンスなどテンションの高いドラマチックな舞台を楽しめました。
 
第二幕第十二場から第二幕第十六場までは天照大神(アマテラスオオミカミ)の天と大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)の地がもたらす恵沢としての一粒萬倍(五穀豊穣)を寿ぐ場面でしたが、地球上の有機物の多くは光エネルギー(太陽)を化学エネルギーに変換する光合成生物(五穀)が作り出しており、人間は生命活動のためのエネルギー源(糖など)として有機物を摂取し、また、生命維持のための素材源(水やミネラルなど)として無機物を摂取して生きています。須佐之男命(スサノオノミコト)は大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)が振る舞う食物を「穢れ」として忌み嫌い、大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)を殺してしまう場面ですが、能楽囃子の伴奏に乗せて、大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)が須佐之男命(スサノオノミコト)を饗応する様子を序の舞で表現されていましたが、須佐之男命(スサノオノミコト)が大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)が振る舞う食物を「穢れ」と認識し(破)、赤い照明のもと、大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)を殺してしまう様子を乱拍子による急の舞(フラメンコ風の激しいダンス)で表現する序破急の構成をとる舞台が展開されました。過去のブログ記事でも簡単に触れたとおり、古事記には古代の日本の楽器として「琴」「笛」「鼓」「鈴」などが記録されていますが、このうちの「琴」「笛」「鈴」を使った伴奏に乗せて日本舞踊の花柳茂義実さんが扮する神産巣日(カムムスヒ)が大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)から五穀の種(一粒)を生み出す様子が舞で表現され、五穀を象徴する草木の作り物が舞台に設えられました。これに続いて現代舞踊の久保田朱沙さんが扮する天照大神(アマテラスオオミカミ)と2人のダンサーが稲穂を手にして天の恵沢が遍く大地に降り注ぐ様子を華麗なダンスで表現し、伊邪那岐命(イザナギノミコト)、天鈿女命(アメノウズメノミコト)、須佐之男命(スサノオノミコト)、大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ)及び神産巣日(カムムスヒ)が揃い、それぞれに五穀豊穣(萬倍)を寿ぎました。壁面に稲穂が映し出されたのか印象的でしたが、天の岩戸隠れの場面では影を大きく投影するなど照明演出も効果的であったと思います。最後は、五穀を象徴する草木の作り物、小鼓方の望月左武郎さんが唄う長唄囃子に乗せて天之御中主神(アメノミナカヌシ)が舞い納め、やがて長唄囃子の唄が現代語に転じることで神話の世界から現代の世界へ回帰して終演となりました。ちびっ子にも理解し易いように比喩的な表現も交えて付言すると、「天地創造」とは「対称性」(真空は「無」ではなく「空」でありエネルギーが揺らいでいる状態)から「対称性の破れ」(エネルギーのムラ)が生じる状態を意味しており、「破壊」とは「対称性の破れ」(エネルギーのムラ)がエントロピー増大の原則などにより「対称性」(エネルギーの揺らぎ)を回復する方向へ変化する状態(穢れ)を意味しますが、現代の科学では「無」から「有」が生まれるのではなく「空」から「有」が生まれることしか分かっておらず、その意味では生命現象は宇宙を支配するエネルギーの変化のダイナミズムの中に位置付けられ、それを古代人は直感して神話に仮託してロマンチックに物語ったと言えるかもしれません。
 
 
▼モルゴーア・クァルテット第56回定期演奏会
【演題】ルイジ・ノーノ✕イサオ・ナカムラ
【演目】①ヨーゼフ・ハイドン 弦楽四重奏曲第39番「鳥」
    ②コジモ・カロヴァーニ ノルスケン(オーロラ)(2019年)
    ③ペトリス・ヴァスクス 弦楽四重奏曲第4番(1999年)
【演奏】モルゴーア・クァルテット
    <1stVn>荒井英治
    <2ndVn>戸澤哲夫
    <Va>小野富士
    <Vc>藤森亮一
【日時】2026年1月23日(金)19:00~
【会場】東京文化会館小ホール
【一言感想】
ヴラヴィー!!社会人が平日の演奏会を聴きに行くことは非常に困難を伴いますが、過去ばかりに目を向けている握り金玉の若者が多いなかで、一時代を築いた腕に覚えがあるお父さんたちが革新に挑戦する心晴れするような演奏会に心惹かれて、万難を排して聴きに行ってきました。長年に亘って在京オケでトップを務められたきた方々なので演奏のクオリティーは折り紙付きではありますが、C.カロヴァーニのノルスケン(オーロラ)とP.ヴァスクスの弦楽四重奏曲第4番は、これらの作品の真価が惜しげもなく発揮された好演で非常に満足度の高い演奏を楽しめました。客席には若い演奏家の姿も見られましたが、定番曲ばかりを並べた「ボンカレ-公演」では食指が動きませんので、G.クレーメルのように未だ社会から正当な評価を受けていない20世紀又は21世紀の知られざる名曲(次の一時代を築くシン・ボンカレー)を発掘し、その真価を聴衆に紹介してくれるような有為な役割(万世一系のボンカレーを尊ぶ日本においては欧米と比べると明らかに観客が未成熟な状況にあり演奏家が生活のためにボンカレー公演は欠かせないという大人の事情は理解したうえで)を演奏家に期待したいです。その意味で、演奏技能の巧さを競うコンクール型の発想(職人タイプ)は徐々に時代の状況や価値観とミスマッチし始めており、独創性や着眼点の面白さを賞賛する芸術賞型の発想(芸術家タイプ)が求められる時代になってきていると思います。さて、昔懐かしの味のハイドン・ボンカレーについて殊更に感想を書く気にはなれませんので、C.カロヴァーニのノルスケン(オーロラ)とP.ヴァスクスの弦楽四重奏曲第4番という次の一時代を築くであろうシン・ボンカレーについて簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
C.カロヴァ―ニの「オーロラ」で使用されたサンダードラム
藤森さんと小野さんは音楽家の嗜みとしてMyサンダードラムをお持ちだとか
 
②ノルスケン(オーロラ)
イタリア人作曲家のC.カロヴァーニさんは2023年に大阪国際室内楽コンクールで優勝したクアルテット・インダコのチェリストでもありますが、未だ作曲家と演奏家が分離していなかった時代の伝統に倣って現代の時代性を表現する創作的な活動が高く評価されています。過去のブログ記事で簡単に触れたとおり、15世紀の活版印刷技術の発明によって紙媒体の楽譜が広く流通するようになると、人気の高い作曲家が現われ、その作品の演奏を専らとする演奏家が分離しましたが、これが時代の変化に柔軟に適応できなくなったクラシック音楽界(ボンカレー公演)のマンネリズムを生む一因になっているのではないかと思います。一方、これとは対照的に、伝統邦楽は作曲家と演奏家の分離が進まなかったことが現代邦楽(シン・ボンカレー公演)のムーブメントを生む力強い原動力になっていると思います。この曲は4つのパートから構成され、それぞれのパートが古代ギリシャの四元素(1.セイレーン:水、2.スケルツォ:火、3.ノルスケン(オーロラ):空気、4.最後の夜明け(地球):土)に対応していますが、モルゴーアSQの老練巧みな演奏によって描写力に優れた演奏を楽しめました。1.セイレーンではリコシェ、フラジョレット、アルペッジョなどの特殊奏法によって奏でられる波間から不協和に彩られたセイレーンの歌が現われてはその彼方へと消えて行くような幻想的な世界が描き出され、さながら妖霧の奥に広がる限りない闇へと誘われて行くような幻想的な演奏を楽しめました。2.スケルツォではサンダードラムによって雷鳴(火の起源)が轟くとサルタートやスピッカートなどの特殊奏法によって激しく火の粉が舞い散る様子が描写され、徐々にアンサンブルの燃度が増して、やがてル・ポンティチェロやスクラッチなどの特殊奏法が生む激しいノイズ(炎)に包まれました。3.ノルスケン(オーロラ:大気中の原子や分子が太陽から飛んでくる高エネルギーの電子に衝突してエネルギーを吸収し、その吸収した余分なエネルギーを放出する過程で生じる発光現象)ではフラジョレットなどの特殊奏法によって奏でられる精妙なグラデーションがオーロラの揺らめきを描写し、そのなかからコラール風の旋律が現われて神秘的な雰囲気が演出されていました。4.最後の夜明け(地球)では鐘(光のメタファー)の輝かしい響きと共に細かい刻み音が大地に降り注ぐ太陽光を描写しているようであり、セイレーンの歌(闇のメタファー)を連想させる旋律が光の中に消え入るような余韻深い終曲になりました。北欧の美しい自然にインスパイア―された幻想世界を楽しめました。
 
③弦楽四重奏曲第4番
ラトビア人作曲家のP.ヴァスクスさんはヴァイオリニストのG.クレーメルさんがその作品を紹介したことで世界的に知られるようになりましたが、日本でも指揮者の小澤征爾さんが武満徹さんのことをL.バーンスタインさんに紹介したことで武満徹さんが世界的に知られるようになったエピソードを思い出します。最近では日本でも存命中の現代作曲家の作品を紹介する演奏家が徐々に増えてきており歓迎したい潮流が生まれています。第一曲のエレジーではトリルやフラジョレットなどを使って静謐な哀歌が紡がれ、時にグリッサンドに回収され、時にテンションの高まりを見せる感情の起伏を感じさせる情緒纏綿とした演奏を楽しめました。第二曲のトッカータから第三曲のコラール及び第四曲のトッカータまではアタッカで演奏されましたが、第二曲のトッカータでは16分音符の鋭角な響きによりリズミカルで高密度な演奏が展開され、ショスタコーヴィッチの弦楽四重奏曲を自家薬籠中の物とするモルゴーアSQならではの重厚で堅牢なアンサンブルを楽しめました。第三曲のコラール風の旋律は祈りが込められているような静謐で美しいピースで、陰影深く内省的なアンサンブルに魅せられました。第四曲のトッカータは第二曲の再現部で、グルーブ感のある燃焼度の高い演奏でクライマックスが築かれました。第五曲のメディテイションが白眉でして、さながら人生の終末を迎えているような心に染み入る演奏で、日本人の死生観を体現する「儚し」や「無常」にも通底する深淵な世界観に心をハッキングされました。願わくば、この曲のような最後を迎えたいと望んで止みません。このような傑作が(少なくとも、日本では)演奏される機会が少ない現状が憾まれます。
 
 
▼2026年度武満徹作曲賞 ファイナリスト決定
2025年7月12日(日)に開催予定の武満徹作曲賞の審査員でドイツ人現代作曲家のイェルク・ヴィトマンさんによる譜面審査(25ヶ国112作品)の結果、以下の4名がファイナリストに選ばれました。おめでとうございます。世界中から数多くの作品が応募され、国際色豊かなファイナリストが選ばれていますので、世界レベルの権威ある作曲賞と言えるのではないかと思います。その意味でファイナリストとしてノミネートされるだけでも大変に栄誉なことではないかと思います。
ズーイー・タオ(アメリカ) If
松尾研志(日本) 管弦楽のための変奏曲
ゾーホー・ツイ(中国) 最後の賭け
ジェヒョク・チェ(韓国) 超新星
 
▼来年の抱負(AIポップな時代の波に乗る)
2025年は「新作」をフィーチャーしてきましたが、2026年はもう少しステップアップして、21世紀のアウラを追い求めて古い認知バイアスを打ち破り新しい世界観を拓いて行くためにAIポップな時代の波に乗ってみたいと思います。未だに芸術音楽と商業音楽という化石化した境界(分節思考)にしがみ付いて時代の波に乗り遅れている旧世代を軽やかに嘲笑し、その境界(認知バイアス)をポップに超克(連接)してコンプリケーティッドされた世界をシンプルに編んで行く新世代は次の時代を視界に捉え始めているように感じますが、2026年はこの時代の革新に時めいて人生にもうひと華咲かせてみたいと夢焦がれています。以下には2025年に運ばれてきた新しい世界のムラを貼っておきますので、音楽と共に歌詞や映像が体現している時代感覚や新しい世界観をご堪能下さい。人類が本格的にAIと歩み始めた時代の足音に耳を澄ませながら時代の大変革期のダイナミズムに興奮を覚えています。何でも人間が行わなければ気が済まなった人間中心主義の時代は過去のものとなり、AIの台頭も相俟って「方法」(スキルとその優劣を評価するコンクール)が重視された時代から「世界観」(コンセプトとその面白さを賞賛するアート賞)が重視される時代へと加速度的にシフトしており、そこではプロとアマ、芸術と商業や人間とAIなどの境界は意味を持ちません。

【新年の挨拶①】ルツェルン・フェスティバル・アカデミー in JAPAN 2025とResonance<共鳴する宇宙第4回>WATARU MUKAIと現音 Music of Our Time 2025(第42回現音作曲新人賞本選会)とオペラ「助けて、助けて!宇宙人がやってきた!!」(台本・作曲:ジャン・カルロ・メノッティ)と「この世界のムラを編む②」 < STOP WAR IN UKRAINE >

 
▼ブログの枕「この世界のムラを編む②」
謹賀新年。少し気は早いですが、正月は多忙を極めますので12月に「新年の挨拶①」及び「新年の挨拶②」の二回に分けて新年の挨拶を投稿します。2026年は「麒麟も老いては駑馬に劣る」の格言を年頭の戒めとして、諸事万端に亘り誠心に努めて行きたいと思っています。前9回のブログの枕では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」、「行動遺伝学」、「行動経済学」、「ニューロ・ダイバーシティ」、「文化心理学:拡張自己」、「社会心理学:自己拡張」、「認知心理学:心のフレームワーク」、「複雑系科学:複雑性理論」とリベラルアーツ擬きを試みてきましたが、今回のブログの枕では来年の干支である「午」(馬)に因んで、前回と同様に、この世界の「ムラ」を編むと題して人と馬との関係性(アンスロズオロジー)についてごく簡単に触れてみたいと思います。さて、来年の干支である「午」(馬)に肖って、一足早く大杉神社の摂社で競馬の神様を祀る「勝馬神社」(以下の写真)で初詣擬きを済ませてきました。馬と言えば、過去のブログ記事で簡単に触れましたが、坂本龍馬は母・坂本幸が懐妊中に「麒麟」を受胎する夢を見たことに肖って、麒麟の頭=龍、麒麟の胴体=馬から「龍馬」と名付けたそうですが、坂本龍馬と親交のあったイギリス人貿易商のT.クラバーは坂本龍馬の旧友であった岩崎弥太郎の支援を受けてビール会社(現、キリンビール)を創立し、T.クラバーの提案で「麒麟」のエンブレムが採用され(キリンビールのエンブレムである「麒麟」は波の伊八こと武志伊八郎信由作の長福寺本堂欄間「雲と麒麟」(以下の写真)がモデル)、坂本龍馬はビールに生まれ変わって人々を酔わせ続けています。この点、陰陽五行説や算命学では、「龍」(辰年)=理(天)、「蛇」(巳年)=知(天と地を連節)、「馬」(午年)=情(地)と考えられており、コロナ禍を乗り越えて社会が本格的に再始動した辰年から巳年を経て午年へと至り「麒麟」(理と情を知で連節して昇華した叡智)に結実する縁起の年になりそうです。もともと日本には馬は生息しておらず古墳時代中期に大陸から輸入されてきましたが、日本全土で馬形埴輪(以下の写真)が発掘されており、早くから日本でも人間と馬が異文化共生ならぬ異種間共生を始めていたと考えられており、それは曲り屋馬子唄(鈴鹿馬子唄が中山道を経由して信濃追分節に発展し、それが瞽女や北前船により運ばれて江刺追分節へと結実)など、日本の文化・風土に深く根付いています。現代でも世界中で馬のアイコンが数多く使用されており、フェラーリポルシェのエンブレム、ハーレーダビッドソンのマフラー音(俗にカンターのリズムと呼ばれる3拍子の馬蹄音)、エルメスラフルローレンバーバーリーセリーヌなどのロゴマーク、相馬家の家紋など枚挙に暇がなく、「乗るもの」から「纏うもの」に姿を変えても人間と一体感のある存在として愛着を持たれている存在です。また、馬に由来する名前も多く、「馬を引く人」を意味するカーターさん(ここからカート:1頭立ての2輪荷馬車、クーペ:2人乗りの4輪箱型馬車、コーチ:4頭立ての4輪大型馬車→馬車は目的地に運ぶものであることから家庭教師や指導者に転用などの言葉が派生)やワグナーさん(ホルクスワーゲンの由来)、「馬を愛する人」を意味するフィリップさん(フィリピンの国名はスペイン領だった時代にスペイン国王フィリッペ二世に由来)、中華系チェロ奏者のヨーヨー・マ(馬友友)さん(丁度、TVアニメ「キングダム」では趙国の武将として馬南慈馬呈が登場していますが、馬さんは中国では13番目に多い名字)などがあります。さらに、日本語の「バテる」は馬が疲労して歩が滞る状態「ばたばたする」「ばたつく」から体力の限界の意味に転じた言葉、「餞(はなむけ)」は馬の鼻先を旅人の目的地の方角へ向けて道中の無事安全を願う風習「鼻向け」から送別の酒宴や餞別の意味に転じた言葉、「埒があかない」は馬囲い=埒から物事の限界の意味に転じた言葉などがあり、如何に人間の日常生活に馬が溶け込んできたのかが窺われます。過去のブログ記事で触れましたが、「拡張自己」は自己のアイデンティティを外界へアウトリーチする心理過程(即ち、「遊ぶ」=「足」+「ぶ(歩)」→自己を外界へ解放して自己を外界と同化する営み)であるのに対し、「自己拡張」は外界を自己のアイデンティティにアレンジする心理過程(即ち、「学ぶ」=「真似」+「ぶ(舞)」→外界から学習したことを身に付けて自己を充実させることで自己を外界と異化する営み)と位置付けることができ、例えば、芸術を受容する者はその芸術体験によって自己のアイデンティティが揺さ振られ(遊びによる拡張自己)、これを消化して受肉する過程で自己のアイデンティティを拡大させて世界観を更新する(学びによる自己拡張)という一連の文化的・社会的な営みであると述べましたが、これは異文化コミュニケーションだけではなく異種間コミュニケーションである人間と馬の関係性(アンスロズオロジー)にも同様のことが言えます。馬の祖先は約5600万年前にアメリカ大陸に生息していたことが分かっていますが、それから約2100万年後に氷河期に入ると森林がなくなり大草原が広がったことで捕食動物から身を隠せる場所がなくなり、馬の祖先は早く走れるように長い脚に進化し、速筋や運動協調性などが発達したと考えられています。また、捕食動物が草を搔き分ける幽けき音や捕食動物が近付いている微かな気配に気付けるように運動視や聴覚、嗅覚の精度が向上すると共に、それらの知覚情報が捕食動物から逃げるなどの行動に迅速に直結するように、脳内に本能を制御して知覚情報の分析などを行う前頭葉を作らないという進化的な選択(高度化<迅速化)が行われたと考えられており、そのために馬は動きを制限されたり閉じ込められたりすることを本能的に嫌がる性質を持っています。馬は危険を察知し易いように目が顔の横に付いており約340度の視界を持っていますので遠くから微かな動きも識別できますが(馬の死角になる真後ろの約20度から近づくものを条件反射的に蹴り上げるのはそのため)、その反面として目の近くにあるものに焦点を合わせることは難しくぼやけて見え、奥行知覚なども不得手だと言われています。これは遠くから捕食動物を発見し易いように視覚の焦点機能や奥行知覚を犠牲にしても周囲に対する運動視の精度を向上すると共に、聴覚や嗅覚を発達させるように進化したためだと考えられています。犬や猫なども然りですが、馬に物を知覚させるためには、人間と異なり、その物を見せようとするよりも、その物の匂いを嗅がせたり又は触れさせたりする方が馬には都合が良いと言えるかもしれません。このように馬は被食動物として進化した経緯から捕食動物である人間の知覚特性とは大きな違いがあり、そのような馬と人間との間で異種間コミュニケーションを成立させるためには、人間の知覚特性を基準とする方法は有効とは言えず、馬の認知特性を基準とする方法、即ち、馬が身体の状態を認識する固有受容覚を使って馬の脳のシナプス信号と人間の脳のシナプス信号を直接的に連接してコミュニケーションとる方法が一般的に有効と考えられています。馬は固有受容覚により馬自身の身体状態と騎手である人間がシグナルを送って来る部位、強弱や種類などを敏感に感じ取り、そのシグナルが脳に送られることで騎手である人間が何を求めているのかを理解することができ(但し、それぞれのシグナルが何を求めているものかを馬と共有するための訓練は必要)、その一方で、騎手である人間も固有受容覚により馬の動きなどから馬の身体や感情の状態がどのように変化しているのかを感じ取ることができますので、これらの相互作用により異種間コミュニケーションを成立させることができます。人間と馬の関係は紀元前350年に古代ギリシャの哲学者クセノポンが乗馬に関する記録を残しているものが最古と言われていますが、これまでの人間と馬の関係は人間中心主義的な考え方(馬も人間と同様な知覚特性を持ち人間と同様に世界を認知しているという無知から生じる傲慢な態度)に則っていたと言われています。捕食動物である人間の知覚特性は、例えば、被食動物を捉え易いように目が前方に付いており、被食動物に狙いを付けるための焦点機能、被食動物との距離を測るための奥行知覚や追跡能力などが発達し、被食動物を捕獲し易いように知覚情報を効率的に処理する必要から前頭葉で物事を抽象化・一般化して認知パターンを生成することでカテゴリカル知覚を行うようになりましたが、馬は前頭葉がなく物事を具体的・個別的に知覚しておりカテゴリカル知覚を行っていませんので、それにより生じる知覚情報の些細な違いに混乱するディスコミュニケーションが発生し易いと言われています。この点、人間と馬との間の異種間コミュニケーションが円滑に行われないケースは「馬が人間を拒否している」というよりも「馬が人間から何を求められているのかを理解できていない」ことの方が多いと言われています。このように人間中心主義的な視点ではなく馬中心主義的な視点(ホースマンシップ)から異種間コミュニケーションを捉え直す必要があり、人間の知覚特性を前提とした論理的・抽象的なコミュニケーションではなく、馬の知覚特性を前提とした物理的・身体的なコミュニケーションを心掛ける必要がありそうです。馬と人間の固有受容覚を使って馬の脳のシナプス信号と人間の脳のシナプス信号を直接的に連節することで、捕食動物である人間は被食動物である馬の脳の働きを体験し(拡張自己)、被食動物である馬の世界観を自らに取り込むことで多くのことを学ぶ機会を与えられ、自らの世界観を広げる貴重な機会(自己拡張)を得られると言えるかもしれません。延喜式(10世紀)には下総国(茨城県、千葉県の周辺)に広大な牧(馬の放牧地)があったと記録されており、その遺構が数多く残されていることなどから現在でも乗馬が盛んな土地柄にありますが、九十九里海岸の砂浜で乗馬体験できる乗馬クラブなどもありますので、2026年は自らの世界観を豊かにする(自己拡張)ために乗馬に挑戦して馬の世界観(ホースマンシップ)へと拡張自己してみようかと目論んでいます。
 
①勝馬神社(茨城県稲敷市阿波958
②長福寺(千葉県いすみ市下布施757
③芝山町立芝山古墳はにわ博物館(千葉県山武郡芝山町芝山438−1
①勝馬神社大杉神社の宮司が衣冠束帯の正装で摂社「勝馬神社」に拝奉しているところです。この一帯は古代に香取海だった場所で湿原や平原が広がり馬の牧場に向いていたことから朝廷直轄の官牧に指定され、馬体を守護する馬櫪社が祀られました。信太牧の馬櫪社が大杉神社に遷されて勝馬神社として崇敬を集めています。 ①勝馬神社:勝馬神社の近くには日本中央競馬会(JRA)の美浦トレーニングセンターがあり、騎手、調教師や馬主等の競馬関係者をはじめとした競馬ファンが数多く参拝し、馬の蹄鉄蹄鉄を象った絵馬などが奉納されています。また、茨城県に隣接している千葉県には馬の養老牧場(=老人ホーム)である引退馬の森があります。 ②長福寺:麒麟は頭=龍、胴体=馬ですが、キリンビールの麒麟のエンブレムは長福寺(千葉県いすみ市)にある波の伊八作の本堂欄間「雲と麒麟」がモデルとして使用されています。イギリス人貿易商T.クラバーはキリンビールの前身を創立し、旧友・坂本龍馬へのオマージュとして「麒麟」のエンブレムを採用したと言われています。 ③芝山町立芝山古墳はにわ博物館:古代日本には馬が生息しておらず、古墳時代に大陸から馬が輸入されたと考えられています。茂山町立茂山古墳はにわ博物館には紀記や魏志倭人伝などに記されている日本古来の歌舞音曲(倭琴、笛、鼓、鈴)を奏楽する様子を学術的に再現した人形が展示されていて非常に興味深いものがあります。
 
▼ルツェルン・フェスティバル・アカデミー in JAPAN 2025
【演題】ルツェルン・フェスティバル・アカデミー in Japan 2025
【演目】①田中弘基 奇妙な絨毯(改訂版世界初演)
    ②ミケル・イトゥレギ さらさらと 氷の屑が(日本初演)
    ③浦部雪 光よ、灯火の息吹よ(世界初演)
    ④ユリア・コンスタンス・ヴィーガー=ノルドス 彫刻(日本初演)
    ⑤石川健人 柱の中に100万時間(日本初演)
    ⑥マヤ・ミロ・ジョンソン リンチアーナ(日本初演)
    ⑦中瀬絢音 時の塔(世界初演)
    ⑧ジュンヒョン・リー スパイクゴーグルと抗精神病薬(日本初演)
    ⑨藤倉大 コズミック・ブレス
    ⑩桑原ゆう 影も溜らず
【演奏】<Cond>石川健人、浦部雪、齋藤友香理
    <Fl>鎌倉有里、中村淳
    <Ob>酒井弦太郎、佐竹真登
    <Cl>内山ちまり、林みのり
    <Fg>中川日出鷹、山下真紀
    <Hr>高崎万由
    <Tb>大関一成
    <Perc>成田花南、難波芙美加、西村和
    <Pf>井口みな美、谷口知聡
    <Vn>及川悠介、北澤華蓮、小山梨花、城野聖良、田中里奈
    <Va>浅野珠貴、迫田圭
    <Vc>谷川萌音、山澤慧
    <Cb>陳子沛、山本昌史
【日時】2025年11月29日(土)15:00~
【会場】Hakujuホール
【一言感想】
ルツェルン・フェスティバルの夏公演では若手作曲家を育成する作曲セミナーが開催されていますが、音楽評論家の小室敬幸さんと作曲家の桑原ゆうさんが2025年夏公演の作曲セミナー(マスタークラス講師:韓国人作曲家のウンスク・チンさん、スイス人作曲家のディータ―・アマンさん)に参加した8名の受講生(うち、日本人の若手作曲家4名)と過去に上記のセミナーに参加したことがある作曲家の藤倉大さん、桑原ゆうさんの作品を加えて、日本でルツェルン・フェスティバルを再現しようという試みとしてルツェルン フェスティバル アカデミー in JAPAN 2025を開催するというので聴きに行くことにしました。日本では「万世一系の△△」に象徴される伝統を重んじる美風がありますが、その光が濃い影を落として、この変革の時代に日本が諸外国の後塵を拝する結果にもなっており(その一例として、世界知的所有権機関(WIPO)が公表している2025年版グローバル・イノベーション・インデックス(GII)では1位のスイスに対して日本は12位と低迷)、それが日本におけるコンテンポラリー作品の受容低迷傾向にも繋がっているように感じられます。そうは言っても、最近では、日本でも随分と状況が改善されてきており、本日はルツェルン効果でしょうか業界関係者(会場で挨拶や談笑している人達は業界関係者)だけではなく一般客の姿も目立っていたように感じられますので、日本でもサスティナブルな望ましい兆候が芽生えつつあるようにも感じられます。さて、非常に演目数が多く全員の作品の感想を書くのは困難なので、当日、来場していた作曲家の作品のみについて簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
①奇妙な絨毯
パンフレットには「変則調弦(中略)作品の大部分はそれらの開放弦に限定された音高に、音高以外のパラメーターによる変化を施す(中略)その「変則性」が最も如実に表れるはずの開放弦の響きを聴き込む実験そのものを、作品として成立させる試み」と解説されています。パンフレットに記載されているとおり弦楽四重奏が変則調弦された開放弦を様々なパラメーター(音価や奏法など)で彩りを添えながら演奏し、多彩な表情が紡がれて行きました。個人的には、料理と同じくアートも「方法」(手段)ではなく「世界観」(目的)を味わいたいと考えており、方法は所与の前提として、どのような世界観を体現するためにこの方法が選択されているのか又はこの方法を選択したことでどのような世界観を体現し得ているのか否かという視点で鑑賞しました。
 
③光よ、灯火の息吹よ
パンフレットには「4世紀後半にイタリアのミラノで大司教を務めた聖アンブロージョが書いた賛歌(中略)その一つ「Deus Creator Omnium」」を軸に、信仰、そして手を取り合って生きた人々の営みを見つめた」と解説されています。聖アンブロージョが作曲した賛歌「Does Creator Omnium」を拝聴したことはありませんが、クラリネットとヴィオラが応唱形式を擬えるようにどこか原曲が纏う(?)清澄な雰囲気を醸し出しながら、楽音(音と音)、非楽音(息とフラジョレット、キー・クリックとピッチカート)などのパターンを繰り返してユニゾン、シグナル、パルス音などに変化しながら最後は静謐な祈り(又は永遠の安息)を象徴するような微弱音で静かに締め括られました。
 
④彫刻
ヴラヴィー!!本日の白眉でした。パンフレットには「触覚を原点にした作品である」と解説されています。聴覚の入力によって触覚を刺激するクロスモダール(共感覚)を体感することでき、ある響きを聴いて頭皮に鳥肌が立つのを覚えるなど、音楽を使って人間の知覚と認知を揺さぶる体験型の作品として大いに成功しているように感じられ、面白い芸術体験になりました。どのように作曲したのか聴いてみたかったですが、おそらく全身を研ぎ澄ませながら作曲しているのではないかと想像します。音楽と聴覚、彫刻と触覚、映像と視覚や、純音楽と標題音楽、芸術音楽と商業音楽などのジャンル(認知バイアス)の境界を無効化し、これらのジャンルを越えた新しい地平に広がる新しい時代の新しい芸術作品の1つの在り方を示す意欲作に感じられました。
 
⑤柱の中に100万時間
パンフレットには「木の内部に刻まれた同心円(中略)風土や気候の記憶を宿して、その個体ごとに異なる表情をしている(中略)私たちの脳内に堆積する記憶や経験と、どこか響き合っている」と解説されています。弦の軋み音、オーボエのトリルやチューバの膨らみのある音は木が刻む年輪の歴史を音で再現するものでしょうか、パルス音による時の刻みが何らかの兆しを感じさせるもので、口をチュウチュウと鳴らしていたのは樹液又はそれに群がる昆虫(生態系)を表現したものでしょうか、忙しないパートや閑散としたパートの揺らぎに木の息遣いのようなものや季節の移り変わりのようなものが感じられました。時を刻むメディアとしての木の年輪には直線的なはありませんが(連接的な世界観)、同じく時間を刻むメディアとしての楽譜は直線(分節的な世界観)が支配しており、その対比に想いを馳せる100万時間の旅を楽しめました。
 
⑦時の塔
パンフレットには「時計塔の内外でそれぞれに流れる、異なる時間を採集し、再構成することを試みた作品(中略)淡々と時を刻むメトロノームのまわりで、奏者は各々の律動を紡いでゆく。身体性と機械性の対話を通して、時空間は多層的に重なり合う。」と解説されています。チューブベルは時計台を象徴するものでしょうか、これに誘われるようにメトロノームが刻む音が流さてきましたが(機械性:人間が生み出す分節思考的な世界観)、奏者がランダムな音を奏でながら様々なリズムを交錯させること(身体性:宇宙を規律する連節思考的な世界観)で4次元の時空間(様々な質量が生む多様な曲率とその揺らぎ)を描く作品のように感じられ、その着想の面白さを楽しめました。
 
⑧スパイクゴーグルと抗精神病薬
ヴラヴィー!!この作品も非常にユニークなもので、正気と狂気の間を紡ぐ面白い芸術体験になりました。パンフレットには「本作は凡庸な要素から成り立っている(中略)これらの煩悩からどうすれば逃れられるのか、自由とは何か-この問いこそが、この作品の出発点だった。」と解説されています。スパイクゴーグルが刺激、抗精神病薬が抑制を意味していると思いますが、その拮抗から生まれる現実と幻覚を往還しながらめくるめく世界を旅するドラマチックな音楽を体験できました。前回のブログ記事で複雑性理論に簡単に触れましたが、AIは現実と虚構の境界を曖昧化しましたが、この作品も人間の認知に揺さぶりを仕掛け、さながら映画「ファーザー」の世界観を彷彿とさせる非常に面白い作品に感じられました。
 
⑩影も溜らず
パンフレットには「ルツェルン音楽祭アカデミー作曲セミナーに選出され、そこで発表するために作曲された作品(中略)鏡花の擬音を翻訳するように作曲したヴァイオリン独奏曲「水の声」を源に、声に光と影を与えるよう、アンサンブルを重ねた。」と解説されています。泉鏡花の作品には擬音が数多く使用されていますが、泉鏡花の世界である怪異を描くためには言葉(分節的、人工的)で切り取れる世界の描写では足りず、擬音(連接的、自然的)を多用しなければ描き出せない得も言われぬ世界を表現したいという欲求の現われではないかと思いますが、その擬音にフォーカスした音楽作品に感じられました。独奏ヴァイオリンが楽音(いわば言葉)に変換できない情動のようなものを非楽音(幽けき音、フラジョレット、グリッサンド、サル・ポントなど、いわば擬音)で奏でると、これにオーケストラが様々な反応を示すことを繰り返していましたが、さながら泉鏡花の作品に多用されている擬音(独奏ヴァイオリン)に触れた読者の心に立ち上る独特な感興(オーケストラ)を音楽的に表現した面白い作品を楽しめました。
 
 
▼Resonance<共鳴する宇宙第4回>WATARU MUKAI
【演題】Resonance<共鳴する宇宙第4回>WATARU MUKAI
    無数の夜を超えて、響く朝の調べ
【演目】①ヘンリー・パーセル 新しいグラウンド(ホ短調)
    ②フランソワ・クープラン 「クラヴサン曲集」より
                  さまよう亡霊
                  修道女モニク
    ③向井航 一粒の麦がこの地に落ちて(2021)
    ④ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル
               2台の鍵盤楽器のための組曲(ハ短調)
    ⑤向井航 ダルムシュタット・テクノ(2023)
                  (チェンバロとピアノ版世界初演)
    ⑥C.P.E.バッハ クラヴィーア・ソナタ第1番(ハ長調)
    ⑦向井航 シンガポール・サン(2025)
【演奏】<作曲・企画・MC>向井航
    <Pf>小倉美春
    <Chem>石川友香理
【日時】2025年11月30日(日)15:00~
【会場】スタジオ・ピオティータ
【一言感想】
スタジオ・ピオティータに伺うのは初めてでしたが、下高井戸の住宅街の中にある普通の民家の地下室に(どうやって地下室に搬入したのか分かりませんが)ピアノとチェンバロが置かれています。スタジオ・ピオティータを運営されている西澤世子さんはコンテンポラリー作品を採り上げる演奏会シリーズ「共鳴する宇宙」を開催されており、今回は向井航さんの作品が採り上げられるというので聴きに行くことにしました。本日は「無数の夜を越えて響く朝の調べ」をテーマとして時間と時代の夜明けという視点から向井さんが選曲された作品がピアノとチェンバロで演奏されましたので、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
③一粒の麦がこの地に落ちて
パンフレットには某コンサートにおける「愛のテーマ~恋と友情と~のために作曲された。(中略)最も愛について説いているだろう、聖書の中に答えを見出そうとした。(中略)私はこの曲を、ただ自分が祈るためだけに欠いた。」と解説されています。過去のブログ記事で触れたとおり、昔の日本には「社会」という観念はなく「世間」という観念しかありませんでしたので、「世間」の具体的な人間関係を対象とする「情」という言葉が主流でしたが、明治以降に「社会」という観念が生まれると、「社会」の抽象的な人間関係も対象とする「愛」という言葉が流布されました。「情」や「愛」と聞くと善きものという反射的なイメージを抱き易いですが、これらは人間に煩悩を生んで争いの元にもなる悪しきものという側面も併せ持ち、例えば、源氏物語などでは後者の側面も赤裸々に描かれています。この曲は時代の闇(夜)とも言い得るコロナ禍に教会から聴こえてきたコラールにインスパイアされて作曲したそうですが、トリルは時代の闇に蒔かれる一粒の麦を表現したものでしょうか、静謐な雰囲気を湛えたコラールのパートとそれを掻き消すようにコロナ禍の時代の空気感を象徴するようや気忙しく重苦しいパートがお互いに打ち消し合うように展開され、コロナ禍に先鋭化した社会の分断など人間関係のムラを生む「愛」の諸相が巧みに表現されていたように感じられました。
 
⑤ダルムシュタット・テクノ
パンフレットには「私の記憶の断片から、その日ダルムシュタットで聞くはずだったテクノを、コンセプトに、私っは曲を書き始めた。(中略)音と場のイメージを決めて、場所/時間を超えて仮想的なテクノクラブを出現させる。」と解説されています。この曲は2台のピアノのために書かれた作品ですが、本日はピアノとチェンバロのための作品に編曲されて演奏されました。ピアノはスタッカートを多用したストイックでメカニカルな演奏が展開され、チェンバロのエッジの効いたデジタルチックな音響が重ねられ、2人のDJによるスクラッチを連想させるようにそれぞれが緊密に呼応しながら短いフレーズを繰り返すコンテンポラリー・テクノ風の演奏を楽しめました。過去のブログ記事でも簡単に触れたとおりチェンバロを使ったコンテンポラリー作品に興味があり、今後も注目して行きたいと思っています。
 
⑦シンガポール・サン
パンフレットには「本作はスタジオ・ピオティータの委嘱により、この11月、シンガポールにて作曲したものである。私は仕事で同地を訪れるにあたり、渡航前から「シンガポールの朝日を見て作曲する」と心に決めていた。」と解説されています。ピアノがダンパーペダルを踏みっ放しにして混濁した共鳴音が響くなかをチェンバロが異国情緒が漂うリュート音でトリルを奏でましたが、時々刻々と映ろう精妙なグラデーションが彩る曙の空模様と朝陽の煌めきを表現したものでしょうか、徐々に夜が明けて行く様子が描かれたヴィジュアルな音楽を楽しめました。向井さんも書かれているとおり、チェンバロは線的な流れ(装飾)、ピアノは面的な広がり(和音、残響)を特徴としていますが、それぞれの特徴を活かしながら、時にピアノがチェンバロをマウントし、時にチェンバロがピアノを切り裂くように、その攻守の変わり身にドラマが生まれて行くような巧みな音楽を楽しめました。第35回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会で世界初演された「クイーン」が鮮烈な印象と共に話題になった向井航さんは向井響さんと共に今後の日本を代表する作曲家になる逸材だと思いますので、今後も注目して行きたいと思っています。
 
下高井戸の住宅街にあるスタジオ・ピオティータ
 
 
▼第42回現音作曲新人賞
【演題】第42回現音作曲新人賞
【演目】①上岡丈晃 リジェネレ-ション
          ~フルート、クラリネット、ヴィオラのための~
    ②近持亮平 シェアー ザ スペース
          ~サックス(アルト、バス)、コントラバスのための~
    ③劉 昊桐 エンドレス
          ~クラリネット、ヴァイオリン、ピアノのための~
    ④浦野真珠 ヴィーナス・フライトラップ
          ~2人の弦楽器奏者とフルート奏者のための ~
【演奏】<Fl>木ノ脇道元:①④
    <Cl>菊地秀夫:①③
    <Sax>大石将紀:②
    <Pf>篠田昌伸:③
    <Vn>甲斐史子:③④
    <Va>安藤裕子:①④
    <Cb>山本昌史:②
【審査員】徳永崇、河添達也、渡辺俊哉
【日時】2025年12月3日(水)18:45~(アーカイブ配信)
【会場】東京オペラシティリサイタルホール
【一言感想】
この演奏会はアーカイブ配信のメニューが用意されており視聴することが叶いました。一般に社会人にとって平日に開催される演奏会を会場まで聴きに行くことは至難であり(開演時間を遅くしても同じこと)、オンライン配信のメニューを用意して頂けると本当に助かりますが、それでもライブ配信だけでは仕事の都合で見過ごしてしまうことも少なくありません。この点、アーカイブ配信であれば都合が付く時間に視聴することが可能なので(場合により1曲づつ細切れに視聴せざるを得ないことも)、社会人にとっては本当に助かります。一般的な傾向として、演奏会はコスト面の問題なのか、権利処理の問題なのか又はあまり集客に関心がないのか、「是非、会場に足をお運び頂いて、生の演奏をお楽しみ頂きたい。」と主催者の思いばかりを客に押し付けてくる弁を聞かされる機会が多く、客の都合に合わせてマーケット・インしようとする努力が不足しているように感じられることが多いですが、余程のことがない限り、客が主催者の都合に合わせることはありません。オンライン配信のメニューを用意してもコスト倒れに終わることが多いという事情があるのかもしれませんが、現状、あまり状況の改善は見られません。
 
①リジェネレ-ション
パンフレットには「Regenerationは、立ち現れては崩れ再び現れる動きの姿である。身振りの固定された記号的側面というよりは、変わり続ける動きのありかたに焦点を当てた。」と解説されています。前回のブログ記事で複雑性理論に簡単に触れましたが、そんな世界観を体現する作品に感じられました。フラジョレット、タギング、Pizzなど様々な奏法により紡がれる幽けき音は千変万化しながら消滅流転を繰り返し、そのフラグメントはさながら時空の歪みを体現するように圧縮されたり伸延されたりと、万物は非均質な揺らぎから生じていることを音楽的に表現しているような面白い作品に感じられました。人間は世界の実相の1断面のみを知覚できますが、人間の知覚を超えたところに世界の実相があり、その世界の実相をイメージするためには芸術の力を借りなければなりません。
 
②シェアー ザ スペース
パンフレットには「奏者間でお互いの呼吸、身動きが確認でき、そしてそれらの動作を確認する事が、音楽にとって有益となる作品を考えた。」と解説されています。ジャズの即興演奏を抽象化したような作品で、サックスとコントラバスがお互いに向かい合いながら演奏し、アドリブやコード進行などのジャズのエレメントをシンボリックに表現し、そのストイックな音響の中にプレーヤーの「間」や「ラグ」が生む心地よい緊張感やプレーヤー同士が感応し合って生まれるグルーブ感のようなものが巧みに醸し出されていたように感じられました。ある意味で、ジャズを聴かずして、ジャズとはどのような音楽なのかを全く異次元の音楽言語で感じているような不思議な芸術体験になりました。
 
③エンドレス
パンフレットには「私たちは歴史や社会の発展を実感しながらも、進歩そのものが幻想ではないかという感覚にとらわれる。本作は、この抽象的な感覚を音によって体験へと変える試みである。」と解説されています。ピアノの音に触発されてクラリネットとヴァイオリンがタギング、トリル、スピッカート、スタッカートなどにより生まれる微細音で呼応する神経質なやり取りが重ねられ、それが上行や下降を繰り返し、最後はどこまでも落ちて行くような下降が重ねられて長い休符に辿り着き、静寂の中へ回収されていく造形感のある音楽を楽しめました。第一曲と同様に、複雑性理論が体現する世界観と親和的な印象を受けましたが、これが現代の時代感覚とも言えるかもしれませんが、正しく「いま」を感じさせてくれる作品でした。
 
④ヴィーナス・フライトラップ
ヴラヴィー!パンフレットには「本作品は、演奏者の「呼吸」や「身体感覚」を通した音のやりとりによって生まれる視覚的・音楽的効果を追求したいという思いで作曲した。」と解説されています。非常に着想が面白い作品で、「常に動きを伴い飛び回る「ハエ」(Fly)と、香りを放ち獲物をおびき寄せ昆虫を捕食する「ハエトリグサ」(Trap)を本作品のテーマとした。」とのことで、ハエ役はフルートの木ノ脇さん、ハエトリグサ役はヴァイオリンの甲斐さん、ヴィオラの安藤さんというキャストでした。舞台上ではハエトリグサをイメージさせるようにヴァイオリンとヴィオラが向かい合って演奏し、細かい刻み音(香り)の密度を増しながら繰り返していると、やがて舞台袖にいたフルート(ハエ)がヴァイオリンとヴィオラの音(香り)に気付いて呼応し始めますが、ヴァイオンとヴィオラが弓を上げてじっと待ち構える身振りがユーモラスでした。再び、ヴァイオリンとヴィオラが細かい刻み音(香り)を奏でると、フルート(ハエ)が舞台上に姿を現わして少し離れた場所から呼応していましたが、時折、生まれる「間」が捕食劇の緊張感を生んでおり生態系のダイナミズムが巧みに表現されていました。その後、フルートがヴァイオリンとヴィオラの間まで進み出て、フルート、ヴァイオリンとヴィオラが一体になって忙しないアンサンブルを奏でていましたが、突然、アンサンブルが休止してハエトリグサにハエが捕食されてしまうというミュージック・シアター風の作品が非常に面白く感じられました。他の出演者の作品も非常に優れていましたが、この作品が第42回現音作曲新人賞を受賞されたのは納得です。おめでとうございます。
 
【第42回現音作曲新人賞】
 浦野真珠 ヴィーナス・フライトラップ
          ~2人の弦楽器奏者とフルート奏者のための ~
 
 
▼オペラ「助けて、助けて!宇宙人がやってきた!!」
【演題】SSCシェアハピエンタメオペラシリーズ
【演目】G.メノッティ オペラ「助けて、助けて!宇宙人がやってきた!!」
    <エミリー>田村祐子
    <音楽の先生>武田千宜
    <バスの運転手(トニー)>星田裕治
    <学校の門番(ティモシー)>明志隼和
    <算数の先生>浅田亮子
    <校長先生>山崎大作
    <国語の先生>橋本湧
    <理科の先生>寺西丈志
    <子供たち>高橋優奈、金子瑠佳、森楓、廣島舞生心、佐藤琉花
          今井袖希、田中希空、長谷川蓮那、林風歌、原田莉花
          和泉陽仁、高橋結、三宅陽魅、鄭莉亜、長谷川里珠
    <第九ソリスト>河内夏美、木村槇希、内田吉則、高橋正尚
    <地球防衛軍>シェアハピ合唱団
    <宇宙人>Dance art BOX
         高橋花鈴、荻原杏梨、栗原颯音、佐藤瀬菜、堀江こなみ
    <ダンサー>衣シキ奏ヨ葵杏ノ心:いとひ、優衣、杏、こころ、こまり
          ツキエデン:紗、葉南、沙良
    <シンガーソングライター>飛澤結
    <アイドル>松山あおい
    <吹奏楽>東京隆生吹奏楽団、東海大学付属高輪高等学校吹奏楽部
    <お笑い芸人(ナビゲーター>劇団官僚座
【演奏】<Cond>遠藤誠也
    <Vn>桜田理奈
    <Pf>渡辺絢星、納谷結花
【芸術アドヴァイザー】岡田直樹
【美術】山崎雅人
【日時】2025年12月6日(土)13:00~
【会場】赤坂草月ホール
【一言感想】
アウトリーチ公演でちびっ子達から大人気の演目ですが、きちんと視聴したことがなかったので聴きに行くことにしました。本日の演奏会ではG.メノッティのオペラ「助けて、助けて!宇宙人がやってきた!!」の幕間の趣向として①ヒップホップダンス、②吹奏楽団の演奏、③ポップスの演奏及び④合唱団の演奏が挟まれましたが、とりわけ①ちびっ子達によるヒップホップダンスには目を見張るものがあり、ちびっ子達が持つクリエイティビティやバイタリティーに触れて、この国のポテンシャルの高さが実感され、大いに奮起されましたので、それらも併せて簡単に感想を残しておきたいと思います。本日の会場ではちびっ子の姿も多い印象でしたが、一般的にはオペラは大人を対象とした作品が多いので、未来の観客を開拓する意味でもちびっ子を対象にした現代オペラ作品がもっと増えてくれることを期待したいです。
 
赤坂草月ホールと高橋是清翁記念公園の紅葉
 
この作品は1968年作で第九と同様に一定の価値観を是とし、それ以外の価値観を非とするような価値絶対主義(権威主義)が支配的な時代であり、現代人には違和を覚えるプロットになっています。この点、過去のブログ記事でも触れましたが、20世紀までのガンダム世代は価値絶対主義に立脚して自己犠牲を美徳する世代でしたが、21世紀以降のワンピース世代は価値相対主義に立脚して自己実現を美徳とする世代であり、宇宙人を排斥するのではなく、宇宙人に音楽の魅力を伝えてお互いの価値観を尊重しながら共生して行くプロットの方が現代人受けするような気がします。その意味では、既に古典に位置付けるべき作品かもしれませんが、もともと荒唐無稽なプロットなので生真面目に構えるのは野暮というものかもしれません。お笑い芸人・劇団官僚座のMCを挟んで和やかな雰囲気で公演されましたが、余興として第九の合唱が途中に挟まれていたことを踏まえると、このオペラは貴族趣味のオペラではなく庶民娯楽のオペラであるという性格を強く印象付ける演出になっていたと思います。
 
▽第一幕
宇宙人「グロボリンクス」はエレクトロニクス音楽を奏でながら地球を侵略してきますが、宇宙人はアコースティック音楽を苦手にしています。宇宙人は寄宿学校にも襲来しましたが、音楽の先生を筆頭にして先生と生徒が一丸となりアコースティック音楽を奏でることで、宇宙人を撃退するという荒唐無稽なプロットです。丁度、1970年に開催された大阪万博(I.クセナキスのエレクトロニクス音楽「Hibiki Hana Ma」などが話題)の2年前に創作されたオペラであり、当時、エレクトロニクス音楽が台頭してアコースティック音楽との緊張関係が生まれており、G.メノッティ―は後者に傾倒していましたので、宇宙人=エレクトロニクス音楽、人間=アコースティック音楽という構図で後者が前者を駆逐するというオペラを創作したのではないかと思われます。冒頭、シンガーソングライターの飛騨さんとアイドルの松山さんが登場してラジオ番組「麵活」の公開収録を行っているという設定でしたが、そこにエレクトロニクス音楽と共に5人のダンサー(デジタル基調な動き)が扮した宇宙人が現われてラジオ局をジャックするところから物語が始まりました。ピアノが宇宙人の襲来を告げる禍々しい音楽を奏でるなか、生徒を乗せたスクールバスが故障し、バス運転手の星田さんが不吉な予感を朗唱しますが、学生達(何と2009年~2013年生れ)がユニゾンで歌う合唱が緊迫感のあるもので舞台を引き締めていました。そこへ宇宙人が襲来し、バス運転手がバスのクラクション(アコースティックな音)を鳴らして撃退することに成功しますが、生徒達は楽器を学校に置いてきており、唯一、田村さんが扮するエミリーだけがヴァイオリンを持ってきていたので、ヴァイオリンを弾きながら助けを呼びに行くことになります。田村さんの歌唱が圧倒的に上手く、正確な音程、豊かな声量、肌理細やかなヴィヴラートなど信頼感のある歌唱で魅了し、舞台と客席の距離が近かったこともあり、感情が歌に乗った子供達の合唱も相俟って迫力の舞台を堪能できました。エミリーが弾くヴァイオリンは桜田さんのバンダ演奏でしたが、美しいピースも聴き所になっていました。また、ピアノ伴奏に聴き所が多く、調性音楽から無調音楽、果てはジャズ・バラード風の音楽まで多様な音楽が展開され、それぞれのピースが大変に魅力的に感じられましたが、劇伴ということで非常に短いフラグメントに終始してしまうのが勿体なく、それぞれのピースを十分に展開したピアノ曲(組曲)として聴いてみたい衝動に駆られます。場面が変わって宿舎学校では、音楽の授業を減らしたいと考えていた校長先生(これがオペラの結末への伏線になります)が校長室で居眠りしていると、そこに宇宙人が現われて校長先生から言葉を奪います。宿舎学校の先生方は宇宙人がアコースティック楽器に耐性がないことを知りますが、スクールバスの生徒達は楽器を学校に置いていっていたので、音楽の先生が他の先生方に楽器の演奏、言葉を奪われた校長先生にはラララのハミングを教えて生徒達を救いに行くことにしましたが、ここで歌われる先生方の五重唱が聴き所になっていました。
 
▽幕間
宇宙人と人間の戦いという位置付けで、人間によるアコースティックな攻撃としてヒップホップダンス、吹奏楽、第九合唱、ポップスが採り上げられました。
 
○ヒップホップダンス
ヴラヴィー!これが白眉でした。日本のダンス人工の層の厚さが頼もしく感じられます。先ず、ツキエデンは小学校3年生の3人組でしたが、高い身体能力、ダイナミックな表現、曖昧さのないリズム感、精妙な呼吸感など、アクロバティックでありながら雑味がなく洗練されたダンスに舌を巻きました。正直、高校生や大学生のトップレベルのダンスを見ているような非の打ちどころのない素晴らしいダンスに感嘆し、涙腺が弱いおじさんは涙ぐんでいました。きっと有名なダンス・ユニットになると思うので、今後の活躍が注目されます。次に、衣シキ糸ヨ葵杏ノ心は既に数々のコンテストで優勝する華々しい経歴を持っていますが、切れのある動きには隙がなく、それでいながら勢い任せになってしまうところもなく、緩急を巧みに織り交ぜた構成感のあるダンスにはドラマ性が生まれており高い表現力を感じました。ダンス精度の高さがそれぞれの所作が持つ意味を明晰に伝えることを可能にし、流石はコンテストを総なめにする実力派のダンス・ユニットであると舌を巻きました。
 
○吹奏楽
客席通路に吹奏楽団が並んで演奏されましたが、金管楽器の包容力のある音響及び木管楽器の叙情的な演奏に、打楽器の抑制の効いた装飾がバランス良く絡み合い、推進力のある爽快な演奏を楽しめました。ピッコロが好演でしたが(トレーナーのトラ?)、きっと美味しいお酒を飲めたのではないかと思います。
 
○第九合唱
ソリストはプロを迎えて安定した歌唱を聴けましたが、アマで構成される合唱団は多少技量不足の印象を否めませんでしたが、気持ちの乗った合唱を楽しむことができました。
 
○ポップス
飛騨さん、松山さんの熱唱に合わせて、年甲斐もなく、会場で配られたサイリューム(ペンライト)をノリノリで振ってしまいました。さすがはプロの歌手で熱量の高い歌唱に自然と会場の温度感も急上昇して行くのが分かりました。
 
▽第二幕
楽器を携えた先生達はスクールバスが故障して心細い思いをしていた生徒達のところへやって来て生徒達を救い、やがてエミリーも救い出します。宇宙人はアコースティック音楽に撃退されますが、音楽嫌いの校長先生を連れ去り逃げ出します。これを見た音楽の先生は「音楽の心」は人間性そのものであり「音楽の心」がなくなると鋼鉄のようになると告げ、校長先生とは別の結婚相手を探すと言い捨て大団円になりました。音楽嫌いの校長先生は宇宙人に連れ去られるというプロットはブラック・ユーモアなのだろうと思いますが、敢えて野暮を承知で言えば、例えば、第九合唱の「Und wer's nie gekonnt, der stehle / Weinend sich aus diesem Bund !」という歌詞には善き市民の集い(ドイツ啓蒙主義)が孕む偽善が現れていますが、これは「音楽の心」があるはずの音楽の先生が「音楽の心」がない校長先生を見殺しにする結末に通底する思想性があるように感じられてなりません。善き市民の集いよろしく、一体「音楽の心」とは何なのか、本当にそれが価値のあるものであれば、校長先生を見殺しにする音楽の先生は果たして「音楽の心」があると言えるか?という疑問が頭を擡げてきます。歴史が示すとおり、人間が歓喜するときが最も用心しなければならない危いときとも言え、その意味では、このオペラは現代人に宇宙人以上の大きな問題を暗示している問題作と捉えることもできるかもしれません。客席からは(演奏中を含めて)ちびっ子達の元気な声が聞こえてきて微笑ましい限りでしたが、ちびっ子達は宇宙人に興味を引かれるらしく、このオペラがアウトリーチ公演として人気を博している意味がよく分かりました。
 
 
▼第68回グラミー賞と日本版グラミー賞(MAJ)
第68回グラミー賞ノミネート作品が発表されましたが、現代音楽でノミネートされている作品をリストアップしておきます。
◉最優秀現代音楽作曲賞
 ● クリストファー・セローニ Don’t Look Down
 ● ドナチャ・デネヒー Land of Winter
 ● タニア・レオン Raices(Origins)
 ● ショーン・E・オクペボロ Songs in Flight
 ● ガブリエラ・オルティス  Dzonot
 
なお、日本人では以下の方々が携わっている作品がノミネートされているようなので併せてご紹介しておきます。
◉日本人ノミネート作品
▼最優秀インストゥルメンタル・コンポジション賞
▼最優秀レコーディング・パッケージ賞
▼最優秀室内音楽/小編成パフォーマンス賞
 ● ニーヴ・トリオ(エリ・ナカムラ) La Mer
▼最優秀コンテンポラリー・インストゥルメンタル・アルバム賞
 ● チャル・スリ Shayan(フルート奏者 深沢晴奈が参加)
 
因みに、来年から漸く日本でも日本版グラミー賞「MUSIC AWARD JAPAN」(MAJ)が開催される予定になっており、いまから大変に楽しみです。合理性や効率性が重視された20世紀までは技能(方法)を競うための「コンクール」(発掘と育成を主な目的とする競技)が主流でしたが、創造性や多様性が重視される21世紀からは独創性(世界観)を讃えるための 「音楽賞」(顕彰と奨励を主な目的とする祭典)が主流になってきており歓迎すべき潮流です。
 
▼ブックサンタ
本は我々を知的な冒険へと誘い、新しい世界観を拓いてくれる人類が発明した偉大なる暇潰しです。今年も早いものでブックサンタの季節がやってきましたが、日本でも排外主義的な傾向が鼻に付く狭量な潮流を尻目に、在日外国人の子供達や国際志向が強い日本の子供達の人生の糧になればという想いを込めて、目白駅近くにある海外から輸入した良質な洋書絵本を取り扱っている書店「絵本の家」(但し、残念ながら年内で閉店予定)で子供向けの絵本を選んでみました。誰かに本をプレゼントするということはあなたの心を誰かに届けるということでもあり、少しだけ誰かとあなた自身の心を温めてみませんか?

ART歌舞伎~DEEPFOREST~と三島由紀夫生誕100周年記念フィリップ・グラス「MISHIMA」と落語「志ん輔 蝉の会」(落語家:古今亭志ん輔、共演:淡座)と田中悠美子音楽実験室2025〜義太夫三味線音響エクスペリメンタルと「この世のムラを編む①」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ブログの枕「この世界のムラを編む①」
前七回のブログ記事では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」、「行動遺伝学」、「行動経済学」、「ニューロ・ダイバーシティ」、「文化心理学:拡張自己」、「社会心理学:自己拡張」、「認知心理学:心のフレームワーク」とリベラルアーツ擬きを試みてきましたが、今回のブログの枕では、これらを総括する視点から、この世界の「ムラ」を編むと題してムラの正体(複雑性理論)についてごく簡単に触れてみたいと思います。過去のブログの枕では、宇宙誕生の物語として「量子理論」(均質な原始宇宙:ミクロな世界観)→「対称性の破れ」(非均質な相転移:ムラ)→「相対性理論」(宇宙構造の誕生:マクロな世界観)を踏まえたうえで「複雑性理論」(ミクロからマクロまでをシームレスにつなぐ創発)の諸相として幾つかの具体的なテーマを採り上げてきました。人間の世界理解の枠組みは、大まかに、宗教的世界観→単純系科学(還元的・ヒエラルキー的なアプローチ:対象を分解し、その構成要素を取り出す手法)→複雑系科学(全体的・ホラルキー的なアプローチ:対象の相互作用や関係性に着目する手法)へと射程や精度を増しながら発展してきましたが、単純系科学では世界を構成する「部分の総和は全体になる」(秩序、確定性)という考え方がベースにありますが、複雑系科学では世界を構成する部分を理解しても、それらの部分の相互作用や関係性から創発する異質な特性(非線形ダイナミクス)を理解することはできず、世界を構成する「部分の総和は全体を超える」(秩序+カオス+ランダム、不確定性)という考え方がベースにあります。例えば、物質などの無機的組織は環境の変化に応じて自律的に適応することはありますが、その組織化(ムラ)の法則は変化しない単純系の特性(部分を効率的に制御しながら全体の組織を維持する秩序化の特性)を持っているのに対し、生物や社会などの有機的組織は環境の変化に応じて自律的に適応しますが、その組織化(ムラ)の法則も変化し得る複雑系の特性(部分の相互作用や関係性により創発して自己組織化する秩序化と乱雑化の双方の特性)を持っているという特徴的な違いがあります。このように世界は、①単純系(秩序):環境の変化に応じて適応しても、その組織化(ムラ)の法則は変化しないので「部分の総和が全体になる」安定的なシステム(即ち、因果関係が一対一で対応する線形の法則性)、②複雑系(カオス):環境の変化に応じて適応し、その組織化(ムラ)の法則を変化しながら因果的に創発するので「部分の総和は全体を超える」不安定なシステム(即ち、因果関係が一対多で対応する非線形の法則性)、③複雑系(ランダム):環境の変化に応じて適応し、その組織化(ムラ)の法則を進化しながら偶発的に創発するので「全体が部分の総和を超える」不確定なシステム(即ち、因果関係は不確定的・確率的になる非線形の法則性)がダイナミックに相互作用しながら生滅流転を繰り返しています。この点、20世紀まで支配的であった物質主義的な世界観(人間の知覚を前提とした環世界)では物質を確定的な存在として捉えるのに対し、21世紀以降に支配的になった複雑性理論の世界観では対象が物質(個体)のように観察できるのか又は現象(流体)のように観察できるのかなどは観察者のスケールや視点などにより異なり得ると捉える点に大きな違いがあり、全ての物理現象は固定(分節)ではなく過程であり、運動であり、流れであり、変化である(連接)と考えられています(すべてのものは固定した実体や本質を持たないという仏教の空性思想に近い概念)。即ち、上記①~③のレベルは互いに独立して分離しているのではなく、それぞれのレベルが1つの全体を不可分に構成し、それぞれのレベルが相互作用しながら融合している(ホラルキー)と考えられています。例えば、人間の身体はあるスケールでは1つの個体として捉えられますが、同時に別のスケールでは分子雲として捉えられ、これらは因果的ではなく同時性として存在するものの(粒子と波動の二重性は上記①~③の状態の重なり合い)、現在の技術ではこれらを同時に捉えることは不可能と考えられています。観測者のスケールなどにより上記①~③の状態の重なり合いのうちの1つの状態が観察(分節)されますが、その他の状態の重なり合いも同時的に存在しており、これらが相互作用(連接)していると考えられています。この点、量子もつれは離れた場所に2つの量子があるのではなく(そのように分節的に観察できるだけで)、それらの量子が量子場の中で重なり合っているので(場全体が連接しているので)、1つの量子を操作すると別の量子も一緒に操作することになるという人間の知覚を前提とする限り直感的に理解し難い複雑な世界の実相の中で、人間も宇宙の根本原理や地球のバイオマスと連接し、それらに溶け込みながら、これらと相互作用して揺らいでいるムラであるとイメージすることができ、人間はそのムラの諸相の一部を知覚し、(神という都合の良いブラックボックスを使うことで)それが世界の全てであると信じてきたと言えるかもしれません。
 
▼複雑性理論で見えてくる世界の実相
単純性理論では「全体=部分の総和」として古典物理学的な世界観(神の絶対秩序、確定性)を捉えているのに対して、複雑性理論では「全体>部分の総和」として現代物理学的な世界観(宇宙の相対秩序、不確定性)を捉えているという特徴的な違いがありますが、複雑性理論はミクロ(量子力学によって記述される極小の世界)の相互作用(秩序とカオスの交錯:均質性)からマクロ(相対性理論によって記述される極大の世界)のムラ(秩序:非均質性)が生まれる様子(創発)をシームレス(階層的)に見渡して、世界を解像度高く捉えることができます。秩序(ムラ)は、散逸構造(自己組織化)により非均質性を増して、また、カオス(ムラの増幅)やランダム(ムラの創造)の揺さ振りにより複雑性や多様性を増しますが(正のフィードバック)、その一方で、エントロピー増大の原則(ムラの拡散)により均質性を増しており(負のフィードバック)、その間で揺らぎながら生滅流転を繰り返しています。
世界の実相 単純系 複雑系
秩序 カオス ランダム
法則性 決定論
線形・安定
決定論
非線形・不安定
確率論
非線形・非持続
調和性 予測可能 予測困難 予測不能
創発性
単純性

複雑性

多様性
特質性 非均質
効率性
相転移
適応性
均質
適応性
具体例 惑星 天気 進化
世界観 還元主義
分節・要素
全体論
連接・関係
物理学 ニュトン力学 相対性理論 量子力学
※HTMLでは複雑な表組みが難しいので多少の正確性は犠牲にしています。
 
▼複雑系を表現するコンテンポラリー音楽
ひと口に、コンテンポラリー音楽(世界大戦後の新世界を前提とする音楽)と言っても様々な特徴を持つものがありますが、複雑性理論の視点からクラシック音楽(世界大戦前の旧世界を前提とする音楽)と対比するため、それぞれの音楽に特徴的な傾向を二項対立で整理しています。この点、音楽を分節的に捉えているという意味で線形的な思考に陥っていますが、クラシック音楽は世界の一部(マクロな世界)を効率的に表現することは得手としていますが、コンテンポラリー音楽と異なり世界の実相(ミクロな世界からマクロな世界まで)をダイナミックに表現することには限界がありますので、その意味でも旧世界に閉じる分節から新世界へ開く連接にシフトするコンテンポラリー音楽の革新性が求められる時代になっていると言えるかもしれません。
分節点 クラシック音楽 コンテンポラリー音楽
思想性 デカルト的 スピノザ的
世界観 二元論
秩序
理性的
一元論
秩序+カオス+ランダム
自然的
表現 形式的
構造的
因果律
流動的
創発的
同時性
受容 作曲家の意図
演奏者の再現
聴衆の参加
環境との共創
音楽観 世界を分節化
理解する音楽
世界を一体化
体験する音楽
※コンテンポラリー音楽は理解できないという声を聞くことがありますが、必ずしも、人間の知覚を前提にした世界観(環世界)を表現することを企図していないので直感的に捉え難いという面があるのかもしれません。この点、人間の知覚を前提にした世界観(環世界)に閉じ籠もっていたいという嗜好性があれば別論ですが、世界の実相(環境世界)に迫る面白さに触れるためには観客の側が教養を深めて知性、感性を磨く必要があるかもしれません。
 
▼ART歌舞伎~DEEP FOREST~
【演目】ART大歌舞伎~DEEP FOREST~
【出演】中村壱太郎(歌舞伎俳優)
    花柳源九郎(日本舞踊家)
    花柳梨道(日本舞踊家)
    藤間礼多(日本舞踊家)
    野村太一郎(能楽師狂言方)
【演奏】<箏・二十五弦箏>中井智弥
    <津軽三味線>浅野祥
    <笛>藤舎推峰
    <太鼓>山部泰嗣
【日時】2025年11月8日(土)19:00~
【会場】観世能楽堂(ライブ配信)
【一言感想】
歌舞伎俳優の中村壱太郎さんが歌舞伎の革新を仕掛けるART歌舞伎の第一作「ART歌舞伎~花のこゝろ~」に続く第二作「ART歌舞伎~DEEP FOREST~」が公演されましたが、非常に人気が高く早々にチケットが完売してしまいましたので、オンライン配信を視聴しました。もともと歌舞伎とは「傾く」を語源としており「型破り」の革新性を芸の本質にしていると思いますが、歌舞伎と能楽を比較すると「歌」「舞」の要素は共通していると思いますが、能楽の「技」(様式美)に対して歌舞伎の「伎」(創造美)に特徴的な違いがあるのではないかと思います。本日の公演を一口で言うと、歌舞伎の源流である能楽の様式を参照しながら、歌舞伎+能楽+現代邦楽で歌舞伎の革新を仕掛けた意欲的な公演に感じられました。冒頭はスピーカーから森の音、雷、雨、歌声などが聴こえ、浅野祥さんが豊年万作を歌う民謡(津軽民謡のようでしたが、何という民謡かは分かりません)と和太鼓、津軽三味線、笛、筝による現代邦楽が演奏され、能楽や歌舞伎のルーツに遡り、神事としての芸能の原点を意識させる舞台演出になっていました。そこへ笛と筝による精妙な伴奏と共に橋掛りから植物の妖精に扮した御幣を手にしたワキ1人と榊を手にしたワキツレ2人が登場し、和太鼓と津軽三味線が激しく囃すなかをワキが歌舞伎の荒事を連想させる激しい舞と雄叫びを上げながら睨みを効かせると、これに誘われるようにワキツレ2人も激しい舞を舞った後、笛の精妙な伴奏に乗せて榊を手にしたワキが神妙な舞を舞いました。その後、三味線、筝、笛、和太鼓による表情豊かな伴奏と共に鈴を手にして面を付けたワキツレが三番叟を連想させる舞を舞い、邦楽アンサンブルが能楽囃子を連想させる気魄の籠った伴奏と共にワキとワキツレが急の舞を舞い、さながら序破急の型破りのような舞台が展開されました。その後、花柳源九郎さんがナレーションで森の民による神事と共に四神が降臨するという舞台設定を語り、青い照明と共に青龍が登場して叙情や情熱が交錯する筝の伴奏と共に女形(おそらく中村壱太郎さん)の艶やかな舞を舞い、これに続いて赤い照明と共に朱雀が登場して流麗な笛の伴奏と共に優美な扇舞を舞い、これに続いて白い照明と共に白虎が登場して激しい津軽三味線の伴奏と共にキレのある舞を舞い、ダークな照明と共に黒色の装束の玄武が登場してリズミカルな和太鼓の伴奏と共にミニマルで緊張感のある舞を舞うと、最後に豊年万作を齎す春、夏、秋、冬を司る四神が入り乱れての群舞になりました。人間の知覚(環世界)を越えた世界の実相(環境世界)を直観し、それを得も言われぬ「神」というフィクションとして設え、これを畏敬する人間の知性として芸能が営まれてきたことに思いを巡らせながら楽しみました。特別ゲストの澤村精四郎さんのナレーションを経て、ART歌舞伎楽団が中井智弥さんが作曲されたノクターン(歌舞伎「刀剣乱舞」より)や清経(ART歌舞伎「花のこゝろ」より)などの作品を演奏し、多彩な情感が移ろい行く情緒纏綿とした演奏に魅了されました。後半は、安珍・清姫伝説を題材にして能楽と歌舞伎のミクスチャーしたディープフォレストが公演されましたが、過去のブログ記事でも触れたとおり、安珍・清姫伝説(本朝法華経記の紀伊國牟婁群悪女道成寺縁起など)は熊野詣に向う途中で仮宿をとった家の娘・清姫に見染められた奥州白河の若僧・安珍が仏に帰依する身の上からその好意を断ると、清姫は蛇体になって安珍の後を追い道成寺の梵鐘の中に隠れていた安珍を焼き殺すという悲劇(現代風に言うとストーカー殺人事件)が伝えらえていますが、これは本朝法華経記が書かれた平安時代には夜這いなどが横行する性に奔放な時代であったことから全国から熊野詣に訪れる男達が旅先で地元の若い女性達を辱しめることなどがないように男に弄ばれた女の情念の恐ろしさを蛇に化体して脚色した伝説ではないかと推測されます。安珍・清姫伝説を題材として能「道成寺」(観世信光作)が創作され、さらに人形浄瑠璃「日高川入相花王」(竹田小出雲作)や歌舞伎「京鹿子娘道成寺」(近松門左衛門作)などに翻案されています。果たして、森の守人としてワキとワキツレが登場して安珍・清姫伝説を物語ると出囃子と共に橋掛りから蛇の隈取りのようなメイクと赤い装束に鱗文様の烏帽子を被ったシテが登場し、三味線と民謡で歌舞伎の女形らしい艶っぽい序の舞が舞われ、やがて能管と和太鼓が激しく囃すなかを急の舞へと移りましたが、やがて中井さんの持ち前の美声及び耽美な箏の調べと共に優美で情熱的な歌舞伎舞踊が披露されました。その後、能管が禍々しく吹き荒らすと舞台が赤い照明(愛のメタファー)から青い照明(のメタファー)に一変し、篠笛と筝の伴奏と共に白い装束に鱗模様の帯姿に転じますが、そこへ(清姫の心に巣食っている?)隻眼の鬼(憎を生む執心のメタファー)が登場して、これに清姫が打ち勝つと赤い装束(愛のメタファー)へと戻って、やがて読経と共に清姫の魂は浄化されて行くという印象的な舞台に魅せられました。どこかアニメ「鬼滅の刃」を連想させるところがありますが、神仏不在の現代にあって他力本願(他力による魂の救済)を主題とする怨霊鎮魂の物語を超克し、自力本願(自力による魂の救済)を主題に採り入れることで現代人も共感し得る自己実現の物語にアップデートしている点に革新性が感じられ、ディープフォレスト(自分の心の中の深い森)に分け入って本当の自分に巡り合うプロセスを表現した舞台に感じられました。どのように歌舞伎を革新して行くのか、次回作にも期待したいです。
 
 
▼三島由紀夫生誕100周年記念フィリップ・グラス「MISHIMA」
【演題】三島由紀夫生誕100周年記念フィリップ・グラス「MISHIMA」
    -オーケストラとバレエの饗宴-
【演目】フィリップ・グラス 
    ①ヴァイオリン協奏曲第2番「アメリカン・フォー・シーズンズ」
    ②ピアノとオーケストラのための協奏曲「Mishima」
     <Dans>上野水香(東京バレエ団ゲストプリンシパル)
           青山季可(牧阿佐美バレヱ団プリンシパル)
           逸見智彦、京當侑一籠
               (牧阿佐美バレヱ団プリンシパルCA)
【舞台美術】横尾忠則
【監修】三谷恭三(牧阿佐美バレヱ団芸術監督)
【演奏】<Cond>柳澤寿男(京都フィル・ミュージックパートナー)
    <Ohrc>京都フィルハーモニー室内合奏団特別交響楽団
    <Vn>川井郁子
    <Pf>滑川真希
【日時】2025年11月14日(金)19:00~
【会場】東京オペラシティ コンサートホール
【一言感想】
今年は三島由紀夫の生誕100年、没後55年(命日:11月25日)のアニバーサリーですが、現代でも三島文学は世界中の作曲家や芸術家に多大な影響を与え続けています。10月27日に開催された第38回東京国際音楽祭で漸くタブーが破られて映画「MISHIMA」が日本初上映されて話題になっていますが(僕はかなり昔にインターネットで海外版を視聴していますが)、この映画で使用されているP.グラス作曲のピアノとオーケストラのための協奏曲「Mishima」(ピアニストはグラス弾きとして有名な滑川真希さん)と三島由紀夫をテーマにした横尾忠則さんの舞台美術(映像)及び堀内充さんのバレエをコラボした舞台があるので鑑賞することにしました。一曲目のヴァイオリン協奏曲第2番「アメリカン・フォー・シーズンズ」はP.グラスがA.ヴィヴァルディ―の合奏協奏曲「四季」にオマージュを捧げた作品で、各楽章のどれが春、夏、秋、冬に対応するのかは聴き手の自由に委ねられています。個人的には、第一楽章:冬、第二楽章:春、第三楽章:夏、第四楽章:秋をイメージしながら鑑賞しましたが、ART歌舞伎の前半に登場した四神降臨の舞ともイメージが重なって古今東西を問わず四季に抱くイメージには共通したものが感じられます。最近の異常気象で穏便な季節の移り変わりを体現する四季から極端な季節の移り変わりを体現する二季へと移行しつつありますが、我々の子孫が春や秋の素晴らしい季節感を音楽のみからしか感じることができない時代が来ないように現代人の責任として取り組まなければならない問題です。先ず特筆すべきは川井さんが奏でるヴァイオリンの音色の瑞々しさで、東京オペラシティーの豊かな残響にヴァイオリンの純度が高い透徹の響きが澄み渡るもので白眉でした。各楽章はカデンツア風の技巧的な独奏パートとソロを含む各パートが緊密に呼応する合奏パートで構成されていますが、第一楽章では世界をモノトーンに変える冬の到来を告げるようなメランコリックな演奏が展開された後、通奏低音の推進力ある演奏と共にソリストとオーケストラのバランスが良く協奏し、さながら氷面を滑るような流麗な演奏が展開されました。第二楽章は生物が春の到来を待って息を潜めている様子を表現したものでしょうか幽けき音と低音の重苦しい音から開始されましたが、満を持したように瑞々しい高音で叙情的な音楽が奏でられ、グリッサンドやアルペジオが生物の息吹を表現しているように感じられました。やがて川井さんが鳥の囀りのような音楽を奏でると、ソリストとオーケストラが多彩な音色で春の季節感を表現しているように感じられました。第三楽章はさながら夏の重苦しい空気とジリジリと焼き付けるような陽射しが肌を刺す雰囲気を表現したものでしょうか重音による分厚い響きが支配的になり、キーボードが激しいリズムを刻む緊迫感のある演奏が展開されて、思わず熱中症アラートを出したくなるような重圧感のある演奏が展開されました。第四楽章は落ち葉が舞い散る様子を表現したものでしょうか、螺旋形の音型が忙しなく重ねられ、また、秋の収穫祭の様子を表現したものでしょうか、躍動感あるリズムでダンス風の音楽が展開されました。やがて木枯らしを思わせるような下降音型が繰り返されながらアッチェレランドして急速に季節が深まって行くように曲が締め括られました。演奏会のレパートリーに加えられても良さそうな聴き易い音楽なので、今後、演奏機会が増えてくれることを期待します。二曲目のピアノとオーケストラのための協奏曲「Mishima」ですが、第一楽章「燃えゆ鳳凰」は1950年に実際に発生した金閣寺放火事件が題材になっている小説「金額寺」がテーマになっていますが、上野水香さんが舞う金閣寺のシンボルである鳳凰の精と京當侑一籠さんが舞う主人公の若僧・溝口のデュエットが展開され、溝口が鳳凰の精の美しさに圧倒されて絞め殺してしまうルサンチマンがバレエで表現されていました。グロッケンが鳳凰の輝き、チューブラーベルが金額寺の荘厳さを表現し、その圧倒的な美に打ちのめされる溝口の動揺を滑川真希さんが躍動するピアノで巧みに表現しているように感じられました。鳳凰の精と溝口のダンスが繰り広げられるなか、三島由紀夫の決起を象徴するような緊迫したドラムトールが加わって、その完成されたことによった生命力を失った美を再生させるために完成された美の破壊への衝動に駆り立てられる心情が巧みに表現されているようでした。第二楽章「ふたり」は小説「鏡子の家」がテーマになっていますが、横尾忠則さんが三島由紀夫をアイコンにしたポップアート(映像)をバックスクリーンに投影し、また、浅川さんが粒際立った硬質なタッチでキビキビとドラマチックな演奏を展開しましたが、(作曲意図はいざ知らず)戦後日本や三島さんがサブカルチャーやグローバリズムなどの潮流に翻弄されていた様子が表現されているように感じられ、敗戦が生んだ退廃と虚無(上述の仏教の空性理論に擬えられますが、それは全てのものが再生(創発)される境界域でもあるもの)の中から新しい日本の美が再生される儚い期待のようなものが表現されているように感じられました。第三楽章「オマージュ」は小説「豊穣の海」がテーマになっていますが、ミニマルな音型(部分)が相互作用しながら複雑に交錯して全体を変容して行くような演奏が展開され、さながら複雑性理論の世界観を体現している音楽に感じられて刺激的でした。母なる海は生と死の輪廻の象徴であり、美は死や破壊を経て虚無の海へと至り、やがて再生するという美学が体現されているようで感慨深く鑑賞しました。因みに、後述する特別公演「志ん輔 蝉の会」で採り上げられている落語「しじみ売り」では新橋芸者が登場しますが、三島さんの小説「橋づくし」には新橋芸者が描かれており、また、三島さんが決起した1970年11月25日の前日に最後の晩餐として新橋の料亭「末げん」で鳥鍋(晩餐「わ」のコース)を食したという話も有名で、あの界隈には多彩な歴史が刻まれています。
 
 
▼特別公演「志ん輔 蝉の会」
【番組】①五銭の遊び(初演)
    ②しじみ売り(初演/共演:淡座)
    ③芝浜
【噺家】古今亭志ん輔 師匠
【音楽】落語、三味線、ヴァイオリン、チェロのための「しじみ売り」
                            (世界初演)
    <作曲>桑原ゆう
    <三味線>本條秀慈郎
    <Vn>三瀬俊吾
    <Vc>竹本聖子
【囃子】金山はる
【前座】三遊亭歌きち
【日時】2025年11月24日(祝・月)14:00~
【会場】音楽の友ホール
【一言感想】
来年末まで紀尾井ホールが休館のため、今回は神楽坂にある音楽の友ホールでピアノの椅子を踏み台に使った特設の高座(さすがにピアノの上ではありませんでしたが)が設けられました。前座の三遊亭歌きちさんが三遊亭の持ちネタである古典落語「薬缶」を口演された後、古今亭志ん輔師匠が(古今亭は三遊亭から独立した一門であり「三遊」の亭号にオマージュを捧げる意図があったのか、これに「古今」の亭号を織り交ぜて)「」をテーマにした典落語席(そのうち一席は淡座との共演による「」を織り込む心意気)を口演されました。
 
①古典落語「五銭の遊び」
ある男が「五銭で女郎を買った」と友達に自慢します。家でゴロゴロしていると母親から五銭を貰ったので、懐の二銭と併せて七銭を持っておでん屋へ行き二銭のこんにやくを食べ(こんにゃく1個が二銭(=112円)だとすると五銭は300円程度)、その帰りに女郎が声を掛けてきた。男は「これしか金を持っていない」と片手を示すと、女郎はそれを五銭ではなく五十銭と勘違いして「残りは何とかする」と男を女郎屋に誘います。その後、女郎屋の主人が宵勘(江戸っ子は「宵越しの銭を持たない」ことから宵のうちに勘定を求める風習)に来ると、男は懐から五銭を出す。主人はたった五銭で女郎遊びをするとは厚かましいと呆れると、男は「いいや、銅貨には穴が開いているから厚くない」と頓珍漢な答えをするとサゲがつきます。志ん輔師匠の愛嬌のある語り口と相俟って、男の間抜けに女郎屋の主人が拍子を狂わせる「遊び」と「狡さ」の間に生まれる笑いを楽しめました。落語の枕で志ん輔師匠は志ん生師匠からよく「遊べ」と言われたそうですが、過去のブログ記事で触れたとおり「遊ぶ」(=「足」+「歩」)とは自己のアイデンティティを外界へアウトリーチする心理過程(自己を外界へ解放して自己を外界と同化する拡張自己的な営み)であるのに対して、「学ぶ」(=「真似」+「舞」)とは外界を自己のアイデンティティにアレンジする心理過程(外界から学習したことを身に付けて自己を充実させることで自己を外界と異化する自己拡張的な営み)と言えますので、「遊ぶ」と「学ぶ」は硬貨の裏表の関係にあり「遊び」が「学び」を深めるということなのかもしれません。落語界では兄弟子が弟弟子を奢る習慣があるらしく、飲み屋で「兄さん!」と言われて奢ったところ実は兄弟子だったという経験も少なくないのだとか。「誤解によって愛は始まり、理解によって愛は終わる」と言いますが、現代にも古典落語「五銭の遊び」の精神が息衝いていると言えるかもしれません。
 
②古典落語「しじみ売り」
義賊・鼠小僧次郎吉改は茅場町で魚屋「和泉屋」を営む次郎吉に扮して汐留の船宿で飲んでいたところ、雪空を貧しい少年がしじみ売りにやってきました。次郎吉は不憫に思ってしじみを全て買い取り、その少年から身の上を聞くと、盲目の母と病気の姉を抱えていること、姉は新橋芸者の小春(下掲写真の「金春」との掛詞か)で馴染客(遊び)の質屋若旦那の庄之助と駆け落ちしたこと、庄之助は博打(遊び)で30両の借金を抱えて途方に暮れていたところ義侠心のある若者(鼠小僧治郎吉)が通り掛り50両の小判をくれて二人で家へ帰れと諭されたこと、役人が御金蔵破りの小判だとして庄之助を捕らえそれが原因で姉が病気になったことなどが語られました。次郎吉は自らの過去の行いが少年一家を不幸にしたことを知り、その侠気から不正をばらすと奉行を脅して庄之助を解放させるという人情噺(悪で悪を懲らしめる義賊譚)です。過去のブログ記事で簡単に感想を書いた古典落語「猫定」とも因縁深いネタですが、過去のブログ記事で触れたとおり未だ日本人の意識に「社会」はなく「世間」しかなかった時代に、法よりも人情が人々の心を支配していた江戸の気質を現代に伝えています。この噺には淡座の音楽が添えられていましたが、三味線やチェロが繰り返して奏でていた3音のモチーフは鼠小僧治郎吉の「忍び足」を表現したものでしょうか、これにヴァイオリンのフラジョレットが加わって鼠小僧次郎吉の雲霞過客とした生き様を体現するような音楽が添えられていましたが、志ん輔師匠が話芸達者に描く活き活きとしたデッサンに、淡座の音楽が淡い彩りを添えながら噺の情感を豊かに広げていくような印象の舞台を楽しめました。
 
金春屋敷跡(東京都中央区銀座8-7-11
芝浜の雑魚場跡(東京都港区芝4-15-2
木挽町三座(東京銀座5丁目~6丁目の昭和通り沿い界隈
江戸切絵図築地八町堀日本橋南絵図:落語「しじみ売り」の噺の舞台は汐留ですが、昔は汐留川を挟んで新橋と汐留橋が橋掛されており、新橋親柱がその名残を現代に伝えています。古地図では新橋の近くに金春屋敷がありましたが、この落語にも登場する新橋芸者は金春座に奉公する女性が芸を身に着けてそれを売りにしたことから誕生しています。 ②金春屋敷跡銀座(新橋寄り)には徳川幕府の御用能楽師である金春太夫の拝領屋敷がありましたが、金春座に奉公していた女性が唄や舞などの諸芸を身に付けて金春芸者(新橋芸者)になり、そのハイカラな気質から金春色(ターコイズブルー、新橋色)を好んだと言われています。昔、銀座唯一の銭湯である金春湯看板は金春色を使用していました。 ③芝浜の雑魚場跡:名作落語「芝浜」は魚屋の某が芝の魚市場で革財布を拾いますが、江戸時代から芝の漁師は薩摩藩邸近くに魚市場を立て雑魚を商っていたと言われておりその地には雑魚場跡の碑が残され、往時の面影を伝えています。因みに、芝の海側が芝浦、芝の陸側が芝浜と地名を区別していましたが、現在では芝浦に地名が統一されています。 ④木挽町三座跡:現在の歌舞伎座の向いには木挽町三座(山村座河原崎座森田座)があり、この近くには金春座の能舞台の他に徳川幕府の奥絵師であった狩野画塾がありましたが、現在はグランドバッハが建設され、バッハも使ったジルバーマンが展示されています。なお、1714年に山村座が発端となって江島生島事件が勃発しています。
 
③古典落語「芝浜」
酒好き(遊び)が高じて商売が傾き掛けている魚屋の熊さんは、ある日、酔い覚ましのために芝浜の海で顔を洗っていると、その海底に50両もの大金が入っている革財布が落ちているのを発見しましま。早速、革財布を拾って家に持ち帰り妻に報告し、祝杯をあげていると気持ちが良くなって寝入ってしまいます。熊さんが目を覚まして革財布のことを妻に尋ねると、妻から「革財布なんて知らないけど、夢でも見ていたのではないか。」と惚けられ、熊さんは夢だったのかと落胆したショックから断酒して商売に精を出すようになります。それから3年後、妻は「本当は夢ではなく革財布はある。あの後、奉行所に革財布を届け出たが落とし主が現れなかったので革財布が戻ってきた。」と真実を告げて祝杯をあげようと謝りますが、熊さんは「また夢にされるのが怖い。」とサゲがつき、その後も断酒を続けて商売に成功するという人情噺で、志ん輔師匠の酔狂芸が堂に入る面白い一席を楽しめました。談志師匠の酩言に「酒が人間をダメにするんじゃない。人間はもともとダメだということを教えてくれるものだ。」とあり「落語とは人間の業の肯定である。」と舌鋒鋭く言い放っていますが、夫のダメっぷりを見抜いている妻の優しい嘘が夫の性根を叩き直し、しかも革財布を奉行所に届け出てマネロンしたうえで酒の夢を真の夢に変える機転を効かせる器量良しの妻から愛想を尽かされなく慕われる熊さんの男冥利に尽きる心温まる噺でした。世評に「講談を聴くとタメになる、落語を聴くとダメになる。」とありますが、「遊び」(買う、打つ、飲む)にまつわるタメになる落語三席でした。
 
 
▼田中悠美子音楽実験室2025〜義太夫三味線音響エクスペリメンタル
【演題】田中悠美子音楽実験室2025〜義太夫三味線音響エクスペリメンタル
    ―日本の伝統楽器・義太夫三味線の音響世界を今に解き放つ―
【演目】①佐原洸 連歌Ⅴ(義太夫三味線とエレクトロニクス)
     <義太夫三味線>田中悠美子
     <Elc>佐原洸
    ②藤倉大 Jiai(慈愛/地合)義太夫三味線のための
              ~ロングバージョン(義太夫三味線ソロ)
     <美太夫三味線>田中悠美子
    ③田島浩一郎 タブローの方法
          (義太夫三味線とサックスとジェネレーティブ AI)
     <義太夫三味線>田中悠美子
     <Sax>菊池成孔
     <GenAI>田島浩一郎
    ④向井響 乙女椿~義太夫三味線とライブエレクトロニクスのための
                  (義太夫三味線とエレクトロニクス)
     <義太夫三味線>田中悠美子
     <Elc>向井響
    ⑤義太夫三味線✕ピアノ✕ベース
     ・Blue in Green
     ・義太夫節「本朝廿四孝」~「奥庭狐火の段」より
     ・Slaves mass
     ・My Funny Valentine
     ・St.Thomas
     <義太夫三味線>田中悠美子
     <Pf>林正樹
     <Bass>瀬尾高志
     <Sax>菊池成孔
    ⑥田中悠美子 I was here(2004)
     <義太夫三味線>田中悠美子
     <Pf>林正樹
     <Bass>瀬尾高志
【DJ】安達楓 日本の声の記録(開演前)
【企画・主催】田中悠美子
【制作】福永綾子(ナヤ・コレクティブ)
【日時】2025年11月24日(月・祝)18:00~
【会場】晴れたら空に豆まいて
【一言感想】
昨年、第24回佐治敬三賞を受賞されて益々と勢いに乗る女流義太夫三味線奏者・田中悠美子さんのライブを鑑賞するために代官山駅前のライブハウス「晴れたら空に豆まいて」に伺いました。ライブエレクトロニクス、コンテンポラリー、ジャズなどをコラボレーションしたジャンルレスな音楽に義太夫三味線の情趣が加わることで立ち上がってくる独特の世界観が非常に魅力的に感じられる舞台で、「実験室」と銘打たれていますが委嘱初演も含めて斬新ながら完成度の高い音楽を楽しめました。個人的な印象では「襲の色目」の美意識のようなものが感じられ、それぞれのジャンルの持ち味を「混ぜる」というよりも「和える」という感触に近く、それぞれの特徴を活かしながら、それらの特徴がバランス良く重なり合うことで生まれる妙味を堪能できました。
 
① 連歌Ⅴ
パンフレットには「舞台上の奏者は水にまつわる表現などのごく限られた音素材に基づく演奏を行う。」としたうえで、「伝統と現在のアコースティックとエレクトロニクスという二つの領域を行き来しながら、伝統の未来を見据えて創作した。」と解説されています。パンフレットを読まずに鑑賞しましたが、人間の認知特性として、単に音だけを記憶に留めることは困難で何らかのナラティブの形式でしか記憶に留めることしかできませんので、個人的な妄想として、エネルギーの励起(粒状のムラ)が下降形のリズムを繰り返しながら、やがて時空間の広がりを作って行くようなイメージで聴いていました。エネルギーの励起(粒状のムラ)は義太夫三味線の水の表現を参照したものでしょうか、過去のブログ記事でも触れたとおり水は氷⇄水⇄蒸気と相転移し易い性質を持っていますので、それに近いイメージを想起できていたかもしれません。佐原洸さんはIRCAMでライブエレクトロニクスを学ばれた時代の嚆矢とも言うべき存在なので、今後の活躍から目を離せまん。
 
②Jiai(慈愛/地合)
パンフレットには「僕にとって初めての義太夫の太棹三味線の作品で(中略)義太夫節の古典は不条理な悲劇が基本だと教わったので、「暗さ」というのがキーワードと思って、ダークなオーラを帯びたイメージで書きました。」と解説されています。琵琶のようなダイナミックな撥裁きによる力強い表現と三味線の特徴を示す繊細かつ情緒豊かな表現を織り交ぜた義太夫三味線の特徴を活かした技巧的に難しい?曲調に感じられ(但し、19世紀のようにヴィルトゥオジティをひけらかすような陳腐さはなく)、義太夫三味線の表現可能性を色々と試みている習作のような性格も持つ面白い作品に感じられました。
 
③タブローの方法
パンフレットには「本作は、生成AIでつくり出したトラックに対して、義太夫三味線(田中悠美子)とサックス(菊地成孔)が即興演奏で介入する形式をとっています。ここで用いられる「タブロー」という語は、絵画のことではなく、論理学で形式的照明や自動定理証明で用いられるタブロー法(tableau method)を指しています。」と解説されています。冒頭、街のサウンドスケープが流され、そこにコーラスの歌声が重ねられましたが、それを遠景に捉えながら義太夫三味線が一音一音と情感を込めて紡いで行く一音成仏の世界観を体現するような演奏で始まりました。これにサックスやキーボードが即興的に呼応しながら演奏が展開されて行きましたが、宇宙が構造である以上は万物(諸現象を含む)には何らかの法則性がありますが、AIの「計算」(電気的な反応)と人間の「情動」(電気的+化学的な反応)という異なる法則性を掛け合わせて音場を協創して行くような面白い作品に感じられました。
 
④乙女椿
ヴラヴィー!パンフレットには「女流義太夫である竹本寿々女さんの声をコンピュータに学習させ、そこからジェネレートされた新しい浄瑠璃の「声」と、リアルタイムでエフェクトをかけた義太夫三味線の音で、新しい浄瑠璃の形を想像」し、「機械から発せられる息遣いを一切持たないその「声」と、奏者の呼吸によって自由に間とテンポが決定される三味線の間で、大きく揺れる音楽を立ち上げようと考えた。」と解説されています。義太夫三味線の弦を糸で擦って電気ノコギリのようなノイズを発生させ、そのノイズをライブエレクトロニクスを使って拡散することで猟奇的な音場を作り出し、これに竹本寿々女さんの語りの声がコラージュされてエルドリッチな雰囲気が醸し出されているように感じられましたが、義太夫節のエッセンスの1つである「情念」のようなものが立ち込める異次元の舞台を顕在させることに成功しているように感じられました。義太夫三味線の音にエフェクトをかけてアコースティックな世界とエレクトロニクスな世界のハイブリッドな音響空間が体現する亜空間に義太夫節の語り(言葉)が持つ「意味」(理性)ではなく、その「音素」(本能)が体現している情念のようなものが亜空間を漂っているようで、義太夫節のエッセンスを使った現代的な音楽表現へとアップデートされているような斬新な舞台に魅了されました。拙ブログでも何度か感想を書いていますが、向井響さんは向井航さんと共に日本の若手現代作曲家の中で最も注目される逸材であり、今後もフィーチャーして行きたいと思っています。
 
⑤義太夫三味線×ピアノ×ベース
ヴラヴィー!パンフレットには「昨年に続いて今回もジャズの演奏家との共演を試みます。」と解説されていますが、義太夫三味線の田中悠美子さんと、ピアノの林正樹さん、ベースの瀬尾高志さん、サックスの菊池成孔さんというビッグネームとの異色の組合せによるセッションが行われました。ジャズと義太夫三味線のコラボレーションは初めて聴きましたが、いずれもソウルフルな音楽ということもあり非常に相性がよく、ジャズのグルーヴに義太夫節の情趣がプラスされた心を強く揺さぶる独特な聴感が斬新で面白く感じられました。とりわけピアノの林さんが義太夫節の興に感応して即興的に絡んで行く閃きに満ちたパートは出色でした。また、スタンダードナンバーであるMy Funny Valentineでは菊池さんのサックスや瀬尾さんのベースが奏でるメランコリックな雰囲気が心に沁み、これに義太夫三味線の情緒纏綿とした語りが加わることで、心の襞が複雑に絡み合う味わい深い情趣が立ち込める演奏に魅了されました。ジャズの感想を書いてみるというのも野暮なことだと思うので、是非、ご興味がある方は田中悠美子さんのライブにお運び頂いてその場の雰囲気を体感して下さい。極上の音楽と酒に酔い痴れ、人生に溺れさせてくれるような素敵なライブなので自信をもってオススメしておきます。
 
⑥I was here
パンフレットには「物語の情景や登場人物の生活・感情まで、迫力たっぷりに、時には細やかに表現する義太夫三味線。その本来の文脈を離れて、楽器から醸成される響き、余韻、噪音、倍音を下がる試み。」と解説されています。原曲は義太夫三味線のソロ曲ですが、本日はジャズトリオ編成にアレンジして演奏されました。冒頭、エイジレスな田中さんが艶っぽい声で「春は鶯、夏は蝉、秋は虫、冬は木枯らし、雪の音」と四季を彩る季節の音を詠いましたが、このジャズトリオ版では義太夫三味線、ピアノ、ベースが叙情豊かな演奏を展開して、途中、ピアノやベースによるアドリブが挟まれるなど、原曲の世界観が拡張されていました。原曲を水墨画に例えるとすれば、ジャズトリオ版は彩色画と形容することができるかもしれませんが、それぞれの味わいが感じられる面白いピースでした。
 
終演後に出演者の皆さんを記念撮影
 
 
▼シンポジウム「能楽研究の国際発信と今後の展望」
去る10月11日(土)~12日(日)に法政大学市ヶ谷キャンパスにおいて野上記念法政大学能楽研究所の主催で "A Companion to Nō and Kyōgen Theatre" 刊行記念シンポジウム「能楽研究の国際発信と今後の展望」が開催され、そのうちPart2を拝聴しましたので、その概要を備忘録として簡単にサマっておきたいと思います。
【講題】Part2:現代に生きる能楽 ―ジャンルを超えて―
【講目】①越境する能―戦前 ディエゴ・ペレッキア
                     (京都産業大学准教授)
    ②越境する能―戦後 横山太郎(立教大学教授)
    ③ラウンドテーブル「演出・技法・トレーニング」
     横山太郎(立教大学教授)
     ディエゴ・ペレッキア(京都産業大学准教授)
     山中玲子(法政大学能楽研究所教授)
     高桑いづみ(東京文化財研究所名誉研究員)
     リチャード・エマート
     (武蔵野大学名誉教授・シアター能楽創設者)
     ジョン・オグルビー
     (法政大学講師・シアター能楽トレーニングディレクター)
     モニカ・ベーテ(中世日本研究所所長)
【日時】10月12日10:00~12:30
【概要】
西洋では世紀末のジャポニズムの潮流に乗り歌舞伎の受容よりも能楽の受容が先行していたそうですが、当初は能面や衣装などのマテリアル・カルチャーが注目され、徐々に演能などのパフォーマンス・カルチャーへと関心が移って行ったそうです。1916年にW.イェイツさんが能楽の特徴を採り入れた戯曲「鷹の井戸」を初演して話題になり、逆に、これを題材にして横道万里雄さんが1949年に能「鷹の泉」、1967年に能「鷹の姫」、2017年に梅若玄祥さんとコーラス・グループ「アヌーナ」がケルティック能「鷹姫」、坂本龍一さんと高谷史郎さんが舞台「LIFE-WELL」などに翻案しており、能楽の受容は国境を越えて深化しました。この点、明治維新以後の日本国内における能楽の受容は3つの時代に区分することができ、【第一期:1900年代】1905年に吉田東伍さんが世阿弥の芸道書「風姿花伝」を発見して観阿弥や世阿弥が正当に評価され、【第二期:1940年代】第二次世界大戦後に西洋近代を乗り越える機運が高まる中で日本人のアイデンティティとして能楽が積極的に受容され、【第三期:1980年代】ポストモダンの潮流の中で能楽は古臭いとして低迷期を迎えるという時代の大きな流れがあったことが紹介されました。また、1950年代から三島由紀夫さんが戯曲集「近代能楽集」を執筆、武満徹さんと観世寿夫さんが草月アートセンターで現代音楽と能楽(能舞)を融合する活動、2000年以降には細川俊夫さんと青木涼子さんが現代音楽と能楽(謡)を融合する活動などが注目されていることが紹介されました。伝統的な能楽はオワコンであるというネガティブな世評もあるなかで、アニメ、メディアや言語などをクロスオーバーするオルタナティブなアプローチが盛んになっている現状が紹介されましたが、上述のとおり物質主義的な世界観から複雑性理論の世界観へとパラダイムシフトする中で芸術表現の器として顕在劇としての能楽の潜在力に期待したいと思います。いつまでも世阿弥頼みでは本当にオワコンになってしまうと懸念しますが、能楽のエッセンスを活かしながら現代的にアップデートすることに成功すれば大化けするかもしれないキラーコンテンツたり得る大器を持っているのではないかと期待しています。
 
▼Synthetic Natures「もつれあう世界:AIと生命の現在地」
銀座のシャネル・ネクサス・ホールでAIアートとエコロジーを融合する展覧会「Synthetic Natures」(もつれあう世界:AIと生命の現在地)が開催されているので仕事帰りに立ち寄ってみました。AIを使って有機生命体とその進化を探求するアルゼンチン人のヴィジュアル・アーティストであるソフィア・クレスポさんとエンタングルド・アザーズさんが生命と環境の「もつれ合い」(エンタグルメント)をテーマにAIを使って創作した作品が展示されています。生命と環境の「もつれ合い」(相互作用、連接)によって秩序とカオスの境界域に新しい秩序が立ち上がる複雑系の創発を表現している作品群で、複雑性理論の「全体>部分の総和」という命題をAIを使って人間の知覚を超克して美的に表現し、新しい世界観を拓いてくれる大変に興味深く刺激的な展覧会でした。ご興味がある方は美術手帳に詳しい解説がありますので、ご一読頂くと鑑賞が深まると思います。
 
 

シアター・オペラ「その星には音がない-時計仕掛けの宇宙-」(脚本:平田オリザ、作曲:中堀海都)と中井智弥箏・二十五絃箏リサイタル 2025「時をこえて」と長須与佳 尺八・琵琶LIVE〜亜欧の風〜と吉例顔見世大歌舞伎(三谷歌舞伎)と「この世界のムラを認知する」

▼ブログの枕「この世界のムラを認知する」
前七回のブログ記事では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」、「行動遺伝学」、「行動経済学」、「ニューロ・ダイバーシティ」、「文化心理学:拡張自己」、「社会心理学:自己拡張」に簡単に触れてきましたが、今回は、この世界の「ムラ」を認知するという視点から心のフレームワークについてごく簡単に触れてみたいと思います。前回のブログ記事で現代オペラの傑作として名高いオペラ「ミスター・シンデレラ」の感想を簡単に書いた際に当時の時代感覚(世代論)に言及しましたが、丁度、このオペラが初演された2001年頃はテレビ(アナログ)を中心とするマス・メディア(大衆社会)からインターネット(デジタル)により分散するナノ・メディア(個衆社会)へと移行した端境期にあたり(以下の囲み記事を参照)、ナノ・メディアに脳をハッキングされて人々の価値観が大きく変化し始めた時期にあたると思います。このような社会現象を裏書きするように、例えば、製造業(技術大国)に代わって日本経済を牽引し始めているコンテンツ産業(エンタメ大国)を代表するアニメもウルトラマンから宇宙戦艦ヤマト、機動戦士ガンダムに極まるタテ型社会(ヒエラルキー)を基調とした社会や組織を重視する自己犠牲に彩られた拡張自己的な価値観(俗にガンダム世代)から、ワンピースに始まりキングダム、鬼滅の刃へと発展するヨコ型社会(ホラクラシー)を基調とした仲間や自分を重視する自己実現に彩られた自己拡張的な価値観(俗にワンピース世代)へと移行し(集団から個人へ、秩序から自由へ、社会を守る技術から個人の可能性を広げる技術へとパラダイムシフトし)、ガンダム世代が自己犠牲により体制を守ろうとする一方で、ワンピース世代はその体制に抗うことで自己実現を図ろうとするという各世代の特徴的な傾向があり、それがハラスメントなどの様々な摩擦となって顕在しています。
 
▼アニメに描かれている時代感覚
20世紀後半(1950~)の戦後世代はマスメディアなどを中心にして規範化された大衆社会で育ったのに対し、21世紀(2000~)のポスト戦後世代はナノメディアなどの普及により多様化された個衆社会で育ったと言えそうですが、このような社会情勢の変化を背景として、アニメのテーマも社会の利益を守るために技術(拡張自己)を駆使して自己犠牲のもとに反体制(主に侵略者)を打ち破るもの(ガンダムが体現する世界観)から、個人の夢を叶えるために自らの成長(自己拡張)を経て体制(主に既得権益)を打ち破り自己実現を図るもの(ワンピースが体現する世界観)へ移行したように思わます。
西暦 TVアニメとテーマ 社会現象
1953 マスメディア TV放送開始
1955 高度経済成長
1966 ウルトラマン
テーマ:地球救済
1974 宇宙戦艦ヤマト
テーマ:地球救済
1979 機動戦士ガンダム
テーマ:地球連邦救済
1991 バブル経済崩壊
1993 ナノメディア インターネット開始
1995 Windows 95発売
1996 Yahoo! Japan開始
1999 ONE PIECE
テーマ:海賊王
ADSL、携帯ネット開始
(一般家庭へ普及)
2003 光回線開始
2004 mixi(SNS)開始
2012 キングダム
テーマ:天下の大将軍
2019 鬼滅の刃
テーマ:妹救済
※ウルトラマンは特撮実写版が有名ですが、1979年からアニメ版も放送されていますのでアニメにカテゴライズしています。
 
▼ガンダム世代の滅私奉公(組織重視)からワンピース世代のハラスメント(個人重視)へ
ガンダム世代はメンバーシップ型雇用を前提として組織への忠誠に基づく自己犠牲を基調とする社会に生まれ育ち、それに伴う滅私奉公や過労死が社会現象になりましたが、ワンピース世代はジョブ型雇用を前提として多様性の尊重に基づく自己実現を基調とする社会に生まれ育ちましたが、ガンダム世代による組織への忠誠や自己犠牲の強要などがワンピース世代の多様性の尊重や自己実現の重視などを阻害するものとしてハラスメントの問題を惹起するという社会現象になっています。
世代 特徴 コミュ 価値観
ガンダム
世代
鋼鉄の
堅実性
社会性
規範性
組織
競争
タテ社会 自己犠牲
ワンピース
世代
ゴムの
柔軟性
個性
多様性
仲間
協調
ヨコ社会 自己実現
 
戦後、義務教育やマスメディアの普及などにより「常識」と呼ばれる社会的な共通感覚が醸成されて社会の均質化(大衆化)が進みましたが、その裏腹として、上述のとおり各世代に固有の共通体験(例えば、オイルショックや就職氷河期など)により形成された「常識」から逸脱する各世代の特徴的な傾向は世代論(ムラ)として捉えられるようになりました。この点、世代論をネタにした書籍やWebサイトなどは溢れていますので、敢えてここでは深入りしませんが、このような各世代の特徴的な傾向をステレオタイプとして捉える心のフレームワークは脳の認知特性から生じるものと考えられています。人間は、①外界から情報を取り込むと(感覚)、②そのうち必要な情報を選択して注意を振り向け(知覚)、③その選択的注意を振り向けた情報と過去の経験や知識(記憶)を照合して意味を理解して判断又は行動を促す(認知)と共に、④それを個人の嗜好や価値観により解釈、評価します(意識)が、過去のブログ記事で触れたとおり、外界からの情報を詳細に認知していると外界の変化に迅速に反応することが難しくなりますので、自らの生存可能性を高めるために過去の経験や知識(記憶)をベースにした認知パターンに基づく予測(例えば、ニャン=猫、ガァオ=虎など)を前提に効率的な認知を行っています。また、過去のブログ記事で触れたとおり、人間は、自らが属している集団の内(我ら)と外(彼ら)をアイデンティティで区別し、自らが属する集団と同質のアイデンティティを持つ者を集団の内と認知する習性があり、自らの生存可能性を高めるために自らが属している集団を強く支持する一方で、他の集団に対して攻撃的になる習性があると言われています。他の集団を認知しようとするとき、自らが属する集団とのアイデンティティの違いをステレオタイプとしてパターン化し、その認知パターンを自らの属する集団に共有することで一種の偏見(確証バイアス)が生まれますが、その1つとして否定的、悲観的なニュアンスを含む世代論が挙げられます。最近、多様性の時代を踏まえて世代論の有効性が議論されていますが、所詮、人間には外界を正確に認知することは不可能なので、(偏見やペルソナの強化に結び付かないように個体差に配慮する注意深さは必要ですが)各世代の特徴的な傾向を把握することで各世代間に潜在する社会的な摩擦を回避又は緩和する知恵として活かすことができるかもしれません。
 
 
▼シアター・オペラ「その星には音がない-時計仕掛けの宇宙-」
【演題】水戸国際音楽祭
【演目】シアター・オペラ「その星には音がない-時計仕掛けの宇宙-」
【脚本・演出】平田オリザ
【作曲・指揮】中堀海都
【出演】<Sop>太田真紀
    <Mez>ドーラ・ガルシドゥエニャス
    <Ten>フーゴ・ポールソン・ストーヴェ
    <俳優(青年団)>兵藤公美、能島瑞穂、南風盛もえ、田崎小春
【演奏】アンサンブル水戸
    <Fl>若林かおり
    <Cl>上田希
    <Fg>中川日出鷹
    <Pf>若林千春
    <Vn>石上真由子
    <Va>般若佳子
    <Vc>竹本聖子
【舞台美術】杉山至
【立体音響】五十嵐優
【舞台監督】中嶋さおり
【技術監督】武吉浩二
【照明】三嶋聖子
【字幕】西本彩、佐山泉
【衣装】正金彩
【制作】太田久美子
【制作補佐】三浦雨林
【日時】2025年10月11日(土)14:30~
【会場】ザ・ヒロサワ・シティ会館 大ホール
【一言感想】
前回のブログ記事でも宣伝しましたが、今年の水戸国際音楽祭でシアター・オペラ「その星には音がない-時計仕掛けの宇宙-」が初演されるというので聴きに行ってきました。水戸国際音楽祭は「音楽と観光の融合」というコンセプトを掲げて、この音楽祭でしか体験できない魅力的な芸術イベントと水戸ならではの豊かな観光資源を楽しむことができる多彩なプログラムを用意し、水戸の街全体をテーマパーク化したステイ型のフェスティバルのようです。水戸には水戸城、偕楽園、弘道館、千波湖などの観光資源の他にも、例えば、幕末に水戸で発明された日本最古のエレベーター(好文亭)、日本最古の戦車(水戸東照宮)や日本最古の潜水艦設計図(弘道館)など日本が近代化を図り今日の経済的な繁栄をもたらしたイノベーションの萌芽となった場所でもあり、そのユニークな観光コンテンツが魅力です。因みに、僕の先祖はTVドラマ「水戸黄門」の格さんのモデルになった安積覚兵衛と共に水戸藩の彰考館総裁を勤めていたこともあり、個人的には大変に思い入れが深い場所でもあります。演出家の平田オリザさんは現代作曲家の細川俊夫さんとオペラ「海、静かな海」(2016)やオペラ「二人静」(2017)を創作されていますが、このとき細川さんの弟子であった中堀海都さんと知り合い、その後、このオペラの構想が持ち上がりって足掛け7年越しで実現した舞台だそうです。現在、平田さんは地域文化政策に注力されており、地方行政と連携しながら城崎国際アートセンターを活動拠点にして豊岡演劇祭の開催や芸術文化観光専門職大学の設立などの活動を通して観光と文化を融合した地域振興に取り組まれているそうです。平田さんの芸術観として、芸術には①娯楽性(個人の充実)、②社会性(社会の形成)、③公益性(観光や医療など社会の充実)という3つの役割が期待され、基礎(伝統)に根差しながら先端(革新)を拓いて行くことで100年後の人々にとっても価値のある新しい文化資産を創造し続けることが必要であるという信条を吐露されていましたが、正しく慧眼だと思います。過去のブログ記事でも触れましたが、「伝統なき革新」( ≠ 実験)や「革新なき承継」ではやがて芸術の「花」は枯れてしまいますので、自己拡張を育む世界観(目的)と拡張自己を誘う方法(手段)をバランスして伝統を革新しながら新しいもの(藝術)を創り続ける創造的な営みを通して「花」を咲かせ続けることが重要ではないかと思います。過去のブログ記事でも触れましたが、古事記(「八百万の神共に咲(わら)ひき。」「歌ひ、舞ひ、かなで給ふ。その御聲ひそかに聞えければ、大神、岩戸を少し開き給ふ。國土また明白たり。神たちの御かりけり。」)や世阿弥の花伝書(「住する所なきを、まづと知るべし。」「花と面白きとめづらしきと、これ三つは同じ心なり。」)に著されているとおり、芸術の意義は「面白さ」(≧ 美しさ)に窮まり、「面白さ」とは詰まるところ自分の知らない自分に出会うこと(自己拡張)を意味するのではないかと思います。さて、このオペラにはプロットのようなものは存在しないと思っていましたが、アフタートークで宇宙に関するオペラを創ろうということになり「宇宙」→「真空」(音≒ 振動を伝える媒質がない世界)→「音」(音≒ 振動を伝える媒質がある世界)→「声」→「言葉」という連想から宇宙に移住した人間が地球に戻ってきて言葉を取り戻すという状況設定のようなものがあったらしく、ジングシュピール(歌芝居)よろしく歌(音楽)と芝居(演劇)が交錯する舞台構成になっていました。また、上述の状況設定のようなものが手伝って、伝統的なオペラのようにプロット(物語)を重視したものではなく、ポップスのようにイメージ(言葉の断片)を散りばめた歌が中心に据えられており、細川さんのオペラ「ナターシャ」と同様に多言語(英語、フランス語、日本語)を使うことにより言葉を意味から解放して人間の集合的無意識(ユング)に働き掛ける音素を使ったヴォカリーズ風のアリアになっていた点が特徴的でした。さらに、会場にはヤマハの立体音響システムとして約30台のスピーカーが設置され、アコースティック(音≒ 振動を人工的に発生させる手段:その1)だけでは描き切れない世界観がエレクトロニクス(音≒ 振動を人工的に発生させる手段:その2)を使って表現されていました。なお、少し前まではアコースティックとエレクトロニクス、ベルカントとクルーナーや人間とAIなどを恰も対立概念であるかのように捉えたがる昭和ノスタルジー(俗に老害と揶揄される認知バイアス)がありましたが、すっかり時代に浄化された状況は歓迎したいです。冒頭では歌(音楽)の場面から開始し、立体音響システムから流される点描音が徐々に大きくなり、恰もビッグバン後の宇宙の冷却によりエネルギーが凝縮し、強い核力や電磁力によって物質(音≒ 振動を伝える媒質)が誕生する様子が表現されていたように感じられました。フルートがエオリアン・トーンで空気(音≒ 振動を伝える媒質)の存在を感じさせるなか、メキシコ人ソプラノ歌手のG.ドーラさん(本公演ではメゾソプラノ)とスウェーデン人テノール歌手のS.フーゴさんが登場してそれぞれが英語とフランス語で「私のことを覚えていますか?」「私の中にいる貴方」と二重唱を歌いましたが、地球に戻ってきた人間がDNAに刻まれた進化的な記憶の中の自分に出会う場面に感じられました。その後、「愛」「現実」「大地」などの言葉の断片(イメージ)を繰り返すヴォカリーズ風のアリアが歌われ、人間がDNAに刻まれた進化的な記憶の中の自分を手繰り寄せるような印象的な場面が展開されましたが、ミニマル音楽よろしく観客の潜在意識や記憶深部に働き掛ける催眠的な効果を生んでいるように感じられ、座禅を組むように音楽に没入できる観客にとっては大きな音楽効果を感得できたのではないかと思いますが、俗世の雑念に囚われている観客にとってはそのような音楽効果を感得することは期待できずやや冗長に感じられたかもしれません。これに続き芝居(演劇)の場面では、3人の女優が登場して、猫とライオンは同じネコ科なのに、何故、猫は「鳴く」と言い、ライオンは「吠える」と言うのかと哲学的な議論を展開しましたが(一般には「犬がクンクンと鳴く」「犬がワンワンと吠える」と使い分けられていますが、「鳴く」は小さな音、「吠える」は大きな音をイメージしているように思われます。)、人間がピアノによって音を88鍵に分節して平均律の中に閉じ込めてきたように、言葉によって世界をロゴスで分節して環世界の中に閉じ込めてきた歴史を物語っているように感じられました。現代は、科学の進歩によって神の絶対秩序を体現する線形思考(単純系)から世界(宇宙)の実相に迫る非線形思考(複雑系)に時代の価値観は移行していると思いますが、言葉に支配されることの意味、言葉から解放されることの意味を色々と考えさせる印象深い場面になっていました。なお、アフタートークで言葉を取り戻す過程を表現するために助詞を突支える台詞にしたそうですが、やや吃音障害を連想させるものがあり配慮に欠ける印象を否めませんでしたので、それよりも人間が波のリズム≒ 心臓や呼吸のリズムから世界を分節的に捉える認知特性を備え、そのイメージを共有するために言葉(記号)を獲得した過程を中心に描いて貰えると違和感なく鑑賞できたような気もします。これに続く歌(音楽)の場面では、2人の歌手が「私達は生きている」「私達は時計を組み立てている」と歌い継ぎ、宇宙の構造(実)としての「時間」(一般相対性理論)とその時間を人間の意識(虚)が分節的に捉えることで作り出される過去→現在→未来へと一方向に進む「時間の流れ」(エントロピー増大の原則)の虚実が織り成す時間観が象徴的に表現されているように感じられました。このような形態で歌(音楽)と芝居(演劇)が交錯しながら舞台が展開されましたが、人間が言葉(ロゴスが体現する環世界)を取り戻して行く過程と相反するように、オーケストラには微分音やカオスな音響(ピュシスが体現する環境世界)が支配的になって「方向性のある音」(神が体現する人工的な世界観、五線譜に記述できる音楽)から「方向性のない音」(宇宙が体現する自然的な世界観、五線譜に記述し切れない音世界)へと変化してくそのギャップが観客に色々な問いを投げ掛けてきているような作品に感じられ、最後は息の音(対称性の破れを象徴する音)で締め括られる余韻深い終幕になりましたが、観客の多様なプロジェクションを許容する懐の広い作品を楽しめました。アフタートークで、既に平田さんと中堀さんのコンビでシアター・オペラ第3弾の構想が持ち上がっているそうなので、今から楽しみです。
 
 
▼中井智弥 箏・二十五絃箏リサイタル2025「時をこえて」
【演題】中井智弥 箏・二十五絃箏リサイタル2025「時をこえて」
【演目】①光崎検校 秋風の曲
    ②中井智弥 Motion
    ③中井智弥 民謡メドレー
     (米山甚句、よさこ節、おてもやん、加賀ハイヤ節、百々花火)
    ④中井智弥 雪魔縁
    ⑤中井智弥 ECHO
    ⑥中井智弥 風になれ花になれ
    ⑦中井智弥 蝉丸
    ⑧中井智弥 実朝と倩子姫
    ⑨中井智弥 忍冬の夢
    ⑩中井智弥 雨夜の月
    ⑪中井智弥 ノクターン
    アンコール
    ⑫中井智弥 時を超えて
【出演】<二十五絃筝>中井智弥①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫
    <琵琶・尺八>長須与佳②④⑤⑥⑦⑪⑫
    <笛>藤舎推峰②③④⑤⑥⑧⑨⑩⑪⑫
    <十七絃筝>中島裕康②③④⑤⑥⑪⑫
    <打物>住田福十郎②③④⑤⑥⑪⑫
【日時】2025年7月12日(日)14:00~
【会場】Hakuju Hall
【一言感想】
過去のブログ記事でも感想を書いた筝演奏家・作曲家の中井智弥さんが二十五絃箏リサイタル2025「時をこえて」が開催されるというので聴きに行ってきました。中井さんは歌舞伎界に革新の風と共に新しい客層を呼び込んでいる歌舞伎役者の尾上松也さんとタッグを組んだ歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」歌舞伎「刀剣乱舞 東鑑雪魔縁」や日本舞踊家の尾上菊之丞さんとタッグを組んだ新ジャンルの詩楽劇「めいぼくげんじ物語 夢浮橋」などで音楽を担当され、物語を多彩に彩る美しい音楽が話題になるなど伝統に根差しながらその枠に安住することなく多方面で果敢に革新を仕掛けておりその活躍から目を離せません。なお、中井さんが出演される11月8日に開催されるART歌舞伎は非常に人気が高く早々にチケットが完売してしまいましたが、急遽、オンライン配信が追加されることになったようなので、そちらを視聴する予定にしています。
 
美味しそうな🍙だなと近寄ってみたら、お友達なのかしら?
 
さて、本日は非常に演目数が多いので、過去のブログ記事で感想を書いた歌舞伎「刀剣乱舞~東鏡雪魔緑」中井智弥・箏リサイタル2024~ETERNITY~で採り上げられている曲についてはそちらの感想に譲ることにして、いずれの公演でも採り上げられていない第一曲の感想のみを簡単に残しておきたいと思います。パンフレットには筝曲について「その原点は雅楽にあり、中世には筝一面で寺院仏閣において歌の伴奏として演奏されたのが始まりとされています。その原点の姿をとどめてるのが「組歌」です。(中略)簡素な音数で成り立つ組歌は、技巧と華やかさを追求した江戸中期以降の筝曲とは対照的な存在といえるでしょう。江戸末期に活躍した光﨑検校はこの原点に立ち返り、組歌の形式を用いて「秋風の曲」を作曲しました。」という解説に続けて「私自身も筝曲を探求する中で、組歌のシンプルな手を歌の中に崇高な美を感じ、この世界を知らずして新たな筝曲を書けないと痛感しています。」という心境が吐露されていますが、この言葉には筝演奏家としての矜持が感じられます。筝の一音一音に込められた音香(音に宿る薫り)が空間に焚き染められて行くような余韻深い演奏が展開され、一音一音の彩りと共にそれぞれの音の奥行き(残香のように漂っている余情や無常感など)を静寂に聴き分ける深みのようなもの、一音で描き切る世界(一音成仏)を堪能できる内容の濃い演奏を楽しめました。スリ爪は冬の気配を運ぶ秋風を表現したものでしょうか、季節と共に移ろう心象風景が中井さんの雅やかな歌声と精細なニュアンスに富む筝と共に紡がれ、その組歌の美観極まる演奏が白眉でした。前回のブログ記事でも述べましたが、西洋歌曲のように連音で紡がれる音楽は日本語のモーラ構造には不向きで、筝曲の組歌のように延音で紡がれる音楽は日本語の1モーラに1音が対応して言葉と音が密接に結び付きながら延音の中に立ち上がる世界に日本歌曲の美質が生まれることが感じられます。上述のとおり中井さんは現代の筝演奏家の中でも「生き馬の目を抜く勢い」と評し得る八面六臂の活躍ですが、世阿弥が花鏡で「たとひ上手なりといへども、初心の時の心を忘れざるを、花とす。」と前置きして、「上手になりぬれば、心に慢心生じて、古法をおろそかにし、おのがままなる心にて芸をなすゆゑに、花を失ふなり。されば、年来稽古といふとも、初心を忘るべからず。」と戒めているとおり、絶頂を迎えている時機(男時)だからこそ浮足立つことなく原点に立ち戻り地歩を見詰め直す謙虚さや慎重さが芸に「真の花」を咲かせるために大切なのだろうと思います。この点、中井さんの芸道を究める真摯な姿勢と覚悟が感じられる一曲を堪能できました。ヴラヴォー!なお、過去のブログ記事に感想を譲りますが、忍冬の夢では藤舎推峰さんの寂び寂びとした笛の音が澄み渡り、さながら水墨画を見るような淡麗枯淡とした味わいに聴き惚れました。ヴラヴォー!!また、蝉丸では長与佳与さんが儚さや無常などを湛えた琵琶の演奏で楽しませてくれました。ヴラヴァー!劇場版アニメ「鬼滅の刃」(無限城編)では上弦の肆・鳴女(モデル:啼沢女命)が琵琶の一掻きで亜空間を自在に操りますが、琵琶には一掻きで世界観を一変させてしまう音の力(啼沢女命の涙、怨霊鎮魂、一撥天地開闢など)が宿っており、そこに琵琶の大きな魅力の1つがあるように感じます。源博雅よろしく藤舎さんの笛、蝉丸よろしく長須さんの琵琶と役者が揃っています。さらに、中島裕康さんと住田福十郎さんの漫談!?が会場から大きな笑いをとるエンターテイメント性の高い舞台を楽しめ、会場に若い女性の姿が多かったのも頷けます。
 
 
▼長須与佳 尺八・琵琶LIVE〜亜欧の風〜
【演題】長須与佳 尺八・琵琶LIVE〜亜欧の風〜
【演目】①長須与佳 繚悠の月
    ②長須与佳 風、薫る
    ③長須与佳 若葉色に吹かれて
    ④長須与佳 亜欧の風
    ⑤長須与佳 砂の泉
    ⑥平家物語 扇の的
    ⑦長須与佳 三日月
    ⑧長須与佳 月影の舞
    ⑨中井智弥 風になれ花になれ
    ⑩米山正夫 車屋さん
    ⑪長須与佳 帰路~みち~
    ⑫長須与佳 めぐる郷、めぐる君
    アンコール
    ⑬平家物語 祇園精舎
    ⑭長須与佳 胡蝶之夢
【出演】<尺八・琵琶>長須与佳
    <Key>村田昭(賛助出演)
    <Perc>田辺晋一(賛助出演)
    <二十五絃筝>中井智弥(ゲスト)
【日時】2025年10月21日(火)19:00~
【会場】目黒Blues Alley Japan
【一言感想】
長須与佳さんは琵琶、尺八及び唄(歌)をマルチに熟す日本で唯一の女性音楽家で、上述の中井さんと共に歌舞伎役者の尾上松也さんとタッグを組んだ歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」歌舞伎「刀剣乱舞 東鑑雪魔縁」、日本舞踊家の尾上菊之丞さんとタッグを組んだ新ジャンルの詩楽劇「めいぼくげんじ物語 夢浮橋」などに出演されると共に、新作歌舞伎「陰陽師 鉄輪」では作曲を担当されるなど、伝統と革新を紡いで新しい世界観を拓く目覚しい活躍が注目されます。そんな長須さんがワシントンD.C.の老舗ジャズ・クラブ「ブルース・アレイ」の流れを汲む目黒のジャズ・クラブ「ブルース・アレイ・ジャパン」で単独ライブを開催されるというので、社会人にとって平日の公演は非常にハードルが高いのですが何とか都合を付けて聴きに行ってきました。
 
上弦の肆・鳴女よろしく、憂き世を浮き世へと変える亜空間に誘われました🎶
 
さて、本日の公演の副題は長須さんがシルクロードをテーマにして作曲された楽曲が収録されているアルバム「亜欧の風」から採られていましたが、本日の長須さんの衣装である藍色のドレスと紅色のストールはシルクロードを象徴したものではないかと思われます。ご案内のとおり、「琵琶」は古代ペルシアの楽器「バルバット」がシルクロードを経由してアジア(細亜)へ伝来して、そこから海のシルクロードである遣隋使や遣唐使によって日本へ伝来して発展したものですが(因みに、ヨーロッパ(羅巴)へ伝来して発展したものが「リュート」)、同じく古代ペルシアを主要な原産地とする「ラビスラズリ」(藍色)や「サフラワー」(雅称:末摘花)(紅色)もシルクロードを経由して日本へ伝来して、主にシルクの染料として使用されました。この点、古代ペルシアを主要な原産地とする薔薇もシルクロードを経由して日本に伝来しましたが、日本では「亜欧」という薔薇の新品種(国産苗6号)が誕生しており、ラピスラズリ(藍色)とサフラワー(紅色)が混合されたような薄紫系(藤色)の美しい重花弁をつける薔薇が華開いています。このようにシルクロードにより紡がれてきた文化の彩りを象徴する衣装だったように感じられます。冒頭、長須さんはさながら虚無僧のようにいぶし銀の尺八独奏でアルバム「亜欧の風」に収録されている①「繚悠の月」を演奏しながら舞台に登場されましたが、これに続く長須さんのアルバム「若葉色に吹かれて」に収録されている②「風、薫る」及び③「若葉色に吹かれて」では尺八、ドラム、キーボードによる爽快な演奏が対照されて陰陽互根の世界観が印象的に描き出されていました。再び、アルバム「亜欧の風」に収録されている④「亜欧の風」及び⑤「砂の泉」では琵琶、尺八、パーカッション、アコーディオンによる情熱的な演奏が展開されましたが、ミニマル音楽風に短いパッセージが変化しながら古代ペルシャの風情を感じさせる演奏が展開され、さながら砂漠に刻まれる風紋を見るような鮮やかな演奏に魅了されました。長須さんの琵琶の音に感電死させられた経験を持つ観客は少なくないと思いますが、長須さんが奏でる琵琶の魅力を堪能する趣向として古典曲から⑥「平家物語 扇の的」がたっぷりと演奏されました。先ず以って、長須さんの語りと歌が白眉でして、正確な音程や強靭で洗練された喉に加えて、その質感のある歌声から彫りが深く多彩な綾により生み出される豊かな情感表出はワックスのような表面的な煌びやかさとは異なる長年に亘って軽石で磨き上げられてきたような底光りする情趣幽深とした美しさのようなものが感じられて陶酔させられました。また、心を掻き鳴らす琵琶の音には決して綺麗事だけでは済まされない人生の迫真を体現する凄みのようなものが宿っているようであり、甲と乙、荒と艶、生と死、陰陽や清濁を併せ呑む語りと琵琶の音が一体となって心をハッキングしてしまう力強さがありました。ここで長須さんの盟友である中井智弥さんがゲストとして登場し、過去のブログ記事で簡単に感想を書いた歌舞伎「刀剣乱舞〜東鑑雪魔縁〜」で使用されている⑦「三日月」、⑧「月影の舞」及び⑨「風になれ花になれ」が演奏されましたが、昼間の公演では歌舞伎「刀剣乱舞〜東鑑雪魔縁〜」で髭切を演じられていた歌舞伎俳優の中村莟玉さんのご尊父(実父)(因みに、養父は歌舞伎俳優の中村梅玉さんですが、歌舞伎界の養子入りについては映画「国宝」の感想を参照)の姿も客席に見えられていたそうです。その後、美空ひばりさんのヒット曲である⑩車屋さんが端唄や小唄風の節回しで小粋にチャキチャキと歌われました。⑨「風になれ花になれ」で聴かれた中井さんのノーブルな歌声と長須さんのリッチな歌声による二重唱も聴き所になっていました。上述のとおり長須さんの歌には美空ひばりさんや都はるみさんのような旨さがありますので、是非、ご一聴下さい。最後に茨城県那珂市の那珂ふるさと大使を務めている長須さんが郷里をテーマにして作曲した楽曲が収録されているアルバム「めぐる郷、めぐる君」から⑪「帰路~みち~」及び⑫「めぐる郷、めぐる君」が尺八、パーカッション、キーボードで演奏され、その牧歌的な風情のある歌に心が洗われました。個人的には那珂市は僕の祖先が南北朝時代に籠城戦を行った瓜連城があった場所なので、この2曲を非常に思い入れ深く聴き入りました。水戸黄門(徳川光圀)が隠棲した西山荘も近く、本当に風情豊かな場所なので都心からの日帰り観光などにもお勧めです。アンコールとして、⑬「平家物語 祇園精舎」及び⑭「胡蝶之夢」が演奏されましたが、会場にはポーランドから来ていた訪日旅行外国人の姿などもあり、国際色豊かな盛会になりました。上述の水戸国際音楽祭で平田オリザさんが日本は訪日旅行外国人が夜に遊べる場所がないことを嘆かれていたことを思い出しましたが、ワ―ケーションを含むアミューズメントの在り方(洋の東西を問わず、未だに芸術とショービジネスを分けて考えたがる権威主義的な認知バイアスが支持されるセンチメンタリズムはありますが)をポジティブに捉え直してみるべき時機なのかもしれません。長須さんと中井さんは現代邦楽界の至宝というべき存在であり、そのうち園遊会にも招待されることになるであろう顕著な活躍に注目しています。
 
 
▼吉例顔見世大歌舞伎(三谷歌舞伎)
【演題】吉例顔見世大歌舞伎(三谷歌舞伎)
【演目】歌舞伎絶対続魂(ショウ・マスト・ゴー・オン)~幕を閉めるな
【脚本・演出】三谷幸喜
【出演】<狂言作者花桐冬五郎>松本幸四郎
    <座元藤川半蔵>片山愛之助
    <山本小平次>中村獅童
    <油屋遊女お久>坂東新悟
    <浅尾天太郎>中村福之助
    <篠塚五十鈴>中村莟玉
    <市山赤福>中村歌之助
    <坂田虎尾/狂言作者見習花桐番吉>市川染五郎
    <竹田出雲弟子半二>中村鶴松
    <附打芝助>片岡千太郎
    <囃子方五郷新二郎>大谷廣太郎
    <附師鍛冶屋為右衛門>澤村宗之助
    <大道具方儀右衛門>阿南健治
    <骨つぎ玄福>浅野和之
    <竹田出雲>市川男女蔵
    <榊山あやめ>市川高麗蔵
    <竹島いせ菊>坂東彌十郎
    <頭取嵐三保右衛門>中村鴈治郎
    <叶琴左衛門>松本白鸚
【日時】2025年11月2日(日)17:00~
【会場】歌舞伎座
【一言感想】
過去のブログ記事で三谷文楽の第一作「其礼成心中」(それなりしんじゅう)に続く第二作「人形ぎらい」の感想を簡単に残しましたが、悲劇の近松に対して喜劇の三谷と評すべき傑作を堪能できました。果たして、今回は三谷歌舞伎の第一作「月光露針路日本~風雲児たち」(つきあかりめざすふるさと~ふううんじたち)に続く第二作「歌舞伎絶対続魂~幕を閉めるな」(ショウ・マスト・ゴー・オン)が上演されるというので観に行く予定にしています。三谷歌舞伎では、江戸の竹田に対して令和の三谷が人情物で勝負を挑むという趣向に感じられますので非常に楽しみにしています。三谷文楽と同様に三谷歌舞伎はハイセンスな脚本と演出で歌舞伎を現代的にアップデートしたものになると思いますので、若年層にも違和なく楽しめると思います。偶には歌舞伎デートと洒落込んでみてはいかが?
 
歌舞伎座の隣のスポーツバー「82東銀座店」ではWS最終戦で多国人も大歓声!!
 
ヴラヴィー!!!!!!三谷文楽「人形ぎらい」に続いて三谷歌舞伎「歌舞伎絶対続魂〜幕を閉めるな」でも腹を抱えて笑わせて貰いました。この年齢になると滅多なことでは笑えませんが、外国人客もウケまくっていましたので、チケットを取れた方はご期待下さい。舞台を観れば分かりますが、台本(キャラクター設定やシチュエーション設定など)のセンスの良さに加えて各役者の持ち味が映える配役も絶妙でしてツボに嵌ること請け合いです。江戸時代の「傾く」に対して令和時代の「傾く」とはどういうことなのか、ひとつの答えを強烈に示しているような舞台でした。文楽や歌舞伎は戯曲作家の才能に大きく左右されますが、その意味でも三谷さんは文楽界や歌舞伎界の救世主と言える存在ではないかと思います。若年層の客も多かったことも特筆で、映画「国宝」の追い風を確かなものにする効果的な一手になっていたように思います。ガンダム世代はいざ知らず、ワンピース世代にとっては仇討ちや心中と言われてもピンと来ないと思いますので、現代の歌舞伎を模索する時機に来ているのではないかと思われ、江戸の近松や竹田に対する令和の三谷に期待が集まります。他日公演もありますので、ネタバレしない範囲で簡単に感想を残しておきたいと思います。江戸時代には江戸、大阪、京都に次いで歌舞伎が盛んだった伊勢の芝居小屋(静岡県島田市に蓬菜座という同名の芝居小屋がありますが偶然でしょうか)に於いて竹田出雲作の人形浄瑠璃「義本千本桜」を座元の藤川半蔵作の歌舞伎「義本千本桜」と偽って興行しているという舞台設定で、片山愛之助さんが演じる座元(プロデューサー)の藤川半蔵、中村鴈治郎さんが演じる頭取(舞台監督)の嵐三保右衛門、松本幸四郎さんが演じる座付作者(脚本家)の花桐冬五郎が舞台展開の要になり、これに中村獅童さんが演じる立役の山本小平治、坂東彌十郎さんが演じる女方の竹島いせ菊、浅野和之さんが演じる骨接ぎの玄福などのキー・キャラクターを初めとする座中が繰り広げるドタバタ喜劇ですが、歌舞伎の舞台のエッセンスを喜劇に採り入れたドリフターズや吉本新喜劇などが特徴としていた身体的なギャグや誇張された演技などによって生み出される「刺激」による反射的な笑い(俗にクスグリ笑い)とは一線を画し、登場人物の性格(キャラクター設定)や人間関係(シチュエーション設定)の妙味などによって生み出される「共感」(近松門左衛門の言葉を借りれば「うつり」のようなもの)による内発的な笑いを誘うマナー・コメディやシチュエーション・コメディーの真骨頂と言える上質な歌舞(伎×喜)劇を存分に堪能できました。竹田出雲が蓬菜座へ芝居見物に来ることになり芝居小屋の幟旗の「藤川半蔵作」を「竹田出雲作」に書き換える羽目になるところから息も尽かせぬドタバタ喜劇を展開し、いい加減な座元や頭取(上司)、身勝手に振る舞う座中(同僚)に振り回される花桐冬五郎(調整役)という劇団だけではなく一般の会社でも「あるある」な状況にエンパシーを掻き立てられました。歌舞伎「義本千本桜」を公演する舞台裏(私)から表舞台(公)を覗き込む座中が役者のトラブル(平知盛役の山本小平治は泥酔状態で舞台に上り、静御前役の竹島いせ菊は舞台上でアゴが外れ、その竹島いせ菊を治療するために女中役として舞台に送り込まれた骨接ぎの玄福が自ら興奮して膝の関節が外れ、役の奪い合いに起因する配役の間違いなど)や道具のトラブル(鼓と枕の取り間違え、山本小平治が酔った勢いで舞台セットに小便をして壊してしまうなど)などに次々と見舞われながらも何とかそれらを乗り越えて公演を続けて行く劇中劇の構成をとっていましたが、我々観客は表舞台(公)から隠れた舞台裏(私)の秘密を共有する仲間として非常にエンパシーを感じ易い舞台設定になっており、舞台裏にいる座中と一緒になってハラハラ(緊張)やゲラゲラ(解放)を繰り返しながら表舞台(公)の様子を伺っている(我々観客には表舞台の音だけが聞こえてきますが、その音から表舞台の混乱振りを想像)というオン・ステージ感(緊張)とオフ・ステージ感(解放)が重層的に織り成す舞台展開に惹き込まれました。このように人間の業が生むドラマと笑いに包まれながらテンポ良く舞台が展開していきましたが、最後に舞台裏(私)から表舞台(公)に回り舞台が展開すると、そこには舞台上で固まっている顎の関節が外れた竹島いせ菊と膝の関節が外れた玄福という我々観客の想像を超える滑稽な状況が登場して会場は大爆笑に包まれ、久しぶりに涙が出るほど捧腹絶倒してしまいました。その後もドタバタ喜劇が展開し、最後は観客が手拍子するなかを出演者全員で平井堅さんの「POP STAR」を熱唱する爽やかな大団円になりました。江戸時代の「傾く」とはガンダム世代までが憧れを持っていた自己犠牲の美学に彩られた反体制としての自由や逸脱(仇討ち、社会体制に向けた学生運動、社会秩序を破壊する不良、ヒップホップなど)であったのに対して、令和時代の「傾く」とはワンピース世代が持っている自己実現の美学に彩られた体制の中の自由や差異化(個人のための権利主張、マイルドポップなど)であると捉えることができるかもしれませんが、座中の身勝手な振舞いから様々なトラブルに見舞われながらもそれぞれが自己実現のために舞台を断念することなく最後までやり切ろうと協力する、多様でありながら協和している現代社会の縮図のような舞台が描かれており、その現代的な群像劇が生み出す人間味や滑稽さが我々観客の心を強く捉える作品であり、現代的な「傾く」で魅了してくれた新しい歌舞伎の傑作が誕生したと言えるのではないかと思います。是非、続編を期待しています!!
 
 
▼オペラ「ナターシャ」がInternational Opera Awards2025にノミネート!
過去のブログ記事で簡単に感想を書いたオペラ「ナターシャ」(作曲:細川俊夫、台本:多和田葉子)が世界的に権威のあるInternational Opera Awards2025のWorld Premiere部門のファイナリストにノミネートされました。その最終選考結果は2025年11月13日にギリシャ国立歌劇場が開催する授賞式(於、スタブロス・ニアルコス財団文化センター)で発表され、その模様はライブ・ストリーミングで無料配信される予定です。過去にはオペラ「紫苑物語」(作曲:西村朗、原作:石川淳、台本:佐々木幹郎)が同賞のファイナリストにノミネートされていますが、日本で創作された新作オペラが世界的に権威のあるオペラ賞のファイナリストにノミネートされることの意義の大きさを感じます。
 
▼芝居小屋「日本橋座」
2025年10月26日(日)11時から16時まで芝居小屋「日本橋座」(十思スクエア)において<第一部>和洋楽器演奏「白衣天人」(三味線:佐藤さくら子、三味線:東音楡井李花、笛方:望月輝美輔、邦楽囃子方:藤舎夏実、囃子方:望月実加子、ピアノ:浅香里恵)、<第二部>古典芸能「連獅子」(親獅子:中村芝翫、子獅子:中村橋三郎、長唄:鳥羽屋三右衛門ほか)が公演されます。天保の改革で芝居小屋を浅草に移設されるまでは江戸三座のうち中村座及び市村座は日本橋にあり芝居町として大いに賑わったそうですが、その風情を現代の日本橋に蘇らせたいという想いから全ての公演は観覧無料になっています。ご都合がつく方はいかが。

オペラ「ミスター・シンデレラ」(作曲:伊藤康英、脚本:高木達)と酒にまつわる大人の嗜み「小唄で巡る日本酒の四季」(邦楽ユニット「明暮れ小唄」:小唄幸三希、千紫巳恵佳)とアンサンブル・ノマド第85回定期演奏会と「この世界のムラを拡げる②」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ブログの枕「この世界のムラを拡げる②」
前六回のブログ記事では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」、「行動遺伝学」、「行動経済学」、「ニューロ・ダイバーシティ」、「文化心理学:拡張自己」(エクテンデット・セルフ)に簡単に触れてきましたが、今回は、この世界の「ムラ」を拡げるという視点から、自己拡張(セルフ・エクスパンジョン)について(今回は時間がないので)ごくごく簡単に触れてみたいと思います。前回のブログ記事でも触れたとおり、アイデンティティは決して固定的なものではなく、常に他者や集団との関係性、環境の変化などに応じてチューニングされながら揺らいでいるもの(ムラ)ですが、「拡張自己」と「自己拡張」という似て非なる心理過程が相互に密接に関係しながらアイデンティティ(ムラ)を拡げて人生を豊かに彩ってくれていると捉えることができそうです。そこで、「拡張自己」と「自己拡張」の関係について芸術の受容における心理過程を例に挙げてアウトラインを整理してみたいと思います。この点、拡張自己とは自己のアイデンティティを外界へアウトリーチする心理過程(即ち、「遊ぶ」=「足」+「ぶ(歩)」→自己を外界へ解放して自己を外界と同化する営み)であるのに対して、自己拡張とは外界を自己のアイデンティティにアレンジする心理過程(即ち、「学ぶ」=「真似」+「ぶ(舞)」→外界から学習したことを身に付けて自己を充実させることで自己を外界と異化する営み)と言え、これらの心理過程は芸術の受容においても密接に関係しています。芸術を受容する者はその芸術体験によって自己のアイデンティティが揺さ振られ(遊びによる拡張自己)、これを消化し、受肉する過程で自己のアイデンティティを拡大させて世界観を更新する(学びによる自己拡張)という一連の文化的・社会的な営みであると考えられます。即ち、芸術の受容により拡張自己を促す行為は前者の心理過程、これを咀嚼して鑑賞を深めること(感想を書いてみることもその方法の1つ)により自己拡張を促す行為は後者の心理過程と言えそうです。さらには脳科学の観点から補足して言えば、脳の内側前頭前皮質(mPFC)系が自己と他者の境界を曖昧にして自己のアイデンティティを幅広い対象に拡張する作用(同化による摂取)であるのに対して、脳のミラーニューロン系がそれらの体験を消化しながら自己のアイデンティティを確充させて自己と他者の境界を確立する作用(学習による消化)であると言うこともできます。このように芸術体験などを契機として自己を外界と同化するプロセスと自己を外界と異化するプロセスを繰り返しながら自己のアイデンティティの拡張(自己と外界の境界であるアイデンティティの可塑性)を試み、人生を豊かに彩って心の充足(アイデンティティの拡張は生存可能性を高める可能性があるものとして脳がドーパミンを分泌)を図っています。この点、前回のブログ記事で簡単に感想を書いた藝〇座の新作「オズの魔法使い」では、各キャラクター達が魔法の力(飲酒と同じく魔法により現れる別の人格に自己のアイデンティティを外在化させる拡張自己)を借りて自分の欠点を補うことで自己拡張を図ろうと企むうちに、(魔法ではなく)様々な実体験を通して各キャラクター達が自分の欠点を克服して成長して行く(自己拡張)という物語ですが、観客も舞台に没入して各キャラクター達と同化すること(拡張自己)で、自己肯定感や向上心などの豊かな情操を培うこと(自己拡張)が可能になります。また、今回のブログ記事で簡単に感想を書くオペラ「ミスター・シンデレラ」も同様で、主人公の男が女の人生を歩むうちに(性の転換により現れる別の人格に自己のアイデンティティを外在化する拡張自己)、自分にとって本当に大切なものを見極めて人生観を改める(自己拡張)という物語ですが、これも同じく観客も舞台に没入して主人公と同化すること(拡張自己)で、人生の意義の再定義を試みる契機を得ること(自己拡張)が可能になります。この点、芸術体験に求めるものは人それぞれ異なり得ますが、個人的には「拡張自己」と「自己拡張」のバランスが重要であると感じています。例えば、音楽を例にとれば、古典音楽は神の栄光や人間の理想などの人間中心主義的な世界観を表現する目的とそれらを支える絶対主義的な価値観(神、王、帝国)を体現する方法(作曲技法)が比較的にバランス良く調和していたように思われますが、二度の世界大戦や地球環境破壊の深刻化などを契機として人間中心主義的な世界観に対する反省から、20世紀にはそれを支えてきた絶対主義的な価値観を体現する方法(作曲技法)を懐疑して表現方法そのものの開発が重視される傾向が強まり、その結果として様々な表現方法は開発されましたが、肝心の表現目的が曖昧になる傾向が顕著になり「自己拡張」が十分に果たせない痩せた芸術体験が目立つようになったと思われます(所謂、クラシック音楽不毛の時代)。その一方で、このような極端な状況に対する危機意識から、21世紀初頭にはその揺り戻しとして20世紀までに開発された様々な表現方法の果実を活しながら表現目的(コンセプトなど)が重視される傾向が強まりましたが、相対主義的な価値観(個性)から「何でもあり」というカオスな状況が生まれて無手勝流の独りよがりな表現が散見されるようになり「拡張自己」が十分に果たされないもう1つの痩せた芸術体験(但し、世界的に評価が高い著名な芸術家やポテンシャルが高い若手芸術家などの筆致の優れた傑作群を除く)が少なくない印象も受けています。それがコンテンポラリー作品全体に対する芳しくないイメージとして根強く残されているように思われ、コンテンポラリー作品の演奏会がまるで同窓会と評したくなる異様な集いに陥り、仲間内で自画自賛しているという誠に滑稽な状況が生まれています。
 
▼芸術受容の三層モデル(拡張自己(同化)⇄(異化)自己拡張)
観客が芸術作品を受容するにあたっては、その初期段階では①ストーリー(貴方の物語:オフ・ステージの視点)を追い求めますが(観察)、やがて観客が芸術作品に没入して自己のアイデンティティを芸術作品にプロジェクションするようになると②ナラティブ(私達の物語:オン・ステージの視点→拡張自己)へと昇華し(投射)、最後には観客が芸術作品の影響から自己のアイデンティティを再構築して③インカネーション(私のアイデンティティ→自己拡張)へと至る(受肉)という芸術受容の三層モデルをステップアップし、拡張自己(同化)と自己拡張(異化)を往還しながら自己のアイデンティティの拡充が図られています。
概念 方向性 アイ
デン
自他
境界
行動 芸術
表現 受容
拡張
自己
内→外 拡大 曖昧 遊ぶ
同化
方法
重視
摂取
自己
拡張
内←外 充実 明確 学ぶ
異化
目的
重視
消化
 
▼オペラ「ミスター・シンデレラ」
【演題】東大和市民会館ハミングホール開館25周年記念公演
【演目】オペラ「ミスター・シンデレラ」(全二幕・日本語)
【原作・台本】高木達
【作曲・監修】伊藤康英
【演出・美術・衣装】原純
【出演】<伊集院正男>猪村浩之(Ten)
    <伊集院薫>見角悠代(Sop)
    <伊集院忠義>大石洋史(Bar)
    <伊集院ハナ>牧野真由美(Mez)
    <赤毛の女>古澤真由美(Mez)
    <垣内教授>飯田裕之(Bar)
    <卓也>岡坂弘毅
    <美穂子>小澤花音
    <女>渡邉麻衣、池田実来、安藤千尋
    <男>本郷文敏、鈴木克隆、普久原武学
    <マミ・ルミ・ユミ>小濱望、鈴木椎那、江田真姫子
    <マルちゃんのママ>丸山奈津美
    <テレビのアナウンサー>不詳
    <マルちゃんのパパ>不詳
    <酔っ払い>不詳
【演奏】<Cond>高橋雄太
    <Orch>ハミングアンサンブル
     (Fl)泉真由
     (Ob)吉村和宏
     (Cl)三木薫
     (Sax)本堂誠
     (Hr)堀風翔、吉澤夏未
     (Vc)朝吹元
     (Cb)佐々木大輔
     (Parc)村本寛太郎、麻生弥絵
     (Key)鳥羽山沙紀
    <Chor>ハミングホール25周年記念合唱団
     (Sop)土橋由美、木村由美子、川口紀子、増田厚子
     (Alt)竹之内梅雨子、小石優子、窪田美菜、吉村智子
     (Ten)高橋巌、増田幹
     (Bass)石川哲哉、田中顕一、柴田厚久
【舞台監督】小林仁
【舞台・大道具】加藤事務所
【照明】堀内武久
【音響】綜合舞台オペレーションズ
【演出アシスタント】普久原武学
【ヘアメイク】きとうせいこ
【衣装スタッフ】小武家香織
【プロダクション機材】荒井音楽企画
【合唱指導】本郷文敏
【稽古ピアノ】田島菜子、鳥羽山沙紀
【収録】mermasa Records
【広報協力】鈴木椎那
【企画・制作】東大和市民会館ハミングホール      
【日時】2025年9月14日(土)15:00~
【会場】東大和市民会館ハミングホール大ホール
【一言感想】
ヴラヴィー!!!!今日は(千葉県民の感覚で言うと)東京の最果てに感じる東大和市まで特急を乗り継いでオペラ「ミスター・シンデレラ」を鑑賞してきましたが、前評判のとおり現代オペラの傑作と言って差し支えない作品で、遥々と遠征した甲斐があったと思わせてくれる充足感の高い公演を楽しめました。このオペラは2001年に初演されたそうですが、当時は「ハラスメント」や「ジェンダー」という言葉こそあったとは言え、未だSDG‘sという言葉すら存在していない昭和の残照が色濃い時代状況にあり、このオペラに仄かに薫る当時の時代感覚が懐かしく、また、この四半世紀で大きく時代の価値観が変化していることも感じられて感慨深いものがありました。現在では死後になっている「企業戦士」という言葉に象徴される男の幸福観(男の幸せ=仕事、出世)、また、同じく現在では死語になっている「寿退社」という言葉に象徴される女の幸福観(女の幸せ=結婚、家庭)、その裏腹として同じく現代では死語になっている「金妻」という言葉に象徴される結婚生活に幻滅した女のリベンジである不倫ブーム(幸せな結婚でしか自己実現を図れなかった女の悲しい情念)が根強く息衝いていた時代の価値観を映すプロットになっており、現代のように男女の生き方が多様化して出世や結婚以外にも自己実現を図るための選択肢が多い時代状況を前提とするとやや違和を覚える温度感もありましたが、それでもジェンダーの問題を含めて現代的な価値観の伏線になっている問題をユーモアやアイロニーを交えて正面から取り扱った内容になっており、現代人の感覚からも十分に共感できる作品でした。また、オペラ、ミュージカル、ジャズ、タンゴ、民謡などのエッセンスをジャンルレスに採り入れた着想豊かな音楽も聴き応えがあるもので、歌手陣の好パフォーマンスと相俟って「歌劇」としても十分に楽しめる充実した内容でした。荒唐無稽なプロットながら陳腐な印象を受けるところはなく、寧ろ、プロットの巧みさから生まれるセンスの良いユーモアや多彩で魅力的な音楽などによって物語を彩りながら大団円へとテンポ良く展開して行く後味の良い舞台に魅せられました。以下では、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
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最初にプロットを俯瞰しておきますと、第一幕では、鹿児島県(伊集院氏の発祥地)の某大学でミジンコの研究に勤しむ伊集院正男が同僚の垣内教授が開発した女王蜂の性ホルモンの試薬を栄養ドリンクと勘違いして誤飲したことで、干潮には女に変身し、満潮には男に戻る体になってしまいます(シンデレラ+狼男)。第二幕では、倦怠期を迎えて夫の伊集院正男に愛想を尽かしている妻の伊集院薫が職場の上司である垣内教授に惹かれますが、そのことに気付いた伊集院正男は女に変身することを奇貨として垣内教授を誘惑し、伊集院薫の不倫を阻止しようと企てます。しかし、垣内教授を誘惑する女が実は伊集院正男であることがバレてしまい、垣内教授は永久に男に戻れる試薬と(女のままでいて欲しいという下心から)永久に女のままでいられる試薬を開発して伊集院正男に手渡します。最終的に伊集院正男は垣内教授との不倫を思い留まった伊集院薫を惚れ直して永久に男に戻れる試薬を飲んで幸せを掴むという荒唐無稽なプロットです。冒頭ではヴィジュアル・アートとして月の映像が映し出され、スピーカーから潮騒の音が流れましたが、月は女(月経)や変身(月相)のメタファー、潮は輪廻転生(干満)のメタファーであり、このオペラでは月と潮がキー・アイコンとして何度も登場します。
 
<第一幕>
〇第一場(11月1日7時:伊集院正男のマンション)
ヴィジュアル・アートとして昭和風情が薫る団地の映像が映し出され、伊集院薫(男女雇用機会均等法の制定により社会進出したキャリアウーマンで新しい時代の価値観を象徴)がチェンバロ(エレクトロイクス)の伴奏に乗せてジャズ風のアリアを歌い、伊集院正男と熱愛の末に「僕のミジンコになってくれ」とプロポーズされたロマンチックな馴れ初めとそれとは裏腹に倦怠期を迎えた結婚生活の現実とのギャップを嘆くスレ違いの結婚生活が印象的に描かれていました。近所に住むペットのマルチーズを溺愛するマルちゃんのママ(昭和の専業主婦で古い時代の価値観の象徴)が登場しますが、女の幸せを男に依存していた時代の女が男に求めていた結婚条件である「三高」(高身長、高収入、高学歴)に対し、男女雇用機会均等法の制定により女が社会進出して自立的な生き方を始めた時代の女が男に求めるようになった新しい結婚条件として①かっこいい、②お金もち、③おもしろい(男の出世よりも男の性格へ)に変化したことを歌い、近所に住む伊集院薫が全ての条件に当て嵌まらない夫の伊集院正男に愛想を尽かしている様子(他人の不幸は蜜の味)に心を躍らせる印象的なシーンになっていました。伊集院正男は女王蜂の性ホルモンを栄養ドリンクと間違えて誤飲しますが、エレクトロニクス、フルート、パーカッションが伊集院正男の体に異変が生じている様子を巧みに表現する面白い場面でした。その後、伊集院正男の両親が訪ねて来て嫁の伊集院薫に子供はまだかと迫りますが、男女雇用機会均等法の制定により女が社会進出したことで女の幸せ=結婚、家庭(子供)という古い時代の価値観から女の幸せ=出世、仕事(キャリアウーマン)という新しい時代の価値観へと移り変ろうとしていた世相を象徴するシーンになっており、嫁と姑の間で静かに繰り広げられる確執を歌う二重唱などアイロニー芬々たる面白い音楽を楽しめました。なお、第一場は、やや舞台展開が忙しなくノイジーな印象を受けましたが、物語設定や人物設定を一気に済ませておく必要からやむを得ないものと言え、第二場以降からがこのオペラの本領を発揮する聴き所の目白押しとなりました。
 
〇第二場(同日10時30分:大学の研究室)
ヴィジュアル・アートとしてミジンコの映像が映し出され、タンゴ風の伴奏に乗せて卓也と美穂子(学生2人)の二重唱による愛のダンスと伊集院正男のアリアによるミジンコとの愛のダンスが対照されるユーモラスな場面でしたが、干潮を迎えて、突然、伊集院正男の胸が膨らみ始めて女に変身します。そこへコンパに向かう6人の研究生が登場し、リズミカルな伴奏に乗せてミュージカル風のコーラスを歌いましたが、民謡の鹿児島おはら節をパロった鹿児島ミジンコ節なども織り交ぜられた音楽性豊かでユーモラスなピースが聴き所になっており、第一場の忙しない舞台展開とは異なって、第二場以降はじっくりと音楽的に聴かせるパートが続いて「歌劇」としての魅力を存分に堪能できました。個人的には、日本語オペラは日本語がモーラ構造(即ち、フランス語やイタリア語のような1つの音節を1つの音の塊として認識する音節構造(例、OR-CHES-TRA:3音節=3つの音の塊→全ての音節を平等に発音する言語観はマジョリティとマイノリティの区別を認めない文化観に通底)、又は英語やドイツ語のような1つの強勢から次の強勢までを1つの音の塊として認識する強勢構造(例、OR-ches-TRA:2強勢=1つの音の塊→強勢に重きを置く言語観はマジョリティとマイノリティの区別を認める文化観に通底)とは異なり、子音+母音の組合せを1つの音の塊として認識するモーラ構造(例、オー:5モーラ=5つの音の塊→全ての仮名を同質に扱う言語観はマジョリティとマイノリティの区別を曖昧にする文化観に通底)であることから、1つの言葉に対して沢山の音を割り当てる必要があるために、1つの音に複数のモーラを詰め込んで言葉と音楽の関係性が希薄になりクドクドとした説明口調に感じられたり(野暮)、又は1つのモーラに1つの音を割り当てようとして複数の音を並べ立てることでリズム主体の一本調子の音楽に感じられてしまい(野暮)、歌劇の重要な魅力の1つであるメロディーで聴かせる美しいアリアが成立し難いという憾みがあると思われます。この点、ポップスの日本語歌詞に違和感を覚えないのは、日本語オペラのようにプロットを重視して物語を理解させるのではなく(物語を重視した伝える言葉)、感情の断片を心に響くキャッチ―な言葉として散りばめることで文脈を理解させるのではなくイメージに共感させること(感情を重視した感じる言葉)に違いがあると思われ、これは和歌や謡曲(とりわけ世阿弥の詞章)に極まる日本語の香気にも通底するものがあるのではないかと思います。そのうえで、このオペラではリズミカルに物語を進行するパートとメロディアスに感情を歌うパートをバランス良く交互に織り込みながら後者をたっぷりと聴かせることで音楽的に充実した「歌劇」としての魅力を湛える作品になっており、これに加えて状況設定の巧みさから生まれるユーモアが「物語」としての魅力も惹き立てることでトータルバランスに優れた非常に完成度の高い作品に感じられ、伊藤康英さんの他の作品も鑑賞してみたくなります。
 
〇第三場(同日10時50分:伊集院正男のマンション)
伊集院薫はいつまでも美しくありたい、いつも誰かに見られていたいと願う女心を歌いましたが、オーボエの叙情的な調べに誘われて女心の機微を繊細に紡ぐソプラノの清澄な歌声によるコロラトゥーラが白眉で、このオペラの最大の聴き所になっていました。ヴラヴィー!そこへ女に変身した伊集院正男がネグリジェ姿で現われますが、満潮を迎えて、突然、ネグリジェ姿のまま男に戻ってしまいます。この場面ではオーボエ、フルート、チェロが多彩な音色でモチーフを受け継ぐことで伊集院正男が変身する様子が音楽的に表現される印象的な場面でした。そこへ伊集院正男の両親がタイミング悪く訪ねてきてネグリジェ姿の息子に遭遇して驚嘆し、伊集院正男、伊集院薫、伊集院正男の両親がぞれぞれの複雑な心情を四重唱で歌い合うユーモラスなドタバタ音楽劇にすっかり魅了されました。最後にヴィジュアル・アートとして赤い月の映像が映し出され、スピーカーから潮騒の音が流されるなかを女に変身した伊集院正男(メゾ・ソプラノの古澤真由美さん)が登場し、チェレスタ(エレクトロニクス)、チェロ、フルート、シンセサイザーなどによるミステリアスな伴奏に乗せて潮が変われば私も変わると妖艶なアリアに歌いましたが、そこへ男の伊集院正男(テノールの猪村浩之さん)が登場して二重唱に発展し、異性を生きる2人の伊集院正男の歌が1つに調和することで2つの性が1つの人格を形成しているジェンダーの苦悩を体現する音楽が出色でした。ヴラヴィー!
 
<第二幕>
〇第四場(11月2日18時:垣内教授の学部長就任祝賀会場)
民謡の鹿児島おはら節をモチーフにした牧歌的な間奏曲が演奏された後、ギャル風の出で立ち(クラブに入場できる年齢のオネエギャルとクラブに入場できない年齢のコギャルが隆盛を極めた時代状況)の3人の農学部生による三重唱が歌われました。垣内教授の学部長就任祝賀会では垣内教授のアリアにゴージャスな合唱が加わってバブルの残照よろしく華々しい雰囲気の祝賀感を醸し出していましたが、そこへ女に変身した伊集院正男が登場してタンゴ調の妖艶なアリアを歌い出すと祝賀会に参加している男性陣の羨望の的になりましたが、女としては器量好し、男としては不器量な伊集院正男の対照的なキャラクターを印象付ける場面になっていました。女に変身した伊集院正男は垣内教授に色目を使う伊集院薫を妨害するために、伊集院教授を誘惑してホテルで待っていると書いたメモを垣内教授に手渡す一方で、伊集院薫にも垣内教授がホテルで待っているという偽のメモを手渡してお膳立てが整います。最後は鹿児島の美しい情景を歌う合唱が聴き所として用意され、物語的な魅力だけではなく音楽的な魅力に事欠かない舞台に魅了されました。
 
〇第五場(同日23時:海辺のホテル)
ヴィジュアル・アートとしてホテルと月の映像が映し出され、女に変身した伊集院正男がジャズ風の伴奏に乗せて満潮を迎えると男に戻る偽りの午前0時とデモーニッシュなアリアを歌いますが、不器量な男とは対照的に狡知に富む器量好しの女というキャラクターが印象付けられ、そのギャップが際立つ面白いピースになっていました。そこへ伊集院正男の両親がタイミング悪く現われ、フルートによる尺八のような伴奏に乗せて父の伊集院忠義がご自慢の示現流(明治維新で勤皇の剣と恐れられた薩摩藩の剣術で、警視庁の剣術としても採用されています)で女に変身した伊集院正男に決闘を挑んで敗れるというユーモラスなシーンが挟まれました。やや無茶振り気味のシーンでしたが、九州男児の武骨なキャラクターをデフォルメして心地良い大人の笑いを生むエンターテイメント性の高さに魅せられました。そこへ垣内教授が現われたので伊集院正男の両親は姿を隠し、女に変身した伊集院正男が垣内教授を誘惑するアリアを歌うと、ピッコロの飛翔する伴奏に乗せて垣内教授が高揚する気持ちを歌い、やがて二人の愛を紡ぐ美しい二重唱へと発展する聴き所になっていました。そこへ伊集院薫が現われたので女に変身した伊集院正男は姿を隠し、伊集院薫は夫の伊集院正男を裏切ることはできないと垣内教授の誘いを断ったところで、偽りの午前0時へと時を刻む伴奏と共に女に変身していた伊集院正男が男の姿に戻り伊集院薫と垣内教授の前に現われました。これにより全てを悟った伊集院薫、垣内教授、伊集院正男の両親、男に戻った伊集院正男は大混乱のうちにぞれぞれの心情を五重唱で歌い合うドタバタ音楽劇へと発展するユーモラスにして圧巻な舞台に魅せられました。ヴィジュアル・アートとして赤い半月の映像が映し出され、スピーカーから潮騒の音が流れましたが、ピッコロとクラリネットの広い音域を飛翔する緊迫した伴奏に乗せて男に戻った伊集院正男と女に変身した伊集院正男が対峙すると、コントラバスがメランコリックな伴奏を奏で出して運命の選択が近付いていることを予感させる終場になりました。
 
〇第六場(11月3日6時38分:伊集院正男のマンション)
垣内教授は永久に男に戻れる試薬と永久に女のままで居られる試薬を開発して伊集院正男に手渡しますが、ドラマチックな伴奏に乗せて伊集院薫は伊集院正男に男に戻って欲しいという想い、垣内教授は伊集院正男に女のままで居て欲しいという想い、伊集院正男は不器用な男として生きる人生と狡知に富み器量好しの女として生きる人生のどちらかを選択すべきか決めかねているという想いをそれぞれ交錯させながら歌い合う三重唱が聴き所になっていました。伊集院正男は意を決して、その名前(正男)が体現するように男に戻る試薬を服用します。ここでモーツアルト風の音楽が奏でられましたが、この荒唐無稽なドタバタ劇を極上の音楽で紡ぎ上げる作風はモーツアルトのオペラを彷彿とさせるものがあり、もし現代にモーツアルトが生きていたら、こんなオペラを書き上げたに違いないと思われる印象的なピースになっていました。最後は伊集院正男と伊集院薫が手をつないで現われ、大切な人が傍にいることの幸せを二重唱で歌い、これに清澄な合唱がミュージカル風の人生賛歌を歌い添う大団円になりました。現代は多様性の時代であり現代的な価値観を前提とすればもう少し異なるプロットの可能性も考えられると思いますが、荒唐無稽なプロットで観客の予想を心地良く超克しながら極上の歌劇として成立させてしまう力量の舌を巻く傑作を堪能できました。ヴラヴィー!このオペラの再演と共に、次回作にも大いに期待したいです。
 
 
▼酒にまつわる大人の嗜み「小唄で巡る日本酒の四季」
【演題】酒にまつわる大人の嗜み講座「小唄で巡る日本酒の四季」
【演目】詳細不詳
【演奏】邦楽ユニット「明暮れ小唄」
     小唄幸三希(小唄派幸寿会師範/公益社団法人日本小唄連盟理事)
     千紫己恵佳(千紫派師範)
【日本酒解説】今田周三(日本の酒情報館館長)
【日時】2025年9月20日(土)16:00~
【会場】日本酒造組合中央会 3階会議室
【一言感想】
今日は過去のブログ記事で簡単に感想を書いたことがある邦楽ユニット「明暮れ小唄」が「酒にまつわる大人の嗜み講座 小唄で巡る日本酒の四季」という興味深いテーマを掲げて演奏会を開催されるというので聴きに行くことにしました。邦楽ユニット「明暮れ小唄」の演奏会は、小唄を聴かせるだけではなく、様々な趣向を尽くして小唄が持つ世界観を現代に甦らせて、さながら小唄が生まれた時代にタイムトリップしたかのような瑞々しい情感に浸らせてくれる点に魅力があると思います。小唄は庶民の芸能として発展した江戸時代のポップスとも言え、酔や興を醒ませてしまう力み切った仰々しさのようなものはなく、さながら鼻歌でも口遊むように現代のポップスに通じるウィスパー的な要素やクルーナー的な要素が耳に心地良く響き、最近のタイパを重視する若者の感性にも親和的ではないかと思います。2025年10月19日(日)に明暮れ小唄「北斎小唄 そぞろ歩き すみだの節気」というこれまた興味深いテーマの演奏会があるようなので、お時間が許す方(とりわけ世界観を広げたい柔軟な感性を持った若者!)には自信をもってオススメしておきます。さて、小唄で巡る日本酒の四季と題し、灘の名酒「黒松剣菱」(この他にも備蓄米ならぬ備蓄酒とも形容し得る昨年の新米で造られた「ひやおろし」として全国の水処、米処、酒処の名酒、「如空」(青森)、「門外不出」(栃木)、「月不見の池」(新潟)、「苗加屋」(富山)、「龍勢」(広島)、「繁枡」(福岡)がお替り自由でした!😚プシュー)と木綿豆腐、大根、クラッカーに江戸甘味噌を添えた肴を振る舞われながら楽しむという酒向のレクチャー・コンサートに観客はすっかりと酔い痴れていました。今日は20曲という非常に多くの小唄が披露されましたので各曲毎の感想ではなく全体的な流れとそれに対する大まかな感想を簡単に残しておきたいと思います。最近、世間では新米の価格が話題になっていますが、新米を使った酒造りが開始される時期にあたる10月1日は日本酒の日とされています。この点、十二支の10番目が「酉」であり、もともと「酉」という漢字は酒壺を表す象形文字として果実が熟成する意味を持っていたことにも関係しているようです。因みに、過去のブログ記事でも触れたとおり日本の十二支は「酉」を動物の鳥にこじつけたもので、特に深い意味はありません。
 
https://kokushu-museum.com/wp-content/uploads/2021/09/ukiyoe-4-1024x740.jpg
江戸時代の居酒屋
時代劇のような卓はなく小上がりに腰かけて粋に一杯
 
冒頭では酒と小唄の相性の良さを唄った小唄「酒の座敷」が披露され、小粋な小唄を肴に酒が進む調子の良い曲でスタートしました。春は苗床を作って田植えをする季節ですが、全国の杜氏組合を中心とする酒造り文化が日本酒の豊かな地域性を育むことになったことが解説され、小唄「色気ないとて」(田植え)、小唄「神田祭」(豊作祈願)、小唄「晴れた庭木」(梅雨)という春の風物詩が唄われました。なお、三味線は、本調子(一絃と三絃が1オクターブの音程関係になる調子で、今日は調子が良い又は今日は本調子だという慣用表現の語源)、二上り(本調子から二絃のみを全音又は半音あげる調子)、三下り(本調子から三弦のみを全音さげる調子)を基調として、これらを様々に組合せることで多彩な音を奏でますが、今日は様々な調子の小唄を20曲ほど並べて艶っぽい曲からチャキチャキした曲までニュアンス豊かな演奏を楽しめました。夏は稲の生育を見守る季節ですが、昨年の新米で醸造された「ひやおろし」を熟成させる時期でもあり、米造りや酒造りが一段落する時期であることから庶民の娯楽として江戸三大祭り(神田明神の神田祭、日枝神社の山王祭、富岡八幡宮の深川祭り)が開催されることが解説され、小唄「蛍がいうた」、小唄「ちょうさようさ」、小唄「西の方より」、小唄「風神雷神」という夏の風物詩が唄われました。小粋な曲からユーモラスな曲まで多彩な小唄を楽しめました。クラシック音楽の指示動機(ライト・モチーフ)と同様に、三味線にも雷、風、鐘、川などを表象する象徴音型(音のアイコン)があることを実演を交えながら簡単に解説して頂きましたが、三味線音楽の鑑賞を深めるうえで大変に興味深い話しを伺うことができ、是非、このような趣向のレクチャー・コンサートを企画して頂けると有難いです。秋は新米を収穫する季節であり、寒冷地の早生からは軽快な風味の硬質な日本酒(五百万石、美山錦など)が醸造され、温暖地の遅生からは芳醇な風味の軟質な日本酒(山田錦、雄町など)が醸造されますが、酒造りは目に見えない微生物を相手にするものなので、大神神社(奈良)、松尾大社(京都)や梅宮大社(京都)などに醸造祈願して旨い酒ができるように神頼みする習わしになっていることが解説されました。小唄「見渡せば」、小唄「月が照る照る」、小唄「河太郎」という秋の風物詩が唄われましたが、人間の声に近いニュアンスに富んだ三味線による饒舌な演奏を楽しめました。最近の世界的な日本酒ブームを受けて海外でも日本酒造りを行うところが現れ始めているそうですが、現在のところ海外の精米技術はあまり高くなく品質の良い日本酒造りは行えていないのが現状だそうです。冬から早春(雪解け水の季節)は秋に収穫された新米を使って日本酒造りが行われる季節ですが、江戸時代の居酒屋は立飲みの酒屋が元祖で酒屋の小上がりに腰かけて長く居座る客も多かったことから居酒屋と命名されたそうです。また、虫除けの効果がある草を使って編んだ縄を店の軒先に吊り下げたことがのれんの元祖であることが解説され、小唄「初雪」、小唄「縄のれん」、小唄「年の市」、小唄「松立てて」、小唄「繭玉や」、小唄「春風そよそよ」、小唄「夜桜や」、小唄「桜見よとて」、小唄「並木駒形~花の吉原」という冬から早春にかけての風物詩が唄われました。雪見酒、御屠蘇、花見酒など酒の嗜み方は様々ですが、わけても吉原の遊里を艶やかに染める色香酒ほど男振りが試される酒はなく、効率ばかりが重視されて無駄の蓄積がない現代人は小粋に芸者遊びができるほど男振りは磨かれておらず、江戸時代と比べて人間(和魂)が痩けてしまっていると言えるかもしれません。
 
 
▼アンサンブル・ノマド第85回定期演奏会
【演題】アンサンブル・ノマド第85回定期演奏会
【演目】①藤倉大 グリーンティー・コンチェルト
                 ~トラヴェルソ協奏曲(2021)
    ②三瀬和朗 夜想曲~クラリネットとギターのための(1990)
    ③久保田草太 イントネーション(2023/世界初演)
    ④久保哲朗 バベル(2017)
    ⑤エベルト・バスケス 空に鳴る(世界初演)
【演奏】アンサンブル・ノマド
     <Cond>佐藤紀雄(①、③、④、⑤)
     <Fl>木ノ脇道元(①、③、④、⑤)
     <Cl>菊地秀夫(②、③、④、⑤)
     <Vn>野口千代光(①、③、④、⑤)
     <Vn>花田和加子(①、③、⑤)
     <Va>甲斐史子(①、③、⑤)
     <Cb>佐藤洋嗣(①、③、④、⑤)
     <Cemb>稲垣聡(①)
     <Pf>稲垣聡(③)
     <Pf>秋山友貴(④)
     <Perc>宮本典子(③、④、⑤)
     <Gt>パブロ・ガリベイ(ソロ)(②、⑤)
     <尺八>黒田鈴尊(ソロ)(⑤)
     <Hr>岸上穣(客演)(⑤)
     <Vc>松本卓以(客演)(①、③、⑤)
     <Perc>相川瞳(客演)(⑤)
【日時】2025年8月26日(金)19:00~
【会場】東京オペラシティ リサイタルホール
【一言感想】
今日はアンサンブル・ノマドの興味深い演奏会が開催されるので、(社会人が平日の演奏会を聴きに行くことは至難ですが)万難を排して聴きに行くことにしました。パンフレットには「これまでアンサンブル・ノマドは未知の作品を演奏する事は殆どなく、必ず完成された作品のスコアを見るか録音を聴くなどして直接当たり、演奏する意欲を掻き立てられるものを選んできた。」と記載されていますが、これまでも何度か記載してきたとおり、一生涯に聴くことができる音楽の数には限りがありますので、演奏家の審美眼で世界中の新しい作品の中から傑作を選りすぐり、その魅力を観客に伝えてくれる存在は大変に有難く、その点で定評があるアンサンブル・ノマドによって選りすぐられた傑作を楽しむことができました。なお、12月28日に開催されるアンサンブル・ノマドの第86回定期演奏会ではデッカ・レーベルからリリースされた「退廃音楽シーズ」(ナチス・ドイツが「退廃音楽」の烙印を押したことで、皮肉にも、その芸術的な価値を歴史に刻印することになった、謂わばナチス・ドイツが授与した20世紀最大の音楽賞)で話題になったヴィクトル・ウルマンのオペラ「アトランティスの皇帝」(1943年)や弦楽四重奏曲第3番(1943年)が採り上げられるというので聴きに行く予定にしています。
 
①グリーンティ・コンチェルト~トラベルソ協奏曲
パンフレットには「僕の祖父母は、鹿児島県で農家を営んでいて、その中心は緑茶となる茶葉の栽培でした。(中略)この作品には、僕の個人的な関心とルーツが詰まっています。」としたうえで、「人と人との触れ合いが絶たれてしまった2020年から早1年余。世界中の人が今、懐かしく思い出すことは、人の心が触れ合うとき。お茶をする、カフェの文化、とはまさに人と人が触れ合うコミュニティ。音楽作りがそうであるように。そう、緑茶やコーヒーの文化が、人間社会と芸術を作り出してきたのです。」と記載されています。ご案内のとおり鹿児島県はお茶の生産量で静岡県とトップを競うお茶処ですが、先般、鹿児島県伊佐市出身で「鹿児島お茶大使」に任命されている俳優・榎木孝明さんが経営しているアートスペース「クオーレ」(代々木上原駅前)でかごしま茶の試供品を頂戴し、非常に香り高くまろやかな緑茶を楽しんだことを思い出しながら拝聴しました。個人的には、この作品は前者(緑茶)よりもパンデミック(後者)に比重が置かれた音楽に聴こえましたが、さながらフルートを笛(線描の旋律)、チェンバロを筝(点描の旋律又は分散和音)、弦を笙(和音)に比定して世界最古のオーケストラである雅楽アンサンブルのように感じられ、弦(笙)が響きの舞台を作り、そのうえでフルート(笛)やチェンバロ(筝)が歌い合うイメージの音楽に感じられました。この作品が作曲された年に開催された東京パラリンピック2020の閉会式は「ハーモニアス・カコフォニー」(調和のとれた不協和音)というコンセプトでしたが、一見、不協和音のように聴こえる不完全な響きが集まって多彩な調和で彩る世界観は、さながら渋味、甘味、苦味や旨味などが舌の上で調和して豊かな風味を生み出す緑茶の世界観を体現しているようで楽しめました。
 
②夜想曲~クラリネットとギターのための
パンフレットには「この作品は、1990年12月新宿モーツァルトサロン・東京室内楽歌劇場コンサート作曲家シリーズ「三瀬和朗+石桁冬樹の世界」で、クラリネット森田敏明・ギター福田進一の量子によって初演された。」としたうえで、「この音楽会のために森田利明氏のクラリネットの音とギターの音を組み合わせて二重奏曲を作曲した。この2つの楽器の組み合わせがもたらす思いがけない響きが生まれる瞬間に期待したい。」と記載されています。夜の静寂から立ち上がり、やがて夜の静寂へと消え入るようなギターが奏でる点描音と夜の静寂からクレッシェンドしながら徐々に音の輪郭がはっきりしてくるようなクラリネットが奏でる線描音が対照され、これらが精妙な間合いで絡み合うアンサンブルが展開されました。最後は、クラリネットがデクレッシェンドしながら夜の静寂へ消え入る余韻深い終曲になり、それぞれの楽器が奏でる深遠な世界観を楽しめました。
 
③イントネーション
ヴラヴィー!この曲が本日の白眉でした。パンフレットには「この作品は、私が大学在学中に政策したコンピュータ音楽の作品「自動ピアノと仮想オーケストラのための協奏曲」を、実際に人が演奏できるように、室内楽の形で作り直したものです。コンピュータ音楽では、人間には不可能なほど速くて複雑な演奏も、正確に再現することができます。しかし、人が演奏するためには、そのままの形では成り立ちません。この作品では、人間の演奏として自然に聴こえるようにしながらも、もともとのコンピュータ音楽にあった「複雑さ」もどこかに残したいと考え、そのふたつの特徴をどう共存させるかをテーマに制作しました。」と記載されています。アンサンブルが人息のような幽けき音を揺蕩わせながら下降音型へと回収されて行くユニークな演奏が何度か繰り返されましたが、やがてピアノが主導するジャズ・テイストのリズミカルな演奏が展開され、激しくリズムを乱舞させるグルーヴ感のある音楽に魅了されました。とても複雑なリズム構造を持ち、これにフルートやクラリネットの螺旋音型やパーカッションの強打が豊かに表情を添える饒舌な演奏が展開され、言葉では上手く切り取ることができませんが、統制のとれたカオスとでも形容できましょうか、本能的な野趣とは異なる理性的な閃きに溢れた大胆にして精妙な音楽に魅了されました。コンピュータ(AIやロボットを含む)は人間から何かを奪うものではなく、人間を労働から解放し、人間の可能性を拡げてくれるパートナーであり、コンピュータ(AIやロボットを含む)からクリエイティブな成果を引き出すためには、これを利用する人間もクリエイティブである必要があるという意味で、これからの時代は芸術分野を含むあらゆる分野でコンピュータ(AIやロボットを含む)をマネージメントする力、即ち、自ら実践することを前提とする技術(方法)よりもコンピュータ(AIやロボットを含む)を活用しながら限界を超克して行くためのアイディア(世界観)が重視され、そこに21世紀型のアウラが成立する時代(近代型のコンクールよりも現在型の芸術賞の方が価値を持つ理由の1つ)ではないかと思いますが、そのような世界観を体現した作品に感じられて大変に楽しめした。久保田さんのような若き才能を見い出して世に知らしめたという意味で、アンサンブル・ノマドの真骨頂と言える演奏会であったように感じます。
 
④バベル
パンフレットにはバベルの塔の構造に触れたうえで「今作品では、数秒の短いセクションを幾重に重ね多層化することで全体が構築される。各セクションは二重線、休符またはフェルマータで仕切られ、その内部は異なったフィギュア、テクスチュア、テンポを持つ。そうしたセクションは一方向に「完結」されるのではなく、あたかも時間軸上で回転、分離しながら構成される。」と記載されています。上記のとおり短いパッセージが重ねられましたが、某有名曲(認知症の兆しで曲名を思い出せませんが)のパロディーやジャムセッションのような即興感のある演奏などを挿みながらカオスな音響群が生む変化に富む表情と休符が生む緊張感(フォルム)が織り成す、さながら万華鏡のような多彩な音響を楽しめました。現代人にとってバベルの塔や須弥山のような世界観(構造的な寓意を含む)には共感し難いので、個人的には、何か現代的な価値観をプロジェクションし得る世界観を提示して貰えるとさらに面白さが増したような気もします。
 
⑤空に鳴る~尺八、ギターとアンサンブルのための
パンフレットには「曲名の「El tanido del aire(空気の鳴音)」は、この曲の2つの独奏楽器、ギターと尺八の音づくりを詩的に暗示したものである。あたかも二つの楽器が密に寄り添いながら霊妙なダンスを踊っているかのように、ギターの爪弾きが尺八の音を動かし、今度はその尺八の音がギターのボディを共鳴させるといったふうに、どちらが主音なのかもはや区別がつかない、二つの音が混然一体と化している。」と記載されています。これまでにメキシコ人作曲家のエベルト・バスケスさんとアンサンブル・ノマドのコンビで尺八、三味線、箏とアンサンブルのためのトリオ・コンチェルト「天狗の森」(2019)などの複数の音盤がリリースされていますが、本日は、このコンビによる尺八、ギターとアンサンブルのための「空に鳴る」の世界初演になりました。冒頭から標題の「空に鳴る」を体現するようにギターとチューブラーベルという珍しい取り合わせのアンサンブルが奏でる音粒が空間に澄み渡り、ギターの爪弾きに誘われるように尺八がユリ(線描)やタギング(点描)など表情を変えながら絡み合う相性の良いデュオが展開され、その後、尺八とビブラフフォンや尺八のユリと弦のアルペッジョ(弦のユリ)など、様々な取り合わせによるアンサンブルが織り成す多彩な演奏を楽しめました。
 
 
▼シアター・オペラ「その星には音がない-時計仕掛けの宇宙-」
今年の抱負として21世紀以降に創作された「新作」のフィーチャーを挙げましたが、昨年頃から「新作オペラ」の公演の増加が顕著になっており、毎月のように新作オペラの公演に接する機会に恵まれている状況を頼もしく感じています。今月の新作オペラ「ミスター・シンデレラ」に続いて、来月は劇作家・平田オリザさんと作曲家・中堀海都さんがタッグを組んだ新作シアター・オペラ「その星には音がない-時計仕掛けの宇宙-」が公演されるというので聴きに行く予定にしています。平田さんと中堀さんは2020年にシアター・オペラ「零」で成功を収めていますが、このオペラはその第2作目に位置付けられる作品です。このオペラは30台のスピーカーを使った立体音響と英語、仏語、日本語を使った多言語オペラを特徴とする作品で、平田さんの現代口語演劇の舞台と中堀さんのヴォカリーズ(言葉の意味に依存しないボーカル表現)によるアリアが交錯しながら宇宙の誕生から音、声、言葉、歌が生まれる過程を表現したもので、7月のオペラ「ナターシャ」を彷彿とさせるコンセプトを持った作品であり大変に楽しみです。なお、現代人の感覚からすると、例えば、G.プッチーニのオペラ「蝶々夫人」は児童買春・児童ポルノなどの問題を甘美な音楽でオブラートに包んで(時代の闇を抉り出すというよりも)感傷的な悲劇に仕立て上げて美化してしまっているような印象を受けるという意味で、結果的に芸術が暴力に加攻してしまっていると受け取られ兼ねない不幸な事例として違和を禁じ得ませんが、現在でも教師による児童の盗撮事件などが後を絶たない時代状況があるなかで、現代的な価値観を体現する新しいオペラや芸術作品が求められていると思いますので、最近の「新作オペラ」ブームは歓迎すべき潮流です。

サントリーホールサマーフェスティバル2025(作曲ワークショップ&トークセッション、室内楽ポートレート、第35回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会)とオペラ「羽衣」(脚本・作曲:近藤譲/第55回サントリー音楽賞受賞記念コンサート)と第8回藝〇座公演(日本舞踊家集団藝〇座)「この世界のムラを拡げる①」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ブログの枕「この世界のムラを拡げる①」
前五回のブログ記事では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」、「行動遺伝学」、「行動経済学」、「ニューロ・ダイバーシティ」についてごく簡単に触れましたが、今回は、この世界の「ムラ」を拡げるという視点から、拡張自己(エクステンデット・セルフ)についてごく簡単に触れてみたいと思います。前回のブログ記事でも触れたとおり、人間は富の獲得と分配を効率化するためのインフラとして「集団」を形成し、その脅威となる他の集団から自らの「集団」を守ることで自らの生存可能性を高めるという生存戦略をとってきましたが、自らの「集団」の内外の判断基準としてアイデンティティという拡張性(流動性)のある識別子を用いたことで、より効率的な富の獲得と分配を可能にする大規模な集団を形成できるようになった一方で、その拡張性(流動性)が自らの「集団」の内外の判別を曖昧にしたこと(相対的な関係性)で争いを生じ易くなる原因にもなりました。このアイデンティティは人間(自己、他者や集団)だけではなく人間以外の幅広い対象をも射程する拡張性(流動性)のあるもので、前回のブログ記事で簡単に感想を書いた新作オペラ「ナターシャ」の素材になっているシャーマニズム、三谷文楽「人形ぎらい」で遣われている文楽人形、今回のブログ記事で採り上げるオペラ「羽衣」に登場する天女の羽衣なども自らのアイデンティティを外在化させる拡張自己(エックステンデット・セルフ)と捉えることができるかもしれません。また、サントリーに因んで言えば、酒を飲んだ人は酩酊状態(ほろ酔い期や酩酊期にアルコールが神経細胞に作用して脳の機能が低下した状態)で表れる別の人格に自らのアイデンティティを外在化させる酔興も拡張自己(エックステンデット・セルフ)の1種と捉えることができるかもしれません。この点、「バッカス(酒神)はネプチューン(海神)よりも多くの人を溺れさせた」という酩言があるとおり、酒に呑まれた人は泥酔状態(泥酔期に記憶を司る海馬が麻痺し、さらに昏睡期に至ると呼吸を司る延髄が麻痺して死に至る危険な状態)で自らのアイデンティティを喪失してしまうので拡張自己(エックステンデット・セルフ)ではなく自己喪失(ロスト・セルフ)と言うべき状態であり、サントリーが程酔い飲兵衛として楽しく酒を飲む極意を公開している血中アルコール濃度を試算できるページなどはバッカス(酒神)に溺れさせられないための酌度🍶として有用です。注いで.🍷になりますが、江戸時代には好事家のことを「好兵衛」(スキベエ)と愛称しており、これから転じて色好みのことを「助兵衛」(スケベエ)、酒好きのことを「飲兵衛」(ノンベエ)、田舎者のことを「権兵衛」(ゴンベエ、田舎者に多い名前で現代でも「名無しの権兵衛」などの用例があり)や「八兵衛」(ハチベエ、TVドラマ「水戸黄門」に登場するうっかり八兵衛(架空の人物)は泥棒の親分である風車の弥七実在の人物がモデル)の本名(小八兵衛)に由来)と愛称していた習慣が現代まで続いており、うどんを文字った「どん兵衛」という商品名まで生まれています。このほかにも、ホラ吹きのことを「虚田万八」(本当のことが万に八つもない軽口を叩く輩のことをウソダマンパチ)、大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺〜」でも採り上げられた遊郭の楼主や常連客のことを「忘八」(八つの徳目を忘れた、犬(八犬伝)にも劣る野蛮な輩のことをボウハチ)と蔑称しており、江戸時代の通称に表れている人間の業は現代人と大差ないように思われますが、江戸時代には現代人のように他人の粗を見付けて容赦ないバッシングに及ぶギスギスとしたところはなく、人間の業を洒落に解して大らかに捉える寛容さがあったのではないかと思います。
 
▼拡張自己と縄張りの関係
前回のブログ記事で人間は富の獲得と分配を効率化するために集団を形成し、その集団を守ることで自らの生存可能性を高める生存戦略をとり、その集団の内外を判断するアイデンティティの拡張性(流動性)の程度によって米仏日でマイノリティの位置付けに違いが生まれていることに簡単に触れました。これを動物行動学の「縄張り」に置き換えて捉え直してみると、縄張りとは動物の身体が物理的に占有している空間に加えて匂いや鳴き声などの直感的な識別子を使って動物の身体が物理的に占有していない空間にも「身体的な領域」を拡張している(後述の身体的拡張)のに対して、人間は人間の身体が物理的に占有している空間に加えてアイデンティティという非直感的な識別子を使って人間の身体が物理的に占有していない空間にも「象徴的な領域」を拡張している(後述の象徴的拡張)という特徴的な違いが挙げられます。この点、動物は身体的な領域の中で他の生物と「生態的な共生関係」(群れ、捕食関係、相利関係など)を築いているのに対し、人間は象徴的な領域の中で他の人間や集団と「制度的な共生関係」(社会関係、経済関係、文化関係など)を築いています。先日、関経連のトップによる「入郷随郷」発言が物議になっていましたが、急速な国際化や情報化の進展などにより多様なアイデンティティが交錯する機会が増加して他の人間や集団との関係性が相対化、複雑化するなかで象徴的な領域の境界も曖昧になり、集団の捉え方やそれに応じたアイデンティティのあり方などが大きく揺らいでいると言えるのではないかと思います。
分類 動物 人間
集団の単位 縄張り 国、自治体、団体、家族など
集団の識別子 匂い、鳴き声など アイデンティティ
集団の内部 群れ、利害、捕食 社会、文化、経済
拡張自己 身体的拡張 身体的拡張+象徴的拡張
 
上述のとおり人間は自らの「集団」の内外の判断基準としてアイデンティティという拡張性(流動性)のある識別子を用いていますが、拡張自己(エックステンデット・セルフ)とは自らのアイデンティティ(自らの内面的要素)が自己以外の幅広い対象(自らの外面的要素)に拡張されることを意味しており、例えば、茶道具を例に取れば、茶会の亭主が茶杓柄杓茶筅茶碗などの茶道具に飼い慣らされ、それを自らの身体の一部(ボディ・スキーマ―の外在化:まるで自分の身体の延長としてその一部を構成しているような感覚)として自在に扱いながら点前を行う様子を「身体的拡張」(接触)に分類するとすれば、客人がその茶道具に数寄を解して(数寄(近世以降の美意識)=風流、風雅(古代の美意識)+侘び、寂び(中世の美意識))、それを自らの意識の一部(ボディ・イメージなどの投射:まるで自分の感性や内面の延長としてその一部を体現しているような意識)として共感する様子を「象徴的拡張」(非接触)と分類できるのではないかと思います。これと同様に、上述の文楽人形は人形遣いにとっての身体的拡張(手足の延長)や客にとっての象徴的拡張(近松門在衛門が虚実皮膜論で説く「うつり」)の対象であり、上述の天女の羽衣は天女にとっての身体的拡張(翼のようなもの)や人間にとっての象徴的拡張(天界とのつながりを持つもの)の対象であると捉えることができるかもしれません。また、上述のシャーマニズムのうちの憑依型シャーマニズムは身体的拡張(自己の身体に神や霊を乗り移らせて合一するプロセス)、脱魂型シャーマニズムは象徴的拡張(自己の意識を飛翔して神や霊とつながり交信するプロセス)と捉えることができるかもしれません。このようにアイデンティティーは決して固定的なものではなく、常に他の人間や集団との関係性、環境の変化などに応じてチューニングされながら揺らいでいるもの(ムラ)であり(世阿弥が説く「離見の見」も見物の視点から自己を見るという認知フレームの外在化であり拡張自己の1種と捉えることができるかもしれません)、芸術の醍醐味の1つは客のアイデンティティに揺さぶりを仕掛けて世界観を拡げることにあり、その意味で拡張自己は世界を魅力的に彩るムラを作り出すものとも言えそうです。
 
▼拡張自己と脳科学の関係
車の運転には拡張自己が密接に関係していますが、例えば、初心者ドライバーは車体への身体的拡張(車体感覚)が十分に修練されておらず、車を自己の身体の一部のように自在に扱えないので隘路の通行に不安を覚える傾向がありますが、熟練ドライバーは車体への身体的拡張(車体感覚)が十分に修練されており、車を自己の身体の一部のように自在に扱えるので隘路の通行にも不安を覚えないという違いが生まれます。前回のブログ記事で文楽人形について触れましたが、文楽人形の三人遣いは足遣い、左遣い、主遣いのそれぞれで各10年以上の修行が必要とされており、足遣いとして約10年以上の修行を経た後、今度は左遣いとして約10年以上の修行を積み、最後に主遣いとして一人前になるまで約10年以上の修行が必要になると言われていますので、通算で約30年以上を修行に明け暮れることになっており、三人遣いが拡張自己を修練して文楽人形に魂を吹き込むことができるようになるための修行は生半可なものではありません。また、次回のブログ記事で触れる予定ですが、育児にも拡張自己が関係しており、例えば、子供は親以外の他者や集団との関係性を築く過程で様々なものを吸収しながら自己のアイデンティティを確立(自己拡張)して親離れして行きますが、親は子供への愛情が強く自己のアイデンティティーを子供に拡張(拡張自己)しているケースでは親の子離れを自己のアイデンティティの喪失(自己喪失)と捉える傾向があることが指摘されていますので、子供の親離れよりも親の子離れに困難を伴うケースがあると言えるかもしれません。このように自己のアイデンティティーを幅広い対象に拡張する作用(自己と他者の境界の除去)は脳の内側前頭前皮質(mPFC)系が関与しており、他者や集団との関係性を築く過程で様々なものを吸収しながら自己のアイデンティティを確立する作用(自己と他者の境界の確立)は脳のミラーニューロン系が関与しています。このように子の親離れ(自己拡張)と親の子離れ(拡張自己)では似て非なる力学が働いており、過去のブログ記事で触れたとおり、親の子離れの困難性は父性原理(支配)よりも拡張自己の程度が強い母性原理(調和)に現われ易いと言えるかもしれません。
機能 主な脳部位 作用
拡張自己 内側前頭前皮質系
(mPFC)
自己と他者の境界が曖昧
(自己同一化、所有感)
自己拡張 ミラーニューロン系 自己と他者の境界が明確
(共感、模倣)
※上記では分かり易さを優先して主要な脳部位のみを挙げていますが、より広範な脳部位が関与しています。(害鳥アゲアシトリ対策)。
 
▼サントリーホール・サマーフェスティバル2025
【演題】作曲ワークショップ&トークセッション
【演目】第1部 ジョルジュ・アペルギス✕細川俊夫トークセッション
    第2部 若手作曲家からの公募作品クリニック(実演付き)
     柴田歩 真贋の境界Ⅱ ソロ・フルートのための
     趙亮瑜 無根の樹 プリペアド・ヴァイオリンとチェロのための
     渡部瑞基 Baum Test Ⅰ 
               ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための
【演奏】<Fl>今井貴子
    <Vn>河村絢音
    <Va>甲斐史子
    <Vc>上村文乃
【日時】2025年8月23日(土)19:00~
【会場】サントリーホール 小ホール
【一言感想】
サントリー・サマーフェスティバル2025では、ミュージック・シアターの第一人者として世界的に高名で、日本でもお馴染みのジョルジュ・アペルギスさんがテーマ作曲家に選ばれており大変に楽しみにしていました。G.アペルギスさんは音楽と演劇の関係を探究されている現代作曲家ですが、その作品は器楽から映像、舞踊を伴うジャンルレスなものに至るまで非常に多彩で、既成の音楽表現の限界を超克し、芸術表現の新しい地平を切り拓く斬新で魅力的な作品が世界的に注目されています。
 
〇第一部 ジョルジュ・アペルギス✕細川俊夫トークセッション
第一部ではG.アペルギスさんと細川俊夫さんのトークセッションが開催され、G,アペルギスさんの簡単な略歴と作品の概要についてインタビュー形式で紹介されました。簡単に内容をサマろうかとも思いましたが、明日開催される室内楽ポートレートに出演されるヴァイオリニストの牧野純也さんがG.アペルギスさんの紹介動画をアップされており、非常に分かり易くまとめられていますので、そちらをご覧下さい。因みに、牧野さんは現代音楽を紹介する沢山の動画をリリースされていて大変に重宝していますが、市中には古典作曲家を紹介するレクチャーや書籍、記事などの「過去を語るコンテンツ」は腐るほどあり、その殆どが数十年前から語り尽くされている焼き直しのようなものばかりで辟易としていますが、現代作曲家(とりわけ存命作曲家)を紹介するレクチャーや書籍、記事などの「現在を語るコンテンツ」は殆ど目にすることがなく非常に歯痒い思いをしています。その意味では、日本の「失われた30年」は経済だけではなく芸術文化にも言えるような気がしており、だからこそ牧野さんの動画やサントリー・サマーフェスティバル、コンポ―ジアムなどは(関東圏では)大変に貴重で有り難いものであると感じています。G.アルペギスさんの作風は、先日、新国立劇場で世界初演されて世界的にも反響が大きかった細川さんのオペラ「ナターシャ」にも相似するものがあるように感じられますが、言葉を母音、子音、息や囁きなどの音素に解体して意味から解放し、音素の響きやリズム、ビジュアルアート、照明などを使いながら「言葉による物語」ではなく「音素の関係性が織り成す物語」を紡ぐような作品が多く、聴衆は言葉の意味を理解する言語的な物語を受容するのではなく、自らの全人格を音素にプロジェクションすることで立ち上がってくる自分だけの音響的な物語を体験するような懐の広い作品に感じられます。今回のサマフェスではG.アルペギスさんの代表作であるレシタシオンを初めとする声楽作品から器楽作品まで幅広く採り上げられる予定なので、非常に楽しみです。世界的に評価が高い現代作曲家の作品に共通して、ある種の限界をブレークスルーしているズバ抜けた魅力があるように思われ、その作品が生み出す新しい芸術体験は古い認知バイアスを打ち破り、新しい世界観を拓いてくれる創造力があるように感じられます。日本では、未だこのような世界的に評価が高い現代作曲家の作品に触れる機会は数少ないので、ご都合のつく方はこの機会にサントリーホールに足を運ばれることをお勧めします。
 
 
〇第二部 若手作曲家からの公募作品クリニック(実演付き)
以下の囲み記事でも触れていますが、メタ・モダンが薫る若手の現代作曲家は次代の新しいムーブメントの重要な鍵を握る存在として注目していますが、本日は時代の革新を仕掛けてきたG.アペルギスさんが若手の現代作曲家から応募があった13作品の中から選んだ以下の3作品の実演を聴いた後に細川さんと共に公開クリニックを行いましたので、各作品のかんっな感想と講評の概要をサマっておきたいと思います。(以下、演奏順)
 
◎柴田歩(2005~) 真贋の境界Ⅱ(2025)
パンフレットには、「この作品はフルートの「音色」を中心に「真贋の境界」を表現したものである。「真」=フルートが出す「本来の」音色。「贋」=フルートが特殊奏法等を用いて他の楽器を「模倣した」音色。(中略)始めは「真」、次に「 贋」、最後は「真」と「贋」のMIX。最終的に境界は曖昧となり、「真贋」の区別すら無意味なものとなる。」と解説されていますが、天才贋作画家を主人公とする映画「THE FORGER」を思い出します。柴田さんは「真贋シリーズ」を手掛けられているそうで、第一作はピアノを使った作品、今回はフルートを使った作品に挑戦されたそうです。J.ケージがプリペアド・ピアノを発明したコンセプトと通底するものがあると思いますが、先ず「真」として通常奏法でフルートを演奏し、次に「贋」として特殊奏法等を駆使してフルートでヴァイオリン(ピッチカート)、尺八、サックス、ギロ、レインスティック、ボンゴ、カスタネットの楽器音を模倣しましたが、どのような楽器音を模倣するのかをパネル表示することで客落ちを回避する工夫が施されていました。G.アペルギスさんが講評されていたように「贋」というユニークな着眼点からフルートの表現可能性を大胆に拡張することに成功している意欲作に感じられました。「真贋」のダイナミズムは「真」が持つ再現可能性の低さを「贋」が巧みに凌駕してしまう点にありますが、フルートの今井貴子さんの好演に支えられて真贋の境界を超克するための様々な工夫が面白く感じられました。
 
◎趙亮瑜(1998~) 無根の樹(2025)
パンフレットには、「この作品は、何を作るにも欠陥があり、材として無用だから伐採されず、それ故に立派な大木になったという「無用の木」という荘子の話に着想を得、「樗」(ちょ)という散木が、虚無の地において成長する情景をイメージして作曲した。」と解説されていますが、樗櫟散木の故事に題材した作品で標題の「無根の樹」とは樗や櫟と同じく柔らかくて建材に不向きと言われる合歓木(ネムの木)の「ネム」を倒置して「無根」と洒落て、「人間は根を持たない木のように、この世に放り出された存在であり、虚無の中でどうにか生きようとしている。」という世界観を意味するものと言えるかもしれません。本日は河村絢音さんのプリペアド・ヴァイオリンと上村文乃さんのプリペアド・チェロで演奏されましたが、弓に釣り糸を巻き付けて弦を擦ることで不規則な音を生み出し又は弦と指板の間に指を挟んで弦の張力を調整することで音高を変化させるなど趙さんが発明した新しいプリペアド奏法が使用されており、その目論見が奏功してプリペアド・ヴァイオリンとプリペアド・チェロが個性的な響きで拮抗しながら不規則に枝が絡み合う様子(無為)が体現されている面白い作品に感じられました。荘子の無為自然の思想を言葉を使わずに(河村さんや上村さんが幽けき声で何かを囁く部分もあったそうですが、後方席にいたので全く聞こえませんでした)、プリペアドされた音のパレットだけで描き出してしまう表現力が見事でした。
 
◎渡部瑞基(2000~) Baum Test Ⅰ(2025)
パンフレットには、「バウムテストとは、木の絵を描いてもらい、その絵を分析することで性格傾向や心理状態を読み解こうとする心理検査の一つで(中略)縺れた木の枝を解くように人の心の複雑な綾をかき分けて、その奥底へと入り込んでいく ─ そんな音楽を書きたいと思いました。」と解説されています。渡部さんによれば、このバウムテストには具体的なモデルがいるらしく、優しさの中に孤独を抱えている人物をイメージしながら作曲したそうですが、もしかするとご自分のことかもしれません。河村絢音さんのヴァイオリン、甲斐史子さんのヴィオラ、上村文乃さんのチェロが朧な音で緊密に絡まり合いながら雑然とした音楽を奏でましたが、それが徐々に整い出しては、再び、雑然とした音楽に戻ることを繰り返しているうちに、その雑然とした音楽の中から上村さんのチェロがはっきりとした音像を浮かび上がらせることでバウムテストの結果(性格傾向や心理状態)を表現している印象の作品に感じられました。最近、自分の遺影に使うために似顔絵を描いて貰ったところ、人となりまで赤裸々に描き出されてしまう出色の出来映えに笑わされましたが、おそらく弔問客は「そう言えば、こんな奴だったな」と偲んで頂けるのではないかと楽しみにしています。この作品構成を使って様々なバウムテストの結果(キャラクター)を音楽的に表現する作品を連作しても面白いかもしれないと思わせる興味深い着想の作品でした。
 
【演題】室内楽ポートレート(室内楽作品集)
【演目】ジョルジュ・アペルギス
     ①ヴァイオリン独奏のための「イ・イクス」
            ~ヤニス・クセナキスに捧ぐ~(2001/02)
     ②サクソフォーンとヴィオラのための「ラッシュ」(2001)
     ③ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための「三重奏」(2012)
     ④ヴァイオリン、アコーディオン、打楽器のための
                   「カルステン三重奏」(2021)
     ⑤クラベスとヴァイオリンのための
                  「束の間のレクイエム」(1998)
     ⑥2人の打楽器奏者/役者のための「再会」(2013)
     ⑦ソプラノ、クラリネット、打楽器のための
                     「7つの恋の罪」(1979)
     ⑧(ザルブを演奏する)打楽器奏者のための
                     「取っ組み合い」(1978)
【演奏】<Vn>尾池亜美、牧野順也
    <Va>東条慧
    <Vc>山澤慧
    <Pf>大瀧拓哉
    <Cl>田中香織
    <Sax>井上ハルカ
    <Acc>テオドーロ・アンゼロッティ
    <Perc>クリスティアン・ディアシュタイン
          會田瑞樹、飯野智大
    <Sop>薬師寺典子
【日時】2025年8月24日(日)15:00~
【会場】サントリーホール 小ホール
【一言感想】
G.アルペギスさんが優れた人間観察でアイロニカルに人間の本性を描き出しているミュージック・シアターが見応えがあり、現代の音楽家には音楽はもとより俳優、噺家、パフォーマーなどマルチなタレントが求められていると感じさせる熱演を楽しめました。声楽は「言葉を伝える音声」というよりも「音を鳴らす楽器」、器楽は「音を鳴らす楽器」というよりも「言葉を発する音声」として扱われている印象を受けましたが、以下では第1曲から第5曲の器楽作品と、第6曲から第8曲の声楽作品(ミュージック・シアター)に分けて、非常に曲目数が多いのでごくごく簡単に一言感想を残しておきたいと思います。
 
▼器楽作品
①ヴァイオリン独奏のための「イ・イクス」~ヤニス・クセナキスに捧ぐ~
高音域のハーモニクスで紡がれる微細音やグリッサンドが人間の囁き声のようにも聴こえ、リズム、強弱や間(無音)などが織り成す繊細なニュアンスやテンションに物語性が生まれてくるのが感じられる好演を楽しめました。
 
②サクソフォーンとヴィオラのための「ラッシュ」
サックスとヴィオラがエッジの効いた瞬発力のある微細音の応酬を繰り返しながら緊密に呼応するテンションの高い演奏を展開し、その凝縮された表現(エネルギー)がアポフェニアを誘発して物語が立ち上がってくるのが感じられる好演を楽しめました。
 
③ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための「三重奏」
ヴァイオリン、チェロ(弦)とピアノ(打)が弱音で奏でる点描的なパートと強音で奏でるヒステリックなパートを交互に演奏しながら対照し、この異なる位相が生み出す劇的緊張が演劇的な要素を醸し出して行く好演を楽しめました。
 
④ヴァイオリン、アコーディオン、打楽器のための「カルステン三重奏」
3つの楽器が統一感を保ちながらも調和することなく拮抗し、短いフレーズと間(無音)を繰り返しながらテンションの高い音楽を展開していましたが、現代の多様な個衆社会の縮図を見ているような印象を受ける興味深い作品を楽しめました。
 
⑤クラベスとヴァイオリンのための「束の間のレクイエム」
ヴァイオリンとクラベスが精妙な呼吸感でリズムの強弱や間(無音)などを紡ぐ緊迫感のある演奏を展開し、さながら能楽囃子のようでもありました。最後の息を詰めるような繊細なニュアンスは生と死の間に漂う気配のようなものを感じさせる印象的な終曲になっていました。
 
▼声楽作品(ミュージック・シアター)
⑥2人の打楽器奏者/役者のための「再会」
二人の男性が再会して抱き合いお互いの背中を叩き合いながら再会の喜びをリズムで刻む音楽が展開されました。声(音素)、足(タップ)、拍手、椅子、ボトル、コップ、酒を飲む音などから構成されるリズムや間(無音)を使って心の機微を表現し、最後は酒を酌み交わして酩酊するまでの物語が綴られていました。幽玄とは全く異なるものですが、能のように聴衆の内面を引き出すマイナスの美学に彩られた音楽的なパントマイムを楽しめました。
 
⑦ソプラノ、クラリネット、打楽器のための「7つの恋の罪」
おそらくソプラノ(女性)と打楽器(男性)が夫婦、クラリネット(女性)が愛人という三角関係を描いたもの?ではないかと妄想しますが、声(音素)、演奏(パルス)、パフォーマンスなどを使って恋に現れる七つの大罪(色欲はなかった?と思われますが、無関心(傲慢)、秘密(嫉妬)、ヒステリー(憤怒)、支配欲(強欲)、やけ食い(爆食))を先鋭的に表現した舞台で、そのインパクトあるアイコン化された表現に会場から笑いが起こっていました。
 
⑧(ザルブを演奏する)打楽器奏者のための「取っ組み合い」
落語よろしく扇子の代りにトンバクを持った1人の男性が高座に上がり、左右に首を振り分けて二役を演じ、声(意味から解放された音素や音節)で二人の者が取っ組み合いを行うまでの様子を表現しました。扇子よろしくトンバクの調子が舞台にメリハリを付けて物語が展開しましたが、最後はフランス語、ドイツ語、日本語(「闘い」「痛い」「10時ちょっと前」)などの多言語で取っ組み合いが表現され(一人は仲裁?)、会場から笑いをとる音楽落語という趣向で楽しめました。
 
【演題】第35回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会
【演目】①芥川也寸志 「交響管弦楽のための音楽」(1950)
    ②向井航 「クィーン」(世界初演)
            ユーフォニアム、エレキギター、女声アンサンブルと大オーケストラのための(オルガン付き)
     <Eup>佐藤采香
     <Egt>藤元高輝
     <Chor/Vo>松島理沙、岡崎陽香、浅野千尋
              個々・マユミ・歌楽寿、庄司絵美
     <ドラマトゥルギー>前原拓也
   ~第35回芥川也寸志サントリー作曲賞候補作品~
    ③松本淳一 「空間刺繍ソサエティ」
    ④廣庭賢里 「The silent Girl(s)」(2024)
                    ピアノと室内オーケストラのための
     <Pf>天野由唯、鈴木彩葉
    ⑤斎藤拓真 「アンティゴネーとクレオン」(2024)
            ソプラノ、アンサンブル、エレクトロニクスのための
     <Sop>薬師寺典子
     <Elc>今井慎太郎
【演奏】<Cond>杉山洋一
    <Orch>新日本フィルハーモニー交響楽団
【審査員】伊佐治直、小出雅子、安良岡章夫
【司会】長木誠司
【日時】2025年8月30日(土)15:00~
【会場】サントリーホール 大ホール
【一言感想】
第35回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会を鑑賞しましたが、最近の現代音楽ブームの潮流を受けたものか、昨年よりも観客数が増えている印象を受けました。過去のブログ記事でも触れましたが、今年は芥川也寸志生誕100周年のアニバーサリーであり、第一曲目に演奏された「交響管弦楽のための音楽」は1950年にNHK放送25周年記念管弦楽懸賞特賞を受賞し、近衛@日響(現、N響)により初演された事実上のデビュー作であることを踏まえると、作曲家としての芥川也寸志の生誕75周年を寿ぐ趣向にもなっていたのではないかと思います。交響管弦楽のための音楽はオスティナートを基調とした端正な書法による明快な音楽で、鮮やかなオーケストレーションが生み出す色彩豊かなリズムの競演を堪能することができました。昔から新日フィルは合奏精度に定評があるオケなので、もっと現代音楽を演奏する機会を増やして頂けると嬉しいのですが....。
 
◎向井航 クイーン
ヴラヴィー!パンフレットには、「「クイーン(Queen)」という言葉は、クィア・コミュニティにおいて単なるジェンダーのラベルを越え、「媚びない女(オンナ)」」を意味し、「既存のジェンダー規範や社会構造に抵抗し、差別や偏見を逆手に取って「逆説的プライド」を体現する存在」としたうえで、「マイノリティは、常に孤独と闘ってきた。声と身体、そして音楽によって他者とつながること-その行為こそが抵抗であり、連帯の可能性であり、希望なのだ。「クイーン」は、そのための芸術的試みである。」と解説されています。ギリシャ悲劇「バッコスの信女」にインスピレーションを受けて作曲されたそうで、パイプオルガンをゼウス(創造の神:天上界の権威)、ユーフォニウムをアポロン(調和の神:地上界を天上界の権威に調和させる力)、エレキギターをバッコス(破壊の神:地上界に調和されている権威を破壊する力)、女性アンサンブルをバッコスの信女(そのうちの1人はミューズ:芸術の女神で権威を超越して全てを包摂する力)に見立てオーケストラ(地上の権威)を取り囲むように配置されましたが、前半はパンクを基調とする音楽がバッコスの破壊力、後半はポップミュージックを基調とする音楽がミューズの芸術力を象徴している印象を受け、パンク(バッコスのメタファー)、ポップミュージック(ミューザのメタファー)、クラシック(ゼウスのメタファー)の境界が取り払われたメタ・モダンが薫る新しい芸術表現が生まれるような舞台に圧倒されました。芥川さんがオルガンとオーケストラのための「響」でサントリーホールという楽器を初めて鳴らしてから僅か30年後に同じサントリーホールという楽器からこれだけの多彩な響き(世界観)を紡ぎ出す斬新な作品の誕生に時代のダイナミズムが感じられ、興奮を禁じ得ませんでした。冒頭、風の音(ハーモニーパイプのような音)や鳥の鳴き声などが流れ、フルートのトリルが添えられて牧歌的な雰囲気(神の秩序=権威的なもの)が演出されていましたが、それを打ち破るようにバッコスの信者4人(破壊)があげるハイトーンの絶叫に合わせてオーケストラ(権威)も高音の絶叫で応えて権威的なものが破壊されて行く様子がインパクトのある表現で描かれていたように感じられました。バッコスの信者4人(破壊)が後方のオルガンに向かってハイトーンの絶叫をあげると、これにオルガン(権威)が重厚な響きで応えますが、エレキギター(破壊)の演奏に合せてバッコスの信者4人がハイトーンの絶叫をあげるという緊迫感のあるやり取りが展開されました。規格外の舞台に圧倒されてあまり歌詞を聴き取れませんでしたが、カッサンドラの魂がバッコスの信者4人の1人に憑依してユーフォニウム(アポロン)に向かってヒステリックに絶叫し、カサンドラの魂とユーフォニウム(アポロン)がシャーマニックに交信しているようなピースが印象的でした。おそらくアポロンは女性(カッサンドラ)を搾取する男性として権威のメタファー、カサンドラは男性(アポロン)に搾取される女性としてマイノリティのメタファーではないかと思います。カッサンドラ(マイノリティ)の魂を救済するようにエレキギター、ドラム、コントラバスの伴奏に合わせてバッコスの信女4人が絶叫するパンク(ジャズ→ロック→パンク)が展開されましたが、芥川さんの端正なリズムの競演から大幅にハミ出した破壊力のあるビートを伴ってサントリーホールという楽器にパンクを奏でさせてしまう大胆な趣向に興奮を禁じ得ませんでした。パイプオルガン(権威)とエレキギター(破壊)がアンサンブルを奏でましたが、これが意外にも相性の良いもので聴き所になっており、器楽曲として独立させても面白いのではないかと思います。その後、ミューズがマイクを使ってアニメ声でラップ調のポップミュージックを歌いながら登場し、会場の雰囲気を一変させる独特な存在感に魅了されました(いとゑもし🥰)。このようなことを書くと一部の声楽家に嫌われるかもしれませんが、客の立場から言わせて貰うと、ベルカント(権威)の良さがあることは認めたうえで、しかし、マイクが普及している現代にはクルーナーの良さも受け入れてこれを活用する柔軟な姿勢も求められているような気がしています。その後、ミューズに導かれたバッコスの信女4人がパンク、ポップミュージック、クラシック(コーラス)をジャンルレスに歌い合いながら、最後はパイプオルガン(権威)がロングトーンを奏でながら徐々に空気が低下して響きが減衰し(権威の相対化?)、全てが混然一体になって響き合っている印象を受ける大団円になりました。第35回芥川也寸志サントリー作曲賞の審査員・伊佐治直さんも仰っていたとおり向井航さんの新作は規格外の異彩を放つズバ抜けた魅力を示すブレイクスルー感があり、いつの時代も天才とはこのように出現するのだろうと度肝を抜かれる音楽に魅了されました。
 
▽第35回芥川也寸志サントリー作曲賞
3作品の中では最も音楽的に成功していた松本淳一さんが審査員全員一致で第35回芥川也寸志サントリー作曲賞に選考されました。審査員の安良岡章夫さんが審査講評で仰っていたとおり「音楽」であるからにはホールで鳴る「音」が主戦場であるべきであって、どのように「音」に出来ているのかが審査対象として最も重視されるべきであり、その意味では松本さんの作品に軍配が上がるのは首肯できる結果でした。(以下、演奏順)
 
◎松本淳一 「空間刺繍ソサエティ」【優勝】
パンフレットには、「音楽家達が空間に輪郭を作るパタンナーとして各々特殊な定位から音や指令を「投げ縄」の如く飛ばし合う(中略)彼らは構造的階層を消し去るソーシャル・イノベーター的立場で、指揮を飛び越え、単身「空間グリッド師」と化し独自タイミングで音を連携して飛ばし合う。一方オーケストラも次第にそれぞれがソリスト化していき全体で生き生きと自律型社会としての音を編む」と解説されています。ステージのオーケストラを取り囲むようにLA席~P席~RA席にバンダ隊が配置されていました。過去のブログ記事で簡単に感想を書いたH.ツェンンダーのシューマン・ファンタジーでもバンダ隊が同様に配置されていましたが、その位置付けは正反対のもので、バンダ隊はオーケストラに外在化されて音楽的に拮抗する存在(自己拡張)であったのに対し、この作品ではバンダ隊はオーケストラに内在化されて音楽的に拡張する存在(拡張自己)として扱われているように感じられました。2階後方席で鑑賞しましたが、サントリーホールの豊かな残響音が作曲意図(糸)にマイナスに作用するのではないかと心配しましたが、意外にも音響の空間配置を十分に体験できる仕上りで作曲意図(糸)を紡ぐ立体的な音響(空間刺繍)が構築され、様々な方向(定位)から立ち上がる音響が離合集散を重ねて様々な綾を彩りながら有機的に絡み合う音の万華鏡を聴くような鑑賞体験が出色でした。過去のブログ記事で日本音楽コンクールの運営方針に異議を申し立てたことがありますが、作曲家には作曲の技量だけではなく、それを演奏家と共有してどのように「音」として成就させることができるのかという技量までも求められているのではないかと思われ、その意味で作曲の技量(仏)とそれを「音」に還元できる技量(魂)の双方が発揮されたという意味で芥川也寸志サントリー作曲賞に相応しいと感じられました。
 
◎廣庭賢里 「The silent Girl(s)」
パンフレットには、「この作品は、ピアニストを1人の少女に、アンサンブルを少女の周囲の環境に見立て(中略)1人の少女の内面変化を表現」したもので、「少女が内なる自己と葛藤する様子を明確に表現するために音楽に加えて言葉と身体表現」を使用し、「1人の少女を2人で演じ(中略)ピアニストと「アシスタント」が同一人物になっている。」と解説されています。なお、この作品は少女の内面の葛藤を綴ったオリジナルの詩が付されていますが、著作権の問題もありますので転載は控えます。丁度、ミュージック・シアターの第一人者であるジョルジュ・アペルギスさんがサントリー・サマーフェスティバル2025のテーマ作曲家に選ばれていたので、大変に興味深く鑑賞しました。パフォーマンスにウェイトが置かれた印象を受ける分かり易い作品で、ピアニストはピアノ(世俗欲)に固執(執着、苦しみ)する自分、アシスタントはピアノ(世俗欲)から自らを解放(放下着、救い)しようとするもう一人の自分を表し、その内心の葛藤という普遍的なテーマ性を音楽家という身近な存在に照射して表現したものでした。ピアニストとアシスタントは不自然な程の相距離を置いて腰掛けていましたので、審査員の小出雅子さんからはピアニストとアシスタントを近くに腰掛けた方が一体感が生まれたのではないかという表現可能性がコメントされていましたが、個人的には、不自然な程の距離を置くことで舞台に緊張関係が生まれ、それが内心の葛藤のストレスの大きさを視覚的に演出することに成功していたように感じられ、また、その緊張関係が解消される過程で生まれるユーモアも感じることができたエンターテインメント性が高い作品に感じられました。その一方で、パフォーマンスに関心が惹かれた副作用として、ピアニスト、アシスタント(自分)とオーケストラ(環境)の関係性が生む音楽的なドラマのインパクトが薄くなっていた印象を受けましたので、その観点から一層の表現の充実を図る工夫があると音楽作品としての魅力が増すようにも感じられました。
 
◎斎藤拓真 「アンティゴネーとクレオン」【聴衆賞】
パンフレットには、「本作は、私が最も美しい悲劇のひとつと考える「アンティゴネー」に人工知能(AI)ツールを組み合わせるという奇妙な着想によって書かれている。(中略)本作のドラマツルギーは、ソプラノ歌手、AIによって合成された声によるクレオン、そしてそのAIによる声の素材によって浸食され変容した電子音響の三者の対決にある。」と解説されています。個人的には、アンティゴネー(神の法)もクレオン(王の法)も同じ人間が作り出したものなので人間のエゴの対立でしかないと思いますが、未だ神の存在が説得力(認知バイアス)を持ち得た時代の価値観を前提にすれば神の真理と人間のエゴとの対立を描いた物語と仮定することもでき、その神の真理をAIのレスポンスに置き換えて人間と人間が作り出したAI(神)とそのAI(神)のレスポンスに洗脳されていく人間という構図で人間の意識がAIに支配されつつある現状を音楽的に表現した作品のように感じられ(現時点ではAIも人間が作り出した情報を学び、それを組み合わせて新しい知を紡いでいるに過ぎませんので、その意味でAIも神と同じく人間性の塊と言えそうですが)、その着想が非常に興味深く感じられました。今日は2階席後方に座っていたためかもしれませんが、やや音響バランスが芳しくないように感じられ、人間の声がAIの声に浸食されて行くグラデーションが感じ取り難く雑然とした印象を受けしてしまい、その点が非常に残念に感じられました。しかし、アコースティックとエレクトロニクスがシームレスに連結し、照明や映像などの視覚的な効果も相乗してハイブリッドな世界観に埋没して行くような新しい芸術体験が非常に面白く感じられました。今後の活躍が期待される作曲家です。
 
<聴衆賞の結果>
ディスプレーではなく模造紙に手書きとは昭和風情が薫ります。
 
 
▼第55回サントリー音楽賞受賞記念コンサート
【演題】第55回サントリー音楽賞受賞記念コンサート
【演目】近藤譲
     ①「接骨木の3つの歌」(1995)
      <Vn>林悠介
      <Perc>西久保友広
     ②オペラ「羽衣」(1994/日本初演)
      <Cond>ピエール゠アンドレ・ヴァラド
      <Mez>加納悦子
      <Dans>厚木三杏
      <Na>塩田朋子
      <Fl>多久潤一朗
      <Orch>読売日本交響楽団
      <Chor>女声合唱団 暁
      <Cond(Chor)>西川竜太
【日時】2025年8月28日(木)19:00~
【会場】サントリーホール 大ホール
【一言感想】
現代作曲家の近藤譲さんが第55回サントリー賞を受賞されましたが、今日はその受賞記念コンサートが開催されるというので(平日の演奏会は時間的に困難ですが、何とか都合をつけて)聴きに行くことにしました。パンフレットには、選考委員の伊東信宏さんが贈賞理由として「一つの音を置き、それを繰り返し聴くことによって次の音を見出し、さらにそれらの音を繰り返し聴くことによって第三の音を置く、といった作曲法は(中略)パンデミックや戦争によって人間(と人間集団)の孤立が深まり、さらにAIによる芸術の侵食が現実のものとなった今、近藤の音楽と言葉は、我々に深い覚醒が必要なことを告げている。」と記載されていましたが、20世紀の新しい作曲技法(構造的な操作や複雑な規則性などの計算が可能なアプローチ)を主意にした作曲姿勢はAIや量子コンピュータに圧倒される時代になりつつあると思います。その意味で、作曲技法に頼らない感性(経験、個性や感覚などの計算が難しいアプローチ)を主意にした作曲姿勢は人間に残された唯一の可能性と言えるかもしれません。その一方で、このような作曲姿勢は自らの認知バイアスや人間中心主義的な世界観を打ち破ることが難しいという限界を抱えており、AIや量子コンピュータは人間の手抜きのための友である以上に自らの認知バイアスや人間中心主義的な世界観を打ち破るための友としても強力なパートナーになり得るかもしれません。
 
 
〇接骨木の3つの歌
木下利玄さんの歌集「紅玉」に収録されている以下の3首の短歌を歌詞にして作曲したソプラノ独唱のための「接骨木の新芽」(1983)をヴァイオリン独奏用(打楽器の仕様楽器は任意で、打楽器を省いて演奏することも可能)にアレンジした作品です。
 
朝じめり 藪の接骨木 芽はおほく 皮ぬぎてをり ねむごろに見む
にはとこの 新芽ほどけぬ その中に その中の芽の たゝまりてゐる
にはとこの 新芽を嗅げば 青くさし 実にしみじみ にはとこ臭し
 
舞台照明が暗く落とされ、ヴァイオリンの林さんと打楽器の西久保さんのみにスポットライトがあてられるなかで演奏されましたが、近藤さんの作曲姿勢の魅力がよく表れている作品に感じられました。本日は視覚的な演出効果も奏功し、静謐な空間に磨き抜かれた一音一音が慎ましやかに置き添えられで繊細で詩的な風情を醸し出す余韻深い印象を湛えており、その世界観に惹き込まれました。打楽器の柔らかい音響の広がりが生む幻想的な空間の中でヴァイオリンによって不安定に着地するポルタメントが幾重にも重ねられて接骨木の存在の儚さと共にその息吹を静かに伝える慎ましやかな演奏で、リズム、強弱や持続音が生む繊細な表情が微かな変化の兆しを伝えて、接骨木の佇まいを仄かに薫らせる心に染み入る作品でした。接骨木から受けるインスピレーションをそのまま音として表現しているような作品であり、作曲家が音と真摯に向き合っていることが分かる名曲でした。
 
〇オペラ「羽衣」
冒頭、オーケストラが大海原、フルートが羽衣を運ぶ風を連想させる情景感のある演奏が幾重にも重なり、さながら印象派の絵画を見ているような幻想的な音楽によって羽衣の世界観へと誘われました。その後、ナレーションの塩田朋子さんが世阿弥の詞章により三保の松原の情景を語りましたが、世阿弥の詞章は磨き抜かれた珠玉の言葉が散りばめられ、その情趣豊かで香気ある日本語の響きは独特の美感を湛えるもので心を奪われます。正確性を重視して余白のない現代語の痩せた言葉(言語)とは異なり、感受性を重視して余白のある古典語は様々なインスピレーションを与えてくれる心に響く言葉(言霊)だと思います。その後、メゾ・ソプラノの加納逸子さんが漁師の詞章を歌い、塩田さんが漁師の詞章を語りましたが、加納さんの多彩な声質が生む中性的な響きが漁師を性別を含む個性を持った人格ではなく地上界を象徴する存在(諸国一見の僧のような名無しの権兵衛)として登場する効果を生んでいるように感じられました。また、冒頭からフルートが奏でる音楽は(舞台後半になるまで羽衣は登場しませんが)地上界と天上界を結ぶ象徴としての羽衣の神聖性を感じさせるもので、オペラ全体に亘って非常に重要な役割を演じていました。その後、ダンサーの原木三杏さんが白い衣装で登場し、無音で舞われる天人の静謐な舞が、この世ならざるものが帯びる清浄な美しさを連想させるもので魅せられました。オーケストラが羽衣を失った天人の心中を表現するように不安気な音楽を奏でた後、加納さんと塩田さんが漁師と天人の詞章を歌い語り、厚木さんが羽衣を羽織って天人の舞を舞いましたが、女性合唱団「暁」による透徹なコーラスは天界を連想させる神秘性を湛え、最後は天人が天界へ帰って行く様子を表現したものでしょうかフルートによる深い余韻を湛えた演奏で終幕となりました。この作品は羽衣のプロットを追うのではなく、三保の松原の美しい情景や羽衣の神聖性、天人の清浄な美しさなどの情感を薫らせる印象派の絵画のような作品として堪能できました。中近世の歌を詠むための「感じる言葉」(情緒、言霊/情緒=変化するもの、言霊=雨+巫(女)=自然的な世界観)から近現代の事実を読むための「伝える言葉」(情報、言語/情報=変化しないもの、言語=五(行思想)+口=人工的な世界観)に変化したことで音楽が言葉に隷属してリズムや旋律との融合が希薄になる傾向が生まれたように感じます。この点、ポップスなどでは説明ではなく感情の断片(感じる言葉)をリズムや旋律に乗せて歌う作品が多い一方で、日本語オペラではプロットを重視して物語を伝えることに主眼を置いた言葉(クドい説明口調)が音楽から浮いてしまい違和を覚えるものが多く、世阿弥が創作した謡曲に通底する情緒に働き掛ける語感に主眼を置いた日本語オペラに圧倒的な共感を覚えます。科学表現ではなく芸術表現なので、近松門左衛門が虚実皮膜論で説いているように説明するのではなく感覚(うつり)させて欲しいと切望します。その意味で、オペラ「羽衣」は、世阿弥の詞章を活かし、しかも「どの役の言葉であっても、それが歌われる場合には、漁師役(舞台上の唯一の歌手)が歌う。同様に、語られる言葉は、漁師の台詞であれ天女の台詞であれ、語り手によって語られる。そして、天女役のダンサーは、決して声を発しない。」(パンフレット)という表現の抽象化により、言葉(説明)で紡がれる舞台ではなく音楽(感覚)によって顕在させる舞台になっていたように感じられ、それが深い共感を生む作品として成就されていたように感じられました。「言葉(意味)の力」ではなく「音(感覚)の力」で世界観を拓いて行く優れて音楽的な作品であると思います。
 
 
▼第8回藝◯座公演
【演題】第8回藝◯座公演
【演目】⻑唄「正札附根元草摺」
     <曾我五郎時致>花柳達真
     <⼩林妹舞鶴>花柳時寿京
     <監修>花柳輔太郎
    奏⾵楽「海と空」
     <⽴⽅>花柳京楓華、花柳此乃咲弥、花柳昂美胡、
         花柳與扇、藤間倭玖河、藤間京之助
     <振付>花柳輔瑞佳
    新作「オズの魔法使い」
     <ドロシー>吾妻君彌
     <オズ/叔父>藤間直三
     <カカシ>花柳梨道
     <ブリキ>花柳美匠治郎
     <ライオン>泉葵三照
     <トト>花柳桃毱
     <芥⼦の花>花柳真珠李、中村梅壽
     <⻄の魔⼥/叔母>花柳静久郎
     <作曲>東音南谷 舞
     <作調>藤舎呂風
     <演出・振付>花柳達真
     <振付>藤間直三
【演奏】⻑唄 今藤政貴、今藤政之祐、杵屋勝四郎
    三味線 杵屋栄八郎、杵屋五助、杵屋龍十郎
    囃⼦ 藤舎呂凰、望月正浩、望月太左幹
       藤舎呂近、藤舎英心、藤舎英佳
       福原百貴、迎田優香
【後見】五條珠太郎、花柳梨道
【協力】中村京妙
【大道具】歌舞伎座舞台(株)
【舞台監督】歌舞伎座舞台(株)
【狂言附打】歌舞伎座舞台(株)
【音響】三桝清次郎
【照明】松本永(eimatsumoto Co.Ltd.)
【衣装】松竹衣装(株)
【かつら・床山】(株)大澤
【小道具】田中小道具
【記録】舞ビデオ
【宣伝デザイン】小倉有加里
【主催・制作・企画】藝〇座
【日時】2025年9月6日(土)18:00~
【会場】2025伝承ホール寺子屋
【一言感想】
日本舞踊家集団「藝〇座」は2006年に東京藝術大学卒業生が「日本舞踊を幅広い世代に広げ、今までにないエンターテイメント性溢れる舞台を創る事」を目的として創設され、「藝〇座」という名前は「面白くて、美しくて、魅力いっぱいの日本舞踊。その事を幅広い年齢層に伝えたい!そして、お客様と私たちが一つの輪のようにまぁるくなりたい!」という理念を表しているそうです。1993年に五代目花柳芳次郎さん(現、四代目花柳壽輔さん)の働き掛けが実を結んで日本で初めて東京藝術大学に日本舞踊専攻が設けられたそうですが、1998年に「教育課程審議会答申」を受けて改訂された「中学校学習指導要領」で「和楽器については、3学年間を通じて1種類以上の楽器を用いること。」と記載されたことで日本の義務教育に和楽器の学習が追加され、これを契機にして和楽器ユニットなどの活躍が活発になり、現在の現代邦楽ブームの潮流を生み出したと言えると思いますが、その嚆矢として「藝〇座」を位置付けることができるのではないかと思います。1911年に夏目漱石が東京朝日新聞に掲載した「現代日本の開化」において「皮相上滑りの文明開化」と揶揄して日本の伝統文化を軽視する傾向を嘆息しましたが、それから100年の歳月(失われた100年)を経て日本の伝統文化が見直されるようになったと言えるかもしれません。さて、本日の公演の全体的な印象として、前口上で各演目の見所を紹介するなど分かり易さに配慮されていましたが、単に分かり易さだけを追求しているだけではなく、伝統に根差しながら日本舞踊が持っている美しさや面白さを現代的にアップデートしようとする攻めの姿勢が随所に感じられ、日本舞踊の新しい魅力が伝わってくる意欲的で充実した公演だったと思いますので、以下に簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
◎⻑唄「正札附根元草摺」
舞台セットには、桓武平氏千葉氏流・曽我氏の発祥地である相模国曽我荘(現、神奈川県小田原市)の曽我梅林を象徴する紅白梅の作り物と曽我兄弟の仇討ちの舞台である富士野を象徴する富士山の絵があしらわれていました。曽我兄弟と工藤祐経の仲裁に心を砕く朝比奈三郎の妹・舞鶴は仇討ちに向かおうと熱り立つ曽我五郎を引き留めようとして苦心する物語ですが、赤い隈取で登場した花柳達真さんが曽我五郎の一本気な性格を荒々しい舞(男性的な楷書体)で表現していたのに対し、花柳時寿京さんは舞鶴の色香漂う手弱女振りを優美な舞(女性的な草書体)で表現していたかと思うと、色仕掛けが通用しない曽我五郎に一歩も譲らない芯の強さを荒々しい舞(男性的な楷書体)で表現したりと(花道での力比べの迫力は鳥肌もの)、長唄三味線と一体となりながら機転を利かせて臨機応変に対応する様子に、曽我五郎の義心と舞鶴の情心の緊迫した駆け引きが織り成す心の綾が舞にうつる密度の濃い舞台を堪能できました。
 
◎奏⾵楽「海と空」
詩人・青木以佐夫さんの詩を題材にして松原奏風さんが「奏楽風」という新しいジャンルの邦楽作品として作曲されたものだそうですが、人間同士の争いを海と空の争いに仮託して、果てることのない争いの末に疲れ果てた海と空は争うことを止めて調和するという世界平和の希求をテーマにした作品になっていました。青い着物を着た6人の女性が金色の扇を使った群舞で3人が海(波)、3人が空(風)を演じていましたが、三味線や打楽器の快活な演奏にリードされて押しつ押されつ激しく争い合う様子がダイナミックでありながら洗練されたキレのある力強い群舞で表現されていました。波と風をモチーフにした群舞のバリエーションが豊富で、ビジュアルアートや照明なども効果的に使いながら多彩で緊迫感のある舞台を楽しむことができました。最後は争いに疲れた海と空が相互に拮抗するエッジの効いた舞から相互に調和する嫋やかな舞に転じて舞収められ、世界平和を込めた大団円になる鮮やかな舞台に魅せられました。
 
◎新作「オズの魔法使い」
童話「オズの魔法使い」を能楽の表現様式を模倣した松羽目物という古典的なスタイルを借りて現代的な演出を採り入れた舞踊幻想譚に翻案した作品で、ミュージカル風のポップな舞台になっていた一方で、日本舞踊の「型」が持つ魅力も随所で感じることができる伝統と革新が融合した舞台になっていました。このようなアップデートを守破離というのだろうと感じ入りながら鑑賞しました。冒頭、間狂言が登場して物語設定を説明した後、カンザス州に住む娘ドロシー(派手なカンザシはカンザスにかけた駄洒落?)は叔父と叔母から誕生日祝いとして錦のお守りを授かりましたが、竜巻に巻かれて娘ドロシーと愛犬トトだけがオズの国に吹き飛ばされ、コンプレックスを抱えたカカシ、ブリキ、ライオンと出会いますが、錦のお守り(叔父と叔母の愛のメタファー)の力を借りて魔女の悪巧みを撃退しながらそれぞれのコンプレックスを克服して成長して行くという自分探しをテーマにした物語になっていました。先日、三谷幸喜さんが「この世の中にある物語の9割は自分探しをテーマにしたものだ」と語られていたのを思い出しましたが、いずれの登場人物も人間味溢れるユーモラスなキャラクター設定で、軽妙な音楽と共にテンポよく運ぶ滑稽劇といった風情の舞台に魅了されました。今回の3演目に共通して感じられましたが、日本舞踊の「型」から生まれる心地良いリズムや間合い、集団的無意識に働き掛けてくるような表現の説得力、繊細な情感表出などが相乗して、舞の微かなニュアンスにも心がうつるような感覚(上述の拡張自己)を覚える雄弁な舞台を楽しめました。舞台中盤の芥子の花(赤い衣装)による金色の扇を使った雅やかな舞が美観際立つもので、これに娘ドロシー(白い衣装と銀色のカンザシ)が加わって大きな見せ場になっていました。魔女と娘ドロシー達の対決では能の急之舞の囃子が舞台をドラマチックに彩るなどエンターテイメント性の高い作品を楽しめました。伝統芸能といってしまうと敷居の高さを感じますが、歌舞伎踊が持つ庶民の芸能としての親しみ易い魅力が感じられる作品でした。会場には小さい子供の姿も見られましたが、最後まで舞台に魅入っている様子でしたので、若年層が日本舞踊の魅力に触れる導入としても優れた作品のように感じられました。
 
 
▼バッハトラック「クラシック音楽統計2024」
イギリスのオンライン音楽雑誌「バッハトラック」が「クラシック音楽統計2024」を公表しています。今回は例年の傾向と比べて顕著な特徴がないのであまり話題になっていませんが、現代音楽の演奏回数は依然として漸増傾向の基調にありますので、景気付けに、その概要をご紹介しておきます。これによれば、昨年についても「女性指揮者・作曲家の登場機会の増加や、存命の作曲家の音楽作品の上演頻度の全体的な増加」が見られ、近年の特徴的な傾向が続いていると結論付けられています。アメリカ人作曲家のキャロライン・ショウさんやスウェーデン人作曲家のリサ・シュトライヒさんなどの作品の演奏回数の増加が顕著である一方で、一昨年に他界した世界的に抜群の人気を誇るフィンランド人作曲家のカイヤ・サーリアホさんの作品の演奏回数が存命作曲家の統計データからは除外されている点や、現代音楽が演奏される機会が多い小規模な会場及び現代音楽フェスティバルなどの統計データが含まれていない点などを踏まえると、上述のトレンドには統計データに現れていない底堅さのようなものがあり、引き続き、今年も世界的に著名な「存命作曲家」やメタ・モダンが薫る「若手」が新しいムーブメントの重要な鍵を握ることになるのではないかと期待されます。この点、世界と比較して保守的な傾向が強い日本の演奏会の状況を見ても、①演奏会のレパートリーの多様化と②存命作曲家の作品の演奏回数の増加が顕著に感じられるようになり、音楽学者の岡田暁生さんが某雑誌の対談記事で「クラシック音楽の賞味期限切れ」について言及されたいた状況も踏まえると、他の分野と同様にクラシック音楽界にもシビアに「革新」が求められていると思います。この点、歴史が示すとおり「伝統なき革新」(夏目漱石曰く「皮相上滑り」)は「混乱」や「空虚」しか生まず「木に竹を接ぐ」ようなものであり、「革新なき承継」(夏目漱石曰く「握りキンタマ」)は「停滞」や「頽廃」しか生まず「流水は腐らず、戸枢蝕まず」に学ぶべきであると言え、「変わらないために変わり続ける」というトレンドは心から歓迎したい潮流だと思います。
Bachtrack

サマー・リサイタル2025「スザンナの秘密」/「ルクレツィア」(新国立劇場オペラストゥディオ・オペラ研修所)と新作オペラ「ナターシャ」(脚本:多和田葉子、作曲:細川俊夫)と三谷文楽「人形ぎらい」と「この世界のムラを再定義する」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼「この世界のムラを再定義する」(ブログの枕)
前四回のブログ記事では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」、「行動遺伝学」、「行動経済学」についてごく簡単に触れましたが、今回は、この世界の「ムラ」を再定義するという視点から、脳の多様性(ニューロ・ダイバーシティ)についてごく簡単に触れてみたいと思います。今回の参議院選挙では外国人政策が主要な争点の1つになり、トランプ2.0の反DEI政策などとも相俟ってエモーショナルな論調が目立っていた印象を受けますが、これらを一様に排外主義的な傾向と決め付けるのは乱暴であるとしても、例えば、オーバーツーリズムの問題について外国人旅行者を「受け入れる側」の準備不足に起因する問題も外国人旅行者の問題にスリ替えて語ろうとするプリミティブな反応などを見ると、些か問題の本質を取り違えて気分に流され易い傾向があるように感じられ、流言飛語に踊らされることなく冷静に問題を整理して木目細かい議論が必要ではないかと感じます。過去のブログ記事でも触れたとおり、人間は富の獲得と分配を効率化するためのインフラとして「集団」を形成し、その脅威となる他の集団から自らの「集団」を守ることで自らの生存可能性を高めるという生存戦略をとってきましたが、例えば、アリは自らの「集団」の内外の判断基準として「匂い」という直感的な識別子を用いるのに対し、人間は「アイデンティティ」という非直感的な識別子を用いることで、より効率的な富の獲得と分配を可能にする大規模な集団を形成できるようになった一方で、アイデンティティという拡張性(流動性)のある識別子を用いることで自らの「集団」の内外の判別が曖昧(相対的な関係性)になり争いを生じ易くなる傾向が生まれ、上述のような諸問題も(グローバリズムや労働力不足などを背景として)アイデンティティの再定義が必要になったことに伴うストレスと捉えることができるかもしれません。昔から日本はイングループ・バイアス(集団のアイデンティティに馴染む同質的な人を好み、集団のアイデンティティに馴染まない異質な人を疎んじる傾向)が強く、それが最近の日本凋落の原因の1つ(脳科学者・中野信子さん曰く「日本は優秀な愚か者の国」)として指摘されていますが、その再定義には社会的な議論の成熟を待つ必要がありそうです。この点、これまでのように「コミュニケーションを重ねれば分かり合える」(即ち、認知バイアスを強化すればお互いの違いを同質化できる)という旧来型の短絡的な発想に飛び付くことは危険で(脳科学者・茂木健一郎さん曰く「分かり合えるという思い込みを止めること」)、お互いの違いを大らかに許容することができる幅広い教養を培うことが重要であり、その素養を培うために芸術に期待される役割は益々大きくなっているように感じます。
 
▼アイデンティティの拡張性(流動性)とマイノリティの位置付け
近現代以降のマイノリティの歴史を紐解くと、1948年に国連総会で世界人権宣言が採択され、1950年代からアメリカの公民権運動が活発になったことなどを契機としてマイノリティに対する人権意識が高まりました。その後、1992年に国連総会でマイノリティ権利宣言が採択されたことによりアメリカのような多様性を前提とする統合型社会の理念(多文化主義)が広く支持され、国連に少数者問題に関するフォーラムが設置されてマイノリティ権利宣言の具体的な実践を促すための様々な取り組みが継続されています。アイデンティティの拡張性(流動性)という意味では米国(多文化主義)>仏国(普遍主義)>日本(血統主義)ということになりそうですが、後述するとおりトランプ2.0の反DEI政策ではアイデンティティの拡張性(流動性)の揺り戻しが企図されています。
社会 マイノリティ 傾向
米国 出生地
主義
多文化
主義
統合型 多様性
多様な移民
区別容認
権利保障
差別が表面化
仏国 普遍
主義
同化型 普遍性
一様な国民
区別否認
平等主義
差別が潜在化
日本 血統主義 同質型 同質性
同質な国民
区別不存
ネグレクト
排外主義的傾向
尊王攘夷
※1 米国はトランプ大統領令により出生地主義を不法移民などには認めないと制限
※2 仏国は米国のような完全な出生地主義ではなく一部に日本のような血統主義も採用
※3 独国は歴史的な経緯から米国(多文化主義)と仏国(普遍主義)の中間的な位置付け
※4 再掲表:建国の理念とマイノリティーの位置付け
社会 区別に肯定的 区別に否定的
包摂的
inclusion
米国
多文化主義
仏国
普遍主義
排除的
exclusion
日本
排外主義的
南ア
アパルトヘイト時代
 
上述のとおり今回の参議院選挙で主要な争点の1つになった外国人政策とトランプ2.0の反DEI政策は、一見、ポピュリズムの台頭に位置付けられる同じような社会現象に見えますが、その社会的・文化的な背景には大きな違いがあるように思われます。この点、アメリカは多様な出自や宗教を持つ移民が契約により合衆(integration)し、出自や宗教などの属性によりマジョリティの権威を認めつつマイノリティの人権も尊重する統合型社会(多様性=属性を前提とするのでマイノリティに対する差別が表面化し易い社会)であるのに対し、フランスはフランス革命を契機にして国民が普遍的な価値観のもとに共和(assimilation)し、出自や宗教などの属性によりマジョリティやマイノリティを区別することなく全ての国民は平等であるとする同化型社会(普遍性=本質のみを前提として多様性=属性を重視しないのでマイノリティに対する差別が表面化し難い社会)という建国理念の差異があるように思われます。そのため、従来、アメリカではマイノリティに対する保護政策はマイノリティの人権保障の一環と捉えられてきた一方で、フランスでは全ての国民は平等であるという普遍的な価値観に反する差別的な優遇と捉える傾向がありました。今回のトランプ2.0の反DEI政策はアファーマティブ・アクションやポリティカル・コレクトネスのラディカルな推進によりマジョリティの権威が不当に侵害されている社会的な状況(例えば、キリスト教以外の宗教的マイノリティに配慮して「メリー・クリスマス」を「ハッピー・ホリデーズ」に言い換えるなど、ノイジー・マイノリティがサイレント・マジョリティを抑圧する風潮など)を逆差別と捉えたことに伴う揺り戻しと言えるかもしれません。これに対し、日本では、国民が出自や宗教などの属性をほぼ同一としていたことなどを背景として調和(conformity)し、昔からアイヌ民族などのマイノリティは存在していたものの、マイノリティを強く意識する必要がない同質型社会(同質性を前提とするのでマイノリティという概念が希薄な社会)であり、歴史上、マイノリティを包摂してきた経験に乏しいことなどが影響して排外主義的な傾向に陥りやすいと言われています。このようにマイノリティの問題は主に社会的少数者である人種の問題として捉えられてきましたが、最近では社会的少数者であることから生きづらさを抱えている人(人種に限らず、性別、年齢、病気、障害、左利き、妊婦、ひとり親家族なども対象)の問題として捉え直し、全ての人が能力を高めて社会的、経済的、政治的に取り残されないようにするための取組みとして概念拡張されています。この点、ニューロ・ダイバーシティでは、従来であれば発達障害と捉えられてきたものを、脳科学の発達を背景として脳や神経の多様性(能力)として捉え直し、社会から排除するのではなく合理的な配慮のもとに社会に包摂する考え方です。人類が最初に個々人の脳の働きに違いがあることに気付いたのは紀元前1600年頃(古代エジプト人)と言われていますが、その後、他人の脳の働きと顕著な違いを持つ人を悪魔(魔女)と見做していた暗黒時代を経て、1998年にオーストラリア人社会学者のジュディ・シンガーがニューロ・ダイバーシティという言葉を使ってパラダイムシフトを仕掛けました。従来は自閉スペクトラム症(ASD)、注意欠如多動症(ADHD)、限局性学習症(SLD)、チック症、吃音などは発達障害と認識されていましたが、例えば、自閉スペクトラム症(ASD)はシリコン(バレー)症候群とも言われるとおり自閉症を持つ人が高度な繊細さ、強力な論理的・分析的思考、綿密な検査能力などの能力特性を備えてシリコンバレーで優秀なプログラマーとして活躍している事例に象徴されるように科学技術分野で卓越した業績を挙げる人が多いことが分かっており、また、V.ゴッホやP.ピカソなどは注意欠如多動症(ADHD)の傾向があり、さらに、L.ダヴィンチ、T.エジソン、A.アインシュタインやS.ジョブズなどは限局性学習症(SLD)の傾向があることが指摘されており、これらの脳や神経の多様性(最近では民族や文化の多様性を含む)は他者に劣った弱みとして作用する可能性ばかりではなく他者に優れた強みとしても作用する可能性が認識されており、その強みを社会的に活かすための取組みとしてストレングス・モデルが注目を集めています。合理的な配慮(平等から公平へ嵩上げするための配慮←トランプ2.0の反DEI政策ではアファーマティブ・アクションを廃止)を必要としないまでも、誰しも脳の多様性(ムラ)を備え、それに応じた弱みと強みを持っていますが、その強みを社会的に活かすためには自分はどのようなマイノリティの特性(脳の多様性)を持つのかを自己研究しておくことが必要かもしれません(以下の囲み記事を参照)。日本はジェンダーギャップ指数(世界経済フォーラム(WEF)が公表している2025年版「Global Gender Gap Report」)で世界148ケ国中118位とG7最下位であり、同じ文化圏にある韓国(101位)や中国(103位)の後塵を拝する結果になっていますが、日本でもダイバーシティ経営の推進を積極的に取り組みつつあります。この点、今回の参議院選挙で女性の社会進出が少子化問題の原因の1つになっているような印象を与える発言を行ってマスコミからバッシングされている政治家がいましたが、過去のブログ記事でも触れたとおり、欧米では法律上の婚姻関係になくても内縁関係があれば税金、相続や社会保障などを受けられるように法律を改正したことで婚外子が増加して出生率が改善したという報告がありますので、単純に女性の社会進出が少子化問題の原因であるかのように捉えるのは昭和ノスタルジーに彩られたエモーショナルな議論(ふてほど)であり、少子化問題の原因を矮小化し、その本質を取り違えていると言えるかもしれません。個人的には、何かを犠牲にしなければ子供を持てない状況を改善するために知恵を尽くしたいです。
 
▼ニューロ・ダイバーシティの思想的な拡張性
ニューロ・ダイバーシティの思想は、マジョリティの視点(絶対主義的な価値観、マクロな世界観)から「違い」を「正常/異常」として捉えるのではなく、マイノリティの視点(相対主義的な価値観、ミクロな世界観)から「違い」を「多様性」として捉える点に特徴的な違いがあります。前者が父性的な原理であるとすれば、後者は母性的な原理と言えるかもしれませんが、右派又は左派という二元論的な議論に終始することなく、この世界の「ムラ」をどのように捉えてどのように再定義していくのかという複眼的な視点を持って議論する必要がある問題ではないかと思います。個人的には、(還元主義的に過ぎるとの批判を受けるかもしれませんが)この世界の「ムラ」の殆どが詰まるところ電子の結合パターンに過ぎないとすれば、それに認知バイアスを手掛りとした価値序列を設けて人工的な線を引き、その一部を劣位に扱おうとするセンティメンタリズムには何ら説得力や共感を覚えません。
世界の捉え方 ニューロ・ダイバーシティ 思想性
視点 世界観 違い 対象 多様性
マジョリティ 絶対的
マクロ
正常
異常

(排外主義的)
古典的
パターナル
マイノリティ 相対的
ミクロ
多様性 原義
神経
認知 現代的
リベラル
拡張 民族
文化
認知型
価値観
前回のブログ記事で、マクロな世界はムラの演出が比較的に単純、ミクロな世界はムラの演出は複雑になる傾向がある旨を述べましたが、ニューロ・ダイバーシティ―でも同じような傾向を持つと捉えることができるかもしれません。
 
▼夏休みの自由研究:あなたのマイノリティ・レポート
誰しも脳の多様性(ムラ)を備えており、それに応じた弱みと強みを持っていますが、その強みを社会的に活かして行くためには、自分はどのようなマイノリティにカテゴライズされるのかを自己研究しておくことも大切かもしれません。。
マイノリティの特性(脳の多様性)
弱み 強み
ものの管理が苦手である 臨機応変な対応ができる
落ち着きがなくじっとしていられない 行動力・好奇心が旺盛である
計画が立てられない 柔軟に対応する行動力がある
勘違いしやすい 先入観がなく独自の視点を持てる
不器用でスルーできない 細部への注意力が高く丁寧に対応できる
変化が苦手である 一貫性と安定感を持ち慎重に取り組める
パニックになりやすい 感受性豊かで他人の気持ちに敏感である
ネガティブなことばかり考えてしまう リスク管理や問題点の察知に長けている
空気が読めない 周囲に流されず自分の考えを貫ける
なかなか調子がでない 深い洞察や思索ができる
感覚が人と違う 独特な感性や美意識、創造性を持つ
体のコントロールが苦手である 頭の中でのイメージ力や空想力が高い
疲れやすい 自分の限界に敏感で自己管理できる
スムーズに言葉が出ない 言葉以外の表現に長けている
読み書きが苦手である 直感的・視覚的に理解する力が強い
 
▼サマー・リサイタル2025「スザンナの秘密」/「ルクレツィア」
【演題】新国立劇場オペラストゥディオ・オペラ研修所
    サマー・リサイタル2025「スザンナの秘密」/「ルクレツィア」
【演目】E.ヴォルフ=フェラーリ オペラ「スザンナの秘密」(1909年)
    O.レスピーギ オペラ「ルクレツィア」(1935年)
【出演】オペラ「スザンナの秘密」(ピアノリダクション版/原語上演)
     <伯爵ジル>小野田佳祐(Bar/第27期)
     <伯爵夫人スザンナ>渡邊美沙季(Sop/第26期)
     <サンテ(黙役)>宇井晴雄(俳優/演劇研修所賛助)
    オペラ「ルクレツィア」(ピアノリダクション版/原語上演)
     <声>後藤真菜美(Mez/第26期)
     <ルクレツィア>有吉琴美(Sop/第27期)
     <セルヴィア>吉原未来(Mez/第28期)
     <ヴェニリア>島袋萌香(Sop/第27期)
     <コッラティーノ>矢澤遼(Ten/第27期)
     <ブルート>長倉駿(Ten/第28期)
     <セスト・タルクィーニオ>青山貴(Bar/第4期賛助)
     <ティート>上田駆(Bar/第28期)
     <アルンテ>田中潤(Bar/第28期)
     <スプリオ・ルクレツィオ>中尾奎五(Bar/第26期)
     <ヴァレリオ>小野田佳祐(Bar/第27期)
【演出】粟國淳、(助手)上原真希
【指揮】松村優吾
【ピアノ】岩渕慶子、髙田絢子
【照明】黒柳浩之
【音響】横山友美
【衣裳コーディネーター】加藤寿子
【舞台監督】野本広揮、(助手)渡邊真二郎、佐々木まゆり、森川美里
【ヴァ―カルテクニカルコーチ】浜田理恵
【音楽スタッフ】石野真穂、小埜寺美樹、瀧田亮子、木下志寿子
        谷池重紬子、原田園美、星和代
【ディクション指導】エルマンノ・アリエンティ
【オペラ研修所長】佐藤正浩
【制作】新国立劇場
【日時】2025年7月27日(日)14:00~
【会場】新国立劇場 中劇場
【一言感想】
ヴラヴィー!今日は新国立劇場オペラ研修所が毎年夏に開催しているサマー・リサイタル2025で20世紀に創作されたオペラ2作品が採り上げられるというので聴きに行ってきましたが、歌、器楽、演出(照明などを含む)がバランスよく融合し、それぞれの作品の世界観を体現する総合芸術の醍醐味を感じさせる充実した舞台を楽しめましたので(世辞抜き)、以下にそれぞれの作品について簡単に感想を残しておきたいと思います。これだけ上質な舞台を僅か3,850円で鑑賞できてしまう「高コスパ」に加え、1作品60分以内というリーズナブルな上演時間(個人的には、人間の集中力はウルトラディアンリズム(レム睡眠などに代表される約90分の周期で繰り返される体内リズム)に規律されており、どのような舞台や映画などでも1作品90分以内に収めるのが望ましいという持論を持っています)に収まる「高タイパ」な公演に好感しました。近年、若者のオペラ離れが懸念されていますが、このパッケージの公演なら現代の若者にも受け入れ易く、かつ、満足感も高いのではないかと思います。因みに、新国立劇場オペラ研修所は1998年に世界に通用するプロのオペラ歌手を養成する研修機関として開設され、高倍率の選抜試験を潜り抜けた将来を嘱望される有能な14名の研修生が国内外の一流講師陣による発声法、歌唱法や演技法の実技、外国語の授業、ANAスカラシップによる海外研修などの実践的なカリキュラムを通してオペラ歌手として必要不可欠な素養を習得し、その成果を実践する機会としてサマーリサイタル(ピアノリダクション版の公演)、リサイタル(オムニバス形式の公演)、春公演(フルオーケストラ版の公演)が開催されています。
 
①オペラ「スザンナの秘密」
中劇場の回り舞台を居間(社交)と寝室(秘密)に2分割し、居間(社交)で繰り広げられる嘘と寝室(秘密)で繰り広げられる真の狭間で揺れ動く夫婦関係の機微が軽妙洒脱に描かれていました。前半は緊張していたのかやや歌や演技に固さのようなものが感じられましたが、後半になるにつれて歌に感情が乗り演技も洗練されていったように感じられました。バリトンの小野田佳祐さんが演じる伯爵ジルとメゾ・ソプラノの渡邊美沙季さんが演じる伯爵夫人スザンナによる、嘘で疑心暗鬼に陥るぎこちない二重唱と真に触れて疑心暗鬼が晴れる素直な二重唱の対比が面白く感じられ、歌、器楽、演出が呼吸感良く融合する生き生きとした舞台が展開されました。舞台セットの背景色を黒基調にすることで客席後方からもタバコの煙(夫婦関係のメタファー)を視認し易い工夫が施されており、嘘で煙に巻く関係から真に触れて煙(水)に流す関係へと一転する夫婦の機微(滑稽さ)が分かり易く描写される面白い舞台に感じられました。なお、本日の公演は教育的な配慮や運営的な制約などの止むを得ない事情からピアノリダクション版の公演になっているものと了見したうえで、あくまでも個人的な嗜好の問題として、作曲家が予定していない響き(使用言語や楽器編成などを変更したもの)による公演は違和(さながらオイスターソースの代わりに醤油で間に合わせてしまう不誠実さ)を禁じ得ませんが、本日の公演に限って言えば、松村優吾さんの歌心のある指揮と岩淵慶子さんと高田絢子さんのニュアンス豊かなピアノ連弾伴奏によりピアノリダクション版のビハインドを殆ど感じさせない好演を楽しむことができ、却って、ピアノ連弾伴奏の活舌の良さにより楽曲の構造がすっきりと浮き立って、その音楽的な魅力を際立たせる効果を生んでいたように感じられました。ヴラヴィー!
 
②オペラ「ルクレツィア」
第一場では、セスト・タルクィーニオを演じるバリトンの青山貴さんが圧倒的な存在感を示す重厚な歌唱が白眉で、タルクィーニオの野心を大きな影で表現する照明演出も出色でした。これに続いて、軍人を演じる男性歌手陣が妻の貞節について勇ましく歌い合う吸引力のある歌唱に魅了されましたが、冒頭から3,850円では不当廉売ではないかと思わせる上質な舞台を楽しめました。ギリシャ悲劇のコロスよろしく物語を俯瞰しながら観客に語り掛けてくるレチタティーヴォ的な役回りとしてメゾソプラノの後藤真菜美さんが声を担当し、さながら劇中劇のようなドラマチックな歌唱、朗唱で観客をグイグイと物語世界に引っ張り込む表現力が舞台を引き締めていましたが、声がオケピで物語を俯瞰しながらその場面を回想するように透過スクリーン越しに歌手陣が演技する演出は舞台を弛緩させない気の利いたもの(最近で言えば、歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」などでも効果的に使用されていた人気の演出法)で、今回の2回公演のみでは勿体ない完成度の高い舞台になっていました。第二場では、ルクレツィアを演じるソプラノの有吉琴美さんと侍女を演じる女性歌手陣が他愛のない日常を歌い合うところに、タルクィーニオがルクレツィアを手中にしようと訪れますが、タルクィーニオの威厳を体現する青山さんとクレツィアの気品を体現する有吉さん(ソプラノ・ドラマティコ?)が圧倒的な歌唱で拮抗し、これに呼吸感良く松村さん、岩淵さん、高田さんによる音楽及び後藤さんの声が劇に彩りを添えながら密度の濃い舞台が展開されました。それにしても青山さんを相手にして一歩も引けを取らない有吉さんの圧倒的な歌唱力には舌を巻きましたが、スター歌手の資質を持つ今後の活躍が楽しみな逸材です。タルクィーニオに強姦されたルクレツィアの顔を照らす照明がルクレツィアの絶望の深さを物語る演出効果が出色で、非常に充足感の高い舞台を楽しめました。ヴラヴィー!第三場では、松村さんの歌心ある指揮、岩淵さん、高田さんの繊細なピアノ伴奏による好サポートを得て、有吉さんが夫への愛のうちに自決を選ぶルクレツィアの絶望の深さと気高さを好演し、軍人を演じる男性歌手陣がルクレツィアの復讐を誓う緊迫感のある歌唱で劇的な終幕になりました。ヴラヴィー!研修カリキュラムの都合上、再演は難しいのかもしれませんが、この2回公演だけで終えてしまうのは非常に勿体ない完成度の高い舞台だと思われるので、オペラファンを増やす意味でアーカイブ配信などをご検討頂けると嬉しいです。これほどクオリティーの高い舞台を楽しめるのであれば、(20世紀以降に創作された作品が採り上げられるのであれば)来年も観に来たいと思っています。
 
 
▼新作オペラ「ナターシャ」
【演題】日本人作曲家委嘱作品シリーズ第3弾
    オペラ「ナターシャ」(世界初演)
【作曲】細川俊夫
【台本】多和田葉子
【演出】クリスティアン・レート
【振付】キャサリン・ガラッソ
【出演】<ナターシャ>イルゼ・エーレンス(Sop)
    <アラト>山下裕賀(Mez)
    <メフィストの孫>クリスティアン・ミードル(Bar)
    <ポップ歌手A>森谷真理(Sop)
    <ポップ歌手B>冨平安希子(Sop)
    <ビジネスマンA>タン・ジュンボ(Bass)
    <ビジネスマンB>ティモシー・ハリス(俳優)
【演奏】<Cond>大野和士
    <Orch>東京フィルハーモニー交響楽団
    <Chor>新国立劇場合唱団
    <Sax>大石将紀
    <Egt>山田岳
    <Elc>有馬純寿
【ダンス】山中芽衣、浅沼圭、上田舞香、星野梓
     天野朝陽、石井丈雄、郡司瑞輝、森井淳
     中島小雪、亀井惟志、浜野基彦、松田祐司
【美術】クリスティアン・レート、ダニエル・ウンガー
【衣裳】マッティ・ウルリッチ
【照明】リック・フィッシャー
【映像】クレメンス・ヴァルター
【合唱指揮】冨平恭平
【音楽ヘッドコーチ】城谷正博
【舞台監督】髙橋尚史
【日時】2025年8月11日(月・祝)14:00~
【会場】新国立劇場 大劇場
【一言感想】ネタバレ注意!
ヴラヴィー!!今日は、新国立劇場で音楽史の金字塔の1つになるであろう作曲:細川俊夫さん、台本:多和田葉子さんによる新作オペラ「ナターシャ」の世界初演を鑑賞してきましたので、その歴史の生き証人の1人として(他日公演がありますので、あまりネタバレしない範囲で)ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。音楽(音響)、言葉(音声)及び演出が一体になって、生と死を抱く母なる海(+月)に現代の時代性を「鏡映」して深淵な世界観を描き出す傑作で、その中に織り込まれている数々の問い掛けが時に波濤になって激しく打ち寄せ、時に小波になって静かに語り掛けてくるような大きな作品に感じられました。果たして、人類は、未だ母なる海に愛されているのでしょうか。なお、お恥ずかしながら夏休みは軍資金が心許なくなる季節であり、本日は貧民席(天井桟敷)での鑑賞になりましたが、後述の囲み記事でも触れたライブ・エレクトロニクスやビジュアル・アートの演出効果は低層階席の方が感得し易いのではないかと思われますので、(当日券の有無は会場にご確認頂きたいのですが)他日公演を鑑賞される予定の方は低層階席を奮発されることをお勧めしておきます。また、パンフレットには西南学院教授の柿木伸之さんが過去の細川さんの作品群と絡めながらオペラ「ナターシャ」の解説を掲載されていますが、これがオペラ「ナターシャ」の地獄のすり鉢構造の中に過去の細川さんの作品群を紐付て深堀りして行くような秀逸な内容になっており(柿木さんにもヴラヴォー!)、オペラ「ナターシャ」の鑑賞を深める意味で、開演前に、その部分だけでもご一読されておくことをお勧めしておきます。(以下、ネタバレ注意!)
 
〇序章(第一部「海」、第二部「デュエット」)
旧約聖書創世記(第1章第2節及び第3節)の「始原の海」をイメージして作曲されたそうですが、これを現代的に捉え直せば、「始原の海」とは、①宇宙の構造が形成された後、②生命の誕生がアレンジされた場所(熱エネルギー「地球」+有機物スープ「海」)であり、③生物の繁栄がコーディネイトされた仕掛(大気と海の揺籃「月」+生物の多様性「有性生殖」)であると解することができるかもしれません。これらのイメージを作品にプロジェクションしながら鑑賞しましたが、本日のプロダクションでは生物を育んだ「海」と「月」をキー・アイコンにしてビジュアル・アートとサウンド・アートを効果的に組み合わせた示唆に富む舞台になっていました。開幕すると、舞台上には複数の人々が横たわり、それらの人々を覆い包むように透過スクリーンに波のビジュアル・アートが映し出され、その海面に鏡映された月が波に洗われて揺らいでいましたが、生と死を抱く「海」を象徴する幻想美に彩られた舞台に魅了されました。会場全体を取り囲むように設置された24chのスピーカーから波が揺らぐサウンド・アートと共に、人々の息の音(人間は息を吐いて生まれ、息を吸って死ぬと言われますが、息を吐く呼気は生のメタファー、息を引き取る吸気は死のメタファーであり、この一息生死の刹那を紡ぎながら親から子、子から孫へと絶えることなく受け継がれて行く生命の営みを象徴するもの)が幾重にも重ねられましたが、「月」の引力の影響を受けて生まれる波により地球の自転速度にブレーキがかけられたことで生物の繁栄を可能にする穏やかな地球環境が生まれたと考えられており、その波のリズム(凡そ4~6秒の往復)は人間の心拍のリズムと一致し、これは呼吸のリズムとも連動しており、その呼吸のリズムから音楽や言葉が生まれたと言われていますので、その意味では「海」と「月」は音楽や言葉の母とも言え、始原の海が体現する「母性」がビジュアル・アートで「海」と「月」、サウンド・アートで「波」と「息」により重層的に表現され、音楽(音響)、言葉(音声)及び演出が有機的に絡み合いながら深淵な世界観を描き出す総合芸術の醍醐味が感じられる充実した舞台が出色でした。第一部の非楽音(ノイズ)を使ったサウンド・アートが表象する混沌とした世界(自然)と第二部の楽音を使った音楽が表象する秩序のある世界(人工)が対置され、弦のグリッサンドなどにより生み出される音程や音量のグラデーションが「音のトンネル」として秩序(ムラ)のある世界が生まれる様子を巧みに表現していましたが、この秩序(ムラ)のある世界(人工)が混沌とした世界(自然)を侵食しながら七つの地獄(現世地獄)も生んだ緊張関係にあると言えるかもしれません。第二部ではメゾ・ソプラノの山下裕賀さんが演じるアラト(津波で母を亡くした日本人男性)が母なる「海」への呼び掛けを日本語で歌い、ソプラノのイルゼ・エーレンスさんが演じるナターシャ(災厄で祖国を破壊されたウクライナ系ドイツ人女性)が母なる「海」と交信するシャーマニックな歌をウクライナ語とドイツ語で歌いましたが、この場面で吹かれるフルートの甲高い音は能管のヒシギよろしく「息」から立ち上がる神降しの音を体現しているようであり、息から音楽(魂振りの楽)が生まれる様子を連想させる印象的なピースになっていました。また、アラトとナターシャがいる「海辺」は生と死を抱く「海」と接して此岸と彼岸を境界する場所を象徴しており、能「二人静」の前シテの采女(此岸)と後シテの静御前(彼岸)の相舞やオペラ「二人静」のソプラノの少女ヘレン(此岸)と能楽師の静御前(彼岸)の二重唱よろしく生と死が鏡映関係で重なり合う世界(さながら量子力学の重ね合わせ)を体現しているようにも感じられました。そこにバリトンのクリスティアン・レートさんが演じるメフィストの孫がドクターウェアを着用して登場し(何故、病院という設定なのかについて演出家のクリスティアン・レートさんは敢えて明確な回答を避けられているようでしたが(後述)、個人的には、病院は「海辺」と同じく此岸と彼岸を境界する場所であり、人間の健康被害は自然環境の破壊を映す鏡でもあるためではないかと考えます。)、新型コロナウィルスでお馴染みの防護服(此岸と彼岸を隔てるバリア)を着用した病院スタッフがアラトとナターシャを七つの地獄(現世地獄)を巡る心の旅へと連れ出しました。
 
〇七つの地獄巡り
アラトとナターシャはメフィストの孫に誘われ、神学が規律する「人間の本能」に由来する七つの大罪(色欲、暴食、強欲、憤怒、怠惰、嫉妬、傲慢)と、これにダンテが神曲で追加した「人間の理性」に由来する四つの大罪(異端(現代的に捉え直すと反社)、暴力、詐欺、裏切り)が招来した七つの地獄(現世地獄)を巡る心の旅が始まりました。
 
▽第一場「森林地獄」
打楽器が奏でる空虚五度の荒涼とした響きが支配するなか、枯れ木を携えたコーラス隊が「木のない森」を歌いながら登場しましたが、さながら森のレクイエムと言った厳粛な雰囲気を湛える吸引力のある舞台に惹き込まれました。森林の慟哭でしょうか、オーケストラが大きなうねりを伴う緊迫した音楽を奏でるなか、枯れ木が立ち並ぶ異様さがビジュアル・アートにより印象的に描き出されていました。その後、枯れ木に水滴が落ちるビジュアル・アートが映し出され、再び、波のサウンド・アートが流されましたが、森林が力強く再生して行く生命力のようなものが表現されているようで未来への一縷(滴)の望みが予兆されているように感じられましたが、ここで空虚五度から完全五度への解決が試みられていたのか否かを聴き分けることはできませんでした。僕のような浅学菲才の聴衆が初聴の曲を細部までを聴き分けることは困難を伴いますので、いまから音盤のリリースが待たれます。
 
▽第二場「快楽地獄」
大石将紀さんのアルトサックスと山田岳さんのエレキギターがロック・バラード調のノイジーで耽美的な音楽を演奏するなか、その音楽に合わせて華麗なダンスが舞われました。そこにソプラノの森谷真理さんと冨平安希子さんが演じるポップ・シンガーがショッキング・ピンクのドレスを着用して登場し、退廃美に彩られたポップスを妖艶に歌う印象的なシーンになっていました。その奇抜な舞台は聴衆の羞恥心を擽りアイロニカルな印象を与えるインパクトがあるもので、森林地獄の空虚な響きとは対照的に濃厚な色彩感を放つ独特の感興を誘う音楽が出色でした。この点、単にデフォルメされた表現が生み出す陳腐なアイロニーとは異なり、その独特の感興に巧妙に織り込まれているアイロニカルな風情が薫り立つ洗練された至芸が魅力で、非常に面白い舞台を堪能できました。海中を漂うクラゲとプラスチックゴミが映し出されるシニカルなビジュアル・アートも面白く、コーラス隊が白いビニールで舞台を覆いながらオーケストラがプラスチックの乾いた音(ノイズ)を奏でる現代社会のサウンドスケープを体現する舞台は母なる「海」から人間に対する痛烈な異議申し立てとして聴衆の五感に訴え掛けてくるインパクトのある舞台になっていました。
 
▽第三場「洪水地獄」(第一部「嘆きの歌」、第二部「祈りの二重唱」)
オーケストラが「嘆きの歌」を演奏するなか、水中に沈む人間の顔(聴衆の顔の鏡映をイメージさせるもの)が映し出され、ダンサーのリボンダンスに合わせて水が渦巻きながら全てを飲み込んで行くインパクトがあるビジュアル・アートが映し出されました。スピーカーから宗教音楽のような荘厳な曲が流れ、津波で母を亡くしたアラトと母なる海と交信するナターシャが共振しながら日本語とドイツ語による「祈りの二重唱」が歌われました。
 
▽第四場「ビジネス地獄」
現代社会は近代のイギリスで生まれた社会システム(ロンドン型都市モデルや株式会社制度など)がベースになっていますが、そのことを象徴するようにイギリス人ビジネスマンが登場して、オフィスビルの四角い窓が無機質に並ぶビジュアル・アートが映し出され、舞台上を四角い升目で区切った複数のパーテーションの中で無個性なビジネスメン達が忙しなく働いているシニカルな舞台になってしました。そのビジネスメン達と同期するようにデジタル調のミニマル音楽が忙しなく演奏され、ビジネスメン達は「じゃらじゃら」「ばりばり」などのオノマトペを歌いながら貪欲に利潤を追求する姿が先鋭的に描かれていました。そこにゴンドラに乗った成金趣味の中国人ビジネスマンが登場し、アラトが中国人ビジネスマンをボクシングで打ち負かすユーモラスなシーンも描かれていましたが、20世紀に欧米で揶揄された日本人ビジネスマンのステレオタイプはそのまま21世紀に中国人ビジネスマンのステレオタイプに置換され、フィクショナルな芸術作品の中で負け組になった日本が勝ち組になった中国を打ち負かして憂さを晴らす社会の浄化システムがシニカルに描かれていました。最後に浮浪者に身をやつしたイギリス人元ビジネスマンが登場し、近代のイギリスで生まれた社会システムが必ずしも人間を幸福にしてこなかったことを暗示する印象的なシーンになっていました。
 
▽第五場「沼地獄」(第一部「沼の音楽」、第二部「眠りの音楽」)
原子炉から黒い噴煙が立ち昇る不気味なビジュアル・アートが映し出され、オーケストラが下行形の音型を繰り返しながら汚染物質のようなものが湖沼に沈殿して行くビジュアル・アートが流されました。また、プラカードを持った環境活動家がヒトラー風の演説でデモ隊を先導しながら暴徒化する様子が舞台演出されていましたが、その泥沼の戦い(執着)から抜け出して束の間の安らぎ(放下着)を得たアラトとナターシャが穏やかな「眠りの二重唱」を歌いました。
 
▽第六場「炎上地獄」
火紛が飛び散るビジュアル・アートと共に、山火事の炎を連想させるサウンド・アートが流され、オーケストラが緊迫した音楽を奏でるなか、アラトが悲壮感を湛えた嘆きのアリアを歌いました。その後、ワイヤーで宙吊りにされたメフィストの孫が登場し、炎に包まれながら怒りのアリアを歌う迫力の舞台になっていました。これまでワイヤーで宙吊りになれながらアリアを歌ったオペラ歌手がいるのか知りませんが、(ミュージカルは兎も角としても)オペラでは新鮮な演出に感じられました。これに続くアラトとナターシャの二重唱が美しいピースになっており、また、ナターシャによる嘆きのアリアはI.エーレンスさんがシルクのような清澄な歌声で繊細に紡ぐ寂寥感を湛えた歌唱が出色で、その恍惚感を覚える美しいアリアは歌劇の魅力が際立つこのオペラの最大の聴き所になっていたと思います。ヴラヴァー!フルートが息の音を奏でると、ナターシャは海に鏡映する月のビジュアル・アートの中にうずくまり、母なる「海」への回帰を予兆させる印象的なシーンになっていました。
 
▽第七場「旱魃地獄」(第一部「地獄の底」、第二部「始原の海」)
オーケストラがストイックな音楽を奏でるなか、アラトは旱魃でナターシャへの愛も枯渇してしまうと嘆きますが、スピーカーから35ケ国語による「海」という言葉が囁かれ、波や息のサウンド・アートと共に母なる「海」が回帰し、やがて全ての音が静寂へ回収されると、その静寂から新しい音楽や新しい言葉が生まれようとしている予兆(希望)が描かれていました。海に鏡映して逆立ちするバベルの塔(人間の傲慢さを象徴するもの)のビジュアル・アートが映し出され、愛で結ばれたアラトとナターシャが二重唱「新しい言葉は静けさ、あなたと2人で辿り着いた」「ここから私たちは、何を見るの?」を歌いましたが、その後、光(希望のメタファー)の中に人々の影が消え入る静かな終幕になりました。海に鏡映して逆立ちするバベルの塔の頂上は人間の限りない欲望(幸福)を象徴していると同時に地獄の最深を体現するもの(不幸)であり、此岸と彼岸を境界する「海辺」のような場所であることが印象的に表現されているように感じられましたが、果たして、七つの地獄(現世地獄)を巡る心の旅を終えた聴衆は始原の海からどのような新しい音楽や新しい言葉を見出し、どのような新しい世界(希望)を描き得るのか一人一人の知性が試されているということなのだろうと思います。なお、終演後に開催されたアフタートークで司会の林田直樹さんがC.レートさんに海に鏡映する逆立ちするバベルの塔の演出意図を質問されていましたが、それを演出家に語らせてしまうことは観客の自由な解釈の余地を奪い、芸術鑑賞の醍醐味を減殺してしまう憾みがあります。個人的には、正解を求める「検索」型のアプローチではなく、解釈を遊ぶ「思索」型のアプローチの方が芸術鑑賞の幅を広げて、その感動を深くすることにつながるのではないかと思いますので、「答え合わせ」を行うのではなく、聴衆がそれぞれの立場で芸術表現を多角的に捉え、その鑑賞を豊かにするための手掛りを与えてくれるキュレーションの役割を学識者に期待したいと思っています。このオペラは鑑賞の度に異なった表情を見せてくれる大きな器を持った作品に感じられますので、是非、新国に限らず他の劇場を含めて再演を期待したいです。因みに、日本には極楽へと導く七つの地獄巡りもありますので、今度の正月休みは1年の疲れを洗い流す温泉沼にハマりながら怠惰な正月を過ごしてみようかと計画しています。
 
 
▼三谷文楽「人形ぎらい」
【演目】三谷文楽「人形ぎらい」
【作・演出】三谷幸喜
【監修・出演】吉田一輔
【作曲・出演】鶴澤清介
【太夫】竹本千歳太夫、豊竹呂勢太夫、豊竹睦太夫、豊竹靖太夫
【三味線】鶴澤清介、鶴澤清志郎、鶴澤清丈'、鶴澤清公、鶴澤清充、鶴澤清方
【人形遣い】<陀羅助>吉田一輔、吉田簑太郎、吉田簑悠
      <源太>吉田玉佳、吉田玉路、吉田玉征
      <老女形>吉田玉翔、吉田玉誉、吉田玉延
      <お福>桐竹紋秀、吉田玉彦、豊松清之助
      <近松門左衛門>吉田玉勢、吉田玉誉、吉田玉延
      <三谷幸喜>吉田一輔
【囃子】望月太明社中
    望月太意作、望月太明十郎、藤舎次生
【日時】2025年8月16日(土)16:30~
【会場】PARCO劇場
【一言感想】ネタバレ注意!
ヴラヴィー!!文楽にも喜劇はありますが、文楽を見て腹を抱えて笑ったのは初めての体験でした。文楽の魅力をそのままに、これを現代的にアップデートすることに見事に成功している極上の舞台を堪能できました。江戸の近松に悲劇を書かせたら右に出る浄瑠璃作者はいないとすれば、令和の三谷に喜劇を書かせたら右に出る浄瑠璃作者はいないと断言しても、決して言い過ぎとは思えない稀代の傑作でした。人格を持った人間の俳優よりも人格を持たない文楽の人形の方が客の心にうつり易く、それぞれの文楽人形のキャラクターが滲み出てくるような義太夫の情緒纏綿軽妙洒脱な語りと文楽人形に現代的な命を吹き込むことに成功している人形遣いの革新が奏功して、文楽人形ならではのおかしみを醸し出す現代文楽の真骨頂と言いたくなるような名舞台を楽しめました。これならば若年世代の文楽ファンが増えることは必定で、文楽の未来は明るいと確信させてくれるものがありました。他日公演がありますので、ネタバレしない範囲で簡単に感想を残しておきたいと思います。(以下、ネタバレ注意!)
 
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近松門左衛門の代表作として三大仇討物(曽我兄弟の仇討、伊賀上野の仇討、赤穂浪士の討入)と共に三大心中物(曽根崎心中、心中天網島、冥途の飛脚)や三大姦通物(堀川波鼓、大経師昔暦、鑓の権三重帷子)が人気ですが、第一作の三谷文楽「其礼成心中」は近松門左衛門の心中物の傑作「曽根崎心中」をベースに三谷節が冴え渡るアレンジが加えられた傑作として人気を博していますが、第二作目の三谷文楽「人形ぎらい」は武士の面目にかけて妻と間男を成敗する「妻敵討」を描いた「鑓の権三重帷子」(三大姦通物にして三大仇討物と共に近松の仇討物にも挙げられる1作で映画にもなっています)とモリエールの戯曲「人間ぎらい」を素材にして、三谷さんが人間の業を笑いに変えてしまう極上のセンスを存分に発揮して現代的な魅力を湛えた新作文楽の名作を生み出しました。黒沢映画などを観ていても感じることですが、三谷さんの作品は単純な物語構成の中に登場人物のキャラクターを際立たせることで分かり易くも彫りの深い表現が生まれ、それが物語に吸引力を生んで観客のハートを鷲掴みにしてしまう不思議な魔力を備えているところに魅力があるのではないかと思います。冒頭、三谷幸喜の文楽人形が前座として挨拶(ご本人は姿を見せず音声は録音)して開幕になりました。劇中劇として近松文楽「鑓の権三重帷子」から数寄屋の段が上演され、三谷文楽「人形ぎらい」の登場人物である文楽人形「源太」が男伊達として知られる笹野権三(鑓の権三)、文楽人形「老女形」が浅香市之進の女房おさゐ、文楽人形「陀羅助」が女房おさゐに横恋慕する川側伴之丞を演じますが、楽屋に戻って人形立てに掛けられた「源太」「老女形」「陀羅助」(いずれも演目の役名とは別に文楽人形のかしらにつけられている名前で、謂わば文楽人形の本名)の3体の文楽人形が漫談のような軽妙なトークを交わし、文楽人形「源太」は主役を張る二枚目の人形で男伊達を鼻に掛ける自信家(「老女形」と恋仲)、文楽人形「陀羅助」は脇役に甘んじる三枚目の人形で劣等感に苛まれながら主役に憧れる卑屈家(「老女形」に横恋慕)、文楽人形「老女形」は「源太」と恋仲にありながら陀羅助の気持ちを弄ぶ美魔女というキャラクター設定が行われました。全体を通して、噺家も色を失うような語り芸の極致と言うべき義太夫の語りの力は筆舌に尽くし難いものがあり(会場でご堪能下さい)、三体の文楽人形を一人で語り分けながら、見る見るうちに三体の文楽人形のキャラクターが立ち上がって眩い光彩を放ち出す始末で、公私ともに不愛想で知られる僕でさえも「にやけ顔」(大人が本気で楽しいと感じているときに出す表情)になって行くのを覚え、本日は休憩なしの2時間の公演でしたが時を忘れて舞台に没入できました(萌)。そんな「陀羅助」は自分が演じる川側伴之丞を主人公にするように「近松門在衛門」(亡霊)に直談判しますが(このような荒唐無稽な設定を笑いというオブラートに包んで成立させてしまうイリュージョンは三谷マジックと言うほかなく、冒頭から舞台に呑まれて何でも「あり」と思える頭に変えられていました。)、「近松門左衛門」はこの浄瑠璃は実話を題材としており、また、「陀羅助」は醜男なので主役はとても無理だと断り、それぞれの文楽人形には分というものがあると諭して消え失せました。「陀羅助」は失意のうちに楽屋へと帰りましたが、「源太」が文楽人形の命と言える大切なかしらをネズミにかじられ、その修復にも大失敗して舞台に立てない容姿となったことに絶望して失踪してしまったことで「陀羅助」に思わぬ好機が巡ってきましたが、この舞台を弛緩させないテンポ良い物語展開は観客の予想を心地よく超克しながらドーパミンの分泌を刺激し続ける巧みなもので、三谷さんの筆致に文楽人形と共に観客の心まで躍らされてしまう名舞台に魅了されました。舞台に穴を開けられないことから、「源太」の代役として「陀羅助」を主役の笹野権三(鑓の権三)に抜擢して「老女形」と稽古しますが、「老女形」は「陀羅助」が醜男なので芝居が乗らないと愚痴を零すので、「陀羅助」は主役の夢を断念せざるを得ないと悟らされました。「老人形」から「源太」を連れ戻すように頼まれた「陀羅助」と「お福」(陀羅助に仄かな恋心を寄せるブスな文楽人形)は「源太」を探しに出ましたが、「陀羅助」が通天閣から大阪の街を見下ろすと新大阪駅に向かう「源太」を発見し、その後を追いかけました。人形の命である顔をダメにされた「源太」は人形町という人形のパラダイスがあるという噂を信じて向かおうとしましたが、途中で力尽きた「源太」は人形町行きを断念して三人遣い(黒子)に自分を置いて楽屋に戻るように話すと、三人遣い(黒子)は「源太」を置き去りにして立ち去ろうとする場面が興味深かいものでした。本来、文楽は三人遣い(黒子)という現実の存在は舞台に存在しないものと仮定して文楽人形を操ることで虚構の世界を成立させる芸能ですが、敢えて、三人遣い(黒子)という現実の存在を舞台に存在するものとして登場させたうえで、その虚構の世界の中で文楽人形と共演させてしまうという試みが奏功していました。既に僕(観客)の心には「源太」に対する「うつり」(エンパシー)が生まれていることをはっきりと感じられ、人形遣い(黒子)から置き去りにした「源太」が人形遣い(黒子)から独立した生きた存在として写るという不思議な芸術体験をしましたが(次回のブログの枕で触れる拡張自己のうちの象徴的拡張)、三谷マジックによって笑いのオブラートで包みながら「源太」に魂を吹き込むこと(観客の心に「うつり」を生むこと)に成功している三人遣い(黒子)の真価を堪能できる見応えのある場面でした。「陀羅助」と「お福」は「源太」に追い着くために一計を案じ、近所の子供からスケードボードを借りてきましたが、「陀羅助」はスケートボードを器用に乗り熟して高難度のトリックを連発していましたが、文楽人形にはこんなアクロバティックな動きも可能なのかと舌を巻き、文楽人形の表現可能性を大幅に拡張することに成功した意欲的な試みに惜しみない賞賛を送りたいと思います。あまりに破天荒な舞台をきっちりと見せてしまう三人遣いの至芸に会場は大爆笑でした。その一方で、スケードボードを乗り熟せない「お福」はスケードボードを手で漕ぎながら後を追うというオチまで付いており、こんなに笑った文楽公演は初めての経験でした。最後は「陀羅助」が「源太」に人形町は幻でお前が生きる場所は文楽小屋にしかないと諭して連れ帰り公演を再開しましたが、「陀羅助」はいつも巾着を被っていた常連客のお爺さん(死亡)が座っていたB列3番目の席に今日は若い観客が瞳を輝かせながら舞台を食い入るように見ている姿を発見し、これが役者にとっての冥利だと悟りいつも以上に芝居に熱が入るという非常に後味の良い終幕となりました。ヴラヴィー!!第一作、第二作の再演を熱望すると共に、今から次回作の公演を心待ちにしています。是非、三谷文楽で新しい文楽の名作の山を築くことを期待したいです。
 
 
▼新作オペラ『ナターシャ』創作の現場から~細川俊夫・大野和士・有馬純寿が語る~
2028年8月11日(月・祝)から2025年8月17日(日)まで新国立劇場の日本人作曲家委嘱作品シリーズ第3弾としてオペラ「ナターシャ」(作曲:細川俊夫さん、台本:多和田葉子さん)が世界初演されますが、過去のブログ記事で触れた2025年5月15日(木)に開催された多和田さんのトークイヴェントに続いて、2025年7月21日(月・祝)の海の日に因んで細川さん、大野和士さん(指揮)、有馬純寿さん(電子音響)、宮木朝子さん(尚美大准教授)のトークイヴェントが開催されます。過去のブログ記事でも触れたとおり、2019年に大野さん、細川さん、多和田さんの間で新作オペラを創作する話が持ち上がったそうなので、コロナ禍を挟んで足掛け5年以上の創作期間を費やした大作となります。このオペラの登場人物はウクライナ出身ドイツ人女性のナターシャ(ソプラノ/ウクライナ語、ドイツ語)、福島県出身日本人男性のアラト(メゾ・ソプラノ/日本語)、メフィストの孫(バリトン/ドイツ語)で、ナターシャはシャーマンの資質があり海の声を言葉に翻訳できる能力を持っているという設定だそうです。また、このオペラの大まかなプロットについて紹介があり、ゲネシス(創世記)やダンテの神曲などに着想を得ており、メフィストの孫に導かれてナターシャとアラトが7つの地獄(森林地獄、快楽地獄、洪水地獄、ビジネス地獄、沼地獄、炎上地獄、干ばつ地獄の現世地獄)を巡るという物語だそうです。多和田さんの作風である多言語性、多声性を体現するようにドイツ語と日本語の異言語コミュニケーションや最大35ケ国語が登場する多言語オペラが特徴になっており、自然から切り取られたロゴス(意味、論理、理性)としての言葉から自然(海を含む)と直結しているピュシス(音響、感性、本能)としての言葉へと濾過されたものとして扱われているのではないかと推測します。細川さんとしては初の試みだそうですが、エレキギターやアルトサックスなどを使ってロック音楽、エレクトロニクス音楽やミニマル音楽などを採り入れて作曲しているそうで、言語面だけではなく音楽面も多言語化が図られている懐の広い作品になっているようです。有田さんによれば、新国立劇場の大劇場を地獄のすり鉢状構造に見立て1階から3階まで24chのサラウンドスピーカーを設置し、通常の前後左右を基軸とする二次元的なサラウンド音響空間ではなく、上下の基軸を追加した三次元的なサラウンド音響空間を作ること(多次元インスタレーション)を検討しているそうですが、オケピで器楽を奏で、舞台で歌手が歌うという古典的な舞台表現を拡張する試みであり、どのような芸術体験を仕掛けてくるのか大変に楽しみです。神(救い)のない時代に人類はどのように現世地獄を巡り、どのような光明を見出し得るのか、芸術を受容する聴衆の知性も試されていると言えるかもしれません。現状、日本で歴史に残るような世界初演に接することは困難なので、この機会を逃す手はありません。チケットはこちらからお早目に!(売切御免)
 
▼文楽のアップデート
三谷文楽「人形ぎらい」を記念して、三谷幸喜さんと人形遣いの吉田一輔さんによる「ミニ文楽入門講座」が公開されています。文楽にも新作ブームが到来しており、三谷文楽「人形ぎらい」以外にも、ゲーム「祇(くにつがみ):Path of the Goddess」とのコラボレーションとして新作文楽「山祇祭祀傳 巫女の定の段」が話題になっています。この他にも、最近では、アニメ「ONE PIECE」とのコラボレーションとして新作文楽「超馴鹿船出冬桜」や和洋折衷の題材を扱った新作文楽「ゴスペル・イン・文楽~イエス・キリスト~」など話題に事欠かず、新しい文楽から目が離せません。「革新とは、単なる方法ではなく、新しい世界観を意味する」(P.ドラッカー)の名言のとおり、これまでの文楽の魅力を損なうことなく、しかし、これまでの文楽では考えられなかった魅力を追加して現代の時代性へと拡がりを持つ世界観を描く新作が増えてきたことは大変に歓迎したい潮流です。
 
▼メトロポリタン歌劇場 2025-26シーズン
メトロポリタン歌劇場の2025-26シーズンが公表されましたが、昨年の新作オペラ4公演に続いて、今年も以下に掲げる新作オペラ3公演が採り上げられる大変に羨ましい状況です(但し、METライブビューイングで新作オペラが採り上げられるのか分かりませんので、昨年と同様に日本では臍を噛むことになるかもしれません)。過去のブログ記事でも触れましたが、メトロポリタン歌劇場ではアメリカ国内外で初演された新作オペラや現代オペラをリサーチし、その中からメトロポリタン歌劇場の上演に相応しい作品を選んでレギュラーシーズンにかけることを専門とするアーティスティック・チームが存在するそうですが、日本のオペラ界でもミュージカル界と同様にオフ・ブロードウェイで上演された作品のうち優れた作品を選んでオン・ブロードウェアで採り上げることで業界全体を盛り上げて行くような社会的な仕組みが出来ても良さそうです。現状、日本では新作オペラ( ≠ 新制作)の中から優れた作品を選りすぐり、それを幅広い観客に紹介するマッチング・システムが未整備又は脆弱な印象を否めず、実質上、新作オペラは再演の機会がないままに使い捨てにされている状況があるのではないかと思います。良いものを作るだけではなく、良いものを選りすぐり、それを幅広い観客に紹介することで次の世代に受け継いで行く契機とするための取組みが必要ではないかと思います。
【来シーズンのMET初演】

東京藝術大学奏楽堂モーニング・コンサート2025(第6回/作曲:越川廉、ピアノ:今井菜名子)と歌舞伎「刀剣乱舞 東鑑雪魔縁」(演出:尾上菊之丞 尾上松也、脚本:松岡亮)と読売交響楽団第650回定期演奏会(指揮:シルヴァン・カンブルラン、ピアノ:北村朋幹、作曲:細川俊夫)と「この世界のムラを演出する」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ブログの枕「この世界のムラを演出する」
前三回のブログ記事では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」及び「行動遺伝学」についてごく簡単に触れましたが、今回は、この世界の「ムラ」を演出するという視点から、何故、人間は「ムラ」にムラムラと惹かれてしまうのかについてごく簡単に触れてみたいと思います。この点、人間が「ムラ」にムラムラと惹かれてしまう「プロセス」を科学的に解明するものとして、①インターネットが普及する前の20世紀の時代性を前提とする古典的モデル(AIDMAなど)と②インターネットが普及した後の21世紀の時代性を前提とする現代的モデル(AISASなど)の2種類のマーケティング・モデルが存在し、消費者の認知(注意、興味)から消費(行動)や評価(共有)までの一連の消費行動を時系列に沿ったプロセスとして段階的に捉えるフレームワークであるのに対して、人間が「ムラ」にムラムラと惹かれてしまう「心理的要因」を科学的に解明するものとして行動経済学が注目されており、一連のプロセスの各段階における消費行動の理由を分析するための心理学的な知見であると整理することができるのではないかと思います。即ち、マーケティング・モデルは「消費行動の外面」(流れ)を分析し、行動経済学は「消費行動の内面」(心理)を分析するという形で相互に補完し合いながら、何故、人間が「ムラ」にムラムラと惹かれるのかを解明し、その成果を人間がムラムラと惹かれるように「ムラ」の演出に活かす観点から社会経済活動に応用されていますが、現代は多彩に演出された多様な「ムラ」に心をハッキングされながら踊り狂っている時代と言えるかもしれません。
 
▼人が「ムラ」に惹かれるメカニズム(経済学+心理学)
マーケティング
モデル
行動経済学
AIDMA
古典
AISAS
現代
認知 感情 状況
注意
Attention
システム1対2
非流動性
身体的認知
概念メタファー
ホットハンド効果
アフェクト
ポジティブ・アフェクト
ネガティブ・アフェクト
フレーミング効果
フライミング効果
系列位置効果
単純存在効果
興味
Interest
快樂適応
計画の誤謬
真理の誤謬効果
自制バイアス
拡張・形成理論
不確定性理論
境界効果
おとり効果
アンカリング効果
感情移入ギャップ
バンドワゴン効果
欲求
Dsire
自制バイアス
メンタル・アカウンティング
真理の誤謬効果
心理的所有感
目標助効効果
負の感情の利用
ナッジ理論
フライミング効果
検索
Search
確認バイアス
解釈レベル理論
メンタル・アカウンティング
選択パラドックス
決定疲れ
心理的コントロール
不確定性理論
目標助効効果
情報オーバーロード
ビコーズ効果
社会的証明
記憶
Memory
確認バイアス
快樂適応
解釈レベル理論
ピークエンドの法則
感情記憶効果
系列位置効果
ビコーズ効果
行動
Action
計画の誤謬
自制バイアス
メンタル・アカウンティング
快樂適応
時間割引
先延ばしバイアス
キャッシュレス効果
心理的所有感
目標助効効果
現在バイアス
ナッジ理論
ビコーズ効果
情報オーバーロード
選択アーキテクチャ
共有
Share
解釈レベル理論
真理の誤謬効果
ホットハンド効果
自己正当化バイアス
ポジティブ・アフェクト
心理的所有感
ピークエンドの法則
感情伝染
ナッジ理論
フレーミング効果
SNS同調性
ステータス・シグナリング
※紙片の都合から表中の行動経済学の知見(理論)について詳しくは解説しませんので、ご興味がある方は概説書などでお調べのうえ、ご活用下さい。
※行動経済学の分野から2002年にダニエル・カールマン博士がプロスペクト理論(人間が不確実性のある状況下でどのような意思決定をするのかという研究)で、2013年にロバート・シラー博士がアノマリー理論(人間の非合理な意思決定の研究)で、2017年にリチャード・セイラーがナッジ理論(人間を強制することなく主体的に望ましい行動をとらせる研究)で、それぞれでノーベル経済学賞を受賞しています。
※企業による行動経済学の応用例の一部として以下のものが挙げられます。
・アマゾン:タイムセール(アンカリング効果、損失回避バイアス)
・ネットフリックス:レコメンド機能(デフォルト効果、情報オーバーロード、選択オーバーロード)
・グーグル:人材採用プロセス(確証バイアス)
・TIKTOK:自動生成機能(現状維持バイアス)
・スターバックス:ポイント制度(目標勾配効果、ゲーミフィケーション)
 
前三回のブログ記事ではマクロの世界を記述する古典物理学とミクロの世界を記述する現代物理学についてごく簡単に触れましたが、これは経済学や音楽学などの諸分野でも同様の傾向が見られます。古典的な経済学では人間は常に自己利益の最大化を図る合理的な経済人(ホモ・エコノミスク)であることを前提にして市場メカニズム(神の見えざる手)により社会全体として最適な資源配分が達成されるというマクロの視点を基調としていますが、現代的な経済学(行動経済学)では人間は必ずしも自己利益の最大化を図るために合理的に振る舞うとは限らない非合理的な経済人(限定合理性)であることを前提にして感情や認知バイアスなどの心理に左右されながら社会経済活動が営まれているというミクロの視点を基調としています。さながらクラシック音楽が半音(マクロ)を単位として構成される機能和声による予定調和な音楽(合理性)であるという特徴があるのに対して、現代音楽が微分音やスペクトル、ノイズなど(ミクロ)から構成される不確定的な音楽(非合理性)であるという特徴があることに相似していると言えるかもしれません。上述のとおり紙片の都合から行動経済学の知見(理論)について詳しくは触れませんが、人間の認知はシステム1(ヒューリスティック:経験則や直感に基づいて問題を迅速に解決するための思考プロセスで、効率的に判断できるというメリットがある一方でバイアスなどにより認知の歪みが生じ易いというデメリットがあると言われています。)とシステム2(システマティック:エビデンスや熟考に基づいて問題を慎重に解決するための思考プロセスで、バイアスなどにより認知の歪みが生じ難いというメリットがある一方で効率的に判断できないというデメリットがあると言われています。)という2つの認知プロセスが無意識下で連動していますが、システム1(ヒューリスティック)の働きが優位になると認知の歪み(不合理な判断)が生じ易くなり「ムラ」にムラムラと惹かれ易くなると考えられています。この点、過去のブログ記事で認知のメカニズムについて簡単に触れましたが、脳の機能としてデフォルト・モード・ネットワーク(直感)が働いているときはシステム1(ヒューリスティック)という認知プロセスが優位になり易く、セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク(論理)が働いているときはシステム2(システマティック)という認知プロセスが優位になり易いことが分かっており、元来、その人間が持っている認知のクセに加え、その人を取り囲む状況やその時々の感情が認知に大きく影響しています。また、過去のブログ記事では文化(認知)が環境(状況)にチューニングされていること、さらに、過去のブログ記事では人類が狩猟採集に相応しい特性を備えた「心」を備えており仲間が言うことを信じ易い傾向を持っていることなどに簡単に触れましたが、このように人間は自ら主体的に判断しているだけではなくその人を取り囲む状況やその時々の感情に影響されて非合理的な判断を選択させられていることも多く(選択アーキテクチャ)、このような認知の歪みを利用して非合理的な消費行動へと誘導するための手法(「ムラ」の演出)が研究、開発されており、ネット通販やテレビ通販などで購入させられた必要のないものが家に溢れてしまうという状況が生まれています。この点、芸術系の大学などでは劇場や美術館などの集客方法(「ムラ」の演出)について専門のカリキュラムが設けられていると思いますが、行動経済学の視点から現代音楽の演奏会の集客方法についてごく簡単に考えてみると、現代音楽は世界的な評価が定まっているごく一部の著名な現代作曲家を除いてクラシック音楽のように時代に淘汰された傑作揃いであるという「信頼感」(のれん)が十分に醸成されておらず、また、現代音楽の中には上述のシステム1及びシステム2が共に起動し難い「難解」なもの(あまり「面白さ」が感じられないものを含む)も少なくなく、さらに、現代の多様な娯楽との兼ね合いで「優先度」が相対的に低くなる傾向があることは否めず、これらを行動経済学に引き直して言えば、①社会的証明の欠如、②不確実性の回避、③損失回避バイアスなどが強く働いて、現代音楽の演奏会に足を運ぶハードルは決して低くない状況があるように感じられます。これらの課題感から様々な集客の工夫を試みている公演も増えてきましたが、残念ながら状況を一変させる特効薬のようなものはなく、(集客に関心がないタイプの現代作曲家を除いて)少しづつ状況を改善して行くための集客の工夫を継続する取組み(マーケットの醸成)は欠かせないのではないかと思います。例えば、①社会的証明の不足を補う手立てとして「過去に〇〇回再演されている人気曲」(バンドワゴン効果)や「〇〇〇〇(有名作曲家)へオマージュを捧げた新曲」(アンカリング効果)などのキャッチコピー、②不確実性の回避を補う手立てとして「コンセプチャルな演目構成」(フレーミング効果、ナラティブバイアス)や「プレ・レクチャーなどのイヴェント」(アンビギュイティ回避)、③損失回避バイアスを補う手立てとして「2001年以降に作曲された現代音楽の中で最も再演回数が多い曲」(発見バイアス)や「東京都交響楽団第1020回定期演奏会Aシリーズ」(知的探求ナッジ)などの多様な「ムラ」の演出が試されており、その他にも「前回と同じ席をプレリザーブ」(ナッジ理論)や「前回の来場者への特別割引」(サンクコスト)など集客の工夫を複合的に組み合わせることも「ムラ」の演出としては有効ではないかと思います。現代は日常的に情報オーバーロードや選択オーバーロードなどに晒されている常態にあり、どんなにクオリティーが良いもの(ムラ)でもその演出に失敗すればムラムラとさせることは困難になっていますが、誰に対して何を訴求したいのか(ターゲティング)を明確にしたうえで行動経済学の知見を応用しながら「ムラ」の演出を効果的に行うことができるのか否かも実力のうちという時代状況になっていると言えるかもしれません。
 
▼マクロな世界のムラからミクロな世界のムラへ(物理学+経済学+音楽学)
分類 物理学 経済学 音楽学
マクロな世界
対称性の破れ
確定的・人工的
古典物理学
ニュートン力学
熱力学
因果律
確定性等
古典経済学
ホモ・エコノミクス
神の見えざる手等
古典音楽
機能和声
半音
十二平均律等
ミクロな世界
高い対称性
不確定的・自然的
現代物理学
量子力学
確率的
不確定性等
現代経済学
限定合理性
行動経済学等
現代音楽
無調音楽
微分音
スペクトル音楽
偶然性音楽等
※マクロな世界はムラの演出が比較的に単純でしたが、ミクロな世界はムラの演出が複雑になる傾向があると言えるかもしれません。<
 
▼人が「ムラ」に惹かれるメカニズム(脳科学+心理学)
分類 脳科学
(脳神経ネットワーク)
心理学
(認知プロセス)
特徴
システム1 デフォルト・モード・ネットワーク ヒューリスティック 直感的
システム2 セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク システマティック 論理的
 
▼東京藝術大学奏楽堂モーニングコンサート2025(第6回)
【演題】東京藝術大学奏楽堂モーニングコンサート2025(第6回)
【演目】①越川廉 夜露の絶え間ない反射と煌めき(2025)
    ②A.ハチャトゥリアン ピアノ協奏曲(1935) 
     <Pf>今井菜名子
【演奏】<Cond>現田茂夫
    <Orch>藝大フィルハーモニア管弦楽団
【日時】2025年7月3日(木)11:00~
【会場】東京藝術大学奏楽堂
【一言感想】
前回のブログ記事で東京藝術大学奏楽堂モーニングコンサート第3回の感想を簡単に書き残しましたが、今回は作曲科の学生の新作初演とピアノ科の学生の現代音楽(凡そ、第一次世界大戦以前の音楽=クラシック音楽、第一次世界大戦後の音楽=現代音楽)が採り上げられるというので聴きに行くことにしました。社会人にとって平日に開催される演奏会を聴きに行くことはハードルが高く、とりわけモニコンは木曜日午前中の開催ということで客層は自ずと高齢者や学生に限られますが、かなりコスパが高い演奏会に満足できました。因みに、過去のモニコンのアーカイブ配信が公開されているようなので、時間や地理の制約からモニコンを聴きに行くことが難しい方はオンラインでお楽しみ下さい。アーカイブ配信を聴いてみるとライブ演奏では聴き逃している点が多いことに気付きますので、どちらの受容方法が優れているという問題ではなく、それぞれに一長一短があって、それを踏まえた楽しみ方がそれぞれにあるのではないかと思います。
 
①越川廉 夜露の絶え間ない反射と煌めき
パンフレットには「冷え込んだ夜に、水蒸気が水滴となって地物の表面に凝結する。だんだんと水滴は大きくなって、今まさに地面に落ちなんとす。その水滴は月明かりに照らされて、一瞬の絶え間ない煌めきと共に地球に還元されて行く」様子に着想を得て、「この曲の大部分では12個以上の音名が輝いている。それこそがこの曲のオスティナーとであり、根幹を成す。木管、金管、弦と明確に分けられた集団それぞれが、群を形成しながら曲が展開していく」と記載されています。過去のブログ記事で水分子を例にしてエントロピー増大の原則に簡単に触れましたが、気体は熱の放射効率が低い傾向があるのに対し、個体は熱の放射効率が高い傾向があり、空気中の水蒸気が熱の放射効率が高い傾向がある葉や地面などに触れることで冷やされ、その水分子の熱運動が低下することで水素結合が起こり易くなり結露します。また、夜露が月光に煌めく現象は、光子が持つ電磁波が水分子の電子と相互作用することで生じますので、それらのイメージを音にプロジェクションしながら鑑賞しました。ピアノと打楽器の硬質な音は夜露が月光に煌めく様子を、また、弦楽器のグリッサンドやトリル、木管楽器の持続音は空中に立ち込める水蒸気を表現したものでしょうか、これにハープ、管楽器と打楽器のトリルが加わってオーケストラの響きが多層多彩に重なり合いながらカオスな音場が生まれ、それらが微細に変化しながら移ろって行く様子は水と光が織り成す音の万華鏡とも言うべき幻想的なものでした。それが収束や盛上りを繰り返しながら、やがてピアノ、ハープ、打楽器が奏でる音粒が交錯しながら月光に煌めく様子が表現されているように感じられました。やがて音楽はテンションを高めながら、夜露が月光に反射する様子を表現したものでしょうか、管楽器と打楽器が音響の残像を奏で出し、やがてオーケストラがクライマックスを築いた後に、最後に夜露が地面に落ちる様子でしょうか、舞台袖のバンダ隊による足踏みと指鳴らしで余韻深い終曲になりました。ビジュアルアートと組み合わせると、よりイメージが広がって面白いかもしれません。演奏前に作曲科の学生によるMCで、観客が音響に身を浸しながらそれぞれのプロジェクションを投射して自由に鑑賞して貰いたいと挨拶されていました。現代作曲家の中には解説を厭う人もいますが、音楽のような抽象表現を何らの手掛りもなく鑑賞することは聴衆にとって難解、苦痛な体験にしかならないことが多く、(仮に聴衆による受容を前提とするものであれば)少なくとも鑑賞の手掛りとなる解説は必要不可欠であると痛感しており、その意味でも創作の着想やコンセプトなどを第三者(聴衆や演奏家など)に説明するためのMCは有用ではないかと思います。
 
②A.ハチャトゥリアン ピアノ協奏曲
ヴラヴァー!ピアニストの今井菜名子さんの演奏を初めて聴きましたが、先日の松田華音さんと同様に、若い世代のピアニストに稀有な逸材が多いことを印象付けられる好演でした。ロシアビアニズム芬々たる堅牢で華々しいヴィルトゥオージーはもとより、指揮者の現田茂夫さんの老練巧みなリードが奏功したこともあり、この曲の特徴でもあるオリエンタリズムや民族色をバランスよく薫らせながら、この曲の魅力を組み尽くす満足度の高い演奏を楽しめました。第一楽章ではオーケストラによるインパクトのある開始で舞台のテンションが一気に高まり、その張り詰めた空気を切り裂くように独奏ピアノが鋭角な響きによる活舌の良い演奏による華々しい登場感に惹き込まれました。強靭で質感のある打鍵、リズムの生命力、幅白い音域を縦横無尽に駆け巡る疾走感、軽快に冴え渡る超絶技巧などで魅了し、重厚感のある低音から光沢感のある高音までコンサート・グランドを豊かに鳴らし切りながら、民族色から諧謔性、メカ二カルな曲調などを表情豊かに弾き分けるダイナミックにして繊細な構築感のある演奏を堪能できました。パワー志向のマッチョな演奏というよりも、オーケストラが表情豊かに歌うパートでは独奏ピアノは伴奏に徹してアンサンブルに彩りを添える好サポート、独奏ピアノが華々しく歌うパートではオーケストラが絶妙な呼吸感で緊密に呼応するバランスの良い極上のアンサンブルが出色でして、非常に完成度の高い演奏を楽しめました。オリエンタリズムを湛えたオーボエなどが聴き所になる好演で、最後は独奏ピアノとオーケストラが一体になってクライマックスを築く高揚感のある演奏を楽しめました。第二楽章ではメランコリーに揺蕩うバスクラが好演で、これに続く寂び寂びとした詩情を湛えた独創ピアノによる背筋が凍り付くような美しさに魅了されました。独創ピアノとオーケストラの洗練されたアンサンブルに隙はなく、現田さんがたっぷりとオーケストラを歌わせながら民族色を豊かに薫らせる好演が白眉でした。第三楽章ではオーケストラと独創ピアノによるリズミカルで軽快な開始でティンパニーに挑発されるかのように民族色を巻き散らしながら野趣漲るダイナミックな演奏を楽しめたが、非常に慎重かつ繊細なアンサンブルも展開されるなど知情意のバランスがとれた表情豊かな演奏に好感しました。最後は金管の咆哮に誘われてオーケストラと独奏ピアノによる絢爛たるクライマックスが築かれる大団円になりました。
 
 
▼歌舞伎「刀剣乱舞 東鑑雪魔縁
【演目】歌舞伎「刀剣乱舞 東鑑雪魔縁」 
    大喜利所作事 舞競花刀剣男士
【脚本】松岡亮
【演出】尾上菊之丞 尾上松也
【出演】<三日月宗近/羅刹微塵>尾上松也
    <陸奥守吉行/源実朝>中村歌昇
    <同田貫正国/公暁>中村鷹之資
    <髭切>中村莟玉
    <加州清光/実朝御台倩子姫>尾上左近
    <異界の翁/三浦義村>澤村精四郎
    <膝丸>上村吉太朗
    <異界の媼/源仲章>市川蔦之助
    <小烏丸/北條政子>河合雪之丞
    <大江入道>大谷桂三
    <鬼丸国綱>中村獅童 ほか多数
【演奏】<箏>中井智弥(二十五絃)
       中島裕康(十七絃)
       細川喬弘、清原晏、木下富博(十三絃)
    <琵琶・尺八>長須与佳
    <笛>藤舎推峰
    <長唄>杵屋勝四郎、杵屋正一郎、杵屋巳之助、
        杵屋和三郎、杵屋彌六郎、杵屋正則、
        杵屋勝四助、杵屋巳三寿郎
    <三味線>和歌山富之、柏要吉、杵屋巳佐
         高橋智久(東音)、杵屋六治郎、杵屋勝国穀
         杵屋浅吉、杵屋五助、杵屋直光
         杵屋三禄
    <囃子>望月太左久、望月太喜十朗、望月徹
        堅田喜三郎、堅田新一郎、梅屋喜三郎、望月左喜十郎
        住田福十郎、福原百七、望月太喜之助
    <竹中連中>(浄瑠璃)竹本蔵太夫、竹本真太夫、竹本和太夫
          (三味線)豊澤勝二郎、鶴澤卯太吉、豊澤一二三
    <テーマ曲>「風になれ花になれ」
          (歌)城南海
          (作詞・作曲)中井智弥
【録音】<筝>中井智弥(十三絃、二十五絃、低二十五絃)
       中島裕康(十七絃)
    <琵琶・尺八>長須与佳
    <笛>藤舎推峰
    <津軽三味線>浅野祥
    <太鼓>山部泰嗣
    <打物>住田福十郎
    <Key>大迫杏子
    <Perc>相川瞳
    <Vo>日高悠里
【美術】前田剛
【照明】高山晴彦
【作曲】中井智弥、杵屋巳太郎(長唄)、豊澤勝二郎(竹本)
【音響】土屋美沙
【立師】中村獅一、尾上まつ虫
【衣装】黒崎充宏
【日時】2025年7月5日(日)~2025年7月27日(日)
【会場】新橋演舞場
【一言感想】
今日は歌舞伎「刀剣乱舞 東鑑雪魔縁」を鑑賞するために新橋演舞場に足を運びました。新橋演舞場に隣接する料亭「金田中」の向かい側にある新橋の髭切ことヘアーサロン「マツモト」で髭を当たって身を清め、演舞場稲荷大明神のお祓い(鉄砲洲稲荷神社宮司さんでしょうか?)に推参して新橋演舞場のスタッフの末席で心も清めました。因みに、新橋演舞場は加賀藩支藩の下屋敷跡にありますが、加賀藩の御家騒動を題材にした歌舞伎「鏡(加賀見)山旧錦絵」に登場する主君の仇討ちを果たした女中のお初に因んで、演舞場稲荷大明神は通称「お初稲荷」と呼ばれるようになり、「お初」と「初日」を掛けて舞台初日にお祓いが行われる習わし(江戸の粋)になっています。さて、過去のブログ記事で歌舞伎シネマ「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」の感想を簡単に書き残しましたが、歌舞伎「刀剣乱舞 東鑑雪魔縁」はその第二作に位置付けられます。「東鑑」(吾妻鏡)とは鎌倉幕府が編纂した歴史書で、その中から鎌倉幕府三代将軍・源実朝(鎌倉幕府最後の源氏将軍であり、その後は執権・北条氏が鎌倉幕府を実行支配)が鶴岡八幡宮で斬殺された事件に取材し、その歴史改変を目論む時間遡行軍の野望を刀剣男子が阻止するというプロットです。今回は最後に刀剣男子が大喜利所作事「舞競花刀剣男士」で春夏秋冬をテーマにした舞踊を披露する華麗な舞台が用意されており、歌舞伎的なエンターテイメント性の高い趣向になっていました。この舞台全体を通しての印象としては、鎌倉時代(過去)と刀剣男子の時代(未来)という物語設定を利用して、科白、演技、演出、音楽及び美術などの舞台の諸要素も歌舞伎の伝統(古典)と革新(現代)を交錯させながら、それらが最後には融合して行くような構成の舞台に感じられ、日頃、歌舞伎に馴染みのない若い世代もアニメの世界観から歌舞伎の世界観へと自然に入って行けるような舞台上の工夫が随所にあり、その目論見が成功していたように感じられました。また、そのような構成にしたことでアニメの世界観と歌舞伎の世界観のそれぞれの良さが際立つ効果も生んでいたように感じられました。第一作と共通している登場人物は歌舞伎版としてのキャラクターが確立し、それだけ第二作では共感度が高まっている印象を受けましたが、是非、次回作以降に向けて歌舞伎版のキャラクターを磨き上げて行って欲しいと期待しています。舞台公演が始まったばかりなのでネタバレしないように簡単に感想を残しておきたいと思いますが、そうは言っても、多少のネタバレは避けられませんので、これから観劇される予定の方はお気を付け下さい。開幕前のホスピタリティーとして時間遡行軍に扮した歌舞伎役者が一階席を歩き回り観客との記念撮影に応じるサプライズ特典が用意されており、また、開幕前の予鈴も発端第二場における審神者の登場シーンで使われている笙の演奏が代用されており、観客を神様扱いする心尽くしの演出に好感しました。
 
〇発端(第一場、第二場):現代的な演出
観客の意識を物語の世界観に惹き込むように重厚な筝の演奏と共に照明が落とされて開幕しましたが、第一作の歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」で刀剣男子に撃退された異界の翁と媼が現われ、鎌倉幕府の悪政に虐げられた庶民の苦しみの呪い込められている千年檜の精霊に刀剣男子への復讐を懇願すると、妖気漂う筝の演奏と共に「不思議やな 千歳の檜 鳴動し 焔に浮かぶ 人影は この地の主と 覚えたり」という地謡に誘われて千年檜の精霊が羅刹微塵に化して顕現しました。そこへ時間遡行軍も現われ、筝の激しい演奏と共に鎌倉時代へとタイムスリップする緊迫感のある幕開けになりました。鎌倉幕府の悪政に虐げられていた庶民の苦しみを救うために顕現した羅刹微塵(不遇な者の正義)とそれを歴史改変という間違った手段で達成しようとする羅刹微塵(正義に奢る者の不義)という二面性は現代社会が抱える諸問題(国際紛争やSNS問題など)にも通底するもので、現代人にも共感し易いテーマ性を持っているように感じられました。時間遡行軍が鎌倉時代(鎌倉幕府三代将軍・源実朝の時代)に出撃したという報せを受けた審神者は刀剣男子(刀剣の付喪神)を招集して、第一作にも登場した三日月宗近、髭切、膝丸と第二作が初登場となる加州清光(沖田総司の刀剣)、陸奥守吉行(坂本龍馬の刀剣)、鬼丸国綱(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で坂東彌十郎さんが演じていた北条時政の刀剣)の六振りに出陣を命じ、第一作にも登場した小烏丸と同田貫正国の二振りには後方支援を命じました。邦楽アンサンブルの派手な演奏に乗せて、鎌倉時代に出陣する刀剣男子六振りが白波五人男よろしく名乗りを挙げると、「東鑑雪魔縁」と書かれた赤い中割幕が下ろされ、城南海さんが歌う主題歌「風になれ花になれ」が流れるなか花道から鎌倉時代へ出陣しました。さながらアニメのオープニングを見ているような、江戸の粋(意気)とは一味異なる令和の粋へとバージョンアップされた華々しい舞台演出に感じられました。能舞台の橋掛りは彼岸(鏡の間=神の世界)に連結してシテに霊が憑依する幽玄の世界(鎌倉時代の武士の美意識)を体現する舞台装置ですが、それから転じて、歌舞伎舞台の花道は此岸(客席=庶民の世界)に連結して役者を魅せる情粋の世界(江戸時代の庶民の美意識)を体現する舞台装置であり、それらの起源は同一のものであっても、それぞれは全く異なる美意識や演出意図に基づく重要な役割を担うものであることがよく分かります。
 
〇序幕(第一場):古典的な演出
三味線や鳴物の情緒的な演奏と共に、鎌倉幕府三代将軍・源実朝の名代として源実朝の御台・倩子姫、源実朝の甥・公暁、源実朝の側近・源仲章が源実朝の母・北条政子の病気見舞いに梅花と源実朝の和歌「春くれば、まづ咲く宿の 梅の花 香をなつかしみ 鶯ぞ鳴く」(金槐和歌集)(山上憶良の和歌「春されば まづ咲く屋戸の 梅の花 独り見つつや 春日暮らさむ」(万葉集)の本歌取りで、山上憶良の和歌は政を司る官人として孤独な春を慈しむ心情を詠んだものにも感じられる一方で、源実朝の和歌は政を疎んじて花鳥風月に慰めを求める心情を詠んだものに感じられます。)を北条政子に贈りますが、北条政子は後鳥羽院(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では尾上松也さんの配役)から次期将軍と目されながら遊興に耽る源実朝を憂いている様子が印象的に描かれていました。そこへ時間遡行軍が来襲しますが、太鼓や附け打ちが激しく鳴らされるなか、北条政子の警護として潜り込んでいた三日月宗近と鬼丸国綱が立ち回る華々しい舞台になりました。第一作では審神者の声のみの出演だった中村獅童さん(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では梶原景時の配役)ですが、やはり尾上松也さんと同様に華のある役者なので、その存在感(吸引力)に舞台が引き締まります。
 
〇序幕(第二場、第三場):現代的な演出
筝の軽妙洒脱な演奏と共に、一階席から加州清光(沖田総司の刀剣)と陸奥守吉行(坂本龍馬の刀剣)が犬猿の仲よろしく漫談風にいがみ合いながら登場し、髭切と膝丸は源氏代々の宝刀であると素性由来を語りましたが、刀剣男子は未来人という設定なので科白回しは現代語調で現代劇を観ているような印象を受ける舞台になっていました。近年、ブルーノート東京でも他のジャンルからビックネームの出演を招聘することで客層の拡大を図っていますが、丁度、映画「国宝」がヒットして歌舞伎に関心が集まっているなか、歌舞伎を見慣れていない若い世代にも無理なく歌舞伎の世界に入って行けるように配慮されたタイムリーな舞台ではないかと思います。未だチケットが取れるのか分かりませんが、夏休みに子供を連れて歌舞伎鑑賞はいかがでしょうか。尺八の渋味深い演奏と共に、北条政子の侍女・桔梗が人目を忍んで源仲章に密書を届けますが、それを公暁の守役である三浦義村に見咎められ、権謀術数が渦巻く鎌倉幕府の闇が印象的に描かれていました。そこへ羅刹微塵が来襲しましたが、筝と附け打ちが激しく囃し立てるなか、加州清光、陸奥守吉行、髭切、膝丸が三浦義村に加勢して羅刹微塵は消え失せました。筝のリリカルな伴奏と共に、刀剣男子六振り(尾上松也さんが羅刹微塵から三日月宗近へと早変わり)が揃って「東鑑」(吾妻鏡)を引用しながら刀剣男子が守るべき歴史と人物の相関関係(源頼朝の子が源頼家(嫡男)と源実朝(次男)、源頼家の子が公暁)をお浚いし、羅刹微塵の正体やその目論み(歴史改変は手段でしかなく、本当の目的は庶民の怨みを晴らすこと)、時間遡行軍との関係(歴史改変の目的のために羅刹微塵を利用していること)などの物語設定が一通り整理して説明されました。演劇作品の中にはプロットが複雑で舞台展開もめまぐるしく観客が物語展開を十分にキャッチアップできない(又は没入できない)ものもありますが、十分な配慮が感じられて好感しました。膝丸は源実朝が政を疎んじて遊興に耽る真意を量り兼ねていますが、これに対して髭切は情に溺れて刀剣男子の使命(時間遡行軍による歴史改変を阻止すること)を忘れてはならないと戒め、筝や尺八のミニマル風の演奏と共に髭切と膝丸の複雑に揺れ動く心情が印象深く描かれていました。
 
〇序幕(第四場、第五場):古典的な演出
序幕(第二場、第三場)では刀剣男子を主体とする現代的な演出でしたが、序幕(第四場、第五場)では鎌倉人を主体とする古典的な演出の舞台で、笛の情緒的な演奏と共に源実朝と御台・倩子姫が睦み合っているところに、膝丸が登場して源実朝の和歌「身に積もる、罪や如何なる罪ならん、今日降る雪と、共に消えなん」(金槐和歌集)を引用して源実朝の真意を問い質しますが、源実朝は兄・源頼家が外祖父・北条時政に殺害されてからは母・北条政子とも疎遠になっているが、父・源頼朝や兄・源頼家による武力の政治とは異なり慈悲で天下を治めたいという志を打ち明けて退席します。御台・倩子姫は膝丸が未来人であることに気付いて源実朝の運命を聞き出しますが、これを源実朝が立ち聞きしており自らの運命を受け入れるという印象的な場面になっていました。寂び寂びした笛の音と共に、権謀術数が渦巻く鎌倉幕府で悲しい運命に翻弄される源実朝と御台・倩子姫の情感が溢れる歌舞伎の魅力を湛えた舞台になっていました。北条政子、源仲章、公暁、大江入道、三浦義村、北条義時らが源実朝を右大臣に補任する後鳥羽院の院宣の取扱いについて協議した後、源仲章と公暁だけが残り、源仲章に唆された公暁は源実朝と北条義時を討つ決意をします。公暁の情念の焔を感じさせるような三味線の激しい演奏が出色でした。
 
〇序幕(第六場、第七場):現代的な演出
羅刹微塵が鎌倉幕府に渦巻く醜い権謀術数により庶民が苦しめられている怨みを晴らすために立ち上がる迫力の舞台になっていましたが、筝の激しい演奏が羅刹微塵の妖気を帯びた情念の焔を感じさせるもので出色でした。第一作でも感じましたが、中井智弥さんの音楽はピアノやハープに双璧する筝の豊かな表現力、多彩な音色や奏法などを存分に活かし、ジャンルレス、ボーダレスに着想豊かな音楽が繰り広げられていきますが、歌舞伎の舞台表現を拡張して現代的にアップデートして行くにあたり、その多彩な音楽性は欠かせないものになっていると感じますし、それとの対比で伝統的な歌舞伎音楽が彩る情趣を引き立て、その魅力を際立たせる効果も生んでいるようにも感じますので、音楽の面からも歌舞伎の伝統と革新を融合する試みに期待したいと思っています。筝のリリカルな演奏と共に、髭切と膝丸は源実朝への思慕の情に流されずに歴史を守るという刀剣男子の使命を果たすことを確認し、他の刀剣男子達も油断なく羅刹微塵や時間遡行軍を阻止することを決意し、邦楽アンサンブルによる華々しい演奏で序幕が閉じました。
 
〇第二幕(第一場、第二場):現代的な演出
筝の妖気漂う演奏と共に、まるでオペラのセットを彷彿とさせる暗闇の舞台で第二幕が開け、公暁は守役の三浦義村に対して右大臣拝賀の式で謀反を企てる北条義時と源実朝を討つことを持ち掛けますが、三浦義村は公暁に自重するように促して断ります。そこへ羅刹微塵が来襲して庶民の苦しみに目もくれず醜い野心に囚われる公暁を斬殺して歴史改変を行ってしまいますが、筝と附け打ちがフラメンコ風のドラマチックな伴奏を奏でるなか、鬼丸国綱と髭切が三浦義村に加勢して羅刹微塵は花道から逃げ去ります。回り舞台で場面が展開し、尺八の渋味深い演奏と共に、源実朝が右大臣拝賀の式へ向うところですが、笛と筝の寂寥感漂うリリカルな演奏と共に、(序幕第四場で)運命を知っている源実朝と御台・倩子姫は言葉にはならない惜別の情を交わしますが、前場の公暁の心に宿る深い闇と後場の源実朝の心に宿る清い光とが対照される印象的な場面になってました。
 
〇大詰(第一場から第三場):古典的な演出と現代的な演出の融合
大詰(第一場から第三場)は古典的な演出と現代的な演出が違和感なく融合して1つの世界観を体現しているように感じられました。鎌倉山の情景と源実朝の心情を重ねた情緒纏綿とした長唄に乗せて右大臣拝賀の式に向かう源実朝一行が花道から入場する場面は源実朝の道行とも言える歌舞伎的な美観が際立つ印象深い場面になっていました。その後、中割幕が開くと、鶴岡八幡宮の階段が登場し、太鼓で降りしきる雪を表現するなか、髭切と膝丸は(第二幕第一場で)改変された歴史を元に戻すために公暁に代わって源実朝を斬り、笛と筝の寂寥感漂う演奏のなか、髭切と膝丸は源実朝の最後を看取って刀剣男子の使命を果たす中締めになりました。丁度、大詰第二場は開幕から十三場目になりますが、源実朝は鶴岡八幡宮の大石段の十三段目で斬殺されたと言われており、この場面割りも舞台演出の1つかもしれません。その後、邦楽アンサンブルがフラメンコ風のドラマチックな伴奏を奏でるなか、髭切、膝丸、鬼丸国綱と羅刹微塵、時間遡行軍とのアクロバティックな立ち回りが展開され、羅刹微塵が花道を附け打ちに合わせて引っ込む見所になっていました。三味線と太鼓が激しく打ち鳴らすなか、北条義時は羅刹微塵と時間遡行軍に襲撃されますが、そこへ鬼丸国綱が割って入り、羅刹微塵と鬼丸国綱の所作タテを経て、これに小烏丸、同田貫正国を含む他の刀剣男子が加わって羅刹微塵、時間遡行軍とのアクロバティックな立ち回りになりました。最後に羅刹微塵(尾上松也さんの代役?)と三日月宗近の立ち回りが挟まれた後、邦楽アンサンブルの快活な演奏と共に羅刹微塵は消え失せました。笛、三味線、筝がリリカルな調べを奏でるなか、北条政子は舞台袖、刀剣男子は客席から退場して終幕になりました。
 
間狂言を挟んで、
 
〇大喜利所作事「舞競花刀剣男子」(第一景から第六景):古典的な演出と現代的な演出の融合
第一景「序-三番叟」は義太夫節と三味線に乗せて髭切と膝丸が足拍子で邪気を払いながら勇壮で華麗な剣舞を披露、第二景「春-伊達男」は長唄と三味線に乗せて三日月宗近が三日月をあしらった唐傘と下駄を使って伊達男の色香漂う舞踊を披露、第三景「夏-祭り」は筝、笛、長唄、三味線に乗せて扇子を持った粋な浴衣姿で陸奥守吉行がよこい節(高知)、同田貫正国がおてもやん(熊本)、加州清光は加賀はいや節(金沢)などのお国自慢の舞踊を披露、第四景「秋-玉虫悲恋」は平家琵琶(女声の艶)と三味線、義太夫節(男声の艶)の語り芸の極致を言うべき名演に乗せて那須与一に扮した三日月宗近(青)と玉虫に扮した小烏丸(赤)が情熱的で優美な所作舞を披露、第五景「冬-獅子の曲」は長唄、三味線、筝に乗せて鬼丸国綱が白頭獅子、異界の翁と媼が赤頭獅子に扮し、時間遡行軍を撃退する勇壮な舞踊を披露、第六景「フィナーレ-時をこえて」では合唱、邦楽囃子に乗せて刀剣男子が一人づつ剣舞を披露した後、桜吹雪が散るなか扇子を持った群舞を披露し、主題歌「風になれ花になれ」が流れるなかを刀剣男子が舞台の華になって鮮やかに散って行く大団円となりました。
 
 
▼読売交響楽団第650回定期演奏会
【演題】読売交響楽団第650回定期演奏会
【演目】F.メンデルスゾーン 付随音楽「真夏の夜の夢」序曲(1826)
    細川俊夫 月夜の蓮 -モーツァルトへのオマージュ-(2006)
    ※アンコール:C.シューマン ピアノ曲「蓮の花」
               (原曲:R.シューマン 歌曲「蓮の花」)
     <Pf>北村朋幹
    H.ツェンダー シューマン幻想曲(1997/日本初演)
【演奏】<Cond>シルヴァン・カンブルラン
    <Orch>読売交響楽団
【日時】2025年7月8日(火)19:00~
【一言感想】
スペインのBBVA財団が主催し、ノーベル賞の補完的な存在とも言われる世界的に権威があるフロンティアズ・オブ・ナレッジ賞音楽・オペラ部門を現代作曲家の細川俊夫さんが受賞されたことに伴い、去る6月18日に開催されたガラ・コンサートでヴァイオリニストの諏訪内晶子さんをソリストに迎えて細川さんのヴァイオリン協奏曲「ゲネシス」(2020)が演奏され、翌6月19日に開催された授賞式では同賞と共に賞金40万ユーロ(約6,800万円!)が授与されました。ビルバオ・ビスカヤ・アルヘンタリア銀行を資金母胎とするだけあって、ノーベル賞に双璧する賞金額が目を引きます。細川さんは「その作品の並外れた国際的影響力」が評価され、「日本の音楽の伝統と現代西洋の美学の間に橋を架けた」として受賞に到っていますが、近年の受賞者を見ても、J.ベンジャミン(藤倉大さんの師匠)、T.アデス、P.グラス、A.ペルト、J.アダムズ、K.サーリアホと歴史に名前を残すであろう世界的に著名な作曲家が並んでおり、この列に音楽・オペラ部門として初めて東洋人が名前を連ねることになったことは大変に喜ばしく誇らしいものを感じます。細川さんが「日本の音楽の伝統と現代西洋の美学の間に橋を架けた」と思われる代表作の1つを現代音楽のスペシャリティーである指揮者のS.カンブルランさんが古巣の読響を率いて演奏するというので聴きに行くことにしました。1曲目の感想は割愛し、現代音楽2曲の感想を簡単に残しておきたいと思いますが、東洋と西洋のファンタジーが交錯する次代に残る名曲2曲に非常に満足度の高い演奏を楽しめました。ヴラヴィー!
 
②月夜の蓮-モーツァルトへのオマージュ-
パンフレットには「2006年、モーツアルト生誕250年を記念して、北ドイツ放送は世界の4人の作曲家に新作を委嘱した。条件は作曲家ごとに異なるカテゴリーを指定し、カップリングするモーツァルトの曲を選ばせ、それと同じ楽器編成で新作を書くこと。細川俊夫はピアノ協奏曲第23番イ長調を選んだ。」と解説されています。ピアニストの北村朋幹さんはコンテンポラリー弾きとして頭角を現わしていますが、その研ぎ澄まされたデリケートなタッチにより静寂から生まれた音粒が空間へと澄み渡り静寂へと回収されて行く静謐にして深淵な演奏に息を呑みました。水墨画の余白が描く世界観のように、音粒の先に広がる静寂を聴かせる音楽であり、それは標題の「月夜の蓮」の佇まいをイメージさせる詩的な幻想美を湛えていました。S.カンブルランさんと読響も細部まで配慮の行き届いた息を呑む好演で幽けき持続音とトリルが精妙に移ろい、それらが幾重にも重なり合いながら生成(沼の水面上=生のメタファー)と消滅(沼の水面下=死のメタファー)を繰り返す生滅流転の世界観を体現しているように感じられ、その深淵な精神性と共に大きな音楽が聴こえてきました。蓮は、沼底の地下茎から発芽して水面に葉を広げ、花托を伸ばして蕾(未敷蓮華)を結びますが、その張り詰めた静寂の中に息衝く生命力の気配のようなものが感じられる音楽で、フランス人俳優のジャン・ルイ・バローさんが観世寿夫さんの演能を鑑賞された際の言葉「能の静止は息衝いている」という言葉を思い出しましたが、沼の水面下を橋掛り、沼の水面上を本舞台、蓮の蕾をシテに見立て音楽にプロジェクションして鑑賞していましたが、西洋音楽を使いながら日本の伝統的な美意識の深淵に迫る作品に圧倒されました。最後に、北村さんが爪に灯を灯すような繊細なタッチでモーツァルトのピアノ協奏曲第23番第二楽章の残照を薫らせていましたが、月夜(モーツァルト又はピアノ協奏曲第23番第二楽章のメタファー?)に誘われて蓮の蕾が頭を擡げて開花しようとしているイメージと重なってこの世の「儚さ」が募る極上の音楽に心酔しました。この曲の余韻は休憩を挟んで次の曲の演奏が開始されても続いていたことを告白しますが、次の世代にも聴き継がれるであろう稀代の名曲を(当日は細川さんも会場に見えられていましたが)作曲家と同じ空間で受容できた幸運に心から感謝したい気持ちです。さながらモーツァルトと一緒にピアノ協奏曲第23番を受容してしまったような得難い体験です。ヴラヴィー!!アンコールは、C.シューマンのピアノ曲「蓮の花」(原曲:R.シューマンの歌曲「蓮の花」)が演奏されましたが、左手の幻想、右手の憧憬が繊細に絡み合う夢見心地の演奏を楽しめました。因みに、来る7月12日から七十二候「蓮始開」(蓮の花が咲きはじめる季節)なので、この曲を聴きながら蓮見の宴で夕涼みと洒落てみるのも良いかもしれません。
 
③シューマン・ファンタジー(日本初演)
パンフレットには「音響や作曲技法の新しさに価値を置くモダニズムの時代には既存作品の編曲はあまり好まれなかったが、1990年ごろから原曲の解釈を加えた「創造的編曲」(又は「作曲された解釈」)はよく行われている。」としたうえで、「1997年の「シューマン・ファンタジー」は、ツェンダー自ら「作曲された解釈」と呼ぶ作品群の一つである。「作曲された解釈」とは一種の編曲なのだが、単に異なる楽器編成にするだけではなく、独自の解釈を加えて音を増減する。」と解説されています。この曲はR,シューマンのピアノのための「幻想曲」ハ長調作品17が原曲になっており、原曲のフラグメントが随所に使われていましたが、某TV番組「大改造!!劇的ビフォーアフター」よろしく、原曲の面影は残しながら原曲の基礎や間取りから徹底的に手を入れてインテリアも一新してしまうなど、原曲を換骨奪胎して全く新しい作品へと生まれ変わらせたうえで、原曲を凌駕し又は原曲にはなかった魅力まで追加することに成功している新作と見紛うばかりの出来映えです。これだけの傑作が日本で初演されていなかった事実に愕然とさせられます。その意味では、この曲を日本に紹介してくれたS.カンブルランさんと読響に心から感謝しなければなりません。P席後方のバンダ(弦)、舞台裏のバンダ(金管)がソリスト、本舞台のオーケストラがトッティーという位置付けで対置され、バンダが前奏曲と間奏曲を微分音、不協和、ノイズなど現代的な響きで演奏し、オーケストラが原曲を素材とした3曲を演奏しましたが、単に原曲にオーケストレーションを施した編曲とは異なり、上述のとおり原曲の美観は残しながらも原曲を大胆にスクラップ&ビルドし、斬新かつ独創的にデフォルメしてユーモアまで塗布してしまうなど匠の技とセンスが冴え渡る作品に生まれ変わっており、その結果として原曲とは全く別の地平を切り拓く傑作へと昇華してしまう辣腕に感服しました。芸術に進歩主義的な考え方は馴染みませんが、現代作曲家の才能が歴史上の偉大な作曲家と比べて劣らないばかりか、これを凌駕し得ることを証明してみせるような作品に嬉しくなりました。ドーパミンが大量に分泌されていることが分かる面白さが随所に散りばめられ、まるで微睡んでいるような多彩なファンタジー(西洋的な幻想美)に魅了される至福の演奏を堪能できました。ヴラヴィー!!
 
 
▼エンタメ大国 日本
日経新聞電子版(2025年6月30日)に「時価総額、エンタメが自動車抜く 上位9社で見えた日本株高の原動力」というタイトルの記事が掲載されましたが、日本の産業構造が大きな転換期を迎えているようです。この点、日本は20世紀までは製造業を中心にして大量かつ均質な「モノ」(所有の対象)を作ることが重視されていた時代であり「技術大国 日本」と評されてきましたが、バブル崩壊によるショックから過去の成功体験にしがみ付いてきた「失われた30年」の間に凋落を招きました(WIPOが公表している世界イノベーション指数で世界第13位)。しかし、このままでは終わらず、2010年からのクールジャパン戦略が奏功したものなのか、現在ではエンタメ業を中心にして斬新かつ独創的な「コト」(共有の対象)を体験することが重視されている時代であり「エンタメ大国 日本」として世界から注目され(METIが公表している世界コンテンツ市場の規模で世界第3位)、その兆候を裏付ける1つのインシデントとして上記の新聞記事を捉えることができるかもしれませんし、また、前回のブログ記事で触れた新作オペラ・ブームも、このような時代の価値観の変遷が生んだ潮流と捉えることができるかもしれません。20世紀の「どう作るか」(方法)から、21世紀の「どう楽しませるか」(世界観)という発想の転換が必要です。
 
▼21世紀の新しいアウラ(その2)
過去のブログ記事で21世紀の新しいアウラ(その1)として音楽生成AIや画像生成AIの創作物が人間の能力を凌駕しつつあることに触れましたが、今回は動画生成AIを採り上げてみたいと思います。2025年7月18日(金)から映画「鬼滅の刃 無限城編」第一章が全国公開されますが、そのシリーズのAI実写の試作が数多くアップされており、アニメの世界観を損なうことなく新しい魅力を創出することに成功していると思われるものが多いので、適正に権利処理されているものと信用してご紹介します。AIアートと同様に人間の能力を凌駕したところに成立している再現性の低いリアルなヴィジュアルに息を呑みます。このアニメが体現している日本の伝統美という古いものと現代物理学の世界観という新しいものを共存させながら、バーチャルとリアリティーの境界を無効にしてしまう異次元の表現力に21世紀の新しいアウラが顕在し始めています。

東京藝術大学奏楽堂モーニング・コンサート2025(第3回/作曲:森口達也、佐藤伸輝)と弦理論交響曲「Consciousness」(量子フェス/作曲:ヤニック・パジェ)と新作オペラ「船はついに安らぎぬ」(作曲:永井みなみ、脚本:河野咲子)と「この世界のムラを育む」 < STOP WAR IN UKRAINE >

▼ブログの枕「この世界のムラを育む」
前々回のブログ記事及び前回のブログ記事ではちびっ子達にも直観的にイメージし易いような表現で「宇宙誕生の物語」と「対称性の破れ」にごく簡単に触れましたが、その文脈からさらに話を身近な世界に引き寄せて、この世界の「ムラ」を育むという視点から最近注目を集めている子育てにおける「芸術士」の役割について簡単に触れてみたいと思います。過去のブログ記事で2025年問題に絡めて出生者数の漸減傾向に簡単に触れましたが、先日、厚生労働省が公表した人口動態統計によれば2024年の出生者数が70万人を下回って過去最低になったそうです。一層、少子化対策に注力して行かなければならない深刻な状況ですが、この漸減傾向を反転させることは容易ではないと思いますので、その対策と併せて「数」から「質」の戦略に発想を転換することも必要ではないかと思います。先日、過去のブログ記事でも紹介したSTEAM教育を導入している栃木県の公立高校で教育成果が現われ始めているという新聞記事を拝見しましたが、血によって受け継がれるムラ(遺伝)努力によって育まれるムラ(教育)の関係について簡単に概観しておきたいと思います。人間の脳の基礎は12歳頃までにはほぼ形成され、この時期までにパーソナリティー(その人らしさ)の土台も整えられますので、小学校(~12歳)では子供を大人にするための教育を主目的とし、中学校以降(13歳~)ではそれを前提として社会に適応させるための教育を主目的にしています。この時期になると、学習、体験や人間関係などの環境要因(社会的なムラ)がトリガーになり、その遺伝的な素質(生物的なムラ)が能力(個性的なムラ)として発現すると言われていますが、DNAのメチル化やヒストンのアセチル化などの化学的な装飾(偶然的なムラ)によっても能力(個性的なムラ)の発現の仕方が異なること(エピジェネティクス)が分かっています。現時点では、生物的なムラや偶然的なムラはコントロールできないとされていますので、生物的なムラから個性的なムラを多彩に引き出すために社会的なムラを多様に仕掛ける工夫(主に教育)が必要であると言えるかもしれません。この点、下表のとおり学力は遺伝率(生物的なムラ)が40~70%、環境(社会的なムラ)が30~60%を占めていますが、その環境(社会的なムラ)のうち20~30%は共有環境(親が子供に提供する物的な資源及び人的な資源)と言われていますので、「この世の沙汰は金次第」という現実と同様に「この世の能力は親次第」(鳶は鷹になれない)というシビアな現実を裏付けるデータになっており、子供の努力だけで残り10~30%の可能性を使って鷹になることを期待してみるのは些か酷な注文とも言え、親が鷹の目を持って子供に潜在する遺伝的な資質を見極め、それを能力として発現するための教育機会を与えることで鷹にも劣らぬ一流の鳶になる手助けはできるかもしれません。現在、小学校の教育現場でアクティブラーニングという学習方法(生徒を能動的に授業に参加させてグループで討議したり共同で作業するなどの学習方法)が採り入れられていますが、その功罪の1つとして、一律に子供を教育することで学習の多様性が損なわれているという問題が指摘されており、教育リソースの問題と共に、この世のムラをどのように育むのか慎重な選択が求められています。
 
▼この世界で育まれるムラの分布率(行動遺伝学)
能力 遺伝率 環境
IQ(知能) 50~80% 20~50%
学力 40~70% 30~60%
芸術 50~80% 20~50%
スポーツ 60~80% 20~40%
※上表の数値は統計学的なデータで、個人の能力について何%が遺伝で決定されるのかという平均値を示すものではありません。
 
トーマス・エジソンが「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」という名言を残していますが、上述のとおり学習、体験や人間関係などの環境要因(社会的なムラ)がトリガーになり、その遺伝的な素質(生物的なムラ)が能力(個性的なムラ)として発現するという関係性が端的に表現されています。この天才的な1%のひらめき(生物的なムラ)がなければ99%の努力(社会的なムラ)も実を結ぶ機会を得られないという意味では、遺伝的な素質(生物的なムラ)を育み、それを活かすことができる教育法が有効です。現在、世界では「モンテッソーリ・アプローチ」と「レッジョ・アプローチ」という2つの教育法が広く知られており、これらの教育法が目指す基本的な人材観には共通点が多いと思いますが、それぞれのアプローチの違いから生まれる特徴的な傾向を簡単にご紹介しておきます。モンテッソーリ・アプローチは1907年にイタリア人のマリア・モンテッソーリが提唱した教育法で、人間の成長段階(~3歳は無意識的吸収、3歳~は意識的吸収など)に合わせて「自分一人で出来る」ことをコンセプトにしており、そのため「自己選択」や「自己肯定」を重視して独創性・自律性を育むという特徴が挙げられます。この点、ウォール・ストリート・ジャーナルはアメリカの巨大IT企業の創業者など世界的に成功している天才型の起業家に共通する点としてモンテッソーリ・アプローチを挙げており、これらの成功者をモンテッソーリ・マフィアと呼んでいます。これに対し、レッジョ・アプローチは1963年にイタリア人のロリス・マラグッツィなどがレッジョ・エミリア市で提唱した教育法で、個人教育ではなく人と人との関係性を踏まえたグループ教育を重視して協調性・社会性を育むという特徴が挙げられます。この点、日本の中小IT企業の創業者など努力型の経営者に多いタイプと言えます。それぞれの教育法の特徴の裏腹として、モンテッソーリ・アプローチでは独創性・自律性が育まれる一方で、個人教育により個性が磨かれるので協調性や集団行動に苦手意識を持つ傾向(ソリスト・タイプ:科学者、芸術家など)があるのに対し、レッジョ・アプローチでは協調性・社会性が育まれる一方で、グループ教育により認知バイアスが働き易いので独創性や自己主張に苦手意識を持つ傾向(トゥッティー・タイプ:公務員、会社員など)があると言われています。日本では、2024年から香川県でレッジョ・アプローチを採り入れた「芸術士派遣事業」(美術家、音楽家、舞踊家などのアーティストを芸術士として保育所などに派遣し、子供達と一緒にアート作品を創作する活動)を開始しており、その取組みが全国で注目を集めています。この点、教育における芸術は「目的」ではなく「作用」に意義があると考えられており、従来型のアセスメント(カリキュラムを消化することを目的として正誤や優劣を重視)ではなく、子供達の声を聞きながら子供達に問いを発することで子供達がグループ教育の中で主体的な探求心を育むことが重視されています。どちらのアプローチに優位性があるのかという問題ではなく、この世界のムラを育むにあたり、どのような人材観を持ちどのような教育効果を企図するのかによって、この2つのアプローチを上手く使い分けて行くことが重要と言えるかもしれません。
 
▼この世界のムラを育む諸相
専門家 対象 関係者 目的 手法 活動 自由度
教師 児童 学び方 教育 授業
ME 大人 学び方 解釈 WS
芸術士 幼児 学び方 育児 創作
学芸員 大人 見せ方 保管 研究
CU 大人 見せ方 編集 展示
※ME:ミュージアム・エデュケーター、CU:キュレーター
 
▼東京藝術大学奏楽堂モーニングコンサート2025(第3回)
【演題】東京藝術大学奏楽堂モーニング・コンサート2025(第3回)
【演目】①森口達也 インテルヴァルム・イン・スパティオ 
    ②佐藤伸輝 亜細亜音楽便覧+
【演奏】<Cond>ジョルト・ナジ
    <Orch>藝大フィルハーモニア管弦楽団
【日時】2025年6月12日(木) 11:00~
【会場】東京藝術大学奏楽堂
【一言感想】
1971年から開催されている半世紀以上の歴史を誇る東京藝術大学奏楽堂モーニングコンサート(モニコン)ですが、器楽科や声楽科の学生との共演や作曲科の学生の作品の演奏を行うための教育プログラムという位置付けで、大学の授業や学外の演奏活動とバッティングし難い時間帯として木曜日午前中の開催になっているようです。よって、客層も自ら高齢者や学生に限られることになりますので、些か慎ましやかな演奏会にならざるを得ないのは仕方がありません。但し、藝大フィルハーモニー(プロオケ)による公開演奏会なので、モニコンで採り上げられた作曲科の学生の作品のうち初演のものは尾高賞の選考対象になり得るという意味で国立大学ならではの手厚い教育的な配慮になっています。
 
①インテルヴァルム・イン・スパティオ
パンフレットには「抽象画をイメージしたモチーフを、時に予兆のように、時に記憶の残響のように描いた。聴き手の内面に眠るイメージとの共鳴を促し、具体ではなく抽象を、直線ではなく揺らぎを選ぶことで、空白の情景をひとつの心象風景へと立ち上げることを意識し」て作曲されたと記されています。「非線形」「非具象」と形容されているように、幽けき音響から取り留めもない音塊がランダムに発火しては収束することを繰り返し、時折、記憶の残響でしょうかサイレンなどのサウンドスケープ(生活音のアイコン)が生起するなど、雑然とした無意識的な脳内を音響的に表現したような作品に感じられました。前回のブログ記事でも記載したとおり、現代音楽は「感情」→「知覚」、「物語」→「現象」、「理解」→「体験」へと表現を拡張し、とりわけ「知覚」(環世界、マクロの世界)の限界(認知バイアス)から認識を解放して世界の実相(環境世界、ミクロの世界)へと認識の拡張を試みるようとする作品が増えてきたように感じられ、人間が「知覚」できるものを世界の全てであると誤解し、それを絶対的、普遍的なものであると盲信してきたことが現代の様々な歪みを生んできた猛烈な反省から、人間の「知覚」(刺身)を超えたところに成立している言葉では切り取れない世界の実相(魚)に認識を解放するために芸術に期待されている役割は大きく(刺身=肴<魚)、その意味でこの作品は非常に有意義な試みではないかと感じられます。
 
②亜細亜音楽便覧+
パンフレットには「中国の「紅歌(プロパガンダソング)」に焦点を当て、音楽が持つ政治的な性格を浮き彫りにすることを目的としている。(中略)これらが持つ過剰な高揚感を意図的に断片化したり、逆に極端に引き延ばすことで、音楽のもつ極めて扇動的な性格を浮き彫りにすることを試みた。音楽は本当に純粋なものになり得るのか。それとも、私達はあらかじめ構築された「物語」の中で踊らされているのか。」と記されています。中国のイメージを象徴する音のアイコンや紅歌(プロパガンダソング)の断章などが散りばめられ、それらが忙しなく交錯する玉石混交とした音楽が展開されました。さながらある時代の中国の世相をサウンドスケープとして切り取って考察した社会派の作品と言えるかもしれませんが、決して斜に構えた取っ付き難さのようなものはなく、これをデフォルメして遊んでしまうたっぷりとした諧謔性や中国の牧歌的な風情などが感じられる作風に好感しました。前回のブログ記事でも触れたとおり、日本は中国に忖度して「皇帝」と名乗ることを遠慮して「天皇」に改称するなど、常に中国の顔色を窺いながら微妙なスタンスをとり続けてきた歴史がありますが、強烈なプロパガンダを含め、これだけダイナミックでバラエティー豊かな音楽を畳み掛けられると、中国が持つ潜在力の高さに舌を巻きます。インターネットが普及したことで世界が相対化して権威主義的なもの(アカデミズムを含む)が持つ「私達のナラティブ」(例えば、長嶋茂雄さんのメークドラマに象徴されるような共感バイアス)が成立し難い時代になりましたが、プロパガンダもいじられてしまうようなバイタリティー豊かな現代の時代性を体現する「時代の息遣い」のようなものを感じさせる面白い作品でした。
 
 
▼量子フェス
【演題】国際量子科学技術年(2025年)記念イベント
    量子フェス
【演目】ヤニック・パジェ 弦理論交響曲「Consciousness」 
【演奏】<指揮・パーカッション・電子機器>ヤニック・パジェ
    <Vc>ウィリアム・プランクル
    <Cl>中村真美
    <Euph>川原みきお
    <Sop>谷村由美子
    <Orch>N'SO Kyotoオーケストラ
【科学アドバイザー】橋本幸士(京都大学大学院理学研究科教授)
【映像ディレクション】アレクサンドル・モベール
【リアルタイムビジュアル】サガール・パテル
【照明デザイン】木内ひとみ
【日時】2025年6月14日(土)19:30~
【一言感想】
1925年にW.ハイゼンベルクが行列力学を発表したことを契機として量子力学の扉が開かれてから100年になりましたが、その理論はミクロの世界からマクロの世界までを解明することに大きく貢献し、スマホの半導体、ロボットの強磁性体、リニアモーターカーの超伝導体及び量子コンピュータなどの革新的な技術に応用されて社会実装されており、現代社会を支える不可欠な技術として浸透しています。このような状況を踏まえ、国連総会が2025年をユネスコの「国際量子科学技術年」として宣言し、世界各国では量子力学誕生100周年を記念して様々なイベントが開催されており、日本でも日本物理学会が中心になって量子フェスが開催されるというので参加することにしました。日本はDXの推進に出遅れ、その玉突きでAIの導入や開発でも世界の後塵を拝している印象を否めませんが、既に世界各国はDXからQX(量子技術の社会実装)の推進を精力的に展開しており、このようなイべントが日本におけるQXの推進の起爆剤になることが期待されます。日本では高校の物理の授業で現代物理学を教えていないところが多いと聞きますが、これからの時代に現代物理学は不可欠であり直観的に捉え難い特徴を持つことから早い時期から慣れ親しんでおく必要があるかもしれません。この点、日本科学未来館では量子の世界をゲーム感覚で体感するための展示やアトラクションなども常設されていますので、子供を連れて遊びに行くと充実した1日を楽しめるのではないかと思います。因みに、世界中から宇宙飛行士も日本科学未来館を来館されているようで、ご自分の顔写真にサインしている方が多いです。なお、世間では小泉米で沸いていますが、日本科学未来館にはお土産として宇宙米が販売されていますので、冷え切った家庭の団欒を温める夕飯の趣向として如何でしょうか。
 
▼量子フェスのプログラム
〇第一部「講演会」
①量子コンピュータ
 <講師>大阪大学大学院基礎工学研究科教授 藤井啓祐
②量子宇宙科学
 <講師>千葉大学ハドロン宇宙国際研究センター教授 石原安野
③量子通信
 <講師>株式会社東芝総合研究所研究主務 鯨岡真美子
④量子スピンエレクトロニクス
 <講師>東京大学大学院大学院工学系研究科教授 齊藤英治
〇第二部「講演会+演奏会」
⑤量子と芸術
 <講師>京都大学大学院理学研究所教授 橋本幸士
     ドイツ・ミュンスター大学教授 ステファン・ホイスラー
⑥演奏会
 弦理論交響曲「Consciousness」
 <作曲、指揮>ヤニック・パジェ
 <演奏>N'SO Kyotoオーケストラ
〇司会進行
東京理科大学理学部物理学科教授(日本物理学会理事) 山本貴博
東京都市大学教育開発機構准教授(日本物理学会AMB) 五十嵐美樹
日本科学未来館 科学コミューターの皆さん
 
上記の①~⑤:講演会
上記の①から⑤の講演会の内容をサマっていると一冊の本が書けてしまいそうなのでご興味のある方は次の機会にご参加を頂ければと思いますが、(会場には日本物理学会の会員や科学雑誌「Newton」の編集長など専門家の姿も多かったですが)日本物理学会で行われている最先端の専門的な議論とは趣きを変え、当代一流の研究者が一般の素人にも量子力学を無理なく理解できるように分かり易い説明に努めた公演内容になっており、寧ろ、高校の物理の教師などが受講すると大変に参考になったのではないかと思います。ご案内のとおり量子力学が記述するミクロの世界は、マクロの世界しか知覚できない人間にとって直観的に理解することが困難な世界観を持っていますが、東大教授の齊藤さんの言葉を借りれば、この世界を支配する根本的な物理法則なので、いま自分がどのような世界に生きているのかという根源的な疑問と向き合ううえで決して避けては通れない身近な問題を扱っている学問と言えるのではないかと思います。開演前の会場にはループ・ミュージック(量子スピンのメタファー)やジャンルは分かりませんでしたがシタールが使われている音楽(ゼロ点エネルギーのメタファー)が流されており、日本物理学会の迷宮へと誘われるようなホスピタリティに僕の小さな脳も温められました。①阪大教授の藤井さんが量子の重ね合わせの状態を直感的に理解し易い表現で説明されており大変に参考になりました。②千葉大教授の石野さんが宇宙から届く兆しを如何にキャッチしてそこからどのように見えない世界を記述していくのかという途方もない話が非常に興味深かったです。③東芝総研の鯨岡さんが量子暗号の社会実装について説明していましたが会場には産業界の方もいて関心の高さが窺えました。④東大教授の齊藤さんが身近な磁石を例に挙げて量子の基本特性をNHKの科学番組並みに分かり易く解説されていましたが人間が直観的に理解し難い量子データの解析にはAIが活用されているという話が非常に興味深かったです。⑤京大教授の橋本さんは西洋音楽は(スペクトル音楽や微分音を除けば)半音単位の離散的な音程で構成されていることからその特徴に着目して量子数と対応づけて和音を構成するというアイデアなどから交響曲の創作を着想されたそうです。また、ミュンスター大教授のホイスラーさんは芸術は時代や文化に応じた個性的なものであるのに対して科学は時代や文化を超越した普遍的なものでありそれらの性格は真逆ですが、「数音統一」という考え方を考案して量子力学の世界観が持つ美しさを音楽で表現することに取り組まれているそうです。なお、丁度、関西万博が開催されていますが、1970年の大阪万博の西ドイツ館で生演奏を披露したK.シュトックハウゼンなども物理モデルを作曲法に応用したことで知られていますが、現代音楽以外の分野でも量子力学を題材とした作品は多く、阪大教授の藤井さんによれば、最近では宇多田ヒカルさんや星野源さんも量子力学から着想を得て楽曲を創作しているそうです。かつては人間が知覚できない神の世界を体感するために芸術作品が利用されましたが、現代では人間が知覚できない量子の世界を体感するために芸術作品が利用される時代になっています。かつて人類は神というブラックボックスを作って人智が及ばない領域を神秘として片付けていましたが、人智が及ばない領域を神秘というベールで覆い隠しまうのではなく、その実相に迫りこれを正しく記述することに挑戦しており、その世界観を体感するための1つの方法として芸術に期待される役割も大きいと言えるのではないかと思います。
 
上記の⑥:演奏会
パンフレットには「作曲家ヤニック・パジェと物理学者橋本幸士の共同研究から生まれ、素粒子物理学の数式に基づく、新たな音楽言語で構成されています。このパフォーマンスは、科学の概念を音楽に翻訳し、観客に物理学の世界を新たな感覚で体験してもらうことを目的としています。」と記されています。さながらI.クセナキスの「ノモス・ガンマ」にインスタレーションやエレクトロニクスなどの要素を追加して現代的に進化させた作品という印象を受けましたが、会場の中央(地球儀の下)に指揮者とオーケストラの本隊、それを東西南北から取り囲む客席、その客席の後方4か所にオーケストラのバンダ隊、ビジュアル・アートやライブ映像を映すためのスクリーンとライブ・エレクトロニクスを再生するためのサラウンド・スピーカーを配置する大規模な編成による規格外の音楽を楽しむことができました。初聴の曲をライブで一聴しただけなので漠然とした第一印象のみをごく簡単に残しておきたいと思います。なお、現在、開催中の関西万博は目玉となるような話題性のある企画に乏しく、あまり注目されていないように感じますが、例えば、この曲のライブ演奏を世界に一斉配信するような企画などがあっても面白いかもしれません。この曲は標題にあるとおり「弦理論」(素粒子とその相互作用を引き起こす4つの力を一次元の弦の振動として記述する理論)を題材にしたもので、第一楽章(電磁気力)、第二楽章(強い力:セラモフォン協奏曲)、第三楽章(弱い力:オーケストラ即興奏)、第四楽章(重力)、第5楽章(第五の力一統)で宇宙を支配している4つの力とそれらが1つに統合されていた状態を記述するための万物の理論を表現しており、前々回のブログ記事及び前回のブログ記事でごく簡単に触れたとおりエネルギーから物質(素粒子→原子→分子)が生成され、その相互作用(力)によって宇宙の構造が誕生する様子がオーディオ&ビジュアルで描かれていました。第一楽章は電磁気力(その力を伝える素粒子は光子)を表現したものですが、エレクトロニクスによってノイズ(対称性)が奏でられ、そこからオーケストラが弱音で奏でる和音やリズム(対称性の破れ)が生まれ、その和音(音の重なり:空間)やリズム(音の連なり:時間)がパターン(音のムラ:構造)を作って行く様子が描かれているように感じられましたが、上述のオーケストラ配置が空間的な広がり(運動の方向)を体感させる効果を生んでいました。第二楽章は強い力(その力を伝える素粒子はグルーオン)を表現したものですが、冒頭の銅鑼の一撃で会場に響き(場)が充満し、オーケストラがロングトーン(弦)を奏でると、それがライブ・エレクトロニクスを使って電子的なサウンドスケープ(波)に変換されて空間的に広がって行く様子を音響的に演出しているように感じられました。陶芸家の黒川透さんが弦理論をテーマとした音楽彫刻「セラモフォン」をヤニック・パジェさんが演奏し、その硬質で冷たい音響特性は強い力によってハドロンに永久に閉じ込められたクオークを連想させました。様々な特殊奏法により多様な素粒子が生成され、微細なリズムが密度を濃くしながら多様な素粒子が集積している様子を表現しているように感じられました。第三楽章は弱い力(その力を伝える素粒子はWボソン、Zボソン)を表現したものですが、原子核内部のベータ崩壊と言われても一般の素人には分かり難いので、これを直感的に理解し易い太陽内部の核融合反応の誘発という具体的な現象として表現されていました。リズムのモチーフを受け渡しながらテンポの緩急を繰り返して徐々に音楽のテンションを高めて行く様子は核融合反応により膨大なエネルギーが生成されていく様子を表現しているように感じられました。弦がコル・レーニョからテヌートへと変化していきましたが、局所的な現象が連鎖反応しながら全面的な現象へと発展して行く様子が描かれているように感じられました。全曲を通して言えることですが、サウンド&ビジュアルが相互に作用することで、この曲の世界観を豊かに広げてくれる効果を生んでいたと思います。昔、「純音楽」というプリミティブな言葉がありましたが、機能和声などを駆使して主に人間の感情などを表現する従来のクラシック音楽(加減乗除のシンプルな世界観)とは異なり、人間中心主義という認知バイアスから脱却して世界の実相に迫るコンテンポラリー作品(微分積分、素因数分解のコンプリケートな世界観)ではビジュアルアートなどの他分野とのクロスカルチャー的な手法を駆使する必要性が高いのではないかと感じます。第四楽章は重力(その力を伝える素粒子は未発見の重力子)を表現したものですが、スピッカートによる微弱音の集積により物質が生まれて行く様子が描かれているように感じられ、それがライブ・エレクトロニックスを使って電子的なサウンドスケープに変換されて重力波として空間に広がっていく様子が表現されているように感じられました。さながらラベルのボレロを彷彿とさせる曲調で宇宙に複雑な構造が生まれて行く様子がダイナミックに描かれているように感じられました。第五楽章は第五の力(4つの力が統一された仮説上の力)を表現したものですが、定型のリズムが繰り返され、徐々にテンポを競り上げながら大きなクライマックスを築くと、この写真のあたりにソプラノの谷村由美子さんが登場して天から降り注ぐような美しいハミングを歌われ、これに弦がユニゾン、管打がオスティナートで調和して1つの統一された美しい世界観を描き出しながら大団円になりました。それは宇宙を支配する万物の理論を頂く神々しさが体現されているようであり、神にロマンを見い出すことが難しくなった現代にあって、神の言葉を借りることなく精度の高い言語(数学)を使って宇宙、星及び生物を貫く根本的な物理法則を解明しつつある量子力学はロマンを感じることができる数少ない分野の1つであり、現代人の認知バイアスを打ち破り全く異なる世界観を拓いてくれる本当に刺激的なもので、その世界観を描く芸術表現に圧倒的なカタルシスを感じます。もはやもマタイ(神の栄光)や第九(人間の理想)が描く世界観だけでは心時めきません。
 
 
▼新作オペラ「船はついに安らぎぬ」
【演題】新作オペラ「船はついに安らぎぬ」
【作曲】永井みなみ
【脚本】河野咲子
【演出】吉野良祐、喜多村泰尚(助手)
【ドラマトゥルク】伊藤靖浩
【出演】<エリザ>鈴木遥佳
    <エリザのエコー>東幸慧
    <ポオ>櫻井陽香
    <プロスペロ/父>奥秋大樹
    <プロスペロ/子>高橋拓真
    <イズミ(略奪隊)>北見エリナ
    <キヨラ(略奪隊)>小林可奈
    <ムラサキ(略奪隊)>筒井絢子
    <アルベール(火夫)>竹内篤志
    <サミュエル(火夫)>寺田穣二
    <フランツ(火夫)>森川知也
    <夜会の王子役>鷹野景輔
    <夜会の歌手>上田彩乃
    <夜会の歌手>山田健人
    <船員/乗客/エコー>池澤真子、伊藤和奏、上原梨華子、大平遥菜
               鈴木花安、田中未来、三神祐太郎、藤田魁人
【指揮】鈴木恵里奈
【ピアノ】石川美結、佐藤響
【打楽器】永野仁美
【コレペティトゥア/副指揮】小松桃
【舞台監督】小田原築(アートクリエイション)
【舞台監督助手】福島達朗
【照明】芥川久美子(ライトシップ)
【衣裳】相川治奈
【メイク】徳田智美
【制作】花岡香梨(統括)、柴田崇考、小林愛侑
【広報】冨澤麻衣子、上原梨華子
【主催・制作】Novanta Quattro
【日時】2025年6月21日(土)14:00~
【会場】成城ホール
【一言感想】
ヴラヴィー!今日は東京を拠点として活動する若手のオペラカンパニー「Novanta Quattro」(ノヴァンタ・クワトロ)の新作オペラ「船はついに安らぎぬ」の世界初演があるというので聴きに行きましたが、最近の傾向として新作オペラは人気が高く本日も満席になる盛会でした。このオペラには「幻想怪奇オペラ」というニックネームが付されていますが、これまでのオペラとは異なる世界観を持つもので、そのユニークな世界観と完成度の高い舞台に魅了されました。現状では、どれほど優れた作品であっても一度限りの公演で使い捨てのように終わってしまう勿体ない状況がありますが、このオペラのような優れた作品の再演機会を生み出す社会的な仕組みが必要ではないかと感じています。この点、メトロポリタン歌劇場ではアメリカ国内外で初演された新作オペラや現代オペラをリサーチし、その中からメトロポリタン歌劇場の上演に相応しい作品を選んでレギュラーシーズンにかけることを専門とするアーティスティック・チームが存在するそうですが、そろそろオペラ界でもミュージカル界と同様にオフ・ブロードウェイで上演された作品のうち優れた作品を選んでオン・ブロードウェアで採り上げることで業界全体を盛り上げて行くような社会的な仕組みが出来ても良さそうです。沢山の新作( ≠ 新制作)の中から優れた作品を選りすぐり、それを幅広い観客に紹介するというマッチング・システムが未整備又は脆弱な印象を否ません。本当はそのような役割を新国に期待したいところなのですが、残念ながら新国の現状や実態を拝察する限りそのような志があるのか否かを含めて些か荷が勝ち過ぎる印象を受けますので、どこかの有為な劇場でこのような役割を担って頂けるところはないものかと観客の立場から念願して止みません。なお、拙ブログの今年の新年の挨拶では「新作オペラ」ブームの到来について触れ、今年の抱負として「新作」のフィーチャーを掲げましたが、最近では若手の世代や一部の老練古参な音楽家を中心に新作オペラの上演が目白押しで(これまでにも紹介している新作オペラ「ナターシャ」新作オペラ「奇跡のプリマドンナ」以外にも、(残念ながら僕は聴きに行くことができませんが)レクチャーパフォーマンスオペラ「ゼッタイ絶体絶対音感主義者」(神奈川県)、新作オペラ「平家物語-平清盛-」(埼玉県)、新作オペラ「みづち」(滋賀県)、新作オペラ「SUN-サン」(三重県)や新作オペラ「サラリーマン金太郎」(東京都)など枚挙に暇がなく、色々と目移りしてしまうような状況に歓喜しています)、しかも今後の展開が楽しみな稀有な才能も多い印象を持っています。最近、若者のオペラ離れが懸念されていますが、このような革新を生み出す活力があれば、決してオペラの未来は暗いものではないと頼もしく感じています。さて、このオペラは音楽、脚本、演出及びはハイ・パフォーマンスな歌手陣などの幸福な出会いが生んだ完成度の高い見応えのあるオペラでしたので、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。このオペラは、作家の河野咲子さんがエドガー・アラン・ポー(江戸川乱歩)の怪奇小説「赤き死の仮面」を原作にして脚本を手掛けていますが、河野さんは著書「水溶性のダンス」で第5回ゲンロンSF新人賞(2020年)を受賞している奇才で、(本作から受けるファースト・インプレッションとして)シュルレアリスム的な世界観を詩的な表現で幻想的に彩る作風が魅力に感じられます。「分からせる」(伝える)ための言葉ではなく、さながら和歌を詠むように「感じさせる」(伝わる)ための言葉は観客の理性のフィルターをスリ抜けて情動に直接に働き掛け、心をハキングする浸透力を持っているように感じられます。色々な日本語オペラを鑑賞してきまたが、個人的には古典語ではなく現代語を使ったオペラで、こんなに洗練された歌心を感じさせるオペラを鑑賞するのは初めての経験かもしれないことを告白しておきましょう。ミュンヘン音楽演劇大学修士課程で研鑽を積まれている作曲家の永井みなみさんは豊富な音楽的ボキャブラリーを駆使するジャンルレスで着想豊かな曲調で楽しませてくれましたが、とりわけピアノの独奏パートは歌劇と独立した器楽曲としても十分に聴き応えがあるもので、永井さんの他の作品も聴いてみたくなりました。随所にコラージュ(第三場に登場するマエストロ・ポウが夜会の上演に間に合わせるために略奪隊が他の船から盗んできた楽譜や物語を組み合わせて新作オペラを作曲しているという状況設定を踏まえたものと思われます。因みに、マエストロ・ポオという名前はエドガー・アラン・ポーを文字ったものと思われ、この役をメゾ・ソプラノの櫻井陽香さんが演じているところを見ると永井みなみさんに擬えたキャラクター設定ではないかと思われますが、その意味ではメタフィクショナルな物語と言えるかもしれません。)を散りばめて古典と現代の狭間も往還する多様な音楽で最後まで弛緩することなく変化に富んだ音楽を楽しめました。また、指揮者の鈴木恵里奈さんは、台詞と歌唱をシームレスに紡ぐ声楽陣と、ピアノ、打楽器及びエレクトロニクスというストイックな編成によるリズミカルな伴奏で正気と狂気、喜劇と悲劇、現実と幻想などの狭間を劇的に彩る器楽陣とを間合い良くドライブする好演であったことを付記しておきたいと思います。開場から開幕までの間にナレーションが挟まれ、さながらギリシャ神話に登場する人間を惑わす海の魔女セイレーンが海底深くから囁き掛けてくるような幽き声とセイレーンの呪いの歌「死の女神の歌」(波風に乗せて紡がれる、言葉では切り取れない海の歌)がスピーカーから流されましたが、それに伴って会場の照明が徐々に落とされて会場全体がセイレーンに誘われるままに海底深くへと引き込まれて行くような演出効果が出色でした。開幕後、第一幕の第一場「セイレーンの海」では海底深くに沈んでいるプロスペロ親子の船体に船員達の遺体が漂い(現在)、エルザ(海の魔女セイレーン)とエルザのエコー(その魔力)が物語の顛末(過去)を回想するレトロスペクティブな構成になっていましたが、確定的な現在(現実)から不確定的な過去(怪奇)を回想するという予定調和な展開ではなく、不確定的な現在(怪奇)から確定的な過去(現実)を回想するという倒錯的な構成になっており、その独特な世界観が放つ磁力のようなものに惹き込まれました。エルザ役を演じるソプラノの鈴木遥香さんとエルザのエコー役を演じるソプラノの東幸彗さんが海を渡る波風の音に溶け込むような清澄な歌声で歌い添う二重唱が出色で、さながら能「二人静」のシテとツレの相舞を彷彿とさせるものがありました。冒頭から、この世ならざる者が顕在しているような独特な風情を醸し出す舞台は背筋が凍り憑くような幻想美を湛えるもので、歌手陣の卓抜した歌唱力に加えて、これだけの洗練された舞台を作り上げてしまうスタッフの総合力の高さに舌を巻きました。この初演をご覧になられなかった方は大いに後悔しても良いかもしれません、マジで(笑)第二場「甲板」では回想シーンとして過去に時間が巻き戻され、(地球温暖化の影響なのか)殆どの陸が水没して人類は船上生活を強いられながら他の船を襲撃しては生活物資を略奪することを繰り返していますが、プロスペロ親子の船でも毎晩のように略奪品を肴にしてマエストロ・ポオが作曲する新作オペラをエルザが上演する豪華な夜会が開催されているというイントロダクションがありました。器楽陣によるジャズ・テイストのリズミカルな伴奏に乗せて火夫、略奪隊、船員達による勇壮な合唱が歌われる一方で、プロスぺロ船長(親)はその威厳ある態度とは裏腹に自分にしか聴こえないセイレーンの呪いの歌「死の女神の歌」に狼狽し、心を病んでいる様子がピアノ(アナログ)とエレクトロニクス(デジタル)の不協和に乗せて歌われました。プロスぺロ船長(親)役を演じるバスの奥秋大秋さんはその威厳と狼狽の間で揺れ動くプロスぺロ船長(親)の心情を巧みな歌唱と演技で雄弁に表現する好演であったと思います。第三場「夜会-つぎはぎ」ではマエストロ・ポオが略奪隊が盗んできた楽譜をもとに作曲した新作オペラ(王子とダンスしている自動人形オランビアが故障して止まらなくなり最後には王子を殺してしまうグロテスクな物語)をエリザが上演しますが、エリザの歌声に誘われるようにプロスぺロ船長(親)の耳にはセイレーンの呪いの歌「死の女神の歌」が聞こえ始めるという場面でしたが、ドラムやゴング、チェンバロ、ハープ、ハンドネオンなどの打楽器とエレクトロニクスによってコミカルな雰囲気を持つコラージュ風の音楽が多彩に紡がれ、マエストロ・ポオの作曲活動や豪華な夜会の様子が活写されました。夜会の途中でプロスぺロ船長(親)が不協和に乗せて錯乱し始めると、ミニピアノや照明などによりエルドリッチな雰囲気が醸し出され、バンダのコーラスがセイレーンの呪いの歌「死の女神の歌」を歌いながら次第にアッチェレランドして狂気が支配的になって行くドラマチックな舞台展開に魅了されました。第四場「夜の歌」ではプロスぺロ船長(親)が狂い死にしてプロスぺロ親子の船は喪に服していますが、プロスぺロjr.(息子)はセイレーンの呪いに対する恐れを払拭するために豪華な夜会の再開を命じて、略奪隊、火夫や船員が活動を再開するという場面ですが、プロスぺロjr.(息子)が恐怖に狼狽する様子がピアノのトリルやドラムのロールによる緊迫感のある音楽で表現され、プロスぺロjr.(息子)役を演じるテノールの高橋拓真さんが不協和に乗せてプロスぺロ船長(親)の狂気が乗り移って行く様子を巧みな歌唱と演技で雄弁に表現する好演で、プロスぺロjr(息子)の姿にプロスぺロ船長(親)の姿が重なって見えてくる効果(うつり)が生まれていたと思います。これとは対照的に、活気付く船内の様子がリズミカルで躍動感のある全員合唱で歌われて第一幕が終幕になりましたが、この正気と狂気の対照が物語の陰影を深くする効果を生んでいたと思います。この夜会のオペラに登場する王子とはプロスぺロ船長(親)又はプロスペロjr.(息子)を暗示している劇中劇中劇のような舞台構造になっておりマンガ「鬼滅の刃」(無限城編)のタイトルを借りればオペラ「船はついに安らぎぬ」(無限劇編)というサブタイトルを付けたくなるような趣向に感じ入りました。なお、第一幕の何場であったのか忘れてしまいましたが、エルザとマエストロ・ポオが海面に映る星々(人間のメタファー)をつなげて星座の歌(まどろみ座、あやかし座、とこしえ座・・・)を歌いますが、この世のありのままを映し出す純粋にして残酷な自然の美しさを湛えるピースであり、このオペラの歌劇としての魅力を存分に印象付けるものであったことを付記しておきたいと思います。休憩を挟んで、第二幕の第一場「稽古場」では夜会の再開に向けてマエストロ・ポオが新作オペラの作曲に試行錯誤していますが、エルザが海から聞こえてきたという物語「赤き死の仮面」をマエストロ・ポオに提案して新作オペラを完成させるという場面ですが、ここでもエドガー・アラン・ポー(江戸川乱歩)へのオマージュとしてメタフィクショナルな構成がとられていました。マエストロ・ポオが新作オペラの作曲に試行錯誤する様子をバロック、ポップス、サンバなどのジャンルレスな音楽をコラージュしてミュージカル風のアリアとして歌いましたが、その後、エルザとマエストロ・ポオがエルザが海から聞こえてきたという物語「赤き死の仮面」を二重唱で語り歌い、さらに、これをエルザとエルザのエコーがデモーニッシュな雰囲気を湛えた二重唱で歌い継ぎながら徐々にセイレーンの魔力が舞台に立ち込めましたが、さながら能「二人静」のシテとツレの相舞を彷彿とさせる場面であり、エルザとエルザのエコーの声が光と影のように重なり合いながらこの世とあの世を結ぶ能舞台の橋掛りを声で演出する劇的な効果(声の橋掛り)を生んでいるように感じられました。あまりに見事な舞台に感服するほかなく、こうなると降参するしかありません。第二場「夜会-赤き死の仮面」では再開された夜会で新作オペラ「赤き死の仮面」(赤き死の病という疫病が蔓延する世界で王と臣下は城に立て籠もり仮面舞踏会を催していますが、赤き死の病人が仮面舞踏会に紛れ込んでしまうという物語)が上演されましたが、プロスペロjr.(息子)はこの夜会のオペラは虚構ではなく現実であると倒錯して上演を中止させましたが、第一幕の第四場のように劇中劇中劇が劇中劇、劇へ舞台が相移転してしまうオペラ「船はついに安らぎぬ」(無限劇編)の真骨頂とも言うべき劇展開に固唾を呑み、ヒステリックにテンポを競り上げながらプロスペロjr.(息子)が狂気に支配されて行く様子をドラマチックに表現する迫真の合唱が見事でした。やがて人間を惑わす海の魔女セイレーン(エルザとエルザのエコー)がプロスペロjr.(息子)に囁きかけると、これに惑わされたプロスペロjr.(息子)がセイレーンの魔力に執り憑かれたように言葉にならない海の歌(ハミング)を歌い添いましたが、ピアノが奏でる詩情豊かな旋律と波風の音型は背筋を凍り付かせるような美しさを湛えるものでした。これは音楽の表面的な美しさに留まらず物語の世界に共鳴した観客(僕)の心が音楽をプロジェクションしたことで生まれた感興(聴取体験)とでも言うべきものですが、近松門左衛門が虚実皮膜論で説く「うつり」とはこのようなことを言うのかもしれません。その意味でも、観客(僕)の心を強くハッキングしてしまう非常に完成度の高い舞台ではないかと思います。第三場「甲板」及び第四場「婚礼」ではプロスペロjr.(息子)が海の魔女セイレーンに惑わされてエルザと結婚するという場面ですが、活動を再開した船内の活発な様子がリズミカルでユーモラスな伴奏に乗せて火夫、船員、略奪隊によるジャズ・ミュージカル風の合唱として歌われましたが、やがて激しい音楽と渦を巻く照明などにより嵐に伴う荒波と雷鳴と共に船が沈没する様子が描写されました。第五場「セイレーンの海」では開幕前に回帰して海の魔女セイレーンが波風の音だけ残る海底深くから囁き掛けてくるような幽き声とセイレーンの呪いの歌「死の女神の歌」(波風に乗せて紡がれる、言葉では切り取れない海の歌)が聞こえ、「これは私の物語、マエストロの物語、そして、あなたの物語」という意味深長なナレーションと共に物語が締め括られました。随所に現代の時代性を象徴するような様々なインシデントが散りばめられ、現代人にも共感できる懐の広いオペラと言え、さながら成城ホールを船、観客一人一人をプロスペロ船長(親)又はプロスペロjr.(息子)として、河野咲子さんと永井みなみさんという二人静の相舞により紡がれるセイレーンの歌に大いに惑わされながら海上(現実)にいるのか海底(虚構)にいるのか倒錯し、虚実皮膜の間を漂っているような傑作に感じられました。ヴラヴィー!このような新しい芸術体験を求めていましたが、改めて、その卓抜した独創性と完成度の高さに惜しみない賛辞を贈ると共に、これだけの傑作が再演されずに埋もれてしまうのは非常に勿体ないことなので、どこかの大劇場(オン・ブロードウェイ)で採り上げて貰えないものかと熱望します。是非、このチームでの次回作も期待したいです。
 
 
▼映画「国宝」
マスコミなどで話題になっている映画「国宝」が去る6月6日(お稽古の日)から全国公開されましたので映画館で鑑賞しましたが、上野のTOHOシネマズはほぼ満席の大入りでした。日本では民法の制定による土地の単独相続(家父長制)から金銭の分割相続(平等主義)への移行などにより家制度が崩壊しましたが、歌舞伎界を始めとする伝統芸能の世界では土地や金銭ではなく看板(アウラ)を単独相続する家制度(世襲)が残っている特殊な世界と言えます。この点、野球などのスポーツ界は看板ではなく成績(数字)にアウラが生まれるので「世襲」は成立しない分野とも言え、その意味で以下の囲み記事で触れている長嶋茂雄さんは成績(数字)をドラマで彩って背番号3番という看板で国民を魅了した国宝級の稀有な才能であったと言えるかもしれません。未だ公開されたばかりでありネタバレしないように映画の感想などは自粛したいと思いますが、5代目坂東玉三郎さん(人間国宝)が14代目守田勘彌さんの部屋子になったのが6月6日であり、その後、14代目守田勘彌さんの養子になり「芸」で身を立て坂東玉三郎(空席)の名跡を襲名したことを思い出しましたが、永井荷風の小説「腕くらべ」の世界観とも重なって虚実皮膜の間に宿る真を堪能できる映画でした。E.リンカーンが「Where there is a will,there is a way」という名言を残していますが、「道」とは自(おのずか)ら拓かれているものではなく自(みずか)ら拓くものであって、それは歩む前から見渡せるようなものではなく試行錯誤しながら直向きに歩んできた後を振り返ったらできているものであり煩悩に身を焦がす修羅の道であるということが描かれているように感じられ、上記のブログの枕で簡単に触れた「血」(遺伝によるムラ)と「芸」(努力によるムラ)で凌ぎを削る芸道の実相について色々と考えさせられる見応えのある映画ですので、是非、没入感に優れた映画館での鑑賞をお勧めしておきます。なお。歌舞伎という古典劇と映画という現代劇が重なり合う劇中劇で見られる吉沢亮さんの演技にも注目ですし、田中眠さんには何者かが憑依しています。「まだ足りぬ 踊り踊りて あの世まで」(6代目尾上菊五郎)という辞世の句に滲み出ているような芸に生きることの凄みを堪能できる観応えのある映画です。kokuhou-movie.com
 
▼20世紀の偉大なアウラ(訃報)
去る6月3日に読売巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんが逝去されたという訃報が飛び込んできましたが、長嶋さんの「野球とは人生そのものです」という言葉を体現するかのように享年89才(野(8)球(9)の才)の天寿を全うされました。長嶋さんは千葉県佐倉市臼井出身(生家跡)で、長嶋茂雄さんのご両親やお兄さんが永眠されているお墓の家紋を拝見すると「丸に違い鷹の羽紋」なので(お墓の場所はプライバシーに配慮し、また、他の檀家さんに迷惑がかかるのて秘匿)、大蔵氏流(能楽の祖・秦氏を源流として佐賀県武雄市武雄町大字永島で発祥し、朝廷の国庫である「大蔵」の管理・出納を務めたことからその職名を名乗った由緒ある氏族)である可能性が考えられます。長嶋さんは地元の小中学校から千葉県立佐倉高等学校野球部→立教大学野球部→読売巨人軍を経てその引退後も国民的な英雄として愛されましたが、千葉県立佐倉高等学校は佐倉藩校「佐倉藩学問所」を前身として創設された伝統校で、その敷地内には佐倉藩が蒐集した歴史的に貴重な蔵書を中心に展示している鹿山文庫が併設されており、長嶋さんの貴重な遺品なども展示されています。長嶋さんの名言「メークドラマ」は1996年の新語・流行語大賞を受賞していますが、長嶋さんのように国民を魅了する物語(ファクション)を仕掛けて空前の野球ブームを巻き起こしてしまう規格外の才能は見掛けなくなり、ファクトフルネスのみが重用される味気ない時代になってしまいました。因みに、千葉県佐倉市臼井は、通算勝率96.2%という歴代最高記録を誇り空前の相撲ブームを巻き起こして江戸時代最強の力士と謳われた雷電爲右衛門臼井宿の甘酒茶屋「天狗さま」の看板娘だった妻・おはん(八重)と共に晩年を暮した場所であり、雷電爲右衛門と妻・おはん(八重)のお墓も安置されています。最後に、改めて、長嶋さんの生前の偉業を讃えると共に、その逝去を悼んで、衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。

「コンポージアム2025」(ゲオルク・フリードリヒ・ハースの音楽、2025年度武満徹作曲賞本選演奏会)と「マイケル・マーフィー打楽器リサイタル」(演奏:マイケル・マーフィー、作曲:桑原ゆう)とオペラ「女王卑弥呼」(脚本:池田理代子、作曲:薮田翔一)と藝大21創造の杜2025「藝大現代音楽の夕べ」とブログの枕「この世界はムラで出来ている」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ブログの枕「この世界はムラで出来ている」
前回のブログ記事ではちびっ子達にも直観的にイメージし易いような表現で宇宙誕生の物語にごく簡単に触れましたが、その文脈からもう少し話を身近な世界に引き寄せてみると、この世界は「ムラ」で出来ていると捉えることができるかもしれません。①宇宙の根源(真空)の段階では粒子と反粒子が等数で常に生成と消滅を繰り返すエネルギーのバランス状態(対称性)にありましたが、エネルギーのバランス状態の変化などにより粒子が反粒子よりも僅かに優勢になってエネルギーの密度のムラ対称性の破れ)が生まれ(ミクロの世界)、その後、②宇宙の容器(時空)の段階を経て、③宇宙の中身(物質)の段階では宇宙に生まれた4つの力(何故、宇宙に力が生まれたのかという根源的な理由は分かっていません)のうちの強い核力や電磁力によってエネルギーの密度のムラから物質が生まれ、さらに、そのうちの重力や電磁力によって物質の分布のムラ対称性の破れ)が生まれ(マクロの世界)、それが組織化されて銀河、星、生物などの構造が誕生して、この世界が形成されました。人間の感覚器官は物質の分布のムラ(対称性の破れ)から生まれた構造やその変化を検知し易い仕組み(視覚:色、聴覚:音、触覚:形などの境界認識)に進化して世界を知覚していますが(その逆に、物質の分布のムラ(対称性の破れ)がなく構造やその変化もない状態は知覚の対象になり難く何も感じなくなります)、人間の感覚器官が知覚する物質の分布のムラ(対称性の破れ)から生まれた構造やその変化又はそれらを推知させる諸現象(陰翳)に意味が立ち上がり、そこに何らかの秩序性などを見い出すことで美醜などを認識しています。
 
▼この世界を形成するムラ(ミクロからマクロへ)のまとめ
世界 原則 例外
ミクロの世界 対称性
(ランダム)
対称性の破れ
(エネルギーのムラ)
マクロの世界 対称性の破れ
(物質のムラ)
対称性
(ランダム)
※エントロピー増大の法則(水分子の例)
エントロピー増大の原則とは秩序(ムラ)がある状態を放っておくとランダムな状態に不可逆的に変化しようとする自然界の性質のことで(何故、このような自然界の性質があるのかという根源的な理由は分かっていません)、温度が高くなると熱エネルギーが秩序(ムラ)がある状態を維持している電磁力に対して優勢になり構造を崩壊してランダムな状態になりますが、温度が低くなると熱エネルギーが秩序(ムラ)がある状態を維持している電磁力に対して劣勢になり構造が安定します。なお、もう1つの秩序(ムラ)がある状態を維持している強い核力(クオークという素粒子を結合させている力)は通常の熱エネルギーでは崩壊せず、ビックバンのような極限の熱エネルギーのみで崩壊するので、現代の科学技術では完全な対称性の回復を再現することはできません。
状態 水蒸気
(~0℃)

(~100℃)

(100℃~)
構造 気体 液体 固体
エントロピー
対称性の破れ
知覚
気体:水分子がランダムに運動して全く構造がない状態(高い対称性、高い自由度)
液体:水分子が非周期的に運動して部分的に構造がある状態(低い対称性、中間の自由度)
固体:水分子が周期的に配列して全体的に構造がある状態(対称性の破れ、低い自由度)
 
上述のとおりエントロピー増大の原則とは秩序(ムラ)がある状態を放っておくとランダムな状態へ不可逆的に変化しようとする自然界の性質のことで、これによってエネルギーや物質は散逸していきますが、例えば、真核生物は外界からエネルギーや物質を採り入れて(表面上はエントロピー増大の原則に逆行するかのように見える現象ですが)秩序(ムラ)がある状態を自発的に形成する自己組織化を行っています(何故、自己組織化が起きるのかという根源的な理由は分かっていません)。しかし、過去のブログ記事でも触れたとおり自己組織化には限界(例えば、真核生物の染色体末端構造であるテロメアなど)があり、やがて生物は自己組織化を停止して死を迎えます(ベリクソンの弧)。この点、自己組織化にあたっては最も安定的かつ効率的に組織を持続できるように一定の周期性(リズム:時間的な反復)をもった秩序(ムラ)が生まれ、その全体への伝播(パターン:空間的な構造)によって構造を形成します。この秩序(ムラ)を生む一定の周期性(リズム:時間的な反復)とその全体への伝播(パターン:空間的な構造)は外界の変化する環境(ノイズなど)などに柔軟に適応するために最適にチューニング(環境条件などに応じた多様なチューニング)され、例えば、ロマネスコのフラクタル構造(左上のイラスト)も同様にして形成されたと考えられています。上述のとおり人間の感覚器官は物質の分布のムラ(対称性の破れ)から生まれた構造やその変化を検知し易い仕組みに進化してきましたが、この文脈で言えば、音楽は音響の分布のムラ(音響の対称性の破れ)などから生まれた構造やその変化(リズム、強弱、音色、音高、長短、旋律などによる分節とそれらの連なり)などによって形成され、そこから意味が立ち上がり、そこに何らかの秩序性などを見い出して美醜などを認識してしていると言えるかもしれません。これは言葉でも同様で言葉は世界を分節するための記号であり、その記号は世界を切り取るためのツールとして日常生活に密接に関係していますが、例えば、日本語の名詞を形容詞に変換する「名詞+い」の用例を見ると「丸い」「四角い」に対する「三角い」(人間が取り扱い難い形状)や「赤い」「青い」に対する「緑い」(光合成には不必要なので吸収されずに反射される光の波長)などの用例が存在しない(即ち、言葉と環境がチューニングされていない)のは、これらがあまり日常生活に重要ではなく、これらの世界を切り取る必要性が低いもの(三角い、緑いなど)と言えるのではないかと思います。その一方で、医療現場における診療などに活用されているオノマトペ(例えば、シクシク、ズキズキなど)は言語以前の感覚と結び付いている直感的な言葉ですが、これらは日常生活に重要であり、これらの世界を切り取る必要性が高いもの(即ち、オノマトペと環境がチューニングされている)と言えるのではないかと思います。このように芸術や文化も環境とチューニングされた「ムラ」から出来ており、その「ムラ」が人生を様々に彩っていると言えるかもしれません。人生の楽しみ(ムラ)は自分で作るもの(自己組織化)ですが、最近、貴兄姉にはムラムラするような刺激的な体験(心のムラ)はありましたか?
 
 
▼コンポージアム2025
【演題】ゲオルク・フリードリヒ・ハースの音楽
【演目】①F.メンデルスゾーン 序曲「フィンガルの洞窟」
    ②G.マーラー 交響曲第10番嬰ヘ長調 から「アダージョ」
    ③G.ハース 《... e finisci già?》~オーケストラのための
                               (2011)
    ④G.ハース コンチェルト・グロッソ第1番
         ~4本のアルプホルンとオーケストラのための(2014)
         <A-hr>ホルンロー・モダン・アルプホルン・カルテット
             バルタザール・シュトライフ
             ミヒャエル・ビュトラー
             ウルリッヒ・ハイダー
             ルーカス・ブリッゲン
【演奏】<Cond>ジョナサン・ストックハンマー
    <Orch>読売日本交響楽団
【日時】2025年5月22日(木)19:00~
【会場】東京オペラシティー タケミツホール
【一言感想】
微分音の巨匠として知られるオーストリア人作曲家のG.ハースさんは、現在、前回のブログ記事で触れたT.ミュライユさんの後任としてニューヨークのコロンビア大学作曲科教授を務められています。G,ハースさんがトークセッションでお話されていましたが、幼少期にナチズムの残照に悩まされた経験があり、その救いを音楽に求めたことが作曲家になる契機になったそうです。G.ハースさんの自叙伝「Durch Vergiftete Zeiten: Memoiren eines Nazibuben」(毒された時代を生きて:ナチ少年の回想録)に詳しいですが、未だ邦訳版又は英訳版がリリースされておらず、残念ながら拝読することはできておりませんが、ナチズムと対局にあるJ.ケージの伝統に縛られない内面的自由に憧れを抱いていたそうで、やはり幼少期の体験がG.ハースさんの人生やその作風に大きな影響を与えているのかもしれません。なお、沼野さんが小室さんとの対談で「もちろんそうじゃない曲もあるけれども、ある種、文字や言葉とセットで楽しむっていう。聴けば分かるとか、聴いて楽しむとかっていうことだけじゃなくて、やっぱりそこにもうひとつ違う次元のものが混交しているのが、いわゆる狭い意味での現代音楽だと」と語られていましたが、音楽の表現対象や表現手法などが多様化するなかで「感情」から「知覚」、「物語」から「現象」、「理解」から「体験」へと音楽の受容の仕方も変化してきていると思いますが、その意味で聴衆の認知パターンもアップデートされつつある状況にあるのではないかと思います。
 
①F.メンデルスゾーン 序曲「フィンガルの洞窟」
②G.マーラー 交響曲第10番嬰ヘ長調 から「アダージョ」
メンデルスゾーンは丁寧に作り込まれたアンサンブルで、コンテンポラリーのようなストイックな印象を受けましたが、だからといって機能的になり過ぎずにどこか生々しい躍動も感じさせるバランスの良い演奏でした。マーラーも同様の印象で細部まで配慮の行き届いたアンサンブルで、マーラーのむせかえるような退廃美というよりも抑制の効いた節度ある演奏でしたが、対抗配置による立体的な音響が効果をあげていたように感じられました。何故、この2曲が選曲されたのか不思議でしたが、解説によれば、コンチェルト・グロッソ第1番は「F#」が主音のような役割を果し、冒頭からヴァイオリンが「F#」を伸ばすメンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」と「F#」が主音のマーラーの交響曲第10番「アダージョ」が選曲されたようですが、(あまり政治的な意図を持ち込むのはG.ハースさんの真意に反するかもしれませんが)2人のユダヤ人作曲家の作品を採り上げていることを踏まえると「F#」はファシズム(F)の架刑(#)を象徴していると捉えるのは勘ぐり過ぎでしょうか。
 
③《... e finisci già?》~オーケストラのための
パンフレットには詳しい音楽的な解説が加えられていますが、音楽などの抽象表現を鑑賞するにあたっては(リズムや音響などを即物的に受容することもありますが)基本的には何らかのプロジェクションを作品に投射して立ち上がってくる世界観を受容することが多いのではないかと思いますので、この作品から受けた個人的なイメージをごく簡単な感想として残しておきたいと思います。この作品の標題はモーツァルトのホルン協奏曲第1番の遺稿からホルン独奏パートに添え書きされている「もう終わりですか?」から採られているようです。冒頭からヴァイオリンが奏でる微分音の集積が密度を増しながらオーケストラ全体へと広がって盛上ると一旦収束し、再び、その微分音がうねりを繰り返しながらその高密度な集積がフォルムを形成してクライマックスを築くと次第に収束して消え失せました。さながら蝋燭が灯るように顕在する微分音が織り成すミクロの世界からそれらが集積して音価を増しながらマクロの世界を形成するその狭間に成立している音楽のようにも感じられ、この作品だけではなく次の作品にも共通していますが、明確な文脈を持たずに音の関係性で成り立っている音響世界を体現しており、言葉では切り取れない音楽という印象を受けました。それを感想に認めるのは矛盾した態度かもしれませんがご容赦下さい。なお、パンフレットには「絶対零度の如き極限の崩壊」と比喩されていましたが、絶対零度は物質(音)が「崩壊」するのではなくその熱運動が「停止」する状態を意味しており、その文脈で言えば、個人的には、この音楽は「崩壊」(終焉)というよりも、そのような時間観念を超越した「空」(熱運動が完全に停止してエントロピー増大の法則が最小状態に達することで時間観念が失われ、色即是空や量子ゆらぎに通底する不確定的で生成と消滅の境界が曖昧な世界観)へと回収されていくイメージを想起させるものではないかと感じられました。その意味では、この曲は「もう終わりですか?」という問い掛けに対し、その「崩壊」(終焉)を告げるものではなく、その続きを生み出すエネルギーが潜在している状態を表現するものとして位置付けることができるのではないかと思います。
 
④コンチェルト・グロッソ第1番
4名のソリストがE管、F管、F#管、G管の4種類のアルプホルンを舞台上で演奏する姿は壮観なものがありました。日本には玉川アルプホルンクラブというアマチュア楽団が存在しますが、アルプホルンの演奏を演奏会場で聴くのは初体験であり、おそらく東フィル団員もアルプホルンとの共演は初体験だったのではないかと思います。オーケストラはモダン配置ではなくクラシック配置(ウィーン式)で、アルプホルンを取り囲むようにヴァイオリンが左右に対抗配置され、コントラバスが金管の後方に横一線に並ぶ音響バランスに配慮されたフォーメーションが採られていました。パンフレットに詳しい音楽的な解説が加えられていますので、この作品から受けた個人的なイメージをごく簡単な感想として残しておきたいと思います。スイスの山岳地方で生まれたアルプホルンはバルブやキーがなく自然倍音のみを奏でられる楽器ですが、コンチェルト・グロッソというバロック様式を借りて、自然倍音(自然美:中近世)とドイツで生まれた十二平均律(人工美:近現代)の2つの異なる世界観の隙間を微分音を使って埋め尽くす面白い作品に感じられました。アルプホルンが奏でる旋律(自然倍音)とオーケストラが奏でるリズム(微分音)や和音(十二平均律)が対置され、これにナチス(十二平均律)がユダヤ人(微分音)を排斥し、また、都市(十二平均律)が自然(自然倍音)を排斥してきた歴史的な構図をプロジェクションしながら鑑賞してみましたが、デュナーミクやテンポ(歴史のうねりのようなもの)を大胆かつ精妙に操りながら音響が相互の関係性の中で相対化され、やがてそれらが均質化されることなく異質なまま重なり合って1つの世界観を築いて行く様子が表現されているように感じられ、1つの境界や制度などに支配されていない多様かつシームレスな世界観にシンパシーを感じ、色々なイメージが想起される面白い音楽体験になりました。
 
【演題】2025年度武満徹作曲賞本選演奏会
【演目】我妻英(日本) 管弦楽のための《祀》
    金田望(日本) 2群のオーケストラのための《肌と布の遊び》
    チャーイン・チョウ(中国) 潮汐ロック
    フランチェスコ・マリオッティ(イタリア) 二枚折絵
【演奏】<Cond>阿部加奈子
    <Orch>東京フィルハーモニー交響楽団
【日時】2025年5月25日(日)15:00~
【会場】東京オペラシティー コンサートホール(タケミツメモリアル)
【一言感想】
本日は武満徹作曲賞本選演奏会を拝聴しましたので以下に順位を掲載しておきますが、審査委員のG.ハースさんが応募総数137作品のうちの上位4作品であり本選会の順位に実質的な差はないと仰っていたのが印象的でした。この多様性の時代にあって芸術表現に何らかの規範を果て嵌めて順位をつけてみるというモダニズム的な目論見の有効性は相当に希薄なものになっているように感じますので、寧ろ、観客の立場からは各曲の潜在的な魅力を発見する契機となるようなGハースさんの示唆に富む講評が大変に参考になりました。また、オーケストラとの限られたリハーサル時間の中で作品を音にしていく難しさに関する話しも大変に興味深かったです。個人的な所感としては、上位4作品を拝聴する限り、ひと昔前の「技法」(手段)のための音楽から「世界観」(目的)を表現するための音楽(そのための技法)へと昇華している印象を受けるものばかりで、その世界観が観客のイマジネーションを多彩に引き出して面白味を堪能できるような聴き応えが感じられました。G.ハースさんの講評をサマってしまって掲載して良いのか分かりませんので、各曲毎にごく簡単に拙い個人的な感想を残しておきたいと思います。
 
第1位:金田望(日本)
第2位:我妻英(日本)
第3位:チャーイン・チョウ(中国)
第3位:フランチェスコ・マリオッティ(イタリア)
 
①管弦楽のための「祀」
パンフレットには「日本民族学の嚆矢となった著作「遠野物語」(1910)に発想を得た内容を持つ」「遠野の地では、現世の有限の生命と英会陰の時空を漂う霊魂とが交感しつつ構成している。そこには現実と非現実という二元論は存在しない。生と死とが互いの境界を超えて複雑に交錯している。」と解説されています。舞台の左右にハープとピアノが1台つづの計4台及び舞台の後方に4名の打楽器群が配置されて「重要な役割」が与えられていましたが、ピアノやメタロフォンが奏でる響きに四分音に調律されたハープの響きを重ねることでエルドリッチ感を醸し出し、その意表を突く開始に期待感が膨らみました。当初、ハープなどが奏でる四分音(非現実のメタファー?)とオーケストラの弦楽器又は管楽器が奏でる半音(現実のメタファー?)がそれぞれ短いピースを交互に演奏し、それらを長めの休符で区切ることで、さながら現実と非現実の境界が明確に区分されているような効果を生んでいましたが、やがてその境界が曖昧になりながらオーケストラが一体になって混沌とした音響塊(管理されたカオス)を生み、その合間からオケ団員が声を発して、この世ならざる者又はそれを誘う人々の情念のようなものを感じさせる効果を生んでおり、最後には消え入りように終曲となりました。コンテンポラリーの一般的な傾向としてストイックな響きが支配的でどこか煙に巻かれているような感覚になるものが多いですが、現代社会では失われつつある野趣や霊性のようなものが音楽に息衝いているかのようで新鮮に感じられました。言葉では説明し難い芸術体験を楽しめました。
 
②2群のオーケストラのための「肌と布の遊び」
パンフレットには「三宅一生の服作りは常に、「身体」と「それを纏う布」との間に生まれる空間や間の関係を追求することに重点が置かれ、この思想を三宅は「一枚の布」と呼んでいました」が「身体と服の関係を音楽化するために、舞台中央後方に配置されたピアノを「身体」、そのピアノを包み込むように左右に配置された二つのオーケストラを「身体を包む布」に見立てて作曲しています。」と解説されています。オーケストラの各パートが2群に分かれてピアノを取り囲むように舞台の左右に対抗配置されていましたが、ピアノがぎこちないフレーズを奏でると、それに呼応するように左右のオーケストラに伝播しましたが、服が身体に馴染んでいない様子を表現しているのでしょうか、とてもビジュアルな音楽が面白く感じられました。グリサンドで滑らかな布、軽快なリズムは風にそぐ布など、ポップな印象の曲調で聴き易く聴感覚から触感覚や視感覚などを想起させる描写力のある音楽で飽きさせませんでした。なお、強いて難点を挙げるとすれば、本日は1階後方の席で拝聴していましたが、ややピアノがオーケストラに埋没してしまっている印象を受けるところがあり、ピアノとオーケストラの有機的な関係が充分に感得できなかった憾みがありましたので、再演にあたって何か工夫が必要かもしれません。
 
③潮汐ロック
パンフレットには「エネルギーの交換と消散による冥王星とカロンの「同期」は「潮汐ロック」として知られ」、「潮汐バジル、干潮、最終的には潮汐ロックのプロセスを通して、広大な宇宙のなかに、ささやかでロマンチックな詩が書き込まれることになる。」と解説されています。潮汐ロックとは、冥王星(惑星)とカロン(衛星)がお互いに引っ張り合いながらクルクルと社交ダンスを踊っているようなイメージと言えば分かり易いでしょうか、地球(惑星)が月(衛星)を一方的に引っ張り回している亭主関白のような関係とは異なり、冥王星とカロンが恋人のように睦み会うロマンチックな関係と捉えることができるかもしれません。舞台(1階)=冥王星とバンダ(3階席)=カロンという編成で演奏されましたが、冒頭では宇宙の真空(対称性)を表現しているような静かな始まりでしたが、やがて弦が微細音を集積しながら盛り上がり金管が不協和を奏でていましたが(対称性の破れ)、これは潮汐バルジ(冥王星の重力でカロンの表面が膨らむこと)を表現したものでしょうか。その後、弦が激しくテンポアップし、金管の咆哮や打楽器の連打で荒れ狂いながらクライマックスを築きましたが、これはトルク(冥王星がその膨らみを引っ張ってカロンが冥王星に向き直ること)を表現したものでしょうか。最後はプリペアドハープ、チェレスタやウィンドチャイムなど光沢感のある響きが散りばめられ、冥王星とカロンが結ばれるような幸福感のある終曲になりました。プラネタリウムで聴いてみたい音楽です。
 
④二枚折絵
パンフレットには「ディプティクムという語はその起源からすでに、2つの部分kらなるように折られたあらゆるもの」で、「この形式概念によって、本作品のもつ、根本から異なる2つの場面に分けられるという構造が決定され」、「はっきりと性格づけられた数々のイメージを生じせ、それらに応じて、音楽素材とオーケストレーションが繋がりをもつ」と解説されています。二枚折絵の1枚目の絵として、冒頭から激しい弦の直線的な下降音が幾重にも重ねられました。これは1枚目の絵のモチーフである「弦の叫び=嘆き」を意味し、その嘆きは中間部で小康状態になりましたが、金管の咆哮を契機としてフラッシュバックしたかのように激しい嘆きが再現されました。長い休符が置かれた後、今度は、波打つ下降音が繰り返されるなか、チェロ・ソロが深い慟哭を奏でますが、やがてヴァイオリンの清澄な響きへと回収されて終曲になりました。果たして、この二枚折絵に何が描かれているのか作曲家のみぞ知るということかもしれません。
 
 
▼マイケル・マーフィー打楽器リサイタル
【演題】マイケル・マーフィー打楽器リサイタル
【演目】①桑原ゆう 落下する時間(とき)(ビブラフォン独奏)
    ②桑原ゆう るりの歌、星のうた(仏具打楽器と声明)
          <声明>齋藤説成
    ③リンダ・キャトリン・スミス 不可視都市(ビブラフォン独奏)
    ④桑原ゆう この素晴らしき共振世界(打楽器独奏)
【演奏】<Perc>マイケル・マーフィー
【宣伝美術】桑原ゆう
【日時】2025年5月24日(土)14:00~
【会場】安養院
【一言感想】
本日は中国系カナダ人パーカッショニストであるマイケル・マーフィーさんが日本ツアーで現代作曲家の桑原ゆうさんの世界初演されたばかりの新曲を再演されるというので拝聴に伺いました。マーフィーさんは様々なオーケストラとの共演や世界の民族音楽への傾倒など国際的に活躍するパーカッショニストとして注目されており、過去に相愛大学に留学していた経験があるので饒舌なMCで会場から笑いをとるほど日本語は堪能です。また、過去のブログ記事で簡単に触れた四天王寺の雅楽団「臥龍会」のメンバーと共に雅楽師の林絹代さんから笙を学び、自ら笙の演奏活動も行われている多芸多才振りには目を見張るものがあり、今後の活躍からも目を離せない俊英です。本日の会場である真言宗豊山派「安養院」は1257年に鎌倉幕府執権・北条時頼により創建された名刹で、境内には国の重要美術品に認定された梵鐘(1802年鋳造)が安置され、その傍らには弘法大師・空海の銅像が建立されており、その銅像の周囲を取り囲むように「お砂踏み」(弘法大師・空海が四国で修行された八十八か所霊場のお砂を集めて、そのお砂を踏みながらお参りすることで実際にお遍路したのと同じご利益があると言われています。)が配され、四国八十八か所霊場と真言密教の聖地・高野山をお参りすることができます。安養院は「板橋七福神」のうちの芸能の神様である弁財天が祀られていますが、本日は清浄で荘厳な雰囲気を湛えた瑠璃光堂(瑠璃光とは衆生を苦しみから救う薬師如来の光のことで、両界曼荼羅がディスプレーされていました。撮影禁止ではなかったので写真をリンク)で演奏が行われましたので、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
①落下する時間(とき)
パンフレットには「「縦」と「横」とは、互いに定義しあう関係にある。」というテーマのもと「「縦の方法」を試みようとした。音を積み上げて和音の柱で考え、音や音楽の自然な方向性を断ち切って継いでいく。」と記されていますが、丁度、これは両界曼荼羅の胎蔵界(内を照らす仏の慈悲)と金剛界(外を照らす仏の智慧)の対称関係に通底するものがあるように感じられました。この点、本日のプログラム構成に着目すると、第1曲と第4曲が描く両界曼荼羅に通底する世界観を「縦」として貫いて、これに第2曲と第3曲が描くそれぞれの世界観を「横」として交錯させているように感じられ、また、第1曲と第3曲がビブラフォン(西洋の器楽)、第2曲と第4曲が仏具打楽器(東洋の声楽+器楽)を使用した作品、さらに、第1曲と第3曲が同じビブラフォンを使った東洋と西洋の作曲家による作品になっており、これらの「縦」と「横」にクロスされている構成は第4曲のテーマになっている金剛界曼荼羅の五智如来の配置とも対称されて、本日のプログラム全体が両界曼荼羅の世界観が幾重にも織り込まれている1つの大きな音楽曼荼羅になっていると言えるかもしれません。さて、この作品はタイトルにも「縦の方法」の意気込みが現れています。取り敢えず、量子物理学の時間観は横におくとして、人間の感覚的な時間観念は過去→現在→未来と不可逆的に「横」に流れて行くものと捉えられていますが、ここでは時間を「落下」(縦方向の運動)として表現しています。マーフィーさんはビブラフォンのモータースイッチを忙しなく切り替えながら、ビブラートが掛かった延音をベース(縦方向の運動を意識させる基音)にして、ペダリングによるスタッカートの音粒(音子:フォノン)が基音である延音(音波)に回収されて行くようなイメージの面白い演奏が展開され、強弱などを使って3次元的に配置される音粒やアルミホイルを使ったプリペアド奏法から生まれる電子音響的な音粒などを巧みに織り交ぜながら、多彩な響き(音子、真言)が生まれ、それらの響き(音子、真言)が衆生(延音、心の乱れ)へと降り注いで浸透していく(悟り)ようなイメージで聴いていましたが、正しく音響曼荼羅とも言い得る作品ではないかと感じました。人間は芸術作品に自分のプロジェクションを投射して、それを自分のナラティブに組み込んで受容しますが、その意味で演奏する場所、照明、装飾やプログラム構成、パンフレットに記載されている解説など様々な要素によってその受容の仕方は異なってくるものであり、それが芸術鑑賞の醍醐味の1つだと感じます。その意味では安養院瑠璃光堂での演奏は特別な芸術体験をもたらしてくれる有り難い場所と言えると思います。
 
②るりの歌、星のうた
パンフレットには「真言宗豊山派声明の独唱と仏具打楽器のために、2013年に作曲。声明パートに使用したテクストは、草野心平「祈りの歌」である。」と解説されています。俗に蛙の詩人と言われる草野心平さんの詩「祈りの歌」のうち、前半の場面設定を捨象して後半の蛙語で祈りを歌う場面に音楽が付された作品です。蛙語なので言葉の「意味」は判然としませんが、真言声明では言葉の意味よりも「音響」や「リズム」を重視し、その「音響」や「リズム」を唱えることで仏の智慧と合一することを修行の目的としているという趣旨の話しをどこかで拝聴した記憶がありますので、蛙が死を認識する知性を備えているか否かは別としても万物に仏性が宿るという真言密教の考え方を体現し、自然にカエルという洒落た作品に感じられました。群馬県安中市の自性寺焼で知られる自性寺住職の齋藤説成さんが蛙語による声明を歌われ、これにマーフィーさんが太鼓、貝、銅鑼などの打楽器を使って当為即妙に伴奏を添えられていました。その後の休憩時間に齋藤さんと安養院住職の平井和成さんによる経典を使った真言声明の実演が披露されましたが、2人の真言声明の響きが自然に調和し、「自ら」(みずから)+「為す」(煩悩)のではなく「自ら」(おのずから)+「成る」(解脱)によって達せられる境地を体現できる貴重な経験になりました。
 
不可視都市
パンフレットには「カルヴィーノの「見えない都市」は、マルコ・ポーロがフビライハンの寵臣となって、さまざまな空想都市の奇妙で不思議な報告を行うという、幻想的な物語」で、「この作品も、比喩的な方法で同一の対象を複数の視点から考察」していると解説されています。アメリカ系カナダ人現代作曲家のリンダ・カトリン・スミスさんは以下の囲み記事で採り上げている日本人現代作曲家の近藤譲さんに作曲を師事していたこともあり、その作品は日本でも演奏機会が多い人気作曲家ですが、カナダの音楽に普及に尽力されているM.マーフィーさんらしい選曲です。点描と線描を交錯させながら短いフレーズが様々に変化し、フィンガー・タイピング(マレットを使わずに指で鍵盤を叩く奏法)を織り交ぜた繊細なニュアンスにより幻想的な雰囲気を醸し出す演奏を聴いていると、マルコポーロ(西洋)とフビライハン(東洋)の出会いを契機として多様な側面から都市を照射することでその見えない本質が浮かび上がってくる物語の世界観とオーバーラップしているような面白い演奏を堪能できました。
 
④この素晴らしき共振世界
パンフレットには「地水火風空を司る五智如来曼荼羅に見立てた打楽器セットを媒介として、生命や宇宙の振動に触れ、この世に生まれたことをいつくしむための音楽である。」と解説されています。過去のブログ記事で「陰陽五行」と「管絃五調子」の関係について簡単にふれましたが、桑原さんがMCでこの作品は金剛界曼荼羅に取り込まれている五行思想(五智如来と五大元素の関係:大日如来=土、阿閦如来=木、宝生如来=火、阿弥陀如来=金、不空成就如来=水)に着想を得て「鉢」(=土)、「杢鉦」(=木)、「石」(=火)及び「りん」(=金)や「水」(=水)を使って真言リズムを採り入れながら作曲したそうです。前回のブログ記事で真空(量子ゆらぎ)からエネルギーが生まれ、そのエネルギーが固まって物質(元素)が誕生するまでの宇宙誕生の物語をごく簡単に触れましたが、宇宙、星、生物の成立ちを五大元素の響き(共振)で体感し、そのイメージを刺激する意欲的な作品に感じられました。冒頭は鉢(土)や杢鉦(木)をバチ(木)で叩く音と石と石を擦る音が繰り返されましたが、上述のとおり「エネルギー→物質(元素)」から「石→土(無機物)」と「木(海洋植物→陸上植物)→土(有機物)」が誕生したことをイメージさせる演奏でした。パンフレットには「ふれる」と「さわる」の関係について解説されていましたが、ある種の聴感覚がある種の触感覚を想起させるクロスモダール現象(人間の五感が相互に作用し合う現象)により響きが生む五行思想的な世界観が体現されているように感じられました。小さなりん(金)に大きなりん(金)を蔽い被せるようにして生まれる共振、波打つ水にりんを鎮めて生まれる共振、石を木で擦って生まれる共振など五大元素が相互に作用し合って生む共振が様々な創意工夫により響きとして表現され、最後はりんとりんをぶつけながら梵鐘の音を連想させるような深い余韻を湛えた響きが奏でられ、その響きと観客の魂が共振しているような感覚に包まれて終曲となりました。異質なものが共存しながら、それらが共振し合って1つの世界を形成しているという両界曼荼羅の世界観を体現した音響曼荼羅と言い得る作品ではないかと感じられました。終演後にマーフィーさんから片手で複数の楽器を同時に演奏する際に片やクレッシェンドと片やデクレッシェンドを同時に演奏することを要求されるところがあり、非常に演奏が難しかったという苦労話を吐露されていましたが、マーフィーさんの明晰な音楽的イメージとそれを幽けき響きで仄かに薫らせる繊細な表現力がこの作品に生命力を吹き込んでいたように思われ、桑原さんとこの作品にとっては得難きパートナーに恵まれた幸運であったと言える好演であったのではないかと思います。
 
 
▼オペラ「女王卑弥呼」
【演目】オペラ「女王卑弥呼」(世界初演)
     <卑弥呼役>羽山弘子(Sop)
     <阿多の君>羽山晃生(Ten)
     <神>山口安紀子(Sop)
     <スサノオ>村田孝高(Bar)
     <ウカシ>栗田真帆(Alt)
     <張政>小幡淳平(Bass)
     <ナシメ>中原和人(Bar)
     <ウカシの侍女>六角実華(Sop)、奈良原繭里(Sop)
             真辺景子(Sop)
     <卑弥呼の侍女>今西仁美(Sop)、山瀬香緒(Sop)
             浅野真澄(Sop)、中村寛子(Sop)
             五十嵐恵美(Sop)、黒川亜希子(Sop)
             一瀬美奈子(Sop)
             小原明実(Alt)、古志佑華(Alt)
             進美沙子(Alt)、姫本紀子(Alt)
             井原芙美子(Alt)
【発案】歌舞伎俳優 中村福助
【脚本・演出・衣装デザイン】池田理代子
【作曲】薮田翔一
【演奏】<Cond>飯坂純
    <Orch>HIMIKOワールドプレミアオーケストラ
【舞台監督】岸本伸子
【舞台美術】加藤正信
【照明】成瀬一裕
【映像】荒井雄貴
【字幕】岡田哲
【収録】石井康義
【演出助手】角直之
【ヘアメイク】境千恵子
【演技指導】赤川蓮
【制作助手】今西仁美、山口三智子、村田孝高
【衣装制作】山口三智子
【衣装協力】東京衣装、桂由美
【小道具】山本安心堂
【印刷】荒井慶太
【日時】2025年6月5日(木)18:30~
【会場】東京国際フォーラム ホールC
【一言感想】
パンフレットには「この作品は、今を去ること二十数年前、歌舞伎俳優の中村福助(当時児太郎)さんの御発案により、池田理代子が脚本を書き上げたものです。(中略)しかし、作品のスケールの大きさなどから、結局アクロス公演は上演が叶わず、また、卑弥呼を演じられる予定であった福助丈の体調の急変などもあり、様々な上演の可能性を模索しましたが、実現に到らず、長い歳月が経ってしまいました。」と記されています。これによれば、当初は歌舞伎女形の中村福助さんが卑弥呼役を演じ、アクロス福岡(邪馬台国があった場所については北九州説(筑後の山門郡)と畿内説(大和)の論争がありますが、前者を意識した趣向でしょうか)で初演される予定だったそうですが、これをグランド・オペラに変更して20年越しで初演に漕ぎ着けた思い入れが深い公演のようです。ご案内のとおり卑弥呼は3世紀に活躍した人物なので、魏志倭人伝(三国志巻三十/魏書/烏丸鮮卑東夷傳第三十「倭人」条)以外に卑弥呼の実像を窺い知る手掛りに乏しく(因みに、紀記は8世紀に編纂)、その実像は歴史ロマンのベールに包まれています。このオペラの脚本はマンガ「ベルサイユのばら」で有名な池田理代子さんが手掛けられ、魏志倭人伝の記述をベースにしながら卑弥呼が邪馬台国に渦巻く権謀術数に翻弄され、その毒牙に倒れるというドラマチックな物語に脚色されていますが、その生々しい人間ドラマは卑弥呼の等身大の姿に迫り得るものになっていたと思います。ここで魏志倭人伝を簡単にサマっておくと、3世紀頃の倭国(邪馬台国を含む約30の小国から構成)は内乱状態にありましたが、鬼道(シャーマニズム)を用いる卑弥呼が登場したことで倭国の内乱は沈静化し、239年に卑弥呼が魏の皇帝から親魏倭王に制授されて邪馬台国を中心とする約30の小国の連合体制が実現しましたが、その後も狗奴国は邪馬台国に服従せずに敵対関係にありました。冒頭で合唱が魏志倭人伝の冒頭の書き下し文を朗唱して幕開けし、魏の皇帝の勅使が卑弥呼を親魏倭王に制授するために来日する様子が勇壮なダンスで表現されていました。卑弥呼が魏の皇帝の勅使から親魏倭王の証として金印紫綬を下賜される場面(これらは外交儀礼上の名目的なものとは言っても、邪馬台国が魏の属国として扱われていたことを示すものですが、過去のブログ記事でも触れたとおり後の時代になって中国との対等な関係性をアピールするために「倭」を「大和」「日本」、「倭王」を「日出処天子」「天皇」に言い換えるなど日本の独立性を守るために難しい外交政策が強いられてきました。)では卑弥呼のアリアが歌われましたが、その歌詞には現代語ではなく古典語(読み下し文)が使用され、韻律にも十分に配慮された音楽的なものだったので、日本語オペラが陥りがちな(会社の報告書よろしく)説明口調の野暮さは回避されていたので好感しました。但し、休憩時間中のホワイエで10代くらいと思しき若年層の顧客が古典語の言い回しが分かり難いと話しているのが聞こえてきましたので、幅白い世代に違和なく受容して貰うための舞台表現の難しさを感じさせます。閑話休題。これに対し、卑弥呼の台頭を快く思わない異母妹のウカシや狗奴国の官人と、卑弥呼を守りたい卑弥呼の弟(天照大王=卑弥呼と仮定し、その弟は建速須佐之男命であるという設定)や卑弥呼と恋仲になった狗奴国の将軍・阿多の君の思惑が交錯する人間臭いドラマが展開されて行きました。卑弥呼の侍女は天(太陽)を象徴する赤の衣装、その異母妹のウカシの侍女は地(森林)を象徴する緑の衣装で対比され、ソプラノの羽山弘子さんが扮する卑弥呼は天から倭国へ降り注ぐ威光を湛えた存在感を示していたのに対し、アルトの栗田真帆さんが扮するウカシは地にあって卑弥呼を排除しようと陰謀を巡らす業の深さを湛えた存在感が上手く対照的に表現されていたように感じられました。また、バリトンの村田孝高さんが扮する卑弥呼の弟が邪馬台国に侵入した狗奴国の官人を襲撃する場面では邪馬台国の風雲急を告げるかのような緊迫感漂う音楽が効果的に使用されていましたが、薮田さんの音楽には奇を衒った表現で観客を煙に巻くような灰汁はなく素直で聴き易いものであるという印象を受ける一方で、非常に着想が豊かで出汁の効いたドラマチックな表現も随所に散りばめられているもので好感しました。卑弥呼のモチーフ(「卑弥呼よ」という歌詞に付されていた4音の下降形)が印象的に繰り返されていましたが、テノールの羽山晃生さんが扮する狗奴国の将軍・阿多の君が歌う「祖国よ」(狗奴国)という歌詞にも卑弥呼のモチーフと全く同じ音型(4音の下降形)が付されており、卑弥呼と祖国(狗奴国)に対する愛の板挟みになっている苦衷が音楽的に表現されていました。卑弥呼は邪馬台国の危機的な状況を受けて御神託を仰ぎますが、ソプラノの山口安紀子さんが扮する神(白いベールに月桂樹の冠のようなものがあしらわれるアニミズムを体現する衣装)が登場し、南方から災いがもたらされると啓示しますが、卑弥呼は南方の国である狗奴国の将軍・阿多の君に心を奪われたことで御神託を授かることができなくなっています(御神託を授かる巫女には俗世とは隔絶された神聖性が求められますので、色恋沙汰のような穢れはご法度)。そこへ飢饉に苦しむ邪馬台国の民が卑弥呼に救いを求めますが、御神託を授かることができなくなった卑弥呼に不満を募らせて暴動が起こります。これを鎮圧するために卑弥呼の弟は暴徒化した邪馬台国の民を成敗しますが、卑弥呼の異母妹・ウカシの讒言により卑弥呼の弟は乱心者として成敗され、また、魏の高官・政張はこの暴動は魏への謀反に等しいとして卑弥呼も成敗されました。実際の邪馬台国は卑弥呼の弟が政治を司り巫女である卑弥呼はそれこそベールに包まれて滅多に姿を見せることはなかったようであり(現代の開かれた皇室とは全く逆のイメージ戦略ですが、テレビやSNSはすべてを映し出してしまうことから権威が生まれ難く、現代の開かれた皇室は権威から好感度にイメージ戦略を切り替えたもの)、政争に巻き込まれないように権威を保つ術を弁えていた知恵(和魂)がある人物であったと思いますが、このオペラでは現代人にも共感し易いように卑弥呼の人間性に焦点をあてるように描かれていました。最後は合唱が魏志倭人伝の末尾の書き下し文を朗唱し、卑弥呼の死後に男王を擁立したところ倭国に内乱が生じましたが、再び、(このオペラでは卑弥呼と阿多の君との間に生まれた娘という設定でしたが)女王・壱与を擁立すると倭国の内乱が沈静化したことが紹介されて閉幕になりました。最近、若年層のオペラ離れが問題になっていますが、英雄譚などを中心とするグランドオペラは多様性の時代を生きる若年層には共感し難いものになっているようにも感じられますので、現代の時代性を踏まえて大胆に素材を翻案してしまうという選択肢もあり得るかもしれません。また、音響設備がなかった時代に考案されたベルカントならではの魅力があることも十分に承知していますが、敢えて、クルーナーを効果的に採り入れることで表現の幅に広がりを持たせる選択も有効ではないかと感じています。その意味では、このオペラは生々しい人間ドラマに脚色することで卑弥呼の等身大の姿に迫り得る内容になっており、若年層にも共感し易い物語に仕立てられているように感じられました。
 
 
▼藝大21創造の杜2025「藝大現代音楽の夕べ」
【演題】藝大21創造の杜2025「藝大現代音楽の夕べ」
【演目】①廣庭賢里 《MONOlith⇄MONOlogue》
                 オーケストラのための (世界初演)

 

    ②折笠敏之 《transformatio emergens Ⅱ》(世界初演)
    ③林梨花 《Where is She?》
            十七絃箏とオーケストラのための (世界初演)
          <十七絃箏>鹿野竜靖
    ④西村朗 《2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー》
          <Pf>實川風、北村朋幹
【演奏】<Cond>ジョルト・ナジ
    <Orch>藝大フィルハーモニア管弦楽団
【司会】池辺信一郎、金子仁美
【日時】2025年6月6日(金)19:00~
【会場】東京藝術大学奏楽堂
【一言感想】
過去のブログ記事で触れたとおり、藝大フィルハーモニー管弦楽団は1899年に設立された日本最初のプロオケで数々の日本初演を手掛けてきた伝統がありますが、沙羅双樹の花とて色褪せると言われているのに人間が作ったものに色褪せないものがあるはずもありませんので、是非、その伝統を絶やすことなく100年後の名曲となべき現代の音楽の世界初演、日本初演に尽力して貰いたいと期待しています。現代作曲家の池辺晋一郎さんと現代作曲家の金子仁美さんのプレトークで2023年に他界された西村朗さんの人柄が偲ばれる裏話を伺えましたが、その死後も名前や作品を耳にする機会が非常に多く、西村さんはその作品と共に愛され続ける音楽家です。
 
《MONOlith⇄MONOlogue》オーケストラのための
パンフレットには「本作は2群に分割されたオーケストラのための作品であり、1人の人間の内面で交わされる思考の対話、あるいはその断絶を描いている。」とし、W.イエイツの詩「自我と魂の対話」の詩的構造に倣って「本作もまた分断された響きが次第に混じり合い、最終的には一つの統一された音響体として結ばれて行く。」と記されています。上述の2025年度武満徹作曲賞で優勝した2群のオーケストラのための「肌と布の遊び」と同じく中央のピアノを取り囲むようにオーケストラが2群に分かれて左右に配置され、また、同賞で第2位を受賞した管弦楽のための「祀」と同じくオケ団員が器楽を演奏しながら声を発するという作品でしたが、新しいオーケストラ作品の潮流ということでしょうか。冒頭でピアニストが何かを叫び、これと呼応するように打楽器(ピアノを含む)が激しく乱打し、その後、これと対照するように弦楽器がグリッサンド、金管楽器がエアー・サウンドが奏でられましたが、これらの照応は自我(本能)と魂(理性)の対話や葛藤などを表現したものでしょうか。最後は、ピアニストが舞台の前面に歩み出て何かを叫んでいましたが、自我(本能)と魂(理性)の対話や葛藤などを経て1つのアイデンティティとして確立する精神的な営みを音楽的に表現したものに感じられました。
 
《transformatio emergens Ⅱ》
本日の白眉でした。パンフレットには「ある素材から別の素材へと或る種「自律的」に変容させるプロセス(の類型)に関しての、コンピュータを援用した実験的な性質の試みの強い創作」であり、「特定の数系列から導かれる、微分音(四分音、六分音)を含む音高システムから数理的な手法で抽出された素材に基づく生成、生成された素材からの差倣う変換や生成といった、多層的に変化を繰り返す素材とその時間的な連絡を楽曲の基礎としています。」と記されています。パンフレットを読んでもその独特な文体は直感的な理解を許しませんが、折笠敏之さんのプロフィールを拝見すると物理学から美学を経てIRCAMで研鑽を積まれた異色の経歴の持ち主で、宛らI.クセナキスのようにコンピューターを使った数学的なアプローチから音響を即物的、現象的に取り扱う作風に感じられました。個人的には方法のための音楽はあまり好みませんが、このユニークな創作は(例えば、理論物理学など従来の音楽語法では十分に表現し切れないような)新しい世界観を描き得る表現可能性を秘めているように感じられ、(音響をそのまま即物的に鑑賞する受容態度もあり得ますが)この曲を聴く観客のプロジェクションに応じて様々な面白い表情を見せてくれる懐の広い作品に感じられました。冒頭では春霞のような実態を伴わない音響(方向性を持たない音響)が揺蕩い、やがてその音響が集積して密度を増して行きました。弦楽器のボーイングがバラバラな動きをしていたので各団員毎に異なる楽譜が使用されていたのではないかと思われますが、これにより一定の方向性を持った時間観念を無効化するようなカオスな音響空間(対称性)が出現していました。時折、そのカオスな音響の中からホルンや木管などが実態(方向性を持つ音楽的な意思)を伴った音像(対称性の破れ)が立ち上がりましたが、宛ら不知覚(ミクロな世界観、例えば、水蒸気などの気体)と知覚(マクロな世界観、例えば、氷などの個体)の境界(空間概念)を生きつ戻りつしているような面白い芸術体験を堪能できました。大きなクライマックスを築いた後、徐々にその音響の集積が収束していきましたが、これは何かの着地や解決を示す終止感のようなものとは異なり、さながら対称性の破れから対称性を回復して行くような過程(時間概念の消失)を体現しているような不思議な世界観に感じられました。
 
《Where is She?》十七絃箏とオーケストラのための
パンフレットには「本作品は、能「二人静」から着想を得て作曲」し、「シテとツレが寄り添いながら舞う独特の演出がなされる場面を、視覚的に再現することを目的に、十七絃筝とオーケストラの楽器が、奏法や音色を模倣し合うオーケストレーションを多く用いた。静香御前が菜摘女に乗り移って共に舞うように、十七絃筝はオーケストラと寄り添い合い、その境界が揺らぎながら展開する。」と記されています。おそらく音楽のコンセプトとしては次曲のヘテロフォロニーと近いものがあるのではないかと思いますが、一聴した限りの印象としては、十七絃筝とオーケストラははっきりと異なるテクスチャーを紡ぐ協奏的な作品に感じられ、それぞれが別の存在であることを印象付けながら一方の残響の余韻に他方の影が現れては消えて行き、それぞれが連環して行くような身振りには二人舞を彷彿とされるものがあるように感じられました。この曲は和洋の境界を揺るがすことも作曲意図とされていたことから十七絃筝(シテ)とオーケストラ(ツレ)が対置されていたのだろうと思いますが、十七絃とオーケストラはかなり質感が異なるので、オーケストラを囃子方、地謡や能舞台に見立て、十七絃を二面(シテ、ツレ)にした方が分かり易かったのではないかとも思われましたが、これは陳腐な素人考えというものかもしれません。
 
《2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー》
パンフレットには「自分の持てる限りの創作エネルギーをフルに注ぎ込んだような交響的ヘテロフォロニーが書きたいという欲求」から作曲を思い立ち、「2台のピアノはイメージとしてはオーケストラの中心に位置し、全体音響とその流れの発振源となる。激しく振動するピアノの強靭な響きの話の中から、大管弦楽の響きがヘテロフォロニックにたち昇ってくる、というのが作曲にあたっての原イメージ、原光景としてあった。」と記されています。上記①~③の音楽的なコンセプトを包摂しているような印象を受ける音楽で、その意味では現代音楽の分野も(エレクトロニクスの分野を除いて)色々なことがやり尽されてきているということかもしれません。第一楽章ではピアノとオーケストラによるヘテロフォロニックな響きが織り成す万華鏡のような世界観に魅了され、それが次第に密度を増しながらクライマックスを築いては収束して行くことを繰り返しますが、その収束した先にはこの音響塊のエネルギーの源泉であるピアノのトリルが顕在してくるバランスの良い精緻な演奏を楽しめました。第二楽章ではピアノの眩いトリルが光沢感を放ち、弦のグリッサンドが幽けき音で揺蕩う幻想的な演奏を楽しめました。続く第三楽章ではピアノがヒステリック気味に快活なトリルで捲し立てると、この挑発にオーケストラが呼応してヘテロフォロニックな響きを集積させながらクライマックスを築く構築感のある演奏が展開されました。ピアノがリズミカルなダンスを展開すると、これがオーケストラに伝播して密度を増しながら最後はオーケストラが絶叫するかのような交響的なヘテロフォロニックな音響世界へと突き抜け、奏楽堂の残響が飽和する大団円で終曲になりました。非常に熱量の高い終曲で、プレトークに絡めて言えば、西村さんも酒が進んで桃源郷で筆が冴え渡っていたということかもしれません。「天才と狂気の間にワインあり」と言いますが、西村さんの才気が薫り立つ音楽に酔い痴れました。
 
 
▼新作オペラ「ナターシャ」創作の現場から~台本:多和田葉子に聞く~
2028年8月11日(月・祝)から2025年8月17日(日)まで新国立劇場の日本人作曲家委嘱作品シリーズ第3弾としてオペラ「ナターシャ」(作曲:細川俊夫さん、台本:多和田葉子さん)が世界初演されますが、それに先立って2025年5月15日(木)に台本を担当している多和田葉子さんのトークイヴェント(司会:松永美穂(翻訳家・早稲田大学文学学術院文化構想学部教授)が開催されるというので拝聴することにしました。多和田さんはロシア文学専攻で(M.バフチンの影響でしょうか?)多声社会論で知られている小説家ですが、冒頭では多和田さんの簡単な経歴が紹介されました。多和田さんと細川さんとの出会いは1997年にハンブルクでH.ラッヘンマンのオペラ「マッチ売りの少女」が世界初演された伝説的な公演だったそうですが(この公演では宮田まゆみさんが「笙」を演奏されて日本でも話題になりましたが)、その後、多和田さんは1998年に細川さんのオペラ「リアの物語」がミュンヘンで世界初演された公演を鑑賞するなど両者の親交が続き、オペラ「ナターシャ」のタッグに結び付いているそうです。(途中から細川さんもトークに加わり)かねてから細川さんは多和田さんの小説「飛魂」を読んでオペラにしたいと考えていたそうですが、そのシャーマニックな世界観にインスピレーションを受けられたという趣旨のことを語られていました。オペラ「ナターシャ」の主人公ナターシャはウクライナ人という設定ですが、このオペラの構想は2019年12月から始まったコロナ禍で開始されたものでコロナ収束後の2022年2月から始まったロシアによるウクライナへの本格的な軍事進攻とは直接の関係はなく、個別の国際紛争をテーマとして扱った作品ではなくもっと普遍性を持ったテーマを扱った作品だそうです。多和田さんは海の声が分かるナターシャは言葉がなくなった後に残る情念のようなものを体現する存在として描いたという趣旨のことを仰られていましたが、「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」(古今和歌集)にある言葉が生まれる前の「心の種」、即ち、言葉が持つ意味(理性)で整えられる前の生命に直結する情動のようなものに眼差しが向けられているように思われます。また、多和田さんは現代語は読書するための言葉であり歌唱には不向きで古典語の方が歌唱に向いており、その点を意識して台本を創作されたそうです。過去のブログ記事でも触れましたが、「詩の深化」(三島由紀夫「文化防衛論」)を忘れて言葉が磨かれなくなった現代語よりも詩情豊かに心を彩る力を持った香気ある古典語に息衝く(プロットの面白さよりも)聴感の心地良さに魅力を感じることが多く、我が意を得たりと思いながら拝聴しました。ネタバレしないように詳しくは書きませんが、オペラ「ナターシャ」は現代人の価値観で共感できるオペラになっているようなので、大変に楽しみです。
 
▼近藤譲のオペラ「羽衣」(日本初演)
昨年、現代作曲家の近藤譲さんが第55回(2023年度)サントリー音楽賞を受賞されましたが、その受賞記念コンサートとして2025年8月28日(木)に近藤さんのオペラ「羽衣」(1994年)が日本初演されます。オペラ「羽衣」はフィレンツェ五月音楽祭(フィレンツェ市立歌劇場のオペラ音楽祭)の委嘱により、近藤さんが世阿弥の能「羽衣」を題材して台本を手掛け、作曲された作品です。なお、オペラ「羽衣」の公演前には近藤さんのドキュメンタリー映画も上映される予定なので楽しみです。