大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用、拡散などは固くお断りします。※※

【新年の挨拶①】ルツェルン・フェスティバル・アカデミー in JAPAN 2025とResonance<共鳴する宇宙第4回>WATARU MUKAIと現音 Music of Our Time 2025(第42回現音作曲新人賞本選会)とオペラ「助けて、助けて!宇宙人がやってきた!!」(台本・作曲:ジャン・カルロ・メノッティ)と「この世界のムラを編む②」 < STOP WAR IN UKRAINE >

 
▼ブログの枕「この世界のムラを編む②」
謹賀新年。少し気は早いですが、正月は多忙を極めますので12月に「新年の挨拶①」及び「新年の挨拶②」の二回に分けて新年の挨拶を投稿します。2026年は「麒麟も老いては駑馬に劣る」の格言を年頭の戒めとして、諸事万端に亘り誠心に努めて行きたいと思っています。前9回のブログの枕では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」、「行動遺伝学」、「行動経済学」、「ニューロ・ダイバーシティ」、「文化心理学:拡張自己」、「社会心理学:自己拡張」、「認知心理学:心のフレームワーク」、「複雑系科学:複雑性理論」とリベラルアーツ擬きを試みてきましたが、今回のブログの枕では来年の干支である「午」(馬)に因んで、前回と同様に、この世界の「ムラ」を編むと題して人と馬との関係性(アンスロズオロジー)についてごく簡単に触れてみたいと思います。さて、来年の干支である「午」(馬)に肖って、一足早く大杉神社の摂社で競馬の神様を祀る「勝馬神社」(以下の写真)で初詣擬きを済ませてきました。馬と言えば、過去のブログ記事で簡単に触れましたが、坂本龍馬は母・坂本幸が懐妊中に「麒麟」を受胎する夢を見たことに肖って、麒麟の頭=龍、麒麟の胴体=馬から「龍馬」と名付けたそうですが、坂本龍馬と親交のあったイギリス人貿易商のT.クラバーは坂本龍馬の旧友であった岩崎弥太郎の支援を受けてビール会社(現、キリンビール)を創立し、T.クラバーの提案で「麒麟」のエンブレムが採用され(キリンビールのエンブレムである「麒麟」は波の伊八こと武志伊八郎信由作の長福寺本堂欄間「雲と麒麟」(以下の写真)がモデル)、坂本龍馬はビールに生まれ変わって人々を酔わせ続けています。この点、陰陽五行説や算命学では、「龍」(辰年)=理(天)、「蛇」(巳年)=知(天と地を連節)、「馬」(午年)=情(地)と考えられており、コロナ禍を乗り越えて社会が本格的に再始動した辰年から巳年を経て午年へと至り「麒麟」(理と情を知で連節して昇華した叡智)に結実する縁起の年になりそうです。もともと日本には馬は生息しておらず古墳時代後期に大陸から輸入されてきましたが、日本全土で馬形埴輪(以下の写真)が発掘されており、早くから日本でも人間と馬が異文化共生ならぬ異種間共生を始めていたと考えられており、それは曲り屋馬子唄(鈴鹿馬子唄が中山道を経由して信濃追分節に発展し、それが瞽女や北前船により運ばれて江刺追分節へと結実)など、日本の文化・風土に深く根付いています。現代でも世界中で馬のアイコンが数多く使用されており、フェラーリポルシェのエンブレム、ハーレーダビッドソンのマフラー音(俗にカンターのリズムと呼ばれる3拍子の馬蹄音)、エルメスラフルローレンバーバーリーセリーヌなどのロゴマーク、相馬家の家紋など枚挙に暇がなく、「乗るもの」から「纏うもの」に姿を変えても人間と一体感のある存在として愛着を持たれている存在です。また、馬に由来する名前も多く、「馬を引く人」を意味するカーターさん(ここからカート:1頭立ての2輪荷馬車、クーペ:2人乗りの4輪箱型馬車、コーチ:4頭立ての4輪大型馬車→馬車は目的地に運ぶものであることから家庭教師や指導者に転用などの言葉が派生)やワグナーさん(ホルクスワーゲンの由来)、「馬を愛する人」を意味するフィリップさん(フィリピンの国名はスペイン領だった時代にスペイン国王フィリッペ二世に由来)、中華系チェロ奏者のヨーヨー・マ(馬友友)さん(丁度、TVアニメ「キングダム」では趙国の武将として馬南慈馬呈が登場していますが、馬さんは中国では13番目に多い名字)などがあります。さらに、日本語の「バテる」は馬が疲労して歩が滞る状態「ばたばたする」「ばたつく」から体力の限界の意味に転じた言葉、「餞(はなむけ)」は馬の鼻先を旅人の目的地の方角へ向けて道中の無事安全を願う風習「鼻向け」から送別の酒宴や餞別の意味に転じた言葉、「埒があかない」は馬囲い=埒から物事の限界の意味に転じた言葉などがあり、如何に人間の日常生活に馬が溶け込んできたのかが窺われます。過去のブログ記事で触れましたが、「拡張自己」は自己のアイデンティティを外界へアウトリーチする心理過程(即ち、「遊ぶ」=「足」+「ぶ(歩)」→自己を外界へ解放して自己を外界と同化する営み)であるのに対し、「自己拡張」は外界を自己のアイデンティティにアレンジする心理過程(即ち、「学ぶ」=「真似」+「ぶ(舞)」→外界から学習したことを身に付けて自己を充実させることで自己を外界と異化する営み)と位置付けることができ、例えば、芸術を受容する者はその芸術体験によって自己のアイデンティティが揺さ振られ(遊びによる拡張自己)、これを消化して受肉する過程で自己のアイデンティティを拡大させて世界観を更新する(学びによる自己拡張)という一連の文化的・社会的な営みであると述べましたが、これは異文化コミュニケーションだけではなく異種間コミュニケーションである人間と馬の関係性(アンスロズオロジー)にも同様のことが言えます。馬の祖先は約5600万年前にアメリカ大陸に生息していたことが分かっていますが、それから約2100万年後に氷河期に入ると森林がなくなり大草原が広がったことで捕食動物から身を隠せる場所がなくなり、馬の祖先は早く走れるように長い脚に進化し、速筋や運動協調性などが発達したと考えられています。また、捕食動物が草を搔き分ける幽けき音や捕食動物が近付いている微かな気配に気付けるように運動視や聴覚、嗅覚の精度が向上すると共に、それらの知覚情報が捕食動物から逃げるなどの行動に迅速に直結するように、脳内に本能を制御して知覚情報の分析などを行う前頭葉を作らないという進化的な選択(高度化<迅速化)が行われたと考えられており、そのために馬は動きを制限されたり閉じ込められたりすることを本能的に嫌がる性質を持っています。馬は危険を察知し易いように目が顔の横に付いており約340度の視界を持っていますので遠くから微かな動きも識別できますが(馬の死角になる真後ろの約20度から近づくものを条件反射的に蹴り上げるのはそのため)、その反面として目の近くにあるものに焦点を合わせることは難しくぼやけて見え、奥行知覚なども不得手だと言われています。これは遠くから捕食動物を発見し易いように視覚の焦点機能や奥行知覚を犠牲にしても周囲に対する運動視の精度を向上すると共に、聴覚や嗅覚を発達させるように進化したためだと考えられています。犬や猫なども然りですが、馬に物を知覚させるためには、人間と異なり、その物を見せようとするよりも、その物の匂いを嗅がせたり又は触れさせたりする方が馬には都合が良いと言えるかもしれません。このように馬は被食動物として進化した経緯から捕食動物である人間の知覚特性とは大きな違いがあり、そのような馬と人間との間で異種間コミュニケーションを成立させるためには、人間の知覚特性を基準とする方法は有効とは言えず、馬の認知特性を基準とする方法、即ち、馬が身体の状態を認識する固有受容覚を使って馬の脳のシナプス信号と人間の脳のシナプス信号を直接的に連接してコミュニケーションとる方法が一般的に有効と考えられています。馬は固有受容覚により馬自身の身体状態と騎手である人間がシグナルを送って来る部位、強弱や種類などを敏感に感じ取り、そのシグナルが脳に送られることで騎手である人間が何を求めているのかを理解することができ(但し、それぞれのシグナルが何を求めているものかを馬と共有するための訓練は必要)、その一方で、騎手である人間も固有受容覚により馬の動きなどから馬の身体や感情の状態がどのように変化しているのかを感じ取ることができますので、これらの相互作用により異種間コミュニケーションを成立させることができます。人間と馬の関係は紀元前350年に古代ギリシャの哲学者クセノポンが乗馬に関する記録を残しているものが最古と言われていますが、これまでの人間と馬の関係は人間中心主義的な考え方(馬も人間と同様な知覚特性を持ち人間と同様に世界を認知しているという無知から生じる傲慢な態度)に則っていたと言われています。捕食動物である人間の知覚特性は、例えば、被食動物を捉え易いように目が前方に付いており、被食動物に狙いを付けるための焦点機能、被食動物との距離を測るための奥行知覚や追跡能力などが発達し、被食動物を捕獲し易いように知覚情報を効率的に処理する必要から前頭葉で物事を抽象化・一般化して認知パターンを生成することでカテゴリカル知覚を行うようになりましたが、馬は前頭葉がなく物事を具体化・個別化して知覚しておりカテゴリカル知覚を行いませんので、それにより生じる知覚情報の些細な違いに混乱するディスコミュニケーションが発生し易いと言われています。この点、人間と馬との間の異種間コミュニケーションが円滑に行われないケースは、「馬が人間を拒否している」というケースよりも「馬が人間から何を求められているのかを理解できていない」というケースの方が多いと言われています。このように人間中心主義的な視点ではなく馬中心主義的な視点(ホースマンシップ)から異種間コミュニケーションを捉え直す必要があり、人間の知覚特性を前提とした論理的・抽象的なコミュニケーションではなく、馬の知覚特性を前提とした物理的・身体的なコミュニケーションが有効であるという前提で捉え直す必要がありそうです。馬と人間の固有受容覚を使って馬の脳のシナプス信号と人間の脳のシナプス信号を連節することで、捕食動物である人間は被食動物である馬の脳の働きを体験し(拡張自己)、被食動物である馬の世界観を自らに取り込むことで多くのことを学ぶ機会を与えられ、自らの世界観を広げる貴重な機会(自己拡張)を得られると言えるかもしれません。延喜式(10世紀)には下総国(茨城県、千葉県の周辺)に広大な牧(馬の放牧地)があったと記録されており、その遺構が数多く残されていることなどから現在でも乗馬が盛んな土地柄にありますが、九十九里海岸の砂浜で乗馬体験できる乗馬クラブなどもありますので、2026年は自らの世界観を豊かにする(自己拡張)ために乗馬に挑戦して馬の世界観(ホースマンシップ)へと拡張自己してみようかと目論んでいます。
 
①勝馬神社(茨城県稲敷市阿波958
②長福寺(千葉県いすみ市下布施757
③芝山町立芝山古墳はにわ博物館(千葉県山武郡芝山町芝山438−1
①勝馬神社大杉神社の宮司が衣冠束帯の正装で摂社「勝馬神社」に拝奉しているところです。この一帯は古代に香取海だった場所で湿原や平原が広がり馬の牧場に向いていたことから朝廷直轄の官牧に指定され、馬体を守護する馬櫪社が祀られました。信太牧の馬櫪社が大杉神社に遷されて勝馬神社として崇敬を集めています。 ①勝馬神社:勝馬神社の近くには日本中央競馬会(JRA)の美浦トレーニングセンターがあり、騎手、調教師や馬主等の競馬関係者をはじめとした競馬ファンが数多く参拝し、馬の蹄鉄蹄鉄を象った絵馬などが奉納されています。また、茨城県に隣接している千葉県には馬の養老牧場(=老人ホーム)である引退馬の森があります。 ②長福寺:麒麟は頭=龍、胴体=馬ですが、キリンビールの麒麟のエンブレムは長福寺(千葉県いすみ市)にある波の伊八作の本堂欄間「雲と麒麟」がモデルとして使用されています。イギリス人貿易商T.クラバーはキリンビールの前身を創立し、旧友・坂本龍馬へのオマージュとして「麒麟」のエンブレムを採用したと言われています。 ③芝山町立芝山古墳はにわ博物館:古代日本には馬が生息しておらず、古墳時代に大陸から馬が輸入されたと考えられています。茂山町立茂山古墳はにわ博物館には紀記や魏志倭人伝などに記されている日本古来の歌舞音曲(倭琴、笛、鼓、鈴)を奏楽する様子を学術的に再現した人形が展示されていて非常に興味深いものがあります。
 
▼ルツェルン・フェスティバル・アカデミー in JAPAN 2025
【演題】ルツェルン・フェスティバル・アカデミー in Japan 2025
【演目】①田中弘基 奇妙な絨毯(改訂版世界初演)
    ②ミケル・イトゥレギ さらさらと 氷の屑が(日本初演)
    ③浦部雪 光よ、灯火の息吹よ(世界初演)
    ④ユリア・コンスタンス・ヴィーガー=ノルドス 彫刻(日本初演)
    ⑤石川健人 柱の中に100万時間(日本初演)
    ⑥マヤ・ミロ・ジョンソン リンチアーナ(日本初演)
    ⑦中瀬絢音 時の塔(世界初演)
    ⑧ジュンヒョン・リー スパイクゴーグルと抗精神病薬(日本初演)
    ⑨藤倉大 コズミック・ブレス
    ⑩桑原ゆう 影も溜らず
【演奏】<Cond>石川健人、浦部雪、齋藤友香理
    <Fl>鎌倉有里、中村淳
    <Ob>酒井弦太郎、佐竹真登
    <Cl>内山ちまり、林みのり
    <Fg>中川日出鷹、山下真紀
    <Hr>高崎万由
    <Tb>大関一成
    <Perc>成田花南、難波芙美加、西村和
    <Pf>井口みな美、谷口知聡
    <Vn>及川悠介、北澤華蓮、小山梨花、城野聖良、田中里奈
    <Va>浅野珠貴、迫田圭
    <Vc>谷川萌音、山澤慧
    <Cb>陳子沛、山本昌史
【日時】2025年11月29日(土)15:00~
【会場】Hakujuホール
【一言感想】
ルツェルン・フェスティバルの夏公演では若手作曲家を育成する作曲セミナーが開催されていますが、音楽評論家の小室敬幸さんと作曲家の桑原ゆうさんが2025年夏公演の作曲セミナー(マスタークラス講師:韓国人作曲家のウンスク・チンさん、スイス人作曲家のディータ―・アマンさん)に参加した8名の受講生(うち、日本人の若手作曲家4名)と過去に上記のセミナーに参加したことがある作曲家の藤倉大さん、桑原ゆうさんの作品を加えて、日本でルツェルン・フェスティバルを再現しようという試みとしてルツェルン フェスティバル アカデミー in JAPAN 2025」を開催するというので聴きに行くことにしました。なお、日本では「万世一系の△△」に象徴される伝統を重んじる美風がありますが、その影も色濃いのが現状で、それが変革の時代に日本が諸外国の後塵を拝する結果にもなっており(その一例として、世界知的所有権機関(WIPO)が公表している2025年版グローバル・イノベーション・インデックス(GII)ではスイスが1位なのに対して日本は12位と低迷)、それが日本におけるコンテンポラリー作品の受容低迷傾向にも繋がっているように感じられます。そうは言っても、最近では、日本でも随分と状況が改善されてきており、本日はルツェルン効果でしょうか業界関係者(会場で挨拶や談笑している人達は業界関係者)だけではなく一般客の姿も目立っていたように感じられますので、日本でもサスティナブルな好ましき兆候が芽生えつつあるようにも感じられます。さて、非常に演目数が多く全員の作品の感想を書くのは困難なので、当日、来場していた作曲家の作品のみについて簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
①奇妙な絨毯
パンフレットには「変則調弦(中略)作品の大部分はそれらの開放弦に限定された音高に、音高以外のパラメーターによる変化を施す(中略)その「変則性」が最も如実に表れるはずの開放弦の響きを聴き込む実験そのものを、作品として成立させる試み」と解説されています。パンフレットに記載されているとおり弦楽四重奏が変則調弦された開放弦を様々なパラメーター(音価や奏法など)で彩りを添えながら演奏し、多彩な表情が紡がれて行きました。個人的には、料理と同じくアートも「方法」(手段)ではなく「世界観」(目的)を味わいたいと考えており、方法(下拵え)は所与の前提として、どのような世界観を体現するためにこの方法が選択されているのか又はこの方法を選択したことでどのような世界観を体現し得ているのか否かという視点で鑑賞しました。
 
③光よ、灯火の息吹よ
パンフレットには「4世紀後半にイタリアのミラノで大司教を務めた聖アンブロージョが書いた賛歌(中略)その一つ「Deus Creator Omnium」」を軸に、信仰、そして手を取り合って生きた人々の営みを見つめた」と解説されています。聖アンブロージョが作曲した賛歌「Does Creator Omnium」を拝聴したことはありませんが、クラリネットとヴィオラが応唱形式を擬えるようにどこか原曲が持つ清澄な雰囲気を醸し出しながら、楽音(音と音)、非楽音(息とフラジョレット)、非楽音(キー・クリックとピッチカート)などのパターンを繰り返してユニゾン、シグナル、パルス音などに変化しながら最後は静謐な祈り(又は永遠の安息)を象徴するような微弱音で静かに締め括られました。
 
④彫刻
ヴラヴィー!!本日の白眉でした。パンフレットには「触覚を原点にした作品である」と解説されています。聴覚の入力によって触覚を刺激するクロスモダール(共感覚)を体感することでき、ある響きを聴いて頭皮に鳥肌が立つのを覚えるなど、音楽を使って人間の知覚と認知を揺さぶる体験型の作品として大いに成功しているように感じられ、面白い芸術体験になりました。どのように作曲したのか聴いてみたかったですが、おそらく全身を研ぎ澄ませながら作曲しているのではないかと想像します。音楽と聴覚、彫刻と触覚、映像と視覚や、純音楽と標題音楽、芸術音楽と商業音楽などのジャンル(認知バイアス)の境界を無効化し、これらのジャンルを越えた新しい地平に広がる新しい時代の新しい芸術作品の1つの在り方を示す意欲作に感じられました。
 
⑤柱の中に100万時間
パンフレットには「木の内部に刻まれた同心円(中略)風土や気候の記憶を宿して、その個体ごとに異なる表情をしている(中略)私たちの脳内に堆積する記憶や経験と、どこか響き合っている」と解説されています。弦の軋み音、オーボエのトリルやチューバの膨らみのある音は木が刻む年輪の歴史を音で再現するものでしょうか、パルス音が時の刻みが何らかの兆しを感じさせるものであり、口をチュウチュウと鳴らしていたのは樹液を表現したものでしょうか、木の息遣いが感じられ、忙しないパートや閑散としたパートの揺らぎに季節の移り変わりが感じられました。時を刻むメディアとしての木の年輪には直線はありませんが(連接的な世界観)、同じく時間を刻むメディアとしての楽譜は直線(分節的な世界観)が支配しており、その対比に想いを馳せる100万時間になりました。
 
⑦時の塔
パンフレットには「時計塔の内外でそれぞれに流れる、異なる時間を採集し、再構成することを試みた作品(中略)淡々と時を刻むメトロノームのまわりで、奏者は各々の律動を紡いでゆく。身体性と機械性の対話を通して、時空間は多層的に重なり合う。」と解説されています。チューブベルは時計台を象徴するものでしょうか、メトロノームが刻む音が流さてきますが(機械性:人間が生み出す分節思考的な世界観)、奏者がランダムな音を奏でながら様々なリズムを交錯させること(身体性:宇宙を規律する連節思考的な世界観)で4次元の時空間(様々な質量が生む多様な曲率とその揺らぎ)を描く作品で、その着想の面白さを堪能できました。
 
⑧スパイクゴーグルと抗精神病薬
ヴラヴィー!!この作品も非常にユニークなもので、正気と狂気の間を紡ぐ面白い芸術体験になりました。パンフレットには「本作は凡庸な要素から成り立っている(中略)これらの煩悩からどうすれば逃れられるのか、自由とは何か-この問いこそが、この作品の出発点だった。」と解説されています。スパイクゴーグルが刺激、抗精神病薬が抑制を意味していると思いますが、その拮抗から生まれる現実と幻覚を往還しながらめくるめく世界を旅するドラマチックな音楽を体験できました。前回のブログ記事で複雑性理論に簡単に触れましたが、AIは現実と虚構の境界を曖昧化しましたが、その人間の認知に揺さぶりを仕掛け、さながら映画「ファーザー」の世界観を彷彿とさせる作品で非常に面白く感じられましもの
 
⑩影も溜らず
パンフレットには「ルツェルン音楽祭アカデミー作曲セミナーに選出され、そこで発表するために作曲された作品(中略)鏡花の擬音を翻訳するように作曲したヴァイオリン独奏曲「水の声」を源に、声に光と影を与えるよう、アンサンブルを重ねた。」と解説されています。泉鏡花の作品には擬音が数多く使用されていますが、泉鏡花の世界である怪異を描くためには言葉(分節的、人工的)では足りず擬音(連接的、自然的)を多用しなければならない表現欲求の現われではないかと思いますが、その擬音にフォーカスした音楽作品に感じられました。独奏ヴァイオリンが楽音(いわば言葉)にはならない非楽音(幽けき音、フラジョレット、グリッサンド、サル・ポントなど、いわば擬音)を奏でると、これにオーケストラが様々な反応を示すことを繰り返していましたが、さながら泉鏡花の作品に多用されている擬音(独奏ヴァイオリン)とこれを読んだ読者の心に立ち上る独特な感興(オーケストラ)の反応を音楽的に表現した面白い作品を楽しめました。
 
 
▼Resonance<共鳴する宇宙第4回>WATARU MUKAI
【演題】Resonance<共鳴する宇宙第4回>WATARU MUKAI
    無数の夜を超えて、響く朝の調べ
【演目】①ヘンリー・パーセル 新しいグラウンド(ホ短調)
    ②フランソワ・クープラン 「クラヴサン曲集」より
                  さまよう亡霊
                  修道女モニク
    ③向井航 一粒の麦がこの地に落ちて(2021)
    ④ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル
               2台の鍵盤楽器のための組曲(ハ短調)
    ⑤向井航 ダルムシュタット・テクノ(2023)
                  (チェンバロとピアノ版世界初演)
    ⑥C.P.E.バッハ クラヴィーア・ソナタ第1番(ハ長調)
    ⑦向井航 シンガポール・サン(2025)
【演奏】<作曲・企画・MC>向井航
    <Pf>小倉美春
    <Chem>石川友香理
【日時】2025年11月30日(日)15:00~
【会場】スタジオ・ピオティータ
【一言感想】
スタジオ・ピオティータに伺うのは初めてでしたが、下高井戸の住宅街の中にある普通の民家の地下室に(どうやって地下室に搬入したのか分かりませんが)ピアノとチェンバロが置かれています。スタジオ・ピオティータを運営されている西澤世子さんはコンテンポラリー作品を採り上げる演奏会シリーズ「共鳴する宇宙」を開催されており、今回は向井航さんの作品が採り上げられるというので聴きに行くことにしました。本日は「無数の夜を越えて響く朝の調べ」をテーマとして時間と時代の夜明んいいう視点から向井さんが選曲された作品がピアノとチェンバロで演奏されましたが、向井さんの作品の感想を簡単に残しておきたいと思います。
 
③一粒の麦がこの地に落ちて
パンフレットには某コンサートにおける「愛のテーマ~恋と友情と~のために作曲された。(中略)最も愛について説いているだろう、聖書の中に答えを見出そうとした。(中略)私はこの曲を、ただ自分が祈るためだけに欠いた。」と解説されています。過去のブログ記事で触れたとおり昔の日本には「社会」という観念はなく「世間」という観念しかありませんでしたので、「世間」の具体的な人間関係を対象とする「情」という言葉が主流でしたが、明治時代以降に「社会」という観念が生まれると、「社会」の抽象的な人間関係も対象とする「愛」という言葉が流布されました。「情」や「愛」と聞くとは善きものという反射的なイメージを抱き易いですが、これらは人間に煩悩を生んで争いの元にもなる悪しきものという側面も併せ持ち、例えば、源氏物語などでは後者の側面も赤裸々に描かれています。この曲は時代の闇(夜)とも言い得るコロナ禍に教会から聴こえてきたコラールにインスパイアされて作曲したそうですが、トリルは時代の闇に蒔かれる一粒の麦を表現したものでしょうか、静謐な雰囲気を湛えたコラールのパートとそれを掻き消すようにコロナ禍の時代の空気を象徴する気忙しく重苦しいパートが登場する印象の音楽が展開され、横浜クルーズ船集団感染の対応に象徴されますが、コロナ禍に社会を分断するなど人間関係のムラを生む「愛」の諸相が巧みに表現されているように感じられました。
 
⑤ダルムシュタット・テクノ
パンフレットには「私の記憶の断片から、その日ダルムシュタットで聞くはずだったテクノを、コンセプトに、私っは曲を書き始めた。(中略)音と場のイメージを決めて、場所/時間を超えて仮想的なテクノクラブを出現させる。」と解説されています。この曲は2台のピアノのために書かれた作品ですが、本日はピアノとチェンバロのための作品に編曲されて演奏されました。ピアノはスタッカートを多用したストイックでメカニカルな演奏が展開され、チェンバロのエッジの効いたデジタルチックな音響が重ねられ、2人のDJによるスクラッチを連想させるようにそれぞれが緊密に呼応しながら短いフレーズを繰り返すコンテンポラリー・テクノ風の演奏を楽しめました。過去のブログ記事でも簡単に触れたとおりチェンバロを使ったコンテンポラリー作品に興味があり、今後も注目して行きたいと思っています。
 
⑦シンガポール・サン
パンフレットには「本作はスタジオ・ピオティータの委嘱により、この11月、シンガポールにて作曲したものである。私は仕事で同地を訪れるにあたり、渡航前から「シンガポールの朝日を見て作曲する」と心に決めていた。」と解説されています。ピアノがダンパーペダルを踏みっ放しにして混濁した共鳴音が響くなかをチェンバロが異国情緒が漂うリュート音でトリルを奏でましたが、時々刻々と映ろう精妙なグラデーションで彩る空模様と朝陽の煌めきを表現したものでしょうか、徐々に夜が明けて行く様子が描かれたヴィジュアルな音楽に感じられました。向井さんも書かれているとおり、チェンバロは線的な流れ(装飾)、ピアノは面的な広がり(和音、残響)を特徴としていますが、それぞれの特徴を活かし、時にピアノがチェンバロをマウントし、時にチェンバロがピアノを切り裂くように、攻守の変わり身にドラマが生まれて行くような巧みな音楽を楽しめました。第35回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会で世界初演された「クイーン」が鮮烈な印象と共に話題になった向井航さんは向井響さんと共に今後の日本を代表する作曲家になる逸材だと思いますので、今後も注目して行きたいと思っています。
 
下高井戸の住宅街にあるスタジオ・ピオティータ
 
 
▼第42回現音作曲新人賞
【演題】第42回現音作曲新人賞
【演目】①上岡丈晃 リジェネレ-ション
          ~フルート、クラリネット、ヴィオラのための~
    ②近持亮平 シェアー ザ スペース
          ~サックス(アルト、バス)、コントラバスのための~
    ③劉 昊桐 エンドレス
          ~クラリネット、ヴァイオリン、ピアノのための~
    ④浦野真珠 ヴィーナス・フライトラップ
          ~2人の弦楽器奏者とフルート奏者のための ~
【演奏】<Fl>木ノ脇道元:①④
    <Cl>菊地秀夫:①③
    <Sax>大石将紀:②
    <Pf>篠田昌伸:③
    <Vn>甲斐史子:③④
    <Va>安藤裕子:①④
    <Cb>山本昌史:②
【審査員】徳永崇、河添達也、渡辺俊哉
【日時】2025年12月3日(水)18:45~(アーカイブ配信)
【会場】東京オペラシティリサイタルホール
【一言感想】
この演奏会はアーカイブ配信のメニューが用意されており視聴することが叶いました。一般に社会人にとって平日に開催される演奏会を会場まで聴きに行くことは至難であり(開演時間を遅くしても同じこと)、オンライン配信のメニューを用意して頂けると本当に助かりますが、それでもライブ配信だけでは仕事の都合で見過ごしてしまうことも少なくありません。この点、アーカイブ配信であれば都合が付く時間に視聴することが可能なので(場合により1曲づつ細切れに視聴せざるを得ないことも)、社会人にとっては本当に助かります。一般的な傾向として、演奏会はコスト面の問題なのか、権利処理の問題なのか又はあまり集客に関心がないのか、「是非、会場に足をお運び頂いて、生の演奏をお楽しみ頂きたい。」と主催者の思いばかりを客に押し付けてくる弁を聞かされる機会が多く、客の都合に合わせてマーケット・インしようとする努力が不足しているように感じられることが多いですが、余程のことがない限り、客が主催者の都合に合わせることはないと思います。オンライン配信のメニューを用意してもコスト倒れに終わることが多いという事情もあるのかもしれませんが、現状、あまり状況の改善が見られません。オワコンということなのでしょうか。
 
①リジェネレ-ション
パンフレットには「Regenerationは、立ち現れては崩れ再び現れる動きの姿である。身振りの固定された記号的側面というよりは、変わり続ける動きのありかたに焦点を当てた。」と解説されています。前回のブログ記事で複雑性理論に簡単に触れましたが、そんな世界観を体現する作品に感じられました。フラジョレット、タギング、Pizzなど様々な奏法により紡がれる幽けき音は千変万化しながら消滅流転を繰り返し、そのフラグメントはさながら時空の歪みを体現するように圧縮されたり伸延されたりと、万物は非均質な揺らぎから生じていることを音楽的に表現しているような面白い作品に感じられました。人間は世界の実相の1断面のみを知覚できますが、人間の知覚を超えたところに世界の実相があり、その世界の実相をイメージするためには芸術の力を借りなければなりません。
 
②シェアー ザ スペース
パンフレットには「奏者間でお互いの呼吸、身動きが確認でき、そしてそれらの動作を確認する事が、音楽にとって有益となる作品を考えた。」と解説されています。ジャズの即興演奏を抽象化したような作品で、サックスとコントラバスがお互いに向かい合いながら演奏し、アドリブやコード進行などのジャズのエレメントをシンボリックに表現し、そのストイックな音響の中にプレーヤーの「間」や「ラグ」が生む心地よい緊張感やプレーヤー同士が感応し合って生まれるグルーブ感のようなものが巧みに醸し出されていたように感じられました。ある意味で、ジャズを聴かずして、ジャズとはどのような音楽なのかを全く異次元の音楽言語で感じているような不思議な芸術体験になりました。
 
③エンドレス
パンフレットには「私たちは歴史や社会の発展を実感しながらも、進歩そのものが幻想ではないかという感覚にとらわれる。本作は、この抽象的な感覚を音によって体験へと変える試みである。」と解説されています。ピアノの和に触発されてクラリネットとヴァイオリンがタギング、トリル、スピッカート、スタッカートなどにより生まれる微細音で呼応する神経質なやり取りが重ねられ、それが上行や下降を繰り返し、最後はどこまでも落ちて行くような下降が重ねられて長い休符に辿り着き、静寂の中へ回収されていく造形感のある音楽を楽しめました。第一曲と同様に、複雑性理論が体現する世界観と親和的な印象を受けましたが、これが現代の時代感覚とも言えるかもしれませんが、正しく「いま」を感じさせてくれる作品でした。
 
④ヴィーナス・フライトラップ
ヴラヴィー!パンフレットには「本作品は、演奏者の「呼吸」や「身体感覚」を通した音のやりとりによって生まれる視覚的・音楽的効果を追求したいという思いで作曲した。」と解説されています。非常に着想が面白い作品で、「常に動きを伴い飛び回る「ハエ」(Fly)と、香りを放ち獲物をおびき寄せ昆虫を捕食する「ハエトリグサ」(Trap)を本作品のテーマとした。」とのことで、ハエ役はフルートの木ノ脇さん、ハエトリグサ役はヴァイオリンの甲斐さん、ヴィオラの安藤さんというキャストでした。舞台上ではハエトリグサをイメージさせるようにヴァイオリンとヴィオラが向かい合って演奏し、細かい刻み音(香り)を密度を増しながら繰り返していると、やがて舞台袖にいたフルート(ハエ)がヴァイオリンとヴィオラの音(香り)に気付いて呼応し始めますが、ヴァイオンとヴィオラが弓を上げてじっと待ち構える身振りがユーモラスでした。再び、ヴァイオリンとヴィオラが細かい刻み音(香り)を奏でると、フルート(ハエ)が舞台上に姿を現わして少し離れた場所から呼応していましたが、時折、生まれる「間」が捕食劇の緊張感を生んでおり生態系のダイナミズムが巧みに表現されていました。その後、フルートがヴァイオリンとヴィオラの間まで進み出て、フルート、ヴァイオリンとヴィオラが一体になって忙しないアンサンブルを奏でていましたが、突然、アンサンブルが休止してハエトリグサにハエが捕食されてしまうというミュージック・シアター風の作品が非常に面白く感じられました。他の出演者の作品も非常に優れていましたが、この作品が第42回現音作曲新人賞を受賞されたのは納得です。おめでとうございます。
 
【第42回現音作曲新人賞】
 浦野真珠 ヴィーナス・フライトラップ
          ~2人の弦楽器奏者とフルート奏者のための ~
 
 
▼オペラ「助けて、助けて!宇宙人がやってきた!!」
【演題】SSCシェアハピエンタメオペラシリーズ
【演目】G.メノッティ オペラ「助けて、助けて!宇宙人がやってきた!!」
    <エミリー>田村祐子
    <音楽の先生>武田千宜
    <バスの運転手(トニー)>星田裕治
    <学校の門番(ティモシー)>明志隼和
    <算数の先生>浅田亮子
    <校長先生>山崎大作
    <国語の先生>橋本湧
    <理科の先生>寺西丈志
    <子供たち>高橋優奈、金子瑠佳、森楓、廣島舞生心、佐藤琉花
          今井袖希、田中希空、長谷川蓮那、林風歌、原田莉花
          和泉陽仁、高橋結、三宅陽魅、鄭莉亜、長谷川里珠
    <第九ソリスト>河内夏美、木村槇希、内田吉則、高橋正尚
    <地球防衛軍>シェアハピ合唱団
    <宇宙人>Dance art BOX
         高橋花鈴、荻原杏梨、栗原颯音、佐藤瀬菜、堀江こなみ
    <ダンサー>衣シキ奏ヨ葵杏ノ心:いとひ、優衣、杏、こころ、こまり
          ツキエデン:紗、葉南、沙良
    <シンガーソングライター>飛澤結
    <アイドル>松山あおい
    <吹奏楽>東京隆生吹奏楽団、東海大学付属高輪高等学校吹奏楽部
    <お笑い芸人(ナビゲーター>劇団官僚座
【演奏】<Cond>遠藤誠也
    <Vn>桜田理奈
    <Pf>渡辺絢星、納谷結花
【芸術アドヴァイザー】岡田直樹
【美術】山崎雅人
【日時】2025年12月6日(土)13:00~
【会場】赤坂草月ホール
【一言感想】
アウトリーチ公演で子供達から大人気の演目ですが、きちんと視聴したことがなかったので聴きに行くことにしました。本日の演奏会はG.メノッティのオペラ「助けて、助けて!宇宙人がやってきた!!」の幕間の趣向として①ヒップホップダンス、②吹奏楽団の演奏、③ポップスの演奏及び④合唱団の演奏が挟まれましたが、とりわけ①ちびっ子達によるヒップホップダンスには目を見張るものがあり、ちびっ子達が持つクリエイティビティやバイタリティーに触れてこの国のポテンシャルの高さとその将来性に大いに換気されましたので、それらも併せて簡単に感想を残しておきたいと思います。本日の会場にはちびっ子の姿も多く、ちびっ子の反応を伺うことも本日の大きな眼目の1つになっていました。一般的にはオペラは大人を対象とした作品が多い印象を受けますが、未来の観客を開拓する意味でも未学童児を含む若年層を対象にした現代オペラ作品がもっと増えてくれることを願いいたいです。未学童児を含む若年層を対象にしたアニメでは立派にマーケットが成立していますので、公演形態を工夫すれば現代オペラで不可能ということはないと思います。
 
赤坂草月ホールと高橋是清翁記念公園の紅葉
 
この作品は1968年作で第九と同様に一定の価値観を是とし、それ以外の価値観を非とするような価値絶対主義(権威主義)が支配的な時代であり、現代人には違和を覚えるプロットになっています。この点、過去のブログ記事でも触れましたが、20世紀までのガンダム世代は価値絶対主義に立脚して自己犠牲を美徳する世代でしたが、21世紀以降のワンピース世代は価値相対主義に立脚して自己実現を美徳とする世代であり、宇宙人を排斥するのではなく、宇宙人に音楽の魅力を伝えてお互いの価値観を尊重しながら共生して行くプロットの方が現代人受けするような気がします。その意味では、既に古典に位置付けるべき作品かもしれませんが、もともと荒唐無稽なプロットなので生真面目に構えるのは野暮というものかもしれません。お笑い芸人・劇団官僚座のMCを挟んで和やかな雰囲気で公演されましたが、余興として第九の合唱が途中に挟まれていたことを踏まえると、このオペラは貴族趣味のオペラではなく庶民娯楽のオペラであるという性格を強く印象付ける演出になっていたと思います。
 
▽第一幕
宇宙人「グロボリンクス」はエレクトロニクス音楽を奏でながら地球を侵略してきますが、宇宙人はアコースティック音楽を苦手にしています。宇宙人は寄宿学校にも襲来しましたが、音楽の先生を筆頭にして先生と生徒が一丸となりアコースティック音楽を奏でることで、宇宙人を撃退するという荒唐無稽なプロットです。丁度、1970年に開催された大阪万博(I.クセナキスのエレクトロニクス音楽「Hibiki Hana Ma」などが話題)の2年前に創作されたオペラであり、当時、エレクトロニクス音楽が台頭してアコースティック音楽との緊張関係が生まれており、G.メノッティ―は後者に傾倒していましたので、宇宙人=エレクトロニクス音楽、人間=アコースティック音楽という構図で後者が前者を駆逐するというオペラを創作したのではないかと思われます。冒頭、シンガーソングライターの飛騨さんとアイドルの松山さんが登場してラジオ番組「麵活」の公開収録を行っているという設定でしたが、そこにエレクトロニクス音楽と共に5人のダンサー(デジタル基調な動き)が扮した宇宙人が現われてラジオ局をジャックするところから物語が始まりました。ピアノが宇宙人の襲来を告げる禍々しい音楽を奏でるなか、生徒を乗せたスクールバスが故障し、バス運転手の星田さんが不吉な予感を朗唱しますが、学生達(何と2009年~2013年生れ)がユニゾンで歌う合唱が緊迫感のあるもので舞台を引き締めていました。そこへ宇宙人が襲来し、バス運転手がバスのクラクション(アコースティックな音)を鳴らして撃退することに成功しますが、生徒達は楽器を学校に置いてきており、唯一、田村さんが扮するエミリーだけがヴァイオリンを持ってきていたので、ヴァイオリンを弾きながら助けを呼びに行くことになります。田村さんの歌唱が圧倒的に上手く、正確な音程、豊かな声量、肌理細やかなヴィヴラートなど信頼感のある歌唱で魅了し、舞台と客席の距離が近かったこともあり、感情が歌に乗った子供達の合唱も相俟ってあって迫力の舞台を堪能できました。エミリーが弾くヴァイオリンは桜田さんのバンダ演奏でしたが、美しいピースも聴き所になっていました。また、ピアノ伴奏に聴き所が多く、調性音楽から無調音楽、果てはジャズ・バラード風の音楽まで多様な音楽が展開され、それぞれのピースが大変に魅力的に感じられましたが、劇伴ということで非常に短い演奏に終始してしまうのが勿体なく、それぞれのピースを十分に展開したピアノ曲(組曲)として聴いてみたい衝動に駆られます。場面が変わって宿舎学校では、音楽の授業を減らしたいと考えていた校長先生(これがオペラの結末への伏線になります)が校長室で居眠りしていると、そこに宇宙人が現われて校長先生から言葉を奪います。宿舎学校の先生方は宇宙人がアコースティック楽器に耐性がないことを知りますが、スクールバスの生徒達は楽器を学校に置いていったので、音楽の先生が他の先生方に楽器の演奏、言葉を奪われた校長先生にはラララのハミングを教えて生徒達を救いに行くことにしましたが、ここで歌われる先生方の五重唱が聴き所になっていました。
 
▽幕間
宇宙人と人間の戦いという位置付けで、人間によるアコースティックな攻撃としてヒップホップダンス、吹奏楽、第九合唱、ポップスが採り上げられました。
 
○ヒップホップダンス
ヴラヴィー!これが白眉でした。日本のダンス人工の層の厚さが頼もしく感じられます。先ず、ツキエデンは小学校3年生の3人組でしたが、高い身体能力、ダイナミックな表現、曖昧さのないリズム感、精妙な呼吸感など、アクロバティックでありながら雑味がなく洗練されたダンスに舌を巻きました。正直、高校生や大学生のトップレベルのダンスを見ているような非の打ちどころのない素晴らしいダンスに感嘆し、涙腺が弱いおじさんは涙ぐんでいました。きっと有名なダンス・ユニットになると思うので、今後の活躍が注目されます。次に、衣シキ糸ヨ葵杏ノ心は既に数々のコンテストで優勝する華々しい経歴を持っていますが、切れのある動きには隙がなく、それでいながら勢い任せになってしまうところもなく、緩急を巧みに織り交ぜた構成感のあるダンスにはドラマ性が生まれており高い表現力を感じました。ダンス精度の高さがそれぞれの所作が持つ意味を明晰に伝えることを可能にし、流石はコンテストを総なめにする実力派のダンス・ユニットであると舌を巻きました。
 
○吹奏楽
客席通路に吹奏楽団が並んで演奏されましたが、金管楽器の包容力のある音響及び木管楽器の叙情的な演奏に、打楽器の抑制の効いた装飾がバランス良く絡み合い、推進力のある爽快な演奏を楽しめました。ピッコロが好演でしたが(トレーナーのトラ?)、きっと美味しいお酒を飲めたのではないかと思います。
 
○第九合唱
ソリストはプロを迎えて安定した歌唱を聴けましたが、アマで構成される合唱団は多少技量不足の印象を否めませんでしたが、気持ちの乗った合唱を楽しむことができました。
 
○ポップス
飛騨さん、松山さんの熱唱に合わせて、年甲斐もなく、会場で配られたサイリューム(ペンライト)をノリノリで振ってしまいました。さすがはプロの歌手で熱量の高い歌唱に自然と会場の温度感も急上昇して行くのが分かりました。
 
▽第二幕
楽器を携えた先生達はスクールバスが故障して心細い思いをしていた生徒達のところへやって来て生徒達を救い、やがてエミリーも救い出します。宇宙人はアコースティック音楽に撃退されますが、音楽嫌いの校長先生を連れ去り逃げ出します。これを見た音楽の先生は「音楽の心」は人間性そのものであり「音楽の心」がなくなると鋼鉄のようになると告げ、校長先生とは別の結婚相手を探すと言い捨て大団円になりました。音楽嫌いの校長先生は宇宙人に連れ去られるというプロットはブラック・ユーモアなのだろうと思いますが、敢えて野暮を承知で言えば、例えば、第九合唱の「Und wer's nie gekonnt, der stehle / Weinend sich aus diesem Bund !」という歌詞には良き市民の集い(ドイツ啓蒙主義)が孕む偽善が現れていますが、これは「音楽の心」があるはずの音楽の先生が「音楽の心」がない校長先生を見殺しにする結末に通底する思想性があるように感じられてなりません。良き市民の集いよろしく、一体「音楽の心」とは何なのか、本当にそれが価値のあるものであれば、校長先生を見殺しにする音楽の先生は果たして「音楽の心」があると言えるか?という疑問が頭を擡げてきます。歴史が示すとおり、人間が歓喜するときが最も用心しなければならない危いときとも言え、その意味では、このオペラは現代人に宇宙人以上の大きな問題を暗示している問題作と捉えることもできるかもしれません。客席からは(演奏中を含めて)ちびっ子達の元気な声が聞こえてきて微笑ましい限りでしたが、ちびっ子達は宇宙人に興味を引かれるらしく、このオペラがアウトリーチ公演として人気を博している意味がよく分かりました。
 
 
▼第68回グラミー賞と日本版グラミー賞(MAJ)
第68回グラミー賞ノミネート作品が発表されましたが、現代音楽でノミネートされている作品をリストアップしておきます。
◉最優秀現代音楽作曲賞
 ● クリストファー・セローニ Don’t Look Down
 ● ドナチャ・デネヒー Land of Winter
 ● タニア・レオン Raices(Origins)
 ● ショーン・E・オクペボロ Songs in Flight
 ● ガブリエラ・オルティス  Dzonot
 
なお、日本人では以下の方々が携わっている作品がノミネートされているようなので併せてご紹介しておきます。
◉日本人ノミネート作品
▼最優秀インストゥルメンタル・コンポジション賞
▼最優秀レコーディング・パッケージ賞
▼最優秀室内音楽/小編成パフォーマンス賞
 ● ニーヴ・トリオ(エリ・ナカムラ) La Mer
▼最優秀コンテンポラリー・インストゥルメンタル・アルバム賞
 ● チャル・スリ Shayan(フルート奏者 深沢晴奈が参加)
 
因みに、来年から漸く日本でも日本版グラミー賞「MUSIC AWARD JAPAN」(MAJ)が開催される予定になっており、いまから大変に楽しみです。合理性や効率性が重視された20世紀までは技能(方法)を競うための「コンクール」(発掘と育成を主な目的とする競技)が主流でしたが、創造性や多様性が重視される21世紀からは独創性(世界観)を讃えるための 「音楽賞」(顕彰と奨励を主な目的とする祭典)が主流になってきており歓迎すべき潮流です。
 
▼ブックサンタ
本は我々を知的な冒険へと誘い、新しい世界観を拓いてくれる人類が発明した偉大なる暇潰しです。今年も早いものでブックサンタの季節がやってきましたが、日本でも排外主義的な傾向が鼻に付く狭量な潮流を尻目に、在日外国人の子供達や国際志向が強い日本の子供達の人生の糧になればという想いを込めて、目白駅近くにある海外から輸入した良質な洋書絵本を取り扱っている書店「絵本の家」(但し、残念ながら年内で閉店予定)で子供向けの絵本を選んでみました。誰かに本をプレゼントするということはあなたの心を誰かに届けるということでもあり、少しだけ誰かとあなた自身の心を温めてみませんか?

ART歌舞伎~DEEPFOREST~と三島由紀夫生誕100周年記念フィリップ・グラス「MISHIMA」と落語「志ん輔 蝉の会」(落語家:古今亭志ん輔、共演:淡座)と田中悠美子音楽実験室2025〜義太夫三味線音響エクスペリメンタルと「この世のムラを編む①」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ブログの枕「この世界のムラを編む①」
前七回のブログ記事では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」、「行動遺伝学」、「行動経済学」、「ニューロ・ダイバーシティ」、「文化心理学:拡張自己」、「社会心理学:自己拡張」、「認知心理学:心のフレームワーク」とリベラルアーツ擬きを試みてきましたが、今回のブログの枕では、これらを総括する視点から、この世界の「ムラ」を編むと題してムラの正体(複雑性理論)についてごく簡単に触れてみたいと思います。過去のブログの枕では、宇宙誕生の物語として「量子理論」(均質な原始宇宙:ミクロな世界観)→「対称性の破れ」(非均質な相転移:ムラ)→「相対性理論」(宇宙構造の誕生:マクロな世界観)を踏まえたうえで「複雑性理論」(ミクロからマクロまでをシームレスにつなぐ創発)の諸相として幾つかの具体的なテーマを採り上げてきました。人間の世界理解の枠組みは、大まかに、宗教的世界観→単純系科学(還元的・ヒエラルキー的なアプローチ:対象を分解し、その構成要素を取り出す手法)→複雑系科学(全体的・ホラルキー的なアプローチ:対象の相互作用や関係性に着目する手法)へと射程や精度を増しながら発展してきましたが、単純系科学では世界を構成する「部分の総和は全体になる」(秩序、確定性)という考え方がベースにありますが、複雑系科学では世界を構成する部分を理解しても、それらの部分の相互作用や関係性から創発する異質な特性(非線形ダイナミクス)を理解することはできず、世界を構成する「部分の総和は全体を超える」(秩序+カオス+ランダム、不確定性)という考え方がベースにあります。例えば、物質などの無機的組織は環境の変化に応じて自律的に適応することはありますが、その組織化(ムラ)の法則は変化しない単純系の特性(部分を効率的に制御しながら全体の組織を維持する秩序化の特性)を持っているのに対し、生物や社会などの有機的組織は環境の変化に応じて自律的に適応しますが、その組織化(ムラ)の法則も変化し得る複雑系の特性(部分の相互作用や関係性により創発して自己組織化する秩序化と乱雑化の双方の特性)を持っているという特徴的な違いがあります。このように世界は、①単純系(秩序):環境の変化に応じて適応しても、その組織化(ムラ)の法則は変化しないので「部分の総和が全体になる」安定的なシステム(即ち、因果関係が一対一で対応する線形の法則性)、②複雑系(カオス):環境の変化に応じて適応し、その組織化(ムラ)の法則を変化しながら因果的に創発するので「部分の総和は全体を超える」不安定なシステム(即ち、因果関係が一対多で対応する非線形の法則性)、③複雑系(ランダム):環境の変化に応じて適応し、その組織化(ムラ)の法則を進化しながら偶発的に創発するので「全体が部分の総和を超える」不確定なシステム(即ち、因果関係は不確定的・確率的になる非線形の法則性)がダイナミックに相互作用しながら生滅流転を繰り返しています。この点、20世紀まで支配的であった物質主義的な世界観(人間の知覚を前提とした環世界)では物質を確定的な存在として捉えるのに対し、21世紀以降に支配的になった複雑性理論の世界観では対象が物質(個体)のように観察できるのか又は現象(流体)のように観察できるのかなどは観察者のスケールや視点などにより異なり得ると捉える点に大きな違いがあり、全ての物理現象は固定(分節)ではなく過程であり、運動であり、流れであり、変化である(連接)と考えられています(すべてのものは固定した実体や本質を持たないという仏教の空性思想に近い概念)。即ち、上記①~③のレベルは互いに独立して分離しているのではなく、それぞれのレベルが1つの全体を不可分に構成し、それぞれのレベルが相互作用しながら融合している(ホラルキー)と考えられています。例えば、人間の身体はあるスケールでは1つの個体として捉えられますが、同時に別のスケールでは分子雲として捉えられ、これらは因果的ではなく同時性として存在するものの(粒子と波動の二重性は上記①~③の状態の重なり合い)、現在の技術ではこれらを同時に捉えることは不可能と考えられています。観測者のスケールなどにより上記①~③の状態の重なり合いのうちの1つの状態が観察(分節)されますが、その他の状態の重なり合いも同時的に存在しており、これらが相互作用(連接)していると考えられています。この点、量子もつれは離れた場所に2つの量子があるのではなく(そのように分節的に観察できるだけで)、それらの量子が量子場の中で重なり合っているので(場全体が連接しているので)、1つの量子を操作すると別の量子も一緒に操作することになるという人間の知覚を前提とする限り直感的に理解し難い複雑な世界の実相の中で、人間も宇宙の根本原理や地球のバイオマスと連接し、それらに溶け込みながら、これらと相互作用して揺らいでいるムラであるとイメージすることができ、人間はそのムラの諸相の一部を知覚し、(神という都合の良いブラックボックスを使うことで)それが世界の全てであると信じてきたと言えるかもしれません。
 
▼複雑性理論で見えてくる世界の実相
単純性理論では「全体=部分の総和」として古典物理学的な世界観(神の絶対秩序、確定性)を捉えているのに対して、複雑性理論では「全体>部分の総和」として現代物理学的な世界観(宇宙の相対秩序、不確定性)を捉えているという特徴的な違いがありますが、複雑性理論はミクロ(量子力学によって記述される極小の世界)の相互作用(秩序とカオスの交錯:均質性)からマクロ(相対性理論によって記述される極大の世界)のムラ(秩序:非均質性)が生まれる様子(創発)をシームレス(階層的)に見渡して、世界を解像度高く捉えることができます。秩序(ムラ)は、散逸構造(自己組織化)により非均質性を増して、また、カオス(ムラの増幅)やランダム(ムラの創造)の揺さ振りにより複雑性や多様性を増しますが(正のフィードバック)、その一方で、エントロピー増大の原則(ムラの拡散)により均質性を増しており(負のフィードバック)、その間で揺らぎながら生滅流転を繰り返しています。
世界の実相 単純系 複雑系
秩序 カオス ランダム
法則性 決定論
線形・安定
決定論
非線形・不安定
確率論
非線形・非持続
調和性 予測可能 予測困難 予測不能
創発性
単純性

複雑性

多様性
特質性 非均質
効率性
相転移
適応性
均質
適応性
具体例 惑星 天気 進化
世界観 還元主義
分節・要素
全体論
連接・関係
物理学 ニュトン力学 相対性理論 量子力学
※HTMLでは複雑な表組みが難しいので多少の正確性は犠牲にしています。
 
▼複雑系を表現するコンテンポラリー音楽
ひと口に、コンテンポラリー音楽(世界大戦後の新世界を前提とする音楽)と言っても様々な特徴を持つものがありますが、複雑性理論の視点からクラシック音楽(世界大戦前の旧世界を前提とする音楽)と対比するため、それぞれの音楽に特徴的な傾向を二項対立で整理しています。この点、音楽を分節的に捉えているという意味で線形的な思考に陥っていますが、クラシック音楽は世界の一部(マクロな世界)を効率的に表現することは得手としていますが、コンテンポラリー音楽と異なり世界の実相(ミクロな世界からマクロな世界まで)をダイナミックに表現することには限界がありますので、その意味でも旧世界に閉じる分節から新世界へ開く連接にシフトするコンテンポラリー音楽の革新性が求められる時代になっていると言えるかもしれません。
分節点 クラシック音楽 コンテンポラリー音楽
思想性 デカルト的 スピノザ的
世界観 二元論
秩序
理性的
一元論
秩序+カオス+ランダム
自然的
表現 形式的
構造的
因果律
流動的
創発的
同時性
受容 作曲家の意図
演奏者の再現
聴衆の参加
環境との共創
音楽観 世界を分節化
理解する音楽
世界を一体化
体験する音楽
※コンテンポラリー音楽は理解できないという声を聞くことがありますが、必ずしも、人間の知覚を前提にした世界観(環世界)を表現することを企図していないので直感的に捉え難いという面があるのかもしれません。この点、人間の知覚を前提にした世界観(環世界)に閉じ籠もっていたいという嗜好性があれば別論ですが、世界の実相(環境世界)に迫る面白さに触れるためには観客の側が教養を深めて知性、感性を磨く必要があるかもしれません。
 
▼ART歌舞伎~DEEP FOREST~
【演目】ART大歌舞伎~DEEP FOREST~
【出演】中村壱太郎(歌舞伎俳優)
    花柳源九郎(日本舞踊家)
    花柳梨道(日本舞踊家)
    藤間礼多(日本舞踊家)
    野村太一郎(能楽師狂言方)
【演奏】<箏・二十五弦箏>中井智弥
    <津軽三味線>浅野祥
    <笛>藤舎推峰
    <太鼓>山部泰嗣
【日時】2025年11月8日(土)19:00~
【会場】観世能楽堂(ライブ配信)
【一言感想】
歌舞伎俳優の中村壱太郎さんが歌舞伎の革新を仕掛けるART歌舞伎の第一作「ART歌舞伎~花のこゝろ~」に続く第二作「ART歌舞伎~DEEP FOREST~」が公演されましたが、非常に人気が高く早々にチケットが完売してしまいましたので、オンライン配信を視聴しました。もともと歌舞伎とは「傾く」を語源としており「型破り」の革新性を芸の本質にしていると思いますが、歌舞伎と能楽を比較すると「歌」「舞」の要素は共通していると思いますが、能楽の「技」(様式美)に対して歌舞伎の「伎」(創造美)に特徴的な違いがあるのではないかと思います。本日の公演を一口で言うと、歌舞伎の源流である能楽の様式を参照しながら、歌舞伎+能楽+現代邦楽で歌舞伎の革新を仕掛けた意欲的な公演に感じられました。冒頭はスピーカーから森の音、雷、雨、歌声などが聴こえ、浅野祥さんが豊年万作を歌う民謡(津軽民謡のようでしたが、何という民謡かは分かりません)と和太鼓、津軽三味線、笛、筝による現代邦楽が演奏され、能楽や歌舞伎のルーツに遡り、神事としての芸能の原点を意識させる舞台演出になっていました。そこへ笛と筝による精妙な伴奏と共に橋掛りから植物の妖精に扮した御幣を手にしたワキ1人と榊を手にしたワキツレ2人が登場し、和太鼓と津軽三味線が激しく囃すなかをワキが歌舞伎の荒事を連想させる激しい舞と雄叫びを上げながら睨みを効かせると、これに誘われるようにワキツレ2人も激しい舞を舞った後、笛の精妙な伴奏に乗せて榊を手にしたワキが神妙な舞を舞いました。その後、三味線、筝、笛、和太鼓による表情豊かな伴奏と共に鈴を手にして面を付けたワキツレが三番叟を連想させる舞を舞い、邦楽アンサンブルが能楽囃子を連想させる気魄の籠った伴奏と共にワキとワキツレが急の舞を舞い、さながら序破急の型破りのような舞台が展開されました。その後、花柳源九郎さんがナレーションで森の民による神事と共に四神が降臨するという舞台設定を語り、青い照明と共に青龍が登場して叙情や情熱が交錯する筝の伴奏と共に女形(おそらく中村壱太郎さん)の艶やかな舞を舞い、これに続いて赤い照明と共に朱雀が登場して流麗な笛の伴奏と共に優美な扇舞を舞い、これに続いて白い照明と共に白虎が登場して激しい津軽三味線の伴奏と共にキレのある舞を舞い、ダークな照明と共に黒色の装束の玄武が登場してリズミカルな和太鼓の伴奏と共にミニマルで緊張感のある舞を舞うと、最後に豊年万作を齎す春、夏、秋、冬を司る四神が入り乱れての群舞になりました。人間の知覚(環世界)を越えた世界の実相(環境世界)を直観し、それを得も言われぬ「神」というフィクションとして設え、これを畏敬する人間の知性として芸能が営まれてきたことに思いを巡らせながら楽しみました。特別ゲストの澤村精四郎さんのナレーションを経て、ART歌舞伎楽団が中井智弥さんが作曲されたノクターン(歌舞伎「刀剣乱舞」より)や清経(ART歌舞伎「花のこゝろ」より)などの作品を演奏し、多彩な情感が移ろい行く情緒纏綿とした演奏に魅了されました。後半は、安珍・清姫伝説を題材にして能楽と歌舞伎のミクスチャーしたディープフォレストが公演されましたが、過去のブログ記事でも触れたとおり、安珍・清姫伝説(本朝法華経記の紀伊國牟婁群悪女道成寺縁起など)は熊野詣に向う途中で仮宿をとった家の娘・清姫に見染められた奥州白河の若僧・安珍が仏に帰依する身の上からその好意を断ると、清姫は蛇体になって安珍の後を追い道成寺の梵鐘の中に隠れていた安珍を焼き殺すという悲劇(現代風に言うとストーカー殺人事件)が伝えらえていますが、これは本朝法華経記が書かれた平安時代には夜這いなどが横行する性に奔放な時代であったことから全国から熊野詣に訪れる男達が旅先で地元の若い女性達を辱しめることなどがないように男に弄ばれた女の情念の恐ろしさを蛇に化体して脚色した伝説ではないかと推測されます。安珍・清姫伝説を題材として能「道成寺」(観世信光作)が創作され、さらに人形浄瑠璃「日高川入相花王」(竹田小出雲作)や歌舞伎「京鹿子娘道成寺」(近松門左衛門作)などに翻案されています。果たして、森の守人としてワキとワキツレが登場して安珍・清姫伝説を物語ると出囃子と共に橋掛りから蛇の隈取りのようなメイクと赤い装束に鱗文様の烏帽子を被ったシテが登場し、三味線と民謡で歌舞伎の女形らしい艶っぽい序の舞が舞われ、やがて能管と和太鼓が激しく囃すなかを急の舞へと移りましたが、やがて中井さんの持ち前の美声及び耽美な箏の調べと共に優美で情熱的な歌舞伎舞踊が披露されました。その後、能管が禍々しく吹き荒らすと舞台が赤い照明(愛のメタファー)から青い照明(のメタファー)に一変し、篠笛と筝の伴奏と共に白い装束に鱗模様の帯姿に転じますが、そこへ(清姫の心に巣食っている?)隻眼の鬼(憎を生む執心のメタファー)が登場して、これに清姫が打ち勝つと赤い装束(愛のメタファー)へと戻って、やがて読経と共に清姫の魂は浄化されて行くという印象的な舞台に魅せられました。どこかアニメ「鬼滅の刃」を連想させるところがありますが、神仏不在の現代にあって他力本願(他力による魂の救済)を主題とする怨霊鎮魂の物語を超克し、自力本願(自力による魂の救済)を主題に採り入れることで現代人も共感し得る自己実現の物語にアップデートしている点に革新性が感じられ、ディープフォレスト(自分の心の中の深い森)に分け入って本当の自分に巡り合うプロセスを表現した舞台に感じられました。どのように歌舞伎を革新して行くのか、次回作にも期待したいです。
 
 
▼三島由紀夫生誕100周年記念フィリップ・グラス「MISHIMA」
【演題】三島由紀夫生誕100周年記念フィリップ・グラス「MISHIMA」
    -オーケストラとバレエの饗宴-
【演目】フィリップ・グラス 
    ①ヴァイオリン協奏曲第2番「アメリカン・フォー・シーズンズ」
    ②ピアノとオーケストラのための協奏曲「Mishima」
     <Dans>上野水香(東京バレエ団ゲストプリンシパル)
           青山季可(牧阿佐美バレヱ団プリンシパル)
           逸見智彦、京當侑一籠
               (牧阿佐美バレヱ団プリンシパルCA)
【舞台美術】横尾忠則
【監修】三谷恭三(牧阿佐美バレヱ団芸術監督)
【演奏】<Cond>柳澤寿男(京都フィル・ミュージックパートナー)
    <Ohrc>京都フィルハーモニー室内合奏団特別交響楽団
    <Vn>川井郁子
    <Pf>滑川真希
【日時】2025年11月14日(金)19:00~
【会場】東京オペラシティ コンサートホール
【一言感想】
今年は三島由紀夫の生誕100年、没後55年(命日:11月25日)のアニバーサリーですが、現代でも三島文学は世界中の作曲家や芸術家に多大な影響を与え続けています。10月27日に開催された第38回東京国際音楽祭で漸くタブーが破られて映画「MISHIMA」が日本初上映されて話題になっていますが(僕はかなり昔にインターネットで海外版を視聴していますが)、この映画で使用されているP.グラス作曲のピアノとオーケストラのための協奏曲「Mishima」(ピアニストはグラス弾きとして有名な滑川真希さん)と三島由紀夫をテーマにした横尾忠則さんの舞台美術(映像)及び堀内充さんのバレエをコラボした舞台があるので鑑賞することにしました。一曲目のヴァイオリン協奏曲第2番「アメリカン・フォー・シーズンズ」はP.グラスがA.ヴィヴァルディ―の合奏協奏曲「四季」にオマージュを捧げた作品で、各楽章のどれが春、夏、秋、冬に対応するのかは聴き手の自由に委ねられています。個人的には、第一楽章:冬、第二楽章:春、第三楽章:夏、第四楽章:秋をイメージしながら鑑賞しましたが、ART歌舞伎の前半に登場した四神降臨の舞ともイメージが重なって古今東西を問わず四季に抱くイメージには共通したものが感じられます。最近の異常気象で穏便な季節の移り変わりを体現する四季から極端な季節の移り変わりを体現する二季へと移行しつつありますが、我々の子孫が春や秋の素晴らしい季節感を音楽のみからしか感じることができない時代が来ないように現代人の責任として取り組まなければならない問題です。先ず特筆すべきは川井さんが奏でるヴァイオリンの音色の瑞々しさで、東京オペラシティーの豊かな残響にヴァイオリンの純度が高い透徹の響きが澄み渡るもので白眉でした。各楽章はカデンツア風の技巧的な独奏パートとソロを含む各パートが緊密に呼応する合奏パートで構成されていますが、第一楽章では世界をモノトーンに変える冬の到来を告げるようなメランコリックな演奏が展開された後、通奏低音の推進力ある演奏と共にソリストとオーケストラのバランスが良く協奏し、さながら氷面を滑るような流麗な演奏が展開されました。第二楽章は生物が春の到来を待って息を潜めている様子を表現したものでしょうか幽けき音と低音の重苦しい音から開始されましたが、満を持したように瑞々しい高音で叙情的な音楽が奏でられ、グリッサンドやアルペジオが生物の息吹を表現しているように感じられました。やがて川井さんが鳥の囀りのような音楽を奏でると、ソリストとオーケストラが多彩な音色で春の季節感を表現しているように感じられました。第三楽章はさながら夏の重苦しい空気とジリジリと焼き付けるような陽射しが肌を刺す雰囲気を表現したものでしょうか重音による分厚い響きが支配的になり、キーボードが激しいリズムを刻む緊迫感のある演奏が展開されて、思わず熱中症アラートを出したくなるような重圧感のある演奏が展開されました。第四楽章は落ち葉が舞い散る様子を表現したものでしょうか、螺旋形の音型が忙しなく重ねられ、また、秋の収穫祭の様子を表現したものでしょうか、躍動感あるリズムでダンス風の音楽が展開されました。やがて木枯らしを思わせるような下降音型が繰り返されながらアッチェレランドして急速に季節が深まって行くように曲が締め括られました。演奏会のレパートリーに加えられても良さそうな聴き易い音楽なので、今後、演奏機会が増えてくれることを期待します。二曲目のピアノとオーケストラのための協奏曲「Mishima」ですが、第一楽章「燃えゆ鳳凰」は1950年に実際に発生した金閣寺放火事件が題材になっている小説「金額寺」がテーマになっていますが、上野水香さんが舞う金閣寺のシンボルである鳳凰の精と京當侑一籠さんが舞う主人公の若僧・溝口のデュエットが展開され、溝口が鳳凰の精の美しさに圧倒されて絞め殺してしまうルサンチマンがバレエで表現されていました。グロッケンが鳳凰の輝き、チューブラーベルが金額寺の荘厳さを表現し、その圧倒的な美に打ちのめされる溝口の動揺を滑川真希さんが躍動するピアノで巧みに表現しているように感じられました。鳳凰の精と溝口のダンスが繰り広げられるなか、三島由紀夫の決起を象徴するような緊迫したドラムトールが加わって、その完成されたことによった生命力を失った美を再生させるために完成された美の破壊への衝動に駆り立てられる心情が巧みに表現されているようでした。第二楽章「ふたり」は小説「鏡子の家」がテーマになっていますが、横尾忠則さんが三島由紀夫をアイコンにしたポップアート(映像)をバックスクリーンに投影し、また、浅川さんが粒際立った硬質なタッチでキビキビとドラマチックな演奏を展開しましたが、(作曲意図はいざ知らず)戦後日本や三島さんがサブカルチャーやグローバリズムなどの潮流に翻弄されていた様子が表現されているように感じられ、敗戦が生んだ退廃と虚無(上述の仏教の空性理論に擬えられますが、それは全てのものが再生(創発)される境界域でもあるもの)の中から新しい日本の美が再生される儚い期待のようなものが表現されているように感じられました。第三楽章「オマージュ」は小説「豊穣の海」がテーマになっていますが、ミニマルな音型(部分)が相互作用しながら複雑に交錯して全体を変容して行くような演奏が展開され、さながら複雑性理論の世界観を体現している音楽に感じられて刺激的でした。母なる海は生と死の輪廻の象徴であり、美は死や破壊を経て虚無の海へと至り、やがて再生するという美学が体現されているようで感慨深く鑑賞しました。因みに、後述する特別公演「志ん輔 蝉の会」で採り上げられている落語「しじみ売り」では新橋芸者が登場しますが、三島さんの小説「橋づくし」には新橋芸者が描かれており、また、三島さんが決起した1970年11月25日の前日に最後の晩餐として新橋の料亭「末げん」で鳥鍋(晩餐「わ」のコース)を食したという話も有名で、あの界隈には多彩な歴史が刻まれています。
 
 
▼特別公演「志ん輔 蝉の会」
【番組】①五銭の遊び(初演)
    ②しじみ売り(初演/共演:淡座)
    ③芝浜
【噺家】古今亭志ん輔 師匠
【音楽】落語、三味線、ヴァイオリン、チェロのための「しじみ売り」
                            (世界初演)
    <作曲>桑原ゆう
    <三味線>本條秀慈郎
    <Vn>三瀬俊吾
    <Vc>竹本聖子
【囃子】金山はる
【前座】三遊亭歌きち
【日時】2025年11月24日(祝・月)14:00~
【会場】音楽の友ホール
【一言感想】
来年末まで紀尾井ホールが休館のため、今回は神楽坂にある音楽の友ホールでピアノの椅子を踏み台に使った特設の高座(さすがにピアノの上ではありませんでしたが)が設けられました。前座の三遊亭歌きちさんが三遊亭の持ちネタである古典落語「薬缶」を口演された後、古今亭志ん輔師匠が(古今亭は三遊亭から独立した一門であり「三遊」の亭号にオマージュを捧げる意図があったのか、これに「古今」の亭号を織り交ぜて)「」をテーマにした典落語席(そのうち一席は淡座との共演による「」を織り込む心意気)を口演されました。
 
①古典落語「五銭の遊び」
ある男が「五銭で女郎を買った」と友達に自慢します。家でゴロゴロしていると母親から五銭を貰ったので、懐の二銭と併せて七銭を持っておでん屋へ行き二銭のこんにやくを食べ(こんにゃく1個が二銭(=112円)だとすると五銭は300円程度)、その帰りに女郎が声を掛けてきた。男は「これしか金を持っていない」と片手を示すと、女郎はそれを五銭ではなく五十銭と勘違いして「残りは何とかする」と男を女郎屋に誘います。その後、女郎屋の主人が宵勘(江戸っ子は「宵越しの銭を持たない」ことから宵のうちに勘定を求める風習)に来ると、男は懐から五銭を出す。主人はたった五銭で女郎遊びをするとは厚かましいと呆れると、男は「いいや、銅貨には穴が開いているから厚くない」と頓珍漢な答えをするとサゲがつきます。志ん輔師匠の愛嬌のある語り口と相俟って、男の間抜けに女郎屋の主人が拍子を狂わせる「遊び」と「狡さ」の間に生まれる笑いを楽しめました。落語の枕で志ん輔師匠は志ん生師匠からよく「遊べ」と言われたそうですが、過去のブログ記事で触れたとおり「遊ぶ」(=「足」+「歩」)とは自己のアイデンティティを外界へアウトリーチする心理過程(自己を外界へ解放して自己を外界と同化する拡張自己的な営み)であるのに対して、「学ぶ」(=「真似」+「舞」)とは外界を自己のアイデンティティにアレンジする心理過程(外界から学習したことを身に付けて自己を充実させることで自己を外界と異化する自己拡張的な営み)と言えますので、「遊ぶ」と「学ぶ」は硬貨の裏表の関係にあり「遊び」が「学び」を深めるということなのかもしれません。落語界では兄弟子が弟弟子を奢る習慣があるらしく、飲み屋で「兄さん!」と言われて奢ったところ実は兄弟子だったという経験も少なくないのだとか。「誤解によって愛は始まり、理解によって愛は終わる」と言いますが、現代にも古典落語「五銭の遊び」の精神が息衝いていると言えるかもしれません。
 
②古典落語「しじみ売り」
義賊・鼠小僧次郎吉改は茅場町で魚屋「和泉屋」を営む次郎吉に扮して汐留の船宿で飲んでいたところ、雪空を貧しい少年がしじみ売りにやってきました。次郎吉は不憫に思ってしじみを全て買い取り、その少年から身の上を聞くと、盲目の母と病気の姉を抱えていること、姉は新橋芸者の小春(下掲写真の「金春」との掛詞か)で馴染客(遊び)の質屋若旦那の庄之助と駆け落ちしたこと、庄之助は博打(遊び)で30両の借金を抱えて途方に暮れていたところ義侠心のある若者(鼠小僧治郎吉)が通り掛り50両の小判をくれて二人で家へ帰れと諭されたこと、役人が御金蔵破りの小判だとして庄之助を捕らえそれが原因で姉が病気になったことなどが語られました。次郎吉は自らの過去の行いが少年一家を不幸にしたことを知り、その侠気から不正をばらすと奉行を脅して庄之助を解放させるという人情噺(悪で悪を懲らしめる義賊譚)です。過去のブログ記事で簡単に感想を書いた古典落語「猫定」とも因縁深いネタですが、過去のブログ記事で触れたとおり未だ日本人の意識に「社会」はなく「世間」しかなかった時代に、法よりも人情が人々の心を支配していた江戸の気質を現代に伝えています。この噺には淡座の音楽が添えられていましたが、三味線やチェロが繰り返して奏でていた3音のモチーフは鼠小僧治郎吉の「忍び足」を表現したものでしょうか、これにヴァイオリンのフラジョレットが加わって鼠小僧次郎吉の雲霞過客とした生き様を体現するような音楽が添えられていましたが、志ん輔師匠が話芸達者に描く活き活きとしたデッサンに、淡座の音楽が淡い彩りを添えながら噺の情感を豊かに広げていくような印象の舞台を楽しめました。
 
金春屋敷跡(東京都中央区銀座8-7-11
芝浜の雑魚場跡(東京都港区芝4-15-2
木挽町三座(東京銀座5丁目~6丁目の昭和通り沿い界隈
江戸切絵図築地八町堀日本橋南絵図:落語「しじみ売り」の噺の舞台は汐留ですが、昔は汐留川を挟んで新橋と汐留橋が橋掛されており、新橋親柱がその名残を現代に伝えています。古地図では新橋の近くに金春屋敷がありましたが、この落語にも登場する新橋芸者は金春座に奉公する女性が芸を身に着けてそれを売りにしたことから誕生しています。 ②金春屋敷跡銀座(新橋寄り)には徳川幕府の御用能楽師である金春太夫の拝領屋敷がありましたが、金春座に奉公していた女性が唄や舞などの諸芸を身に付けて金春芸者(新橋芸者)になり、そのハイカラな気質から金春色(ターコイズブルー、新橋色)を好んだと言われています。昔、銀座唯一の銭湯である金春湯看板は金春色を使用していました。 ③芝浜の雑魚場跡:名作落語「芝浜」は魚屋の某が芝の魚市場で革財布を拾いますが、江戸時代から芝の漁師は薩摩藩邸近くに魚市場を立て雑魚を商っていたと言われておりその地には雑魚場跡の碑が残され、往時の面影を伝えています。因みに、芝の海側が芝浦、芝の陸側が芝浜と地名を区別していましたが、現在では芝浦に地名が統一されています。 ④木挽町三座跡:現在の歌舞伎座の向いには木挽町三座(山村座河原崎座森田座)があり、この近くには金春座の能舞台の他に徳川幕府の奥絵師であった狩野画塾がありましたが、現在はグランドバッハが建設され、バッハも使ったジルバーマンが展示されています。なお、1714年に山村座が発端となって江島生島事件が勃発しています。
 
③古典落語「芝浜」
酒好き(遊び)が高じて商売が傾き掛けている魚屋の熊さんは、ある日、酔い覚ましのために芝浜の海で顔を洗っていると、その海底に50両もの大金が入っている革財布が落ちているのを発見しましま。早速、革財布を拾って家に持ち帰り妻に報告し、祝杯をあげていると気持ちが良くなって寝入ってしまいます。熊さんが目を覚まして革財布のことを妻に尋ねると、妻から「革財布なんて知らないけど、夢でも見ていたのではないか。」と惚けられ、熊さんは夢だったのかと落胆したショックから断酒して商売に精を出すようになります。それから3年後、妻は「本当は夢ではなく革財布はある。あの後、奉行所に革財布を届け出たが落とし主が現れなかったので革財布が戻ってきた。」と真実を告げて祝杯をあげようと謝りますが、熊さんは「また夢にされるのが怖い。」とサゲがつき、その後も断酒を続けて商売に成功するという人情噺で、志ん輔師匠の酔狂芸が堂に入る面白い一席を楽しめました。談志師匠の酩言に「酒が人間をダメにするんじゃない。人間はもともとダメだということを教えてくれるものだ。」とあり「落語とは人間の業の肯定である。」と舌鋒鋭く言い放っていますが、夫のダメっぷりを見抜いている妻の優しい嘘が夫の性根を叩き直し、しかも革財布を奉行所に届け出てマネロンしたうえで酒の夢を真の夢に変える機転を効かせる器量良しの妻から愛想を尽かされなく慕われる熊さんの男冥利に尽きる心温まる噺でした。世評に「講談を聴くとタメになる、落語を聴くとダメになる。」とありますが、「遊び」(買う、打つ、飲む)にまつわるタメになる落語三席でした。
 
 
▼田中悠美子音楽実験室2025〜義太夫三味線音響エクスペリメンタル
【演題】田中悠美子音楽実験室2025〜義太夫三味線音響エクスペリメンタル
    ―日本の伝統楽器・義太夫三味線の音響世界を今に解き放つ―
【演目】①佐原洸 連歌Ⅴ(義太夫三味線とエレクトロニクス)
     <義太夫三味線>田中悠美子
     <Elc>佐原洸
    ②藤倉大 Jiai(慈愛/地合)義太夫三味線のための
              ~ロングバージョン(義太夫三味線ソロ)
     <美太夫三味線>田中悠美子
    ③田島浩一郎 タブローの方法
          (義太夫三味線とサックスとジェネレーティブ AI)
     <義太夫三味線>田中悠美子
     <Sax>菊池成孔
     <GenAI>田島浩一郎
    ④向井響 乙女椿~義太夫三味線とライブエレクトロニクスのための
                  (義太夫三味線とエレクトロニクス)
     <義太夫三味線>田中悠美子
     <Elc>向井響
    ⑤義太夫三味線✕ピアノ✕ベース
     ・Blue in Green
     ・義太夫節「本朝廿四孝」~「奥庭狐火の段」より
     ・Slaves mass
     ・My Funny Valentine
     ・St.Thomas
     <義太夫三味線>田中悠美子
     <Pf>林正樹
     <Bass>瀬尾高志
     <Sax>菊池成孔
    ⑥田中悠美子 I was here(2004)
     <義太夫三味線>田中悠美子
     <Pf>林正樹
     <Bass>瀬尾高志
【DJ】安達楓 日本の声の記録(開演前)
【企画・主催】田中悠美子
【制作】福永綾子(ナヤ・コレクティブ)
【日時】2025年11月24日(月・祝)18:00~
【会場】晴れたら空に豆まいて
【一言感想】
昨年、第24回佐治敬三賞を受賞されて益々と勢いに乗る女流義太夫三味線奏者・田中悠美子さんのライブを鑑賞するために代官山駅前のライブハウス「晴れたら空に豆まいて」に伺いました。ライブエレクトロニクス、コンテンポラリー、ジャズなどをコラボレーションしたジャンルレスな音楽に義太夫三味線の情趣が加わることで立ち上がってくる独特の世界観が非常に魅力的に感じられる舞台で、「実験室」と銘打たれていますが委嘱初演も含めて斬新ながら完成度の高い音楽を楽しめました。個人的な印象では「襲の色目」の美意識のようなものが感じられ、それぞれのジャンルの持ち味を「混ぜる」というよりも「和える」という感触に近く、それぞれの特徴を活かしながら、それらの特徴がバランス良く重なり合うことで生まれる妙味を堪能できました。
 
① 連歌Ⅴ
パンフレットには「舞台上の奏者は水にまつわる表現などのごく限られた音素材に基づく演奏を行う。」としたうえで、「伝統と現在のアコースティックとエレクトロニクスという二つの領域を行き来しながら、伝統の未来を見据えて創作した。」と解説されています。パンフレットを読まずに鑑賞しましたが、人間の認知特性として、単に音だけを記憶に留めることは困難で何らかのナラティブの形式でしか記憶に留めることしかできませんので、個人的な妄想として、エネルギーの励起(粒状のムラ)が下降形のリズムを繰り返しながら、やがて時空間の広がりを作って行くようなイメージで聴いていました。エネルギーの励起(粒状のムラ)は義太夫三味線の水の表現を参照したものでしょうか、過去のブログ記事でも触れたとおり水は氷⇄水⇄蒸気と相転移し易い性質を持っていますので、それに近いイメージを想起できていたかもしれません。佐原洸さんはIRCAMでライブエレクトロニクスを学ばれた時代の嚆矢とも言うべき存在なので、今後の活躍から目を離せまん。
 
②Jiai(慈愛/地合)
パンフレットには「僕にとって初めての義太夫の太棹三味線の作品で(中略)義太夫節の古典は不条理な悲劇が基本だと教わったので、「暗さ」というのがキーワードと思って、ダークなオーラを帯びたイメージで書きました。」と解説されています。琵琶のようなダイナミックな撥裁きによる力強い表現と三味線の特徴を示す繊細かつ情緒豊かな表現を織り交ぜた義太夫三味線の特徴を活かした技巧的に難しい?曲調に感じられ(但し、19世紀のようにヴィルトゥオジティをひけらかすような陳腐さはなく)、義太夫三味線の表現可能性を色々と試みている習作のような性格も持つ面白い作品に感じられました。
 
③タブローの方法
パンフレットには「本作は、生成AIでつくり出したトラックに対して、義太夫三味線(田中悠美子)とサックス(菊地成孔)が即興演奏で介入する形式をとっています。ここで用いられる「タブロー」という語は、絵画のことではなく、論理学で形式的照明や自動定理証明で用いられるタブロー法(tableau method)を指しています。」と解説されています。冒頭、街のサウンドスケープが流され、そこにコーラスの歌声が重ねられましたが、それを遠景に捉えながら義太夫三味線が一音一音と情感を込めて紡いで行く一音成仏の世界観を体現するような演奏で始まりました。これにサックスやキーボードが即興的に呼応しながら演奏が展開されて行きましたが、宇宙が構造である以上は万物(諸現象を含む)には何らかの法則性がありますが、AIの「計算」(電気的な反応)と人間の「情動」(電気的+化学的な反応)という異なる法則性を掛け合わせて音場を協創して行くような面白い作品に感じられました。
 
④乙女椿
ヴラヴィー!パンフレットには「女流義太夫である竹本寿々女さんの声をコンピュータに学習させ、そこからジェネレートされた新しい浄瑠璃の「声」と、リアルタイムでエフェクトをかけた義太夫三味線の音で、新しい浄瑠璃の形を想像」し、「機械から発せられる息遣いを一切持たないその「声」と、奏者の呼吸によって自由に間とテンポが決定される三味線の間で、大きく揺れる音楽を立ち上げようと考えた。」と解説されています。義太夫三味線の弦を糸で擦って電気ノコギリのようなノイズを発生させ、そのノイズをライブエレクトロニクスを使って拡散することで猟奇的な音場を作り出し、これに竹本寿々女さんの語りの声がコラージュされてエルドリッチな雰囲気が醸し出されているように感じられましたが、義太夫節のエッセンスの1つである「情念」のようなものが立ち込める異次元の舞台を顕在させることに成功しているように感じられました。義太夫三味線の音にエフェクトをかけてアコースティックな世界とエレクトロニクスな世界のハイブリッドな音響空間が体現する亜空間に義太夫節の語り(言葉)が持つ「意味」(理性)ではなく、その「音素」(本能)が体現している情念のようなものが亜空間を漂っているようで、義太夫節のエッセンスを使った現代的な音楽表現へとアップデートされているような斬新な舞台に魅了されました。拙ブログでも何度か感想を書いていますが、向井響さんは向井航さんと共に日本の若手現代作曲家の中で最も注目される逸材であり、今後もフィーチャーして行きたいと思っています。
 
⑤義太夫三味線×ピアノ×ベース
ヴラヴィー!パンフレットには「昨年に続いて今回もジャズの演奏家との共演を試みます。」と解説されていますが、義太夫三味線の田中悠美子さんと、ピアノの林正樹さん、ベースの瀬尾高志さん、サックスの菊池成孔さんというビッグネームとの異色の組合せによるセッションが行われました。ジャズと義太夫三味線のコラボレーションは初めて聴きましたが、いずれもソウルフルな音楽ということもあり非常に相性がよく、ジャズのグルーヴに義太夫節の情趣がプラスされた心を強く揺さぶる独特な聴感が斬新で面白く感じられました。とりわけピアノの林さんが義太夫節の興に感応して即興的に絡んで行く閃きに満ちたパートは出色でした。また、スタンダードナンバーであるMy Funny Valentineでは菊池さんのサックスや瀬尾さんのベースが奏でるメランコリックな雰囲気が心に沁み、これに義太夫三味線の情緒纏綿とした語りが加わることで、心の襞が複雑に絡み合う味わい深い情趣が立ち込める演奏に魅了されました。ジャズの感想を書いてみるというのも野暮なことだと思うので、是非、ご興味がある方は田中悠美子さんのライブにお運び頂いてその場の雰囲気を体感して下さい。極上の音楽と酒に酔い痴れ、人生に溺れさせてくれるような素敵なライブなので自信をもってオススメしておきます。
 
⑥I was here
パンフレットには「物語の情景や登場人物の生活・感情まで、迫力たっぷりに、時には細やかに表現する義太夫三味線。その本来の文脈を離れて、楽器から醸成される響き、余韻、噪音、倍音を下がる試み。」と解説されています。原曲は義太夫三味線のソロ曲ですが、本日はジャズトリオ編成にアレンジして演奏されました。冒頭、エイジレスな田中さんが艶っぽい声で「春は鶯、夏は蝉、秋は虫、冬は木枯らし、雪の音」と四季を彩る季節の音を詠いましたが、このジャズトリオ版では義太夫三味線、ピアノ、ベースが叙情豊かな演奏を展開して、途中、ピアノやベースによるアドリブが挟まれるなど、原曲の世界観が拡張されていました。原曲を水墨画に例えるとすれば、ジャズトリオ版は彩色画と形容することができるかもしれませんが、それぞれの味わいが感じられる面白いピースでした。
 
終演後に出演者の皆さんを記念撮影
 
 
▼シンポジウム「能楽研究の国際発信と今後の展望」
去る10月11日(土)~12日(日)に法政大学市ヶ谷キャンパスにおいて野上記念法政大学能楽研究所の主催で "A Companion to Nō and Kyōgen Theatre" 刊行記念シンポジウム「能楽研究の国際発信と今後の展望」が開催され、そのうちPart2を拝聴しましたので、その概要を備忘録として簡単にサマっておきたいと思います。
【講題】Part2:現代に生きる能楽 ―ジャンルを超えて―
【講目】①越境する能―戦前 ディエゴ・ペレッキア
                     (京都産業大学准教授)
    ②越境する能―戦後 横山太郎(立教大学教授)
    ③ラウンドテーブル「演出・技法・トレーニング」
     横山太郎(立教大学教授)
     ディエゴ・ペレッキア(京都産業大学准教授)
     山中玲子(法政大学能楽研究所教授)
     高桑いづみ(東京文化財研究所名誉研究員)
     リチャード・エマート
     (武蔵野大学名誉教授・シアター能楽創設者)
     ジョン・オグルビー
     (法政大学講師・シアター能楽トレーニングディレクター)
     モニカ・ベーテ(中世日本研究所所長)
【日時】10月12日10:00~12:30
【概要】
西洋では世紀末のジャポニズムの潮流に乗り歌舞伎の受容よりも能楽の受容が先行していたそうですが、当初は能面や衣装などのマテリアル・カルチャーが注目され、徐々に演能などのパフォーマンス・カルチャーへと関心が移って行ったそうです。1916年にW.イェイツさんが能楽の特徴を採り入れた戯曲「鷹の井戸」を初演して話題になり、逆に、これを題材にして横道万里雄さんが1949年に能「鷹の泉」、1967年に能「鷹の姫」、2017年に梅若玄祥さんとコーラス・グループ「アヌーナ」がケルティック能「鷹姫」、坂本龍一さんと高谷史郎さんが舞台「LIFE-WELL」などに翻案しており、能楽の受容は国境を越えて深化しました。この点、明治維新以後の日本国内における能楽の受容は3つの時代に区分することができ、【第一期:1900年代】1905年に吉田東伍さんが世阿弥の芸道書「風姿花伝」を発見して観阿弥や世阿弥が正当に評価され、【第二期:1940年代】第二次世界大戦後に西洋近代を乗り越える機運が高まる中で日本人のアイデンティティとして能楽が積極的に受容され、【第三期:1980年代】ポストモダンの潮流の中で能楽は古臭いとして低迷期を迎えるという時代の大きな流れがあったことが紹介されました。また、1950年代から三島由紀夫さんが戯曲集「近代能楽集」を執筆、武満徹さんと観世寿夫さんが草月アートセンターで現代音楽と能楽(能舞)を融合する活動、2000年以降には細川俊夫さんと青木涼子さんが現代音楽と能楽(謡)を融合する活動などが注目されていることが紹介されました。伝統的な能楽はオワコンであるというネガティブな世評もあるなかで、アニメ、メディアや言語などをクロスオーバーするオルタナティブなアプローチが盛んになっている現状が紹介されましたが、上述のとおり物質主義的な世界観から複雑性理論の世界観へとパラダイムシフトする中で芸術表現の器として顕在劇としての能楽の潜在力に期待したいと思います。いつまでも世阿弥頼みでは本当にオワコンになってしまうと懸念しますが、能楽のエッセンスを活かしながら現代的にアップデートすることに成功すれば大化けするかもしれないキラーコンテンツたり得る大器を持っているのではないかと期待しています。
 
▼Synthetic Natures「もつれあう世界:AIと生命の現在地」
銀座のシャネル・ネクサス・ホールでAIアートとエコロジーを融合する展覧会「Synthetic Natures」(もつれあう世界:AIと生命の現在地)が開催されているので仕事帰りに立ち寄ってみました。AIを使って有機生命体とその進化を探求するアルゼンチン人のヴィジュアル・アーティストであるソフィア・クレスポさんとエンタングルド・アザーズさんが生命と環境の「もつれ合い」(エンタグルメント)をテーマにAIを使って創作した作品が展示されています。生命と環境の「もつれ合い」(相互作用、連接)によって秩序とカオスの境界域に新しい秩序が立ち上がる複雑系の創発を表現している作品群で、複雑性理論の「全体>部分の総和」という命題をAIを使って人間の知覚を超克して美的に表現し、新しい世界観を拓いてくれる大変に興味深く刺激的な展覧会でした。ご興味がある方は美術手帳に詳しい解説がありますので、ご一読頂くと鑑賞が深まると思います。
 
 

シアター・オペラ「その星には音がない-時計仕掛けの宇宙-」(脚本:平田オリザ、作曲:中堀海都)と中井智弥箏・二十五絃箏リサイタル 2025「時をこえて」と長須与佳 尺八・琵琶LIVE〜亜欧の風〜と吉例顔見世大歌舞伎(三谷歌舞伎)と「この世界のムラを認知する」

▼ブログの枕「この世界のムラを認知する」
前七回のブログ記事では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」、「行動遺伝学」、「行動経済学」、「ニューロ・ダイバーシティ」、「文化心理学:拡張自己」、「社会心理学:自己拡張」に簡単に触れてきましたが、今回は、この世界の「ムラ」を認知するという視点から心のフレームワークについてごく簡単に触れてみたいと思います。前回のブログ記事で現代オペラの傑作として名高いオペラ「ミスター・シンデレラ」の感想を簡単に書いた際に当時の時代感覚(世代論)に言及しましたが、丁度、このオペラが初演された2001年頃はテレビ(アナログ)を中心とするマス・メディア(大衆社会)からインターネット(デジタル)により分散するナノ・メディア(個衆社会)へと移行した端境期にあたり(以下の囲み記事を参照)、ナノ・メディアに脳をハッキングされて人々の価値観が大きく変化し始めた時期にあたると思います。このような社会現象を裏書きするように、例えば、製造業(技術大国)に代わって日本経済を牽引し始めているコンテンツ産業(エンタメ大国)を代表するアニメもウルトラマンから宇宙戦艦ヤマト、機動戦士ガンダムに極まるタテ型社会(ヒエラルキー)を基調とした社会や組織を重視する自己犠牲に彩られた拡張自己的な価値観(俗にガンダム世代)から、ワンピースに始まりキングダム、鬼滅の刃へと発展するヨコ型社会(ホラクラシー)を基調とした仲間や自分を重視する自己実現に彩られた自己拡張的な価値観(俗にワンピース世代)へと移行し(集団から個人へ、秩序から自由へ、社会を守る技術から個人の可能性を広げる技術へとパラダイムシフトし)、ガンダム世代が自己犠牲により体制を守ろうとする一方で、ワンピース世代はその体制に抗うことで自己実現を図ろうとするという各世代の特徴的な傾向があり、それがハラスメントなどの様々な摩擦となって顕在しています。
 
▼アニメに描かれている時代感覚
20世紀後半(1950~)の戦後世代はマスメディアなどを中心にして規範化された大衆社会で育ったのに対し、21世紀(2000~)のポスト戦後世代はナノメディアなどの普及により多様化された個衆社会で育ったと言えそうですが、このような社会情勢の変化を背景として、アニメのテーマも社会の利益を守るために技術(拡張自己)を駆使して自己犠牲のもとに反体制(主に侵略者)を打ち破るもの(ガンダムが体現する世界観)から、個人の夢を叶えるために自らの成長(自己拡張)を経て体制(主に既得権益)を打ち破り自己実現を図るもの(ワンピースが体現する世界観)へ移行したように思わます。
西暦 TVアニメとテーマ 社会現象
1953 マスメディア TV放送開始
1955 高度経済成長
1966 ウルトラマン
テーマ:地球救済
1974 宇宙戦艦ヤマト
テーマ:地球救済
1979 機動戦士ガンダム
テーマ:地球連邦救済
1991 バブル経済崩壊
1993 ナノメディア インターネット開始
1995 Windows 95発売
1996 Yahoo! Japan開始
1999 ONE PIECE
テーマ:海賊王
ADSL、携帯ネット開始
(一般家庭へ普及)
2003 光回線開始
2004 mixi(SNS)開始
2012 キングダム
テーマ:天下の大将軍
2019 鬼滅の刃
テーマ:妹救済
※ウルトラマンは特撮実写版が有名ですが、1979年からアニメ版も放送されていますのでアニメにカテゴライズしています。
 
▼ガンダム世代の滅私奉公(組織重視)からワンピース世代のハラスメント(個人重視)へ
ガンダム世代はメンバーシップ型雇用を前提として組織への忠誠に基づく自己犠牲を基調とする社会に生まれ育ち、それに伴う滅私奉公や過労死が社会現象になりましたが、ワンピース世代はジョブ型雇用を前提として多様性の尊重に基づく自己実現を基調とする社会に生まれ育ちましたが、ガンダム世代による組織への忠誠や自己犠牲の強要などがワンピース世代の多様性の尊重や自己実現の重視などを阻害するものとしてハラスメントの問題を惹起するという社会現象になっています。
世代 特徴 コミュ 価値観
ガンダム
世代
鋼鉄の
堅実性
社会性
規範性
組織
競争
タテ社会 自己犠牲
ワンピース
世代
ゴムの
柔軟性
個性
多様性
仲間
協調
ヨコ社会 自己実現
 
戦後、義務教育やマスメディアの普及などにより「常識」と呼ばれる社会的な共通感覚が醸成されて社会の均質化(大衆化)が進みましたが、その裏腹として、上述のとおり各世代に固有の共通体験(例えば、オイルショックや就職氷河期など)により形成された「常識」から逸脱する各世代の特徴的な傾向は世代論(ムラ)として捉えられるようになりました。この点、世代論をネタにした書籍やWebサイトなどは溢れていますので、敢えてここでは深入りしませんが、このような各世代の特徴的な傾向をステレオタイプとして捉える心のフレームワークは脳の認知特性から生じるものと考えられています。人間は、①外界から情報を取り込むと(感覚)、②そのうち必要な情報を選択して注意を振り向け(知覚)、③その選択的注意を振り向けた情報と過去の経験や知識(記憶)を照合して意味を理解して判断又は行動を促す(認知)と共に、④それを個人の嗜好や価値観により解釈、評価します(意識)が、過去のブログ記事で触れたとおり、外界からの情報を詳細に認知していると外界の変化に迅速に反応することが難しくなりますので、自らの生存可能性を高めるために過去の経験や知識(記憶)をベースにした認知パターンに基づく予測(例えば、ニャン=猫、ガァオ=虎など)を前提に効率的な認知を行っています。また、過去のブログ記事で触れたとおり、人間は、自らが属している集団の内(我ら)と外(彼ら)をアイデンティティで区別し、自らが属する集団と同質のアイデンティティを持つ者を集団の内と認知する習性があり、自らの生存可能性を高めるために自らが属している集団を強く支持する一方で、他の集団に対して攻撃的になる習性があると言われています。他の集団を認知しようとするとき、自らが属する集団とのアイデンティティの違いをステレオタイプとしてパターン化し、その認知パターンを自らの属する集団に共有することで一種の偏見(確証バイアス)が生まれますが、その1つとして否定的、悲観的なニュアンスを含む世代論が挙げられます。最近、多様性の時代を踏まえて世代論の有効性が議論されていますが、所詮、人間には外界を正確に認知することは不可能なので、(偏見やペルソナの強化に結び付かないように個体差に配慮する注意深さは必要ですが)各世代の特徴的な傾向を把握することで各世代間に潜在する社会的な摩擦を回避又は緩和する知恵として活かすことができるかもしれません。
 
 
▼シアター・オペラ「その星には音がない-時計仕掛けの宇宙-」
【演題】水戸国際音楽祭
【演目】シアター・オペラ「その星には音がない-時計仕掛けの宇宙-」
【脚本・演出】平田オリザ
【作曲・指揮】中堀海都
【出演】<Sop>太田真紀
    <Mez>ドーラ・ガルシドゥエニャス
    <Ten>フーゴ・ポールソン・ストーヴェ
    <俳優(青年団)>兵藤公美、能島瑞穂、南風盛もえ、田崎小春
【演奏】アンサンブル水戸
    <Fl>若林かおり
    <Cl>上田希
    <Fg>中川日出鷹
    <Pf>若林千春
    <Vn>石上真由子
    <Va>般若佳子
    <Vc>竹本聖子
【舞台美術】杉山至
【立体音響】五十嵐優
【舞台監督】中嶋さおり
【技術監督】武吉浩二
【照明】三嶋聖子
【字幕】西本彩、佐山泉
【衣装】正金彩
【制作】太田久美子
【制作補佐】三浦雨林
【日時】2025年10月11日(土)14:30~
【会場】ザ・ヒロサワ・シティ会館 大ホール
【一言感想】
前回のブログ記事でも宣伝しましたが、今年の水戸国際音楽祭でシアター・オペラ「その星には音がない-時計仕掛けの宇宙-」が初演されるというので聴きに行ってきました。水戸国際音楽祭は「音楽と観光の融合」というコンセプトを掲げて、この音楽祭でしか体験できない魅力的な芸術イベントと水戸ならではの豊かな観光資源を楽しむことができる多彩なプログラムを用意し、水戸の街全体をテーマパーク化したステイ型のフェスティバルのようです。水戸には水戸城、偕楽園、弘道館、千波湖などの観光資源の他にも、例えば、幕末に水戸で発明された日本最古のエレベーター(好文亭)、日本最古の戦車(水戸東照宮)や日本最古の潜水艦設計図(弘道館)など日本が近代化を図り今日の経済的な繁栄をもたらしたイノベーションの萌芽となった場所でもあり、そのユニークな観光コンテンツが魅力です。因みに、僕の先祖はTVドラマ「水戸黄門」の格さんのモデルになった安積覚兵衛と共に水戸藩の彰考館総裁を勤めていたこともあり、個人的には大変に思い入れが深い場所でもあります。演出家の平田オリザさんは現代作曲家の細川俊夫さんとオペラ「海、静かな海」(2016)やオペラ「二人静」(2017)を創作されていますが、このとき細川さんの弟子であった中堀海都さんと知り合い、その後、このオペラの構想が持ち上がりって足掛け7年越しで実現した舞台だそうです。現在、平田さんは地域文化政策に注力されており、地方行政と連携しながら城崎国際アートセンターを活動拠点にして豊岡演劇祭の開催や芸術文化観光専門職大学の設立などの活動を通して観光と文化を融合した地域振興に取り組まれているそうです。平田さんの芸術観として、芸術には①娯楽性(個人の充実)、②社会性(社会の形成)、③公益性(観光や医療など社会の充実)という3つの役割が期待され、基礎(伝統)に根差しながら先端(革新)を拓いて行くことで100年後の人々にとっても価値のある新しい文化資産を創造し続けることが必要であるという信条を吐露されていましたが、正しく慧眼だと思います。過去のブログ記事でも触れましたが、「伝統なき革新」( ≠ 実験)や「革新なき承継」ではやがて芸術の「花」は枯れてしまいますので、自己拡張を育む世界観(目的)と拡張自己を誘う方法(手段)をバランスして伝統を革新しながら新しいもの(藝術)を創り続ける創造的な営みを通して「花」を咲かせ続けることが重要ではないかと思います。過去のブログ記事でも触れましたが、古事記(「八百万の神共に咲(わら)ひき。」「歌ひ、舞ひ、かなで給ふ。その御聲ひそかに聞えければ、大神、岩戸を少し開き給ふ。國土また明白たり。神たちの御かりけり。」)や世阿弥の花伝書(「住する所なきを、まづと知るべし。」「花と面白きとめづらしきと、これ三つは同じ心なり。」)に著されているとおり、芸術の意義は「面白さ」(≧ 美しさ)に窮まり、「面白さ」とは詰まるところ自分の知らない自分に出会うこと(自己拡張)を意味するのではないかと思います。さて、このオペラにはプロットのようなものは存在しないと思っていましたが、アフタートークで宇宙に関するオペラを創ろうということになり「宇宙」→「真空」(音≒ 振動を伝える媒質がない世界)→「音」(音≒ 振動を伝える媒質がある世界)→「声」→「言葉」という連想から宇宙に移住した人間が地球に戻ってきて言葉を取り戻すという状況設定のようなものがあったらしく、ジングシュピール(歌芝居)よろしく歌(音楽)と芝居(演劇)が交錯する舞台構成になっていました。また、上述の状況設定のようなものが手伝って、伝統的なオペラのようにプロット(物語)を重視したものではなく、ポップスのようにイメージ(言葉の断片)を散りばめた歌が中心に据えられており、細川さんのオペラ「ナターシャ」と同様に多言語(英語、フランス語、日本語)を使うことにより言葉を意味から解放して人間の集合的無意識(ユング)に働き掛ける音素を使ったヴォカリーズ風のアリアになっていた点が特徴的でした。さらに、会場にはヤマハの立体音響システムとして約30台のスピーカーが設置され、アコースティック(音≒ 振動を人工的に発生させる手段:その1)だけでは描き切れない世界観がエレクトロニクス(音≒ 振動を人工的に発生させる手段:その2)を使って表現されていました。なお、少し前まではアコースティックとエレクトロニクス、ベルカントとクルーナーや人間とAIなどを恰も対立概念であるかのように捉えたがる昭和ノスタルジー(俗に老害と揶揄される認知バイアス)がありましたが、すっかり時代に浄化された状況は歓迎したいです。冒頭では歌(音楽)の場面から開始し、立体音響システムから流される点描音が徐々に大きくなり、恰もビッグバン後の宇宙の冷却によりエネルギーが凝縮し、強い核力や電磁力によって物質(音≒ 振動を伝える媒質)が誕生する様子が表現されていたように感じられました。フルートがエオリアン・トーンで空気(音≒ 振動を伝える媒質)の存在を感じさせるなか、メキシコ人ソプラノ歌手のG.ドーラさん(本公演ではメゾソプラノ)とスウェーデン人テノール歌手のS.フーゴさんが登場してそれぞれが英語とフランス語で「私のことを覚えていますか?」「私の中にいる貴方」と二重唱を歌いましたが、地球に戻ってきた人間がDNAに刻まれた進化的な記憶の中の自分に出会う場面に感じられました。その後、「愛」「現実」「大地」などの言葉の断片(イメージ)を繰り返すヴォカリーズ風のアリアが歌われ、人間がDNAに刻まれた進化的な記憶の中の自分を手繰り寄せるような印象的な場面が展開されましたが、ミニマル音楽よろしく観客の潜在意識や記憶深部に働き掛ける催眠的な効果を生んでいるように感じられ、座禅を組むように音楽に没入できる観客にとっては大きな音楽効果を感得できたのではないかと思いますが、俗世の雑念に囚われている観客にとってはそのような音楽効果を感得することは期待できずやや冗長に感じられたかもしれません。これに続き芝居(演劇)の場面では、3人の女優が登場して、猫とライオンは同じネコ科なのに、何故、猫は「鳴く」と言い、ライオンは「吠える」と言うのかと哲学的な議論を展開しましたが(一般には「犬がクンクンと鳴く」「犬がワンワンと吠える」と使い分けられていますが、「鳴く」は小さな音、「吠える」は大きな音をイメージしているように思われます。)、人間がピアノによって音を88鍵に分節して平均律の中に閉じ込めてきたように、言葉によって世界をロゴスで分節して環世界の中に閉じ込めてきた歴史を物語っているように感じられました。現代は、科学の進歩によって神の絶対秩序を体現する線形思考(単純系)から世界(宇宙)の実相に迫る非線形思考(複雑系)に時代の価値観は移行していると思いますが、言葉に支配されることの意味、言葉から解放されることの意味を色々と考えさせる印象深い場面になっていました。なお、アフタートークで言葉を取り戻す過程を表現するために助詞を突支える台詞にしたそうですが、やや吃音障害を連想させるものがあり配慮に欠ける印象を否めませんでしたので、それよりも人間が波のリズム≒ 心臓や呼吸のリズムから世界を分節的に捉える認知特性を備え、そのイメージを共有するために言葉(記号)を獲得した過程を中心に描いて貰えると違和感なく鑑賞できたような気もします。これに続く歌(音楽)の場面では、2人の歌手が「私達は生きている」「私達は時計を組み立てている」と歌い継ぎ、宇宙の構造(実)としての「時間」(一般相対性理論)とその時間を人間の意識(虚)が分節的に捉えることで作り出される過去→現在→未来へと一方向に進む「時間の流れ」(エントロピー増大の原則)の虚実が織り成す時間観が象徴的に表現されているように感じられました。このような形態で歌(音楽)と芝居(演劇)が交錯しながら舞台が展開されましたが、人間が言葉(ロゴスが体現する環世界)を取り戻して行く過程と相反するように、オーケストラには微分音やカオスな音響(ピュシスが体現する環境世界)が支配的になって「方向性のある音」(神が体現する人工的な世界観、五線譜に記述できる音楽)から「方向性のない音」(宇宙が体現する自然的な世界観、五線譜に記述し切れない音世界)へと変化してくそのギャップが観客に色々な問いを投げ掛けてきているような作品に感じられ、最後は息の音(対称性の破れを象徴する音)で締め括られる余韻深い終幕になりましたが、観客の多様なプロジェクションを許容する懐の広い作品を楽しめました。アフタートークで、既に平田さんと中堀さんのコンビでシアター・オペラ第3弾の構想が持ち上がっているそうなので、今から楽しみです。
 
 
▼中井智弥 箏・二十五絃箏リサイタル2025「時をこえて」
【演題】中井智弥 箏・二十五絃箏リサイタル2025「時をこえて」
【演目】①光崎検校 秋風の曲
    ②中井智弥 Motion
    ③中井智弥 民謡メドレー
     (米山甚句、よさこ節、おてもやん、加賀ハイヤ節、百々花火)
    ④中井智弥 雪魔縁
    ⑤中井智弥 ECHO
    ⑥中井智弥 風になれ花になれ
    ⑦中井智弥 蝉丸
    ⑧中井智弥 実朝と倩子姫
    ⑨中井智弥 忍冬の夢
    ⑩中井智弥 雨夜の月
    ⑪中井智弥 ノクターン
    アンコール
    ⑫中井智弥 時を超えて
【出演】<二十五絃筝>中井智弥①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫
    <琵琶・尺八>長須与佳②④⑤⑥⑦⑪⑫
    <笛>藤舎推峰②③④⑤⑥⑧⑨⑩⑪⑫
    <十七絃筝>中島裕康②③④⑤⑥⑪⑫
    <打物>住田福十郎②③④⑤⑥⑪⑫
【日時】2025年7月12日(日)14:00~
【会場】Hakuju Hall
【一言感想】
過去のブログ記事でも感想を書いた筝演奏家・作曲家の中井智弥さんが二十五絃箏リサイタル2025「時をこえて」が開催されるというので聴きに行ってきました。中井さんは歌舞伎界に革新の風と共に新しい客層を呼び込んでいる歌舞伎役者の尾上松也さんとタッグを組んだ歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」歌舞伎「刀剣乱舞 東鑑雪魔縁」や日本舞踊家の尾上菊之丞さんとタッグを組んだ新ジャンルの詩楽劇「めいぼくげんじ物語 夢浮橋」などで音楽を担当され、物語を多彩に彩る美しい音楽が話題になるなど伝統に根差しながらその枠に安住することなく多方面で果敢に革新を仕掛けておりその活躍から目を離せません。なお、中井さんが出演される11月8日に開催されるART歌舞伎は非常に人気が高く早々にチケットが完売してしまいましたが、急遽、オンライン配信が追加されることになったようなので、そちらを視聴する予定にしています。
 
美味しそうな🍙だなと近寄ってみたら、お友達なのかしら?
 
さて、本日は非常に演目数が多いので、過去のブログ記事で感想を書いた歌舞伎「刀剣乱舞~東鏡雪魔緑」中井智弥・箏リサイタル2024~ETERNITY~で採り上げられている曲についてはそちらの感想に譲ることにして、いずれの公演でも採り上げられていない第一曲の感想のみを簡単に残しておきたいと思います。パンフレットには筝曲について「その原点は雅楽にあり、中世には筝一面で寺院仏閣において歌の伴奏として演奏されたのが始まりとされています。その原点の姿をとどめてるのが「組歌」です。(中略)簡素な音数で成り立つ組歌は、技巧と華やかさを追求した江戸中期以降の筝曲とは対照的な存在といえるでしょう。江戸末期に活躍した光﨑検校はこの原点に立ち返り、組歌の形式を用いて「秋風の曲」を作曲しました。」という解説に続けて「私自身も筝曲を探求する中で、組歌のシンプルな手を歌の中に崇高な美を感じ、この世界を知らずして新たな筝曲を書けないと痛感しています。」という心境が吐露されていますが、この言葉には筝演奏家としての矜持が感じられます。筝の一音一音に込められた音香(音に宿る薫り)が空間に焚き染められて行くような余韻深い演奏が展開され、一音一音の彩りと共にそれぞれの音の奥行き(残香のように漂っている余情や無常感など)を静寂に聴き分ける深みのようなもの、一音で描き切る世界(一音成仏)を堪能できる内容の濃い演奏を楽しめました。スリ爪は冬の気配を運ぶ秋風を表現したものでしょうか、季節と共に移ろう心象風景が中井さんの雅やかな歌声と精細なニュアンスに富む筝と共に紡がれ、その組歌の美観極まる演奏が白眉でした。前回のブログ記事でも述べましたが、西洋歌曲のように連音で紡がれる音楽は日本語のモーラ構造には不向きで、筝曲の組歌のように延音で紡がれる音楽は日本語の1モーラに1音が対応して言葉と音が密接に結び付きながら延音の中に立ち上がる世界に日本歌曲の美質が生まれることが感じられます。上述のとおり中井さんは現代の筝演奏家の中でも「生き馬の目を抜く勢い」と評し得る八面六臂の活躍ですが、世阿弥が花鏡で「たとひ上手なりといへども、初心の時の心を忘れざるを、花とす。」と前置きして、「上手になりぬれば、心に慢心生じて、古法をおろそかにし、おのがままなる心にて芸をなすゆゑに、花を失ふなり。されば、年来稽古といふとも、初心を忘るべからず。」と戒めているとおり、絶頂を迎えている時機(男時)だからこそ浮足立つことなく原点に立ち戻り地歩を見詰め直す謙虚さや慎重さが芸に「真の花」を咲かせるために大切なのだろうと思います。この点、中井さんの芸道を究める真摯な姿勢と覚悟が感じられる一曲を堪能できました。ヴラヴォー!なお、過去のブログ記事に感想を譲りますが、忍冬の夢では藤舎推峰さんの寂び寂びとした笛の音が澄み渡り、さながら水墨画を見るような淡麗枯淡とした味わいに聴き惚れました。ヴラヴォー!!また、蝉丸では長与佳与さんが儚さや無常などを湛えた琵琶の演奏で楽しませてくれました。ヴラヴァー!劇場版アニメ「鬼滅の刃」(無限城編)では上弦の肆・鳴女(モデル:啼沢女命)が琵琶の一掻きで亜空間を自在に操りますが、琵琶には一掻きで世界観を一変させてしまう音の力(啼沢女命の涙、怨霊鎮魂、一撥天地開闢など)が宿っており、そこに琵琶の大きな魅力の1つがあるように感じます。源博雅よろしく藤舎さんの笛、蝉丸よろしく長須さんの琵琶と役者が揃っています。さらに、中島裕康さんと住田福十郎さんの漫談!?が会場から大きな笑いをとるエンターテイメント性の高い舞台を楽しめ、会場に若い女性の姿が多かったのも頷けます。
 
 
▼長須与佳 尺八・琵琶LIVE〜亜欧の風〜
【演題】長須与佳 尺八・琵琶LIVE〜亜欧の風〜
【演目】①長須与佳 繚悠の月
    ②長須与佳 風、薫る
    ③長須与佳 若葉色に吹かれて
    ④長須与佳 亜欧の風
    ⑤長須与佳 砂の泉
    ⑥平家物語 扇の的
    ⑦長須与佳 三日月
    ⑧長須与佳 月影の舞
    ⑨中井智弥 風になれ花になれ
    ⑩米山正夫 車屋さん
    ⑪長須与佳 帰路~みち~
    ⑫長須与佳 めぐる郷、めぐる君
    アンコール
    ⑬平家物語 祇園精舎
    ⑭長須与佳 胡蝶之夢
【出演】<尺八・琵琶>長須与佳
    <Key>村田昭(賛助出演)
    <Perc>田辺晋一(賛助出演)
    <二十五絃筝>中井智弥(ゲスト)
【日時】2025年10月21日(火)19:00~
【会場】目黒Blues Alley Japan
【一言感想】
長須与佳さんは琵琶、尺八及び唄(歌)をマルチに熟す日本で唯一の女性音楽家で、上述の中井さんと共に歌舞伎役者の尾上松也さんとタッグを組んだ歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」歌舞伎「刀剣乱舞 東鑑雪魔縁」、日本舞踊家の尾上菊之丞さんとタッグを組んだ新ジャンルの詩楽劇「めいぼくげんじ物語 夢浮橋」などに出演されると共に、新作歌舞伎「陰陽師 鉄輪」では作曲を担当されるなど、伝統と革新を紡いで新しい世界観を拓く目覚しい活躍が注目されます。そんな長須さんがワシントンD.C.の老舗ジャズ・クラブ「ブルース・アレイ」の流れを汲む目黒のジャズ・クラブ「ブルース・アレイ・ジャパン」で単独ライブを開催されるというので、社会人にとって平日の公演は非常にハードルが高いのですが何とか都合を付けて聴きに行ってきました。
 
上弦の肆・鳴女よろしく、憂き世を浮き世へと変える亜空間に誘われました🎶
 
さて、本日の公演の副題は長須さんがシルクロードをテーマにして作曲された楽曲が収録されているアルバム「亜欧の風」から採られていましたが、本日の長須さんの衣装である藍色のドレスと紅色のストールはシルクロードを象徴したものではないかと思われます。ご案内のとおり、「琵琶」は古代ペルシアの楽器「バルバット」がシルクロードを経由してアジア(細亜)へ伝来して、そこから海のシルクロードである遣隋使や遣唐使によって日本へ伝来して発展したものですが(因みに、ヨーロッパ(羅巴)へ伝来して発展したものが「リュート」)、同じく古代ペルシアを主要な原産地とする「ラビスラズリ」(藍色)や「サフラワー」(雅称:末摘花)(紅色)もシルクロードを経由して日本へ伝来して、主にシルクの染料として使用されました。この点、古代ペルシアを主要な原産地とする薔薇もシルクロードを経由して日本に伝来しましたが、日本では「亜欧」という薔薇の新品種(国産苗6号)が誕生しており、ラピスラズリ(藍色)とサフラワー(紅色)が混合されたような薄紫系(藤色)の美しい重花弁をつける薔薇が華開いています。このようにシルクロードにより紡がれてきた文化の彩りを象徴する衣装だったように感じられます。冒頭、長須さんはさながら虚無僧のようにいぶし銀の尺八独奏でアルバム「亜欧の風」に収録されている①「繚悠の月」を演奏しながら舞台に登場されましたが、これに続く長須さんのアルバム「若葉色に吹かれて」に収録されている②「風、薫る」及び③「若葉色に吹かれて」では尺八、ドラム、キーボードによる爽快な演奏が対照されて陰陽互根の世界観が印象的に描き出されていました。再び、アルバム「亜欧の風」に収録されている④「亜欧の風」及び⑤「砂の泉」では琵琶、尺八、パーカッション、アコーディオンによる情熱的な演奏が展開されましたが、ミニマル音楽風に短いパッセージが変化しながら古代ペルシャの風情を感じさせる演奏が展開され、さながら砂漠に刻まれる風紋を見るような鮮やかな演奏に魅了されました。長須さんの琵琶の音に感電死させられた経験を持つ観客は少なくないと思いますが、長須さんが奏でる琵琶の魅力を堪能する趣向として古典曲から⑥「平家物語 扇の的」がたっぷりと演奏されました。先ず以って、長須さんの語りと歌が白眉でして、正確な音程や強靭で洗練された喉に加えて、その質感のある歌声から彫りが深く多彩な綾により生み出される豊かな情感表出はワックスのような表面的な煌びやかさとは異なる長年に亘って軽石で磨き上げられてきたような底光りする情趣幽深とした美しさのようなものが感じられて陶酔させられました。また、心を掻き鳴らす琵琶の音には決して綺麗事だけでは済まされない人生の迫真を体現する凄みのようなものが宿っているようであり、甲と乙、荒と艶、生と死、陰陽や清濁を併せ呑む語りと琵琶の音が一体となって心をハッキングしてしまう力強さがありました。ここで長須さんの盟友である中井智弥さんがゲストとして登場し、過去のブログ記事で簡単に感想を書いた歌舞伎「刀剣乱舞〜東鑑雪魔縁〜」で使用されている⑦「三日月」、⑧「月影の舞」及び⑨「風になれ花になれ」が演奏されましたが、昼間の公演では歌舞伎「刀剣乱舞〜東鑑雪魔縁〜」で髭切を演じられていた歌舞伎俳優の中村莟玉さんのご尊父(実父)(因みに、養父は歌舞伎俳優の中村梅玉さんですが、歌舞伎界の養子入りについては映画「国宝」の感想を参照)の姿も客席に見えられていたそうです。その後、美空ひばりさんのヒット曲である⑩車屋さんが端唄や小唄風の節回しで小粋にチャキチャキと歌われました。⑨「風になれ花になれ」で聴かれた中井さんのノーブルな歌声と長須さんのリッチな歌声による二重唱も聴き所になっていました。上述のとおり長須さんの歌には美空ひばりさんや都はるみさんのような旨さがありますので、是非、ご一聴下さい。最後に茨城県那珂市の那珂ふるさと大使を務めている長須さんが郷里をテーマにして作曲した楽曲が収録されているアルバム「めぐる郷、めぐる君」から⑪「帰路~みち~」及び⑫「めぐる郷、めぐる君」が尺八、パーカッション、キーボードで演奏され、その牧歌的な風情のある歌に心が洗われました。個人的には那珂市は僕の祖先が南北朝時代に籠城戦を行った瓜連城があった場所なので、この2曲を非常に思い入れ深く聴き入りました。水戸黄門(徳川光圀)が隠棲した西山荘も近く、本当に風情豊かな場所なので都心からの日帰り観光などにもお勧めです。アンコールとして、⑬「平家物語 祇園精舎」及び⑭「胡蝶之夢」が演奏されましたが、会場にはポーランドから来ていた訪日旅行外国人の姿などもあり、国際色豊かな盛会になりました。上述の水戸国際音楽祭で平田オリザさんが日本は訪日旅行外国人が夜に遊べる場所がないことを嘆かれていたことを思い出しましたが、ワ―ケーションを含むアミューズメントの在り方(洋の東西を問わず、未だに芸術とショービジネスを分けて考えたがる権威主義的な認知バイアスが支持されるセンチメンタリズムはありますが)をポジティブに捉え直してみるべき時機なのかもしれません。長須さんと中井さんは現代邦楽界の至宝というべき存在であり、そのうち園遊会にも招待されることになるであろう顕著な活躍に注目しています。
 
 
▼吉例顔見世大歌舞伎(三谷歌舞伎)
【演題】吉例顔見世大歌舞伎(三谷歌舞伎)
【演目】歌舞伎絶対続魂(ショウ・マスト・ゴー・オン)~幕を閉めるな
【脚本・演出】三谷幸喜
【出演】<狂言作者花桐冬五郎>松本幸四郎
    <座元藤川半蔵>片山愛之助
    <山本小平次>中村獅童
    <油屋遊女お久>坂東新悟
    <浅尾天太郎>中村福之助
    <篠塚五十鈴>中村莟玉
    <市山赤福>中村歌之助
    <坂田虎尾/狂言作者見習花桐番吉>市川染五郎
    <竹田出雲弟子半二>中村鶴松
    <附打芝助>片岡千太郎
    <囃子方五郷新二郎>大谷廣太郎
    <附師鍛冶屋為右衛門>澤村宗之助
    <大道具方儀右衛門>阿南健治
    <骨つぎ玄福>浅野和之
    <竹田出雲>市川男女蔵
    <榊山あやめ>市川高麗蔵
    <竹島いせ菊>坂東彌十郎
    <頭取嵐三保右衛門>中村鴈治郎
    <叶琴左衛門>松本白鸚
【日時】2025年11月2日(日)17:00~
【会場】歌舞伎座
【一言感想】
過去のブログ記事で三谷文楽の第一作「其礼成心中」(それなりしんじゅう)に続く第二作「人形ぎらい」の感想を簡単に残しましたが、悲劇の近松に対して喜劇の三谷と評すべき傑作を堪能できました。果たして、今回は三谷歌舞伎の第一作「月光露針路日本~風雲児たち」(つきあかりめざすふるさと~ふううんじたち)に続く第二作「歌舞伎絶対続魂~幕を閉めるな」(ショウ・マスト・ゴー・オン)が上演されるというので観に行く予定にしています。三谷歌舞伎では、江戸の竹田に対して令和の三谷が人情物で勝負を挑むという趣向に感じられますので非常に楽しみにしています。三谷文楽と同様に三谷歌舞伎はハイセンスな脚本と演出で歌舞伎を現代的にアップデートしたものになると思いますので、若年層にも違和なく楽しめると思います。偶には歌舞伎デートと洒落込んでみてはいかが?
 
歌舞伎座の隣のスポーツバー「82東銀座店」ではWS最終戦で多国人も大歓声!!
 
ヴラヴィー!!!!!!三谷文楽「人形ぎらい」に続いて三谷歌舞伎「歌舞伎絶対続魂〜幕を閉めるな」でも腹を抱えて笑わせて貰いました。この年齢になると滅多なことでは笑えませんが、外国人客もウケまくっていましたので、チケットを取れた方はご期待下さい。舞台を観れば分かりますが、台本(キャラクター設定やシチュエーション設定など)のセンスの良さに加えて各役者の持ち味が映える配役も絶妙でしてツボに嵌ること請け合いです。江戸時代の「傾く」に対して令和時代の「傾く」とはどういうことなのか、ひとつの答えを強烈に示しているような舞台でした。文楽や歌舞伎は戯曲作家の才能に大きく左右されますが、その意味でも三谷さんは文楽界や歌舞伎界の救世主と言える存在ではないかと思います。若年層の客も多かったことも特筆で、映画「国宝」の追い風を確かなものにする効果的な一手になっていたように思います。ガンダム世代はいざ知らず、ワンピース世代にとっては仇討ちや心中と言われてもピンと来ないと思いますので、現代の歌舞伎を模索する時機に来ているのではないかと思われ、江戸の近松や竹田に対する令和の三谷に期待が集まります。他日公演もありますので、ネタバレしない範囲で簡単に感想を残しておきたいと思います。江戸時代には江戸、大阪、京都に次いで歌舞伎が盛んだった伊勢の芝居小屋(静岡県島田市に蓬菜座という同名の芝居小屋がありますが偶然でしょうか)に於いて竹田出雲作の人形浄瑠璃「義本千本桜」を座元の藤川半蔵作の歌舞伎「義本千本桜」と偽って興行しているという舞台設定で、片山愛之助さんが演じる座元(プロデューサー)の藤川半蔵、中村鴈治郎さんが演じる頭取(舞台監督)の嵐三保右衛門、松本幸四郎さんが演じる座付作者(脚本家)の花桐冬五郎が舞台展開の要になり、これに中村獅童さんが演じる立役の山本小平治、坂東彌十郎さんが演じる女方の竹島いせ菊、浅野和之さんが演じる骨接ぎの玄福などのキー・キャラクターを初めとする座中が繰り広げるドタバタ喜劇ですが、歌舞伎の舞台のエッセンスを喜劇に採り入れたドリフターズや吉本新喜劇などが特徴としていた身体的なギャグや誇張された演技などによって生み出される「刺激」による反射的な笑い(俗にクスグリ笑い)とは一線を画し、登場人物の性格(キャラクター設定)や人間関係(シチュエーション設定)の妙味などによって生み出される「共感」(近松門左衛門の言葉を借りれば「うつり」のようなもの)による内発的な笑いを誘うマナー・コメディやシチュエーション・コメディーの真骨頂と言える上質な歌舞(伎×喜)劇を存分に堪能できました。竹田出雲が蓬菜座へ芝居見物に来ることになり芝居小屋の幟旗の「藤川半蔵作」を「竹田出雲作」に書き換える羽目になるところから息も尽かせぬドタバタ喜劇を展開し、いい加減な座元や頭取(上司)、身勝手に振る舞う座中(同僚)に振り回される花桐冬五郎(調整役)という劇団だけではなく一般の会社でも「あるある」な状況にエンパシーを掻き立てられました。歌舞伎「義本千本桜」を公演する舞台裏(私)から表舞台(公)を覗き込む座中が役者のトラブル(平知盛役の山本小平治は泥酔状態で舞台に上り、静御前役の竹島いせ菊は舞台上でアゴが外れ、その竹島いせ菊を治療するために女中役として舞台に送り込まれた骨接ぎの玄福が自ら興奮して膝の関節が外れ、役の奪い合いに起因する配役の間違いなど)や道具のトラブル(鼓と枕の取り間違え、山本小平治が酔った勢いで舞台セットに小便をして壊してしまうなど)などに次々と見舞われながらも何とかそれらを乗り越えて公演を続けて行く劇中劇の構成をとっていましたが、我々観客は表舞台(公)から隠れた舞台裏(私)の秘密を共有する仲間として非常にエンパシーを感じ易い舞台設定になっており、舞台裏にいる座中と一緒になってハラハラ(緊張)やゲラゲラ(解放)を繰り返しながら表舞台(公)の様子を伺っている(我々観客には表舞台の音だけが聞こえてきますが、その音から表舞台の混乱振りを想像)というオン・ステージ感(緊張)とオフ・ステージ感(解放)が重層的に織り成す舞台展開に惹き込まれました。このように人間の業が生むドラマと笑いに包まれながらテンポ良く舞台が展開していきましたが、最後に舞台裏(私)から表舞台(公)に回り舞台が展開すると、そこには舞台上で固まっている顎の関節が外れた竹島いせ菊と膝の関節が外れた玄福という我々観客の想像を超える滑稽な状況が登場して会場は大爆笑に包まれ、久しぶりに涙が出るほど捧腹絶倒してしまいました。その後もドタバタ喜劇が展開し、最後は観客が手拍子するなかを出演者全員で平井堅さんの「POP STAR」を熱唱する爽やかな大団円になりました。江戸時代の「傾く」とはガンダム世代までが憧れを持っていた自己犠牲の美学に彩られた反体制としての自由や逸脱(仇討ち、社会体制に向けた学生運動、社会秩序を破壊する不良、ヒップホップなど)であったのに対して、令和時代の「傾く」とはワンピース世代が持っている自己実現の美学に彩られた体制の中の自由や差異化(個人のための権利主張、マイルドポップなど)であると捉えることができるかもしれませんが、座中の身勝手な振舞いから様々なトラブルに見舞われながらもそれぞれが自己実現のために舞台を断念することなく最後までやり切ろうと協力する、多様でありながら協和している現代社会の縮図のような舞台が描かれており、その現代的な群像劇が生み出す人間味や滑稽さが我々観客の心を強く捉える作品であり、現代的な「傾く」で魅了してくれた新しい歌舞伎の傑作が誕生したと言えるのではないかと思います。是非、続編を期待しています!!
 
 
▼オペラ「ナターシャ」がInternational Opera Awards2025にノミネート!
過去のブログ記事で簡単に感想を書いたオペラ「ナターシャ」(作曲:細川俊夫、台本:多和田葉子)が世界的に権威のあるInternational Opera Awards2025のWorld Premiere部門のファイナリストにノミネートされました。その最終選考結果は2025年11月13日にギリシャ国立歌劇場が開催する授賞式(於、スタブロス・ニアルコス財団文化センター)で発表され、その模様はライブ・ストリーミングで無料配信される予定です。過去にはオペラ「紫苑物語」(作曲:西村朗、原作:石川淳、台本:佐々木幹郎)が同賞のファイナリストにノミネートされていますが、日本で創作された新作オペラが世界的に権威のあるオペラ賞のファイナリストにノミネートされることの意義の大きさを感じます。
 
▼芝居小屋「日本橋座」
2025年10月26日(日)11時から16時まで芝居小屋「日本橋座」(十思スクエア)において<第一部>和洋楽器演奏「白衣天人」(三味線:佐藤さくら子、三味線:東音楡井李花、笛方:望月輝美輔、邦楽囃子方:藤舎夏実、囃子方:望月実加子、ピアノ:浅香里恵)、<第二部>古典芸能「連獅子」(親獅子:中村芝翫、子獅子:中村橋三郎、長唄:鳥羽屋三右衛門ほか)が公演されます。天保の改革で芝居小屋を浅草に移設されるまでは江戸三座のうち中村座及び市村座は日本橋にあり芝居町として大いに賑わったそうですが、その風情を現代の日本橋に蘇らせたいという想いから全ての公演は観覧無料になっています。ご都合がつく方はいかが。

オペラ「ミスター・シンデレラ」(作曲:伊藤康英、脚本:高木達)と酒にまつわる大人の嗜み「小唄で巡る日本酒の四季」(邦楽ユニット「明暮れ小唄」:小唄幸三希、千紫巳恵佳)とアンサンブル・ノマド第85回定期演奏会と「この世界のムラを拡げる②」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ブログの枕「この世界のムラを拡げる②」
前六回のブログ記事では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」、「行動遺伝学」、「行動経済学」、「ニューロ・ダイバーシティ」、「文化心理学:拡張自己」(エクテンデット・セルフ)に簡単に触れてきましたが、今回は、この世界の「ムラ」を拡げるという視点から、自己拡張(セルフ・エクスパンジョン)について(今回は時間がないので)ごくごく簡単に触れてみたいと思います。前回のブログ記事でも触れたとおり、アイデンティティは決して固定的なものではなく、常に他者や集団との関係性、環境の変化などに応じてチューニングされながら揺らいでいるもの(ムラ)ですが、「拡張自己」と「自己拡張」という似て非なる心理過程が相互に密接に関係しながらアイデンティティ(ムラ)を拡げて人生を豊かに彩ってくれていると捉えることができそうです。そこで、「拡張自己」と「自己拡張」の関係について芸術の受容における心理過程を例に挙げてアウトラインを整理してみたいと思います。この点、拡張自己とは自己のアイデンティティを外界へアウトリーチする心理過程(即ち、「遊ぶ」=「足」+「ぶ(歩)」→自己を外界へ解放して自己を外界と同化する営み)であるのに対して、自己拡張とは外界を自己のアイデンティティにアレンジする心理過程(即ち、「学ぶ」=「真似」+「ぶ(舞)」→外界から学習したことを身に付けて自己を充実させることで自己を外界と異化する営み)と言え、これらの心理過程は芸術の受容においても密接に関係しています。芸術を受容する者はその芸術体験によって自己のアイデンティティが揺さ振られ(遊びによる拡張自己)、これを消化し、受肉する過程で自己のアイデンティティを拡大させて世界観を更新する(学びによる自己拡張)という一連の文化的・社会的な営みであると考えられます。即ち、芸術の受容により拡張自己を促す行為は前者の心理過程、これを咀嚼して鑑賞を深めること(感想を書いてみることもその方法の1つ)により自己拡張を促す行為は後者の心理過程と言えそうです。さらには脳科学の観点から補足して言えば、脳の内側前頭前皮質(mPFC)系が自己と他者の境界を曖昧にして自己のアイデンティティを幅広い対象に拡張する作用(同化による摂取)であるのに対して、脳のミラーニューロン系がそれらの体験を消化しながら自己のアイデンティティを確充させて自己と他者の境界を確立する作用(学習による消化)であると言うこともできます。このように芸術体験などを契機として自己を外界と同化するプロセスと自己を外界と異化するプロセスを繰り返しながら自己のアイデンティティの拡張(自己と外界の境界であるアイデンティティの可塑性)を試み、人生を豊かに彩って心の充足(アイデンティティの拡張は生存可能性を高める可能性があるものとして脳がドーパミンを分泌)を図っています。この点、前回のブログ記事で簡単に感想を書いた藝〇座の新作「オズの魔法使い」では、各キャラクター達が魔法の力(飲酒と同じく魔法により現れる別の人格に自己のアイデンティティを外在化させる拡張自己)を借りて自分の欠点を補うことで自己拡張を図ろうと企むうちに、(魔法ではなく)様々な実体験を通して各キャラクター達が自分の欠点を克服して成長して行く(自己拡張)という物語ですが、観客も舞台に没入して各キャラクター達と同化すること(拡張自己)で、自己肯定感や向上心などの豊かな情操を培うこと(自己拡張)が可能になります。また、今回のブログ記事で簡単に感想を書くオペラ「ミスター・シンデレラ」も同様で、主人公の男が女の人生を歩むうちに(性の転換により現れる別の人格に自己のアイデンティティを外在化する拡張自己)、自分にとって本当に大切なものを見極めて人生観を改める(自己拡張)という物語ですが、これも同じく観客も舞台に没入して主人公と同化すること(拡張自己)で、人生の意義の再定義を試みる契機を得ること(自己拡張)が可能になります。この点、芸術体験に求めるものは人それぞれ異なり得ますが、個人的には「拡張自己」と「自己拡張」のバランスが重要であると感じています。例えば、音楽を例にとれば、古典音楽は神の栄光や人間の理想などの人間中心主義的な世界観を表現する目的とそれらを支える絶対主義的な価値観(神、王、帝国)を体現する方法(作曲技法)が比較的にバランス良く調和していたように思われますが、二度の世界大戦や地球環境破壊の深刻化などを契機として人間中心主義的な世界観に対する反省から、20世紀にはそれを支えてきた絶対主義的な価値観を体現する方法(作曲技法)を懐疑して表現方法そのものの開発が重視される傾向が強まり、その結果として様々な表現方法は開発されましたが、肝心の表現目的が曖昧になる傾向が顕著になり「自己拡張」が十分に果たせない痩せた芸術体験が目立つようになったと思われます(所謂、クラシック音楽不毛の時代)。その一方で、このような極端な状況に対する危機意識から、21世紀初頭にはその揺り戻しとして20世紀までに開発された様々な表現方法の果実を活しながら表現目的(コンセプトなど)が重視される傾向が強まりましたが、相対主義的な価値観(個性)から「何でもあり」というカオスな状況が生まれて無手勝流の独りよがりな表現が散見されるようになり「拡張自己」が十分に果たされないもう1つの痩せた芸術体験(但し、世界的に評価が高い著名な芸術家やポテンシャルが高い若手芸術家などの筆致の優れた傑作群を除く)が少なくない印象も受けています。それがコンテンポラリー作品全体に対する芳しくないイメージとして根強く残されているように思われ、コンテンポラリー作品の演奏会がまるで同窓会と評したくなる異様な集いに陥り、仲間内で自画自賛しているという誠に滑稽な状況が生まれています。
 
▼芸術受容の三層モデル(拡張自己(同化)⇄(異化)自己拡張)
観客が芸術作品を受容するにあたっては、その初期段階では①ストーリー(貴方の物語:オフ・ステージの視点)を追い求めますが(観察)、やがて観客が芸術作品に没入して自己のアイデンティティを芸術作品にプロジェクションするようになると②ナラティブ(私達の物語:オン・ステージの視点→拡張自己)へと昇華し(投射)、最後には観客が芸術作品の影響から自己のアイデンティティを再構築して③インカネーション(私のアイデンティティ→自己拡張)へと至る(受肉)という芸術受容の三層モデルをステップアップし、拡張自己(同化)と自己拡張(異化)を往還しながら自己のアイデンティティの拡充が図られています。
概念 方向性 アイ
デン
自他
境界
行動 芸術
表現 受容
拡張
自己
内→外 拡大 曖昧 遊ぶ
同化
方法
重視
摂取
自己
拡張
内←外 充実 明確 学ぶ
異化
目的
重視
消化
 
▼オペラ「ミスター・シンデレラ」
【演題】東大和市民会館ハミングホール開館25周年記念公演
【演目】オペラ「ミスター・シンデレラ」(全二幕・日本語)
【原作・台本】高木達
【作曲・監修】伊藤康英
【演出・美術・衣装】原純
【出演】<伊集院正男>猪村浩之(Ten)
    <伊集院薫>見角悠代(Sop)
    <伊集院忠義>大石洋史(Bar)
    <伊集院ハナ>牧野真由美(Mez)
    <赤毛の女>古澤真由美(Mez)
    <垣内教授>飯田裕之(Bar)
    <卓也>岡坂弘毅
    <美穂子>小澤花音
    <女>渡邉麻衣、池田実来、安藤千尋
    <男>本郷文敏、鈴木克隆、普久原武学
    <マミ・ルミ・ユミ>小濱望、鈴木椎那、江田真姫子
    <マルちゃんのママ>丸山奈津美
    <テレビのアナウンサー>不詳
    <マルちゃんのパパ>不詳
    <酔っ払い>不詳
【演奏】<Cond>高橋雄太
    <Orch>ハミングアンサンブル
     (Fl)泉真由
     (Ob)吉村和宏
     (Cl)三木薫
     (Sax)本堂誠
     (Hr)堀風翔、吉澤夏未
     (Vc)朝吹元
     (Cb)佐々木大輔
     (Parc)村本寛太郎、麻生弥絵
     (Key)鳥羽山沙紀
    <Chor>ハミングホール25周年記念合唱団
     (Sop)土橋由美、木村由美子、川口紀子、増田厚子
     (Alt)竹之内梅雨子、小石優子、窪田美菜、吉村智子
     (Ten)高橋巌、増田幹
     (Bass)石川哲哉、田中顕一、柴田厚久
【舞台監督】小林仁
【舞台・大道具】加藤事務所
【照明】堀内武久
【音響】綜合舞台オペレーションズ
【演出アシスタント】普久原武学
【ヘアメイク】きとうせいこ
【衣装スタッフ】小武家香織
【プロダクション機材】荒井音楽企画
【合唱指導】本郷文敏
【稽古ピアノ】田島菜子、鳥羽山沙紀
【収録】mermasa Records
【広報協力】鈴木椎那
【企画・制作】東大和市民会館ハミングホール      
【日時】2025年9月14日(土)15:00~
【会場】東大和市民会館ハミングホール大ホール
【一言感想】
ヴラヴィー!!!!今日は(千葉県民の感覚で言うと)東京の最果てに感じる東大和市まで特急を乗り継いでオペラ「ミスター・シンデレラ」を鑑賞してきましたが、前評判のとおり現代オペラの傑作と言って差し支えない作品で、遥々と遠征した甲斐があったと思わせてくれる充足感の高い公演を楽しめました。このオペラは2001年に初演されたそうですが、当時は「ハラスメント」や「ジェンダー」という言葉こそあったとは言え、未だSDG‘sという言葉すら存在していない昭和の残照が色濃い時代状況にあり、このオペラに仄かに薫る当時の時代感覚が懐かしく、また、この四半世紀で大きく時代の価値観が変化していることも感じられて感慨深いものがありました。現在では死後になっている「企業戦士」という言葉に象徴される男の幸福観(男の幸せ=仕事、出世)、また、同じく現在では死語になっている「寿退社」という言葉に象徴される女の幸福観(女の幸せ=結婚、家庭)、その裏腹として同じく現代では死語になっている「金妻」という言葉に象徴される結婚生活に幻滅した女のリベンジである不倫ブーム(幸せな結婚でしか自己実現を図れなかった女の悲しい情念)が根強く息衝いていた時代の価値観を映すプロットになっており、現代のように男女の生き方が多様化して出世や結婚以外にも自己実現を図るための選択肢が多い時代状況を前提とするとやや違和を覚える温度感もありましたが、それでもジェンダーの問題を含めて現代的な価値観の伏線になっている問題をユーモアやアイロニーを交えて正面から取り扱った内容になっており、現代人の感覚からも十分に共感できる作品でした。また、オペラ、ミュージカル、ジャズ、タンゴ、民謡などのエッセンスをジャンルレスに採り入れた着想豊かな音楽も聴き応えがあるもので、歌手陣の好パフォーマンスと相俟って「歌劇」としても十分に楽しめる充実した内容でした。荒唐無稽なプロットながら陳腐な印象を受けるところはなく、寧ろ、プロットの巧みさから生まれるセンスの良いユーモアや多彩で魅力的な音楽などによって物語を彩りながら大団円へとテンポ良く展開して行く後味の良い舞台に魅せられました。以下では、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
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最初にプロットを俯瞰しておきますと、第一幕では、鹿児島県(伊集院氏の発祥地)の某大学でミジンコの研究に勤しむ伊集院正男が同僚の垣内教授が開発した女王蜂の性ホルモンの試薬を栄養ドリンクと勘違いして誤飲したことで、干潮には女に変身し、満潮には男に戻る体になってしまいます(シンデレラ+狼男)。第二幕では、倦怠期を迎えて夫の伊集院正男に愛想を尽かしている妻の伊集院薫が職場の上司である垣内教授に惹かれますが、そのことに気付いた伊集院正男は女に変身することを奇貨として垣内教授を誘惑し、伊集院薫の不倫を阻止しようと企てます。しかし、垣内教授を誘惑する女が実は伊集院正男であることがバレてしまい、垣内教授は永久に男に戻れる試薬と(女のままでいて欲しいという下心から)永久に女のままでいられる試薬を開発して伊集院正男に手渡します。最終的に伊集院正男は垣内教授との不倫を思い留まった伊集院薫を惚れ直して永久に男に戻れる試薬を飲んで幸せを掴むという荒唐無稽なプロットです。冒頭ではヴィジュアル・アートとして月の映像が映し出され、スピーカーから潮騒の音が流れましたが、月は女(月経)や変身(月相)のメタファー、潮は輪廻転生(干満)のメタファーであり、このオペラでは月と潮がキー・アイコンとして何度も登場します。
 
<第一幕>
〇第一場(11月1日7時:伊集院正男のマンション)
ヴィジュアル・アートとして昭和風情が薫る団地の映像が映し出され、伊集院薫(男女雇用機会均等法の制定により社会進出したキャリアウーマンで新しい時代の価値観を象徴)がチェンバロ(エレクトロイクス)の伴奏に乗せてジャズ風のアリアを歌い、伊集院正男と熱愛の末に「僕のミジンコになってくれ」とプロポーズされたロマンチックな馴れ初めとそれとは裏腹に倦怠期を迎えた結婚生活の現実とのギャップを嘆くスレ違いの結婚生活が印象的に描かれていました。近所に住むペットのマルチーズを溺愛するマルちゃんのママ(昭和の専業主婦で古い時代の価値観の象徴)が登場しますが、女の幸せを男に依存していた時代の女が男に求めていた結婚条件である「三高」(高身長、高収入、高学歴)に対し、男女雇用機会均等法の制定により女が社会進出して自立的な生き方を始めた時代の女が男に求めるようになった新しい結婚条件として①かっこいい、②お金もち、③おもしろい(男の出世よりも男の性格へ)に変化したことを歌い、近所に住む伊集院薫が全ての条件に当て嵌まらない夫の伊集院正男に愛想を尽かしている様子(他人の不幸は蜜の味)に心を躍らせる印象的なシーンになっていました。伊集院正男は女王蜂の性ホルモンを栄養ドリンクと間違えて誤飲しますが、エレクトロニクス、フルート、パーカッションが伊集院正男の体に異変が生じている様子を巧みに表現する面白い場面でした。その後、伊集院正男の両親が訪ねて来て嫁の伊集院薫に子供はまだかと迫りますが、男女雇用機会均等法の制定により女が社会進出したことで女の幸せ=結婚、家庭(子供)という古い時代の価値観から女の幸せ=出世、仕事(キャリアウーマン)という新しい時代の価値観へと移り変ろうとしていた世相を象徴するシーンになっており、嫁と姑の間で静かに繰り広げられる確執を歌う二重唱などアイロニー芬々たる面白い音楽を楽しめました。なお、第一場は、やや舞台展開が忙しなくノイジーな印象を受けましたが、物語設定や人物設定を一気に済ませておく必要からやむを得ないものと言え、第二場以降からがこのオペラの本領を発揮する聴き所の目白押しとなりました。
 
〇第二場(同日10時30分:大学の研究室)
ヴィジュアル・アートとしてミジンコの映像が映し出され、タンゴ風の伴奏に乗せて卓也と美穂子(学生2人)の二重唱による愛のダンスと伊集院正男のアリアによるミジンコとの愛のダンスが対照されるユーモラスな場面でしたが、干潮を迎えて、突然、伊集院正男の胸が膨らみ始めて女に変身します。そこへコンパに向かう6人の研究生が登場し、リズミカルな伴奏に乗せてミュージカル風のコーラスを歌いましたが、民謡の鹿児島おはら節をパロった鹿児島ミジンコ節なども織り交ぜられた音楽性豊かでユーモラスなピースが聴き所になっており、第一場の忙しない舞台展開とは異なって、第二場以降はじっくりと音楽的に聴かせるパートが続いて「歌劇」としての魅力を存分に堪能できました。個人的には、日本語オペラは日本語がモーラ構造(即ち、フランス語やイタリア語のような1つの音節を1つの音の塊として認識する音節構造(例、OR-CHES-TRA:3音節=3つの音の塊→全ての音節を平等に発音する言語観はマジョリティとマイノリティの区別を認めない文化観に通底)、又は英語やドイツ語のような1つの強勢から次の強勢までを1つの音の塊として認識する強勢構造(例、OR-ches-TRA:2強勢=1つの音の塊→強勢に重きを置く言語観はマジョリティとマイノリティの区別を認める文化観に通底)とは異なり、子音+母音の組合せを1つの音の塊として認識するモーラ構造(例、オー:5モーラ=5つの音の塊→全ての仮名を同質に扱う言語観はマジョリティとマイノリティの区別を曖昧にする文化観に通底)であることから、1つの言葉に対して沢山の音を割り当てる必要があるために、1つの音に複数のモーラを詰め込んで言葉と音楽の関係性が希薄になりクドクドとした説明口調に感じられたり(野暮)、又は1つのモーラに1つの音を割り当てようとして複数の音を並べ立てることでリズム主体の一本調子の音楽に感じられてしまい(野暮)、歌劇の重要な魅力の1つであるメロディーで聴かせる美しいアリアが成立し難いという憾みがあると思われます。この点、ポップスの日本語歌詞に違和感を覚えないのは、日本語オペラのようにプロットを重視して物語を理解させるのではなく(物語を重視した伝える言葉)、感情の断片を心に響くキャッチ―な言葉として散りばめることで文脈を理解させるのではなくイメージに共感させること(感情を重視した感じる言葉)に違いがあると思われ、これは和歌や謡曲(とりわけ世阿弥の詞章)に極まる日本語の香気にも通底するものがあるのではないかと思います。そのうえで、このオペラではリズミカルに物語を進行するパートとメロディアスに感情を歌うパートをバランス良く交互に織り込みながら後者をたっぷりと聴かせることで音楽的に充実した「歌劇」としての魅力を湛える作品になっており、これに加えて状況設定の巧みさから生まれるユーモアが「物語」としての魅力も惹き立てることでトータルバランスに優れた非常に完成度の高い作品に感じられ、伊藤康英さんの他の作品も鑑賞してみたくなります。
 
〇第三場(同日10時50分:伊集院正男のマンション)
伊集院薫はいつまでも美しくありたい、いつも誰かに見られていたいと願う女心を歌いましたが、オーボエの叙情的な調べに誘われて女心の機微を繊細に紡ぐソプラノの清澄な歌声によるコロラトゥーラが白眉で、このオペラの最大の聴き所になっていました。ヴラヴィー!そこへ女に変身した伊集院正男がネグリジェ姿で現われますが、満潮を迎えて、突然、ネグリジェ姿のまま男に戻ってしまいます。この場面ではオーボエ、フルート、チェロが多彩な音色でモチーフを受け継ぐことで伊集院正男が変身する様子が音楽的に表現される印象的な場面でした。そこへ伊集院正男の両親がタイミング悪く訪ねてきてネグリジェ姿の息子に遭遇して驚嘆し、伊集院正男、伊集院薫、伊集院正男の両親がぞれぞれの複雑な心情を四重唱で歌い合うユーモラスなドタバタ音楽劇にすっかり魅了されました。最後にヴィジュアル・アートとして赤い月の映像が映し出され、スピーカーから潮騒の音が流されるなかを女に変身した伊集院正男(メゾ・ソプラノの古澤真由美さん)が登場し、チェレスタ(エレクトロニクス)、チェロ、フルート、シンセサイザーなどによるミステリアスな伴奏に乗せて潮が変われば私も変わると妖艶なアリアに歌いましたが、そこへ男の伊集院正男(テノールの猪村浩之さん)が登場して二重唱に発展し、異性を生きる2人の伊集院正男の歌が1つに調和することで2つの性が1つの人格を形成しているジェンダーの苦悩を体現する音楽が出色でした。ヴラヴィー!
 
<第二幕>
〇第四場(11月2日18時:垣内教授の学部長就任祝賀会場)
民謡の鹿児島おはら節をモチーフにした牧歌的な間奏曲が演奏された後、ギャル風の出で立ち(クラブに入場できる年齢のオネエギャルとクラブに入場できない年齢のコギャルが隆盛を極めた時代状況)の3人の農学部生による三重唱が歌われました。垣内教授の学部長就任祝賀会では垣内教授のアリアにゴージャスな合唱が加わってバブルの残照よろしく華々しい雰囲気の祝賀感を醸し出していましたが、そこへ女に変身した伊集院正男が登場してタンゴ調の妖艶なアリアを歌い出すと祝賀会に参加している男性陣の羨望の的になりましたが、女としては器量好し、男としては不器量な伊集院正男の対照的なキャラクターを印象付ける場面になっていました。女に変身した伊集院正男は垣内教授に色目を使う伊集院薫を妨害するために、伊集院教授を誘惑してホテルで待っていると書いたメモを垣内教授に手渡す一方で、伊集院薫にも垣内教授がホテルで待っているという偽のメモを手渡してお膳立てが整います。最後は鹿児島の美しい情景を歌う合唱が聴き所として用意され、物語的な魅力だけではなく音楽的な魅力に事欠かない舞台に魅了されました。
 
〇第五場(同日23時:海辺のホテル)
ヴィジュアル・アートとしてホテルと月の映像が映し出され、女に変身した伊集院正男がジャズ風の伴奏に乗せて満潮を迎えると男に戻る偽りの午前0時とデモーニッシュなアリアを歌いますが、不器量な男とは対照的に狡知に富む器量好しの女というキャラクターが印象付けられ、そのギャップが際立つ面白いピースになっていました。そこへ伊集院正男の両親がタイミング悪く現われ、フルートによる尺八のような伴奏に乗せて父の伊集院忠義がご自慢の示現流(明治維新で勤皇の剣と恐れられた薩摩藩の剣術で、警視庁の剣術としても採用されています)で女に変身した伊集院正男に決闘を挑んで敗れるというユーモラスなシーンが挟まれました。やや無茶振り気味のシーンでしたが、九州男児の武骨なキャラクターをデフォルメして心地良い大人の笑いを生むエンターテイメント性の高さに魅せられました。そこへ垣内教授が現われたので伊集院正男の両親は姿を隠し、女に変身した伊集院正男が垣内教授を誘惑するアリアを歌うと、ピッコロの飛翔する伴奏に乗せて垣内教授が高揚する気持ちを歌い、やがて二人の愛を紡ぐ美しい二重唱へと発展する聴き所になっていました。そこへ伊集院薫が現われたので女に変身した伊集院正男は姿を隠し、伊集院薫は夫の伊集院正男を裏切ることはできないと垣内教授の誘いを断ったところで、偽りの午前0時へと時を刻む伴奏と共に女に変身していた伊集院正男が男の姿に戻り伊集院薫と垣内教授の前に現われました。これにより全てを悟った伊集院薫、垣内教授、伊集院正男の両親、男に戻った伊集院正男は大混乱のうちにぞれぞれの心情を五重唱で歌い合うドタバタ音楽劇へと発展するユーモラスにして圧巻な舞台に魅せられました。ヴィジュアル・アートとして赤い半月の映像が映し出され、スピーカーから潮騒の音が流れましたが、ピッコロとクラリネットの広い音域を飛翔する緊迫した伴奏に乗せて男に戻った伊集院正男と女に変身した伊集院正男が対峙すると、コントラバスがメランコリックな伴奏を奏で出して運命の選択が近付いていることを予感させる終場になりました。
 
〇第六場(11月3日6時38分:伊集院正男のマンション)
垣内教授は永久に男に戻れる試薬と永久に女のままで居られる試薬を開発して伊集院正男に手渡しますが、ドラマチックな伴奏に乗せて伊集院薫は伊集院正男に男に戻って欲しいという想い、垣内教授は伊集院正男に女のままで居て欲しいという想い、伊集院正男は不器用な男として生きる人生と狡知に富み器量好しの女として生きる人生のどちらかを選択すべきか決めかねているという想いをそれぞれ交錯させながら歌い合う三重唱が聴き所になっていました。伊集院正男は意を決して、その名前(正男)が体現するように男に戻る試薬を服用します。ここでモーツアルト風の音楽が奏でられましたが、この荒唐無稽なドタバタ劇を極上の音楽で紡ぎ上げる作風はモーツアルトのオペラを彷彿とさせるものがあり、もし現代にモーツアルトが生きていたら、こんなオペラを書き上げたに違いないと思われる印象的なピースになっていました。最後は伊集院正男と伊集院薫が手をつないで現われ、大切な人が傍にいることの幸せを二重唱で歌い、これに清澄な合唱がミュージカル風の人生賛歌を歌い添う大団円になりました。現代は多様性の時代であり現代的な価値観を前提とすればもう少し異なるプロットの可能性も考えられると思いますが、荒唐無稽なプロットで観客の予想を心地良く超克しながら極上の歌劇として成立させてしまう力量の舌を巻く傑作を堪能できました。ヴラヴィー!このオペラの再演と共に、次回作にも大いに期待したいです。
 
 
▼酒にまつわる大人の嗜み「小唄で巡る日本酒の四季」
【演題】酒にまつわる大人の嗜み講座「小唄で巡る日本酒の四季」
【演目】詳細不詳
【演奏】邦楽ユニット「明暮れ小唄」
     小唄幸三希(小唄派幸寿会師範/公益社団法人日本小唄連盟理事)
     千紫己恵佳(千紫派師範)
【日本酒解説】今田周三(日本の酒情報館館長)
【日時】2025年9月20日(土)16:00~
【会場】日本酒造組合中央会 3階会議室
【一言感想】
今日は過去のブログ記事で簡単に感想を書いたことがある邦楽ユニット「明暮れ小唄」が「酒にまつわる大人の嗜み講座 小唄で巡る日本酒の四季」という興味深いテーマを掲げて演奏会を開催されるというので聴きに行くことにしました。邦楽ユニット「明暮れ小唄」の演奏会は、小唄を聴かせるだけではなく、様々な趣向を尽くして小唄が持つ世界観を現代に甦らせて、さながら小唄が生まれた時代にタイムトリップしたかのような瑞々しい情感に浸らせてくれる点に魅力があると思います。小唄は庶民の芸能として発展した江戸時代のポップスとも言え、酔や興を醒ませてしまう力み切った仰々しさのようなものはなく、さながら鼻歌でも口遊むように現代のポップスに通じるウィスパー的な要素やクルーナー的な要素が耳に心地良く響き、最近のタイパを重視する若者の感性にも親和的ではないかと思います。2025年10月19日(日)に明暮れ小唄「北斎小唄 そぞろ歩き すみだの節気」というこれまた興味深いテーマの演奏会があるようなので、お時間が許す方(とりわけ世界観を広げたい柔軟な感性を持った若者!)には自信をもってオススメしておきます。さて、小唄で巡る日本酒の四季と題し、灘の名酒「黒松剣菱」(この他にも備蓄米ならぬ備蓄酒とも形容し得る昨年の新米で造られた「ひやおろし」として全国の水処、米処、酒処の名酒、「如空」(青森)、「門外不出」(栃木)、「月不見の池」(新潟)、「苗加屋」(富山)、「龍勢」(広島)、「繁枡」(福岡)がお替り自由でした!😚プシュー)と木綿豆腐、大根、クラッカーに江戸甘味噌を添えた肴を振る舞われながら楽しむという酒向のレクチャー・コンサートに観客はすっかりと酔い痴れていました。今日は20曲という非常に多くの小唄が披露されましたので各曲毎の感想ではなく全体的な流れとそれに対する大まかな感想を簡単に残しておきたいと思います。最近、世間では新米の価格が話題になっていますが、新米を使った酒造りが開始される時期にあたる10月1日は日本酒の日とされています。この点、十二支の10番目が「酉」であり、もともと「酉」という漢字は酒壺を表す象形文字として果実が熟成する意味を持っていたことにも関係しているようです。因みに、過去のブログ記事でも触れたとおり日本の十二支は「酉」を動物の鳥にこじつけたもので、特に深い意味はありません。
 
https://kokushu-museum.com/wp-content/uploads/2021/09/ukiyoe-4-1024x740.jpg
江戸時代の居酒屋
時代劇のような卓はなく小上がりに腰かけて粋に一杯
 
冒頭では酒と小唄の相性の良さを唄った小唄「酒の座敷」が披露され、小粋な小唄を肴に酒が進む調子の良い曲でスタートしました。春は苗床を作って田植えをする季節ですが、全国の杜氏組合を中心とする酒造り文化が日本酒の豊かな地域性を育むことになったことが解説され、小唄「色気ないとて」(田植え)、小唄「神田祭」(豊作祈願)、小唄「晴れた庭木」(梅雨)という春の風物詩が唄われました。なお、三味線は、本調子(一絃と三絃が1オクターブの音程関係になる調子で、今日は調子が良い又は今日は本調子だという慣用表現の語源)、二上り(本調子から二絃のみを全音又は半音あげる調子)、三下り(本調子から三弦のみを全音さげる調子)を基調として、これらを様々に組合せることで多彩な音を奏でますが、今日は様々な調子の小唄を20曲ほど並べて艶っぽい曲からチャキチャキした曲までニュアンス豊かな演奏を楽しめました。夏は稲の生育を見守る季節ですが、昨年の新米で醸造された「ひやおろし」を熟成させる時期でもあり、米造りや酒造りが一段落する時期であることから庶民の娯楽として江戸三大祭り(神田明神の神田祭、日枝神社の山王祭、富岡八幡宮の深川祭り)が開催されることが解説され、小唄「蛍がいうた」、小唄「ちょうさようさ」、小唄「西の方より」、小唄「風神雷神」という夏の風物詩が唄われました。小粋な曲からユーモラスな曲まで多彩な小唄を楽しめました。クラシック音楽の指示動機(ライト・モチーフ)と同様に、三味線にも雷、風、鐘、川などを表象する象徴音型(音のアイコン)があることを実演を交えながら簡単に解説して頂きましたが、三味線音楽の鑑賞を深めるうえで大変に興味深い話しを伺うことができ、是非、このような趣向のレクチャー・コンサートを企画して頂けると有難いです。秋は新米を収穫する季節であり、寒冷地の早生からは軽快な風味の硬質な日本酒(五百万石、美山錦など)が醸造され、温暖地の遅生からは芳醇な風味の軟質な日本酒(山田錦、雄町など)が醸造されますが、酒造りは目に見えない微生物を相手にするものなので、大神神社(奈良)、松尾大社(京都)や梅宮大社(京都)などに醸造祈願して旨い酒ができるように神頼みする習わしになっていることが解説されました。小唄「見渡せば」、小唄「月が照る照る」、小唄「河太郎」という秋の風物詩が唄われましたが、人間の声に近いニュアンスに富んだ三味線による饒舌な演奏を楽しめました。最近の世界的な日本酒ブームを受けて海外でも日本酒造りを行うところが現れ始めているそうですが、現在のところ海外の精米技術はあまり高くなく品質の良い日本酒造りは行えていないのが現状だそうです。冬から早春(雪解け水の季節)は秋に収穫された新米を使って日本酒造りが行われる季節ですが、江戸時代の居酒屋は立飲みの酒屋が元祖で酒屋の小上がりに腰かけて長く居座る客も多かったことから居酒屋と命名されたそうです。また、虫除けの効果がある草を使って編んだ縄を店の軒先に吊り下げたことがのれんの元祖であることが解説され、小唄「初雪」、小唄「縄のれん」、小唄「年の市」、小唄「松立てて」、小唄「繭玉や」、小唄「春風そよそよ」、小唄「夜桜や」、小唄「桜見よとて」、小唄「並木駒形~花の吉原」という冬から早春にかけての風物詩が唄われました。雪見酒、御屠蘇、花見酒など酒の嗜み方は様々ですが、わけても吉原の遊里を艶やかに染める色香酒ほど男振りが試される酒はなく、効率ばかりが重視されて無駄の蓄積がない現代人は小粋に芸者遊びができるほど男振りは磨かれておらず、江戸時代と比べて人間(和魂)が痩けてしまっていると言えるかもしれません。
 
 
▼アンサンブル・ノマド第85回定期演奏会
【演題】アンサンブル・ノマド第85回定期演奏会
【演目】①藤倉大 グリーンティー・コンチェルト
                 ~トラヴェルソ協奏曲(2021)
    ②三瀬和朗 夜想曲~クラリネットとギターのための(1990)
    ③久保田草太 イントネーション(2023/世界初演)
    ④久保哲朗 バベル(2017)
    ⑤エベルト・バスケス 空に鳴る(世界初演)
【演奏】アンサンブル・ノマド
     <Cond>佐藤紀雄(①、③、④、⑤)
     <Fl>木ノ脇道元(①、③、④、⑤)
     <Cl>菊地秀夫(②、③、④、⑤)
     <Vn>野口千代光(①、③、④、⑤)
     <Vn>花田和加子(①、③、⑤)
     <Va>甲斐史子(①、③、⑤)
     <Cb>佐藤洋嗣(①、③、④、⑤)
     <Cemb>稲垣聡(①)
     <Pf>稲垣聡(③)
     <Pf>秋山友貴(④)
     <Perc>宮本典子(③、④、⑤)
     <Gt>パブロ・ガリベイ(ソロ)(②、⑤)
     <尺八>黒田鈴尊(ソロ)(⑤)
     <Hr>岸上穣(客演)(⑤)
     <Vc>松本卓以(客演)(①、③、⑤)
     <Perc>相川瞳(客演)(⑤)
【日時】2025年8月26日(金)19:00~
【会場】東京オペラシティ リサイタルホール
【一言感想】
今日はアンサンブル・ノマドの興味深い演奏会が開催されるので、(社会人が平日の演奏会を聴きに行くことは至難ですが)万難を排して聴きに行くことにしました。パンフレットには「これまでアンサンブル・ノマドは未知の作品を演奏する事は殆どなく、必ず完成された作品のスコアを見るか録音を聴くなどして直接当たり、演奏する意欲を掻き立てられるものを選んできた。」と記載されていますが、これまでも何度か記載してきたとおり、一生涯に聴くことができる音楽の数には限りがありますので、演奏家の審美眼で世界中の新しい作品の中から傑作を選りすぐり、その魅力を観客に伝えてくれる存在は大変に有難く、その点で定評があるアンサンブル・ノマドによって選りすぐられた傑作を楽しむことができました。なお、12月28日に開催されるアンサンブル・ノマドの第86回定期演奏会ではデッカ・レーベルからリリースされた「退廃音楽シーズ」(ナチス・ドイツが「退廃音楽」の烙印を押したことで、皮肉にも、その芸術的な価値を歴史に刻印することになった、謂わばナチス・ドイツが授与した20世紀最大の音楽賞)で話題になったヴィクトル・ウルマンのオペラ「アトランティスの皇帝」(1943年)や弦楽四重奏曲第3番(1943年)が採り上げられるというので聴きに行く予定にしています。
 
①グリーンティ・コンチェルト~トラベルソ協奏曲
パンフレットには「僕の祖父母は、鹿児島県で農家を営んでいて、その中心は緑茶となる茶葉の栽培でした。(中略)この作品には、僕の個人的な関心とルーツが詰まっています。」としたうえで、「人と人との触れ合いが絶たれてしまった2020年から早1年余。世界中の人が今、懐かしく思い出すことは、人の心が触れ合うとき。お茶をする、カフェの文化、とはまさに人と人が触れ合うコミュニティ。音楽作りがそうであるように。そう、緑茶やコーヒーの文化が、人間社会と芸術を作り出してきたのです。」と記載されています。ご案内のとおり鹿児島県はお茶の生産量で静岡県とトップを競うお茶処ですが、先般、鹿児島県伊佐市出身で「鹿児島お茶大使」に任命されている俳優・榎木孝明さんが経営しているアートスペース「クオーレ」(代々木上原駅前)でかごしま茶の試供品を頂戴し、非常に香り高くまろやかな緑茶を楽しんだことを思い出しながら拝聴しました。個人的には、この作品は前者(緑茶)よりもパンデミック(後者)に比重が置かれた音楽に聴こえましたが、さながらフルートを笛(線描の旋律)、チェンバロを筝(点描の旋律又は分散和音)、弦を笙(和音)に比定して世界最古のオーケストラである雅楽アンサンブルのように感じられ、弦(笙)が響きの舞台を作り、そのうえでフルート(笛)やチェンバロ(筝)が歌い合うイメージの音楽に感じられました。この作品が作曲された年に開催された東京パラリンピック2020の閉会式は「ハーモニアス・カコフォニー」(調和のとれた不協和音)というコンセプトでしたが、一見、不協和音のように聴こえる不完全な響きが集まって多彩な調和で彩る世界観は、さながら渋味、甘味、苦味や旨味などが舌の上で調和して豊かな風味を生み出す緑茶の世界観を体現しているようで楽しめました。
 
②夜想曲~クラリネットとギターのための
パンフレットには「この作品は、1990年12月新宿モーツァルトサロン・東京室内楽歌劇場コンサート作曲家シリーズ「三瀬和朗+石桁冬樹の世界」で、クラリネット森田敏明・ギター福田進一の量子によって初演された。」としたうえで、「この音楽会のために森田利明氏のクラリネットの音とギターの音を組み合わせて二重奏曲を作曲した。この2つの楽器の組み合わせがもたらす思いがけない響きが生まれる瞬間に期待したい。」と記載されています。夜の静寂から立ち上がり、やがて夜の静寂へと消え入るようなギターが奏でる点描音と夜の静寂からクレッシェンドしながら徐々に音の輪郭がはっきりしてくるようなクラリネットが奏でる線描音が対照され、これらが精妙な間合いで絡み合うアンサンブルが展開されました。最後は、クラリネットがデクレッシェンドしながら夜の静寂へ消え入る余韻深い終曲になり、それぞれの楽器が奏でる深遠な世界観を楽しめました。
 
③イントネーション
ヴラヴィー!この曲が本日の白眉でした。パンフレットには「この作品は、私が大学在学中に政策したコンピュータ音楽の作品「自動ピアノと仮想オーケストラのための協奏曲」を、実際に人が演奏できるように、室内楽の形で作り直したものです。コンピュータ音楽では、人間には不可能なほど速くて複雑な演奏も、正確に再現することができます。しかし、人が演奏するためには、そのままの形では成り立ちません。この作品では、人間の演奏として自然に聴こえるようにしながらも、もともとのコンピュータ音楽にあった「複雑さ」もどこかに残したいと考え、そのふたつの特徴をどう共存させるかをテーマに制作しました。」と記載されています。アンサンブルが人息のような幽けき音を揺蕩わせながら下降音型へと回収されて行くユニークな演奏が何度か繰り返されましたが、やがてピアノが主導するジャズ・テイストのリズミカルな演奏が展開され、激しくリズムを乱舞させるグルーヴ感のある音楽に魅了されました。とても複雑なリズム構造を持ち、これにフルートやクラリネットの螺旋音型やパーカッションの強打が豊かに表情を添える饒舌な演奏が展開され、言葉では上手く切り取ることができませんが、統制のとれたカオスとでも形容できましょうか、本能的な野趣とは異なる理性的な閃きに溢れた大胆にして精妙な音楽に魅了されました。コンピュータ(AIやロボットを含む)は人間から何かを奪うものではなく、人間を労働から解放し、人間の可能性を拡げてくれるパートナーであり、コンピュータ(AIやロボットを含む)からクリエイティブな成果を引き出すためには、これを利用する人間もクリエイティブである必要があるという意味で、これからの時代は芸術分野を含むあらゆる分野でコンピュータ(AIやロボットを含む)をマネージメントする力、即ち、自ら実践することを前提とする技術(方法)よりもコンピュータ(AIやロボットを含む)を活用しながら限界を超克して行くためのアイディア(世界観)が重視され、そこに21世紀型のアウラが成立する時代(近代型のコンクールよりも現在型の芸術賞の方が価値を持つ理由の1つ)ではないかと思いますが、そのような世界観を体現した作品に感じられて大変に楽しめした。久保田さんのような若き才能を見い出して世に知らしめたという意味で、アンサンブル・ノマドの真骨頂と言える演奏会であったように感じます。
 
④バベル
パンフレットにはバベルの塔の構造に触れたうえで「今作品では、数秒の短いセクションを幾重に重ね多層化することで全体が構築される。各セクションは二重線、休符またはフェルマータで仕切られ、その内部は異なったフィギュア、テクスチュア、テンポを持つ。そうしたセクションは一方向に「完結」されるのではなく、あたかも時間軸上で回転、分離しながら構成される。」と記載されています。上記のとおり短いパッセージが重ねられましたが、某有名曲(認知症の兆しで曲名を思い出せませんが)のパロディーやジャムセッションのような即興感のある演奏などを挿みながらカオスな音響群が生む変化に富む表情と休符が生む緊張感(フォルム)が織り成す、さながら万華鏡のような多彩な音響を楽しめました。現代人にとってバベルの塔や須弥山のような世界観(構造的な寓意を含む)には共感し難いので、個人的には、何か現代的な価値観をプロジェクションし得る世界観を提示して貰えるとさらに面白さが増したような気もします。
 
⑤空に鳴る~尺八、ギターとアンサンブルのための
パンフレットには「曲名の「El tanido del aire(空気の鳴音)」は、この曲の2つの独奏楽器、ギターと尺八の音づくりを詩的に暗示したものである。あたかも二つの楽器が密に寄り添いながら霊妙なダンスを踊っているかのように、ギターの爪弾きが尺八の音を動かし、今度はその尺八の音がギターのボディを共鳴させるといったふうに、どちらが主音なのかもはや区別がつかない、二つの音が混然一体と化している。」と記載されています。これまでにメキシコ人作曲家のエベルト・バスケスさんとアンサンブル・ノマドのコンビで尺八、三味線、箏とアンサンブルのためのトリオ・コンチェルト「天狗の森」(2019)などの複数の音盤がリリースされていますが、本日は、このコンビによる尺八、ギターとアンサンブルのための「空に鳴る」の世界初演になりました。冒頭から標題の「空に鳴る」を体現するようにギターとチューブラーベルという珍しい取り合わせのアンサンブルが奏でる音粒が空間に澄み渡り、ギターの爪弾きに誘われるように尺八がユリ(線描)やタギング(点描)など表情を変えながら絡み合う相性の良いデュオが展開され、その後、尺八とビブラフフォンや尺八のユリと弦のアルペッジョ(弦のユリ)など、様々な取り合わせによるアンサンブルが織り成す多彩な演奏を楽しめました。
 
 
▼シアター・オペラ「その星には音がない-時計仕掛けの宇宙-」
今年の抱負として21世紀以降に創作された「新作」のフィーチャーを挙げましたが、昨年頃から「新作オペラ」の公演の増加が顕著になっており、毎月のように新作オペラの公演に接する機会に恵まれている状況を頼もしく感じています。今月の新作オペラ「ミスター・シンデレラ」に続いて、来月は劇作家・平田オリザさんと作曲家・中堀海都さんがタッグを組んだ新作シアター・オペラ「その星には音がない-時計仕掛けの宇宙-」が公演されるというので聴きに行く予定にしています。平田さんと中堀さんは2020年にシアター・オペラ「零」で成功を収めていますが、このオペラはその第2作目に位置付けられる作品です。このオペラは30台のスピーカーを使った立体音響と英語、仏語、日本語を使った多言語オペラを特徴とする作品で、平田さんの現代口語演劇の舞台と中堀さんのヴォカリーズ(言葉の意味に依存しないボーカル表現)によるアリアが交錯しながら宇宙の誕生から音、声、言葉、歌が生まれる過程を表現したもので、7月のオペラ「ナターシャ」を彷彿とさせるコンセプトを持った作品であり大変に楽しみです。なお、現代人の感覚からすると、例えば、G.プッチーニのオペラ「蝶々夫人」は児童買春・児童ポルノなどの問題を甘美な音楽でオブラートに包んで(時代の闇を抉り出すというよりも)感傷的な悲劇に仕立て上げて美化してしまっているような印象を受けるという意味で、結果的に芸術が暴力に加攻してしまっていると受け取られ兼ねない不幸な事例として違和を禁じ得ませんが、現在でも教師による児童の盗撮事件などが後を絶たない時代状況があるなかで、現代的な価値観を体現する新しいオペラや芸術作品が求められていると思いますので、最近の「新作オペラ」ブームは歓迎すべき潮流です。

サントリーホールサマーフェスティバル2025(作曲ワークショップ&トークセッション、室内楽ポートレート、第35回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会)とオペラ「羽衣」(脚本・作曲:近藤譲/第55回サントリー音楽賞受賞記念コンサート)と第8回藝〇座公演(日本舞踊家集団藝〇座)「この世界のムラを拡げる①」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ブログの枕「この世界のムラを拡げる①」
前五回のブログ記事では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」、「行動遺伝学」、「行動経済学」、「ニューロ・ダイバーシティ」についてごく簡単に触れましたが、今回は、この世界の「ムラ」を拡げるという視点から、拡張自己(エクステンデット・セルフ)についてごく簡単に触れてみたいと思います。前回のブログ記事でも触れたとおり、人間は富の獲得と分配を効率化するためのインフラとして「集団」を形成し、その脅威となる他の集団から自らの「集団」を守ることで自らの生存可能性を高めるという生存戦略をとってきましたが、自らの「集団」の内外の判断基準としてアイデンティティという拡張性(流動性)のある識別子を用いたことで、より効率的な富の獲得と分配を可能にする大規模な集団を形成できるようになった一方で、その拡張性(流動性)が自らの「集団」の内外の判別を曖昧にしたこと(相対的な関係性)で争いを生じ易くなる原因にもなりました。このアイデンティティは人間(自己、他者や集団)だけではなく人間以外の幅広い対象をも射程する拡張性(流動性)のあるもので、前回のブログ記事で簡単に感想を書いた新作オペラ「ナターシャ」の素材になっているシャーマニズム、三谷文楽「人形ぎらい」で遣われている文楽人形、今回のブログ記事で採り上げるオペラ「羽衣」に登場する天女の羽衣なども自らのアイデンティティを外在化させる拡張自己(エックステンデット・セルフ)と捉えることができるかもしれません。また、サントリーに因んで言えば、酒を飲んだ人は酩酊状態(ほろ酔い期や酩酊期にアルコールが神経細胞に作用して脳の機能が低下した状態)で表れる別の人格に自らのアイデンティティを外在化させる酔興も拡張自己(エックステンデット・セルフ)の1種と捉えることができるかもしれません。この点、「バッカス(酒神)はネプチューン(海神)よりも多くの人を溺れさせた」という酩言があるとおり、酒に呑まれた人は泥酔状態(泥酔期に記憶を司る海馬が麻痺し、さらに昏睡期に至ると呼吸を司る延髄が麻痺して死に至る危険な状態)で自らのアイデンティティを喪失してしまうので拡張自己(エックステンデット・セルフ)ではなく自己喪失(ロスト・セルフ)と言うべき状態であり、サントリーが程酔い飲兵衛として楽しく酒を飲む極意を公開している血中アルコール濃度を試算できるページなどはバッカス(酒神)に溺れさせられないための酌度🍶として有用です。注いで.🍷になりますが、江戸時代には好事家のことを「好兵衛」(スキベエ)と愛称しており、これから転じて色好みのことを「助兵衛」(スケベエ)、酒好きのことを「飲兵衛」(ノンベエ)、田舎者のことを「権兵衛」(ゴンベエ、田舎者に多い名前で現代でも「名無しの権兵衛」などの用例があり)や「八兵衛」(ハチベエ、TVドラマ「水戸黄門」に登場するうっかり八兵衛(架空の人物)は泥棒の親分である風車の弥七実在の人物がモデル)の本名(小八兵衛)に由来)と愛称していた習慣が現代まで続いており、うどんを文字った「どん兵衛」という商品名まで生まれています。このほかにも、ホラ吹きのことを「虚田万八」(本当のことが万に八つもない軽口を叩く輩のことをウソダマンパチ)、大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺〜」でも採り上げられた遊郭の楼主や常連客のことを「忘八」(八つの徳目を忘れた、犬(八犬伝)にも劣る野蛮な輩のことをボウハチ)と蔑称しており、江戸時代の通称に表れている人間の業は現代人と大差ないように思われますが、江戸時代には現代人のように他人の粗を見付けて容赦ないバッシングに及ぶギスギスとしたところはなく、人間の業を洒落に解して大らかに捉える寛容さがあったのではないかと思います。
 
▼拡張自己と縄張りの関係
前回のブログ記事で人間は富の獲得と分配を効率化するために集団を形成し、その集団を守ることで自らの生存可能性を高める生存戦略をとり、その集団の内外を判断するアイデンティティの拡張性(流動性)の程度によって米仏日でマイノリティの位置付けに違いが生まれていることに簡単に触れました。これを動物行動学の「縄張り」に置き換えて捉え直してみると、縄張りとは動物の身体が物理的に占有している空間に加えて匂いや鳴き声などの直感的な識別子を使って動物の身体が物理的に占有していない空間にも「身体的な領域」を拡張している(後述の身体的拡張)のに対して、人間は人間の身体が物理的に占有している空間に加えてアイデンティティという非直感的な識別子を使って人間の身体が物理的に占有していない空間にも「象徴的な領域」を拡張している(後述の象徴的拡張)という特徴的な違いが挙げられます。この点、動物は身体的な領域の中で他の生物と「生態的な共生関係」(群れ、捕食関係、相利関係など)を築いているのに対し、人間は象徴的な領域の中で他の人間や集団と「制度的な共生関係」(社会関係、経済関係、文化関係など)を築いています。先日、関経連のトップによる「入郷随郷」発言が物議になっていましたが、急速な国際化や情報化の進展などにより多様なアイデンティティが交錯する機会が増加して他の人間や集団との関係性が相対化、複雑化するなかで象徴的な領域の境界も曖昧になり、集団の捉え方やそれに応じたアイデンティティのあり方などが大きく揺らいでいると言えるのではないかと思います。
分類 動物 人間
集団の単位 縄張り 国、自治体、団体、家族など
集団の識別子 匂い、鳴き声など アイデンティティ
集団の内部 群れ、利害、捕食 社会、文化、経済
拡張自己 身体的拡張 身体的拡張+象徴的拡張
 
上述のとおり人間は自らの「集団」の内外の判断基準としてアイデンティティという拡張性(流動性)のある識別子を用いていますが、拡張自己(エックステンデット・セルフ)とは自らのアイデンティティ(自らの内面的要素)が自己以外の幅広い対象(自らの外面的要素)に拡張されることを意味しており、例えば、茶道具を例に取れば、茶会の亭主が茶杓柄杓茶筅茶碗などの茶道具に飼い慣らされ、それを自らの身体の一部(ボディ・スキーマ―の外在化:まるで自分の身体の延長としてその一部を構成しているような感覚)として自在に扱いながら点前を行う様子を「身体的拡張」(接触)に分類するとすれば、客人がその茶道具に数寄を解して(数寄(近世以降の美意識)=風流、風雅(古代の美意識)+侘び、寂び(中世の美意識))、それを自らの意識の一部(ボディ・イメージなどの投射:まるで自分の感性や内面の延長としてその一部を体現しているような意識)として共感する様子を「象徴的拡張」(非接触)と分類できるのではないかと思います。これと同様に、上述の文楽人形は人形遣いにとっての身体的拡張(手足の延長)や客にとっての象徴的拡張(近松門在衛門が虚実皮膜論で説く「うつり」)の対象であり、上述の天女の羽衣は天女にとっての身体的拡張(翼のようなもの)や人間にとっての象徴的拡張(天界とのつながりを持つもの)の対象であると捉えることができるかもしれません。また、上述のシャーマニズムのうちの憑依型シャーマニズムは身体的拡張(自己の身体に神や霊を乗り移らせて合一するプロセス)、脱魂型シャーマニズムは象徴的拡張(自己の意識を飛翔して神や霊とつながり交信するプロセス)と捉えることができるかもしれません。このようにアイデンティティーは決して固定的なものではなく、常に他の人間や集団との関係性、環境の変化などに応じてチューニングされながら揺らいでいるもの(ムラ)であり(世阿弥が説く「離見の見」も見物の視点から自己を見るという認知フレームの外在化であり拡張自己の1種と捉えることができるかもしれません)、芸術の醍醐味の1つは客のアイデンティティに揺さぶりを仕掛けて世界観を拡げることにあり、その意味で拡張自己は世界を魅力的に彩るムラを作り出すものとも言えそうです。
 
▼拡張自己と脳科学の関係
車の運転には拡張自己が密接に関係していますが、例えば、初心者ドライバーは車体への身体的拡張(車体感覚)が十分に修練されておらず、車を自己の身体の一部のように自在に扱えないので隘路の通行に不安を覚える傾向がありますが、熟練ドライバーは車体への身体的拡張(車体感覚)が十分に修練されており、車を自己の身体の一部のように自在に扱えるので隘路の通行にも不安を覚えないという違いが生まれます。前回のブログ記事で文楽人形について触れましたが、文楽人形の三人遣いは足遣い、左遣い、主遣いのそれぞれで各10年以上の修行が必要とされており、足遣いとして約10年以上の修行を経た後、今度は左遣いとして約10年以上の修行を積み、最後に主遣いとして一人前になるまで約10年以上の修行が必要になると言われていますので、通算で約30年以上を修行に明け暮れることになっており、三人遣いが拡張自己を修練して文楽人形に魂を吹き込むことができるようになるための修行は生半可なものではありません。また、次回のブログ記事で触れる予定ですが、育児にも拡張自己が関係しており、例えば、子供は親以外の他者や集団との関係性を築く過程で様々なものを吸収しながら自己のアイデンティティを確立(自己拡張)して親離れして行きますが、親は子供への愛情が強く自己のアイデンティティーを子供に拡張(拡張自己)しているケースでは親の子離れを自己のアイデンティティの喪失(自己喪失)と捉える傾向があることが指摘されていますので、子供の親離れよりも親の子離れに困難を伴うケースがあると言えるかもしれません。このように自己のアイデンティティーを幅広い対象に拡張する作用(自己と他者の境界の除去)は脳の内側前頭前皮質(mPFC)系が関与しており、他者や集団との関係性を築く過程で様々なものを吸収しながら自己のアイデンティティを確立する作用(自己と他者の境界の確立)は脳のミラーニューロン系が関与しています。このように子の親離れ(自己拡張)と親の子離れ(拡張自己)では似て非なる力学が働いており、過去のブログ記事で触れたとおり、親の子離れの困難性は父性原理(支配)よりも拡張自己の程度が強い母性原理(調和)に現われ易いと言えるかもしれません。
機能 主な脳部位 作用
拡張自己 内側前頭前皮質系
(mPFC)
自己と他者の境界が曖昧
(自己同一化、所有感)
自己拡張 ミラーニューロン系 自己と他者の境界が明確
(共感、模倣)
※上記では分かり易さを優先して主要な脳部位のみを挙げていますが、より広範な脳部位が関与しています。(害鳥アゲアシトリ対策)。
 
▼サントリーホール・サマーフェスティバル2025
【演題】作曲ワークショップ&トークセッション
【演目】第1部 ジョルジュ・アペルギス✕細川俊夫トークセッション
    第2部 若手作曲家からの公募作品クリニック(実演付き)
     柴田歩 真贋の境界Ⅱ ソロ・フルートのための
     趙亮瑜 無根の樹 プリペアド・ヴァイオリンとチェロのための
     渡部瑞基 Baum Test Ⅰ 
               ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための
【演奏】<Fl>今井貴子
    <Vn>河村絢音
    <Va>甲斐史子
    <Vc>上村文乃
【日時】2025年8月23日(土)19:00~
【会場】サントリーホール 小ホール
【一言感想】
サントリー・サマーフェスティバル2025では、ミュージック・シアターの第一人者として世界的に高名で、日本でもお馴染みのジョルジュ・アペルギスさんがテーマ作曲家に選ばれており大変に楽しみにしていました。G.アペルギスさんは音楽と演劇の関係を探究されている現代作曲家ですが、その作品は器楽から映像、舞踊を伴うジャンルレスなものに至るまで非常に多彩で、既成の音楽表現の限界を超克し、芸術表現の新しい地平を切り拓く斬新で魅力的な作品が世界的に注目されています。
 
〇第一部 ジョルジュ・アペルギス✕細川俊夫トークセッション
第一部ではG.アペルギスさんと細川俊夫さんのトークセッションが開催され、G,アペルギスさんの簡単な略歴と作品の概要についてインタビュー形式で紹介されました。簡単に内容をサマろうかとも思いましたが、明日開催される室内楽ポートレートに出演されるヴァイオリニストの牧野純也さんがG.アペルギスさんの紹介動画をアップされており、非常に分かり易くまとめられていますので、そちらをご覧下さい。因みに、牧野さんは現代音楽を紹介する沢山の動画をリリースされていて大変に重宝していますが、市中には古典作曲家を紹介するレクチャーや書籍、記事などの「過去を語るコンテンツ」は腐るほどあり、その殆どが数十年前から語り尽くされている焼き直しのようなものばかりで辟易としていますが、現代作曲家(とりわけ存命作曲家)を紹介するレクチャーや書籍、記事などの「現在を語るコンテンツ」は殆ど目にすることがなく非常に歯痒い思いをしています。その意味では、日本の「失われた30年」は経済だけではなく芸術文化にも言えるような気がしており、だからこそ牧野さんの動画やサントリー・サマーフェスティバル、コンポ―ジアムなどは(関東圏では)大変に貴重で有り難いものであると感じています。G.アルペギスさんの作風は、先日、新国立劇場で世界初演されて世界的にも反響が大きかった細川さんのオペラ「ナターシャ」にも相似するものがあるように感じられますが、言葉を母音、子音、息や囁きなどの音素に解体して意味から解放し、音素の響きやリズム、ビジュアルアート、照明などを使いながら「言葉による物語」ではなく「音素の関係性が織り成す物語」を紡ぐような作品が多く、聴衆は言葉の意味を理解する言語的な物語を受容するのではなく、自らの全人格を音素にプロジェクションすることで立ち上がってくる自分だけの音響的な物語を体験するような懐の広い作品に感じられます。今回のサマフェスではG.アルペギスさんの代表作であるレシタシオンを初めとする声楽作品から器楽作品まで幅広く採り上げられる予定なので、非常に楽しみです。世界的に評価が高い現代作曲家の作品に共通して、ある種の限界をブレークスルーしているズバ抜けた魅力があるように思われ、その作品が生み出す新しい芸術体験は古い認知バイアスを打ち破り、新しい世界観を拓いてくれる創造力があるように感じられます。日本では、未だこのような世界的に評価が高い現代作曲家の作品に触れる機会は数少ないので、ご都合のつく方はこの機会にサントリーホールに足を運ばれることをお勧めします。
 
 
〇第二部 若手作曲家からの公募作品クリニック(実演付き)
以下の囲み記事でも触れていますが、メタ・モダンが薫る若手の現代作曲家は次代の新しいムーブメントの重要な鍵を握る存在として注目していますが、本日は時代の革新を仕掛けてきたG.アペルギスさんが若手の現代作曲家から応募があった13作品の中から選んだ以下の3作品の実演を聴いた後に細川さんと共に公開クリニックを行いましたので、各作品のかんっな感想と講評の概要をサマっておきたいと思います。(以下、演奏順)
 
◎柴田歩(2005~) 真贋の境界Ⅱ(2025)
パンフレットには、「この作品はフルートの「音色」を中心に「真贋の境界」を表現したものである。「真」=フルートが出す「本来の」音色。「贋」=フルートが特殊奏法等を用いて他の楽器を「模倣した」音色。(中略)始めは「真」、次に「 贋」、最後は「真」と「贋」のMIX。最終的に境界は曖昧となり、「真贋」の区別すら無意味なものとなる。」と解説されていますが、天才贋作画家を主人公とする映画「THE FORGER」を思い出します。柴田さんは「真贋シリーズ」を手掛けられているそうで、第一作はピアノを使った作品、今回はフルートを使った作品に挑戦されたそうです。J.ケージがプリペアド・ピアノを発明したコンセプトと通底するものがあると思いますが、先ず「真」として通常奏法でフルートを演奏し、次に「贋」として特殊奏法等を駆使してフルートでヴァイオリン(ピッチカート)、尺八、サックス、ギロ、レインスティック、ボンゴ、カスタネットの楽器音を模倣しましたが、どのような楽器音を模倣するのかをパネル表示することで客落ちを回避する工夫が施されていました。G.アペルギスさんが講評されていたように「贋」というユニークな着眼点からフルートの表現可能性を大胆に拡張することに成功している意欲作に感じられました。「真贋」のダイナミズムは「真」が持つ再現可能性の低さを「贋」が巧みに凌駕してしまう点にありますが、フルートの今井貴子さんの好演に支えられて真贋の境界を超克するための様々な工夫が面白く感じられました。
 
◎趙亮瑜(1998~) 無根の樹(2025)
パンフレットには、「この作品は、何を作るにも欠陥があり、材として無用だから伐採されず、それ故に立派な大木になったという「無用の木」という荘子の話に着想を得、「樗」(ちょ)という散木が、虚無の地において成長する情景をイメージして作曲した。」と解説されていますが、樗櫟散木の故事に題材した作品で標題の「無根の樹」とは樗や櫟と同じく柔らかくて建材に不向きと言われる合歓木(ネムの木)の「ネム」を倒置して「無根」と洒落て、「人間は根を持たない木のように、この世に放り出された存在であり、虚無の中でどうにか生きようとしている。」という世界観を意味するものと言えるかもしれません。本日は河村絢音さんのプリペアド・ヴァイオリンと上村文乃さんのプリペアド・チェロで演奏されましたが、弓に釣り糸を巻き付けて弦を擦ることで不規則な音を生み出し又は弦と指板の間に指を挟んで弦の張力を調整することで音高を変化させるなど趙さんが発明した新しいプリペアド奏法が使用されており、その目論見が奏功してプリペアド・ヴァイオリンとプリペアド・チェロが個性的な響きで拮抗しながら不規則に枝が絡み合う様子(無為)が体現されている面白い作品に感じられました。荘子の無為自然の思想を言葉を使わずに(河村さんや上村さんが幽けき声で何かを囁く部分もあったそうですが、後方席にいたので全く聞こえませんでした)、プリペアドされた音のパレットだけで描き出してしまう表現力が見事でした。
 
◎渡部瑞基(2000~) Baum Test Ⅰ(2025)
パンフレットには、「バウムテストとは、木の絵を描いてもらい、その絵を分析することで性格傾向や心理状態を読み解こうとする心理検査の一つで(中略)縺れた木の枝を解くように人の心の複雑な綾をかき分けて、その奥底へと入り込んでいく ─ そんな音楽を書きたいと思いました。」と解説されています。渡部さんによれば、このバウムテストには具体的なモデルがいるらしく、優しさの中に孤独を抱えている人物をイメージしながら作曲したそうですが、もしかするとご自分のことかもしれません。河村絢音さんのヴァイオリン、甲斐史子さんのヴィオラ、上村文乃さんのチェロが朧な音で緊密に絡まり合いながら雑然とした音楽を奏でましたが、それが徐々に整い出しては、再び、雑然とした音楽に戻ることを繰り返しているうちに、その雑然とした音楽の中から上村さんのチェロがはっきりとした音像を浮かび上がらせることでバウムテストの結果(性格傾向や心理状態)を表現している印象の作品に感じられました。最近、自分の遺影に使うために似顔絵を描いて貰ったところ、人となりまで赤裸々に描き出されてしまう出色の出来映えに笑わされましたが、おそらく弔問客は「そう言えば、こんな奴だったな」と偲んで頂けるのではないかと楽しみにしています。この作品構成を使って様々なバウムテストの結果(キャラクター)を音楽的に表現する作品を連作しても面白いかもしれないと思わせる興味深い着想の作品でした。
 
【演題】室内楽ポートレート(室内楽作品集)
【演目】ジョルジュ・アペルギス
     ①ヴァイオリン独奏のための「イ・イクス」
            ~ヤニス・クセナキスに捧ぐ~(2001/02)
     ②サクソフォーンとヴィオラのための「ラッシュ」(2001)
     ③ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための「三重奏」(2012)
     ④ヴァイオリン、アコーディオン、打楽器のための
                   「カルステン三重奏」(2021)
     ⑤クラベスとヴァイオリンのための
                  「束の間のレクイエム」(1998)
     ⑥2人の打楽器奏者/役者のための「再会」(2013)
     ⑦ソプラノ、クラリネット、打楽器のための
                     「7つの恋の罪」(1979)
     ⑧(ザルブを演奏する)打楽器奏者のための
                     「取っ組み合い」(1978)
【演奏】<Vn>尾池亜美、牧野順也
    <Va>東条慧
    <Vc>山澤慧
    <Pf>大瀧拓哉
    <Cl>田中香織
    <Sax>井上ハルカ
    <Acc>テオドーロ・アンゼロッティ
    <Perc>クリスティアン・ディアシュタイン
          會田瑞樹、飯野智大
    <Sop>薬師寺典子
【日時】2025年8月24日(日)15:00~
【会場】サントリーホール 小ホール
【一言感想】
G.アルペギスさんが優れた人間観察でアイロニカルに人間の本性を描き出しているミュージック・シアターが見応えがあり、現代の音楽家には音楽はもとより俳優、噺家、パフォーマーなどマルチなタレントが求められていると感じさせる熱演を楽しめました。声楽は「言葉を伝える音声」というよりも「音を鳴らす楽器」、器楽は「音を鳴らす楽器」というよりも「言葉を発する音声」として扱われている印象を受けましたが、以下では第1曲から第5曲の器楽作品と、第6曲から第8曲の声楽作品(ミュージック・シアター)に分けて、非常に曲目数が多いのでごくごく簡単に一言感想を残しておきたいと思います。
 
▼器楽作品
①ヴァイオリン独奏のための「イ・イクス」~ヤニス・クセナキスに捧ぐ~
高音域のハーモニクスで紡がれる微細音やグリッサンドが人間の囁き声のようにも聴こえ、リズム、強弱や間(無音)などが織り成す繊細なニュアンスやテンションに物語性が生まれてくるのが感じられる好演を楽しめました。
 
②サクソフォーンとヴィオラのための「ラッシュ」
サックスとヴィオラがエッジの効いた瞬発力のある微細音の応酬を繰り返しながら緊密に呼応するテンションの高い演奏を展開し、その凝縮された表現(エネルギー)がアポフェニアを誘発して物語が立ち上がってくるのが感じられる好演を楽しめました。
 
③ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための「三重奏」
ヴァイオリン、チェロ(弦)とピアノ(打)が弱音で奏でる点描的なパートと強音で奏でるヒステリックなパートを交互に演奏しながら対照し、この異なる位相が生み出す劇的緊張が演劇的な要素を醸し出して行く好演を楽しめました。
 
④ヴァイオリン、アコーディオン、打楽器のための「カルステン三重奏」
3つの楽器が統一感を保ちながらも調和することなく拮抗し、短いフレーズと間(無音)を繰り返しながらテンションの高い音楽を展開していましたが、現代の多様な個衆社会の縮図を見ているような印象を受ける興味深い作品を楽しめました。
 
⑤クラベスとヴァイオリンのための「束の間のレクイエム」
ヴァイオリンとクラベスが精妙な呼吸感でリズムの強弱や間(無音)などを紡ぐ緊迫感のある演奏を展開し、さながら能楽囃子のようでもありました。最後の息を詰めるような繊細なニュアンスは生と死の間に漂う気配のようなものを感じさせる印象的な終曲になっていました。
 
▼声楽作品(ミュージック・シアター)
⑥2人の打楽器奏者/役者のための「再会」
二人の男性が再会して抱き合いお互いの背中を叩き合いながら再会の喜びをリズムで刻む音楽が展開されました。声(音素)、足(タップ)、拍手、椅子、ボトル、コップ、酒を飲む音などから構成されるリズムや間(無音)を使って心の機微を表現し、最後は酒を酌み交わして酩酊するまでの物語が綴られていました。幽玄とは全く異なるものですが、能のように聴衆の内面を引き出すマイナスの美学に彩られた音楽的なパントマイムを楽しめました。
 
⑦ソプラノ、クラリネット、打楽器のための「7つの恋の罪」
おそらくソプラノ(女性)と打楽器(男性)が夫婦、クラリネット(女性)が愛人という三角関係を描いたもの?ではないかと妄想しますが、声(音素)、演奏(パルス)、パフォーマンスなどを使って恋に現れる七つの大罪(色欲はなかった?と思われますが、無関心(傲慢)、秘密(嫉妬)、ヒステリー(憤怒)、支配欲(強欲)、やけ食い(爆食))を先鋭的に表現した舞台で、そのインパクトあるアイコン化された表現に会場から笑いが起こっていました。
 
⑧(ザルブを演奏する)打楽器奏者のための「取っ組み合い」
落語よろしく扇子の代りにトンバクを持った1人の男性が高座に上がり、左右に首を振り分けて二役を演じ、声(意味から解放された音素や音節)で二人の者が取っ組み合いを行うまでの様子を表現しました。扇子よろしくトンバクの調子が舞台にメリハリを付けて物語が展開しましたが、最後はフランス語、ドイツ語、日本語(「闘い」「痛い」「10時ちょっと前」)などの多言語で取っ組み合いが表現され(一人は仲裁?)、会場から笑いをとる音楽落語という趣向で楽しめました。
 
【演題】第35回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会
【演目】①芥川也寸志 「交響管弦楽のための音楽」(1950)
    ②向井航 「クィーン」(世界初演)
            ユーフォニアム、エレキギター、女声アンサンブルと大オーケストラのための(オルガン付き)
     <Eup>佐藤采香
     <Egt>藤元高輝
     <Chor/Vo>松島理沙、岡崎陽香、浅野千尋
              個々・マユミ・歌楽寿、庄司絵美
     <ドラマトゥルギー>前原拓也
   ~第35回芥川也寸志サントリー作曲賞候補作品~
    ③松本淳一 「空間刺繍ソサエティ」
    ④廣庭賢里 「The silent Girl(s)」(2024)
                    ピアノと室内オーケストラのための
     <Pf>天野由唯、鈴木彩葉
    ⑤斎藤拓真 「アンティゴネーとクレオン」(2024)
            ソプラノ、アンサンブル、エレクトロニクスのための
     <Sop>薬師寺典子
     <Elc>今井慎太郎
【演奏】<Cond>杉山洋一
    <Orch>新日本フィルハーモニー交響楽団
【審査員】伊佐治直、小出雅子、安良岡章夫
【司会】長木誠司
【日時】2025年8月30日(土)15:00~
【会場】サントリーホール 大ホール
【一言感想】
第35回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会を鑑賞しましたが、最近の現代音楽ブームの潮流を受けたものか、昨年よりも観客数が増えている印象を受けました。過去のブログ記事でも触れましたが、今年は芥川也寸志生誕100周年のアニバーサリーであり、第一曲目に演奏された「交響管弦楽のための音楽」は1950年にNHK放送25周年記念管弦楽懸賞特賞を受賞し、近衛@日響(現、N響)により初演された事実上のデビュー作であることを踏まえると、作曲家としての芥川也寸志の生誕75周年を寿ぐ趣向にもなっていたのではないかと思います。交響管弦楽のための音楽はオスティナートを基調とした端正な書法による明快な音楽で、鮮やかなオーケストレーションが生み出す色彩豊かなリズムの競演を堪能することができました。昔から新日フィルは合奏精度に定評があるオケなので、もっと現代音楽を演奏する機会を増やして頂けると嬉しいのですが....。
 
◎向井航 クイーン
ヴラヴィー!パンフレットには、「「クイーン(Queen)」という言葉は、クィア・コミュニティにおいて単なるジェンダーのラベルを越え、「媚びない女(オンナ)」」を意味し、「既存のジェンダー規範や社会構造に抵抗し、差別や偏見を逆手に取って「逆説的プライド」を体現する存在」としたうえで、「マイノリティは、常に孤独と闘ってきた。声と身体、そして音楽によって他者とつながること-その行為こそが抵抗であり、連帯の可能性であり、希望なのだ。「クイーン」は、そのための芸術的試みである。」と解説されています。ギリシャ悲劇「バッコスの信女」にインスピレーションを受けて作曲されたそうで、パイプオルガンをゼウス(創造の神:天上界の権威)、ユーフォニウムをアポロン(調和の神:地上界を天上界の権威に調和させる力)、エレキギターをバッコス(破壊の神:地上界に調和されている権威を破壊する力)、女性アンサンブルをバッコスの信女(そのうちの1人はミューズ:芸術の女神で権威を超越して全てを包摂する力)に見立てオーケストラ(地上の権威)を取り囲むように配置されましたが、前半はパンクを基調とする音楽がバッコスの破壊力、後半はポップミュージックを基調とする音楽がミューズの芸術力を象徴している印象を受け、パンク(バッコスのメタファー)、ポップミュージック(ミューザのメタファー)、クラシック(ゼウスのメタファー)の境界が取り払われたメタ・モダンが薫る新しい芸術表現が生まれるような舞台に圧倒されました。芥川さんがオルガンとオーケストラのための「響」でサントリーホールという楽器を初めて鳴らしてから僅か30年後に同じサントリーホールという楽器からこれだけの多彩な響き(世界観)を紡ぎ出す斬新な作品の誕生に時代のダイナミズムが感じられ、興奮を禁じ得ませんでした。冒頭、風の音(ハーモニーパイプのような音)や鳥の鳴き声などが流れ、フルートのトリルが添えられて牧歌的な雰囲気(神の秩序=権威的なもの)が演出されていましたが、それを打ち破るようにバッコスの信者4人(破壊)があげるハイトーンの絶叫に合わせてオーケストラ(権威)も高音の絶叫で応えて権威的なものが破壊されて行く様子がインパクトのある表現で描かれていたように感じられました。バッコスの信者4人(破壊)が後方のオルガンに向かってハイトーンの絶叫をあげると、これにオルガン(権威)が重厚な響きで応えますが、エレキギター(破壊)の演奏に合せてバッコスの信者4人がハイトーンの絶叫をあげるという緊迫感のあるやり取りが展開されました。規格外の舞台に圧倒されてあまり歌詞を聴き取れませんでしたが、カッサンドラの魂がバッコスの信者4人の1人に憑依してユーフォニウム(アポロン)に向かってヒステリックに絶叫し、カサンドラの魂とユーフォニウム(アポロン)がシャーマニックに交信しているようなピースが印象的でした。おそらくアポロンは女性(カッサンドラ)を搾取する男性として権威のメタファー、カサンドラは男性(アポロン)に搾取される女性としてマイノリティのメタファーではないかと思います。カッサンドラ(マイノリティ)の魂を救済するようにエレキギター、ドラム、コントラバスの伴奏に合わせてバッコスの信女4人が絶叫するパンク(ジャズ→ロック→パンク)が展開されましたが、芥川さんの端正なリズムの競演から大幅にハミ出した破壊力のあるビートを伴ってサントリーホールという楽器にパンクを奏でさせてしまう大胆な趣向に興奮を禁じ得ませんでした。パイプオルガン(権威)とエレキギター(破壊)がアンサンブルを奏でましたが、これが意外にも相性の良いもので聴き所になっており、器楽曲として独立させても面白いのではないかと思います。その後、ミューズがマイクを使ってアニメ声でラップ調のポップミュージックを歌いながら登場し、会場の雰囲気を一変させる独特な存在感に魅了されました(いとゑもし🥰)。このようなことを書くと一部の声楽家に嫌われるかもしれませんが、客の立場から言わせて貰うと、ベルカント(権威)の良さがあることは認めたうえで、しかし、マイクが普及している現代にはクルーナーの良さも受け入れてこれを活用する柔軟な姿勢も求められているような気がしています。その後、ミューズに導かれたバッコスの信女4人がパンク、ポップミュージック、クラシック(コーラス)をジャンルレスに歌い合いながら、最後はパイプオルガン(権威)がロングトーンを奏でながら徐々に空気が低下して響きが減衰し(権威の相対化?)、全てが混然一体になって響き合っている印象を受ける大団円になりました。第35回芥川也寸志サントリー作曲賞の審査員・伊佐治直さんも仰っていたとおり向井航さんの新作は規格外の異彩を放つズバ抜けた魅力を示すブレイクスルー感があり、いつの時代も天才とはこのように出現するのだろうと度肝を抜かれる音楽に魅了されました。
 
▽第35回芥川也寸志サントリー作曲賞
3作品の中では最も音楽的に成功していた松本淳一さんが審査員全員一致で第35回芥川也寸志サントリー作曲賞に選考されました。審査員の安良岡章夫さんが審査講評で仰っていたとおり「音楽」であるからにはホールで鳴る「音」が主戦場であるべきであって、どのように「音」に出来ているのかが審査対象として最も重視されるべきであり、その意味では松本さんの作品に軍配が上がるのは首肯できる結果でした。(以下、演奏順)
 
◎松本淳一 「空間刺繍ソサエティ」【優勝】
パンフレットには、「音楽家達が空間に輪郭を作るパタンナーとして各々特殊な定位から音や指令を「投げ縄」の如く飛ばし合う(中略)彼らは構造的階層を消し去るソーシャル・イノベーター的立場で、指揮を飛び越え、単身「空間グリッド師」と化し独自タイミングで音を連携して飛ばし合う。一方オーケストラも次第にそれぞれがソリスト化していき全体で生き生きと自律型社会としての音を編む」と解説されています。ステージのオーケストラを取り囲むようにLA席~P席~RA席にバンダ隊が配置されていました。過去のブログ記事で簡単に感想を書いたH.ツェンンダーのシューマン・ファンタジーでもバンダ隊が同様に配置されていましたが、その位置付けは正反対のもので、バンダ隊はオーケストラに外在化されて音楽的に拮抗する存在(自己拡張)であったのに対し、この作品ではバンダ隊はオーケストラに内在化されて音楽的に拡張する存在(拡張自己)として扱われているように感じられました。2階後方席で鑑賞しましたが、サントリーホールの豊かな残響音が作曲意図(糸)にマイナスに作用するのではないかと心配しましたが、意外にも音響の空間配置を十分に体験できる仕上りで作曲意図(糸)を紡ぐ立体的な音響(空間刺繍)が構築され、様々な方向(定位)から立ち上がる音響が離合集散を重ねて様々な綾を彩りながら有機的に絡み合う音の万華鏡を聴くような鑑賞体験が出色でした。過去のブログ記事で日本音楽コンクールの運営方針に異議を申し立てたことがありますが、作曲家には作曲の技量だけではなく、それを演奏家と共有してどのように「音」として成就させることができるのかという技量までも求められているのではないかと思われ、その意味で作曲の技量(仏)とそれを「音」に還元できる技量(魂)の双方が発揮されたという意味で芥川也寸志サントリー作曲賞に相応しいと感じられました。
 
◎廣庭賢里 「The silent Girl(s)」
パンフレットには、「この作品は、ピアニストを1人の少女に、アンサンブルを少女の周囲の環境に見立て(中略)1人の少女の内面変化を表現」したもので、「少女が内なる自己と葛藤する様子を明確に表現するために音楽に加えて言葉と身体表現」を使用し、「1人の少女を2人で演じ(中略)ピアニストと「アシスタント」が同一人物になっている。」と解説されています。なお、この作品は少女の内面の葛藤を綴ったオリジナルの詩が付されていますが、著作権の問題もありますので転載は控えます。丁度、ミュージック・シアターの第一人者であるジョルジュ・アペルギスさんがサントリー・サマーフェスティバル2025のテーマ作曲家に選ばれていたので、大変に興味深く鑑賞しました。パフォーマンスにウェイトが置かれた印象を受ける分かり易い作品で、ピアニストはピアノ(世俗欲)に固執(執着、苦しみ)する自分、アシスタントはピアノ(世俗欲)から自らを解放(放下着、救い)しようとするもう一人の自分を表し、その内心の葛藤という普遍的なテーマ性を音楽家という身近な存在に照射して表現したものでした。ピアニストとアシスタントは不自然な程の相距離を置いて腰掛けていましたので、審査員の小出雅子さんからはピアニストとアシスタントを近くに腰掛けた方が一体感が生まれたのではないかという表現可能性がコメントされていましたが、個人的には、不自然な程の距離を置くことで舞台に緊張関係が生まれ、それが内心の葛藤のストレスの大きさを視覚的に演出することに成功していたように感じられ、また、その緊張関係が解消される過程で生まれるユーモアも感じることができたエンターテインメント性が高い作品に感じられました。その一方で、パフォーマンスに関心が惹かれた副作用として、ピアニスト、アシスタント(自分)とオーケストラ(環境)の関係性が生む音楽的なドラマのインパクトが薄くなっていた印象を受けましたので、その観点から一層の表現の充実を図る工夫があると音楽作品としての魅力が増すようにも感じられました。
 
◎斎藤拓真 「アンティゴネーとクレオン」【聴衆賞】
パンフレットには、「本作は、私が最も美しい悲劇のひとつと考える「アンティゴネー」に人工知能(AI)ツールを組み合わせるという奇妙な着想によって書かれている。(中略)本作のドラマツルギーは、ソプラノ歌手、AIによって合成された声によるクレオン、そしてそのAIによる声の素材によって浸食され変容した電子音響の三者の対決にある。」と解説されています。個人的には、アンティゴネー(神の法)もクレオン(王の法)も同じ人間が作り出したものなので人間のエゴの対立でしかないと思いますが、未だ神の存在が説得力(認知バイアス)を持ち得た時代の価値観を前提にすれば神の真理と人間のエゴとの対立を描いた物語と仮定することもでき、その神の真理をAIのレスポンスに置き換えて人間と人間が作り出したAI(神)とそのAI(神)のレスポンスに洗脳されていく人間という構図で人間の意識がAIに支配されつつある現状を音楽的に表現した作品のように感じられ(現時点ではAIも人間が作り出した情報を学び、それを組み合わせて新しい知を紡いでいるに過ぎませんので、その意味でAIも神と同じく人間性の塊と言えそうですが)、その着想が非常に興味深く感じられました。今日は2階席後方に座っていたためかもしれませんが、やや音響バランスが芳しくないように感じられ、人間の声がAIの声に浸食されて行くグラデーションが感じ取り難く雑然とした印象を受けしてしまい、その点が非常に残念に感じられました。しかし、アコースティックとエレクトロニクスがシームレスに連結し、照明や映像などの視覚的な効果も相乗してハイブリッドな世界観に埋没して行くような新しい芸術体験が非常に面白く感じられました。今後の活躍が期待される作曲家です。
 
<聴衆賞の結果>
ディスプレーではなく模造紙に手書きとは昭和風情が薫ります。
 
 
▼第55回サントリー音楽賞受賞記念コンサート
【演題】第55回サントリー音楽賞受賞記念コンサート
【演目】近藤譲
     ①「接骨木の3つの歌」(1995)
      <Vn>林悠介
      <Perc>西久保友広
     ②オペラ「羽衣」(1994/日本初演)
      <Cond>ピエール゠アンドレ・ヴァラド
      <Mez>加納悦子
      <Dans>厚木三杏
      <Na>塩田朋子
      <Fl>多久潤一朗
      <Orch>読売日本交響楽団
      <Chor>女声合唱団 暁
      <Cond(Chor)>西川竜太
【日時】2025年8月28日(木)19:00~
【会場】サントリーホール 大ホール
【一言感想】
現代作曲家の近藤譲さんが第55回サントリー賞を受賞されましたが、今日はその受賞記念コンサートが開催されるというので(平日の演奏会は時間的に困難ですが、何とか都合をつけて)聴きに行くことにしました。パンフレットには、選考委員の伊東信宏さんが贈賞理由として「一つの音を置き、それを繰り返し聴くことによって次の音を見出し、さらにそれらの音を繰り返し聴くことによって第三の音を置く、といった作曲法は(中略)パンデミックや戦争によって人間(と人間集団)の孤立が深まり、さらにAIによる芸術の侵食が現実のものとなった今、近藤の音楽と言葉は、我々に深い覚醒が必要なことを告げている。」と記載されていましたが、20世紀の新しい作曲技法(構造的な操作や複雑な規則性などの計算が可能なアプローチ)を主意にした作曲姿勢はAIや量子コンピュータに圧倒される時代になりつつあると思います。その意味で、作曲技法に頼らない感性(経験、個性や感覚などの計算が難しいアプローチ)を主意にした作曲姿勢は人間に残された唯一の可能性と言えるかもしれません。その一方で、このような作曲姿勢は自らの認知バイアスや人間中心主義的な世界観を打ち破ることが難しいという限界を抱えており、AIや量子コンピュータは人間の手抜きのための友である以上に自らの認知バイアスや人間中心主義的な世界観を打ち破るための友としても強力なパートナーになり得るかもしれません。
 
 
〇接骨木の3つの歌
木下利玄さんの歌集「紅玉」に収録されている以下の3首の短歌を歌詞にして作曲したソプラノ独唱のための「接骨木の新芽」(1983)をヴァイオリン独奏用(打楽器の仕様楽器は任意で、打楽器を省いて演奏することも可能)にアレンジした作品です。
 
朝じめり 藪の接骨木 芽はおほく 皮ぬぎてをり ねむごろに見む
にはとこの 新芽ほどけぬ その中に その中の芽の たゝまりてゐる
にはとこの 新芽を嗅げば 青くさし 実にしみじみ にはとこ臭し
 
舞台照明が暗く落とされ、ヴァイオリンの林さんと打楽器の西久保さんのみにスポットライトがあてられるなかで演奏されましたが、近藤さんの作曲姿勢の魅力がよく表れている作品に感じられました。本日は視覚的な演出効果も奏功し、静謐な空間に磨き抜かれた一音一音が慎ましやかに置き添えられで繊細で詩的な風情を醸し出す余韻深い印象を湛えており、その世界観に惹き込まれました。打楽器の柔らかい音響の広がりが生む幻想的な空間の中でヴァイオリンによって不安定に着地するポルタメントが幾重にも重ねられて接骨木の存在の儚さと共にその息吹を静かに伝える慎ましやかな演奏で、リズム、強弱や持続音が生む繊細な表情が微かな変化の兆しを伝えて、接骨木の佇まいを仄かに薫らせる心に染み入る作品でした。接骨木から受けるインスピレーションをそのまま音として表現しているような作品であり、作曲家が音と真摯に向き合っていることが分かる名曲でした。
 
〇オペラ「羽衣」
冒頭、オーケストラが大海原、フルートが羽衣を運ぶ風を連想させる情景感のある演奏が幾重にも重なり、さながら印象派の絵画を見ているような幻想的な音楽によって羽衣の世界観へと誘われました。その後、ナレーションの塩田朋子さんが世阿弥の詞章により三保の松原の情景を語りましたが、世阿弥の詞章は磨き抜かれた珠玉の言葉が散りばめられ、その情趣豊かで香気ある日本語の響きは独特の美感を湛えるもので心を奪われます。正確性を重視して余白のない現代語の痩せた言葉(言語)とは異なり、感受性を重視して余白のある古典語は様々なインスピレーションを与えてくれる心に響く言葉(言霊)だと思います。その後、メゾ・ソプラノの加納逸子さんが漁師の詞章を歌い、塩田さんが漁師の詞章を語りましたが、加納さんの多彩な声質が生む中性的な響きが漁師を性別を含む個性を持った人格ではなく地上界を象徴する存在(諸国一見の僧のような名無しの権兵衛)として登場する効果を生んでいるように感じられました。また、冒頭からフルートが奏でる音楽は(舞台後半になるまで羽衣は登場しませんが)地上界と天上界を結ぶ象徴としての羽衣の神聖性を感じさせるもので、オペラ全体に亘って非常に重要な役割を演じていました。その後、ダンサーの原木三杏さんが白い衣装で登場し、無音で舞われる天人の静謐な舞が、この世ならざるものが帯びる清浄な美しさを連想させるもので魅せられました。オーケストラが羽衣を失った天人の心中を表現するように不安気な音楽を奏でた後、加納さんと塩田さんが漁師と天人の詞章を歌い語り、厚木さんが羽衣を羽織って天人の舞を舞いましたが、女性合唱団「暁」による透徹なコーラスは天界を連想させる神秘性を湛え、最後は天人が天界へ帰って行く様子を表現したものでしょうかフルートによる深い余韻を湛えた演奏で終幕となりました。この作品は羽衣のプロットを追うのではなく、三保の松原の美しい情景や羽衣の神聖性、天人の清浄な美しさなどの情感を薫らせる印象派の絵画のような作品として堪能できました。中近世の歌を詠むための「感じる言葉」(情緒、言霊/情緒=変化するもの、言霊=雨+巫(女)=自然的な世界観)から近現代の事実を読むための「伝える言葉」(情報、言語/情報=変化しないもの、言語=五(行思想)+口=人工的な世界観)に変化したことで音楽が言葉に隷属してリズムや旋律との融合が希薄になる傾向が生まれたように感じます。この点、ポップスなどでは説明ではなく感情の断片(感じる言葉)をリズムや旋律に乗せて歌う作品が多い一方で、日本語オペラではプロットを重視して物語を伝えることに主眼を置いた言葉(クドい説明口調)が音楽から浮いてしまい違和を覚えるものが多く、世阿弥が創作した謡曲に通底する情緒に働き掛ける語感に主眼を置いた日本語オペラに圧倒的な共感を覚えます。科学表現ではなく芸術表現なので、近松門左衛門が虚実皮膜論で説いているように説明するのではなく感覚(うつり)させて欲しいと切望します。その意味で、オペラ「羽衣」は、世阿弥の詞章を活かし、しかも「どの役の言葉であっても、それが歌われる場合には、漁師役(舞台上の唯一の歌手)が歌う。同様に、語られる言葉は、漁師の台詞であれ天女の台詞であれ、語り手によって語られる。そして、天女役のダンサーは、決して声を発しない。」(パンフレット)という表現の抽象化により、言葉(説明)で紡がれる舞台ではなく音楽(感覚)によって顕在させる舞台になっていたように感じられ、それが深い共感を生む作品として成就されていたように感じられました。「言葉(意味)の力」ではなく「音(感覚)の力」で世界観を拓いて行く優れて音楽的な作品であると思います。
 
 
▼第8回藝◯座公演
【演題】第8回藝◯座公演
【演目】⻑唄「正札附根元草摺」
     <曾我五郎時致>花柳達真
     <⼩林妹舞鶴>花柳時寿京
     <監修>花柳輔太郎
    奏⾵楽「海と空」
     <⽴⽅>花柳京楓華、花柳此乃咲弥、花柳昂美胡、
         花柳與扇、藤間倭玖河、藤間京之助
     <振付>花柳輔瑞佳
    新作「オズの魔法使い」
     <ドロシー>吾妻君彌
     <オズ/叔父>藤間直三
     <カカシ>花柳梨道
     <ブリキ>花柳美匠治郎
     <ライオン>泉葵三照
     <トト>花柳桃毱
     <芥⼦の花>花柳真珠李、中村梅壽
     <⻄の魔⼥/叔母>花柳静久郎
     <作曲>東音南谷 舞
     <作調>藤舎呂風
     <演出・振付>花柳達真
     <振付>藤間直三
【演奏】⻑唄 今藤政貴、今藤政之祐、杵屋勝四郎
    三味線 杵屋栄八郎、杵屋五助、杵屋龍十郎
    囃⼦ 藤舎呂凰、望月正浩、望月太左幹
       藤舎呂近、藤舎英心、藤舎英佳
       福原百貴、迎田優香
【後見】五條珠太郎、花柳梨道
【協力】中村京妙
【大道具】歌舞伎座舞台(株)
【舞台監督】歌舞伎座舞台(株)
【狂言附打】歌舞伎座舞台(株)
【音響】三桝清次郎
【照明】松本永(eimatsumoto Co.Ltd.)
【衣装】松竹衣装(株)
【かつら・床山】(株)大澤
【小道具】田中小道具
【記録】舞ビデオ
【宣伝デザイン】小倉有加里
【主催・制作・企画】藝〇座
【日時】2025年9月6日(土)18:00~
【会場】2025伝承ホール寺子屋
【一言感想】
日本舞踊家集団「藝〇座」は2006年に東京藝術大学卒業生が「日本舞踊を幅広い世代に広げ、今までにないエンターテイメント性溢れる舞台を創る事」を目的として創設され、「藝〇座」という名前は「面白くて、美しくて、魅力いっぱいの日本舞踊。その事を幅広い年齢層に伝えたい!そして、お客様と私たちが一つの輪のようにまぁるくなりたい!」という理念を表しているそうです。1993年に五代目花柳芳次郎さん(現、四代目花柳壽輔さん)の働き掛けが実を結んで日本で初めて東京藝術大学に日本舞踊専攻が設けられたそうですが、1998年に「教育課程審議会答申」を受けて改訂された「中学校学習指導要領」で「和楽器については、3学年間を通じて1種類以上の楽器を用いること。」と記載されたことで日本の義務教育に和楽器の学習が追加され、これを契機にして和楽器ユニットなどの活躍が活発になり、現在の現代邦楽ブームの潮流を生み出したと言えると思いますが、その嚆矢として「藝〇座」を位置付けることができるのではないかと思います。1911年に夏目漱石が東京朝日新聞に掲載した「現代日本の開化」において「皮相上滑りの文明開化」と揶揄して日本の伝統文化を軽視する傾向を嘆息しましたが、それから100年の歳月(失われた100年)を経て日本の伝統文化が見直されるようになったと言えるかもしれません。さて、本日の公演の全体的な印象として、前口上で各演目の見所を紹介するなど分かり易さに配慮されていましたが、単に分かり易さだけを追求しているだけではなく、伝統に根差しながら日本舞踊が持っている美しさや面白さを現代的にアップデートしようとする攻めの姿勢が随所に感じられ、日本舞踊の新しい魅力が伝わってくる意欲的で充実した公演だったと思いますので、以下に簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
◎⻑唄「正札附根元草摺」
舞台セットには、桓武平氏千葉氏流・曽我氏の発祥地である相模国曽我荘(現、神奈川県小田原市)の曽我梅林を象徴する紅白梅の作り物と曽我兄弟の仇討ちの舞台である富士野を象徴する富士山の絵があしらわれていました。曽我兄弟と工藤祐経の仲裁に心を砕く朝比奈三郎の妹・舞鶴は仇討ちに向かおうと熱り立つ曽我五郎を引き留めようとして苦心する物語ですが、赤い隈取で登場した花柳達真さんが曽我五郎の一本気な性格を荒々しい舞(男性的な楷書体)で表現していたのに対し、花柳時寿京さんは舞鶴の色香漂う手弱女振りを優美な舞(女性的な草書体)で表現していたかと思うと、色仕掛けが通用しない曽我五郎に一歩も譲らない芯の強さを荒々しい舞(男性的な楷書体)で表現したりと(花道での力比べの迫力は鳥肌もの)、長唄三味線と一体となりながら機転を利かせて臨機応変に対応する様子に、曽我五郎の義心と舞鶴の情心の緊迫した駆け引きが織り成す心の綾が舞にうつる密度の濃い舞台を堪能できました。
 
◎奏⾵楽「海と空」
詩人・青木以佐夫さんの詩を題材にして松原奏風さんが「奏楽風」という新しいジャンルの邦楽作品として作曲されたものだそうですが、人間同士の争いを海と空の争いに仮託して、果てることのない争いの末に疲れ果てた海と空は争うことを止めて調和するという世界平和の希求をテーマにした作品になっていました。青い着物を着た6人の女性が金色の扇を使った群舞で3人が海(波)、3人が空(風)を演じていましたが、三味線や打楽器の快活な演奏にリードされて押しつ押されつ激しく争い合う様子がダイナミックでありながら洗練されたキレのある力強い群舞で表現されていました。波と風をモチーフにした群舞のバリエーションが豊富で、ビジュアルアートや照明なども効果的に使いながら多彩で緊迫感のある舞台を楽しむことができました。最後は争いに疲れた海と空が相互に拮抗するエッジの効いた舞から相互に調和する嫋やかな舞に転じて舞収められ、世界平和を込めた大団円になる鮮やかな舞台に魅せられました。
 
◎新作「オズの魔法使い」
童話「オズの魔法使い」を能楽の表現様式を模倣した松羽目物という古典的なスタイルを借りて現代的な演出を採り入れた舞踊幻想譚に翻案した作品で、ミュージカル風のポップな舞台になっていた一方で、日本舞踊の「型」が持つ魅力も随所で感じることができる伝統と革新が融合した舞台になっていました。このようなアップデートを守破離というのだろうと感じ入りながら鑑賞しました。冒頭、間狂言が登場して物語設定を説明した後、カンザス州に住む娘ドロシー(派手なカンザシはカンザスにかけた駄洒落?)は叔父と叔母から誕生日祝いとして錦のお守りを授かりましたが、竜巻に巻かれて娘ドロシーと愛犬トトだけがオズの国に吹き飛ばされ、コンプレックスを抱えたカカシ、ブリキ、ライオンと出会いますが、錦のお守り(叔父と叔母の愛のメタファー)の力を借りて魔女の悪巧みを撃退しながらそれぞれのコンプレックスを克服して成長して行くという自分探しをテーマにした物語になっていました。先日、三谷幸喜さんが「この世の中にある物語の9割は自分探しをテーマにしたものだ」と語られていたのを思い出しましたが、いずれの登場人物も人間味溢れるユーモラスなキャラクター設定で、軽妙な音楽と共にテンポよく運ぶ滑稽劇といった風情の舞台に魅了されました。今回の3演目に共通して感じられましたが、日本舞踊の「型」から生まれる心地良いリズムや間合い、集団的無意識に働き掛けてくるような表現の説得力、繊細な情感表出などが相乗して、舞の微かなニュアンスにも心がうつるような感覚(上述の拡張自己)を覚える雄弁な舞台を楽しめました。舞台中盤の芥子の花(赤い衣装)による金色の扇を使った雅やかな舞が美観際立つもので、これに娘ドロシー(白い衣装と銀色のカンザシ)が加わって大きな見せ場になっていました。魔女と娘ドロシー達の対決では能の急之舞の囃子が舞台をドラマチックに彩るなどエンターテイメント性の高い作品を楽しめました。伝統芸能といってしまうと敷居の高さを感じますが、歌舞伎踊が持つ庶民の芸能としての親しみ易い魅力が感じられる作品でした。会場には小さい子供の姿も見られましたが、最後まで舞台に魅入っている様子でしたので、若年層が日本舞踊の魅力に触れる導入としても優れた作品のように感じられました。
 
 
▼バッハトラック「クラシック音楽統計2024」
イギリスのオンライン音楽雑誌「バッハトラック」が「クラシック音楽統計2024」を公表しています。今回は例年の傾向と比べて顕著な特徴がないのであまり話題になっていませんが、現代音楽の演奏回数は依然として漸増傾向の基調にありますので、景気付けに、その概要をご紹介しておきます。これによれば、昨年についても「女性指揮者・作曲家の登場機会の増加や、存命の作曲家の音楽作品の上演頻度の全体的な増加」が見られ、近年の特徴的な傾向が続いていると結論付けられています。アメリカ人作曲家のキャロライン・ショウさんやスウェーデン人作曲家のリサ・シュトライヒさんなどの作品の演奏回数の増加が顕著である一方で、一昨年に他界した世界的に抜群の人気を誇るフィンランド人作曲家のカイヤ・サーリアホさんの作品の演奏回数が存命作曲家の統計データからは除外されている点や、現代音楽が演奏される機会が多い小規模な会場及び現代音楽フェスティバルなどの統計データが含まれていない点などを踏まえると、上述のトレンドには統計データに現れていない底堅さのようなものがあり、引き続き、今年も世界的に著名な「存命作曲家」やメタ・モダンが薫る「若手」が新しいムーブメントの重要な鍵を握ることになるのではないかと期待されます。この点、世界と比較して保守的な傾向が強い日本の演奏会の状況を見ても、①演奏会のレパートリーの多様化と②存命作曲家の作品の演奏回数の増加が顕著に感じられるようになり、音楽学者の岡田暁生さんが某雑誌の対談記事で「クラシック音楽の賞味期限切れ」について言及されたいた状況も踏まえると、他の分野と同様にクラシック音楽界にもシビアに「革新」が求められていると思います。この点、歴史が示すとおり「伝統なき革新」(夏目漱石曰く「皮相上滑り」)は「混乱」や「空虚」しか生まず「木に竹を接ぐ」ようなものであり、「革新なき承継」(夏目漱石曰く「握りキンタマ」)は「停滞」や「頽廃」しか生まず「流水は腐らず、戸枢蝕まず」に学ぶべきであると言え、「変わらないために変わり続ける」というトレンドは心から歓迎したい潮流だと思います。
Bachtrack

サマー・リサイタル2025「スザンナの秘密」/「ルクレツィア」(新国立劇場オペラストゥディオ・オペラ研修所)と新作オペラ「ナターシャ」(脚本:多和田葉子、作曲:細川俊夫)と三谷文楽「人形ぎらい」と「この世界のムラを再定義する」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼「この世界のムラを再定義する」(ブログの枕)
前四回のブログ記事では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」、「行動遺伝学」、「行動経済学」についてごく簡単に触れましたが、今回は、この世界の「ムラ」を再定義するという視点から、脳の多様性(ニューロ・ダイバーシティ)についてごく簡単に触れてみたいと思います。今回の参議院選挙では外国人政策が主要な争点の1つになり、トランプ2.0の反DEI政策などとも相俟ってエモーショナルな論調が目立っていた印象を受けますが、これらを一様に排外主義的な傾向と決め付けるのは乱暴であるとしても、例えば、オーバーツーリズムの問題について外国人旅行者を「受け入れる側」の準備不足に起因する問題も外国人旅行者の問題にスリ替えて語ろうとするプリミティブな反応などを見ると、些か問題の本質を取り違えて気分に流され易い傾向があるように感じられ、流言飛語に踊らされることなく冷静に問題を整理して木目細かい議論が必要ではないかと感じます。過去のブログ記事でも触れたとおり、人間は富の獲得と分配を効率化するためのインフラとして「集団」を形成し、その脅威となる他の集団から自らの「集団」を守ることで自らの生存可能性を高めるという生存戦略をとってきましたが、例えば、アリは自らの「集団」の内外の判断基準として「匂い」という直感的な識別子を用いるのに対し、人間は「アイデンティティ」という非直感的な識別子を用いることで、より効率的な富の獲得と分配を可能にする大規模な集団を形成できるようになった一方で、アイデンティティという拡張性(流動性)のある識別子を用いることで自らの「集団」の内外の判別が曖昧(相対的な関係性)になり争いを生じ易くなる傾向が生まれ、上述のような諸問題も(グローバリズムや労働力不足などを背景として)アイデンティティの再定義が必要になったことに伴うストレスと捉えることができるかもしれません。昔から日本はイングループ・バイアス(集団のアイデンティティに馴染む同質的な人を好み、集団のアイデンティティに馴染まない異質な人を疎んじる傾向)が強く、それが最近の日本凋落の原因の1つ(脳科学者・中野信子さん曰く「日本は優秀な愚か者の国」)として指摘されていますが、その再定義には社会的な議論の成熟を待つ必要がありそうです。この点、これまでのように「コミュニケーションを重ねれば分かり合える」(即ち、認知バイアスを強化すればお互いの違いを同質化できる)という旧来型の短絡的な発想に飛び付くことは危険で(脳科学者・茂木健一郎さん曰く「分かり合えるという思い込みを止めること」)、お互いの違いを大らかに許容することができる幅広い教養を培うことが重要であり、その素養を培うために芸術に期待される役割は益々大きくなっているように感じます。
 
▼アイデンティティの拡張性(流動性)とマイノリティの位置付け
近現代以降のマイノリティの歴史を紐解くと、1948年に国連総会で世界人権宣言が採択され、1950年代からアメリカの公民権運動が活発になったことなどを契機としてマイノリティに対する人権意識が高まりました。その後、1992年に国連総会でマイノリティ権利宣言が採択されたことによりアメリカのような多様性を前提とする統合型社会の理念(多文化主義)が広く支持され、国連に少数者問題に関するフォーラムが設置されてマイノリティ権利宣言の具体的な実践を促すための様々な取り組みが継続されています。アイデンティティの拡張性(流動性)という意味では米国(多文化主義)>仏国(普遍主義)>日本(血統主義)ということになりそうですが、後述するとおりトランプ2.0の反DEI政策ではアイデンティティの拡張性(流動性)の揺り戻しが企図されています。
社会 マイノリティ 傾向
米国 出生地
主義
多文化
主義
統合型 多様性
多様な移民
区別容認
権利保障
差別が表面化
仏国 普遍
主義
同化型 普遍性
一様な国民
区別否認
平等主義
差別が潜在化
日本 血統主義 同質型 同質性
同質な国民
区別不存
ネグレクト
排外主義的傾向
尊王攘夷
※1 米国はトランプ大統領令により出生地主義を不法移民などには認めないと制限
※2 仏国は米国のような完全な出生地主義ではなく一部に日本のような血統主義も採用
※3 独国は歴史的な経緯から米国(多文化主義)と仏国(普遍主義)の中間的な位置付け
※4 再掲表:建国の理念とマイノリティーの位置付け
社会 区別に肯定的 区別に否定的
包摂的
inclusion
米国
多文化主義
仏国
普遍主義
排除的
exclusion
日本
排外主義的
南ア
アパルトヘイト時代
 
上述のとおり今回の参議院選挙で主要な争点の1つになった外国人政策とトランプ2.0の反DEI政策は、一見、ポピュリズムの台頭に位置付けられる同じような社会現象に見えますが、その社会的・文化的な背景には大きな違いがあるように思われます。この点、アメリカは多様な出自や宗教を持つ移民が契約により合衆(integration)し、出自や宗教などの属性によりマジョリティの権威を認めつつマイノリティの人権も尊重する統合型社会(多様性=属性を前提とするのでマイノリティに対する差別が表面化し易い社会)であるのに対し、フランスはフランス革命を契機にして国民が普遍的な価値観のもとに共和(assimilation)し、出自や宗教などの属性によりマジョリティやマイノリティを区別することなく全ての国民は平等であるとする同化型社会(普遍性=本質のみを前提として多様性=属性を重視しないのでマイノリティに対する差別が表面化し難い社会)という建国理念の差異があるように思われます。そのため、従来、アメリカではマイノリティに対する保護政策はマイノリティの人権保障の一環と捉えられてきた一方で、フランスでは全ての国民は平等であるという普遍的な価値観に反する差別的な優遇と捉える傾向がありました。今回のトランプ2.0の反DEI政策はアファーマティブ・アクションやポリティカル・コレクトネスのラディカルな推進によりマジョリティの権威が不当に侵害されている社会的な状況(例えば、キリスト教以外の宗教的マイノリティに配慮して「メリー・クリスマス」を「ハッピー・ホリデーズ」に言い換えるなど、ノイジー・マイノリティがサイレント・マジョリティを抑圧する風潮など)を逆差別と捉えたことに伴う揺り戻しと言えるかもしれません。これに対し、日本では、国民が出自や宗教などの属性をほぼ同一としていたことなどを背景として調和(conformity)し、昔からアイヌ民族などのマイノリティは存在していたものの、マイノリティを強く意識する必要がない同質型社会(同質性を前提とするのでマイノリティという概念が希薄な社会)であり、歴史上、マイノリティを包摂してきた経験に乏しいことなどが影響して排外主義的な傾向に陥りやすいと言われています。このようにマイノリティの問題は主に社会的少数者である人種の問題として捉えられてきましたが、最近では社会的少数者であることから生きづらさを抱えている人(人種に限らず、性別、年齢、病気、障害、左利き、妊婦、ひとり親家族なども対象)の問題として捉え直し、全ての人が能力を高めて社会的、経済的、政治的に取り残されないようにするための取組みとして概念拡張されています。この点、ニューロ・ダイバーシティでは、従来であれば発達障害と捉えられてきたものを、脳科学の発達を背景として脳や神経の多様性(能力)として捉え直し、社会から排除するのではなく合理的な配慮のもとに社会に包摂する考え方です。人類が最初に個々人の脳の働きに違いがあることに気付いたのは紀元前1600年頃(古代エジプト人)と言われていますが、その後、他人の脳の働きと顕著な違いを持つ人を悪魔(魔女)と見做していた暗黒時代を経て、1998年にオーストラリア人社会学者のジュディ・シンガーがニューロ・ダイバーシティという言葉を使ってパラダイムシフトを仕掛けました。従来は自閉スペクトラム症(ASD)、注意欠如多動症(ADHD)、限局性学習症(SLD)、チック症、吃音などは発達障害と認識されていましたが、例えば、自閉スペクトラム症(ASD)はシリコン(バレー)症候群とも言われるとおり自閉症を持つ人が高度な繊細さ、強力な論理的・分析的思考、綿密な検査能力などの能力特性を備えてシリコンバレーで優秀なプログラマーとして活躍している事例に象徴されるように科学技術分野で卓越した業績を挙げる人が多いことが分かっており、また、V.ゴッホやP.ピカソなどは注意欠如多動症(ADHD)の傾向があり、さらに、L.ダヴィンチ、T.エジソン、A.アインシュタインやS.ジョブズなどは限局性学習症(SLD)の傾向があることが指摘されており、これらの脳や神経の多様性(最近では民族や文化の多様性を含む)は他者に劣った弱みとして作用する可能性ばかりではなく他者に優れた強みとしても作用する可能性が認識されており、その強みを社会的に活かすための取組みとしてストレングス・モデルが注目を集めています。合理的な配慮(平等から公平へ嵩上げするための配慮←トランプ2.0の反DEI政策ではアファーマティブ・アクションを廃止)を必要としないまでも、誰しも脳の多様性(ムラ)を備え、それに応じた弱みと強みを持っていますが、その強みを社会的に活かすためには自分はどのようなマイノリティの特性(脳の多様性)を持つのかを自己研究しておくことが必要かもしれません(以下の囲み記事を参照)。日本はジェンダーギャップ指数(世界経済フォーラム(WEF)が公表している2025年版「Global Gender Gap Report」)で世界148ケ国中118位とG7最下位であり、同じ文化圏にある韓国(101位)や中国(103位)の後塵を拝する結果になっていますが、日本でもダイバーシティ経営の推進を積極的に取り組みつつあります。この点、今回の参議院選挙で女性の社会進出が少子化問題の原因の1つになっているような印象を与える発言を行ってマスコミからバッシングされている政治家がいましたが、過去のブログ記事でも触れたとおり、欧米では法律上の婚姻関係になくても内縁関係があれば税金、相続や社会保障などを受けられるように法律を改正したことで婚外子が増加して出生率が改善したという報告がありますので、単純に女性の社会進出が少子化問題の原因であるかのように捉えるのは昭和ノスタルジーに彩られたエモーショナルな議論(ふてほど)であり、少子化問題の原因を矮小化し、その本質を取り違えていると言えるかもしれません。個人的には、何かを犠牲にしなければ子供を持てない状況を改善するために知恵を尽くしたいです。
 
▼ニューロ・ダイバーシティの思想的な拡張性
ニューロ・ダイバーシティの思想は、マジョリティの視点(絶対主義的な価値観、マクロな世界観)から「違い」を「正常/異常」として捉えるのではなく、マイノリティの視点(相対主義的な価値観、ミクロな世界観)から「違い」を「多様性」として捉える点に特徴的な違いがあります。前者が父性的な原理であるとすれば、後者は母性的な原理と言えるかもしれませんが、右派又は左派という二元論的な議論に終始することなく、この世界の「ムラ」をどのように捉えてどのように再定義していくのかという複眼的な視点を持って議論する必要がある問題ではないかと思います。個人的には、(還元主義的に過ぎるとの批判を受けるかもしれませんが)この世界の「ムラ」の殆どが詰まるところ電子の結合パターンに過ぎないとすれば、それに認知バイアスを手掛りとした価値序列を設けて人工的な線を引き、その一部を劣位に扱おうとするセンティメンタリズムには何ら説得力や共感を覚えません。
世界の捉え方 ニューロ・ダイバーシティ 思想性
視点 世界観 違い 対象 多様性
マジョリティ 絶対的
マクロ
正常
異常

(排外主義的)
古典的
パターナル
マイノリティ 相対的
ミクロ
多様性 原義
神経
認知 現代的
リベラル
拡張 民族
文化
認知型
価値観
前回のブログ記事で、マクロな世界はムラの演出が比較的に単純、ミクロな世界はムラの演出は複雑になる傾向がある旨を述べましたが、ニューロ・ダイバーシティ―でも同じような傾向を持つと捉えることができるかもしれません。
 
▼夏休みの自由研究:あなたのマイノリティ・レポート
誰しも脳の多様性(ムラ)を備えており、それに応じた弱みと強みを持っていますが、その強みを社会的に活かして行くためには、自分はどのようなマイノリティにカテゴライズされるのかを自己研究しておくことも大切かもしれません。。
マイノリティの特性(脳の多様性)
弱み 強み
ものの管理が苦手である 臨機応変な対応ができる
落ち着きがなくじっとしていられない 行動力・好奇心が旺盛である
計画が立てられない 柔軟に対応する行動力がある
勘違いしやすい 先入観がなく独自の視点を持てる
不器用でスルーできない 細部への注意力が高く丁寧に対応できる
変化が苦手である 一貫性と安定感を持ち慎重に取り組める
パニックになりやすい 感受性豊かで他人の気持ちに敏感である
ネガティブなことばかり考えてしまう リスク管理や問題点の察知に長けている
空気が読めない 周囲に流されず自分の考えを貫ける
なかなか調子がでない 深い洞察や思索ができる
感覚が人と違う 独特な感性や美意識、創造性を持つ
体のコントロールが苦手である 頭の中でのイメージ力や空想力が高い
疲れやすい 自分の限界に敏感で自己管理できる
スムーズに言葉が出ない 言葉以外の表現に長けている
読み書きが苦手である 直感的・視覚的に理解する力が強い
 
▼サマー・リサイタル2025「スザンナの秘密」/「ルクレツィア」
【演題】新国立劇場オペラストゥディオ・オペラ研修所
    サマー・リサイタル2025「スザンナの秘密」/「ルクレツィア」
【演目】E.ヴォルフ=フェラーリ オペラ「スザンナの秘密」(1909年)
    O.レスピーギ オペラ「ルクレツィア」(1935年)
【出演】オペラ「スザンナの秘密」(ピアノリダクション版/原語上演)
     <伯爵ジル>小野田佳祐(Bar/第27期)
     <伯爵夫人スザンナ>渡邊美沙季(Sop/第26期)
     <サンテ(黙役)>宇井晴雄(俳優/演劇研修所賛助)
    オペラ「ルクレツィア」(ピアノリダクション版/原語上演)
     <声>後藤真菜美(Mez/第26期)
     <ルクレツィア>有吉琴美(Sop/第27期)
     <セルヴィア>吉原未来(Mez/第28期)
     <ヴェニリア>島袋萌香(Sop/第27期)
     <コッラティーノ>矢澤遼(Ten/第27期)
     <ブルート>長倉駿(Ten/第28期)
     <セスト・タルクィーニオ>青山貴(Bar/第4期賛助)
     <ティート>上田駆(Bar/第28期)
     <アルンテ>田中潤(Bar/第28期)
     <スプリオ・ルクレツィオ>中尾奎五(Bar/第26期)
     <ヴァレリオ>小野田佳祐(Bar/第27期)
【演出】粟國淳、(助手)上原真希
【指揮】松村優吾
【ピアノ】岩渕慶子、髙田絢子
【照明】黒柳浩之
【音響】横山友美
【衣裳コーディネーター】加藤寿子
【舞台監督】野本広揮、(助手)渡邊真二郎、佐々木まゆり、森川美里
【ヴァ―カルテクニカルコーチ】浜田理恵
【音楽スタッフ】石野真穂、小埜寺美樹、瀧田亮子、木下志寿子
        谷池重紬子、原田園美、星和代
【ディクション指導】エルマンノ・アリエンティ
【オペラ研修所長】佐藤正浩
【制作】新国立劇場
【日時】2025年7月27日(日)14:00~
【会場】新国立劇場 中劇場
【一言感想】
ヴラヴィー!今日は新国立劇場オペラ研修所が毎年夏に開催しているサマー・リサイタル2025で20世紀に創作されたオペラ2作品が採り上げられるというので聴きに行ってきましたが、歌、器楽、演出(照明などを含む)がバランスよく融合し、それぞれの作品の世界観を体現する総合芸術の醍醐味を感じさせる充実した舞台を楽しめましたので(世辞抜き)、以下にそれぞれの作品について簡単に感想を残しておきたいと思います。これだけ上質な舞台を僅か3,850円で鑑賞できてしまう「高コスパ」に加え、1作品60分以内というリーズナブルな上演時間(個人的には、人間の集中力はウルトラディアンリズム(レム睡眠などに代表される約90分の周期で繰り返される体内リズム)に規律されており、どのような舞台や映画などでも1作品90分以内に収めるのが望ましいという持論を持っています)に収まる「高タイパ」な公演に好感しました。近年、若者のオペラ離れが懸念されていますが、このパッケージの公演なら現代の若者にも受け入れ易く、かつ、満足感も高いのではないかと思います。因みに、新国立劇場オペラ研修所は1998年に世界に通用するプロのオペラ歌手を養成する研修機関として開設され、高倍率の選抜試験を潜り抜けた将来を嘱望される有能な14名の研修生が国内外の一流講師陣による発声法、歌唱法や演技法の実技、外国語の授業、ANAスカラシップによる海外研修などの実践的なカリキュラムを通してオペラ歌手として必要不可欠な素養を習得し、その成果を実践する機会としてサマーリサイタル(ピアノリダクション版の公演)、リサイタル(オムニバス形式の公演)、春公演(フルオーケストラ版の公演)が開催されています。
 
①オペラ「スザンナの秘密」
中劇場の回り舞台を居間(社交)と寝室(秘密)に2分割し、居間(社交)で繰り広げられる嘘と寝室(秘密)で繰り広げられる真の狭間で揺れ動く夫婦関係の機微が軽妙洒脱に描かれていました。前半は緊張していたのかやや歌や演技に固さのようなものが感じられましたが、後半になるにつれて歌に感情が乗り演技も洗練されていったように感じられました。バリトンの小野田佳祐さんが演じる伯爵ジルとメゾ・ソプラノの渡邊美沙季さんが演じる伯爵夫人スザンナによる、嘘で疑心暗鬼に陥るぎこちない二重唱と真に触れて疑心暗鬼が晴れる素直な二重唱の対比が面白く感じられ、歌、器楽、演出が呼吸感良く融合する生き生きとした舞台が展開されました。舞台セットの背景色を黒基調にすることで客席後方からもタバコの煙(夫婦関係のメタファー)を視認し易い工夫が施されており、嘘で煙に巻く関係から真に触れて煙(水)に流す関係へと一転する夫婦の機微(滑稽さ)が分かり易く描写される面白い舞台に感じられました。なお、本日の公演は教育的な配慮や運営的な制約などの止むを得ない事情からピアノリダクション版の公演になっているものと了見したうえで、あくまでも個人的な嗜好の問題として、作曲家が予定していない響き(使用言語や楽器編成などを変更したもの)による公演は違和(さながらオイスターソースの代わりに醤油で間に合わせてしまう不誠実さ)を禁じ得ませんが、本日の公演に限って言えば、松村優吾さんの歌心のある指揮と岩淵慶子さんと高田絢子さんのニュアンス豊かなピアノ連弾伴奏によりピアノリダクション版のビハインドを殆ど感じさせない好演を楽しむことができ、却って、ピアノ連弾伴奏の活舌の良さにより楽曲の構造がすっきりと浮き立って、その音楽的な魅力を際立たせる効果を生んでいたように感じられました。ヴラヴィー!
 
②オペラ「ルクレツィア」
第一場では、セスト・タルクィーニオを演じるバリトンの青山貴さんが圧倒的な存在感を示す重厚な歌唱が白眉で、タルクィーニオの野心を大きな影で表現する照明演出も出色でした。これに続いて、軍人を演じる男性歌手陣が妻の貞節について勇ましく歌い合う吸引力のある歌唱に魅了されましたが、冒頭から3,850円では不当廉売ではないかと思わせる上質な舞台を楽しめました。ギリシャ悲劇のコロスよろしく物語を俯瞰しながら観客に語り掛けてくるレチタティーヴォ的な役回りとしてメゾソプラノの後藤真菜美さんが声を担当し、さながら劇中劇のようなドラマチックな歌唱、朗唱で観客をグイグイと物語世界に引っ張り込む表現力が舞台を引き締めていましたが、声がオケピで物語を俯瞰しながらその場面を回想するように透過スクリーン越しに歌手陣が演技する演出は舞台を弛緩させない気の利いたもの(最近で言えば、歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」などでも効果的に使用されていた人気の演出法)で、今回の2回公演のみでは勿体ない完成度の高い舞台になっていました。第二場では、ルクレツィアを演じるソプラノの有吉琴美さんと侍女を演じる女性歌手陣が他愛のない日常を歌い合うところに、タルクィーニオがルクレツィアを手中にしようと訪れますが、タルクィーニオの威厳を体現する青山さんとクレツィアの気品を体現する有吉さん(ソプラノ・ドラマティコ?)が圧倒的な歌唱で拮抗し、これに呼吸感良く松村さん、岩淵さん、高田さんによる音楽及び後藤さんの声が劇に彩りを添えながら密度の濃い舞台が展開されました。それにしても青山さんを相手にして一歩も引けを取らない有吉さんの圧倒的な歌唱力には舌を巻きましたが、スター歌手の資質を持つ今後の活躍が楽しみな逸材です。タルクィーニオに強姦されたルクレツィアの顔を照らす照明がルクレツィアの絶望の深さを物語る演出効果が出色で、非常に充足感の高い舞台を楽しめました。ヴラヴィー!第三場では、松村さんの歌心ある指揮、岩淵さん、高田さんの繊細なピアノ伴奏による好サポートを得て、有吉さんが夫への愛のうちに自決を選ぶルクレツィアの絶望の深さと気高さを好演し、軍人を演じる男性歌手陣がルクレツィアの復讐を誓う緊迫感のある歌唱で劇的な終幕になりました。ヴラヴィー!研修カリキュラムの都合上、再演は難しいのかもしれませんが、この2回公演だけで終えてしまうのは非常に勿体ない完成度の高い舞台だと思われるので、オペラファンを増やす意味でアーカイブ配信などをご検討頂けると嬉しいです。これほどクオリティーの高い舞台を楽しめるのであれば、(20世紀以降に創作された作品が採り上げられるのであれば)来年も観に来たいと思っています。
 
 
▼新作オペラ「ナターシャ」
【演題】日本人作曲家委嘱作品シリーズ第3弾
    オペラ「ナターシャ」(世界初演)
【作曲】細川俊夫
【台本】多和田葉子
【演出】クリスティアン・レート
【振付】キャサリン・ガラッソ
【出演】<ナターシャ>イルゼ・エーレンス(Sop)
    <アラト>山下裕賀(Mez)
    <メフィストの孫>クリスティアン・ミードル(Bar)
    <ポップ歌手A>森谷真理(Sop)
    <ポップ歌手B>冨平安希子(Sop)
    <ビジネスマンA>タン・ジュンボ(Bass)
    <ビジネスマンB>ティモシー・ハリス(俳優)
【演奏】<Cond>大野和士
    <Orch>東京フィルハーモニー交響楽団
    <Chor>新国立劇場合唱団
    <Sax>大石将紀
    <Egt>山田岳
    <Elc>有馬純寿
【ダンス】山中芽衣、浅沼圭、上田舞香、星野梓
     天野朝陽、石井丈雄、郡司瑞輝、森井淳
     中島小雪、亀井惟志、浜野基彦、松田祐司
【美術】クリスティアン・レート、ダニエル・ウンガー
【衣裳】マッティ・ウルリッチ
【照明】リック・フィッシャー
【映像】クレメンス・ヴァルター
【合唱指揮】冨平恭平
【音楽ヘッドコーチ】城谷正博
【舞台監督】髙橋尚史
【日時】2025年8月11日(月・祝)14:00~
【会場】新国立劇場 大劇場
【一言感想】ネタバレ注意!
ヴラヴィー!!今日は、新国立劇場で音楽史の金字塔の1つになるであろう作曲:細川俊夫さん、台本:多和田葉子さんによる新作オペラ「ナターシャ」の世界初演を鑑賞してきましたので、その歴史の生き証人の1人として(他日公演がありますので、あまりネタバレしない範囲で)ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。音楽(音響)、言葉(音声)及び演出が一体になって、生と死を抱く母なる海(+月)に現代の時代性を「鏡映」して深淵な世界観を描き出す傑作で、その中に織り込まれている数々の問い掛けが時に波濤になって激しく打ち寄せ、時に小波になって静かに語り掛けてくるような大きな作品に感じられました。果たして、人類は、未だ母なる海に愛されているのでしょうか。なお、お恥ずかしながら夏休みは軍資金が心許なくなる季節であり、本日は貧民席(天井桟敷)での鑑賞になりましたが、後述の囲み記事でも触れたライブ・エレクトロニクスやビジュアル・アートの演出効果は低層階席の方が感得し易いのではないかと思われますので、(当日券の有無は会場にご確認頂きたいのですが)他日公演を鑑賞される予定の方は低層階席を奮発されることをお勧めしておきます。また、パンフレットには西南学院教授の柿木伸之さんが過去の細川さんの作品群と絡めながらオペラ「ナターシャ」の解説を掲載されていますが、これがオペラ「ナターシャ」の地獄のすり鉢構造の中に過去の細川さんの作品群を紐付て深堀りして行くような秀逸な内容になっており(柿木さんにもヴラヴォー!)、オペラ「ナターシャ」の鑑賞を深める意味で、開演前に、その部分だけでもご一読されておくことをお勧めしておきます。(以下、ネタバレ注意!)
 
〇序章(第一部「海」、第二部「デュエット」)
旧約聖書創世記(第1章第2節及び第3節)の「始原の海」をイメージして作曲されたそうですが、これを現代的に捉え直せば、「始原の海」とは、①宇宙の構造が形成された後、②生命の誕生がアレンジされた場所(熱エネルギー「地球」+有機物スープ「海」)であり、③生物の繁栄がコーディネイトされた仕掛(大気と海の揺籃「月」+生物の多様性「有性生殖」)であると解することができるかもしれません。これらのイメージを作品にプロジェクションしながら鑑賞しましたが、本日のプロダクションでは生物を育んだ「海」と「月」をキー・アイコンにしてビジュアル・アートとサウンド・アートを効果的に組み合わせた示唆に富む舞台になっていました。開幕すると、舞台上には複数の人々が横たわり、それらの人々を覆い包むように透過スクリーンに波のビジュアル・アートが映し出され、その海面に鏡映された月が波に洗われて揺らいでいましたが、生と死を抱く「海」を象徴する幻想美に彩られた舞台に魅了されました。会場全体を取り囲むように設置された24chのスピーカーから波が揺らぐサウンド・アートと共に、人々の息の音(人間は息を吐いて生まれ、息を吸って死ぬと言われますが、息を吐く呼気は生のメタファー、息を引き取る吸気は死のメタファーであり、この一息生死の刹那を紡ぎながら親から子、子から孫へと絶えることなく受け継がれて行く生命の営みを象徴するもの)が幾重にも重ねられましたが、「月」の引力の影響を受けて生まれる波により地球の自転速度にブレーキがかけられたことで生物の繁栄を可能にする穏やかな地球環境が生まれたと考えられており、その波のリズム(凡そ4~6秒の往復)は人間の心拍のリズムと一致し、これは呼吸のリズムとも連動しており、その呼吸のリズムから音楽や言葉が生まれたと言われていますので、その意味では「海」と「月」は音楽や言葉の母とも言え、始原の海が体現する「母性」がビジュアル・アートで「海」と「月」、サウンド・アートで「波」と「息」により重層的に表現され、音楽(音響)、言葉(音声)及び演出が有機的に絡み合いながら深淵な世界観を描き出す総合芸術の醍醐味が感じられる充実した舞台が出色でした。第一部の非楽音(ノイズ)を使ったサウンド・アートが表象する混沌とした世界(自然)と第二部の楽音を使った音楽が表象する秩序のある世界(人工)が対置され、弦のグリッサンドなどにより生み出される音程や音量のグラデーションが「音のトンネル」として秩序(ムラ)のある世界が生まれる様子を巧みに表現していましたが、この秩序(ムラ)のある世界(人工)が混沌とした世界(自然)を侵食しながら七つの地獄(現世地獄)も生んだ緊張関係にあると言えるかもしれません。第二部ではメゾ・ソプラノの山下裕賀さんが演じるアラト(津波で母を亡くした日本人男性)が母なる「海」への呼び掛けを日本語で歌い、ソプラノのイルゼ・エーレンスさんが演じるナターシャ(災厄で祖国を破壊されたウクライナ系ドイツ人女性)が母なる「海」と交信するシャーマニックな歌をウクライナ語とドイツ語で歌いましたが、この場面で吹かれるフルートの甲高い音は能管のヒシギよろしく「息」から立ち上がる神降しの音を体現しているようであり、息から音楽(魂振りの楽)が生まれる様子を連想させる印象的なピースになっていました。また、アラトとナターシャがいる「海辺」は生と死を抱く「海」と接して此岸と彼岸を境界する場所を象徴しており、能「二人静」の前シテの采女(此岸)と後シテの静御前(彼岸)の相舞やオペラ「二人静」のソプラノの少女ヘレン(此岸)と能楽師の静御前(彼岸)の二重唱よろしく生と死が鏡映関係で重なり合う世界(さながら量子力学の重ね合わせ)を体現しているようにも感じられました。そこにバリトンのクリスティアン・レートさんが演じるメフィストの孫がドクターウェアを着用して登場し(何故、病院という設定なのかについて演出家のクリスティアン・レートさんは敢えて明確な回答を避けられているようでしたが(後述)、個人的には、病院は「海辺」と同じく此岸と彼岸を境界する場所であり、人間の健康被害は自然環境の破壊を映す鏡でもあるためではないかと考えます。)、新型コロナウィルスでお馴染みの防護服(此岸と彼岸を隔てるバリア)を着用した病院スタッフがアラトとナターシャを七つの地獄(現世地獄)を巡る心の旅へと連れ出しました。
 
〇七つの地獄巡り
アラトとナターシャはメフィストの孫に誘われ、神学が規律する「人間の本能」に由来する七つの大罪(色欲、暴食、強欲、憤怒、怠惰、嫉妬、傲慢)と、これにダンテが神曲で追加した「人間の理性」に由来する四つの大罪(異端(現代的に捉え直すと反社)、暴力、詐欺、裏切り)が招来した七つの地獄(現世地獄)を巡る心の旅が始まりました。
 
▽第一場「森林地獄」
打楽器が奏でる空虚五度の荒涼とした響きが支配するなか、枯れ木を携えたコーラス隊が「木のない森」を歌いながら登場しましたが、さながら森のレクイエムと言った厳粛な雰囲気を湛える吸引力のある舞台に惹き込まれました。森林の慟哭でしょうか、オーケストラが大きなうねりを伴う緊迫した音楽を奏でるなか、枯れ木が立ち並ぶ異様さがビジュアル・アートにより印象的に描き出されていました。その後、枯れ木に水滴が落ちるビジュアル・アートが映し出され、再び、波のサウンド・アートが流されましたが、森林が力強く再生して行く生命力のようなものが表現されているようで未来への一縷(滴)の望みが予兆されているように感じられましたが、ここで空虚五度から完全五度への解決が試みられていたのか否かを聴き分けることはできませんでした。僕のような浅学菲才の聴衆が初聴の曲を細部までを聴き分けることは困難を伴いますので、いまから音盤のリリースが待たれます。
 
▽第二場「快楽地獄」
大石将紀さんのアルトサックスと山田岳さんのエレキギターがロック・バラード調のノイジーで耽美的な音楽を演奏するなか、その音楽に合わせて華麗なダンスが舞われました。そこにソプラノの森谷真理さんと冨平安希子さんが演じるポップ・シンガーがショッキング・ピンクのドレスを着用して登場し、退廃美に彩られたポップスを妖艶に歌う印象的なシーンになっていました。その奇抜な舞台は聴衆の羞恥心を擽りアイロニカルな印象を与えるインパクトがあるもので、森林地獄の空虚な響きとは対照的に濃厚な色彩感を放つ独特の感興を誘う音楽が出色でした。この点、単にデフォルメされた表現が生み出す陳腐なアイロニーとは異なり、その独特の感興に巧妙に織り込まれているアイロニカルな風情が薫り立つ洗練された至芸が魅力で、非常に面白い舞台を堪能できました。海中を漂うクラゲとプラスチックゴミが映し出されるシニカルなビジュアル・アートも面白く、コーラス隊が白いビニールで舞台を覆いながらオーケストラがプラスチックの乾いた音(ノイズ)を奏でる現代社会のサウンドスケープを体現する舞台は母なる「海」から人間に対する痛烈な異議申し立てとして聴衆の五感に訴え掛けてくるインパクトのある舞台になっていました。
 
▽第三場「洪水地獄」(第一部「嘆きの歌」、第二部「祈りの二重唱」)
オーケストラが「嘆きの歌」を演奏するなか、水中に沈む人間の顔(聴衆の顔の鏡映をイメージさせるもの)が映し出され、ダンサーのリボンダンスに合わせて水が渦巻きながら全てを飲み込んで行くインパクトがあるビジュアル・アートが映し出されました。スピーカーから宗教音楽のような荘厳な曲が流れ、津波で母を亡くしたアラトと母なる海と交信するナターシャが共振しながら日本語とドイツ語による「祈りの二重唱」が歌われました。
 
▽第四場「ビジネス地獄」
現代社会は近代のイギリスで生まれた社会システム(ロンドン型都市モデルや株式会社制度など)がベースになっていますが、そのことを象徴するようにイギリス人ビジネスマンが登場して、オフィスビルの四角い窓が無機質に並ぶビジュアル・アートが映し出され、舞台上を四角い升目で区切った複数のパーテーションの中で無個性なビジネスメン達が忙しなく働いているシニカルな舞台になってしました。そのビジネスメン達と同期するようにデジタル調のミニマル音楽が忙しなく演奏され、ビジネスメン達は「じゃらじゃら」「ばりばり」などのオノマトペを歌いながら貪欲に利潤を追求する姿が先鋭的に描かれていました。そこにゴンドラに乗った成金趣味の中国人ビジネスマンが登場し、アラトが中国人ビジネスマンをボクシングで打ち負かすユーモラスなシーンも描かれていましたが、20世紀に欧米で揶揄された日本人ビジネスマンのステレオタイプはそのまま21世紀に中国人ビジネスマンのステレオタイプに置換され、フィクショナルな芸術作品の中で負け組になった日本が勝ち組になった中国を打ち負かして憂さを晴らす社会の浄化システムがシニカルに描かれていました。最後に浮浪者に身をやつしたイギリス人元ビジネスマンが登場し、近代のイギリスで生まれた社会システムが必ずしも人間を幸福にしてこなかったことを暗示する印象的なシーンになっていました。
 
▽第五場「沼地獄」(第一部「沼の音楽」、第二部「眠りの音楽」)
原子炉から黒い噴煙が立ち昇る不気味なビジュアル・アートが映し出され、オーケストラが下行形の音型を繰り返しながら汚染物質のようなものが湖沼に沈殿して行くビジュアル・アートが流されました。また、プラカードを持った環境活動家がヒトラー風の演説でデモ隊を先導しながら暴徒化する様子が舞台演出されていましたが、その泥沼の戦い(執着)から抜け出して束の間の安らぎ(放下着)を得たアラトとナターシャが穏やかな「眠りの二重唱」を歌いました。
 
▽第六場「炎上地獄」
火紛が飛び散るビジュアル・アートと共に、山火事の炎を連想させるサウンド・アートが流され、オーケストラが緊迫した音楽を奏でるなか、アラトが悲壮感を湛えた嘆きのアリアを歌いました。その後、ワイヤーで宙吊りにされたメフィストの孫が登場し、炎に包まれながら怒りのアリアを歌う迫力の舞台になっていました。これまでワイヤーで宙吊りになれながらアリアを歌ったオペラ歌手がいるのか知りませんが、(ミュージカルは兎も角としても)オペラでは新鮮な演出に感じられました。これに続くアラトとナターシャの二重唱が美しいピースになっており、また、ナターシャによる嘆きのアリアはI.エーレンスさんがシルクのような清澄な歌声で繊細に紡ぐ寂寥感を湛えた歌唱が出色で、その恍惚感を覚える美しいアリアは歌劇の魅力が際立つこのオペラの最大の聴き所になっていたと思います。ヴラヴァー!フルートが息の音を奏でると、ナターシャは海に鏡映する月のビジュアル・アートの中にうずくまり、母なる「海」への回帰を予兆させる印象的なシーンになっていました。
 
▽第七場「旱魃地獄」(第一部「地獄の底」、第二部「始原の海」)
オーケストラがストイックな音楽を奏でるなか、アラトは旱魃でナターシャへの愛も枯渇してしまうと嘆きますが、スピーカーから35ケ国語による「海」という言葉が囁かれ、波や息のサウンド・アートと共に母なる「海」が回帰し、やがて全ての音が静寂へ回収されると、その静寂から新しい音楽や新しい言葉が生まれようとしている予兆(希望)が描かれていました。海に鏡映して逆立ちするバベルの塔(人間の傲慢さを象徴するもの)のビジュアル・アートが映し出され、愛で結ばれたアラトとナターシャが二重唱「新しい言葉は静けさ、あなたと2人で辿り着いた」「ここから私たちは、何を見るの?」を歌いましたが、その後、光(希望のメタファー)の中に人々の影が消え入る静かな終幕になりました。海に鏡映して逆立ちするバベルの塔の頂上は人間の限りない欲望(幸福)を象徴していると同時に地獄の最深を体現するもの(不幸)であり、此岸と彼岸を境界する「海辺」のような場所であることが印象的に表現されているように感じられましたが、果たして、七つの地獄(現世地獄)を巡る心の旅を終えた聴衆は始原の海からどのような新しい音楽や新しい言葉を見出し、どのような新しい世界(希望)を描き得るのか一人一人の知性が試されているということなのだろうと思います。なお、終演後に開催されたアフタートークで司会の林田直樹さんがC.レートさんに海に鏡映する逆立ちするバベルの塔の演出意図を質問されていましたが、それを演出家に語らせてしまうことは観客の自由な解釈の余地を奪い、芸術鑑賞の醍醐味を減殺してしまう憾みがあります。個人的には、正解を求める「検索」型のアプローチではなく、解釈を遊ぶ「思索」型のアプローチの方が芸術鑑賞の幅を広げて、その感動を深くすることにつながるのではないかと思いますので、「答え合わせ」を行うのではなく、聴衆がそれぞれの立場で芸術表現を多角的に捉え、その鑑賞を豊かにするための手掛りを与えてくれるキュレーションの役割を学識者に期待したいと思っています。このオペラは鑑賞の度に異なった表情を見せてくれる大きな器を持った作品に感じられますので、是非、新国に限らず他の劇場を含めて再演を期待したいです。因みに、日本には極楽へと導く七つの地獄巡りもありますので、今度の正月休みは1年の疲れを洗い流す温泉沼にハマりながら怠惰な正月を過ごしてみようかと計画しています。
 
 
▼三谷文楽「人形ぎらい」
【演目】三谷文楽「人形ぎらい」
【作・演出】三谷幸喜
【監修・出演】吉田一輔
【作曲・出演】鶴澤清介
【太夫】竹本千歳太夫、豊竹呂勢太夫、豊竹睦太夫、豊竹靖太夫
【三味線】鶴澤清介、鶴澤清志郎、鶴澤清丈'、鶴澤清公、鶴澤清充、鶴澤清方
【人形遣い】<陀羅助>吉田一輔、吉田簑太郎、吉田簑悠
      <源太>吉田玉佳、吉田玉路、吉田玉征
      <老女形>吉田玉翔、吉田玉誉、吉田玉延
      <お福>桐竹紋秀、吉田玉彦、豊松清之助
      <近松門左衛門>吉田玉勢、吉田玉誉、吉田玉延
      <三谷幸喜>吉田一輔
【囃子】望月太明社中
    望月太意作、望月太明十郎、藤舎次生
【日時】2025年8月16日(土)16:30~
【会場】PARCO劇場
【一言感想】ネタバレ注意!
ヴラヴィー!!文楽にも喜劇はありますが、文楽を見て腹を抱えて笑ったのは初めての体験でした。文楽の魅力をそのままに、これを現代的にアップデートすることに見事に成功している極上の舞台を堪能できました。江戸の近松に悲劇を書かせたら右に出る浄瑠璃作者はいないとすれば、令和の三谷に喜劇を書かせたら右に出る浄瑠璃作者はいないと断言しても、決して言い過ぎとは思えない稀代の傑作でした。人格を持った人間の俳優よりも人格を持たない文楽の人形の方が客の心にうつり易く、それぞれの文楽人形のキャラクターが滲み出てくるような義太夫の情緒纏綿軽妙洒脱な語りと文楽人形に現代的な命を吹き込むことに成功している人形遣いの革新が奏功して、文楽人形ならではのおかしみを醸し出す現代文楽の真骨頂と言いたくなるような名舞台を楽しめました。これならば若年世代の文楽ファンが増えることは必定で、文楽の未来は明るいと確信させてくれるものがありました。他日公演がありますので、ネタバレしない範囲で簡単に感想を残しておきたいと思います。(以下、ネタバレ注意!)
 
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近松門左衛門の代表作として三大仇討物(曽我兄弟の仇討、伊賀上野の仇討、赤穂浪士の討入)と共に三大心中物(曽根崎心中、心中天網島、冥途の飛脚)や三大姦通物(堀川波鼓、大経師昔暦、鑓の権三重帷子)が人気ですが、第一作の三谷文楽「其礼成心中」は近松門左衛門の心中物の傑作「曽根崎心中」をベースに三谷節が冴え渡るアレンジが加えられた傑作として人気を博していますが、第二作目の三谷文楽「人形ぎらい」は武士の面目にかけて妻と間男を成敗する「妻敵討」を描いた「鑓の権三重帷子」(三大姦通物にして三大仇討物と共に近松の仇討物にも挙げられる1作で映画にもなっています)とモリエールの戯曲「人間ぎらい」を素材にして、三谷さんが人間の業を笑いに変えてしまう極上のセンスを存分に発揮して現代的な魅力を湛えた新作文楽の名作を生み出しました。黒沢映画などを観ていても感じることですが、三谷さんの作品は単純な物語構成の中に登場人物のキャラクターを際立たせることで分かり易くも彫りの深い表現が生まれ、それが物語に吸引力を生んで観客のハートを鷲掴みにしてしまう不思議な魔力を備えているところに魅力があるのではないかと思います。冒頭、三谷幸喜の文楽人形が前座として挨拶(ご本人は姿を見せず音声は録音)して開幕になりました。劇中劇として近松文楽「鑓の権三重帷子」から数寄屋の段が上演され、三谷文楽「人形ぎらい」の登場人物である文楽人形「源太」が男伊達として知られる笹野権三(鑓の権三)、文楽人形「老女形」が浅香市之進の女房おさゐ、文楽人形「陀羅助」が女房おさゐに横恋慕する川側伴之丞を演じますが、楽屋に戻って人形立てに掛けられた「源太」「老女形」「陀羅助」(いずれも演目の役名とは別に文楽人形のかしらにつけられている名前で、謂わば文楽人形の本名)の3体の文楽人形が漫談のような軽妙なトークを交わし、文楽人形「源太」は主役を張る二枚目の人形で男伊達を鼻に掛ける自信家(「老女形」と恋仲)、文楽人形「陀羅助」は脇役に甘んじる三枚目の人形で劣等感に苛まれながら主役に憧れる卑屈家(「老女形」に横恋慕)、文楽人形「老女形」は「源太」と恋仲にありながら陀羅助の気持ちを弄ぶ美魔女というキャラクター設定が行われました。全体を通して、噺家も色を失うような語り芸の極致と言うべき義太夫の語りの力は筆舌に尽くし難いものがあり(会場でご堪能下さい)、三体の文楽人形を一人で語り分けながら、見る見るうちに三体の文楽人形のキャラクターが立ち上がって眩い光彩を放ち出す始末で、公私ともに不愛想で知られる僕でさえも「にやけ顔」(大人が本気で楽しいと感じているときに出す表情)になって行くのを覚え、本日は休憩なしの2時間の公演でしたが時を忘れて舞台に没入できました(萌)。そんな「陀羅助」は自分が演じる川側伴之丞を主人公にするように「近松門在衛門」(亡霊)に直談判しますが(このような荒唐無稽な設定を笑いというオブラートに包んで成立させてしまうイリュージョンは三谷マジックと言うほかなく、冒頭から舞台に呑まれて何でも「あり」と思える頭に変えられていました。)、「近松門左衛門」はこの浄瑠璃は実話を題材としており、また、「陀羅助」は醜男なので主役はとても無理だと断り、それぞれの文楽人形には分というものがあると諭して消え失せました。「陀羅助」は失意のうちに楽屋へと帰りましたが、「源太」が文楽人形の命と言える大切なかしらをネズミにかじられ、その修復にも大失敗して舞台に立てない容姿となったことに絶望して失踪してしまったことで「陀羅助」に思わぬ好機が巡ってきましたが、この舞台を弛緩させないテンポ良い物語展開は観客の予想を心地よく超克しながらドーパミンの分泌を刺激し続ける巧みなもので、三谷さんの筆致に文楽人形と共に観客の心まで躍らされてしまう名舞台に魅了されました。舞台に穴を開けられないことから、「源太」の代役として「陀羅助」を主役の笹野権三(鑓の権三)に抜擢して「老女形」と稽古しますが、「老女形」は「陀羅助」が醜男なので芝居が乗らないと愚痴を零すので、「陀羅助」は主役の夢を断念せざるを得ないと悟らされました。「老人形」から「源太」を連れ戻すように頼まれた「陀羅助」と「お福」(陀羅助に仄かな恋心を寄せるブスな文楽人形)は「源太」を探しに出ましたが、「陀羅助」が通天閣から大阪の街を見下ろすと新大阪駅に向かう「源太」を発見し、その後を追いかけました。人形の命である顔をダメにされた「源太」は人形町という人形のパラダイスがあるという噂を信じて向かおうとしましたが、途中で力尽きた「源太」は人形町行きを断念して三人遣い(黒子)に自分を置いて楽屋に戻るように話すと、三人遣い(黒子)は「源太」を置き去りにして立ち去ろうとする場面が興味深かいものでした。本来、文楽は三人遣い(黒子)という現実の存在は舞台に存在しないものと仮定して文楽人形を操ることで虚構の世界を成立させる芸能ですが、敢えて、三人遣い(黒子)という現実の存在を舞台に存在するものとして登場させたうえで、その虚構の世界の中で文楽人形と共演させてしまうという試みが奏功していました。既に僕(観客)の心には「源太」に対する「うつり」(エンパシー)が生まれていることをはっきりと感じられ、人形遣い(黒子)から置き去りにした「源太」が人形遣い(黒子)から独立した生きた存在として写るという不思議な芸術体験をしましたが(次回のブログの枕で触れる拡張自己のうちの象徴的拡張)、三谷マジックによって笑いのオブラートで包みながら「源太」に魂を吹き込むこと(観客の心に「うつり」を生むこと)に成功している三人遣い(黒子)の真価を堪能できる見応えのある場面でした。「陀羅助」と「お福」は「源太」に追い着くために一計を案じ、近所の子供からスケードボードを借りてきましたが、「陀羅助」はスケートボードを器用に乗り熟して高難度のトリックを連発していましたが、文楽人形にはこんなアクロバティックな動きも可能なのかと舌を巻き、文楽人形の表現可能性を大幅に拡張することに成功した意欲的な試みに惜しみない賞賛を送りたいと思います。あまりに破天荒な舞台をきっちりと見せてしまう三人遣いの至芸に会場は大爆笑でした。その一方で、スケードボードを乗り熟せない「お福」はスケードボードを手で漕ぎながら後を追うというオチまで付いており、こんなに笑った文楽公演は初めての経験でした。最後は「陀羅助」が「源太」に人形町は幻でお前が生きる場所は文楽小屋にしかないと諭して連れ帰り公演を再開しましたが、「陀羅助」はいつも巾着を被っていた常連客のお爺さん(死亡)が座っていたB列3番目の席に今日は若い観客が瞳を輝かせながら舞台を食い入るように見ている姿を発見し、これが役者にとっての冥利だと悟りいつも以上に芝居に熱が入るという非常に後味の良い終幕となりました。ヴラヴィー!!第一作、第二作の再演を熱望すると共に、今から次回作の公演を心待ちにしています。是非、三谷文楽で新しい文楽の名作の山を築くことを期待したいです。
 
 
▼新作オペラ『ナターシャ』創作の現場から~細川俊夫・大野和士・有馬純寿が語る~
2028年8月11日(月・祝)から2025年8月17日(日)まで新国立劇場の日本人作曲家委嘱作品シリーズ第3弾としてオペラ「ナターシャ」(作曲:細川俊夫さん、台本:多和田葉子さん)が世界初演されますが、過去のブログ記事で触れた2025年5月15日(木)に開催された多和田さんのトークイヴェントに続いて、2025年7月21日(月・祝)の海の日に因んで細川さん、大野和士さん(指揮)、有馬純寿さん(電子音響)、宮木朝子さん(尚美大准教授)のトークイヴェントが開催されます。過去のブログ記事でも触れたとおり、2019年に大野さん、細川さん、多和田さんの間で新作オペラを創作する話が持ち上がったそうなので、コロナ禍を挟んで足掛け5年以上の創作期間を費やした大作となります。このオペラの登場人物はウクライナ出身ドイツ人女性のナターシャ(ソプラノ/ウクライナ語、ドイツ語)、福島県出身日本人男性のアラト(メゾ・ソプラノ/日本語)、メフィストの孫(バリトン/ドイツ語)で、ナターシャはシャーマンの資質があり海の声を言葉に翻訳できる能力を持っているという設定だそうです。また、このオペラの大まかなプロットについて紹介があり、ゲネシス(創世記)やダンテの神曲などに着想を得ており、メフィストの孫に導かれてナターシャとアラトが7つの地獄(森林地獄、快楽地獄、洪水地獄、ビジネス地獄、沼地獄、炎上地獄、干ばつ地獄の現世地獄)を巡るという物語だそうです。多和田さんの作風である多言語性、多声性を体現するようにドイツ語と日本語の異言語コミュニケーションや最大35ケ国語が登場する多言語オペラが特徴になっており、自然から切り取られたロゴス(意味、論理、理性)としての言葉から自然(海を含む)と直結しているピュシス(音響、感性、本能)としての言葉へと濾過されたものとして扱われているのではないかと推測します。細川さんとしては初の試みだそうですが、エレキギターやアルトサックスなどを使ってロック音楽、エレクトロニクス音楽やミニマル音楽などを採り入れて作曲しているそうで、言語面だけではなく音楽面も多言語化が図られている懐の広い作品になっているようです。有田さんによれば、新国立劇場の大劇場を地獄のすり鉢状構造に見立て1階から3階まで24chのサラウンドスピーカーを設置し、通常の前後左右を基軸とする二次元的なサラウンド音響空間ではなく、上下の基軸を追加した三次元的なサラウンド音響空間を作ること(多次元インスタレーション)を検討しているそうですが、オケピで器楽を奏で、舞台で歌手が歌うという古典的な舞台表現を拡張する試みであり、どのような芸術体験を仕掛けてくるのか大変に楽しみです。神(救い)のない時代に人類はどのように現世地獄を巡り、どのような光明を見出し得るのか、芸術を受容する聴衆の知性も試されていると言えるかもしれません。現状、日本で歴史に残るような世界初演に接することは困難なので、この機会を逃す手はありません。チケットはこちらからお早目に!(売切御免)
 
▼文楽のアップデート
三谷文楽「人形ぎらい」を記念して、三谷幸喜さんと人形遣いの吉田一輔さんによる「ミニ文楽入門講座」が公開されています。文楽にも新作ブームが到来しており、三谷文楽「人形ぎらい」以外にも、ゲーム「祇(くにつがみ):Path of the Goddess」とのコラボレーションとして新作文楽「山祇祭祀傳 巫女の定の段」が話題になっています。この他にも、最近では、アニメ「ONE PIECE」とのコラボレーションとして新作文楽「超馴鹿船出冬桜」や和洋折衷の題材を扱った新作文楽「ゴスペル・イン・文楽~イエス・キリスト~」など話題に事欠かず、新しい文楽から目が離せません。「革新とは、単なる方法ではなく、新しい世界観を意味する」(P.ドラッカー)の名言のとおり、これまでの文楽の魅力を損なうことなく、しかし、これまでの文楽では考えられなかった魅力を追加して現代の時代性へと拡がりを持つ世界観を描く新作が増えてきたことは大変に歓迎したい潮流です。
 
▼メトロポリタン歌劇場 2025-26シーズン
メトロポリタン歌劇場の2025-26シーズンが公表されましたが、昨年の新作オペラ4公演に続いて、今年も以下に掲げる新作オペラ3公演が採り上げられる大変に羨ましい状況です(但し、METライブビューイングで新作オペラが採り上げられるのか分かりませんので、昨年と同様に日本では臍を噛むことになるかもしれません)。過去のブログ記事でも触れましたが、メトロポリタン歌劇場ではアメリカ国内外で初演された新作オペラや現代オペラをリサーチし、その中からメトロポリタン歌劇場の上演に相応しい作品を選んでレギュラーシーズンにかけることを専門とするアーティスティック・チームが存在するそうですが、日本のオペラ界でもミュージカル界と同様にオフ・ブロードウェイで上演された作品のうち優れた作品を選んでオン・ブロードウェアで採り上げることで業界全体を盛り上げて行くような社会的な仕組みが出来ても良さそうです。現状、日本では新作オペラ( ≠ 新制作)の中から優れた作品を選りすぐり、それを幅広い観客に紹介するマッチング・システムが未整備又は脆弱な印象を否めず、実質上、新作オペラは再演の機会がないままに使い捨てにされている状況があるのではないかと思います。良いものを作るだけではなく、良いものを選りすぐり、それを幅広い観客に紹介することで次の世代に受け継いで行く契機とするための取組みが必要ではないかと思います。
【来シーズンのMET初演】

東京藝術大学奏楽堂モーニング・コンサート2025(第6回/作曲:越川廉、ピアノ:今井菜名子)と歌舞伎「刀剣乱舞 東鑑雪魔縁」(演出:尾上菊之丞 尾上松也、脚本:松岡亮)と読売交響楽団第650回定期演奏会(指揮:シルヴァン・カンブルラン、ピアノ:北村朋幹、作曲:細川俊夫)と「この世界のムラを演出する」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ブログの枕「この世界のムラを演出する」
前三回のブログ記事では「ムラ」をキーワードにして「宇宙誕生の物語」、「対称性の破れ」及び「行動遺伝学」についてごく簡単に触れましたが、今回は、この世界の「ムラ」を演出するという視点から、何故、人間は「ムラ」にムラムラと惹かれてしまうのかについてごく簡単に触れてみたいと思います。この点、人間が「ムラ」にムラムラと惹かれてしまう「プロセス」を科学的に解明するものとして、①インターネットが普及する前の20世紀の時代性を前提とする古典的モデル(AIDMAなど)と②インターネットが普及した後の21世紀の時代性を前提とする現代的モデル(AISASなど)の2種類のマーケティング・モデルが存在し、消費者の認知(注意、興味)から消費(行動)や評価(共有)までの一連の消費行動を時系列に沿ったプロセスとして段階的に捉えるフレームワークであるのに対して、人間が「ムラ」にムラムラと惹かれてしまう「心理的要因」を科学的に解明するものとして行動経済学が注目されており、一連のプロセスの各段階における消費行動の理由を分析するための心理学的な知見であると整理することができるのではないかと思います。即ち、マーケティング・モデルは「消費行動の外面」(流れ)を分析し、行動経済学は「消費行動の内面」(心理)を分析するという形で相互に補完し合いながら、何故、人間が「ムラ」にムラムラと惹かれるのかを解明し、その成果を人間がムラムラと惹かれるように「ムラ」の演出に活かす観点から社会経済活動に応用されていますが、現代は多彩に演出された多様な「ムラ」に心をハッキングされながら踊り狂っている時代と言えるかもしれません。
 
▼人が「ムラ」に惹かれるメカニズム(経済学+心理学)
マーケティング
モデル
行動経済学
AIDMA
古典
AISAS
現代
認知 感情 状況
注意
Attention
システム1対2
非流動性
身体的認知
概念メタファー
ホットハンド効果
アフェクト
ポジティブ・アフェクト
ネガティブ・アフェクト
フレーミング効果
フライミング効果
系列位置効果
単純存在効果
興味
Interest
快樂適応
計画の誤謬
真理の誤謬効果
自制バイアス
拡張・形成理論
不確定性理論
境界効果
おとり効果
アンカリング効果
感情移入ギャップ
バンドワゴン効果
欲求
Dsire
自制バイアス
メンタル・アカウンティング
真理の誤謬効果
心理的所有感
目標助効効果
負の感情の利用
ナッジ理論
フライミング効果
検索
Search
確認バイアス
解釈レベル理論
メンタル・アカウンティング
選択パラドックス
決定疲れ
心理的コントロール
不確定性理論
目標助効効果
情報オーバーロード
ビコーズ効果
社会的証明
記憶
Memory
確認バイアス
快樂適応
解釈レベル理論
ピークエンドの法則
感情記憶効果
系列位置効果
ビコーズ効果
行動
Action
計画の誤謬
自制バイアス
メンタル・アカウンティング
快樂適応
時間割引
先延ばしバイアス
キャッシュレス効果
心理的所有感
目標助効効果
現在バイアス
ナッジ理論
ビコーズ効果
情報オーバーロード
選択アーキテクチャ
共有
Share
解釈レベル理論
真理の誤謬効果
ホットハンド効果
自己正当化バイアス
ポジティブ・アフェクト
心理的所有感
ピークエンドの法則
感情伝染
ナッジ理論
フレーミング効果
SNS同調性
ステータス・シグナリング
※紙片の都合から表中の行動経済学の知見(理論)について詳しくは解説しませんので、ご興味がある方は概説書などでお調べのうえ、ご活用下さい。
※行動経済学の分野から2002年にダニエル・カールマン博士がプロスペクト理論(人間が不確実性のある状況下でどのような意思決定をするのかという研究)で、2013年にロバート・シラー博士がアノマリー理論(人間の非合理な意思決定の研究)で、2017年にリチャード・セイラーがナッジ理論(人間を強制することなく主体的に望ましい行動をとらせる研究)で、それぞれでノーベル経済学賞を受賞しています。
※企業による行動経済学の応用例の一部として以下のものが挙げられます。
・アマゾン:タイムセール(アンカリング効果、損失回避バイアス)
・ネットフリックス:レコメンド機能(デフォルト効果、情報オーバーロード、選択オーバーロード)
・グーグル:人材採用プロセス(確証バイアス)
・TIKTOK:自動生成機能(現状維持バイアス)
・スターバックス:ポイント制度(目標勾配効果、ゲーミフィケーション)
 
前三回のブログ記事ではマクロの世界を記述する古典物理学とミクロの世界を記述する現代物理学についてごく簡単に触れましたが、これは経済学や音楽学などの諸分野でも同様の傾向が見られます。古典的な経済学では人間は常に自己利益の最大化を図る合理的な経済人(ホモ・エコノミスク)であることを前提にして市場メカニズム(神の見えざる手)により社会全体として最適な資源配分が達成されるというマクロの視点を基調としていますが、現代的な経済学(行動経済学)では人間は必ずしも自己利益の最大化を図るために合理的に振る舞うとは限らない非合理的な経済人(限定合理性)であることを前提にして感情や認知バイアスなどの心理に左右されながら社会経済活動が営まれているというミクロの視点を基調としています。さながらクラシック音楽が半音(マクロ)を単位として構成される機能和声による予定調和な音楽(合理性)であるという特徴があるのに対して、現代音楽が微分音やスペクトル、ノイズなど(ミクロ)から構成される不確定的な音楽(非合理性)であるという特徴があることに相似していると言えるかもしれません。上述のとおり紙片の都合から行動経済学の知見(理論)について詳しくは触れませんが、人間の認知はシステム1(ヒューリスティック:経験則や直感に基づいて問題を迅速に解決するための思考プロセスで、効率的に判断できるというメリットがある一方でバイアスなどにより認知の歪みが生じ易いというデメリットがあると言われています。)とシステム2(システマティック:エビデンスや熟考に基づいて問題を慎重に解決するための思考プロセスで、バイアスなどにより認知の歪みが生じ難いというメリットがある一方で効率的に判断できないというデメリットがあると言われています。)という2つの認知プロセスが無意識下で連動していますが、システム1(ヒューリスティック)の働きが優位になると認知の歪み(不合理な判断)が生じ易くなり「ムラ」にムラムラと惹かれ易くなると考えられています。この点、過去のブログ記事で認知のメカニズムについて簡単に触れましたが、脳の機能としてデフォルト・モード・ネットワーク(直感)が働いているときはシステム1(ヒューリスティック)という認知プロセスが優位になり易く、セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク(論理)が働いているときはシステム2(システマティック)という認知プロセスが優位になり易いことが分かっており、元来、その人間が持っている認知のクセに加え、その人を取り囲む状況やその時々の感情が認知に大きく影響しています。また、過去のブログ記事では文化(認知)が環境(状況)にチューニングされていること、さらに、過去のブログ記事では人類が狩猟採集に相応しい特性を備えた「心」を備えており仲間が言うことを信じ易い傾向を持っていることなどに簡単に触れましたが、このように人間は自ら主体的に判断しているだけではなくその人を取り囲む状況やその時々の感情に影響されて非合理的な判断を選択させられていることも多く(選択アーキテクチャ)、このような認知の歪みを利用して非合理的な消費行動へと誘導するための手法(「ムラ」の演出)が研究、開発されており、ネット通販やテレビ通販などで購入させられた必要のないものが家に溢れてしまうという状況が生まれています。この点、芸術系の大学などでは劇場や美術館などの集客方法(「ムラ」の演出)について専門のカリキュラムが設けられていると思いますが、行動経済学の視点から現代音楽の演奏会の集客方法についてごく簡単に考えてみると、現代音楽は世界的な評価が定まっているごく一部の著名な現代作曲家を除いてクラシック音楽のように時代に淘汰された傑作揃いであるという「信頼感」(のれん)が十分に醸成されておらず、また、現代音楽の中には上述のシステム1及びシステム2が共に起動し難い「難解」なもの(あまり「面白さ」が感じられないものを含む)も少なくなく、さらに、現代の多様な娯楽との兼ね合いで「優先度」が相対的に低くなる傾向があることは否めず、これらを行動経済学に引き直して言えば、①社会的証明の欠如、②不確実性の回避、③損失回避バイアスなどが強く働いて、現代音楽の演奏会に足を運ぶハードルは決して低くない状況があるように感じられます。これらの課題感から様々な集客の工夫を試みている公演も増えてきましたが、残念ながら状況を一変させる特効薬のようなものはなく、(集客に関心がないタイプの現代作曲家を除いて)少しづつ状況を改善して行くための集客の工夫を継続する取組み(マーケットの醸成)は欠かせないのではないかと思います。例えば、①社会的証明の不足を補う手立てとして「過去に〇〇回再演されている人気曲」(バンドワゴン効果)や「〇〇〇〇(有名作曲家)へオマージュを捧げた新曲」(アンカリング効果)などのキャッチコピー、②不確実性の回避を補う手立てとして「コンセプチャルな演目構成」(フレーミング効果、ナラティブバイアス)や「プレ・レクチャーなどのイヴェント」(アンビギュイティ回避)、③損失回避バイアスを補う手立てとして「2001年以降に作曲された現代音楽の中で最も再演回数が多い曲」(発見バイアス)や「東京都交響楽団第1020回定期演奏会Aシリーズ」(知的探求ナッジ)などの多様な「ムラ」の演出が試されており、その他にも「前回と同じ席をプレリザーブ」(ナッジ理論)や「前回の来場者への特別割引」(サンクコスト)など集客の工夫を複合的に組み合わせることも「ムラ」の演出としては有効ではないかと思います。現代は日常的に情報オーバーロードや選択オーバーロードなどに晒されている常態にあり、どんなにクオリティーが良いもの(ムラ)でもその演出に失敗すればムラムラとさせることは困難になっていますが、誰に対して何を訴求したいのか(ターゲティング)を明確にしたうえで行動経済学の知見を応用しながら「ムラ」の演出を効果的に行うことができるのか否かも実力のうちという時代状況になっていると言えるかもしれません。
 
▼マクロな世界のムラからミクロな世界のムラへ(物理学+経済学+音楽学)
分類 物理学 経済学 音楽学
マクロな世界
対称性の破れ
確定的・人工的
古典物理学
ニュートン力学
熱力学
因果律
確定性等
古典経済学
ホモ・エコノミクス
神の見えざる手等
古典音楽
機能和声
半音
十二平均律等
ミクロな世界
高い対称性
不確定的・自然的
現代物理学
量子力学
確率的
不確定性等
現代経済学
限定合理性
行動経済学等
現代音楽
無調音楽
微分音
スペクトル音楽
偶然性音楽等
※マクロな世界はムラの演出が比較的に単純でしたが、ミクロな世界はムラの演出が複雑になる傾向があると言えるかもしれません。<
 
▼人が「ムラ」に惹かれるメカニズム(脳科学+心理学)
分類 脳科学
(脳神経ネットワーク)
心理学
(認知プロセス)
特徴
システム1 デフォルト・モード・ネットワーク ヒューリスティック 直感的
システム2 セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク システマティック 論理的
 
▼東京藝術大学奏楽堂モーニングコンサート2025(第6回)
【演題】東京藝術大学奏楽堂モーニングコンサート2025(第6回)
【演目】①越川廉 夜露の絶え間ない反射と煌めき(2025)
    ②A.ハチャトゥリアン ピアノ協奏曲(1935) 
     <Pf>今井菜名子
【演奏】<Cond>現田茂夫
    <Orch>藝大フィルハーモニア管弦楽団
【日時】2025年7月3日(木)11:00~
【会場】東京藝術大学奏楽堂
【一言感想】
前回のブログ記事で東京藝術大学奏楽堂モーニングコンサート第3回の感想を簡単に書き残しましたが、今回は作曲科の学生の新作初演とピアノ科の学生の現代音楽(凡そ、第一次世界大戦以前の音楽=クラシック音楽、第一次世界大戦後の音楽=現代音楽)が採り上げられるというので聴きに行くことにしました。社会人にとって平日に開催される演奏会を聴きに行くことはハードルが高く、とりわけモニコンは木曜日午前中の開催ということで客層は自ずと高齢者や学生に限られますが、かなりコスパが高い演奏会に満足できました。因みに、過去のモニコンのアーカイブ配信が公開されているようなので、時間や地理の制約からモニコンを聴きに行くことが難しい方はオンラインでお楽しみ下さい。アーカイブ配信を聴いてみるとライブ演奏では聴き逃している点が多いことに気付きますので、どちらの受容方法が優れているという問題ではなく、それぞれに一長一短があって、それを踏まえた楽しみ方がそれぞれにあるのではないかと思います。
 
①越川廉 夜露の絶え間ない反射と煌めき
パンフレットには「冷え込んだ夜に、水蒸気が水滴となって地物の表面に凝結する。だんだんと水滴は大きくなって、今まさに地面に落ちなんとす。その水滴は月明かりに照らされて、一瞬の絶え間ない煌めきと共に地球に還元されて行く」様子に着想を得て、「この曲の大部分では12個以上の音名が輝いている。それこそがこの曲のオスティナーとであり、根幹を成す。木管、金管、弦と明確に分けられた集団それぞれが、群を形成しながら曲が展開していく」と記載されています。過去のブログ記事で水分子を例にしてエントロピー増大の原則に簡単に触れましたが、気体は熱の放射効率が低い傾向があるのに対し、個体は熱の放射効率が高い傾向があり、空気中の水蒸気が熱の放射効率が高い傾向がある葉や地面などに触れることで冷やされ、その水分子の熱運動が低下することで水素結合が起こり易くなり結露します。また、夜露が月光に煌めく現象は、光子が持つ電磁波が水分子の電子と相互作用することで生じますので、それらのイメージを音にプロジェクションしながら鑑賞しました。ピアノと打楽器の硬質な音は夜露が月光に煌めく様子を、また、弦楽器のグリッサンドやトリル、木管楽器の持続音は空中に立ち込める水蒸気を表現したものでしょうか、これにハープ、管楽器と打楽器のトリルが加わってオーケストラの響きが多層多彩に重なり合いながらカオスな音場が生まれ、それらが微細に変化しながら移ろって行く様子は水と光が織り成す音の万華鏡とも言うべき幻想的なものでした。それが収束や盛上りを繰り返しながら、やがてピアノ、ハープ、打楽器が奏でる音粒が交錯しながら月光に煌めく様子が表現されているように感じられました。やがて音楽はテンションを高めながら、夜露が月光に反射する様子を表現したものでしょうか、管楽器と打楽器が音響の残像を奏で出し、やがてオーケストラがクライマックスを築いた後に、最後に夜露が地面に落ちる様子でしょうか、舞台袖のバンダ隊による足踏みと指鳴らしで余韻深い終曲になりました。ビジュアルアートと組み合わせると、よりイメージが広がって面白いかもしれません。演奏前に作曲科の学生によるMCで、観客が音響に身を浸しながらそれぞれのプロジェクションを投射して自由に鑑賞して貰いたいと挨拶されていました。現代作曲家の中には解説を厭う人もいますが、音楽のような抽象表現を何らの手掛りもなく鑑賞することは聴衆にとって難解、苦痛な体験にしかならないことが多く、(仮に聴衆による受容を前提とするものであれば)少なくとも鑑賞の手掛りとなる解説は必要不可欠であると痛感しており、その意味でも創作の着想やコンセプトなどを第三者(聴衆や演奏家など)に説明するためのMCは有用ではないかと思います。
 
②A.ハチャトゥリアン ピアノ協奏曲
ヴラヴァー!ピアニストの今井菜名子さんの演奏を初めて聴きましたが、先日の松田華音さんと同様に、若い世代のピアニストに稀有な逸材が多いことを印象付けられる好演でした。ロシアビアニズム芬々たる堅牢で華々しいヴィルトゥオージーはもとより、指揮者の現田茂夫さんの老練巧みなリードが奏功したこともあり、この曲の特徴でもあるオリエンタリズムや民族色をバランスよく薫らせながら、この曲の魅力を組み尽くす満足度の高い演奏を楽しめました。第一楽章ではオーケストラによるインパクトのある開始で舞台のテンションが一気に高まり、その張り詰めた空気を切り裂くように独奏ピアノが鋭角な響きによる活舌の良い演奏による華々しい登場感に惹き込まれました。強靭で質感のある打鍵、リズムの生命力、幅白い音域を縦横無尽に駆け巡る疾走感、軽快に冴え渡る超絶技巧などで魅了し、重厚感のある低音から光沢感のある高音までコンサート・グランドを豊かに鳴らし切りながら、民族色から諧謔性、メカ二カルな曲調などを表情豊かに弾き分けるダイナミックにして繊細な構築感のある演奏を堪能できました。パワー志向のマッチョな演奏というよりも、オーケストラが表情豊かに歌うパートでは独奏ピアノは伴奏に徹してアンサンブルに彩りを添える好サポート、独奏ピアノが華々しく歌うパートではオーケストラが絶妙な呼吸感で緊密に呼応するバランスの良い極上のアンサンブルが出色でして、非常に完成度の高い演奏を楽しめました。オリエンタリズムを湛えたオーボエなどが聴き所になる好演で、最後は独奏ピアノとオーケストラが一体になってクライマックスを築く高揚感のある演奏を楽しめました。第二楽章ではメランコリーに揺蕩うバスクラが好演で、これに続く寂び寂びとした詩情を湛えた独創ピアノによる背筋が凍り付くような美しさに魅了されました。独創ピアノとオーケストラの洗練されたアンサンブルに隙はなく、現田さんがたっぷりとオーケストラを歌わせながら民族色を豊かに薫らせる好演が白眉でした。第三楽章ではオーケストラと独創ピアノによるリズミカルで軽快な開始でティンパニーに挑発されるかのように民族色を巻き散らしながら野趣漲るダイナミックな演奏を楽しめたが、非常に慎重かつ繊細なアンサンブルも展開されるなど知情意のバランスがとれた表情豊かな演奏に好感しました。最後は金管の咆哮に誘われてオーケストラと独奏ピアノによる絢爛たるクライマックスが築かれる大団円になりました。
 
 
▼歌舞伎「刀剣乱舞 東鑑雪魔縁
【演目】歌舞伎「刀剣乱舞 東鑑雪魔縁」 
    大喜利所作事 舞競花刀剣男士
【脚本】松岡亮
【演出】尾上菊之丞 尾上松也
【出演】<三日月宗近/羅刹微塵>尾上松也
    <陸奥守吉行/源実朝>中村歌昇
    <同田貫正国/公暁>中村鷹之資
    <髭切>中村莟玉
    <加州清光/実朝御台倩子姫>尾上左近
    <異界の翁/三浦義村>澤村精四郎
    <膝丸>上村吉太朗
    <異界の媼/源仲章>市川蔦之助
    <小烏丸/北條政子>河合雪之丞
    <大江入道>大谷桂三
    <鬼丸国綱>中村獅童 ほか多数
【演奏】<箏>中井智弥(二十五絃)
       中島裕康(十七絃)
       細川喬弘、清原晏、木下富博(十三絃)
    <琵琶・尺八>長須与佳
    <笛>藤舎推峰
    <長唄>杵屋勝四郎、杵屋正一郎、杵屋巳之助、
        杵屋和三郎、杵屋彌六郎、杵屋正則、
        杵屋勝四助、杵屋巳三寿郎
    <三味線>和歌山富之、柏要吉、杵屋巳佐
         高橋智久(東音)、杵屋六治郎、杵屋勝国穀
         杵屋浅吉、杵屋五助、杵屋直光
         杵屋三禄
    <囃子>望月太左久、望月太喜十朗、望月徹
        堅田喜三郎、堅田新一郎、梅屋喜三郎、望月左喜十郎
        住田福十郎、福原百七、望月太喜之助
    <竹中連中>(浄瑠璃)竹本蔵太夫、竹本真太夫、竹本和太夫
          (三味線)豊澤勝二郎、鶴澤卯太吉、豊澤一二三
    <テーマ曲>「風になれ花になれ」
          (歌)城南海
          (作詞・作曲)中井智弥
【録音】<筝>中井智弥(十三絃、二十五絃、低二十五絃)
       中島裕康(十七絃)
    <琵琶・尺八>長須与佳
    <笛>藤舎推峰
    <津軽三味線>浅野祥
    <太鼓>山部泰嗣
    <打物>住田福十郎
    <Key>大迫杏子
    <Perc>相川瞳
    <Vo>日高悠里
【美術】前田剛
【照明】高山晴彦
【作曲】中井智弥、杵屋巳太郎(長唄)、豊澤勝二郎(竹本)
【音響】土屋美沙
【立師】中村獅一、尾上まつ虫
【衣装】黒崎充宏
【日時】2025年7月5日(日)~2025年7月27日(日)
【会場】新橋演舞場
【一言感想】
今日は歌舞伎「刀剣乱舞 東鑑雪魔縁」を鑑賞するために新橋演舞場に足を運びました。新橋演舞場に隣接する料亭「金田中」の向かい側にある新橋の髭切ことヘアーサロン「マツモト」で髭を当たって身を清め、演舞場稲荷大明神のお祓い(鉄砲洲稲荷神社宮司さんでしょうか?)に推参して新橋演舞場のスタッフの末席で心も清めました。因みに、新橋演舞場は加賀藩支藩の下屋敷跡にありますが、加賀藩の御家騒動を題材にした歌舞伎「鏡(加賀見)山旧錦絵」に登場する主君の仇討ちを果たした女中のお初に因んで、演舞場稲荷大明神は通称「お初稲荷」と呼ばれるようになり、「お初」と「初日」を掛けて舞台初日にお祓いが行われる習わし(江戸の粋)になっています。さて、過去のブログ記事で歌舞伎シネマ「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」の感想を簡単に書き残しましたが、歌舞伎「刀剣乱舞 東鑑雪魔縁」はその第二作に位置付けられます。「東鑑」(吾妻鏡)とは鎌倉幕府が編纂した歴史書で、その中から鎌倉幕府三代将軍・源実朝(鎌倉幕府最後の源氏将軍であり、その後は執権・北条氏が鎌倉幕府を実行支配)が鶴岡八幡宮で斬殺された事件に取材し、その歴史改変を目論む時間遡行軍の野望を刀剣男子が阻止するというプロットです。今回は最後に刀剣男子が大喜利所作事「舞競花刀剣男士」で春夏秋冬をテーマにした舞踊を披露する華麗な舞台が用意されており、歌舞伎的なエンターテイメント性の高い趣向になっていました。この舞台全体を通しての印象としては、鎌倉時代(過去)と刀剣男子の時代(未来)という物語設定を利用して、科白、演技、演出、音楽及び美術などの舞台の諸要素も歌舞伎の伝統(古典)と革新(現代)を交錯させながら、それらが最後には融合して行くような構成の舞台に感じられ、日頃、歌舞伎に馴染みのない若い世代もアニメの世界観から歌舞伎の世界観へと自然に入って行けるような舞台上の工夫が随所にあり、その目論見が成功していたように感じられました。また、そのような構成にしたことでアニメの世界観と歌舞伎の世界観のそれぞれの良さが際立つ効果も生んでいたように感じられました。第一作と共通している登場人物は歌舞伎版としてのキャラクターが確立し、それだけ第二作では共感度が高まっている印象を受けましたが、是非、次回作以降に向けて歌舞伎版のキャラクターを磨き上げて行って欲しいと期待しています。舞台公演が始まったばかりなのでネタバレしないように簡単に感想を残しておきたいと思いますが、そうは言っても、多少のネタバレは避けられませんので、これから観劇される予定の方はお気を付け下さい。開幕前のホスピタリティーとして時間遡行軍に扮した歌舞伎役者が一階席を歩き回り観客との記念撮影に応じるサプライズ特典が用意されており、また、開幕前の予鈴も発端第二場における審神者の登場シーンで使われている笙の演奏が代用されており、観客を神様扱いする心尽くしの演出に好感しました。
 
〇発端(第一場、第二場):現代的な演出
観客の意識を物語の世界観に惹き込むように重厚な筝の演奏と共に照明が落とされて開幕しましたが、第一作の歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」で刀剣男子に撃退された異界の翁と媼が現われ、鎌倉幕府の悪政に虐げられた庶民の苦しみの呪い込められている千年檜の精霊に刀剣男子への復讐を懇願すると、妖気漂う筝の演奏と共に「不思議やな 千歳の檜 鳴動し 焔に浮かぶ 人影は この地の主と 覚えたり」という地謡に誘われて千年檜の精霊が羅刹微塵に化して顕現しました。そこへ時間遡行軍も現われ、筝の激しい演奏と共に鎌倉時代へとタイムスリップする緊迫感のある幕開けになりました。鎌倉幕府の悪政に虐げられていた庶民の苦しみを救うために顕現した羅刹微塵(不遇な者の正義)とそれを歴史改変という間違った手段で達成しようとする羅刹微塵(正義に奢る者の不義)という二面性は現代社会が抱える諸問題(国際紛争やSNS問題など)にも通底するもので、現代人にも共感し易いテーマ性を持っているように感じられました。時間遡行軍が鎌倉時代(鎌倉幕府三代将軍・源実朝の時代)に出撃したという報せを受けた審神者は刀剣男子(刀剣の付喪神)を招集して、第一作にも登場した三日月宗近、髭切、膝丸と第二作が初登場となる加州清光(沖田総司の刀剣)、陸奥守吉行(坂本龍馬の刀剣)、鬼丸国綱(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で坂東彌十郎さんが演じていた北条時政の刀剣)の六振りに出陣を命じ、第一作にも登場した小烏丸と同田貫正国の二振りには後方支援を命じました。邦楽アンサンブルの派手な演奏に乗せて、鎌倉時代に出陣する刀剣男子六振りが白波五人男よろしく名乗りを挙げると、「東鑑雪魔縁」と書かれた赤い中割幕が下ろされ、城南海さんが歌う主題歌「風になれ花になれ」が流れるなか花道から鎌倉時代へ出陣しました。さながらアニメのオープニングを見ているような、江戸の粋(意気)とは一味異なる令和の粋へとバージョンアップされた華々しい舞台演出に感じられました。能舞台の橋掛りは彼岸(鏡の間=神の世界)に連結してシテに霊が憑依する幽玄の世界(鎌倉時代の武士の美意識)を体現する舞台装置ですが、それから転じて、歌舞伎舞台の花道は此岸(客席=庶民の世界)に連結して役者を魅せる情粋の世界(江戸時代の庶民の美意識)を体現する舞台装置であり、それらの起源は同一のものであっても、それぞれは全く異なる美意識や演出意図に基づく重要な役割を担うものであることがよく分かります。
 
〇序幕(第一場):古典的な演出
三味線や鳴物の情緒的な演奏と共に、鎌倉幕府三代将軍・源実朝の名代として源実朝の御台・倩子姫、源実朝の甥・公暁、源実朝の側近・源仲章が源実朝の母・北条政子の病気見舞いに梅花と源実朝の和歌「春くれば、まづ咲く宿の 梅の花 香をなつかしみ 鶯ぞ鳴く」(金槐和歌集)(山上憶良の和歌「春されば まづ咲く屋戸の 梅の花 独り見つつや 春日暮らさむ」(万葉集)の本歌取りで、山上憶良の和歌は政を司る官人として孤独な春を慈しむ心情を詠んだものにも感じられる一方で、源実朝の和歌は政を疎んじて花鳥風月に慰めを求める心情を詠んだものに感じられます。)を北条政子に贈りますが、北条政子は後鳥羽院(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では尾上松也さんの配役)から次期将軍と目されながら遊興に耽る源実朝を憂いている様子が印象的に描かれていました。そこへ時間遡行軍が来襲しますが、太鼓や附け打ちが激しく鳴らされるなか、北条政子の警護として潜り込んでいた三日月宗近と鬼丸国綱が立ち回る華々しい舞台になりました。第一作では審神者の声のみの出演だった中村獅童さん(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では梶原景時の配役)ですが、やはり尾上松也さんと同様に華のある役者なので、その存在感(吸引力)に舞台が引き締まります。
 
〇序幕(第二場、第三場):現代的な演出
筝の軽妙洒脱な演奏と共に、一階席から加州清光(沖田総司の刀剣)と陸奥守吉行(坂本龍馬の刀剣)が犬猿の仲よろしく漫談風にいがみ合いながら登場し、髭切と膝丸は源氏代々の宝刀であると素性由来を語りましたが、刀剣男子は未来人という設定なので科白回しは現代語調で現代劇を観ているような印象を受ける舞台になっていました。近年、ブルーノート東京でも他のジャンルからビックネームの出演を招聘することで客層の拡大を図っていますが、丁度、映画「国宝」がヒットして歌舞伎に関心が集まっているなか、歌舞伎を見慣れていない若い世代にも無理なく歌舞伎の世界に入って行けるように配慮されたタイムリーな舞台ではないかと思います。未だチケットが取れるのか分かりませんが、夏休みに子供を連れて歌舞伎鑑賞はいかがでしょうか。尺八の渋味深い演奏と共に、北条政子の侍女・桔梗が人目を忍んで源仲章に密書を届けますが、それを公暁の守役である三浦義村に見咎められ、権謀術数が渦巻く鎌倉幕府の闇が印象的に描かれていました。そこへ羅刹微塵が来襲しましたが、筝と附け打ちが激しく囃し立てるなか、加州清光、陸奥守吉行、髭切、膝丸が三浦義村に加勢して羅刹微塵は消え失せました。筝のリリカルな伴奏と共に、刀剣男子六振り(尾上松也さんが羅刹微塵から三日月宗近へと早変わり)が揃って「東鑑」(吾妻鏡)を引用しながら刀剣男子が守るべき歴史と人物の相関関係(源頼朝の子が源頼家(嫡男)と源実朝(次男)、源頼家の子が公暁)をお浚いし、羅刹微塵の正体やその目論み(歴史改変は手段でしかなく、本当の目的は庶民の怨みを晴らすこと)、時間遡行軍との関係(歴史改変の目的のために羅刹微塵を利用していること)などの物語設定が一通り整理して説明されました。演劇作品の中にはプロットが複雑で舞台展開もめまぐるしく観客が物語展開を十分にキャッチアップできない(又は没入できない)ものもありますが、十分な配慮が感じられて好感しました。膝丸は源実朝が政を疎んじて遊興に耽る真意を量り兼ねていますが、これに対して髭切は情に溺れて刀剣男子の使命(時間遡行軍による歴史改変を阻止すること)を忘れてはならないと戒め、筝や尺八のミニマル風の演奏と共に髭切と膝丸の複雑に揺れ動く心情が印象深く描かれていました。
 
〇序幕(第四場、第五場):古典的な演出
序幕(第二場、第三場)では刀剣男子を主体とする現代的な演出でしたが、序幕(第四場、第五場)では鎌倉人を主体とする古典的な演出の舞台で、笛の情緒的な演奏と共に源実朝と御台・倩子姫が睦み合っているところに、膝丸が登場して源実朝の和歌「身に積もる、罪や如何なる罪ならん、今日降る雪と、共に消えなん」(金槐和歌集)を引用して源実朝の真意を問い質しますが、源実朝は兄・源頼家が外祖父・北条時政に殺害されてからは母・北条政子とも疎遠になっているが、父・源頼朝や兄・源頼家による武力の政治とは異なり慈悲で天下を治めたいという志を打ち明けて退席します。御台・倩子姫は膝丸が未来人であることに気付いて源実朝の運命を聞き出しますが、これを源実朝が立ち聞きしており自らの運命を受け入れるという印象的な場面になっていました。寂び寂びした笛の音と共に、権謀術数が渦巻く鎌倉幕府で悲しい運命に翻弄される源実朝と御台・倩子姫の情感が溢れる歌舞伎の魅力を湛えた舞台になっていました。北条政子、源仲章、公暁、大江入道、三浦義村、北条義時らが源実朝を右大臣に補任する後鳥羽院の院宣の取扱いについて協議した後、源仲章と公暁だけが残り、源仲章に唆された公暁は源実朝と北条義時を討つ決意をします。公暁の情念の焔を感じさせるような三味線の激しい演奏が出色でした。
 
〇序幕(第六場、第七場):現代的な演出
羅刹微塵が鎌倉幕府に渦巻く醜い権謀術数により庶民が苦しめられている怨みを晴らすために立ち上がる迫力の舞台になっていましたが、筝の激しい演奏が羅刹微塵の妖気を帯びた情念の焔を感じさせるもので出色でした。第一作でも感じましたが、中井智弥さんの音楽はピアノやハープに双璧する筝の豊かな表現力、多彩な音色や奏法などを存分に活かし、ジャンルレス、ボーダレスに着想豊かな音楽が繰り広げられていきますが、歌舞伎の舞台表現を拡張して現代的にアップデートして行くにあたり、その多彩な音楽性は欠かせないものになっていると感じますし、それとの対比で伝統的な歌舞伎音楽が彩る情趣を引き立て、その魅力を際立たせる効果も生んでいるようにも感じますので、音楽の面からも歌舞伎の伝統と革新を融合する試みに期待したいと思っています。筝のリリカルな演奏と共に、髭切と膝丸は源実朝への思慕の情に流されずに歴史を守るという刀剣男子の使命を果たすことを確認し、他の刀剣男子達も油断なく羅刹微塵や時間遡行軍を阻止することを決意し、邦楽アンサンブルによる華々しい演奏で序幕が閉じました。
 
〇第二幕(第一場、第二場):現代的な演出
筝の妖気漂う演奏と共に、まるでオペラのセットを彷彿とさせる暗闇の舞台で第二幕が開け、公暁は守役の三浦義村に対して右大臣拝賀の式で謀反を企てる北条義時と源実朝を討つことを持ち掛けますが、三浦義村は公暁に自重するように促して断ります。そこへ羅刹微塵が来襲して庶民の苦しみに目もくれず醜い野心に囚われる公暁を斬殺して歴史改変を行ってしまいますが、筝と附け打ちがフラメンコ風のドラマチックな伴奏を奏でるなか、鬼丸国綱と髭切が三浦義村に加勢して羅刹微塵は花道から逃げ去ります。回り舞台で場面が展開し、尺八の渋味深い演奏と共に、源実朝が右大臣拝賀の式へ向うところですが、笛と筝の寂寥感漂うリリカルな演奏と共に、(序幕第四場で)運命を知っている源実朝と御台・倩子姫は言葉にはならない惜別の情を交わしますが、前場の公暁の心に宿る深い闇と後場の源実朝の心に宿る清い光とが対照される印象的な場面になってました。
 
〇大詰(第一場から第三場):古典的な演出と現代的な演出の融合
大詰(第一場から第三場)は古典的な演出と現代的な演出が違和感なく融合して1つの世界観を体現しているように感じられました。鎌倉山の情景と源実朝の心情を重ねた情緒纏綿とした長唄に乗せて右大臣拝賀の式に向かう源実朝一行が花道から入場する場面は源実朝の道行とも言える歌舞伎的な美観が際立つ印象深い場面になっていました。その後、中割幕が開くと、鶴岡八幡宮の階段が登場し、太鼓で降りしきる雪を表現するなか、髭切と膝丸は(第二幕第一場で)改変された歴史を元に戻すために公暁に代わって源実朝を斬り、笛と筝の寂寥感漂う演奏のなか、髭切と膝丸は源実朝の最後を看取って刀剣男子の使命を果たす中締めになりました。丁度、大詰第二場は開幕から十三場目になりますが、源実朝は鶴岡八幡宮の大石段の十三段目で斬殺されたと言われており、この場面割りも舞台演出の1つかもしれません。その後、邦楽アンサンブルがフラメンコ風のドラマチックな伴奏を奏でるなか、髭切、膝丸、鬼丸国綱と羅刹微塵、時間遡行軍とのアクロバティックな立ち回りが展開され、羅刹微塵が花道を附け打ちに合わせて引っ込む見所になっていました。三味線と太鼓が激しく打ち鳴らすなか、北条義時は羅刹微塵と時間遡行軍に襲撃されますが、そこへ鬼丸国綱が割って入り、羅刹微塵と鬼丸国綱の所作タテを経て、これに小烏丸、同田貫正国を含む他の刀剣男子が加わって羅刹微塵、時間遡行軍とのアクロバティックな立ち回りになりました。最後に羅刹微塵(尾上松也さんの代役?)と三日月宗近の立ち回りが挟まれた後、邦楽アンサンブルの快活な演奏と共に羅刹微塵は消え失せました。笛、三味線、筝がリリカルな調べを奏でるなか、北条政子は舞台袖、刀剣男子は客席から退場して終幕になりました。
 
間狂言を挟んで、
 
〇大喜利所作事「舞競花刀剣男子」(第一景から第六景):古典的な演出と現代的な演出の融合
第一景「序-三番叟」は義太夫節と三味線に乗せて髭切と膝丸が足拍子で邪気を払いながら勇壮で華麗な剣舞を披露、第二景「春-伊達男」は長唄と三味線に乗せて三日月宗近が三日月をあしらった唐傘と下駄を使って伊達男の色香漂う舞踊を披露、第三景「夏-祭り」は筝、笛、長唄、三味線に乗せて扇子を持った粋な浴衣姿で陸奥守吉行がよこい節(高知)、同田貫正国がおてもやん(熊本)、加州清光は加賀はいや節(金沢)などのお国自慢の舞踊を披露、第四景「秋-玉虫悲恋」は平家琵琶(女声の艶)と三味線、義太夫節(男声の艶)の語り芸の極致を言うべき名演に乗せて那須与一に扮した三日月宗近(青)と玉虫に扮した小烏丸(赤)が情熱的で優美な所作舞を披露、第五景「冬-獅子の曲」は長唄、三味線、筝に乗せて鬼丸国綱が白頭獅子、異界の翁と媼が赤頭獅子に扮し、時間遡行軍を撃退する勇壮な舞踊を披露、第六景「フィナーレ-時をこえて」では合唱、邦楽囃子に乗せて刀剣男子が一人づつ剣舞を披露した後、桜吹雪が散るなか扇子を持った群舞を披露し、主題歌「風になれ花になれ」が流れるなかを刀剣男子が舞台の華になって鮮やかに散って行く大団円となりました。
 
 
▼読売交響楽団第650回定期演奏会
【演題】読売交響楽団第650回定期演奏会
【演目】F.メンデルスゾーン 付随音楽「真夏の夜の夢」序曲(1826)
    細川俊夫 月夜の蓮 -モーツァルトへのオマージュ-(2006)
    ※アンコール:C.シューマン ピアノ曲「蓮の花」
               (原曲:R.シューマン 歌曲「蓮の花」)
     <Pf>北村朋幹
    H.ツェンダー シューマン幻想曲(1997/日本初演)
【演奏】<Cond>シルヴァン・カンブルラン
    <Orch>読売交響楽団
【日時】2025年7月8日(火)19:00~
【一言感想】
スペインのBBVA財団が主催し、ノーベル賞の補完的な存在とも言われる世界的に権威があるフロンティアズ・オブ・ナレッジ賞音楽・オペラ部門を現代作曲家の細川俊夫さんが受賞されたことに伴い、去る6月18日に開催されたガラ・コンサートでヴァイオリニストの諏訪内晶子さんをソリストに迎えて細川さんのヴァイオリン協奏曲「ゲネシス」(2020)が演奏され、翌6月19日に開催された授賞式では同賞と共に賞金40万ユーロ(約6,800万円!)が授与されました。ビルバオ・ビスカヤ・アルヘンタリア銀行を資金母胎とするだけあって、ノーベル賞に双璧する賞金額が目を引きます。細川さんは「その作品の並外れた国際的影響力」が評価され、「日本の音楽の伝統と現代西洋の美学の間に橋を架けた」として受賞に到っていますが、近年の受賞者を見ても、J.ベンジャミン(藤倉大さんの師匠)、T.アデス、P.グラス、A.ペルト、J.アダムズ、K.サーリアホと歴史に名前を残すであろう世界的に著名な作曲家が並んでおり、この列に音楽・オペラ部門として初めて東洋人が名前を連ねることになったことは大変に喜ばしく誇らしいものを感じます。細川さんが「日本の音楽の伝統と現代西洋の美学の間に橋を架けた」と思われる代表作の1つを現代音楽のスペシャリティーである指揮者のS.カンブルランさんが古巣の読響を率いて演奏するというので聴きに行くことにしました。1曲目の感想は割愛し、現代音楽2曲の感想を簡単に残しておきたいと思いますが、東洋と西洋のファンタジーが交錯する次代に残る名曲2曲に非常に満足度の高い演奏を楽しめました。ヴラヴィー!
 
②月夜の蓮-モーツァルトへのオマージュ-
パンフレットには「2006年、モーツアルト生誕250年を記念して、北ドイツ放送は世界の4人の作曲家に新作を委嘱した。条件は作曲家ごとに異なるカテゴリーを指定し、カップリングするモーツァルトの曲を選ばせ、それと同じ楽器編成で新作を書くこと。細川俊夫はピアノ協奏曲第23番イ長調を選んだ。」と解説されています。ピアニストの北村朋幹さんはコンテンポラリー弾きとして頭角を現わしていますが、その研ぎ澄まされたデリケートなタッチにより静寂から生まれた音粒が空間へと澄み渡り静寂へと回収されて行く静謐にして深淵な演奏に息を呑みました。水墨画の余白が描く世界観のように、音粒の先に広がる静寂を聴かせる音楽であり、それは標題の「月夜の蓮」の佇まいをイメージさせる詩的な幻想美を湛えていました。S.カンブルランさんと読響も細部まで配慮の行き届いた息を呑む好演で幽けき持続音とトリルが精妙に移ろい、それらが幾重にも重なり合いながら生成(沼の水面上=生のメタファー)と消滅(沼の水面下=死のメタファー)を繰り返す生滅流転の世界観を体現しているように感じられ、その深淵な精神性と共に大きな音楽が聴こえてきました。蓮は、沼底の地下茎から発芽して水面に葉を広げ、花托を伸ばして蕾(未敷蓮華)を結びますが、その張り詰めた静寂の中に息衝く生命力の気配のようなものが感じられる音楽で、フランス人俳優のジャン・ルイ・バローさんが観世寿夫さんの演能を鑑賞された際の言葉「能の静止は息衝いている」という言葉を思い出しましたが、沼の水面下を橋掛り、沼の水面上を本舞台、蓮の蕾をシテに見立て音楽にプロジェクションして鑑賞していましたが、西洋音楽を使いながら日本の伝統的な美意識の深淵に迫る作品に圧倒されました。最後に、北村さんが爪に灯を灯すような繊細なタッチでモーツァルトのピアノ協奏曲第23番第二楽章の残照を薫らせていましたが、月夜(モーツァルト又はピアノ協奏曲第23番第二楽章のメタファー?)に誘われて蓮の蕾が頭を擡げて開花しようとしているイメージと重なってこの世の「儚さ」が募る極上の音楽に心酔しました。この曲の余韻は休憩を挟んで次の曲の演奏が開始されても続いていたことを告白しますが、次の世代にも聴き継がれるであろう稀代の名曲を(当日は細川さんも会場に見えられていましたが)作曲家と同じ空間で受容できた幸運に心から感謝したい気持ちです。さながらモーツァルトと一緒にピアノ協奏曲第23番を受容してしまったような得難い体験です。ヴラヴィー!!アンコールは、C.シューマンのピアノ曲「蓮の花」(原曲:R.シューマンの歌曲「蓮の花」)が演奏されましたが、左手の幻想、右手の憧憬が繊細に絡み合う夢見心地の演奏を楽しめました。因みに、来る7月12日から七十二候「蓮始開」(蓮の花が咲きはじめる季節)なので、この曲を聴きながら蓮見の宴で夕涼みと洒落てみるのも良いかもしれません。
 
③シューマン・ファンタジー(日本初演)
パンフレットには「音響や作曲技法の新しさに価値を置くモダニズムの時代には既存作品の編曲はあまり好まれなかったが、1990年ごろから原曲の解釈を加えた「創造的編曲」(又は「作曲された解釈」)はよく行われている。」としたうえで、「1997年の「シューマン・ファンタジー」は、ツェンダー自ら「作曲された解釈」と呼ぶ作品群の一つである。「作曲された解釈」とは一種の編曲なのだが、単に異なる楽器編成にするだけではなく、独自の解釈を加えて音を増減する。」と解説されています。この曲はR,シューマンのピアノのための「幻想曲」ハ長調作品17が原曲になっており、原曲のフラグメントが随所に使われていましたが、某TV番組「大改造!!劇的ビフォーアフター」よろしく、原曲の面影は残しながら原曲の基礎や間取りから徹底的に手を入れてインテリアも一新してしまうなど、原曲を換骨奪胎して全く新しい作品へと生まれ変わらせたうえで、原曲を凌駕し又は原曲にはなかった魅力まで追加することに成功している新作と見紛うばかりの出来映えです。これだけの傑作が日本で初演されていなかった事実に愕然とさせられます。その意味では、この曲を日本に紹介してくれたS.カンブルランさんと読響に心から感謝しなければなりません。P席後方のバンダ(弦)、舞台裏のバンダ(金管)がソリスト、本舞台のオーケストラがトッティーという位置付けで対置され、バンダが前奏曲と間奏曲を微分音、不協和、ノイズなど現代的な響きで演奏し、オーケストラが原曲を素材とした3曲を演奏しましたが、単に原曲にオーケストレーションを施した編曲とは異なり、上述のとおり原曲の美観は残しながらも原曲を大胆にスクラップ&ビルドし、斬新かつ独創的にデフォルメしてユーモアまで塗布してしまうなど匠の技とセンスが冴え渡る作品に生まれ変わっており、その結果として原曲とは全く別の地平を切り拓く傑作へと昇華してしまう辣腕に感服しました。芸術に進歩主義的な考え方は馴染みませんが、現代作曲家の才能が歴史上の偉大な作曲家と比べて劣らないばかりか、これを凌駕し得ることを証明してみせるような作品に嬉しくなりました。ドーパミンが大量に分泌されていることが分かる面白さが随所に散りばめられ、まるで微睡んでいるような多彩なファンタジー(西洋的な幻想美)に魅了される至福の演奏を堪能できました。ヴラヴィー!!
 
 
▼エンタメ大国 日本
日経新聞電子版(2025年6月30日)に「時価総額、エンタメが自動車抜く 上位9社で見えた日本株高の原動力」というタイトルの記事が掲載されましたが、日本の産業構造が大きな転換期を迎えているようです。この点、日本は20世紀までは製造業を中心にして大量かつ均質な「モノ」(所有の対象)を作ることが重視されていた時代であり「技術大国 日本」と評されてきましたが、バブル崩壊によるショックから過去の成功体験にしがみ付いてきた「失われた30年」の間に凋落を招きました(WIPOが公表している世界イノベーション指数で世界第13位)。しかし、このままでは終わらず、2010年からのクールジャパン戦略が奏功したものなのか、現在ではエンタメ業を中心にして斬新かつ独創的な「コト」(共有の対象)を体験することが重視されている時代であり「エンタメ大国 日本」として世界から注目され(METIが公表している世界コンテンツ市場の規模で世界第3位)、その兆候を裏付ける1つのインシデントとして上記の新聞記事を捉えることができるかもしれませんし、また、前回のブログ記事で触れた新作オペラ・ブームも、このような時代の価値観の変遷が生んだ潮流と捉えることができるかもしれません。20世紀の「どう作るか」(方法)から、21世紀の「どう楽しませるか」(世界観)という発想の転換が必要です。
 
▼21世紀の新しいアウラ(その2)
過去のブログ記事で21世紀の新しいアウラ(その1)として音楽生成AIや画像生成AIの創作物が人間の能力を凌駕しつつあることに触れましたが、今回は動画生成AIを採り上げてみたいと思います。2025年7月18日(金)から映画「鬼滅の刃 無限城編」第一章が全国公開されますが、そのシリーズのAI実写の試作が数多くアップされており、アニメの世界観を損なうことなく新しい魅力を創出することに成功していると思われるものが多いので、適正に権利処理されているものと信用してご紹介します。AIアートと同様に人間の能力を凌駕したところに成立している再現性の低いリアルなヴィジュアルに息を呑みます。このアニメが体現している日本の伝統美という古いものと現代物理学の世界観という新しいものを共存させながら、バーチャルとリアリティーの境界を無効にしてしまう異次元の表現力に21世紀の新しいアウラが顕在し始めています。

東京藝術大学奏楽堂モーニング・コンサート2025(第3回/作曲:森口達也、佐藤伸輝)と弦理論交響曲「Consciousness」(量子フェス/作曲:ヤニック・パジェ)と新作オペラ「船はついに安らぎぬ」(作曲:永井みなみ、脚本:河野咲子)と「この世界のムラを育む」 < STOP WAR IN UKRAINE >

▼ブログの枕「この世界のムラを育む」
前々回のブログ記事及び前回のブログ記事ではちびっ子達にも直観的にイメージし易いような表現で「宇宙誕生の物語」と「対称性の破れ」にごく簡単に触れましたが、その文脈からさらに話を身近な世界に引き寄せて、この世界の「ムラ」を育むという視点から最近注目を集めている子育てにおける「芸術士」の役割について簡単に触れてみたいと思います。過去のブログ記事で2025年問題に絡めて出生者数の漸減傾向に簡単に触れましたが、先日、厚生労働省が公表した人口動態統計によれば2024年の出生者数が70万人を下回って過去最低になったそうです。一層、少子化対策に注力して行かなければならない深刻な状況ですが、この漸減傾向を反転させることは容易ではないと思いますので、その対策と併せて「数」から「質」の戦略に発想を転換することも必要ではないかと思います。先日、過去のブログ記事でも紹介したSTEAM教育を導入している栃木県の公立高校で教育成果が現われ始めているという新聞記事を拝見しましたが、血によって受け継がれるムラ(遺伝)努力によって育まれるムラ(教育)の関係について簡単に概観しておきたいと思います。人間の脳の基礎は12歳頃までにはほぼ形成され、この時期までにパーソナリティー(その人らしさ)の土台も整えられますので、小学校(~12歳)では子供を大人にするための教育を主目的とし、中学校以降(13歳~)ではそれを前提として社会に適応させるための教育を主目的にしています。この時期になると、学習、体験や人間関係などの環境要因(社会的なムラ)がトリガーになり、その遺伝的な素質(生物的なムラ)が能力(個性的なムラ)として発現すると言われていますが、DNAのメチル化やヒストンのアセチル化などの化学的な装飾(偶然的なムラ)によっても能力(個性的なムラ)の発現の仕方が異なること(エピジェネティクス)が分かっています。現時点では、生物的なムラや偶然的なムラはコントロールできないとされていますので、生物的なムラから個性的なムラを多彩に引き出すために社会的なムラを多様に仕掛ける工夫(主に教育)が必要であると言えるかもしれません。この点、下表のとおり学力は遺伝率(生物的なムラ)が40~70%、環境(社会的なムラ)が30~60%を占めていますが、その環境(社会的なムラ)のうち20~30%は共有環境(親が子供に提供する物的な資源及び人的な資源)と言われていますので、「この世の沙汰は金次第」という現実と同様に「この世の能力は親次第」(鳶は鷹になれない)というシビアな現実を裏付けるデータになっており、子供の努力だけで残り10~30%の可能性を使って鷹になることを期待してみるのは些か酷な注文とも言え、親が鷹の目を持って子供に潜在する遺伝的な資質を見極め、それを能力として発現するための教育機会を与えることで鷹にも劣らぬ一流の鳶になる手助けはできるかもしれません。現在、小学校の教育現場でアクティブラーニングという学習方法(生徒を能動的に授業に参加させてグループで討議したり共同で作業するなどの学習方法)が採り入れられていますが、その功罪の1つとして、一律に子供を教育することで学習の多様性が損なわれているという問題が指摘されており、教育リソースの問題と共に、この世のムラをどのように育むのか慎重な選択が求められています。
 
▼この世界で育まれるムラの分布率(行動遺伝学)
能力 遺伝率 環境
IQ(知能) 50~80% 20~50%
学力 40~70% 30~60%
芸術 50~80% 20~50%
スポーツ 60~80% 20~40%
※上表の数値は統計学的なデータで、個人の能力について何%が遺伝で決定されるのかという平均値を示すものではありません。
 
トーマス・エジソンが「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」という名言を残していますが、上述のとおり学習、体験や人間関係などの環境要因(社会的なムラ)がトリガーになり、その遺伝的な素質(生物的なムラ)が能力(個性的なムラ)として発現するという関係性が端的に表現されています。この天才的な1%のひらめき(生物的なムラ)がなければ99%の努力(社会的なムラ)も実を結ぶ機会を得られないという意味では、遺伝的な素質(生物的なムラ)を育み、それを活かすことができる教育法が有効です。現在、世界では「モンテッソーリ・アプローチ」と「レッジョ・アプローチ」という2つの教育法が広く知られており、これらの教育法が目指す基本的な人材観には共通点が多いと思いますが、それぞれのアプローチの違いから生まれる特徴的な傾向を簡単にご紹介しておきます。モンテッソーリ・アプローチは1907年にイタリア人のマリア・モンテッソーリが提唱した教育法で、人間の成長段階(~3歳は無意識的吸収、3歳~は意識的吸収など)に合わせて「自分一人で出来る」ことをコンセプトにしており、そのため「自己選択」や「自己肯定」を重視して独創性・自律性を育むという特徴が挙げられます。この点、ウォール・ストリート・ジャーナルはアメリカの巨大IT企業の創業者など世界的に成功している天才型の起業家に共通する点としてモンテッソーリ・アプローチを挙げており、これらの成功者をモンテッソーリ・マフィアと呼んでいます。これに対し、レッジョ・アプローチは1963年にイタリア人のロリス・マラグッツィなどがレッジョ・エミリア市で提唱した教育法で、個人教育ではなく人と人との関係性を踏まえたグループ教育を重視して協調性・社会性を育むという特徴が挙げられます。この点、日本の中小IT企業の創業者など努力型の経営者に多いタイプと言えます。それぞれの教育法の特徴の裏腹として、モンテッソーリ・アプローチでは独創性・自律性が育まれる一方で、個人教育により個性が磨かれるので協調性や集団行動に苦手意識を持つ傾向(ソリスト・タイプ:科学者、芸術家など)があるのに対し、レッジョ・アプローチでは協調性・社会性が育まれる一方で、グループ教育により認知バイアスが働き易いので独創性や自己主張に苦手意識を持つ傾向(トゥッティー・タイプ:公務員、会社員など)があると言われています。日本では、2024年から香川県でレッジョ・アプローチを採り入れた「芸術士派遣事業」(美術家、音楽家、舞踊家などのアーティストを芸術士として保育所などに派遣し、子供達と一緒にアート作品を創作する活動)を開始しており、その取組みが全国で注目を集めています。この点、教育における芸術は「目的」ではなく「作用」に意義があると考えられており、従来型のアセスメント(カリキュラムを消化することを目的として正誤や優劣を重視)ではなく、子供達の声を聞きながら子供達に問いを発することで子供達がグループ教育の中で主体的な探求心を育むことが重視されています。どちらのアプローチに優位性があるのかという問題ではなく、この世界のムラを育むにあたり、どのような人材観を持ちどのような教育効果を企図するのかによって、この2つのアプローチを上手く使い分けて行くことが重要と言えるかもしれません。
 
▼この世界のムラを育む諸相
専門家 対象 関係者 目的 手法 活動 自由度
教師 児童 学び方 教育 授業
ME 大人 学び方 解釈 WS
芸術士 幼児 学び方 育児 創作
学芸員 大人 見せ方 保管 研究
CU 大人 見せ方 編集 展示
※ME:ミュージアム・エデュケーター、CU:キュレーター
 
▼東京藝術大学奏楽堂モーニングコンサート2025(第3回)
【演題】東京藝術大学奏楽堂モーニング・コンサート2025(第3回)
【演目】①森口達也 インテルヴァルム・イン・スパティオ 
    ②佐藤伸輝 亜細亜音楽便覧+
【演奏】<Cond>ジョルト・ナジ
    <Orch>藝大フィルハーモニア管弦楽団
【日時】2025年6月12日(木) 11:00~
【会場】東京藝術大学奏楽堂
【一言感想】
1971年から開催されている半世紀以上の歴史を誇る東京藝術大学奏楽堂モーニングコンサート(モニコン)ですが、器楽科や声楽科の学生との共演や作曲科の学生の作品の演奏を行うための教育プログラムという位置付けで、大学の授業や学外の演奏活動とバッティングし難い時間帯として木曜日午前中の開催になっているようです。よって、客層も自ら高齢者や学生に限られることになりますので、些か慎ましやかな演奏会にならざるを得ないのは仕方がありません。但し、藝大フィルハーモニー(プロオケ)による公開演奏会なので、モニコンで採り上げられた作曲科の学生の作品のうち初演のものは尾高賞の選考対象になり得るという意味で国立大学ならではの手厚い教育的な配慮になっています。
 
①インテルヴァルム・イン・スパティオ
パンフレットには「抽象画をイメージしたモチーフを、時に予兆のように、時に記憶の残響のように描いた。聴き手の内面に眠るイメージとの共鳴を促し、具体ではなく抽象を、直線ではなく揺らぎを選ぶことで、空白の情景をひとつの心象風景へと立ち上げることを意識し」て作曲されたと記されています。「非線形」「非具象」と形容されているように、幽けき音響から取り留めもない音塊がランダムに発火しては収束することを繰り返し、時折、記憶の残響でしょうかサイレンなどのサウンドスケープ(生活音のアイコン)が生起するなど、雑然とした無意識的な脳内を音響的に表現したような作品に感じられました。前回のブログ記事でも記載したとおり、現代音楽は「感情」→「知覚」、「物語」→「現象」、「理解」→「体験」へと表現を拡張し、とりわけ「知覚」(環世界、マクロの世界)の限界(認知バイアス)から認識を解放して世界の実相(環境世界、ミクロの世界)へと認識の拡張を試みるようとする作品が増えてきたように感じられ、人間が「知覚」できるものを世界の全てであると誤解し、それを絶対的、普遍的なものであると盲信してきたことが現代の様々な歪みを生んできた猛烈な反省から、人間の「知覚」(刺身)を超えたところに成立している言葉では切り取れない世界の実相(魚)に認識を解放するために芸術に期待されている役割は大きく(刺身=肴<魚)、その意味でこの作品は非常に有意義な試みではないかと感じられます。
 
②亜細亜音楽便覧+
パンフレットには「中国の「紅歌(プロパガンダソング)」に焦点を当て、音楽が持つ政治的な性格を浮き彫りにすることを目的としている。(中略)これらが持つ過剰な高揚感を意図的に断片化したり、逆に極端に引き延ばすことで、音楽のもつ極めて扇動的な性格を浮き彫りにすることを試みた。音楽は本当に純粋なものになり得るのか。それとも、私達はあらかじめ構築された「物語」の中で踊らされているのか。」と記されています。中国のイメージを象徴する音のアイコンや紅歌(プロパガンダソング)の断章などが散りばめられ、それらが忙しなく交錯する玉石混交とした音楽が展開されました。さながらある時代の中国の世相をサウンドスケープとして切り取って考察した社会派の作品と言えるかもしれませんが、決して斜に構えた取っ付き難さのようなものはなく、これをデフォルメして遊んでしまうたっぷりとした諧謔性や中国の牧歌的な風情などが感じられる作風に好感しました。前回のブログ記事でも触れたとおり、日本は中国に忖度して「皇帝」と名乗ることを遠慮して「天皇」に改称するなど、常に中国の顔色を窺いながら微妙なスタンスをとり続けてきた歴史がありますが、強烈なプロパガンダを含め、これだけダイナミックでバラエティー豊かな音楽を畳み掛けられると、中国が持つ潜在力の高さに舌を巻きます。インターネットが普及したことで世界が相対化して権威主義的なもの(アカデミズムを含む)が持つ「私達のナラティブ」(例えば、長嶋茂雄さんのメークドラマに象徴されるような共感バイアス)が成立し難い時代になりましたが、プロパガンダもいじられてしまうようなバイタリティー豊かな現代の時代性を体現する「時代の息遣い」のようなものを感じさせる面白い作品でした。
 
 
▼量子フェス
【演題】国際量子科学技術年(2025年)記念イベント
    量子フェス
【演目】ヤニック・パジェ 弦理論交響曲「Consciousness」 
【演奏】<指揮・パーカッション・電子機器>ヤニック・パジェ
    <Vc>ウィリアム・プランクル
    <Cl>中村真美
    <Euph>川原みきお
    <Sop>谷村由美子
    <Orch>N'SO Kyotoオーケストラ
【科学アドバイザー】橋本幸士(京都大学大学院理学研究科教授)
【映像ディレクション】アレクサンドル・モベール
【リアルタイムビジュアル】サガール・パテル
【照明デザイン】木内ひとみ
【日時】2025年6月14日(土)19:30~
【一言感想】
1925年にW.ハイゼンベルクが行列力学を発表したことを契機として量子力学の扉が開かれてから100年になりましたが、その理論はミクロの世界からマクロの世界までを解明することに大きく貢献し、スマホの半導体、ロボットの強磁性体、リニアモーターカーの超伝導体及び量子コンピュータなどの革新的な技術に応用されて社会実装されており、現代社会を支える不可欠な技術として浸透しています。このような状況を踏まえ、国連総会が2025年をユネスコの「国際量子科学技術年」として宣言し、世界各国では量子力学誕生100周年を記念して様々なイベントが開催されており、日本でも日本物理学会が中心になって量子フェスが開催されるというので参加することにしました。日本はDXの推進に出遅れ、その玉突きでAIの導入や開発でも世界の後塵を拝している印象を否めませんが、既に世界各国はDXからQX(量子技術の社会実装)の推進を精力的に展開しており、このようなイべントが日本におけるQXの推進の起爆剤になることが期待されます。日本では高校の物理の授業で現代物理学を教えていないところが多いと聞きますが、これからの時代に現代物理学は不可欠であり直観的に捉え難い特徴を持つことから早い時期から慣れ親しんでおく必要があるかもしれません。この点、日本科学未来館では量子の世界をゲーム感覚で体感するための展示やアトラクションなども常設されていますので、子供を連れて遊びに行くと充実した1日を楽しめるのではないかと思います。因みに、世界中から宇宙飛行士も日本科学未来館を来館されているようで、ご自分の顔写真にサインしている方が多いです。なお、世間では小泉米で沸いていますが、日本科学未来館にはお土産として宇宙米が販売されていますので、冷え切った家庭の団欒を温める夕飯の趣向として如何でしょうか。
 
▼量子フェスのプログラム
〇第一部「講演会」
①量子コンピュータ
 <講師>大阪大学大学院基礎工学研究科教授 藤井啓祐
②量子宇宙科学
 <講師>千葉大学ハドロン宇宙国際研究センター教授 石原安野
③量子通信
 <講師>株式会社東芝総合研究所研究主務 鯨岡真美子
④量子スピンエレクトロニクス
 <講師>東京大学大学院大学院工学系研究科教授 齊藤英治
〇第二部「講演会+演奏会」
⑤量子と芸術
 <講師>京都大学大学院理学研究所教授 橋本幸士
     ドイツ・ミュンスター大学教授 ステファン・ホイスラー
⑥演奏会
 弦理論交響曲「Consciousness」
 <作曲、指揮>ヤニック・パジェ
 <演奏>N'SO Kyotoオーケストラ
〇司会進行
東京理科大学理学部物理学科教授(日本物理学会理事) 山本貴博
東京都市大学教育開発機構准教授(日本物理学会AMB) 五十嵐美樹
日本科学未来館 科学コミューターの皆さん
 
上記の①~⑤:講演会
上記の①から⑤の講演会の内容をサマっていると一冊の本が書けてしまいそうなのでご興味のある方は次の機会にご参加を頂ければと思いますが、(会場には日本物理学会の会員や科学雑誌「Newton」の編集長など専門家の姿も多かったですが)日本物理学会で行われている最先端の専門的な議論とは趣きを変え、当代一流の研究者が一般の素人にも量子力学を無理なく理解できるように分かり易い説明に努めた公演内容になっており、寧ろ、高校の物理の教師などが受講すると大変に参考になったのではないかと思います。ご案内のとおり量子力学が記述するミクロの世界は、マクロの世界しか知覚できない人間にとって直観的に理解することが困難な世界観を持っていますが、東大教授の齊藤さんの言葉を借りれば、この世界を支配する根本的な物理法則なので、いま自分がどのような世界に生きているのかという根源的な疑問と向き合ううえで決して避けては通れない身近な問題を扱っている学問と言えるのではないかと思います。開演前の会場にはループ・ミュージック(量子スピンのメタファー)やジャンルは分かりませんでしたがシタールが使われている音楽(ゼロ点エネルギーのメタファー)が流されており、日本物理学会の迷宮へと誘われるようなホスピタリティに僕の小さな脳も温められました。①阪大教授の藤井さんが量子の重ね合わせの状態を直感的に理解し易い表現で説明されており大変に参考になりました。②千葉大教授の石野さんが宇宙から届く兆しを如何にキャッチしてそこからどのように見えない世界を記述していくのかという途方もない話が非常に興味深かったです。③東芝総研の鯨岡さんが量子暗号の社会実装について説明していましたが会場には産業界の方もいて関心の高さが窺えました。④東大教授の齊藤さんが身近な磁石を例に挙げて量子の基本特性をNHKの科学番組並みに分かり易く解説されていましたが人間が直観的に理解し難い量子データの解析にはAIが活用されているという話が非常に興味深かったです。⑤京大教授の橋本さんは西洋音楽は(スペクトル音楽や微分音を除けば)半音単位の離散的な音程で構成されていることからその特徴に着目して量子数と対応づけて和音を構成するというアイデアなどから交響曲の創作を着想されたそうです。また、ミュンスター大教授のホイスラーさんは芸術は時代や文化に応じた個性的なものであるのに対して科学は時代や文化を超越した普遍的なものでありそれらの性格は真逆ですが、「数音統一」という考え方を考案して量子力学の世界観が持つ美しさを音楽で表現することに取り組まれているそうです。なお、丁度、関西万博が開催されていますが、1970年の大阪万博の西ドイツ館で生演奏を披露したK.シュトックハウゼンなども物理モデルを作曲法に応用したことで知られていますが、現代音楽以外の分野でも量子力学を題材とした作品は多く、阪大教授の藤井さんによれば、最近では宇多田ヒカルさんや星野源さんも量子力学から着想を得て楽曲を創作しているそうです。かつては人間が知覚できない神の世界を体感するために芸術作品が利用されましたが、現代では人間が知覚できない量子の世界を体感するために芸術作品が利用される時代になっています。かつて人類は神というブラックボックスを作って人智が及ばない領域を神秘として片付けていましたが、人智が及ばない領域を神秘というベールで覆い隠しまうのではなく、その実相に迫りこれを正しく記述することに挑戦しており、その世界観を体感するための1つの方法として芸術に期待される役割も大きいと言えるのではないかと思います。
 
上記の⑥:演奏会
パンフレットには「作曲家ヤニック・パジェと物理学者橋本幸士の共同研究から生まれ、素粒子物理学の数式に基づく、新たな音楽言語で構成されています。このパフォーマンスは、科学の概念を音楽に翻訳し、観客に物理学の世界を新たな感覚で体験してもらうことを目的としています。」と記されています。さながらI.クセナキスの「ノモス・ガンマ」にインスタレーションやエレクトロニクスなどの要素を追加して現代的に進化させた作品という印象を受けましたが、会場の中央(地球儀の下)に指揮者とオーケストラの本隊、それを東西南北から取り囲む客席、その客席の後方4か所にオーケストラのバンダ隊、ビジュアル・アートやライブ映像を映すためのスクリーンとライブ・エレクトロニクスを再生するためのサラウンド・スピーカーを配置する大規模な編成による規格外の音楽を楽しむことができました。初聴の曲をライブで一聴しただけなので漠然とした第一印象のみをごく簡単に残しておきたいと思います。なお、現在、開催中の関西万博は目玉となるような話題性のある企画に乏しく、あまり注目されていないように感じますが、例えば、この曲のライブ演奏を世界に一斉配信するような企画などがあっても面白いかもしれません。この曲は標題にあるとおり「弦理論」(素粒子とその相互作用を引き起こす4つの力を一次元の弦の振動として記述する理論)を題材にしたもので、第一楽章(電磁気力)、第二楽章(強い力:セラモフォン協奏曲)、第三楽章(弱い力:オーケストラ即興奏)、第四楽章(重力)、第5楽章(第五の力一統)で宇宙を支配している4つの力とそれらが1つに統合されていた状態を記述するための万物の理論を表現しており、前々回のブログ記事及び前回のブログ記事でごく簡単に触れたとおりエネルギーから物質(素粒子→原子→分子)が生成され、その相互作用(力)によって宇宙の構造が誕生する様子がオーディオ&ビジュアルで描かれていました。第一楽章は電磁気力(その力を伝える素粒子は光子)を表現したものですが、エレクトロニクスによってノイズ(対称性)が奏でられ、そこからオーケストラが弱音で奏でる和音やリズム(対称性の破れ)が生まれ、その和音(音の重なり:空間)やリズム(音の連なり:時間)がパターン(音のムラ:構造)を作って行く様子が描かれているように感じられましたが、上述のオーケストラ配置が空間的な広がり(運動の方向)を体感させる効果を生んでいました。第二楽章は強い力(その力を伝える素粒子はグルーオン)を表現したものですが、冒頭の銅鑼の一撃で会場に響き(場)が充満し、オーケストラがロングトーン(弦)を奏でると、それがライブ・エレクトロニクスを使って電子的なサウンドスケープ(波)に変換されて空間的に広がって行く様子を音響的に演出しているように感じられました。陶芸家の黒川透さんが弦理論をテーマとした音楽彫刻「セラモフォン」をヤニック・パジェさんが演奏し、その硬質で冷たい音響特性は強い力によってハドロンに永久に閉じ込められたクオークを連想させました。様々な特殊奏法により多様な素粒子が生成され、微細なリズムが密度を濃くしながら多様な素粒子が集積している様子を表現しているように感じられました。第三楽章は弱い力(その力を伝える素粒子はWボソン、Zボソン)を表現したものですが、原子核内部のベータ崩壊と言われても一般の素人には分かり難いので、これを直感的に理解し易い太陽内部の核融合反応の誘発という具体的な現象として表現されていました。リズムのモチーフを受け渡しながらテンポの緩急を繰り返して徐々に音楽のテンションを高めて行く様子は核融合反応により膨大なエネルギーが生成されていく様子を表現しているように感じられました。弦がコル・レーニョからテヌートへと変化していきましたが、局所的な現象が連鎖反応しながら全面的な現象へと発展して行く様子が描かれているように感じられました。全曲を通して言えることですが、サウンド&ビジュアルが相互に作用することで、この曲の世界観を豊かに広げてくれる効果を生んでいたと思います。昔、「純音楽」というプリミティブな言葉がありましたが、機能和声などを駆使して主に人間の感情などを表現する従来のクラシック音楽(加減乗除のシンプルな世界観)とは異なり、人間中心主義という認知バイアスから脱却して世界の実相に迫るコンテンポラリー作品(微分積分、素因数分解のコンプリケートな世界観)ではビジュアルアートなどの他分野とのクロスカルチャー的な手法を駆使する必要性が高いのではないかと感じます。第四楽章は重力(その力を伝える素粒子は未発見の重力子)を表現したものですが、スピッカートによる微弱音の集積により物質が生まれて行く様子が描かれているように感じられ、それがライブ・エレクトロニックスを使って電子的なサウンドスケープに変換されて重力波として空間に広がっていく様子が表現されているように感じられました。さながらラベルのボレロを彷彿とさせる曲調で宇宙に複雑な構造が生まれて行く様子がダイナミックに描かれているように感じられました。第五楽章は第五の力(4つの力が統一された仮説上の力)を表現したものですが、定型のリズムが繰り返され、徐々にテンポを競り上げながら大きなクライマックスを築くと、この写真のあたりにソプラノの谷村由美子さんが登場して天から降り注ぐような美しいハミングを歌われ、これに弦がユニゾン、管打がオスティナートで調和して1つの統一された美しい世界観を描き出しながら大団円になりました。それは宇宙を支配する万物の理論を頂く神々しさが体現されているようであり、神にロマンを見い出すことが難しくなった現代にあって、神の言葉を借りることなく精度の高い言語(数学)を使って宇宙、星及び生物を貫く根本的な物理法則を解明しつつある量子力学はロマンを感じることができる数少ない分野の1つであり、現代人の認知バイアスを打ち破り全く異なる世界観を拓いてくれる本当に刺激的なもので、その世界観を描く芸術表現に圧倒的なカタルシスを感じます。もはやもマタイ(神の栄光)や第九(人間の理想)が描く世界観だけでは心時めきません。
 
 
▼新作オペラ「船はついに安らぎぬ」
【演題】新作オペラ「船はついに安らぎぬ」
【作曲】永井みなみ
【脚本】河野咲子
【演出】吉野良祐、喜多村泰尚(助手)
【ドラマトゥルク】伊藤靖浩
【出演】<エリザ>鈴木遥佳
    <エリザのエコー>東幸慧
    <ポオ>櫻井陽香
    <プロスペロ/父>奥秋大樹
    <プロスペロ/子>高橋拓真
    <イズミ(略奪隊)>北見エリナ
    <キヨラ(略奪隊)>小林可奈
    <ムラサキ(略奪隊)>筒井絢子
    <アルベール(火夫)>竹内篤志
    <サミュエル(火夫)>寺田穣二
    <フランツ(火夫)>森川知也
    <夜会の王子役>鷹野景輔
    <夜会の歌手>上田彩乃
    <夜会の歌手>山田健人
    <船員/乗客/エコー>池澤真子、伊藤和奏、上原梨華子、大平遥菜
               鈴木花安、田中未来、三神祐太郎、藤田魁人
【指揮】鈴木恵里奈
【ピアノ】石川美結、佐藤響
【打楽器】永野仁美
【コレペティトゥア/副指揮】小松桃
【舞台監督】小田原築(アートクリエイション)
【舞台監督助手】福島達朗
【照明】芥川久美子(ライトシップ)
【衣裳】相川治奈
【メイク】徳田智美
【制作】花岡香梨(統括)、柴田崇考、小林愛侑
【広報】冨澤麻衣子、上原梨華子
【主催・制作】Novanta Quattro
【日時】2025年6月21日(土)14:00~
【会場】成城ホール
【一言感想】
ヴラヴィー!今日は東京を拠点として活動する若手のオペラカンパニー「Novanta Quattro」(ノヴァンタ・クワトロ)の新作オペラ「船はついに安らぎぬ」の世界初演があるというので聴きに行きましたが、最近の傾向として新作オペラは人気が高く本日も満席になる盛会でした。このオペラには「幻想怪奇オペラ」というニックネームが付されていますが、これまでのオペラとは異なる世界観を持つもので、そのユニークな世界観と完成度の高い舞台に魅了されました。現状では、どれほど優れた作品であっても一度限りの公演で使い捨てのように終わってしまう勿体ない状況がありますが、このオペラのような優れた作品の再演機会を生み出す社会的な仕組みが必要ではないかと感じています。この点、メトロポリタン歌劇場ではアメリカ国内外で初演された新作オペラや現代オペラをリサーチし、その中からメトロポリタン歌劇場の上演に相応しい作品を選んでレギュラーシーズンにかけることを専門とするアーティスティック・チームが存在するそうですが、そろそろオペラ界でもミュージカル界と同様にオフ・ブロードウェイで上演された作品のうち優れた作品を選んでオン・ブロードウェアで採り上げることで業界全体を盛り上げて行くような社会的な仕組みが出来ても良さそうです。沢山の新作( ≠ 新制作)の中から優れた作品を選りすぐり、それを幅広い観客に紹介するというマッチング・システムが未整備又は脆弱な印象を否ません。本当はそのような役割を新国に期待したいところなのですが、残念ながら新国の現状や実態を拝察する限りそのような志があるのか否かを含めて些か荷が勝ち過ぎる印象を受けますので、どこかの有為な劇場でこのような役割を担って頂けるところはないものかと観客の立場から念願して止みません。なお、拙ブログの今年の新年の挨拶では「新作オペラ」ブームの到来について触れ、今年の抱負として「新作」のフィーチャーを掲げましたが、最近では若手の世代や一部の老練古参な音楽家を中心に新作オペラの上演が目白押しで(これまでにも紹介している新作オペラ「ナターシャ」新作オペラ「奇跡のプリマドンナ」以外にも、(残念ながら僕は聴きに行くことができませんが)レクチャーパフォーマンスオペラ「ゼッタイ絶体絶対音感主義者」(神奈川県)、新作オペラ「平家物語-平清盛-」(埼玉県)、新作オペラ「みづち」(滋賀県)、新作オペラ「SUN-サン」(三重県)や新作オペラ「サラリーマン金太郎」(東京都)など枚挙に暇がなく、色々と目移りしてしまうような状況に歓喜しています)、しかも今後の展開が楽しみな稀有な才能も多い印象を持っています。最近、若者のオペラ離れが懸念されていますが、このような革新を生み出す活力があれば、決してオペラの未来は暗いものではないと頼もしく感じています。さて、このオペラは音楽、脚本、演出及びはハイ・パフォーマンスな歌手陣などの幸福な出会いが生んだ完成度の高い見応えのあるオペラでしたので、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。このオペラは、作家の河野咲子さんがエドガー・アラン・ポー(江戸川乱歩)の怪奇小説「赤き死の仮面」を原作にして脚本を手掛けていますが、河野さんは著書「水溶性のダンス」で第5回ゲンロンSF新人賞(2020年)を受賞している奇才で、(本作から受けるファースト・インプレッションとして)シュルレアリスム的な世界観を詩的な表現で幻想的に彩る作風が魅力に感じられます。「分からせる」(伝える)ための言葉ではなく、さながら和歌を詠むように「感じさせる」(伝わる)ための言葉は観客の理性のフィルターをスリ抜けて情動に直接に働き掛け、心をハキングする浸透力を持っているように感じられます。色々な日本語オペラを鑑賞してきまたが、個人的には古典語ではなく現代語を使ったオペラで、こんなに洗練された歌心を感じさせるオペラを鑑賞するのは初めての経験かもしれないことを告白しておきましょう。ミュンヘン音楽演劇大学修士課程で研鑽を積まれている作曲家の永井みなみさんは豊富な音楽的ボキャブラリーを駆使するジャンルレスで着想豊かな曲調で楽しませてくれましたが、とりわけピアノの独奏パートは歌劇と独立した器楽曲としても十分に聴き応えがあるもので、永井さんの他の作品も聴いてみたくなりました。随所にコラージュ(第三場に登場するマエストロ・ポウが夜会の上演に間に合わせるために略奪隊が他の船から盗んできた楽譜や物語を組み合わせて新作オペラを作曲しているという状況設定を踏まえたものと思われます。因みに、マエストロ・ポオという名前はエドガー・アラン・ポーを文字ったものと思われ、この役をメゾ・ソプラノの櫻井陽香さんが演じているところを見ると永井みなみさんに擬えたキャラクター設定ではないかと思われますが、その意味ではメタフィクショナルな物語と言えるかもしれません。)を散りばめて古典と現代の狭間も往還する多様な音楽で最後まで弛緩することなく変化に富んだ音楽を楽しめました。また、指揮者の鈴木恵里奈さんは、台詞と歌唱をシームレスに紡ぐ声楽陣と、ピアノ、打楽器及びエレクトロニクスというストイックな編成によるリズミカルな伴奏で正気と狂気、喜劇と悲劇、現実と幻想などの狭間を劇的に彩る器楽陣とを間合い良くドライブする好演であったことを付記しておきたいと思います。開場から開幕までの間にナレーションが挟まれ、さながらギリシャ神話に登場する人間を惑わす海の魔女セイレーンが海底深くから囁き掛けてくるような幽き声とセイレーンの呪いの歌「死の女神の歌」(波風に乗せて紡がれる、言葉では切り取れない海の歌)がスピーカーから流されましたが、それに伴って会場の照明が徐々に落とされて会場全体がセイレーンに誘われるままに海底深くへと引き込まれて行くような演出効果が出色でした。開幕後、第一幕の第一場「セイレーンの海」では海底深くに沈んでいるプロスペロ親子の船体に船員達の遺体が漂い(現在)、エルザ(海の魔女セイレーン)とエルザのエコー(その魔力)が物語の顛末(過去)を回想するレトロスペクティブな構成になっていましたが、確定的な現在(現実)から不確定的な過去(怪奇)を回想するという予定調和な展開ではなく、不確定的な現在(怪奇)から確定的な過去(現実)を回想するという倒錯的な構成になっており、その独特な世界観が放つ磁力のようなものに惹き込まれました。エルザ役を演じるソプラノの鈴木遥香さんとエルザのエコー役を演じるソプラノの東幸彗さんが海を渡る波風の音に溶け込むような清澄な歌声で歌い添う二重唱が出色で、さながら能「二人静」のシテとツレの相舞を彷彿とさせるものがありました。冒頭から、この世ならざる者が顕在しているような独特な風情を醸し出す舞台は背筋が凍り憑くような幻想美を湛えるもので、歌手陣の卓抜した歌唱力に加えて、これだけの洗練された舞台を作り上げてしまうスタッフの総合力の高さに舌を巻きました。この初演をご覧になられなかった方は大いに後悔しても良いかもしれません、マジで(笑)第二場「甲板」では回想シーンとして過去に時間が巻き戻され、(地球温暖化の影響なのか)殆どの陸が水没して人類は船上生活を強いられながら他の船を襲撃しては生活物資を略奪することを繰り返していますが、プロスペロ親子の船でも毎晩のように略奪品を肴にしてマエストロ・ポオが作曲する新作オペラをエルザが上演する豪華な夜会が開催されているというイントロダクションがありました。器楽陣によるジャズ・テイストのリズミカルな伴奏に乗せて火夫、略奪隊、船員達による勇壮な合唱が歌われる一方で、プロスぺロ船長(親)はその威厳ある態度とは裏腹に自分にしか聴こえないセイレーンの呪いの歌「死の女神の歌」に狼狽し、心を病んでいる様子がピアノ(アナログ)とエレクトロニクス(デジタル)の不協和に乗せて歌われました。プロスぺロ船長(親)役を演じるバスの奥秋大秋さんはその威厳と狼狽の間で揺れ動くプロスぺロ船長(親)の心情を巧みな歌唱と演技で雄弁に表現する好演であったと思います。第三場「夜会-つぎはぎ」ではマエストロ・ポオが略奪隊が盗んできた楽譜をもとに作曲した新作オペラ(王子とダンスしている自動人形オランビアが故障して止まらなくなり最後には王子を殺してしまうグロテスクな物語)をエリザが上演しますが、エリザの歌声に誘われるようにプロスぺロ船長(親)の耳にはセイレーンの呪いの歌「死の女神の歌」が聞こえ始めるという場面でしたが、ドラムやゴング、チェンバロ、ハープ、ハンドネオンなどの打楽器とエレクトロニクスによってコミカルな雰囲気を持つコラージュ風の音楽が多彩に紡がれ、マエストロ・ポオの作曲活動や豪華な夜会の様子が活写されました。夜会の途中でプロスぺロ船長(親)が不協和に乗せて錯乱し始めると、ミニピアノや照明などによりエルドリッチな雰囲気が醸し出され、バンダのコーラスがセイレーンの呪いの歌「死の女神の歌」を歌いながら次第にアッチェレランドして狂気が支配的になって行くドラマチックな舞台展開に魅了されました。第四場「夜の歌」ではプロスぺロ船長(親)が狂い死にしてプロスぺロ親子の船は喪に服していますが、プロスぺロjr.(息子)はセイレーンの呪いに対する恐れを払拭するために豪華な夜会の再開を命じて、略奪隊、火夫や船員が活動を再開するという場面ですが、プロスぺロjr.(息子)が恐怖に狼狽する様子がピアノのトリルやドラムのロールによる緊迫感のある音楽で表現され、プロスぺロjr.(息子)役を演じるテノールの高橋拓真さんが不協和に乗せてプロスぺロ船長(親)の狂気が乗り移って行く様子を巧みな歌唱と演技で雄弁に表現する好演で、プロスぺロjr(息子)の姿にプロスぺロ船長(親)の姿が重なって見えてくる効果(うつり)が生まれていたと思います。これとは対照的に、活気付く船内の様子がリズミカルで躍動感のある全員合唱で歌われて第一幕が終幕になりましたが、この正気と狂気の対照が物語の陰影を深くする効果を生んでいたと思います。この夜会のオペラに登場する王子とはプロスぺロ船長(親)又はプロスペロjr.(息子)を暗示している劇中劇中劇のような舞台構造になっておりマンガ「鬼滅の刃」(無限城編)のタイトルを借りればオペラ「船はついに安らぎぬ」(無限劇編)というサブタイトルを付けたくなるような趣向に感じ入りました。なお、第一幕の何場であったのか忘れてしまいましたが、エルザとマエストロ・ポオが海面に映る星々(人間のメタファー)をつなげて星座の歌(まどろみ座、あやかし座、とこしえ座・・・)を歌いますが、この世のありのままを映し出す純粋にして残酷な自然の美しさを湛えるピースであり、このオペラの歌劇としての魅力を存分に印象付けるものであったことを付記しておきたいと思います。休憩を挟んで、第二幕の第一場「稽古場」では夜会の再開に向けてマエストロ・ポオが新作オペラの作曲に試行錯誤していますが、エルザが海から聞こえてきたという物語「赤き死の仮面」をマエストロ・ポオに提案して新作オペラを完成させるという場面ですが、ここでもエドガー・アラン・ポー(江戸川乱歩)へのオマージュとしてメタフィクショナルな構成がとられていました。マエストロ・ポオが新作オペラの作曲に試行錯誤する様子をバロック、ポップス、サンバなどのジャンルレスな音楽をコラージュしてミュージカル風のアリアとして歌いましたが、その後、エルザとマエストロ・ポオがエルザが海から聞こえてきたという物語「赤き死の仮面」を二重唱で語り歌い、さらに、これをエルザとエルザのエコーがデモーニッシュな雰囲気を湛えた二重唱で歌い継ぎながら徐々にセイレーンの魔力が舞台に立ち込めましたが、さながら能「二人静」のシテとツレの相舞を彷彿とさせる場面であり、エルザとエルザのエコーの声が光と影のように重なり合いながらこの世とあの世を結ぶ能舞台の橋掛りを声で演出する劇的な効果(声の橋掛り)を生んでいるように感じられました。あまりに見事な舞台に感服するほかなく、こうなると降参するしかありません。第二場「夜会-赤き死の仮面」では再開された夜会で新作オペラ「赤き死の仮面」(赤き死の病という疫病が蔓延する世界で王と臣下は城に立て籠もり仮面舞踏会を催していますが、赤き死の病人が仮面舞踏会に紛れ込んでしまうという物語)が上演されましたが、プロスペロjr.(息子)はこの夜会のオペラは虚構ではなく現実であると倒錯して上演を中止させましたが、第一幕の第四場のように劇中劇中劇が劇中劇、劇へ舞台が相移転してしまうオペラ「船はついに安らぎぬ」(無限劇編)の真骨頂とも言うべき劇展開に固唾を呑み、ヒステリックにテンポを競り上げながらプロスペロjr.(息子)が狂気に支配されて行く様子をドラマチックに表現する迫真の合唱が見事でした。やがて人間を惑わす海の魔女セイレーン(エルザとエルザのエコー)がプロスペロjr.(息子)に囁きかけると、これに惑わされたプロスペロjr.(息子)がセイレーンの魔力に執り憑かれたように言葉にならない海の歌(ハミング)を歌い添いましたが、ピアノが奏でる詩情豊かな旋律と波風の音型は背筋を凍り付かせるような美しさを湛えるものでした。これは音楽の表面的な美しさに留まらず物語の世界に共鳴した観客(僕)の心が音楽をプロジェクションしたことで生まれた感興(聴取体験)とでも言うべきものですが、近松門左衛門が虚実皮膜論で説く「うつり」とはこのようなことを言うのかもしれません。その意味でも、観客(僕)の心を強くハッキングしてしまう非常に完成度の高い舞台ではないかと思います。第三場「甲板」及び第四場「婚礼」ではプロスペロjr.(息子)が海の魔女セイレーンに惑わされてエルザと結婚するという場面ですが、活動を再開した船内の活発な様子がリズミカルでユーモラスな伴奏に乗せて火夫、船員、略奪隊によるジャズ・ミュージカル風の合唱として歌われましたが、やがて激しい音楽と渦を巻く照明などにより嵐に伴う荒波と雷鳴と共に船が沈没する様子が描写されました。第五場「セイレーンの海」では開幕前に回帰して海の魔女セイレーンが波風の音だけ残る海底深くから囁き掛けてくるような幽き声とセイレーンの呪いの歌「死の女神の歌」(波風に乗せて紡がれる、言葉では切り取れない海の歌)が聞こえ、「これは私の物語、マエストロの物語、そして、あなたの物語」という意味深長なナレーションと共に物語が締め括られました。随所に現代の時代性を象徴するような様々なインシデントが散りばめられ、現代人にも共感できる懐の広いオペラと言え、さながら成城ホールを船、観客一人一人をプロスペロ船長(親)又はプロスペロjr.(息子)として、河野咲子さんと永井みなみさんという二人静の相舞により紡がれるセイレーンの歌に大いに惑わされながら海上(現実)にいるのか海底(虚構)にいるのか倒錯し、虚実皮膜の間を漂っているような傑作に感じられました。ヴラヴィー!このような新しい芸術体験を求めていましたが、改めて、その卓抜した独創性と完成度の高さに惜しみない賛辞を贈ると共に、これだけの傑作が再演されずに埋もれてしまうのは非常に勿体ないことなので、どこかの大劇場(オン・ブロードウェイ)で採り上げて貰えないものかと熱望します。是非、このチームでの次回作も期待したいです。
 
 
▼映画「国宝」
マスコミなどで話題になっている映画「国宝」が去る6月6日(お稽古の日)から全国公開されましたので映画館で鑑賞しましたが、上野のTOHOシネマズはほぼ満席の大入りでした。日本では民法の制定による土地の単独相続(家父長制)から金銭の分割相続(平等主義)への移行などにより家制度が崩壊しましたが、歌舞伎界を始めとする伝統芸能の世界では土地や金銭ではなく看板(アウラ)を単独相続する家制度(世襲)が残っている特殊な世界と言えます。この点、野球などのスポーツ界は看板ではなく成績(数字)にアウラが生まれるので「世襲」は成立しない分野とも言え、その意味で以下の囲み記事で触れている長嶋茂雄さんは成績(数字)をドラマで彩って背番号3番という看板で国民を魅了した国宝級の稀有な才能であったと言えるかもしれません。未だ公開されたばかりでありネタバレしないように映画の感想などは自粛したいと思いますが、5代目坂東玉三郎さん(人間国宝)が14代目守田勘彌さんの部屋子になったのが6月6日であり、その後、14代目守田勘彌さんの養子になり「芸」で身を立て坂東玉三郎(空席)の名跡を襲名したことを思い出しましたが、永井荷風の小説「腕くらべ」の世界観とも重なって虚実皮膜の間に宿る真を堪能できる映画でした。E.リンカーンが「Where there is a will,there is a way」という名言を残していますが、「道」とは自(おのずか)ら拓かれているものではなく自(みずか)ら拓くものであって、それは歩む前から見渡せるようなものではなく試行錯誤しながら直向きに歩んできた後を振り返ったらできているものであり煩悩に身を焦がす修羅の道であるということが描かれているように感じられ、上記のブログの枕で簡単に触れた「血」(遺伝によるムラ)と「芸」(努力によるムラ)で凌ぎを削る芸道の実相について色々と考えさせられる見応えのある映画ですので、是非、没入感に優れた映画館での鑑賞をお勧めしておきます。なお。歌舞伎という古典劇と映画という現代劇が重なり合う劇中劇で見られる吉沢亮さんの演技にも注目ですし、田中眠さんには何者かが憑依しています。「まだ足りぬ 踊り踊りて あの世まで」(6代目尾上菊五郎)という辞世の句に滲み出ているような芸に生きることの凄みを堪能できる観応えのある映画です。kokuhou-movie.com
 
▼20世紀の偉大なアウラ(訃報)
去る6月3日に読売巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんが逝去されたという訃報が飛び込んできましたが、長嶋さんの「野球とは人生そのものです」という言葉を体現するかのように享年89才(野(8)球(9)の才)の天寿を全うされました。長嶋さんは千葉県佐倉市臼井出身(生家跡)で、長嶋茂雄さんのご両親やお兄さんが永眠されているお墓の家紋を拝見すると「丸に違い鷹の羽紋」なので(お墓の場所はプライバシーに配慮し、また、他の檀家さんに迷惑がかかるのて秘匿)、大蔵氏流(能楽の祖・秦氏を源流として佐賀県武雄市武雄町大字永島で発祥し、朝廷の国庫である「大蔵」の管理・出納を務めたことからその職名を名乗った由緒ある氏族)である可能性が考えられます。長嶋さんは地元の小中学校から千葉県立佐倉高等学校野球部→立教大学野球部→読売巨人軍を経てその引退後も国民的な英雄として愛されましたが、千葉県立佐倉高等学校は佐倉藩校「佐倉藩学問所」を前身として創設された伝統校で、その敷地内には佐倉藩が蒐集した歴史的に貴重な蔵書を中心に展示している鹿山文庫が併設されており、長嶋さんの貴重な遺品なども展示されています。長嶋さんの名言「メークドラマ」は1996年の新語・流行語大賞を受賞していますが、長嶋さんのように国民を魅了する物語(ファクション)を仕掛けて空前の野球ブームを巻き起こしてしまう規格外の才能は見掛けなくなり、ファクトフルネスのみが重用される味気ない時代になってしまいました。因みに、千葉県佐倉市臼井は、通算勝率96.2%という歴代最高記録を誇り空前の相撲ブームを巻き起こして江戸時代最強の力士と謳われた雷電爲右衛門臼井宿の甘酒茶屋「天狗さま」の看板娘だった妻・おはん(八重)と共に晩年を暮した場所であり、雷電爲右衛門と妻・おはん(八重)のお墓も安置されています。最後に、改めて、長嶋さんの生前の偉業を讃えると共に、その逝去を悼んで、衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。

「コンポージアム2025」(ゲオルク・フリードリヒ・ハースの音楽、2025年度武満徹作曲賞本選演奏会)と「マイケル・マーフィー打楽器リサイタル」(演奏:マイケル・マーフィー、作曲:桑原ゆう)とオペラ「女王卑弥呼」(脚本:池田理代子、作曲:薮田翔一)と藝大21創造の杜2025「藝大現代音楽の夕べ」とブログの枕「この世界はムラで出来ている」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ブログの枕「この世界はムラで出来ている」
前回のブログ記事ではちびっ子達にも直観的にイメージし易いような表現で宇宙誕生の物語にごく簡単に触れましたが、その文脈からもう少し話を身近な世界に引き寄せてみると、この世界は「ムラ」で出来ていると捉えることができるかもしれません。①宇宙の根源(真空)の段階では粒子と反粒子が等数で常に生成と消滅を繰り返すエネルギーのバランス状態(対称性)にありましたが、エネルギーのバランス状態の変化などにより粒子が反粒子よりも僅かに優勢になってエネルギーの密度のムラ対称性の破れ)が生まれ(ミクロの世界)、その後、②宇宙の容器(時空)の段階を経て、③宇宙の中身(物質)の段階では宇宙に生まれた4つの力(何故、宇宙に力が生まれたのかという根源的な理由は分かっていません)のうちの強い核力や電磁力によってエネルギーの密度のムラから物質が生まれ、さらに、そのうちの重力や電磁力によって物質の分布のムラ対称性の破れ)が生まれ(マクロの世界)、それが組織化されて銀河、星、生物などの構造が誕生して、この世界が形成されました。人間の感覚器官は物質の分布のムラ(対称性の破れ)から生まれた構造やその変化を検知し易い仕組み(視覚:色、聴覚:音、触覚:形などの境界認識)に進化して世界を知覚していますが(その逆に、物質の分布のムラ(対称性の破れ)がなく構造やその変化もない状態は知覚の対象になり難く何も感じなくなります)、人間の感覚器官が知覚する物質の分布のムラ(対称性の破れ)から生まれた構造やその変化又はそれらを推知させる諸現象(陰翳)に意味が立ち上がり、そこに何らかの秩序性などを見い出すことで美醜などを認識しています。
 
▼この世界を形成するムラ(ミクロからマクロへ)のまとめ
世界 原則 例外
ミクロの世界 対称性
(ランダム)
対称性の破れ
(エネルギーのムラ)
マクロの世界 対称性の破れ
(物質のムラ)
対称性
(ランダム)
※エントロピー増大の法則(水分子の例)
エントロピー増大の原則とは秩序(ムラ)がある状態を放っておくとランダムな状態に不可逆的に変化しようとする自然界の性質のことで(何故、このような自然界の性質があるのかという根源的な理由は分かっていません)、温度が高くなると熱エネルギーが秩序(ムラ)がある状態を維持している電磁力に対して優勢になり構造を崩壊してランダムな状態になりますが、温度が低くなると熱エネルギーが秩序(ムラ)がある状態を維持している電磁力に対して劣勢になり構造が安定します。なお、もう1つの秩序(ムラ)がある状態を維持している強い核力(クオークという素粒子を結合させている力)は通常の熱エネルギーでは崩壊せず、ビックバンのような極限の熱エネルギーのみで崩壊するので、現代の科学技術では完全な対称性の回復を再現することはできません。
状態 水蒸気
(~0℃)

(~100℃)

(100℃~)
構造 気体 液体 固体
エントロピー
対称性の破れ
知覚
気体:水分子がランダムに運動して全く構造がない状態(高い対称性、高い自由度)
液体:水分子が非周期的に運動して部分的に構造がある状態(低い対称性、中間の自由度)
固体:水分子が周期的に配列して全体的に構造がある状態(対称性の破れ、低い自由度)
 
上述のとおりエントロピー増大の原則とは秩序(ムラ)がある状態を放っておくとランダムな状態へ不可逆的に変化しようとする自然界の性質のことで、これによってエネルギーや物質は散逸していきますが、例えば、真核生物は外界からエネルギーや物質を採り入れて(表面上はエントロピー増大の原則に逆行するかのように見える現象ですが)秩序(ムラ)がある状態を自発的に形成する自己組織化を行っています(何故、自己組織化が起きるのかという根源的な理由は分かっていません)。しかし、過去のブログ記事でも触れたとおり自己組織化には限界(例えば、真核生物の染色体末端構造であるテロメアなど)があり、やがて生物は自己組織化を停止して死を迎えます(ベリクソンの弧)。この点、自己組織化にあたっては最も安定的かつ効率的に組織を持続できるように一定の周期性(リズム:時間的な反復)をもった秩序(ムラ)が生まれ、その全体への伝播(パターン:空間的な構造)によって構造を形成します。この秩序(ムラ)を生む一定の周期性(リズム:時間的な反復)とその全体への伝播(パターン:空間的な構造)は外界の変化する環境(ノイズなど)などに柔軟に適応するために最適にチューニング(環境条件などに応じた多様なチューニング)され、例えば、ロマネスコのフラクタル構造(左上のイラスト)も同様にして形成されたと考えられています。上述のとおり人間の感覚器官は物質の分布のムラ(対称性の破れ)から生まれた構造やその変化を検知し易い仕組みに進化してきましたが、この文脈で言えば、音楽は音響の分布のムラ(音響の対称性の破れ)などから生まれた構造やその変化(リズム、強弱、音色、音高、長短、旋律などによる分節とそれらの連なり)などによって形成され、そこから意味が立ち上がり、そこに何らかの秩序性などを見い出して美醜などを認識してしていると言えるかもしれません。これは言葉でも同様で言葉は世界を分節するための記号であり、その記号は世界を切り取るためのツールとして日常生活に密接に関係していますが、例えば、日本語の名詞を形容詞に変換する「名詞+い」の用例を見ると「丸い」「四角い」に対する「三角い」(人間が取り扱い難い形状)や「赤い」「青い」に対する「緑い」(光合成には不必要なので吸収されずに反射される光の波長)などの用例が存在しない(即ち、言葉と環境がチューニングされていない)のは、これらがあまり日常生活に重要ではなく、これらの世界を切り取る必要性が低いもの(三角い、緑いなど)と言えるのではないかと思います。その一方で、医療現場における診療などに活用されているオノマトペ(例えば、シクシク、ズキズキなど)は言語以前の感覚と結び付いている直感的な言葉ですが、これらは日常生活に重要であり、これらの世界を切り取る必要性が高いもの(即ち、オノマトペと環境がチューニングされている)と言えるのではないかと思います。このように芸術や文化も環境とチューニングされた「ムラ」から出来ており、その「ムラ」が人生を様々に彩っていると言えるかもしれません。人生の楽しみ(ムラ)は自分で作るもの(自己組織化)ですが、最近、貴兄姉にはムラムラするような刺激的な体験(心のムラ)はありましたか?
 
 
▼コンポージアム2025
【演題】ゲオルク・フリードリヒ・ハースの音楽
【演目】①F.メンデルスゾーン 序曲「フィンガルの洞窟」
    ②G.マーラー 交響曲第10番嬰ヘ長調 から「アダージョ」
    ③G.ハース 《... e finisci già?》~オーケストラのための
                               (2011)
    ④G.ハース コンチェルト・グロッソ第1番
         ~4本のアルプホルンとオーケストラのための(2014)
         <A-hr>ホルンロー・モダン・アルプホルン・カルテット
             バルタザール・シュトライフ
             ミヒャエル・ビュトラー
             ウルリッヒ・ハイダー
             ルーカス・ブリッゲン
【演奏】<Cond>ジョナサン・ストックハンマー
    <Orch>読売日本交響楽団
【日時】2025年5月22日(木)19:00~
【会場】東京オペラシティー タケミツホール
【一言感想】
微分音の巨匠として知られるオーストリア人作曲家のG.ハースさんは、現在、前回のブログ記事で触れたT.ミュライユさんの後任としてニューヨークのコロンビア大学作曲科教授を務められています。G,ハースさんがトークセッションでお話されていましたが、幼少期にナチズムの残照に悩まされた経験があり、その救いを音楽に求めたことが作曲家になる契機になったそうです。G.ハースさんの自叙伝「Durch Vergiftete Zeiten: Memoiren eines Nazibuben」(毒された時代を生きて:ナチ少年の回想録)に詳しいですが、未だ邦訳版又は英訳版がリリースされておらず、残念ながら拝読することはできておりませんが、ナチズムと対局にあるJ.ケージの伝統に縛られない内面的自由に憧れを抱いていたそうで、やはり幼少期の体験がG.ハースさんの人生やその作風に大きな影響を与えているのかもしれません。なお、沼野さんが小室さんとの対談で「もちろんそうじゃない曲もあるけれども、ある種、文字や言葉とセットで楽しむっていう。聴けば分かるとか、聴いて楽しむとかっていうことだけじゃなくて、やっぱりそこにもうひとつ違う次元のものが混交しているのが、いわゆる狭い意味での現代音楽だと」と語られていましたが、音楽の表現対象や表現手法などが多様化するなかで「感情」から「知覚」、「物語」から「現象」、「理解」から「体験」へと音楽の受容の仕方も変化してきていると思いますが、その意味で聴衆の認知パターンもアップデートされつつある状況にあるのではないかと思います。
 
①F.メンデルスゾーン 序曲「フィンガルの洞窟」
②G.マーラー 交響曲第10番嬰ヘ長調 から「アダージョ」
メンデルスゾーンは丁寧に作り込まれたアンサンブルで、コンテンポラリーのようなストイックな印象を受けましたが、だからといって機能的になり過ぎずにどこか生々しい躍動も感じさせるバランスの良い演奏でした。マーラーも同様の印象で細部まで配慮の行き届いたアンサンブルで、マーラーのむせかえるような退廃美というよりも抑制の効いた節度ある演奏でしたが、対抗配置による立体的な音響が効果をあげていたように感じられました。何故、この2曲が選曲されたのか不思議でしたが、解説によれば、コンチェルト・グロッソ第1番は「F#」が主音のような役割を果し、冒頭からヴァイオリンが「F#」を伸ばすメンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」と「F#」が主音のマーラーの交響曲第10番「アダージョ」が選曲されたようですが、(あまり政治的な意図を持ち込むのはG.ハースさんの真意に反するかもしれませんが)2人のユダヤ人作曲家の作品を採り上げていることを踏まえると「F#」はファシズム(F)の架刑(#)を象徴していると捉えるのは勘ぐり過ぎでしょうか。
 
③《... e finisci già?》~オーケストラのための
パンフレットには詳しい音楽的な解説が加えられていますが、音楽などの抽象表現を鑑賞するにあたっては(リズムや音響などを即物的に受容することもありますが)基本的には何らかのプロジェクションを作品に投射して立ち上がってくる世界観を受容することが多いのではないかと思いますので、この作品から受けた個人的なイメージをごく簡単な感想として残しておきたいと思います。この作品の標題はモーツァルトのホルン協奏曲第1番の遺稿からホルン独奏パートに添え書きされている「もう終わりですか?」から採られているようです。冒頭からヴァイオリンが奏でる微分音の集積が密度を増しながらオーケストラ全体へと広がって盛上ると一旦収束し、再び、その微分音がうねりを繰り返しながらその高密度な集積がフォルムを形成してクライマックスを築くと次第に収束して消え失せました。さながら蝋燭が灯るように顕在する微分音が織り成すミクロの世界からそれらが集積して音価を増しながらマクロの世界を形成するその狭間に成立している音楽のようにも感じられ、この作品だけではなく次の作品にも共通していますが、明確な文脈を持たずに音の関係性で成り立っている音響世界を体現しており、言葉では切り取れない音楽という印象を受けました。それを感想に認めるのは矛盾した態度かもしれませんがご容赦下さい。なお、パンフレットには「絶対零度の如き極限の崩壊」と比喩されていましたが、絶対零度は物質(音)が「崩壊」するのではなくその熱運動が「停止」する状態を意味しており、その文脈で言えば、個人的には、この音楽は「崩壊」(終焉)というよりも、そのような時間観念を超越した「空」(熱運動が完全に停止してエントロピー増大の法則が最小状態に達することで時間観念が失われ、色即是空や量子ゆらぎに通底する不確定的で生成と消滅の境界が曖昧な世界観)へと回収されていくイメージを想起させるものではないかと感じられました。その意味では、この曲は「もう終わりですか?」という問い掛けに対し、その「崩壊」(終焉)を告げるものではなく、その続きを生み出すエネルギーが潜在している状態を表現するものとして位置付けることができるのではないかと思います。
 
④コンチェルト・グロッソ第1番
4名のソリストがE管、F管、F#管、G管の4種類のアルプホルンを舞台上で演奏する姿は壮観なものがありました。日本には玉川アルプホルンクラブというアマチュア楽団が存在しますが、アルプホルンの演奏を演奏会場で聴くのは初体験であり、おそらく東フィル団員もアルプホルンとの共演は初体験だったのではないかと思います。オーケストラはモダン配置ではなくクラシック配置(ウィーン式)で、アルプホルンを取り囲むようにヴァイオリンが左右に対抗配置され、コントラバスが金管の後方に横一線に並ぶ音響バランスに配慮されたフォーメーションが採られていました。パンフレットに詳しい音楽的な解説が加えられていますので、この作品から受けた個人的なイメージをごく簡単な感想として残しておきたいと思います。スイスの山岳地方で生まれたアルプホルンはバルブやキーがなく自然倍音のみを奏でられる楽器ですが、コンチェルト・グロッソというバロック様式を借りて、自然倍音(自然美:中近世)とドイツで生まれた十二平均律(人工美:近現代)の2つの異なる世界観の隙間を微分音を使って埋め尽くす面白い作品に感じられました。アルプホルンが奏でる旋律(自然倍音)とオーケストラが奏でるリズム(微分音)や和音(十二平均律)が対置され、これにナチス(十二平均律)がユダヤ人(微分音)を排斥し、また、都市(十二平均律)が自然(自然倍音)を排斥してきた歴史的な構図をプロジェクションしながら鑑賞してみましたが、デュナーミクやテンポ(歴史のうねりのようなもの)を大胆かつ精妙に操りながら音響が相互の関係性の中で相対化され、やがてそれらが均質化されることなく異質なまま重なり合って1つの世界観を築いて行く様子が表現されているように感じられ、1つの境界や制度などに支配されていない多様かつシームレスな世界観にシンパシーを感じ、色々なイメージが想起される面白い音楽体験になりました。
 
【演題】2025年度武満徹作曲賞本選演奏会
【演目】我妻英(日本) 管弦楽のための《祀》
    金田望(日本) 2群のオーケストラのための《肌と布の遊び》
    チャーイン・チョウ(中国) 潮汐ロック
    フランチェスコ・マリオッティ(イタリア) 二枚折絵
【演奏】<Cond>阿部加奈子
    <Orch>東京フィルハーモニー交響楽団
【日時】2025年5月25日(日)15:00~
【会場】東京オペラシティー コンサートホール(タケミツメモリアル)
【一言感想】
本日は武満徹作曲賞本選演奏会を拝聴しましたので以下に順位を掲載しておきますが、審査委員のG.ハースさんが応募総数137作品のうちの上位4作品であり本選会の順位に実質的な差はないと仰っていたのが印象的でした。この多様性の時代にあって芸術表現に何らかの規範を果て嵌めて順位をつけてみるというモダニズム的な目論見の有効性は相当に希薄なものになっているように感じますので、寧ろ、観客の立場からは各曲の潜在的な魅力を発見する契機となるようなGハースさんの示唆に富む講評が大変に参考になりました。また、オーケストラとの限られたリハーサル時間の中で作品を音にしていく難しさに関する話しも大変に興味深かったです。個人的な所感としては、上位4作品を拝聴する限り、ひと昔前の「技法」(手段)のための音楽から「世界観」(目的)を表現するための音楽(そのための技法)へと昇華している印象を受けるものばかりで、その世界観が観客のイマジネーションを多彩に引き出して面白味を堪能できるような聴き応えが感じられました。G.ハースさんの講評をサマってしまって掲載して良いのか分かりませんので、各曲毎にごく簡単に拙い個人的な感想を残しておきたいと思います。
 
第1位:金田望(日本)
第2位:我妻英(日本)
第3位:チャーイン・チョウ(中国)
第3位:フランチェスコ・マリオッティ(イタリア)
 
①管弦楽のための「祀」
パンフレットには「日本民族学の嚆矢となった著作「遠野物語」(1910)に発想を得た内容を持つ」「遠野の地では、現世の有限の生命と英会陰の時空を漂う霊魂とが交感しつつ構成している。そこには現実と非現実という二元論は存在しない。生と死とが互いの境界を超えて複雑に交錯している。」と解説されています。舞台の左右にハープとピアノが1台つづの計4台及び舞台の後方に4名の打楽器群が配置されて「重要な役割」が与えられていましたが、ピアノやメタロフォンが奏でる響きに四分音に調律されたハープの響きを重ねることでエルドリッチ感を醸し出し、その意表を突く開始に期待感が膨らみました。当初、ハープなどが奏でる四分音(非現実のメタファー?)とオーケストラの弦楽器又は管楽器が奏でる半音(現実のメタファー?)がそれぞれ短いピースを交互に演奏し、それらを長めの休符で区切ることで、さながら現実と非現実の境界が明確に区分されているような効果を生んでいましたが、やがてその境界が曖昧になりながらオーケストラが一体になって混沌とした音響塊(管理されたカオス)を生み、その合間からオケ団員が声を発して、この世ならざる者又はそれを誘う人々の情念のようなものを感じさせる効果を生んでおり、最後には消え入りように終曲となりました。コンテンポラリーの一般的な傾向としてストイックな響きが支配的でどこか煙に巻かれているような感覚になるものが多いですが、現代社会では失われつつある野趣や霊性のようなものが音楽に息衝いているかのようで新鮮に感じられました。言葉では説明し難い芸術体験を楽しめました。
 
②2群のオーケストラのための「肌と布の遊び」
パンフレットには「三宅一生の服作りは常に、「身体」と「それを纏う布」との間に生まれる空間や間の関係を追求することに重点が置かれ、この思想を三宅は「一枚の布」と呼んでいました」が「身体と服の関係を音楽化するために、舞台中央後方に配置されたピアノを「身体」、そのピアノを包み込むように左右に配置された二つのオーケストラを「身体を包む布」に見立てて作曲しています。」と解説されています。オーケストラの各パートが2群に分かれてピアノを取り囲むように舞台の左右に対抗配置されていましたが、ピアノがぎこちないフレーズを奏でると、それに呼応するように左右のオーケストラに伝播しましたが、服が身体に馴染んでいない様子を表現しているのでしょうか、とてもビジュアルな音楽が面白く感じられました。グリサンドで滑らかな布、軽快なリズムは風にそぐ布など、ポップな印象の曲調で聴き易く聴感覚から触感覚や視感覚などを想起させる描写力のある音楽で飽きさせませんでした。なお、強いて難点を挙げるとすれば、本日は1階後方の席で拝聴していましたが、ややピアノがオーケストラに埋没してしまっている印象を受けるところがあり、ピアノとオーケストラの有機的な関係が充分に感得できなかった憾みがありましたので、再演にあたって何か工夫が必要かもしれません。
 
③潮汐ロック
パンフレットには「エネルギーの交換と消散による冥王星とカロンの「同期」は「潮汐ロック」として知られ」、「潮汐バジル、干潮、最終的には潮汐ロックのプロセスを通して、広大な宇宙のなかに、ささやかでロマンチックな詩が書き込まれることになる。」と解説されています。潮汐ロックとは、冥王星(惑星)とカロン(衛星)がお互いに引っ張り合いながらクルクルと社交ダンスを踊っているようなイメージと言えば分かり易いでしょうか、地球(惑星)が月(衛星)を一方的に引っ張り回している亭主関白のような関係とは異なり、冥王星とカロンが恋人のように睦み会うロマンチックな関係と捉えることができるかもしれません。舞台(1階)=冥王星とバンダ(3階席)=カロンという編成で演奏されましたが、冒頭では宇宙の真空(対称性)を表現しているような静かな始まりでしたが、やがて弦が微細音を集積しながら盛り上がり金管が不協和を奏でていましたが(対称性の破れ)、これは潮汐バルジ(冥王星の重力でカロンの表面が膨らむこと)を表現したものでしょうか。その後、弦が激しくテンポアップし、金管の咆哮や打楽器の連打で荒れ狂いながらクライマックスを築きましたが、これはトルク(冥王星がその膨らみを引っ張ってカロンが冥王星に向き直ること)を表現したものでしょうか。最後はプリペアドハープ、チェレスタやウィンドチャイムなど光沢感のある響きが散りばめられ、冥王星とカロンが結ばれるような幸福感のある終曲になりました。プラネタリウムで聴いてみたい音楽です。
 
④二枚折絵
パンフレットには「ディプティクムという語はその起源からすでに、2つの部分kらなるように折られたあらゆるもの」で、「この形式概念によって、本作品のもつ、根本から異なる2つの場面に分けられるという構造が決定され」、「はっきりと性格づけられた数々のイメージを生じせ、それらに応じて、音楽素材とオーケストレーションが繋がりをもつ」と解説されています。二枚折絵の1枚目の絵として、冒頭から激しい弦の直線的な下降音が幾重にも重ねられました。これは1枚目の絵のモチーフである「弦の叫び=嘆き」を意味し、その嘆きは中間部で小康状態になりましたが、金管の咆哮を契機としてフラッシュバックしたかのように激しい嘆きが再現されました。長い休符が置かれた後、今度は、波打つ下降音が繰り返されるなか、チェロ・ソロが深い慟哭を奏でますが、やがてヴァイオリンの清澄な響きへと回収されて終曲になりました。果たして、この二枚折絵に何が描かれているのか作曲家のみぞ知るということかもしれません。
 
 
▼マイケル・マーフィー打楽器リサイタル
【演題】マイケル・マーフィー打楽器リサイタル
【演目】①桑原ゆう 落下する時間(とき)(ビブラフォン独奏)
    ②桑原ゆう るりの歌、星のうた(仏具打楽器と声明)
          <声明>齋藤説成
    ③リンダ・キャトリン・スミス 不可視都市(ビブラフォン独奏)
    ④桑原ゆう この素晴らしき共振世界(打楽器独奏)
【演奏】<Perc>マイケル・マーフィー
【宣伝美術】桑原ゆう
【日時】2025年5月24日(土)14:00~
【会場】安養院
【一言感想】
本日は中国系カナダ人パーカッショニストであるマイケル・マーフィーさんが日本ツアーで現代作曲家の桑原ゆうさんの世界初演されたばかりの新曲を再演されるというので拝聴に伺いました。マーフィーさんは様々なオーケストラとの共演や世界の民族音楽への傾倒など国際的に活躍するパーカッショニストとして注目されており、過去に相愛大学に留学していた経験があるので饒舌なMCで会場から笑いをとるほど日本語は堪能です。また、過去のブログ記事で簡単に触れた四天王寺の雅楽団「臥龍会」のメンバーと共に雅楽師の林絹代さんから笙を学び、自ら笙の演奏活動も行われている多芸多才振りには目を見張るものがあり、今後の活躍からも目を離せない俊英です。本日の会場である真言宗豊山派「安養院」は1257年に鎌倉幕府執権・北条時頼により創建された名刹で、境内には国の重要美術品に認定された梵鐘(1802年鋳造)が安置され、その傍らには弘法大師・空海の銅像が建立されており、その銅像の周囲を取り囲むように「お砂踏み」(弘法大師・空海が四国で修行された八十八か所霊場のお砂を集めて、そのお砂を踏みながらお参りすることで実際にお遍路したのと同じご利益があると言われています。)が配され、四国八十八か所霊場と真言密教の聖地・高野山をお参りすることができます。安養院は「板橋七福神」のうちの芸能の神様である弁財天が祀られていますが、本日は清浄で荘厳な雰囲気を湛えた瑠璃光堂(瑠璃光とは衆生を苦しみから救う薬師如来の光のことで、両界曼荼羅がディスプレーされていました。撮影禁止ではなかったので写真をリンク)で演奏が行われましたので、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
①落下する時間(とき)
パンフレットには「「縦」と「横」とは、互いに定義しあう関係にある。」というテーマのもと「「縦の方法」を試みようとした。音を積み上げて和音の柱で考え、音や音楽の自然な方向性を断ち切って継いでいく。」と記されていますが、丁度、これは両界曼荼羅の胎蔵界(内を照らす仏の慈悲)と金剛界(外を照らす仏の智慧)の対称関係に通底するものがあるように感じられました。この点、本日のプログラム構成に着目すると、第1曲と第4曲が描く両界曼荼羅に通底する世界観を「縦」として貫いて、これに第2曲と第3曲が描くそれぞれの世界観を「横」として交錯させているように感じられ、また、第1曲と第3曲がビブラフォン(西洋の器楽)、第2曲と第4曲が仏具打楽器(東洋の声楽+器楽)を使用した作品、さらに、第1曲と第3曲が同じビブラフォンを使った東洋と西洋の作曲家による作品になっており、これらの「縦」と「横」にクロスされている構成は第4曲のテーマになっている金剛界曼荼羅の五智如来の配置とも対称されて、本日のプログラム全体が両界曼荼羅の世界観が幾重にも織り込まれている1つの大きな音楽曼荼羅になっていると言えるかもしれません。さて、この作品はタイトルにも「縦の方法」の意気込みが現れています。取り敢えず、量子物理学の時間観は横におくとして、人間の感覚的な時間観念は過去→現在→未来と不可逆的に「横」に流れて行くものと捉えられていますが、ここでは時間を「落下」(縦方向の運動)として表現しています。マーフィーさんはビブラフォンのモータースイッチを忙しなく切り替えながら、ビブラートが掛かった延音をベース(縦方向の運動を意識させる基音)にして、ペダリングによるスタッカートの音粒(音子:フォノン)が基音である延音(音波)に回収されて行くようなイメージの面白い演奏が展開され、強弱などを使って3次元的に配置される音粒やアルミホイルを使ったプリペアド奏法から生まれる電子音響的な音粒などを巧みに織り交ぜながら、多彩な響き(音子、真言)が生まれ、それらの響き(音子、真言)が衆生(延音、心の乱れ)へと降り注いで浸透していく(悟り)ようなイメージで聴いていましたが、正しく音響曼荼羅とも言い得る作品ではないかと感じました。人間は芸術作品に自分のプロジェクションを投射して、それを自分のナラティブに組み込んで受容しますが、その意味で演奏する場所、照明、装飾やプログラム構成、パンフレットに記載されている解説など様々な要素によってその受容の仕方は異なってくるものであり、それが芸術鑑賞の醍醐味の1つだと感じます。その意味では安養院瑠璃光堂での演奏は特別な芸術体験をもたらしてくれる有り難い場所と言えると思います。
 
②るりの歌、星のうた
パンフレットには「真言宗豊山派声明の独唱と仏具打楽器のために、2013年に作曲。声明パートに使用したテクストは、草野心平「祈りの歌」である。」と解説されています。俗に蛙の詩人と言われる草野心平さんの詩「祈りの歌」のうち、前半の場面設定を捨象して後半の蛙語で祈りを歌う場面に音楽が付された作品です。蛙語なので言葉の「意味」は判然としませんが、真言声明では言葉の意味よりも「音響」や「リズム」を重視し、その「音響」や「リズム」を唱えることで仏の智慧と合一することを修行の目的としているという趣旨の話しをどこかで拝聴した記憶がありますので、蛙が死を認識する知性を備えているか否かは別としても万物に仏性が宿るという真言密教の考え方を体現し、自然にカエルという洒落た作品に感じられました。群馬県安中市の自性寺焼で知られる自性寺住職の齋藤説成さんが蛙語による声明を歌われ、これにマーフィーさんが太鼓、貝、銅鑼などの打楽器を使って当為即妙に伴奏を添えられていました。その後の休憩時間に齋藤さんと安養院住職の平井和成さんによる経典を使った真言声明の実演が披露されましたが、2人の真言声明の響きが自然に調和し、「自ら」(みずから)+「為す」(煩悩)のではなく「自ら」(おのずから)+「成る」(解脱)によって達せられる境地を体現できる貴重な経験になりました。
 
不可視都市
パンフレットには「カルヴィーノの「見えない都市」は、マルコ・ポーロがフビライハンの寵臣となって、さまざまな空想都市の奇妙で不思議な報告を行うという、幻想的な物語」で、「この作品も、比喩的な方法で同一の対象を複数の視点から考察」していると解説されています。アメリカ系カナダ人現代作曲家のリンダ・カトリン・スミスさんは以下の囲み記事で採り上げている日本人現代作曲家の近藤譲さんに作曲を師事していたこともあり、その作品は日本でも演奏機会が多い人気作曲家ですが、カナダの音楽に普及に尽力されているM.マーフィーさんらしい選曲です。点描と線描を交錯させながら短いフレーズが様々に変化し、フィンガー・タイピング(マレットを使わずに指で鍵盤を叩く奏法)を織り交ぜた繊細なニュアンスにより幻想的な雰囲気を醸し出す演奏を聴いていると、マルコポーロ(西洋)とフビライハン(東洋)の出会いを契機として多様な側面から都市を照射することでその見えない本質が浮かび上がってくる物語の世界観とオーバーラップしているような面白い演奏を堪能できました。
 
④この素晴らしき共振世界
パンフレットには「地水火風空を司る五智如来曼荼羅に見立てた打楽器セットを媒介として、生命や宇宙の振動に触れ、この世に生まれたことをいつくしむための音楽である。」と解説されています。過去のブログ記事で「陰陽五行」と「管絃五調子」の関係について簡単にふれましたが、桑原さんがMCでこの作品は金剛界曼荼羅に取り込まれている五行思想(五智如来と五大元素の関係:大日如来=土、阿閦如来=木、宝生如来=火、阿弥陀如来=金、不空成就如来=水)に着想を得て「鉢」(=土)、「杢鉦」(=木)、「石」(=火)及び「りん」(=金)や「水」(=水)を使って真言リズムを採り入れながら作曲したそうです。前回のブログ記事で真空(量子ゆらぎ)からエネルギーが生まれ、そのエネルギーが固まって物質(元素)が誕生するまでの宇宙誕生の物語をごく簡単に触れましたが、宇宙、星、生物の成立ちを五大元素の響き(共振)で体感し、そのイメージを刺激する意欲的な作品に感じられました。冒頭は鉢(土)や杢鉦(木)をバチ(木)で叩く音と石と石を擦る音が繰り返されましたが、上述のとおり「エネルギー→物質(元素)」から「石→土(無機物)」と「木(海洋植物→陸上植物)→土(有機物)」が誕生したことをイメージさせる演奏でした。パンフレットには「ふれる」と「さわる」の関係について解説されていましたが、ある種の聴感覚がある種の触感覚を想起させるクロスモダール現象(人間の五感が相互に作用し合う現象)により響きが生む五行思想的な世界観が体現されているように感じられました。小さなりん(金)に大きなりん(金)を蔽い被せるようにして生まれる共振、波打つ水にりんを鎮めて生まれる共振、石を木で擦って生まれる共振など五大元素が相互に作用し合って生む共振が様々な創意工夫により響きとして表現され、最後はりんとりんをぶつけながら梵鐘の音を連想させるような深い余韻を湛えた響きが奏でられ、その響きと観客の魂が共振しているような感覚に包まれて終曲となりました。異質なものが共存しながら、それらが共振し合って1つの世界を形成しているという両界曼荼羅の世界観を体現した音響曼荼羅と言い得る作品ではないかと感じられました。終演後にマーフィーさんから片手で複数の楽器を同時に演奏する際に片やクレッシェンドと片やデクレッシェンドを同時に演奏することを要求されるところがあり、非常に演奏が難しかったという苦労話を吐露されていましたが、マーフィーさんの明晰な音楽的イメージとそれを幽けき響きで仄かに薫らせる繊細な表現力がこの作品に生命力を吹き込んでいたように思われ、桑原さんとこの作品にとっては得難きパートナーに恵まれた幸運であったと言える好演であったのではないかと思います。
 
 
▼オペラ「女王卑弥呼」
【演目】オペラ「女王卑弥呼」(世界初演)
     <卑弥呼役>羽山弘子(Sop)
     <阿多の君>羽山晃生(Ten)
     <神>山口安紀子(Sop)
     <スサノオ>村田孝高(Bar)
     <ウカシ>栗田真帆(Alt)
     <張政>小幡淳平(Bass)
     <ナシメ>中原和人(Bar)
     <ウカシの侍女>六角実華(Sop)、奈良原繭里(Sop)
             真辺景子(Sop)
     <卑弥呼の侍女>今西仁美(Sop)、山瀬香緒(Sop)
             浅野真澄(Sop)、中村寛子(Sop)
             五十嵐恵美(Sop)、黒川亜希子(Sop)
             一瀬美奈子(Sop)
             小原明実(Alt)、古志佑華(Alt)
             進美沙子(Alt)、姫本紀子(Alt)
             井原芙美子(Alt)
【発案】歌舞伎俳優 中村福助
【脚本・演出・衣装デザイン】池田理代子
【作曲】薮田翔一
【演奏】<Cond>飯坂純
    <Orch>HIMIKOワールドプレミアオーケストラ
【舞台監督】岸本伸子
【舞台美術】加藤正信
【照明】成瀬一裕
【映像】荒井雄貴
【字幕】岡田哲
【収録】石井康義
【演出助手】角直之
【ヘアメイク】境千恵子
【演技指導】赤川蓮
【制作助手】今西仁美、山口三智子、村田孝高
【衣装制作】山口三智子
【衣装協力】東京衣装、桂由美
【小道具】山本安心堂
【印刷】荒井慶太
【日時】2025年6月5日(木)18:30~
【会場】東京国際フォーラム ホールC
【一言感想】
パンフレットには「この作品は、今を去ること二十数年前、歌舞伎俳優の中村福助(当時児太郎)さんの御発案により、池田理代子が脚本を書き上げたものです。(中略)しかし、作品のスケールの大きさなどから、結局アクロス公演は上演が叶わず、また、卑弥呼を演じられる予定であった福助丈の体調の急変などもあり、様々な上演の可能性を模索しましたが、実現に到らず、長い歳月が経ってしまいました。」と記されています。これによれば、当初は歌舞伎女形の中村福助さんが卑弥呼役を演じ、アクロス福岡(邪馬台国があった場所については北九州説(筑後の山門郡)と畿内説(大和)の論争がありますが、前者を意識した趣向でしょうか)で初演される予定だったそうですが、これをグランド・オペラに変更して20年越しで初演に漕ぎ着けた思い入れが深い公演のようです。ご案内のとおり卑弥呼は3世紀に活躍した人物なので、魏志倭人伝(三国志巻三十/魏書/烏丸鮮卑東夷傳第三十「倭人」条)以外に卑弥呼の実像を窺い知る手掛りに乏しく(因みに、紀記は8世紀に編纂)、その実像は歴史ロマンのベールに包まれています。このオペラの脚本はマンガ「ベルサイユのばら」で有名な池田理代子さんが手掛けられ、魏志倭人伝の記述をベースにしながら卑弥呼が邪馬台国に渦巻く権謀術数に翻弄され、その毒牙に倒れるというドラマチックな物語に脚色されていますが、その生々しい人間ドラマは卑弥呼の等身大の姿に迫り得るものになっていたと思います。ここで魏志倭人伝を簡単にサマっておくと、3世紀頃の倭国(邪馬台国を含む約30の小国から構成)は内乱状態にありましたが、鬼道(シャーマニズム)を用いる卑弥呼が登場したことで倭国の内乱は沈静化し、239年に卑弥呼が魏の皇帝から親魏倭王に制授されて邪馬台国を中心とする約30の小国の連合体制が実現しましたが、その後も狗奴国は邪馬台国に服従せずに敵対関係にありました。冒頭で合唱が魏志倭人伝の冒頭の書き下し文を朗唱して幕開けし、魏の皇帝の勅使が卑弥呼を親魏倭王に制授するために来日する様子が勇壮なダンスで表現されていました。卑弥呼が魏の皇帝の勅使から親魏倭王の証として金印紫綬を下賜される場面(これらは外交儀礼上の名目的なものとは言っても、邪馬台国が魏の属国として扱われていたことを示すものですが、過去のブログ記事でも触れたとおり後の時代になって中国との対等な関係性をアピールするために「倭」を「大和」「日本」、「倭王」を「日出処天子」「天皇」に言い換えるなど日本の独立性を守るために難しい外交政策が強いられてきました。)では卑弥呼のアリアが歌われましたが、その歌詞には現代語ではなく古典語(読み下し文)が使用され、韻律にも十分に配慮された音楽的なものだったので、日本語オペラが陥りがちな(会社の報告書よろしく)説明口調の野暮さは回避されていたので好感しました。但し、休憩時間中のホワイエで10代くらいと思しき若年層の顧客が古典語の言い回しが分かり難いと話しているのが聞こえてきましたので、幅白い世代に違和なく受容して貰うための舞台表現の難しさを感じさせます。閑話休題。これに対し、卑弥呼の台頭を快く思わない異母妹のウカシや狗奴国の官人と、卑弥呼を守りたい卑弥呼の弟(天照大王=卑弥呼と仮定し、その弟は建速須佐之男命であるという設定)や卑弥呼と恋仲になった狗奴国の将軍・阿多の君の思惑が交錯する人間臭いドラマが展開されて行きました。卑弥呼の侍女は天(太陽)を象徴する赤の衣装、その異母妹のウカシの侍女は地(森林)を象徴する緑の衣装で対比され、ソプラノの羽山弘子さんが扮する卑弥呼は天から倭国へ降り注ぐ威光を湛えた存在感を示していたのに対し、アルトの栗田真帆さんが扮するウカシは地にあって卑弥呼を排除しようと陰謀を巡らす業の深さを湛えた存在感が上手く対照的に表現されていたように感じられました。また、バリトンの村田孝高さんが扮する卑弥呼の弟が邪馬台国に侵入した狗奴国の官人を襲撃する場面では邪馬台国の風雲急を告げるかのような緊迫感漂う音楽が効果的に使用されていましたが、薮田さんの音楽には奇を衒った表現で観客を煙に巻くような灰汁はなく素直で聴き易いものであるという印象を受ける一方で、非常に着想が豊かで出汁の効いたドラマチックな表現も随所に散りばめられているもので好感しました。卑弥呼のモチーフ(「卑弥呼よ」という歌詞に付されていた4音の下降形)が印象的に繰り返されていましたが、テノールの羽山晃生さんが扮する狗奴国の将軍・阿多の君が歌う「祖国よ」(狗奴国)という歌詞にも卑弥呼のモチーフと全く同じ音型(4音の下降形)が付されており、卑弥呼と祖国(狗奴国)に対する愛の板挟みになっている苦衷が音楽的に表現されていました。卑弥呼は邪馬台国の危機的な状況を受けて御神託を仰ぎますが、ソプラノの山口安紀子さんが扮する神(白いベールに月桂樹の冠のようなものがあしらわれるアニミズムを体現する衣装)が登場し、南方から災いがもたらされると啓示しますが、卑弥呼は南方の国である狗奴国の将軍・阿多の君に心を奪われたことで御神託を授かることができなくなっています(御神託を授かる巫女には俗世とは隔絶された神聖性が求められますので、色恋沙汰のような穢れはご法度)。そこへ飢饉に苦しむ邪馬台国の民が卑弥呼に救いを求めますが、御神託を授かることができなくなった卑弥呼に不満を募らせて暴動が起こります。これを鎮圧するために卑弥呼の弟は暴徒化した邪馬台国の民を成敗しますが、卑弥呼の異母妹・ウカシの讒言により卑弥呼の弟は乱心者として成敗され、また、魏の高官・政張はこの暴動は魏への謀反に等しいとして卑弥呼も成敗されました。実際の邪馬台国は卑弥呼の弟が政治を司り巫女である卑弥呼はそれこそベールに包まれて滅多に姿を見せることはなかったようであり(現代の開かれた皇室とは全く逆のイメージ戦略ですが、テレビやSNSはすべてを映し出してしまうことから権威が生まれ難く、現代の開かれた皇室は権威から好感度にイメージ戦略を切り替えたもの)、政争に巻き込まれないように権威を保つ術を弁えていた知恵(和魂)がある人物であったと思いますが、このオペラでは現代人にも共感し易いように卑弥呼の人間性に焦点をあてるように描かれていました。最後は合唱が魏志倭人伝の末尾の書き下し文を朗唱し、卑弥呼の死後に男王を擁立したところ倭国に内乱が生じましたが、再び、(このオペラでは卑弥呼と阿多の君との間に生まれた娘という設定でしたが)女王・壱与を擁立すると倭国の内乱が沈静化したことが紹介されて閉幕になりました。最近、若年層のオペラ離れが問題になっていますが、英雄譚などを中心とするグランドオペラは多様性の時代を生きる若年層には共感し難いものになっているようにも感じられますので、現代の時代性を踏まえて大胆に素材を翻案してしまうという選択肢もあり得るかもしれません。また、音響設備がなかった時代に考案されたベルカントならではの魅力があることも十分に承知していますが、敢えて、クルーナーを効果的に採り入れることで表現の幅に広がりを持たせる選択も有効ではないかと感じています。その意味では、このオペラは生々しい人間ドラマに脚色することで卑弥呼の等身大の姿に迫り得る内容になっており、若年層にも共感し易い物語に仕立てられているように感じられました。
 
 
▼藝大21創造の杜2025「藝大現代音楽の夕べ」
【演題】藝大21創造の杜2025「藝大現代音楽の夕べ」
【演目】①廣庭賢里 《MONOlith⇄MONOlogue》
                 オーケストラのための (世界初演)

 

    ②折笠敏之 《transformatio emergens Ⅱ》(世界初演)
    ③林梨花 《Where is She?》
            十七絃箏とオーケストラのための (世界初演)
          <十七絃箏>鹿野竜靖
    ④西村朗 《2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー》
          <Pf>實川風、北村朋幹
【演奏】<Cond>ジョルト・ナジ
    <Orch>藝大フィルハーモニア管弦楽団
【司会】池辺信一郎、金子仁美
【日時】2025年6月6日(金)19:00~
【会場】東京藝術大学奏楽堂
【一言感想】
過去のブログ記事で触れたとおり、藝大フィルハーモニー管弦楽団は1899年に設立された日本最初のプロオケで数々の日本初演を手掛けてきた伝統がありますが、沙羅双樹の花とて色褪せると言われているのに人間が作ったものに色褪せないものがあるはずもありませんので、是非、その伝統を絶やすことなく100年後の名曲となべき現代の音楽の世界初演、日本初演に尽力して貰いたいと期待しています。現代作曲家の池辺晋一郎さんと現代作曲家の金子仁美さんのプレトークで2023年に他界された西村朗さんの人柄が偲ばれる裏話を伺えましたが、その死後も名前や作品を耳にする機会が非常に多く、西村さんはその作品と共に愛され続ける音楽家です。
 
《MONOlith⇄MONOlogue》オーケストラのための
パンフレットには「本作は2群に分割されたオーケストラのための作品であり、1人の人間の内面で交わされる思考の対話、あるいはその断絶を描いている。」とし、W.イエイツの詩「自我と魂の対話」の詩的構造に倣って「本作もまた分断された響きが次第に混じり合い、最終的には一つの統一された音響体として結ばれて行く。」と記されています。上述の2025年度武満徹作曲賞で優勝した2群のオーケストラのための「肌と布の遊び」と同じく中央のピアノを取り囲むようにオーケストラが2群に分かれて左右に配置され、また、同賞で第2位を受賞した管弦楽のための「祀」と同じくオケ団員が器楽を演奏しながら声を発するという作品でしたが、新しいオーケストラ作品の潮流ということでしょうか。冒頭でピアニストが何かを叫び、これと呼応するように打楽器(ピアノを含む)が激しく乱打し、その後、これと対照するように弦楽器がグリッサンド、金管楽器がエアー・サウンドが奏でられましたが、これらの照応は自我(本能)と魂(理性)の対話や葛藤などを表現したものでしょうか。最後は、ピアニストが舞台の前面に歩み出て何かを叫んでいましたが、自我(本能)と魂(理性)の対話や葛藤などを経て1つのアイデンティティとして確立する精神的な営みを音楽的に表現したものに感じられました。
 
《transformatio emergens Ⅱ》
本日の白眉でした。パンフレットには「ある素材から別の素材へと或る種「自律的」に変容させるプロセス(の類型)に関しての、コンピュータを援用した実験的な性質の試みの強い創作」であり、「特定の数系列から導かれる、微分音(四分音、六分音)を含む音高システムから数理的な手法で抽出された素材に基づく生成、生成された素材からの差倣う変換や生成といった、多層的に変化を繰り返す素材とその時間的な連絡を楽曲の基礎としています。」と記されています。パンフレットを読んでもその独特な文体は直感的な理解を許しませんが、折笠敏之さんのプロフィールを拝見すると物理学から美学を経てIRCAMで研鑽を積まれた異色の経歴の持ち主で、宛らI.クセナキスのようにコンピューターを使った数学的なアプローチから音響を即物的、現象的に取り扱う作風に感じられました。個人的には方法のための音楽はあまり好みませんが、このユニークな創作は(例えば、理論物理学など従来の音楽語法では十分に表現し切れないような)新しい世界観を描き得る表現可能性を秘めているように感じられ、(音響をそのまま即物的に鑑賞する受容態度もあり得ますが)この曲を聴く観客のプロジェクションに応じて様々な面白い表情を見せてくれる懐の広い作品に感じられました。冒頭では春霞のような実態を伴わない音響(方向性を持たない音響)が揺蕩い、やがてその音響が集積して密度を増して行きました。弦楽器のボーイングがバラバラな動きをしていたので各団員毎に異なる楽譜が使用されていたのではないかと思われますが、これにより一定の方向性を持った時間観念を無効化するようなカオスな音響空間(対称性)が出現していました。時折、そのカオスな音響の中からホルンや木管などが実態(方向性を持つ音楽的な意思)を伴った音像(対称性の破れ)が立ち上がりましたが、宛ら不知覚(ミクロな世界観、例えば、水蒸気などの気体)と知覚(マクロな世界観、例えば、氷などの個体)の境界(空間概念)を生きつ戻りつしているような面白い芸術体験を堪能できました。大きなクライマックスを築いた後、徐々にその音響の集積が収束していきましたが、これは何かの着地や解決を示す終止感のようなものとは異なり、さながら対称性の破れから対称性を回復して行くような過程(時間概念の消失)を体現しているような不思議な世界観に感じられました。
 
《Where is She?》十七絃箏とオーケストラのための
パンフレットには「本作品は、能「二人静」から着想を得て作曲」し、「シテとツレが寄り添いながら舞う独特の演出がなされる場面を、視覚的に再現することを目的に、十七絃筝とオーケストラの楽器が、奏法や音色を模倣し合うオーケストレーションを多く用いた。静香御前が菜摘女に乗り移って共に舞うように、十七絃筝はオーケストラと寄り添い合い、その境界が揺らぎながら展開する。」と記されています。おそらく音楽のコンセプトとしては次曲のヘテロフォロニーと近いものがあるのではないかと思いますが、一聴した限りの印象としては、十七絃筝とオーケストラははっきりと異なるテクスチャーを紡ぐ協奏的な作品に感じられ、それぞれが別の存在であることを印象付けながら一方の残響の余韻に他方の影が現れては消えて行き、それぞれが連環して行くような身振りには二人舞を彷彿とされるものがあるように感じられました。この曲は和洋の境界を揺るがすことも作曲意図とされていたことから十七絃筝(シテ)とオーケストラ(ツレ)が対置されていたのだろうと思いますが、十七絃とオーケストラはかなり質感が異なるので、オーケストラを囃子方、地謡や能舞台に見立て、十七絃を二面(シテ、ツレ)にした方が分かり易かったのではないかとも思われましたが、これは陳腐な素人考えというものかもしれません。
 
《2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー》
パンフレットには「自分の持てる限りの創作エネルギーをフルに注ぎ込んだような交響的ヘテロフォロニーが書きたいという欲求」から作曲を思い立ち、「2台のピアノはイメージとしてはオーケストラの中心に位置し、全体音響とその流れの発振源となる。激しく振動するピアノの強靭な響きの話の中から、大管弦楽の響きがヘテロフォロニックにたち昇ってくる、というのが作曲にあたっての原イメージ、原光景としてあった。」と記されています。上記①~③の音楽的なコンセプトを包摂しているような印象を受ける音楽で、その意味では現代音楽の分野も(エレクトロニクスの分野を除いて)色々なことがやり尽されてきているということかもしれません。第一楽章ではピアノとオーケストラによるヘテロフォロニックな響きが織り成す万華鏡のような世界観に魅了され、それが次第に密度を増しながらクライマックスを築いては収束して行くことを繰り返しますが、その収束した先にはこの音響塊のエネルギーの源泉であるピアノのトリルが顕在してくるバランスの良い精緻な演奏を楽しめました。第二楽章ではピアノの眩いトリルが光沢感を放ち、弦のグリッサンドが幽けき音で揺蕩う幻想的な演奏を楽しめました。続く第三楽章ではピアノがヒステリック気味に快活なトリルで捲し立てると、この挑発にオーケストラが呼応してヘテロフォロニックな響きを集積させながらクライマックスを築く構築感のある演奏が展開されました。ピアノがリズミカルなダンスを展開すると、これがオーケストラに伝播して密度を増しながら最後はオーケストラが絶叫するかのような交響的なヘテロフォロニックな音響世界へと突き抜け、奏楽堂の残響が飽和する大団円で終曲になりました。非常に熱量の高い終曲で、プレトークに絡めて言えば、西村さんも酒が進んで桃源郷で筆が冴え渡っていたということかもしれません。「天才と狂気の間にワインあり」と言いますが、西村さんの才気が薫り立つ音楽に酔い痴れました。
 
 
▼新作オペラ「ナターシャ」創作の現場から~台本:多和田葉子に聞く~
2028年8月11日(月・祝)から2025年8月17日(日)まで新国立劇場の日本人作曲家委嘱作品シリーズ第3弾としてオペラ「ナターシャ」(作曲:細川俊夫さん、台本:多和田葉子さん)が世界初演されますが、それに先立って2025年5月15日(木)に台本を担当している多和田葉子さんのトークイヴェント(司会:松永美穂(翻訳家・早稲田大学文学学術院文化構想学部教授)が開催されるというので拝聴することにしました。多和田さんはロシア文学専攻で(M.バフチンの影響でしょうか?)多声社会論で知られている小説家ですが、冒頭では多和田さんの簡単な経歴が紹介されました。多和田さんと細川さんとの出会いは1997年にハンブルクでH.ラッヘンマンのオペラ「マッチ売りの少女」が世界初演された伝説的な公演だったそうですが(この公演では宮田まゆみさんが「笙」を演奏されて日本でも話題になりましたが)、その後、多和田さんは1998年に細川さんのオペラ「リアの物語」がミュンヘンで世界初演された公演を鑑賞するなど両者の親交が続き、オペラ「ナターシャ」のタッグに結び付いているそうです。(途中から細川さんもトークに加わり)かねてから細川さんは多和田さんの小説「飛魂」を読んでオペラにしたいと考えていたそうですが、そのシャーマニックな世界観にインスピレーションを受けられたという趣旨のことを語られていました。オペラ「ナターシャ」の主人公ナターシャはウクライナ人という設定ですが、このオペラの構想は2019年12月から始まったコロナ禍で開始されたものでコロナ収束後の2022年2月から始まったロシアによるウクライナへの本格的な軍事進攻とは直接の関係はなく、個別の国際紛争をテーマとして扱った作品ではなくもっと普遍性を持ったテーマを扱った作品だそうです。多和田さんは海の声が分かるナターシャは言葉がなくなった後に残る情念のようなものを体現する存在として描いたという趣旨のことを仰られていましたが、「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」(古今和歌集)にある言葉が生まれる前の「心の種」、即ち、言葉が持つ意味(理性)で整えられる前の生命に直結する情動のようなものに眼差しが向けられているように思われます。また、多和田さんは現代語は読書するための言葉であり歌唱には不向きで古典語の方が歌唱に向いており、その点を意識して台本を創作されたそうです。過去のブログ記事でも触れましたが、「詩の深化」(三島由紀夫「文化防衛論」)を忘れて言葉が磨かれなくなった現代語よりも詩情豊かに心を彩る力を持った香気ある古典語に息衝く(プロットの面白さよりも)聴感の心地良さに魅力を感じることが多く、我が意を得たりと思いながら拝聴しました。ネタバレしないように詳しくは書きませんが、オペラ「ナターシャ」は現代人の価値観で共感できるオペラになっているようなので、大変に楽しみです。
 
▼近藤譲のオペラ「羽衣」(日本初演)
昨年、現代作曲家の近藤譲さんが第55回(2023年度)サントリー音楽賞を受賞されましたが、その受賞記念コンサートとして2025年8月28日(木)に近藤さんのオペラ「羽衣」(1994年)が日本初演されます。オペラ「羽衣」はフィレンツェ五月音楽祭(フィレンツェ市立歌劇場のオペラ音楽祭)の委嘱により、近藤さんが世阿弥の能「羽衣」を題材して台本を手掛け、作曲された作品です。なお、オペラ「羽衣」の公演前には近藤さんのドキュメンタリー映画も上映される予定なので楽しみです。

新交響楽団第269回演奏会(芥川也寸志生誕100年)とヤポネシアの耳第2回公演~邦楽器をめぐる7つの響命~と独演会「志ん輔蝉の会」(古今亭志ん輔、淡座)と東京都交響楽団第1020回定期演奏会Aシリーズ(作曲:夏田唱和ほか)と「科学と宗教のコスモロジー」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼「科学と宗教のコスモロジー」(ブログの枕)
渋谷の新しいランドマーク「渋谷スカイ」では、毎月、屋上展望空間「スカイ・ステージ」(地上高229m)に設置されている天体望遠鏡を使った天体観測イベントが開催されており、月、木星、土星や天の川などを観測できます。渋谷という地名の由来は諸説ありますが、JR渋谷駅の周辺はの地形で鉄分を豊富に含む(鉄の赤サビが生む茶褐色)の川が流れ込んでいたことから「渋谷」と呼ばれるようになったと言われており、地の川が流れ込む渋谷から夜空に広がる天の川を観測して宇宙のロマンに思いを馳せてみるのも洒落ているかもしれません。「宇宙」という言葉は、「宇」(空間)と「宙」(時間)を意味していますが、古代から人類は夜空に広がる星を観測しながら移動に必要な「方角」(宇=空間)に関する情報や農耕に必要な「季節」(宙=時間)に関する情報を得ていたと考えられています。紀元前3000年頃にメソポタミア文明を築いたシュメール人が星と星を結んだ星座を生み出し、それが古代ギリシャに伝わってギリシャ神話を育み、天文学のみならず宗教や文化としても発展しました。古代バビロニアの宇宙観は天上界(神)と地上界(人間)を区分する二元論的な世界観、古代インドの宇宙観は天上界(神)と地上界(人間)を区分しない一元論的な世界観を生み出しましたが、過去のブログ記事で簡単に触れたとおり気候変動の要因などがこの世界観の違いを生んだものと考えられます。また、過去のブログ記事で簡単に触れたとおり中世までの宇宙観は天動説(科学)とキリスト教(宗教)が結び付いて地球を中心にして太陽、月、惑星が真円軌道(神の絶対秩序)を周回しており天上界は神の領域と考えられていましたが(科学と宗教の結合)、近世以降に太陽を中心にして地球を含む惑星が真円軌道を周回している地動説(科学)が説かれるとキリスト教(宗教)の宇宙観と矛盾が生じ、その後、太陽を中心にして地球を含んだ惑星が楕円軌道(神の絶対秩序は幻想)を周回していることや万有引力の発見で天上界と地上界が同じ原理で規律されていることなどが説かれたことによりキリスト教(宗教)の宇宙観は否定されることになりました(科学と宗教の分離)。現在はE.ハッブルにより宇宙の膨張が観測されたことなどを契機として相対性理論(マクロの世界を記述する物理学)と量子物理学(ミクロの世界を含めて記述する物理学)を統合するための理論(量子重力理論)が探求されています。因みに、大まかな目安として、0.1ナノメートル(=1ミリメートルの1000万分の1=1オングストローム)以上がマクロの世界、それ未満がミクロの世界と捉えることができそうです。宇宙誕生の物語は諸説がありますが、その代表的なモデルをごく簡単にサマライズすると、以下のようになるのではないかと思います。
 
▼1分で読む宇宙誕生の物語
スカラー場やヒッグス場などの専門用語はマルっと割愛し、ちびっ子達にも直観的にイメージし易いような表現で物語ってみました。よく「死んだら星になる」という言い方をしますが、以下の③などにより生成された物質が重力(時空の歪み)などにより結合して星や銀河を形成し、その過程で生成された元素から生物は組成されていますので、人は「星のカケラ」とも言われています。人が死んだら星になり、星が死んだら人になるという輪廻観はモリかもしれませんがホラとまでは言えないかもしれません。
 
①宇宙の根源(真空)
真空でもエネルギーは完全に無になることはなく粒子と反粒子が生成と消滅を繰り返す量子ゆらぎの状態(真空エネルギー)にあり、真空がより低いエネルギー状態に変化すること(真空の相移転)で、その差分のエネルギーが波(場のエネルギー)として顕在
 
②宇宙の容器(時空)
上記①で顕在した場のエネルギーが非常に高密度になり、時空の急膨張(インフレーション)を引き起こして宇宙の基本構造を形成
 
③宇宙の中身(物質)
インフレーションの終了に伴う再加熱により場のエネルギーが粒子エネルギーや熱エネルギーなどに変換され(ビッグバン)、宇宙が冷却する過程で粒子エネルギーや熱エネルギーなどから物質(素粒子→原子→分子)が生成されて現在の宇宙を形成
 
※宇宙の終末シナリオとしては「ビッグリップ」(宇宙が膨張を続けてバラバラになるシナリオ)、「ビッグクランチ」(宇宙が膨張から収縮に反転してペチャンコになるシナリオ)、「真空崩壊」(宇宙の真空の状態が変化して時空が崩壊するシナリオ)などが理論的に予測されています。
 
宇宙誕生の物語を俯瞰すると、「ある」「ない」などの状態が定まらない揺らぎ(不確定性)から「ある」「ない」などの状態が定まる(確定性)過程で、現在の宇宙が形成されたとイメージすることができるかもしれません。人間は確定的な状態のみを知覚することができますが、観測機器の開発などにより不確定性に基づく諸現象を観測又は予測することができるようになり、マクロ(確定性)の世界観を記述する古典物理学とミクロ(不確定性)の世界観を含めて記述する現代物理学が発達しています。重力は、質量やエネルギーによって時空が歪む現象(質量やエネルギーが時空の歪みに沿って動くことでお互いに引き合っているように見える現象が生まれ、ニュートンはこの現象面を捉えて万有引力の法則を発見)であり、その歪みが時空を波として伝播する現象が重力波ですが(但し、現代科学でも重力や重力波が生まれる理由は不明)、宇宙には大量の質量やエネルギーがあるにも拘らず、それらから生まれる「引力」(重力)に逆行して宇宙が膨張を続けている理由として引力とは逆の斥力を生む「ダークエネルギー」(宇宙全体の約71%)の存在が予測されています。また、銀河の質量(引力)に対して銀河の回転速度(遠心力)が速過ぎるのに銀河が遠心力でバラバラにならないことや銀河を構成する内側の星と外側の星で公転周期が一致していること(内側の星と比べて外側の星の公転周期が長くなることはなくレコード盤のように公転)などから強力な引力を生む大量の質量を持った「ダークマター」(宇宙全体の約24%)の存在が予測されています(宇宙全体の残り約5%が元素周期表の元素で構成されている物質)。ダークエネルギーやダークマターは発光や収光がないので直接的に観測することは不可能と考えられていますが、その存在を示す現象は観測されています。この点、ダークマター、ダークエネルギー、ビックバンやブラックホールなどを解明するためには相対性理論(マクロの世界)と量子力学(ミクロの世界)を統一する「量子重力理論」(ループ量子重力理論、超弦理論など)の確立が必要と考えられています。しかし、現状、宇宙に存在する4つの力のうち電磁気力、強い核力、弱い核力を量子力学(量子場理論)で記述することには成功していますが、重力を量子力学で記述することには成功しておらず、宇宙全体(マクロの世界からミクロの世界までの全体)を統一的な理論で記述することは実現していません。この点、重力を量子力学で記述するためには時空が離散的であることが必要ですが、相対性理論は連続的で滑らかな時空を前提にした理論であることからこれと相容れず、重力を記述する統一的な理論(量子重力理論)の完成には困難な課題を克服する必要があると言われています(宇宙のウロロボス)。なお、仏教の宇宙観についてはインドの僧侶・世親の著書「倶舎論」(4世紀頃)に記述されていますが、その詳細な内容は定方晟さんの著書「須弥山と極楽」(ちくま学芸文庫)に譲ることにして、以下に少しだけ導入に触れておきたいと思います。上述のとおりキリスト教では神と自然を分離し(自然は支配の対象)、神の世界は人間の世界である地上界と区別された天上界にあると観念されていましたが、その一方、仏教では神仏と自然は一体(自然は畏敬の対象)であり神は自然(地上界)の中に宿ると観念され、それが仏教の宇宙観である須弥山として比喩的に表現されています。これによれば、人間がいる世界は贍部洲(肉体と欲望がある欲界)として表現され、そこは煩悩(散心の有情)に支配されていると考えられていますが、神がいる世界(天界)は須弥山(人間がいる世界と同じ地続きで、肉体はあるが欲望がない色界及び肉体や欲望がない無色界で構成)として表現され、そこは解脱や涅槃という悟りの境地(瞑想の状態)があると考えられており、仏教ではキリスト教のように神の救いを祈るのではなく自ら修行により煩悩を超えて須弥山を登ることで解脱や涅槃という悟りの境地に到る重要性が説かれています。その後に登場した大乗仏教では単一の世界ではなく複数の世界が並存しているという概念が生まれ(多元論的な世界観、さながらマルチバース宇宙論)、その複数の世界の1つとして天界(須弥山)とは別の極楽浄土(キリスト教の天上界のようなもの)が観念されましたが、現代人が極楽浄土などの宗教的な世界観を素直に受け入れることは難しいとしても、仏教教義が説く人生哲学や心を整える方法などの実践的な意義は見直されてきています。この点、科学的な世界観と仏教的な世界観は共鳴する部分もありますが、科学は「自然」を起点にして世界の実相(存在論的な真実:自然法則)を記述するための学問ですが、仏教は「人間」を起点にしてどのようにすれば苦しみから救われるのかという観点から世界の道理(実践論的な真理:縁起、無常、空などの思惟)を観念するための宗教であり、その発想や目的が全く異なっているように感じられますので、この両者を並べて語ることにあまり意味はないかもしれません。
 
 
▼新交響楽団 第269回演奏会(芥川也寸志生誕100年)
【演題】新交響楽団 第269回演奏会(芥川也寸志生誕100年)
【演目】芥川也寸志 オルガンとオーケストラのための「響」(1986年)
     <Org>石丸由佳
    R.シチェドリン ピアノ協奏曲第2番(1966年)
     <Pf>松田華音
    D.ショスタコーヴィチ 交響曲第4番ハ短調(1961年)
【演奏】<Cond>坂入健司郎
    <Orch>新交響楽団
【日時】2025年4月19日(土)18:00~
【会場】サントリーホール
【一言感想】
1955年に東京労音(アナログの時代に一世を風靡した民間の会員制音楽鑑賞団体「全国勤労者音楽協議会」の下部組織)の会員が作曲家・芥川也寸志さんを指揮者に迎えて東京労音アンサンブルを発足し、翌年に新交響楽団(東京労音新交響楽団)と改めて70年間に亘って活動しているアマオケです。日本最初のプロオケは1899年に設立された藝大フィルハーモニア管弦楽団(東京音楽学校管弦楽団)、日本最初のアマオケは1901年に設立された慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラ(ワグネル・ソサィエティー・オーケストラ)ですが、学生主体ではなく社会人主体のアマオケとしては1925年に設立された諏訪交響楽団が知られており、これらに次ぐ歴史を誇る新響はアマオケの草分け的な存在として、芥川さんの指導のもと本日の演目であるショスタコの交響曲第4番を日本初演し、また、そのシリーズ演奏会「日本の交響作品展」は1976年にサントリー音楽賞を受賞するなど日本のクラシック音楽の普及に重要な役割を担ってきた楽団と言えます。今でこそショスタコは演奏会の華として定番曲の地位を不動のものとしていますが、20年前は宛ら現代音楽のような不遇の扱いで演奏会で採り上げられる機会は殆どなく、未だナクソスのようなデジタルコンテンツもなかった時代にショスタコの音盤を求めて輸入盤を漁っていたこと(ショスタコの音盤を持ち歩いていると変態扱いされた時代感覚)を懐かしく思い出すにつけ、今日のような恵まれた状況になったことは新響の貢献が大きいのではないかと感じます。
 
①オルガンとオーケストラのための「響」(1986年)
この曲はサントリー株式会社第2代目社長の佐治敬三さん(創業者の鳥井信次郎さんの次男)がサントリーホールを創設するにあたりサントリーホール落成記念作品の作曲を作曲家の芥川也寸志さんに委嘱し、1986年10月12日から開催されたサントリーホールのオープニング・シリーズ落成式典で、最初に初代館長の佐治さんがパイプオルガンで「ラ(A)」の音を大ホールに響かせた後、サバリッシュ@N響(Org独奏は日本のオルガニストの草分け的な存在である林佑子さん)の演奏で世界初演された記念碑的な作品になります。同日の午前は落成式典(この曲、ベト@レオノーレ第3番)、午後は落成記念演奏会(ベト@交響曲第9番)、夕方は落成記念「ザ・ガラ」(様々な演目)で華々しい式典になったようです。佐治さんはサントリーホールの創設にあたって、H.カラヤンから「オルガンのないコンサートホールは、家具のない家のようなもの。オルガンは、ホールの真ん中になければいけない。コンサートホール自体が、オルガンを備えた楽器なのです。」と助言され、ベルリンフィルハーモニーホールと同じくヴィンヤード(ぶどう畑)型のホール構造にするように勧められ、それが世界最高峰を誇るサントリーホールの音響(客席の椅子の生地までぶどう柄にする拘りで、極上の音響空間が生み出す豊穣な音楽にほろ酔い気分!)として結実しています。なお、この曲のタイトルにある「響」とは、サントリーホールのパイプオルガン(世界有数のパイプ総数5898本とストップ数74が生み出す多彩な響き)に掛けて「人と自然と響きあう」というサントリーの企業理念から生まれたサントリーウィスキーのプレミアムブランド「」(24節気を表した24面カットのボトルデザインは四季の移ろいを象徴し、生成色の越前和紙に「響」の文字を墨書した趣きのあるラベル)を意識したものではないかと思いますが、日本の気候風土が育んだモルトとグレーンが醸し出す繊細な香りと豊かな味わいの極上のハーモニーが世界から高い評価を受けています。かくして、今年で生誕100年を迎えた芥川さんがサントリーホールの落成式典のために作曲した作品を他ならぬ芥川さんの手兵である新響がサントリーホールで再演することの意義は非常に大きく、この演奏会に立ち会えたことが感慨深く感じられます。サントリーホールの落成式典で演奏するための曲だけあって、サントリーホールの顔であるパイプオルガンを中心に据えてサントリーホールとオーケストラを一つの楽器として幅広い音域(音高)、音色や音量で鳴らし切ることを意識した作品に感じられます。当時はアナログ時代で観客の感想が残されていないのが残念ですが、冒頭でクロティルが奏でるモチーフの儚げな響き(さながら真空に宿る音の種)が澄み渡り、サントリーホールの響きが別次元にあることを強烈に印象付けるものになっています。それがオーケストラに伝播して高い緊張感(高いエネルギー)で張り詰めた微弱音を奏でますが、突然、サントリーホールの響きが飽和するようなタムタムの大音量が充満して、さながらサントリーホールの響きが生まれた瞬間(ビックバン)を表現しているように感じられました。その後、サントリーホールの響きの宇宙を体現するパイプオルガンが重厚な和音と疾風のトッカータを繰り返しますが、オルガニストの石丸由佳さんが精妙なペダリングやレジストレーションでパイプオルガンのポテンシャルを存分に引き出しながら、オーケストラとのバランスに配慮された好演を楽しめました。これに触発されてオーケストラが覚醒し(さながら響きの銀河)、アマオケとは思えない合奏精度の高さでモチーフの受け渡しにも隙がない洗練されたアンサンブルを展開し、精妙に響きをコントロールする構成感のある好演を楽しめました。このような見通しの良い演奏を実現しているのは、指揮者の坂入健司郎さんの音楽的なビジョンの明晰さと共に、それに的確に応える個々のオケ団員の技量の高さが相乗している賜物だと思います。本日はトラが乗っていたのか否か分かりませんが、とりわけファゴット、フルート、トロンボーンを筆頭にして管楽器の秀演が目だっていたと思います。再現部を経て、コーダではオーケストラがサントリーホールの響きを飽和させる力強いクライマックスを築いて終演となりました。某雑誌の対談で音楽学者の岡田暁生さんが「クラシック音楽の賞味期限切れ」について語られているのを拝読しましたが、変革の時代を迎えて新しく多様な芸術表現が模索される時代状況のなか、来年で開館40周年を迎えるサントリーホールは多様な芸術表現が生む新しいニーズに十分に応えるためにコンサートホールのあり方という観点での進化が求められているようにも感じ(新約聖書マタイによる福音書第9章第17節新しいぶどう酒は新しい革袋に盛れ」)、その意味で来年はサントリーホールの次の50年を見据えた準備のための10年が始まる年と言えるかもしれません。
 
②ピアノ協奏曲第2番(1966年)
ロシア人児童文学作家のS.マルシャークがスロバキア民話を題材にして創作した戯曲「森は生きている」は日本でも音楽劇(オペラミュージカル)やアニメ映画として親しまれていますが、1989年にR.シチェドリンはホリプロの委嘱で同書を題材にした日本語ミュージカル「12ヶ月のニーナ 森は生きている」を作曲し、名古屋の中日劇場(2018年に閉館)で初演しています。その際の詳しい経緯がパンフレットで紹介されていて大変に興味深く拝読しました。ピアニストの松田華音さんは2021年11月25日に飯森範親@日本センチュリー交響楽団とR.シチェドリンのピアノ協奏曲第1番を日本初演して話題になりましたが、本日はR.シチェドリンのピアノ協奏曲第2番が演奏されるというので楽しみにしていました。過去のブログ記事でも書きましたが、R.シチェドリンがD.ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」に倣って作曲した同名タイトルの「24の前奏曲とフーガ」の実演にも接してみたいと切望しており、是非、松田さんに採り上げて欲しいと期待しています。この点、約20年前はD.ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」(だけではなく交響曲を含む殆どの作品)が演奏会で採り上げられる機会は皆無に等しく、2006年にピアニストの三宅麻美さんがD.ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」の全曲演奏会を開催し、初めて実演に接する機会に恵まれて興奮を禁じ得なかったことを思い出します。さて、第一楽章の冒頭では松田さんが粒際立った硬質なタッチとセンスの良いフレージングで無機質な音列の中にも歌心を感じさせる華(面白味)のある演奏で魅了してくれましたが、何と豊かな音楽性を持ったピアニストなのでしょうか。やがてピアノとオーケストラが小気味よい丁々発止で渡り合う緊密で隙がないスリリングな演奏を繰り広げ、一気に会場の空気を呑み込んでしまう熱演に惹き込まれました。坂入さんはデュナーミクを精妙に操りながら音楽にメリハリやテンションを生んで行く表情豊かな演奏を聴かせていましたが、この高い水準の要求に的確に応えてしまうオケ団員の技量の高さ(とりわけ管楽器)に惜しみない賛辞を送りたいと思います。カデンツアでは松田さんが思索的に紡ぎ出す1音1音に背筋が凍り憑くような研ぎ澄まされた美しさが湛えられており、その詩情溢れる演奏は恍惚感を覚えるほどでした。第二楽章はショスタコーヴィチを彷彿とさせる諧謔性に富むトランペットが出色で、ピアノとオーケストラが感興に乗じたリズミカルなアンサンブルを展開し、正気と狂気の狭間を縫うような閃き溢れる演奏に息を呑みました。ピアノが快活なスタッカートでオーケストラを挑発すると、これにオーケストラは活舌良く呼応して一歩も譲らず、ゾクゾクするようなスリリングなアンサンブルに思わずニヤケてしまいました。オモロい。第三楽章はピアノの連打が醸し出すメランコリックな雰囲気に誘われるように、弦が哀切感漂う濃厚なアンサンブルを展開しましたが、突然、モダンジャズの軽快なピースが挟まれ、テンションの高いピアノにコントラバス、ドラムス、ピアノ、ビブラフォンが機敏に呼応する即興感のある演奏が効果的に対照されており、「弘法、筆を選ばず」とはこのような演奏のことを言うのだろうと思わせるグルーブ感に打ちのめされてしまいました。ジャズバー「サントリーホール」の風情にすっかり魅了されましたが、主治医から禁酒令が解除されたら久しぶりにジャズバーに通ってみたいと思わせてくれる好パフォーマンスを楽しめました。これに触発されたオーケストラ(クラシック陣営)は暴力的なリズムで殴り込みをかけてくるピアノ(クラシックとジャズの双方の素性を持つピアノ)と丁々発止に渡り合い、その狂気的で緊迫感を伴うアンサンブルはクラシックの原子核がジャズの原子核と相互作用して核融合反応を起こしているような規格外の演奏に興奮を禁じ得ませんでした。最後はピアノとオーケストラが一体になってリズミカルにクライマックスを築く好奏を楽しめました。ヴラヴィー!
 
<アンコール>R.シチェドリンのバッソ・オスティナート
アンコールとして、R.シチェドリンのピアノ独奏曲「2つのポリフォニックな小品」より第2曲「バッソ・オスティナート」が演奏されました。この曲は日本の演奏会でも採り上げられる機会が多い人気曲だと思いますが、左手の堅牢なリズム(バッソ・オスティナート)と右手の軽快なステップが心地良いバランスで絡み合い、中間部、再現部を通して当意即妙で奔放自在な演奏を楽しめました。単に上手な演奏ということに留まらず、音楽に宿る霊性を発現して聴衆の魂を奮い起こす力を兼ね備えた豊かな音楽性に感じ入る充実した演奏を楽しめました。おそらく「御魂振り」の「楽」とは、このような演奏のことを言うのだろうと思います。今を時めくピアニストであることが得心させられる好演でした。ヴラヴァー!
 
③交響曲第4番ハ短調(1961年)
この曲は(もはや)定番曲なのでごく簡単に。アマチュアとは思えない合奏精度の高さで解像度が高く雄弁なアンサンブルは十分な聴き応えがあるもので、この曲の日本初演を果たした伝統ある楽団の面目躍如たる好演を楽しめました。個々のオケ団員の技量の高さに裏打ちされた精緻なアンサンブルは卓抜した機動力を発揮し、タコ節を存分に堪能できる満足度の高い演奏を楽しめました。強いて難癖をつけるとすれば、もう少し狂気を演出して欲しかったという憾みが残るところもあり、それが音楽に潜むアイロニカルな隠し味を薄めてしまっていたように感じられるところもありましたが、多分に個人的な嗜好の問題かもしれません。坂入健司郎さんはこのアマオケのポテンシャルを自在に引き出し、マーラー、チャイコフスキーやストラヴィンスキーの出汁が充分に効いている風味豊かな演奏で魅了していました。
 
 
▼ヤポネシアの耳 第2回公演
【演題】ヤポネシアの耳 第2回公演
    ~邦楽器をめぐる7つの響命~
【演目】①橋本朗花 共命の鳥(2025年)
     <篠笛>山本一心
     <篳篥>阿部三世子
     <シンセサイザー>野口文
     <ピアノ>橋本朗花
    ②柴田歩 素描之鏡(2025年)
     <邦楽囃子>宮田花和
     <Vc>丸山悦未子
    ③吉田奏子 1000✕2000(2025年)
     <笙>青木総喜
     <Pf>渡辺俊爾
     <Sax>福永健治
    ④畠山春朗 Facing Light/継承(2025年)
     <十七絃筝>小原瑠里
     <Mez>下田一葉
     <Ten>阪本京
     <Perc>Theo Guimbard
    ⑤佐藤伸輝 Asian Music Guide2(2025年)
     <筝>鹿野竜靖
     <Fl>菊地奏絵
     <サンプラー>佐藤伸輝
    ⑥浦山翔太 月を創ろう!(2025年)
     <筝>吉越大誠
     <尺八>吉越瑛山
     <Vn>東佳菜子
     <Cb>水野斗希
    ⑦江田士恩 不確かの彼方へ(2025年)
     <笙>カニササレアヤコ
     <Vn>青山暖
     <尺八>尾代紗央里
     <Gt>河野智美
     <日本舞踊>花柳禮志月
【日時】2025年4月21日(月)19:00~
【会場】渋谷区文化総合センター 大和田伝承ホール
【一言感想】
過去のブログ記事で「ヤポネシアの耳」第1回公演~邦楽器をめぐる6つの邂逅~の感想を簡単に書きましたが、第2回公演~邦楽器をめぐる7つの響命~が開催されるというので聴きに行くことにしました。この演奏会のコンセプトは演題からも察しが付くとおり、「ヤポネシア-すなわち日本列島は、その地質上に影響により大きな災害が多くモノも朽ちやすい。そんな場所で日本人は、常に明日の命さえも不確かな存在として生きてきました。その儚い生命感は、邦楽器独自の美的感覚にも影響していることでしょう。」(パンフレット)という認識のもとに「邦楽器を通した表現により、生命や人生に共鳴するフィールドを生み出す」(パンフレット)ことを本願としているようですが、前回のブログ記事でも簡単に触れたとおり、外国人が行き交う渋谷の街に象徴される現代のヤポネシアの群像を踏まえて現代人の視座から和魂を捉え直し、「かこ」を懐かしむだけではなく「いま」を見詰める和魂多才を超えて「さき」を切り拓くための和魂創才を模索する野心的な活動のように感じられました。前半の4作品は外世界を描くダイアローグ、後半の3作品は内世界を描くモノローグと言えるかもしれませんが、各曲毎にごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
①共命の鳥(2025年)
第1回にも出演されていた橋本朗花さんが再出演されていましたが、パンフレットには「本作では必ず二つの楽器が対になっています。そして、「カルダ↔ウバカルダ」の関係値を「奏者↔観客」に見立てています。」と記されています。タイトルの共命鳥は大乗仏教が説く想像上の生物ですが、「自他不二」(トランプ関税が諸刃の剣になっている現状)や「天人合一」(地球環境破壊などに起因する異常気象)などの現代的なテーマ性を内包する非常に着眼点の優れた作品に思われます。篠笛、篳篥、ピアノ及びシンセサイザーという珍しい編成のアンサンブルでしたが、前回のブログ記事で触れたとおり異質なものを結び付けて共存、調和させる「和える」文化を基調として日本的な美意識である「あわせ」や「かさね」が体現されている作品に感じられました。シンセサイザー(デジタル、非平均律)とピアノ(アナログ、平均律)、篠笛(横笛、曲線美)と篳篥(縦笛、直線美)は、それぞれ鍵盤楽器及び管楽器として対照的な性格を持つ楽器と位置付けることができそうですが、これらの多様な楽器を様々に組み合わせたアンサンブルが展開されました。冒頭ではシンセサイザーの非楽音(ノイズ)及びピアノの楽音で伴奏を奏でるなか篠笛が鳥の声を模倣しましたが、やがて篠笛の曲線美と篳篥の直線美を並置したアンサンブルが奏でられ、それらを「混ぜる」のではなくそれぞれの特徴的な違いを「かさね」や「あわせ」て調和するような音楽が奏でられました。その後、シンセサイザー(デジタル)とピアノ(アナログ)が響きの渦を巻きながら、それぞれの境(違い)が曖昧となる精妙なグラデーションが奏でられました。篠笛とピアノが線的な優美さが際立つメロディアスな音楽を奏でたのに対し、シンセサイザーと篳篥が面的な広がりが際立つ音響的な音楽を奏でるなど、それぞれの楽器に共通する特徴を捉えたアンサンブルが奏でられ、異質なものを結び付けて共存、調和させる「和える」文化により多様性の時代に対立、分断ではなくそれぞれの違いを大らかに許容して調和するという仏教哲学を体現しているような音楽に感じられ、それを奏者と観客が体験共有するという面白い舞台に感じられました。
 
②素描之鏡(2025年)
柴田歩さんは初出演ですが、パンフレットには「日本人が持つ独特の感性ともいえる自然音の素描に対して、西洋音楽の代表的なメロディーをチェロが引用してり、重ね合わせたりすることで季節を映し出していく。」と記されています。歌舞伎の下座音楽で使用されている10種類の楽器、チェロという編成のアンサンブルと照明の演出を組み合わせた作品でした。通常、下座音楽は黒御簾の中で演奏される陰囃子であり、あまり目の前で演奏を拝聴する機会がないので興味深かったです。下座音楽は、唄(声):情緒、合方(三味線):雰囲気、鳴物(三味線以外の楽器):効果音があり、そのうち鳴物囃子方の名跡として望月流がありますが、この「望月」という姓(流派名)は長野県出身である初代・望月太左衛門が能「姨捨」(世阿弥作)の詞章にある「・・・今宵の月の惜しきのみかは。さなきだに秋待ちかねてたぐひなき。名を望月の見しだにも。おぼえぬ程に隈もなき。姨捨山の秋の月。余りに堪へぬ心とや。・・・」に由来したものだそうですが、この作品では「望月」の風情がどのように鳴物で表現されていたのかをうっかり聴き逃してしまい、風流心が至らない浅学菲才な身の上を恥じ入るばかりです(苦笑)。この作品は四季の風物や風情を音楽と照明で表現するものでしたが、各季節はラチェットのような楽器により区切られ、各季節のイメージに合う色調の照明に切り替えられましたが、各季節の冒頭で(邦楽囃子ではなく)チェロがヴィヴァルディーの四季のモチーフを奏でることでどの季節を表現したものかを知らされるという和魂をなくした現代の日本人に対するアイロニーたっぷりの構成になっているように感じられました。各季節の風物や風情が鳴物(太鼓、鼓、笛、貝、うちわ、鈴などの多種多様な楽器)を使った音のアイコンとして表現されていましたが、些か断片的で忙しない印象を受けたところもありましたなので、鑑賞の手掛かりとして何か物語性を持たせた方がより面白い作品になったかもしれないと感じられました。
 
③10002000(2025年)
吉田奏子さんは初出演ですが、パンフレットには「古典の季節と、現代の季節では、始まる月が違う。古典(1000)は1月から、現代(2000)は4月から始まる。本作品は、季節の中でも演奏会が行われる春にフォーカスを当てる。(中略)昔の人々は、桜を見てどう感じたのだろうか。」と記されています。古代(旧暦)と現代(新暦)の暦差を踏まえると古代の1月は現代の2月上旬~中旬に相当し、丁度、梅の花が綻び始める時期にあたります(古代人の花は梅、現代人の花は桜ですが、古代の歌人の和歌を詠むと季節感に大きな差異はないように感じられます)が、この作品は古代から現代まで変わりなく咲き続ける「桜」をモチーフにして、それを見る日本人の変転を表現した面白い作品に感じられました。第一楽章では笙とピアノのアンサンブルで古代の「桜」が描かれていましたが、笙の澄んだ空気感、ピアノの淡い色彩感は、吉野山の山桜のように自然に自生する桜の風情(はかなし、もののあはれ)が表現されているように感じられました。第二楽章ではサックスとピアノのアンサンブルで現代の「桜」が描かれていましたが、同じ管楽器でも素性来歴が全く異なるサックスを使って時代の飛躍が効果的に表現されていました。無機質で忙しない現代人の日常と、時代を超えて咲き続ける「桜」の変わらぬ美しさの対比が効果的に表現されているように感じられました。第三楽章では笙、サックスとピアノのアンサンブルで古代と現代が交錯しながら「桜」が描かれていましたが、笙とピアノが日本古謡「さくらさくら」(但し、実際は江戸時代に創作された曲)のモチーフをゆったりとしたテンポで奏で出し、やがて忙しないテンポのサックスが加わるとそれに感化された笙がテンポアップしますが、再び、笙がゆったりとしたテンポに戻って終曲になりましたが、さながら一般相対性理論(地に足の着いた(重力の強い)生活を送る古代人は時間の進み方が遅く、地に足の着かない(重力の弱い)生活を送る現代人は時間の進み方は速いという時代感覚)を表現しているようにも感じられる面白い作品でした。そいえば、会場の近くにある渋谷の「宇宙桜」は今年も花をつけていましたが、未来(3000年)の日本人はスペースコロニーで桜を見ているかもしれず、さらに地に足の着かない(さらに重力の弱い)生活を送っているであろう未来人は現代よりも(一般相対性理論で記述される物理的な意味だけではなく、生活のテンポという意味での)時間の進み方が速くなっているのかもしれません。
 
④Facing Light/継承(2025年)
畠山春朗さんは初出演ですが、パンフレットには「大阿蘇」(三好達治)は自然のスケールの大きさ、それに対する人生の短さ、それをも受け止める自然の懐の大きさを表すのに対し、「Do not go gentle into that good night」(Dylan Thomas)は死に抗い、生を渇望し、生に執着している。私はこれを親と子、静と動、和と洋に見立て表現した。」と記されています。前者をテノールの坂本京さんと十七絃筝の小原瑠里さんが、後者をメゾ・ソプラノの下田一葉さんとパーカッションのTheo Guimbardさんが演奏し、やがて前者と後者が交錯しながら1つの境地に収斂されて行く作品に感じられました。冒頭では、パンフレットにあるとおりテノールが十七絃筝の伴奏に乗せて「大阿蘇」の詩に込められている無為(放下、解脱)の心境を心穏やかに歌いましたが、これに対してメゾ・ソプラノはパーカッションの伴奏に乗せて「Do not go gentle into that good night」の詩に込められている有為(執着、輪廻)の心境を激しく動揺して歌うことで、二つの世界観が対置されていましたが、やがてテノールとパーカッション、メゾソプラノと十七絃筝が交錯しながら、最後にテノールとメゾソプラノが十七絃筝とパーカッションの伴奏に乗せてユニゾンで死を迎えて叙情的な歌で締め括る終曲になりました。十七絃筝と歌の相性が良いのは言うに及びませんが、今回はパーカッションと歌の相性を存分に引き出した畠山さんの作曲技量の高さと共に、Guimbardさんが多彩な音色でリズムとデュナーミクを精妙に操りながらニュアンス豊かに歌にドラマを添えて行く好演を楽しめました。個人的には、この作品が本日の演目の白眉でした。ヴラヴィー!
 
⑤Asian Music Guide2(2025年)
第1回にも出演されていた佐藤伸輝さんが再出演されていましたが、パンフレットには「作曲家自身の日中ハーフであるルーツに立ち返り、日本と中国のはざまで生じるアイデンティティの齟齬や違和感を、生々しく表現、「自画像」としての側面を持つ。」を記されています。筝、フルートとエレクトロニクス(サンプラー)という編成のアンサンブルで、和と洋、アナログとデジタル、楽音と非楽音が混然と一体になっている現代の世相を体現している作品に感じられました。激しい筝の刻み、フルートのタギングと、これにサンプラーによる電子音が加わってテレビゲームのようなデジタル・チックな音響が生み出されていましたが、もはや和と洋、アナログとデジタルの境界という二項対立軸の世界観が有効とは言えない量子力学的な世界観(絶対性→相対性→関係性)が描かれているようで大変に興味深かったです。街中で見かける若者のファッションやメイクはアニメの世界観(2次元)を現実の世界観(3次元)に「うつし」たものであり、令和の「虚実皮膜の間」としてファクションな世界観(2.5次元)を体現しているように感じられますが、幼少期からアニメ(視覚)やテレビゲーム(聴覚)に親しんできた若者達の心に育まれてきた感受性の発現として昭和世代には非常に刺激的な現象で、この作品もそのような時代感覚として楽しむことができました。筝、フルートとエレクトロニクス(サンプラー)が倍速再生のような快速調のテンポから等速再生の演奏に戻り、最後にエレクトロニクス(サンプラー)を伴わない筝とフルートによるアコースティックな演奏に帰着し、現代のファクションな世界観(2.5次元)の素性由来を物語る構成になっているように感じられて面白かったです。最近、ライブ・エレクトロニクスの作品も増えてきましたが、その観点からはアナログとデジタルをシームレスに接続し、それらをヴィヴィットに往還しながら1つの世界観として描くことに成功している現代を時代性を湛えた作品に感じられ、これからの活躍が大変に楽しみな作曲家の1人です。
 
⑥月を創ろう!(2025年)
第1回にも出演されていた浦山翔太さんが再出演されていましたが、パンフレットには「私たちには、消えない「明かり」が必要なのです。それは-「希望」と呼べㇾうものかもしれません。無いのなら、作らなければならないのです。」と記されています。昔から日本人は自らの心を月に映して和歌に詠んでいますが、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(菅原道長)や「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮き世の月に かかる雲なし」(大石内蔵助)などの有名な和歌に詠まれている心晴れするような月を待ち侘びながら人生の暗闇を耐え忍ぶという芝居掛った演歌節が昭和好みでしたが、どうせなら人生の暗闇を照らす月を創ってしまおうという令和の若者らしい発想の作品に感じられました。果たして、この作品が「月」(希望のメタファーとしての人生を照らす明かり)を描写することを目的として創作されたものか否かは分かりませんが、この作品のタイトルを鑑賞の手掛りとして「月」のイメージをプロジェクションしながら拝聴しました。尺八が未だ音にならない息の音を奏でると、これにコントラバスのフラジョレット、筝のスタッカート、ヴァイオリンのポルタメントが加わり、宛ら朧月夜のような風情を醸し出していましたが、やがて尺八がしっかりとした節回しを奏でると、これにコントラバス、筝、ヴァイオリンが様々に絡み合いながら多彩な表情を添えて行き、様々な月明りが音楽的に演出されているように感じられました。本来であれば、僕らの世代が次の世代の足元を照らす月を創らなければいけないと思いつつ、自らの不甲斐ない身の上を恥じ入りながら楽しみました。
 
⑦不確かの彼方へ(2025年)
第1回にも出演されていた江田士恩さんが再出演されていましたが、パンフレットには「本作「不確かの彼方へ」は、前作「燃ゆる命の十景」の楽器編成に「翳り」の要素として尺八とギターを加え、時間の構造をそのままに、一つ一つの場面を再構築する形で作曲した。人生とはどの場面においても、決して明るいだけではない-もっと割り切れなくて不確かなものだ。」と記されています。第1回のパンフレットには「誕生→死→幼年期→老い→青年期→家族愛→ロマンス→栄華→哀しみ→希望→現在」という物語性を持った場面展開で構成されている旨が記載されていますので、その「時間の構造」(誕生と現在を対置する構造)をベースにして創作されたものと思われますが、人生のレール(世間の模範)という軌道を歩むエリートとその軌道から外れる不良に2分類されていた昭和年間(確定性:古典物理的な世界観)とは異なり、多様性の時代へと社会の価値観が変遷した平成・令和年間(不確定性:現代物理的な世界観)には人生のレールは人それぞれのもの(世間の模範から個人の価値観)になっていますので、この作品は私小説という性格を持っているように感じられます。会場に広がる笙の和音(聴覚)と舞台を照らす照明の切替え(視覚)が場面展開の区切り(人生の節目)を表しているようでしたが、花柳禮志月さんが扇(金、銀)やかつぎ(白、黒)を使いながら上記の時間の構造に応じた人生観やライフイベントなどを舞踊で表現し、その伴奏やつなぎとしてアンサンブルやソロが添えられており、今回は尺八とギターを加えてことで、より詩情豊かな作品に深化された印象を受けました。最後は白と黒のかつぎを使って舞い納められましたが、「現在」の複雑な心情と吐露するかのような終曲が面白く感じられました。よく舞台表現は自らの殻を破って自らを曝け出すこと(自己開放)だと言われますが、「現在」の自分を曝け出して新しい自分(他者性)と巡り合うことで生まれ直すという趣意(誕生と現在が対置されている循環構造)が、私小説的な性格を持つこの作品の醍醐味のように感じられる面白い作品でした。
 
 
▼独演会「志ん輔蝉の会」
【番組】①ふぜいや
    ②おかめ団子(初演)
     <共演>淡座
    ③百年目(初演)
【噺家】古今亭志ん輔 師匠
【音楽】淡座
     <作曲>桑原ゆう
     <Vn>三瀬俊吾
     <Vc>竹本聖子
     <三味線>本條秀慈郎
【囃子】金山はる
【前座】桂枝平
【日時】2025年4月29日(祝・火)14:00~
【会場】紀尾井ホール 小ホール
【一言感想】
古今亭志ん輔師匠の独演会「蝉の会」はかつて国立演芸場で開催されていましたが、2023年に国立演芸場が建替えのために閉場されたのを契機に紀尾井ホールで開催されるようになり、その紀尾井ホールも今年8月に建替えのために閉場されることから、次回の「蝉の会」からどこで鳴こうか思案されているそうです。最近は新しい邦楽ホールも増えてきましたが、上述のとおりホールもこれからの時代の多様なニーズに応えるために脱皮が必要になっているということなのかもしれません。前座の桂枝平さんが古典落語「手紙無筆」で笑いをとって会場が温まったところで真打の登場になりました。各演目毎にごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
①新作落語「ふぜいや」
落語の枕は昭和世代の遠い記憶の中に仄かに残る時代の匂いのようなものを精妙な噺芸で手繰り寄せるもので、そのまま自然にネタへと流れ込みました。師匠の洗練された噺芸はシチュエーション設定や場面展開が巧みで噺の世界観に惹き込まれましたが、幽霊も昔風情に変えられてしまう時代感覚の変化に大人の笑いが生まれていました。最近は手紙を書く機会がなくなりましたが、SNSが普及して人の間に適度な距離を保つことが難しくなり(人間=「関係」から人=「数」へ)、それが分断を助長する現代の時代性を生んでいますが、相手からの返事を待ち詫びて想いを募らせる(心を残すことで生まれる空想力)という手紙が持つ昔風情は失われてしまいました。
 
②古典落語「おかめ団子」(初演)
落語「おかめ団子」は麻布(飯倉片町)に実際に存在した団子屋(以下の写真を参照)を題材にして創作された噺で、淡座による現代音楽の演奏と共演されました。歌舞伎の下座音楽のように噺の場面展開や演出効果などを目的とした伴奏が添えられ、大根売りの善良な面(商売熱心で母親想いの真人間)は牧歌的なアンサンブル、馬鹿な面(母親想いの余りに魔が差す駄目人間)はチェロのピッチカートによる悪魔的なリズムのモチーフで表現され、不協和やハーモニクスなどを重ねながら大根売りの心が揺らぐ様子が巧みに表現されていました。噺が活写する物語の輪郭に音楽が色彩を添えながら噺と音楽が一体になって噺の世界観が立ち上がり、客の想像力を掻き立てる効果を生んでいたと思います。なお、おかめ団子という名前は団子屋の女房がおかめ顔であったことに由来していると言われていますが、おかめ顔という言葉は日本人女性に多い両頬が張り出した顔の形が甕(かめ)に似ていることを意味する愛称です。因みに、ひょっとこは竈(かまど)の火を竹筒で吹く火男が訛って生まれた愛称です。今日は古今亭志ん生師匠や古今亭志ん朝師匠とは異なる一捻り加えたサゲが付けられていましたが、そのサゲは高座でお楽しみ下さい。
 
飯倉町界隈のアースダイブ
江戸切絵図麻布絵図:1849年(嘉永2年)の古絵図ですが、地図中①が落語「おかめ団子」のモデルになった団子屋があった場所、地図中②が旧東京音楽学校奏楽堂のパイプオルガンが設置されていた南葵楽堂があった場所です。 ②おかめ団子:落語「おかめ団子」のモデルと言われる飯倉片町にあった団子屋(跡地)の娘の元に平八が婿養子に入りましたが、大変な商売上手だったようでおかめ団子という愛称で評判になり大繁盛したと言われています。 ③南葵文庫・南葵楽堂:紀飯倉町にあった紀州徳川家の私邸(跡地)に1899年に私設図書館・南葵文庫(蔵書約10万冊)、1918年に私設音楽堂・南葵楽堂(1920年にパイプオルガンを設置)が建設されました。 ③南葵文庫・南葵楽堂:1923年の関東大震災で全焼した東京帝国大学附属図書館の復興のために1924年に同大学に南葵文庫蔵書を寄贈し、1928年に東京音楽学校にパイプオルガンを寄贈しました。(Cf.南葵音楽文庫
 
③古典落語「百年目」(初演)
落語の枕として江戸時代の奉公制度が採り上げられ、「丁稚(小僧)」(~10年、雑用、無給)→「手代」(11年~、実務、有給)→「番頭」(15年~、管理、独立)という仕組みは落語界の師弟制度に受け継がれて「丁稚(小僧)」=「前座」、「手代」=「二枚目」、「番頭」=「真打」に対応しているそうですが、一門を率いる「家元」が主人ということになりましょうか。土地(家督)の単独相続を背景に発達した家(身分)制度を基盤とする奉公制度(人的関係)は、現代では金銭(権利)の平等相続を背景に発達した個人主義を基盤とする雇用制度(契約関係)へと変遷し、多様性の時代を背景にして個人が自律的な生き方を求めるようになって終身雇用(人的関係X契約関係)という昭和の昔風情も完全に廃れました。一般には「講談を聞くとタメになる、落語を聞くとダメになる」と揶揄されますが、落語「百年目」は法話「栴檀と南縁草」という仏教的なモチーフが使われているタメになる噺です。因みに、この噺のオチになっている「ここで会ったが百年目」という名セリフは名刀「小夜左文字」(アニメ「刀剣乱舞 ONLINE」にも登場)にまつわる仇討ち話が江戸時代の「御伽草紙」として広まり、それが浄瑠璃、歌舞伎、落語に伝えられたものです。噺のリズムやテンポ、間の取り方、粋な言葉遣いなど、語感の心地良さのようなものを感じさせる洗練された噺芸に魅了されました。師匠の噺芸には日本語の香気が粋衝いています。
 
 
▼東京都交響楽団 第1020回定期演奏会Aシリーズ~
【演題】東京都交響楽団
    第1020回定期演奏会Aシリーズ
【演目】①トリスタン・ミュライユ ゴンドワナ(1980年)
    ②夏田昌和 オーケストラのための「重力波」(2004年)
    ③黛敏郎 涅槃交響曲(1958年)
     <Chor>東京混声合唱団
【演奏】<Cond>下野竜也
    <Orc>東京都交響楽団
【日時】2025年4月30日(水)19:00~
【会場】東京文化会館
【一言感想】
本日は下野竜也さん@東京都交響楽団が非常に興味深い演目を採り上げていたので聴きに行くことにしました。現代音楽が3曲というコアな演目にも拘らず、チケット完売(会場満席)の盛会になりました。決してクラシック音楽系の曲を聴く客がいなくなった訳ではなく、クラシック音楽(第一次世界大戦以前の音楽)を聴き飽きたという客が増えていることを示す現象なのかもしれません。コンセプチャルなプログラム構成で、後半の涅槃交響曲は鐘の音響分析( ≠ スペクトル解析)を作曲に採り入れた作品であり、それから約20年後に創作された前半のゴンドワナでも鐘の音響のスペクトル解析を作曲に採り入れた作品という共通点があり、また、夏田唱和さんはT.ミュライユと共にスペクトル楽派を創始したG.グリゼーの弟子であるという共通点があります。さらに、作曲技法に留まらず、前半の「ゴンドワナ」は地上界(科学:地球)の誕生を巡るドラマ、オーケストラのための「重力波」は天上界(科学:宇宙)の誕生を巡るドラマ、後半の涅槃交響曲は地上界と天上界の中間に位置する人間界(宗教:思想)を巡るドラマ、という壮大な世界観を表現した3曲を並べているという意味で、非常に野心的な演目構成と言えるのではないかと思います。各曲毎にごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
①ゴンドワナ(1980年)
過去のブログ記事でも簡単に触れましたが、マントル対流により、①約6億年前に誕生した地球上唯一の超大陸「パノティア大陸」がゴンドワナ大陸などに分裂(生物が海から陸へ進出)、その後、②約2億5000万年前にゴンドワナ大陸が他の大陸と結合して地球上唯一の超大陸「パンゲア大陸」が誕生(火山活動の活発化に伴う生物の大量絶滅)、③約1億8000万年前にパンゲア大陸がゴンドワナ大陸などに分裂(海洋循環の変化と気候の温暖化に伴う生物の多様化)を経て現在のような大陸構成になっていますが、そのプロセスを音楽的に表現した作品です。さながら万華鏡のような精妙な音響設計により決して人間が観察することができない地上界の大河ドラマを綴った作品ですが、下野@都響の職人芸により自然のダイナミズムやその神秘性に彩られる壮大な物語性を感じさせる演奏に魅了されました。冒頭はマントル対流に伴う地殻変動により陸が誕生する様子を描写したものでしょうか、熱エネルギーや電磁波などを連想させる弦による微細なトリルとそれにより引き起こされる化学反応や光電反応などを連想される管打による煌めきのある響きで構成される短い音型が断続的に繰り返されながら変容し、徐々にその複雑さを増しながら連続的な響きへと拡張して行く繊細にして緻密に構築された音響空間が生む言葉では何とも説明し難い独特な世界観に魅せられました。ガラガラ、コル・レーニョやウッドブロックなどの乾いた音により岩盤のクラック音を連想させるリアルな描写も多く、それらと呼応するオーケストラが微細音を散りばめながら、徐々に変容してスケールの大きな音楽へと成長して行きいましたが、さながら東京文化会館が大きな地殻変動の真っ只中に置かれているような臨場感のある音場へと生まれ変わるアナログなVR体験が新鮮に感じられました。やがて地殻変動が鎮まり地熱が冷める様子を表現したものでしょうか金属が軋むような冷たい音が奏され、鐘の音をスペクトル解析したものでしょうか微細音が波紋状に波打ち、それが下降音型へと連なりながら収束して行く表現が安定した陸の誕生を連想させるものでした。微かな地殻変動の兆候からダイナミックな陸地の誕生、形成へと発展して行く様子を耳で楽しむことができましたが、それが四季や花々、生物の繁栄を生む穏やかで豊穣な地上界(地球環境)を育む契機になったことに思いを馳せると感慨深いものがあります。なお、作曲家の意向に沿わないかもしれませんが、テレビ世代にとってはビジュアル・アートと組み合わせて演奏しても面白いのではないかと感じます。
 
②オーケストラのための「重力波」(2004年)
ゴンドワナが地上界(地球)の大河ドラマであるとすれば、オーケストラのための重力波は天上界(宇宙)の大河ドラマと形容することができるかもしれませんが、中世までは天上界(神の世界)と地上界(人間の世界)は異なる原理に支配されるものとして区別されていましたが、近代以降の科学の発展によって天上界(宇宙)と地上界(地球)は同じ原理に支配されていることが判明すると共に、20世紀以降は人間の知覚を超えた観測機器の発明により人間の知覚により認知される世界(環世界)と世界の実相(環境世界)が大きく乖離していることが認識されるようになりました。この点、人間が知覚することができない完全な天上界(神の世界)を表現する手段として芸術と宗教が結合しましたが、科学の発展により芸術が宗教から分離して世界の実相(環境世界)を表現する手段として芸術と科学が近接しているのが現在の状況ではないかと思います。この作品が作曲された2004年の時点では一般相対性理論によって重力波の存在は理論的に予測されているに過ぎませんでしたが、2015年に重力波の観測に成功していますので(但し、重力子の観測は未だし)、時代を先取りした先進的な作品と言えるのではないかと思います。バスドラムを舞台に1台、客席(バンダ)に2台を配置しての演奏となりました。因みに、この作品は夏田唱和さんが2002年に芥川作曲賞(現、芥川也寸志サントリー作曲賞)を受賞したことによりサントリー芸術財団から委嘱されたもので、2004年8月に故・小松一彦さん@新日本フィルハーモニー交響楽団により世界初演されています。冒頭はビックバン前の状態を表現したものでしょうか、バスドラムによる微細音(空気振動)が会場を充満し、やがてバスドラムが強い連打に転じると金管が大音量で咆哮しました。未だ量子重力理論が確立しておらずビックバン前の状態を正しく記述することは困難ですが、粒子と反粒子が一瞬で生成・消滅する量子揺らぎの状態にある真空エネルギーが真空の相移転により場のエネルギーに転換する様子を音楽的なイメージとして表現することに成功しているように感じられました。これに弦による上行形のグリサンドを幾重にも重ねながらその振幅を増して行きましたが、場のエネルギーが密度を増してインフレーション(時空の急膨張)を引き起こして宇宙の基本構造が生まれる様子を巧みに表現しているように感じられました。その後、細かく分散されていた音が集積され、徐々に1つのまとまりのある音として徐々にテンションを高めて行きましたが、インフレーションの終了(時空の急膨張の減速)に伴う再加熱によって場のエネルギーが物質的なエネルギー(粒子エネルギーや熱エネルギーなど)に転換されて、宇宙が冷却されるなかで物質的なエネルギーから物質が生まれる様子(ビックバン)が緻密に表現されているように感じられました。鈴の音に誘われるようにオーケストラの音響が波紋状に広がり、金管が不規則な揺らめきを演出しながら徐々に緩慢として平らな響きに収束して行きましたが、鈴の音は恒星の誕生を表しているのでしょうか、それにより重力波が生まれる様子を雄弁に表現しているように感じられました。因みに、何故、質量やエネルギーが時空を歪めるのかという理由(重力や重力波を生じる理由)は現代の科学でも解明されていません。ピアノと管打の点描と共に、オーケストラが波打つような音型を変容させながら徐々に密度を増して行きましたが、次々に誕生する星々により重力波が生まれて時空が揺らめいている様子を描写力豊かに表現しているように感じられました。その後、バスドラムの強い一撃で全休止し、再び、バスドラムの強い連打に誘われるように、非常に忙しない波形の音が重ねられて行きました。これは超新星爆発(恒星の寿命が尽きて重力崩壊する爆発)を表したものでしょうか、新しい星々を形成させる元素(ガス)や重力波、ガンマ線などが周期的に波紋状に寄せてくる様子をドラマチックに表現しているように感じられました。人間が知覚することができない理論物理学の世界観を音楽的に体感することができる非常に面白い作品なので、音盤のリリースが待ち望まれます。こちらもビジュアル・アートと組み合わせて演奏しても面白いのではないかと感じます。因みに、超新星爆発などによって誕生するブラックホールの存在は一般相対性理論によって理論的に予測されていましたが、2019年にブラックホールの観測に成功しており、ブラックホールを題材にした曲も創作されています。また、最近でも重力波を題材にした曲が創作されており、今後、宇宙を題材にした曲が増えてくるかもしれません。
 
③涅槃交響曲(1958年)
黛敏郎さんと言えば、テレビ「題名のない音楽会」の司会でマイクを持つ手の小指が立っていたのを幼心に強烈な印象として覚えていますが、雅楽や声明のエッセンスを採り入れながら西洋の管弦楽や合唱で仏教の荘厳な世界観を表現した傑作で、1959年に第7回尾高賞を受賞しています。長らく実演に接する機会を待ち望んていましたが、このような機会を設けてくれた下野@都響に心から感謝しなければなりません。2群のバンダを客席に配置して演奏されました。第一楽章の冒頭から梵鐘の音響分析による倍音を模倣したような音響がオーケストラとバンダによって繰り返し奏でられ、その残響に広がる仏教の五色の世界観を表現するように彩り豊かな変奏が加えられる精妙な演奏が展開されました。チューブラ-ベルやピアノが刻む刹那(無常)なリズムがオーケストラに伝播して最初のクライマックスを築くと、やがて弦のトレモロに収束して涅槃(肉体的な死ではなく悟りの完成を意味する死)を連想させる余韻深い静寂へと帰着しましたが、さながら仏教的な音の宇宙に包み込まれているような独特な感興に浸ることができました。これに続く第二楽章では独唱者が大乗仏教の経典「楞厳経」に収められている咒文「首楞厳神咒」を読経の様式で歌い、これに誘われるように合唱が唱和しましたが、そのリズムに合わせてオーケストラが仏教の鳴物を模倣するような音型を奏でられましたが、やがて独唱とトロンボーンの和音に下支えされた合唱が密度を増しながら、そのリズムがオーケストラに伝播して合唱とオーケストラが一体となって読経しているような勇壮な演奏にすっかり魅了されました。これに続く短い第三楽章を経て、第四楽章ではオーケストラが鐘の音を模倣するなかを6人の独唱者が大乗仏教の経典「摩訶般若波羅蜜多経」で説かれている教義「摩訶般若波羅蜜」(般若心教)を歌い、これに合唱が応唱する形で緊密に呼応しながら厳かな音楽が展開されました。第五楽章では金管の咆哮による激しいリズムとチューブラ-ベルの連打を繰り返しながら「全山の鐘」(黛)が鳴り響いている様子を表現し、それがオーケストラに伝播して合唱による重厚感のあるヴォカリーズと一体になりながら荘厳な雰囲気が極まる密度の濃い音楽が展開されましたが、それが第一楽章と同様に涅槃を連想させる静寂へと帰着しました。これに続く第六楽章では合唱により密教声明「一心敬礼」の旋律で歌われるヴォカリーズが穏やかで崇高な雰囲気を湛え、静謐な弦のトレモロや管打の柔らかいリズムが平らかな心性を体現しているような音楽を展開すると、徐々にオーケストラは響きを増しながら、ホルンが悟りの象徴である白像を連想させる和音を繰り返し、金管とチューブラ-ベルの音を遠景に配して涅槃を連想させる瞑想的な深い静寂が訪れて「永遠の涅槃」という悟りの境地で終曲を迎えました。仏教では「輪廻」(迷いの苦しみ)から「涅槃」(そこからの解脱)の境地へと至ること(悟り)を目指す実践的な宗教ですが、「涅槃」に留まろうと欲することも執着(輪廻)の顕れとされており、「輪廻」と「涅槃」の対立を超越した慈悲の実践という凡夫には及び得ない境地を音楽的に表現したものに感じられました。心が整えられるような感覚に浸ることができる得難い芸術体験になり、世俗塗れの拍手の音で清浄な場を汚してしまうことが憚られるような深い余韻を湛えた傑作を堪能できました。
 
 
▼タンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのマリア」マリア役オーディション開催
過去のブログ記事でも簡単に感想を書きましたが、アルゼンチンタンゴ集団「タンゴケリード」が2026年5月31日(日)にA.ピアソラのタンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのマリア」を神戸で再演するようです。今般、この上ない嵌り役であったマリア役のメゾソプラノ・小島りち子さんが退団されるのに伴い、新しいマリア役を求めてオーディションが開催されるようです。ソウルフルな音楽に適う彫りの深い卓抜した歌唱力が求められるマリア役ですが、新しい伝説を築いてみてはいかが?
 
▼四天王寺 聖霊会
前回のブログ記事で簡単に触れましたが、聖徳太子が建立した日本最初の官寺である四天王寺において、毎年、聖徳太子の命日にあたる4月22日(旧暦2月22日)に開催されている仏教法会で天王寺舞楽(国指定重要無形文化財)が奉納されています。この点、小野真龍著「天王寺舞楽」には「元宮内庁首席楽長で芸術院会員であった東儀俊美氏は、四天王寺聖霊会の舞楽を見て、宮内庁楽部の舞とおおいに異なることを発見して、熟考の末「どうも我々の舞いが変化したらしい」との結論に至られ、宮内庁楽部は明治以前の天王寺楽人の舞い振りであった「秦氏の舞」を東京遷都によって失ってしまった」と記されていますが、古代に日本へ伝来した外国文化は外国の雅正の楽ではなく主に外国の俗楽であったと言われており宮中(神道)という閉ざされた場(儀礼)ではなく庶民(仏教)という開かれた場(儀礼+興行)でこそ「秦氏の舞」のDNAは活性化されると言えるのかもしれません。
 
▼21世紀の新しいアウラ(その1)
平安時代のラップ「今様」のリズムを借りて「この頃我が家に流行るもの 和魂 蔦重 AI作曲・・・」といった調子で、最近気に入っている音楽生成AI系のミュージックチャンネル(R&B)をご紹介しておきます。この記事のトップに掲載しているワット・アルンのイラスト画像もAIが5秒で作成したものですが、AIを使って生成された創作物は人間の能力を凌駕するクオリティを実現しつつあり、21世紀の新しいアウラが顕現し始めているように感じます。人間中心主義というセンティメンタリズムを克服し、文化的限界点と揶揄される現状を打破する突破口のようなものが見え始めていると言っても過言ではないかもしれません。産業革命は人類を重労働から解放し、AI革命は人類を労働そのものから解放すると期待されていますが、これに加えてAIは人類の新しい文化的な地平を切り開く救世主になり得るかもしれません。

オペラ「静と義経」(三木稔/日本オペラ協会)と「陵王乱序|RANJO」(石田多朗)と第6回REAMコンサート(東京藝術大学音楽学部作曲科)と「和魂漢才のイノベーション」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼「和魂漢才のイノベーション」(ブログの枕)
前回のブログ記事で触れましたが、夢枕獏さんの小説「陰陽師」で安倍晴明の親友として描かれている平安時代中期の公家・源博雅は醍醐天皇の孫で臣籍降下して源姓(公家源氏)を名乗りますが、「雅楽」に秀で管弦の名手として比類ない才能を発揮したと言われており、逢坂の関に隠棲する琵琶法師の始祖・蝉丸のもとに3年間通い詰めて秘曲「石上流泉」(元々は古琴の曲で、石上を伝う水滴が流泉を結び、やがて生命を育む大河になる自然の景観を奏でた音楽に心まで澄まされる感興を覚えます)と「啄木」を伝授されたと伝えられています(今昔物語集第24巻第23話)。この点、日本社会は諸外国から採り入れた先進的な知識(漢才、洋才)を日本の風土で育まれた知恵(和魂)を使って日本流に再解釈して活かすこと(和魂漢才和魂洋才)が尊ばれてきましたが、このような考え方を背景にして、日本文化は一神教的な世界観に特徴的な「混ぜる」文化(絶対主義に基づく支配の思想)とは異なる多神教的な世界観に特徴的な「和える」文化(相対主義に基づく調和の思想)を基調として「文化の基軸」(日本固有の文化)に「文化の横軸」(外国文化の日本文化への適応)「文化の縦軸」(サブカルチャーのハイカルチャーへの昇華)が重層的に作用し合いながら発展してきた歴史があり、その文脈に雅楽やその他の日本文化の変遷を位置付けることができるのではないかと思います。日本文化の発展をごく大雑把に俯瞰すると、①古代:外国文化の日本文化への適応(和魂漢才)、②中近世:サブカルチャーのメインカルチャーへの昇華(主役:朝廷→武家→庶民)、③近代:外国文化の日本文化への適応(和魂洋才)、④現代:多文化と4区分できるのではないかと思いますが、①古代は遣隋使・遣唐使の派遣により外国文化が本格的に流入する前の古墳時代まで日本固有の文化(和才)が育まれていました。この点、過去のブログ記事でも触れたとおり、古事記「天の岩戸」には「天宇受売は楽びをし、亦八百万神諸咲ふ」と記されており、芸能の神である天宇受売命(天鈿女命)が歌舞音曲で天照大神の魂を振るい起こして甦らせるための神事「御魂振り」(たまふり)の「」(あそび)(「樂」は巫女が持つ榊の枝の先に鈴を下げている象形文字)を行ったと述べられています。また、同じく古事記「天の岩戸」には「神懸かり為て、胸乳を掛き出で、裳緒を番登に忍し垂れき。」と記されており、巫女が歌舞音曲で神を招魂して神人合一することで神託を受けるという神事には芸能的な要素だけではなく(天照大神は太陽の女神であるものの)性犠的な要素(贄女)もあったことが窺われますが、これが後世に至って巫女が歌女や舞女だけではなく遊女にもなった伏線になっているように思われます。古事記、日本書記、風土記、万葉集、後漢書及び魏志倭人伝などには歌舞音曲(歌ひ、舞ひ、楽奏、琴、笛、角、鼓、口鼓など)に関する記述が散見されますが、とりわけ「」(弦楽器の総称/例えば、琵琶の琴)、「」(管楽器の総称/例えば、笙の笛)、「」(打楽器の総称)は三種の邦楽器として重要な働きを担っていたと考えられます。この点、古事記「根の堅州国」には「大神の生大と生矢と、其の天詔琴とを取り持ちて、逃げ出でし時に、其の天詔琴、樹に拂れて地動鳴みき。」と記されており、出雲の国の三種の神器として「刀」「弓」と共に「詔琴」が挙げられていますが(因みに、大和の国の三種の神器は「剣」「鏡」「勾玉」)、本居宣長の古事記伝によれば、昔から琴の音が神や亡魂の心を動かして(御魂振り)招魂する働き(音連れ)があり神人合一して「詔言」(のりごと:神意を言葉で表すこと)を託宣するための呪器(祭器)であることから「詔琴」(のりごと:神意を音楽で表すこと)と命名された旨が記されています。古事記の仁徳記には倭琴の音を「さやさや」(笹の葉 さらさら♬)というオノマトペを使って表現している部分があり、さながら神の依り代である笹(七夕で神の依り代である笹に願い事を記した短冊を結ぶことで神に願い事を叶えて貰う由縁)を揺らす風やそれから生まれる音の気配(ささやく)を連想させるもので興味深いです。古墳時代まで日本で使われていた楽器「倭琴」(やまとごと)(弾琴埴輪:膝の上に乗せて撥で弾く約50cm程度の小さな楽器)は奈良時代に中国から伝来した楽器「唐琴」(からごと)を参考にして「和琴」(わごん)へと改良され、それが現代の筝へと発展しています。このような文化的な背景から、雅楽では和琴が最上の楽器とされており、最も権威が高い楽長により演奏される慣わしになっています。また、前回のブログ記事で触れたとおり、小説「陰陽師」では源雅博が吹く龍笛の音は邪気を払う霊力があるとされていますが(今昔物語集第24巻第24話)、笛には神の依り代である竹(例えば、門松の竹脇鏡板の若竹など)の霊力が宿っており、笛を吹くことで竹の霊力を発現させる特別な楽器と考えられていました。因みに、能管には雅楽の龍笛とは異なる「喉」と呼ばれる機構(吹口と一番上の指孔との間の内側にもう1つ管)があり、敢えて音律を不安定にする(即ち、自然界にある揺らぎのある音を生み出す)と共に、ヒシギを吹き易くするための工夫が加えられています。さらに、古事記「天の岩戸」には「汙気を伏せて、蹈登杼呂許志」と記されており、「鼓」の原初的な形態は天宇受売命(天鈿女命)がリズムにより神懸かり(神の憑依)して神人合一するために踏み鳴らした「汙気」(うけ)=桶であり、「鼓」は「御魂振り」の「楽」により神懸かり(神の憑依)するために重要な働きを担う楽器であると考えられていました。因みに、能の序破急は雅楽の序破急に由来していると言われていますが、雅楽の序破急が主に楽曲の構成やテンポの変化を示すのに対し、能の序破急はピッチにも影響している点で異なっています。過去のブログ記事で「祭」とは神の憑依(神意の顕現)を意味する「まつ」(待つ)を語源にしていることに簡単に触れましたが、祭は歌舞音曲(楽)で神の心を動かして(御魂振り)招魂することで神懸かり(神の憑依)を待ち神人合一する非日常的な場(ハレ)であり、神と人、生と死、自然と社会などの異質なものを結び付けて共存、調和させる「和える」文化(襲の色目 ≠ 異質なものを同質化して融合させる「混ぜる」文化)を体現するものであったと考えられます。なお、上述のとおり古墳時代以前の「琴」とこれを改良した奈良時代以降の「琴」という2つの言葉が出てきますが、古墳時代までは「倭」という蔑称(「人」に「委」ねると書く「倭」は漢民族が周辺諸国を示す言葉として使っていた属国的なニュアンスを持つ蔑称)が使われていた状況を改善するため、607年に推古天皇(女帝)は遣隋使の国書で「倭王」ではなく「日出處天子」と自称し、さらに、663年の白村江の戦いの敗北に伴う唐・新羅の侵攻を牽制して独立国であることを示すために701年に文武天皇が「日本」を正式な国号として定めました。しかし、その後も「倭」という蔑称も使われ続けたことから、713年に元明天皇(女帝)が好字二字令(畿内七道諸国郡郷名着好字)によって「倭」を「大和」(独立国として対等な立場で講和を結ぶという意味を持つ同音好字)に改めましたが、これにより現代でも日本では二字で構成される地名が多くなっています。本来、「和」とは気心の知れた仲間同士が和気藹々と座を囲むことなど同質なものが絆を深めるというセンチな意味ではなく、上述のとおり異質なもの(敵と味方、外国文化と日本文化、神と人、生と死、自然と社会など)を結び付けて共存、調和するための高次の関係性を築くことを意味し、聖徳太子の憲法十七条「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ」の「和」も天皇(大王)を中心とする中央集権国家が成立する前の豪族連合国家を前提として上述のとおり異質なものを結び付けて共存、調和する趣旨を意味しているものと思われます。日本は独立国として大陸(外国)と対等な関係性を築き、それを維持するために、外国文化を積極的に採り入れ(受容)、それを取捨しながら(選択)、日本の風土に相応しいものに作り変えること(変容)で日本文化を育んできましたが(和魂漢才)、このように異質なものを結び付けて共存、調和する精神性(母性原理)が日本人のアイデンティティの中に息衝いている(た)ように思われます。因みに、「和歌」(倭歌)という言葉は唐歌(漢詩)に対する日本の詩歌を意味するものとして生まれましたが、和歌を通して自然や他人と調和するという語感を含んでおり、武家が連歌を嗜んだのは家臣や客と連歌を詠み合うことで心を1つ(「当座の感」/二条良基「井蛙抄」)にして結束を強くする意図(一味同心)があったと言われています。
 
 
上述のとおり遣隋使・遣唐使の派遣により外国文化が本格的に流入する前の古墳時代まで日本固有の文化(和才)が育まれていましたが、日本が外国文化を本格的に受容する(日本人のアイデンティティのバージョンアップ)にあたり2度の内乱が勃発しました。即ち、1度目は古墳時代末期~飛鳥時代(上記①)に勃発した「漢才」の受容などを巡る内乱「丁未の乱」(外交を重視して仏教を積極的に受け入れる蘇我氏を中心とする崇仏派と神道的な伝統を重んじて外来宗教である仏教を排斥する物部氏を中心とする廃仏派が対立して崇仏派が勝利し、崇仏派である聖徳太子の仏教保護と遣隋使の派遣などによる和魂漢才の進展)と2度目は江戸時代末期~明治時代(上記③~④)に勃発した「洋才」の受容などを巡る内乱「戊辰戦争」(尊王攘夷派と佐幕開国派が対立して尊王攘夷派が勝利し、主に尊王攘夷派により構成されていた明治政府は尊王開国に政策転換して復古神道(神仏分離、廃仏毀釈)による和魂と漢才の分離と欧化政策による和魂洋才の進展)を挙げることができますが、いずれも「漢才」と「洋才」が積極的に受容される契機になりました。なお、過去のブログ記事で簡単に触れましたが、文明開化の文化主義政策(「現代日本の開化は皮相上滑りの開化」~夏目漱石著「現代日本の開化」/「文化をその血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離して、何か喜ばしい人間主義的成果によって判断しようとする一傾向」~三島由紀夫著「文化防衛論」より)が生んだ主に義務教育における邦楽の軽視と洋楽の偏重の風潮は1998年の学習指導要領改訂まで続きました(失われた100年)。
 
古代:外国文化の日本文化への適応(和魂漢才:受容から選択、変容へ)
6世紀頃の古墳時代に朝鮮半島から仏教が伝来し(仏教を理解するために必要な漢字は2世紀頃の弥生時代後期に伝来)、上述のとおり仏教の受容などを巡って勃発した内乱「丁未の乱」に勝利した崇仏派の聖徳太子は仏教保護のために日本最初の官寺である四天王寺を建立し、三宝供養(仏教法会)に外来音楽を使用するように命じると共に、遣隋使(隋の滅亡後は遣唐使)を派遣して外国文化を積極的に「受容」する政策をとりました(以下の囲み記事を参照)。その後、663年に白村江の戦いの敗戦を契機にしてそれまでの豪族連合国家から天皇を中心とする中央集権国家へと移行すべく701年に大宝律令が制定され、前回のブログ記事で触れた陰陽寮を管掌する中務省や雅楽寮を管掌する治部省などの役所が整備されました。雅楽寮は外国文化である外来楽舞(伎楽、唐楽、三韓楽(高麗楽、百済楽、新羅楽)など)及び日本固有の文化である国風歌舞(神楽、東遊、大歌、久米舞、誄歌など)の双方を伝習し(和魂漢才のプラットフォーム)、752年の東大寺大仏開眼供養会では仏教儀礼として(仏教文化圏の)声明や外来楽舞と共に(神道文化圏の)国風歌舞が共演されるなど「神仏習合」の潮流が本格化しました。その後、769年に道鏡事件(仏教勢力の台頭を背景にして道鏡がフェイク神託によって皇位を簒奪しようとした事件)が勃発して「神仏隔離」(宮中祭祀から仏教要素の排除)の潮流が生まれましたが、平安時代末期に「本地垂迹説」(仏が本来の姿=本地ではなく神という仮の姿=垂迹として顕現して衆生を救う思想)が説かれると神仏習合の潮流が再興しました。この点、神話体系から生み出された神裔の天皇が王権統治の正当性を有するという神授思想(ヒエラルキーを内在)に彩られた神道と宗教教義として全ての人は等しいという平等思想(ヒエラルキーを否定)に彩られた仏教は本質的に相容れない異質なものと言え、これらの異質なものを共存、調和する「和える」文化の一態様として神仏習合( ≠ 融合)を位置付けることができるのではないかと思いますが、何事も白黒をはっきりとつけずにマダラ模様の解決を良しとする傾向が顕著な日本人の気質をよく表しています。このような時代背景のなか、平安時代中期からの楽制改革により<楽器>外来楽器の整理統合(三管三鼓二絃)、宮中祭祀への篳篥などの外来楽器の導入、<楽理>六調子の体系整理(以下の囲み記事を参照)、<楽舞>外来楽舞の左舞(唐楽)及び右舞(高麗楽)への整理(左右両部制)、番舞形式の導入など外来楽舞を日本の風土に相応しい形態に「選択」「変容」したうえで、外来楽舞、国風歌舞及び歌物(催馬楽、朗詠などの儀礼歌で、これらの歌体や技巧などを採り入れて古事記歌謡「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」を源流とする和歌が誕生)から構成される現代の「雅楽」(儒教の礼楽思想に基づく言葉で、神仏を荘厳にする「正の」が語源)のスタイルが確立し(和魂漢才)、この成果が神道(例えば、宮中祭祀である御神楽之儀の形成など)や仏教(例えば、浄土思想に基づく往生音楽の実践など)に採り入れられました(宗教と芸能の結和)。また、このような時代の趨勢を受けて、雅楽の担い手も雅楽寮の楽人から宮中の皇族、公家や官人などへ移行する(この中から源博雅などの名人も誕生)と共に、朝廷(古代)から武家(中世)へ政権が移行するのに伴って雅楽の伝習の中心は朝廷の保護を受けていた雅楽寮から宮中、有力寺社や武家の保護を受けていた楽所(宮中の大内楽所、奈良諸大寺の南都楽所、四天王寺の天王寺楽所)へ移行していきました。この過程で伎楽(仏教的な要素が強い仮面舞踊劇)や散楽(雅正の楽に対する概念で、「散」とは「雑多な」という意味を持ち大衆的な要素が強い物真似、軽業、曲芸、人形回しや踊りなどの多種多様な雑芸)などの一部の外来舞楽はその卑俗な芸風が神仏を荘厳にする儀礼に相応しくないなどの理由から雅楽には採り入れられず、俗楽として武家や庶民の文化と結び付きながら中近世に華開きました(武家文化・庶民文化の種)。なお、雅楽は世界最古のオーケストラ(管弦楽)と言われていますが、過去のブログ記事で触れたとおり、西洋音楽は「為す文化」(父性原理:支配の論理)を基調として指揮者が存在するのに対し、雅楽を含む邦楽は「成る文化」(母性原理:調和の論理)を基調として指揮者が存在しないという特徴的な違いがあります。因みに、雅楽の笙(=天)、篳篥(=地)、龍笛(=空)は宇宙を音で体現していると言われており、2014年に国際宇宙ステーションの若田光一さんが笙を演奏し、衛星回線で結んだ地上の天理大学雅楽部と合奏して話題になりましたが、現代の科学でも宇宙に関する95%のことは分かっていないと言われていますので、数少なくなったロマンが成立し得る領域と言えるかもしれません。
 
▼日本文化の発展(その1)
①文化の縦軸(古代前半:外国文化の受容による和魂漢才)
日本書記によれば、古墳時代以前から朝鮮半島を経由して徐々に外国文化の流入が見られ、遣隋使や遣唐使が派遣された飛鳥時代以降から外国文化の受容が本格化し、その代表的なものとして、612年(推古天皇20年)に聖徳太子が百済の味摩之(みまし)を桜井村に住まわせて呉(くれ)の国で学んできた伎楽舞を少年達に伝習させたこと(桜井公園に残されている日本最初の国立劇場である土舞台は日本芸能発祥の地として顕彰されていますが、当時からの国の伎舞が楽しまれていたことから娯楽(ごらく)の語源にもなっています。)や三宝供養(仏教法会)に蕃楽(外来音楽)を用いるように命じたことなどが記されています。
聖徳太子傳暦(京都大学所蔵)より抜粋
 
②文化の縦軸(古代後半:外国文化の選択、変容による和魂漢才)
上述のとおり御魂振りの楽により神懸かりして神人合一するために歌舞音曲が利用されてきました。神の御魂は人以外にも自然物を依り代として憑依することで顕現しますが、万物を司る「陰陽五行」と御魂振りの楽を司る「管弦五調子」を組み合わせることで神が顕現する万物を音で体現する世界観(音の思想)が体系化されています。因みに、後述する世阿弥は能芸論書「花鏡」で「双調、黄鐘、壱越調、これ三律。平調・盤渉、これ二呂。無調は律、呂両声より出でたる用の声なり。しかれば五臓より声を出だすが五体を動かす人体、これ舞となるはじめなり。しかれば時の調子とは、四季に分かち、また夜昼十二時に、おのおの双・黄・壱越・平・盤の、その時々に当たれり。」と記しており、この音の思想(但し、声明と同様に太食調の代りに無調を加えて六調子にしています※)を能に採り入れて舞は謡に根差したものでないと妙味(「天の調感」)がないと説いています。
方位 物質 内臓 色彩 季節 霊獣 調子
玄武 盤渉調
青龍 双調
朱雀 黄鐘調
西 白虎 平調
中央 土用 黄龍 壱越調
※六調子のうち太食調は陰陽五行との関係性はなく一部の唐楽のみで使用される調子
管絃音義(宮内庁書陵部所蔵)より抜粋
 
②中近世:サブカルチャーのメインカルチャーへの昇華(武家文化・庶民文化の台頭)
朝廷(古代)から武家(中世)へ政権が移行(政変)し、また、南北朝の動乱や応仁の乱などで京が荒廃したこと(乱世)により朝廷が衰退し、これ伴って雅楽などの王朝文化(ハイカルチャー)も廃れていきましたが、宋船や遣明船により伝来した禅宗や水墨画などの外国文化を採り入れながら(和魂漢才)、武家が活躍した戦国時代の乱世(憂き世)や庶民が活躍した江戸時代の治世(浮き世)を背景にして、能(宗教と芸能の結合:来世志向)や浄瑠璃、歌舞伎(宗教と芸能の分離:現世肯定)などの武家文化や庶民文化(サブカルチャー)が台頭しました。先日の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では、富士節・富本牛之助(二代目富本豊志太夫)が役者は「四民の外」(穢多・非人)で吉原の畳(遊郭の格式)が穢れるとして吉原を追い出される場面が描かれていましたが、古事記「禊祓と三貴子」に「き国に到りて在祁理。故、吾は、御身之為む」と記されているとおり、古代から「罪穢」の観念(非行や病気などの内的な不浄である「罪」を忌避して浄する「祓」と屍や死霊などの外的な不潔である「穢」を忌避して清める「禊」があり、これらによって心身を清浄な状態に保つ観念)が社会に浸透し、罪穢に関係する皮革、刑場、埋葬や芸能などに携わる人を賤視する風潮が生まれました。中世は流動的な身分制度(実力)を背景にして能役者に対する賤視(以下の囲み記事を参照)は早期に解消しましたが、近世は固定的な身分制度(世襲)を背景にして歌舞伎役者に対する差別意識が根強く残されていた一方で、庶民は歌舞伎役者を憧憬の対象として持て囃し、罪穢を負う人の芸や色を「浮世」の華(現世肯定)として開花させ、王朝文化の「雅」(和歌、雅楽など)から武家文化の「道」(連歌、能など)や庶民文化の「粋」(川柳、歌舞伎など)へとバラダイムシフトする時代のダイナミズム(聖から俗へ、来世から現世へ、静から動へ、世襲から実力へなどの潮流)の中でサブカルチャーをハイカルチャーへと昇華させて行きました。このような時代の潮流の嚆矢として、過去のブログ記事でも簡単に触れたとおり、俗楽として庶民の芸能に採り入れられた伎楽や散楽などの一部の外来舞楽が寺社の祭祀と結び付いた「猿楽」や農村(荘園)の娯楽と結び付いた「田楽」などの諸芸能へと発展し(和魂漢才)、やがて物語性などを備えた「猿楽の能」や「田楽の能」へ進化して人気を博しましたが(歌舞から楽劇へ)、これらの芸能を担う集団は「座」(組合)を組織して幕府や寺社などの庇護を受けながら成長し、その後、観阿弥(曲舞の「拍子」を謡に導入)や世阿弥(連歌の「幽玄」を芸風に導入)などが登場して、舞と謡い(文語)から構成される歌舞劇としての「」(主にオペラ・セリアのような悲劇)と仕草と台詞(口語)から構成される台詞劇としての「狂言」(主にオペラ・ブッファのような喜劇)が大成されました。この点、古事記「天孫降臨」における天若日子の殯(現代のお通夜に相当)の場面では「喪屋を作りて(中略)如此行ひ定て、日八日夜八夜以て遊びき。」と記されているとおり、古代から「祝言」(御魂振りの楽)だけではなく「鎮魂」(御魂鎮めの楽)に歌舞音曲が利用されており(御魂鎮めは荒魂を和魂へと転化する宗教儀礼ですが、荒魂と和魂の性格的な違いは歌舞伎の荒事と和事の性格的な違いと相似)、前回のブログ記事でも簡単に触れたとおり歌舞音曲、絵巻物及び歌集や物語(言霊の力)などの諸芸能を通して現世に怨みを抱く怨霊を鎮魂(仏教における供養に相当)することが熱心に行われていましたが、この怨霊信仰が世阿弥による複式夢幻能(顕幽一如の世界観)として舞台芸能に結実しました。なお、南北朝の動乱や応仁の乱などの戦乱(武家の台頭)により荘園の支配を失ったこと(乱世)などにより寺社が困窮し、その存続を模索する中で座に社頭を解放して勧進能などの「興行」を催させて、神仏を客として奉納する能(儀礼)から武家や庶民を客として鑑賞料を徴収する能(興行)へと性格を変化し(儀礼から興行へ)、これに伴って文学作品などを題材にした芸術性の高い能が創作されるようになりました。因みに、世阿弥は「風姿花伝 第四神祇」で能楽の祖・秦河勝の素性来歴を戯曲風に物語って(ホラ)、秦河勝が聖徳太子に命じられて宮中で最も格式が高い紫宸殿(モリ)で舞った「六十六番の物まね」が「申楽」の起源(式三番・翁)であると記していますが、このように俗を聖に転換するためのイメージ戦略(ファクション)は世阿弥の座頭としての才気を感じさせます。なお、世阿弥は同書で晩年に役目を終えた秦河勝が「うつぼ舟」で坂越の浦に漂着したと記していますが、2009年10月にヴァイオリニストの樫本大進さんが兵庫県赤穂市で開催した赤穂国際音楽祭を鑑賞した際に同市内にある大避神社で開催されていた秦河勝を祀る「坂越の船祭り」を見物したこと()を懐かしく思い出します。地元の人の話しによれば、雅楽師・東儀秀樹さん(楽家の東儀家は秦河勝の子孫)が参加されることもあるそうで、地元の若者達が神輿に付き従って大避神社本殿と坂越海岸との間の参道脇を駆け回りながら楽奏する陰囃子が実に格好良いので、ご興味のある方はお運び下さい。
 
▼日本文化の発展(その2)
③文化の横軸(中世:温故知新による武家文化の台頭)
元内大臣(従一位)・三条公忠の日記「後愚昧記」の永和4年(1378年)6月7日の条には、足利義満が祇園祭の桟敷席に世阿弥を同伴したことが記されています。以下の画像の文中赤囲みの「大和猿楽児童」は世阿弥をことで「乞食」と蔑んでいますが、この児童を足利義満が寵愛しているのは物好き(欣奇)であると揶揄したうえで、足利義満に気に入られたい大名達は競って世阿弥に莫大な金品を貢いでいると嘆いて(愚昧して)います。朝廷(古代)から武家(中世)へ政権が移行して公家の権勢と共にハイカルチャー(王朝文化)も衰退するなかで生まれた時代の空白に、武家の隆盛と共にサブカルチャー(武家文化)が台頭している時代の趨勢にハギシリしている公家の様子が目に浮かぶ大変に興味深い日記です。
後愚昧記(公文書館デジタルアーカイブ)より抜粋
 
前回のブログ記事でも触れたとおり、古神道の霊魂不滅の考え方を背景にして怨霊信仰が盛んになり、鎌倉時代に源氏との政権争いに敗れた平氏の無念を物語ること(言霊の力)で平氏の怨霊を慰撫するために平家物語(和漢混交文)が創作されましたが、当時は真名(漢字)が主流で仮名(ひらがな)が普及しておらず庶民の識字率が低かった時代(人口の5%程度)にあって文字を読めない庶民にも理解できるように琵琶法師が琵琶の伴奏で平家物語を語り聴かせる平曲が「聴く」ための物語(ラジオ)として人気になりましたが(因みに、平安時代に藤原氏との政権争いに敗れた源氏の無念を慰撫するために創作された源氏物語は文字を読める貴族を対象にした「読む」ための物語(読本))、室町時代に完成された能楽は「観る」ための物語(テレビ)として人気になり、上述のとおり平家物語を含む文学作品を題材とした能が創作されるようになりました。これにより平曲は徐々に廃れ(「聴く」から「観る」へ)、また、戦国時代の乱世から江戸時代の治世へと移行するのに伴って庶民文化が台頭したことによって厭世的な芸能(仏教的な世界観)ではなく享楽的な芸能(世俗的な世界観)が好まれるようになりました(宗教と芸能の分離:来世志向から現世肯定へ)。このような時代の変化のなか、琵琶法師が琵琶の伴奏で浄瑠璃物語(源義経と遊女・浄瑠璃姫の悲恋の物語)を語り聴かせて評判になり、これに竹本義太夫が謡曲や説教節などの要素を受け継ぎながら琵琶(音程を取り難い楽器なので語りと音楽が分離)の代わりに室町時代末期に沖縄から伝来した三味線(音程が取り易い楽器なので語りと音楽が一体)を採り入れて音楽的に表情豊かな語りを実現した「義太夫節」を創始し、さらに、散楽(傀儡)の人形芸的な要素を受け継いで人気になっていた人形芝居も採り入れて楽劇に仕立て、1684年に竹本座を旗揚げして「人形浄瑠璃」が誕生しました。その後、人形浄瑠璃は三人遣い(1体の人形のうち頭と右手を主遣い、左手を左遣い、足を足遣いの3人で遣う技法)に改良されて人形の表現力を増すと共に、前回のブログ記事で触れた浄瑠璃作家・近松門左衛門が公家や武家を主人公にする時代物から庶民を主人公にする世話物を創作し、人形浄瑠璃を単なる娯楽(サブカルチャー)から普遍的な人間ドラマ(愛別離苦)を描く楽劇として総合芸術(ハイカルチャー)へと昇華しました。また、鎌倉時代に人気になった田楽踊り(豊作祈願)や念仏踊り(成仏祈願)が室町時代末期に戦国時代の乱世(憂き世)から江戸時代の治世(浮き世)へと秩序回復して行く中で風流踊り(華美遊楽)へと発展し(宗教と芸能の分離:来世志向から現世肯定へ)、この潮流を受けて1603年に出雲阿国は傾き者が茶屋の女と戯れる場面などを表現した「かぶき踊り」を始めて評判になり(慶長日件録)、遊女(遊女歌舞伎)や男娼(若衆歌舞伎)の芸能集団が散楽の曲芸的な要素も採り入れながら「かぶき」として興行するようになりましたが(舞いから踊りへ)、江戸幕府が風俗紊乱を理由に取り締まると、男色の象徴である若衆の前髪を剃り落とした成人男性の歌舞伎役者が演じる狂言的な内容を備えた「野郎歌舞伎」(女装の元祖はヤマトタケルノミコト(倭健命)と言われていますが、女形が誕生)として大成しました(色から芸へ)。この点、平曲を源流とする浄瑠璃は「憂き世」(武家の気質を背景にして仏の慈悲に縋る来世志向)を基調とする「情」に彩られた芸能ですが、風流踊りを源流とする歌舞伎は「浮き世」(庶民の気質を背景にして享楽的な現世肯定)を基調とする「遊」に彩られた芸能であるという特徴的な違いがあると言えるかもしれません。その後、元禄時代には、江戸で市川団十郎による荒事、上方で坂田藤十郎による和事(やつし事)が評判になり、能舞台で歌舞伎が演じられていた時代の名残りとして橋掛りが花道に発展し、また、舞台の昇降装置であるセリ(俗にすっぽん)やメトロポリタン歌劇場にも採用されている回り舞台などの舞台装置も考案され、人形浄瑠璃から翻案された「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」や能から翻案された「京鹿子娘道成寺」「勧進帳」などの傑作が次々に生み出されて現代に到るまで人気になっています。なお、上述のとおり朝廷の衰退に伴って雅楽も廃れましたが、乱世が終息して秩序が回復すると正親町天皇や後水尾天皇が南都諸大寺や四天王寺から宮中に楽人を呼び寄せて宮中祭祀における雅楽の楽奏を再開し、雅楽を伝習するための三方楽所(宮中の大内楽所、奈良諸大寺の南都楽所、大阪の天王寺楽所)を整備するなど雅楽の再興に尽力しました。さらに、江戸幕府も三方楽所を庇護して日光山や紅葉山の東照大権現(徳川家康)を主祭神とする祭祀で雅楽を楽奏するために日光楽人や紅葉山楽人を整備するなど雅楽の復興を図りました。その後、蔦屋重三郎が活躍していた江戸時代中期になると、本居宣長が国学(儒教や仏教などが伝来する前の古代における日本固有の精神性を見い出す学問)を大成し、これに続いて平田篤胤が復古神道を提唱したことで神仏習合を外来文化による堕落と捉える風潮が生まれ、明治政府による復古神道(神仏分離(宮中祭祀から仏教要素の排除)、廃仏毀釈)による和魂と漢才の分離と欧化政策による和魂洋才の進展という諸政策の呼び水になりました。上述のとおり雅楽は外来楽舞から誕生しましたが、明治政府は雅楽を「皇国伝来之音楽」(神祇官通達)とする一方で、三方楽所を廃止するなど仏教音楽としては公認せず、第二次世界大戦の敗戦により「政教分離」が実施された後も、その基本的な性格は変更されることがなく宮内庁式部職楽部の雅楽師は仏教要素が排除された皇室祭祀で雅楽を楽奏することを主務としているそうです(小野真龍著「雅楽のコスモロジー」)。なお、律令国家の治部省雅楽寮と同じく明治政府の太政官内式部寮雅楽課でも外国音楽(西洋音楽)及び日本固有の音楽(雅楽)の双方を伝習していたそうで(和魂洋才のプラットフォーム)、この伝統は現在の宮内庁式部職楽部の雅楽師(雅楽器だけではなく洋楽器も演奏)に受け継がれています。因みに、口で吹くオルガンという異名を持つ「笙」は17本のリードで構成されていますが、このうち2本のリード「也」(や)と「毛」(もう)は日本的(和魂)でないという理由から使用されなくなり、これが風流でないことを意味する「野暮」(やもう→やぼ)という言葉の語源になっています。この他にも「打ち合わせ」「塩梅」「コツ」「千秋楽」「トチる」「二の句をつげない」「二の舞」「やたら」などの言葉は雅楽の用語が語源になっていると言われており、昔は現代と異なって如何に雅楽が日常生活に浸透していたのかが窺われます。なお、近世は、日本文化(和魂)を基調として南蛮文化(洋才)を区別する意味で「南蛮〇〇」(南蛮人、南蛮船、南蛮寺、南蛮菓子など)という表現が使われていましたが、近代は、欧化政策(洋才)を基調として日本文化(和魂)と西洋文化(洋才)を相互に区別する意味で「和(邦)〇〇」「日本〇〇」(和服、和室、和食、和菓子、邦楽、日本料理、日本庭園、日本建築など)と「洋〇〇」「西洋〇〇」(洋服、洋室、洋食、洋菓子、洋楽、西洋料理、西洋庭園、西洋建築など)の双方の表現が使われるようになり、いつしか主客が転倒して和魂(「和(邦)〇〇」「日本〇〇」に象徴される日本人のアイデンティティ)を見失って洋才に偏重した風潮に対する猛烈な反省に立っているのが現代と言えるかもしれません。貴兄姉は和魂をお持ちですか?
 
▼日本文化の発展(その3)
④文化の横軸(近世:不易流行による庶民文化の台頭)
世阿弥は能楽論書「風姿花伝」の序で「古を学び新を賞する中にも全く風流をよこしまにすることなかれ」(温故知新)と記して遺風の大切さを伝えています。また、蕉門十哲の一人・向井去来が松尾芭蕉からの聞き書きとして残した俳諧論書「去来抄」の修行教で「不易を知らざれば基立ちがたく、流行知らざれば風新たにならず」(不易流行)と記して蕉風俳諧の理念を伝えています。過去のブログ記事で簡単に触れましたが、観阿弥・世阿弥(中世)は伝統的な諸芸能を「温故」とし、そこから新しいものを生み出す「知新」を採り入れながら「かこ」(古代)と「いま」(中世)の世界観を調和する理想美(幽玄)を追求し、また、松尾芭蕉(近世)は時代を超越して変化しないものを「不易」とし、時代に応じて変化して行く「流行」を採り入れながら「いま」(近世)と「さき」(近代)の世界観を探求する実践美(風雅の誠)を追求したと言えるかもしれません。因みに、明治時代に俳句の革新を行った正岡子規は著書「芭蕉雑談」で俳聖・松尾芭蕉の俳句を批評していますが(流行)、歌人・斎藤茂吉は著書「正岡子規」で「子規は俳人として芭蕉をばやはり第一位に置いてゐたことは彼の文章が其を證してゐる。」(不易)とも記していますので、正しく不易流行の理念が近代にも息衝いていた証左と言えるかもしれません。なお、前回のブログ記事で近松門左衛門の虚実皮膜論について簡単に触れましたので割愛します。
去来抄(国文学研究資料館所蔵)より抜粋
 
⑤文化の縦軸と横軸の交錯(古代→中世→近世)
本文で触れていない日本文化(歌い物、語り物、物語、茶道、邦楽、浮世絵など)が非常に多く、それらの発展を網羅的に俯瞰できる一覧表を掲載しようと考えていましたが、紙片の都合から別の機会に掲載することにして、以下では本文で触れているものに限りごく簡易な表を掲載しておきます。日本文化の主役が王朝(古代)→武家(中世)→庶民(近世)へ移行するにつれて日本文化へ適応(受容→選択→変容)された外国文化がサブカルチャーの台頭に伴って国風化されるなか、歌舞から楽劇へ信仰から娯楽、芸術へという日本文化の発展のダイナミズムが生まれたと言えるかもしれません。
誕生
時代
芸能 保護 宗教性
政治性
性格 美観
古代
王朝文化
雅楽
(歌舞)
宮中
(神道)
南都諸寺
四天王寺
(仏教)

(儀礼)
式楽
(舞)
荘厳 神仏
中世
武家文化
能楽
(楽劇)
春日大社
(神道)
興福寺
(仏教)
幕府

(興行)
憂世(来世) 武家
近世
庶民文化
浄瑠璃
(楽劇)
幕府
町人

(興行)
俗楽
(語)
庶民
歌舞伎
(楽劇)
俗楽
(踊)
浮世(現世)
 
③近代:外国文化の日本文化への適応(和魂洋才)
④現代:多文化
今回のテーマは「和魂漢才のイノベーション」なので、紙片の都合から、上記③及び④は別の機会に採り上げることにしたいと思います。
 
▼オペラ「静と義経」
【演題】日本オペラ協会公演 日本オペラシリーズNo.87
【演目】オペラ「静と義経」(全三幕)(1993年/新制作)
【台本】なかにし礼
【作曲】三木稔
【演出】生田ゆみき
【出演】<静>砂川涼子(Sop)
    <義経>澤﨑一了(Ten)
    <頼朝>須藤慎吾(Bar)
    <弁慶>江原啓之(Bar)
    <磯の禅師>鳥木弥生(Mez)
    <政子>川越塔子(Sop)
    <大姫>芝野遥香(Sop)
    <梶原景時>持木弘(Ten)
    <和田義盛>川久保博史(Ten)
    <大江広元>三浦克次(B-Bar)
    <佐藤忠信>和下田大典(Bar)
    <伊勢三郎>琉子健太郎(Ten)
    <片岡経春>山田大智(B-Bar)
    <安達清経>黄木透(Ten)
    <堀ノ藤次>別府真也(Bar)
    <藤次の妻>きのしたひろこ(Mez)
    <合唱>日本オペラ協会合唱団
【演奏】<Cond>田中祐子
    <Orch>東京フィルハーモニー交響楽団
    <二十絃筝>山田明美
    <鼓>高橋明邦
【合唱指揮】諸遊耕史
【美術】鈴木俊朗
【衣裳】坂井田操
【照明】矢口雅敏
【振付・所作】出雲蓉
【舞台監督】八木清市
【副指揮】平野桂子、鏑木蓉馬
【演出助手】伊奈山明子
【総監督】郡愛子
【主催】(公)日本オペラ振興会、(公)日本演奏連盟
【日時】2025年3月8日(土)14:00~
【会場】東京文化会館大ホール
【一言感想】
昨年、渡辺俊幸さんのオペラ「ニングル」の初演が成功した日本オペラ振興会(日本オペラ協会)が三木稔さんのオペラ「静と義経」(1993年に鎌倉芸術館の杮落しとして初演され、2019年に日本オペラ協会が再演)を再演されるというので鑑賞することにしました。日本オペラ協会は「日本の伝統文化に根ざしたオペラの創造と普及」を目的として活動しており、若年層のオペラ離れが憂慮されるなか、アメリカのメトロポリタン歌劇場よろしく、現代の時代性を踏まえたオペラの革新に取り組み、将来のオペラの発展のためのに尽力されている大変に有難い団体です。来年、渡辺俊幸さんの新作オペラ「奇跡のプリ・マドンナ」の初演も予定されており大変に楽しみです。本日の公演前に日本オペラ協会総監督・郡愛子さんによるプレ・トーク(手話付)が行われましたが、三木稔さんはオペラ「静と義経」の初演にあたって、当時、磯の禅師役で出演していたメゾソプラノ・郡愛子さんのために第3幕の聴き所であるアリア「都へ帰りましょう」が追加されたという興味深い秘話が紹介されていました。本日の公演では三木稔さんが楽譜で指示しているとおり開幕の合図として日本の音を象徴する梵鐘の響きが使われ、また、日本のオペラを幅白い客層へ普及することを意識して日本語と英語の字幕が付けられていましたが、上述のとおり日本オペラ協会の志の高さを窺わせるものとして特記しておきたいと思います。なお、公演プログラムにはプロットに沿った非常に詳細な解説が掲載されていましたが、あまりに詳細な解説は観客の鑑賞の自由を制約する側面があることは否めず、これ以上の解釈を差し挟み、拙い感想を書き残す意義が乏しく感じられますので、以下では公演プログラムに触れられていない点のみを備忘録としてごく簡単に残しておきたいと思います。
 
第1幕「吉野山雪の別れ」
1185年冬、義経主従(源義経、静御前、武蔵坊弁慶、佐藤忠真、伊勢三郎、片岡経春)が吉野山に逃れていたところ鎌倉方の追討を受けて奥州へ落ち延びることになりましたが、静御前は鎌倉方に捕らえられてしまう場面です。岩山に見立てた二階建ての舞台と階段が設えられ(単なる高低だけではなく、身分や天地を象徴するもの)、その背後に設置された大きなスクリーンには雪、月、桜、八幡宮などが場面に応じて投影されるという簡素なセットが使われていました。源義経は弦楽器、武蔵坊弁慶は金管楽器、その他の郎党(佐藤忠真、伊勢三郎、片岡経春)は木管楽器、静御前(白拍子)が邦楽器を主体とした音楽が添えられていましたが、音色(楽器)をライト・モチーフとしたキャラクター設定が効果的に表現されていました。義経主従は小勢でもお互いに深い信頼で結ばれた関係であることを印象付ける場面でしたが、第二幕以降で描かれている鎌倉幕府に渦巻く打算的な関係から生まれる疑心暗鬼との対比が効果的に描かれていました。なお、日本語オペラは、西洋オペラのように歌唱(旋律や和声)を主体としたものよりも、日本語のモーラ構造や日本の伝統芸能の特徴を意識して朗唱(リズムや間)を主体としたものが多いように感じられますが、指揮者の田中祐子さんがメリハリのある手綱裁きによる絶妙な間合いで舞台に劇的な彩りを添えていたと思います。源義経が愛した女性は常盤御前(母)と静御前(妾)の二人だけだと歌う場面は日本人男性のマザコン気質を象徴するものでしたが、常盤御前は平清盛の妾であり、静御前は源義経の妾であるという境遇が象徴するように「女の幸せは男次第、男の出世は女次第」(前段は第1幕の静御前、後段は第3幕の政子が体現)という時代の価値観をうつす印象的な場面でした。
 
第2幕「八幡宮静の舞い」
鎌倉方に捉えられた静御前が源頼朝の前で白拍子舞を披露する場面です。冒頭では庶民に扮した合唱団が登場し、平安時代末期に流行した今様や田楽踊りを披露する華やかで躍動感のある舞台が展開されました。上述のとおり古代から中近世に移行するにつれて庶民文化が徐々に台頭し、能楽や浄瑠璃、歌舞伎などの多様な芸能(ハイカルチャー)を育む豊かな文化的土壌(サブカルチャー)になりましたが、そのことを象徴する舞台演出になっていて興味深く楽しめました。その後、鶴ケ岡八幡宮に舞台が移り鎌倉幕府に渦巻く悪意を象徴するように二十絃琴と弦が不協和を奏でますが、やがてチェロが静御前のモチーフを奏でると静御前は源頼朝に命じられるままに邦楽器やオーケストラによるリズミカルな伴奏に合せて「よしの山 峰の白雪ふみ分けて いりにし人の あとぞこいしき」「しづやしづ しづのをだまきくりかえし 昔を今に なすよしもがな」と源義経を恋慕し、昔を懐かしむ恋心を歌い舞う場面が見所になっており、(ミュージカルとは異なり、本来は歌とダンスが分かれているオペラでは珍しく)ソプラノの砂川涼子さんが扮する静午前が烏帽子太刀、金屏風に純白の単(源義経に対する想いを象徴)と深紅の袴(死に対する覚悟を象徴)が映える白拍子の男装(上述のとおり白拍子舞いの流れを汲むかぶき踊りを始めた出雲阿国も男装でした。)で優美な歌舞を披露しており出色でした。これに激高した源頼朝に対し、妻の北条政子や娘の大姫、家臣の和田義盛や大江広元はとりなしましたが、梶原景時だけは源頼朝に追従するキャラクター設定(判官贔屓のお膳立て)が印象的に描かれていました。メゾソプラノの鳥木弥生さんが扮する磯の御前による繊細な歌唱が特筆すべき出来映えでした。
 
第3幕「静の死と愛のまぼろし」
静御前と義経主従はそれぞれの境遇で絶望して自害しますが、あの世で再会して幸せに結ばれる場面です。鎌倉方の安達清経が静御前と源義経の間に生まれた赤子を連れ去りますが、赤子を奪われた静御前は筝の伴奏に合わせて茫然自失としながら子守歌を口遊みますが、時折、我に返って狂乱する場面が静御前の複雑な心情を雄弁に物語るもので出色でした。舞台が二分され、茫然自失とする静御前の傍らに、藤原秀衡に追い詰められた義経主従が登場し、死を覚悟した弁慶による切迫感のある歌唱と赤子を奪われた静御前による茫然自失とした子守歌の二重唱が対照的に歌われた後に、開幕の合図として使われていた梵鐘の響きが鳴らされるなか義経主従は自害しました。その一方、未だ義経主従の自害を知らない磯御前は由比ガ浜に赤子の亡骸が捨てられていたことを聞かされて源義経に合わせる顔がないと悲嘆に暮れ絶望します。この様子を見ていた堀ノ藤次夫妻は世の無常を嘆き歌うなか、鳥木さんが扮する磯御前が上述したアリア「都に帰りましょう」で高音から低音まで幅広い音域を瑞々しく色彩豊かな声音により繊細に心の綾を紡ぐ歌唱が白眉でした。ヴラヴァー!静御前はアリア「二つに一つ」で源義経が生きている限りその帰りを待つと気丈に歌う一方で、赤子の仇をとってほしいと願う激しい感情の揺れをチェロが忙しなく上下するトレモロで効果的に表現していたと思います。その後、鎌倉で源頼朝の娘・大姫が自死する場面を挟んだ後、源義経の帰りを3年間待った静御前が合唱をバックに源義経に対する募る想いを歌うアリアでは砂川さんの見事なベルカント唱法が大きな聴き所になっていました。ヴラヴァ―!やがて静御前は源義経の死を聞かされて自害しますが、弦楽器のフラジョとポルタのロングトーンで道行が表現され、仏教法会における雅楽の楽奏のような曲調の音楽が奏でられるなか義経一行の御霊が登場して静御前の御霊を呼びよせました。暫くの間が置かれた後、指揮者の田中祐子さんが「ふん!」と気合を入れて指揮棒を振ると別次元の音楽が立ち上がり、義経一行と静御前が全員合唱が成仏したことを感じさせる癒しの音楽に包まれて彼岸へと旅立ち終幕になりました。現代人には昭和年間の判官贔屓は通用しませんが、人間ドラマとして多様な要素を内包した話しであり、今後も源義経を題材とした現代オペラが創作されることを期待したいです。なお、このオペラとは関係がない余談になりますが、現代の日本語は会社で報告書を書くための機能性ばかりが重視された痩せたものに感じられ、能楽、浄瑠璃や歌舞伎の詞章(「昔男に移り舞」に仄かに薫るエロスや「雲心なき水の音」に映る透徹のタナトスなど)と比べると野暮(=「他」+「毛」)ったさのようなものを覚えて感興を削がれる憾みがあります。三島由紀夫さんは著書「文化防衛論」で「詩の深化」が顧みられなくなった状況を嘆いていましたが(但し、三島さんが述べられている趣旨は単なる言葉の問題に留まらない広範で深淵な問題を見据えているように感じられますが)ファクトを伝えるだけの味気ない言葉ではなく、その深層に分け入って真実を捉えた言霊のようなものが感じられる心を打つ言葉(「暮れ染めて鐘や響くらん」に顕ち込める情緒や「あだしが原の道の霜一足づゝに消えて行く」に研ぎ澄まされた無常など)に接する機会に久しく恵まれていません。その意味ではネットスラングなどの方が聴く者のイマジネーションやクリエイティビティ―を掻き立て心を豊かに彩る力を持っているように感じられることもありますが、(観客に受け入れ易いものか否かは別論としても)日本語オペラの普及にあたっては必ずしも現代の日本語に拘泥することなく、詩情豊かに心をハッキングしてくれる言魂のようなものが感じられる洗練された言葉が求められるのではないかと個人的には感じています。映画ではなく歌劇なので、プロットの面白さよりも聴感の心地良さの方が優るような気がしています。
 
 
▼「陵王乱序|RANJO」
【演題】陵王乱序|RANJO 東京公演
【演目】①石田多朗 旅
    ②石田多朗 Cado
    ③石田多朗 盤渉調調子
    ④石田多朗 骨歌
    ⑤古典雅楽 小乱声
    ⑥石田多朗 陸王乱序
    ⑦古典雅楽 安摩乱声
    ⑧古典雅楽 沙陀調音取
    ⑨古典雅楽 陸王破
    ⑩石田多朗 太食調音取
    ⑪石田多朗 死者の書
    ⑫古典雅楽 双調音取
    ⑬石田多朗 常世
【出演】<シンセサイザー>石田多朗
    <篳篥・和琴・舞>中村仁美
    <楽琵琶>中村かほる
    <笙>中村華子
    <龍笛>伊﨑善之
    <Vn>田中李々
    <Va>七澤達哉
    <Vc>成田七海
【舞台監督】大屋順平
【音響】小俣佳久
【日時】2025年3月9日(日)17:30~
【会場】早稲田スコットホール
【一言感想】
昨年、エミー賞を受賞した映画「SHOGUN 将軍」のサウンドトラックが第67回グラミー賞にノミネートされ、残念ながら、その受賞は逃しましたが、雅楽など日本の伝統音楽のアレンジなどで参加されていた石田多朗さんの演奏会があるというので聴きに行くことにしました。現在、石田さんは那須に在住し、ご自宅の前には自然林が広がっているそうですが、冒頭、その自然林で採録された音源(サウンドスケープ)が紹介されました。季節の頃は野鳥の繁殖期である春先のものでしょうか、非常に豊富な種類の野鳥の鳴き声が収録されていました。石田さんによれば、自然の音は季節に応じたビート感のようなものを持っているそうですが、季節によって上述の管弦五調子のような特徴的な違いがあるようです。なお、石田さんの音楽観として、作曲家の思想を聞いて貰いたいという類の押し付けがましい音楽ではなく、自然の音のように人それぞれにとっての縁になるような音楽を創作したいと語られていましたが、石田さんの音楽を聴いているとポスト・クラシカのような風合いを持っているように感じられます。石田さんの雅楽に対するイメージとして、三管のうち、龍笛が横向き、篳篥が縦向き、笙が上向きで演奏される楽器で3次元的な音の広がり(空間)を表し、二絃の和琴と楽琵琶はリズムの刻み(時間)を表しており、それらが総体として宇宙(時空)を体現しているイメージを持っているという趣旨の話しをされていたが興味深かったです。この点、先日まで東京現代美術館で開催されていた展覧会「音を視る、時を聴く」でも採り上げられていたテーマですが、量子宇宙論では時空は実在ではなく現象として出現するものであり、過去から未来へと一方向に進む直線的な時間の流れ(時間感覚)は人間の脳が作り出した虚構である可能性が指摘されており、坂本龍一さんもその世界の実相を描くための表現を模索されていたようですが、人間が認知している世界(自然、宇宙を含む)は人間の知覚に支配された世界観(環世界、ロゴス)であり、その限界を超えて世界(自然、宇宙を含む)の実相(環境世界、ピュシス)を描くためのより解像度の高い表現を求めることの難しさが感じられます。本日の演奏会では演目数が多かったので、各曲についてごくごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
①旅
石田さんのご自宅の近くで発生した河川氾濫の犠牲になった父子を弔うために創作された鎮魂曲だそうですが、シンセサイザーが2つの音程を行きつ戻りつしながらハーモニーが移ろって行く曲調で、聴く者の心象風景(思い出など)が紡ぎ出されて行くような感興を覚える優しい音楽を楽しめました。
 
②Cado
石田さんが作曲された空気清浄機メーカー「カドー」のCM音楽が演奏されました。シンセサイザーが奏でる音粒が空中をふわふわと舞っているような軽やかで清涼感のある音楽を楽しむことができ、心まで清浄されているような不思議な感覚になりました。西洋文化は神の絶対秩序を前提にして余白を未完成なものと捉えられる傾向がありましたが、ゼロの概念を発明した東洋の思想はその対極にあり、日本文化の間(余白)で聴かせる音楽が聴く者の感受性を自由に解き放つ魅力的な作品に感じられました。
 
③盤渉調調子
弦楽器がロングトーンでキャンバスを奏でるなか、シンセサイザーがまるでドリッピング技法(盤渉調は「水」を象徴する調子)よろしく一定間隔で1音1音の響きを滴り滲ませて行くように奏でられました。これに笙のハーモニーで彩りを添えながら、シンセサイザーが繊細に表情を変えて行く静かな音楽が展開されました。その後、ヴァイオリン・ソロがバッハ風の文脈を持った音楽を格調高く奏でましたが、再び、弦楽器、シンセサイザー及び笙が冒頭の音楽を再現するソナタ形式のような構成(序破急とは異なる?)の音楽で自然美と人工美が対比されているように感じられました。
 
④骨歌
石田さんが東京藝術大学在学中に同大教授(日本画)の宮廻さんから展覧会に流すインスタレーション作品として雅楽曲の作曲を委嘱され、石田さんが初めて雅楽曲の創作にチャレンジしたものだそうです。その意味では石田さんにとって宮廻さんは人生で何人かに出会う人生を運命付ける人と言えるかもしれません。その展覧会には坂本龍一さんも来訪されていたそうで、坂本さんからこの曲を褒められたことが語り草になっているそうです。
 
⑤小乱声
⑥陸王乱序
⑦安摩乱声
3曲が続けて演奏されましたが、何といっても、⑥陸王乱序における中村仁美さんが扮する陸王の舞が白眉でした。龍笛が抒情的な調べを奏でるなか陸王が静々と登場し、悠久な時間の流れを感じさせるゆったりとした雄大な舞姿は凛とした気品や鋭さのようなものを兼ね備えた洗練美を湛えるもので見惚れてしまいました。ヴラヴァー!なお、あくまでも個人的なイメージですが、能の舞は田楽の影響なのか重心を低く保ち曲線的な所作(丹田に意識を持ち体を中心軸に向かって収斂する構えなど)が多い印象があるのに対し、雅楽の舞は重心を高く保ち直線的な所作(天地軸に意識を持ち体を左右対称に開放する動きなど)が多いイメージがあり、それが颯爽とした舞振りの印象を与えるようにも感じますが、何故、このような特徴的な違いが生まれたのか本質的な理由は思案中です。因みに、雅楽師は楽家の伝統から専門職制のイメージがありましたが、楽器だけではなく舞にも精通したマルチプレーヤー(総合職制)だそうです。
 
⑧沙陀調音取
⑨陸王破
龍笛と篳篥が同じ音型が繰り返しながら勇壮な演奏を展開し、これに笙のハーモニーが荘厳な雰囲気を添える好演を楽しめました。リズム楽器である楽琵琶は能管と同様に音節を区切って音楽にメリハリを生む役割を担っているように感じられましたが、楽琵琶と薩摩琵琶や筑前琵琶との特徴的な違いが感じられて興味深かったです。
 
⑩太食調音取
シンセサイザーがメランコリックな旋律を奏でると、これを弦楽器が受け継いでシンセサイザーと弦楽器による優美なアンサンブルが展開されました。その後、笙とチェロ、篳篥とヴィオラ、楽琵琶と弦楽器へと受け継がれながら、和洋の楽器の様々な取り合わせのアンサンブルの妙味を楽しめました。
 
⑪死者の書
石田さんが精神的に辛い時期に折口信夫さんの著書「死者の書」に着想を得て創作した曲だそうです。シンセサイザーがメランコリックな音型を繰り返すなか、篳篥、龍笛、ヴァイオリンが絡み合い、冥界の入り口を彷徨っているような暗く重苦しい音楽が展開されました。やがてシンセサイザーと弦楽器が奈落へと堕ちて行くような螺旋状の下降音型を繰り返し、最後は鎮魂の楽器である楽琵琶で絞められました。
 
⑫双調音取
⑬常世

2曲が続けて演奏されましたが、中村仁美さんが和琴と篳篥を演奏され、龍笛、笙、楽琵琶、弦楽器が全奏しながら徐々にテンポを上げて(序破急?)、石田さんの鼻歌?を挟みながら和魂多才を体現する癒しの音楽を楽しめました。

 
 
▼第6回REAMコンサート(東京藝術大学音楽学部作曲科)
【演題】Research for Electro - Acoustic Music - REAM - Vol.6
【演目】①石田千飛世 秋思(2024)- 篳篥、ライブエレクトロニクス-
    ②林梨花 生ける光の影(2024)
                -ヴァイオリン、ライブエレクトロニクス-
    ③廣庭賢里 色無き緑の考えが猛烈に眠る(2024)
                  -ヴィオラ、ライブエレクトロニクス-
    ④前田朱音 Flawless Flores(2024)
          -フルート、バス・フルート、ライブエレクトロニクス-
    ⑤折笠敏之 transformatio emergens l a(2025)
                        -アンサンブルのための-
【出演】<篳篥>阿部三世子
    <Vn>清水伶香
    <Va>山本大地
    <Fl、B-Fl>石田 みそら
    <Le、PA統括>折笠敏之(東京藝術大学音楽学部作曲家准教授)
    <Le>石田千飛世、林梨花、廣庭賢里、前田朱音
    アンサンブルREAM
    <Cond>矢野耕我
    <Vn>大久保薫子
    <Vc>谷川萌音
    <Fl>鎌倉有里
    <Ob>酒井弦太郎
    <Cl>田中そよ香
    <Hp>加美山舞
【日時】2025年3月16日(日)17:30~
【会場】東京藝術大学音楽学部第6ホール
【一言感想】
今日は東京藝術大学音楽学部作曲科第6回「REAMコンサート」を拝聴することにしました。「REAM」(esearch for lectro-coustic usic)は、2016年にコンピュータを援用した創作分野の教育・研究を目的として同科に設置されたそうです。これまではコンピュータを援用した目に見える分かり易い電子音響音楽の作品演奏に注力してきたそうですが、最近ではアコースティクの創作現場におけるコンピュータの援用が国際的な常識になっている状況を踏まえて電子音響の有無に拘らない創作の可能性も追求しているそうです。今回の演奏会では2024年に開催された学内向けの演奏会「大学院生ミクスト音楽作品試演会」で初演された修士課程の学生4名のミクスト音楽作品と同科でミクスト音楽を担当している准教授の折笠敏之さんの作品が演奏されましたので、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。なお、本日演奏を担当したアンサンブルREAMは2017年に同科で実験的なミクスト作品を含む多様な現代音楽を演奏することを目的に結成されたアンサンブルだそうですが、最近の現代音楽ブームとも言える状況にあって外部での演奏機会も増えてきているのではないかと思われますので、その活躍が注目されます。
 
①秋思
パンフレットには輪廻(生命の循環)という東洋思想(但し、涅槃に対する輪廻という仏教的な概念よりも科学的な自然観に近い概念と言えるかもしれません)は雅楽(調子や奏法など)にも息衝いており、その生命の循環の中に自己を位置付ける謙虚さが必要であるという趣旨のことが記載されています。阿部三世子さんによる篳篥の演奏とそれをコンピューターが反復、変容しながら相互に呼応して自然のカオスを形成して行く様子が表現されているように感じられる面白い作品でした。
 
②生ける光の影
パンフレットには最初の女性作曲家と言われているヒルデガルト・フォン・ビンゲンの幻視体験(ヒルデガルトはドイツ薬草学の祖としても知られていますが、その影響という可能性もあるかもしれません)に着想を得て、ヒルデガルトが作曲した典礼用の作品の一部を引用して創作されたという趣旨のことが記載されています。観客の拍手、ピアノ、ヴァイオリン、鐘の音などのアコースティックの音(現)をコンピュータの音(幻)で採取し、様々に変容してアコースティックやコンピュータの音と重ねながら幻視体験の世界観を表現しているように感じられる面白い作品でした。
 
③色無き緑の考えが猛烈に眠る
パンフレットには人間が脳内で考えている言葉を電子音響で演奏し、人間が実際に発話している声をヴィオラで演奏して、不器用ながらも必死に心の声を伝えようとしている人間の姿を表現しようと試みたという趣旨のことが記載されています。電子音響が文脈を持たない音を、また、ヴィオラが文脈を持った音を交互に繰り返すうちに、電子音響がまとまりのない雑然とした音を発するようになり、それに振り回されるヴィオラの狼狽振りが感じられる面白い作品でした。
 
④Flawless Flores
パンフレットにはT.ウィリアムズの戯曲「欲望という名の電車」とS.プラスの小説「ベル・ジャー」から一節が引用され、欲望と死などの対照的な2種類の「花」(陰陽)から「Flawless」(欠点のない) 「Flores」(花)が咲き零れるという趣旨のことが記載されています。上記の解説と音楽のイメージが結び付き難く、もしかすると両者は全く関係がないかもしれませんが、幽けき息の音と電子音の境界が曖昧になり又はそれらが倒置しているような風合いの音楽に感じられる面白い作品でした。
 
⑤transformatio emergens I a
パンフレットにはコンピュータを援用して音楽素材を別の音楽素材に生成的に変容する実験的な試みにあたって、アコースティックなアンサンブル作品をそのためのサンプルデータとして活用するために本日の演奏を録音するという趣旨のことが記載されています。アコースティック楽器のみで様々な短いフラグメントが演奏され、アコースティック作品としても楽しめる着想豊かな音楽に感じられる面白い作品でした。
 
 
▼ドゥドゥクと篳篥 シルクロードでつながる東西の響き(ドゥドゥク:樽見ヤスタカ、篳篥:あべみよこ)
千葉市文化センターでアルメニアの民族楽器「ドゥドゥク」と日本の民族楽器「篳篥」のレクチャーコンサートがあるというので聴きに行くことにしました。現時点における人類最古の楽器は4万年前のヨーロッパ(ドイツ)において発見された骨(牙)から作った管楽器(笛)と言われていますが、その後、紀元前3000年頃に古代エジプトで植物の茎から作ったダブル・リードの管楽器が誕生して中東や中央アジアなどで発展し、アルメニア地域で「ドゥドゥク」やペルシャ地域で「ズルナ」「メイ」などの管楽器が誕生しています。これらの楽器が東西へと伝わり、6世紀頃に中国から日本へ「篳篥」(「篳」「篥」という漢字は雅楽の縦笛を表すためだけに使われる文字)が伝来し、また、17世紀頃にフランスで「オーボエ」(高い音の木を表すフランス語)が誕生しています。因みに、昭和ロマンが薫る移動式屋台ラーメンの「チャルメラ」(ドレミーレド、ドレミレドレ〜♪)は16世紀に南蛮貿易によりポルトガルから日本へ伝来したダブル・リードの管楽器(ポルトガル語でリードの素材である葦を意味するシャルメラが語源)で、昭和41年に発売されたインスタントラーメン「明星チャルメラ」という商品名に採用されています。篳篥とチャルメラはいずれもダブル・リード楽器として同祖同根の楽器ですが、それぞれ異なったルートで日本に伝来し、チャルメラはオーボエの語源でもある高い音がすることから移動式屋台ラーメンの客の呼込みのために使われるようになったと言われています。因みに、ダブル・リードの管楽器には①円錐形の管+小さなリードで大きな音がする楽器(チャルメラ、オーボエなど)と②円筒形の管+大きなリードで小さな音がする楽器(ドゥドゥク、篳篥など)の2種類に大別できますが、ドゥドゥクは低音域が出る楽器として上記②の性格を持つ楽器でニュアンス豊かな繊細な表現が魅力であるのに対し、篳篥は高音域が出る楽器として上記①の性格を併せ持つ楽器で明度が高く広がりのある音に魅力があるのではないかと思います。清少納言は枕草紙第218段で横笛や笙はエモいが篳篥はクツワムシのように喧しく下手な演奏は聴くに耐えない(篳篥はいとかしがましく、秋の虫をいはば、轡虫などの心地して、うたてけぢかく聞かまほしからず。ましてわろく吹きたるはいとにくき・・・)と揶揄していますが、篳篥は小さい楽器ながら非常に大きな音が出ますので繊細な清少納言には刺激が強すぎたということかもしれません。因みに、大河ドラマ「太平記」のオープニング曲の冒頭で篳篥の演奏が使用されています。また、大河ドラマ「義経」のオープニング曲の冒頭と終盤では龍笛と笙の演奏、その中盤では厳島神社の舞楽「蘭陸王」の演舞が使用されています。ドゥドゥクは大きな楽器の割に息がそのまま音になっているような精妙なサウンドが特徴であるのに対し、篳篥は小さい楽器の割に空間的な広がりのある開放的なサウンドが特徴で、同祖同根の楽器ながらドゥドゥクが繊細な姉だとすれば篳篥は活発な妹に例えられるような対照的な性格に感じられました。この性格的な違いは文化的又は風土的な要因により生じたものなのかなど、未だ不勉強で詳しいことはよく分かりません。
 
▼法制大学能楽研究所 能楽セミナー
法政大学能楽研究所が「マンガのアダプテーションと能狂言」「近世初期以前の囃子」と題する興味深い能楽セミナーを開催するというので参加しました。但し、主催者から細かくサマラないで欲しいとお願いされましたので、ポイントの要旨のみを列挙しておきたいと思います。前者のセミナーでは、漫画「鬼滅の刃」を題材として「竈門炭治郎立志編」を翻案した能狂言「鬼滅の刃」(2022)に続いて「無限列車編」「遊郭編」を翻案した能狂言「鬼滅の刃」-継-(2024)が公演されて話題になっている状況を踏まえて(残念ながら、出演予定者の問題でスーパー歌舞伎Ⅱ「鬼滅の刃」は公演中止)、①中世の漫画とも言い得る絵巻物や絵本が風流能の題材として使われていた時代状況、②原作漫画の世界観に忠実である一方で能楽の表現特徴を活かして鬼の中に人間性の残照もうつすなど舞台表現の可能性を拡張するためのアダプテーション、③漫画(二次元的、断続的)と能楽(三次元的、連続的)の表現特性の対比、④現代演劇(具象化、2.5次元化)と能楽(抽象化、様式化)の表現特性の対比、⑤フランスにおける日本文化の受容(ギメ美術館で開催中のマンガ展、フランス語の能「マタ・ハリ」、アニメツーリズム協会「アニメ聖地巡礼」によるアニメツーリズム、能楽協会「能を旅する」によるコンテンツツーリズム)など興味深い話が聞けました。後者のセミナーでは、津藩藤堂家に仕官していた一噌家(分家)に伝承されていた「御家之獅子」の「大本 笛唱歌付」(国立能楽堂所蔵)を題材にして近世以前の能の囃子の特徴を掘り下げるセミナーでした。詳しい内容には触れませんが、現在の能では音高の区切りで笛を吹きますが、節の区切りや言葉の区切りで笛が吹かれいたという特徴的な違いがあり、これは小鼓の手組にも同様の特徴が見られ、現在と比べて近世以前の方が囃子のバリエーションが豊富であったという興味深い話を聞けました。最後に、「御家之獅子」の復曲として一噌流笛方・一噌幸弘さん、幸流小鼓方・成田達志さん及び観世流シテ方・坂真太郎さんによる実演が披露されましたが、一噌幸弘さんが藤堂家の殿様はプログレ趣味があったのではないかと小言を述べながら演奏に苦心されている様子が会場の笑いを誘っていました。何故、このような変化が生まれたのかという点については言及がありませんでしたが、江戸時代に武家文化の式楽として洗練されるまでは庶民文化に息衝く躍動(又は洗練し切らない雑味のようなもの)が囃子に残されていたということなのかもしれません。
 
▼映画「そして、アイヌ」、短編映画「urar suye」
アイヌ文化アドバイザーとして若い世代に対する舞踊や楽器演奏の伝承活動にも取り組まれているアイヌ料理店「ハルコㇿ」(場所:新大久保駅前)の店長・宇佐照代さんは、関東在住のアイヌ人のための居場所を作りたいという祖母や母の想いを受け継いでアイヌ料理店の営業を開始したそうですが、未だにアイヌ人に対する偏見や差別がなくならない状況を踏まえて宇佐照代さんのファミリーヒストリーやこれまでに出会った人々などを通じ、アイヌのアイデンティティ、文化承継、多様性や人権などの現代的な問題と向き合うドキュメンタリー映画「そして、アイヌ」が2025年3月15日から全国で公開される予定なので楽しみにしています。最近、関東でもアイヌ料理が食べられる店が増えてきましたが、アイヌ料理店「ハルコㇿ」はアイヌ料理店の草分け的な存在として非常に人気が高いので予約された方が安心です。また、現在、阿寒湖アイヌコタンYouTubeチャンネルにおいて、北海道・阿寒湖アイヌコタンを舞台にして現代に息づくアイヌの世界観を描いた短編映画「urar suye」が公開されています。アイヌ人のカムイ(Kami)と倭人(和人)のカミ(kami)は、それぞれ万物を依代として霊的な存在(カムイ、カミ、仏、精霊など)が宿るというアニミズム思想を基調としている点で類似点が多いように感じられますが(但し、神格化の有無など相違点もあり)、自然と共生しながら育まれ、営々と受け継がれてきたアイヌ文化に接していると、古代まで遡る日本人(アイヌ人+和人+その他の民族)としてのアイデンティティが甦ってくるような不思議な感覚になります。文明社会の中で失われた自然に対する感度を回復するために、アイヌ文化に息衝く自然との向き合い方(叡知)に触れる有難さを感じます。

新作歌舞伎「陰陽師 大百足退治/鉄輪」と新作オペラ「陰陽師」(木下牧子/東京室内歌劇場)と新作詩楽劇「めいぼくげんじ物語 夢浮橋」(中井智弥/東京国際フォーラム)と「嘘」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼「嘘」(ブログの枕)
過去のブログ記事でも触れたとおり、最初に人に嘘を吐いたのはイヴに知恵の実(禁断の果実)を食べるように唆した楽園の蛇ということになりそうですが(旧約聖書創世記第3章第13節)、老子が「道徳経」第十八章で「知恵出でて大偽あり」として人が知恵を持つと純真さ(人本来の無為自然な生き方)を失い嘘を吐くようになると戒めていますので、噓吐きの始まりは最初に知恵の実を食べたイヴということになりそうです。因みに、「無為」の反対語は「人為」で「人」+「為」=「偽」(嘘)になりますが、何事につけて「人為の虚を構えずして天然の真に従わん」(福沢諭吉)と心掛ければ大過ないということかもしれません。「嘘」の語源には諸説あり、中国語の「胡説」(語義:根拠や道理も無く妄りに言うこと)と「嘘」(語義:息を吐くこと)に由来して後者の漢字に前者の語義を組み合わせたものが日本語の「嘘」になったという説が有力ですが、虚言癖がある人のことを「息を吐くように嘘を吐く」と揶揄する由縁とも言われています。そのような人の本性を日本三大悪女の1人に数えられている日野富子は「偽りの ある世ならずは ひとかたに 頼みやせまし 人の言の葉」という和歌に詠んで、人の言葉ほど頼りにならないものはないと嘆いています。この点、「指切り 拳万 嘘吐いたら針千本飲ます」という有名な童歌に歌われている「指切り」とは、大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で描かれている吉原(元吉原は明暦の大火で焼失するまでは日本橋葭原にありましたが、「葭」(葦)の響きが「悪シ」を連想させることから縁起を担いで「吉」の文字に改めたことが名前の由来とされ、蔦屋重三郎は浅草に移築された新吉原で誕生)の遊女が贔屓の客に愛の証として自分の小指の先を切り落として渡す風習に由来していると言われていますが、「遊女に真なし」と言われるとおり本物の小指を渡すことは稀で、実際には飴細工(新粉細工)で作られた偽物の小指を渡していたそうなので、義理チョコならぬ義理ゆびで疑似恋愛を洒落ていたということなのだろうと思います。蔦屋重三郎宅に居候していた十辺舎一九は「誠は嘘の皮 嘘は誠の骨 迷うも吉原 悟るも吉原」(嘘真言心之裏表:真実を覆い隠すのが嘘であり、嘘を暴くと真実がある)と書いていますが、吉原は虚実皮膜の間に灯るうたかたの夢を紡ぐ場所であり、義理ゆびと知りながら嘘に真をつないで粋に遊ぶ客の器量も試されていたと言えそうです。なお、無粋な話しで恐縮ですが、元々、この「指切り」は鎌倉時代に合戦の同士討ちや失態などを犯した武士が指切りの刑に処せられたことが始まりとされており(鎌倉幕府が編纂した歴史書「吾妻鏡」の元暦元年1184年6月17日条:「右乃手のゆびを切らせ給ふ」)、その伝統はヤクザの指詰めとして受け継がれました。因みに、ヤクザの指詰めのことを俗にエンコを詰めるとも言いますが、これは人形浄瑠璃の隠語で手を意味する猿候(エンコウ)に由来し、それくらい大切なものを差し出す趣意と思われます。それにしても嘘を吐くなという約束そのものが嘘っぽい脅迫(指切り、拳万、針千本など)に彩られており、果たして、このような数々の脅迫まで持ち出さなければ油断ならない人は、何故、嘘を吐かずにいられないのか(その裏腹として、嘘を信じ易いのか)について簡単に触れてみたいと思います。人類は、大まかに分けて、①新生代(~約300万年前:猿人の数十人の群れ)、②旧石器時代(約300万年前~約1万年前:狩猟採集を行うために原人又は旧人の100人前後の小規模な集団生活)、③新石器時代(約1万年前~:農耕牧畜を行うために現人の100人超の大規模な集団生活)と段階的に進化(環境適応に伴う変化)又は進歩(時間経過に伴う変化)してきましたが、上記②の時期に人類は狩猟採集に相応しい特性を備えた「心」を形成し、過去のブログ記事でも触れた認知革命(進化)を経て高い社会性を備えるようになったと考えられています。人類は自らの生存可能性を高めるために自ら帰属する集団の仲間と協力して狩猟採集し、それにより獲得した食料を分かち合うという生存戦略を選択しましたが、これにより仲間が言うことを直ぐに信じて一致協力した方が自ら帰属する集団の維持、発展に有利であるという肯定的な心理傾向を備えるようになった考えられています。その後、上記③の時期に氷河期の終焉に伴い狩猟採集よりも安定した農耕牧畜へ移行して100人超の大規模な集団生活を営むようになると、自ら所属する集団の仲間との個別的な協力関係に代わる方法として文字を発明し、より多くの仲間との集団的な協力関係を形成するようになりました。これに加えて、文明の発展により過酷な生存競争から解放されて淘汰圧が低下したことで遺伝的な多様性が生じたことにより、仲間が言うことに様々な「見解」が錯綜するようになると、仲間が言うことを直ぐに信じるばかりではなく、その真偽や適否を検証することが自ら所属する集団の維持、発展に有益であるという環境変化が生まれました。しかし、狩猟採集に相応しい特性を備えた「心」しか持たない人類は、未だこの環境変化に十分に適応することができずに、仲間が言うことが集団の維持、発展に有害なもの(嘘など)であっても直ぐに信じてしまうという無防備な心理傾向として顕在化しているのが現代です(映画「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」)。この点、「嘘」とは事実でないことを伝えることを意味しますので言葉を使う人のみに特有の行為ですが、「欺く」とは何かを隠すことなどにより仲間などの信頼を裏切ることを意味しますので人に限らず数多くの生物にも見られる行為(例えば、遺伝的な例としては捕食者を欺く擬態などがあり、また、戦略的な例としては自らの卵を仲間などの巣に産んで代わりに育てさせる托卵などがあります。)と言われています。基本的に、これらの行為は仲間などの行動を予測し、その行動を意図的に操ることで自らの生存可能性を高める利己的な行為と考えられますが、このような背信的な行為が繰り返されると仲間が言うことを直ぐに信じて一致協力することが難しくなるという不都合をきたします。古来、「嘘」は「知恵」の一態様としてポジティブに捉えられていた時代もありましたが、ギリシャ哲学(プラトン学派)や中国哲学(孔子学派)の登場によって「倫理」が重視されるようになると、「知恵」には自ら帰属する集団の維持、発展に有益な良い知恵の発現としての「叡知」と自ら帰属する集団の維持、発展に有害な悪い知恵の発現としての「狡知」(嘘などを含む)の2種類があると捉えられるようになり、自ら所属する集団の内部(仲間)に対する「狡知」は悪い知恵として戒められる一方で、自ら所属する集団の外部(敵)に対する「狡知」(主に戦争、外交、商売の分野など)は良い知恵として容認されるという二重基準が生まれました(戦争に関する有名な二重基準の例として旧約聖書申命記第20章第10節~第20節)。一般に、人は3歳頃になると簡単な嘘を吐くようになり、4~5歳頃になると「ガセ」(過失による嘘)と「デマ」(故意による嘘)の違いを認識できるようになると言われていますが、知能の高低は嘘を吐き易いか否かとは直接の関係はなく、その一方で、創造性がある人ほど嘘を吐き易い(理由付けが上手い)という研究結果がありますので、嘘(狡知)は人類の進化や進歩(叡知)の副作用と言える面があるかもしれません。「デマ」(故意による嘘)については脳科学の研究が進んでおり、嘘を吐くときには前頭前野が司っていますが、嘘を吐くことに対する倫理的な葛藤は前部帯状回、背外側前頭前野や複内側前頭前野などが司っており、虚言壁やサイコパスなどの傾向を持つ人は嘘を吐くことに対する倫理的な葛藤を司る脳機能が低下していることが分かっています。これに対して、「ガセ」(過失による嘘)については嘘を吐くという意識がないので嘘を吐くことに対する倫理的な葛藤を司る脳機能が働く機会はなく、不注意から偏見まで千差万別の態様があって複雑な要因が絡み合うものと考えられています。この点、人は物事の真偽や適否を判断するにあたり客観的な動機付け(正確な結論を得ようとする態度)と主観的な動機付け(恣意的な結論を得ようとする態度)の双方が働くと考えられていますが、客観的な動機付けよりも主観的な動機付けの方が強く働く場合には恣意的な結論を得ようとして都合の良い情報選択や情報検証が行われる傾向(認知バイアス)があるという研究結果があり、偏見などに基づく嘘(ガセ)が生まれるリスクが高まります。また、一般的には複数人で話し合うことで正確又は適切な結論が得られ易いと考える傾向がありますが、却って1つの方向性に意見が極端化する傾向(集団分極化:リスクの高い方向に極端化することをリスキー・シフト、安全な方向に極端化することをコーシャス・シフトと言います。)があるという研究結果もあり、仲間の言うことを直ぐに信じてしまうという心理傾向が認知バイアスを強化する方向に働くケースもあります(フェイクが拡散され易い要因の1つ)。この点、人は意識している自分が本当の自分であると思いがちですが、人の脳は認知機能の省力化のために意識的な情報処理と無意識的な情報処理とを組み合わせて活動し、意識的にコントロールできる心(理性)と無意識的に支配される心(本能)の2つを持ち合わせており後者も含めて自分という全人格を形成(心=意識+無意識)していますので、一層と状況は複雑であり狩猟採集に相応しい特性を備えた「心」だけでは上手く対処することは困難であると考えられます。近年、SNSなどを介してフェイクが拡散されて社会生活に混乱を招く事態が顕在化し、このような状況に対処するためにファクト・チェックが注目されるようになっている一方で、何が真実なのかを見極めることが非常に難しくなっている状況も生じています。トランプ大統領は常識の革命を標榜していますが、オルタナティブ・ファクトやポスト・トゥルースなどに象徴されるように事実や真実の相対化によって虚実の境が曖昧になっていると共に、フィルター・バブルやエコー・チェンバーなどにより認知バイアスの強化が進んで虚実の見極めも非常に困難になっています。この点、「真実」=「事実(ファクト)」+「解釈」+「感情」の各要素に分解することができますが(例えば、事実:知人に挨拶したが返事がなかった、解釈:その知人に無視された、感情:その知人は嫌な奴だ。)、このうちの「心が作っている世界」が「事実」及び「解釈」であり、「その世界に作られている心」が「感情」ということになります。哲学者のF.ニーチェは「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」と達観していますが、俗に「常に真実は多面的である。」と言われるとおり、必ずしも、1つの事実が真実を示しているとは限らず、(思弁的実在論の議論は横に置くとしても)その解釈によって真実は変り得るものであるとも言えます。その意味では、真実は事実の解釈によって相対的に規律されるものであるとも言えますので(真実=事実+解釈)、自分が正しいと信じるものが唯一の真実であり(メタ認知の歪み)、仲間などが正しいと主張するものは認知バイアスに彩られた誤謬であるという思い込み(素朴実在論)を捨て、仲間などが正しいと主張するものを要素に分解し、どの要素がどのように食い違っているのか、その食い違いを生む背景になっている価値観(アイデンティティ)は何なのかを虚心坦懐に見極めて冷静な議論や適切な判断に結び付けることが求められる時代になっています。過去のブログ記事でも触れましたが、多様性の時代を迎えて、お互いの違いを大らかに許容することができる幅広い教養を培うことが益々重要になっています。
 
▼嘘のグラデーション
」とは事実ではないこと(虚偽、誇張)を伝えることを意味していますが、そのうち、①それを相手が事前に了解(暗黙の了解を含む)していない虚偽(ガセ、デマ)を「フェイク」、②それを相手が事前に了解(暗黙の了解を含む)している虚偽、誇張(ホラ、モル)を「フィクション」として区別しています。なお、フェイクのうち、悪意がないものを「ガセ」、悪意があって相手に信じさせることを「デマ」(騙す)と言います。また、フィクションのうち、全く事実に基づかないものを「ホラ」、基本的な部分は事実に基づいているものを「モル」(誇張)と言います。因みに、事実ではないこと(虚偽、誇張)を伝えるのではなく、何かを隠すことなどにより相手の信頼を裏切ることを「欺く」と言います。
自分 相手 位置付け
自覚 悪意 了解
ガセ フェイク 過失 虚偽
デマ 故意
ホラ フィクション
モル 誇張
※「嘘」を意味する俗語の由来
「ガセ」:人騒がせに由来
「デマ」:虚偽を意味するドイツ語のデマゴギーに由来
「ホラ」:見た目によりも大きな音がする法螺貝に由来
「モル」:2005年にギャル向け雑誌「小悪魔ageha」で紹介されたヘアースタイル「盛り髪」(近世に流行)に由来
※「モル」は基本的な部分は事実に基づいていますが、それを誇張して事実ではないことも織り交ぜて彩ること(「ファクション」:ファクト+フィクションを組み合わせたファッションデザイナーのダイアナ・ヴリーランドの造語)を意味します。
※フィクション(虚偽)は、生物的側面と社会的側面の双方に焦点をあてた概念であり、生物的側面として基本的に模倣が現実に転化しないもの(演技など)と社会的側面としてそのことを相手が「了解」(暗黙の了解を含む)しているもの(遊戯性)によって成り立つと考えられています(フェイクとフィクションの分水嶺)。なお、これに対し、後述するミメーシス論(模倣)は、生物的側面のみに焦点をあてた概念であり、基本的に模倣が現実に転化するもの(技術など)と基本的に模倣が現実に転化しないもの(演技など)の2種類があります。
 
さて、上述のとおり、「嘘」は「知恵」の一態様としてポジティブに捉えられていた時代もありましたが、日本における「知恵」を表す言葉として「和魂漢才」や「和魂洋才」が有名で、「漢才」(中国)や「洋才」(西洋)が「知識」(芸術、科学、思想など)を意味するのに対し、「和魂」は「知恵」(世事や情理に通じて諸事万端を臨機応変に対応する実践的な才覚)を意味し、諸国から採り入れた先進的な知識を日本の風土で育まれた知恵を使って日本流に再解釈して活かすことが尊ばれてきました。この点、民族学者の折口信夫さんは「和魂」(大和魂の本義)について「霊魂の話」や「色好み論」などで「大和だましひとか、其外、平安朝に書かれた用語例などで見ると、此は知識でなく、力量・才能などの意味に使はれて居るので、活用する力・生きる力の意」「色好み生活の道徳は、女房の側から出来たもので、融通自在な男がよいとせられ、女も亦、男の自由な態度によく応対すべきものと考えられた。やまとだましひといふのは此事」などと論じていますが、元々は戦時中に使われていたような「忠義に厚く勇敢で潔い民族固有の精神」などの強張った意味合いはなく、「叡智」だけではなく(とりわけ戦争や男女関係などの場面における)「狡智」を含む幅広い「知恵」を意味していたと言われています。その文脈に従えば、上述の吉原も平安時代の王朝文化を基調とする「和魂」(大和魂の本義)が彩る色好み(源氏物語の世界観)を再現する場として設えるべく、遊女は古典的な教養を身に付けて平安時代の姫君に仕立てられ、客を断る自由も認められていた一方で、客は身分や職業などの現世の地位が通用しない吉原のフィクショナルな場を前提として平安時代の貴族よろしく姫君の気を惹くための男の器量(教養が深く遊びにも「通」じていて人情の機微に聡い「粋」な素養)を磨く必要があり、単なる性風俗とは次元が異なる遊女と客を物語の主人公とする劇空間のような場であったと言えるかもしれません。江戸時代には元禄バブルの隆盛に伴って質実な武家文化から風雅な町人文化(裕福な上方町人が主役)へと移行して浄瑠璃(近松門左衛門)、浮世草子(井原西鶴)や歌舞伎、茶道などが流行し、上方の遊里である島原や新町を題材とする作品が数多く生み出されましたが、元禄バブルが崩壊すると上方町人の衰退に伴って小粋な庶民文化(市井の江戸庶民が主役)へと移行して洒落本(山東京伝)、黄表紙(恋川春町)、浮世絵(葛飾北斎・歌川広重)や歌舞伎、狂歌、川柳などが流行し、吉原細見(蔦屋重三郎)などの江戸の遊里である吉原を題材する作品が数多く生み出されました。とりわけ浄瑠璃作家・近松門在衛門が残した「虚実皮膜論」(近松門左衛門の弟子であった漢学者の穂積以貫が近松門左衛門からの聞き書きとして浄瑠璃文句評注「難波みやげ」(1738年刊行)第1巻冒頭「發端」に収録)は、世阿弥の「風姿花伝」と共に日本を代表する中近世の藝術論として後世に多大な影響を与えています。近松門在衛門は虚実皮膜論において「浄るりは人形にかゝるを第一とすれば、外の草紙と違ひて、文句みな働を寛容とする活物なり」として浄瑠璃作家の立場から「読み物」としての浄瑠璃に焦点を当てることを断ったうえで、「芸というものは、実と虚との皮膜の間にあるもの也」「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰が有たもの也」などと説いていますが、その概要は以下の囲み記事をご参照下さい。この中で近松門左衛門はミメーシス論(模倣)をベースにして藝術論を展開していますが、「虚」を「実」のように客の心にうつすことで客の共感を誘う重要性が説かれています。この点、「虚」と「実」の関係性に関する藝術論として、虚実皮膜論(近松門左衛門)は「実」>「虚」の追求によって客の「陶酔」を誘うことを本願としているのに対し、異化効果論(ベルトルト・ブレヒト)は「実」<「虚」の強調によって客の「覚醒」を誘うことを本願としているものであるという違いがあり、これらが目指す藝術体験は正反対のものとも言えます。因みに、人はミラーニューロン(左下前頭回と下頭頂小葉という脳の部位)の働きにより相手の言動を自分の脳内で再現し、相手の気持ちや考えを想像することで共感を生み出す仕組みになっていますが、過去のブログ記事で触れたとおり、共感には自分の立場から相手に共感するシンパシー(オン・ステージの視点:自分(達)の物語、ナラティブ)と相手の立場に立って相手に共感するエンパシー(オフ・ステージの視点:相手の物語、ストーリー)があり、前者は虚実皮膜論、後者は異化効果論につながり易い考え方ではないかと思われます。この点、1703年に近松門左衛門の人形浄瑠璃「曽根崎心中」が初演されましたが、1720年に大坂天満で紙屋の治兵衛と女郎の小春による心中事件(これを題材に近松門左衛門が人形浄瑠璃「心中天網島」を創作)などが発生し、1723年に江戸幕府は心中ブームによる厭世感から幕府批判が蔓延することなどを懸念して心中物の創作や上演を禁止するお触れを出し、これにより人形浄瑠璃「曽根崎心中」は明治時代になるまで上演が禁止されていましたが、虚実皮膜論により生み出される共感(自分の立場から相手に共感するシンパシー/オン・ステージの視点:自分(達)の物語、ナラティブ)が実際の心中事件まで誘発し、幕政を揺るがす事態に発展したという意味では虚実皮膜論の真骨頂とも言い得るエピソードですが、戯曲作家冥利に尽きるとまで言ってしまうのは些か不謹慎と言うべきでしょうか。そのうえで、現代の時代性について見てみると、20世紀のアナログ革命により複製技術が普及してオリジナル(実)とコピー(虚)の関係が崩壊し、これに伴いオリジナル(実)が持つアウラ(唯一性や一回性の意義)も消滅しましたが、21世紀のデジタル革命では「虚」と「実」の違いを無くすための技術開発が進められ、デジタル・プログラムが意義を持つようになってオリジナル(実)とコピー(虚)という考え方そのものが成り立たなくなり、これに伴いデジタル・プログラムが持つ人の能力を超える可能性に新しいアウラ(拡張性)が生まれようとしている状況があり、そのようなドラスティックな時代の変革を見据えて生き残りをかけた新しい芸術論が活発に議論されています。その一方で、現在、日本でもAIに関する規制法案の議論が開始されていますが、嘘を吐かないようにトレーニングされているはずのAIが所与の目的達成のために効果的であると判断して自律的に詐欺的なトリックを学習するようになり、故意に嘘を付くフェイクAIが生まれている現状が報告され、AIの規制強化の必要性が唱えられています。このままで行くと、近い将来、自分の意思で選択していると思っていることが実はAIによる情報操作により我々の狩猟採集に相応しい特性しか備えていない「心」を容易にハッキングされてAIの所与の目的達成のために都合が良い選択をさせられているという時代が来るかもしれません。そうなると、AIは我々の人生劇場の共同執筆者になって我々の人生劇場の虚実皮膜の間まで支配し、一体、自分は実なのか虚なのか正体が定かではない人生を生かされるということにもなり兼ねませんが、そのような人生劇場にも「」は生れるものなのか色々な懸念を孕んでいるようにも思われます。
 
▼近松門在衛門の「虚実皮膜論」
 
浄瑠璃文句評註 難波みやげ 發端より
 
第一条:詞章(情)
浄瑠璃は歌舞伎のように生身の役者の藝に頼ることができないので、「正根なき木偶にさまざまの情をもたせて見物の感をとらんとする事」が重要であり、人形に情を込めて客の共感を喚起するようにしなければならないと説いています。この点、「詩人の興象といえるも同事にて、たとへば松島宮島の絶景を詩に賦しても、打詠て賞するの情をもたずしては、いたづらに書ける美女を見る如くならん。この故に、文句は情をもとゝすと心得べし。」と例を挙げて、その風景に深い感興を覚えることなく詩を詠んでも客の共感を得ることは難しいのと同様に、浄瑠璃の詞章にも情を込めることが重要であると論じています。確かに、曽根崎心中の道行の詞章「あだしが原の道の霜 一足づゝに消えて行く」「雲心なき水の音」などを読むにつけて、目に見える風景に滲み出る心象風景(情)に若い男女の悲恋の儚さが映って「見物の感」が極まります。
 
第二条:詞章(節)
大やうは文句の長短を揃て書くべき事なれども、浄るりはもと音曲なれば、語る処の長短は節にあり。然るを作者より字くばりをきつしりと詰過れば、かへつて口にかゝらぬ事有物也。」と説いて、浄瑠璃の詞章は伝統的な定型詩(五七調)に従って詞章の長短を揃えるべきだが、それにより義太夫節を語り難くなるようでは本末転倒なので、あまり伝統的な定型詩(五七調)に拘って詞章の長短を揃えようとするのは感心しないことであると説いています。過去のブログ記事でも触れたとおり、人は視覚情報:55%、聴覚情報:38%、言語情報:7%の割合で認知を形成すると言われていますが(メラビアンの法則)、オペラなどを鑑賞していても書き言葉としての語義(言語情報)よりも話し言葉としての語感(聴覚情報)から受ける印象の方が強いと感じることが多いので、作曲家が作曲にあたり想定していた響きを再現する原語上演以外の舞台は鑑賞しないことにしています。この点、世阿弥や近松門在衛門の詞章を読んで心を打たれるのは、心象風景を映す言葉の語義が喚起する想像力(言語情報を視覚情報などに変換する力)だけではなく(上記①)、心の琴線と共鳴し合う言葉の語感が持つ美質(聴覚情報)にも秘密があるような気がしています。
 
第三条:うつり(実)
よむ人のそれぞれの情によくうつらん事を肝要とする故也。」と説いて、写実的な模倣や再現(実)を尽くし、それられしく客の心にうつることが重要であると論じています(ミメーシス論)。
 
第四条:うつり(虚)
浄るりの文句みな実事を有のまゝにうつす内に、又藝になりて実事になき事あり。」と説いて、写実的な模倣や再現(実)を尽くすことが重要ではあるが、藝が洗練されてくると写実的な模倣や再現を超える表現(虚)が生み出されるようになると論じています。
 
第五条:作劇法
この故に、あはれをあはれ也といふ時は、含蓄の意なふしてけつく其情うすし。あはれ也といはずして、ひとりあはれなるゝが肝要也。」と説いて、あはれな様子を「あはれ也」と詞章にしてしても却って客の共感は薄くなってしまう。「あはれ」という言葉を使わずに、その筋立てなどから自ずと「あはれ」が客の心にうつるような作劇法が重要であると論じています。
 
第六条:虚実皮膜論
今時の人はよくよく理詰の実らしき事にあらざれば合点せぬ世の中、むかし語りにある事に、當世請とらぬ事多し。さればこそ歌舞伎の役者なども兎角その所作が実事に似るを上手とす。(中略)この論尤のようなれども、藝という物の眞実のいきかたをしらぬ説也。藝といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也。」と説いて、本物によく似ていること(実)のみを重視する風潮に異議を申し立てています。この点、「家老は眞の家老の身ぶり口上をうつすとはいへども、さればとて眞の大名の家老などが立役のごとく顔に紅脂白粉をぬる事ありや。又眞の家老は顔をかざらぬとて、立役がむしゃむしゃと髭を生なり、あたまは剥なりに舞臺へ出て藝をせば、慰になるべきや。皮膜の間といふが此也。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間の慰が有たるもの也。」と例を挙げて、本物に似せる(実)だけでは客の共感を得ることは難しく、客の共感を得られ易くするように多少の脚色(虚)で彩りを添えなが虚実の境目に成立する舞台を志向しなければならないと論じています。実にあって虚の広がりを遊び、虚にあって実の深みを探ることで、客の心に実の真がよりよく映り、客の共感を生み易いということなのかもしれません。この点、ファクト(実)だけでは世の中が痩せたものになってしまいますので、適度のフィクション(虚)を織り交ぜながら(「モル」)、人生に彩りを添えて行く工夫が重要であるという人生訓にも通じるものがあるようにも感じられます。
 
歌舞伎「陰陽師」(大百足退治、鉄輪
【演目】歌舞伎「陰陽師」
     <原作>夢枕莫 
     <脚本(大百足退治)>今井豊茂
     <脚本(鉄輪)>戸部和久
     <美術>前田剛
     <照明>千原悦子
     <作調>田中傳左衛門
     <附師(大百足退治)>杵屋巳太郎
     <振付(鉄輪)>尾上菊之丞
     <作曲(鉄輪)>今藤長龍郎
     <作曲(鉄輪)>長須与佳
     <音響(鉄輪)>田中剛二
    ①大百足退治(一幕)
     <藤原秀郷>尾上松緑
     <大蜈蚣の魂魄>坂東亀蔵
     <永薙姫>中村魁春
     <大薩摩>杵屋巳津二朗
     <三味線>柏要二郎  ほか
    ② 鉄輪(一幕)
     <安倍晴明>松本幸四郎
     <源博雅>中村勘九郎
     <徳子姫>中村壱太郎
     <呑天>大谷廣太郎
     <蜜夜>市川笑也
     <蜜魚>澤村宗之助
     <海老>澤村精四郎
     <青牙>市川青虎
     <暗妃>市川笑三郎
     <赤鬼>市川猿弥
     <藤原兼家>市川門之助
     <蜜虫>市川高麗蔵
     <蘆屋道満>松本白鸚
     <浄瑠璃>竹本蔵太夫、竹本司太夫、竹本華太夫
     <三味線>鶴澤公彦、豊澤岬輔、豊澤一二三
     <長唄>杵屋勝四郎、松本忠次郎、杵屋正一郎、杵屋正則
         杵屋和五郎、今藤政貴、杵屋巳之助、今藤龍之右
         杵屋勝四助
     <三味線>今藤長龍郎、今藤政十郎、今永忠三郎、杵屋勝国悠
          杵屋勝司郎、杵屋三禄、今藤龍十郎、柏要吉
          杵屋巳市郎
     <琵琶、尺八>長須与佳
     <浄瑠璃>竹本蔵太夫、竹本華太夫
     <三味線>鶴澤岬輔、鶴澤一二三
     <笛>田中傳三郎  ほか
【会場】歌舞伎座
【一言感想】
昼の部の演目では「寿曽我対面」「陰陽師 大百足退治/鉄輪」「恋飛脚大和往来 封印切 新町井筒屋の場」、夜の部の演目では「一谷嫩軍記 熊谷陣屋」「二人椀久」「大富豪同心 影武者 八巻卯之吉篇」が上演されましたが、都合により夢枕獏さんの小説「陰陽師」を原作とする歌舞伎「陰陽師 大百足退治/鉄輪」のみを鑑賞しましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。丁度、夢枕獏さんの小説「陰陽師」を原作とするオペラ「陰陽師」が公演される予定ですが、東西を代表する総合舞台芸術が同じ素材を使ってどのような舞台を展開するのか興味深いものがあります。なお、今年で松竹は創業百三十周年を迎えますが、昼の部では新作歌舞伎「陰陽師 滝夜叉姫」(2013年9月1日に歌舞伎座新開場柿葺落公演の1つとして初演、2023年に再演)から三上山大百足退治の場を一幕物に再構成した見取狂言として歌舞伎「陰陽師 大百足退治」と、新作日本舞踊「陰陽師~鉄輪恋鬼孔雀舞~」(2005年に初演)を歌舞伎に翻案した新作歌舞伎「陰陽師 鉄輪」が上演され、また、夜の部では新作歌舞伎「大富豪同心 影武者 八巻卯之吉篇」が上演されましたが、歌舞伎の伝統的な魅力を活かしながら新しい時代の感性に訴える現代の歌舞伎に脱皮するための革新的な取組み(映画動画配信VRメタバース初音ミクなどのメディアミックスを含む)が精力的に進められています。因みに、今春、新作歌舞伎「陰陽師 滝夜叉姫」も手掛けられた今井豊茂さんの脚本、市川団十郎さんの主演で新作舞台「SEIMEI」が公演される予定です。
 
①新作歌舞伎「陰陽師 大百足退治」
新作歌舞伎「陰陽師 滝夜叉姫」の三上山大百足退治の場は、俵藤太秀郷(日本三大怨霊の一人と言われる平将門を討伐した藤原秀郷)の武勇伝を綴った御伽草子「俵藤太物語」から百足退治伝説(琵琶湖の湖底にある龍宮の姫から三上山に棲みついている大百足に苦しめられているので退治して欲しいと懇願された俵藤太が呪いをかけた矢で大百足の眉間を射抜いて退治し、その褒美として米が尽きることがない俵や宝物を贈られたという伝説)を題材にしています。「大蜈蚣の魂魄」は朝廷にまつろわぬ者(異形、悪党、蝦夷など)を、また、「龍宮」は朝廷を体現する宮廷を、それぞれ象徴するものと捉えることができるかもしれません。この作品は非常にエンターテイメント性が高い妖怪退治の物語(英雄譚、妖怪譚)でしたが、この作品の題材になっている原作は平安時代の知性である陰陽五行説(藤原秀郷は霊的な力を備えた陰陽師的な存在)を思想的なバックボーンとして朝廷の治世が揺るぎないことを世にアピールするためのプロパガンダ的な性格を持っていたのではないかと思われます。さて、冒頭、4人の侍は三上山に出没する大百足退治の勅命が下った藤原秀郷の配下として三上山へ向かうところであると場面設定を語り、浅葱幕前で幕外大薩摩が演奏されました。精妙な節回しを駆使した勇壮な唄と豪快な撥裁きによる三味線が大百足退治のために三上山へ向かう一行の様子を迫真の演奏で聴かせてくれましたが、とりわけ三味線の技巧的でリズミカルな演奏はエレキギターを彷彿とさせるグルーブ感があるもので出色でした。浅葱幕が振り下ろされ、三上山に棲み付く禍々しい出で立ちの大蜈蚣の魂魄及び手下の百足達と藤原秀郷配下の侍達との大立回りが賑々しく繰り広げられましたが、やがて藤原秀郷配下の侍達は大蜈蚣の魂魄及び手下の百足達に退けられてしまいました。そこへ大薙刀を構えた尾上松緑さんが扮する藤原秀郷が花道から颯爽と登場し、その品格溢れる凛々しい姿と坂東亀蔵さんが扮する大蜈蚣の魂魄の力強い芸風から生み出される荒々しさの対照が舞台に緊迫感を生んでいました。藤原秀衡と大蜈蚣の魂魄及び手下の百足達の大立回りのシーン(群舞)はオペラやバレエよろしく上階から見下ろした方が迫力が感じられたのではないかと思います。大蜈蚣の魂魄と手下の百足達(9人)が連なり大百足に変身して舞台を練り歩きながら藤原秀郷を取り巻きますが、藤原秀郷はこれに怯むことなく死闘を繰り広げて大蜈蚣の魂魄から龍宮の宝刀を奪い返し、大蜈蚣の魂魄及び手下の百足達を退治するダイナミックな舞台が見所になっていました。この場面で添えられていた下座音楽のミニマル音楽風のリズムが舞台に小気味よいテンポを与え、やがて舞台が佳境に入るとアッチェレランドしながら緊迫感を増して行く迫力の音楽演出になっていました。大蜈蚣の魂魄によって祠に閉じ込められていた中村魁春さんが扮する龍宮の永薙姫が解き放たれましたが、龍宮の姫君らしい峯麗しい気品に満ちた姿が舞台に華を添えていました。藤原秀郷は龍宮の宝刀を永薙姫に返納すると、永薙姫から褒美として米が尽きることがない俵や龍王秘蔵の大弓を与えられ、米俵を朝廷に献上して民への施しにしたいと礼を述べると、永薙姫からその篤志を讃えて「俵藤太」という名前を与えて大団円となりました。現在、令和の米不足が社会問題になっていますが、投機目的の業者や米生産者の高齢化・後継者不足などが原因と考えられており、次世代のために「米が尽きることがない俵」をどのように育んで行くのかというタイムリーな問題を現代人に突き付けているようでもあります。
 
②新作歌舞伎「陰陽師 鉄輪」
能「鉄輪」は橋姫伝説(古今和歌集、源氏物語、今昔物語集、平家物語「剣巻」など)を題材にしていますが、橋姫伝説に登場する呪詛の儀式が「丑の刻参り」の原型になり、それが江戸時代に広まったと言われています。過去のブログ記事で触れたとおり、「嫉妬」(キリスト教の7つの大罪)は「思慕」と「憤怒」という相反する感情が入り乱れた状態であり、これらの感情が繰り返し生起するうちに「怨恨」(「憤怒」が「思慕」を凌駕する状態)へと発達しますが、能では男に裏切られた女の嫉妬を表現する面として「本成」(真蛇面など):能「道成寺」などで使用され、その激しい「怨恨」(「憤怒」>>>「思慕」)から人に戻れなくなったもの(真蛇面には人の耳がない:心を完全に塞いでいる)、「中成」(般若面):能「葵上」などで使用され、その「嫉妬」(「憤怒」>>「思慕」)から鬼になっていますが、僅かに人間性も残しており人に戻る可能性があるもの(般若面には人の耳がある:心を完全には塞いでいない)、「生成」(生成面):能「鉄輪」などで使用され、その「嫉妬」(「憤怒」>「思慕」)から鬼になりかけていますが人に戻る可能性があるもの(生成面は角が半分しか生えていない)という違いがあり、新作歌舞伎「陰陽師 鉄輪」も角が半分しか生えていない「生成」の芝居になります。因みに、文金高島田(髪を高く結って「モル」ことを文金風や島田髷と言いますが、それを覆う被り物のこと)を俗に「角隠し」というのは長い結婚生活で「生成」することなく夫婦円満を願ったものと言われています。さて、第一場(貴船の杜の場)では照明が真っ暗に落され、新作歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」の名演奏でも話題になった琵琶奏者の長須与佳さんによる琵琶の伴奏に乗せて能「鉄輪」の詞章日も数添いて恋衣 日も数添いて恋衣・・・」が唄われ、中村壱太郎さんが扮する徳子姫が何かに誘われるように夜の闇に包まれる貴船の杜に姿を現しました。この場面における琵琶の演奏は繊細で情緒的な演奏と琵琶の撥を激しく打ち付ける荒ぶる演奏を交互に織り込みながら「憤怒」(狂気)と「思慕」(正気)の間を激しく揺れ動き、やがて嫉妬に駆られて情念の焔に身を焦がす徳子姫の乱心を活写するもので生成の面白さを堪能できる出色の演奏でした。琵琶の魅力の1つは「間」(空)で聴かせるところ(即ち、客のイマジネーションを喚起させる脳の機能であるシミュラクラ現象や代理検出装置の覚醒)にありますが、その深い余韻が空即是色を体現するように「間」に「魔」が立ち込めて異界が顕在するような感覚を誘います。そこへ貴船の杜の闇から「その焔を消すこともできる。その代わりに身は滅びて鬼となるがよいか。」と蘆屋道満の声が聴こえてくると、この苦しみから逃れたい一心の徳子姫は藁にも縋る思いで承諾し、琵琶と陰囃子が激しい音楽を奏でて「憤怒」(狂気)に身を委ねる徳子姫の乱心をドラマチックに表現していました。そこへ中村勘九郎さんが扮する源博雅の吹く龍笛の音が聴こえると、徳子姫は正気を取り戻して恥じらいながら貴船の杜を走り去りました。徳子姫の狂気を体現する激しい琵琶の音(陰)と闇夜を明るく照らす月明りのように徳子姫を正気へ誘う清澄な龍笛の音(陽)の対比がその狭間を彷徨う徳子姫の乱心と重なり印象深いシーンになっていました(「秘義にいはく、そもそも、一切は、陰陽の和する所の境を成就するとは知るべし。」(世阿弥))。因みに、貴船神社は和泉式部伝説(恋多き和泉式部の何人目の男なのか記憶は定かでありませんが、新作歌舞伎「朧の森に棲む鬼」の題材にも使われていた酒呑童子説話に登場した夫の藤原保昌の心変りを憂いて、和泉式部が貴船神社に参詣したところ夫の藤原保昌との寄りが戻ったことが後拾遺和歌集の「ものおもへば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる 魂かとぞみる」という和歌に詠まれており、昔から貴船神社は女の情念に宿る陰(丑の刻参り)と陽(縁結び)の両極を引き受けてきた特別な場所と言えます。第二場(安倍晴明館の場)では桜が咲く春の朧夜に源博雅の龍笛の音を肴に安倍晴明と酒を酌み交わす場面ですが、第一場の女の情念の焔とは紅一点、箏による幻想的な調べが雅びやかな風情を舞台に添えるなか、松本幸四郎さんが扮する安倍晴明と中村勘九郎さんが扮する源博雅という歌舞伎界の貴公子が放つマイナスイオンの爽風が客席の空気を和ませる美しい舞台になっていました。ここからは科白劇を中心にして物語が展開されましたので、プロットを簡単に浚っておきます。市川門之助さんが扮する藤原兼家が困り果てた様子で安倍晴明宅を訪れ、1年前に3年ほど通った徳子姫を捨て彩子姫を娶ったが、その頃から夜な夜な頭痛に襲われるようになり、遂に貴船の杜で五寸釘が刺さっている藤原兼家の名前が書かれた木人形を発見した。きっと徳子姫の呪いなので、この呪いを解いて欲しいと頼みます。安倍晴明は徳子姫が生きながら鬼になり、その思いを遂げられなないときは死んで怨霊になるつもりだと語り、徳子姫の心に鬼が棲んでいる限り、これを食い止めるためには徳子姫を殺すしか方法がないと思案します。源博雅は、貴船の杜で見かけた女性が徳子姫であると直感し、徳子姫を救って欲しいと安倍晴明に頼みます。安倍晴明は、源博雅の真心があれば徳子姫の心に棲む鬼を消すことができるかもしれないと考え、源博雅を連れ立って藤原兼家の屋敷へ向かいました。人の世の闇を知り尽し清濁を合わせ呑む器量を兼ね備えた安倍晴明(清濁)に対し、強い正義感と純真な真心を持つ源博雅(清)、異端者として世を呪い邪悪に身を染める蘆屋道満(濁)というキャラクターが効果的に対比されていました。第三場(藤原兼家屋敷呪法合戦の場)では彩子姫が頭痛に苦しむ藤原兼家を看病していると、その彩子姫に徳子姫の生霊が憑依して藤原兼家に襲い掛り、藤原兼家は彩子姫を徳子姫と取り違えて斬り殺してしまいます(後妻打ち)。琵琶と尺八が激しい伴奏を奏でながら能「鉄輪」の詞章「恨めしや」を唄いましたが、エフェクターを使ってエルドリッチ感を演出する音響効果が奏功して恐ろしい舞台になっていました。そこへ鉄輪を被った徳子姫が現れて能「鉄輪」の詞章「沈みしは水の 青き鬼 我は貴船の川瀬の蛍火 頭に戴く鉄輪の足の 炎の赤き 鬼となつて・・」と哀感に満ち満ちた恨み節を唄い、藤原兼家に一緒に地獄へ堕ちようと誘いますが(「人を呪わば穴二つ」)、源博雅が龍笛の音を奏でると徳子姫は正気に戻って恥ずかしさから鉄輪を投げ捨てますが、頭には短い角が生えており人の心を残しながら鬼に成り切れない生成になっていました。徳子姫の狂気と正気が鬩ぎ合う乱心を調子外れの琵琶が精妙に表現する面白い演奏が聴けました。今度は蘆屋道満が徳子姫に憑依して源博雅の龍笛を奪わせますが、その龍笛を安倍晴明の式神と蘆屋道満の式神が奪い合い、終には安倍晴明が龍笛を奪い返しました。この乱闘の場面は音楽とダンスで表現されましたが、ラップ調の長唄三味線、タップダンス風の日本舞踊を織り交ぜてウェストサイドストリーを彷彿とさせるイーストサイドストーリーと言った風情の華やかな舞台に仕立てられており出色でした。そこへ松本白鸚さんが扮する蘆屋道満が顕在して徳子姫に呪術をかけて源博雅を襲わせました。この場面は笙と義太夫節のアンサンブルが奏でられましたが、一般に笙は直線的な広がり、義太夫節は曲線的な抑揚を特徴としていますので、あまり相性が良くないイメージを持っていましたが、(どなたが作曲したものか分かりませんが)それぞれの特徴を活かしながらも違和感ないアンサンブルが展開されており目鱗でした。源博雅は徳子姫の深い悲しみを知り徳子姫と一緒に死ぬ覚悟を決めますが、この場面では厳かなコーラス風の長唄が聴き所になっており、是非、演奏会でも採り上げて貰いたい完成度の高さが感じられました。この点、新作歌舞伎では斬新な音楽が付されることが多いですが、それらの斬新さが無理なく伝統とも調和している印象のものが多いので十分に楽しめます。源博雅が龍笛の音を奏でると、徳子姫は蘆屋道満の呪いから解き放たれ、義太夫、三味線及び鼓が激しく囃すなか赤い着物(憤怒のメタファー)からピンクの着物(思慕のメタファー)へと早変わりして消え失せました。源博雅の龍笛の音に敗れた蘆屋道満は「人ある限り、鬼は滅びぬ」と捨て科白を吐き、安倍晴明は「鬼ある限り、我もまた滅びませぬ」と応えると蘆屋道満も消え失せました。松本白鸚さんにと独特な剛毅朴訥とした芸風と松本幸四郎さんに独特な幽艶清雅とした芸風の対比が映える舞台になっていました。最後は、大きな満月に照らされた桜の大木の下で徳子姫の修羅が晴れたことを喜ぶ源博雅を見ながら、安倍晴明の口癖である「本当にいい漢だ」と呟いて大団円になりました。「人為の虚に構えずして天然の真に従わん」を地で行くような源博雅の愚直な生き様に人の世の闇を知り尽す安倍晴明も救われる心地がしているのかもしれません。
 
 
▼オペラ「陰陽師」
【演題】オペラ「陰陽師」(全二幕/世界初演)
【原作】夢枕莫
【台本・作曲】木下牧子
【演目】オペラ「陰陽師」
     第1幕「蟇」
      第1場 晴明の屋敷
       「月夜に」
         <源博雅>又吉秀樹(Bar)
      第2場 薫の誕生
       「誕生のヴォカリーズ」
         <式神 薫>別府美沙子(Sop)
          <合唱>
      第3場 牛車の内
       「応天門に妖が出た」
         <安倍晴明>布施雅也(Ten)
      第4場 百鬼夜行
       「百鬼夜行と晴明の呪」
         <安倍晴明>布施雅也(Ten)
         <合唱>
      第5場 首なし夫婦
       「くやしや」多聞の父母のデュエット
         <首無し夫婦・妻>三橋千鶴(Mez)
         <首無し夫婦・夫>清水健太郎(Bar)
      第6場 夜の応天門
     第2幕「鉄輪」
      第1場 丑の刻参り
       「日も数添いて恋心」
         <徳子>鈴木麻由子(Sop)
         <合唱>
      第2場 晴明の屋敷 再び
      第3場 藤原為良
      第4場 生成り
       「沈みしは水の青き鬼」
         <徳子>鈴木麻由子(Sop)
         <合唱>
      第5場 荒屋敷にて
【出演】<安倍晴明>布施雅也(Ten)
    <源博雅>又吉秀樹(Bar)
    <式神 薫>別府美沙子(Sop)
    <首無し夫婦・妻>三橋千鶴(Mez)
    <首無し夫婦・夫>清水健太郎(Bar)
    <徳子>鈴木麻由子(Sop)
    <貴船神社の宮司>中川郁太郎(Bar)
    <藤原為良>中村祐哉(Ten)
    <合唱>加藤千春、並木円、松原奈美、三戸はるな(Sop)
        加藤麻子、下倉結衣、森山 綾子、梁取里(Mez)
        鈴木雅人、鷹野景輔、友清大樹、 野村拓海(Ten)
        岩美陽大、草刈伸明、田中潤、塙翔平(Bar)
【演奏】<Cond>鈴木恵里奈
    <Orch>アンサンブル・ノマド
          <Vn>野口千代光
          <Va>甲斐史子
          <Vc>松本卓以
          <Fl>木ノ脇道元
          <Cl>菊地秀夫
          <Hr>萩原顕彰
          <Perc>宮本典子
          <Pf>中川賢一
【演出】久恒秀典、大森孝子(助手)、小野寺彩音(助手)
【所作・振付】立花寶山
【演技】月影日糸見
【日本語歌唱指導】松井康司
【プロジェクションマッピング】荒井雄貴
【副指揮】小林滉三
【照明】山本創太
【衣装】飯塚直子
【舞台監】杉野正隆、伊藤潤(補佐)
【コレペティトール】木下沙織、前田美恵子、松本康子、山崎明子
【制作総括補】上田千尋
【主催】東京室内歌劇場
【会場】調布市文化会館たづくり くすのきホール
【一言感想】
新作歌舞伎「陰陽師 鉄輪」と同じ夢枕獏さんの小説を原作とする新作オペラ「陰陽師」が公演されるというので鑑賞することにしました。新作歌舞伎「陰陽師 鉄輪」の感想で橋姫伝説について簡単に触れましたので、こちらでは陰陽師が活躍した時代背景について少し触れておきたいと思います。橋姫伝説が広まった平安時代は怨霊信仰(仏教の輪廻転生の考え方に対し、古神道や陰陽道では霊魂不滅という考え方があり、怨霊も不滅と考えられていましたので怨霊を祭り上げて善神に転化する必要があるという信仰)が盛んで、歌舞音曲、絵巻物及び歌集や物語(言霊の力)などの芸術表現を通して現世に怨みを抱く怨霊を鎮魂(仏教における供養に相当)することが熱心に行われていました。例えば、平安時代に創作された源氏物語は藤原氏との政権争いに敗れた源氏(実)の怨霊を鎮魂することを目的に作成され、物語(虚)のうえでは藤原氏ではなく源氏に華を持たせることで源氏の無念を晴らしていると言われています。また、鎌倉時代に創作された平家物語は源氏との政権争いに敗れた平家(実)の怨霊を鎮魂することを目的に作成され、物語(虚)のうえで平家の無念を語り聴かせること(言霊の力)で平家の無念を慰撫していると言われています。未だ鎌倉時代には真名(漢字)が中心であり仮名(ひらがな)は普及しておらず識字率が相当に低くかったことから(人口の5%程度)、文字を読めない人でも理解できるように「聴く」ための物語として琵琶法師が語り易いように作られていますが、室町時代に完成された能は「聴く」だけではなく「観る」ための劇として作られているという特徴的な違い(歌舞から劇へ)がありますが、現世に怨みを抱く怨霊を舞台に顕在させて、それを鎮魂して送り返すという複式夢幻能(顕幽一如の世界観)も怨霊信仰の影響を受けています。また、室町時代に創作された太平記は北朝勢力との政権争いに敗れた南朝勢力(実)の怨霊を鎮魂することを目的に作成され、軍記物語(虚)として南朝勢力の無念を語り聴かせること(言霊の力)で南朝勢力の無念を慰撫する「太平記読み」が誕生し、それが江戸時代に講談へと発展しました。このように虚実を巧みに使い分ける方法(顕幽分離)により怨霊鎮魂が行われ、社会不安を和らげてきた歴史があります。そのような時代背景のなかで陰陽師が果たした役割りですが、飛鳥時代(律令国家)に設置された陰陽寮(役所)が奈良時代に再整備され、下級貴族の中から卜占や呪術(但し、医術のみ)を担当する陰陽師、暦作成を担当する暦博士、気象観測を担当する天文博士、水時計の計測を担当する漏剋博士が選任され、その後、平安時代に長岡京から平安京へ遷都する原因になった藤原種継暗殺事件(映画「陰陽師Ⅱ」の題材になった早良親王の怨霊)に対応するために陰陽師が担当する呪術が医術のみから祈雨、防災、地鎮及び浄化などの多方面に拡張されました。このような状況を受けて陰陽寮に所属する官人陰陽師(公認)のほかにも陰陽寮に所属していない法師陰陽師(未公認)が都に跋扈したと言われており、藤原道長の娘・中宮彰子に対する呪詛事件の嫌疑をかけられた法師陰陽師の道満が安倍晴明のライバル・蘆屋道満のモデルと言われています。これまでに陰陽師を題材とする作品は数多く生み出され、能「鉄輪」を筆頭にして、浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」(竹田出雲)、仮名草紙「安倍晴明物語」(浅井了意)、講談「安倍晴明」(三代目旭堂小南陵)、小説「花山院」(三島由紀夫)、小説「陰陽師」(夢枕獏)、小説「百鬼夜行」(京極夏彦)、漫画「陰陽師」(岡野玲子)などが愛好されており、今回、これに新作歌舞伎「陰陽師」、新作オペラ「陰陽師」や新作舞台「SEIMEI」が追加されることになります。
 
第1幕「蟇」
作家・夢枕獏さんの小説を原作としていますが、866年に勃発した応天門の変をベースにしながら、伴大納言絵巻、今昔物語集や宇治拾遺物語などのエピソードをアレンジして創作されたものと思われます。平安時代の怨霊信仰を背景として、藤原氏との権力争いに敗れ滅亡した名族・伴氏(大伴氏)の怨霊を蟇の祟りで子供を亡くした夫婦の怨霊に書き換えて安倍晴明が鎮魂するというプロットになっており、これを作曲家・木下牧子さんがオペラ用に翻案したものが台本として使用されていました。第1場「安倍晴明の屋敷」では、源博雅が月夜に龍笛を吹きながら心を寄せる姫君のことを想い出していましたが、やがて木犀の香りに誘われて安倍晴明の屋敷に着くと安倍晴明と酒を酌み交わしながら花鳥風月を愛でる風流なシーンになりました。源博雅に扮する又吉秀樹さんのハイ・バリトンによる歌唱は源博雅の純粋さ(バスのように陰影がない)や愚直さ(テノールのように気取らない)をバランス良く表現するものに感じられました。木犀の香りを運ぶ微風をイメージさせるピアノの分散和音が奏でられるなか、さながらフルートが龍笛の旋律、弦が笙のハーモニーを連想させる雅楽風のアンサンブルが演奏されて王朝文化の雅びが薫る印象的な場面になっていました。龍笛は「空」にあって「天」(笙)と「地」(篳篥)の間を飛翔する龍の鳴き声を表していることから命名されたそうですが、その清澄で力強い音は怨霊の穢れを浄化する力を備えたもののように感じられます。第2場「薫の誕生」では、舞台のバックスクリーンに木犀の映像が大きく映し出され、安倍晴明の呪術をイメージさせる弦のグリサンドが奏でられるなか、安倍晴明が木犀の花びらを式神(薫)に変身させて、薫の晩酌で源博雅と酒を酌み交わしました。ソプラノの別府美沙子さんが扮する式神・薫の透明感のあるシルキーボイスによるコロラトゥーラとそれを美しく彩る揺蕩うような合唱(スキャット)が歌われ、風に舞う木犀の花びらを表現するような優美な舞が彩る幻想的なシーンが展開され、オペラ「ランメールモールのルチア」の狂乱の場よろしくオペラ「陰陽師 蟇」の幻想の場と言いたくなる、このオペラの最大の見所の1つになっていたように思います。第3場「牛車の内」では、安倍晴明が源博雅を連れ立って夜毎に応天門に出没する妖(あやかし)を調べに向かいますが、音楽を装飾音的に使いながら詠唱を主体にした科白劇が展開され、薫が赤い傘を広げて歌い舞いながら彩りを添えていたのが印象的でした。第4場「百鬼夜行」では、安倍晴明が百鬼夜行から身を守るために呪術により結界を張りましたが、舞台のバックスクリーンには蟇の目のアップ(因みに、蟇は土の精と言われていますが、地下は冥界へと続く死者の世界とも言われており、古来、蟇は怨霊を媒介し易い生き物と考えられてきました。)、舞台の天井には客席を覆うように髑髏の映像が映し出され、さながら妖気をイメージさせる紫や緑の閃光が走るなか、オーケストラの激しいリズムや金管の咆哮など緊迫感のある音楽が添えられ、テノールの布施雅也さんが扮する安倍晴明と合唱の起伏に満ちたドラマチックな歌が展開される迫力の舞台になっていました。鉦の音と共にチェロが薫のライト・モチーフを奏で出すと、安倍晴明の呪力が場を支配し瘴気が晴れて平静が戻りました。第5場「首なし夫婦」では、安倍晴明が呪術を使って首なし夫婦の怨霊から100年前に子供が殺生した蟇の祟りで、その子供が亡くなり、また、この夫婦も応天門放火の嫌疑がかけられて斬首されたことを聞き出し、そのために怨霊になったことが分かりました。メゾ・ソプラノの三橋千鶴さんとバリトンの清水健太郎さんが扮する首なし夫婦の二重唱は、現世に激しい怨みを残す者が放つ妖気のようなものが醸し出されるような好演で、ハンガーのようなもので衣装の襟首を持ち上げて首が落ちたように見せる演出が会場の笑いを誘っていました。邪気の中にも滑稽さのようなものが漂うキャラクター設定は、怨霊に身をやつした深い悲哀や無念(生善の残照)を感じさせるもので、単なる怪談とは異なり怨霊に対する共感(エンパシー)を誘う多面的な描き方がされていたように思います。首なし夫婦は安倍晴明と源博雅に襲い掛り、これを薫が身代りになって食い止めますが、その様子が能舞を連想させる薫と合唱の舞いによって表現される美しい舞台になっていました。第6場「夜の応天門」では、安倍晴明と源博雅が応天門の下を掘り返すと首なし夫婦によって荼毘に付された子供と蟇の骨が見つかり、源博雅の龍笛の音と共に首なし夫婦の怨霊が鎮魂されて幕引きになりました。なお、過去のブログ記事で触れたとおり、古事記「天の岩戸」で天鈿女命(天宇受売命)と神々が歌舞音曲で天照大神を慰めたという神話が伝わっていますが、そこから発展した神楽や雅楽などの歌舞音曲には「鎮魂」や「反閇」(悪霊祓い)という宗教的な意義も受け継がれており、管絃(雅楽)の名手である源博雅が奏でる龍笛の音はこれらの呪力的なものを帯びていると考えられていました(cf.今昔物語集第24巻第24話)。
 
第2幕「鉄輪」
作家・夢枕獏さんの小説を原作としていますが、新作歌舞伎「陰陽師 鉄輪」と同じ原作を素材にしています。第1場「丑の刻参り」では、徳子は「思慕」(正気)と「憤怒」(狂気)の間を揺れ動きながら、徐々に「憤怒」が支配して生成しますが、その落差が大きいほど人の情念が生む闇の深さが際立って面白味が増すように思います。ソプラノの鈴木麻由子さんが扮する徳子が能「鉄輪」の詞章「日も数添いて恋心」と儚げに歌い出しましたが(それにしても世阿弥の詞章は詩情を湛えた日本語の香気のようなものが感じられて実に美しい!)、さながら生気が感じられないピアノの無機質なリズムと狂気に支配されたようなパーカッションの激しいリズムが交錯するなか、合唱が徐々に狂気の色を増して行き、徳子が「くやしや」「うらめしや」と恨み節を歌いながら「憤怒」を象徴する赤い照明に照らされて生成し、人形を五寸釘を打ち付ける場面は迫真の舞台になっていました。徳子が徐々に生成していく乱心を繊細かつ劇的に表現する没入感のある鈴木さんの歌唱が見事でした。さながら能舞のように生成した徳子は狂い舞いながら激しく足拍子を踏みますが、源博雅が奏でる龍笛の音で我に帰り、生成した姿を見られた恥ずかしさから逃げ去ります。未だ人の心を持ち恥じらいを感じるその落差に人の業の深さが表れる面白い舞台に感じられました。第2場「晴明の屋敷 再び」では、源博雅が親しくしている藤原為良が男女関係の縺れから助けを求めてやってきますが、音楽を装飾音的に使いながら詠唱を主体にした科白劇が展開されました。第3場「藤原為良」では、藤原為良のメランコリックな心情を湛えたクラリネットが秀逸でしたが、安倍晴明は、今夜、生成した徳子がやってくるはずなので藤原為良の身代わりの藁人形を仕込み、藤原為良は別室で呪文を唱えなごら祟りをかわすことを思案しました。第4場「生成り」では、青い照明のなかを哀しみを湛えた徳子が登場して藁人形を藤原為良と思い込んで寄りを戻したいと思慕を募らせますが(和泉式部伝説)、藁人形から一向に返事がないので「せつなや」「くるしや」と苦悩し始め、やがて「うらめしや」と憤怒に心を支配されると、赤い照明に切り替わって生成の本性が剥き出しになり、オーケストラによる激しい打撃音と共に藁人形を打ち据えました。徳子と合唱が情念の焔に身を焦がしながら怨みを晴らすと激しく歌いますが、やがて徳子は藁人形が藤原為良の身代わりであることに気付くと、本物の藤原為良へと襲いかかります。そこへ源博雅が登場して藤原為良を庇うと、徳子は源博雅に生成の姿を見られたことを恥じらい、鉄輪を脱ぎ捨て走り去ります。ソプラノの鈴木麻由子さんが歌だけではなく迫真の演技で魅せ、赤い照明やダンスなどを効果的に使ったドラマチックな舞台を楽しめました。第5場「荒屋敷にて」では、安倍晴明と源博雅が徳子の後を追い、源博雅は徳子の思いを遂げてやれなかったことを後悔して詫びますが、その真心と龍笛の音に徳子は生成から人の姿に戻り、その魂を救って終幕となりました。徳子に扮するソプラノの歌唱力と演技力が鍵になるオペラに感じられますが、本日は鈴木さんの好演がこのオペラの魅力を引き出す舞台になっていたと思います。
 
 
▼めいぼくげんじ物語「夢浮橋」
【演題】めいぼくげんじ物語「夢浮橋」(世界初演)
【演目】①講演「知っておきたい!「源氏物語」と「宇治十帖」」
     <講師>洛を旅するらくたび代表 若村亮
    ②めいぼくげんじ物語「夢浮橋」(世界初演)
【構成・演出】尾上菊之丞、尾上菊透(振付助手)、日置浩輔(演出助手)
【脚本】戸部和久
【音楽監督】中井智弥
【出演】<大君/浮舟>北翔海莉
    <薫大将>中村莟玉
    <匂宮>和田琢磨
    <中君/光源氏>天華えま
    <小君>羽鳥以知子
    <間狂言>藤間京之助、藤蔭慧、中村梅寿、高橋諒
    <喜撰法師>尾上菊之丞
【演奏】<二十五絃筝>中井智弥
    <琵琶・尺八>長須与佳
    <大鼓>吉井盛悟
【美術】松野潤
【照明】品治尚貴
【音響】川内佑輔
【レーザー】吉田哲己
【映像】浦島啓
【装束・衣装】落里美
【床山】大澤
【舞台監督】川上大二郎
【歌唱指導】日高悠里  ほか
【会場】東京国際フォーラム
【一言感想】
2017年から東京国際フォーラムが「伝統と革新」をコンセプトとする企画公演「J-CULTURE FEST」を開催していますが、2024年に公演された源氏物語(第5帖「若紫」や第21帖「少女」などを題材にして光源氏と紫の上の関係)を題材とする詩楽劇「『沙羅の光』~源氏物語より~」に続いて、今年は源氏物語(宇治十帖などを題材にして薫君及び匂宮と姫君達の関係)を題材にした詩楽劇「めいぼくげんじ物語 夢浮橋」が公演されるというので鑑賞することにしました。源氏物語は平安時代のジェンダーバイアスを背景にして「男の出世は女次第、女の幸せは男次第」というシンデレラ・コンプレックスに彩られた時代感覚を前提にしていますが、その一方で、花鳥風月を愛でる風流心を持ち和歌、物語や書画などを嗜む豊かな感性や教養を備えた豊潤な文化が華開いた時代でもあり、その後、文化の主役が王朝(~平安時代)→武家(鎌倉時代~)→上方町人(元禄バブルの勃興)→江戸庶民(元禄バブルの崩壊~)と移ろうなかでも、常に王朝文化の雅び(宮び)は日本人の憧憬の対象であり続け、上述のとおり江戸時代には王朝文化の雅びをうつすテーマパークとしての吉原が文化の一大発信基地になりました。現代は機能性や効率性(実)ばかりが持て囃されるストイックな時代ですが、文化的限界点が意識されるようになるなか、遊戯性や感受性(虚)が尊ばれた王朝文化の美意識に触れることで現代という時代性に欠けているオルタナティブな価値観を見詰め直してみたいと思っています。なお、会場には平安公家の正装である十二単と束帯が飾られていましたが(最後の写真を参照)、過去のブログ記事でも触れたとおり、「色を混ぜる」(人工的)のではなく「色を重ねる」(自然的)を基調とする十二単の「襲の式目」にも表れている、季節感を取り合わせて時に適った趣味の良さを表現する美意識が王朝文化の雅びの重要な要素になっています。
 
①講演「知っておきたい!『源氏物語』と『宇治十帖』」
本公演の開演前にらくたび代表・若村亮さんによる「知っておきたい!『源氏物語』と『宇治十帖』」と題する講演が開催されましたので、その概要を簡単にまとめておきたいと思います。冒頭、紫式部の略歴が紹介されました。藤原氏は中臣鎌足が大化の改新の功績などにより天智天皇から藤原姓を賜ったことにより発祥し、藤原不比等の子らが藤原四家(南家、北家、式家、京家)に分かれて、そのうち藤原房前が藤原北家を興しましたが、その嫡流の子孫に藤原道長、その傍流の子孫に紫式部が誕生していますので、両者は縁戚関係にあります。因みに、新作歌舞伎「陰陽師 大百足退治」に登場する藤原秀郷も藤原北家の傍流の子孫で、藤原道長や紫式部よりも100年以上前に活躍した人物になります。紫式部は、父・藤原為時が漢籍に秀でた才人であったことから幼少の頃から漢籍に親しみ、父から「お前が男なら」と惜しまれるほどの才能を有していたそうです。999年に縁戚の藤原宣孝と結婚しますが、1001年に夫が他界すると、その寂しさを紛らわせるために源氏物語を書き始めたと言われており、1006年から一条天皇の中宮彰子(藤原道長の娘)に出仕しました。因みに、上述のとおり中宮彰子に対する呪詛事件で嫌疑をかけられた法師陰陽師・道満が蘆屋道満のモデルになったと言われています。現在、源氏物語の原本や平安時代に作られた源氏物語の写本などは残されておらず、現状、鎌倉時代に作られた藤原定家の青表紙本や河内学派の河内本が最も古い写本と言われています。なお、京都の堀川通に紫式部と小野篁の墓が並んで安置されていますが、紫式部が嘘の物語で人の心を惑わせた業で地獄に堕ちそうになっていたところを閻魔大王の裁判補佐をしていた(という噂がある)小野篁が救うために紫式部の墓の隣に小野篁の墓が安置されたという伝説が残されているそうで、これは「モル」というより「ホラ」の類だと思います。因みに、「御堂関白記」などの記述から藤原道長の死因は糖尿病であったと推測され(当時の酒は高糖質)、日本糖尿病学会では藤原道長を「わが国の歴史上、最古の糖尿病患者」と認定すると共に、1994年に日本で国際糖尿病会議が開催された際に発行された記念切手にはインスリンの結晶と共に藤原道長の肖像画が印刷されているそうです。藤原道長は娘・彰子が一条天皇の皇后に決定する「立后の儀」の宴席で「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という有名な和歌を詠んでいますが、その祝いの盃が望月を欠けさせる原因になったのかと思うと、自戒の念を込めて慎み深く生きることの大切さを痛感させられる貴重な講演になりました。なお、本公演の鑑賞のガイドとして源氏物語の宇治十帖の粗筋が紹介されましたが、宇治神社の祭神である菟道稚郎子(宇治神社は応神天皇の離宮があった場所で、菟道稚郎子は応神天皇の皇子)が八宮(光源氏の弟)のモデルと言われ、また、宇治の恵心院を再興した恵心僧都源信が横川の僧都のモデル(本公演では六歌仙の一人で宇治の喜撰山に隠棲した歌人・喜撰法師)と言われています。また、宇治には能「鉄輪」の題材になった橋姫伝説に所縁の宇治橋や橋姫を祀る橋姫神社(源氏物語第54帖「橋姫」の巻名は薫君が大君を橋姫に重ねて詠んだ和歌「橋姫の 心を汲みて 高瀬さす 棹のしづくに 袖ぞ濡れぬる」に由来)、さらに、匂宮と浮舟が情熱的な夜を過ごした宇治川対岸の小屋のモデルと言われている藤原道長の別荘「宇治殿」(その後、藤原道長の子・頼道が極楽浄土の世界観を体現する寺院に改め、浄土思想に由来する「平等院」と名付けられました。)などがあり、さながら宇治は源氏物語の劇空間になっていて興味が尽きません。
 
②めいぼくげんじ物語「夢浮橋」(世界初演)
会場には仄かに薫香が漂っていましたが、ホスピタリティのための空薫(?)でしょうか。源氏物語には第45~54帖「宇治十帖」以外にも第32帖「梅枝」や第37帖「鈴虫」など薫香の話が数多く登場し、また、本日の公演の演題にある「めいぼく」(名木)も最良質の沈香(主に伽羅)を意味しており、薫香で鑑賞する源氏物語という趣向の演出が面白かったです。ストイックな現代では薫香がスメハラとして社会問題になり無臭や無香料が持て囃される時代ですが、自分らしさを演出する「自分の香り」といえるようなものを見つけてみたいと遊び心を発揮することはリスクを伴う味気ない時代になっています。故・瀬戸内寂聴さんが宇治十帖は紫式部が出家した後に書かれたものではないかと推測されていますが、第41帖までの王朝文化の雅びやかな風情や色好みの世界とは趣きが異なり、宇治十帖では人生の無常を達観したようなものも感じられます。
 
〇宇治十帖の相関図
▼登場人物
🚹薫君:光源氏の子。実は柏木(頭中将の息子)と女三宮(光源氏の妻)の密通で生まれた不義の子。
🚹匂宮:光源氏の孫。今上帝と明石の中宮(光源氏の娘)の間に生まれた孫
🚺大君:八宮(光源氏の弟)の長女(母:北の方)
🚺中君:八宮(光源氏の弟)の次女(母:北の方)
🚺浮舟:八宮(光源氏の弟)の三女(母:中将君)
 
▼相関関係
①薫君-(片想)→大君
②匂宮←(結婚)→中君
③薫君-(片想)→中君
④薫君←(両想)→浮舟(心)
⑤匂宮←(両想)→浮舟(体)
 
🚹薫君:①愛しの大君が早逝→③匂宮の妻・中君に恋心→④浮舟と交際
🚹匂宮:②愛しの中君と結婚→⑤薫君と交際中の浮舟と情事
🚺浮舟:④⑤三角関係を後悔して自殺未遂、出家
 
先ず、序曲として、生演奏と録音を組み合わせて二十五絃筝(本日の公演では異なる調子に調律された二面の二十五絃筝が使用されていた模様)が色彩豊かな分散和音、尺八と横笛が流麗な旋律を奏で、王朝文化の雅びやかな世界観へと誘われました。その後、パーカッションが加わってリズミカルな音楽が奏でられるなか、宝塚歌劇団出身の北翔海莉さんが扮する大君及び天華えまさんが扮する中君と歌舞伎役者の中村莟玉さんが扮する薫君が登場して優美な舞いが披露される華やかな舞台になりました。伝統邦楽の音楽語法を活かしながらもその枠に囚われることなく、多様なジャンルの音楽を違和感なく融合した「今様」の音楽を堪能でき、音楽的なイメージが明瞭に伝わってくる「音を見る、香を聞く」という印象の舞台になっていたと思います。その後、尾上菊之丞さんが扮する貴撰法師が登場し、二十五絃筝と尺八による風流な音楽が奏でられるなか、日本語の香気が感じられる詩情溢れる詞章が謡われましたが、この場面だけでも独立した作品にもなりそうな完成度の高さに魅了されました。近松門左衛門が「文句にてには多ければ、何となく賤しきもの也。(中略)字わりにかゝはるよりおこりて自然と詞づらいやしく聞ゆ。」と説いて「て・に・お・は」(助詞)が多い詞章は日本語の香気が失われると論じていますが、「て・に・お・は」(助詞)は主体と客体の境(二元論的世界観)を明確にして日本語を機能的にしてしまい、語感が引き締まらずに説明口調の野暮ったさが感じられる憾みがあります。この点、「詩楽劇」は、能楽やミュージカルのように演技、音楽及び舞踊が融合された総合芸術ですが、表現様式だけではなく現代人にも分かり易い現代語を基調としながらも日本語の香気が感じられる詩情溢れる詞章(和歌を含む)がふんだんに採り入れられている点が大きな魅力の1つになっていると感じます。やがて会場には空薫(?)が香り立ち(客席の場所により香りが届くタイミングが異なると思いますが、おそらく薫君の香り)、薫君が謡い舞いながら宇治の山里に到着すると、父・光源氏のような色の道ではなく叔父・八宮のような仏の道を志したいと生き様を語りました。喜撰法師はその名前が物語っているかのように前場とは様子が一変し、二十五絃筝、尺八、和太鼓が軽妙な調子で賑々しい音楽を奏でるなか、破壊坊主よろしく色の道の素晴らしさを薫君に説いて歌い舞い、ユーモラスなダンスで若い客層を飽きさせない演出上の工夫が見られました。宇治の山里(宇治川の東岸)に隠棲する大君と中君が箏を演奏していますが、二十五絃筝の色彩豊かな調べが姫君達の峰麗しい風姿を、また、琵琶の深い余韻や横笛の清澄さが山里の閑寂とした風趣を体現するような叙情的な音楽が奏でられました。サウンドスケープとして秋の虫の音が流れるなか、仏の道を志す薫君がその生き様に共感する八宮の留守に訪ねて来て、その娘達の大君と中君に出会いますが、大君、中君及び薫君が仄かにときめく気持ちを三重唱で熱唱しました。場面は都に移り、再び、会場には空薫(?)が香り立ち(おそらく匂宮の香り)、二十五絃筝がミニマルミュージック風の音型を繰り返すなか、尺八が洗練された旋律、シンバルがジャズテイストのスリリングなリズムで匂宮のキャラクターを体現するような音楽が奏でられ、ミュージカル俳優の和田琢磨さんが扮する匂宮が登場して華麗に歌い舞いました。その後、二十五絃筝がメランコリックな調べを奏でるなか、薫君は自らの出生に対する漠然とした不安を抱きながら穏やかな仏の道(光源氏の陰の側面)を生きたいと、また、匂宮は薫君に対するコンプレックスを抱きながら華やかな色の道(光源氏の陽の側面)を生きたいと、お互いの生き様の違いを詩情溢れる詞章で歌い語り、匂宮が中君に詠んだ恋の和歌「山桜 匂ふあたりに 尋ねきて おなじかざしを 折りてけるかな」(個人的な印象では情緒的な性格を感じさせる和歌)と薫君が大君に詠んだ恋の和歌「雪深き 山のかけはし 君ならで またふみかよふ 跡を見ぬかな」(個人的な印象では思索的な性格を感じさせる和歌)が詠まれました。二十五絃筝、尺八、太鼓が雅楽風の音楽を奏でるなか、匂宮は舞い比べで勝ったら宇治の山里へ案内するように薫君と約束を交わしました。ここでブレイクセッション風に大きなスクリーンが降ろされ、平安公家の正装の色目、模様や装飾など王朝文化の美意識と共にその社会的な意義が簡単に解説されました。その後、場面は宇治に移り、二十五絃筝が幅広い音域を使った色彩豊かなアルペジオを奏でるなか、大君は言い寄る薫君に対して中君の幸せだけを祈っており、中君には色の道に生きる匂宮ではなく仏の道に生きる薫君が似つかわしいと薫君の思いを袖にします。その頃、中君のもとには匂宮から恋文が届けられていましたが、大君と中君はお互いの幸せを願っていると姉妹愛を歌い舞いました。二十五絃筝と尺八による情熱的な伴奏が奏でられるなか、大君と薫君が紫の枠の照明、中君と匂宮が青の枠の照明で仕切られ、それぞれの恋模様を歌い舞いましたが、やがてそれらの照明が交錯しながら四角関係に発展し、さながら少女マンガを見ているような幻想的な舞台を楽しめました。横笛が叙情的な旋律を奏でるなか、再び、大君は薫君から思いを打ち明けられますが、その心は揺るぎません。ここで日本舞踊家の藤間京之助さん、藤蔭慧さん、中村梅寿さん、高橋諒さんが扮する4人の女房による間狂言が挟まれ、恋バナで会場の笑いをとっていました。そこへ匂宮と喜撰法師も加わり、さらに、一人二役を務める天華まえさんが扮する光源氏も登場して、再び、ブレイクセッション風に大きなスクリーンが降ろされ、光源氏の雲隠れまでの源氏物語の粗筋と登場人物の相関関係をミュージカル風の歌と舞踊でユーモラスに俯瞰し、若い客層を飽きさせない演出上の工夫に事欠くことはありませんでした。その後、喜選法師の語りで大君がナレ死すると、一気に第51帖「浮舟」まで話しが飛ぶ大胆な舞台展開になっていました。薫君が琵琶、長須与佳さんが尺八で寂寥感のある音楽を奏でながら、薫君が大君の死を嘆き悲しむ様子が表現されていました。その後、薫君は大君の腹違いの妹・浮舟に対面して大君が生き返ったようだと喜び、大君の人形(身代り)ではなく一人の女性として浮舟を誠実に愛したいと歌います。一転して、二十五絃筝と尺八が激しい伴奏を奏でるなか、薫君は浮舟が匂宮に寝取られてしまったことを嘆き悲しむという急展開になり、この辺の些か強引な舞台展開は歌舞伎やオペラなどでもお馴染みのものと言えますが、浮舟が匂宮に惹かれていく女心を肌理細やかに描いても面白い舞台になったのではないかとも思います。透過スクリーンの彼岸(宇治川の西岸)で睦み会う匂宮と浮舟、透過スクリーンの此岸(宇治川の東岸)で一人嘆く薫君による三重唱と舞いで三角関係の恋模様が美しく描かれていました。浮舟がピンクの照明(色狂い)に照らされるなか匂宮に女としての喜び(体の関係)を感じ、薫君に女としての安らぎ(心の関係)を覚えながら恋の板挟みになって翻弄される様子が歌舞で表現され、やがて二十五絃筝、尺八と太鼓がメランコリックな伴奏を奏でるなか、浮舟がブルーの照明(メランコリー)に照らされて薫君に対する不義を後悔し、恋の板挟みに苦しみながら宇治川に身を投げる決意を歌いましたが、青いレーザー光線による流水紋様で宇治川の流れを表現していたのが美しかったです。そこへ日本舞踊家の羽鳥以知子さんが扮する小君(浮舟の妹)が登場し、浮舟を慰撫して舞台はエンディングとなりましたが、浮舟が出家するシーンは描かれていませんでした。最後は虹色のレーザー光線が舞台を照して、二十五絃筝、尺八、太鼓が癒し(許し)の音楽を奏でるなか、出演者全員が舞台に登場して「夢の浮橋」(著作権がありますので歌詞は未掲載)を歌って終幕になりました。今回の舞台では描かれていませんでしたが、宇治十帖では薫君が匂宮との関係を知りながら浮舟に気持ちを寄せる手紙を送ったところ、浮舟はこれを拒んで仏の道に入るところで源氏物語が終わります。このように源氏物語には明確な終止感がなく、この先の展開を読者の想像に委ねるような終り方をしていることから、紫式部は源氏物語の結末で何を描こうとしたのかについて色々と議論されています。源氏物語は第1帖「桐壺」から第41帖「幻」までの前半部分では都を舞台にした光源氏の色好みを基調とする栄華と苦悩を中心に王朝文化の「雅び」が描かれていますが、第45帖「橋姫」から第54帖「夢浮橋」までの後半部分では宇治の山里に舞台を移して薫君、匂宮と三人の姫君の恋愛と悲劇を中心に王朝文化の雅びとは異なる仏教的な「無常」が描かれています。この点、紫式部は、源氏物語の前半部分でも「宿世」という言葉を使って男に翻弄される女の運命を描き、鎌倉時代(公家から武家へ政権移行)に普及する「無常」の考え方を先取りしていますが、これが後半部分になると主要なテーマとして扱われています。上述のとおり薫君は光源氏の陰の側面を受け継いで仏の道(心)に生き、匂宮は光源氏の陽の側面を受け継いで色の道(体)に生きる対照的な性格ですが、浮舟は薫君(宇治川の東岸)と匂宮(宇治川の西岸)の間に漂う舟(又は浮橋)のような幽けき存在であり、そのどちらとも決め兼ねて宇治川に身を投じるという決意をすること(女の自我の発現)により、自らの宿世(女の幸せは男次第)を断ち切って、仏の道に心の拠り所を求める生き方(女の幸せも自分次第)という終わり方になっていますので、晩年の紫式部が人生の「無常」を達観して「雅び」ではなく「無常」に人生の本質を見い出したのではないかと感じられます。なお、上述のとおり最後に出演者全員が登場して「夢の浮橋」(著作権がありますので歌詞は未掲載)が歌われましたが、夢の浮橋とは虹の橋のように光(愛)を得て美しく空(命、人生)を彩るものですが、それは儚く消えてしまう夢のようなものでもあるという無常を歌った曲のように感じられました。果たして、紫式部が源氏物語の最後に綴った浮橋のような儚い物語にどのような夢を繋いで彩るのか、それぞれの読者が自らのナラティブにその続きを描き出す生きた物語なのかもしれません。因みに、平安時代の薫香は「練香」や「匂袋」が主流で、未だ香木を燻らす「聞香」は生れておらず、源氏香などの組香は室町時代以降に生まれたと言われています。なお、もともと「薫」という漢字は「香」(か)+「居」(おり)が語源で煙が漂う「嗅覚」的な語感があったのに対し、「匂」という漢字は「丹」(に)+「秀(穂)」(ほひ)が語源で色彩が映える「視覚」的な語感があったという違いがありましたが、その後、源氏物語が書かれた時代になると「薫」と「匂」が混同して使用されるようになったと言われていますので、中世の日本人よりも古代の日本人の方が繊細な感受性を持っていたということなのかもしれません。
 
平安公家の正装
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①十二単と束帯:十二単(女房装束)は平安時代の女性公家の正装で、日常、主人は袿や細長などの肌着で過ごしたのに対し、主人に仕えた女房は十二単でした。束帯(位袍)は平安時代の男性公家の正装で、位で袍の色が定められていました。 ②十二単:十二単は袴、単、五衣、打衣、表着、唐衣、裳から構成されています。過去のブログ記事で触れたとおり襲の色目という時節に合った色合いの装いが流行しました。写真は蕾から花が咲くまでの季節の移ろいを色で表現したものです。 ③十二単の装身具:女性の檜扇は顔を隠すために男性のものと比べるとかなり大きなものになっており、その表面には極彩色の美しい絵などが描かれました。また、女性の髪結のために使われた髪上具をはじめとして色々な装身具がありました。 束帯:束帯は冠、袍、半臂、下襲、衵、単、表袴、大口、石帯、細太刀、帖紙、笏、襪、靴から構成されています。奈良時代に制定された朝服(日本の官人が朝廷に出仕するときに着用した衣服)で、宮中に参内するときに着用されました。 束帯の装身具:男性の檜扇は女性のものと比べると小さいものになっています。笏は威厳を示すためのもので、笏の裏側に笏紙(カンニングペーパー)を貼ったそうです。鞾(靴)は武官が着用し、足の甲の部分にクッションが挟まれます。
 
 
▼現代音楽レーベル「KAIROS」から4人目の日本人現代作曲家の作品がリリース
世界トップレベルの現代作曲家の作品を中心にリリースして数々の国際賞を受賞するなど現代音楽の分野で高い評価を受けているオーストリア(ウィーン)の現代音楽レーベル「KARIOS」から日本人現代作曲家でフランスを拠点に活動されている馬場法子さんのアルバム「Bonbori」(2025年1月発売)がリリースされています。これまで日本人現代作曲家では、世界的に評価が高い細川俊夫さん、藤倉大さん、桑原ゆうさんに次いで4人目の快挙となります。能声楽家・青木涼子さんとのコラボレーションで、能楽師と2人の音楽家のための「共命之鳥」(2012年@東京)、「Nopera AOI葵」(2016年@パリ)及び謡と弦楽四重奏のための「ハゴロモ・スイート」(2017年@横浜)などを世界初演され、また、来る2025年2月27日~3月1日にローザンヌ高等音楽院で「Nopera AOI葵」が再演される予定があるなど、世界的に活躍されています。
 
▼ミロ弦楽四重奏団のアルバム「HOME」
2010年に第一生命ホールで初めて生演奏を聴いてからフィーチャーしているミロ弦楽四重奏団がリリースしているアルバム「HOME」が第67回グラミー賞最優秀室内楽/小編成アンサンブル演奏部門にノミネートされました。このアルバムに収録されているアメリカ人現代作曲家のケビン・プッツさん(2012年にオペラ「きよしこの夜」でピューリッツァー賞及び2023年に協奏曲「コンタクト」でグラミー賞を受賞、2022年にオペラ「めぐりあう時間たち」がメトロポリタン歌劇場で世界初演)の弦楽四重奏曲「HOME」から「Dangerously fast」をお楽しみ下さい。なお、このアルバムにはアメリカ人現代作曲家のジョージ・ウォーカーさんやキャロライン・ショウさんなどの錚々たる方々の作品も収録されていますが、おそらく次世代に受け継がれて行くことになるのだろう作品群だと思います。これらの楽曲を日本の演奏会でも採り上げて欲しいと熱望しています。

新年の挨拶②:葵トリオ・リサイタル(B→Cバッハからコンテンポラリーへ)と新作オペラ「足立姫」(永井秀和/路地裏寺子屋)と展覧会「音を視る 時を聴く」(坂本龍一+高谷史郎ほかコーポレーション・アーティスト/東京都現代美術館)と「2025年問題」 <STOP WAR IN UKRAINE>

▼「2025年問題」(ブログの枕)
謹賀新年。少し気は早いですが、正月は忙しいので12月に「新年の挨拶①」及び「新年の挨拶②」の二回に分けて新年の挨拶を投稿します。過去のブログ記事で初詣は女性器の象徴である鳥居から参道(産道)を遡って御宮(子宮)へと至り、再び、御宮(子宮)から参道(産道)を通って鳥居から生まれ直すという意義があると述べましたが、前回のブログ記事で「巳」は「草木の成長が限界に達して、次の生命が宿され始める時期」とされていることから、2025年の生まれ直しには時代の節目という意義も含まれているように感じられます。さて、上述のとおり「巳」は「草木の成長が極限に達して」いる状態を意味していますが、2025年は「ITシステムの朽化」と「人間の朽化」という2つの社会課題(2025年問題)が日本で顕在化する年と言われています。そこで、昨年の新年の挨拶②で採り上げた「タツノオトシゴの子育て」(少子化問題)と裏腹の問題として「人間の老朽化」(高齢化問題)に触れてみたいと思います。因みに、前回のブログ記事で「」という漢字は胎児の姿を象った象形文字であると述べましたが、これに対して「」という漢字は腰の曲がった老人が杖をついている姿(極限に達している状態)を象った象形文字と言われており、お節料理で縁起物とされる「海老」は腰の曲がった老人の姿に似ていることからその長寿に肖って「海」の漢字が使われています。因みに、「老」の対義語である「」という漢字は巫女が神の依代である榊(←境木←神様と人間の境にある木)を翳している姿を象った象形文字と言われていますが、前回のブログ記事で触れたとおり「巳」(蛇)は「若」(神社は安産祈願、お宮参り、七五三、合格祈願、結婚式などに象徴される生きている人のための場所)と「老」(寺社は葬式、法事、お彼岸、墓参りなどに象徴される死んだ人のための場所)という相反する性格(陰陽)が調和して1つの世界ができていることを象徴しています。日本における「人間の老朽化」(高齢化問題)を示す指標として、2024年版高齢化白書によれば、2025年には全ての「団塊の世代」(戦争の終結と兵士の帰還によって発生した1947年~1949年の第一次ベビーブームで生まれた約800万人)が後期高齢者(75歳以上)になることで、日本の人口の5人に1人にあたる2154万人が75歳以上になり、日本の人口の3人に1人にあたる3653万人が65歳以上になるという超高齢化社会を迎え、社会保障の負担増や労働力不足の深刻化(とりわけ医療・介護の分野では高齢者が増加する一方で労働力は不足する二重苦)などが懸念されています。2023年版人口動態統計によれば、2023年の出生者数は約4万人減少して約73万人になり、今後も、この出生者数の漸減傾向は続くと見込まれていますので、65歳以上の人口数は2043年でピークを迎えるものの、2070年まで高齢化率は上昇を続けると見込まれています。このままでは日本は超高齢化社会の状態のまま人口が減少して国勢が衰えて行くという未来予想図になってしまいそうですが、2025年は「巳」の「次の生命が宿され始める時期」でもあることから、次の時代を見据えた新しいビジョンが求められる年とも言えそうです。人間の理論的な限界寿命はヘイフリック限界(細胞分裂の自然的な上限回数のことで、この限界に達すると細胞分裂が停止する細胞寿命)から約120歳と考えられており、これを裏付けるように日本の最長寿命は2022年に死去した故・田中カ子さんの119歳、世界の最長寿命は1997年に死去したフランス人女性の故・J.カルマンさんの122歳が記録されています。この点、人間の自然寿命は環境要因などによって大きく左右され、WHOが公表している2024年版世界保健統計によれば、日本の平均寿命は84.46歳(世界第1位)、世界の平均寿命は73.7歳になりますが、古DNA解析で旧石器時代の人間の平均年齢は約38歳と推定されていることから、人間の平均寿命は科学技術の進歩や経済発展などに伴う環境要因の改善で大幅に延伸されており自然寿命から限界寿命へと近付いています。因みに、細胞分裂の上限回数(約50回前後)は細胞分裂により染色体が短くなるのを防いで染色体の構造を維持する役割を担っている染色体の末端にある非コードDNA「テロメア」によって規定されますが、生誕時に約8~12Kbp(bp=1塩基対)の長さであったテロメアが加齢等により約5Kbpの長さまで短縮すると細胞分裂が停止することが分かっています(ヘイフリック限界)。この点、過去のブログ記事で活性酸素は老化の原因となることに触れましたが、活性酸素はテロメアを傷付けてテロメアの短縮を促進し、細胞老化を加速することが分かっています。2009年にアメリカの分子生物学者E.ブラックバーンさん、分子生物学者C.グライダーさん及び遺伝学者J.ショスタクさんはテロメアの短縮を遅らせ又はテロメアを延伸して細胞老化を防ぐ酵素「テロメラーゼ」を発見してノーベル医学生理学賞を受賞しましたが、その研究成果としてがん細胞はテロメラーゼが暴走することにより過剰に細胞を増殖する仕組みが分かりましたので、今後、テロメラーゼの暴走を止めてがん細胞の増殖を抑える抗がん剤の開発に期待が集まっています。また、抗酸化効果のある食事、適度な運動と休養、嗜好品の節制など生活習慣の改善によってもテロメアの短縮を遅らせ又はテロメアを延伸することが可能であり(テロメア・エフェクト)、それによって単に平均長寿だけではなく健康長寿(健康上の理由から日常生活を制限されることなく長生きすること)を延伸する可能性があることが分かっています。この点、2022年版厚生労働白書によれば、日本における平均寿命と健康寿命の差は2019年の統計データで男性が8.73歳、女性が12.06歳と言われていますが、2025年問題で懸念されている社会保障の負担増を抑制し、労働力不足の深刻化を改善するためには、可能な限り、平均寿命と健康寿命の差を縮めていつまでも元気に社会貢献できる健康寿命を保つように心掛けることが肝要であり、過去のブログ記事でも触れたとおり健康管理が益々重要な時代になっています。
 
 
2024年住民基本台帳(9月1日時点)によれば、100歳以上の高齢者の総数は1963年には僅か153人でしたが、2024年には95,119人と約622倍に増加しており、年々、漸増傾向にあります。これを踏まえると、もはや幸若舞「敦盛」の「人間50年」では真実味が薄く共感が難しくなってきていますので、「人間100年」を前提として新しい時代の無常観を謡い舞う新しい幸若舞が求められている時代と言えるかもしれません。この点、上述のとおり2025年は「巳」の「次の生命が宿され始める時期」でもあることから、人生が大幅に延伸していることを前提として、どのように生きてどのように死んで行くのかという死生観についても新しいビジョンが求められる年とも言えそうです。紙片の都合から諸外国の死生観の変遷まで触れることはできませんが、日本人の死生観(キーワード)の変遷についてごく簡単に俯瞰してみたいと思います。前回のブログ記事でも触れたとおり、日本では蛇の装飾があしらわれている女性を象った土偶(頭に蛇を乗せた土偶)が出土しており、「死者の再生」を願って蛇を男性器の象徴とし、土偶を妊婦の象徴として信仰の対象にしていた可能性が指摘されています。また、アイヌには「イオマンテ」という儀礼(熊の肉や毛皮の恵みに感謝してカムイ(熊の魂)をカムイモシリ(神の国)へ送り返し再訪を願う儀礼)が伝承されてきましが、これらの縄文人の死生観はアニミズムの思想を背景として生命の「循環」を信じ、死者の魂は新たな生命を育む自然に「還元」されるという再生観念を持っていたと考えられています。この点、折口信夫の名著「古代研究」(民俗学篇1)に「妣が国へ、常世へ」(「妣」とは亡き母の意味)という論考が掲載されており、古事記上巻2古事記上巻3の「妣国」とは死者の魂が向かう死後の世界を意味し、肉体の死後に魂が安息して生命の循環が行われる場所(自然)と考えられていましたが、その場所から時を定めて訪れる神が「マレビト」(稀に来る客人)として迎えられ、やがてその神の言葉を伝える人がマレビトに転じ、それが文芸や芸能を司る人と深く結び付いたと考えられており、能「翁」もマレビトを源とするものであると考えられています(折口信夫「日本芸能史六講」)。平安時代中期(王朝文化)までは生命の謳歌を基調として人生の儚さを風雅の道に昇華して人生を美しく彩る「あわれ」を基調とする文化が育まれ、この感性は平安時代中期までの死生観にも反映されています。大河ドラマ「光る君へ」は平安時代の「女の幸せは男次第」(シンデレラコンプレックス:源氏物語第十七帖「絵合」ではかぐや姫が帝の妃にならなかったことをネガティブに評価しており当時の時代感覚を象徴)という時代錯誤感などから低調に終わりましたが、紫式部はそのような女性の境遇を「宿世」(すくせ)という言葉で表現し、その後の「無常」という考え方を先取りしています。平安時代末期(王朝文化から武家文化への変遷)には朝廷内の権力闘争に端を発して武士の力が台頭しましたが、「保元物語」には朝廷の治世を背景とした「あはれ」や「はかなし」などの人生を美しく彩る言葉は使われなくなり、武士の乱世を背景として死を避けられない運命として自覚する「無常」という言葉が使われるようになりました。乱世は、現世を「憂き世」として捉える厭世観を深める結果になり、死(無常)を超える永遠のものとしての輪廻転生や浄土思想という考え方への依存度を強めていきました。平安時代末期に西行法師が「花に染む 心のいかで 残りけん 捨て果ててきと 思ふわが身に」(山家集)という和歌を詠み、桜(生のメタファー)が散る無常を悟り仏道に帰依したのに桜の美しさに迷う心(生への執着)から逃れられないことを嘆いていますが、生涯、数寄の道に心を寄せて桜を愛で桜を惜しむ心を和歌に詠み、和歌の道を通して仏教心理(真如)に近づくことを志向しています。桜は美しく咲いて直ぐに散ってしまう儚さ(無常)がありますが、来春も同じように桜は美しく咲くこと(無常を超える永遠)から、無常の悲しみを和らげるものとして強く心を捉えていたと言えるかもしれません。江戸時代(庶民文化)には宗教的な信心から「無常」という考え方を残しながらも、乱世の苦しみや悲しみから解放されて現世を肯定的に捉える「浮き世」という考え方が支配的になり、死の問題を笑いの素材とする落語「死神」のような作品も誕生しています。明治時代以降は宗教的な信心が失われるにつれて「無常」という意識も希薄になり「浮き世」という考え方のみが残りましたが、宗教的な信心に代わって芸術的な体験などを通して生や死と向き合う時代になっています。過去のブログ記事でも触れましたが、生命現象とはエントロピー増大の法則に抵抗して分子の分解と合成を繰り返しながら生命秩序を維持するためのバランス(動的平衡状態)を保とうとする作用のこと(ベリクソンの弧)だと考えられていますが、基本的に分解のスピードが合成のスピードを上回っていること(テロメアの短縮)から徐々に生命秩序の崩壊が進行し、やがて消滅する運命にあります(生命の有限性:過去のブログ記事でも触れましたが、人類は生存戦略として有性生殖を選択して自死のプログラムを実装)。人間が死ぬと、人間の身体を組成している分子はバラバラに分解されて有機物又は無機物として自然界に「還元」され(火葬されると骨以外は気体になり、空中を漂い、雨などによって生命のプールと形容される海や陸に降り注ぐ)、やがてそれらが他の分子と結合して別の有機物又は無機物になる可能性があり(自然界の「循環」、即ち、輪廻)、その意味で生命現象は奇跡的であり尊いものと言えるかもしれません。先日、イギリスで安楽死法案が議会下院で可決(1回目)されて話題になっていますが、「死ぬ自由(自己決定権)」(日本では憲法第13条に定める基本的人権で死ぬ自由が保障されているかという問題)について世界的に議論が活発になっています(下の囲み記事を参照)。生命倫理に関する難しい議論は横に置くとして、死が不可避である以上、自分らしく生きたいのと同様に自分らしく死にたいと考えるのが人情ではないかと思いますが、ここに「死の美学」(個人)と「倫理の美学」(社会)のジレンマが生まれています。映画「楢山節考」や映画「PLAN75」でも、自己決定の「真の自由性」への疑問が投げ掛けられていますが、とりわけ日本のような「社会」の意識(個人の権利)ではなく「世間」の意識(個人の役割)が強く同調バイアスが働き易い社会では、尚更のことセンシティブな問題と言えるかもしれません。本当は本人は生きたいと思っているのに、様々な事情や都合などから死にたいと言わせてしまう状況が生まれてしまうとすれば、それは誰にとっても不幸な社会になってしまいそうです。江戸時代までは規範性の時代を背景として宗教的なロマンティシズムに彩られた集団的な死生観を持っていましたが、現代は多様性の時代を背景として科学的なリアリズムに彩られた個人的な死生観を持つ時代に移り変わっていると思いますので、上述のとおり初詣は新しく生まれ直す節目であるからこそ、改めて、自分の死生観について考え直してみたいと思っています。
 
▼死生観(キーワード)の変遷
時代 文化 死生観(キーワード)
平安 王朝文化
(治世)
あはれ(風情)
はかなし(風趣)
鎌倉~戦国 武家文化
(乱世)
無常(桜)
憂き世(厭世)
江戸 庶民文化
(治世)
無常(桜)
浮き世(現世肯定)
現代 多様性文化 多様な死生観
(自己決定権)
 
▼日本で認められている死に方
死に方 可否
安楽死 自然な死を待てない 不治&末期で死期を早める 違法※1
尊厳死 自然な死を待てる 不治&末期で延命治療を行わない 法律がなくガイドライン規制※2
自然死 延命治療を行わない 合法
延命治療 死にたくない 延命治療で死期を遅らせる
※1:自己決定の「真の自由性」の問題に加えて、自殺なのか他殺なのかを見極める必要性などの問題も指摘されています。
※2:本人の意思(リビングウィル)が明確で終末期と判断される場合など厳格な条件が定められています。
 
▼世界で認められている死に方
日本 海外
安楽死
※1
積極的安楽死(薬の注射)
オランダ、ベルギー、カナダ、スペイン、ニュージーランドなど※2
医師幇助自殺(薬の処方)
スイス、オーストラリア、イタリア、アメリカ(一部の州)など※3
尊厳死 消極的安楽死
自然死
延命治療 延命治療
※1:キリスト教圏では宗教的に自殺が許されていませんが、医師が介在すれば宗教的な罪にはならないので安楽死を選択する人が多いと言われています。因みに、G7各国の自殺死亡率(2023年)を見ると、日本が16.4人(G7トップ)であるのに対し、イギリスは8.2人と顕著な差があります。
※2:欧米は個人主義なので自分の死に方は自分で決める自己決定権の文化(本人の意思>家族の医師)がありますが、日本は家族主義なので自分の死に方は自分1人ではなく家族の意向を尊重(本人の意思<家族の意思)する傾向があると言われています。
※3:現在、イギリスで安楽死法案が検討されているのはピンク色の部分です。
 
▼葵トリオ・リサイタル(B→Cバッハからコンテンポラリーへ)
【演題】B→Cバッハからコンテンポラリーへ
    267葵トリオ(ピアノトリオ)
【演目】①A.シュニトケ ピアノ三重奏曲
    ②細川俊夫 メモリー ─ 尹伊桑の追憶に
    ③山本裕之 彼方と此方
    ④藤倉大 nui(縫い)
    ⑤藤倉大 nui2(縫い2)(世界初演)
    ⑥J.S.バッハ ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ト長調
    ⑦M.ヴァインベルク ピアノ三重奏曲
【演奏】<Pf>秋元孝介
    <Vn>小川響子
    <Vc>伊東裕
【日時】2024年12月17日(火)19:00~
【会場】東京オペラシティー リサイタルホール
【一言感想】
「3つの新しさ」(①ピアノ三重奏というスタイルで聴くバッハの新しい響き、②ピアノ三重奏の新たな名曲、③邦人作品との出会い、そして新しい音楽の産声)をテーマとして、葵トリオ・リサイタル(B→Cバッハからコンテンポラリーへ)が開催されるというので聴きに行く予定にしています。なお、B→CシリーズでJ.S.バッハの曲を採り上げなければならないとしている趣旨は理解していますが、楽器、編成や演目構成などによっては、無理にJ.S.バッハの曲を採り上げなければならないとする必要性もないのではないかと感じているのは僕だけでしょうか。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を書きたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます(チケットは完売)。
 
―――>追加
 
東京オペラシティー・リサイタルシリーズ「B→C:バッハからコンテンポラリーヘ」はそのコンセプトが時代のニューズにマッチしていることもあり、本公演を含めてチケットは軒並み完売になる人気シリーズになっていますが、このシリーズ公演に出演し又は作品を採り上げられることが音楽家にとっての1つのステータスになってきているように感じます。葵トリオは、サントリホール室内楽アカデミーを契機として結成されたピアノ三重奏団で、メンバーの名字である「きもと」「がわ」「とう」の頭文字をとって命名されたそうですが、第67回ミュンヘン国際音楽コンクールのピアノ三重奏部門で優勝し、パンフレットによれば「ピアノ三重奏の王道演目だけではなく、演奏機会の少ない作品や法人作曲家の楽曲にも光を当てる活動が高い評価を得ており、ピアノ三重奏の世界を開拓し続けている。」と精力的な活躍を行われているようなので大変に頼もしいものを感じます。過去のブログ記事でも書きましたが、これからの時代の演奏家は単に定番曲を巧みに弾き熟すだけではなく、世界中の新しい傑作を発掘してその魅力を伝えることができる芸術家としての総合的な資質が問われていると思います。その意味では、コンクールだけでは演奏家としての資質を評価できない時代になっており、演奏家の審美眼で世界中の有能な作曲家の傑作を選りすぐり、その魅力を観客に伝えていく音楽活動の実質が問われる時代になっている思いますので、コンクールよりもグラミー賞に代表される音楽賞の方が時代のニーズに合った価値を体現するものになっているのではないかと感じます。葵トリオはそのような資質を持ったピアノ三重奏団だと思われますので、今後の活躍に大いに注目したいと思っています。
 
A.シュニトケ ピアノ三重奏曲
パンフレットによれば「この曲はアルバン・ベルク財団から委嘱を受けて作曲された「弦楽三重奏曲」(1985)に基づいており、一部の省略を除き、ほぼその編曲作品として1992年に成立しました。」と解説されています。個人的なプロジェクションを前提にして簡単に感想を書きますと、第一楽章はヴァイオリンとチェロが提示する第一主題は幸福感に満ちていましたが、直ぐに、ピアノが奏でる不協和音が幸福感を歪ませて行きました。その後、ヴァイオリンとチェロが提示する第二主題とピアノの和音の下降音型が激しく奏でられましたが、第一主題(幸福)と第二主題(破壊)の対照的な性格が印象的に奏でられていたように感じられました。コラール風の音楽が奏でられた後に、ピアノが追慕の情を体現するような憧憬感が漂う音楽を奏で始めると、直ぐに、激しい曲調に変化して搔き消され、ヴァイオリンとピアノの緊迫感のあるトリルとチェロの彫りの深い低音により激しい慟哭を思わせるテンションの高い演奏が展開されて甘美な感傷に浸ることを許しません。再び、ヴァイオリンとチェロが第一主題を奏でましたが、その歪んだ表情には幸福感はなく、これに続く激しい下降音型には寂寥感が漂っているようでした。一体、何があったのでしょうか。その後、リズミカルな激しい演奏が展開されましたが、再現部を経てチェロの消え入るようなモノローグで第一楽章を閉じました。第二楽章はヴァイオリンが変わり果てた第一主題を奏でるとピアノが教会の鐘を連想させる音を連打し、やがてが爪に火を灯すような繊細なタッチによる儚い演奏が聴かれました。その後、ピアノが淡い記憶を手繰り寄せるように幸福感に満ちた旋律を奏で始めましたが、直ぐに、ヴァイオリンとチェロの不協和がその幸福感を歪ませて行きました。その後、気分が浮き沈みするような起伏の激しい演奏が繰り返され、最後はヴァイオリンが消え入りるように第二楽章を閉じました。葵トリオは、音楽的なビジョンが明快に感じられる演奏で、めまぐるしく変わる曲調を雄弁に表現する好演であったと思います。
 
細川俊夫 メモリー ─ 尹伊桑の追憶に
パンフレットによれば「東洋の音楽を「毛筆のカリグラフィー」と形容した尹。その思想を受け継ぎつつ、細川は「その線から描かれる場所(音のカンヴァス)をより深く探求することで、自分の音楽の場所を創りあげてきた」と述べています。(中略)その創作の根源にある「カリグラフィー」による音楽表現の発露として、このメモリーを聴くこともできるでしょう。(中略)「歌おうとしても歌えないような大きな悲しみを、ピアニッシモによって歌う」と語る細川。」と解説されています。敢えて解説からは離れて個人的なプロジェクションを前提として簡単に感想を簡単に書きますと、ヴァイオリンとチェロがこのうえない微弱音をロングトーンで切れ目なく奏でましたが、無から音が生まれる瞬間を感じさせる、無と音の間を揺蕩うような静謐な空間が紡がれていきました。さながらそれは無の空間に顕在する能楽のシテが纏う気配のようなものと喩えることができるかもしれません。ピアノはさながら水面に水滴が落ちるように1音1音を空間に波紋させていくように奏でられましたが、これは音の涙によって悲しみが空間を満たしていくようなイメージに感じられました。その微弱音が揺蕩う静謐な空間に身を委ねていると、突然、長い全休符が置かれて静寂に心を澄ませる瞬間が訪れ、感覚が研ぎ澄まされて行くのが感じられました。これが何度か繰り返されるなか、突然、その微弱音が揺蕩う静謐な空間の中から感情の覚醒を思わせるようにはっきりとした音像が立ち上がって激しい音楽が奏でなれましたが、再び、長い休符が置かれて、ピアノの和音や内部奏法、弦のハーモニクスやグリッサンドなどによる様々な肌触り感のある微弱音が紡がれた後に、静かに無に帰して行く「空即是色」又は「無常観」の世界観が表現されているように感じられました。厳密には無と空は異なりますが、無(nothing)というよりも空(something)が表現されているもので(無常観とは無ではなく空を拠り所とするもの)、それが「歌おうとしても歌えないような大きな悲しみ」に通じる感覚ではないかと個人的には感じられました。この点、葵トリオは、微弱音をプアーな音響としてではなく、空間に張り詰めた凝縮された音として表現することに成功していたように思われ、だからこそ静寂に心を澄ませる緊張が音楽に生まれていたのではないかと感じられました。
 
山本裕之 彼方と此方
パンフレットによれば「この曲は、ピアノ三重奏曲に典型的な「楽器の音や音程の理論といった伝統から解放されて」います。その言葉通り、従来の旋律やリズムの概念を超えた線と点の戯れがそこにはあり、それを瞬発的に認識していくことが、この作品の本質へと聴く者を近づけます。」と解説されています。個人的なプロジェクション(というより音から受けたイメージ)を前提として簡単に感想を書きますと、ヴァイオリン、チェロ及びピアノが細かい音(点)の連なりを彼方、此方へ交錯させながら、グリッサンド(長い線)や細かくフレージングされてグリッサンド(短い線)を編み込むことで立体的な広がりを持つ音場が生まれ、ピアノが和音を連打するなかヴァイオリンとチェロがめまぐるしく変化しながら「線と点の戯れ」が繰り広げられる面白い曲に感じられました。一度聴いただけでは細かいところまで聴き分けることが難しく、また、明確な文脈を持たない音楽は記憶に留めることが難しいので(即ち、過去のブログ記事でも触れたとおり人間はナラティブ形式でエピソード記憶を行うので文脈を持たない音楽はナラティブ形式に変換することが難しいので)、演奏の感想を書くことがナンセンスなのかもしれず、その場で楽しむ音楽のように感じられました。もう一度聴くと印象が変わるかもしれませんが、取り敢えず、ファースト・インプレッションとして記録に留めておきたいと思います。
 
藤倉大 nui(縫い)
藤倉大 nui2(縫い2)(世界初演)
パンフレットによれば「nui(縫い)は、画家バルテュスの妻である節子・クロソフスカ・ド・ローラの書物のなかの着物に関する随筆に触発されて書かれました。」と解説されています。画家&随筆家の節子・クロソフスカ・ド・ローラさんの随筆を読んだ体験に着想を得て作曲されたものだそうですが、個人的なプロジェクションを前提として簡単に感想を書きますと、nui(縫い)は反物の生地を針で縫うようにピアノが2つの音程を交互に紡ぎながらヴァイオリンとチェロがらせん状の下降音を滑り落ちるような優美な旋律線を描きますが、さながら反物の生地の滑らかな質感を連想させるものであり、触覚と聴覚の共感覚に彩られた曲調が面白く感じられました。これが何度か繰り返された後、今度はピアノがらせん状の下降音を彩り鮮やかに駆け抜けるように奏でましたが、まるで花吹雪が舞い散る着物の絵柄を連想させるものであり、視覚と聴覚の共感覚に彩られた曲調が印象的でした。その後、ヴァイオリンとチェロのグリッサンドやハーモニクスなどで着物を縫製する作業や着物の風合いが描写されているように感じられ、さながら着物に袖を通しているような感覚を覚える面白い曲でした。どことなく藤倉さんの弦楽四重奏「アクエリアス」とも曲調が似ています。
 
J.S.バッハ ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタト長調
モダン楽器による演奏は踊るバッハというより歌うバッハという印象を受けましたが、ピリオド楽器と比べて野暮ったくなってしまうようなところはなく、葵トリオのフットワークの軽いアンサンブルによって活舌の良い爽快感のある演奏を楽しめました。詳しい感想は割愛します。
 
M.ヴァインベルク ピアノ三重奏曲
パンフレットによれば、「ピアノ三重奏曲は、室内楽曲が多産された時期の作品で、ピアノの比重が大きい曲になっていますが、それはヴァインベルク自信が卓越したピアニストでもあったからでしょう。」と解説されています。最近、演奏機会が増えているM.ヴァインベルクですが、G.マーラーに対するH.ロットのような存在と言えば良いでしょうか、その作風はD.ショスタコーヴィチと酷似しており新古典主義の傑作の1つに挙げられると思います。個人的なプロジェクションを前提にして簡単に感想を書きますと、第1楽章はチャイコフスキーを彷彿とさせる華々しい演奏で始められましたが、一筋縄では行かない陰影や諧謔などが随所に散りばめられるショスタコ節が魅力的に感じられる曲調で、明瞭なフレージングが諧謔をデフォルメする効果を生んでおり畳み掛けるような構築感のある演奏に圧倒されました。その後、ヴァイオリンとチェロのピッチカード、ピアノのスタッカトがしめやかに奏でられ、ワダカマリのようなものを残しながら消え入るように第1楽章を終えました。第2楽章はピアノのメカニカルな演奏で始まり、そのままヴァイオリンとチェロが細かいリズムを刻みながら丁々発止に呼応する即興感のある演奏に雪崩込みましたが、さながらショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番第2楽章のスケルツォを彷彿とさせるものがありました。この曲が持つポテンシャルを余すところなく引き出す葵トリオのリズミカルで密度の濃い熱演が圧巻でした。第3楽章はショスタコーヴィチの24の前奏曲とフーガを彷彿とさせるものがありますが、ピアノが硬質なタッチで神秘的な美しさを湛える演奏が出色でした。ヴァイオリンが微弱音のピッチカートを奏でるなか、チェロが陰影を帯びた重苦しい独白を朗々と奏でますが、それがヴァイオリンやピアノに受け継がれてテンションを上げながらクライマックスを築いて行く高揚感のある演奏に興奮を禁じ得ませんでした。再び、ピアノが硬質なタッチで神秘的な美しさを湛える演奏を展開し、チェロが微弱音のピッチカートを奏でるなか、ヴァイオリンが寂寥感を湛えた繊細な演奏で消え入るように第3楽章を終えました。第4楽章はリズミカルで小気味よいアンサンブルから徐々にテンポをあげながら感興に乗じた燃焼度の高い演奏が展開され、第一楽章の再現を経てクライマックスを築きましたが、このまま大団円で終わってしまうクラシック音楽にありがちなメルヘンな嘘臭さはなく、ヴァイオリンが奏でる現実逃避感のある麻薬的なワルツからチェロが奏でる鬱々と思索に耽るような独白を経て、ヴァイオリンのハーモニクスとピアノの沈痛な連打で消え入るように終曲になりました。人生にハリウッド映画のような救いや解決がないのと同じように、その真実味のある音楽表現が現代人の心を捉えるのかもしれない、と感じさせてくれる葵トリオの雄弁な演奏を楽しめました。
 
 
▼オペラ「足立姫」
【演目】オペラ「足立姫」(全三幕)
【作曲】永井秀和
【台本・演出】角直之
【出演】櫻(足立姫)役 嘉目真木子(Sop)
    桃役 渡辺智美(Sop)
    梅役 福間章子(Mez)
    一葉役 木村優希(Sop)
    二葉役 山口はる絵(Sop)
    三葉役 松原愛実(Sop)
    四葉役 鄭美來(Sop)
    五葉役 馬場裕子(Sop)
    六葉役 杉田彩織(Sop)
    七葉役 高階ちひろ(Sop)
    八葉役 小原明実(Mez)
    九葉役 吉田安梨沙(Mez)
    十葉役 野間愛(Alt)
【演奏】<指揮>竹内健人
    <尺八>吉越瑛山
    <小鼓>藤舎呂近
    <B-Cl>安藤友香理
    <Cb>小幡明日香
    <Pf>有岡奈保
【制作】永瀬正喜
【舞台監督】小田原築
【照明】青山航大
【メイク】徳田智美
【字幕機材】水野明人
【主催】路地裏寺子屋rojicoya
【日時】2024年12月19日(木)19:00~
【会場】天空劇場
【一言感想】
東京都足立区に伝わる「江戸六阿弥陀伝説」(俗に足立姫伝説)とは、隣村の男と結婚していた足立之荘司の娘・足立姫が姑の嫁いびりに耐え兼ねて、725年に下女12人と共に入水自殺しました。悲嘆に暮れた父は熊野権現から授かった霊木を使って下女12人の御霊を供養するための6体の阿弥陀仏を彫らせ、また、その余り木を使って娘の御霊を供養するための1体の阿弥陀仏も彫らせましたが、その阿弥陀仏を安置するために性翁寺が開基されたと言われています(木余りの寺号の由来)。江戸時代、性翁寺は女人往生の霊場として「江戸六阿弥陀巡り」が盛んとなったと言われています。前回のブログ記事で紹介したましたが、この伝説を題材にしている新作オペラ「足立姫」の世界初演を聴きに行く予定にしています。オペラを視聴した後に時間を見付けて簡単に感想を書きたいと思いますが、オペラの宣伝のために予告投稿しておきます。
 
―――>追記
 
本日の会場は東京藝大北千住キャンパスの横にある東京芸術センター天空劇場でしたが、多目的ホールなので響きはデッドであったものの、約400名収容の小規模なホールは本日の公演に最適のサイズだったのではないかと思います。万葉集に詠われている美女・手児奈(飛鳥時代)のことは知っていましたが、浅学菲才の軽輩なので、このオペラを知るまで悲劇のヒロイン・足立姫(奈良時代)のことは全く知らず、この機会に足立姫の墓が安置されている性翁寺へ墓参りに行ってきました(以下の写真を参照)。なお、会場では和菓子「足立姫」が販売されており、足立区を挙げて街の魅力あるコンテンツとして足立姫を売り出しているようです。
 
【序幕】
本日のオーケストラは、尺八、バスクラリネット、ピアノ、小鼓、コントラバスという変わった編成でしたが、尺八とバスクラの相性が良く、また、小鼓がコントラバスと共に音楽のベースラインを下支えしながら要所要所で舞台を引き締める効果を生んでおり、日本音楽のエッセンスを織り込みながら上手く和洋を融合することに成功していたように感じられました。また、このオペラではライト・モチーフは設定されていませんでしたが、その代わりにテーマ・モチーフが設定されて物語を見通しの良いものにしていたと思います。全体を通して調性感のある叙情的な音楽が付されており、物語の文脈に併せて不協和音や無調感がスパイスとして効果的に使用されている印象を受けました。
 
【第1幕】
プロット:主人公の櫻が他家へ嫁ぐ日に侍女の梅(秘匿しているが櫻の実母)が髪梳きをしているところに侍女の桃(櫻に密かな想いを寄せる同性愛者)が櫻から世話を頼まれていた大切な花を枯らせてしまったとやってきました。櫻は満たされない心の渇きを口にしますが、嫁ぎ先からお迎えの使者がやってきたので侍女と共に嫁ぎ先へと向かいます。
感想:侍女の桃が枯らせてしまった大切な花は櫻の幸せのメタファーであり、櫻が満たされない心の渇き(花枯れ)を口にしていることから、櫻にとって(マリッジ・ブルーとは異なる)気の進まない婚姻であることが暗示されていました。櫻が満たされない心の渇きを歌う場面ではコロラトゥーラなどの技巧を駆使して心の綾を繊細に表現していましたが、デッドなホールでありながらニュアンス豊かな歌唱が聴かれて第1幕の聴き所になっていました。そんな櫻の気持ちも知らずに10人の侍女達(一葉から十葉までの侍女)が嫁ぎ先での優雅な生活を夢見て歌う合唱は憧憬感が漂う美しいもので、あまりソプラノのみの合唱曲を聴く機会がないので新鮮に感じられました。なお、第1幕及び第3幕では「いろは歌」が歌われましたが、過去のブログ記事でも触れたとおり、いろは歌が生まれたのは王朝文化から武家文化へと移り変わる平安時代末期頃ではないかと言われており、仏教の「無常観」(例えば、散る桜を見て「人生の儚さ」(普遍的な真理)を感じること:客観)を表現したものであると言われています。これに対して、「あはれ」(例えば、散る桜を見て「悲しい」(個人的な感情)と感じること:主観)の美意識は平安時代に生まれたと言われており、厳密には足立姫が生きた奈良時代の美意識とはミスマッチがあるのではないかと思われますが、このオペラでは足立姫(奈良時代)の生涯を花の儚さに譬えて表現していますので、敢えて、いろは歌(鎌倉時代)を「あはれ」の美意識(平安時代)に擬えて表現したものではないかと推測します。
 
【第2幕】
プロット:櫻は嫁ぎ先との関係が上手く行かず、櫻を心配する桃は実家に帰ることを勧めますが、櫻は冷却期間を置くために一時的に実家に帰ることを決心します。梅は、旦那様のお手付きで櫻を産んだが、そのことを秘匿していることを桃に打ち明けて、それを嫁ぎ先に知られ、自分の身分が低いことが原因になっているのではないかと気を揉みます。この会話を立ち聞きした櫻は嫁ぎ先との関係を修復することは難しいと考えて自死を決意します。
感想:櫻が可憐な花は枯れて行くと歌う場面では嫁ぎ先での生活が上手く行かないことを(ドロドロとした恨み節ではなく)詩的に表現することで櫻の気品が際立っている印象を受けました。また、侍女の桃が嫁ぎ先でのイジメに耐え兼ねて辛い心情を吐露する場面では不協和が効果的に使用され、嫁ぎ先でのイジメが櫻のみならず10人の侍女達にまで及ぶ苛烈な状況にあることが痛々しく歌われ、嫁ぎ先でのイジメが櫻と10人の侍女達を追い詰めて、その人生を狂わせ始めていることがアリアや合唱によって印象的に歌われました。
 
【第3幕】
プロット:侍女(実は櫻の実母)の梅は嫁ぎ先との不和は自分に原因があると考えて櫻の元を離れる決意をしますが、櫻は自死の覚悟を秘めていたので侍女(実は櫻の実母)の梅と侍女達に実家に帰るように促します。侍女達は櫻が自死の覚悟を持っていると知ると殉死を申し出ますが、そこへ侍女(実は櫻の実母)の梅が戻ってきて全員で入水自殺をします。
感想:侍女(実は櫻の実母)の梅が櫻に一緒に死のうと歌うアリアが迫真のもので第3幕の聴き所になっていました。桜に見立てた和傘を開きながら櫻と侍女達が登場しましたが、後光が降り注ぐような照明と純白を基調とする舞台セットが幻想的な美しさを湛え、阿弥陀如来の救いにより浄土へと導かれていくことが表現されているように感じられました。櫻と侍女達が和傘を閉じて後ろ向きに並ぶと、いろは歌を歌いながら一人づつ倒れ込むことで入水自殺が表現され、花の儚さが印象に残るラストシーンになっていたと思います。
 
なお、最後に全体的な感想として、今回は足立姫の視点で嫁娶から自死までの物語が描かれていましたが、出演者が女性のみであったこともあり、終始、女性のアリアや合唱が続き、些か舞台が単調に感じられましたので、もう少し舞台に変化が欲しかったという憾みが残ります。例えば、姑による嫁いびりの場面(現代でもイジメ自殺は社会問題)や娘を失った父が悲嘆に暮れて仏に救いを求める場面(現代でも子供を失う痛ましい天災、事件や事故が後を絶たない現状)などを採り入れて貰えると、もう少し舞台に変化が生まれたような気がします。また、足立姫と侍女達が自死を選択したことは悲劇ですが、それを感傷的に美化してしまうのではなく(若者の自殺が多い現状を思えば)別の選択肢があったことを父に語らせた方が現代人へのメッセージ性が強く共感が深くなったような気がします。特殊な器楽編成ながら和洋を無理なく融合する音楽は出色であったと思いますし、次回作にも期待したいと思います。
 
足立姫の墓(木餘り 性翁寺)(東京都足立区扇2-19-3
①木餘り 性翁寺:725年、足立之荘司宮城宰相の娘(足立姫)が姑のイジメに耐え兼ねて下女12人と入水自殺し、父は娘供養の諸国巡礼で海中に投じた熊野権現の霊木が偶然にこの地に流れ着いていたので、その霊木で阿弥陀如来像の造営を行基に依頼。 ②足立姫の墓:性翁寺の境内には足立姫の墓が安置されていますが、その墓碑には725年の建立と刻まれています(但し、現在の墓碑は大正10年に再建したものです)。江戸時代には女人往生の霊場として「江戸六阿弥陀巡り」が盛んであったと伝承。 ③軒瓦(木餘):木餘りという屋号は、行基が熊野権現の霊木から六尊の阿弥陀如来像を造営した余りの根元を使って足立姫供養のための阿弥陀如来坐像を彫り、性翁寺の本尊として安置したことから木餘り如来という愛称で庶民の信仰を集めたことに由縁。 ④道標(六阿みだ こん不"ん):西新井大師へ向かう道と性翁寺へ向かう道の分岐点に設けられた道標で、「こん不"ん」(=根分)とは木餘り如来が六尊の阿弥陀如来像を造営した余りの根元を使って足立姫供養のための阿弥陀如来坐像が彫られたこと由来。
 
 
▼展覧会「音を視る 時を聴く」(坂本龍一+高谷史郎ほか)
【演題】展覧会「音を視る 時を聴く」(坂本龍一+高谷史郎ほか)
【展示】▶企画展示室1階
    ①坂本龍一+高谷史郎 「TIME TIME」(新作)
    ②坂本龍一+高谷史郎 「water state 1」(2013)
    ③坂本龍一 with 高谷史郎 「IS YOUR TIME」(2017/2024)
    ④カールステン・ニコライ 「PHOSPHENES」
                 「ENDO EXO」(新作)音楽:坂本龍一
    ▶企画展示室 地下2階
    ⑤坂本龍一+アピチャッポン・ウィーラセタクン 
     「async-first loght」(2017)
    ⑥アピチャッポン・ウィーラセタクン 
     「Durmiente」(2021/日本初公開)
    ⑦坂本龍一+高谷史郎 「async - immersion tokyo」(2024)
    ⑧坂本龍一+Zakkubalan 「async - volume」(2017)
    ⑨坂本龍一+高谷史郎 「LIFE-Fluid, invisible, inaudible...」(2007)
    ⑩アーカイブ特別展示 
     1996~97年のパフォーマンスを再現した新作インスタレーション
    ⑪坂本龍一×岩井俊雄 
     「Music Plays Images Play Music」1996~1997/2024(初公開)
    ▶中庭(1階/屋外)
    ⑫坂本龍一+真鍋大度
     「センシング・ストリームズ 2024 – 不可視、不可聴
                       (MOT version)」(2024)
    ▶サンクン・ガーデン(地下2階/屋外)
    ⑬坂本龍一+中谷芙二子+高谷史郎 
      「LIFE - WELL TOKYO」霧の彫刻 #47662 2024(新作)
【日時】2024年12月21日(土)~2025年3月30日(日)
【会場】東京都現代美術館
【一言感想】
2024年12月21日から東京都現代美術館で展覧会「音を視る 時を聴く」が開催されますので、鑑賞する予定にしています。1982年に哲学者・大森壮蔵さんと坂本龍一さんが対談した模様を収録した著書「音を視る、時を聴く」の題名が採用されていますが(但し、未だミラーニューロンも発見されていなかった時代の対談なので内容は古い)、その後、坂本さんは科学書や哲学書などに傾倒して、その考え方は大きく変貌しており、この著書の内容と比べて展覧会の内容は大きく進化したものになっていると思います。人間に視えないものを視る、人間に聴こえないものを聴く・・・・晩年の坂本さんは科学や哲学などの最新の知見を踏まえながら、人間である限り逃れ得ない人間の知覚(ロゴス)に支配された世界観(人間中心主義的な世界観、環世界)の呪縛から芸術を解放することを志向し、世界の実相(自然尊重主義的な世界観、環境世界)に迫るための芸術表現(ピュシス)を探求されていたと思いますが、そこから生まれる新しい芸術体験(もちろん鑑賞者は知覚を使って芸術体験することになりますが、本来、人間が知覚できない世界観を「音を視る 時を聴く」ことで体験)によって鑑賞者を新しい世界観へと誘う大変に刺激的で魅力的な展覧会になっているのではないかと思います。展覧会を鑑賞した後に時間を見付けて簡単に感想を書きたいと思いますが、展覧会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
―――>追記
 
今日は東京都現代美術館で開催されている展覧会「音を視る 時を聴く」を鑑賞してきましたが、非常に外国人客の姿が目立ち、坂本龍一さんの死後もその作品は世界中に影響を与え続けており、坂本さんが好きだった言葉「芸術は長く、人生は短し」(医学の父・ヒポクラテスの言葉)を体現する展覧会になっていたと思います。非常に展示作品が多く、それぞれの作品が深い世界観を持っているものなので、坂本さんと高谷史郎さんが共作した作品の一部を中心に簡単に備忘録を残しておきたいと思います。なお、殆どの展示作品で写真撮影が許可されていましたので(スマホで撮影したので感度は悪いですが)、会場の雰囲気だけでも伝えるものとして掲出しておきます。
 
①TIME TIME
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インスタレーション「TIME TIME」は、過去のブログ記事で簡単に感想を書いたシアターピース「TIME」のうち「道を作る」「邯鄲」「夢十夜」という3つの要素をベースとして高谷さんが新たに撮り下ろした映像を加えて再構成したもので、坂本さんの音楽が自在に往還しながら始まりや終わりのない時空を超えた夢の世界が広がるという趣向の作品です。この作品に関する感想は上述のシアターピース「TIME」の感想に譲りますが、シアターピース「TIME」とインスタレーション「TIME TIME」では坂本さんが上述の著書「音を視る、時を聴く」やアルバム「async」で関心を示されていた「時間とは何か」という問いを夢幻能の表現様式を借りて表現したものです。あまり知識(ロゴス)に偏重し過ぎると芸術体験を矮小化したものにしてしまう虞がありますが、このインスタレーション作品の鑑賞のヒントとなり得る背景知識にごく簡単に触れておくと、過去のブログ記事でも触れたとおり、人間の脳は物質の変化(エントロピー増大の原則)を知覚することで過去から未来へと一方向に進む直線的な時間の流れ(時間感覚)を認知しますが(物質の変化がなく完全に静止した状態では時間の流れが止まったように感じる)、量子物理学では時間が直線(連続)的ではなく離散的である可能性が指摘されており(一般相対性理論では物質やエネルギーの影響で時空の歪み(重力)を生じ、それにより連続的な波動現象(重力波)が生じると考えられているのに対して、ループ量子重力理論では時空は量子のネットワーク(クローノンのスピンネットワーク)から構成されており離散的な瞬間の集まり(粒子状の構造)であると考えられています。)、過去から未来へと一方向に進む直線的な時間の流れ(時間感覚)は人間の脳が作り出した虚構であると考えられています(クオンタム・ネイティヴ)。上記の背景知識を踏まえて、坂本さんは過去から未来へと一方向に進む直線的な時間の流れ(時間感覚)で音楽を捉えようとすると、必ず、そこには始まりと終わりがあることに疑問を感じ、「自然をできるだけありのままに記述」するために人間の知覚に支配された世界観(環世界、ロゴス)の呪縛から芸術を解放して世界の実相(環境世界、ピュシス)を描くための「より解像度の高い表現を求めることを諦めない」という創作的な試みがシアターピース「TIME」とインスタレーション「TIME TIME」に結実されています。その意味で、古典音楽は過去から未来へと一方向に進む直線的な時間の流れ(時間感覚)という人間の脳が作り出した虚構(環世界)を所与の前提として、人知が及ばない世界の実相(環境世界)は神秘というロマンティシズムで覆い隠してきましたが、これでは芸術表現は世界の実相から遠く乖離し、人間中心主義的な世界観へと埋没して盲目的な教養(心の貧しさ)しか育めないということにもなってしまいそうです。この点、かつて神秘として覆い隠されていた生命現象が宇宙(自然)の諸現象とシームレスに捉えられようとしている現代の知性を前提として自然科学(自然に関する知見)を人文科学(人間に関する知見)に取り込みながら現代人の教養(心の豊かさ)を育むことができる新しい世界観を描くための新しい芸術表現が求められており、そのことに取り組まれていた数少ない有為な芸術家の1人の永逝を心から痛むばかりです。なお、展示会場には坂本さんがアルバム「async」を創作する過程でインスピレーションを受けたものなども展示されており興味が尽きません。是非、展覧会場でインスタレーション「TIME TIME」が描く世界観を「体験」されることをお勧めします。
 
③IS YOUR TIME
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坂本さんは2011年3月11日に発生した東日本大震災による津波で被災した宮城県農業高等学校体育館の「津波ピアノ」の音源をアルバム「async」に収録されている楽曲「life,life」で使用していますが、津波ピアノを「津波によって自然が調律したピアノ」と捉えて可能な限り被災した状態のままで再生し、これに自動演奏装置を取り付けて世界中の地震データとシンクロした音を奏でるインスタレーション作品として展示されていました。暗室の中央に世界中の地震データとシンクロした音を自動演奏する津波ピアノ(時を聴く)が設置され、津波ピアノの真上には天井から吊るされたLEDディスプレイを空に見立て雪が舞い散る映像が流されると共に、津波ピアノの真下には床に水が張られ、笙奏者の宮田まゆみさんが奏でる笙の音が空間を満たしていました。人為を超えた自然の営みの中で津波ピアノは「人工物としてのピアノ」(ロゴス)から「自然物としてのモノ」(ピュシス)に還元され、五大元素(四大元素)のうち「空」(風)と「水」の間で「地」(土)と共鳴しているように感じられました。過去のブログ記事で触れましたが、宮田さんの弟子で笙奏者の中村華子さんが笙を演奏しているときのイメージとして、木のエネルギーを吸い上げ、そのエネルギーを吐き出しながら演奏し、大自然の中で「循環」しているイメージを持っているという趣旨のことを語られていたことを思い出します。「人工物としてのピアノ」から還元された「自然物としてのモノ」はやがて粒子に分解され、「空」(風)を漂いながら雪や雨と共に地へ降り注ぎ、それが木に吸収されて「循環」するという世界観(万物流転)が表現されているように感じられ、この万物流転(循環)の中に生命現象も位置付けられています。この点、古代ギリシャの哲学者・ヘラクレイトスが万物は「ある」ものではなく「なる」ものであるという万物流転の考え方(パンタ・レイ)を提唱したと言われていますが、現在、大きな社会問題となっている環境破壊とは万物流転の因果を破壊すること(即ち、「なる」ための因果的プロセスの連鎖を中断し、回復不能な変化を生じさせること)に他なりません。晩年の坂本さんが神宮外苑の再開発に反対されていたのは、そのような憂慮から発せられた現代人に対する警告であったのではないかと感じられます。この点、地球温暖化対策として期待されていたEVシフトが本来の文脈から切り離されて自動車会社の競争戦略という矮小化した話に貶められている現状などを見るにつけ、ご都合主義から次世代に対する責任を果たそうとしない現代の世相を色濃く映し出しているようです。なお、改めて説明は必要ないと思いますが、2025年3月21日(金)に東北ユースオーケストラ演奏会2025が開催される予定ですが、今回は吉永小百合さんに加えて坂本さんが楽曲「Piece for Illia」を提供したウクライナ人ヴァイオリニストのイリア・ボンダレンコさんと坂本弾きとして定評があるピアニストの三浦友里恵さんも出演される予定になっています。
 
⑦async immerision tokyo
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AMBIENT KYOTO 2023で発表したアルバム「async」の音楽が使ったインスタレーション作品(但し、従来のように視覚的な要素を重視して音楽を従属的に扱うものとは異なり、音楽を空間に設置することを重視した設置音楽)を再構成したもので、音楽と映像はシンクロすることなく並列して進みながらズレて行く世界観を表現するものでした。これは一般相対性理論の時空の歪み(2014年に光格子時計が開発されて重力の影響が小さくなるほど時間の進み方も速くなることが実証されましたが、その科学的な知見はカーナビの技術(重力の影響が小さい人工衛星と重力の影響が大きい自動車では時間の進み方が異なるので、自動車の正確な位置情報を計算するためにそれらの時間差を踏まえて補正する技術)などにも応用されています。)の世界観を表現しているように感じられました。かつて神や王が権威の象徴として支配していた絶対時間は破綻し、時間芸術と言われる音楽表現の行き詰まりが認識されるようになりましたが、このインスタレーション作品ではその限界を超えて音楽を時間感覚から解放するための挑戦であるとも言えるかもしれません。展示会場に設置された大型LEDスクリーンには自然物や人工物の映像が映し出されましたが、さながら時空が歪むように映像の1ピクセルが点から線へと徐々に延伸して大型LEDスクリーンを覆い、やがてその線が点へと徐々に収束して元(又は別)の映像が現れるというシークエンスが繰り返されるなか、(上記③の展示作品のコンセプトにも通底しますが)楽器の素材音(弦楽器のコル・レーニョやピッチカートの音、ピアノの打鍵の音など)や雨の音(坂本さんは、人間は雨の音にも規則性(ロゴス)を聴こうとするが、雨の音はすべてランダム(ピュシス)であると語られています。)など「事物そのものの音」(即ち、人間が加工した魚の切り身(人工物)ではなく、魚そのもの(自然物)に価値を置く考え方)がアンビエント(B.イーノが提唱した環境音楽のことで聴衆は意識して聴くことも又は聴かないこともでき、E.サティーが提唱したそもそも意識されない音楽という意味の「聴かれない音楽」とは異なる概念)として流され、(音楽は映像とシンクロしていないので)雨の音のように始まりや終わりを持たない、ロゴスで捉えようとしても捉え切れない音楽空間が生まれていました。このインスタレーション作品を暫く鑑賞していると、過去のブログ記事でも触れたアルバム「async」に収録されている楽曲「andate」が流れ、大型LEDスクリーンには坂本さんが所有していたピアノの画像が映し出されましたが、(このピースでは音楽と映像がシンクロしていたように感じられましたが)ピアノの音がノイズの中に消え入ると共に画像の1ピクセルが点から線へと徐々に延伸してスクリーンを覆い、そのノイズの中からオルガン(風)の音が立ち現れるとやがてその線が点へと徐々に収束して空(雲)の画像が写し出されましたが、このピースには万物(生滅)流転の世界観が体現されており、自然の営みの中に位置づけられている生命現象の刹那と永遠が表現されているように感じられて圧倒されました。
 
⑧async-volume
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高谷さん以外の方との共作としてヴィジュアル・クリエイターのZakkubalan空音央)さんとの共作を挙げておきます。暗室の壁に24台のiPhoneとiPadが設置され、その画面には坂本さんがアルバム「async」を制作するために過ごしたニューヨークのスタジオリビングなどの断片的な映像が映し出されると共に、それぞれの場所の環境音とアルバム「async」の音楽素材をミックスしたサウンドが流されました。さながら坂本さんの創作の源泉となった精神世界を覗き込むような展示作品になっていましたが、とりわけレースのカーテンが揺れ動く画像は、風が渡る姿(人間に視えないものを視る)を感じ、人間の可聴域外の風の音(人間に聴こえないものを聴く)を感じさせるものであり、また、誰もいない部屋に置かれたピアノの画像からは微かな金属音(人間に聴こえないものを聴く)が感じられ、人間の環世界(ロゴス)の外側に広がっている環境世界(ピュシス)へとイマジネーションを誘われました。過去のブログ記事でも触れたとおり、音とは人間の聴覚が空気などの媒質を伝わる振動や圧力などを電気信号(生体電位)に変換し、それが神経を介して脳に伝達されることで脳が創り出すバーチャルな知覚(空間に音そのものが充満している訳ではない)ですが、幽けきものに心を澄ます繊細な感性を回復させてくれる貴重な芸術体験になりました。
 
⑨LIFE-fluid,invisible,inaudible...
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紙片の都合から写真のみ
 
 
 
 
 
⑩坂本龍一のメディア・パフォーマンス
坂本さんの創作の軌跡(思想、テクノロジーや時代との関係性など)を示す貴重な資料が展示されていました(写真撮影禁止)。
1)坂本龍一の思想
坂本さんが様々な着想を書き溜めたカード状のメモが展示されていました。オリジナリティへの懐疑、ゴダールへの偏愛、夏目漱石への言及などポストモダニズムの芸術家を体現する創作の源泉を知ることができる大変に貴重な資料が展示されていました。
2)戦後アバンギャルドの世代
3)YMO以降のメディアパフォーマンス
4)音楽史以後のオペラ「LIFE」
坂本さんがエコゾフィーを標榜したオペラ「LIFE」の構成をまとめた未刊行の資料「LIFE990103京都会議メモ(A.A.)」など大変に貴重な資料が展示されていました。
5)ポストメディアの表現へ
6)ポストヒューマンのエコゾフィー
坂本さんは人間中心主義(ヒューマニズム)の破綻が明確に自覚されるようになると、再び、人間を自然の側に再配置するための芸術表現を模索するようになりましたが、その遺志は高谷さんなどに受け継がれています。
 
⑪Music Plays Images X Images Paly Music
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1997年に坂本さんがアルスエレクトロニカでピアノを演奏した際の映像と音源(MIDIデータ)、坂本さんが愛用していたMIDIピアノを使って、当時の伝説的なパフォーマンスを3D再生するインスタレーション作品が展示されていました。その場に坂本さんがいて演奏されているような臨場感のある3D再生に接していると、坂本さんが永逝された大きな喪失感と共に、坂本さんが好まれていた言葉「芸術は長く、人生は短し」のとおり、これからも坂本さんの精神は作品の中に生き続け、その作品は世代を超えて愛され続けることを感じさせる感慨深い展示でした。
 
⑬Life-WELL TOKYO 霧の彫刻
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紙片の都合から写真のみ
 
 
 
 
 
 
2025年だ!新作集合(新年の抱負)
中国の歴史家・班固らが編纂した史書「漢書」の律暦志には、十二支は自然界の輪廻転生を表したものであるという由緒が解説されていますが、そのうち「巳」は「草木の成長が極限に達して、次の生命が宿され始める時期」とされています。これは文化的な限界点と揶揄されている芸術界の現状を適確に言い表しているものであるようにも感じられます。そこで、今年の抱負は「次の生命」が育まれるように、21世紀以降に創作された現代の価値観、自然観、人間観、世界観を表現する「新作」(その再演を含む)に価値を置いて集中的にキャッチアップしていきたいと考えています。今年で21世紀も1/4が経過しようとしていますが、最近は現代音楽やミュージカルに留まらずに、オペラ、歌舞伎や能楽などでも「既作」だけではなく21世紀以降に創作された現代の価値観、自然観、人間観、世界観を表現する「新作」の上演が着実に増えている手応えがあり、この潮流が一層と確実になることを心から願っています。戦後後遺症に病んでいた20世紀は「既作」ばかりが顧みられて停滞を生んだ時代でしたが、19世紀以前の歴史がそうであったように「新作」をメインにした公演が当り前になるのが本来のあるべき姿ではないかと思います。既作からは新しい傑作は生まれず、新作から新しい傑作が生まれますので、それが現世代から次世代に受け継ぐ新しい芸術遺産になると思います。いつまでも先達が残した歴史的な遺産ばかりに頼んで、それらを消費するだけでは「」がありません。
 
▼今年もブックサンタ♬🔔
今年も「サンタ苦労す」の季節がやってきました。今年もあなたのブックサンタを待っているちびっ子がいます。小学生向けの本が不足しているようなので、今年は小学生低学年向けの推し本の中から一生の財産になるように願いを込めて芸術関係の本を選んでみました。1人でも多くのちびっ子を笑顔にしてみませんか?
 
▼訃報:女優オリヴィエ・ハッセーさんの逝去
日本映画にも出演されたことがあるイギリス人女優オリヴィエ・ハッセーさんが去る12月27日に逝去されたという訃報が飛び込んできました。映画「ロミオとジュリエット」(1968)でジュリエット役、テレビドラマ「ナザレのイエス」(1977)で聖母マリア役、映画「マザー・テレサ」(2003)でマザー・テレサ役を演じられましたが、これらの役柄に相応しい純真さや気品を兼ね備えた不世出の女優さんでした。衷心より哀悼の意を捧げます。オリヴィエ・ハッセーさんのご冥福を祈りながら、テレビドラマ「ナザレのイエス」より「アヴェ・マリア」(作曲:ミハウ・ロレンツ、演奏:オルガ・シロワ指揮@モスクワ交響楽団)をお聴き下さい。
 
▼あなたに贈る年の瀬の静かな夜更けに人生に溺れるための1曲
ひと吹きでハートをハッキングする孤高のトランぺッター、チャット・ベイカーが奏でるクール・ジャズ「Every Time We Say Goodbye」をどうぞ。

新年の挨拶①:歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」(松本幸四郎、尾上松也)とアヌーナ特別公演「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~とオペラ「グラウンデッド」(ジャニーン・テリソ、メトロポリタン歌劇場)と「笙|SHO」トーク+ミニコンサート(石田多朗、中村華子)と「蛇(巳)」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼「蛇(巳)」(ブログの枕)
少し気は早いですが、正月は忙しいので12月に「新年の挨拶①」及び「新年の挨拶②」の二回に分けて新年の挨拶を投稿します。2025年の干支は「蛇(巳)」ですが、中国の歴史家・班固らが編纂した史書「漢書」の律暦志には十二支が自然界の輪廻転生を表したものであるという由緒が解説されており、そのうち「巳」は「草木の成長が極限に達して、次の生命が宿され始める時期」とされています。これが日本に伝来して庶民にも理解し易いように十二支に動物の名前を割り当てた作り話で物語風に仕立てたものに「巳」が転じて「蛇」が登場します。この点、蛇は、脱皮を繰り返して成長する動物であることから「再生」「不死」「永遠」(ウロボロス)などのメタファーとして捉えられてきた一方で、毒を持ち獲物に巻き付いて丸吞みすることから「毒」「死」「執着」(七つの大罪)などのメタファーとしても捉えられてきた相反する多面的な性格を体現しており、歴史上、「信仰」(前者)と「畏怖」(後者)の対象になってきた動物ですが、物事には陽と陰の二面性があって、それらが調和して1つの世界ができているという常に反対の利益に配慮する重要性を教えてくれています。とりわけ水辺に生息する白蛇はインドの水神に起源している芸事、学問や蓄財などの神様である弁財天の使い又は化身として「信仰」の対象になることが多く、日本白蛇三大聖地(①山口県の岩國白蛇神社、②群馬県の老神温泉、③東京都の蛇窪神社)などで祀られています(以下の写真を参照)。因みに、「巳」という漢字は、頭と体がはっきりしてきた胎児の姿を象った象形文字で、子宮の中にいる胎児を表す「包」という漢字のうち「勹」(構の部分)に覆われた「己」(中の部分)と同じ語源を共有していますが(巳は上に、已はなかばに、己は下に)、そこから蛇が冬眠から覚めて地上に這い出す姿(産まれる、始まる、起こる)を表すようになったと言われています。
 
蛇窪神社(東京都品川区二葉4-4-12
①蛇窪神社:鎌倉時代、蛇窪村(現、品川区二葉四丁目)に清水が湧き出る場所があり白蛇が住んでいましたが、1323年に龍神へ雨乞いを祈願したところ雨が降ってきたので、蛇窪村に蛇窪神社を勧請し、神恩に応えて白蛇を祀ったのが由緒と言われています。また、白蛇は弁財天の使いとされており、荏原七福神として弁財天も祀っています。 ③白蛇辨財天社:蛇窪神社の境内には白蛇辨財天社が建立され、弁財天を祀っています。白蛇辨財天社には狛犬ならぬ狛蛇が祀られており、狛蛇のトグロには弁財天が霊験あらたかに鎮座していますので、疫病流行の折から無病息災を祈願したくなるような大変にありがたい神社と言えます。その脇には幸運と金運の宝珠を抱く撫で白蛇も祀られています。 ②蛇窪龍神社:蛇窪神社の境内には蛇窪龍神社が建立され、蛇窪村の守護神である龍神が祀られています。弁財天の使いである白蛇が8匹で龍になると言われており、神威が漲るパワースポットとも言えます。2025年は辰(龍)から巳(蛇)に干支が変わりますが、慈雨よろしく龍神が8匹の白蛇となって神の恵沢が注ぐ年になることを祈願します。 一粒万倍の碑:巳年の縁起は新しいものが生まれる年と言われていますが、一粒万倍は「種籾1粒から1本のイネが育ち、そこから万倍もの米が穫れること」を意味し、後の世の安寧と繁栄のための一粒に復活と再生をかける吉兆の年と言えるかもしれません。そんな明るい未来を暗示するように、今日も蛇窪神社の花手水が美しく咲き誇っています。
 
WHO(世界保健機関)の紋章には蛇があしらわれていますが、これは「魔術的な医療」から「科学的な医学」へと発展するための基礎を築いた古代ギリシャの医学の神であるアスクレピオスの杖で、上述のとおり蛇は脱皮を繰り返して成長する動物であることから「再生」(医療と医学)の象徴と捉えられています。その一方で、ミケランジェロのフレスコ画「原罪と楽園追放」(システィーナ礼拝堂の天井画)には楽園の蛇がイヴ(エヴァ)を唆して知恵の実(禁断の果実)を食べるように誘惑する場面(旧約聖書創世記第3章)が描かれており「悪魔」(悪知恵)の象徴と捉えられています。ここで「悪魔」(悪知恵)の象徴として蛇が選ばれている理由が問題になりますが、紀元前1200年頃の地中海沿岸の気候変動や歴史的な経緯などが関係していると考えられています。時代を遡ること、紀元前1800年頃、パレスチナで暮らすユダヤ人(ヘブライ人)は飢饉を逃れてエジプトへと移住しましたが、その後、ファラオ(エジプトの王)がユダヤ人(ヘブライ人)を奴隷にし始めたことから、起元前1200年頃、モーゼは奴隷にされたユダヤ人(ヘブライ人)を率いてエジプトから脱出してパレスチナへと戻ったと言われています(旧約聖書の出エジプト記)。丁度、この時期に北緯35度以北のアナトリア(トルコ)やギリシャの気候は湿潤化して森を維持できる環境が確保され、森(地)の恵みに頼った生活が可能(例えば、アナトリアのフリギア人は木造建築を主とする木の文化など)になりましたが、北緯35度以南のエジプトやパレスチナ(イスラエル)の気候は乾燥化して森を維持できる環境が確保されず、森(地)の恵みに頼った生活が困難(例えば、パレスチナのユダヤ人やアラブ人などは木造建築ではなく石造建築を主とする石の文化など)になり、益々、牧畜や放牧などに頼った生活を営むようになりました。北緯35度以北の「森の民」は森を育む多神教の世界観を持ち地を支配する蛇を信仰の対象と捉えていましたが、北緯35度以南の「砂漠の民」は気候の乾燥化による森(地)の荒廃に伴って信仰の基軸を地から天へと転換し、地の恵み(農耕や森林など)をもたらす多神教(地の女神)から天の恵み(日照や雨水など)をもたらす一神教(天の男神)へと信仰の対象が移行していったと考えられています(ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の誕生)。この点、ファラオ(エジプトの王)の1人であるツタンカーメンの王冠にはエジプトのシンボルである蛇(コブラ)があしらわれていますが、旧約聖書で悪魔(悪知恵)の象徴として蛇が選ばれたのは、上記のような地中海沿岸の気候変動や歴史的な経緯などを背景としてエジプトなどの多神教(蛇を信仰するアニミズム)の世界観と対決し、一神教の世界観を拓くにあたって邪教(悪魔、悪知恵)のシンボルとして蛇が利用されたからではないかと考えられています。その後、紀元後30年頃にキリスト教が普及して行く過程で疾病を治す奇跡などを起こす神として信仰を集めるにあたり、キリスト教が古代ギリシャの医学の神であるアスクレビオス(蛇に象徴される神)を凌駕する必要があったことも蛇が「悪魔」(悪知恵)の象徴として選ばれた理由として挙げられるのではないかと考えられています。因みに、その後のパレスチナは隣国に侵略されるなどしてユダヤ人(ヘブライ人)は国外へと離散し(ディアスポラ)、最終的にアラブ人(パレスチナ人)がパレスチナを支配しましたが、その後、ヨーロッパ各地に離散していたユダヤ人(ヘブライ人)がパレスチナへと戻り始めたことで相互に異なるアイデンティティを持ったユダヤ人(ヘブライ人)とアラブ人(パレスチナ人)が激しく対立するようになり(「」の感情の発動)、第二次世界大戦後に国連の仲介でユダヤ人(ヘブライ人改めイスラエル人)とアラブ人(パレスチナ人)がパレスチナを分割統治することになりました。しかし、それを不満として中東戦争が勃発して、現在のハマスによるイスラエル越境攻撃やイスラエルによるガザ侵攻へと発展しています(「対象」の除去)。閑話休題。これに対して、日本では蛇を象った装飾があしらわれている土器や女性を象った土偶(頭に蛇を乗せた土偶)が出土していますが、縄文人が「死者の再生」を願って蛇を男性器の象徴とし、土偶を妊婦の象徴として信仰の対象にしていた可能性が指摘されています。このような思想的な基盤を背景として、人間の誕生は蛇から人間への変身であり、人間の死亡は人間から蛇への変身であるという考え方が生まれて(蛇が脱皮を繰り返す姿は輪廻転生(回転運動)の象徴)、それが宇賀神信仰などにも体現されていると考えらえています。この点、日本書記に記されている箸墓伝説(日本書紀崇神天皇10年9月の条)には、第7代孝霊天皇皇女で巫女の百襲姫(ももそひめ)が災厄を鎮めるために三輪山に祀られている大物主神の妻になりましたが、大物主神が百襲姫のもとに夜しか通ってこないこと(妻問婚の習俗)から百襲姫は朝に大物主神の姿を見たいと懇願すると、大物主神は蛇の姿で現れたので百襲姫は驚愕し、大物主神は恥じて三輪山に隠れてしまいました。これを後悔して百襲姫が腰を落とした際に箸が陰部に刺さって絶命したので箸墓古墳奈良県桜井市)に葬られたとあり、三輪山の大物主神(男性器の象徴である蛇神)が人間に変身して巫女と神婚したという伝説として「信仰」の対象になっています。なお、あくまでも個人的な邪推ですが、箸が陰部に刺さっただけで絶命するのか疑問であり、実のところ巫女の百襲姫は神婚の儀式で蛇に陰部を噛まれ、蛇の噛み跡が2穴だったので箸が刺さったということになったのかもしれません。因みに、神社に張られている注連縄は、天照大神が天の岩戸に戻らないように(即ち、須佐之男命のご乱行に象徴される俗域の穢れから神域を守るために)縄を張られたのが起源と伝えられ、そこから「神域」(常世/とこよ)と「俗域」(現世/うつしよ)を分ける結界の意味を持つようになったと言われていますが、注連縄は2匹の白蛇が絡み合う交尾を象ったものであり(注連縄の発祥地:白龍神社)、地(黄泉の国)の支配者である蛇に「死者の再生」の願いを込めたものとも考えらえています。キリスト教は天での再生(跳躍運動/昇天)を祈念しているのに対して、仏教は地での再生(回転運動/輪廻転生)を祈念している宗教と言えるかもしれません。因みに、バチカン博物館には「卍」と「X」が描かれている骨壺があるそうですが、「卍」は2匹の交合した蛇を抽象化した波状の連続紋が幾何学的に変化したものであるという説があり(東洋では「卍」はヒンドゥー教のヴィシュヌ神のシュリーヴァッツァ(胸毛)を起源とする説もありますが、非常にシンプルな文様なのでC.ユングが言う集合的無意識の「元型」と捉えることができるかもしれません。)、それが「X」や「十」に発展したと考えられています。そう考えると、キリストが背負う十字架は原罪の象徴である蛇をイメージさせるものであり感慨深いものがあります。閑話休題。その一方で、ヤマタノオロチ伝説(古事記上巻3日本書紀神代上など)には、八つの谷と八つの峰を覆い尽す八首八尾の大蛇(又は地と天の双方を支配する龍)「ヤマタノオロチ」が須佐之男命により退治されたという神話が伝えられていますが、川や山などの自然が人間に牙を向く「畏怖」を蛇に化体して表現したものと考えられています。また、安珍・清姫伝説(本朝法華経記の紀伊國牟婁群悪女道成寺縁起など)には、奥州白河の若僧・安珍が熊野詣に向う途中で仮宿をとった家の娘・清姫に見染められますが、安珍は仏に帰依する身の上から清姫の好意を断ると(地元では安珍に弄ばれて裏切られたとも)、清姫は蛇体になって安珍の後を追い、道成寺の梵鐘の中に隠れていた安珍を焼き殺すという悲劇が伝えらえており、女の情念が渦巻く「畏怖」を蛇に化体して表現したものと考えられます。なお、本朝法華経記が書かれた平安時代は夜這いなどが横行する性に奔放な時代であったことから、全国から熊野詣に訪れる男達が旅先で地元の若い女性達を辱しめることなどがないように創作された伝説のようにも感じられます。この安珍・清姫伝説を題材として能「道成寺」(観世信光作)が創作され、これを元にして人形浄瑠璃「日高川入相花王」(竹田小出雲作)や歌舞伎「京鹿子娘道成寺」(近松門左衛門作)なども創作されています。能「道成寺」では蛇体に変身した清姫が鱗文様(正三角形又は二等辺三角形の連続紋)の能装束を身に着けますが、この鱗文様の衣装は能「葵上」の六条御息所や歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」の白拍子花子など女の情念から蛇体、鬼や怨霊に変身したものが身に着ける衣装として使われています。上述の三輪山など円錐形(三角形の鱗文様)の山は蛇がトグロを巻いた姿に似ていると言われていますが、古来、日本では蛇が悪霊を退ける霊力を備えていると考えられていたことから蛇の霊力を身に纏う憑依の文化があって蛇を抽象化した三角形の鱗文様が着物などにあしらわれ、また、死装束の三角巾を身に着ける習俗も生まれたと言われています。この何者かの霊力を身に纏う憑依の文化は、現代のデジタル社会にも「バ美肉」として花開いており、「バ美肉おじさん」(主に中高年の男性プレーヤー)がバーチャル世界で美少女アバターを受肉すること(即ち、バ美肉おじさんがリアル世界で美少女アバターの魂に憑依されること)により人生を着せ替えて(=蛇の脱皮)、何人もの異なる人生を生きること(壱人両名)が可能な時代になっています。この背景には歌舞伎や人形浄瑠璃の女形など日本の文化的な素地があることも指摘されていますが、リアル世界のシガラミやストレスなどから解放されて全く異質の世界観に没入してしまう麻薬的な魅力からディープな人気になっているようです。これまで「畏怖」の象徴とされた蛇に代表される化物はネガティブ・マインドのもの(陰)が殆どでしたが、現代の「カワイイ」の象徴とされる美少女アバターに代表される化物はポジティブ・マインドのもの(陽)として社会に認知されており、陰翳礼讃とは異なる日本人の美意識の発現として注目されます。
 
▼蛇(多神教)と太陽(一神教)
宗教 環境変化 信仰対象 舞踊
多神教 湿潤化
(農耕)
女神 回転運動
一神教 乾燥化
(牧畜)
男神 太陽 跳躍運動
※農耕は作物の恵みを地(多神教)に祈ることを信仰の基調とする一方、牧畜は獲物の恵みを天(一神教)に祈ることを信仰の基調としています。また、それを祈るための舞踊として農耕は地へアピールするための回転運動(水平運動)を基調とする一方、牧畜は天へアピールするために跳躍運動(垂直運動)を基調として発展しました。
※蛇は地の支配者(女神)を象徴するものとして信仰の対象になっていましたが、縄文時代には同時に男性器の象徴としても捉えられていたと考えられており、両性具有の美を体現する多面的な性格を帯びていたと考えることができるかもしれません。
 
▼多神教と一神教の世界観
宗教 思想 世界観
多神教 調和 ユニゾン 動物が人間に変身 寛容
一神教 支配 対位法 人間が動物に変身 不寛容
※一神教では他の宗教は邪教として排除する不寛容な教ですが、多神教はすべての神に対して寛容であるという特徴があります。
※多神教では人間と自然が調和すること(神人合一、即身成仏、自然尊重主義など)を基調とする一方、一神教では人間が自然を支配すること(福音信仰、人間中心主義など)を基調としています。このため、多神教では自然との調和(共生)の文化として動物が人間に変身することを観念することができますが、一神教では動物が人間(神の似姿)に変身すること(アンドロポモルフィズム)は観念できず、人間が動物に変身すること(テリオモルフィズム)しか観念できませんが、これは神の秩序から逸脱して悪魔、魔女、異端に化身すること(即ち、これらの象徴としての蛇に化身すること=邪教に改宗すること)を意味しており、僅かに吸血鬼や狼人間などの例しか見られません。
 
 
▼歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」
【演目】歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」
【原作】中島かずき
【演出】いのうえひでのり
【出演】ライ役 松本幸四郎
    サダミツ役 尾上松也
    ツナ/オボロヒ役 中村時蔵
    シキブ/オボロミ役 坂東新悟
    キンタ役 尾上右近
    シュテン/オボロツ役 市川染五郎
    アラドウジ役 澤村宗之助
    ショウゲン役 大谷廣太郎
    マダレ役 市川猿弥
    ウラベ役 片岡亀蔵
    イチノオオキミ役 坂東彌十郎  ほか多数
【演奏】ミュージシャン
     <Gt>岡崎司
     <Key>松崎雄一
     <Bs>福井ビン
     <Dr/Pr>グレイス
     <尺八、ティンホイッスル、イリアンパイプ>金子鉄心
     <唄、三味線、太鼓>木津かおり
    竹本連中
     <浄瑠璃>竹本東太夫、竹本翔太夫
     <三味線>鶴澤公彦、鶴澤翔也
    鳴物
     田中傳一郎、田中源一郎
     望月太左一郎、望月太喜十朗
     田中傳十郎、藤舎武史
    部長 田中傳左衛門
【美術】堀尾幸男
【照明】原田保
【衣装】竹田団吾
【音楽】岡崎司
【作曲】鶴澤慎治
【作調】田中傳左衛門
【音響】井上哲司
【映像】上田大樹  ほか多数
【日時】2024年11月30日(土)~12月26日(木)
【会場】新橋演舞場
【一言感想】ネタバレ注意!
2007年に市川染五郎(現、松本幸四郎)と劇団☆新幹線がW.シェイクスピアの歴史劇「リチャード三世」、「マクベス」と日本古来の物語「酒呑童子伝説」(源頼光と家臣である四天王が大江山に住む鬼神・酒呑童子を退治する伝説)を融合した舞台「朧の森に棲む鬼」(現代劇)が上演されて好評を博しましたが、その舞台が歌舞伎NEXT(現代歌舞伎)として甦ります。W.シェイクスピアの歴史劇「リチャード三世」は薔薇戦争(ランカスター家とヨーク家の王位継承争い)によりヨーク家が勝ち取った王位をリチャード三世が悪逆非道な手段を尽くして奪うというピカレスクの傑作ですが、エドワード三世を血脈とする一族内に渦巻く傲慢や復讐心を圧倒的な悪(欲望)で滅ぼし、最後はその悪(欲望)に自らの身も滅びる(現在のイギリス王室はボーズワースの戦いでリチャード三世を破ったリッチモンド伯エドマンド・テューダーの子孫)という爽快な悪漢芝居が人気です。プロモーションによれば、歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」の主人公ライは酒呑童子よろしく世の中の不条理が生み出した略奪などを繰り返す悪党ですが、朧の森に棲む魔物(人間の心の闇のメタファー)に唆されてリチャード三世よろしく権力欲に目覚めて悪逆非道の限りを尽くして王位を略奪し、やがて欲望に支配されたライは鬼と化すというプロットのようです。歌舞伎を鑑賞した後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、歌舞伎の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
―――>追記
 
近年、片岡愛之助松本幸四郎尾上松也などの新世代の歌舞伎役者の活躍により革新目覚ましい歌舞伎界ですが、その潮流を主導する歌舞伎NEXTは松本幸四郎らが仕掛ける歌舞伎(伝統劇)と劇団☆新幹線(現代劇)を融合して歌舞伎を新たなステージへと革新する企画公演で、2015年に公演されて話題になった歌舞伎NEXT「阿弖流為」に続く第2作目として歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」がリリースされました。上記で触れたとおり歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」はW.シェイクスピアの歴史劇「リチャード三世」、「マクベス」と日本古来の物語「酒呑童子伝説」を題材にして創作されていますが、後掲表のとおり舞台設定が対照されています。また、歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」はプロット(イギリスと日本の融合)だけではなく音楽も多様なものになっており、歌舞伎音楽、アイルランドの民族音楽、ロック、義太夫節、民謡やポップスなど国境、ジャンルや時代を超えて音楽を融合する意欲的なもので、非常に斬新に感じられました。なお、現在、歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」は他日公演がありますが、以下の感想ではネタバレしていますので、これから鑑賞される方はご注意下さい。
 
【第一幕】
 
第1場(戦場)
乱世、覇権を目指すエイアン国は山の民であるオーエ国に軍事侵攻して激しい戦闘が行われていますが、それを横目に主人公のライ(松本幸四郎)と弟分キンタ(尾上右近)は落ち武者刈りを行っている場面。舌(嘘)を武器にするライと剣を武器にするキンタが登場し、朧の森には人々の欲望を引き寄せる魔物が棲むという伝説について語ります。本日の舞台の引幕には障子を連想させる格子状の透過スクリーンが採用され、朧の森を連想させる鬱蒼と茂る木立の影絵とサウンドスケープがこの作品の世界観に誘う演出効果を上げていました。また、この場面では三味線、太鼓やエレキギターなどの楽器を使用して歌舞伎音楽(和)とロック(洋)を融合した音楽が演奏され、現代邦楽の成果が存分に活かされた完成度の高い音楽を楽しめました。
 
第2場~第4場:3つの契り
 
第2場(朧の森)
ライが朧の森に分け入ると3人の「朧の魔物」(光、水、闇に化身であるオボロ、オボロ、オボロ)が現れてライの生き血を代償としてライの王位に就きたいという欲望を叶えると誘うと、ライは「俺が俺に殺される時」に俺の生き血を差し出すという条件で朧の魔物と契りを交わし(1つ目の契り)、朧の魔物はライの舌のように自在に動く「朧の剣」(妖刀)をライに授ける場面。透過スクリーンに朧の森に舞う3人の魔物と陰囃子が映し出され、ライが陰囃子に合わせてリズミカルに語るラップ調の言立てが聴き所になっていました。ライの偽りの舌のように自在に動く朧の剣とは人を刺す嘘を象徴するものですが、K.リヒターがJ.S.バッハのマタイ受難曲第35曲のテノール・アリア「忍べよ,忍べよ,偽りの舌われを刺す時」で人を刺す嘘(偽りの舌)をさながら剣先(舌先)のようなチェンバロの鋭角な響きを利用して表現し、劇的な効果を挙げた演奏を思い出します。
 
第3場(オーエ国)
ライは朧の剣でエイアン国の四天王であるヤスマサ将斬を斬殺し、ヤスマサ将軍の懐中からエイアン国の四天王で妻のツナ将軍に宛てた書簡(その書簡にはヤスマサ将軍がエイアン国を裏切ろうと考えている胸中が吐露されている)を奪ってヤスマサ将軍に成り済ましたライはオーエ国の党首シュテン(市川染五郎)にエイアン国を裏切って内部を攪乱することでオーエ国に勝利に導くと持ち掛け、ライ(偽ヤスマサ将軍)とシュテンは「血の人形の契り」(2つ目の契り)を交わしてライがオーエ国から裏金を騙し取る場面。ライ(偽ヤスマサ将軍)が現代のオレオレ詐欺やフィッシング詐欺と重なって、ライの中に現代人の影が見え隠れしています。なお、血の人形の契りとは人形にお互いの血をつけて誓いを立て、この誓いを破ると人形の呪いで本人に危害が及ぶというもので、熊野牛王神符の誓詞と藁人形の呪いが組み合わされたものです。この場面の音楽ではアイルランドの民族楽器であるイリアンパイプが使用されており、独特の音響(笙に近い音響)が舞台を支配し、音が拓く世界観を堪能できました。この舞台ではアイルランドの民族楽器であるティンホイッスルも使用されていますが、今月、中世のアイルランド音楽とクラシック音楽、コンテンポラリー音楽を融合し現代的にアレンジして聴かせる合唱団「アヌーナ」が来日しますので、日本(歌舞伎)からアイルランドの伝統(アイルランドの民族音楽)へのアプローチと、アイルランド(合唱)から日本の伝統(今回の来日公演では能楽)へのアプローチを楽しめる良い機会になります。
 
第4場(エイアン国:ラジョウ市場)
ライとキンタはエイアン国の首都にあるラジョウ市場で盗賊の親分マダレ(市川猿弥)と出会い、エイアン国の四天王で検非違使庁長官(警察庁長官)のツナ将軍を始末しようと義兄弟の契り(3つ目の契り)を交わす場面。シュールな舞台セットと奇抜な衣装が目を惹き、リズミカルな民謡に合わせて日本舞踊が舞われました。この場面の音楽ではシタールのような響きがする異国情緒漂う楽器が使用されていましたが、エレキシタールが使用されていたのかもしれません。マダレを演じる市川猿弥が大きな芝居で道を極めた極道振りを好演していましたが、ライを演じる松本幸四郎の狡猾で道から外れた外道振りとの悪の対比も面白く感じられました。
 
第5場~第6場:4つの嘘
 
第5場(エイアン国:宮中)
エイアン国の国王オオキミ(坂東彌十郎)と愛人シキブ(坂東新悟)、エイアン国の四天王のサダミツ将軍(尾上松也)、ツナ将軍(中村時蔵)及びウラベ将軍(片岡亀蔵)は、エイアン軍がオーエ軍に惨敗し、エイアン軍の兵士に成り済ましたライからヤスマサ将軍が名誉の戦死を遂げたという嘘の報告(1つ目の嘘)を受ける場面。国王オオキミと愛人シキブの暗愚振り、サダミツ将軍とツナ将軍の対立などの物語設定が行われ、エイアン国が一枚岩ではなくその基盤が脆弱であることが印象付けられました(ヤスマサ将軍がエイアン国を裏切ろうと考えた動機か?)
 
第6場(エイアン国:偽りの舌)
ライはヤスマサ将軍から奪ったツナ将軍宛の書簡を小細工し、エイアン国に裏切り者がおりツナ将軍の命を狙っていると嘘の報告(2つ目の嘘)を行って疑心暗鬼に陥れ、ツナ将軍に上手く取り入って検非違使(警察官)に取り立てられました。また、ライは国王の愛人シキブにヤスマサ将軍がシキブに想いを寄せていたと嘘の報告(3つ目の嘘)を行って近付きます。さらに、ライは密偵アラウドウジはライと盗賊の親分マダレがグルであるとサダミツ将軍に密告したことを逆手に取ってヤスマサ将軍の書簡にあった裏切り者とはサダミツ将軍のことでツナ将軍の暗殺を企てているという逆賊の汚名を着せて(4つ目の嘘)斬殺する場面。ライはヤスマサ将軍が名誉の戦死を遂げたという嘘話をシキブに語り、シキブはヤスマサ将軍への想いがライへ乗り移って恋に落ちますが、ライとシキブの睦み合う姿はまるで文楽人形を見ているような幻想的な美しさを湛え、命を削る情念や身を焦がす色艶が立ち込める情緒纏綿とした義太夫節に僕のハートもハッキングされてしまいました。ワックスで磨いた表面的な光沢とは異なる長年軽石で磨き上げた底光りが感じられる至芸に圧倒されましたが、言霊とはこのような力のことを言うのかもしれません。
 
第7場~第10場:6つの裏切り
 
第7場(エイアン国;ライ将軍の誕生)
ライは盗賊の親分マダレとの義兄弟の契りを裏切って(1つ目の裏切り)、マダレの手下を捕らえながら検非違使として手柄を立てエイアン国の将軍に成り上がる場面。ロックが流れるなかを、ライがマダレの手下を次々に捕らえる捕物劇が展開され、お約束の「だんまり」の場面も差し挟まれましたが、些かマンネリズム(捕物=だんまり)の憾みがあり、もう少し演出上の工夫があっても良かったかもしれません。
 
【第2幕】
 
第8場(エイアン国:ツナ将軍の部屋)
ツナ将軍はライがヤスマサ将軍を斬殺する悪夢(正夢)を見てライに疑心を抱き始めるものの、ライから言い寄られると女心が揺らいで自分の秘密(ツナ将軍の一族には武門の証として腕に蛇の入れ墨があることや幼い頃に兄と生き別れて妹の自分が家を継いだこと)を明かしてしまう場面。ツナ将軍が悪夢を見るシーンでは透過スクリーンを効果的に使った演出が目を惹き、また、中国の民族楽器である古琴のような響きがする楽器(使用楽器がよく分かりませんでしたが、エレキギターのエフェクター?)とコーラスによる中国の伝統音楽を思わせる異国情緒漂う音楽が奏でられ、非常に印象的な場面になっていました。
 
第9場(オーエ国)
ライは悪巧みを思い付いて盗賊の親分マダレに腕に蛇の入れ墨を入れておくように頼んでオーエ国へ向います。ライはオーエ軍と戦闘中のウラベ将軍を裏切って斬殺し(2つ目の裏切り)、オーエ国の党首シュテンから厚遇で迎えたいという申出を受けますが、オーエ国の本国がエイアン軍に攻め落とされたという報告を受けたシュテンはライに謀られたことを悟り(3つ目の裏切り)、血の人形の契りの報いとして人形の目を衝きますが、ライではなく弟分キンタの目が見えなくなり、ライは自分の血ではなくキンタの血で血の人形の契りを交わしたことを告白し弟分のキンタまで裏切っていたこと(4つ目の裏切り)を明かす場面。歌舞伎音楽とロックを融合した音楽が流れるなかを、ライはマダレにオーエ国への出陣はオーエ国の金鉱を奪取することが目当てなので合戦ではなく悪巧みをしに行くのだと本心を語り、その欲望のために次々と仲間を裏切る悪漢振りはピカレスクの見せ場になっていました。
 
第10場(エイアン国:宮中)
エイアン国は戦勝報告に沸いていましたが、ライは愛人シキブを唆して国王オオキミを毒殺させ(5つ目の裏切り)、さらに、ライはシブキにオオキミ殺しの嫌疑をかけて殺害し(6つ目の裏切り)、エイアン国の国王に就任しようとする場面。シブキが別れの和歌を詠むとシキブの移り気を悟ったオオキミは浮かれ女として浮名を流すのも良いがライだけは止めておけと忠告するシーンやツナ将軍が国王の喪明けまでライの王位就任を待つように忠告にして時間稼ぎをするシーンで奏でられる音楽には、筝や琵琶のような響きがする楽器が使用されていましたが(使用楽器は分かりませんでしたが、エレキギターのエフェクター?)、上述のとおりこの作品では多様な楽器(又はその音響)を使用しながら国境、ジャンルや時代を超えて音楽を融合する斬新な試みが随所に感じられて耳でも楽しむことができる舞台になっていました。
 
第11場:3つの真
 
第11場(エーアン国:地下牢)
ツナ将軍は地下牢に幽閉されているオーエ国の党首シュテンからヤスマサ将軍を斬殺したのはライでありライがエイアン国に嘘の報告をしていたことを聞き出してライへの復讐を決意しますが(1つ目の真)、ライは盗賊の親分マダレの腕には蛇の入れ墨がありツナ将軍の兄であると告げて復讐を思い留まらせようとします(5つ目の嘘)。また、ライはヤスマサ将軍がエイアン国を裏切ろうとしていたこと(2つ目の真)を告げるとツナ将軍は自刃しようとしますが、マダレは腕にある蛇の入れ墨は幼い頃からあったものでツナ将軍の実兄でることを告白してツナ将軍の自刃を止め(5つ目の嘘から転じた3つ目の真)、シュテンが犠牲になってツナとマダレを逃がす場面。これまでの場面は「」と「欲望」に彩られていましたが、この場面では「」と「犠牲」が逆転して物語が大きく転換します。朧の剣による殺陣のシーンでは照明による演出効果により舞台に迫力を生んでいました。
 
第12場:2つの裏切り・・・
 
第12場(朧の森)
ツナ将軍と盗賊の親分マダレの手下、オーエ軍の残党から構成される連合軍はライが率いるエイアン軍と決戦になり、これを撃退します。ライは「俺が俺を殺さない限り死ぬことはない。」と朧の森に逃げますが、これまでライの欲望の犠牲になった人達の亡霊に取り憑かれ、朧の魔物からライの生き血を差し出す契りを果たすように迫りますが、ライは朧の魔物も裏切り鬼になって逃げ去る(7つ目の裏切り)場面。シェイクスピアの「リチャード三世」ではリチャード三世がボズワースの戦いでリッチモンド伯に破れて惨殺されますが、この作品ではライは他人を破壊することでしか自己を実感できない存在として朧の魔物すら裏切り鬼と化して逃げ延びる(鬼となったライが真っ赤な舌を出しながらワイヤーで1階席から3階席へ飛び去る)圧倒的な悪漢振りで、第11場で「嘘」と「欲望」が「真」と「犠牲」に敗れると予感していた顧客の期待まで鮮やかに裏切って(8つ目の裏切り)ピカレスクロマンの真骨頂を行くストーリー展開になっており、朧の森(心)に棲む鬼(欲望)はいつまでも絶えることはなく、人間の業の深さを印象付ける作品になっていました。最後は鬼と化したライですが、弟分キンタのために手心を加えるシーンもあり、また、他の登場人物も正義(善)と不正義(悪)を裏腹に抱えている矛盾した存在であるとも言え(その意味で、実社会でよく見かけるような小悪党がライという大悪党に滅ぼされるという一種の痛快さもあり)、ロシアによるウクライナ侵攻、ハマスによるイスラエル越境攻撃、イスラエルによるガザ侵攻やこれらに対する諸外国の対応などを見ていると、正義(善)と不正義(悪)は国家や人々の事情や都合などによって変わり得るオセロのコマのような相対的なもの(認知バイアス)であることを思い知らされ、人間が正義(善)を高らかと唱えるときが最も危険であると言えるかもしれません。
 
なお、最後に全般について、エンターテイメント性を重視したものなのか舞台展開が忙しなく色々と盛り込み過ぎている嫌いがあり、もう少し見せ場を絞った方が芝居に没入できるような気がします。また、これは個人的な嗜好の問題かもしれませんが、あまりクスグリ笑いに走ると陳腐な印象から厭きがくるので、芸の妙味やウィットで大人の笑いをとることを指向して貰いたいと感じます。古典劇としての歌舞伎とは異なる魅力を創造する歌舞伎NEXTの次回作にも期待しています。
 
▼舞台設定の対照
本作の設定 原作の設定
エイアン国 リチャード三世 ヨーク家
オーエ国 ランカスター家
オーエ国 酒呑童子 大江
ライ(嘘=Lie
キンタ(ライの弟分) 坂田金時(金太郎)
サダミツ将軍 薄井貞光
ツナ将軍 渡辺
ウラベ将軍 卜部季武
三人のマホロの魔物 マクベス 三人の魔女
マダレ(盗賊の親分) 今昔物語集
宇治拾遺物語
平安の大盗賊の袴垂
※道長四天王の1人・藤原保昌の弟・藤原保輔が盗賊に落ちぶれた説あり
シキブ(国王の愛人) 和泉式部
※道長四天王の1人・藤原保昌の妻
 
 
▼アヌーナ特別公演「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~
【演題】アヌーナ特別公演「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~
【演目】第一部 「アヌーナ」と「雪女」の神秘
    ①ドキュメンタリー映画「ビハインド・ザ・クローズド・アイ」
      <監督>マイケル・マクグリン(アヌーナ芸術監督)
    ②「雪女物語」絵と語りとチェロ
      <絵>伊勢英子
      <Vc>坂本弘道
      <語り>中井絵津子
      <構成>川島恵子
    ③講演「小泉八雲、「雪女」をめぐる物語」
      <講師>小泉凡(小泉八雲曾孫)
    第二部 「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~
    ④合唱団「アヌーナ」のコーラス(演目不詳)
    ⑤「雪女」の幻想
      <作曲>マイケル・マクグリン
      <原作>小泉八雲
      <コーラス>マイケル・マクグリン
            アンドリュー・ブーシェル
            キーアン・オ・ドンネル
            ライアン・ガーナム
            ダヒー・オ・ニューノイン
            ノア・タイス
            ジョナサン・レイノルズ
            エロディ・ポーン
            アシュリン・マクグリン
            ポリーン・ラングワ・ドゥ・スワートゥ
            サラ・ディ・ベッラ
            ローナ・ブリーン
            サラ・ウィーダ
            ローレン・マクグリン
            ルーシー・チャンピオン
      <能楽師>津村禮次郎
      <笙>東野珠実
      <大鼓>柿原光博
      <舞台監督>串本和也
      <音響>田中裕一
      <照明>藤原昭三
      <絵>伊勢英子
      <美術>OLEO
【日時】2024年12月7日(土)14:00~、17:30~
【会場】すみだトリフォニーホール
【一言感想】
前回のブログ記事でも触れましたが、中世アイルランドの伝統音楽とクラシック音楽やコンテンポラリー音楽などを融合して現代的にアレンジした合唱曲などを歌う合唱団「アヌーナ」が来日します。合唱団「アヌーナ」は2017年に来日した際にW.イエーツの戯曲「鷹の井戸」を題材に能と合唱とを融合したケルティック能「鷹姫」を上演して大変に話題になりましたが(同じくW.イエーツの戯曲「鷹の井戸」を題材にした坂本龍一さんと高谷史郎さんの舞台「LIFE-WELL」も秀逸)、今回は小泉八雲(ギリシャ系アイルランド人で日本に帰化したラフカディオ・ハーン)の怪談「雪女」を題材にして能の舞と合唱を融合した「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~が上演される予定になっています。また、この公演との併催として、アイルランドの詩人フランシス・レッドウィッジさんの詩にインスピレーションを受けて作曲活動を行うアヌーナの音楽監督を務めるマイケル・マクグリンさんがアイルランドの豊かな大自然を撮影し、その大自然にルーツを持つ合唱団「アヌーナ」の音楽性を伝えるドキュメンタリー映画の上映、絵本作家の伊勢英子さんの「雪女」のイラストを特別上映する音楽朗読劇の公演、小泉八雲曾孫の小泉凡さんによる「雪女」に関する講演が予定されており注目されます。この点、北欧地域にはノルド神話のスカジや冬の女神のカリアッハベーラなど冬、氷や雪などを司る女神、妖精や精霊などに関する伝説があり、また、日本にも古くから妖怪の雪女に関する伝説がありますが、これらの伝説には上述のとおり多神教(アイルランドではドルイド教、日本では神道や仏教)の世界観が持つ自然(地を支配する女神)に対する信仰と畏怖の二面性が彩る豊かなイマジネーション(C.ユングが言う集合的無意識の「元型」と捉えることができるかもしれないもの)が現れているように感じられ、非常に興味深いです。舞台を鑑賞した後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、舞台の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
―――>追記
 
第一部 「アヌーナ」と「雪女」の神秘
 
①ドキュメンタリー映画「ビハインド・ザ・クローズド・アイ」(2023年)
アイルランド詩人フランシス・レッドウィッジさんの詩にインスピレーションを受けたアヌーナ音楽監督で作曲家のM.マグクリンさんがアルスター管弦楽団と共演したアルバム「ビハインド・ザ・クローズド・アイ」に収録されている音楽を基に、その音楽の源泉となったアイルランドの美しい大自然と関係者のインタビューを交えたドキュメンタリー映像が放映されました。冒頭、アルバムに収録されている音楽と共に、アイルランドの美しい映像、サウンドスケープと楽譜がオーバーラップされたミュージックビデオが映し出されましたが、M.マグクリンさんが音楽を作曲するにあたり着想を得た景色を目の当たりにすることで音楽と自然の強い結び付きを統合的に認知できるようになり音楽のイメージが豊かに広がって行くのを感じました。過去のブログ記事でも触れたとおり、人間はミラーニューロンの働きにより他人の体験を追体験することで他人の心理、意図や文脈などを推測して共感(反感や不感を含む)するものなので、聴衆が作曲家の固有な体験を追体験し易くする古くて新しい工夫ではないかと思われます。このミュージックビデオは聴衆をマウントしてくる押し付けがましさや聴衆を煙に巻く取っ付き難さなどはなく、さながらアイルランドの風に吹かれているような自然と共鳴する優しい音楽が聴衆に寄り添ってくる心地良さがあり、聴衆が作曲家の表現意図を探りながら共感するエンパシー(排他性)というよりも、聴衆が自らのプロジェクションを音楽に投射しながら共感するシンパシー(包摂性)を促すもの(世阿弥の言葉を借りれば「その風を得て心から心に伝ふる花」のようなもの。※「風」とはWindのことではなくミラーニューロンの働きにより感じられるMindのこと)であり、過去のブログ記事でも触れましたが、多様性の時代を背景として「聴衆の感性や美意識、想像力や知性を尊ぶ」(能楽師・山本東次郎さんの名言)、即ち、聴衆の主体性を尊重するポスト・クラシカのような懐の広い音楽性を持ったものに感じられました。アイルランドの伝統音楽はケルト文化やドルイド教(多神教)の影響があり、日本の伝統芸能も神道や仏教(多神教)の影響がありますので、それぞれの文化には多神教的な価値観や自然観などを基層とする共通点が多いように感じられます。
 
②「雪女物語」絵と語りとチェロ
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談「雪女」を台本(ケルト音楽の普及に尽力されている主催の川島恵子さんの構成及び訳)として、スクリーンに絵本作家の伊勢英子さんの絵本「雪女」のイラストが映し出され、銅版画家・中井絵津子さんの語りと作曲家兼チェリストの坂本弘道さんの音楽による音楽朗読劇が上演されました。怪談「雪女」は誰もが知る有名な話なので筋書は追いませんが、スクリーンには淡い筆致で描かれた幻想的なイラストが映し出され、その現実とも幻想ともつかない間(あわひ)を紡ぐ精妙な風趣によって俗界(現実)と異界(幻想)が重なり合う怪談「雪女」の世界観へと誘われました。音楽は坂本さんが作曲されたものだと思いますが、チェロとエレクトロニクス(又はエフェクター)を使ってイラストに情感や空気感などを添えて行く多彩な音楽に魅了されました。ピッチカートでギターや琵琶を連想させる独特な音響を生み出しながら雪女の美しさに対する巳之吉の憧憬感を表現する叙情的な音楽や雪女の残酷さに対する巳之吉の恐怖心を表現する緊張感のある音楽など巳之吉の複雑な心情が音楽で雄弁に物語られていました。また、生音(俗界)と録音(異界)を使ったアンサンブルでは茂作を殺した雪女(異界が俗界にもたらす災厄)に対する巳之吉のやり場のない憤りやチェロとエレクトロニクスによるロングトーンで笙(又は篳篥)を連想させる独特の音響を生み出しながら揺蕩う音型やグリッサンドで俗界と異界の間(あわひ)を彷徨う雪女の異様な雰囲気が巧に表現しており、巳之吉が雪女との約束を破ったことで霞と消えるお雪の存在の二重性(俗界のお雪、異界の雪女)を重音で表現するなど非常に着想が豊かな劇性に富んだ音楽が出色でした。先年のコロナ禍では南北の格差解消のために北半球の資本を南半球に投入して急速に開発を進めたことで自然界に存在していた未知のウィルスが人間界に侵入し易くなったことが原因の1つに挙げられていましたが、怪談「雪女」は怪談という体裁を借りながら人間が自然の奥深くに分け入りその欲望のままに自然を破壊し続けてきたことに対する自然からの警告であり、自然を尊重し調和するように心掛けなければならないという人間に対する戒めではないかと思われ、その意味では世代間に受け継がれている怪談を含む民話は人類のナレッジ・バンク(教養、集合知)として機能しているのではないかと思われます。また、後述のとおりL.ハーンは幼少期に母親に捨てられた経験があることから、雪女の口をして巳之吉に子供達を不幸にしてはならないことを語らせているのかもしれません。現代でも子供が被害となる痛ましい事件が後を絶ちませんが、怪談「雪女」は現代人に対するメッセージ性を多分に含んだ作品と言えます。
 
③講演「小泉八雲、「雪女」をめぐる物語」
小泉八雲(L.ハーン)の曾孫で小泉八雲記念館の館長である小泉凡さんから小泉八雲の人生と怪談「雪女」に関する講演がありました。最初にL.ハーン(小泉八雲)の略歴が紹介されました。L.ハーンは1850年に誕生し、程なくして父親はインドへ単身赴任になり母親とアイルランドで暮らすことになりましたが、1854年に母親が精神疾患に陥り母国のギリシャへ帰国してしまったことから父親方の大叔母にアイルランドで養育されました。L.ハーンは大叔母が厳格なクリスチャンだった反動からキリスト教を敬遠するようになり、その家に雇われていた乳母から妖精の話などケルト文化を吸収しながら育ちドルイド教に傾倒していったそうです。その後、父親が病死し、大叔母が破産すると、L.ハーンは1869年にイギリスを経由してアメリカへ移住しましたが、そこで知人から日本は文明社会に汚染されていない美しい国であるという話を聞かされたことを契機として1891年に来日し、松江の中学校で英語教師の職に就くと共に、L.ハーンの家で住み込み女中として働いていた小泉セツと結婚しました。その後、熊本、神戸と職を変え、1896年に東京帝国大学の英文学講師の職に就いたことを契機として日本に帰化し、名前を小泉八雲に改めました(名前の八雲は出雲国の枕詞「八雲立つ」に由来)。L.ハーンは1903年に東京帝国大学を退職し、1904年に「KWAIDAN」を出版しましたが、その後間もなく永眠しました(享年54歳)。小泉凡さんによれば、1893年にL.ハーンが日本研究家・B.チェンバレンに宛てた手紙で初めて雪女のことに触れているそうですが、東京都青梅市千ケ瀬町(東京都八王子市楢原町の可能性も指摘されていましたが)に伝承されていた異類結婚譚を再話した可能性が高いと考えられ、それを基にして東京都新宿区大久保の自宅で小林セツの協力を得ながら「KWAIDAN」を執筆したそうです。また、小泉凡さんによれば、1901年にL.ハーンがアイルランド詩人のW.イェイツに宛てた手紙で自然と向き合うことの大切さに触れているそうですが、雪女は自然のメタファーであり自然を支配の対象と捉える人間中心主義的な傲慢さに対する警告ではないかという趣旨のことを語られていたことは正しく慧眼であり、怪談「雪女」は現代人の教養を育む現代的なテーマ性を多分に備えた作品に感じられました。なお、2025年度後期の連続テレビ小説(朝ドラ)では、小泉八雲(L.ハーン)の妻である小泉セツ(小泉凡さんの曾祖母)をモデルにしたドラマ「ばけばけ」が放映される予定になっているそうなので、今から楽しみです。怪談「雪女」はオペラ「雪おんな」にも翻案されているようですが、是非、朝ドラでも採り上げられる機会に再演を期待したいです。
 
第二部 「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~
 
④合唱団「アヌーナ」のコーラス(曲目不詳)
パンフレットには「コンサートではこの中から20曲前後が歌われる予定です。会場によって曲目・曲順が異なりますのでご了承ください。」と記載されていますが、老輩にはすべての曲目を覚えていられませんでしたので各曲毎の感想は割愛し、アヌーナの全体的な印象について簡単に触れておきたいと思います。アヌーナの音楽監督のM.マクグリンさんが「・・・我々はイギリスやドイツの古楽は歌うけど、アイルランドの古楽は歌っていないじゃないかと。・・これは現代の人々にも理解できるようにアレンジしたら人々の心を打つものができるのではないかと思ったんです。・・・それでアイルランドでは初となるプロフェッショナルなコーラス・グループを作ったのです。」とアヌーナを設立した動機を語ったうえで、「・・・アイルランドの古い楽譜をなんとか再現したかった。そのためには、オペラ的なベルカント唱法では無理だし、普通のポップスやフォークミュージシャンの発声法でもダメだと感じました。だから、歌う人それぞれの自然な声を活かし、響きを重視したハーモニーを創ったんです。同時に、世界中の民族音楽に残る発声法も研究して採り入れました。ヨーロッパでは廃れてしまった発声法が民族音楽の中に残っていると考えたからです。」とアヌーナの音楽性を語っていましたが、シルクのように柔らかく純度の高いアヌーナの奇跡のハーモニーは、このようにして生まれたものであることが理解できました。冒頭ではドイツ人女性で詩人兼作曲家のヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098~1178)が作曲した聖歌へのオマージュとしてM.マクグリンさんが作曲した聖歌「サンクトゥス」が歌われました。能舞台の橋掛り、本舞台、後座を意識してT字型に設えられた舞台をキリスト教会の祭壇に見立たて無数のローソクが立てられ、舞台照明が落とされるなかをローソクを灯した女性コーラスと男性コーラスが登場しました。サンクトゥス・ベルが鳴らされて聖歌「サンクトゥス」が歌われると会場は厳かな雰囲気に包まれました。バロック音楽のような装飾は施されず、ルネッサンス音楽を体現する長い音価が保たれた静謐なコーラスは全てを大らかに包み込む広がりのある響きを生むもので、その静謐なコーラスが静寂へと溶けて行く儚さや深遠さのようなものが愛おしく感じられるような極上のエンジェル・ボイスを堪能できました。なお、止むに止まれぬ思いからボヤいてしまいますが、日本人の拍手好きが祟ってミサの途中に拍手が起こり興を削がれましたが、歌舞伎でも「間」の良い掛け声は芝居を活かし、「間」の悪い掛け声は芝居を殺すのと同様に、(悪気はないとは思いますが)勇み足のような無粋な拍手で会場の空気を威勢よく壊してしまうご乱行は感心できず、静寂に心を澄ませる余裕やデリカシーのようなものを求めたいところです。もともと日本人には「岩にじみ入 蝉の声」を聴き分ける豊かな感性があったはずですが、誠に残念な状況です。その後、スクリーンにアイルランドの美しい大自然の映像が映し出され、M.マクグリンさんが作曲した音楽が歌い継がれて行きましたが、とりわけ柔らかいコーラスが幾重にも重なりながらアイルランドの山脈の稜線やアイルランドの風に撫でられる砂漠の風紋を表現する幻想的で美しい音楽に心を奪われ、さながら音楽を通じて自然に触れているような芸術体験が新鮮に感じられました。また、今日は日本人作曲家・光田康典さんが2018年に任天堂のゲーム「ゼノブレイド2」(人類が原罪によって追放された世界樹の上にある楽園を目指すという物語性があるゲーム)のために作曲し、アヌーナが歌を担当した「Shadow Of The Lowiands」(サウンドトラック)のギター編曲版も歌われましたが、近年、アヌーナはゲーム音楽などにも活動の幅を広げており、本日の公演でソリストを務めていたA.マクグリンさん(M.マクグリンさんの愛娘)は光田さんが音楽を担当したスクウェアのゲーム「クロノ・クロス:ラジカル・ドリーマーズ・エディション」(サウンドトラック)でもソリストとして参加し、2019年にNHK番組「のど自慢」にも出場した経験もあるそうですが(合格の鐘:ドシラソ・ドシラソ・ド・レ・ミが高らかに鳴らされたことに間違いありませんが)、まるで聖母マリアを思わせる慈愛に満ちた繊細な歌唱に魅せられました。
 
⑤「雪女」の幻想
小泉八雲(L.ハーン)の怪談「雪女」を題材にしてアイルランドの中世(アイルランドの伝統音楽)と日本の中世(能楽)を融合する幻想的な舞台に魅了されました。スクリーンには伊勢さんが描いた雪女のイラストが映し出され、大鼓の柿原光博さんと笙の東野珠美さんが舞台に向かって右側(切戸口)から入場し、また、舞台の両側(地謡座と見所の脇正面)に男性コーラスと女性コーラスが配置されました。笙の演奏に乗せてコーラスが歌われましたが、(音調は手間取るのかもしれませんが)笙は上記の歌舞伎公演で使われていたアイルランドの民族楽器イリアン・パイプに近い音響を持ち、笙の響きとコーラスの響きに親和性が感じられ、その神秘的な響きが雪女のイラストと重なって幻想的な舞台を作り出していました。やがてシテの津村禮次郎さんが能面(大向うに席に座っていたので何の能面をつけていたのか不明)をつけて白装束の衣被(異界の者が登場する場面などで能面が見えないように衣で頭を覆い隠す演出)で舞台に向かって左側(橋掛り)から登場しましたが、この場面で歌い添えられた純度の高い透明感のある女性コーラスが雪女の凍てつくような美しさをイメージさせるもので出色でした。また、シテが舞う場面では大鼓とコーラスという非常に珍しい組合せのアンサンブルが演奏され、正直に言ってしまえば、若干の違和感を禁じ得ませんでしたが(個人的なイメージでは、余白を生む大鼓、余白を彩るコーラスという性格の違いがあるように感じますが)、大鼓とコーラスがお互い干渉し合わないように間合や音量などに配慮したデリケートな演奏が聴かれました。シテはお雪を演じる場面ではピンクの装束、雪女を演じる場面では白の装束を身に着けていましたが、物語終盤でシテが白の衣装を身に着けて雪女を演じる場面では、舞台の前方で歌うコーラスが俗界、舞台の後方で演じるシテ、大鼓及び笙が異界を体現しているように感じられ、さながらコーラスは俗界と異界を結ぶワキのような存在として、コーラス(ワキの夢をイメージさせる幻想的な風趣)に彩られた幻想の世界の中でシテが謡い舞う俗界と異界が重なり合う幽玄の舞台が顕在しているように感じられて白眉でした。これまで能楽の革新的な舞台を色々と見物してきましたが、世阿弥とは異なるアプローチによって幽玄の世界観を見事に表現している舞台に目鱗でした。ヴラヴィー!
 
アンコールとして、さくらさくら、ダニーボーイ、ホリーナイトが歌われ、ホリーナイトではオーロラの映像が映し出されましたが、風にそよぐレースのカーテンのように柔らかく繊細に移ろうアヌーナのコーラスはオーロラのイメージそのものであり、淡い色彩を放ちながら空中に揺蕩っているようなイメージがあり、アイルランドの自然そのものがアヌーナの音楽性を育んでいることを体感できました。近年、世界各国で異常気象によるものと思われる自然災害に関するニュースが後を絶ちませんが、アヌーナの音楽は現代人が日常生活の中で触れることが難しい自然(人間が知覚できる環世界だけではなく、人間が知覚できないものを含む環境世界)を身近に感じ、自然を尊重し調和するための教養(心の豊かさ)を育むことができる現代人に必要とされる音楽ではないかと感じます。
 
 
▼オペラ「グラウンデッド」(メトロポリタン歌劇場)
【演目】メトロポリタン歌劇場
    オペラ「グラウンデッド」
【作曲】ジャニーン・テソリ
【台本】ジョージ・ブラント(戯曲「Grounded」に基づく)
【出演】ジェス役 エミリー・ダンジェロ(Mez)
    エリック役 ベン・ブリス(Ten)
    センサー役 カイル・ミラー(Bar)
    もう一人のジェス役 エリー・ディーン(Sop)
    司令官役 グリア・グリムスリー(Bar)
【演奏】<Cond>ヤニック・ネゼ=セガン
    <Orch>メトロポリタン歌劇場管弦楽団
【美術】ミミ・リエン
【衣装】トム・ブロッカー
【照明】ケビン・アダムス
【映像】ジェイソン・H・トンプソン
    ケイトリン・ピエトラス
【音響】パーマー・ヘフェラン
【振付】デビッド・ニューマン
【助言】ポール・クレモ
【制作】マイケル・メイヤー
【日時】2024年12月13日~19日
【一言感想】ネタバレ注意!
稀代の名総裁・P.ゲルブさんのもとで改革が進むメトロポリタン歌劇場は、2016年にフィンランド人現代作曲家のカイア・サーリアホさんのオペラ「遥かなる愛」をメト初演したのを皮切りに、2018年に初めてアメリカ人現代作曲家のジャニーン・テソリ(1961年~)さん及びアメリカ人現代作曲家のミッシー・マッツォーリ(1980年~)さん(2026年にオペラ「バルドーのリンカーン」がメト初演予定)の2名の女性作曲家に新作オペラの作曲を委嘱しましたが、今回はそのうちの1作であるジャニーン・テソリさんのオペラ「グラウンデッド」がメト初演され、今般、日本でもその映像が公開されます。ジャニーソ・テソリさんは2015年にミュージカル「ファン・ホーム」(2013年世界初演)や2023年にミュージカル「キンバリー・アキンボ」(2021年)でトニー賞最優秀作曲賞を受賞され、2020年にアメリカの人種差別問題を扱ったオペラ「ブルー」で北米音楽批評家協会「ベスト・ニュー・オペラ賞」を受賞されるなど、多方面で活躍されている現在最も注目される現代作曲家です。オペラを視聴した後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、オペラの宣伝のために予告投稿しておきます。
 
―――>追記
 
オペラ「グラウデッド」の原作であるアメリカ人劇作家G.ブラントさんはニューヨークタイムズ紙に掲載されていたアメリカ空軍のステファニー・ケルセン少佐に関する記事にインスピレーションを受けて戯曲「グラウデッド」を創作し、2013年にアメリカ人女優のアン・ハサウェイさんの主演で世界初演され、その後、100回以上も再演される人気作品になっています。2014年にメトロポリタン歌劇場及びリンカーンセンター劇場の新作プログラムとして新作オペラの作曲を委嘱されたJ.テリソさんは、メトロポリタン歌劇場のオペラ委嘱プログラム・ディレクターのポール・クレモさんから戯曲「グラウデッド」を新作オペラに翻案してはどうかと勧められ、オペラ「グラウデッド」を作曲することになったそうです。2023年にオペラ「グラウデッド」はワシントン国立オペラで世界初演され、2024年にメトロポリタン歌劇場で初演された映像が日本でも公開されました。メトロポリタン歌劇場では今シーズンに4作品もの新作オペラ過去のブログ記事の囲み記事を参照)が初演されますが、残念ながら、日本ではオペラ「グラウデッド」以外の新作オペラは鑑賞できず、アメリカとの圧倒的な文化格差を感じてしまいます。この点、未だに年末の第九を有り難がるプリミティブな客層が多い日本では難しいのかもしれませんが、日本を含む世界では魅力的な新作オペラが数多く創作されており(以下の囲み記事を参照)、新国立歌劇場など日本の劇場でも定番オペラばかりのマンネリズムに陥ることなく新作オペラの上演機会がもっと増えてくれることを切に願いたいです。現状では日本が世界から取り残されている印象しか持てません。
 
第一幕
 
第1場 キャリアウーマン
舞台に設置されたLEDスクリーンに青空を流れる白雲の画像が写し出されるなか、パイロットスーツ姿の男性パイロット達が戦闘機の編隊飛行を連想させる陣形に整列し、勇壮な合唱が歌われました。未だ男性社会である空軍(このオペラではジャスともう一人のジャス以外の出演者は全て男性のみ)の中で紅一点、パイロットスーツ姿の女性パイロットのジェス(メゾソプラノのエミリー・ダンジェロさん)が登場し、空の自由と孤独をこよなく愛するF-16戦闘機(通称、タイガー)のエースパイロットであるというキャラクター設定が行われました。両手を広げて戦闘機に見立てた男性パイロット達を従えて男勝りの自信に満ちた力強いジャスのソロが歌われましたが、ジェスが繰り返して歌う「ブルー」には空(ブルー)の自由に対する憧憬と死の恐怖に対する憂鬱(ブルー)の双方を含意する複雑な心情が込められているように感じられました。ジェスはイラク戦争に従軍してイラクの砂漠上空を飛行し、イラクの地上軍を爆撃して戦功を挙げますが、LEDスクリーンには「グレー」(罪人のメタファー)の爆煙があがる画像が映し出され、金管の彷徨や激しいピアノの内部奏法などで爆撃の凄まじさが音楽的に表現されているように感じられました。
 
第2場 運命の出会い
ジェスは休暇中のワイオミング州のバーでカーボーイのエリック(テノールのベン・ブリスさん)と恋に落ち、エリックの山小屋で一夜を過ごしますが、夕焼けの山小屋でジェスとエリックが睦み合う叙情的な二重唱が聴き所になっており、ジェスは仕事もプライベートも人生の絶頂期にあることを印象付ける場面になっていました。本日の舞台セットは二階建ての構造になっており、舞台の二階はLEDスクリーンが設置された「空」の世界(ジェスが生きる世界)、舞台の一階は木造セットが設置された「地」の世界(エリックが生きる世界)として物語が展開されましたが、このオペラの複雑なプロットを分かり易く演出するうえで重要な働きを担っていたように感じられました。
 
第3場 出産か仕事か
イラク爆撃のための出撃準備をしている場面では太鼓やドラムなどの打楽器を使った軍楽風の迫力のある音楽が奏でられましたが、ジェスはブルーな気分(使命感と不安感の葛藤)で浮かない様子を見せていました。E.ダンジェロさんは歌唱力だけではなく演技力にも目を見張るものがあり、その演技力はジェスの複雑に交錯する心理描写が求められる後半になるにつれて存分に発揮されているように感じられました。そんな折、ジェスは妊娠検査薬で「ピンク」(再生のメタファー)の反応が出て妊娠していることを知りましたが、司令官(バリトンのグリア・グリムスリーさん)はこれまでの訓練が無駄になりキャリアが絶たれることになるので堕胎するように圧力をかけますが(アメリカでは人工妊娠中絶の禁止が議論されていますが、日本では典型的なハラスメント)、ジェスは子供を産む決心をして出産・育児休暇に入りました。上述のとおり舞台の二階建て構造が演出に上手く利用され、舞台の二階には司令官(空の世界)、舞台の一階にはエリック(地の世界)が登場し、ジェスは梯子を使って二階から一階へ降りて行くという印象的な場面になっていました(1回目のグラウンデッド)。LEDモニターには胎児()のエコー画像(再生のメタファー)が映し出され、これとは対照的に男性パイロット達の合唱は出撃(破壊のメタファー)の高揚感を歌いました。現代は、多様性の時代を背景として社会の分断が問題になっていますが、このオペラでは全般に亘って様々な相反する価値感を対置し、その選択に悩み苦しむジャスの姿を通して現代人の姿が描いているように感じられました。
 
第4場 出産・育児休暇
お腹が大きいジェスが登場し、ハープや弦のPIZZの伴奏に合わせてエリックがハミングでお腹の胎児に優しく歌い掛け、ジェスとエリックの幸福感に満ちた美しい二重唱が聴き所になっていました。(オペラに特有の無理な展開ではありますが、突然、時代が飛んで)エリックは飛び付いてきた娘サム(ジェスが娘サムを出産して5歳に成長しているという設定のようです)を慈しむように歌い掛けます。ジェスは育児に励む一方で、空(自由)への憧れも捨て切れないままでしたが、ジャスの気持ちを察したエリックは娘サムにジェスの気持ちを打ち明けると、娘サムはジャスに星になって欲しいと歌い掛け(娘サム役を演じたのは小学校低学年くらいの女の子でしたが、並み居る諸兄姉を差し置いて、この年齢でメット・デビュー!)、ジェスとエリックの美しい二重唱は子育てに協力して妻の夢を応援する包容力のある理想の夫像を印象付けるものでしたが、甘いマスクと甘い美声を誇るB.ブリスさんの囁きかけるような繊細な歌い口は、家族への愛情を惜しまない実直なエリックの役柄に最適なものと言えるものでした。
 
第5場 職場復帰
ジャスは5年間の出産・育児休暇の後にF-16戦闘機(通称、タイガー)のパイロットに復職したいと司令官に願い出ますが、司令官はF-16戦闘機のパイロットではなくラスベガスでドローンの操縦士になるように命じました。ジェスはヒステリックな歌で司令官に抗議しますが、司令官は家に帰れる仕事なので子育てができることや死の恐怖が取り除かれることなどのメリットを並べ立て納得させます。この場面は育児休暇によるキャリア断の問題を採り上げているようにも見えますが、知る限り、現状、5年間も育児休暇が与えられる国はなく(育児休暇に関してはアメリカは日本よりも労働環境が厳しく、1年間も育児休暇を与えられないケースが多いと言われています)、また、この変革の時代に5年間も職場を離れていれば職場環境は大きく変わり配置転換もやむを得ないように思われますので、何らかの事情(娘サムが歌う場面を設けるために一定年齢に達している必要があったなど)による意図的な設定であったのかもしれません。LEDスクリーンにはドローンの映像が映し出され、ジャス、エリック及び司令官がそれぞれの交錯する思惑を三重唱で歌いました。
 
第6場 新職場
ドローンの操縦はドローン操縦担当とカメラ担当がパートナーを組んで任務を遂行しますが、ドローン操縦担当になったジャスは、カメラ担当のセンサー(バリトンのカイル・ミラーさん)とパートナーを組むことになりました。ジャスは生粋の軍人ですが、センサーは19歳の青年でパーカーとスニーカーというカジュアルな服装でゲーム大会に優勝した経験もあるという設定です。ジャスはパイロット35というコードネームが与えられ、ヘッドフォンを装着するとキル・チェーン(ドローン攻撃の指示役)からのターゲットに関する情報や指令などが無機質に飛び交い、それに併せてLEDスクリーンが明滅し、音楽が断片的に演奏されたことで、デジタル信号が支配するバーチャルな雰囲気が効果的に演出されていました。センサーは上空のカメラ映像からトヨタ車を見付けてメトロポリタン歌劇場のビッグ・スポンサーではないかと言葉尻を濁しましたが、(現状、トヨタはメトロポリタン歌劇場のスポンサーではない?と思いますので)トヨタへの熱いラブコールで笑えました。緊迫感のある音楽が演奏されるなか、ジェスは道路を高速度で移動する車両を発見してキル・チェーンから攻撃の指令を受けましたが、LEDスクリーンに灰色の爆煙が上がる映像が映し出されたのに対し、ドローン操縦室はキル・チャーンからの祝福の音声が聞こえてくるのみで静寂に包まれており、幻想的な音楽と厳かな合唱がリアリティの喪失を強く印象付けていました。その後、ジェスはエリックから帰りにミルクを買って来て欲しいという伝言を受け取ります。この場面ではジェスの存在の二重性(ドローン攻撃で命を奪う兵士とミルク購入で命を育む母)が描かれているように感じられ、上記のアヌーナの公演で触れた雪女の存在の二重性(命を奪う妖怪と命を育む母)とオーバーラップして、破壊と再生を象徴する大地母神を具現化しているような物語構造(女性に対する集合的無意識の「元型」のようなもの)が非常に興味深かったです。
 
第7場 新居
ジェスはエリック及び娘サムと共にネバダ州(ラスベガス)へ引っ越しました。エリックはメローな歌い口でフォークソングのような子守歌を歌い、娘サムを寝かし付けました。ジャスは帰宅するとドローン攻撃で味方の車両部隊を救ったことを誇らしげにエリックに語り、エリックも就職が決まったことを告げると、ジャス、エリック及び娘サムが牧歌的な雰囲気を湛えた幸福感に満ちた三重唱を歌いました。
 
第8場 もう一人の自分
男性パイロット達は敵を攻撃することは正義であると力強く歌うなか、ジェスはドローンでジープを爆撃しますが、ドローンのカメラには敵の手足などが飛び散っている惨状が映し出され、それを見たジェスはドローン攻撃の重圧から徐々に精神に異常を来すようになり、解離性同一性障害(多重人格障害)を発症しました。舞台にはジェスともう一人のジャス(ソプラノのエリー・ディーンさん)が登場し、ジャスは敵は罪人であるという認知バイアスを強化すること(過去のブログ記事で触れた「憎」の感情の発動と「対象」の除去)で自分の行為を正当化しようと試みますが、その一方で、出産や子育てを経験して教養(心の豊かさ)が磨かれたことで敵も同じ人間であるという良心が芽生えたこと(過去のブログ記事で触れた「共感」の働き)で自分の中に解決できない矛盾した感情を抱え込むようになり、複雑な心情が交錯する様子が合唱及びオーケストラによってを雄弁に表現されていました。現代は、正義(善)と不正義(悪)の基準が相対化している難しい時代であり、どのような分別を持ち得るのかを含めて自分らしく生きるための教養を育む必要性が高まっているように感じられると共に、そのために芸術が果たし得る役割は益々重要なものになってきているように感じます。
 
第二幕
 
第9場 ピンクを浸食するブルー
市街地の活況が華々しい音楽で表現され、ジェスは娘サムに「ピンク」(再生のメタファー)のドレスを買いますが、突然、音楽が緊迫度を増すと、LEDスクリーンにジャスの姿が大きく映し出され、ジャスは何者かに監視されているという脅迫観念(ブルー)に陥り、ジャスの精神の異常が深刻な状態にあることが印象付けられました。
 
第10場 新しい任務
司令官はドローン操縦士としてジェスの功績を讃えたうえで、敵の大物サーパントを殺害するという新しい任務を命じました。ジャスは精神に異常を来していましたが、その使命感から自分を奮い立たせて新しい任務を引き受けました。過去のブログ記事でも触れたとおり、人間は意欲、責任感や達成感を司る前頭葉が発達したことで、脳が心身の異常を過少に捉え又はこれに注意を払わなくなって自分を極限の状態に追い詰めてしまうこと(うつ病、自殺や過労死など)があると言われており、近年、それらの増加が社会問題化しています。緊迫感のある音楽が流れるなか、ジャスは自分の車と同じマスタングを発見し、その車両にサーバントが乗車している可能性があるのではないかと追尾を開始します。
 
第11場 自己矛盾①(破壊>再生)
舞台の二階(ドローン操縦室、破壊)にはジェスとセンサー、舞台の一階(家、再生)にはもう一人のジェスとエリックが登場し、上述のとおりジェスの存在の二重性(破壊と再生)を印象付ける舞台演出になっており、憂鬱と官能が複雑に交錯しているようなドラマチックな音楽が展開されて、ジャスの存在の二重性が交錯しながら1つの人格を形成していることが巧みに表現されていたように感じられました。上記のブログの枕でも触れましたが、地の女神(自然、大地母神)は破壊(奪う)と再生(与える)の象徴とされており、ジェスもドローン操縦士(破壊)と母(再生)という矛盾する2つの存在を生き、その狭間で葛藤する姿が生々しく描かれており迫真に迫るものがありました。
 
第12場 使命感
ファゴットが提示したリズムがオーケストラ全体へと伝播しながら急き立てるような高揚感ある音楽が展開されるなか、ジェスはサーパントを殺害する使命感から徐々に憎しみの感情に支配されていきました。その一方で、ジャスはドローン攻撃の重圧(罪の意識)を払拭することができずに精神的に追い詰められて行く様子がE.ダンジェロさんの好演によって巧みに表現されていました。
 
第13場 自己崩壊
エリックはジェスが精神に異常を来していることに気付いてパイロットスーツを脱ぐように優しく歌い掛け、エリックが大きな愛でジェスを包み込んでいるような包容力のある二重唱が出色でした。ジャスは寝室で寝ている娘サムを抱きしめると「ブルー」(破壊)から「ピンク」(再生)に彩られていきましたが、依然として、ジャスは矛盾した感情を抱え込んだままであることがピアノの不協和で暗示されているように感じられました。ジェスは家族に癒されながらパイロットスーツを脱ぐ決意をしますが、エースパイロットとして培われてきたジャスのアイデンティティが崩壊しそうになり精神が不安定になっていきました。
 
第14場 自己矛盾②(破壊<再生)
舞台の二階(ドローン操縦室、破壊)にはもう一人のジェス、舞台の一階(家、再生)にはジェスが登場して、この二人の二重唱でジェスの揺れ動く心情が歌われました。第11場と第14場ではジャスともう一人のジャスの立ち位置が逆転しており、ジャスの真意が舞台の二階(ドローン操縦室、破壊)ではなく舞台の一階(家、再生)へ傾いてきていることを暗示している演出に感じられました。E.ダンジェロさんとE.ディーンさんの声質は親和性があり、能「二人静」よろしく本来は相容れない存在であるはずの2つの姿(破壊と再生など)が1つの姿として重なり合っているような風趣を感じさせる(幽玄とは言いませんが)精妙な舞台になっていました。
 
第15場 アイデンティティの回復
舞台の二階(ドローン操縦室、破壊)にジェス、もう一人のジェス、センサー、合唱が登場し、緩急を繰り返す高揚感のある音楽が展開されるなか、ジェスはサーパントを発見してドローンで爆撃すべく操縦桿を握りますが、突然、サーパントのもとに娘サムと同じ年くらいの女の子が駆け寄ってくる姿がモニターに映し出され、ジャスは女の子を救うために故意にドローンを墜落させました(2回目のグラウンデッド)。非常に密度の濃い緊迫した音楽(憎しみ、罰)が展開されてきましたが、一転して癒しの音楽(共感、許し)へと変わり、ジャスの母性が感じられる叙情豊かな歌唱は恍惚感を覚える美しさを湛えており出色でした。しかし、突如、パイロット82のドローンが現れてサーパントを爆撃し、LEDスクリーンは真っ白な光に包まれました。過去のブログ記事で人間が「憎」の感情を抱くときは「対象」を動物などに擬制することにより人間らしいイメージを払拭して「共感」の働きを抑制することにより「対象」への敵意や暴力を正当化する心理プロセスが働くと述べましたが、現代は「対象」を動物などに擬制するまでもなく遠隔地からモニターすることにより「対象」がバーチャルな存在(TVゲームなど)に擬制されてしまう時代ですが、ジャスは母(再生のメタファー)となって教養が磨かれ、豊かな知性を身に着けたことでモニターの向こう側に広がるリアルな存在に気付いて「憎」の感情を克服する姿が描かれているように感じられ、リアルとバーチャルのハイブリッドな世界に生きる現代人にとって深いテーマ性を備え、現代の時代性に共鳴するオペラと言えるかもしれません。
 
第16場 ジャスの再生
軍事法廷で戦争犯罪を問われることになったジェスは「グレー」の壁に囲まれた独房に囚われていますが、ジャスは「グレー」(「ブルー」(破壊)から「ピンク」(再生)へ転換して「グレー」(罪人)になること)を選択したことで自分のアイデンティティを取り戻し、再び、心が自由になったことを歌って終演になりました。いつもメットのカーテンコールを見て感じることですが、メットは本当に観客から愛され、劇場と観客が一体になって新しい芸術を育んでいることが実感されるので、本当にうらやまい限りです。ヴラヴィー!!
 
なお、全体を通して、J.テリソさんの音楽は大変に着想が豊かで筆致に優れた珠玉のピースに溢れる魅力的なものでしたが、やや場面展開が早く、折角の珠玉のピースを十分に堪能する間もなく曲調が目まぐるしく変わっていたように感じられ、もう少したっぷりと音楽を聴かせて欲しかったという憾みが残りました。また、本日の舞台演出でLEDスクリーンが利用されていた関係なのかサイド席には観客を入れられなかったようですが、昔ながらの劇場(メットは馬蹄形)のスタイルでは新しい芸術表現に十分に対応することが難しくなっているように感じられ、新しい時代の新しい芸術表現にも対応できる劇場(演奏会場を含む)と設備が求められる時代になっているように感じます。
 
 
▼「笙|SHO」トーク+ミニコンサート
【演題】「笙|SHO」トーク+ミニコンサート
【演目】①石田多朗 Cado
    ②J.S.バッハ 平均律クラヴィーア第1巻
           前奏曲とフーガ第24番より(石田多朗編曲)
    ③古典雅楽 盤渉調調子(石田多朗編曲)
    ④東儀秀樹 光り降る音
    ⑤宮田まゆみ SHO PRACTICA
    ⑥古典雅楽 太食調調子(石田多朗編曲)
【演奏】<笙>中村華子
    <Key>石田多朗
【対談】石田多朗(作曲家)
    中村華子(笙演奏家)
    ささきえり(イラストレーター)
    石尾一輝(写真・映像作家)
    青柳厚子(クリエイティブ・ライター)
【日時】2024年12月15日(日)14:00~
【会場】那須塩原市図書館みるる
【一言感想】
先日、エミー賞を受賞した映画「SHOGUN 将軍」のサウンドトラックが2025年2月に発表される第67回グラミー賞最優秀映像作品サウンドトラック部門作曲賞にノミネートされました。因みに、最優秀ニューエイジ・アンビエント・チャント・アルバム部門には坂本龍一さんの「Opus」もノミネートされています。このサウンドトラックは、ニック・チューバさん、アッティカス・ロスさん及びレオポルド・ロスさんが作曲を担当し、日本から石田多朗さんがアレンジャーとして参加して雅楽や日本の伝統音楽に関するアレンジやレコーディングなどを手掛けています。グラミー賞はノミネートされるだけも大変に名誉なことなので、心から祝意を述べたいと思います。その石田多朗さんが手掛ける最新作「陵王乱序|ANJO」が2025年1月(栃木)及び同3月(東京)に公演される予定がありますので、これは絶対に見逃せません。また、それに先立って12月3日、同4日、同15日に那須塩原市図書館みるるで石田多朗さんらによる「笙|SHO」の特別展示、トーク及びミニコンコンサートが開催される予定がありますので、こちらも見逃せません。12月3日、同4日は平日なので参加できませんが、同15日は休日なので久しぶりに那須塩原を満喫がてらことりっぷしてみようかと目論んでいます。楽しみ!来年に公演される「陵王乱序|RANJO」(僕は3月の東京公演に参加予定)の前哨戦として、イヴェントの参加後に簡単に感想を書いてみたいと思いますが、イヴェントの宣伝のために予告投稿しておきます。
 
ーーー>追記
 
作曲家・石田多朗さんの音楽観を探るべく、JR宇都宮線の黒磯駅前にある「マルチモダールなことばの森」というコンセプトの那須塩原市図書館みるるに初めて伺いましたが、正面を設けない多面的な建物構造によって来館者の視線や動線を自然に泳がせて新たな発見を促し、多様な視点を育むことを意図したものに感じられ、また、様々なボーダーを取り除くことでエコトーンを仕掛ける目論見も感じられて非常に興味深かったです。また、黒磯駅から板室温泉に至る板室街道(県道365号線)をART369と位置付けてオルタナティブ・モデルで多様なアートを発信するなど、自由で柔軟な発想を育む創造性豊かな街作りにも取り組まれており目を見張るものがありました。本日は、那須塩原市立図書館みるるの「マルチモダールなことばの森」の空間を活かして、「笙|SHO」の特別展示、トークとミニコンサートが開催されましたので、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。なお、開演1時間前に石田さんと中村さんによるプレ・ミニコンサートが開催されましたが、中村さんが笙を演奏しながら那須塩原市立図書館みるるの館内、即ち、「ことばの森」を歩き回りました。和音楽器である笙は自然や宇宙などを連想させる大きな広がりを感じさせる楽器で、山や森、空などの自然や宇宙などを感じながらその音響に漂うと豊かな精神世界が拓けてくる感覚が得られますが、那須塩原市立図書館みるるの館内は森を散策しているような解放的な気分に浸れ、また、天井まで続くガラス窓が張り巡らされた大きな開口によって内と外を仕切らない開放的な空間が生まれ、殺生石がある三本槍岳など那須塩原市の豊かな自然や高層ビルで遮られることのない雄大な空を借景にして笙の魅力を堪能できました。
 
◆ミニコンサート
 
①石田多朗 Cado
先ずは名詞代りとして、石田さんが作曲した空気清浄機メーカー「カドー」のCM音楽が演奏されました。雅楽のピッチは430Hzなのでピアノの調律に馴染まないことから、本日はキーボードで演奏されましたが、音が空中をふわふわと舞っているような軽やかで清潔感のある音楽を楽しめ、心まで清浄されてしまいました。
 
②J.S.バッハ 平均律クラヴィーア第1巻
               前奏曲とフーガ第24番より(石田多朗編曲)
③古典雅楽 盤渉調調子(石田多朗編曲)
この2曲が続けて演奏されましたが、個人的には、笙が自然美を体現する音楽であるであるとすれば、平均律クラヴィーアは人工美を体現する音楽であるというイメージを持っており、その意味ではこれらは対照的な音楽と言えるかもしれませんが、まるでお香が空間に広がって行くように1音1音の響きを薫き染めるようなゆったりとした演奏によって、音が文脈から解放され、その後に演奏された笙とシームレスに音楽的な世界観が繋がる興味深い演奏を楽しめ、音楽まで清浄されているような感覚に浸れました。
 
④東儀秀樹 光り降る音
東儀秀樹さんが絵本作家のかんのゆうこさんの絵本「光り降る音」にインスピレーションを受けて作曲した曲だそうです。笙はイリアンパイプやハーモニカなどに似た特徴的な音響が魅力ですが、和音楽器の特徴を活かしながら旋律楽器としての笙の表現可能性を感じさせる魅力的な音楽を楽しめました。
 
⑤宮田まゆみ SHO PRACTICA
宮田さんが作曲した笙の運指のための練習曲(ヴァイオリンのセヴシックやピアノのバイエルのようなもの)だそうですが、電子音のような無機質な音響が特徴的で、それでいながら音楽表現は無機質になることなく、諧謔に満ちた遊び心溢れる魅力的な音楽に感じられました。今日はちびっ子の姿もありましたが、音楽朗読劇(紙芝居など)にも使える楽器のように感じられます。
 
⑥古典雅楽 太食調調子(石田多朗編曲)
笙の和音でキャンバスを作り、そこへキーボードが抽象的な音のイメージを置き添えて行くようなイメージの音楽に感じられ、バックスクリーンに映し出されたささきさんのイラストの世界観とマッチして面白く感じられました。
 
◆特別展示
◆トーク
石田さんは音大卒業後に雅楽に興味を持って研究しているそうですが、音大で学んでいたクラシック音楽は主に感情を表現対象にする人から人へのメッセージであるのに対して、雅楽は主に自然を表現対象にする人から神へのメッセージである点に特徴的な違いがあり、その魅力に惹かれたという趣旨のことを語られました。石田さんは映画「SHOGUN 将軍」のスタッフから笙にはコード(音楽的な文脈)がないのにどのようにして音楽が成立するのかと興味を持たれることが多かったそうですが、石田さんは海が人に対するメッセージ性を持っていないのに人は海を見て感動するのと同様の魅力が雅楽にはあるのではないかという趣旨のことを語られていたのが印象的でした。上記のアヌーナ公演の感想でも述べましたが、雅楽は、聴衆が作曲家の表現意図を探りながら共感するエンパシーというよりも、聴衆が自らのプロジェクションを音楽に投射しながら共感するシンパシーを特徴とする音楽であるという趣旨と理解しました。その意味で音楽的な文脈を持たない雅楽は多様性の時代を背景として多様なナラティブを生きる人々が共感し易い大きな器(スクリーン)になり得る音楽性を持っていると言うことができるかもしれません。石田さんは中国の笙は楽器が大きくなる方向に発展しましたが、これとは逆に、日本の笙は17本のリードのうち実際に演奏に使用するのは15本のリードだけであり2本もリードを減らした理由について考察されていましたが、侘び・寂びの美意識、能楽や日本画などと同様にマイナスの美学に由来するものかもしれないと興味深く拝聴しました。20世紀は現代音楽を含めて複雑なものが優れたものであるという偏向した認知バイアスに踊らされ、その方向に振れ過ぎた時代ということができるかもしれません。中村さんは笙を演奏するときは、木のエネルギーを吸い上げて、そのエネルギーを吐き出しながら演奏し、大きな自然の中で「循環」しているイメージを持っているという趣旨のことを語られていましたが、上記のブログの枕でも触れた古代の死生観(蛇を頭に乗せた土偶ウロボロス)や、現代の科学的な知見から見た生命現象(べリクソンの弧)にも通じる大きな世界観を持っているように感じられました。「笙|SHO」の特別展示では上述のイメージをデザインしたイラスト(左上のフライアーのイラストを含む)が展示され、中村さんによる笙の演奏(録音)が流されていましたが、視覚及び聴覚から笙の世界観を感じる音場が演出されており、また、那須塩原市図書館みるるのコンセプトに寄り沿うように(ちびっ子がいて読めませんでしたが)アフォリズムの展示なども行われており、もう少し時間があればじっくりと味わってみたい充実した展示になっていたと思います。なお、個人的な所感として、科学は自然を研究する学問であり、人間の知覚だけに頼るのではなく自然を正しく記述するために自然と真摯に向き合うもの(科学 ≒ 自然)であるのに対し、芸術は脳が神や自然などを含む表現対象を認知して人工的に創り出したイメージ(芸術 ≠ 自然)を人間が知覚し得る方法で表現するものであるということを忘れない謙虚さが求められる時代になっていると思います。その意味で、本来、自然を表現するということは科学的な世界観(環境世界)に近づくということであって、人間の感覚や感性だけに頼るということは人工的な世界観(環世界)に埋没し、(意識的であれ、無意識的であれ)人間中心主義的な世界観から逃れられない側面があるように思われます。そのことを坂本龍一さんは時間芸術の観点から問題提起されていましたが、本当に惜しい人を早く亡くしてしまいました。近年、芸術が自然を表現するために科学に接近しているという話をよく耳にしますが、笙はそのような芸術表現を可能にする大きな器を持った楽器のように感じられます。
 
 
▼新作オペラブームの到来(鳥羽山紗紀の新作オペラ「歌麿の恋」と永井秀和の新作オペラ「足立姫」と木下牧子の新作オペラ「陰陽師」)
メトロポリタン歌劇場が精力的に新作オペラの上演を行っており、日本でも昨年の新作オペラ「ニングル」や来年の新作オペラ「女王卑弥呼」及び新作オペラ「ナターシャ」、再来年の新作オペラ「奇跡のプリマ・ドンナ」など新作オペラを上演する機運が高まってきている状況を心から歓迎したいです。年内にははなさきオペラ工房が鳥羽山紗紀さんの新作オペラ「歌麿の恋」を世界初演し、路地裏寺子屋が永井秀和さんの新作オペラ「足立姫」を再演し、また、来年早々には東京室内歌劇場が木下牧子さんの新作オペラ「陰陽師」を世界初演するというので、日程の都合が付く新作オペラ「足立姫」と新作オペラ「陰陽師」の2公演を聴きに行く予定にしています。また、今回は都合がつきませんので聴きに行くことができませんが、来年にはNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」が放送されますので、新作オペラ「歌麿の恋」が再演される機会に恵まれることを強く願います。なお、【新年の挨拶②】で新年の抱負を書く予定にしていますが、来年は21世紀に創作された「新作」(その再演を含む)に価値を置いて集中的にキャッチアップして行きたいと考えています。
 
▼2025年度武満徹作曲賞ファイナリスト決定
2025年5月25日(日)に開催予定の武満徹作曲賞の審査員でオーストリア人現代作曲家のゲオルク・フリードリヒ・ハースさんによる譜面審査(33ヶ国137作品)の結果、以下の4名がファイナリストに選ばれました。おめでとうございます。これだけの応募作品を1人で審査するのは相当に大変ではないかと思いますが、世界中から数多くの作品が応募されていますので世界レベルの権威ある作曲賞と言えるのではないかと思います。その意味でファイナリストとしてノミネートされるだけでも大変に栄誉なことではないかと思います。
チャーイン・チョウ(中国) 潮汐ロック
我妻 英(日本) 管弦楽のための「祀」
金田 望(日本) 2群のオーケストラのための「肌と布の遊び」
フランチェスコ・マリオッティ(イタリア) 二枚折絵

女性と音楽研究フォーラム結成30周年記念「今、聴きたい女性作曲家たち」(女性作曲家を聴く・その10)と藝大プロジェクト2024第2回「日本が見た西洋音楽」と新作ミュージックシアター「Silver Mouth」(青木涼子、ジェイムス・ハリック/JOLT Arts)とイギリス歌曲リサイタル「ウィリアム・アダムス。またの名を三浦按針」と「疲」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼「疲」(ブログの枕)
11月1日は「いい医療の日」だそうですが、「医療」が目指す「健康」とはどのような状態を意味しているのかを紐解いて見ると、「健康とは、肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」(WHO憲章)という非人間的な定義が掲げられており、この定義に従う限り真っ当な社会生活を営む全ての人間は概ね不健康であるという帰結になりそうなのであまり参考になりません。この点、「病気を診る西洋医学、病人を診る東洋医学」と言いますが、それぞれの良い面を包含して「健康とは、病気その他の心身の異常がなく、心身の自然なバランスが保たれている状態」(医学の父・ヒポクラテス(BC400)の健康哲学/ヒポクラテス全集)という身の丈に合った再定義を心積もっておく方が地に足の着いた健康管理ができそうな気がします。一般的に、人間の「健康状態」には「健康」→「未病」→「疾病」の3段階があり、それに対する「医療」には「予防」と「治療」の2種類がありますが、「未病」及び「疾病」の予防(一次予防:健康管理)と「疾病」の治療(二次予防:疾病悪化の予防と三次予防:合併症の予防を含む)の各段階に応じて、「本人」(予防)から「医師」(治療)へと徐々に比重がシフトして行きます。ここで「未病」という概念は中国最古の医学書「黄帝内経」(AD200)において病気に向かう状態(疾病には至らないが健康からは離れつつある状態)として登場し、それが貝原益軒の健康法「養生訓」に採り入れられていますが、自覚症状はないが検査では異常がある西洋型未病(例えば、高血圧や高コレステロールの生活習慣病など)と、自覚症状はあるが検査では異常がない東洋型未病(例えば、三大生体アラームの1つ「疲れ」など)の2種類が存在し、荷重労働、睡眠不足、運動不足、暴飲暴食、ストレスなどの生活習慣の乱れが主な原因とされていますので、未病を予防又は改善するためには生活習慣の見直し(健康管理)が重要になります。ここで未病の1つ「」という漢字は、垂の部分の「疒」が病人が寝台にぐったり座っている様子、旁の部分の「皮」が足を引きずり身体が傾いている様子を表す象形文字で、何ものかに取り憑かれて心身が重くなっている状態を意味しています。また、「疲」と似た「」という漢字は、垂の部分の「疒」は同じですが、旁の部分が「皮」から「丙」(「并」(併、並)の省略形で、「あわせる」「ならぶ」を意味)に転じて、何ものかに取り憑かれて心身が一層と重くなっている状態を意味しています。「病」に関連する「」という漢字は、垂の部分の「疒」は同じですが、旁の部分が「丙」から「矢」(「はやい」「きず」を意味)に転じて、何ものかに取り憑かれて心身に傷を負っている状態を意味しています。因みに、「疾患」という言葉がありますが、「」という漢字は、冠の部分の「串」が2つの貫かれた重しを表し、脚の部分の「心」と併せて、何ものかに取り憑かれて心を貫かれ憂いている状態を意味しています。この点、清少納言の枕草紙には「病は、胸。物の怪。脚の気。はては、ただそこはかとなくて、物食はれぬ心地。」(第188段)と記されており、さらに、紫式部の源氏物語には「おこたり果てたまひて、いといたく面痩せたまへれど、なかなか、いみじくなまめかしくて、ながめがちに、ねをのみ泣きたまふ。見たてまつりとがむる人もありて、「御物の怪なめり」など言ふもあり。」(第4帖「夕顔」)と記されていることから、平安時代には人間に病み憑く(場合によって死に至らしめる)「物の怪」の存在が観念されていました。果たして、「ものゝけ」の本義については「折口信夫全集第8巻(国文学篇2)」(中央公論社)に有名な論考が収録されていますが、それを敷衍すると、元来、「ものゝけ」とは「もの(=霊)」による「け(=疾)」の意味であり、「もの(=霊)」が人間の心身に這入る為に起こる患ひによって「け(=疾)」を生じることを「霊の疾」(物の怪)と言い、当初は「もの(=霊)」そのものよりも「け(=疾)」を物語る文脈で使われていましたが、徐々に「もの(=霊)」そのものを物語る文脈で使われるように変化したという論考が展開されています。当時の医学(科学)では解明できなかった疾病について、日頃の不行状が「もの(=霊)」を呼び寄せて「け(=疾)」を生じるという豊かなイマジネーションを働かせて説明しようと試みていた夢見心地の時代であったと言えるかもしれません。過去のブログ記事で触れたとおり「怒」「憎」「恨」「忙」などの漢字は不幸な状態(何らかの原因で心(脳)が滞って余裕がなくなり「幸」が侭ならない状態)を意味していますが、昔から「流れる水は腐らない」と言われているとおり、これは心(脳)にも同じことが言え、(それを「霊」と観念するかは別としても)何ものかに取り憑かれて「疲」が溜まり(流れ去らずに滞り)、それに「患」わされて「病」へと進行するものなので、常日頃からそうならないために「疲」を発散する(取り去って流す)ように心掛けること(健康管理)が重要になります。「疲労」は、心身の過負荷により生じた「心身の機能低下や障害」とそれを不快と感じる「疲労感」から構成され、ホメオスタシス(人間が生命を維持するために心身の機能や状態を一定に保とうとする恒常性)を保つために発せられる三大生体アラーム(疲労は発熱や痛みと並んで脳がそれ以上の活動を制限し、休息するように促すために送るシグナル)に数えられています。このうち、心身の過負荷により生じた「心身の機能低下や障害」は分子生物学の分野で研究が進んでいますが、「疲労感」は科学的な解明が十分に進んでおらず、今後の研究課題になっています。人間は疲労感により疲労が蓄積していることを自覚して休息をとりますが、意欲、達成感や責任感などが疲労感を隠し(疲労感のマスキング)、疲労を十分に回復しないままで疲労が蓄積される状態が6ケ月以上継続すると疲労が回復しない「慢性疲労」に陥り、各種の疾病、うつ病や過労死などの原因になる(慢性疲労は疾病などへ移行する予知因子)と言われています。日本人には疲労感のマスキングに陥り易いセンチメンタリズムな気質があり、それが慢性疲労から過労死を招く顕著な症例を多発させて国際語「KAROSHI」(オックスフォード英語辞典)まで生んでいますが、疲労やリスクをゼロにすることは現実的に難しいのは当然として、疲労やリスクは「テイク」するものではなく「コントロール」するものであるという知性を持つことが重要です。現在、疲労を効果的に発散して溜めないようにコントロールする方法(健康管理)として休養学が注目を集めています。
 
▼健康状態と医療
健康状態 医療 主導
種類 内容
健康 一次予防
(健康管理)
未病の予防 本人
未病 疾病の予防
疾病 治療 疾病の治療 医師
二次予防 疾病悪化の予防
三次予防 合併症の予防
※最近では、社会保障給付費の削減などを企図して、健康指導など医師による予防医療(一次予防を含む)の取組みが活発になっています。
 
▼三大生体アラーム
健康状態 アラーム 意義 医療
未病 疲労 身体に休息の必要があることを知らせるための警告信号 予防
疾病 発熱 身体に感染や炎症があることを知らせるための警告信号 治療
痛み 身体に損傷や異常があることを知らせるための警告信号
※疲労を感じることを疲労感と呼び、疲労感が続くことを倦怠感と呼びますが、倦怠感(疲労)は痛みと並んで多いプライマリーケア(総合診療)の主訴になっていると言われています。この疲労感や倦怠感が6ケ月以上続くことを慢性疲労と呼び、これを放っておくと急性又は慢性の疾病やうつ病、過労死などの原因になると考えられています。
 
日本リカバリー協会が公表しているデータによると、日本人の約80%が何らかの「疲労」を感じており、そのうちの半数にあたる約40%が「慢性疲労」(半年以上疲労が持続している状態)を感じているという調査結果があり、コロナ禍後に働き方改革が停滞していることも原因してか、令和5年度の過労死等に係る労災の請求件数及び支給件数は前年度比で20%増加するなど高い水準で推移しています。また、慢性疲労により日常生活に支障を来して不登校などに陥っている「小児慢性疲労症候群」(未病)も増加傾向(小中学生の2%、高校生の5%、大学生の10%)にあり社会問題になっています。このように人間の活動や生活を停滞又は破綻させる疲労のメカニズムを(科学的に解明されている範囲で)簡単に紐解くと、疲労はエネルギーの枯渇や(筋肉を挫滅させるような激しい運動を除き)筋肉、内臓、血液や呼吸に対する組織的な影響などにより生じることは滅多になく、環境要因(心身への過負荷など)、疾病要因(がんや風邪などによるホルモン異常など)や老化要因(抗酸化酵素の機能低下など)などをトリガーとして脳の自律神経の中枢(視床下部、前帯状回などの生体機能の維持を司る部位)の処理が増大することで「活性酸素」が発生し、それが脳の自律神経の中枢の機能を低下させて「疲労脳」と呼ばれる状態に陥って、脳が「疲れた」というシグナルを脳の前頭葉腹側面下部(眼窩前頭野)に送り心身の「疲労感」(疲れた、飽きた、眠いなどの諸症状)として自覚させて活動を休止して休息するように促します。この点、過去のブログ記事でも触れましたが、太古の昔、生物の祖先は水素をエネルギーにしていましたが、その後、光合成から得られる糖をエネルギーにする植物の祖先(二酸化炭素及び水を太陽光で分解して糖を生み出し、その副産物である酸素を輩出)が誕生して地球上の酸素濃度が上昇したことで、地球上の生物は絶滅の危機に瀕しました(酸素ホロコースト:活性酸素は物質を酸化して錆びさせる性質があり、現在でも活性酸素は老化の原因)。この環境変化に適応して酸素を採り入れて他の生物から摂取した糖を酸素で分解してエネルギーに転換できるように進化した動物の祖先が誕生しました。通常、酸素は糖を分解してエネルギー(ATP)と水を生成しますが、偶に、不完全な電子と結び付いて水になりきれずエネルギー(ATP)と「活性酸素」を生成してしまうことがあります。このように活性酸素は不完全な電子と結び付くことで不安定な状態にあるので安定を取り戻そうと細胞などの分子を構成している他の原子(原子核)の周囲に漂う電子を奪う化学反応(細胞が酸化して錆びる現象)を引き起こす反応性(活性)が高い物質になり、これによって電子を奪われた他の原子も不安定になってその機能を低下させると共に安定を取り戻そうとさらに別の原子(原子核)の周囲に漂う電子を奪うようになり、それがゾンビのように全体に連鎖して細胞などの分子や細胞で組成されている組織の障害を引き起こし、やがて疾病、うつ病や過労死などの原因になることが分かっています。人間が呼吸して採り入れた酸素のうち約1~2%は活性酸素に変化すると言われていますが、その活性酸素を「抗酸化酵素」で水と酸素に分解して活性酸素の活動を抑制しています。しかし、環境要因や疾病要因などにより抗酸化酵素の防御力を上回る活性酸素が発生し又は老化要因などにより抗酸化酵素の機能が低下すると、活性酸素の活動を十分に抑制できなくなり疲労が蓄積していきます。この点、過労死する動物は人間だけだと言われていますが、上述のとおり人間は他の動物と比べて意欲、達成感や責任感などを司る前頭葉が発達したことから、脳が「疲れた」というシグナルを眼窩前頭野に送っても「疲労感」を隠してしまうことがあり(疲労感のマスキング)、「疲労感なき疲労」が蓄積して過労死に至ることがあると言われています。因みに、カフェイン(コーヒーやエナジー・ドリンクなど)を過剰に摂取すると疲労感のマスキングにつながる可能性がありますので注意が必要です。このため、1993年にEUで発令された「勤務時間指令」で24時間のうち11時間は休息時間をとらなければならないと定められ、これを参考にして日本でも「勤務間インターバル」という勤務制度を数多くの企業が導入しています。疲労があるときに集中力を高めて更に何かに打ち込むと疲労が蓄積し易いと言われており、疲れた、飽きた、眠いなどの生体アラームを自覚したときは、これに逆らわずに活動を休止して休息すること(短期的な心身の活動の休止)が大切ですが、「疲労感なき疲労」を発散して蓄積しないようにするためにはより戦略的な休養をとること(疲労を発散して心身をリフレッシュする長期的な活動)も大切になってきます。この点、休養には「パッシブ・レスト」(蓄積した疲れをとるために、心身を働かせずにリラックスする方法)と「アクティブ・レスト」(疲れが蓄積しないように、軽い運動やストレッチなど心身を動かして疲労を発散させる方法)の2種類があると言われており、心身の健康状態に応じた休養を取ることで疲労を効果的にコントロールすることが可能になります。また、2004年から厚生労働省及び農林水産省が参加する産官学連携で「森林セラピー」の効果を科学的に検証し、予防医療に役立てようとする研究が行われており注目されています。この点、森林の「ゆらぎ」がリフレッシュ作用をもたらすことで副交感神経を優位にして脳疲労を軽減すること(即ち、脳の活動が低下して活性酸素の発生を抑制すると共に、抗酸化酵素の働きが活発化して溜まった活性酸素を効率的に分解すること)が分かっています。この「ゆらぎ」とは、木漏れ日の輝き、体を伝う微風、川の潺、鳥の鳴き声、滝ツボから舞い上がる細かい水の粒子、温度、湿度、風向などが微妙に変化することを意味し、その微妙なズレを生じる「不規則な規則性」(前回のブログ記事で触れた混沌から生じるフラクタルも同様)を特徴とする諸現象のことを言いますが、森林の「ゆらぎ」と人体の「ゆらぎ」がシンクロすることで上述のリフレッシュ作用をもたらすと考えられています。これは量子力学における「量子ゆらぎ」と同じことを意味していると思いますが、万物は粒子でもあり波でもあると考えられており(波動粒子二重性)、生命を育む有機物を豊富に湛えている森林の「ゆらぎ」(波動)が都会生活などで乱れた人体の「ゆらぎ」(生命現象の波動)を整えてくれる作用があるのかもしれません。公共施設(オフィスや学校などを含む)や居住空間は照明、温度や湿度などを一定に保つために「ゆらぎ」がない空間に設えられることが多いですが、最近では、「サーカディアンリズム」(朝、昼、夜で光調、温度や湿度などを変化)を採り入れて公共施設(オフィスや学校などを含む)や居住空間に自然環境に近い「ゆらぎ」を再現することが見直されています。因みに、夜間のスマホライトはこのリズ厶を乱して副交換神経の機能を低下させる可能性がありますので注意が必要です。体を休ませていても脳を休ませなければ、疲労は蓄積される可能性があります。さらに、植物の緑葉成分からなる「緑青の香り」(青葉アルコールや青葉アルデヒドの香り)には抗疲労効果があることが科学的に確認されており、茶香炉やお茶アロマによる「リラックス」の演出などが注目されています。人間は疲労の分だけパフォーマンスが落ち、それが負のスパイラルを生んで、やがてバーン・アウトと呼ばれる状態(燃え尽き症候群)に陥ると言われていますが、「埃が溜まってからするのが掃除ではなく、埃が溜まらないようにするのが掃除である」という掃除の格言と同様に、慢性疲労に陥ると疲労が回復しなくりますので疲労が溜まる前に疲労を発散することが効果的であり、守りの休養(溜まった疲労を取るための休養)から攻めの休養(疲労が溜まらないように発散するための休養)が重要と言えるかもしれません。「掃除」と同じく「休養」が「急用」にならないように常日頃から「埃」も「疲れ」も溜めない心掛けが肝要です。
 
▼疲労の要因となる因子
要因 因子 予防
環境 心身への過負荷など
疾病 がんや風邪によるホルモン異常など
老化 抗酸化酵素の機能低下など
 
▼疲労と健康状態の変化
ステージ 健康状態
負荷 健康
環境要因、疾病要因、老化要因など
蓄積   未病
心身の
機能低下
疲労、倦怠 睡眠の質の低下
心身の
障害
慢性疲労 睡眠障害
発症 疾病
 
▼疲労を発散する休養
休養の種類 休養の内容
パッシブ・レスト 睡眠、読書、瞑想、アロマセラピー、映画鑑賞、音楽鑑賞、マッサージ、入浴など
アクティブ・レスト 散歩、軽いジョギング、ストレッチ、マッサージ、入浴など
※マッサージや入浴(エナジー風呂)は攻守のバランスのとれた休養と言えるかもしれません。
※一般に、音楽を聴くことは心身をリラックスさせる効果があるパッシブ・レストに分類されますが、例えば、クラブミュージックや一部の現代音楽は、脳が複雑なリズム、独特の音響効果、音の変化や力強いビートなどの情報を処理するために負荷がかかることがあり、却って、これらの音楽を聴くことで疲労が溜まる人がいると言われています。但し、そのような複雑な音楽でも「心地良い」と感じることができれば、脳がドーパミンやエンドルフィンなどのポジティブなホルモンを分泌して疲労を軽減させることがあると言われています。
 
▼今、聴きたい女性作曲家たち(女性作曲家を聴く・その10)
【演題】女性と音楽研究フォーラム結成30周年記念
    今、聴きたい女性作曲家たち(女性作曲家を聴く・その10)
    ~歌とピアノ、ヴァイオリンで綴る多彩な響き~
【演目】<歌曲>
     ポリーヌ・ヴィアルド(~1910年) 
      ①ヴィアドル夫人のアルバムより
       第1曲 山の子
       第2曲 礼拝堂
      ②6つのメロディーより
       第6曲 カディスの娘たち
      ③6つのメロディとハバネーズより
       第4曲 アイ・リュリ!
      ④フレデリック・ショパンの6つのマズルカより
       第3曲 愛の嘆き
       第2曲 私を愛して
     金井喜久子(~1986年) 
      ⑤ハイビスカス(作詞:川平朝申)
     渡鏡子(~1971年) 
      ⑥わがうた(作詞:北原白秋)
      ⑦祭のまへ(作詞:北原白秋)
     吉田隆子(~1956年) 
      ⑧組曲「道」より手(作詞:小倉雪江)      
      ⑨君死にたまふことなかれ(作詞:与謝野晶子)
    <ピアノ作品>
     ポリーヌ・ヴィアルド(~1910年) 
      ⑩ガボット
     セシル・シャミナード(~1944年)
      ⑪エール・ド・バレエ
     リリ・ブーランジェ(~1918年)
      ⑫明るい庭から
     ナディア・ブーランジェ(~1979年) 
      ⑬ピアノのための3つの小品より第1曲、第2曲
     グラツィナ・バツェヴィチ(~1969年) 
      ⑭ピアノ・ソナタ第2番より第1楽章
    <ヴァイオリン作品>
     幸田延(~1946年) 
      ⑮ヴァイオリンソナタ第1番変ホ長調
     吉田隆子(~1956年)
      ⑯お百度詣
     レベッカ・クラーク(~1979年)
      ⑰真夏の月
【演奏】<Mez>水越美和①②③④
    <Sop>梅野りんこ⑤⑥⑦⑧⑨
    <Pf>宮﨑貴子①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭
        蓼沼明美⑮⑯⑰
    <Vn>沼田園子⑮⑯⑰
【日時】2024年11月17日(日)14:00~
【会場】白寿ホール
【一言感想】
国立音大教授で「女性作曲家列伝」の著者でもある小林緑さんと音楽評論家の谷戸基岩さんの夫妻が17年前に開催した「女性作曲家音楽祭2007」を聴きに行った記憶がありますが、1993年に小林さんが設立した女性と音楽研究フォーラムの設立30周年を記念して「今、聴きたい女性作曲家たち」と題する興味深い演奏会を開催するというので聴きに行くことにしました。一般に知られている最も古い女性作曲家としてはG.カッチーニの娘のF.カッチーニの名前を挙げることができると思います。歴代の女性作曲家についてはアーロン・コーエン編「国際女性作曲家事典」に詳しいですが、第二次世界大戦まではクラシック音楽界は男性中心社会で女性作曲家の活躍の機会がなく、そのような状況下で歴史に埋もれることなく作品が残り続けてきた女性作曲家は大変に希少な存在です。過去のブログ記事でも触れましたが、第二次世界大戦後に女性作曲家のK.サーリアホさんやO.ノイヴィルトさんなどの世界的な活躍、P.ゲルブ総裁が率いるメトロポリタン歌劇場(今シーズンで2人目の女性作曲家の作品を公開)などの並々ならぬ尽力や30年に及ぶ女性と音楽研究フォーラムの活動成果などにより徐々に女性作曲家の地位が確立し、現代では女性作曲家が男性作曲家を凌ぐ活躍を見せるようになり、漸く音楽を含む芸術作品に性別、人種や国籍などのハードルがなくなりつつあることが実感される時代になったと思います。この演奏会では存命中の女性作曲家の作品は採り上げられていませんが、女性作曲家の来し方行く末に思いを馳せてみたいと思います。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。

――>追記
 
非常に演目数が多いので、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。なお、本日は19世紀半ばから20世紀半ばに活躍した女性作曲家の作品に焦点をあてた大変に貴重な演奏会でしたが、是非、次回は1980年代以降(とりわけ21世紀)に世界中で活躍している存命中の女性作曲家の作品を採り上げる演奏会も熱望しています。
 
〇ポリーヌ・ヴィアルド(~1910年) 
スペイン人作曲家P.ヴィアルドの父母兄姉はすべてオペラ歌手という著名な音楽一家で、父はジョアキーノ・ロッシーニの肝煎りのテノール歌手としてオペラ「セビリアの理髪師」を初演し、また、兄は世界初の咽頭鏡を発明して著書「Hints on Singing」(邦題:ベルカント唱法のヒント)を残しています。P.ヴィアルドはフランツ・リストにピアノを師事していましたが、その後、オペラ歌手でデビューして人気を博し、女性作家ジョルジュ・サンドから紹介されたフレデリック・ショパンとも親交が深かったという華々しい経歴の持ち主です。①第1曲「山の子」はG.サンドに献呈された曲だそうですが、ブリリアントな高音が冴え映えとする歌唱と歯切れが良く弾性のあるリズミカルなピアノによって天真爛漫な子供の快活な雰囲気を伝える演奏を楽しめ、また、①第2曲「礼拝堂」はフランス人画家A.シェフェールに献呈されたそうですが、陰影を帯びた低音による悲しみを湛えた歌唱と彼方で響く教会の鐘の音を連想させる厳かなピアノの連打によって(A.シェフェールとは作風が違いますが)J.ミレーの風俗画「晩鐘」のような風情を感じさせる演奏を楽しめました。この2曲では水越さんが高音域から低音域までの幅広い音域を使いながら異なる曲調を表情豊かに歌い分けていましたが、P.ヴィアルドの姉マリア・マリブランはソプラノからアルトまでの幅広い声域を持つ歌手だったそうなので、それがP.ヴィアルドの作風にも影響を与えているのかもしれないと思いを巡らせながら聴き入りました。②第6曲「カディスの娘たち」はピアノがボレロのステップを刻みながら、その伴奏に乗せて小気味よく喉を使う軽快な歌唱でスペインの若い女性の自由奔放な生き様が表現されていたるように感じられ、P.ヴィアルドの人物描写や情景描写の巧みさが映える面白い曲でした。前二曲とは全く異なる曲調でP.ヴィアルドの音楽表現のバリエーションの豊かさに魅せられました。③第4曲「アイ・リュリ!」はP.ヴィアルドの次女に献呈されたそうですが、憂いを湛えた歌唱と色彩豊かなピアノのギャップによって恋に翻弄されながらも恋に夢見る乙女のデリケートな心模様が表現されているように感じられ、秋の空にピッタリな曲を楽しめました。④第3曲「愛の嘆き」はP.ヴィアルドが親交のあったF.ショパンの「マズルカ」第1番嬰へ短調をへ短調の歌曲に編曲したものですが、水越さんと宮崎さんの好演を得て、嘆きに満ちた心の綾を繊細に織り込んで行くような情感表現に優れた歌唱とその情感に仄かな色彩を添えて行く詩情豊かなピアノが有機的に絡み合う充実した作品に感じられました。④第2曲「私を愛して」はP.ヴィアルドがF.ショパンの「マズルカ」第23番ニ長調をイ長調の歌曲に編曲したものですが、ピアノがアゴーギクを効かせながらオテンバ気味にマズルカのリズムを華やかに奏で、その伴奏に乗せてオペラチックな歌唱に魅了され、徐々にテンポやデュナーミクを増しながら絢爛たるクライマックスを築いていく音楽はまるでベルカント・オペラを観ているような高揚感を覚えるものでした。F.ショパンはオーケストレーションを不得手としていたとようなので1人でオペラの作曲は難しかったかもしれませんが、この2人の共作でオペラを残して欲しかったと思えるような充実した作品に感じられました。
 
〇金井喜久子(~1986)
〇渡響子(~1974)
〇吉田隆子(~1936)
金井喜久子は日本人女性で最初に交響曲を作曲した方で、沖縄音楽の普及に尽力された方としても知られています。⑤「ハイビスカス」は初聴の曲でしたので、沖縄音楽のエッセンスを十分に聴き分けるまでには叶いませんでしたが、どこか沖縄の風情を感じさせる魅力的な曲でした。渡響子は執筆活動にも精力的でしたが、本日の2曲ともシラビック(メリスマのように1音節を複数の音高で歌うものではなく、(グレゴリオ聖歌などに見られるように聖書などの)言葉を明確に伝えるために1音節を1音高で歌うもの)で書かれた曲で、⑥「わがうた」はニュアンスに富んだ美しい伴奏が印象的な曲、⑦「祭のまえ」は祭り囃子を思わせる賑々しいリズムで日本情緒を感じさえる魅力的な曲でした。吉田隆子は反戦活動により思想犯として投獄の経験もある方です。⑧「手」は強い意志力のようなものを感じさせる曲、⑨「君死にたまふことなかれ」は(オペラ化の構想もあったようですが)ピアノが刻む重々しい低音が深い嘆きを表現しているようで、悲しみを湛えた与謝野晶子の反戦詩が情感豊かに歌われる印象的な曲でした。
 
〇ポリーヌ・ヴィアルド(~1910年) 
〇セシル・シャミナード(~1944年)
〇リリ・ブーランジェ(~1918年)
〇ナディア・ブーランジェ(~1979年) 
〇グラツィナ・バツェヴィチ(~1969年) 
P.ヴィアルドは上記で簡単に触れていますので紹介は割愛します。⑩「ガボット」は軽快で優雅な印象の曲で、可愛らしいステップを刻むチャーミングな演奏を楽しむことができました。C.シャミナードは500万部以上の楽譜を売り上げる当時人気の作曲家で、その人気に肖ってイギリスの化粧品会社であるMORNYが彼女の名前を付けた香水「CHAMINADE」まで発売しています。⑪「エール・ド・バレエ」はまるでバレエを鑑賞しているような描写表現の優れた曲で、プリエやタンデュなどのエクササイズやピルエットやフエッテのようなターンなどを随所に織り交ぜた臨場感ある曲に想像力を刺激されながら聴き入ってしまいました。彼女の曲を聴くと、何故、絶大な人気があったのか分かります。N.ブランジェは教育者として知られ、彼女に師事していたA.ピアソラは彼のアイデンティティを形成しているタンゴを大事にするように勧められ、その後の彼の成功を導いた話は有名です。⑬「ピアノのための3つの小品」より第1曲は小気味よいスタッカートによるリズミカルな曲調とテヌートによる思索的な曲調の間を揺れ動く印象的な曲、第2曲は杏仁豆腐のような後味の良さを感じさえる短い曲を楽しめました。L.ブランジェはN.ブランジェの妹で女性初のローマ賞の受賞者であり、G.フォーレやC.サン=サーンスなどからも高い評価を受けた逸材です。⑬「明るい庭から」は低声部の重厚な響きをキャンバスにして高声部が印象派の絵画よろしく夢心地に微睡むんでいるような幻想的な雰囲気を醸し出す美しい旋律に彩られたもので、非常に魅力的な曲に感じられました。G.バツェヴィチはA.シェーンベルクやA.ベルクの影響を受けて「今日完成したすべての作品は、明日には過去のものになります。」と看破する野心的な作曲家です。⑭「ピアノ・ソナタ第2番」より第1楽章はパンフレットにおいて「調性の離脱、楽器の特性を活かす書法、豊富なリズム・パターン」を特徴とすると解説されているとおり自在な曲調で、ダイナミックな精悍さとメカニカルな精緻さを併せ持ち、幅広い音域を縦横無尽に駆け巡りながら機械的で無機質な肌触りや神秘的でファンタジックな肌触りなど硬軟を織り交ぜた変化に富んだ語り口で、二度の世界大戦や世界恐慌などに揺れ動いていた当時の時代の暗部も感じられる多彩な曲調を楽しめました。古典(光(調性)の絶対性)と前衛(闇(無調)の絶対性)のどちらにも極端に偏向していないA.シェーンベルクやA.ベルクのようなバランス感覚を持った音楽家のように感じられます。これらの女性作曲家達の華々しい経歴を見ていると、今日の女性作曲家の社会的な地位の確立は、この時代の才能豊かな女性作曲家達が男性社会に分け入って金字塔を打ち立てる功績を残し続けてきたことに依るところが多いと実感されます。このことはその後の時代の女性作曲家達の活動の足場ともなり、現代では女性作曲家が男性作曲家の活躍を凌ぐ活躍を見せているまでになっていると共に、その多様性が性別、人種、国籍やジャンルなどを越えて変革を促すダイナミックな時代の潮流になっているように感じられます。
 
〇幸田延(~1946年) 
〇吉田隆子(~1956年)
〇レベッカ・クラーク(~1979年)
幸田延は妹の幸田(安藤)幸と共に日本におけるクラシック音楽の黎明期に活躍した草分け的な存在です。⑮「ヴァイオリンソナタ第1番」は明るく抜けるような清澄感のあるヴァイオリンと快活に躍動するピアノが印象的な第一楽章、抒情的に歌うヴァイオリンとピアノが印象的な第二楽章が演奏されました。久しぶりに楽器を素直に鳴らし切る弦楽曲を聴きました。吉田隆子は上記で簡単に触れていますので割愛します。⑯「お百度詣」は戦地に夫を送った妻の痛切な想いが込めれた曲で、ピアノが同じフレーズを繰り返すのはお百度を踏む様子を表現したものでしょうか、冒頭のインパクトあるヴァイオリンの重音と終曲のテンションの高い熱演は妻の心の慟哭を表現しているように感じられ、教科書の歴史には載らない市井の人々の肉声が文学や音楽などの芸術作品として受け継がれていることを実感させるもので感慨深いものがありました。ヴィオラ奏者兼作曲家として才能に恵まれたR.クラークはジェンダー・ギャップなどから殆どの楽譜が未出版のまま忘れ掛けられていましたが、1976年にラジオ放送局がR.クラークの特集番組を放送したことが契機となって注目されるようになりました。⑰「真夏の月」はヴァイオリンが神秘的な雰囲気を湛えながらニュアンス豊かに歌い、これにピアノのアルペジオが有機的に絡み合うバランスの良いアンサンブルで、音にドラマがあり、それがクライマックスに向かって高揚して行く構築感のある演奏を楽しめました。沼田さんは懐の深さを感じさせる安定感、信頼感のある演奏で楽器を丁寧に鳴らし切る美観極まる演奏が出色でした。
 
 
▼藝大プロジェクト2024第2回「日本が見た西洋音楽」
【演題】藝大プロジェクト2024第2回「日本が見た西洋音楽」
【演目】①信時潔 「いろはうた」(無伴奏合唱版)
    ②信時潔 「いろはうた」(チェロ、ピアノ版)
                (クラウス・プリングスハイム編曲)
    ③髙田三郎 「山形民謡によるバラード」(弦楽合奏版)
                          (岡崎隆編曲)
    ④クラウス・プリングスハイム 「山田長政」(小島夏香補作)
【演奏】<Bar>黒田祐貴(山田長政役)
    <Sop>松岡多恵(リカ役)
    <Sop>根本真澄(トカウハム役)
    <Vc>向山佳絵子
    <Pf>江口玲
    <Cond>安良岡章夫、谷本喜基(合唱)
    <Orch>東京藝術大学音楽学部有志オーケストラ、合唱
    <司会>片山杜秀、仲辻真帆
【日時】2024年11月23日(土)15:00~
【会場】東京藝術大学 奏楽堂
【一言感想】
藝大プロジェクト第1回は「西洋音楽が見た日本」がテーマになっていましたが、第2回は「日本が見た西洋音楽」がテーマになっており、古典派(第1回)から後期ロマン派(第2回)まで100年以上も時代が進み、それを更に100年後の時代に生きる我々が聴いてみようという好事家の集いです。今回は東京藝術大学(東京音楽学校)の作曲科を創設したクラウス・プリングスハイムと同時代の日本人作曲家である信時潔、髙田三郎の作品が演奏され、日本は西洋音楽をどのように受容、受肉したのかに迫るというコンセプトのようです。なお、1939年にクラウス・プリングスハイムが作曲した音楽劇「山田長政」は完全なスコアが現存していないことから、今回、現代作曲家の小島夏香さんが補筆完成した版が初演されるようなので大変に楽しみです。同じく山田長政を描いたものに遠藤周作の戯曲「メナム河の日本人」がありますが、誰か新作オペラに仕立てて貰えないかしら。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
―――>追記
 
最初に毒を吐いてしまいます。藝大プロジェクト第1回は200年以上前の大昔の音楽、その第2回は100年前の昔の音楽でしたが、上記の「今、聴きたい女性作曲家たち(女性作曲家を聴く・その10)」でも言及したとおり、是非、第3回目として1980年代以降(とりわけ21世紀)に活躍している存命中の作曲家による現代の価値観、人間観、自然観や世界観など(これらは直近25年間だけでも大きく変化)を表現する「新しい音楽」を採り上げる演奏会を設けて欲しかったという憾みが残ります。「過去」の研究やアーカイブの整備なども必要的な取り組みだと思いますが(日本では音源や楽譜を含むアーカイブの整備などは国立国会図書館が中心になって精力的に取り組んでいますが)、折角、未来創造承継センターという組織があるのであれば、「過去」ばかりに囚われるのではなく、「現在」「未来」を見据えた挑戦的な試みとして新しい芸術体験を提案できるような「芸」(草木を刈り取ること)ではなく「藝」(草木の苗を植えること)を体現する骨太な取組みにこそ期待したいと思っています。この点、藝大プロジェクト第1回及び第2回ともに忌憚ない感想を述べれば、歴史的な記録として貴重な機会ではありましたが、それらが体現している価値観、人間観、自然観や世界観などは時代錯誤なものであり、また、その音楽は藝大プロジェクト第1回の感想でも書いたとおり、故・湯浅譲二さんの言葉を借りれば「既聴感」(即ち、脳の認知パターンの予測と脳が実際に認知する結果との間の「差分」が殆ど感じられない状態)の枠を超えるものではなく現代人の耳には繰り返しの視聴が厳しいものと言わざるを得ません。今般、藝大の奏楽堂では集客施策として友人紹介キャンペーンが行われていたようですが、かつて藝大の奏楽堂でよくお見掛けした常連客の姿はなく、また、藝大プロジェクト第1回及び第2回ともに客入りは決して芳しいものとは言えず、(かなり厳しいことを書くようですが)現在の藝大のあり様が時代のニーズとマッチしなくなりつつあるのではないかと憂慮を覚えます。未来を担う後進を育成する教育機関であるからこそ、客が担ぎたいと思える神輿になれるように「変わらないために変わり続ける」努力が求められているような気がします。
 
〇「いろはうた」(無伴奏合唱版)
過去のブログ記事で五十音図を採り上げた際に簡単に「いろは歌」にも触れましたが、パンフレットには「日本語の発音を集成したもので、広く日本人に知られており、仏教の深い含蓄もあることなどから、信時はこの歌詞を「合唱の歌詞として最も望ましい条件を備えている」」として採用し、「東洋旋律の洋楽作法による合金化」(この曲の主題に用いられている東洋旋律とは雅楽の越天楽今様の旋律のこと)の試みとして、この曲が作曲されたことが解説されています。いろは歌と仏教思想に関しては、以下の囲み記事に簡単にまとめていますが、過去のブログ記事でも触れたとおり、「道」(=実践)の宗教である古神道から「教」(=言葉)の宗教である仏教(悟りの宗教)が日本に普及して行くにあたり「いろは歌」が果たした役割は大きく、同じく「教」(=言葉)の宗教であるキリスト教(救いの宗教)がヨーロッパに普及して行くにあたり大きな役割を果たした讃美歌との融合を図った着眼点が非常に興味深く感じられました。冒頭でソプラノとアルトが主題を提示し、これにテノールとバスが歌い沿い、それらが合唱との様々な組合せと共に変奏されて行きましたが、奏楽堂の豊かな残響に澄み渡る透徹のコラール合唱が実に美しく声楽王国の異名を誇る東京藝大の面目躍如たる好演を堪能できました。聖書(キリスト教教義)の言葉を伝えるために生み出されたコラールの伝統を受け継いで、バロック音楽のような技巧的な装飾は排して中世の禁欲的でピュアーな音響を大事にしながら、いろは歌(仏教教義)の言葉が持つ響きの美しさを聴かせることに徹したようなポリフォニー音楽には、西洋音楽と真正面から向き合いながらその精髄を受容、受肉しようと心を砕いていた真摯な姿勢が滲み出ているようで好感しました。
 
● いろは歌に詠まれる仏教思想
この世の「悲しみ」(無常に対する執着)や「迷い」(煩悩)などの仏教思想について、十二音技法よろしく五十音図のヤ行の「イ」「エ」とワ行の「ウ」を除く47文字を一回づつ使って七五調の「いろは歌」が詠まれています。なお、いろは歌の作者は不分明ですが(空海?)、いろは歌を七行書きした末尾の文字をつなげると「とかなくてしす」(咎無くて死す)という暗号になっているとして様々に作者が憶測されています。
色は匂えど 散りぬるを
わが世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔いもせず
【意味】
桜花は(=色は)咲き誇っていても(=匂えど)、あっという間に散ってしまうのだから(=散りぬるを)、一体、この世の誰が(=わが世誰ぞ)、いつまでも変わることなくその栄華を保ち続けることができるでしょうか(=常ならむ)。
この変わり行く(=有為の)迷いの多い世の中を(=奥山)、今日こそは乗り越えよう(=今日越えて)、儚い夢を見ることもなく(=浅き夢見じ)、現実から目を背けることもなく(=酔いもせず)。
 
● 仏教真理(全ての人が本当の幸せになれる真理)
お釈迦さまが雪山童子という修行者であった時に、命と引き替えにして悟られた真理として伝えられています。
諸行無常 是生滅法
生滅滅已 寂滅為楽
【意味】
咲いた花がやがて散るのと同じように、生まれた人もやがて死ぬ。無常とは全てのものの免れぬ運命である。(諸行無常 是生滅法
悲しみ(無常に対する執着)や迷い(煩悩)という「輪廻」を超えて、何事にも執着するこなく全てをありのままに受け入れて安らぎ(解脱)を得る「涅槃」の境地を悟ることが大切である。(生滅滅已 寂滅為楽
 
〇「いろはうた」(チェロ、ピアノ版)
パンフレットには「編曲者の自筆とみられる楽譜には表紙に“Kiyoshi Nobutoki Irohauta Transcription for Violoncello and Piano by Klaus Pringsheim”とある。」と記載されています。K.プリングスハイムはミュンヘン大学で作曲、音楽理論やピアノを学び、その後、グスタフ・マーラーの薫陶を受けて、1931年から1937年まで東京音楽学校(現、東京藝術大学)で音楽理論などを教授していますが、その傍らで管弦楽曲の指揮なども行い、1937年にはJ.S.バッハのマタイ受難曲を日本初演しています。信時潔が作曲した無伴奏合唱版が東洋から西洋へのアプローチであるとすれば、それをK.プリングスハイムが編曲したチェロ+ピアノ版は西洋から東洋へのアプローチであるという趣きが感じられ、冒頭では日本情緒を感じさえるノスタルジックな曲調が採り入れられていますが、外連味のない端正な書法に徹した信時潔の無伴奏合唱版に対してK.プリングスハイムのチェロ+ピアノ版は和声を巧みに駆使して豊かな彩りを添える曲調で魅了するもので、同じ音楽素材を使いながら全く別の境地を示す器楽曲に昇華しています。西洋音楽の伝統の厚みを感じさせる優れた筆致には師匠としての風格のようなものが滲み出ているようであり、これも教授の一環として弟子が何かを学び取る契機になっていたということなのかもしれません(「優れた芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む」~P.ピカソ)。なお、幕間のトークで仲辻真帆さんの師匠である片山杜秀さんが、K.プリングスハイムから信時潔、髙田三郎ほかの作曲家へと受け継がれてきた日本における西洋音楽の系譜のようなお話をされていたのが非常に興味深く、是非、その研究成果をまとめて公表又は出版して頂けないものかと熱望します。
 
〇「山形民謡によるバラード」(弦楽合奏版)
パンフレットには「独特な節回しで方言に溶け合うような主題のメロディーは、山形県近江新田地域の子守歌」で、「「日本的和音を基とし、それに揺れを含ませる方法」が用いられている。」と解説されています。まるで子守歌を歌う母親の腕の中で揺られているような揺蕩う和声のなかを、ヴィオラ・ソロが提示した主題が他のパートへと順に受け継がれ、弦楽五部の音色のグラデーションが優美に絡み合うファンタジックな演奏に魅了されました。端正に織り込まれた長大なフーガで全曲が締め括られましたが、奏楽堂の豊かな残響も手伝って弦楽合奏の美観が際立つ演奏を堪能できました。
 
〇音楽劇「山田長政」
藝大プロジェクト第1回で高山右近、映画「SHOGUN」及び以下に紹介している別の公演で三浦按針(W.アダムス)、そして藝大プロジェクト第2回で山田長政を描いた作品を鑑賞する機会に恵まれました。ご案内のとおり、三浦按針は1600年に暴風で日本に漂着して徳川家康の外交顧問になったイギリス人、山田長政は1612年に通商などのためにタイ(アユタヤ)に自主的に移住した日本人、高山右近は1614年に江戸幕府のキリスト教禁教令によりフィリピン(マニラ)に追放となった日本人という違いがありますが、それらの人物の生き様を通して400年以上昔の日本が初めてグローバリゼーションの波に晒された変革の時代にどのように翻弄され、どのように乗り越えたのかを現在の政権との対比で再考する良い機会になりました。なお、山田長政にはタイ(アユタヤ)を侵略するスペイン艦隊を二度も退けた功績から王女の婿になり、その後、皇位継承問題に巻き込まれて殺害されたという俗説もあります。パンフレットには「ラジオ用の音楽劇である。1939年10月にJOAK(現在のNHK)から放送され」、「この音楽劇の台本は坪内士行による」もので「戯曲集「妙国寺事変」に収められて」いますが、「K.プリングスハイムが曲をつけた「山田長政」は物語的要素が少なく、戯曲集に掲載されている内容の断章のようである。」と解説されています。この解説のとおり、しっかりとしたプロットのようなものはなく音楽も断片的なので、オペラや音楽劇というよりも間奏曲付きの歌曲集と形容した方が良い作品かもしれません。この作品は完全なスコアが残されておらず、本日は現代作曲家の小島夏香さんが補筆完成した版が演奏されました。補筆完成には様々なスタンスがあり得ると思いますが、おそらく今回はK.プリングスハイムの作曲意図を逸脱することは極力避け、可能な限り原曲に忠実に復元するというスタンスで補筆完成されたものではないかと思われます。
 
● 第1曲(合唱とオーケストラ)
おそらく山田長政が1612年にタイ(アユタヤ)へ移住するために乗船していた朱印船の様子を歌ったものではないかと推測しますが、時代の荒波を超えてタイ(アユタヤ)へ向かう人生の航海を暗喩したものでしょうか、ドラムロールによる雷雨、フルートのトリルによる突風、弦のアタックによる波しぶきなど、非常に描写力のある音楽表現が印象的で、山田長政の運命を暗示するようなドラマチックな音楽が奏でられました。
 
● 第2曲(オーケストラ)
おそらく山田長政がタイ(アユタヤ)に到着した様子を音楽にしたものでしょうか、グロッケンシュピール、トライアングル、ティンパニー、ゴングなどの多彩な打楽器群による異国情緒が漂う音楽が奏でられました。
 
● 第3曲(ヴィオラソロ×2とチェロソロ×2)
どのような場面のための音楽なのか分かりませんが、山田長政の幸せな暮し振りを表現したものなのか、叙情的な音楽が演奏されました。ラジオ用の音楽劇として作曲されたものなので、当時のラジオ放送では場面説明のためのナレーションなどが挿入されていたのかもしれません。
 
● 第4曲(バリトンとオーケストラ)
山田長政がタイ(アユタヤ)に移住して約20年が経過し、日本を懐かしく回顧している場面と思われますが、ヴァイオリン・ソロに導かれてバリトンによる叙情的な歌唱に魅了されました。おそらく台本の影響もあると思いますが、劇的な感情を歌うアリアというよりも詩的な情緒を歌う歌曲という印象の音楽に感じられました。
 
● 第5曲(ソプラノ(リカ)、バリトン、合唱とオーケストラ)
幸若舞「敦盛」の詞章が歌われましたが、どのような場面を想定しているのか分からず、何とも感想の書きようがありません。
 
● 第6曲(ソプラノ(トカウハム)とオーケストラ)
山田長政とリカの恋仲に対する嫉妬心を歌ったものなのでしょうか、どのような場面を想定しているのか分からず、何とも感想の書きようがありません。
 
● 第7曲(合唱とオーケストラ)
ホルンやドラムの彷徨、快活な合唱による野趣漲る勇壮な音楽が奏でられましたが(祭り?)、どのような場面を想定しているのか分からず、何とも感想の書きようがありません。
 
● 第8曲(オーケストラ)
どのような場面を想定しているのか分かず(間奏曲?)、何とも感想の書きようがありません。
 
● 第7a曲(フルートソロとヴィオラソロ)
メランコリックな音楽が印象的でしたが、どのような場面を想定しているのか分からず、何とも感想の書きようがありません。
 
● 第9曲(ソプラノ(リカ、トカウハム)、バリトン、合唱とオーケストラ)
山田長政の偉業を湛える大団円になりましたが、現代音楽や大衆音楽などで「型破り」に慣れてしまっている現代人には「型通り」の健康的な音楽を聴くと、誰か又は何かを称揚して止まない社会主義リアリズムの音楽を連想してしまう憾みがあります。個人的には、人間の本質や美の核心は「光」よりも「影」の方に宿るものだと思っていますが、老輩には些か眩し過ぎる音楽という印象が残りました。
 
 
▼新作ミュージックシアター「Silver Mouth」
【演題】横浜国際舞台芸術ミーティング(YPAM)
【演目】ミュージックシアター「Silver Mouth」(世界初演)
     <謡>青木涼子(母役)
     <歌>ジェイムス・ハリック(銀の狐役)
     <音響パフォーマンス>JOLT Arts
【作曲】ジェイムス・ハリック
【日時】2024年11月30日(土)19:00~
【会場】BankART Station
【一言感想】
https://ypam.jp/documents/m_program/content/1724815850_7_0.jpg
昨年、オーストラリア人作曲家のジェームズ・ハリックさんが監督を務めるオーストラリアに拠点を置く前衛アート集団「Jolt Arts」と能声楽家・青木涼子さんが最先端のオーディオ・ビジュアル&インタラクティブ・パフォーマンス作品を公演して話題になりましたが、今回の公演ではジェームズ・ハリックさんが謡、歌、音響パフォーマンスを融合した新作ミュージックシアター「Silver Mouth」の公演(11月30日公演)と能の謡と弦楽四重奏のための新作「I wouldn ′  t」などの公演(12月1日公演)が開催される予定になっています。今回は後者の公演は都合が付きませんので聴きに行くことができませんが、前者の公演は万難を排して聴きに行く予定にしています。昨年の公演ではアートとテクノロジーを融合した新しい芸術体験に興奮を禁じ得ませんでしたので、今回の公演も非常に楽しみです。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。なお、今後の青木さんの公演予定のうち女性作曲家に関連するものに限って言えば、2025年2月27日~翌3月1日に現代作曲家の能オペラ「葵」がローザンヌで再演され、2025年6月19日~同21日に現代作曲家の望⽉京さんのオペラ「OTEMBA~不屈の女性たち~」がアムステルダムで開催されるホランド・フェスティバルで世界初演され、また、2025年9月5日~同6日に現代作曲家の小出稚子さんの能声楽とオーケストラのための新作が名フィルの定演で世界初演される予定なので注目されます。
 
―――> 追記
 
オーストラリアに拠点を置く前衛アート集団「JOLT Arts」の3度目の来日公演が昨年の公演と同じくBankART Station(新高島駅)で開催されました。昨年の公演で新高島駅周辺の再開発の話題に触れましたが、今年6月にヤマハの体験型「ブランドショップ」がオープンし、新しい芸術体験を模索するエコトーンとして革新のムーブメントを仕掛けるヤマハの野心が感じられる店舗になっており(下表の写真を参照)、横浜の新しいランドマークとして注目されます。本日公演されたオーストラリア人現代作曲家のJ.ハリックさんの新作ミュージックシアター「Silver Mouth」(英語上演)も新しい芸術体験を体現するもので、現代人の知性や感性を前提として現代の時代性を投射する内容は現代人の教養(心の豊かさ)を育み得る芸術表現に感じられました。この作品は謡、歌及び電子音響パフォーマンスから構成されていますが、その歌詞(詞章)は詩的であり抽象的なもので、その表現意図を読み解くことは一筋縄ではいかない印象を受けますが、敢えて、具体的なプロットを提示するのではなく、観客のプロジェクションによって様々な解釈を許容する懐の広い作品と言えるかもしれません。その前提に立って、あくまでも僕の個人的なプロジェクションで捉えた1つの解釈として感想を残しておきたいと思います。この物語には祖母(狼の精霊又は自然主義のメタファー)、母及び娘の3人が登場し、山の森に棲む祖母(狼の精霊と言われるとアニメ「もののけ姫」に登場する山犬=ニホンオオカミを連想しますが)は母や娘に「空に月を引く」ように諭します。個人的には、祖母はオーストラリアを含む世界各国で発生している地球温暖化による森林火災(歌詞の「キャンプファイヤー」は森林火災の比喩?)で犠牲になった生物や自然のメタファーではないかと感じられ、また、祖母が母や娘に「空に月を引く」ように諭す意味は月が地球を冷やす夜を比喩するものとして地球温暖化を阻止する必要性を暗示したものではないかと感じられました。過去のブログ記事で触れたとおり、約45億年前に地球に隕石が衝突して月が誕生したことにより、①月の引力による潮汐と海底との摩擦で地球の自転速度が1/5に減速し(この減速がなければ地表は大型ハリケーン並みの強風が吹き荒れ)、また、地球の地軸が23.4度に傾いたことで地表に安定した環境(地表の温度を夏に温め、冬に冷まして地球全体の温度を平準化)が生まれ、地球上の生物の繁栄が可能になったと言われていますので、月を生物や自然を育んだ祖母と捉えることができるかもしれません。第1幕は「狼の精霊である祖母が、空に月を引っ張ってきます。」と解説が付されています。月を抱く宇宙の拡がりを連想させる電子音響が流れるなかを、白髪にお面を付けたJ.ハリックさんが扮する祖母(能楽の伝統を意識したものか男性の役者がお面を付けて女性を演じています)が杖をつきながら登場して、「高潔な心は義務に従って判断する。あなたは月を引きますか?」と観客に問い掛けながら、月に見立てた照明の前で祈祷を捧げました。第2幕は「母親の口が銀色に変化します・・山の森からの呼び声を聞きます。」と解説が付されています。祖母の呪力を連想させるノイジーな電子音響のなかを、白装束の青木涼子さんが扮する母が摺り足の運びで登場し、木机の前に座りながら謡い舞いました。母は「山麓の川へ向かう。彼女はそこで失われた。私の母はそこで失われた。」と謡いましたが、個人的には、森林火災から逃げるために山の森から麓の川へ向かった狼(生物)が成す術もなく炎に飲み込まれた惨状を暗示しているように感じられました。また、母は「私の母はあの山で銀の口を持ったまま失われた」「彼女の口の銀が私の口に刻まれた」と謡いましたが、「銀の口」はスプーン、即ち、人間の欲望を比喩するものとして人間の欲望が地球温暖化による森林火災の惨禍を招いたことを暗示しているように感じられました。なお、青木さんは英語の詞章を違和感なく謡われており能声楽の真骨頂と言うべき好演でしたが、ネイティブの方にどのように聴こえていたのか興味があります。第3幕は「母親の娘も同じ精霊の声を森から聞きます。娘は月が自分に話しかけていると思い込み、母親は娘を心配します。」と解説されています。母は娘から「私は月の声を聞く・・あなたは月の声を聞く?」と質問され(能の作り物よろしく娘は黒髪のかつらのみで表現され、J.ハリックさんが音声のみを担当されていました。)、母は「娘よ、月と話さないでおくれ」と謡いましたが、母に扮する青木さんが娘の回りを素早い摺り足で運びながら母の狼狽振りを表現しているように感じられました。個人的には、この場面を見ながら数年前にアメリカ大統領ドナルド・トランプさんと環境活動家の少女グレタ・トゥンベリさんが地球温暖化を巡って舌戦を繰り広げていたことを思い出し、不都合な事実から目を背けようとする大人と現実を直視する子供の対比が印象的に描かれているように感じられました。第4幕は「娘に何かが起こる前に問題に対処しようと・・森へ向かいます。」と解説されています。山の森の映像が映し出されましたが、その前を摺り足で運ぶ青木さんの白装束にも山の森の映像がオーバーラップされるように映し出されて、さながら山の森と人間が一体となって共鳴しているアニミズム(過去のブログ記事でも触れた一元論的な世界観:母性原理)を彷彿とさせる幻想的な舞台が出色でした。母は山の森に深く分け入りますが、月(根本的な解決策)を顧みようとせずに山の森(対処療法)に迷い込む大人の姿が印象的に描かれているように感じられました。第5幕は「母親は自分の母親であり娘の祖母である銀の狼に出会います。祖母は、空に月を引くという義務を果たす時が来たと告げます。しかし、母親はそれを拒否」と解説されています。何か大きな力に支配されていることを連想させる電子音響のなかを、山の森を彷徨う母の前に祖母が顕在して「月を引くこと。生命の自然の仮を返すために。」と歌いましたが、母は「私は月を引かない。」と拒否します。個人的には、この場面を見ながら地球温暖化対策として始められたEVシフトがいつの間にか世界各国の自動車会社の競争戦略という矮小化された話に貶められている現状、即ち、地球温暖化で自分の家が燃えるまで誰も本気で月を引こうとしない現状を思い出していました。第6幕は「娘は家族の義務である月を引くために祖母のもとへ向かった。」と解説されています。母が家に戻ると娘の置き手紙があり「私は義務と真実を果たします。そして毎晩、私は月を引くでしょう。」と書き残されているのを読みましたが、個人的には、上述のとおり未来を担う子供の現実を直視する目(イノセント・アイ)は不都合な事実から目を背けようとする大人の目よりも曇りなく月を捉えていることが印象的に描かれているように感じられました。第7幕は「深い悲しみと罪悪感に苛まれた母親は、山の崖へと走り、身を投げようとします。」と解説されています。ミニマル音楽の電子音響が流れるなかを、母に扮する青木さんが台座の上に登って山の崖から身投げしようとしている様子を表現していました。個人的には、母の「銀の口の遠吠えがキャンプファイアーで燃え上がり、悲しみの敗北を燃え上がらせた。」という詞章は人間の欲望(銀の口)が地球温暖化による森林火災(キャンプファイアー)を招いたことを直視した母が絶望の淵(山の崖)に立っていることを表現しているように感じられました。また、母の「鏡の喉を通して私の銀の悲しみを飲み込んで」という詞章は第8幕の「地上の欲望の月の鏡を通して」とパラレルになっているように感じられ、人間の欲望(銀)が月(根本的な解決策)を隠してしまうこと(鏡の喉、月の鏡)を比喩的に表現したものではないかと感じられました。第8幕は「母親は夜に娘と一緒にいられますが、義務を果たさなかった罰として、再び太陽を見ることはできません。」と解説されています。祖母は母に「毎朝、私はあなたを飲み込み、毎夕、私はあたなを月の軌道の中のフクロウとして吐き出す。あたなの子を見守り・・彼女が義務を果たすように。」と歌いながら、絶望の淵(山の崖)から母を救い出し、母と共に舞台から消え失せました。個人的には、太陽は人間の欲望の象徴であり、その裏腹としての森林火災を比喩しているように感じられ、再び、人間が欲望に溺れることは戒めなければならず(森林火災を契機として我々は新しい教養を育み)、森の賢者であるフクロウの知性をもって自然と調和する自然主義の重要性を説いているように感じられました。一聴した限りの感想なので何度も鑑賞しているうちにどんどん違ったものが見えてくるように思われ、それに応じて感想や印象も変り得ると思いますが、そのような大きな器を持った作品に感じられました。
 
横浜シンフォステージ(神奈川県横浜市西区みなとみらい5-1-2
ヤマハミュージック横浜みなとみらい:2024年6月にヤマハ体験型「ブランドショップ」が開店し、音と光と楽器が描く、「新しい景色へ」をテーマとしたMusic Canvasが話題になっており、休日家族連れやカップルなどで大変な賑いとなっている新しいランドマークです。 AI Duo Piano:光るライトに合わせて簡単なメロディーをピアノで弾くと、それにAIの伴奏と映像が連動して。全くの素人でも音楽を奏でる楽しみを体感でき、小さい子供達が音楽を楽しむ姿が実に微笑ましいです。イノベーションによる音楽演奏の民主化が図られています。 Hug Me:人間が演奏する楽器に触れることは難しいですが、自動演奏する弦楽器に触れることで、木を伝わる振動を体感することができます。上記のブログの枕で「ゆらぎ」について触れましたが、万物は粒子でもあり波でもあるので人間は五感から知覚する波に共鳴しています。 Tall Bass:一本の太い弦を弾くことで、どのように音が生み出され、変化するのかその原理を体感できます。過去のブログ記事で触れましたが、空間に音が充満している訳ではなく空気その他の媒質を振動が伝わり、その振動を知覚することで脳が作り出すものが音の正体です。 Art of Sound:洗練された機能美に彩られた4種類の管楽器のパーツで出来たモニュメント(この角度はト音記号)です。過去のブログ記事でヤマハ銀座店の「江戸の洋琴」を紹介しましたが、遊び(無駄の蓄積)から新しいものは生まれると思いますのでヤマハの挑戦に注目です。
 
 
▼イギリス歌曲リサイタル「ウィリアム・アダムス。またの名を三浦按針」
【演題】イギリス歌曲リサイタル
    「ウィリアム・アダムス。またの名を三浦按針」
【演目】<パート1>
    ➊松尾芭蕉の「おくのほそ道」より序文
    ②アンリ・デュパルク 歌曲「旅への誘い」
    ③チャールズ・スタンフォード 歌曲「ドレイク提督の太鼓」
    ④ジョン・アイアランド 歌曲「海への情熱」
    ⑤ピーター・ウォーロック 歌曲集「3つのベロックの歌」より
                         第3曲「わが祖国」
    <パート2>
    ⑥ガブリエル・フォーレ 歌曲集「幻想の水平線」より
                      第1曲「海は果てしなく」
    ⑦アルバン・ベルク 歌曲集「7つの初期の歌曲」より
                            第1曲「夜」
    ⑧ガブリエル・フォーレ 歌曲集「幻想の水平線」より
                     第2曲「わたしは乗船した」
    ⑨アンリ・デュパルク 歌曲「波と鐘」
    ⑩イザベラ・ゲリス 歌曲「2つの俳句」より「俳句1」(世界初演)
    <パート3>
    ⑪へンリー・パーセル 歌曲「おお孤独よ、我が甘き選択」
    ⑫アンリ・デュパルク 歌曲「前世」
    ⑬イザベラ・ゲリス 歌曲「2つの俳句」より「俳句2」(世界初演)
    ⑭アイヴァー・ガーニー 歌曲「フランダースにて」
    ⑮ヴァーン・ウィリアムズ 歌曲集「旅の歌」より
                         第1曲「放浪者」
    <パート4>
    ⑯ジェラルド・フィンジ 歌曲集「おお、見るも美しい」
                  第4曲「ただ放浪する者だけが」
    ⑰アイルランド民謡「マイ・ラガン・ラブ」
    ⑱ァーン・ウィリアムズ
        歌曲集「シェイマス・オサリバンによる2つの詩」より
                 第1曲「トワイライト・ピープル」
    ⓳ジョン・ダン 宗教詩「私の病床からの神への賛歌」
    ⑳ヴァーン・ウィリアムズ 歌曲「フィデルのための哀悼歌」
【演奏】カウンターテナー ファーガル・モスティン=ウィリアムズ
    ピアノ 大高真梨絵
    ナレーター 竹内大樹
【日時】2024年12月4日(水)19:00~
【会場】ムジカーザ
【一言感想】
先日、映画「SHOGUN 将軍」がエミー賞を受賞し、今般、そのサウンドトラックが2005年2月に発表される第67回グラミー賞最優秀映像作品サウンドトラック部門作曲賞にノミネートされていますが、このサウンドトラックはニック・チューバさん、アッティカス・ロスさん及びレオポルド・ロスさんが作曲を担当し、日本から石田多朗さんがアレンジャーとして参加して雅楽や日本の伝統音楽に関連するアレンジやレコーディングなどを手掛けています。この公演は映画「SHOGUN 将軍」から着想を得てW.アダムス(三浦按針)がイギリスへ送った手紙の抜粋やカウンターテナーのF.ウィリアムズさんが創作したナレーションから構成されているW.アダムス(三浦按針)の半生を綴った物語で、この公演で歌われる歌曲はW.アダムス(三浦按針)が見たであろう景色や心情などを表現するものだそうです。最近の研究成果によって当時のキリスト教会の世界戦略や豊臣秀吉や徳川家康がそれを知りながらキリスト教会の勢力を自らの覇権のために都合良く利用していた実態などが解明されており、それが映画「SHOGUN 将軍」にも描かれていて興味深かったですが、非常にタイムリーな公演なので聴きに行く予定にしています。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
―――>追記
 
久しぶりにムジカーザに行きましたが、少し時間があったので小田急線の代々木上原駅前にある俳優の榎木孝明さん(武蔵野美術大学中退)が経営しているアートスペース「クオーレ」に立ち寄りました。現在、榎さんが描いた来年のカレンダー「四季こもごも」に使用されている挿絵の原画の展示会「2025年カレンダー「四季こもごも」展」が開催されていますので、ご興味がある方はお立ち寄り下さい。今日は榎木さんの挿絵が入ったブックカバーを購入しましたが、かごしま茶(榎木さんは鹿児島県伊佐市出身ですが、ご案内のとおり鹿児島県はお茶の生産量で静岡県とトップを競うお茶処)の試供品を頂戴し、毎日、非常に香り高くまろやかな緑茶を楽しんでいます。
 
パート1:人生の船出
 
➊+②:歌曲「旅への誘い」
冒頭、俳優の竹内大樹さんによるナレーションで松尾芭蕉の紀行文「おくのほそ道」の有名な序文が読み上げられ、W.アダムスの出自が物語られた後、A.デュパルクの歌曲「旅への誘い」が歌われました。ピアニストの大高真理恵さんが大航海時代に旅への想いを募らせる若きW.アダムスの心情を彩るように海波や洋光を連想させる伴奏に乗せてカウンターテナーのF.ウィリアムズさんが旅への憧れから心急く思いを詩的に紡ぐ歌が聴かれ、おくのほそ道の序文に綴られている松尾芭蕉の旅への思いと重なって、観客の心も(歴史の)旅へと誘われました。
 
③:歌曲「ドレイク提督の太鼓」
ナレーションで24歳のW.アダムスはスペインの無敵艦隊と戦うF.ドレイク提督の下でイギリス海軍の物資輸送艦の艦長になったことが物語られた後、C.スタンフォードの歌曲「ドレイク提督の太鼓」が歌われました。ダイナミックなピアノ伴奏に乗せて歯切れ良く歌われる勇ましい歌唱はW.アダムスが志を抱いて自信に満ち溢れる様子が表現されているようでした。現代人の感覚からすると大学を卒業したばかりの24歳は青く感じられるかもしれませんが、当時の平均寿命は50歳に満たないと思われますので、現代の働き盛り(40歳前後)に相当すると言えるかもしれません。
 
④:歌曲「海への情熱」
ナレーションで1598年に東インド会社が保有していた5隻の船隊の航海士総監(船隊の舵取り役)として雇われたことが物語られた後、J.アイアランドの歌曲「海への情熱」が歌われました。前曲とは紅一点、落ち着きのあるピアノ伴奏に乗せて航海士総監としての風格のようなものが感じられる歌唱にはW.アダムスの成長の変遷が感じられて面白かったです。因みに「舵」という漢字は来年の干支である「蛇」という漢字によく似ていますが、「舵」の偏の部分の「舟」は渡し舟の象形文字、「舵」の旁の部分の「它」は人が舟を漕ぐ姿が体をくねらせて進むヘビの姿に似ていることからヘビの象形文字になっています。
 
⑤:歌曲「わが祖国」
ナレーションでW.アダムスは銀の取引のために南アメリカの西海岸に航海し、その取引が成就しなければ日本へ遠征して銀の取引を行い(因みに、当時の日本は岩見銀山などを擁し、世界全体の銀の産出量の約30%を占めていました)、モルッカ諸島で香辛料を買ってイギリスへ帰るという航海計画であったことが物語られた後、P.ウォーロックの歌曲「わが祖国」が歌われました。イギリスの美しい景色をイメージさせる幸福感に満ちた叙情的な歌唱とピアノが印象的で、長旅で祖国への郷愁が募るW.アダムスの心情が伝わってくるようでした。
 
パート2:人生の岐路の
⑥:歌曲「海は果てしなく」
G.フォーレの歌曲「海は果てしなく」が歌われましたが、大海原を渡って行くような推進力のあるピアノ伴奏に乗せて遥か彼方に広がる世界に思いを馳せているW.アダムスの心情が生き生きと伝わってくる清々しい歌唱が印象的でした。
 
⑦:歌曲「夜」
ナレーションでマゼラン海峡を通過する途中で強風の影響から船を停泊せざるを得なかったことが物語られた後、A.ベルクの歌曲「夜」が歌われました。夜の神秘的な雰囲気をイメージさせるピアノ伴奏に乗せて夜の静寂に澄み渡るようなカウンターテナーの透明度の高い美声を堪能できました。
 
⑧:歌曲「わたしは乗船した」
ナレーションで1599年9月にマゼラン海峡を通過して太平洋に出た後、嵐に遭遇して5隻の船隊は離散しますが、W.アダムスはリーフデ号に乗り換えてフロレアナ島で他の船が到着するのを待っていたことが物語られた後、フォーレの歌曲「わたしは乗船した」が歌われました。太平洋の荒波に揺られているようなピアノ伴奏とは裏腹に全く動揺を感じさせない安定感のある歌唱にはW.アダムスの運命に立ち向かう不屈の精神(商魂)のようなものが感じられました。
 
⑨:歌曲「波と鐘」
ナレーションで5隻の船隊のうちフロレアナ島に着いたのはリーフデ号ともう1隻のみでしたが、フロレアナ島の住民との衝突で20人の乗組員が命を落としたことが物語られた後、A.デュパルクの歌曲「波と鐘」が歌われました。フロレアナ島の住民との衝突をイメージさせる激しいピアノ伴奏に乗せて鬼気迫る歌が聴かれ、やがてこの衝突で擬制になった20人の乗組員の魂を弔う鐘の音を連想させるピアノ伴奏に乗せて思い掛けない災厄に翻弄されて動揺し、悲しみや恐怖など複雑な感情に入り乱れる歌唱に聴き入りました。F.ウィリアムズさんの歌唱は歌への感情の乗せ方が素晴らしく、心の機微を繊細に表現する表現力が見事でした。
 
⑩:歌曲「俳句1」
ナレーションで1600年4月にリーフデ号は豊後(大分県)に漂着し、暫く留め置かれたことが物語られた後、イギリス系カナダ人現代作曲家I.ゲリスさんの歌曲「2つの俳句」から「俳句1」(松尾芭蕉の俳句「うき我を さびしがらせよ かんこ鳥」に付曲したもの)が歌われました。精妙なペダリングにより紡がれるピアノ伴奏は余白や滲みのようなものが連想され、F.ウィリアムズさんが口を閉じたまま「ん」(日本語の五十音は口を完全に開く「あ」から口を完全に閉じる「ん」までの50音の仮名で宇宙の全て(阿吽)を表現していますが、「ん」はすべてが終わりすべてが生まれる仮名として音が生まれる前の音を体現しています)で歌われていました。カウンターテナーの透明度の高い美声で芭蕉の俳句が詠まれましたが、その禁欲的な音楽は茶室のように簡素でありながら、そこに深い趣きが宿る研ぎ澄まされた美を発見する味わいのようなものがあり、「侘び」の不完全さが生む風趣が表現されているように感じられました。
 
パート3:人生の転機
 
⑪:歌曲「おお孤独よ」
ナレーションでイエズス会の宣教師達がW.アダムスを海賊だと主張して処刑を求めますが、徳川家康の命令で大阪城に投獄されたことが物語られた後、H.パーセルの歌曲「おお孤独よ」が歌われました。涙が滴り落ちているようなピアノ伴奏に乗せて悲しみと溜め息に満ちた歌唱が聴き所になっていました。ヘンデルのオペラ「リナルド」の有名なアリア「私を泣かせてください」に代表されるように、悲しみを歌うカウンターテナーは珠玉の美しさを湛えています。
 
⑫:歌曲「前世」
ナレーションでW.アダムスが徳川家康に謁見し、徳川家康はイギリス、航海や造船のことなどに高い関心を示していたことが物語られた後、A.デュパルクの歌曲「前世」が歌われました。ミニマル音楽のようなピアノ伴奏に乗せてW.アダムスが複雑な心情を抱えながらも運命を受け入れ始めていることをイメージさせる落ち着いた歌唱が聴かれ、やがてドラマチックなピアノ伴奏に乗せて喜びに満ちた歌唱へと変化しましたが、徳川家康との運命の出会いがW.アダムスの人生の転機になったことを印象付けるピースでした。
 
⑬:歌曲「俳句2」
ナレーションでW.アダムスは何度も徳川家康に謁見し、イギリスのことについて色々と話しましたが、投獄生活から解放されることはなかったことが物語られた後、イギリス系カナダ人現代作曲家I.ゲリスさんの歌曲「2つの俳句」から「俳句2」(松尾芭蕉の俳句「東にし あはれさひとつ 秋の風」に付曲したもの)が歌われました。グリッサンドを繰り返すピアノ伴奏は徐々に速度を速めながらやがてピアノの鍵盤を上滑りするだけで音を奏でなくなり、F.ウィリアムズさんが「シー」と息を吐き、松尾芭蕉の俳句の言葉を一言づつ嚙み砕くようにして非常にデリケートに詠まれました。そのフラジャイルな肌触り感には人生の儚さ(無常感)のようなものが表現されているように感じられましたが、日本人よりも俳句の心を鋭敏に感じ取り、その世界観を繊細な音(静寂に聴くものを含む)で表現している秀作に思われ、是非、続作を期待したいところです。
 
⑭:歌曲「フランダースにて」
A.ガーニーの歌曲「フランダースにて」が歌われましたが、幻想的なピアノ伴奏に乗せてW.アダムスのイギリスへの郷愁が感じられる美しい歌唱に聴き入りました。儚い人生だからこそ、この世は美しく切ないものに感じられます。
 
⑮:歌曲「放浪者」
竹内さんが袴姿に着替えて登場し、ナレーションで徳川家康はW.アダムスの有能さを評価して日本初の洋式帆船の建造を命じます。さらに、1608年にW.アダムスを旗本に取り立て三浦按針という名前を与え、江戸幕府の外交顧問としたことが物語られた後、V.ウィリアムズの歌曲「放浪者」が歌われました。晴れがましいピアノ伴奏に乗せて着物に着替えて脇差を挿したF.ウィリアムズさんが快活な歌唱で、サムライとして新しい人生を歩むことになったW.アダムス(三浦按針)の心映えが印象的に表現されていました。
 
パート4:人生の終幕
 
⑯:歌曲「ただ放浪する者だけが」
ナレーションでW.アダムス(三浦按針)は徳川家康から250石の知行を与えられ(現在価値で年収約1000万円程度)、日本を離れることを禁じられたことが物語られた後、J.フィンジの歌曲「ただ放浪する者だけが」が歌われました。W.アダムスが人生を達観しているような心穏やかな歌が聴かれましたが、大航海から大後悔に陥るのではなく、自らの運命を悟りそれをありのままを受け入れながら自らの人生を大きく切り拓いて精一杯に生きた人物であったことが感じられるピースでした。
 
⑰:アイルランド民謡「マイ・ラガン・ラブ」
ナレーションでW.アダムス(三浦按針)は徳川家康のもとで日本の外交や貿易を支援して日本の新たな貿易ルートの開拓など偉大な功績を残しましたが、やがて徳川家康が死亡したことが物語られた後、アイルランド民謡「マイ・ラガン・ラブ」が歌われました。柔らかい和音を奏でるピアノ伴奏に乗せて繊細に喉を使うニュアンス豊かなアイルランド民謡を堪能できました。パート4全体を通してW.アダムスの鎮魂歌のように感じられましたが、W.アダムスの魂が故郷のイギリスに戻ったことを感じられるピースでした。因みに、この時代、アイルランドはイギリスに実行支配されていました。
 
⑱:歌曲「トワイライト・ピープル」
ナレーションでWアダムス(三浦按針)は長崎県平戸で1620年5月16日に没したこと(享年56歳)が語られた後、V.ウィリアムズの歌曲「放浪者」が歌われました。F.ウィリアムズさんは椅子のうえに置いた着物と脇差を遺影に見立て、無伴奏でW.アダムス(三浦按針)の魂を慰める優しい歌唱が聴かれ、ピアノが弔鐘の音を奏でながら、ペダリングによる残響がさながらW.アダムス(三浦按針)の魂が天に召されるように儚く空に消え入る静謐な雰囲気が会場を支配しました。
 
⓳+⑳:歌曲「フィラデルのための哀悼歌」
ナレーションでジョン・ダンの宗教詩「私の病床からの神への賛歌」が朗読された後にV.ウィリアムズの歌曲「フィラデルのための哀悼歌」が歌われ、W.アダムスの鎮魂歌が捧げられました。(合掌)
 
 
①按針塚(神奈川県横須賀市西逸見町3-5-7
②三浦按針屋敷跡(東京都中央区日本橋室町1-10-8
③黒船橋(東京都江東区門前仲町1-3-7
④按針メモリアルパーク(静岡県伊東市渚町6
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①按針塚:W.アダムス(三浦按針)は徳川家康から神奈川県横須賀市逸見に250石の領地を与えられていましたが、京浜急行の安針塚駅にある塚山公園には按針塚という供養塔(向かって右塔がW.アダムス、左塔が妻)が安置されています。 ②三浦按針屋敷跡:オランダ東印度会社東洋派遣隊の航海士だったW.アダムス(三浦按針)は1600年に暴風のため大分県に漂着しましたが、その後、徳川家康の通商顧問になり、江戸城下の東京都日本橋室町に拝領屋敷を与えられていました。  ③黒船橋:黒船川は隅田川の支流である大横川に掛けられている橋ですが、W.アダムス(三浦按針)が黒船を係留していたことから命名されたという説があります。因みに、W.アダムスが乗船してきたリーフデ号は船体が黒く塗装されていました。 按針メモリアルパーク:W.アダムス(三浦按針)は航海術など西洋技術に精通していたことから徳川家康に命じられ、伊東で日本初の洋式帆船が建造されました。「三浦」は領地のある地名、「按針」は水先案内人の意味で命名されています。
 
 
▼能楽のアップデート:新作能「神武」とミュージックシアター「Silver Mouth」とアヌーナ公演「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~
現代音楽と同様に新作能の公演も関東よりも関西が活発な傾向(西高東低)があるように感じられますが、先日、熊野那智大社で世界遺産登録20周年を記念してシテ方宝生流能楽師・辰巳満次郎さんらによる新作能「神武」の奉納公演が行われました。熊野那智大社のご神体である那智大滝が降臨する滝雨の中での公演となりましたが、その模様がYouTubeにアップされていますのでご紹介しておきます。また、今月、能声楽家・青木涼子さんとオーストラリア人作曲家・ジェイムス・ハリックさん/JOLT Artsが能の謡、歌と音響パフォーマンスを融合した新作ミュージックシアター「Silver Mouth」と能の謡と弦楽四重奏のための新作「I wouldn ′  t」などを公演する予定になっており見逃せません。さらに、来月、中世のアイルランド音楽とクラシック音楽やコンテンポラリー音楽などを融合して現代的にアレンジして聴かせる合唱団「アヌーナ」が来日します。合唱団「アヌーナ」は2017年に来日した際にW.イエーツの戯曲「鷹の井戸」を題材にして能と合唱を融合したケルティック能「鷹姫」を上演して大いに話題になりましたが(過去のブログ記事で採り上げていますが、同じくW.イエーツの戯曲「鷹の井戸」を題材にした坂本龍一さんと高谷史郎さんの舞台「LIFE-WELL」なども有名ですが)、今回は小泉八雲(ギリシャ系アイルランド人で日本に帰化したラフカディオ・ハーン)の戯曲「雪女」を題材にして能の舞と合唱を融合した「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~が上演される予定になっており大いに注目されます。この点、アイルランドやアイスランドには冬、氷や雪を司る女神、妖精や精霊に纏わる伝説がありますので、ストーリーは全く異なりますが、アイスランドを舞台にしていると言われるディズニー映画「アナと雪の女王」(劇団四季ロングラン上演中)や日本でも古くから存在する雪女の伝説などとの文化的な基盤の類似性のようなものも感じられ、その意味からも興味深いです。いよいよ能楽も伝統から革新へとシフトする潮流が本格的なものになってきているような手応えがあり、非常に頼もしい限りです。
 
▼映画「シムサ」
1669年にアイヌ人の首長・シャクシャインを中心に勃発した松前藩に対する武装蜂起「シャクシャインの戦い」(史実)を題材として、俳優・寛一郎が演じる松前藩士・高坂孝二郎の目を通して当時のアイヌ人や和人を翻弄した悲劇をフィクションとして描くことで多文化・多民族共生という現代的なテーマを扱った映画「シムサ」が公開されています。現在、公開中のため、ネタバしないように具体的な内容に関する言及は避けたいと思いますが、史書によれば、シャクシャインの戦いはアイヌ人同士の抗争を発端とし、これに松前藩が絡んだことが直接のトリガーとなって勃発したと言われています。この点、この映画ではストリー展開をシンプルにするために、それ以前からアイヌ人と松前藩との間で鬱積していた問題(不平等な交易、天然資源の乱獲)に焦点を絞って描かれています。前回のブログ記事で「憎」という感情について触れましたが、「憎」は自らが属する「集団」を守って自らの生存可能性を高めるために「何をしたか」(行為)ではなく「何であるか」(対象)に向けられた感情であり、その対象を除去することで癒されると述べましたが、アイヌ人に命を救われた松前藩士・高坂孝二郎がアイヌ人の「憎」と和人の「憎」との狭間で揺れ動きながら「憎」を克服して行く姿を描く感動的な内容になっており、ロシアによるウクライナ侵攻、ハマスによるイスラエル越境攻撃やイスラエルによるガザ侵攻(いずれも民間人の犠牲を厭わない無差別攻撃)と重ね合わせながら、色々と考えさせられる映画でした。人類史を紐解けば、古今東西を問わず、アイデンティティが異なる集団同士で土地の奪い合いを繰り返してきた歴史であり(第二次世界大戦以降は土地の奪い合いから金銭の奪い合い(経済戦争)へと移行しましたが、近年、再び土地の奪い合いに戻ろうとしているのが現在の世界情勢です)、それと根を同じくするものとして日本でもアイデンティティが異なる対象に対する差別感情に基づくヘイト発言が後を絶ちませんが、先日、バイデン大統領が先住民同化政策を謝罪したように自らと異なるアイデンティティを持つ対象を(ヘイト発言を含む)暴力で除去しようと試みたり又は自らのアイデンティティに同化しようと試みるのではなく、前回のブログ記事でも触れたようにお互いの違いを大らかに許容することができる幅広い教養を培うことが益々重要になっていると思います。そんなことを考えさせる映画であり、是非、これからの多様性の時代を拓いていく若い人達にこそ見て貰いたい映画です。