
▼ブログの枕「世界と対話する手」
前々回のブログの枕と前回のブログの枕では進化生物学の観点からエリクソンの漸成的発達理論(ライフサイクル理論)をベースにして意識と自我の関係性に簡単に触れましたが、乳児期(0~1歳)は「感覚」→「行動」→「探索」というプロセスを繰り返しながら「自己」と「外界」を十分に区別できない低次の覚醒モード(外界から受動的にエネルギーを摂取する進化過程)から「自己」と「外界」を十分に区別できる高次の覚醒モード(外界から能動的にエネルギーを摂取する進化過程)へと成長し、更に「自己」と「他者」と「外界」を十分に区別できる意識モード(集団生活に適応する進化過程)へと発達して自我(メタ認知)を発現すると考えられています。この点、ギリシャ人哲学者のアリストテレスは著書「魂について」において「五感の中で第一のものとして全ての動物に不可欠なものは触覚である。触覚を欠いては動物として存在することは不可能だ。」と述べていますが、乳児期は視力が0.02~0.2程度しかなく、聴力も音のする方向に目を向けるように発達するのが生後約2~3ケ月頃と言われており、五感の中で最も早く発達する触覚(口に触れる範囲→手が届く範囲→這って又は歩いて動ける範囲へと拡大)を主に使って「感覚」→「行動」→「探索」というプロセスを繰り返しながら自分と世界の関係(身体境界と世界モデル)を学習すると言われており、触覚は動物が自らの生存を規律する根源的な感覚と言えるかもしれません。フランス人社会学者のマルセル・モースは論文「身体技法」において「身体は社会によって教育され、社会毎に異なる技法を身に付ける。」と述べ、例えば、座る、歩く、食べる、話す、呼吸法、身振り、寝姿勢などの無意識的な所作は文化や時代によって異なり又は変化すると論じていますが、これらは意識が生成される以前の乳児期から「感覚」→「行動」→「探索」というプロセスを繰り返しながら主に触覚を通じて身に付けられる文化的な身体知(暗黙知)と言えるかもしれません。
▼感覚のホルンクルス(脳がデザインする世界との境界面)人間の脳は、遠隔感覚(視覚・聴覚・嗅覚)や化学感覚(味覚)を処理する領域よりも、体性感覚(触覚)を処理する領域の方が占有面積が大きく、脳幹は遠隔感覚や化学感覚よりも体性感覚の処理を優先しています。また、体性感覚の中でも触覚受容器が密集し、能動的なエネルギー摂取に重要な働きを担う手、唇、舌を最も重視していると考えられています。因みに、感覚のホルンクルスには個体差があり、例えば、体性感覚を処理する領域のうち、ピアニストは指の領域が大きい、ダンサーは足の領域が大きい、盲人は触覚の領域が視覚の領域まで拡張しているなどの特徴的な傾向があると言われており、上述したモースの身体技法でも説かれているとおり個人の経験などにより脳がデザインする世界との境界面も変化すると言えそうです。▼触感=触覚+イメージ(他感覚、言語、記憶)人間の脳は、触覚とイメージ(他の感覚、言語、記憶)を統合して触感という認知パターンを生成しており、それはオノマトペ(野菜=シャキシャキ、パン=サクサク)などで表されます。例えば、ポテトチップスのパリパリ音は、音で触覚や食感を増幅するクロスモダール効果によっておいしさを演出しており、これはASMR(自律感覚絶頂反応)と同様に脳の快感系を強調する働きを持っています。因みに、過去のブログ記事でも触れたとおり、話し手と聞き手が共同視点を持つこと(ハイコンテクストな文化)を前提とする日本語のコミュニケーションは触感を「再現」する表現(例えば、彼は水をゴクゴクと飲んだ)によって聞き手に感覚的な理解を誘うオノマトペが発達しましたが、話し手と聞き手が共同視点を持たないこと(ローコンテクストな文化)を前提とする英語のコミュニケーションは触感を「説明」する表現(例えば、He gulped water)によって聞き手に論理的な理解を誘う動詞が発達したという違いがあります。また、前回のブログ記事で触れたとおり、この特徴的な傾向は日本の稽古(師匠の模倣による感覚的な理解、オン・ステージの視点)と欧米のレッスン(技術の習得による論理的な理解、オフ・ステージの視点)の違いにも現れていると思います。

様々な技術革新の影響を受けて消費活動は19世紀までのバザールから20世紀のウィンドウショッピング(ガラス、セロハンの普及)、21世紀のオンラインショッピング(インターネットの普及)へと移行し、これに伴って触覚による身体知(暗黙知)を基調とするものから視覚による表象知(形式知)を基調とするものへと変質しました。また、デジタル技術は文字情報から感覚的なノイズを削ぎ落して純粋な記号として抽象化し、さらに、AI技術は知的活動から身体知(暗黙知)を捨象して純粋な表象知(形式知)のみを編集するようになり、現在は人間の消費活動や知的活動から触覚に裏付けられた身体知(暗黙知)が失われつつある状況にあります。この点、アメリカ人心理学者のパム・ミュラー及びダニエル・オッペンハイマーは論文「ペンはキーボードよりも強し」において「ノートパソコンでノートをとった学生は手書きでノートをとった学生よりも概念理解に関する成績が悪かった」という実験結果を発表しています。また、アメリカ人心理学者のマリリー・オペッツォ及びダニエル・シュワルツは論文「アイディアに足を授けよう」において「歩行が創造的発想力を高める」という実験結果を発表していますが、歩行のリズムが海馬と前頭前野のシータ派の同期を高め、記憶、空間認知や意思決定などの機能を活性化させる効果があることが分かっています。このように触覚を刺激することで脳の機能が高まることが分かっており、消費活動や知的活動において「触感を伴う体験」(身体知)の重要性が見直されてきています。例えば、ファセテラピーの分野で施術(触感)を記録するためのメディアとして楽譜ならぬ「触譜」が開発され、また、デジタル技術やオンライン技術を使って触感をデザインする「テクタイル」が注目を集めており、新しい触感を創出したり、その触感をオンラインで共有することが可能となりつつあります。さらに、VR技術やハプティクス技術を使って外界と接続された身体を感覚(環世界=人間が知り得る世界)から切り離し、新しい身体性を再構築して「VR感覚」(ファントムセンス)を体感させることで人間の感覚をひらく試み(環世界=人間が知り得る世界の再編集に留まらず、環境世界=人間が知り得ない世界の疑似体験を含む)なども注目されています。これを芸術表現に擬えて言い換えれば、環世界を表現するための洗練されたローテクがクラシック音楽であるとすると、環境世界を表現しようと試みているハイテクがコンテンポラリー作品と言えるかもしれません。
▼中村麗ピアノ&マルチメディアレクチャーパフォーマンス
【演題】Cabicuri Academy 2026 特別企画
中村麗ピアノ&マルチメディアレクチャーパフォーマンス
【演目】①ルイージ・ノーノ 《…sofferte onde serene…》
②サラ・ネムソフ 《Seven Thoughts》
③ヨハネス・クライドラー 《Study》 ほか
【ピアノ・解説】中村麗
【エレクトロニクス】有馬純寿 ほか
【日時】2026年6月6日(土)16:00~
【会場】両国門天ホール
【一言感想】

キャビキュリ(Cabinet of Curiosities)では、2021年から現代音楽の新たな受容と創造の場を拓くために国内外の作曲家や作品を紹介する活動に尽力されており、このプロジェクトは新しい音楽シーンを創ることを目的として演奏家と作曲家が協働する育成プログラムだそうです。本日はピアノ、器楽及びオブジェクトを含むマルチメディア作品に焦点を当てた成果公演という位置付けで、6月6日の「稽古の日」に中村麗さんをゲスト講師に迎えて「マルチメディア作品・ピアノ拡張奏法・演奏実践」というテーマのレクチャーパフォーマンスが披露されるというので聴きに行きました。



ドイツ在住のピアニストである中村麗さんは、H.ラッヘンマンの妻であるピアニスト・菅原由紀子さんの薫陶を受け、数多くのヨーロッパの現代作曲家などに委嘱してフィードバック(ディレイやルーパーなどのエフェクターを使って出力した音の一部を入力に戻し、繰り返し音を重ねる機能)、クリックトラック(ライブ演奏中に一定のビートを刻むDAWを活用し、ピアノがコマンドとして作用して映像を変化)、トイピアノ、プリペアドピアノ、エレクトロニクスやライブビデオなどを採り入れた時代の最先端を行く音楽に携わっているピアニストの1人です。本日のレクコンは作曲や実演の「方法」に主眼が置かれた内容でしたので、その内容を感想として残すことには向いていないと感じられましたが、レクコンを拝聴した記録としてごくごく障りだけ残しておきたいと思います。ということで、レクコンの内容は一般客向けというよりは作曲家や演奏家向けという印象を受け(料理よろしく一般客は作曲や実演の「方法」を鑑賞する訳ではなく、それらを駆使して表現される「世界観」を味わうものなので)、実際に私以外の方は全て業界関係者だったのではないかと思われます。トーキョーコンサーツ・ラボなども同じような状況がありますが、さながら常連で賑う酒場の暖簾をくぐる一見の心境で場違いな印象を否めませんでした。中村さんの貴重な作品リストが配布されたので、(作品が作曲年代順に並べられているだけなので著作物性はないと判断して)そのまま貼付しておきますが、このうち、以下の作品のレクコンでは「方法」と共に「世界観」が伝わってくるもので、非常に面白く刺激的な着想に思われましたので、以下に簡単にご紹介しておきます。
▼ミヒャエル・バイル マッハ・ジーベン(1999/2000)この作品は回文構造(パリンドローム)を持ち、順行する音楽と映像、逆行する映像が組み合わされ、順行する音楽は逆行的な構造を内在しているので順行する音楽と逆行する映像が同期し、また、順行する映像と逆行する映像も同期しているように見えるので、さながら鏡映形のように感じらえますが、それは完全には同期しておらず随所にラグが仕掛けられているので、その音楽や映像は鏡映形ではなく異なる時間軸が重ね合されていることに気付かされるという非常に独特な世界観を体現している作品です。この点、B.S.バッハは音の反転(反行形:音高の反転、逆行形:メロディーの反転、鏡映形:楽譜の反転)を体現しているに過ぎませんが、M.バイルは時間の反転をコンセプトにしているという点で、映画「テネット」の世界観とも通底し、時間反転対称性と対称性の破れが記述する現代物理学の時間概念を音楽と映像を使って体現しており、現代人の認知バイアスを揺さぶる知的興奮に満ちた作品に感じられました。M.バイルさんの作品群には非常に面白いものが多いと思われますので、ご興味のある方は繰り返して視聴して鑑賞を深めてみると作品の魅力に色々と気付かされる点が多いと思います。(中村さんが実演しているものがアップされていませんでしたので、他の演奏者のもので。)
なお、サントリー芸術財団が不定期に「日本の作曲」「日本の作曲家の作品」を更新、無料公開されており日本の芸術文化を下支えする献身的かつ意欲的な取組みには頭が下がる思いですが、それにしても1財団の取組みには限界があり網羅性があるものではありませんので、願わくば、日本に限らず世界中の現代作曲家又は奏家の作品リスト(と可能であれば音源や映像)を集積するためのWebサイト(公営機関や教育機関などが運営する公共的なスペース)があれば至便なのですが、財源も含めて困難な課題があるのでしょうか。You Tubeなどで個別に発信されていても、とてもキャッチアップし切れません(涙)。また、有馬さんによれば、現在、日本にはエレクトロニクスを始めとしたエンジニアリングを芸術家に教授する専門的な教育機関がなく、それぞれの作曲家や演奏家が1から手探りで習得しているのが現状であるとのことです。日本人は万世一系のボンカレーを尊ぶ国民性を特徴としている反面として新しいものには奥手な傾向が顕著ですが、そろそろ日本版IRCAMのようなもの(シン・ボンカレー)を指向しても良いのかもしれません。
▼ヴァイオリンで辿る現代音楽史第1回
【演題】現代音楽レクチャーコンサート
ヴァイオリンで辿る現代音楽史(第1回:1900年~1945年)
【演目】①ウジェーヌ・イザイ
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ ニ短調「バラード」(1924年)
②パウル・ヒンデミット
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番(1924年)
③エゴン・ヴェレス 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ(1924年)
④ベラ・バルトーク 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ(1944年)
【演奏・解説】<Vn>牧野順也
【日時】2026年6月6日(土)19:00~
【会場】Hako Gallery
【一言感想】

ヴァイオリニストの牧野順也さんは「20世紀の音楽史」と題して全11回に亘る現代音楽史を紹介する動画を公開されており大変に重宝していますが、何と現代音楽史をテーマとしたシリーズ物のレクチャーコンサートを開催されるというので聴きに行ってきました。現状、日本では現代音楽のレクチャーコンサートは皆無に等しく、牧野さんのような存在は大変に有難く貴重な存在です。これからの時代に必要とされる演奏家は、大昔の定番曲を上手く演奏する旧来型の演奏家(コンクール型人材)よりも、世界中の新しい傑作を発掘してその魅力を聴衆に伝えることができる能力を備えた演奏家(芸術賞型人財)であると確信しています。代々木上原駅にはMUSICASAやけやきホール以外にもHako Galleryというイベントスペースがあることを初めて知りましたが(因みに、代々木上原駅には俳優の榎木孝明さんが営まれているアートスペース・クオーレもありますが)、若者のテレビ離れが指摘されるようになって久しいなか、最近は聴衆の趣向の多様化に対応するように、旧来型の大型のホール(大勢と体験を共有するマスメディア型)ではなく、住宅街の中にあるプライベート空間のような小型のスペース(個人の体験を尊重するナノメディア型)での演奏会が増えてきたように感じられます。
▼前衛のドグマ:桂剥きの芸術戦後後遺症に蝕まれた前衛主義は「方法の探求」に偏り芸術の本質である「世界観の探求」を見失った結果、「誰にも聴かれない音楽」(マスターベーション・ミュージック:MM)として自壊して行ったと評価して差し支えない状況があると思います。一般客は新しい「桂剥き」には興味がなく、その新しい桂剥きを使ってどのような一皿に結実させているのかその世界観を味わうが大人の嗜みというものです。寧ろ、桂剥きが鼻に付くようでは半人前と言えるかもしれません。 ※荒っぽく行ってしまえば、日本の芸術大学は伝統アカデミズム+前衛アカデミズムが主流でしたが、そこへ田辺尚雄さん、黒沢隆朝さん、柴田南雄さん、小泉文夫さんなどの傑物が登場して非アカデミズムを採り入れたという歴史的な流れと捉えています。
冒頭、牧野さんは滝廉太郎の歌曲「荒城の月」を即興でアレンジした演奏で登場されましたが、この即興アレンジはエゴン・ヴェレシュの無伴奏ヴァイオリン・ソナタの第二楽章を彷彿とさせる曲想で興味深かったです。ヴァイオリンで辿る現代音楽史の第1回は1900年から1945年までの期間を対象として新しい音楽を模索し始めた幕開けというテーマでレクチャーと演奏が披露されました。牧野さんのレクチャーの趣意を忠実に捉えることは難しいですが、僕なりの解釈を採り入れてレクチャーの概要を俯瞰すると、第一世界大戦によって神(又はその権勢を受け継ぐ王侯貴族)を中心としたヒエラルキー型の社会秩序の崩壊と共に主音(調性)を中心とするヒエラルキー型の音楽秩序(即ち、人間の環世界とそれを前提とする認知バイアスに閉ざされた世界観、古典物理学の世界観)も崩壊し、芸術家は新しいリアリティを求めて新しい芸術表現(即ち、人間の環世界の外側に拡がる環境世界と人間の認知バイアスを相対化して世界の実相に迫る開かれた世界観、現代物理学の世界観)を模索するようになりました。伝統アカデミズムから産業革命(近代化)を経てアール・ヌーヴォ(伝統+近代)に至り、第一次世界大戦による伝統の崩壊の先にある究極的な到達点としてA.シェーンベルクは調性の世界観(人工の音、人間が食べ易いように切り分けられた刺身のようなもの、伝統アカデミズム)の外側に広がる無調の世界(自然の音、刺身に切り刻まれる前の魚のようなもの、汎アカデミズム)に芸術表現の可能性を「拡張」した人物であり、それを偏向的に承継し調性の世界を「排除」しようとして音楽の暗黒面に堕ちた前衛アカデミズムと、それに対する反発的な発展としてオルタナティブな選択(アール・デコや民族性など)を採り入れた非アカデミズムに分岐した捉えることができるかもしれません。僕の個人的な趣向としては、武満徹さんなどが歩んだ非アカデミズム的な創作態度(西も東もない海とそれから演繹される芸術も商業もない海、調性も無調もない海)に深い共感を覚えます。このようにして音楽は、ただ身を委ねていれば気持ち良くなれる(即ち、人間の環世界とそれを前提とする認知バイアスに閉ざされた世界観を追認する)ような人間に都合の良いパラダイム(幻想)を表現するものではなくなったと言えるのではないかと思います。この文脈から、伝統アカデミズムの流れを汲むアール・ヌーヴォ(伝統+近代:戦前近代)は「伝統」(曲線を多用する自然的な表現)と「近代」(直線を多用する機械的な表現)を融合し、その伝統的な側面としてE.イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ、その近代的な側面からP.ヒンデミットの無伴奏ヴァイオリン・ソナタが採り上げられました。その後、A.シェーンベルクが登場して音楽を革新し、その偏向的な承継として前衛アカデミズムの流れとその反発的な展開として非アカデミズム(アール・デコや民俗性など)の側面からB.バルトークが採り上げられました。本日は非常に珍しいエゴン・ヴェレスの無伴奏ヴァイオリン・ソナタが演奏されましたが、12音技法の無機質な響きと後期ロマン派の残照を薫らせる色彩感のある音響が入り混じり時代がダイナミックに移り変わろうとしている時代感覚を体現する音楽が面白く感じられました。なお、ヴァイオリンで辿る現代音楽史の第2回は1945年から1990年までの期間を対象とし、現代音楽豊穣期というテーマでブライアン・ファーニホウ、ジョン・ケージ、ルチアーノ・ベリ雄、ヘルムート・ラッヘンマン、サルヴァトーレ・シャリーノの作品についてレクチャーと演奏が披露される予定なので、今から予定しておきたいと思います。
▼小劇場オペラ「出雲阿国」
【演題】Camerata Project 10周年記念
【作曲・指揮】永井秀和
【台本・演出】角直之
【演目】小劇場オペラ「出雲阿国」(新制作/全3幕/日本語上演)
<出雲阿国>杉田彩織
<名古屋山三郎>堀越俊成
<加賀菊>日高千聡
【演奏】<Pf>高倉圭吾
【振付・舞踊】中村瑞乃
【美術・空間構成】星野善晴
【主催】NPO法人日本音楽国際交流会
【日時】2026年6月20日(土)14:00~
【会場】かなわがアートホール
【一言感想】

第四世鶴屋南北作の歌舞伎「浮世柄比翼稲妻」で有名な名古屋山三郎は戦国三大美少年の1人に数えられ、遊芸に通じた伊達男として数々の浮名を流した色男と言われています。蒲生氏郷の小姓として仕えて蒲生氏郷の死後は出家しますが、その後還俗して森忠政に仕え、森忠政から不忠者の宇右衛門の誅殺を命じられますが、却って返り討ちにあってしまいます。名古屋山三郎は歌舞伎踊りの創始者の出雲阿国を妻(又は愛人)に持ち歌舞伎踊りを広めたという俗説もありますが、これは出雲阿国が歌舞伎踊りを披露する際に名古屋山三郎の亡霊役を演じる男性役者と共に踊ったことからそのような噂が広まったのではないかと言われていますが、この作品ではこの俗説に着想を得て創作されているようです。

このオペラは出雲阿国、名古屋山三郎(阿国の恋人)、加賀菊(阿国の付人)の三角関係を物語の基軸とし、オペラの伝統に則り歌手(ソプラノの杉田彩織さんが演じる出雲阿国)とバレエ又はコンテンポラリーダンス(ダンサーの中村瑞乃さんが演じる藝能の精霊)を分離して、古事記に登場する藝能の伝統(天宇受賣命:藝能の始祖、須佐之男命:和歌の始祖)が紡ぐ歴史の流れ、鴨川が育んだ藝能の革新(世阿弥:能楽の大成、出雲阿国:歌舞伎の創始)が彩る時代の流れを基底に据えた重層的な舞台を楽しめました。尤も、このオペラは出雲阿国の半生を描いた伝記オペラという性格のものとは異なって、出雲阿国は鴨川の流れを体現する優美な「舞」で評判の芸能者という設定になっており(歌詞には「踊」ではなく「舞」という言葉を多用)、武士(名古屋山三郎)の血を体現する「朱」(隈取の赤)を身に纏うというプロットに仕立てられていました。この点、過去のブログ記事でも触れたとおり、王朝文化を象徴する雅楽(舞)に対し、世阿弥は武家文化を象徴する能楽(舞)を大成して時代をブレイクスルーしましたが、さらに、出雲阿国は武家文化を象徴する能楽(憂世)の「舞」とは対照的な特徴を持つ庶民文化を象徴する歌舞伎(浮世)の「踊」(ややこ踊りを進化させたものが傾奇踊りで、傾奇の当て字(洒落)として歌舞妓と表記されるようになりました。)を採り入れて時代の革新を仕掛けた独創性に底知れない魅力があるように感じます。また、隈取は初代・市川団十郎が荒事芸のために発明した奇抜な化粧で武士の血というよりも武家社会に対する鬱憤を晴らす庶民の粋(武家社会の中で「四民の外」に置かれて虐げられていた歌舞伎役者を庶民のスーパースターに祭り上げるパラダイムシフト)を象徴するものと捉える方が自然に感じられ、やや出雲阿国及び歌舞伎の歴史的な位置付けやそれらの本質的な魅力と異なるプロットに違和感を覚えた点があったことは指摘しなければなりません。音楽は和歌を歌詞に採り入れていた点や日本語と相性が良い打楽器(鍵盤楽器)であるピアノ編曲版の上演であった点などが奏功し、過去のブログ記事でも触れた日本語のモーラ構造から生まれる違和感(歌劇というよりも朗唱劇や朗読劇のようなクドキ)を上手く解消して、詩情豊かな言葉を分散和音で美しく彩る音楽に魅せられました。開演時間前にプレショーとしてダンサーの中村瑞乃さんが舞台に登場し、三番叟よろしく鈴を振りながら舞台を清めて回りましたが、この鈴は藝能の始祖である天宇受賣命の髪飾りであり、巫女が翳す神の依代である「榊」(木+神)を象徴しています。開演後、第1幕の冒頭では黒装束の出雲阿国(傾奇者の黒は、決意)と白装束の藝能の精霊(傾奇者の白は、純真)が向い合い、須佐之男命が出雲で詠んだ八重垣の和歌を歌詞にしたアリアが歌われましたが、奈良時代(古事記)と安土桃山時代(出雲阿国)、出雲阿国と同時代に活躍したオペラの始祖であるイタリアの芸術家グループ「カメラータ」が重なり、和歌と歌劇、古代と近世、東洋と西洋が織り成す重層的な舞台が印象的でした。そこへ、ソプラノの日高千聡さんが演じる加賀菊とバスの堀越俊成さんが演じる名古屋山三郎(傾奇者の赤は、赤くたぎる血)が登場し、名古屋山三郎は出雲阿国への思慕の情を歌い、加賀菊に出雲阿国へ取り成して欲しいと頼みますが、出雲阿国は藝に生きる身であると名古屋山三郎の好意を袖にします。その後、2階の舞台に名古屋山三郎が登場してピアノが雨雫(名古屋山三郎の涙のメタファー?)のモチーフを奏でるところに名古屋山三郎に密かに想いを寄せる加賀菊が現われ、名古屋山三郎の傷心を慰めるために出雲阿国から預かってきた和歌だと偽り自分が詠んだ和歌を渡す場面では名古屋山三郎と加賀菊の恋の二重唱が聴き所になっていました。そこへ出雲阿国が現れて名古屋山三郎と相傘になり、ピアノが鴨川の流れを模倣するなかを出雲阿国の舞を鴨川の流れに喩えて賛美する場面では名古屋山三郎と出雲阿国の藝の二重唱が聴き所になっていました。第二幕では出雲阿国と名古屋山三郎が恋仲になり、加賀菊が横恋慕している場面から開始され、出雲阿国が赤いストールを身に纏うことで名古屋山三郎との恋が藝の肥しになっていることを印象付けるシーンになっていました。2階の舞台にビジュアルアートとして鴨川の水の流れが映し出されるなかを藝能の精霊がダイナミックなピアノ伴奏に乗せて優美に舞いましたが、1階の舞台には血塗れの名古屋山三郎が登場して傾奇者の本望と歌って息絶えると、そこに駆け付けた加賀菊は名古屋山三郎の後を追いました。2階の舞台に出雲阿国が登場し、1階の舞台に横たわる名古屋山三郎と加賀菊が死んでいるのを発見しますが、能「隅田川」よろしく鴨川は三途の川を、また、2階の舞台は此岸(藝の道)、1階の舞台は彼岸(恋の道、江戸時代の美意識である心中物)を象徴しているような重層的な舞台が秀逸でした。出雲阿国(傾奇者の黒は、決意)が八重垣の和歌を歌うなかを藝能の精霊(傾奇者の白は、純真)が激しいダンスを舞いましたが、出雲阿国は名古屋山三郎の死(傾奇者の赤は、赤くたぎる血)を契機として傾奇「踊」りを創始したというプロットだったのかもしれません。よく考え抜かれた重層的な舞台になっており非常に観応えのある舞台でしたので、是非、これからも大切に育てて行って欲しい作品であると思います。
▼オペラ「TEA~茶は魂の鏡~」
【演題】サントリーホール開館40周年記念
【作曲】タン・ドゥン
【台本】タン・ドゥン、シュ・イン
【英語翻訳】ダイアナ・リャオ
【演出】シャーウッド・フー
【演目】オペラ「TEA~茶は魂の鏡~」(全3幕・日本語&英語字幕付)
<聖嚮(日本の高僧)>ジェンジョン・ジョウ(バリトン)
<蘭(唐の皇女)>ルーシー・フィッツ・ギボン(ソプラノ)
<唐の皇子>石井基幾(テノール)
<唐の皇帝>アポロ・ウォン(バス)
<陸(陸羽の娘)>イン・デン(メゾ・ソプラノ)
<僧侶達>新国立劇場合唱団(バス・バリトン)
【演奏】<指揮>タン・ドゥン
<Perc>チェンチュー・ロン、稲野珠緒、神田佳子
<管弦楽>東京フィルハーモニー交響楽団
【衣装】桜井久美
【映像】レイジャー・ウェイ
【照明】喜多村貴
【音響】山中洋一
【舞台監督】蒲倉潤
【副指揮】シャオボー・フー
【合唱指揮】平野桂子
【音楽スタッフ】古藤田みゆき
【日時】2026年7月4日(土)17:00~
【会場】サントリーホール 大ホール
【一言感想】

唐代の茶聖・陸羽が著した世界最古の茶道の著書「茶経」を巡る愛の物語を描いた中国人作曲家のタン・ドゥンさんのホール・オペラ「TEA~茶は魂の鏡~」(2002年にサントリーホールで世界初演)がサントリーホール開館40周年を記念して再々演されるというので聴きに行く予定にしています。来る7月17日から映画「キングダム 魂の決戦」が公開されますが、秦の始皇帝は不老不死の効果がある霊薬として「天台烏薬」を煎じた茶を飲んでいたと言われており古くから茶は薬として愛飲され、豊かな飲茶文化を育んできました。体だけではなく心にも効くホール・オペラ「TEA~茶は魂の鏡~」を愛飲してみたいと思っています。

ヴラヴィー!!!!これは現代オペラの傑作であり、日本だけではなくヨーロッパでも繰り返して再演されていることが得心できました。クラシック音楽の伝統を踏まえて「歌」を存分に堪能できる「歌劇」としての魅力を湛えながら中国の伝統音楽のエッセンスとタン・ドゥンさんの個性豊かな音楽表現を精妙に織り込んで独特な世界観を体現するユニークな筆致は中国のピアソラと形容したくなる秀逸なもので圧倒されました。音楽だけではなくプロットや演出も秀逸で、茶道の深さを説明するのではなく体感させる舞台に仕立てることに見事に成功しており、終幕は生死(陰陽)を超越したところに成立している一服の茶に静かに広がる言葉には尽くせぬ深い感慨が心を満たして行くのを感じましたが、この作品自体が茶を体現していると形容することができるかもしれません。第一幕は「水、火」、第二幕は「紙」、第三幕は「陶器、石」という副標題が添えられていますが、茶道を構成する「湯」(第一幕)、「心」(第二幕)、「器」(第三幕)を体現し、各々の素材が持つテクスチャーを意識した舞台になっていました。そのうえで、簡単にプロットを俯瞰しておくと、第一幕第一場:古京都の高僧・聖嚮は空の茶碗で茶を飲みながら唐の皇女・欄との婚姻のために長安を訪れたときの昔語りを始める、第一幕第二場:10年前に長安の宮廷を訪ねた聖嚮は欄の弟が所持していた秘宝「茶経」が偽書であることを見破る、第二幕:聖嚮と欄は本物の秘宝「茶経」を求めて南方にある茶聖・陸羽の里を巡る旅に出る、第三幕:聖嚮は陸羽の娘・陸から本物の秘宝「茶経」を授かるがそれを欄の弟が奪おうとして乱闘になり弟は誤って欄を殺してしまう。それを悲嘆した聖嚮は出家したところで昔語りを終えて第一幕第一場へと場面が戻るという入れ子構造(現在→過去の回想→現在)になっています。オーケストラのメンバーは「空」を体現する白い衣装、ウォーター・パーカッショニストは「色」を体現する黒の衣装で登場しましたが、東洋思想を紐解けば、「無」とは決定論的なゼロの状態を意味しているのに対し、「空」とは非決定論的な可能性(量子ゆらぎ)の状態を意味している点で本質的に異なり、「色」とは非決定論的な可能性(量子ゆらぎ)がいずれかに確定した状態(対称性の破れ)を体現していると言え、そこに成立している茶道は現代科学の知識と東洋思想の知恵が交錯する場(量子場)とも形容することができるかもしれません。その意味で、空の茶碗とは「色即是空、空即是色」の世界観を体現するものと捉えることもでき、対生成(有)と対消滅(無)を繰り返す対称性の状態(+=-)から「有」を生成する対称性の破れの状態(+>-)に成立している茶道(湯、心)とは宇宙の創成(魂を含む万物の根源)を鏡映するメディア(器)と解することができるかもしれません。第一幕第一場(古京都、とある寺院)では、真っ暗な舞台でウォーター・パーカッションが奏でる水の音と共に、僧侶達の声明をイメージさせる低い唸り声が静かに澄み渡りました。上述のとおり茶の起源は道教の養生思想にあり(岡倉天心著「茶の本」第二章「茶道は道教の仮の姿であった。」)、道教では水が道の本質を最も良く示す自然物であると考えられていますので(老子著「道徳経」易性第八「上善若水。水善利万物、而不争。処衆人之所悪。故幾於道。」)、「養生」(身体と精神の調和)を心掛けて「坐忘」(心を空にする修養)に努めることで天人合一、無為自然の境地に至るという思想の実践として茶道が位置付けられていることを強く印象付けられると共に、日本の茶道(侘び、寂び)の淵源に触れる秀逸な舞台に感じられ、冒頭から鳥肌を禁じ得ませんでした。僧侶達が「碗 空なれど 香り漂い 影 消え去りて 夢ふくらむ」という哲学的な歌詞を歌いましたが、上述のとおり茶は不老不死の霊薬(仙薬)と考えられており、「空」の茶碗と調和した心性は無常感(影)に囚われることなく、一期一会の研ぎ澄まされた瞬間(香り)に唯一無二の掛け替えのない価値(永遠性)を見出す人外に遊ぶ境地(終幕に登場する歌詞「死のなかで生きるか、生のために死ぬのか」の問い掛けに対して茶道に極まる仙境)が歌い込められているような印象深い場面でした。この歌詞には心を整える宗教実践としての座禅、写経や読経などに通底する精神性が茶道、華道、香道、書道、芸道や武道などの生活実践として昇華されていることを想起させる含蓄があるものに感じられました。このように哲学的な歌詞が散りばめられていましたが、一般に、多民族・多文化の国である中国は「思想」の国、小民族・小文化である日本は「感性」の国と言われているとおり、それが歌詞などの芸術表現(漢詩と和歌の違いなどが典型)にも表れているように思われ、大変に興味深く感じられました。「思想」(問いを創る力)が世の中にないものを発明し、それを「感性」(答えを磨く力)が洗練させると捉えることができるかもしれませんが、この違いが時代の変革期にあって中国の隆盛と日本の凋落という対照的な形になって表れている要因の1つであると捉えることもできるかもしれません。ハープが奏でる古箏をイメージさせるノスタルジックな響きと共に、弦楽器が中国の伝統音楽が持つ独特のイントネーションで中国情緒を揺蕩わせる音楽を奏でながら第一幕第二場(唐の首都、長安)に場面転換され、これに続く唐の宮廷の華やかな雰囲気を伝える音楽は漢洋折衷と形容したくなる高い次元で西洋音楽と調和したエスニシティを湛えた斬新な語り口で、その着想豊かな音楽に魅了されました。このうえなくデリケートなニュアンスを紡ぎ出すソプラノのルーシー・フィッツ・ギボンさんとマーテー・ヘルツェグさんを筆頭に歌手陣、合唱陣が卓抜した歌唱力を発揮する出色の出来栄えが今回の公演を大成功に導いた主因の1つに挙げられますが、どこかG.プッチーニの歌劇も彷彿とさせる歌心溢れる舞台を存分に堪能できました。第二幕(茶経を捜す旅の途上)では、シャーウッド・フーさんによる茶の湯の世界を巧みな照明で多彩に表現する演出が出色で、ウォーター・パーカッショニストが秘宝「茶経」と茶木のメタファーである紙の音を鳴らすと、「茶」の文字の照明が「茶木」のモニュメントに変化して、やがてオーケストラが下降音形を奏でるなかを茶木から茶葉が舞い落ちるヴィジュアル・アートが映し出され、それがサントリーホールのパイプオルガンに乱反射して眩く輝きながら、さながら天人合一の世界観をイメージさせる幻想的な舞台に魅了され、茶聖・陸羽の里を巡る旅は茶の淵源を巡る旅であることを印象付ける舞台に感嘆させられました。この旅の途上に聖嚮と蘭は愛で結ばれましたが、その愛を茶碗の中で花開く花茶に見立た照明演出が白眉でして、華と艶を体現する幻想美に彩られた薫り高い舞台(愛の花茶)を堪能できました。この演出のコンセプトを活かしてサントリーの新しい飲料水の商品化を検討されても面白いかもしれません。第三幕(茶聖、陸羽の里)では、秘宝「茶経」を奪い合う聖嚮と弟の決闘と蘭の死という俗世の喧噪が描かれた後、それと対照するように出家した聖嚮が10年後(第一幕第一場)の古京都で空の茶碗で味わいながら心を澄ませる仙境が描かれていましたが、柔らかく広がる水紋の照明演出と共に生死(陰陽)を超越したところに成立している一服の茶が静かに舞台を満たし、その空の茶碗に聴衆の心も澄まされて行くような感興を覚え、茶道そのものを体現している舞台に深い充足感を覚え、武満徹さんが音楽を手掛けた映画「利休」で利休が点てた一服の茶に秀吉が落涙する場面が思い出しながら深い余韻に浸る得難い芸術体験になりました。これは21世紀のオペラ公演のスタンダードナンバーになってもおかしくない傑作であり、今から再演が心待ちされます。なお、タン・ドゥンさんは2030年度武満徹作曲賞審査員に決定していますので今から大変に楽しみですが、個人的にはアジア人三大作曲家(存命中)は中国のタン・ドゥンさん、韓国のチン・ウンスクさん、日本の細川俊夫さんの名前が筆頭に挙げられるのではないかと思いますので、今後、タン・ドゥンさんがサントリーサマーフェスティバルのテーマ作曲家としても採り上げられることを熱烈に要望したいです。
▼三村奈々恵「マリンバ・クリスタル2-ジオメトリック-」国際的に活躍する日本人マリンバ奏者の三村奈々恵さんはクラシック音楽+エレクトロニカが融合した現代人のための新ジャンル「現代の音楽」を収録したアルバム「マリンバ・クリスタル2-ジオメトリック-」をリリースしましたが、グラミー賞の常連である有名なアメリカ人作曲家のアンディ・アキホさんの曲や新進気鋭のアーティストとして注目されているアメリカ人作曲家のニコ・ミューリーさんの曲など非常に個性的で面白い音楽が収録されているので紹介しておきます。過去のブログ記事でも簡単に触れましたが、前衛のドグマによって「誰にも聴かれない音楽」と化してしまった「現代音楽」とは一線を画し(但し、「現代音楽」の中にもマリンバのために書かれた美しいピースは多く、未だ正当な評価を受けていないものもありますが)、音楽の蘇りを果たすべく新ジャンル「現代の音楽」を標榜する活動が注目されます。▼TVアニメ「ワールド イズ ダンシング」世阿弥が幼名「鬼夜叉」を名乗っていた時代を中心に描いたTVアニメ「ワールド イズ ダンシング」が7月22日(木)22時からTOKYO MXなど全国9局で放送開始されます。世阿弥は1363年に大和猿楽(観世座)の創始者・観阿弥の長男として誕生してから12歳まで幼名「鬼夜叉」を名乗ります。1374年に京都今熊野神社における勧進猿楽で鬼夜叉の舞が将軍・足利義満の目に留まって庇護を受けるようになり(三条公忠の日記「後愚昧記」に鬼夜叉に対する嫉妬から恨み節が認められています)、その後、鬼夜叉が和歌や古典文学などの英才教育を受けた関白・二条良基からその舞の美しさを讃えて名付けられた「藤若」という名前を13歳から20歳前半頃まで名乗ります(インプット期)。1384年に父・観阿弥の急逝に伴って観世座の座長を承継して本名「元清」を名乗るようになりますが、過去のブログ記事で簡単に感想を書いた映画「犬王」で触れたとおり、この時期に犬王などの影響を受けて「物真似」から「幽玄」へと能をアップデートし、能楽論書「風姿花伝」を執筆しています。1401年から世阿弥と名乗るようになりますが、このアニメは幼名「鬼夜叉」の時代を中心にして幽玄能を大成する時期までを描いたもので、壮年期以降は描かれていないようです。今更ながら世阿弥は猿楽の能に「革新」を仕掛けて幽玄能を大成した時代の寵児ですが、いつまでも世阿弥頼みに終始することなく、時代の変化に合わせて能楽に「革新」を仕掛けて行く取組みが現代の能学界には求められており、そのことを世阿弥のアニメから学ぶ機会でもあるように感じられます。

















































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「初春(新年)が明ける」「皆既日食(天岩戸)が明ける」ことにより新


















































































