【新年の挨拶②】
▼「蛇(巳)」(ブログの枕)
少し気は早いですが、正月は忙しいので12月に「新年の挨拶①」及び「新年の挨拶②」の二回に分けて新年の挨拶を投稿します。2025年の干支は「蛇(巳)」ですが、中国の歴史家・班固らが編纂した史書「漢書」の律暦志には十二支が自然界の輪廻転生を表したものであるという由緒が解説されており、そのうち「巳」は「草木の成長が極限に達して、次の生命が宿され始める時期」とされています。これが日本に伝来して庶民にも理解し易いように十二支に動物の名前を割り当てた作り話で物語風に仕立てたものに「巳」が転じて「蛇」が登場します。この点、蛇は、脱皮を繰り返して成長する動物であることから「再生」「不死」「永遠」(ウロボロス)などのメタファーとして捉えられてきた一方で、毒を持ち獲物に巻き付いて丸吞みすることから「毒」「死」「執着」(七つの大罪)などのメタファーとしても捉えられてきた相反する多面的な性格を体現しており、歴史上、「信仰」(前者)と「畏怖」(後者)の対象になってきた動物ですが、物事には陽と陰の二面性があって、それらが調和して1つの世界ができているという常に反対の利益に配慮する重要性を教えてくれています。とりわけ水辺に生息する白蛇はインドの水神に起源している芸事、学問や蓄財などの神様である弁財天の使い又は化身として「信仰」の対象になることが多く、日本白蛇三大聖地(①山口県の岩國白蛇神社、②群馬県の老神温泉、③東京都の蛇窪神社)などで祀られています(以下の写真を参照)。因みに、「巳」という漢字は、頭と体がはっきりしてきた胎児の姿を象った象形文字で、子宮の中にいる胎児を表す「包」という漢字のうち「勹」(構の部分)に覆われた「己」(中の部分)と同じ語源を共有していますが(巳は上に、已はなかばに、己は下に)、そこから蛇が冬眠から覚めて地上に這い出す姿(産まれる、始まる、起こる)を表すようになったと言われています。
蛇窪神社(東京都品川区二葉4-4-12) | |||
①蛇窪神社:鎌倉時代、蛇窪村(現、品川区二葉四丁目)に清水が湧き出る場所があり白蛇が住んでいましたが、1323年に龍神へ雨乞いを祈願したところ雨が降ってきたので、蛇窪村に蛇窪神社を勧請し、神恩に応えて白蛇を祀ったのが由緒と言われています。また、白蛇は弁財天の使いとされており、荏原七福神として弁財天も祀っています。 | ③白蛇辨財天社:蛇窪神社の境内には白蛇辨財天社が建立され、弁財天を祀っています。白蛇辨財天社には狛犬ならぬ狛蛇が祀られており、狛蛇のトグロには弁財天が霊験あらたかに鎮座していますので、疫病流行の折から無病息災を祈願したくなるような大変にありがたい神社と言えます。その脇には幸運と金運の宝珠を抱く撫で白蛇も祀られています。 | ②蛇窪龍神社:蛇窪神社の境内には蛇窪龍神社が建立され、蛇窪村の守護神である龍神が祀られています。弁財天の使いである白蛇が8匹で龍になると言われており、神威が漲るパワースポットとも言えます。2025年は辰(龍)から巳(蛇)に干支が変わりますが、慈雨よろしく龍神が8匹の白蛇となって神の恵沢が注ぐ年になることを祈願します。 | ④一粒万倍の碑:巳年の縁起は新しいものが生まれる年と言われていますが、一粒万倍は「種籾1粒から1本のイネが育ち、そこから万倍もの米が穫れること」を意味し、後の世の安寧と繁栄のための一粒に復活と再生をかける吉兆の年と言えるかもしれません。そんな明るい未来を暗示するように、今日も蛇窪神社の花手水が美しく咲き誇っています。 |
WHO(世界保健機関)の紋章には蛇があしらわれていますが、これは「魔術的な医療」から「科学的な医学」へと発展するための基礎を築いた古代ギリシャの医学の神であるアスクレピオスの杖で、上述のとおり蛇は脱皮を繰り返して成長する動物であることから「再生」(医療と医学)の象徴と捉えられています。その一方で、ミケランジェロのフレスコ画「原罪と楽園追放」(システィーナ礼拝堂の天井画)には楽園の蛇がイヴ(エヴァ)を唆して知恵の実(禁断の果実)を食べるように誘惑する場面(旧約聖書創世記第3章)が描かれており「悪魔」(悪知恵)の象徴と捉えられています。ここで「悪魔」(悪知恵)の象徴として蛇が選ばれている理由が問題になりますが、紀元前1200年頃の地中海沿岸の気候変動や歴史的な経緯などが関係していると考えられています。時代を遡ること、紀元前1800年頃、パレスチナで暮らすユダヤ人(ヘブライ人)は飢饉を逃れてエジプトへと移住しましたが、その後、ファラオ(エジプトの王)がユダヤ人(ヘブライ人)を奴隷にし始めたことから、起源前1200年頃、モーゼは奴隷にされたユダヤ人(ヘブライ人)を率いてエジプトから脱出してパレスチナへと戻ったと言われています(旧約聖書の出エジプト記)。丁度、この時期に北緯35度以北のアナトリア(トルコ)やギリシャの気候は湿潤化して森を維持できる環境が確保され、森(地)の恵みに頼った生活が可能(例えば、アナトリアのフリギア人は木造建築を主とする木の文化など)になりましたが、北緯35度以南のエジプトやパレスチナ(イスラエル)の気候は乾燥化して森を維持できる環境が確保されず、森(地)の恵みに頼った生活が困難(例えば、パレスチナのユダヤ人やアラブ人などは木造建築ではなく石造建築を主とする石の文化など)になり、益々、牧畜や放牧などに頼った生活を営むようになりました。北緯35度以北の「森の民」は森を育む多神教の世界観を持ち地を支配する蛇を信仰の対象と捉えていましたが、北緯35度以南の「砂漠の民」は気候の乾燥化による森(地)の荒廃に伴って信仰の基軸を地から天へと転換し、地の恵み(農耕や森林など)をもたらす多神教(地の女神)から天の恵み(日照や雨水など)をもたらす一神教(天の男神)へと信仰の対象が移行していったと考えられています(ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の誕生)。この点、ファラオ(エジプトの王)の1人であるツタンカーメンの王冠にはエジプトのシンボルである蛇(コブラ)があしらわれていますが、旧約聖書で悪魔(悪知恵)の象徴として蛇が選ばれたのは、上記のような地中海沿岸の気候変動や歴史的な経緯などを背景としてエジプトなどの多神教(蛇を信仰するアニミズム)の世界観と対決し、一神教の世界観を拓くにあたって邪教(悪魔、悪知恵)のシンボルとして蛇が利用されたからではないかと考えられています。その後、紀元後30年頃にキリスト教が普及して行く過程で疾病を治す奇跡などを起こす神として信仰を集めるにあたり、キリスト教が古代ギリシャの医学の神であるアスクレビオス(蛇に象徴される神)を凌駕する必要があったことも蛇が「悪魔」(悪知恵)の象徴として選ばれた理由として挙げられるのではないかと考えられています。因みに、その後のパレスチナは隣国に侵略されるなどしてユダヤ人(ヘブライ人)は国外へと離散し(ディアスポラ)、最終的にアラブ人(パレスチナ人)がパレスチナを支配しましたが、その後、ヨーロッパ各地に離散していたユダヤ人(ヘブライ人)がパレスチナへと戻り始めたことで相互に異なるアイデンティティを持ったユダヤ人(ヘブライ人)とアラブ人(パレスチナ人)が激しく対立するようになり(「憎」の感情の発動)、第二次世界大戦後に国連の仲介でユダヤ人(ヘブライ人改めイスラエル人)とアラブ人(パレスチナ人)がパレスチナを分割統治することになりました。しかし、それを不満として中東戦争が勃発して、現在のハマスによるイスラエル越境攻撃やイスラエルによるガザ侵攻へと発展しています(「対象」の除去)。閑話休題。これに対して、日本では蛇を象った装飾があしらわれている土器や女性を象った土偶(頭に蛇を乗せた土偶)が出土していますが、縄文人が「死者の再生」を願って蛇を男性器の象徴とし、土偶を妊婦の象徴として信仰の対象にしていた可能性が指摘されています。このような思想的な基盤を背景として、人間の誕生は蛇から人間への変身であり、人間の死亡は人間から蛇への変身であるという考え方が生まれて(蛇が脱皮を繰り返す姿は輪廻転生(回転運動)の象徴)、それが宇賀神信仰などにも体現されていると考えらえています。この点、日本書記に記されている箸墓伝説(日本書紀崇神天皇10年9月の条)には、第7代孝霊天皇皇女で巫女の百襲姫(ももそひめ)が災厄を鎮めるために三輪山に祀られている大物主神の妻になりましたが、大物主神が百襲姫のもとに夜しか通ってこないこと(妻問婚の習俗)から百襲姫は朝に大物主神の姿を見たいと懇願すると、大物主神は蛇の姿で現れたので百襲姫は驚愕し、大物主神は恥じて三輪山に隠れてしまいました。これを後悔して百襲姫が腰を落とした際に箸が陰部に刺さって絶命したので箸墓古墳(奈良県桜井市)に葬られたとあり、三輪山の大物主神(男性器の象徴である蛇神)が人間に変身して巫女と神婚したという伝説として「信仰」の対象になっています。なお、あくまでも個人的な邪推ですが、箸が陰部に刺さっただけで絶命するのか疑問であり、実のところ巫女の百襲姫は神婚の儀式で蛇に陰部を噛まれ、蛇の噛み跡が2穴だったので箸が刺さったということになったのかもしれません。因みに、神社に張られている注連縄は、天照大神が天の岩戸に戻らないように(即ち、須佐之男命のご乱行に象徴される俗域の穢れから神域を守るために)縄を張られたのが起源と伝えられ、そこから「神域」(常世/とこよ)と「俗域」(現世/うつしよ)を分ける結界の意味を持つようになったと言われていますが、注連縄は2匹の白蛇が絡み合う交尾を象ったものであり(注連縄の発祥地:白龍神社)、地(黄泉の国)の支配者である蛇に「死者の再生」の願いを込めたものとも考えらえています。キリスト教は天での再生(跳躍運動/昇天)を祈念しているのに対して、仏教は地での再生(回転運動/輪廻転生)を祈念している宗教と言えるかもしれません。因みに、バチカン博物館には「卍」と「X」が描かれている骨壺があるそうですが、「卍」は2匹の交合した蛇を抽象化した波状の連続紋が幾何学的に変化したものであるという説があり(東洋では「卍」はヒンドゥー教のヴィシュヌ神のシュリーヴァッツァ(胸毛)を起源とする説もありますが、非常にシンプルな文様なのでC.ユングが言う集合的無意識の「元型」と捉えることができるかもしれません。)、それが「X」や「十」に発展したと考えられています。そう考えると、キリストが背負う十字架は原罪の象徴である蛇をイメージさせるものであり感慨深いものがあります。閑話休題。その一方で、ヤマタノオロチ伝説(古事記上巻3や日本書紀神代上など)には、八つの谷と八つの峰を覆い尽す八首八尾の大蛇(又は地と天の双方を支配する龍)「ヤマタノオロチ」が須佐之男命により退治されたという神話が伝えられていますが、川や山などの自然が人間に牙を向く「畏怖」を蛇に化体して表現したものと考えられています。また、安珍・清姫伝説(本朝法華経記の紀伊國牟婁群悪女や道成寺縁起など)には、奥州白河の若僧・安珍が熊野詣に向う途中で仮宿をとった家の娘・清姫に見染められますが、安珍は仏に帰依する身の上から清姫の好意を断ると(地元では安珍に弄ばれて裏切られたとも)、清姫は蛇体になって安珍の後を追い、道成寺の梵鐘の中に隠れていた安珍を焼き殺すという悲劇が伝えらえており、女の情念が渦巻く「畏怖」を蛇に化体して表現したものと考えられます。なお、本朝法華経記が書かれた平安時代は夜這いなどが横行する性に奔放な時代であったことから、全国から熊野詣に訪れる男達が旅先で地元の若い女性達を辱しめることなどがないように創作された伝説のようにも感じられます。この安珍・清姫伝説を題材として能「道成寺」(観世信光作)が創作され、これを元にして人形浄瑠璃「日高川入相花王」(竹田小出雲作)や歌舞伎「京鹿子娘道成寺」(近松門左衛門作)なども創作されています。能「道成寺」では蛇体に変身した清姫が鱗文様(正三角形又は二等辺三角形の連続紋)の能装束を身に着けますが、この鱗文様の衣装は能「葵上」の六条御息所や歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」の白拍子花子など女の情念から蛇体、鬼や怨霊に変身したものが身に着ける衣装として使われています。上述の三輪山など円錐形(三角形の鱗文様)の山は蛇がトグロを巻いた姿に似ていると言われていますが、古来、日本では蛇が悪霊を退ける霊力を備えていると考えられていたことから蛇の霊力を身に纏う憑依の文化があって蛇を抽象化した三角形の鱗文様が着物などにあしらわれ、また、死装束の三角巾を身に着ける習俗も生まれたと言われています。この何者かの霊力を身に纏う憑依の文化は、現代のデジタル社会にも「バ美肉」として花開いており、「バ美肉おじさん」(主に中高年の男性プレーヤー)がバーチャル世界で美少女アバターを受肉すること(即ち、バ美肉おじさんがリアル世界で美少女アバターの魂に憑依されること)により人生を着せ替えて(=蛇の脱皮)、何人もの異なる人生を生きること(壱人両名)が可能な時代になっています。この背景には歌舞伎や人形浄瑠璃の女形など日本の文化的な素地があることも指摘されていますが、リアル世界のシガラミやストレスなどから解放されて全く異質の世界観に没入してしまう麻薬的な魅力からディープな人気になっているようです。これまで「畏怖」の象徴とされた蛇に代表される化物はネガティブ・マインドのもの(陰)が殆どでしたが、現代の「カワイイ」の象徴とされる美少女アバターに代表される化物はポジティブ・マインドのもの(陽)として社会に認知されており、陰翳礼讃とは異なる日本人の美意識の発現として注目されます。
▼蛇(多神教)と太陽(一神教)
宗教 環境変化 信仰対象 舞踊 多神教 湿潤化
(農耕)地 女神 蛇 回転運動 一神教 乾燥化
(牧畜)天 男神 太陽 跳躍運動 ※農耕は作物の恵みを地(多神教)に祈ることを信仰の基調とする一方、牧畜は獲物の恵みを天(一神教)に祈ることを信仰の基調としています。また、それを祈るための舞踊として農耕は地へアピールするための回転運動(水平運動)を基調とする一方、牧畜は天へアピールするために跳躍運動(垂直運動)を基調として発展しました。※蛇は地の支配者(女神)を象徴するものとして信仰の対象になっていましたが、縄文時代には同時に男性器の象徴としても捉えられていたと考えられており、両性具有の美を体現する多面的な性格を帯びていたと考えることができるかもしれません。▼多神教と一神教の世界観
宗教 思想 世界観 多神教 調和 ユニゾン 動物が人間に変身 寛容 一神教 支配 対位法 人間が動物に変身 不寛容 ※一神教では他の宗教は邪教として排除する不寛容な教ですが、多神教はすべての神に対して寛容であるという特徴があります。※多神教では人間と自然が調和すること(神人合一、即身成仏、自然尊重主義など)を基調とする一方、一神教では人間が自然を支配すること(福音信仰、人間中心主義など)を基調としています。このため、多神教では自然との調和(共生)の文化として動物が人間に変身することを観念することができますが、一神教では動物が人間(神の似姿)に変身すること(アンドロポモルフィズム)は観念できず、人間が動物に変身すること(テリオモルフィズム)しか観念できませんが、これは神の秩序から逸脱して悪魔、魔女、異端に化身すること(即ち、これらの象徴としての蛇に化身すること=邪教に改宗すること)を意味しており、僅かに吸血鬼や狼人間などの例しか見られません。
▼歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」
【演目】歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」
【原作】中島かずき
【演出】いのうえひでのり
【出演】ライ役 松本幸四郎
サダミツ役 尾上松也
ツナ/オボロヒ役 中村時蔵
シキブ/オボロミ役 坂東新悟
キンタ役 尾上右近
シュテン/オボロツ役 市川染五郎
アラドウジ役 澤村宗之助
ショウゲン役 大谷廣太郎
マダレ役 市川猿弥
ウラベ役 片岡亀蔵
イチノオオキミ役 坂東彌十郎 ほか多数
【演奏】ミュージシャン
<Gt>岡崎司
<Key>松崎雄一
<Bs>福井ビン
<Dr/Pr>グレイス
<尺八、ティンホイッスル、イリアンパイプ>金子鉄心
<唄、三味線、太鼓>木津かおり
竹本連中
<浄瑠璃>竹本東太夫、竹本翔太夫
<三味線>鶴澤公彦、鶴澤翔也
鳴物
田中傳一郎、田中源一郎
望月太左一郎、望月太喜十朗
田中傳十郎、藤舎武史
部長 田中傳左衛門
【美術】堀尾幸男
【照明】原田保
【衣装】竹田団吾
【音楽】岡崎司
【作曲】鶴澤慎治
【作調】田中傳左衛門
【音響】井上哲司
【映像】上田大樹 ほか多数
【日時】2024年11月30日(土)~12月26日(木)
【会場】新橋演舞場
【一言感想】ネタバレ注意!
2007年に市川染五郎(現、松本幸四郎)と劇団☆新幹線がW.シェイクスピアの歴史劇「リチャード三世」、「マクベス」と日本古来の物語「酒呑童子伝説」(源頼光と家臣である四天王が大江山に住む鬼神・酒呑童子を退治する伝説)を融合した舞台「朧の森に棲む鬼」(現代劇)が上演されて好評を博しましたが、その舞台が歌舞伎NEXT(現代歌舞伎)として甦ります。W.シェイクスピアの歴史劇「リチャード三世」は薔薇戦争(ランカスター家とヨーク家の王位継承争い)によりヨーク家が勝ち取った王位をリチャード三世が悪逆非道な手段を尽くして奪うというピカレスクの傑作ですが、エドワード三世を血脈とする一族内に渦巻く傲慢や復讐心を圧倒的な悪(欲望)で滅ぼし、最後はその悪(欲望)に自らの身も滅びる(現在のイギリス王室はボーズワースの戦いでリチャード三世を破ったリッチモンド伯エドマンド・テューダーの子孫)という爽快な悪漢芝居が人気です。プロモーションによれば、歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」の主人公ライは酒呑童子よろしく世の中の不条理が生み出した略奪などを繰り返す悪党ですが、朧の森に棲む魔物(人間の心の闇のメタファー)に唆されてリチャード三世よろしく権力欲に目覚めて悪逆非道の限りを尽くして王位を略奪し、やがて欲望に支配されたライは鬼と化すというプロットのようです。歌舞伎を鑑賞した後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、歌舞伎の宣伝のために予告投稿しておきます。
―――>追記
近年、片岡愛之助、松本幸四郎や尾上松也などの新世代の歌舞伎役者の活躍により革新目覚ましい歌舞伎界ですが、その潮流を主導する歌舞伎NEXTは松本幸四郎らが仕掛ける歌舞伎(伝統劇)と劇団☆新幹線(現代劇)を融合して歌舞伎を新たなステージへと革新する企画公演で、2015年に公演されて話題になった歌舞伎NEXT「阿弖流為」に続く第2作目として歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」がリリースされました。上記で触れたとおり歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」はW.シェイクスピアの歴史劇「リチャード三世」、「マクベス」と日本古来の物語「酒呑童子伝説」を題材にして創作されていますが、後掲表のとおり舞台設定が対照されています。また、歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」はプロット(イギリスと日本の融合)だけではなく音楽も多様なものになっており、歌舞伎音楽、アイルランドの民族音楽、ロック、義太夫節、民謡やポップスなど国境、ジャンルや時代を超えて音楽を融合する意欲的なもので、非常に斬新に感じられました。なお、現在、歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」は他日公演がありますが、以下の感想ではネタバレしていますので、これから鑑賞される方はご注意下さい。
【第一幕】
第1場(戦場)
乱世、覇権を目指すエイアン国は山の民であるオーエ国に軍事侵攻して激しい戦闘が行われていますが、それを横目に主人公のライ(松本幸四郎)と弟分キンタ(尾上右近)は落ち武者刈りを行っている場面。舌(嘘)を武器にするライと剣を武器にするキンタが登場し、朧の森には人々の欲望を引き寄せる魔物が棲むという伝説について語ります。本日の舞台の引幕には障子を連想させる格子状の透過スクリーンが採用され、朧の森を連想させる鬱蒼と茂る木立の影絵とサウンドスケープがこの作品の世界観に誘う演出効果を上げていました。また、この場面では三味線、太鼓やエレキギターなどの楽器を使用して歌舞伎音楽(和)とロック(洋)を融合した音楽が演奏され、現代邦楽の成果が存分に活かされた完成度の高い音楽を楽しめました。
第2場~第4場:3つの契り
第2場(朧の森)
ライが朧の森に分け入ると3人の「朧の魔物」(光、水、闇に化身であるオボロヒ、オボロミ、オボロツ)が現れてライの生き血を代償としてライの王位に就きたいという欲望を叶えると誘うと、ライは「俺が俺に殺される時」に俺の生き血を差し出すという条件で朧の魔物と契りを交わし(1つ目の契り)、朧の魔物はライの舌のように自在に動く「朧の剣」(妖刀)をライに授ける場面。透過スクリーンに朧の森に舞う3人の魔物と陰囃子が映し出され、ライが陰囃子に合わせてリズミカルに語るラップ調の言立てが聴き所になっていました。ライの偽りの舌のように自在に動く朧の剣とは人を刺す嘘を象徴するものですが、K.リヒターがJ.S.バッハのマタイ受難曲第35曲のテノール・アリア「忍べよ,忍べよ,偽りの舌われを刺す時」で人を刺す嘘(偽りの舌)をさながら剣先(舌先)のようなチェンバロの鋭角な響きを利用して表現し、劇的な効果を挙げた演奏を思い出します。
第3場(オーエ国)
ライは朧の剣でエイアン国の四天王であるヤスマサ将斬を斬殺し、ヤスマサ将軍の懐中からエイアン国の四天王で妻のツナ将軍に宛てた書簡(その書簡にはヤスマサ将軍がエイアン国を裏切ろうと考えている胸中が吐露されている)を奪ってヤスマサ将軍に成り済ましたライはオーエ国の党首シュテン(市川染五郎)にエイアン国を裏切って内部を攪乱することでオーエ国に勝利に導くと持ち掛け、ライ(偽ヤスマサ将軍)とシュテンは「血の人形の契り」(2つ目の契り)を交わしてライがオーエ国から裏金を騙し取る場面。ライ(偽ヤスマサ将軍)が現代のオレオレ詐欺やフィッシング詐欺と重なって、ライの中に現代人の影が見え隠れしています。なお、血の人形の契りとは人形にお互いの血をつけて誓いを立て、この誓いを破ると人形の呪いで本人に危害が及ぶというもので、熊野牛王神符の誓詞と藁人形の呪いが組み合わされたものです。この場面の音楽ではアイルランドの民族楽器であるイリアンパイプが使用されており、独特の音響(笙に近い音響)が舞台を支配し、音が拓く世界観を堪能できました。この舞台ではアイルランドの民族楽器であるティンホイッスルも使用されていますが、今月、中世のアイルランド音楽とクラシック音楽、コンテンポラリー音楽を融合し現代的にアレンジして聴かせる合唱団「アヌーナ」が来日しますので、日本(歌舞伎)からアイルランドの伝統(アイルランドの民族音楽)へのアプローチと、アイルランド(合唱)から日本の伝統(今回の来日公演では能楽)へのアプローチを楽しめる良い機会になります。
第4場(エイアン国:ラジョウ市場)
ライとキンタはエイアン国の首都にあるラジョウ市場で盗賊の親分マダレ(市川猿弥)と出会い、エイアン国の四天王で検非違使庁長官(警察庁長官)のツナ将軍を始末しようと義兄弟の契り(3つ目の契り)を交わす場面。シュールな舞台セットと奇抜な衣装が目を惹き、リズミカルな民謡に合わせて日本舞踊が舞われました。この場面の音楽ではシタールのような響きがする異国情緒漂う楽器が使用されていましたが、エレキシタールが使用されていたのかもしれません。マダレを演じる市川猿弥が大きな芝居で道を極めた極道振りを好演していましたが、ライを演じる松本幸四郎の狡猾で道から外れた外道振りとの悪の対比も面白く感じられました。
第5場~第6場:4つの嘘
第5場(エイアン国:宮中)
エイアン国の国王オオキミ(坂東彌十郎)と愛人シキブ(坂東新悟)、エイアン国の四天王のサダミツ将軍(尾上松也)、ツナ将軍(中村時蔵)及びウラベ将軍(片岡亀蔵)は、エイアン軍がオーエ軍に惨敗し、エイアン軍の兵士に成り済ましたライからヤスマサ将軍が名誉の戦死を遂げたという嘘の報告(1つ目の嘘)を受ける場面。国王オオキミと愛人シキブの暗愚振り、サダミツ将軍とツナ将軍の対立などの物語設定が行われ、エイアン国が一枚岩ではなくその基盤が脆弱であることが印象付けられました(ヤスマサ将軍がエイアン国を裏切ろうと考えた動機か?)
第6場(エイアン国:偽りの舌)
ライはヤスマサ将軍から奪ったツナ将軍宛の書簡を小細工し、エイアン国に裏切り者がおりツナ将軍の命を狙っていると嘘の報告(2つ目の嘘)を行って疑心暗鬼に陥れ、ツナ将軍に上手く取り入って検非違使(警察官)に取り立てられました。また、ライは国王の愛人シキブにヤスマサ将軍がシキブに想いを寄せていたと嘘の報告(3つ目の嘘)を行って近付きます。さらに、ライは密偵アラウドウジはライと盗賊の親分マダレがグルであるとサダミツ将軍に密告したことを逆手に取ってヤスマサ将軍の書簡にあった裏切り者とはサダミツ将軍のことでツナ将軍の暗殺を企てているという逆賊の汚名を着せて(4つ目の嘘)斬殺する場面。ライはヤスマサ将軍が名誉の戦死を遂げたという嘘話をシキブに語り、シキブはヤスマサ将軍への想いがライへ乗り移って恋に落ちますが、ライとシキブの睦み合う姿はまるで文楽人形を見ているような幻想的な美しさを湛え、命を削る情念や身を焦がす色艶が立ち込める情緒纏綿とした義太夫節に僕のハートもハッキングされてしまいました。ワックスで磨いた表面的な光沢とは異なる長年軽石で磨き上げた底光りが感じられる至芸に圧倒されましたが、言霊とはこのような力のことを言うのかもしれません。
第7場~第10場:6つの裏切り
第7場(エイアン国;ライ将軍の誕生)
ライは盗賊の親分マダレとの義兄弟の契りを裏切って(1つ目の裏切り)、マダレの手下を捕らえながら検非違使として手柄を立てエイアン国の将軍に成り上がる場面。ロックが流れるなかを、ライがマダレの手下を次々に捕らえる捕物劇が展開され、お約束の「だんまり」の場面も差し挟まれましたが、些かマンネリズム(捕物=だんまり)の憾みがあり、もう少し演出上の工夫があっても良かったかもしれません。
【第2幕】
第8場(エイアン国:ツナ将軍の部屋)
ツナ将軍はライがヤスマサ将軍を斬殺する悪夢(正夢)を見てライに疑心を抱き始めるものの、ライから言い寄られると女心が揺らいで自分の秘密(ツナ将軍の一族には武門の証として腕に蛇の入れ墨があることや幼い頃に兄と生き別れて妹の自分が家を継いだこと)を明かしてしまう場面。ツナ将軍が悪夢を見るシーンでは透過スクリーンを効果的に使った演出が目を惹き、また、中国の民族楽器である古琴のような響きがする楽器(使用楽器がよく分かりませんでしたが、エレキギターのエフェクター?)とコーラスによる中国の伝統音楽を思わせる異国情緒漂う音楽が奏でられ、非常に印象的な場面になっていました。
第9場(オーエ国)
ライは悪巧みを思い付いて盗賊の親分マダレに腕に蛇の入れ墨を入れておくように頼んでオーエ国へ向います。ライはオーエ軍と戦闘中のウラベ将軍を裏切って斬殺し(2つ目の裏切り)、オーエ国の党首シュテンから厚遇で迎えたいという申出を受けますが、オーエ国の本国がエイアン軍に攻め落とされたという報告を受けたシュテンはライに謀られたことを悟り(3つ目の裏切り)、血の人形の契りの報いとして人形の目を衝きますが、ライではなく弟分キンタの目が見えなくなり、ライは自分の血ではなくキンタの血で血の人形の契りを交わしたことを告白し弟分のキンタまで裏切っていたこと(4つ目の裏切り)を明かす場面。歌舞伎音楽とロックを融合した音楽が流れるなかを、ライはマダレにオーエ国への出陣はオーエ国の金鉱を奪取することが目当てなので合戦ではなく悪巧みをしに行くのだと本心を語り、その欲望のために次々と仲間を裏切る悪漢振りはピカレスクの見せ場になっていました。
第10場(エイアン国:宮中)
エイアン国は戦勝報告に沸いていましたが、ライは愛人シキブを唆して国王オオキミを毒殺させ(5つ目の裏切り)、さらに、ライはシブキにオオキミ殺しの嫌疑をかけて殺害し(6つ目の裏切り)、エイアン国の国王に就任しようとする場面。シブキが別れの和歌を詠むとシキブの移り気を悟ったオオキミは浮かれ女として浮名を流すのも良いがライだけは止めておけと忠告するシーンやツナ将軍が国王の喪明けまでライの王位就任を待つように忠告にして時間稼ぎをするシーンで奏でられる音楽には、筝や琵琶のような響きがする楽器が使用されていましたが(使用楽器は分かりませんでしたが、エレキギターのエフェクター?)、上述のとおりこの作品では多様な楽器(又はその音響)を使用しながら国境、ジャンルや時代を超えて音楽を融合する斬新な試みが随所に感じられて耳でも楽しむことができる舞台になっていました。
第11場:3つの真
第11場(エーアン国:地下牢)
ツナ将軍は地下牢に幽閉されているオーエ国の党首シュテンからヤスマサ将軍を斬殺したのはライでありライがエイアン国に嘘の報告をしていたことを聞き出してライへの復讐を決意しますが(1つ目の真)、ライは盗賊の親分マダレの腕には蛇の入れ墨がありツナ将軍の兄であると告げて復讐を思い留まらせようとします(5つ目の嘘)。また、ライはヤスマサ将軍がエイアン国を裏切ろうとしていたこと(2つ目の真)を告げるとツナ将軍は自刃しようとしますが、マダレは腕にある蛇の入れ墨は幼い頃からあったものでツナ将軍の実兄でることを告白してツナ将軍の自刃を止め(5つ目の嘘から転じた3つ目の真)、シュテンが犠牲になってツナとマダレを逃がす場面。これまでの場面は「嘘」と「欲望」に彩られていましたが、この場面では「真」と「犠牲」が逆転して物語が大きく転換します。朧の剣による殺陣のシーンでは照明による演出効果により舞台に迫力を生んでいました。
第12場:2つの裏切り・・・
第12場(朧の森)
ツナ将軍と盗賊の親分マダレの手下、オーエ軍の残党から構成される連合軍はライが率いるエイアン軍と決戦になり、これを撃退します。ライは「俺が俺を殺さない限り死ぬことはない。」と朧の森に逃げますが、これまでライの欲望の犠牲になった人達の亡霊に取り憑かれ、朧の魔物からライの生き血を差し出す契りを果たすように迫りますが、ライは朧の魔物も裏切り鬼になって逃げ去る(7つ目の裏切り)場面。シェイクスピアの「リチャード三世」ではリチャード三世がボズワースの戦いでリッチモンド伯に破れて惨殺されますが、この作品ではライは他人を破壊することでしか自己を実感できない存在として朧の魔物すら裏切り鬼と化して逃げ延びる(鬼となったライが真っ赤な舌を出しながらワイヤーで1階席から3階席へ飛び去る)圧倒的な悪漢振りで、第11場で「嘘」と「欲望」が「真」と「犠牲」に敗れると予感していた顧客の期待まで鮮やかに裏切って(8つ目の裏切り)ピカレスクロマンの真骨頂を行くストーリー展開になっており、朧の森(心)に棲む鬼(欲望)はいつまでも絶えることはなく、人間の業の深さを印象付ける作品になっていました。最後は鬼と化したライですが、弟分キンタのために手心を加えるシーンもあり、また、他の登場人物も正義(善)と不正義(悪)を裏腹に抱えている矛盾した存在であるとも言え(その意味で、実社会でよく見かけるような小悪党がライという大悪党に滅ぼされるという一種の痛快さもあり)、ロシアによるウクライナ侵攻、ハマスによるイスラエル越境攻撃、イスラエルによるガザ侵攻やこれらに対する諸外国の対応などを見ていると、正義(善)と不正義(悪)は国家や人々の事情や都合などによって変わり得るオセロのコマのような相対的なもの(認知バイアス)であることを思い知らされ、人間が正義(善)を高らかと唱えるときが最も危険であると言えるかもしれません。
なお、最後に全般について、エンターテイメント性を重視したものなのか舞台展開が忙しなく色々と盛り込み過ぎている嫌いがあり、もう少し見せ場を絞った方が芝居に没入できるような気がします。また、これは個人的な嗜好の問題かもしれませんが、あまりクスグリ笑いに走ると陳腐な印象から厭きがくるので、芸の妙味やウィットで大人の笑いをとることを指向して貰いたいと感じます。古典劇としての歌舞伎とは異なる魅力を創造する歌舞伎NEXTの次回作にも期待しています。
▼舞台設定の対照
本作の設定 原作の設定 エイアン国 リチャード三世 ヨーク家 オーエ国 ランカスター家 オーエ国 酒呑童子 大江山 ライ(嘘=Lie) 源頼光 キンタ(ライの弟分) 坂田金時(金太郎) サダミツ将軍 薄井貞光 ツナ将軍 渡辺綱 ウラベ将軍 卜部季武 三人のマホロの魔物 マクベス 三人の魔女 マダレ(盗賊の親分) 今昔物語集
宇治拾遺物語平安の大盗賊の袴垂
※道長四天王の1人・藤原保昌の弟・藤原保輔が盗賊に落ちぶれた説ありシキブ(国王の愛人) 和泉式部
※道長四天王の1人・藤原保昌の妻
▼アヌーナ特別公演「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~
【演題】アヌーナ特別公演「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~
【演目】第一部 「アヌーナ」と「雪女」の神秘
①ドキュメンタリー映画「ビハインド・ザ・クローズド・アイ」
<監督>マイケル・マクグリン(アヌーナ芸術監督)
②「雪女物語」絵と語りとチェロ
<絵>伊勢英子
<Vc>坂本弘道
<語り>中井絵津子
<構成>川島恵子
③講演「小泉八雲、「雪女」をめぐる物語」
<講師>小泉凡(小泉八雲曾孫)
第二部 「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~
④合唱団「アヌーナ」のコーラス(演目不詳)
⑤「雪女」の幻想
<作曲>マイケル・マクグリン
<原作>小泉八雲
<コーラス>マイケル・マクグリン
アンドリュー・ブーシェル
キーアン・オ・ドンネル
ライアン・ガーナム
ダヒー・オ・ニューノイン
ノア・タイス
ジョナサン・レイノルズ
エロディ・ポーン
アシュリン・マクグリン
ポリーン・ラングワ・ドゥ・スワートゥ
サラ・ディ・ベッラ
ローナ・ブリーン
サラ・ウィーダ
ローレン・マクグリン
ルーシー・チャンピオン
<能楽師>津村禮次郎
<笙>東野珠実
<大鼓>柿原光博
<舞台監督>串本和也
<音響>田中裕一
<照明>藤原昭三
<絵>伊勢英子
<美術>OLEO
【日時】2024年12月7日(土)14:00~、17:30~
【会場】すみだトリフォニーホール
【一言感想】
前回のブログ記事でも触れましたが、中世アイルランドの伝統音楽とクラシック音楽やコンテンポラリー音楽などを融合して現代的にアレンジした合唱曲などを歌う合唱団「アヌーナ」が来日します。合唱団「アヌーナ」は2017年に来日した際にW.イエーツの戯曲「鷹の井戸」を題材に能と合唱とを融合したケルティック能「鷹姫」を上演して大変に話題になりましたが(同じくW.イエーツの戯曲「鷹の井戸」を題材にした坂本龍一さんと高谷史郎さんの舞台「LIFE-WELL」も秀逸)、今回は小泉八雲(ギリシャ系アイルランド人で日本に帰化したラフカディオ・ハーン)の怪談「雪女」を題材にして能の舞と合唱を融合した「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~が上演される予定になっています。また、この公演との併催として、アイルランドの詩人フランシス・レッドウィッジさんの詩にインスピレーションを受けて作曲活動を行うアヌーナの音楽監督を務めるマイケル・マクグリンさんがアイルランドの豊かな大自然を撮影し、その大自然にルーツを持つ合唱団「アヌーナ」の音楽性を伝えるドキュメンタリー映画の上映、絵本作家の伊勢英子さんの「雪女」のイラストを特別上映する音楽朗読劇の公演、小泉八雲曾孫の小泉凡さんによる「雪女」に関する講演が予定されており注目されます。この点、北欧地域にはノルド神話のスカジや冬の女神のカリアッハベーラなど冬、氷や雪などを司る女神、妖精や精霊などに関する伝説があり、また、日本にも古くから妖怪の雪女に関する伝説がありますが、これらの伝説には上述のとおり多神教(アイルランドではドルイド教、日本では神道や仏教)の世界観が持つ自然(地を支配する女神)に対する信仰と畏怖の二面性が彩る豊かなイマジネーション(C.ユングが言う集合的無意識の「元型」と捉えることができるかもしれないもの)が現れているように感じられ、非常に興味深いです。舞台を鑑賞した後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、舞台の宣伝のために予告投稿しておきます。
―――>追記
第一部 「アヌーナ」と「雪女」の神秘
①ドキュメンタリー映画「ビハインド・ザ・クローズド・アイ」(2023年)
アイルランド詩人フランシス・レッドウィッジさんの詩にインスピレーションを受けたアヌーナ音楽監督で作曲家のM.マグクリンさんがアルスター管弦楽団と共演したアルバム「ビハインド・ザ・クローズド・アイ」に収録されている音楽を基に、その音楽の源泉となったアイルランドの美しい大自然と関係者のインタビューを交えたドキュメンタリー映像が放映されました。冒頭、アルバムに収録されている音楽と共に、アイルランドの美しい映像、サウンドスケープと楽譜がオーバーラップされたミュージックビデオが映し出されましたが、M.マグクリンさんが音楽を作曲するにあたり着想を得た景色を目の当たりにすることで音楽と自然の強い結び付きを統合的に認知できるようになり音楽のイメージが豊かに広がって行くのを感じました。過去のブログ記事でも触れたとおり、人間はミラーニューロンの働きにより他人の体験を追体験することで他人の心理、意図や文脈などを推測して共感(反感や不感を含む)するものなので、聴衆が作曲家の固有な体験を追体験し易くする古くて新しい工夫ではないかと思われます。このミュージックビデオは聴衆をマウントしてくる押し付けがましさや聴衆を煙に巻く取っ付き難さなどはなく、さながらアイルランドの風に吹かれているような自然と共鳴する優しい音楽が聴衆に寄り添ってくる心地良さがあり、聴衆が作曲家の表現意図を探りながら共感するエンパシー(排他性)というよりも、聴衆が自らのプロジェクションを音楽に投射しながら共感するシンパシー(包摂性)を促すもの(世阿弥の言葉を借りれば「その風を得て心から心に伝ふる花」のようなもの。※「風」とはWindのことではなくミラーニューロンの働きにより感じられるMindのこと)であり、過去のブログ記事でも触れましたが、多様性の時代を背景として「聴衆の感性や美意識、想像力や知性を尊ぶ」(能楽師・山本東次郎さんの名言)、即ち、聴衆の主体性を尊重するポスト・クラシカのような懐の広い音楽性を持ったものに感じられました。アイルランドの伝統音楽はケルト文化やドルイド教(多神教)の影響があり、日本の伝統芸能も神道や仏教(多神教)の影響がありますので、それぞれの文化には多神教的な価値観や自然観などを基層とする共通点が多いように感じられます。
②「雪女物語」絵と語りとチェロ
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談「雪女」を台本(ケルト音楽の普及に尽力されている主催の川島恵子さんの構成及び訳)として、スクリーンに絵本作家の伊勢英子さんの絵本「雪女」のイラストが映し出され、銅版画家・中井絵津子さんの語りと作曲家兼チェリストの坂本弘道さんの音楽による音楽朗読劇が上演されました。怪談「雪女」は誰もが知る有名な話なので筋書は追いませんが、スクリーンには淡い筆致で描かれた幻想的なイラストが映し出され、その現実とも幻想ともつかない間(あわひ)を紡ぐ精妙な風趣によって俗界(現実)と異界(幻想)が重なり合う怪談「雪女」の世界観へと誘われました。音楽は坂本さんが作曲されたものだと思いますが、チェロとエレクトロニクス(又はエフェクター)を使ってイラストに情感や空気感などを添えて行く多彩な音楽に魅了されました。ピッチカートでギターや琵琶を連想させる独特な音響を生み出しながら雪女の美しさに対する巳之吉の憧憬感を表現する叙情的な音楽や雪女の残酷さに対する巳之吉の恐怖心を表現する緊張感のある音楽など巳之吉の複雑な心情が音楽で雄弁に物語られていました。また、生音(俗界)と録音(異界)を使ったアンサンブルでは茂作を殺した雪女(異界が俗界にもたらす災厄)に対する巳之吉のやり場のない憤りやチェロとエレクトロニクスによるロングトーンで笙(又は篳篥)を連想させる独特の音響を生み出しながら揺蕩う音型やグリッサンドで俗界と異界の間(あわひ)を彷徨う雪女の異様な雰囲気が巧に表現しており、巳之吉が雪女との約束を破ったことで霞と消えるお雪の存在の二重性(俗界のお雪、異界の雪女)を重音で表現するなど非常に着想が豊かな劇性に富んだ音楽が出色でした。先年のコロナ禍では南北の格差解消のために北半球の資本を南半球に投入して急速に開発を進めたことで自然界に存在していた未知のウィルスが人間界に侵入し易くなったことが原因の1つに挙げられていましたが、怪談「雪女」は怪談という体裁を借りながら人間が自然の奥深くに分け入りその欲望のままに自然を破壊し続けてきたことに対する自然からの警告であり、自然を尊重し調和するように心掛けなければならないという人間に対する戒めではないかと思われ、その意味では世代間に受け継がれている怪談を含む民話は人類のナレッジ・バンク(教養、集合知)として機能しているのではないかと思われます。また、後述のとおりL.ハーンは幼少期に母親に捨てられた経験があることから、雪女の口をして巳之吉に子供達を不幸にしてはならないことを語らせているのかもしれません。現代でも子供が被害となる痛ましい事件が後を絶ちませんが、怪談「雪女」は現代人に対するメッセージ性を多分に含んだ作品と言えます。
③講演「小泉八雲、「雪女」をめぐる物語」
小泉八雲(L.ハーン)の曾孫で小泉八雲記念館の館長である小泉凡さんから小泉八雲の人生と怪談「雪女」に関する講演がありました。最初にL.ハーン(小泉八雲)の略歴が紹介されました。L.ハーンは1850年に誕生し、程なくして父親はインドへ単身赴任になり母親とアイルランドで暮らすことになりましたが、1854年に母親が精神疾患に陥り母国のギリシャへ帰国してしまったことから父親方の大叔母にアイルランドで養育されました。L.ハーンは大叔母が厳格なクリスチャンだった反動からキリスト教を敬遠するようになり、その家に雇われていた乳母から妖精の話などケルト文化を吸収しながら育ちドルイド教に傾倒していったそうです。その後、父親が病死し、大叔母が破産すると、L.ハーンは1869年にイギリスを経由してアメリカへ移住しましたが、そこで知人から日本は文明社会に汚染されていない美しい国であるという話を聞かされたことを契機として1891年に来日し、松江の中学校で英語教師の職に就くと共に、L.ハーンの家で住み込み女中として働いていた小泉セツと結婚しました。その後、熊本、神戸と職を変え、1896年に東京帝国大学の英文学講師の職に就いたことを契機として日本に帰化し、名前を小泉八雲に改めました(名前の八雲は出雲国の枕詞「八雲立つ」に由来)。L.ハーンは1903年に東京帝国大学を退職し、1904年に「KWAIDAN」を出版しましたが、その後間もなく永眠しました(享年54歳)。小泉凡さんによれば、1893年にL.ハーンが日本研究家・B.チェンバレンに宛てた手紙で初めて雪女のことに触れているそうですが、東京都青梅市千ケ瀬町(東京都八王子市楢原町の可能性も指摘されていましたが)に伝承されていた異類結婚譚を再話した可能性が高いと考えられ、それを基にして東京都新宿区大久保の自宅で小林セツの協力を得ながら「KWAIDAN」を執筆したそうです。また、小泉凡さんによれば、1901年にL.ハーンがアイルランド詩人のW.イェイツに宛てた手紙で自然と向き合うことの大切さに触れているそうですが、雪女は自然のメタファーであり自然を支配の対象と捉える人間中心主義的な傲慢さに対する警告ではないかという趣旨のことを語られていたことは正しく慧眼であり、怪談「雪女」は現代人の教養を育む現代的なテーマ性を多分に備えた作品に感じられました。なお、2025年度後期の連続テレビ小説(朝ドラ)では、小泉八雲(L.ハーン)の妻である小泉セツ(小泉凡さんの曾祖母)をモデルにしたドラマ「ばけばけ」が放映される予定になっているそうなので、今から楽しみです。怪談「雪女」はオペラ「雪おんな」にも翻案されているようですが、是非、朝ドラでも採り上げられる機会に再演を期待したいです。
第二部 「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~
④合唱団「アヌーナ」のコーラス(曲目不詳)
パンフレットには「コンサートではこの中から20曲前後が歌われる予定です。会場によって曲目・曲順が異なりますのでご了承ください。」と記載されていますが、老輩にはすべての曲目を覚えていられませんでしたので各曲毎の感想は割愛し、アヌーナの全体的な印象について簡単に触れておきたいと思います。アヌーナの音楽監督のM.マクグリンさんが「・・・我々はイギリスやドイツの古楽は歌うけど、アイルランドの古楽は歌っていないじゃないかと。・・これは現代の人々にも理解できるようにアレンジしたら人々の心を打つものができるのではないかと思ったんです。・・・それでアイルランドでは初となるプロフェッショナルなコーラス・グループを作ったのです。」とアヌーナを設立した動機を語ったうえで、「・・・アイルランドの古い楽譜をなんとか再現したかった。そのためには、オペラ的なベルカント唱法では無理だし、普通のポップスやフォークミュージシャンの発声法でもダメだと感じました。だから、歌う人それぞれの自然な声を活かし、響きを重視したハーモニーを創ったんです。同時に、世界中の民族音楽に残る発声法も研究して採り入れました。ヨーロッパでは廃れてしまった発声法が民族音楽の中に残っていると考えたからです。」とアヌーナの音楽性を語っていましたが、シルクのように柔らかく純度の高いアヌーナの奇跡のハーモニーは、このようにして生まれたものであることが理解できました。冒頭ではドイツ人女性で詩人兼作曲家のヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098~1178)が作曲した聖歌へのオマージュとしてM.マクグリンさんが作曲した聖歌「サンクトゥス」が歌われました。能舞台の橋掛り、本舞台、後座を意識してT字型に設えられた舞台をキリスト教会の祭壇に見立たて無数のローソクが立てられ、舞台照明が落とされるなかをローソクを灯した女性コーラスと男性コーラスが登場しました。サンクトゥス・ベルが鳴らされて聖歌「サンクトゥス」が歌われると会場は厳かな雰囲気に包まれました。バロック音楽のような装飾は施されず、ルネッサンス音楽を体現する長い音価が保たれた静謐なコーラスは全てを大らかに包み込む広がりのある響きを生むもので、その静謐なコーラスが静寂へと溶けて行く儚さや深遠さのようなものが愛おしく感じられるような極上のエンジェル・ボイスを堪能できました。なお、止むに止まれぬ思いからボヤいてしまいますが、日本人の拍手好きが祟ってミサの途中に拍手が起こり興を削がれましたが、歌舞伎でも「間」の良い掛け声は芝居を活かし、「間」の悪い掛け声は芝居を殺すのと同様に、(悪気はないとは思いますが)勇み足のような無粋な拍手で会場の空気を威勢よく壊してしまうご乱行は感心できず、静寂に心を澄ませる余裕やデリカシーのようなものを求めたいところです。もともと日本人には「岩にじみ入 蝉の声」を聴き分ける豊かな感性があったはずですが、誠に残念な状況です。その後、スクリーンにアイルランドの美しい大自然の映像が映し出され、M.マクグリンさんが作曲した音楽が歌い継がれて行きましたが、とりわけ柔らかいコーラスが幾重にも重なりながらアイルランドの山脈の稜線やアイルランドの風に撫でられる砂漠の風紋を表現する幻想的で美しい音楽に心を奪われ、さながら音楽を通じて自然に触れているような芸術体験が新鮮に感じられました。また、今日は日本人作曲家・光田康典さんが2018年に任天堂のゲーム「ゼノブレイド2」(人類が原罪によって追放された世界樹の上にある楽園を目指すという物語性があるゲーム)のために作曲し、アヌーナが歌を担当した「Shadow Of The Lowiands」(サウンドトラック)のギター編曲版も歌われましたが、近年、アヌーナはゲーム音楽などにも活動の幅を広げており、本日の公演でソリストを務めていたA.マクグリンさん(M.マクグリンさんの愛娘)は光田さんが音楽を担当したスクウェアのゲーム「クロノ・クロス:ラジカル・ドリーマーズ・エディション」(サウンドトラック)でもソリストとして参加し、2019年にNHK番組「のど自慢」にも出場した経験もあるそうですが(合格の鐘:ドシラソ・ドシラソ・ド・レ・ミが高らかに鳴らされたことに間違いありませんが)、まるで聖母マリアを思わせる慈愛に満ちた繊細な歌唱に魅せられました。
⑤「雪女」の幻想
小泉八雲(L.ハーン)の怪談「雪女」を題材にしてアイルランドの中世(アイルランドの伝統音楽)と日本の中世(能楽)を融合する幻想的な舞台に魅了されました。スクリーンには伊勢さんが描いた雪女のイラストが映し出され、大鼓の柿原光博さんと笙の東野珠美さんが舞台に向かって右側(切戸口)から入場し、また、舞台の両側(地謡座と見所の脇正面)に男性コーラスと女性コーラスが配置されました。笙の演奏に乗せてコーラスが歌われましたが、(音調は手間取るのかもしれませんが)笙は上記の歌舞伎公演で使われていたアイルランドの民族楽器イリアン・パイプに近い音響を持ち、笙の響きとコーラスの響きに親和性が感じられ、その神秘的な響きが雪女のイラストと重なって幻想的な舞台を作り出していました。やがてシテの津村禮次郎さんが能面(大向うに席に座っていたので何の能面をつけていたのか不明)をつけて白装束の衣被(異界の者が登場する場面などで能面が見えないように衣で頭を覆い隠す演出)で舞台に向かって左側(橋掛り)から登場しましたが、この場面で歌い添えられた純度の高い透明感のある女性コーラスが雪女の凍てつくような美しさをイメージさせるもので出色でした。また、シテが舞う場面では大鼓とコーラスという非常に珍しい組合せのアンサンブルが演奏され、正直に言ってしまえば、若干の違和感を禁じ得ませんでしたが(個人的なイメージでは、余白を生む大鼓、余白を彩るコーラスという性格の違いがあるように感じますが)、大鼓とコーラスがお互い干渉し合わないように間合や音量などに配慮したデリケートな演奏が聴かれました。シテはお雪を演じる場面ではピンクの装束、雪女を演じる場面では白の装束を身に着けていましたが、物語終盤でシテが白の衣装を身に着けて雪女を演じる場面では、舞台の前方で歌うコーラスが俗界、舞台の後方で演じるシテ、大鼓及び笙が異界を体現しているように感じられ、さながらコーラスは俗界と異界を結ぶワキのような存在として、コーラス(ワキの夢をイメージさせる幻想的な風趣)に彩られた幻想の世界の中でシテが謡い舞う俗界と異界が重なり合う幽玄の舞台が顕在しているように感じられて白眉でした。これまで能楽の革新的な舞台を色々と見物してきましたが、世阿弥とは異なるアプローチによって幽玄の世界観を見事に表現している舞台に目鱗でした。ヴラヴィー!
アンコールとして、さくらさくら、ダニーボーイ、ホリーナイトが歌われ、ホリーナイトではオーロラの映像が映し出されましたが、風にそよぐレースのカーテンのように柔らかく繊細に移ろうアヌーナのコーラスはオーロラのイメージそのものであり、淡い色彩を放ちながら空中に揺蕩っているようなイメージがあり、アイルランドの自然そのものがアヌーナの音楽性を育んでいることを体感できました。近年、世界各国で異常気象によるものと思われる自然災害に関するニュースが後を絶ちませんが、アヌーナの音楽は現代人が日常生活の中で触れることが難しい自然(人間が知覚できる環世界だけではなく、人間が知覚できないものを含む環境世界)を身近に感じ、自然を尊重し調和するための教養(心の豊かさ)を育むことができる現代人に必要とされる音楽ではないかと感じます。
▼オペラ「グラウンデッド」(メトロポリタン歌劇場)
【演目】メトロポリタン歌劇場
オペラ「グラウンデッド」
【作曲】ジャニーン・テソリ
【台本】ジョージ・ブラント(戯曲「Grounded」に基づく)
【出演】ジェス役 エミリー・ダンジェロ(Mez)
エリック役 ベン・ブリス(Ten)
センサー役 カイル・ミラー(Bar)
コマンダー役 グリア・グリムスリー(Bar)
【演奏】<Cond>ヤニック・ネゼ=セガン
<Orch>メトロポリタン歌劇場管弦楽団
【美術】ミミ・リエン
【衣装】トム・ブロッカー
【照明】ケビン・アダムス
【映像】ジェイソン・H・トンプソン
ケイトリン・ピエトラス
【音響】パーマー・ヘフェラン
【振付】デビッド・ニューマン
【助言】ポール・クレモ
【制作】マイケル・メイヤー
【日時】2024年12月13日~19日
【一言感想】ネタバレ注意!
稀代の名総裁・P.ゲルブさんのもとで改革が進むメトロポリタン歌劇場は、2016年にフィンランド人現代作曲家のカイア・サーリアホさんのオペラ「遥かなる愛」をメト初演したのを皮切りに、2018年に初めてアメリカ人現代作曲家のジャニーン・テソリ(1961年~)さん及びアメリカ人現代作曲家のミッシー・マッツォーリ(1980年~)さん(2026年にオペラ「バルドーのリンカーン」がメト初演予定)の2名の女性作曲家に新作オペラの作曲を委嘱しましたが、今回はそのうちの1作であるジャニーン・テソリさんのオペラ「グラウンデッド」がメト初演され、今般、日本でもその映像が公開されます。ジャニーソ・テソリさんは2015年にミュージカル「ファン・ホーム」(2013年世界初演)や2023年にミュージカル「キンバリー・アキンボ」(2021年)でトニー賞最優秀作曲賞を受賞され、2020年にアメリカの人種差別問題を扱ったオペラ「ブルー」で北米音楽批評家協会「ベスト・ニュー・オペラ賞」を受賞されるなど、多方面で活躍されている現在最も注目される現代作曲家です。近年、世界各地で自然災害により数多くの人々の命が失われ、その生活が奪われていますが、上述のとおり地の女神(=自然)は再生(与え)と破壊(奪う)の象徴とされており、このオペラの主人公・ジェスも母(再生の象徴)とドローン操縦士(破壊の象徴)の2つの顔を持ち、その狭間で葛藤する姿が描かれているようです。過去のブログ記事で人間が「憎」の感情を抱くときは「対象」を動物などに擬制することにより人間らしいイメージを払拭して「共感」の働きを抑制することにより「対象」への敵意や暴力を正当化する心理プロセスが働くと述べましたが、現代は「対象」を動物などに擬制するまでもなく遠隔地からモニターすることにより「対象」がバーチャルな存在(TVゲームなど)に擬制されてしまう時代ですが、プロモーションによれば、ジャスは母(再生の象徴)となって教養が磨かれ、豊かな知性を身に着けることによりモニターの向こう側に広がるリアルな存在(このオペラでは子を慈しむ親として同じアイデンティティを共有する人間性)に気付いて「憎」の感情を克服する姿が描かれているようであり、そう考えるとリアルとバーチャルのハイブリッドな世界に生きる現代人にとって深いテーマ性を備え、現代の時代性に共鳴するオペラと言えるかもしれません。オペラを視聴した後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、オペラの宣伝のために予告投稿しておきます。
オペラを視聴した後に時間を見付けて簡単に感想を書きます。
▼「笙|SHO」トーク+ミニコンサート
【演題】「笙|SHO」トーク+ミニコンサート
【演目】①中村華子 笙ミニコンサート
②「笙|SHO」トーク+ミニコンサート
【演奏】<笙>中村華子
【対談】石田多朗(作曲)、中村華子(笙)
ささきえり(映像)、石尾一輝(監督)、青柳厚子(演出)
【日時】2024年12月15日(日)13:00~、14:00~
【会場】那須塩原市図書館みるる
【一言感想】
先日、エミー賞を受賞した映画「SHOGUN 将軍」のサウンドトラックが2025年2月に発表される第67回グラミー賞/最優秀映像作品サウンドトラック部門作曲賞にノミネートされました。因みに、最優秀ニューエイジ・アンビエント・チャント・アルバム部門には坂本龍一さんの「Opus」もノミネートされています。このサウンドトラックは、ニック・チューバさん、アッティカス・ロスさん及びレオポルド・ロスさんが作曲を担当し、日本から石田多朗さんがアレンジャーとして参加して雅楽や日本の伝統音楽に関するアレンジやレコーディングなどを手掛けています。グラミー賞はノミネートされるだけも大変に名誉なことなので、心から祝意を述べたいと思います。その石田多朗さんが手掛ける最新作「陵王乱序|ANJO」が2025年1月(栃木)及び同3月(東京)に公演される予定がありますので、これは絶対に見逃せません。また、それに先立って12月3日、同4日、同15日に那須塩原市図書館みるるで石田多朗さんらによる「笙|SHO」の公開制作、トーク及びミニコンコンサートが開催される予定がありますので、こちらも見逃せません。12月3日、同4日は平日なので参加できませんが、同15日は休日なので久しぶりに那須塩原を満喫がてらことりっぷしてみようかと目論んでいます。楽しみ!来年に公演される「陵王乱序|RANJO」(僕は3月の東京公演に参加予定)の前哨戦として、「笙|SHO」の鑑賞後に簡単に感想を書いてみたいと思いますが、イヴェントの宣伝のために予告投稿しておきます。
鑑賞後に時間を見付けて簡単に感想を書きます。
▼新作オペラブームの到来(鳥羽山紗紀の新作オペラ「歌麿の恋」と永井秀和の新作オペラ「足立姫」と木下牧子の新作オペラ「陰陽師」)メトロポリタン歌劇場が精力的に新作オペラの上演を行っており、日本でも昨年の新作オペラ「ニングル」や来年の新作オペラ「女王卑弥呼」及び新作オペラ「ナターシャ」、再来年の新作オペラ「奇跡のプリマ・ドンナ」など新作オペラを上演する機運が高まってきている状況を心から歓迎したいです。年内にははなさきオペラ工房が鳥羽山紗紀さんの新作オペラ「歌麿の恋」を世界初演し、路地裏寺子屋が永井秀和さんの新作オペラ「足立姫」を再演し、また、来年早々には東京室内歌劇場が木下牧子さんの新作オペラ「陰陽師」を世界初演するというので、日程の都合が付く新作オペラ「足立姫」と新作オペラ「陰陽師」の2公演を聴きに行く予定にしています。また、今回は都合がつきませんので聴きに行くことができませんが、来年にはNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」が放送されますので、新作オペラ「歌麿の恋」が再演される機会に恵まれることを強く願います。なお、【新年の挨拶②】で新年の抱負を書く予定にしていますが、来年は21世紀に創作された「新作」(その再演を含む)に価値を置いて集中的にキャッチアップして行きたいと考えています。▼2025年度武満徹作曲賞ファイナリスト決定2025年5月25日(日)に開催予定の武満徹作曲賞の審査員でオーストリア人現代作曲家のゲオルク・フリードリヒ・ハースさんによる譜面審査(33ヶ国137作品)の結果、以下の4名がファイナリストに選ばれました。おめでとうございます。これだけの応募作品を1人で審査するのは相当に大変ではないかと思いますが、世界中から数多くの作品が応募されていますので世界レベルの権威ある作曲賞と言えるのではないかと思います。その意味でファイナリストとしてノミネートされるだけでも大変に栄誉なことではないかと思います。● チャーイン・チョウ(中国) 潮汐ロック
● 我妻 英(日本) 管弦楽のための「祀」
● 金田 望(日本) 2群のオーケストラのための「肌と布の遊び」
● フランチェスコ・マリオッティ(イタリア) 二枚折絵