大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

第41回読響アンサンブル・シリーズ(鈴木優人)と東京藝術大学芸術未来研究場アートDXプロジェクト(河村絢音)と東京・春・音楽祭2024(成田達輝)とシアターピース「TIME」(坂本龍一、高谷史郎)と世界のサカモトの世界<STOP WAR IN UKRAINE>

▼世界のサカモトの世界(ブログの枕単編)
来る3月28日に一周忌を迎える坂本龍一さんですが、名前に「龍」の文字がつく人は辰年生まれの人が多く、坂本龍一さんのほかにも村上龍さんや芥川龍之介なども今年が年男の辰年生まれだそうです。因みに、坂本龍馬は辰年生まれではなく未年生まれですが、母・坂本幸が懐妊中に「麒麟」を受胎する夢を見たことに肖って、麒麟の頭=龍、麒麟の胴体=馬から「龍馬」と名付けたそうです。幕末、坂本龍馬のために奔走したイギリス人貿易商のT.クラバーは後に坂本龍馬の旧友・岩崎弥太郎の弟と協力してビール会社(現、キリンビール)を創立し、T.クラバーの提案で「麒麟」のエンブレムが採用されましたが、T.クラバーの手によって坂本龍馬はビールに生まれ変わり坂本龍一さんの音楽と共に現代人を酔わせ続けています。因みに、坂本龍一さんは自著「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」で自らのルーツに触れていますが、それによれば坂本龍馬との直接の関係はなさそうです。
 
 
さて、今回は坂本龍一さんの一周忌を迎えるにあたり、坂本さん(以下、「坂本さん」とは坂本龍一さんのこと)を追慕して供養したいという想いから世界のサカモトの世界と銘打って坂本さんについて書きたいと考えましたが、一応、巷に溢れる坂本さんに関する本(自著、他著)や音楽などには一通り触れてはいるものの、1ファンに過ぎない軽輩が坂本さんのことを無責任に書き散らかすことはできませんので、先日、NHKEテレで再放送された「SWITCHインタビュー達人達「坂本龍一X福岡伸一」」のEP1及びEP2で語られた内容に限り、その概要を簡単に採り上げてみたいと思います。この番組は、全く異なる分野の達人達の対談(エコトーン)により相互に共通するエッセンスなどを探る過程でどのようなスイッチ(シナプス可塑性)が生じるかというコンセプトによるクロスインタビュー番組で、坂本さんがアルバム「async」(坂本さんの命日2023年3月28日から6年前の2017年3月29日に発売)をリリースした年に予てから親交のあったロックフェラー大学客員教授(分子生物学)・福岡伸一さんと対談した模様を収録したものです。
 
▶ピュシスとロゴスの相克
芸術(音楽)と科学(生物学)の基本的な性質として、芸術(音楽)は一回性の表現(演奏は二度と同じ結果が得られないもの)であるのに対して、科学(生物学)は再現性の表現(実験は何度繰り返しても同じ結果が得られるもの)であるという意味で異なる営みのように見えますが、世界の成り立ちについてどのように表現するのかという意味では本質的な違いはないとも言えます。神の時代(神秘)から人間の時代(科学)へと移行したルネサンスを淵源とする20世紀型の思考は成果もありましたが、その弊害も見えてきています。本来、自然(ピュシス)はランダムなノイズに充たされた一回性の世界であり、科学はそのうちの再現性のあるシグナルのみを自然法則(ロゴス)として切り取ってきましたが、それによりノイズが見失われるようになったことでロゴスだけでは回収し切れない問題に対する新しいビジョンが必要になってきているという問題意識が示されました。この点、ドイツ人理論物理学者のJ.ユクスキュルは著書「生物から見た世界」で、人間以外の生物がどのように世界を知覚しているのかを説き表しましたが、過去のブログ記事でも触れたとおり、客観的に存在する「環境世界」に対し、それぞれの生物が知覚している主観的に存在する「環世界」(環境世界>環世界)があり、人間以外の生物はそれぞれの生存戦略として人間が捨象したノイズの一部を採り入れることを選択しているなど(例えば、可視域可聴域可嗅域など)、現代の科学はノイズを含めた総体として自然(古典物理学が記述するマクロの世界だけではなく、現代物理学が記述するミクロの世界を含む)を観察しなければ、この世界を正しく記述できないと認識されるようになっています。この点、前回のブログ記事でも触れたとおり、人間の脳は自らの生存可能性を高めるために偶然(ランダム)を嫌って理由(因果関係)を求める傾向があり、人間がコントロールし易いように偶然(ランダム)なものをロゴスで切り取って変形、加工しようとする認知特性(認識の監獄、即ち、言葉、分節や知識などによるロゴスの呪縛)から逃れられないというジレンマを抱えています。この背後には人間と自然は区分され(二元論的な世界観)、人間が自然の外側から自然を支配する者という認識がありますが、人間も自然の一部としてノイズを構成し(一元論的な世界観)、自然の内側から自然と共生する者であるという認識を持たなければならない時代状況にあり、過去のブログ記事(日本の耳が聞く蝉の声)でも触れた日本人が自然に対して持っていた鋭敏な感性を取り戻すところから始める必要があるかもしれません。このように芸術(音楽)や科学(生物学)が表現しようとする世界は、ロゴス(イデア、言語、論理、アルゴリズムなどで切り取られる人間中心主義的な世界)とピュシス(自然尊重主義的な世界観)の相克が絶え間なく交錯しているという問題意識が共有されました。
 
▶生命観(動的平衡)
生物は分子で構成されており、例えば、ネズミがチーズを食べるとネズミの分子の一部が分解されてチーズの分子に置き換えられますが、人間も約1年程度で体全体の分子が別の分子に置き換えられると言われています。科学は20世紀まで「作る」ことの研究が盛んでしたが、生命現象は「作る」ことよりも「壊す」ことの方が重要であることが認識されるようになると、20世紀末頃から「壊す」ことの研究が盛んになって、2016年に東京工業大学教授・大隅良典さんがオートファジー(自食作用)の研究でノーベル生理学・医学賞を受賞しました。福岡さんは著書「動的平衡」で、フランス人哲学者・H.ベルクソンが著書「創造的進化」で説いた「エラン・ヴィタール(生命の躍動)」やオーストリア人理論物理学者・E.シュレディンガーが著書「生命とは何か」で説いた「負のエントロピー」などの研究成果を参照しながら、生命現象とはエントロピー増大の法則(熱力学第二法則のことで、ここでは生命秩序の崩壊を意味しますが、これを簡単に言えば、分子がバラバラに分解していくイメージ)に抵抗して分子の分解と合成を繰り返しながら生命秩序の維持を図るためのバランス(動的平衡状態)を保とうとする作用ですが、常に分解のスピードが合成のスピードを上回っているので徐々に生命秩序の崩壊は進行してやがて消滅する運命にあり(ベリクソンの弧)、これが生命の有限性であると説いています。これを言い換えれば、ノイズから生命が合成されて、やがて生命はノイズに戻っていくとも言えます。(紙片の都合から詳細な内容は割愛しますが、ご興味がある方は引用書籍をご参照下さい。)
 
▶音楽観(async)
上述のとおり、人間はコントロールし易いように、本来、偶然的であるものをロゴスで切り取って変形、加工しようとする認知特性があり、自然(地)よりも自然法則(図)に意味を見出し、如何に自然法則(図)を美しいものに仕上げるのかということに価値を置いてきましたが、これはルネサンス以降の音楽についても同様のことが言えます。しかし、過去のブログ記事でも触れたとおり、禅や易学などの東洋思想の影響を受けたジョン・ケージは「ふつう〈音楽的〉と考えられているものに音が隷属させられている状態を拒否する」(著書「ジョン・ケージ 小鳥たちのために」)と宣言し、時間に従って音を構造化した図(音楽)ばかりではなく地(ノイズ)を聴くための偶然性(ランダム)を採り入れて、ロゴス(音楽的なもの)から音を解放しました。人間は時間や数字などに象徴される線形思考によりロゴスを使って世界を記述してきましたが、音楽も時間軸上に音符を並べて始点と終点がある線形的なものと考えられてきました。この点、現代音楽は分節ばかりに集中し、新たな連接の方法を見付け出せていないと言われてきましたが、坂本さんは直線的な時間の中で始点と終点を決める西洋音楽が一神教的な世界観であるとすると、もともと音楽はもっと多神教的、アニミズム的で始点や終点もなくタイムフレームからはみ出すようなものだったのではないかという考えから、線形ではない音楽、即ち、ピュシスとしての脳を持ち非線形的で時間軸がなく順序が管理されていない音楽を作れないものかと模索しているそうです。その意味では、坂本さんのアルバム「async」はベリクソンの弧のように音楽がノイズに戻りながらノイズから合成されるヒュシスの回復運動、本来音楽が持っている一回性のリズムなど、生命が発しているasync(非同期)を音楽的に表現したものと言えるかもしれません。人間が世界(ピュシス)を何らかの方法で表現しようとすれば、結局はロゴス化されることになりますが、坂本さんは「自然をできるだけありのままに記述する新しい言葉、より解像度の高い表現を求めることを諦めないこと、そのためにこそ音楽、科学、美術や哲学がある。文化と思想の多様性がある。」と看破されており、正しく慧眼です。坂本龍一さんが逝き、世の中が随分と味気ないものに感じられます。こんなことを口遊むのは、そろそろ僕も母なるノイズに戻って行くときが近いということかもしれません。なお、今月下旬に坂本さんが音楽監督を務めていた東北ユースオーケストラが坂本龍一監督追悼演奏会(既に東京公演は完売)を開催しますが、坂本さんが残した音楽文化のベリクソンの弧は次の世代へと受け継がれて音楽文化のヒュシスの回復運動として力強い歩みを続けています。
 
▼坂本龍一さんのアルバム「async」より「andata」
この曲には坂本さんの音楽観や死生観が表現されているのではないかと感じます。冒頭はピアノソロの演奏だけが流れますが、約55秒頃からオルガンが奏でる音楽はノイズの中から顕れ、ノイズと共に息衝き、ノイズの中へと戻って行く様子が表現されているかのようです。上述のとおり物質には合成と分解を繰り返す不思議な性質がありますが、この現象に宇宙、天体や生命の生滅の摂理が隠されています。この点、生物学者・福岡伸一さんが開設しているWebページの動画がイメージとして非常に分かり易く、この動画を観ながらこの曲を聴いてみることをお勧めします。大きな音楽が聴こえてきます。
 
▼第41回読響アンサンブル・シリーズ
【演題】第41回読響アンサンブル・シリーズ
    鈴木優人プロデュース
    2つのチェンバロ協奏曲とG.トラークルの詩による3つの作品
【演目】①J.S.バッハ チェンバロ協奏曲へ短調(BWV1056)
    ②A.ウェーベルン 6つの歌(作品14)
    ③H.ヘンツェ アポロとヒュアキントス
    ④鈴木優人 浄められし秋
    ⑤P.グラス チェンバロ協奏曲
【演奏】<Cond、Cem、Pf>鈴木優人①②③④⑤
    <Sop>松井亜希②④
    <CT>藤木大地③
    <Vn>戸原直①②③④⑤
        對島哲男①③④⑤
        赤池瑞枝④⑤
        太田博子④⑤
        寺井馨④
    <Va>森口恭子①③④⑤
        正田響子④⑤
    <Vc>唐沢安岐奈①②③④⑤
        林一公④⑤
    <Cb>瀬泰幸①④⑤
    <Fl>佐藤友美③⑤
    <Ob>荒木奏美⑤
        山本楓⑤
    <Cl>金子平②
        芳賀史徳②③
    <Fg>井上俊次③⑤
    <Hr>日橋辰朗③⑤
        伴野涼介⑤
    <Perc>金子泰子④
【場所】トッパンホール
【日時】2024年3月8日(金)19:00~
【一言感想】
読売日本交響楽団のクリエイティヴ・パートナーを務める鈴木優人さんが読響アンサンブル・シリーズでチェンバロ(古楽器)を使う現代音楽を採り上げるというので聴きに行きました。最近の顕著な傾向として、現代音楽を採り上げる演奏会で満席になる頻度が増えてきており、本日も満席の盛会になりましたが、徐々に、現代音楽を嗜む観客が増えてきている兆候ではないかと思われます。このような状況のなか、ストイックな響きやフットワークの軽さなどを特徴とする古楽器や古楽奏法を採り入れた現代音楽が注目されるようになってきていますが、昨年、BCJが霧島国際音楽祭で現代音楽を採り上げており、今後のBCJの動きからも目を離せません。人間の脳は飽きるように作られていますので、これからの時代の音楽家には定番曲を巧みに演奏するだけではなく世界中の新しい音楽の秀作(委嘱新作を含む)を発掘し、その魅力を観客に伝えてくれるような取組みにも期待したいと思っています。その意味で、鈴木優人さんのようにマルチな才能を発揮して多方面で活躍している逸材はいま旬の音楽家と言えるのではないかと思います。以下では、簡単に演奏の感想を残しておきたいと思います。
 
①J.S.バッハ チェンバロ協奏曲へ短調(BWV1056)
今日の演目はドイツ表現主義詩人ゲオルク・トラークルの詩を題材にした3つの声楽曲をJ.S.バッハとP.グラスのチェンバロ協奏曲(器楽曲)で挟むコンセプチャルな仕立てになっていましたが、チェンバロ(古楽器)とそれ以外の楽器(現代楽器)、J.S.バッハ(古楽曲)とP.グラス(現代曲)を対置して(十字架の縦棒「天の神」のメタファー?)、その間に麻薬中毒で現実と幻覚を彷徨ったトラークルの世界観を挟む(十字架の横棒「地の私」のメタファー?)というハイブリッドな演奏会になっていたのではないかと思います。上記のとおりチェンバロ(古楽器)以外は現代楽器が使用されていましたが、第二楽章がチェンバロの美観が際立つ好演でした。バッハの音楽は数多くの現代作曲家に影響を与え、その作曲にあたって参照され続けている文字通り天を仰ぎ見るような存在ですが、誤解を恐れずに言ってしまえば、P.グラスのチェンバロ協奏曲第一楽章を透かして見るとバッハの音楽の残照が浮かび上がってくるような肌触り感があります。(以下の囲み記事「チェンバロを使う現代音楽」で挙げているフランス人現代作曲家ジュール・マトンのチェンバロとオーケストラのためのバロック協奏曲第一楽章を聴いていても、音楽の父J.S.バッハの音脈を引く子が紡ぐ現代的なバロック(いびつ)であることが感じられて興味深いです。)
 
②A.ウェーベルン 6つの歌(作品14)
この曲は、A.ウェーベルンが様々な楽器編成で声楽曲を作曲していた時代の代表作ですが、G.トラークルの抒情詩集「夢の中のセバスチャン」から6篇の詩を選んで付曲したものです。セバスチャンとは、キリスト教徒を弾圧したディオクレティアヌス皇帝から処刑された近衛兵のことで、殉教後にキリスト教徒の夢の中に現れた聖人と言われています。G.トラークルは薬物中毒であったことが知られていますが、自然を題材にして独特な色彩、音韻や倒錯などを使って言葉(ロゴス)の意味を凌駕しながら夢(又は幻覚)の世界をイメージとして表現した詩人です。その一方、ウェーベルンはシェーンベルクの「1つの身振りで1編の小説を表し、1つの呼吸で1つの幸福を表す」という言葉に表されているとおりアフォリズム(物事の真実を簡素に表現する箴言警句を意味し、ヒポクラテスの「芸術は長く、人生は短し」という名言が代表例ですが、この言葉は坂本龍一さんのWebサイトでも引用されて話題になりました。因みに、世阿弥も「命には終りあり、能には果てあるべからず」(花鏡)という名言を残しています。)を音楽の特徴とし、無調音楽に傾倒しながら跳躍や緩急などを巧みに操って音楽に極度の緊張、凝縮を生む作風に魅力があり、それがG.トラークルの独特な詩の世界観と親和性があるように感じられます。この曲は、特殊な楽器編成(高音楽器:Vn又はCl、低音楽器:Vc又はBCl)で第1曲乃至第5曲は3つの楽器を多様に組合せた三重奏及び第6曲は4つの楽器の全奏で奏でられますが、全体的な印象としては閑寂とした趣きの中にも諧謔が入り混じる俳風に似た面白さが感じられました。読響メンバーの卓越したアンサンブル力により濃淡潤渇とした繊細さや奥深さを感じさせる集中力の高い演奏が聴かれ、これに呼応するソプラノの松井亜紀さんが高低強弱を淀みなく紡ぎながら、跳躍音の鋭さも感じられる研ぎ澄まされた清澄な歌唱には堂々とした風格や気品のようなものが感じられました。これまでのキャリアが一層と歌に磨きを掛けた印象があり、このアクのある難曲をすっきりとした後味良いものに感じさせてくれる好演でした。
 
H.W.ヘンツェ アポロとヒュアキントス
ギリシャ神話に登場するアポロンとヒュアキントスの物語(古代ギリシャでは同性愛は一般的でしたが、音楽の神アポロと恋仲にあった美少年ヒュアキントスに横恋慕した西風の神ゼフィルスが嫉妬の末に西風を吹かせてアポロンの投げた円盤をヒュアキントスに命中させてしまい、これによりヒュアキントスはヒアシンスの花になったという物語)は、W.A.モーツァルトの最初のオペラの題材にもなっています。20世紀半ば同性愛に不寛容であったドイツからイタリアに移住した同性愛者のH.W.ヘンツェがアポロンとヒュアキントスの物語を題材に選び、妹との近親相姦に苦しんだG.トラークルの抒情詩集「夢の中のセバスチャン」から「公園で」と題する詩を引用した意図を感じさせます。H.W.ヘンツェはオペラ作曲家として知られ、先日もH.W.ヘンツェが三島由紀夫の小説「午後の曳航」を題材にした傑作オペラ「午後の曳航(裏切られた海)」を採り上げた東京二期会の公演を拝聴しましたが、モダニズムからポスト・モダンへの端境期にあたる時代を生きた作曲家です。当初は十二音技法に傾倒していましたが、その後、斬新さ(革新的な様式)と聴き易さ(伝統的な様式)をバランスよく折衷した作風へ変遷していきました。この曲は十二音技法を使いながら新古典主義的な特徴も備えているという意味で、その片鱗が窺われると言えるかもしれません。この曲は女性のアルトが歌うのが通例ですが、本日の演奏では男性のカウンターテナー(変声期後の男性がファルセット唱法でアルトやメゾ・ソプラノの音域を歌うもので、変声期前のボーイ・ソプラノや去勢により変声期後も変声期前の声を維持しているカストラートとは異なります。)に代えて演奏されたこと、即ち、性をニュートラルにすること(女性の声域を男性に歌わせることによる性の倒錯)により、H.W.ヘンツェの作曲意図を効果的に演出するだけではなく、カウンターテナーの藤木大全さんの純度の高い透徹な声質が「朽ちた大理石」に刻まれた因縁深い歴史までも透かして映し出すような音楽的な効果を生んでいたと思います。大理石の彫像を思わせる十二音技法の無機質な肌触り感がある一方で、オペラ作曲家としての経験を感じさせる音が持つドラマ性や豊かな着想による劇的な展開などに惹き込まれる曲ですが、チャンバロと他の楽器陣が緊密に呼応するスリリングで雄弁な演奏を楽しむことができました。H.W.ヘンツェの作品は現代音楽の中では比較的に演奏機会が多いと思いますが、その作品価値に比べて日本での認知度や演奏機会は未だに低い印象を否めませんので、今後、さらに日本での認知度が向上して演奏機会が増えることを期待したいです。今日は、そんなことを改めて実感させられる充実した演奏でした。
 
④鈴木優人 浄められし秋
鈴木さんは、BCJの首席指揮者のほか、読売交響楽団のクリエイティブ・パートナー、関西フィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者を務めるなど飛ぶ鳥を落とす勢いの人気振りですが、東京藝術大学大学院古楽科及びハーグ王立音楽院オルガン科を卒業した古楽のエキスパートとして指揮者や鍵盤奏者の活動に留まらず、東京藝術大学作曲科も卒業した作曲家としても精力的に活動されており、そのバイタリティーには感心させられます。もともとバロック音楽(B)と現代音楽(C)は相性がよいと言われていますが、そのいずれにも精通している時代の寵児であり稀有な逸材です。この曲はG.トラークルの詩「輝く秋」を題材にしたものですが、パンフレットには「十二音音列的な旋律を描くソプラノ歌唱パートに対し、弦楽合奏はリズム・ユニゾンながらクラスター的な音響でそれを支え、コントラバス、ピアノとヴィブラフォンは、それらに体位的、対比的に絡まりながら進んで行く。」(音楽評論家・長木誠司さん)と楽曲解説が記されています。一聴した限りの感想になりますが、ユニゾンで力強く線(面)描する弦楽4部と、これに呼応して快活に点描するピアノ、ヴィブラフォン、コントラバスが対置されて音楽が展開されていきましたが、まるでジャズの編成のようなピアノ、ヴィブラフォン、コントラバスの組合せは非常に相性が良いもので、ジャズのグルーブ感を思わせる感興に乗じた面白い演奏を楽しめました。ソプラノの松井亜紀さんは詩情を湛えた優美な歌唱が出色で、上下に波打つような印象的な抑揚は「青い川を下る」又は「沈んでゆく」の様子を描写したものでしょうか、秋の憂いを帯びた美しい音風景を見ているようなヴィジュアルな印象を与える演奏を楽しめました。
 
P.グラス チェンバロ協奏曲
この曲は、P.グラスが2002年にノースウェスト室内管弦楽団から委嘱されて作曲した作品で、漸く2020年になって日本でも初演されましたが、僕も実演を聴くのは初となる貴重な機会となりました(鈴木さんと読響に感謝)。P.グラスは、チェンバロは古楽オーケストラよりも現代オーケストラの方が「力強くふくよかな響き」を作ることが可能であるという考えを持っており、以前からチェンバロを使った音楽の作曲に関心があったそうです。上述のとおり第一楽章はJ.S.バッハへのオマージュが感じられる曲想ですが、チェンバロと他の楽器陣が当意即妙に振る舞う自在なアンサンブルでミニマル・ミュージックが織り成す豊かなグラデーションを楽しむことができました。第二楽章はチェンバロがメランコリックに旋律を紡ぎ出し、それをヴィオラ、フルート、オーボエが歌い継ぐ叙情豊かな演奏に魅了され、この曲が湛えているチャンバロ音楽の美観の極致を汲み尽くす秀演を楽しむことができました。ヴラヴィー!第三楽章はアニメソングのような快活にしてユーモラスな曲想ですが、その垢ぬけたノリははっきりと好みが分かれるものかもしれません。今日は、そんなモヤモヤとした気持ちも割り切れてしまうような熱量の高い快演を楽しめました。
 
▼チェンバロ(古楽器)を使う現代音楽
チェンバロ(古楽器)を使う現代音楽は数多く作曲されていますが、Youtubeにアップされている音盤の一部を列挙しておきます。なお、日本人の現代作曲家もチェンバロ(古楽器)を使う現代音楽を数多く作曲していますが、Youtubeでチェンバロ(古楽器)を使っている音源が殆ど見当たりませんので列挙していません(今後、実演の機会が増えることを期待したいです)。
・ウォルター・リー (~1942年) ハープシコードと弦楽合奏のための協奏曲
・マヌエル・デ・ファリャ(~1946年)
・フランシス・プーランク(~1963年) 田園のコンセール
・クインシー・ポーター(~1966年) ハープシコード協奏曲
・ダリユス・ミヨー(~1974年) クラヴサンとヴァイオリンのためのソナタ
・フランク・マルタン(~1974年) 小協奏交響曲
・武満徹(~1996年) Rain Dreaming
・ヤニス・クセナキス(~2001年) ゴレ島にて
・ヘンリク・グレツキ(~2010年) クラヴサンと管弦楽のための協奏曲
・エリオット・カーター(~2012年)
・藤井喬梓(~2018年) 奈良組曲〜クラヴサンによる古都の七つの幻影
・クシシュトフ・ペンデレツキ(~2020年) 
・マイケル・ナイマン(1944年~) ハープシコードと弦楽のための協奏曲※日本公演
・ジョン・ラター(1945年~) 
・クシシュトフ・クニッテル(1947年~)
                   チェンバロと磁気テープのためのヒストワールⅢ
・ペテル・マハイジック(1961年~)
                   ハープシコードと弦楽のための協奏曲「既視感」
・フランシスコ・コル(1985年~) ハープシコード協奏曲
・ジュール・マトン(1988年~) チェンバロとオーケストラのためのバロック協奏曲
・ベンジャミン・アタヒル(1989年~) オペラ「パストラール」
 
 
▼東京藝術大学芸術未来研究場アートDXプロジェクト
【演題】東京藝術大学芸術未来研究場アートDXプロジェクト
【演目】①フィリップ・マリヌ パルティータⅡ(2012年)
    ②青柿将大 Soli2(委嘱新作/2023年)
    ③エマニュエル・ニュネス アインシュピールングⅠ(2012年)
【演奏】<Vn>河村絢音
    <Elc>佐原洸
【場所】東京藝術大学アーツ&サイエンスラボ
【日時】2024年3月17日(日)14:00~
【一言感想】
今日は、東京藝術大学が推進している「アートDXプロジェクト」の成果発表展として「ART DX EXPO#1」が開催され、ヴァイオリニストの河村絢音さんが「ヴァイオリンとライブ・エレクトロニクスのための作品委嘱と演奏発表」と題する研究成果の発表及び実演が行われるというので参加しました。今日の会場は、一昨年に竣工された国際交流棟(隈研吾設計)の隣にあるCOI活動の拠点であるアーツ&サイエンスラボ棟(音楽学部側)のドームシアターでしたが、東京藝大図書館の知的創生(エコトーン)の拠点であるラーニング・コモンズ棟(美術学部側)では3DCG、VRやメタバースなどのデジタル技術を使ったデジタルアーカイブ、コンセプチャルアートやゲームコンテンツなどの作品も展示されており、僅か10年前の東京藝大と比べてもその様変わりした革新的な姿に驚きを禁じ得ませんでした。何か新しいものを生み出そうと胎動しているエネルギーを感じます。因みに、これまで時代を拓いてきた東京藝大の正門は、僕にとっても奏楽堂や第6ホールへ足繫く通いながら夢を育んだ人生の1ページを飾る思い出の門ですが、先年、その再生プロジェクトに微力ながら協力した返礼として僕の名前が刻印されたレンガが埋め込まれています。これからも新しい時代を拓いて行く東京藝大の正門への「音楽の捧げもの」ならぬ「レンガの捧げもの」として。
 
 
河村さんはフランスやドイツに留学して研鑽を積んだ後に東京藝大博士課程に在籍してライブ・エレクトロニクスを研究しているそうです。具体的には、P.ブーレーズの「アンテームⅡ」、P.マヌリの「パルティータⅡ」、E.ニュネスの「アインシュピールングⅠ」などのヴァイオリンとライヴ・エレクトロニクスのための作品を題材にして「どのようにライブ・エレクトロニクスがヴァイオリン・パートに効果を与え、ヴァイオリン・ソロの手法と融合しているのか、両パートの双方向的干渉について研究」し、その研究成果を活かしてIRCAMで作曲研究を行っている現代作曲家・青柿将大さんにヴァイオリンとライブ・エレクトロニクスのための作品の作曲を委嘱したそうです。河村さんから説明された研究成果の詳細を公開することは控えますが、その概要の一部を簡単に紹介しておくと、P.ブーレーズの「アンテームⅡ」はヴァイオリン(アンテームⅠ)のパートの作曲後にエレクトロニクスのパートが作曲されているのに対して、P.マヌリの「パルティータⅡ」はエレクトロニクスのパートの作曲後にヴァイオリンのパートが作曲されているという違いがあり、それを踏まえて①ライヴ・エレクトロニクスがヴァイオリンの特性を増幅する効果と②ヴァイオリンとライブ・エレクトロニクスが双方向的に干渉(対話)する効果を解析及び比較すると、P.ブーレーズの「アンテームⅡ」は①の効果が高く、P.マヌリの「パルティータⅡ」は②の効果が高いことが判明したそうです。そこで、①の効果及び②の効果を両立させながらヴァイリンとライブ・エレクトロニクスを融合する作品を創作する試みとして、青柿さんにライブ・エレクトロニクスのパートを作曲することを前提にしてヴァイオリンのパートを作曲して貰い(Soli1)、それをベースにしてライヴ・エレクトロニクスのパートを追加(R.D.レインの詩集「結ぼれ」(1973年)にある文字と音をリンクして加工した音素材を使用してシュミレーション)して貰ったそうです(Soli2)。以上の研究成果の発表の後に実演が披露されましたが、P.マリヌの「パルティータⅡ」では、ヴァイオリンのパートとエレクトロニクスのパートが独立し、それぞれの世界観が対置、呼応するようなイメージの音楽に感じられました。これに対し、青柿将大さんの「Soli2」ではヴァイオリンが音楽を主導しながら、その世界観がエレクトロニクスによって拡張されて行くようなイメージの音楽に感じられ、この印象はE.ニュネスの「アインシュピールングⅠ」で更に強まり、ヴァイオリンの響きが拡張されてヴァイオリンの音とライブ・エレクトロニクスの音の境界が曖昧になって行く(アコースティック楽器の存在意義が希釈化されている)ようなイメージの音楽に感じられました。この点、青柿さんの「Soli2」は、Pマリヌの「パルティータⅡ」とE.ニュネスの「アインシュピールングⅠ」の中間にバランスしている印象を受けましたが、アコースティック楽器の存在感を残しながら、その世界観がライブ・エレクトロニクスによって拡張されていると共に、ライヴ・エレクトロニクスが独自にも振る舞うことでそれぞれの世界観が対置、呼応もしているようにも感じられ、ヴァイオリンとライブ・エレクトロニクスのための作品の表現可能性が拡げられている効果が感じられる面白い芸術体現になりました。河村さんと電子音響デザイン・作曲家の佐原洸さんはヴァイオリンとライブ・エレクトロニクスのユニット「Kasane(かさね)」を結成して新しい音楽の表現可能性を探求されているそうなので、今後の活躍に注目して行きたいと思っています。
 
 
▼東京・春・音楽祭2024
【演題】東京・春・音楽祭2024
    ミュージアム・コンサート:東博でバッハ 成田達輝
【演目】①J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番ト短調
    ②J.S.バッハ 
          無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番ホ長調
    ③J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番イ短調
    ④山根明季子 黒いリボンをつけたブーレ
    ⑤山根明季子 リボン集積
    ⑥山根明季子 リボンの血肉と蒸気
    ⑦山根明季子 パニエ、美学
    ⑧梅本佑利 Melt Me!
    ⑨梅本佑利 Embellish Me!
    ⑩J.S.バッハ シャコンヌ
【演奏】<Vn>成田達輝
【日時】2024年3月21日~オンライン配信
【一言感想】
今年も東京・春・音楽祭が開催されていますが、①現代音楽の公演及び②ストリーミング配信の公演が非常に充実しており未来志向の姿勢が感じられる点が他の音楽祭と比べて優れていると思います。コロナ禍後もストリーミング配信の公演を継続していますが、様々な事情で会場へ赴くことが難しい人々への配慮にもなり(SDGs:誰一人取り残さない社会の体現)、また、デジタル田園都市構想を見据えた新しい芸術受容のあり方を模索する意味でも必要的な取組みではないかと思います。これまでのように音楽を楽しむのに「正座」(殆ど教義化している演奏会マナーなるドクトリン)を強要されるような音楽受容のあり方は如何にも権威主義的で古めかしく、家飲みしながら気軽に現代音楽の生演奏を鑑賞できてしまうのは本当に贅沢な気分に浸れて満足度も高いです。非常に演目数が多いので、以下では各曲毎に一言感想を残しておきたいと思います。
 
無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番ト短調
まるでバッハの自筆譜を見ているような端正にして淀みなく流れる一筆書きの演奏が楽しめました。Adagio:気負いや衒いなどはなく滑らかなボーイングによる丁寧なフレージングで楚々と歌うナチュラルテイストの演奏、Fuga:1音1音を丁寧に鳴らす外連味や雑味のない演奏、Siciliana:このピースも1音1音を慈しむように慎重な足取りで紡いで行く演奏、Presto:春風を思わせる爽やかな軽快さが感じられ、デュナーミクを巧みに操りながら奥行きのある演奏を堪能できました。
 
無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番ホ長調
1音1音をゆるがせにしないしっかりとした足取りのリズム感がある演奏を楽しめました。Preludio:軽やかに飛翔するようなステップ感で、しかし1音1音が緻密に織り上げられていくような演奏、Loure:ゆっくりと慎重な足取りで繊細に歌わせる清潔感のある演奏、Gavotte en Rondeau:歌心があり、外連味のようなものがない誠実な印象を与える演奏、Menuett:華道に「花一輪に飼いならされる」という言葉がありますが、音楽に飼いならされて楽器を素直に鳴らす直向きな演奏、menuettⅡ:重音のバランスが良く、繊細なフレージングでポリフォニーの綾が美しく描かれる演奏、Bourree:生き生きとしたリズム感で澱みなくステップを運ぶ演奏、Gigue:誠実なアプローチですが、どこか小粋な遊び心も感じられる演奏を堪能できました。
 
無伴奏てヴァイオリンのためのソナタ第2番イ短調
東京国立博物館法隆寺宝物館エントランスホールの残響を上手く捕まえて、清澄な響きで深淵にして広がりのある無伴奏ヴァイオリン曲の醍醐味が感じられる演奏を楽しめました。Grave:1音1音が丁寧に紡がれ、情緒に流され過ぎない節度を保った品位ある演奏、Fuga:理知的に音を積み重ねて行く端正な造形美が感じられる演奏、Andante:低声部のリズムが遠景にコダマし、優しい歌い口にまどろんでいるような夢心地の演奏、Allegro:速いテンポながら細部の彫琢まで明晰に響かせる精緻な演奏を堪能できました。
 
④山根明季子 黒いリボンをつけたブーレ
⑤山根明季子 リボン集積
⑥山根明季子 リボンの血肉と蒸気
⑦山根明季子 パニエ、美学
⑧梅本佑利 Melt Me!
⑨梅本佑利 Embellish Me!
拙ブログの「現代を聴く」シリーズでもご紹介したことがある現代作曲家の山根明季子さんと梅本佑利さんはサブカル系現代音楽(少女性、日本のポップ、サブカルチャーというテーマを扱う現代音楽)の第一人者で、成田さんと共に現代音楽ユニット「mumyo」(合同会社無名)を結成して活動していますが(この名前は坂本龍一さんが枕草子に登場する琵琶の名前に因んで命名)、本日の演目は現代音楽ユニット「mumyo」の公演「ゴシック・アンド・ロリータ」で発表されたバッハの音楽を素材にした作品になります。「ゴシック」(バッハ)と「ロリータ」(少女性、日本のポップ、サブカルチャー)という水と油のような素材を容赦なく融合し、ゲルマン民族の四角い骨格をゆるふわっと換骨奪胎してしまう異次元の作風にシナプス可塑性が活発化し、その差分でドーパミンが大量放出してしまう面白さがあります。昨年末、山根さんの二管の笙のための「Showgirls」(因みに、showは笙の掛詞)という作品を拝聴する機会もありましたが、これもエルドリッチ風バッハという風趣で大変に面白い作品でした。楷書体で四角い感想を書いてしまうと興が削がれるので、草書体で丸い感想をゆるふわっと書いておきたいと思います。先ず、山根さんの作品から演奏されました。「⿊いリボンをつけたブーレ」は「無伴奏パルティータ第1番のプーレをもとに⻄洋の伝統と現代⽇本のストリートを重ね合わせて反復装飾を施した」曲ですが、バッハの音楽が拡張高く奏でられ始めたかと思うと、直ぐに調子が狂い出して無手勝流のダンスが展開されることを繰り返しながら変奏されて行きました。バッハの堅牢な彫琢を借りて、どこかたどたどしい多様性の時代が紡がれていく面白い作品で、現代にバッハが生きていればどんな曲を書いていただろうなと空想を膨らませながら愉しみました。「リボン集積」は「リボンという少⼥的アイコンを通して⻄洋⾳楽の崇⾼さの裏側を暴き出した」曲ですが、リボンのモチーフが音程や音型などを変えながら繰り返されて集積されていくリボンだらけの音楽になりました。成田さんが内股で演奏していたのは作曲家からの指定なのか又はこの曲が演奏者をそんな気分にさせるということなのか、新しい響きが心をハッキングして行くような面白い音楽を楽しみました。「リボンの⾎⾁と蒸気」は「加速する資本主義時代の⾁体の記憶をテーマに無伴奏ソナタ第2番のアレグロをコラージュした」曲ですが、オスティナートによる変奏を得意としたバッハの作風をデフォルメするようにモチーフが執拗に繰り返され、大胆なデュナーミクが施されていきました。さながら連写撮影するプリクラ風バッハと言った風情の音楽を楽しめました。「パニエ、美学」は「建築物のようなフーガを解体してストリートファッション⾵に裁断した」曲ですが、モチーフを転調や変奏によって裁断しながら音楽が展開し、バロック(いびつ)からヴァリアント(フォルクスワーゲンの造語で、たよう)を特徴とするコンテンポラリーが生まれる様子(B→C)を見ているようで楽しめました。突然、モチーフの途中で終曲しますが、地柄が途中で切断されて「ないものを描くデザイン」が体現されているようで興味深かったです。現代のデザインを見ると、四角が正義であった時代から角を丸めて容易なことでは正体を現さない流体が好まれるようになりましたが、時代は固定(古典物理学、クラシック音楽)から流動(現代物理学、コンテンポラリー音楽)へと移り変っていることを感じさせます。これに続いて、梅本さんが「ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」で使用されている⾔い回しからインスピレーションを受けた世界観をもとに「装飾(⾳)」について再考」した作品が演奏されました。「Melt Me!」は「溶けるケーキ=バッハのイメージで微分⾳的「装飾」を施した」曲ですが、どことなくバッハの風味を感じさせる曲調の音楽が奏でられ、溶けるケーキを表現したものでしょうか下行形のモチーフが音域を変えながら繰り返されました。梅本さんは2002年に生まれたZ世代ですが、ミレニアル世代よりも前に生まれた老輩には思いも付かない斬新な着想が非常に新鮮に感じられ、これからの時代を表現する新しい音楽を作ってくれる逸材であると大変に注目しています。「Embellish Me!」は「装飾⾳符が被装飾⾳の原型を留めないほど過剰に扱われる」曲ですが、今度は上行形のモチーフを細かいトリル(あまりに細かいトリルなのでグリッサンドに近い印象を受けますが、こちらも微分音が使われていたのでしょうか)を使って装飾音がデフォルメされていきましたが、メインカルチャーとサブカルチャーなど様々なものが越境して主客の別がなくなっていく現代の時代性を映すような面白い作品でした。人生の線路を走るエリートとそこから脱線した不良の2種類の人間しかいなかった昭和時代とは異なり、山根さんや梅本さんの斬新な音楽に触れてバッハの音楽に対する冒涜だと騒ぎだす三角定規のような角張った人間はいなくなりましたので、バッハの音楽で軽やかに遊ぶ奇抜な才気や感性に脱帽すると共に、今後も大胆な挑戦に期待したいと思っています。
 
⑩シャコンヌ
ヴラヴォー!この演奏が出色でして、この曲に真正面から真摯に取り組んでいることが実感できる充実した熱演に圧倒されました。演奏者の人生を思わせ振りに物語る芝居掛かったシャコンヌという印象はなく、成田さんの冴え映えとした技巧に支えられて、この曲が舞曲であることを思い出させてくれるステップ感のある演奏が展開されました。しっかりと音楽のドラマも伝わってくる1本筋の通った骨太の演奏を楽しむことができました。
 
 
▼シアターピース「TIME」
【演目】シアターピース「TIME」(日本初演)
【音楽】坂本龍一
【映像】高谷史郎
【主演】<Dans>田中泯、石原淋
    <笙>宮田まゆみ
【能管】藤田流十一世宗家 藤田六郎兵衛(2018年6月録音)
【照明】吉本有輝子
【PG】古舘健、濱哲史、白木良
【衣装】ソニア・パーク
【MG】サイモン・マッコール
【監督】大鹿展明
【技術】ZAK
【撮影】新明就太
【GF】南琢也
【音響】アレック・フェルマン、竹内真里亜、近藤真
【制作】湯田麻衣
【翻訳】サム・ベット(夏目漱石「夢十夜(第一夜)」「邯鄲」英訳)
    原瑠璃彦(「邯鄲」現代語訳)
    空音央(「胡蝶の夢」英訳)
【協力】福岡伸一
【場所】新国立劇場 中劇場
【日時】2024年3月30日(土)14:00~
【一言感想】ネタバレ注意!
他日公演がありますが、全公演が終わるまで待てませんので簡単に感想(注意:一部にネタバレあり)を残しておきたいと思います。もはやヴラヴィー!というスラングが陳腐に感じられてしまうほど含蓄のある作品でした。色即是空の世界観とでも言えば良いのでしょうか、言葉(ロゴス)で捉えようとすると掌から滑り落ちてしまうような、形なく相(すがた)を変え、色なく彩を放つ、さながら「水」のような作品でして、高谷さんが述べられているとおり、これから鑑賞を重ねる度に(さながら能面のように)違った表情を見せてくれる懐の広さや深さを持っている作品に感じられました。坂本さんは「パフォーマンスとインスタレーションの境目なく存在するような舞台芸術を作ろうと考え、「TIME」というタイトルを掲げ、あえて時間の否定に挑戦してみました。」と語られていますが、ここでの「時間の否定」とは時間芸術に象徴される過去から未来へと一方向に進む直線的な時間の流れ(時間感覚)の否定を試みたということだと思われます。過去のブログ記事で触れたとおり、人間の脳は物質の変化(エントロピーの増大)を知覚することで過去から未来へと一方向に進む直線的な時間の流れ(時間感覚)を認知しますが、相対性理論では時間が逆行する可能性(反物質)が指摘され、また、量子物理学では時間が離散的である可能性(クローノン)が指摘されており、現在では、過去から未来へと一方向に進む直線的な時間の流れ(時間感覚)は人間の脳が作り出す虚構であると考えられています(クオンタムネイティヴ)。この点、人間は1日周期で細胞のタンパク質の増減を繰り返すことで生体機能を管理する体内時計(身体性を前提とする因縁生)が備っており、その生命現象(ベリクソンの弧)が過去から未来へと一方向に進む直線的な時間の流れ(時間感覚:環世界)を生み出していると考えられていますが、上述のとおり「自然をできるだけありのままに記述」するために「環世界」(ロゴス)の呪縛から芸術を解放して「環境世界」(ピュシス)を描くための「より解像度の高い表現を求めることを諦めない」という創作的な試みが見事に結実している作品ではないかと思われます。上述のとおり懐の広さや深さを持った作品なので、この作品を見て何を感じるのかは人それぞれであり、そのような創造的鑑賞を許容する味わい深い作品と言えますが、僕はこの作品を能に擬えながら鑑賞しました。舞台上には、仏教が説く万物を生み出す五大元素(又は六大元素)、即ち、①(墓石で表現される「地」又は冥界の入口)、②「」、③④光(朱色の照明で表現される「」、黒闇で表現される「」(くう))、⑤スクリーンに映し出される画像(レースのカーテンで表現される「」、雲で表現される「」(の循環)など)が設えられ、⑥これに<>から作られたレンガ(「」のメタファー)と<>から伐採された小枝(「」のメタファー)が付け加えられているように感じましたが、さながら①石は此岸と彼岸の境界を画する能舞台の揚幕(地の底にある黄泉の国の神イザナミや地の底にある冥界を彷徨う森の木の妖精エウリディーチェに象徴される母なる大地は自然の循環により死(分散)から生(合成)へ輪廻する場所)、②水は此岸と彼岸をつなぐ能舞台の橋掛かり又はそれを介して顕在する本舞台(現実世界と夢幻世界又はロゴスとピュシスが交錯するハイブリッドな世界)、田中泯さんは現実世界と夢幻世界のあわひを旅するワキ、スクリーンに映し出される映像はワキが見る夢幻世界に顕在するシテのように感じられました。時間を分節する舞台幕はなく、いつ始まったのかどこからともなく雨の音(ロゴスで切り取ることができないピュシスとしての水の音)が緩やかに意識を捉え、また、いつ終わったのかどこからともなく風鈴の音(1920年にE.サティーが「家具の音楽」で聴かれない音楽を志向するよりも遥か昔の奈良時代から日本に存在していた風の音に戯れるアソビエント)が優しく意識を現実世界へと呼び覚ましましたが、一方向に進む直線的な時間の流れ(時間感覚)を画する「始まり」や「終わり」を感じさせない、即ち、人間が「環世界」としてロゴスで切り取る前から人間のタイムフレーム(時間感覚)を越えて存在している「環境世界」の存在を意識させる演出になっていました。宮田まゆみさんが「曲の方向性はジョン・ケージの音楽にも共通するものがあると思います。人間の感覚や情緒を表すのではなく、もっと大きな宇宙や自然の秩序を映している。そして人間もその宇宙の一部であることを感じさせる。」と書かれていますが、雨の音、石の音や鐘の音などのサウンドスケープと共にエレクトロニクスで「宇宙の音」(NASAが惑星や衛星が発する電磁波などを採取して人間の可聴音域に変換した音)を想起させる音響が奏でられました。J.ケージが語っているとおり、(西洋の)アコースティック楽器は調性音楽(ロゴス)を奏でるために改良されてきた歴史があり、そのために調性音楽以外の音楽(ピュシス)を奏でることには不向きであるという特徴がありますが、「環世界」(ロゴス)の呪縛から解放されて「環境世界」(ピュシス)を表現するための音楽にはエレクトロニクスを含む新しい楽器又は奏法による表現可能性の大幅な拡張が必要であると思われます。月夜のような淡い照明の中を宮田さんが宇宙を体現する笙の音を奏でながらゆっくりと水場を歩みましたが、「水清ければ月宿る」という言葉が持つ透明感をイメージさせる幻想的で美しい舞台に心を奪われました。幽光に浮かぶ宮田さんのシルエットがゆっくりとした足取りで歩みを進めると水場に「波紋」が広がるのが分かりましたが、ロゴスが象徴する直線的な時間(音)ではなくピュシスが象徴する離散的な時間(音)が表現されているようであり、正しく「音を視る、時を聴く」という風趣を湛えている舞台に魅了されました。宮田さんは「今は音楽にしても、映像にしても、空間にしても、とてもエモーショナルであったり、エンタテイメントとして刺激の多いものであったりすることが多いですよね。でも、この作品ではそういうものから離れて、もっと自然の中にある人間の存在を俯瞰で見ることを意識しました。その感覚は雅楽にも共通しています。」と語られていますが、ショパンの言葉を翻案すれば、バッハは「神」を表現するための音楽、ベートーヴェンは「人間(理性)」を表現するための音楽、ショパンは「人間(本能)」を表現するための音楽(いずれも環世界を表現するための音楽)を創作したのだとすれば、現代は人間中心主義に対する猛烈な反省から「自然(その一部としての人間を含む)」を表現するための音楽(環境世界を表現するための音楽)などが求められている時代であると言え、宮田さんが奏でる宇宙を体現する笙の音による神の栄光や人間の葛藤、渇望などのロゴスとは無縁の深い静寂が織り成す無為自然な世界観に心が澄まされるような感覚を覚えました。この舞台では、宮田さんがピュシスを体現し、田中さんがロゴスを体現していましたが、田中さんが水(ピュシス)を畏怖する様子を表現することで、かつて自然に畏敬の念を持ち自然と共生していた時代の人間の姿(レンガを並べるシーンの伏線)が象徴的に描かれているように感じられました。その後、夏目漱石の「夢十夜」(第一夜)を朗読する田中さんの声の録音が流れ出し(夢十夜のあらすじは割愛)、それに合わせて石(此岸と彼岸の境界)の近くの水場に横たわる女性(石原さん)と田中さんによるパフォーマンスが静かに展開されました。やがて自ら予告したとおり女性が死ぬと、スクリーンにはオルフェウスよろしく冥界の入口を探して石垣を彷徨うような田中さんの姿の映像(夢幻世界)が映し出されて、それを後追いするように水場を歩く田中さんの姿(現実世界)が(確率的に)共存し、やがてこれらの姿が重なるとスクリーンに映し出された田中さんの姿の映像は消えて水場を歩く田中さんの姿だけが残りましたが(波の収縮)、宛ら「シュレディンガーの猫」ならぬ「シュレディンガーの泯」が描く多世界解釈(量子物理学の世界観)を表現するコンセプチャルなアートのように感じられ、大変に興味深いシーンでした。その後、「夢十夜」(第一夜)の夢の途中で「邯鄲の枕」の夢が挿入され(邯鄲の枕のあらすじは割愛)、田中さんが水場に設えられた長椅子(邯鄲の枕)に伏せると、スクリーンには邯鄲の枕の夢として森林の映像が映し出され、木から作られた紙をめくる音、木から作られたピアノの内部奏法の音が聴こえてきましたが、本やピアノ(ロゴス)に価値を置くのではなく、本やピアノに使われている素材そのもの(ピュシス)に価値を置くことでロゴスとピュシスの価値の倒置を示唆すると共に、スクリーンには廃屋の映像、釜戸の映像、皇居の歴史的な建造物と丸の内の近代的な高層ビルの映像が映し出され、いくつもの異なる時間が重なり合う離散的な世界の中で物質が合成と離散を繰り返しながら万物が流転する世界観が象徴的に表現されているように感じられましたが、田中さんはそれらの邯鄲の枕の夢(離散的な時間の中に刹那的に顕れるロゴスとピュシスの相克)から目覚めて人生(ロゴス)の儚さを悟ります。再び、夢十夜(第一夜)の夢に戻り、田中さんは死んだ女性を土(地)に埋葬しますが、スクリーンには人間の営みを記録した沢山の画像が走馬灯のように過ぎ去った後、一輪の百合の花(中国では葉が何枚も重ね合わさる姿から「百合」(ヒャクゴウ)と書き、日本では花が風に揺れる姿から「揺り花」(ユリバナ)と言ったことから、日本語の「百合」(ユリ)という言葉になりましたが、ユリという言葉には「後で」という意味もあることから「何度でも逢える」という比喩表現として和歌などで使われるようになり、現代でも故人の枕辺に供える枕花として愛用されています。)が映し出され、田中さんは「百年はもう来ていたんだな」と人生(ロゴス)の儚さを悟ります。夢十夜(第一夜)では100年の「現実」を一瞬と捉える夢幻世界の中に生きる男と邯鄲の枕では50年の「夢幻」を一瞬と捉える現実世界の中に生きる男が対置されていましたが、夢幻世界の中に生きる男が見ている現実と現実世界の中に生きる男が見ている夢幻はいずれも脳が見せている虚構の世界とも言え、そのいずれが真実なのか又はそのいずれも真実ではないのか人間の知性では計り知れず、人間のタイムフレーム(時間感覚)では捉え切れない世界のあり様について取り留めもなく思いを巡らせました。田中さんは道具箱の中から土で作られたレンガと木から伐採した小枝を取り出し、これらを水場の向こう側へ渡るために直線的に並べる様子がパフォーマンスされました。高谷さんが「ロゴスとは物事をレンガのように分割して整理していく考え方、論理や言語ですね、そしてピュシスとは自然そのものです。つまり人間はピュシスをロゴスによって理解しよいうとするわけです。この作品はロゴスとピュシスの話が反映されていて、ピュシスをロゴスで制御しようとする人間を、田中泯さんがレンガを作った水の中の道を通って向こう側へ渡ろうとする姿で表現し、宮田まゆみさんの笙、そして水がピュシスの象徴になっています。」と書かれていますが、田中さんは冒頭での水(ピュシス)を畏怖する様子とは対照的に、レンガと小枝(いずれもロゴスのメタファー)を水場に直線的に並べて水(ピュシス)をコントロールしようと腐心する姿が象徴的に描かれていました(濁流が発生するシーンの伏線)。その後、スクリーンには荘子「胡蝶の夢」の原文(ロゴス)が水(ピュシス)に溶けて行く様子が映し出されました。ここで胡蝶の夢のあらすじには触れませんが、荘子「胡蝶の夢」では「現実の自分と夢で蝶になった自分のどちらが真実なのかを決めることなどせず、両方をあるがままに受け入れることが重要である。その境地に達することで真に自由な人間になれる」と説かれており、人生(ロゴス)の儚さを悟りその呪縛から解放されて自然(ピュシス)としての自分を回復する無為自然な生き方の有難さが身に染みてくるようです。その後、能楽笛方藤田流十一世宗家(現在は観世宗家預かりの空席)の藤田六郎兵衛さんが生前最後に吹いた笛の音の録音が流されましたが、笛の音はユリによる揺らぎを特徴として謂わば音の「揺り花」といった風情を湛えており、「芸術は長く、命は短し」を体現する感慨深い演出になっていました。やがて水滴の音が聴こえ出して、スクリーンには濁流(ピュシス)の映像が映し出されて田中さん(ロゴス)が飲み込まれましたが、坂本さんが生前に心を尽くされていた東日本大震災の記憶も影響しているシーンと言えるかもしれません。再び、雨の音、石の音や鐘の音などのサウンドスケープと共にエレクトロニクスで「宇宙の音」を想起させる音響が奏でられ、月夜のような淡い照明の中を宮田さんが宇宙を体現する笙の音を奏でながらゆっくりと水場を歩みましたが、上述のとおりどこからともなく風鈴の音(終わりを予定しない風の音)が聴こえ出しました。おそらく観客が風鈴の音の中を三々五々に退場することを企図したものではないかと思われましたが(粋)、今日の公演では風鈴の音の途中で「時間を分節する拍手」(ロゴスの音)が巻き起こってしまい(野暮)、大変に興を削がれてしまったのが残念でした。このようなことはクラシック音楽の演奏会などでも何度か経験していますが、(演目によっては)能の鑑賞と同様に拍手や歓声はご遠慮頂いても良いかもしれません。冒頭でも述べたとおり、この作品に何か見通しの良いナラティブを発見しようとすることはロゴスの呪縛に囚われることを意味し、この作品の本質から遠のいてしまうような気がします。ロゴスでは捉え切れない曖昧模糊としたものを残しながら、この作品を何度も繰り返し鑑賞するうちにロゴスから解放されてピュシスの境地を幻想する瞬間を体感することできるような気がしており、そのことでしかこの作品の本質に迫ることは難しいのかもしれません。これまでのクラシック音楽や前衛音楽とは全く異なる地平、高みにある新しい表現であると感じられ、文化的限界点という言葉を軽々しく口にしたがるチープな風潮とは異なって「芸術は長く、命は短し」という言葉の持つ重みが実感できる貴重な芸術体験になりました。「世界のサカモト」と言われる所以の一端に触れる作品に圧倒され、余人を持って代え難い本当に惜しい人を亡くしてしまったという喪失感が募ります。坂本さんと共に更なる新しい地平、高みを見てみたかったという思いを一層と強くしていますが、きっと、その志はこれからも高谷さんが育んで行ってくれるものと期待しています。
 
 
▼オペラ「ナターシャ」(委嘱新作/世界初演)
先月、新国立劇場が2024/2025シーズンを発表し、日本を代表する現代作曲家・細川俊夫さんのオペラ「ナターシャ」(委嘱新作)が世界初演されます。果たして、チケットが取れるのか分かりませんが、いまから大変に楽しみです。もしチケットが完売し、採算性や権利処理などの問題もクリアできれば、全世界に発信する新国ライブビューイング(オンライン配信)もご検討頂けないものかと夢が膨らみます。すでに脳内のお花畑は満開です🌸
 
▼映画「Ryuichi Sakamoto | Opus」
来月、坂本龍一さんが最後に開催したピアノソロ・コンサート(NHK509スタジオ)の模様を収録したコンサート映画が公開されます。坂本さんが長年愛用してきたカスタムメイドのヤマハ製グランドピアノを使用して、自ら選曲した20曲を演奏したもので、文字通り坂本さんの「白鳥の歌」と言って過言ではない貴重なコンサート映画です。僕が坂本さんのピアノ演奏を最後に聴いたのは赤坂ARTシアターで開催された「ロハスクラシック・コンサート2008」(坂本さんのプロデュース)でしたが、未だ無名だったピアニストの小菅優さんを紹介されていたのを印象深く覚えています。坂本さんが小泉文夫さんに触れながらアメリカのクロスカルチャーの潮流について熱く語っておられ、大変に触発されたことを思い出します。昔から「バカの長生き」という耳の痛い言葉がありますが、時代に必要とされている人物から他界していってしまいます。

向井響作曲個展「美少女革命」/カムイとアイヌの物語「イノミ」(ウポポイ)/オペラ「長い終わり」(高橋浩治)/アンサンブルフリーEAST第20回演奏会(大熊夏織)とナラティブを拡張する「推し」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ナラティブを拡張する「推し」(ブログの枕単編)
東京スカイツリーがある東京都墨田区押上の地名は、隅田川が東京湾へ注ぐ河口に堆積した土砂でげられて出来た陸地であることに由来しています。古地図を見ると、縄文時代には、武蔵野台地(東京)、大宮台地(埼玉)及び下総台地(千葉)以外は海湾が張り出し、東京都台東区浅草やその周辺には大小の島々が点在していたことが分かりますが、この近隣に向島、牛島、寺島、京島などの「島」の言葉が付く地名が多いのは、昔、実際に島や洲があった名残りと言われています。因みに、2012年に完成した東京スカイツリーの高さは「武蔵」の語呂合わせから634mになっていますが、その高度を利用して光格子時計を使った相対性理論に基づく時空の歪みの実証実験などが行われており、押上の陸地は人類の知性もげていると言えるかもしれません。
 
▼「ファン」と「推し」の違い
言葉 メディア 特徴 ナラティブ
ファン
(主体)
マスメディア
(一方向)
愛好
専有:縦関係
内への凝縮
個人的:1対1
推し
(客体)
ナノメディア
(双方向)
応援
共有:横関係
外への拡散
集団的:1対多
 
前回のブログ記事でナラティブについて簡単に触れましたが、現在、ナラティブを拡張する「推し」が注目されていますので、ごく簡単に触れてみたいと思います。「推し」という言葉は20世紀から21世紀へ移行する時期にインターネット(インタラクティブ通信)の登場、普及と共に使われるようになり、自ら執心するアイドルを応援する意味で使われていた「一押し」(イチオシ)が転じたものと言われています。インターネットの登場、普及に伴う情報革命によりマスメディア(アナログ)からナノメディア(デジタル)へ移行しましたが、初期のインターネットは未だシンプレックスな性格が強く片方向の情報流通が主流だったので自ら執心する対象を個人的に愛好すること(受動的な姿勢)を専らにしていましたが、SNSの普及に伴ってインタラクティブな性格が強まり双方向の情報流通が主流になるとSNSの共有機能(「いいね」によるクチコミ効果、「リツイート」、「シェア」や「ハッシュタグ」による情報拡散など)を活用して自ら執心する対象を応援すること(能動的な姿勢)によってエコーチェンバー現象が生まれて集団的に結び付くようになりました。前回のブログ記事でも触れましたが、これらを利用してインフルエンサーを使ったステルス・マーケティングなどによるナラティブ操作が社会問題化しています。このような状況のなか、2021年にユーキャン新語・流行語大賞には「推し活」がノミネートされ、また、2023年にネット流行語100大賞には「推しの子」が選ばれており、さらに、コロナ禍や能登半島地震などの復旧、復興を応援する「推し活」(クラウドファンディングふるさと納税など)が注目を集めるようになっています。この点、自ら執心する対象を愛好する「ファン」という言葉に対して、自ら執心する対象を「推し」(これを応援することを「推し活」「推し事」)という言葉が区別されて使われるようになり、そのうち最も熱を入れて応援する対象を「神推し」、また、そのうち完全に魅了されて信奉する域に達した対象を「尊い」として別格に扱うなど、多彩なナラティブを紡いでいます。
 
▼ナラティブを投射するメディアとしての「推し」
推論 内容 妄想の投射
帰納的推論 事象に基づいて一般的な法則を導き出す推論 通常
投射
演繹的推論 一般的な法則に基づいて事象を導き出す推論
アブダクション 事象や法則を仮定し、それらに基づいて新しい法則や事象を導き出す推論 異投射
虚投射
 
過去のブログ記事でも触れたとおり、人類は、紀元前5万年頃の突然変異で脳がミラーニューロン(1996年にイタリア・パルマ大学教授のG.リッツォラッティが発見)を獲得したことで他人の言動を自分の脳に置き換えて追体験やシュミレーションなどを行うことができる高度な認知能力を獲得しましたが(認知革命)、それにより他人の心理、意図や文脈等を推測し、他人の言動の意味を理解して共感(エンパシー)することが可能になったことで社会を形成し、血縁関係を越えた集団を形成する高度な社会性を備えるようになりました。人間は、この共感能力を獲得したことで「推し」が成功すると自分も成功したような快感(代理報酬)を覚えるようになり、これが「推し」を応援するようになった根源的な理由ではないかと考えられています。旧石器時代、人間は、より大きな獲物を捕獲するために集団で狩猟していたと考えられていますが、自分が獲物を捕獲するだけではなく、一緒に狩猟を行う仲間が獲物を捕獲することによっても食料を摂取することが可能になりましたので、その経験を通して代理報酬を感得するように進化したのではないかと考えられています。即ち、一緒に狩猟を行う仲間は獲物を平等に分かち合うことで集団を平和的に保ち、その結束を強めて協力関係を構築するようになり、それによって大きな獲物を捕獲する可能性も高まり、もって自分の生存可能性も高まるという経験を長い進化の過程で繰り返してきたと考えられています。このように「推し」(大きな獲物を捕獲する者)と自分達(自分及びその他の一緒に狩猟する仲間)が同じナラティブ(大きな獲物の捕獲という目標)に共感し、「推し」がそのナラティブを実現すること(大きな獲物の捕獲)で自分達もそのナラティブの実現を追体験して(大きな獲物を獲得し、それを皆で分かち合う)、もっと「推し」を応援する(大きな獲物を捕獲できるように協力する)という関係性が成立します。また、人間は、言葉を獲得したことによって多様なナラティブ(大きな獲物の獲得という具象的な目標だけではなく、人間の生存可能性を高めるための他の様々な要素を包含し得る抽象的な目標。例えば、宗教、権威、国家、貨幣やその他のナラティブなど)を創造し、これに共感することで集団の結束の強化と共にその拡張が可能になりました。前回のブログ記事でも触れたとおり、人間は、①知覚(推論):感覚器官が体の内外から情報を受け取ると脳が仮説の筋道(プロット)をシミュレーションし、②記憶(検証):その仮説の筋道(プロット)と過去の記憶を照合して、③認知(判断、行動):それらの間に発見されたミスマッチを修正して「現実」(ナラティブ)を仕立てると共に(これは「差分」と言い換えることもできるもので、その差分の大きさに比例して脳の報酬系が活性化)、それに適応した感情を作り出して必要な行動を促します。この点、人間の脳が認知に利用する情報は、感覚器官が体の内外から受け取る生の情報量よりも人間の脳が仕立てるナラティブの情報量の方が約10倍も多いと言われており、人間の脳は生の情報よりもナラティブの情報を重視するように設計され、人間の脳が認知する「現実」(ナラティブ)は生の情報を忠実に反映したものではないと考えられています。このように外界の情報(感覚器官が体の内外から受け取る生の情報量)を過去の記憶と照合しながら意味付けを行い、それによって創り出された意味付けを外界に投射し(即ち、物理世界と精神世界を重ね合わせ)、それにより自分が意味付けた外界(プロジェクション)を自分の人生観や世界観に上手く組み込んで仕立てたナラティブを生きています。この点、他人が生きているナラティブやそれを構成しているプロジェクションを調べる方法として映画「沈黙」で描かれている「踏み絵」が典型的ですが、現代でもアンケート(演奏会の感想を含む)やビックデータなどの様々な手法が使われており、さらに、上述のとおり様々な手法を使って他人のナラティブを操作しようとする試みなども盛んになってきています。人間は他人と異なるプロジェクションを生成し、それをナラティブに仕立てているので、同じ芸術作品を鑑賞しても、その芸術作品に映し出される意味付けやそれに基づく感想なども異なってきます。また、上述のとおり人間は具象的なものだけではなく抽象的なものを創造してそれを他人と共有する能力を持っていますので、例えば、芸術作品の余白に様々な意味付けを行って愉しむという芸術鑑賞の醍醐味(広陵たる精神世界の広がり)を可能にしており、過去のブログ記事で触れたとおり、例えば、枯山水、俳句や能に代表される「描かれないもの」も味わい尽くすという芸術鑑賞(アブダクション)などに見られるように、芸術表現における鑑賞者との関係性を重視する傾向が顕著になってきています。この点、「推し」は、宗教や権威(社会のナラティブ)などに代わって、鑑賞者の多様な個性(多様なプロダクションによる個人のナラティブ)を紡ぐ精神的な営みを豊かに彩ると共に、社会との接点(SNSなどのインタラクティブな場)を生み出すなど、これをダイナミックに拡張してくれる古くて新しいメディア(但し、多様なプロダクションと親和的なメディアである必要があることから、昔のようなスターやキラーは生まれ難くなっている)と言うことができるかもしれません。
 
▼推しかつ🐷
昔、BS-TBSで「東京とんかつ会議」という番組があり、料理評論家・山本益博さんの食べっぷりに惹かれて見ていましたが、推しかつ揚げに因んで、この番組を素材とする書籍をあげてみました。ここで謎かけを1つ「かつ揚げと掛けて、推し活と説く、その心はとことん熱中するとうまくあげられます。」オソマツ💦
 
▼向井響作曲個展「美少女革命」
【演題】向井響作曲個展「美少女革命」
【演目】①ピアノとエレクトロニクスのための「東京第七地区」(2017年)
    ②無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ(2022年)より
                第1曲:グラーヴェ、第2曲:メロディア
    ③チェロとエレクトロニクスのための
               「マグノリアの花」(2023年/日本初演)
    ④ユーフォニアムとエレクトロニクスのための
         「美少女革命/Drama Queens」(2022年)
    ⑤尺八とリコーダーのための「二人静」(2021年)
    ⑥乙女文楽、アンサンブル、電子音響、ヴィデオのための
         「美少女革命/本朝廿四孝 奥庭狐火の段」(世界初演)
     <乙女浄瑠璃>ひとみ人形座
【作曲】向井響
【映像】向井響
【音響】島村幸宏
【照明】植村真
【デザイン】阿部花乃子
【制作】田中真緒
【出演】<Elc>向井響⑥
    <尺八>長谷川将山⑤⑥
    <Rec>中村栄宏⑤
    <Eup>佐藤 采香④⑥
    <Vn>千葉水晶②⑥
    <Vn/Va>石原悠企②⑥
    <Vc>北嶋愛季③⑥
    <Pf>小倉美春①
    <Pf>田中真緒⑥
【会場】トーキョーコンサーツ・ラボ
【日時】2024年2月20日(火)19:00~
【感想】
人形浄瑠璃文楽「本朝廿四孝 奥庭狐火の段」を題材にした乙女文楽(女性の技芸員による一人遣いの文楽)とのコラボレーションによる新作が発表されるというので聴きに行く予定にしています。公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、公演の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
今日は向井響さんの作曲個展「美少女革命」を聴いてきましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。平日にも拘らず満席となる盛会でしたが、知る限り、昨年後半頃から現代音楽をメインに採り上げている演奏会の満席が目立つようになってきた印象を受けますので、漸く日本の観客も覚醒してきたということかもしれません。向井響さんは桐朋音大及びハーグ王立音楽院を卒業後にポルト大学(ポルトガル)でデジタルメディアを学び、現在、ポルトガルの民謡、日本の伝統芸能、エレクトロニクスなどを中心に研究されているそうですが、これまでにローソン・メイ作曲賞、マリン・ゴレミノフ国際作曲賞、第6回マータン・ギヴォル国際作曲コンクール第1位、ORDA-2019作曲部門第1位、2018年ストラスブール現代音楽祭最優秀賞などの華々しい受賞歴がある最も注目されている若手現代作曲家の1人です。昨年、第33回芥川也寸志サントリー賞を受賞した若手現代作曲家の向井航さんとは双子の兄弟で、彼らの諱である「響」(ひびき)と「航」(わたる)から彼らの音楽が海を越えて世界に響き渡るようにという願いが込められている(?)のかもしれませんが、それが現実のものになっています。なお、トウキョウ・コンサーツ・ラボがある早稲田界隈はラーメン激戦地としても知られていますが、早大女子に人気が高いラーメン「とも」は麺も汁も風味が豊かなのでお試しあれ。
 
①東京第七区
この曲は2020年マリン・ゴレミノフ国際作曲賞を受賞している作品だそうですが、豊洲移転前の築地市場でコンクリートが延々に広がる静かな空間にインスピレーションを受けて、実際に存在しない東京第七区(行政区、管轄区又は選挙区?)を想像しながら作曲したそうです。会場の四隅にエレクトロニクスのスピーカー4基が設置され、会場の照明を暗く落して聴覚を研ぎ澄ませるような舞台演出が取られるなか、ピアノの音響(アナログ)をエレクトロニクスのスピーカー(デジタル)で拡張又は装飾することでアナログ(現実)とデジタル(バーチャル)をシームレスにつなげるハイブリッドな音響空間を生み出すことに成功しており、非常に音楽的でもありながらインスタレーションのような空間演出もある興味深い作品を楽しめました。
 
②無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ
第1曲グラーヴェはイベリア半島に伝わる民謡のリズムからインスパイアされ、ヴァイオリンの弓をたっぷりと使った持続音を基調とた作品でした。当初、ヴァイオリンの音響がピアノの反響板にあたってピアノの弦と共鳴しているのかなと思っていましたが、実はエレクトロニクスを使ってヴァイオリンの音響を拡張することにより音響空間に豊かな広がりを与えていたもので、トーキョー・コンサーツ・ラボの抑制的な残響を上手く活かしてエレクトロニクスがヴァイオリンの繊細なニュアンスを伝えることにも一役買っていました。この点、マイクやスピーカーの音響に否定的な意見を耳にすることもありますが(個人の嗜好の問題なので拝聴するだけですが)、空間に「音響」が漂っている訳ではなく、人間の聴覚器官で知覚した「空気振動」(フォノン)を「電気信号(生体電位)」に変換して脳へ伝達し、それを脳が「音響」として認知(創造)しているものなので、電子機器が空気振動(フォノン)を生成する特性(利点と欠点)を踏まえても、エレクトロニクスはアコースティック楽器の音楽表現の可能性を広げる意味でも極めて有用なものであると感じました。第2曲のメロディアはポルトガルの民謡ファドの旋律からインスパイアされ、頻繁な移弦により音響に彩りを添えながら哀愁を湛えたモチーフを情熱的に織り上げて行く美しい作品を楽しむことができました。三味線奏者の本條秀太郎さんが「俚奏楽」(民謡曲を現代音楽に織り込んで昇華し、承継して行くことを目的としたジャンル)を創始されましたが、この作品も現代音楽の中にポルトガルの伝統が息衝いているのが感じられ、大変に興味深かったです。是非、日本の謡曲や民謡などからインスパイアされた作品も聴いてみたくなりました。
 
③マグロリアの花
この曲はモスクワ国立電子音響センターの委嘱によりマグノリア(白木蓮)の花のライフサイクルを音楽的に表現した作品で、ライブエレクトロニクスを使ってチェロが奏でる旋律から和音を生成すると共に、旧ソビエト連邦時代の反体制派として有名なウラジミール・ヴィソツキーさんのしわがれ声(アメリカへ亡命しようとするロシア人バレエダンサーを描いた映画「ホワイトナイツ」でV.ヴィソツキーさんの歌を使用)と並木路子さんのリンゴの唄の歌声(リンゴは何にも言わないけれど、リンゴの気持ちは良く分かる♬)をコラージュしています。チェロがグリッサンドしながらスルタスト奏法で音響を奏でると、スピーカーから並木路子さんのリンゴの唄の歌声とウラジミール・ヴィソツキーさんのしわがれ声のコラージュが幻聴のように聴こえ、やがてライブエレクトロニクスの音響が加わってチェロ(アナログ)とライブエレクトロニクス(デジタル)の境界が曖昧になって混然一体とした音響空間を作り出すと、最後に少女の声で白木蓮が咲いたという声が挿入されて終曲となりましたが、その声はさながら映画「バイオハザード」に登場する人工知能「レッド・クイーン」(赤い服を着た姉のホログラム)及び「ホワイト・クイーン」(白い服を着た妹のホログラム)を彷彿とさせるものになっており、次の美少女革命:Drama Queensの伏線になっているように感じられました。ここから先はあくまでも個人的な妄想であることをお断りしたうえで、赤い実(種)から白い花を咲かせる白木蓮に仮託してロシア人(赤)の秘めた内心(白)に花を添えた曲と捉えることもできるかもしれず、そう考えると歴史を刻印する名曲の風格を備えた作品と言えるかもしれません。
 
④美少女革命:Drama Queens
この曲は歌手が感情やドラマを自由に誇張して個性的に表現するポルトガルの民謡ファドの特徴からインスピレーションを受けて、ユーフォニウムの音響とそれから生成されたライブエレクトロニクスの音響を同化させることで、さながらユーフォニウム(過去のクイーン)がエレクトロニクス(現在のクイーン)にアップデートしてアイコニックな声と共に過去と現在のクイーン達が様々に変化しながら様々な時代の音楽を駆け抜けるという壮大な物語性を持った音楽に感じられました。ユーフォニウムの特殊奏法を駆使して奏でられる音響がエレクトロニクスとして様々な音響に拡張されながらユーフォニウムのアコースティックな音響(息により唇を振動させることで発生する空気振動)とライブエレクトロニクスのエレクトロニックな音響(電気によりコイルを振動させることで発生する空気振動)が交互に入り乱れ(過去のクイーンから現在のクイーンへとアップデートし、現在のクイーンから過去のクイーンにバックデートすることを繰り返しながらハイブリッドな世界観を体現し)、独特な音響空間描き出す面白い作品に感じられました。アコースティックとエレクトロニックのそれぞれの特徴的な違いを活かしながら、1つの音響空間に違和感なく融合してしまう手腕はデジタル世代の寵児と言える抜群のセンスを感じさせるものであり、音楽界のDXは異次元の領域に達していると言えるかもしれません。
 
⑤二人静
この曲は能「二人静」の菜摘女と静御前の亡霊の相舞からインスピレーションを受けて、尺八とリコーダーがリズム、ピッチ、音色を重ねて一つに溶け合うことを試みた作品で、2023年ローソン・メイ作曲賞を受賞しています。尺八の唄口はリコーダーの唄口のような吹口が設えられていない(尺八では自分の唇や楽器の角度などで調整する)ので安定した音を出すことが難しいと言われていますが、それは人間が扱い難い(人工的でない)という意味での脆さがある一方で、それにより揺らぎが生まれる(自然的である)という意味での豊かさもあり、それぞれの楽器に特徴的な違い(優位性)があります。尺八とリコーダーは短く切られた息遣い(息を合わせる)でリズムとピッチをコントロールし、エレクトロニクスなどを使って音色を重ね合わせることで尺八とリコーダーを一つに溶け合わせながら、しかし、尺八の首振りとリコーダーのタギングなどの違いから生まれる微妙に異なる風合いを活かすことで一つに溶け合いながらも二つの存在を感じさせる二人静の風情を醸し出す演奏になっており非常に楽しめました。尺八とリコーダーという異なる楽器を使用する意義と面白さを存分に感じさせる秀作でした。
 
⑥美少女革命:本朝廿四孝 奥庭狐火の段
この曲は、向井さんが乙女文楽(一人遣い)に魅了され、現代音楽、電子音楽、ポップミュージックやテクノなど様々な音楽と乙女文楽を融合することで伝統文化の可能性を模索するために創作した作品ですが、二人静の相舞の直後に乙女文楽(一人遣い)の人形遣いと人形による相舞を見せる構成上の工夫に唸らされました。本朝廿四孝は浄瑠璃や歌舞伎の人気演目ですが、戦国時代に長尾家の八重垣姫は父・謙信が許婿である武田家の勝頼の暗殺を企てていることを知り、諏訪明神の御加護で狐に化身して勝頼のもとへ知らせに走るという内容です。アコースティック(西洋)とエレクトロニック(唄を含む邦楽)、ヴィジュアルアート(現代)と文楽人形(古典)がクロスオーバーする形で物語が進行しました。お恥ずかしながら三人遣いの文楽ではなく一人遣いの乙女文楽を鑑賞するのは初体験でしたが、一人遣いなので人形遣いの動作と人形の動作が緊密に連携して一体感のあるリアルな表現が展開され(例えば、乙女文楽では人形遣いの首が人形の首と連動する仕掛けになっており三人遣いの文楽と比べても人形遣いの魂が人形に憑依しているような不思議な感覚を覚えて、さながら人形遣いと人形による能「二人静」の相舞を見ているような風情を堪能できました。さらに、この作品では人形遣いの魂が憑依したかのような人形に、狐の霊が憑依するという重層的な構成)が可能となり、それが人形に瑞々しい生命力を与えているように感じられました。八重垣姫が勝頼を慕う乙女心を表現したチューバとピアノのアンサンブル、西洋楽器が邦楽囃子をフィーチャーしたような音楽を演奏するパートなど聴きどころになっていましたし、バロック舞曲をフィーチャーしたような音楽に合わせて八重垣姫(人形)が日本舞踊を舞うシーンは非常に美しいピースに仕上がっていたと思います。また、チェロと尺八のアンサンブルは室内楽のピースとして純音楽的に楽しむことができる聴きごたえのあるものになっていました。さらに、ヴィジュアルアート(現代に生きる男女やポップなコンテンツなどを素材としたもの)を使って昔男に移り舞う少女(純情)と人待つ女の情念が呼び寄せた狐の霊が憑依する狂女(狂気)という複雑な心情を表現すると共に、それを通じて現代の世相にリンクするような多次元な表現が非常に面白く感じられました。上記③から⑥の演目では、アナログとデジタルのハイブリッドな世界が生み出すリアルとバーチャルという存在の二重性(仏教や量子力学の世界観にも通底)やオルタナティブな存在の憑依という古典的な表現方法を借用して矛盾したものが1つの人格を形成している人間存在の本質を浮き彫りにするダイナミズムが感じられ、将来が嘱望される若手の現代作曲家の稀有な才能に触れたような非常に満足感の高い芸術体験となりました。これは「推し」です。
 
 
▼カムイとアイヌの物語「イノミ」
【題名】ウポポイ渋谷公演
    カムイとアイヌの物語「イノミ」
【演目】①特別講演「カムイとアイヌの物語」
     <公演>千葉大学名誉教授 中川裕
     <実演>早坂駿、桐田晴華、上河彩
    ②伝統芸能「イノミ」
     <実演>アイヌ民族文化財団伝統芸能課
【会場】LINE CUBE SHIBUYA
【日時】2024年2月23日(祝)13:00~
【感想】
民族共生象徴空間「ウポポイ」がアイヌ儀礼「イヨマンテ」を題材にした伝統芸能「イノミ」(ストーリー性がある唄と踊り)を渋谷で公演するというので、これは万難を排して聴くべしと思い立ち事前抽選に応募したところ運よく当選しました。公演鑑賞後に簡単に感想を残したいと思います。なお、この公演は抽選制なので当日券などはありませんが、公演の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
民族共生象徴空間「ウポポイ」は、2020年7月に年間来館者数100万人という目標を掲げて開館しましたが、コロナ禍の影響もあって開館後3年間を経過した2023年9月に累計来場者数が100万人に到達しました。この点、ウポポイは、商業施設ではなく文化施設であることを踏まえると、もともと年間来館者数100万人という目標は(その意気込みは立派だとしても)実現可能性が低い法外な目標だったのではないかと思われます。因みに、商業施設では、ディズニーランド:約2500万人(これは別格)、ハウステンボス:約210万人、旭山動物公園:約80万人となりますが、これが文化施設になると、東京国立博物館:約125万人、東京文化会館:約45万人、ウポポイ:約35万人、京都国立博物館:約25万人、新国立劇場:約20万人の規模になり、ウポポイは立地条件(交通、気候など)のハンディーキャップを考えると相当に健闘している印象を受けます。やはり立地条件(気候)は来館者数に大きく影響するようで、ウポポイでは夏場の来館者数に比べて冬場の来館者数は著しく減少する傾向にあるようですが、その閑散期を利用してアイヌ文化の魅力を訴求するためのアウトリーチ公演を全国各地で開催しており、今日はウポポイ渋谷公演を鑑賞してきました。冒頭、アイヌ民族文化財団運営副本部長の野本正博さんから挨拶があり、アイヌ文化の保護及び継承だけではなく若い世代がアイヌ文化を現代に息衝くものとして刷新しその可能性に挑戦して行くことが大切であるという趣旨のことを話されていましたが、正しく慧眼です。単に伝統文化の保護及び継承だけではいずれは朽ち果ててしまいますので(普遍なものはあり得るとしても不変なものはあり得ない)、歴史が物語るように、常にその時代の時代性を織り込みながら伝統文化を革新して行く姿勢を持ち続けることで初めてその伝統文化の継承及び発展があり得るのだろうと思いますし、その意味でも本日の公演は大変に有意義なものであったと感じます。なお、アイヌ語には日本語のように母音で終わる言葉だけではなく子音で終わる言葉があり、その子音で終わる言葉をカナカナの小文字で表記しますが、都合上、以下では全て大文字で表記しています。
 
①特別講演「カムイとアイヌの物語」
この講演の講師を努められたアイヌ語研究の権威にして千葉大学名誉教授の中川裕さんは、アイヌ語研究の功績を讃えられて金田一京助博士記念賞及び文化庁長官表彰を受賞し、一世を風靡したマンガ「ゴールデンカムイ」(2018年手塚治虫文化省マンガ大賞)でアイヌ語の監修を担当した方としても知られていますが、本日はアイヌ文化の重要な概念の1つである「カムイ」について講演されましたので、その概要を簡単に書き留めておきたいと思います。アイヌ語の「カムイ」は神(カムイ→カ)を意味する言葉で、一般には「ムイ」と「カ」にアクセントを置いて発音する人が多いのではないかと思いますが、正しくは「カイ」と「ム」にアクセントを置いて発音するそうです(「カイ」(痒い)と同じアクセント)。アイヌ文化では、全ての事物(生物、自然現象、道具など)に魂が宿っており、そのうち何らかの精神や意思を持ったものをカムイと捉えているそうです。通常、カムイはカムイモシリ(カムイの世界)に魂の状態で存在していますが、「着物」(生物、自然現象、道具などの事物)を纏った姿でアイヌモシリ(人間の世界)に顕れて人間へ恩恵をもたらし、人間はその恩恵に対する感謝を込めて言葉や供物(酒、イナウなど)をカムイに捧げてカムイモシリに送り返すことで、再び、カムイは「着物」を纏った姿でアイヌモシリに顕れて人間へ恩恵をもたらしてくれると考えられているそうです。中川さんによれば、カムイは「神」や「精霊」などの特別な存在ではなく、もっと人間に身近な「環境」に近いニュアンスを持った概念だそうですが、カムイ(環境)と人間が相互に恩恵を分かち合う(上述のとおり現代の「推し活」に通底する精神)というアイヌ民族の生き方(自然共生)は、現代のSDGsの考え方を理想的に体現したものと言えるかもしれません。この点、アイヌ文化を代表するアイヌ・ユーカラ(神謡)はカムイ(環境)から見た世界をサケヘ(リフレイン)を使いながら歌い語るものですが、子音を発音するための独特な発声(内破音)から生み出されるアイヌ・ユーカラに特有の情緒に魅力があり、ハングル語に近い響きを持っているように感じられます。因みに、アイヌ文化では、他人の名前を本名で呼ぶと魔物が厄災を及ぼすと信じられていることから(上述のとおり枯山水、俳句や能に代表される「描かれないもの」を味わい尽す芸術鑑賞(アブダクション)にも通底する精神)、通常は「ポンレ」という愛称(=「ポン」(小さい)+「レ」(名前))で呼び合う風習があるそうですが、そのアイヌ文化を承継するためにウポポイの職員の間では本名ではなくポンレで呼び合っているそうです。本日、アイヌ・ユーカラを実演した早坂さんのポンレは「ペンレク」(意味:割れヒゲ)で「チカルカルペ」(北海道の全土に伝わるアイヌ民族衣装)を着用し、上河さんのポンレは「ペチャンポ」(意味:やせっぽち)で「ルウンペ」(白老町近隣に伝わるアイヌ民族衣装)を着用し、また、桐田さんのポンレは「クワンノ」(意味:まっすぐ)で「カパラミプ」(浦河町近隣に伝わるアイヌ民族衣装)を着用していましたが、各地域により民族衣装のデザイン(形状や文様)などに微妙な違いがあるそうです。なお、本日は時間的な制約からアイヌ文化のごく一部しか触れられていませんでしたが、アイヌ文化民族文化財団ホームページにはアイヌ文化を紹介した豊富なコンテンツが紹介されています。また、先日、中川さんが「アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」」の続編として「ゴールデンカムイ 絵から学ぶアイヌ文化」を上梓されたそうなので、こちらも必読です。
 
②伝統芸能「イノミ」
民族共生象徴空間「ウポポイ」では、アイヌの伝統芸能(アイヌの儀礼や日常で演じられている歌、踊、劇から構成される一種のミュージカル)を世界に発信する取組みを行っており、①シノツ(伝承芸能)、②イメル(復元芸能)及び③イノミ(創作芸能)の3つのジャンルを中心に活動しているそうです。本日は、このうち③イノミ(創作芸能)が上演されましたが、キムンカムイ(熊のカムイ)に感謝の祈りを捧げるために数日間に亘る饗宴を催して、土産を持たせてカムイモシリへ送り返す伝統的な儀礼「イヨマンテ」(熊の霊送り)を題材にして、その儀礼の流れを再現しながらイヨマンテの精神を表現することを目的とした舞台です。ウウエランカラプ(アイヌの正式な挨拶)から開始され、私達が来た道、私達が行く道の物語であることが紹介されました。先ず、儀礼の準備として、イユタ・ウポポ(穀物を脱穀、製粉するために女性達が3拍子で優美に歌う杵つき歌)、サケカラ・ウポポ(酒を濾すために女性達が2拍子で優美に歌う酒造りの歌)、タクサリムセ(笹や蓬などで作られたタクサを使ってカムイを迎えるための場を清めるために男性達が2拍子で勇壮に踊るお祓いの踊り)が上演されましたが、和人の作業歌(田楽、酒造りの歌など)と同様に日常の営みの中から生まれた生活に息衝く伝統文化であることがよく分かりました。次に、カムイへの祈りとして、カムイノミ(酒杯とイクパスイを使ったカムイへの祈り)が上演されましたが、歌や踊りなどはなく儀式性の高い厳粛な雰囲気の中で村人達が酒杯とイクバスイを回しながらカムイとアイヌ(人間)が同じ杯を分かち合いますが、過去のブログ記事で触れたとおり、和人の神人共食と同様に神(自然)の恵みに感謝し、神(自然)との調和(神人一体)を願う一元論的な世界観が感じられました。なお、アイヌ文化ではカムイへの祈りは火のカムイを媒介すると届き易くなると信じられていますが、過去のブログ記事でも触れたとおり、人間にとって道具の使用に次ぐ第二の技術革命と言われる火の使用により脳の発達が促されて高度な思考を行えるようになり、光、熱、音や煙などを生み出す火に神聖なもの(人ならぬ者の存在)を感じていたのではないかと思われます。最後に、カムイへ感謝を捧げるための饗宴として、タプカラ(カムイをもてなす男性達が2拍子で勇壮に歌い舞う踏舞)、ウポポ(裏声や息なども使って輪唱しながら歌う座り歌)、ハンチカプ・リムセ(鳥の鳴き声を模倣しながら衣装の袖を翼に見立てた水鳥の踊り)、エムシ・リムセ(男性2人が華麗に披露する刀の踊り)、イヨマンテ・リムセ(円陣を囲んで徐々にリズムを詰めながら歌い舞う熊の霊送りの踊り)、イエトコチヤシヌレアイ(キムンカムイがカムイリシモへ帰る道を清めるための射矢)が上演されましたが、バックスクリーンに北海道の雄大な自然が映し出され、アイヌの歌や踊りがその自然と一体となり幻想的に彩る舞台は本当に美しく(西洋音楽のように人工的に規律された音やリズムが空間や時間を切り取るような印象とは異なり、自然にある音やリズムに寄り添って広陵たる大自然に遊び、悠久の時間を紡ぐような風合い)、このようにアイヌの人々は自然と調和しながら生きてきたことを実感できた素晴らしい舞台でした。ムックリ(口琴)はスペクトル波形のような独特な響きを生む楽器ですが、非常に表情やニュアンスが豊かで色々な音楽表現が可能な面白い楽器であることが分かり興味深かったです。なお、以下の囲み記事でも紹介していますが、今春から阿寒湖アイヌコタンで新作シアターピース「満月のリムセ」が公開される予定なので、北海道へアイヌ観光に行ってみようかと思っています。本日の公演を拝見した印象からも、アイヌ文化に触れることで人生の大切なものが見つけられるような気がしています。また、現在、名著「アイヌ神謡集」を執筆した知里幸恵さんの半生を描いた映画「アイヌのうた」が公開されていますが、年甲斐もなく、とてもピュアなものに触れて心が裸にされ、自然と涙が溢れ出してくるような映画でした。横浜の映画観は満席の盛会で入場できない人が出るほどの人気振りですが、是非、映画観の大きなスクリーンでご覧になられることをお勧めします。
 
 
▼オペラ「長い終わり」
【題名】オペラ「長い終わり」(世界初演)
【作曲】高橋宏治
【台本】高橋宏治
【演出】植村真
【ドラマトゥルク】田口仁
【音響】増田義基
【監督】高橋宏治(芸術監督)、服部寛隆(舞台監督)
【録音】元木一成
【映像】後藤天
【制作】進藤綾音
【出演】<Sop>中江早希(私役)
    <Sop>薬師寺典子(声(ヴォイス)役)
【指揮】浦部雪
【演奏】<Vn>松岡麻衣子、清水伶香
    <Va>甲斐史子
    <Vc>原宗史
    <Perc>牧野美沙
    <Pf>弘中佑子
【感想】
過去のブログ記事で紹介しましたが、室内モノオペラ「プラットフォーム」(2020年)が東京藝大アートフェス2023で東京藝術大学学長賞を受賞した現代作曲家の高橋宏治さんが作曲、台本(オリジナル脚本を使用)及び芸術監督を手掛けた新作が初演されるというので聴きに行く予定にしています。公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、公演の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
今日は現代作曲家の高橋宏治さんが作曲、台本及び芸術監督を務めた新作の室内オペラ「長い終わり」を鑑賞してきましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。僕の基本的な鑑賞態度として、作曲家や演奏家の人となりなどの情報は認知バイアスを生み易いのであまり関心を持たないことにしていますが、この作品は少女の人生に仮託した高橋さんの私小説(モノローグ)という性格を持っているように感じられましたので、パンフレットに記載されている範囲内で高橋さんのことについて簡単に触れておきたいと思います。高橋さんには、映画監督になりたいという夢があったそうですが、その手始めとして自宅のピアノで作曲を始めたことが作曲家の道を歩む契機になったそうです。いずれは映画のような「大きな総合的な作品」を作るという目標を持ち続けたことが、この作品に結実されているようです。この点、室内オペラと銘打たれていますが、映画のような器の大きな作品に感じられ、古いものから新しいものまでジャンルレスに融合した新しい時代の新鮮な感性が感じられる作品になっています。新約聖書ルカ福音書第5章には「新しい酒は新しい皮袋に盛れ」という有名な言葉がありますが、これに擬えれば、第一次世界大戦を契機として「古い酒」を醸造するための「古い革袋」が破却され、20世紀(モダニズム)は「新しい酒」(世界観)を醸造するための「新しい革袋」(方法)の開発に関心が向けられた結果として、観客は「新しい酒」の醸造を待ち侘びながら、もはや酔えなくなるくらい「古い酒」を飲み尽くす羽目になりましたが、漸く21世紀(ポストモダン)になって「新しい酒」(現代の時代性を反映した多様な芸術表現)が醸造されるようになり、それに適した「新しい革袋」(ジャンルレスで多様な表現方法)が柔軟に使われるようになったことで、観客は銘酒を求めて「新しい酒」の利(聴)き酒を始めるようになったのが現在の状況ではないかと思います。その意味で、高橋さんのような「新しい酒」を振る舞ってくれる新鮮な感性を持った若き才能の登場を待ち侘びていたと言え、さしずめ拙ブログは「新しい酒」を求めて彷徨う垢ぬけないおじさんの酒場放浪記ということになりますが、少しでも「新しい酒」の風味などが伝われば飲兵衛冥利に尽きるというものです。さて、この作品のプロットは、1人の少女(私)が自分の内なる声に導かれ、「愛」(音楽のメタファー)を求めて自分のナラティブを綴り始めますが、いつか音楽が終わるように、いつか愛や人生も終わるという愛と人生の物語になっています。愛をテーマにしていますが、愛する人とのダイアログではなく、さながらシューベルトの歌曲集「冬の旅」のように愛する人を想う私のモノローグになっており、私の日常(人生)という小さな物語(個人のナラティブ)が綴られています。開演前から前奏曲としてアナログ時計の秒針の音(牧野さんがビブラフォンを叩く音)が刻まれ(但し、最新の物理学では、時間を逆行する反物質の存在が確認され、時間は不可逆的ではなく可逆的である可能性が指摘されています。)、やがて他の演奏者が静かに入場してアナログ時計の秒針の音(心臓が刻む鼓動のメタファー?)に合わせて音楽を奏で始め、人生に「愛」(音楽のメタファー)が生まれる瞬間を印象的に表現していましたが、ミュージカル「レント」の有名なピース「シーズンズ・オブ・ラブ」などにも通底するテーマ性を持った含蓄のある演出に感じられました。薬師寺さんが演じる「声」(但し、バンダとして声だけの出演ではなく、インテリメガネをかけたスーツ姿のエバンジェリストとして登場)の語りが希望なき未来を掴み取ろうとする現代の若者の諦観混じりの焦燥を上手く表現していました。これに続いて、過去の思い出らしき映像がモニターに映し出されるなか、中江さんが演じる「私」がラップ基調のリズムで自らの素性、来歴を歌いましたが、現在の自分ではない別の何者かになりたいと渇望する若者の野心のようなものを上手く表現していました。人生を足掻いた果てに無為自然の心境(老荘思想)へ収斂されていく老いらくに差し掛かった老輩にとっては、昔日の青春の残照を見ているようで懐かしく感じられました。「声」がコミカルな音楽と共に愛とは何かについてレクチャーを始めましたが、アガペー(神の愛)まで持ち出す二項対立の極論が笑いを誘っていました。「誤解によって愛は始まり、理解によって愛は終わる。」という名言にも表れていますが、愛には脳幹や大脳辺縁系で捉える本能的な愛(情動)と大脳新皮質で捉える理性的な愛(感情)の二種類があると言われており、これらの愛に通底している根本原理として自らの生存可能性を高めること(自らの遺伝子を受け継ぐコピーを数多く残すことが典型)が愛の本性であるとすれば、アガペー、ストルゲー、フィリア、エロスは択一的な関係ではなく、これらは愛の諸相として全て包含されるものとしか言いようがありません。この点、先日のカムイとアイヌの物語「イノミ」の公演でも触れたとおり、現代は、ヒューマニズムの視点を越えて、人間に対する愛から自然(その一部として人間を包含するもの)に対する愛が求められている時代になっているように感じます。その後、ワルツ(一般的にはA、B、Cと段階を踏む愛のセオリーをワルツのステップで表現)、ピアノ練習曲(人間を愛するためのノウハウをエチュードで表現)や間奏曲(ピアノ、パーカッション、チェロの三重奏がマリオネットのような不器用さを表現)により音楽に擬えて愛(人生)のレッスンが表現されましたが、果たして自分の青春時代はどんな風であったのか記憶の彼方です(苦笑)。これに続いて、ミニマル・ミュージック風の曲(エルガーのピアノ曲「愛の挨拶」のパロディー?)が奏でられるなか、「私」がレチタティーヴォ風の叙事詩として愛する人との出会いを歌いましたが(さながら愛の受難劇)、愛が人生の重大事であった若い時代を思い出す印象的なピースでした。アーメン終止を主題にした変奏曲が奏でられるなか、「声」が永遠に愛が続くように祈り歌いましたが、ピッチカートから旋律が生まれては消える曲想は愛の儚さを表現しているように感じられました。「私」と「声」が「あたなはわたしのフリをする」「わたしはあなたのフリをする」とカノン風に歌い重ねましたが、人間のミラーニューロン(共感細胞)が他人との共感を形成する様子が音楽的に表現され、お互いのナラティブを同期させながら調和した関係を保つストルゲーやフィリアの状態がユーモラスに描写されていたと思います。しかし、「声」は音楽と同様に愛にも終わりが近づいていることを宣言します。この作品は「私」の人生の節目(愛の萌芽、愛の終焉、人生の終焉)毎に間奏曲が挿入される構成になっており、ピアノとビブラフォンが「間」を効果的に使いながら愛がスレ違う様子を巧みに描写していましたが、非常に着想が豊かで面白い音楽表現に感じられました。「声」が同じモチーフを繰り返し歌いながら人生がマンネリズムに陥って行く様子をシュールに表現し、徐々にリズムが変化しながらお互いのナラティブが同期しなくなり不協和が生じている様子を描写していました。「私」は、レチタティーヴォ(過去)とラップ(現在)を使って愛の萌芽(過去)と愛の終焉(現在)を対照するように交互に歌いましたが、レチタティーヴォはバッハのマタイ受難曲のそれを彷彿とさせるものであり、さながら「愛」(イエスのメタファー)の磔刑を比喩しているような含蓄のある表現になっていました。これに続く間奏曲ではベルリオーズの「幻想交響曲」第四楽章の死への行進曲のパロディーが奏でられ、同曲第五楽章のカリヨン(弔いの鐘)よろしく愛する人の死を告げるスマホのベルが鳴り響くという趣向でしたが、現代は弔いの鐘の音も多様な時代になっています。「声」と「私」が時間を戻して欲しいと人生の後悔を歌いましたが、グリッサンドを使って時を遡る(又は過去を振り返る)様子が印象的に描写されていました。「声」はユーモラスな曲と共に終わりとは何かについてレクチャーを始めましたが、「結局、何も分からないまま人生を終えて行く」とオチがつけられていました。人間は有性生殖(人類が進化の過程で選択した多様性による生存戦略)に原因する遺伝子のコピーミスなどから種の絶滅を防ぐために自らの死を実装するようになりましたが、この摂理はキャプテン・ハーロックの名言「親から子、子からその子へと血は流れ、永遠に続く。それが本当の永遠の命だと俺は信じる。」に尽くされているように思います。人間の脳は自らの生存可能性を高めるために偶然を嫌って理由(因果関係)を求めたがる傾向がありますが、あるがまま(偶然)を受け入れて理由(因果関係)を求めない生き方が仏教思想の「自然」(じねん)であり、個人的にはそのような境地に至れるように智慧を磨いて行きたいと心掛けています。改めて、そのようなことを色々と考えさせられる作品でした。この作品の終曲が出色でして、冒頭ではアナログ時計の秒針の音(心臓のメタファー?)に合わせて音楽を奏で始め、人生に「愛」(音楽のメタファー)が生まれる瞬間が印象的に表現されていましたが、終曲では末期の呼吸の音が静かに流れるなか、歌(音楽)が声にならない息に変わり、命が静かに燃え尽きる呼吸のリズムを刻みながら消えて行く様子がリアルに描写され(オペラ「デット・マン・ウォーキング」のクライマックスを彷彿とさせるリアルな死の表現)、「人間は、生まれるときは息を吐き、死ぬときは息を吸う(息を引き取る)」と言われますが、最後に大きく息を吸って終曲(音楽が終わり、人生が終わる)となりました。この作品は少女の人生に仮託した高橋さんの私小説(モノローグ)という性格を持っているように感じましたが、何らかの正解や解決ではなく「問い」を投げ掛けることで観客が自分のナラティブと向き合うことを促す現代的なアート作品のように感じられました。高橋さんは新しい時代の新鮮な感性を持ち、そのための表現の引き出しも豊富にありそうな逸材なので、今後も高橋さんの作品に注目していきたいと思っています。
 
 
▼アンサンブル・フリーEAST第20回演奏会
【題名】アンサンブル・フリーEAST第20回演奏会
    アンサンブル・フリーWESTとの合同演奏会
【演目】①I.ストラヴィンスキー 
             バレエ音楽「ぺトルーシュカ」(1911年版)
    ②I.ストラヴィンスキー バレエ音楽「春の祭典」
    ③大熊夏織 踊れるものなら(改訂版)
    ④I.ストラヴィンスキー バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)
【指揮】浅野亮介
【演奏】アンサンブルフリーEAST
    アンサンブルフリーWEST
【会場】ティアラこうとう 大ホール
【日時】2024年3月3日(日)13:30~
【感想】
過去のブログ記事(現代を聴く)で紹介していますが、アンサンブルフリーは若手の現代作曲家、若手のプロ奏者や音大生等から構成され、日本の優れた現代音楽を高い演奏技術で世界に発信し、未来に残していくという目的で活動している団体ですが、第20回演奏会が開催されるというので聴きに行く予定にしています。公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、公演の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
過去のブログ記事(「現代を聴く」シリーズ)で「アンサンブルフリーJAPAN」をご紹介しましたが、指揮者・浅野亮介さんが100名を超える大規模な編成の曲、実演の機会が少ない曲や若手作曲家の委嘱作品などを積極的に採り上げるために設立し、若手のプロ奏者、音大生及びアマチュアなどから構成される楽団で、関西を中心に活動するオーケストラ「アンサンブルフリーWEST」、関東を中心に活動するオーケストラ「アンサンブルフリーEAST」及び若手のプロ奏者及び音大生から構成される「アンサンブルフリーJAPAN」の3楽団があるようです。今日はアンサンブルフリーEASTの設立20周年を記念して開催されたアンサンブルフリーWESTとの合同演奏会を聴きに行きましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。さて、ご案内のとおり、I.ストラヴィンスキーはカメレオンという異名を持っていますが、これはその吸い付くような丸い目からつけられたものではなく、その作風が原始主義、新古典主義、音列主義と次々に変化したことからつけられたものです。今日の演目では、クラシック(貴族:階層性)への反動としてモダン(大衆:民族性)が台頭してきた時代の潮流を背景としてI.ストラヴィンスキーが頭角を現す契機になったモダンとエスニシティを融合した革新的な3作品が採り上げられており、これに加えて、現代の時代性からクラシック(貴族:階層性)やモダン(大衆:民族性)が急速に廃れつつある状況にあるなかでポストモダン(多様:個性)が台頭してきた現代の潮流を体現する現代作曲家・大熊夏織さんの新作がカップリングされるという清新な息吹が感じられる演目構成になっていました。
 
▼ナラティブと音楽の変遷(イメージ図)
ナラティブ 価値観
(中心音)
音楽様式 作曲家
社会

絶対的 調性音楽
市民革命(封建:絶対的→市民:相対的)
相対的 旋法的音楽
半音階的音楽
微分音音楽
複調音楽
ドビュッシー
ワーグナー
ハーバ
ストラヴィンスキー
世界大戦(市民:相対的→大衆:均等的)
均等的 セリー音楽 シェーンベルク
個人

情報革命(大衆:均等的→個衆:個性的)
個性的 多様な音楽
※表組みが複雑になるのでアイヴズは割愛します。
※分かり易さを優先しているので正確な記載ではありません(ファクション)。
 
①バレエ音楽「ペトルーシュカ」(1911年版)
②バレエ音楽「春の祭典」
④組曲「火の鳥」(1919年版)
アンサンブルフリーEASTは個々の団員により若干の実力差が感じられましたが、アンサンブルフリーWESTと共にアマチュア・オーケストラとしては全国トップレベルの実力を備えており非常に信頼感の高い演奏を聴くことができました。全体を通して、指揮者・浅野さんが優れた統率力を発揮してオーケストラから遺憾なく実力を引き出しながらこれをダイナミックにドライブし、緩急を自在に操るメリハリから生まれる劇性や複雑なリズムを適確に捉えた明晰性など歯切れの良い演奏が心地よく、各パート間の緊密なコンビネーションによる隙のない演奏によりI.ストラヴィンスキーのオーケストレーションが精彩を放つ好演であったと思います。先ず、3曲の中で2番目に作曲されたバレエ音楽「ペトルーシュカ」(演奏:アンサンブルフリーWEST)は、ニコライ1世の治世化で搾取された農民の悲哀(社会のナラティブ)をペトルーシュカ(パペット)に化体して描いた作品です。第1場では多彩な音響と変拍子により市場の喧騒を生き生きと描写する躍動感のある演奏が展開され、パペットの踊りを華やかに彩る演奏は聴き応えがありました。第2場ではペトルーシュカ調(ハ長調と嬰へ長調の復調)を効果的に使ってペトルーシュカの悲哀を繊細に表現し、これに続く第3場ではムーア人(異教徒)のエキゾチックな魅力を醸し出しながらムーア人と踊り子のダンスを優雅に聴かせ、ペトルーシュカとムーア人のキャラクターの対照性が際立つ演奏を楽しめました。第4場では絢爛たる響きで市場の華やいだ雰囲気を生き生きと描写した後、ペトルーシュカとムーア人が乱闘する気忙しいパッセージを経て、ヴァイオリンソロとミュートを付けたトランペットがムーア人に殺されたペトルーシュカの亡霊をユーモラスに表現する終曲となりましたが、この作品を一筆書きでドラマチックに描き切る吸引力ある好演であったと思います。次に、3曲の中で3番目に作曲されたバレエ音楽「春の祭典」(演奏:アンサンブルフリーEAST)は、I.ストラヴィンスキーがバレエ音楽「火の鳥」を作曲している最中に「荘厳な異教徒の祭典」というコンセプトを着想し、その独特な世界観(プロット)を描いた作品です。第1部では冒頭のファゴットがやや持て余し気味の印象を受けましたが、周囲のサポートもあり新しい命の芽吹きに神力を感じさせる春先のミステリアスな雰囲気が芬々と立ち込めて、オーケストラは複雑なリズムを小気味よいキビキビした音運びで色彩豊かに聴かせていましたが、春先の清廉とした息吹が感じられる演奏を楽しめ、とりわけ第7曲ではポリリズムが生み出す狂爛たるクライマックスは聴き応えがありました。第2部ではペトルーシュカ調を効果的に使いながら生贄儀式の神秘的で陰鬱とした雰囲気を巧みに表現し、オーケストラが混然一体となって狂乱的なリズムを刻む緊迫感のある演奏が展開されました。アマオケとは思えない演奏精度の高さで、I.ストラヴィンスキーの緻密な管弦楽法から生み出されるカオス的な美(カオスからコスモスが生まれるその始源への眼差し)を堪能することができました。やがて力強い打楽器に導かれて絢爛たるフィナーレを迎える燃焼度の高い演奏は圧巻でした。最後に、3曲の中で1番目に作曲された組曲「火の鳥」(演奏:アンサンブルフリーEASTとアンサンブルフリーWESTの合同)は、I.ストラヴィンスキーがバレエ・リュスのセルゲイ・ディアギレフからミハイル・フォーキンの台本に基づくバレエ音楽「火の鳥」の作曲を委嘱されて創作した作品を組曲に改編したもので(本日は2管編成の1919年版)、伝統的なクラシック・バレエに反発してモダン・ダンスを基調とする革新的な作品を本格的に創作する契機になった記念碑的な作品です。序奏では深々と立ち込める夜の闇とその神秘的な雰囲気を低音楽器(大太鼓、コントラバス、ファゴット)、弦のハーモニクス、フルート、オーボエが印象的に表現し、これに続く火の鳥の踊りではそのステップを軽快なリズム感で聴かせて、闇と光を対照するメリハリのある演奏を楽しめました。王女たちの踊りではオーボエとハープがロマンチックに彩り、ヴァイオリン、チェロ、クラリネット、ファゴット、ホルンが色彩豊かに歌い継ぐロシア民謡の叙情香る演奏が出色でした。カッチェイ王の魔の踊りでは金管の威圧的な咆哮で雰囲気が一変し、パーカッション、ピアノ、弦が鋭いリズムを激しく刻みながら密度の濃い音楽を展開する高揚感のある演奏を楽しめました。火の鳥の子守歌ではハープが揺り籠にゆられているような夢見心地の調べを奏でるなか、ファゴットとオーボエがノスタルジックな子守歌を歌い添う美しい演奏に魅了されました。最後はハープと弦楽器が光沢感のある響きを増しながら、これに打楽器や金管が加わって力強くクライマックスを築く燃焼度の高い演奏を楽しめました。この3曲のライブ演奏を続けて聴くのは初めての経験でしたが、ロマン主義の残香が漂うバレエ音楽「火の鳥」から、原始主義、新古典主義、音列主義と作風を変化させながら、その書法が深化されて行く過程がよく分かる面白いプログラムでした。I.ストラヴィンスキーの革新的な作品は「現代音楽の古典」とまで言われていますが、近年のアマオケのレベルアップには目覚ましいものがあり、ここまでアマオケに演奏されてしまうと、プロオケはその存在意義をかけてクラシック(定番曲)ばかりを演奏していられない状況が生まれているのではないかと思います。
 
③踊れるものなら(改訂版/世界初演)
現代作曲家・大熊夏織さんのご高名は予てから聞き及んでおり「現代を聴く」シリーズでも採り上げたいと思っていた将来を嘱望される若手の1人ですが、その機会を逸していましたので、その曲の感想を簡単に残しておきたいと思います。この曲は、大熊さんが2019年に「踊りたくなる衝動」をテーマに作曲した作品がベースになっているそうですが、今回は「踊りたくなる衝動があっても踊り出せない感覚」(最初の一歩が踏み出せない、怖くて体が動かない、どう合わせて良いのか分からないなどの感覚)をテーマに大幅に改訂した新作だそうです。「踊る」ことをテーマにした曲は枚挙に暇がありませんが、「踊れない」ことをテーマにした曲は知る限り他に例を知らず(井上陽水の「ダンスは上手く踊れない」や踊ることを目的としない舞曲などが思い浮かびますが、これらは「踊れない」ことを直接のテーマとしたものではありません)、多様性の時代を背景にして非常にユニークなテーマ性を持つ曲だと思います。今回の改訂にあたっては、舞踊家・土方巽さんの暗黒舞踊からインスパイアを受け、「オーケストラを一つの身体に見立て、緊張と緩和を繰り返し、たった一つの振付(モチーフ)をひたすら踊り続けます。間違っていたとしても、それを利用して新たなダンスを生み出し、また、その繰り返し。」を表現したものだそうです。2管8型をベースにビブラフォン、スネアドラム、バスドラム、コンガ、ウッドブロック、ピアノなどを追加した特殊編成になっていましたが、非常に短い曲でありながら多彩なオーケストレーションを楽しめる作品になっていました。冒頭ではヴィオラとピアノによる打撃音で開始されましたが、これは踊りたくなる衝動を表現したものでしょうか。多様な楽器が多彩な響きでリズム感を捉えようとしますが、それらは持続せず、少しづつアレンジを変えながらリトライが繰り返されていきました。ジャズダンスやアフリカンダンスを想起させる聴きどころなどもあり、人間がリズムを使ってフォルムを創り出して行く様子が音楽的に表現されている面白い作品でした。若手の現代作曲家の作品には既成の概念に囚われない着想の豊かさを感じさせるものが多く、僕のような老輩には発想が及ばない曲想で世界観を広げられて行くような興趣が新鮮で面白く感じられます。
 
 
▼映画「カムイのうた」
前回のブログ記事で触れましたが、現在、アイヌ神謡集を執筆した知里幸恵さんの半生を描いた映画「カムイのうた」が公開されています。オペラ「ニングル」はアイヌ文化のエッセンスを現代人へのメッセージとして紡いだ感動作でしたが、知里幸恵さんのアイヌ神謡集の序文にも現れているとおり、アイヌ文化には現代の日本人が忘れてしまった自然と共生する謙虚で純真な精神が息衝いているように感じられ、本来、日本人(古モンゴロイド)が持っていたはずの美しい心を思い出させてくれます。
 
▼シアターピース「満月のリムセ」
2024年4月27日から阿寒湖アイヌコタンのシアター「イコロ」において、アイヌ文化への理解を深めることを目的として北海道釧路市が制作した新演目「満月のリムセ」が公開されます。かなり面白そうな公演なので、今年のGW又は夏休みは満月のリムセの鑑賞を兼ねて阿寒湖アイヌコタン(釧路市)、川村カ子トアイヌ記念館(旭川市)、ウポポイ(白老町)、知里幸恵銀のしずく館(登別市)、二風谷(平取町)などを巡る旅行を企画しており、いまから楽しみです!

オペラ「マルコムX」(MET初演)とオペラ「アマゾンのフロレンシア」(MET初演)とオペラ「ニングル」(作曲家・渡辺俊幸/藤原歌劇団)とミュージック・シアター「PSAPPHA」(加藤訓子)とナラティブを生きる < STOP WAR IN UKRAINE >

▼ナラティブを生きる(ブログの枕単編)
ウサギとカメ、北風と太陽、オオカミ少年などの寓話が世界中で親しまれているイソップ物語(紀元前6世紀の古代ギリシャ時代にトルコ人奴隷・イソップが生きるための知恵や権力者への戒めを物語るために自然物を擬人化して創作した約700話の寓話)は現代の大人の鑑賞にも耐え得る含蓄がありますが、日本では江戸時代初期にイソップ物語を日本語に翻訳した「伊曾保物語」(イソップに関する伝記:29話、イソップが創作した寓話:65話)が発刊されました。この伊曾保物語に収録されている「蝉と蟻」と題する物語は、フランスでは「蝉」に馴染みが薄いので「キリギリス」に変更され、日本では虫の音に感心が深いことから「蝉」が「キリギリス」のほかにも「コオロギ」「バッタ」「コガネムシ」などに変更されており、その土地の生態系が物語に色濃く影響を与えています。一般には「蟻とキリギリス」に翻案された物語が知られており、キリギリスは蟻が冬籠りに備えて食料の備蓄に勤しむ姿を尻目にヴァイオリンを弾いて遊び暮らし、冬に食料がなくなって蟻に助けを求めるというストーリー展開ですが、その結末には、①蟻はキリギリスに食料を分け与えることなくキリギリスは死ぬ(原典)、②蟻はキリギリスに食料を分け与えてキリギリスは改心する(日本の教科書に採用された規範性を尊重する20世紀的な結末)、③蟻はキリギリスに食料を分け与えることなくキリギリスは自らの生き様を語って悔いなく死ぬ(多様性を尊重する21世紀的な結末)などのバリエーションがあります。上記の③の結末には生活の安定を重視する擬人化した蟻と人生の充足を重視する擬人化したキリギリスがそれぞれのナラティブを生きる姿が描かれていますが、(蟻の倫理感は横に置くとしても)現代は世界を革新し得るキリギリス的な考え方が評価される傾向があると言われています。
 
▼ストーリーとナラティブの違い
物語の種類 視点 主体
ストーリー オフ・ステージの視点
(三人称)
他者の物語
ナラティブ オン・ステージの視点
(一人称/二人称)
自分(達)の物語
 
▼認知とナラティブの関係
知覚(推論)
セイリエンス・ネットワーク(SN)
仮説の筋道(プロット)
情動による反応(無意識的)
(入力)↕(修正)
記憶(検証)
セントラル・エグゼクティブ
ネットワーク(CEN)

収束型の論理思考
最適解の模索
アイディアの創造
デフォルト・モード
ネットワーク(DMN)

発散型のナラティブ思考
可能性の模索
アイディアの創発
↓(出力)
認知(判断、行動)
大脳皮質系ネットワーク
ナラティブの生成
感情運動系ネットワーク
感情による行動(意識的)
 
人間の脳はナラティブ形式でエピソード(時系列の事実)を編集し、記憶しますが、そのエピソードを過去、現在、未来を結ぶ1つの筋道(プロット)として自分の世界観や人生観の中に上手く組み込んで納得のゆくナラティブに仕立てることで、人生の目的、意義や統一性などを基礎付けるアイデンティティ(人格)を形成すると考えられています。この点、不安症の人は、その不安を納得のゆくナラティブに仕立てることができずに、アイデンティティ(人格)に綻びが生じて精神的に不安定になる状態(トラウマ)に陥ると考えられています。人間の脳は無意識的にナラティブを紡ぐ性質を備えていますが、過去のブログ記事で触れたとおり、①知覚(推論):感覚器官が体の内外から情報を受け取ると脳が仮説の筋道(プロット)をシミュレーションし、②記憶(検証):その仮説の筋道(プロット)と過去の記憶を照合して、③認知(判断、行動):それらの間に発見されたミスマッチを修正(最もプリミティブな例として錯視)して「現実」(ナラティブ)を仕立てると共に(これは「差分」と言い換えることもできるもので、その差分の大きさに比例して脳の報酬系が活性化)、それに適応した感情を作り出して必要な行動を促します(過去のブログ記事で触れたとおり、①の段階で情動を生成して必要な反応を促します)。人間の脳は過去の記憶を使い回すことで認知の効率化及び省力化を図っていますが、さながらパソコンがキャッシュを使って画面表示する仕組みに似ています。この点、人間の脳が認知に利用する情報は、感覚器官が体の内外から受け取る生の情報量よりも人間の脳が仕立てるナラティブの情報量の方が約10倍も多いと言われており、人間の脳は前者(生の情報)よりも後者(ナラティブの情報)を重視するように設計され、人間の脳が認知する「現実」(ナラティブ)は生の情報を忠実に反映したものではない(虚実皮膜の間ファクション)と考えられています。過去のブログ記事で触れたとおり、その科学的な知見が具象絵画から抽象絵画への潮流を生み出したと言われています。ところで、L.ダ・ヴィンチ、A.アンシュタインやS.ジョブズなどの歴史上の偉大なイノベーター達はアイディアの創発だけではなくアイディアの創造にも秀でた才能を発揮した点で共通していると言われていますが、「アイディアとは既存の要素の組み合わせ以外の何ものでもない」(J.ヤング)と言われているとおり、デフォルト・モード・ネットワークの発散的な思考(直感)により過去に存在しなかった既存の要素の組み合わせを閃いて生まれたアイディア(創発)をセントラル・エグゼクティブ・ネットワークの収束的な思考(論理)により磨き上げながら実行性のある精度の高いナラティブ(創造)に仕立てることができる能力(成果を生み出せる力)こそが真のクリエイティビティーと考えられています。J.ルーカスが映画「スター・ウォーズ」の製作にあたってインスピレーションを受けた神話学者J.キャンベルの古典的名著「千の顔をもつ英雄」では古今東西の神話や民話を比較分析して一定の共通する原形とそのバリエーションに分類できることを考察したうえで、その原形は人間が持つ無意識の欲求や恐怖などの集合的無意識が象徴的に表現されたものであると結論付けています。この集合的無意識を背景として前近代(~18世紀前半)までは「神」「宗教」「封建」などの絶対的な価値観が社会のナラティブ(唯一の物語=教義)として信奉されていましたが、やがてこの社会のナラティブの矛盾又は破綻が意識されるようになると、これに代わって近代(18世紀後半~20世紀後半)には「科学」「自由」「民主」などの相対的な価値観が社会のナラティブ(大きな物語:規範性)として選択され、その後、この社会のナラティブ(大きな物語=規範性)の綻びが目立つようになって、現代(20世紀後半~)では「個性」などの相対的な価値観が個人のナラティブ(小さな物語:多様性)として確立されるようになりました。なお、日本の昔話(例えば、竹取物語など)では、冒頭はオフ・ステージの視点(三人称:客観的、過去形)からストーリーを物語り、次第にオン・ステージの視点(一人称又は二人称:主観的、現在形)に移ってナラティブとして物語るようになりますが(複式夢幻能でも同じような物語構造を持っています)、再び、結末はオフ・ステージの視点(三人称:客観的、過去形)に戻ってストーリーを物語るという構成をとるものが多いと言われていますが、過去のブログ記事で触れたとおり、日本では自分(主体)と相手(客体)との間に共同視点を持ち主観的な視点(一人称又は二人称)から「無分別」に世界を捉える特徴があり(一元論的な世界観)、これが禅(瞑想)では自然と同化した呼吸状態になること(一元論)を目指し、また、浄土真宗(念仏)では阿弥陀如来と同じ境地になること(一元論)を目指すという特徴になって現れているとおり、この母性原理(母子が肉体的に一体であるように主客の別がない世界観)の文化が諸芸万般に息衝いています。閑話休題。人間の脳がナラティブ形式でエピソードを編集し、記憶するのは、エピソードを因果関係として捉えることで可能な限り偶然に支配される状況を排除して生存可能性を高めるためであると考えられていますが、人間の脳は他者のナラティブを吸収し、咀嚼して自分のナラティブを再構築することで更に生存可能性を高めるための集合知により高度な進化を遂げました。しかし、その一方で、自分のナラティブと現実との間のギャップは大きなストレス(生存可能性を低下させる可能性がある状態)を生じて、それが脳内で反芻されると認知的不協和に陥る可能性があると言われていますが(ネガティブ・スパイラル)、現代はSNSを通じて自分のナラティブと相反する他者のナラティブに触れる機会(現実)が増加し、自分のナラティブと他者のナラティブの衝突が生まれ易くなったことで生き難さを感じる時代になっていると言われています。この点、小説の読書と社会的認知能力の間には相関関係があると言われており、例えば、小説「ハリーポッター」を読んだ子供達は社会的マイノリティーに対する寛容度が高いという調査結果が公表され、小説の読書がナラティブの柔軟性を培うために有用であると考えられています。また、過去のブログ記事で触れたとおり、S.ジョブズは瞑想を実践していたそうですが、瞑想により無我の境地に至ることで「脳のおしゃべり」(ナラティブの生成やネガティブ・スパイラル)を停止し、ナラティブの呪縛から心を解放して心を整える作用があると言われており、詠唱(オスティナート又はミニマル音楽)にも同様の効用があると考えられています。さらに、酒や薬には脳の機能を麻痺させることで「脳のおしゃべり」を停止する効用がありますが、これらを多用すると中毒症状を引き起こす危険があります。これらに加えて、人間の脳は自分の記憶(個人により偏向している知識)をベースとして仕立てられたナラティブ形式の世界観(認知パターン)をフィルターとして現実を創造していますので、例えば、日本では警察官による職務質問のあり方のような社会問題も発生しています。これらの問題を克服するために、上述のとおり人間の脳をハッキングしてナラティブの柔軟性を培うためのソーシャル・エンゲージメント・アートなどが注目されており、オペラ「デット・マン・ウォーキング」やオペラ「マルコムX」(以下に簡単な感想を掲載)などもその文脈に位置付けることができるかもしれません。その一方で、2019年にオックスフォード大学は世界約70ケ国でSNSを使って国内外の世論操作(ナラティブの書換え)が試みられているという調査結果を公表して警鐘を鳴らし、また、最近ではフィル・ターバブル(アルゴリズム)、ステルス・マーケティング(インフルエンサー)、ディープ・フェイク(生成AI)、認知戦(敵対勢力のナラティブ操作)などに関心が集まっており、さらに、カルト教団やテロリストは人間の脳が偶然に支配される状況を排除することで安心する性質があることに付け込んで尤もらしい因果関係を説いて洗脳する陰謀論ナラティブや被害者ナラティブなどが深刻な社会問題になっています。このような状況を踏まえ、世界中にどのようなナラティブが拡散されているのかを収集し、その影響を監視すると共に、(表現の自由との関係で言論統制は困難だとしても)不適切なナラティブに対抗する手段を講じるためのナラティブ・ネットワーク技術の開発が盛んになってきています。現代は自分のナラティブを生きているのか又は他者のナラティブを生かされているのか分からない時代になってきていますが、少なくとも、自分の知らないところでナラティブを操作されるのではなく、自分のアイデンティティ(人格)に基づく主体的な選択により自分のナラティブを決定する権利及び知恵は確保したいものです。夜空に輝く星々をナラティブで結んで星座を物語るように美しい人生を紡いで行きたく、そのために芸術の力を借りたいと思っています。
 
 
▼オペラ「マルコムX」(全三幕英語上演)
【題名】オペラ「マルコムX」(MET初演)
【作曲】アンソニー・デイヴィス
【台本】クリストファー・デイヴィス、トゥラニ・デイヴィス
【演出】ロバート・オハラ
【美術】クリント・レイモス
【衣装】デデ・アイテ
【照明】アレックス・ジェインチル
【振付】リッキー・トリップ
【プロダクション・デザイン】イー・ウン・ナン
【出演】<Bar>ウィル・リバーマン(マルコム役)
    <Sop>リア・ホーキンズ(ルイーズ/ベティ役)
    <Mez>レイアン・プライス=デイヴィス(エラ役)
    <Bass-Bar>マイケル・スムエル(レジナルド役)
    <Ten>ビクター・ライアン・ロバートソン
                    (エライジャ/ストリート役)
                               ほか
【指揮】カジム・アブドラ
【演奏】メトロポリタン劇場管弦楽団
【感想】ネタバレ注意!
今回のMETライブビューイングではマルコムXの自著「マルコムX自伝」を題材にした映画「マルコムX」(1992年)でマルコムXの妻ベティ・シャバズ役を演じたアメリカ人女優のアンジェラ・バセットさんがナビゲーター役を努めましたが、メトロポリタン歌劇場では「観客は共感できる意義深い現代オペラを求めて」いることから、オペラの未来を培うために2023/24年シーズンではジェイク・ヘギーのオペラ「デットマンウォーキング」、アンソニー・デイヴィスのオペラ「マルコムX」、ダニエル・カターンのオペラ「アマゾンのフローレンシア」の現代オペラ3作品を上演することになったと語っていましたが、総裁のP.ゲルブさんが率いるメトロポリタン歌劇場の並々ならぬ本気度を粋に感じると共に(現代オペラはゼロから舞台を作り上げて行かなければならないためにオフシーズンに仕込む必要がある関係からシーズン冒頭で現代オペラ3作品が連続上演されるのではないかと推測されます。)、やや時代に取り残されてしまっている感覚しかない極東の島国から指を咥えて垂涎の眼差しを注いでいます。ところで、アメリカン・アフリカンを題材にしたオペラと言えば、アメリカ人作曲家ジョージ・ガーシュウィンのオペラ「ポーギーとベス」(1935年)が有名ですが、当時のアメリカでは人種分離法(1876年~1964年)に象徴される深刻な人種差別が社会に蔓延していましたので(映画「グリーンブック」の時代)、オペラに黒人歌手が起用されることはありませんでした。しかし、1954年にアメリカ最高裁が人種分離は憲法違反であるという画期的な判断を示すと、メトロポリタン歌劇場では1955年に初めてヴェルディーのオペラ「仮面舞踏会」で黒人歌手を起用しました。その後、1963年に公民権法の制定に尽力していたJ.ケネディー大統領が暗殺されましたが、1964年に人種分離法が廃止されて公民権法が制定されました(映画「ミシシッピー・バーニング」の時代)。しかし、公民権法の制定後も人種差別は解消されず、1965年にマルコムX(当初は白人差別や暴力主義など過激な黒人解放運動で黒人と白人を「分離」すること(黒人分離主義)により黒人の人権確立を提唱していましたが、聖地メッカを巡礼した経験などから人種を越えた平等思想に転向)が暗殺され、また、1968年にキング牧師(非暴力主義の公民権運動で黒人と白人を「統合」することにより黒人の人権確立を提唱)が暗殺されたことで、人種差別の根本的な解決が困難になりました。時代は下って、2020年5月に白人警察官が黒人を射殺するマイケル・ブラウン射殺事件が勃発したことを契機として全米にBLM運動が広がり、メトロポリタン歌劇場でも2020年6月に人種差別に反対する声明を発表したのは記憶に新しいところです。このような経緯を経て、2021/22年シーズンにメトロポリタン歌劇場で初めて黒人作曲家テレンス・ブランチャーさんのオペラ「Fire Shut Up in My Bones」が上演されたことを皮切りに、2022/23年シーズンに同じく黒人作曲家テレンス・ブランチャードさんのオペラ「チャンピオン」が上演され(以下の囲み記事で紹介していますが、第66回グラミー賞オペラ部門を受賞しました)、そして、2023/24年シーズンにはアフリカン・アメリカンやアメリカン・インディアンを題材にしたオペラの作曲に注力し、2020年にピューリッツア賞を受賞した白人作曲家兼ジャズピアニストのアンソニー・デイヴィスさんのオペラ「マルコムX」(1985年に初演されていますので、上記の映画「マルコムX」よりも先に作品化されていたオペラ)が上演され、オペラ「マルコムX」にも出演しているバリトンのウィル・リバーマンさんやソプラノのリア・ホーキンズさんなど卓抜した歌唱力を誇るスター級の黒人歌手が人気を博するようになっています。なお、アメリカの人種差別問題とパレスチナ紛争を一諸くたにすることはできませんが、当時の黒人が置かれていた不遇と現在の(テロリズムに関与していない一般の)パレスチナ人が置かれている不遇が重なって心に迫るものがありました。表面上は異なる事象に見えても、その根底にある人間の心理には共通するものがあるかもしれません。METライブビューイングの公開期間が終了するまで感想を控えていましたが、記憶に残っている範囲で簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
 
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このオペラはアポロシアターの伝統やアフロフューチャリズムの思想を採り入れた舞台になっており、宇宙船のモチーフ(記録映像など時代状況を映すモニターとしても兼用)が舞台セットに設えられ、また、アフリカや宇宙を想起させる奇抜なデザインの衣装が目を惹きましたが、人種差別に抵抗する黒人解放運動のスローガン(バック・トゥ・アフリカ:母国アフリカへ帰ろう)に登場する大型船ブラック・スター・ラインをアフロフューチャリズムの思想でフィルタリングして宇宙船に見立てたものと思われます。この点、最近でもガーナ政府がBLM運動を契機として人種差別に苦しむアメリカン・アフリカンに帰還を呼び掛けていましたが、その意味で、このオペラは黒人解放運動の歴史と共に現代の時代性を反映するタイムリーな問題を取り扱っているように感じられます。このオペラではジャズドラマーのジェフ・テイン・ワッツさんやジャズトランペットのアミール・エルサファーさんなどの一流のジャズプレーヤーがメトロポリタン管弦楽団に加わって、ジャズシンガーのビリー・ホリデーと親交がありジャズに傾倒していたことでも知られるマルコムXの時代に隆盛を極めたスウィング、ビバップ、フリージャズなどの即興演奏を採り入れたジャズテイストの音楽が展開されており、もはやオペラ、ミュージカル、現代音楽やジャズなどのジャンルの垣根が意味を持たない時代であることを強く印象付けられました。このオペラはマルコムXの生涯を全三幕(13場)で描いており、1931年から1946年までの大恐慌時代に人種差別や貧困に苦しだ少年期を描く第一幕(3場)、1946年から1963年までのイスラム教団(NOI:ネーション・オブ・イスラム)に入団して黒人解放運動に邁進した青年期を描く第二幕(5場)、1963年から1965年までのイスラム教団を脱退して聖地メッカを巡礼した経験などから考え方を変えた晩年期を描く第三幕(5場)から構成されていますが、過去に実在した人物なので劇的な効果を狙うよりも史実を歪曲しないように十分に配慮した禁欲的な舞台作りになっており、アリア(音楽)よりもレチタティーヴォ風の詠唱(言葉)を主体として物語を進行する楽劇のようなスタイルがとられている印象を受けました。冒頭の序曲では、フリージャズとポストミニマル音楽が融合されたような音楽が奏でられるなか、この宇宙船から白装束の宇宙人(ダンサー)が登場して少年期のマルコムXを取り巻きながら踊りましたが、大型船ブラック・スター・ラインが白人と黒人を「分離」していた当時のアメリカから当時のアフリカ(シオン=約束の地)へ黒人を運ぶための船(空間軸)であるとすれば、さながらこの宇宙船は白人と黒人が「統合」した現代のアメリカから人種差別の意識がない未来のアメリカへ黒人を運ぶための船(時間軸)であることを印象付ける演出に感じられ、単にSF的な要素を演出に採り入れたものというよりも現代的なメッセー性が込められた舞台になっているように感じられました。これに続く第一幕では、1931年(マルコムX6歳)、バイクによる黒人狩り、KKK(白人至上主義)による黒人襲撃、黒人をターゲットにした冤罪事件などが日常的に頻発し、ミシガン州で黒人解放運動に尽力していた父アール・リトルも轢死(不審死)しましたが、火の照明と銃声の効果音のなか、黒人社会を覆う恐怖や絶望を陰鬱とした重圧感のある合唱で歌うシーンが印象的でした。1941年、マルコムXは、母ルイーズが父リトルの死を契機として精神を病んだことからボストン州の異母姉エラに引き取られ、ストリートギャングに囲まれた少年期を過ごしましたが、サックス、ベース、ドラムなどから構成されるジャズバンドが当時流行していたスウィングジャズを即興演奏し、それに合わせて都会風に洗練された衣装の黒人達(ダンサー)がスウィングダンスを披露しました。このオペラではミュージカルのように歌手が歌と踊りを兼任するのではなく、あくまでもオペラとして歌手とダンサーは分けられていましたが、そこに添えられている音楽はジャズテイストの現代音楽ではなくジャズそのものであり、ジャズの伴奏に乗せて歌われるアリア(クルーナーやスキャットなどではなくベルカントのスタイル)を聴くのは初めての体験だったので非常に新鮮で感じられました。その後、ビバップのご機嫌な演奏に乗せて、博打やドラックなどに溺れながら奔放に暮らす黒人の生き様や黒人と一緒になってリンディーホップを踊る白人の姿など、黒人文化が華開いてアメリカ社会に浸透していた様子が描かれており、この時代の空気感が音楽とダンスで生き生きと表現されていました。その一方で、警察官は治安維持の名目で罪のない黒人を連行する様子が描かれており(上述のとおり、日本でも警察官による職務質問のあり方が問題になっています)、人種分離法がアメリカ社会に暗い影を落としていた時代状況が鋭角なリズムの音楽と共に緊迫感を持って表現され、当時(又はBLM運動などに見られる現代)のアメリカ社会の明暗の対比が印象的に表現されていました。1946年、マルコムXは警察官に逮捕されて収監れますが、その不安と恐怖が支配する心理的な動揺を音楽で描写するなか、マルコムX役のバリトン歌手W.リバーマンさんが黒人が報われないアメリカ社会を憾み、それが白人に対する憎悪として増大していく様子を歌う雄弁な情感表出が見事でした。インターミッションを挟んで第二幕では、黒人囚達が刑務所の中で不協和音に彩られた哀愁の満ちた嘆きの合唱を歌う場面が印象的で、この時代の黒人社会を覆う空気感が伝わってくるようでした。マルコムXは刑務所に面会に訪れた実弟からNOIへの入団を勧められ、1953年に刑務所を仮出所してからNOIの教祖エライジャ・ムハマドと対面する場面ではイスラム教の神アッラーを讃えるアリアと合唱が圧巻でした。この点、9.11以降はアメリカ社会にイスラム教信者やアラブ民族に対する反発が強まっていると聞いていましたが、このようなアリアと合唱がニューヨークの中心地にあるメトロポリタン歌劇場で歌われていることに驚きを禁じ得ず、現代のアメリカ社会の懐の広さを感じさせましたが、今回の公演では終演後にブーイングされているお客さんもいましたので一部のアメリカ人にはセンセーショナルな舞台と受け取られていたのかもしれません。因みに、1986年にニューヨーク・シティー・オペラで初演された際には冷静に受け止められていたようです。SNSの普及によりお互いの考え方の違いが明確になることで新しい対立を生む原因になっていますが(コミュニケーションをとれば問題が解決すると考えるのは短絡的)、その一方で、民族、宗教や文化などを超えて人々の考え方に触れられるようになったことでお互いの考え方の違いが本質的なものではないことも実感できるようになっている時代を反映しているのかもしれません。その後、アフリカの民族衣装とアフロフューチャリズムの思想に彩られた奇抜なデザインの衣装を着た黒人がジャズの演奏に乗せて(ジャズダンスの源流である)アフリカンダンスを踊る場面が見せ場になっており、アフリカン・アメリカンのアイデンティティのようなものが強く感じられました。文献上、人類最古のダンスは約8千年前の古代エジプトのベリーダンスと言われていますが、過去のブログ記事でも触れたとおり、約20万年前にアフリカ南部(ボツワナ)に住んでいた女性がミトコンドリア・イヴと考えられていますので、文献には残されていませんがアフリカンダンスに人類最古のダンスの源流があると言えるかもしれません。マルコムXはNOIに入団してマルコム・リトルからマルコムXに名前を改め(マルコムXの先祖が黒人奴隷としてアメリカへ強制連行される際にアメリカ人にも発音し易いリトルに姓を改められ、アフリカでの姓が分からなくなったことから「リトル」を「X」に変更)、そのスポークスマンとして黒人解放運動に邁進します。マルコムXは、約2千万人のアフリカン・アメリカンは1つの国の中に捕らえられたもう1つの国であり自由と平等を勝ち取ると演説してますが、この2つの国が統合されずに分離している状況を象徴するように不協和な音楽が奏でられるなか、オペラ・カーテンには「X」の文字が大きく映し出され、マルコムXが「X」という十字架を背負って生きて行かなければならない運命にあったことを印象付ける演出になっていました。1963年、公民権法の制定に向けて尽力していたケネディー大統領が暗殺されると、マルコムXは黒人の白人に対する憎悪が生んだ事件であると過激な声明を公表したことで(マルコムXは黒人と白人を分離する黒人解放運動を展開しており、ケネディー大統領やキング牧師が目指していた黒人と白人を統合する公民権運動には批判的な立場)、NOIの関与を疑われ兼ねないことを懸念した教祖エライジャ・ムハマドとの間で確執が生じ、マルコムXはNOIを脱退しました。インターミッションに続く第三幕では、1963年、教祖エライジャ・ムハマドがマルコムXは黒人に対する裏切り者であると訴えると、これを信者達が復唱しながら教化されていく様子が緊迫感のあるミニマル音楽と共に印象的に描かれていました。妻ベティ・シャバズ役のソプラノ歌手L.ホーキンズさんがNOIによるマルコムXの暗殺を恐れて聖地メッカへの巡礼を勧めるアリアでは豊かな質感のある美声で感情の襞を肌理細かく歌い上げる繊細な歌唱力に魅了されました。1964年、マルコムXは聖地メッカを巡礼しますが、ラマダンランプが吊り下げれる幻想的な舞台セットが設えられ、トランペットがアラビア音階を奏でるなか、イスラム教の神アッラーに祈りを捧げる厳粛な合唱が歌われました。マルコムXは白人、黒人やその他の有色人種が分け隔てなく平等に祈りを捧げる姿に感銘を受けてイスラム教スンニ派に改宗して、マルコムXからエル・ハジ・マリク・エル=シャバーズに改名しました。1964年、マルコムXはニューヨークでアフリカ系アメリカ人統一機構(OAAU)を設立し、奴隷制は奴隷ではなく反抗者を作るだけだと訴えかけるように歌いましたが、これは不当な人権侵害に苦しむ人々が後を絶たない現代へのメッセージが込められているのかもしれません。1965年、序曲の音楽が再現され、白装束のダンサーと少年期のマルコムXが取り巻くなか、マルコムXは演説の最中に凶弾に倒れて閉幕となりました。上述のとおり唄い物(音楽)というよりは語り物(言葉)に近い性格のオペラなので音楽的な好みは分かれるかもしれませんが、BLM問題やパレスチナ問題などのタイムリーな問題があるなかで色々なことを考えさせるソーシャルエンゲージメントな作品でした。
 
 
▼オペラ「アマゾンのフロレンシア」(全二幕スペイン語上演)
【題名】オペラ「アマゾンのフロレンシア」(MET初演)
【作曲】ダニエル・カターン
【台本】マルセラ・フエンテス=ベレン
【演出】メアリー・ジマーマン
【美術】リッカルド・エルナンデス
【衣装】アナ・クーズマニッチ
【照明】T.J.ガーケンズ
【プロダクション・デザイン】S.ケイティ・タッカー
【振付】アレックス・サンチェス
【出演】<Sop>アイリーン・ベレス(フロレンシア・グリマルティ役)
    <Bass-Bar>グリア・グリムスリー(船長役)
    <Bar>アッティア・オリヴィエリ(リオロボ役)
    <Sop>ガブリエラ・レイエス(ロサルバ役)
    <Ten>マリオ・チャン(アルカディオ役)
    <Mez>ナンシー・ファビオラ・エレーラ(パウル役)
    <Bar>マイケル・チルディ(アルバロ役)  ほか
【指揮】ヤニック・ネゼ=セガン
【演奏】メトロポリタン劇場管弦楽団
【感想】ネタバレ注意!
METライブビューイングの現代オペラ第3作目を聴きに行く予定にしています。視聴後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、ライブ映画の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
先日、METライブビューイングでメキシコ人作曲家ダニエル・カターンさんのオペラ「アマゾンのフロレンシア」(1996年)を観てきましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。メトロポリタン歌劇場でメキシコ人作曲家のオペラが上演されるのは初めてのことであり、また、スペイン語のオペラが上演されるのは1926年にM.ファリャのオペラ「はかなき人生」が上演されてから実に約100年振りだそうです。このオペラの台本を執筆したメキシコ人作家マルセラ・フエンテス=ベレンさんは、1982年にノーベル文学賞を受賞したコロンビア人作家ガルシア・マルケスさんの薫陶を受けましたが、G.マルケスさんのマジック・リアリズム(非現実なことを現実的なことのように描く表現手法で、2018年に芥川賞を受賞した小説「百年沼」もG.マルケスさんの影響を受けてマジック・リアリズムを採り入れた作品として話題になりました)に彩られた小説「百年の孤独」や小説「コレラの時代の愛」などにインスパイアーされ(最近、この小説へのオマージュとして小説「コロナの時代の愛」が出版されました)、このオペラの台本を執筆したそうです。フロレンシア役のソプラノ歌手A.ペンスさんはメキシコ系移民、ロサルバ役のソプラノ歌手G.レイエスさんはニカラグア系移民、アルカディオ役のテノール歌手M.チャンさんはグアテマラ系移民、しかも今回のMETライブビューイングのナビゲーターを務めたテノール歌手R.ヴィリャソンさんはメキシコ系移民の血を引いていることも考え合わせると、この公演はラテンアメリカ・オペラの華々しい世界デビューと言えるかもしれません(近い将来、ジャパン・オペラの世界デビューにも期待したいですぅ💖)。
 
コレラの時代の愛 (字幕版)

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  • ハビエル・バルデム
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このオペラは、アマゾンの熱帯雨林の奥地マナウスにあるアマゾナス歌劇場で伝説的な歌姫フロレンシア・グリマディの歌を聴くために蒸気船エルドラド号に乗って旅する乗船者達の人間模様を描いた物語ですが(日本人にもアマゾン川クルーズ旅行は人気があります)、この物語にはアマゾン川流域に生息する色とりどりの生物(動植物)が登場すると共に、天災や疫病に乗船者達の運命が翻弄される様子が描かれており、さながらアマゾンの熱帯雨林の中では人間は他の生物と同じく大河(大自然)に浮かぶ小船のようなものであることを強く印象付けられました。過去のブログ記事でも触れたように人間中心主義的な考え方を背景とする近代合理主義(デカルトの機械論的自然観、ラモーの機能和声などを含む)の行き詰まりが認識されるようになり、また、過去のブログ記事でも触れたように自然尊重主義的な考え方を背景として人間界と自然界の対称性の回復が急務であるという問題意識が芽生えたことなどにより、人間と自然を非連続的に捉える二元論的な世界観ではなく人間と自然を連続的に捉える一元論的な世界観が見直されていますが、この舞台は人間と自然を連続的に捉える一元論的な世界観を強く意識させるものになっていました。第一幕では、アマゾン川の流れ(人生のメタファー)を描写するようにマリンバ、ハープ、木管、弦楽が次々と波の音型を奏でるなかを乗船客達(合唱)がアマゾンの眩い陽光のように華やかに歌い、人間の姿に化体したアマゾン川の精霊のリオロボ、蒸気船エルドラド号の船長、伝説的な歌姫フロレンシアを調査している研究者のロサルバ、倦怠期にある老夫婦のアルバロとパウル、幻のエメラルド・バタフライを追ってアマゾンで行方不明になった恋人のクリストパルトを探して旅する伝説的な歌姫フロレンシが、それぞれのキャラクター設定を歌いながら乗船しました。D.カターンさんは新ロマン主義の作曲家で、オペラ歌手の見せ場であるアリアや重唱をふんだんに盛り込んだ伝統的なオペラのスタイルを踏襲し、分厚いハーモニーで登場人物の「情緒」(古い脳をハッキング)を彩るなかをメロディアスな旋律に乗せて登場人物の「感情」(新しい脳をハッキング)を叙情的に歌わせながら、緻密な描写表現や色彩豊かなオーケストレーションなどと共に物語をドラマチックにドライブしていく古式ゆかしい作風のオペラという印象を受けました。まるでプッチーニのオペラを彷彿とさせる曲調は親しみ易さを感じさせましたが、その一方で、どうしても調性音楽は既聴感(予定調和)がつき纏うことから、やや「差分」の不足が感じられたことも正直に告白しなければなりません。それでも自然へのオマージュを感じさせる色彩豊かな舞台(セット+衣装)は文字とおり出色のものでしたし、久しぶりにロマンチックで美しいオペラを堪能することができました。アマゾンの熱帯雨林を表現した深緑の壁(アマゾンの川幅が蛇行しながら変化する様子を表現するために可動式)とアマゾンの川面を表現した海碧の床を基調として、物語の展開に合わせて青色のキジ(ダンサー)、赤色のピラニア(ダンサー)、赤色の猿(マリオネット)、緑色のカメレオン(マリオネット)、緑色のワニ(マリオネット)、黄色の草(セット)、ピンクの花(ダンサー)などが登場する極彩色の舞台が目を惹きましたが、アマゾン川にはピンク色のイルカ(学名:Platanista spp.で登録されている絶滅危惧種)が生息しているなど前回のブログ記事でも触れた生物多様性を育む生みの母であることを強く感じさる舞台でした。リオロボは、伝説的な歌姫フロレンシアの美声を讃えてまるでアマゾン川のアマゾネスであると歌いますが、アマゾンという地名はインカ帝国を征服したスペイン帝国がインカ帝国には勇敢な女戦士が多かったことからギリシャ神話に登場する女戦士アマゾネス(ハーモニーを司る女神ハルモニアーの子孫)に準えて命名したもので、女戦士アマゾネスは弓矢を番うときに邪魔になる右の乳房を切り落としていたこと(「a」(否定)+「mazos」(乳)=乳無し)に由来すると言われています。最近の発掘調査では紀元前の女戦士のものと思われる武装具と一緒に埋葬されている若い女性の遺骨が多数発見されており、ギリシャ神話に登場する女戦士アマゾネスは実在していたと考えられています。蒸気船エルドラド号(床に甲板の手すりだけを置いた簡素なセット)がマナウスに向けて出航すると、歌姫フロレンシアが恋人クリストパルトとの出会いを反芻するアリアが歌われましたが、ソプラノ歌手A.ベレスさんの繊細なニュアンスに富む美声による憧憬感を讃えたアリアが聴きどころになっていました。これに続く、蒸気船エルドラド号の船長とその甥アルカディオの二重唱では、パイロットになる夢を諦めきれていない甥のアルカディオが叔父の船長に人生の航行が侭ならないと歌いますが、蒸気船エルドラド号の操船で頭がいっぱいの船長にはその真意が伝わらない典型的な(叔)父子関係が描かれていました。これに続く、若いカップルの二重唱では、パイロットになる夢を捨てきれないアルカディオと作家になる夢を捨てきれないロサルバがお互いの夢を語り合って意気投合する様子が歌われました。黒子が操るアマゾン川の川面から顔を覗かせるマリオネットのワニは、さながら夢(獲物)を求めて彷徨う若いカップルを象徴しているようでした。これに続く、老夫婦の二重唱では、アルバロとパウルが相手の欠点ばかりが鼻に付いてお互いを許せなくなっていることを吐露し、倦怠期の老夫婦の縮図とも言える人生の行詰りが歌われました。黒子が操るシャンパンを奪うマリオネットの赤い猿は、さながら面の皮(悪知恵)ばかりが厚くなり何かを求めてばかりの老夫婦を象徴しているようで、若いカップルが抱く人生の希望と老夫婦が抱える人生への諦嘆が印象的に対比されていました。人生色々ですが、色とりどりの動物達のダンスを挟んだ後に、船長は歌姫フロレンシアに恋人クリストパルトが消息を絶った経緯を話し、それを聞いた歌姫フロレンシアは絶望して気を失いましたが、船長役のバスバリトン歌手G.グリムスリーさんが歌姫フロレンシアの悲運を嘆く重厚で迫真に満ちるアリアがその悲劇性を一層と深いものにしていました。やがて蒸気船エルドラド号は嵐に遭遇しましたが、青い衣装のダンサーが高波を模倣し、黒子が蒸気船エルドラド号の甲板の手すりを大きく揺さぶることで、小船(人生)が高波(運命)に翻弄されていく様子がダイナミックに表現されるなか、船長、歌姫フロレンシア、ロサルバ、老夫婦の緊迫感が漲る五重唱と低弦の凄みを効かせたオーケストラ伴奏が圧巻でした。毎度のことではありますが、冒頭からY.ネゼ=セガンさんの手際良い手綱裁きとこれに適確に答えるメトロポリタン管弦楽団がハーモニーを芳醇に響かせながらメリハリを効かせた色彩豊かな演奏で物語をドラマチックに展開し、音そのものにドラマ性が感じられる劇場付オーケストラの真骨頂とも言える好演に唸らされました。アマゾン川の精霊であるリオロボが呪術的な祈りを捧げて嵐を鎮めましたが、蒸気船エルドラド号はエンジンが故障して漂流し、アルバロは船外に投げ出されて行方不明になりました。第二幕では、嵐を生き延びた歌姫フロレンシアが恋人クリストバルへの愛を募らせるアリアを歌いましたが、若いカップルはイガミ合う人生は送りたくないと結婚にはネガティブな考え方を持っていることを吐露し、現代の若者の縮図も言える心境が歌われました。その一方で、パウルはアルバロを失った後悔と共に自分でも気付かなかったアルバロへの変わらぬ愛を歌います。再び、蒸気船アルドラド号はマナウスへ向けて出航しますが、アルバロが奇跡的に生還してパウルと再会を果たし、長年の蟠りが溶けてお互いの愛を確かめ合いますが、この強引な舞台展開はオペラ的(音楽>物語)なものであり、リアリティーに徹する映画に慣れ親しんでいる世代(物語>音楽)にとっては違和感(チープな印象を与えるもの)を禁じ得なくなっていることは仕方がありません。ロサルバは自由な人生に憧れて愛に躊躇していましたが(前回のブログ記事でも触れた人口減少の原因の1つ)、歌姫フロレンシアは愛こそが人生の夢を叶えてくれるものであることを歌うと、ロサルバはアルカディオの愛を受け入れることを決意して結ばれ、お互いに助け合いながら夢を目指すと高らかに歌い上げました。やがて蒸気船エルドラド号はマナウスに到着しましたが、マナウスはコレラが流行していたことから下船を禁じられ(2020年2月に横浜に寄港した大型クルーズ客船とは逆のパターン)、歌姫フローレンシアは恋人クリストバルへの愛を歌いながら蝶に変身し(即ち、その美声に蝶の翼が生えて、その心音が)恋人クリストバルのもとへ飛び立つという幻想的なエンディングで終演になりました。非常に美しくドラマチックなオペラでしたが、強いて難点を挙げるとすれば、甘美でドラマチックなアリアや二重唱が連続して叙情に傾き過ぎたことで、却ってカタルシスが薄くなってしまう憾みがありました。また、歌姫フロレンシアだけではなく他の6人の登場人物も主役級の扱いがされている関係で舞台展開が忙しなくなっていた印象を否めなかったので、演劇的な側面を重視したオペラとして鑑賞するよりも音楽的な側面を重視した歌曲(コンサート形式)として鑑賞する方が、この曲の魅力が感得し易いのではないかとも感じられました。様々な困難はあると思いますが、オペラの未来を培うために世界中から現代オペラの名作を探し出して積極的に採り上げるメトロポリタン歌劇場の取組みから目を離せませんし、来シーズンにも大いに期待したいと思っています。このようなメトロポリタン歌劇場の取組みが奏功し、昨シーズンのチケット売上げは約5%も上昇すると共に、聴衆の平均年齢は6歳も若返り、約90%が個人からのものである寄付金の額なども約30%も上昇するなど、P.ゲルブさんを筆頭にしたメトロポリタン歌劇場の工夫と情熱が沢山のオペラファンの共感を生んで困難な道を切り拓いている姿に大いに勇気付けられます。
 
 
▼オペラ「ニングル」(全二幕日本語上演)
【題名】オペラ「ニングル」(世界初演)
【原作】小説「ニングル」(倉本聰著)
【作曲】渡辺俊幸
【台本】吉田雄生
【演出】岩田達宗、三浦奈綾(演出助手)
【美術】松生紘子
【衣装】下斗米大輔
【照明】大島祐夫
【振付】古賀豊
【監督】郡愛子(総監督)、伊藤潤(舞台監督)
【出演】<Ten>海道弘昭(夫、丸太才三役)
    <Sop>別府美沙子(妻、丸太ミクリ役)
    <Bass>久保田真澄(かつら、勇太、ミクリの父、米倉民吉役)
    <Bar>須藤慎吾(夫、米倉勇太役)
    <Mez>丸尾有香(妻、米倉かや役)
    <Sop>佐藤美枝子(スカンポの母 米倉かつら役)
    <Sop>中桐かなえ(かつらの娘 米倉スカンポ役)
    <Bass>杉尾真吾(かやの弟、坂本米介役)
    <Bar>江原啓之(ニングルの長役)
    <Ten>黄木透(村人、信次役)
    <Sop>佐藤恵利(村人、信子役)
    <Ten>脇坂和(村人、田中役)
    <Ten>嶋田言一(医者、堺役)
    <Bar>馬場大輝(井戸屋、湊役)
    <Bar>飯塚学(井戸屋の子分、藤倉役)  
    <Danc>木原凡、田川ちか、友部康志、西田知代 ほか
【指揮】田中祐子(副指揮:諸遊耕史、鏑木蓉馬)
【演奏】東京フィルハーモニー交響楽団
【合唱】日本オペラ協会合唱団(合唱指揮:河原哲也)
【日時】2024年2月10日(土)14:00~
【会場】めぐろパーシモンホール
【感想】ネタバレ注意!
作家・倉本聰さんの小説「ニングル」を現代作曲家・渡辺俊幸さんがオペラ化したので聴きに行く予定にしています。公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、(現代オペラの公演に珍しく既にチケットは3公演とも完売しているようですが)公演の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
今日はオペラ「ニングル」(作曲家・渡辺俊幸/藤原歌劇団)のワールドプレミアを鑑賞してきましたが、満席の会場でスタンディング・オベーションになる大成功でした。渡辺さんのオペラ作品は哲学者の鈴木大拙さんと哲学者の西田幾多郎さんの友情を描いたオペラ「禅~ZEN~」(2022年)に続く2作目ですが、とりわけオペラ「ニングル」は現代の時代性を色濃く反映した現代人にも共感できる充実した内容を備えており、日本での再演と共に世界の歌劇場での上演(世界デビュー)を期待したいです。このオペラの原作になっている小説「ニングル」は、1984年に作家・倉本聰さんが北海道富良野市に作家及び俳優の養成所「富良野塾」を開設し(現在は同塾の卒業生達が「富良野GROUP」として活動)、自然と共生しながら生活するために使っていた湧き水が森林伐採を原因として枯渇したことを契機に、人間が生きて行くうえで欠かせない森と真剣に向き合うようになり、1985年にアイヌ・ユーカラ(民話)に登場する森の小さな住人「ニングル」(妖精ではなく小人)に仮託して森林伐採に警鐘を鳴らすための作品を発表し、1994年に富良野塾3作目の舞台「ニングル」として初演されたものです。倉本さんが「金がなければ暮らしていけない。だが、森がなければ生きていけない。」と語っていますが、G7環境相会合で石炭火力全廃に消極的な姿勢を示した日本の立場と重なって、この言葉が我々に突き付ける意味を色々と考えさせられました。さて、オペラ「ニングル」は前二幕(24場)で構成されていますが、大まかに筋書きを追いながら簡単に感想を残しておきたいと思います。第一幕では、照明が落とされた暗闇の中でウィンドマシンによる風切り音だけが聴こえてくる寂寥とした音景(サウンドスケープ)が富良野の大自然へと観客を誘い、このオペラの重要なテーマでもある「自然の声を聴く」という意識の覚醒が人間の思考に大きく影響を与えるもの(人間中心主義から自然尊重主義への発想の転換を促すもの)であることを強く印象付けられる演出になっていました。これに続いて暗闇に灯る淡い照明の内(アイヌコタンの囲炉裏?)で米倉民吉(祖父)と米倉スカンポ(孫)が故・米倉かつら(スカポンの母)の思い出やアイヌ・ユーカラを物語るシーンでは、ハープ、フルート、ブロッケンが奏でる素朴で叙情的な音楽が牧歌的な風情を湛え、自然と共生する慎ましやかな人間の営みが描き出されていましたが(知里幸恵さんのアイヌ神謡集の序文を彷彿とさせる場面)、自然との共生(慈愛)と文明的な発展(狂気)の相剋(対比)が物語を劇的に展開していきました。20世紀(モダニズム)の人間界と自然界を非連続的なものと捉える二元論的な世界観を背景にして人間界が自然界を侵食(ニッチの拡大と独占)してきた時代から、21世紀(ポストモダン)の人間界と自然界を連続的なものと捉える一元論的な世界観を背景にして人間界と自然界の対称性の回復を志向する時代へと移り変ろうとしていますが、この冒頭シーンでは20世紀(モダニズム)に切り捨てられてきた価値観を取り戻し、それを現代と調和させる必要性を感じさせる現代から未来へ向けてのメッセージが込められているように感じられました。米倉勇太と坂本かやの結婚式のシーンでは土俗民謡を連想させる快活な音楽によるミュージカル風の華々しい合唱及びダンスが圧巻で、その後、米倉勇太、丸太才三及び米倉スカンポが森の中を散策しながら農地開拓のための森林伐採に対する違和感を語り合いますが、絞太鼓(小説では木太鼓)の調べに乗せて顕れたニングルが「森を伐るな。伐ったら村は滅びる。」と警告するシーンでは、ニングルが森の声であることを象徴するようにマリンバとハープによる叙情的な音楽が奏でられました。マリンバには主に中南米産のローズウッド(樹齢200年~400年)が使用されていると聞いたことがありますが、(森の声を連想させる音楽的な効果に加えて)どのように自然との共生と文明的な発展との折り合いを付けて行くことができるのかという現実的な問題も意識させる効果があったように感じられました。なお、このオペラ全編を通してハープの豊かな音色を活かした叙情的なピース(ハープと歌、マリンバ、オーボエやフルートなどとの多彩なアンサンブル)が聴きどころになっていたと思います。このシーンの舞台セットになっていたロープ(枝)に紐(葉)を吊るしてライトアップ(時間や季節により森が見せる緑色、青色、白色などの彩りはまるで藤棚のような鮮やかさ)した樹木のモチーフは富良野の大自然が生む神秘的な美しさを湛えるもので息を呑みましたが、この樹木のモチーフを日本建築の丸窓障子を覗う丸く切り取られた借景として設え、この丸窓障子を境界にして舞台奥に広がるニングルが住む自然界(又は彼岸)と舞台手前に広がる人間界(又は此岸)を対置し、その境界を挟んで展開されるハイブリッドな舞台演出が面白く感じられました。やがてバンダのコーラスの清澄で幻想的な響きに誘われるようにニングルの長が登場して切迫感のある音楽と共に「森を伐るな。伐ったら村は滅びる。」と警告しますが、上述のオペラ「アマゾンのフロレンシア」でも触れたとおりアマゾンをはじめとする世界各地の森林伐採とこれが一因と考えられている気候変動が深刻な環境問題を引き起こしている状況と相俟ってニングルの長の言葉が迫真を持って心に響きました。2025年の大阪関西万博では「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマにしていますが、個人的には、木造リングなどの建造物は環境破壊の象徴のような印象しか受けないのでどのような未来社会をデザインしているのか計り兼ねます。その後、米倉民吉と米倉スカンポの前に顕れた故・米倉かつらの御霊が森を再生させることの重要性を説く慈愛に満ちたアリアが聴きどころになっていました。農地開拓を推進したい米倉勇太(米倉は経済の豊かさを比喩する名字)と対立して孤立感を深めた丸太才三(丸太は自然の豊かさを比喩する名字)は森林伐採に反対する意見を新聞に投書したことで農地開拓を推進したい村人達との間で衝突しますが、村人達による力強い男性合唱が纏う狂気(父子が肉体的に一体ではなく主客の別がある父性原理:自然の支配)と、米倉かつらの御霊による包容力のあるアリアが纏う慈愛(母子が肉体的に一体であり主客の別がない母性原理:自然との調和)が印象的に対比されていました。この騒動のなか、米倉勇太が「森がなければ生きていけない」ことを頭で理解しながらも「金がなければ生きていけない」という現実との狭間で悩む姿には現代人が陥っているジレンマが描かれており、観客も身につまされる共感を生むピースになっていました。その後、ドラムロールの激しい音と大太鼓の打撃音で森が伐採される様子が暴力的に描写され、森やそこに棲む生き物が傷付けられて行く様子が真っ赤な照明で表現されていましたが、森林が培ってきた貯水能力が破壊されたことで村を自然災害が襲うようになり、緊迫感のあるリズムや激しい上下運動を伴う音楽で豪雨による鉄砲水が田畑を壊滅する様子を描写し、また、井戸水が枯れて渇水に苦しむ村人の様子などが描かれ、丸太才三はニングルの警告が正しかったことを悟ります。しかし、丸太才三は、丸太ミクリや米倉勇太から生活のために森林を伐採するように懇願されて断り切れず、自ら伐採した樹木の下敷きになって死んでしまいます。丸太才三の葬式のシーンでは自責の念に駆られて後悔する丸太ミクリのアリアが涙を誘うもので、僕の周囲の席からすすり泣きの声が漏れていました。その後、米倉勇太は、丸太才三がニングルから教えて貰った場所から井戸水が湧き出したことで、ニングルの警告を無視して丸太才三を裏切ったこと(勇太=ユタ=ユダ?)を深く後悔しますが、米倉勇太の前にニングルの長(カムイ)が顕れて「森の声を聴け」と熱唱するなか、オーケストラと合唱が力強いユニゾンにより自然と人間が主客の別なく一体になって調和(ハーモニー)する姿を音楽的に表現し、このオペラ一番の聴かせどころと言える感動的なピースになっていました。この辺までくると僕の周囲の席からはすすり泣きの声が止まらなくなり、米倉民吉の犠死と米倉スカンポの奇蹟、米倉勇太と米倉かやの間に授かった森の再生を担う赤ちゃんの誕生などの感動的なピースを経て、再び、ウィンドマシンの風切り音が聞こえてくる静かな終演を迎えました。銀のしずく降る降るまわりに、金のしずく降る降るまわりに....知里幸恵さんがアイヌ神謡集に掲載している一節ですが、銀のしずくが舞台に舞う演出は感動的でした。現在、映画「アイヌのうた」が公開されていますので、このオペラの感動を深くする意味でも必見です。客席では盛大な声援が飛び交うスタンディング・オベーションになりましたが、メトロポリタン歌劇場総裁P.ゲルブさんが仰るとおり「観客は共感できる意義深い現代オペラを求めて」いるということを実感しました。渡辺さんの音楽は抜群の音楽的なセンスを感じさせる着想豊かなもので「旋律の泉」という愛称はヴェルディーの専売特許ではないことを印象付けられましたが、豊潤なハーモニーと絢爛たるオーケストレーションによる色彩豊かな音楽に魅了されました。ライブを一聴しただけでは音楽の細部まで聴き取ることは難しく、再演や音盤を繰り返して聴くことで新たな発見などがあり更に感動を深くすることができるかもしれません。この公演は指揮者・田中祐子さんの第29回五島記念文化賞オペラ新人賞受賞に伴う研修成果発表も兼ねていましたが、東京フィルハーモニー交響楽団との相性がよく歌、音楽、演出をバランスよく調和して一体感のある舞台を作り出し、伴奏に徹して歌を引き立てるところ、前面に出てオーケストラを歌わせるところ、ドラマチックに曲調を展開させるところなどの切り替えも洗練されていて舞台に淀みないテンポと求心力を生みんでいたと思います。また、田中さんは「間」の使い方が絶妙に上手く、それが劇的な効果を生んでいたと思います。指揮者・小澤征爾さんの訃報に接して気分が沈んでいましたが、中堅・若手の指揮者の中から田中さんを含む優れた指揮者が出てきており頼もしく楽しみでもあります。なお、終演後のアフタートークでは、渡辺さんから、旋律を顧みずに音響のみを重視する潮流が生まれた結果として観客離れが起きている現状を踏まえつつ、あらゆるジャンルの音楽に接する機会に恵まれた初心者から音楽通までの多様な現代の観客に対して管弦楽を鳴らすというオーケストラ音楽の長所を活かしながら面白いと感じて貰える新しい音楽を創作しなければならない難しさがあったという趣旨の苦労話を吐露されていました。個人的には、音楽の受容シーンが多様になっている現代にあって旋律のない音響のみの音楽が価値のないものとは考えませんが、何らかの「世界観」(目的)を表現するための音楽であり、それを表現するための「方法」(手段)であって欲しいと感じています(「世界観」(目的)>「方法」(手段))。そのうえで旋律は必須でないとしても、賢しらに、これを顧みようとしない偏狭とした態度には病的なものを感じます。
 
 
ミュージックシアター「PSAPPHA」
【題名】ミュージックシアター「PSAPPHA」
【演目】クセナキス ルボンa.b.
    クセナキス 響・花・間
    クセナキス プサッファ
【振付】中村恩恵
【出演】<Perc>加藤訓子
    <Dnc>中村恩恵
【日時】2024年2月11日(日)13:00~
【会場】横浜赤レンガ倉庫1号館ホール
【感想】
加藤訓子さんと中村恩恵さんのコラボレーションによるミュージックシアター「鍵」が非常に面白い公演だったので、クセナスキの打楽器独奏曲「プサッファ」にフィーチャーされている古代ギリシャの詩人サッフォー(レズビアンの語源となったレスポス島出身で十番目のムーサと呼ばれた女性)の世界観を描いたミュージックシアター「PSAPPHA」を鑑賞に行く予定にしています。公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、公演の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
今日は、横浜赤レンガ倉庫1号館ホールでミュージックシアター「PSAPPHA」を鑑賞してきましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。昔の新港エリアは赤レンガ倉庫と横浜ワールドポーターズしかない寂しい場所で、2022年8月にはコロナ禍の影響でブルーノート系列のジャズクラブ「モーション・ブルー・ヨコハマ」(横浜赤レンガ倉庫2号館)が閉店してしまいましたが、この数年間で新港エリアには複数の商業施設などが整備され、今日は三連休や中国の春節なども重なって訪日外国人を含む大変な人出となる賑わいでした。丁度、横浜赤レンガ倉庫1号館ホールから横浜港大さん橋に寄港していた日本最大の大型クルーズ客船「飛鳥Ⅱ」が見えましたが、来年、これを上回る大きさの大型クルーズ客船「飛鳥Ⅲ」が完成する予定なので楽しみです。さて、このシアターピースはI.クセナキスが作曲した2つの打楽器独奏曲「ルボンa.b.」及び「プサッファ」、大阪万博(1970年)の鉄鋼館で使用されたI.クセナキスが作曲した電子音楽「響・花・間」とサウンド・インスタレーションを使用したダンス及びオーディオ・ビジュアルとのコラボレーションにより古代ギリシャの詩人サッフォー(レズビアンの語源となったレスポス島の出身で十番目のムーサと呼ばれた女性)の世界観を描いた作品です。先ず、一曲目に演奏された打楽器独奏曲「ルボンa.b.」ですが、過去のブログ記事でも触れたとおり、音楽の専門教育を受けていなかったI.クセナキスは師匠のO.メシアンから和声法ではなく既に専門教育を受けている数学や建築学を作曲に活かすようにアドバイスされ、この曲でも数学の群論(a:クラインの四元群、b:正六面体群)の演算に基づくサイクルを使った音型(リズム)の組合せによって作曲されています....と言ってもさっぱり分からないと思いますので、音楽によるルービックキューブのようなものをイメージすれば分かり易いと思います。aの楽章とbの楽章のいずれの楽章も、曲の前半部分では群論の演算に基づくサイクルを使って音型(リズム)を変化させて行く収束型の論理思考(ルービックキューブ初心者の脳内)が展開され、曲の後半部分では群論の演算に基づくサイクルから解放されて前半で生み出された音型(リズム)の組合せを直感的に変化させて行く発散型のナラティブ思考(ルービックキューブ習熟者の脳内)が展開され、音楽表現の可能性を模索し行くような曲想になっています(因みに、一定の成果を上げることが求められる競技では、再び、この可能性を収束型の論理思考で磨き上げて洗練させることでビックキューブを数分内に完成させることができるプロフェッショナルの脳へ昇華させます)。この曲はaの楽章とbの楽章のいずれの楽章から開始しても良いとされており、今日はbの楽章(バスドラムX1、トムトムX1、トゥンバX1、ボンゴX2)から開始され、次いでaの楽章(バスドラムX2、トムトムX3、ボンゴX2、ウッドブロック)の順番で演奏されていましたが、加藤さんはバスドラムのアクセント(強奏)によりリズム構造を際立たせながら音型(リズム)の反復と変化を繰り返し、それが次第に複雑さと躍動感を増しながらパルス音から文脈を持った歌へと変化して行くような演奏が面白く、人類が自然音の模倣から音楽や言葉(そして詩)を紡ぐようになった進化の歴史をイメージしながら没入感の高い演奏を楽しむことができました。I.クセナキスは日本の能楽に興味を持っていたそうで、加藤さんは能楽師・観世流シテ方の中所宜夫さんとのコラボレーションにより2015年にaの楽章、2021年にbの楽章に舞を採り入れた舞台を公演されているそうですが、今日の公演でも能楽の気魄、間や留拍子などのエッセンスを感じさせる演奏が聴かれ、リズムと舞から構成される能楽を意識した舞台になっていたように感じられました。過去のブログ記事でも触れたとおり、舞踊(ダンス)は自然信仰(アニミズム)を背景として人ならぬ者との交流を試みる宗教的なパフォーマンスが起源と言われており、日本では「舞」(回転運動)を「神迎え」、「踊」(上下運動)を「神送り」と捉えていますが、詩人サッフォー出身のレスポス島に因んでオルフェオとエウリディーチェの物語をインスパイアしたものでしょうか、照明を使って舞台を闇の空間(彼岸)と光の空間(此岸)に区切り、中村さんが闇の空間から光の空間へ顕在して呪術的な舞踊(ダンス)を披露し、ウッドブロックの響きと共に中村さんの身体に人らぬ者が憑依(交流)するようなパフォーマンスを見せた後に、やがて光の空間から闇の空間へと消え失せるというストーリー性を感じましたが、まるで複式夢幻能を見るような幻想的な舞台を楽しめました。その後の幕間に挟まれたサウンド・インスタレーションでは奥幕に映し出された文字(ギリシャ文字でしょうか?近視用のメガネを忘れたので何が書かれているのか見えませんでしたが、涙のメタファーでしょうか??)が零れ落ちるなかを加藤さんがレインスティックを使って潮騒の音を描写し、中村さんがまるで水中を渡るようなゆっくりとしたパフォーマンスを見せていましたが、お恥ずかしながら、浅学菲才の軽輩には何を意図したもの(レスボス島ミュティレネの渡守・ファオンとの悲恋に関係したもの?)なのか解題できませんでした。これに続く電子音楽「響・花・間」では、ホールを取り囲む複数のスピーカーと黄色、赤色や青色の光によるヴィジュアル・アートを使って立体的で多彩なオーディオ・ビジュアル空間が出現し、加藤さんと中村さんが能楽の運びのように音もなく舞台のセッティングを変更していく様子が興を増す効果を生んでいたと思います。その後の幕間に挟まれたサウンド・インスタレーションでは加藤さんがハングドラムを使って妖美な音色を紡ぎ出し、ホールを取り囲むスピーカーからは詩人サッフォーの詩の断章と思われる言葉がぶり切れに聴こえてきましたが、ここでも無教養が祟り不覚にも何を意図したものなのか解題は侭なりませんでした。この解題は次回の再演までの宿題にしたいと思っています。最後の打楽器独奏曲「プサッファ」では6つの楽器(うち、3つは木又は皮、3つは金属)を使用する以外には楽器指定はりませんが、これはリズム構造のみを重視して音色はリズム構造を組成する1つの素材として扱われていることによるものと言われています。詩人サッフォーの詩に見られる官能性を体現したものなのか土俗的なエネルギーや野趣を感じさせる迫力の演奏でしたが、その一方で、決して粗や卑に流されてしまうことなく、サッファーの詩の音韻構造をフィーチャーしたと言われるリズム構造を明晰に表現する繊細さや慎重さも兼ね備えている隙のない演奏を楽しめました。また、打楽器の鋭い響きに反応してマリオネットのようにリズミカルに展開される舞踊(ダンス)は打楽器との呼吸感がよく、打楽器のリズムとダンスが一体となった舞台を楽しめました。動もすると味気ない無機質に陥り易い前衛音楽にポストモダン的な感性を照射することで前衛音楽の新しい魅力を発見する機会になる有意義な取組みのように感じられますので、今後も注目していきたいと思っています。
 
 
▼第66回グラミー賞の結果
WOWOWがグラミー賞の生中継を開始してから一度も欠かさずに観ていますが、もはや規範性を重視して「上手さ」(方法)を競うモダニズムを象徴するコンクールにはあまり興味がなく、多様性を重視して「面白さ」(世界観)を讃え合うポスト・モダンを象徴するグラミー賞などのジャンルレスな芸術賞に時代の趣味は移っており、これらの芸術賞の受賞作品だけではなくノミネート作品を含めて最新のトレンドをジャンルレスにキャッチアップできるので大変に興味深く視聴しています。今年は、以下のとおりクラシック部門の殆どの部門で現代音楽に関係する作品が受賞しており、日本国内の状況だけを見ていると時代の潮流を読み誤りそうです。日本にも、こんな芸術賞が欲しいですな。
【オーケストラ部門賞】
ロサンジェルス・フィルハーモニー@G.ドゥダメルのバレエ音楽「アデス」(作曲:T.アデス)
【オペラ部門賞】
メトロポリタン管弦楽団@Y.ネゼ=セガンのオペラ「チャンピオン」(作曲:T.ブランチャード)
【合唱部門賞】
ヘルシンキ室内合唱団@N.シュヴェケンディークの合唱曲「ルコネッサンス」(作曲:K.サーリアホ)
【室内楽部門賞】
ルームフル・オブ・ティースのアルバム「ラフ・マジック」(作曲:C.ショウほか)
【独奏部門賞】
Y.ジャンXルイヴィル管弦楽団@T.エイブラムスのアルバム「アメリカン:プロジェクト」(作曲:T.トーマス)
【独唱部門賞】
J.ブロックXフィルハーモニア管弦楽団@C.ライフのアルバム「ウォーキング・イン・ザ・ダーク」(作曲:J.アダムズほか)
【作曲部門賞】
 
▼ミュージカル映画ブームの再燃
2024年2月9日からミュージカル映画「カラーパープル」が公開され、また、2024年3月22日から松竹ブロードウェイシネマ「ピアノ 2Pianos 4Hands」も公開される予定になっていますが、新作のオペラだけではなく新作のミュージカルの上演も活発になっており、その題材は現代人でも共感できる現代の時代性を反映したものが増えてきていますので、これから新作のオペラ、ミュージカルやシアターピースなどの中から、次世代に受け継がれる名作が続々と誕生してくると思いますので、大いに注目していきたいと思っています。

新年の挨拶②:現代音楽プロジェクト「かぐや」と東京都交響楽団定期演奏会(J.アダムズ)とJ-TRAD Ensemble MAHOROBAとタツノオトシゴの子育て<STOP WAR IN UKRAINE>

 
▼タツノオトシゴの子育て(ブログの枕単編)
謹賀新年。旧年中は拙ブログをご愛顧賜り、誠にありがとうございました。本年も旧倍のご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。さて、後漢書の李膺伝には黄河竜門の急流を鯉が登ると竜になるという故事が紹介されており、それが「登竜門」の語源になっていますが、この変革期(竜門)に挑戦する者(鯉登り)が時代(急流)を乗り越えて未来(大河)を拓くことができるという有難い教えです。竜(辰)は十二支で唯一の架空の動物ですが、タツノオトシゴ(竜の落し子)は天上の竜が海に産み落とした子の姿のように見えることから命名されたもので(下表写真)、その近縁種としてタツノイトコ(竜のイトコ)(相模湾などの温帯域に生息)やタツノハトコ(竜のハトコ)(南西諸島などの熱帯域に生息)なども存在します。近年、タツノオトシゴは観賞用や土産用などの目的のために乱獲されてきた影響からワシントン条約付属文書Ⅱで絶滅危惧種(学名:Hippocampusで登録)に指定されて取引が規制されていますが(但し、現在、日本はタツノオトシゴの絶滅危惧種の指定を留保していますので規制の対象外になっています)、前回のブログ記事でも触れたネイチャーポジティブ(30by30)を推進する観点からタツノオトシゴの養殖事業なども本格化しています。タツノオトシゴの寿命は3年と短く一生同じパートナーと連れ添って年に3回ほど出産しますが、タツノオトシゴは兎よりも多産なことで知られ、一度に約100~1000匹(但し、生存率は約1%)もの稚魚を産みます。その求愛と交尾は大変にロマンチックで、オスとメスが尾を絡めながら水中をクルクルと求愛のダンスを舞い、婚姻色と呼ばれる明るい色調に体を変色させます。オスには人間の胎盤に相当する育児嚢と呼ばれる袋がありますが、そこにメスが産卵管(ペニスのようなもの)を差し込んで産み付けた沢山の卵に受精させて、育児嚢の中で孵化した稚魚に栄養や酸素を供給しながらある程度の大きさに成長した後に出産します。このようにタツノオトシゴは、メスではなくオスが出産し、子育て(ワンオペ育児)を行っていますので、「イクメン」の大先輩と言えるかもしれません。タツノオトシゴのオスはワンオペ育児を熟すタフな生き物ですが、ヒトのオスは産後うつに陥るなど「父親2.0」(夫婦によるツーオペ育児)の行き詰りが社会問題として認識されるようになっており、現在では昔の子育ての知恵を借りて「父親3.0」(分散育児)が模索され始めています。この点、江戸時代には子供が親の家業を継ぐことや職住近接であったことなどもあって父親が育児に積極的に参加していたという記録があり、父親向けの育児本(林子平の「父兄訓」や山鹿素行の「父子訓」など)も人気がありました。人間の赤ちゃんは他の動物と異なり生れて直ぐに歩くことができないなど子育てに手間が掛かるのでワンオペ育児は難しいと言われていますが、江戸時代には血縁関係のある親族が近隣に居住し、また、仮親(名付け親、烏帽子親、守親、乳親、拾親、取上親、抱き親、行会親などの疑似的な親子関係を結ぶ者)、寺子屋(師弟関係)、子供のコミュニティー(子供組、若者組、娘組)や子守労働(ルイス・フロイスは日本の10歳前後の子供は赤子をおんぶして子守していると記録していますが、この習慣は昭和まで継続)など地域全体で子育てを支援する文化風土(ソフト面での子育て支援)が培われていたと言われています。過去のブログ記事でも触れたとおり、日本の子供達のウェルビーイングが相対的に低いこと(精神的幸福度はOECD38ケ国中37位)の理由の1つとして、学校以外のコミュニティーに参加する機会(自己実現を図る機会)が少ないことが挙げられていますが、江戸時代の子供達は現代の子供達に比べて多様なコミュニティーに参加する機会に恵まれていたと言えるかもしれません。明治維新後、1890年に民法が制定され、江戸時代までの農家や商家に残されていた母系相続や末子相続が庶民の蛮風として廃止されて儒教思想に基づく家父長制度が徹底されましたが、これが近代的な家族観に大きな影響を与えて、性別役割分業論が社会へ浸透し、それを前提にした女性に対する「良妻賢母」教育(大正時代初期に「母性」という言葉も誕生)が実践されました。その後、1974年の第二次ベビーブームに出生者数がピークを迎え、1985年に男女雇用機会均等法が制定されて女性の社会進出が進展するにつれて出生者数は大幅に減少して行きましたが、この背景には江戸時代に息衝いていた地域全体で子育てを支援する文化風土が衰退したことに加えて、血縁関係のある親族とも疎遠になる核家族化が進んで社会的に孤立し、自分の祖父母以外に子育てを支援してくれる人がいなくなったことで、女性が出産を断念せざるを得ない状況が生まれたことが日本の少子化傾向に拍車を掛けたことが指摘されています。また、乳幼児の死亡率の低下、避妊方法の進化、ライフスタイルの多様化や経済的な負担の増大などの環境変化を背景として、子供は「授かる」ものから自らのライフプランとして「選択する」ものへ意識が変化したことも指摘されています。この点、「父親1.0」は「男性は仕事、女性は育児」という近代的な父親像を背景とする考え方でしたが、「父親2.0」は女性の社会進出に伴って父親の育児参画の必要性が再認識されるようになり、2010年頃には「イクメン」ブームが到来しましたが、未だ母親中心の子育て支援であったことなどから、父親の子育てに関する知識不足、経験不足及び支援不足を原因とする行き詰りが認識されるようになりました。そこで、「父親3.0」では昔の子育ての知恵を借りて、子育てし易い環境を整えるために社会全体で育児を分担する「分散型育児」が見直され始めています。因みに、欧米では法律上の婚姻関係になくても内縁関係があれば税金、相続や社会保障などを受けられるように法律を改正したことで婚外子が増加して出生率が改善したという報告がありますが、女性が経済力を持つようになり子供は欲しいが結婚はしたくないというライフスタイルを尊重する少子化対策も必要かもしれません。これまで日本の保育所は「働く親のための施設」というネガティブな捉え方が主流でしたが、欧米の保育所は「幼児教育のための施設」と位置づけられ、単に両親の子育て負担を軽減するための施設に留まらず、子供がより良く育つように地域全体で子育てを支援するための施設であるというポジティブな捉え方が主流になっています。前回のブログ記事でも触れましたが、現代はあわい(間)を紡ぐことができる人材が不足していることが社会課題として認識されていますが、地域全体で子育てを支援する観点からあわい(間)を紡ぐことができる人材を育成するための幼児教育としてSTEAM教育が注目を集めており、両親の子育て負担の軽減だけではなく人材育成の戦略にレベルアップした子育て支援のあり方が模索されています。因みに、上述のとおり昔の日本の子守は「おんぶ」が主流でしたが、1986年頃から欧米のライフスタイルを採り入れて「だっこ」に主流が移り、現在ではベビーカー(1860年に福沢諭吉がアメリカから乳母車を持ち帰ったのが最初と言われていますが、江戸時代中期から日本には子連れ狼の大五郎が乗っていた箱車がありました。)が重宝されるようになっています。この点、赤ちゃんのミラーニューロンを活発に刺激して賢い子に育てるためには親と同じ目線で外界を見ることができる「おんぶ」が優れていると言われており、最近では欧米でもonbuhimo(おんぶ紐)が注目され始めています。今年は子育てし易い環境が整備されて行くと思いますので、余計なお世話ではありますが、今晩あたり求愛のダンスでもいかが💞
 
①江島神社(神奈川県藤沢市江の島2-6-15
②新江ノ島水族館(神奈川県藤沢市片瀬海岸2-19-1
①江島神社(大鳥居)江島縁起によれば、昔から江の島は龍の住む場所と言われ、天から舞い降りた天女(弁財天)と5つの頭を持つ龍とが結ばれた五頭龍伝説が残されています。 ①江島神社(龍宮):1993年に相模湾を臨む岩屋洞窟(龍神伝説発祥の地)の真上にあたる奥津宮の隣に龍宮大神を祀る龍宮が建立され、全国各地から崇敬を集めています。 ①江島神社(山田検校斗養一像):山田流箏曲の祖・山田検校は江の島に逗留して代表作「江の島曲」を作曲し、その功績を讃える幸田露伴撰の顕彰碑と座像が建立されています。 ②新江ノ島水族館(タツノオトシゴ)新江ノ島水族館にはタツノオトシゴが展示されており(正月も営業)、近くに五頭龍伝説に登場する五頭龍を祀る瀧口明神社もあります。
 
▼現代音楽プロジェクト「かぐや」
【演題】現代音楽プロジェクト「かぐや」
【演目】①ユハ・T・コスキネン 筝曲「イザナミの涙」(世界初演)
    ②カイヤ・サーリアホ 弦楽四重奏曲「テッラ・メモリア」
    ③横山未央子 弦楽四重奏曲「地上から」(世界初演)
    ④ジョセフィーヌ・スティーヴンソン ソング・サイクル「かぐや」
            (世界初演)(原語(英語)上演・日本語字幕付)
    <原作>「竹取物語」及び与謝野晶子の詩に基づく
    <作曲>ジョセフィーヌ・スティーヴンソン
    <作詞>ベン・オズボーン
    <振付>森山開次
    <照明>大島祐夫
    <衣裳>増田恵美
【演奏】<ヴォーカル>ジョセフィーヌ・スティーヴンソン④
    <ダンス>森山開次④
    <箏>吉澤延隆①④
    <Vn>山根一仁、毛利文香②③④
    <Va>田原綾子②③④
    <Vc>森田啓介②③④
【場所】東京文化会館小ホール
【日時】2023年1月13日(土)15:00~
【一言感想】
フランス&イギリス人現代作曲家のジョセフィーヌ・スティーヴンソンさん(1990年~)、昨年他界されたフィンランド人現代作曲家のカイヤ・サーリアホさんと生前親交があったフィンランド人現代作曲家のユハ・コスキネンさん(1972年~)及び日本人現代作曲家の横山未央子さん(1989年~)の作品を採り上げる現代音楽プロジェクト「かぐや」を聴きに行く予定にしています。公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、演奏会の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。なお、今回は作詞を担当されているベン・オズボーンさん(1994年〜)も現代作曲家として活動されていますので、以下のシリーズ「現代を聴く」で楽曲を紹介しています。
 
【追記】
 
ヴラヴィー!!今日は東京文化会館の舞台芸術創造事業の一環として開催された現代音楽プロジェクト「かぐや」を鑑賞してきましたが、現代音楽の公演には珍しくほぼ満席の盛会で、ソング・サイクル「かぐや」(ワールドプレミア)はスタンディング・オベーションになる大成功でした。最近、マンネリズムに陥っている閉塞感の漂う芸術界を捉えて芸術的限界点を迎えているという悲観的な意見も一部で耳にしますが、個人的には、これまでの芸術体験に照らして何と表現して良いのか分からないようなジャンルレスの芸術表現を鑑賞する機会が増え、これらの新しい芸術体験を生み出す革新的な作品に現代人の教養(心の豊かさ)を育み得る芸術表現の可能性を感じています。歴史上、それぞれの時代に相応しい新しい芸術表現が誕生してきたように、現代は時代の価値観、自然観、世界観などが大きく更新されていますので、それらを表現するために相応しい新しい芸術表現が求められていると思いますが、新年早々から確かな手応えが感じられる作品に接する機会に恵まれたという意味で大変に充足感の高い有意義な芸術鑑賞になりました。以下では各演目について簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
①筝曲「イザナミの涙」(世界初演)
2021年に東京文化会館の舞台芸術創造事業の一環としてK.サーリアホさんのオペラ「Only the Sound Remains-余韻-」が日本初演されましたが、昨年6月に早逝されたK.サーリアホさんへのオマージュとして、前半にK.サーリアホさんの作品及びK.サーリアホさんと所縁の深い作曲家の作品が演奏されました。J.コスキネンさんはK.サーリアホさんの薫陶を受け、2004年に現代作曲家・細川俊夫さんの招待で武生国際音楽祭に参加して「Sogni di Dante」で武生国際作曲賞を受賞し、現在、愛知県立芸術大学客員教授を勤めているなど日本とも所縁の深い現代作曲家です。筝曲家・吉澤延隆さんとのコラボレーション作品以外に能声楽家・青木涼子さんとのコラボレーション作品などもあり、2012年に能声楽曲「Wayfaring Moon」を世界初演したのに続いて、今後、能「野宮」を題材にした室内オペラ「野宮」の作曲も予定されているそうなので、今から楽しみです。さて、筝曲「イザナミの涙」は、J.コスキネンさんが吉澤さんのために作曲した作品ですが、これまでJ.コスキネンさんが吉澤さんのために作曲した秋をテーマにした筝曲「薄氷」(2018年)及び春をテーマにした筝曲「天浮橋」(2020年)に続く三作目として冬をテーマにして作曲した新作で、今後、夏をテーマにした筝曲も作曲する予定があるそうなので、こちらも大変に楽しみです。筝曲「イザナミの涙」はグルックのオペラの題材などにもなっているギリシャ神話「オルフェオとエウリディーチェ」と物語が類似している古事記「黄泉の国」を題材として、松尾芭蕉が寒椿を詠んだ俳句「葉にそむく 椿の花や よそ心」(意訳:葉に背を向けて咲く椿の花は何とよそよそしく冷たいことか。但し、よく歌詞を聴き取れなかったので誤認の可能性もあり・・汗)を引用するなどJ.コスキネンさんの日本文化への造詣の深さを感じさせますが、イザナミを椿の葉、イザナギを椿の花に喩えてイザナミの心を芭蕉の句に込めて表現したものではないかと推測されます。J.コスキネンさんは古事記に現代的なテーマ性を見い出してイザナミの姿は人類に破壊された地球の姿を連想させると仰っていますが、国土や神々(即ち、自然)を生み、黄泉(=地下の泉)の国の神になったイザナミは地球そのものを象徴する存在と言えるかもしれません。筝の柔らかい調べに乗せたヨワ吟による唄と筝の力強い調べに乗せたツヨ吟による唄の対比がまるで彼岸(イザナミが住む世界)と此岸(イザナギが住む世界)の物理的又は心理的な距離を感じさせる奥行きのある演奏効果を生んでおり、ヨワ吟が囁き掛けるように「椿の花」を箏問う恋慕の情が儚げに薫る優美な曲に感じられました。古事記「黄泉の国」では、イザナミが「こんなに酷いことをするならば1日に1000人を殺します」と告げると、これに答えてイザナギは「それならば1日に1500人の子供を産ませよう」と袂を分かちますが、日本の人口統計(2022年)によれば、出生者数が約77.0万人(漸減基調)であったに対して死亡者数が約156.8万人(漸増基調)に上っており、イザナミの祟りが現実のものになろうとしています。前回のブログ記事でも触れましたが、何故、人類の祖先は無性生殖ではなく有性生殖を選択して死のプログラムを実装するようになったのか、その生命の営みの根源から認識し直すべき時期に来ている切実な問題であり、個人的には、筝曲「イザナミの涙」には地球環境破壊の問題と共に生命の根源に対する問い掛けが含まれているように感じられ、現代人の教養(心の豊かさ)を育むのに相応しい非常に含蓄深い曲であると感じ入りながら鑑賞しました。
 
②弦楽四重奏曲「テッラ・メモリア」(2006年)
1970年代にK.サーリアホさんはシベリウス音楽院で作曲を専攻して、その後、IRCAMで活動していましたが、当時はいずれの組織でも唯一の女性だったそうです。過去のブログ記事でも触れましたが、最近は女性作曲家の躍進(後述)が目覚ましくジェンダーフリーの社会浸透がある程度進んでいる印象を受けますが、今年のサントリー・サマーフェスティバルのテーマ作曲家に指定されたO.ノイヴィルトさんと共にジェンダーバイアス(脳が生成する認知パターン)に強かに抗いながら、その実力によって女性作曲家の社会的な地位の確立に貢献した歴史に残る逸材であり、後述する横山さんはその遺志を継ぐ嘱望された若手の現代作曲家の1人になります。K.サーリアホさんの弦楽四重奏に関する作品数は多くありませんが、弦楽四重奏曲「テッラ・メモリア」(2006年)は弦楽四重奏曲「睡蓮」(1987年)に続く第2作目で、このほかにも弦楽四重奏曲(原曲:弦楽合奏曲)「雪の花」(1998年)やソプラノと弦楽四重奏のための「景色」(1996年)などが存在しています。過去のブログ記事でK.サーリアホさんの作曲手法の一端について簡単に触れていますが、この作品は「旅立った人々に捧げられ・・(中略)・・ある種の思い出は夢の中で何度も姿を現し・・(中略)・・変化する思い出もあれば、なお鮮やかな場面として追体験できるものもある」こと(世界観:目的)に着想を得て、その世界観を表現するために音楽素材を「異なる形に変化するものもあれば、ほとんど変わらず、明らかにそれと分かる元の姿を保ちつづけるものもある」という一定の方法(その世界観を表現するための方法:手段)で扱ったという解説が付されていました。この曲の標題「テッラ・メモリア」は大地(テッラ)と記憶(メモリア)という意味ですが、楽器や奏法を巧みに操りながら多彩な音色、リズム、強弱、濃淡や音像(フォルムや間)などによって大地(現在、此岸)と記憶(過去、彼岸)が育む豊かな精神世界の対比と融合が表情豊かに表現され、ポスト・ミニマル風のモチーフの反復と変容を効果的に使って構成感、統一感のある楽曲にまとめられており、K.サーリアホさんの円熟味が感じられる磨き抜かれた筆致に魅了されました。この日のために特別に編成されたクァルテットは、フラジョレット、ポルタメント、トリル、スル・ポンティチェロなどの特殊奏法から生まれる演奏効果を十分に引き出しながら緊密で堀の深い構成感のあるアンサンブルを紡ぎ出していました。この曲は楽器相互の連携が重要なポイントになるのではないかと思いますが、内声が豊かに感じられるバランスの良さと心地よいテンションを生む絶妙な呼吸感によるアンサンブルを楽しめました。久しぶりにきちんと楽器を鳴らし切る歯応えのある現代音楽を聴いたような気がします。なお、日本では律令国家の誕生により男系社会が確立し、そのような時代背景の中で紫式部が執筆した源氏物語は中世のジェンダーバイアスを背景とするやんごとなき姫君達のシンデレラ・コンプレックスに彩られた世界観を描いていますが、日本人女性の社会的な地位の向上に尽力した津田梅子が2024年7月に発行される新紙幣に採用される時機にあることを踏まえると、いつまでも懐古趣味から抜け切れず時代錯誤感のある題材ばかりを採り上げている大河ドラマの視聴率(ネット配信を含む)が低迷しているのも頷けます。
 
③弦楽四重奏曲「地上から」(世界初演)
現代作曲家・横山未央子さんはシリベウス音楽院に留学してフィンランド人現代作曲家・V.プーラマさんに師事し、現在、シリベウス音楽院で非常勤講師を務められています。横山さんは学費が無料であることなどからフィンランド音楽院に留学することを決めたそうですが、日本と比べて、①フィンランドは現代音楽の演奏機会が多く(フィンランド音楽院の学位審査演奏会では委嘱新作を初演する気風があるそうですが、今年は東京藝術大学の学位審査演奏会でも委嘱新作が初演される予定があります)、②新作委嘱の支援が手厚いことに加えて、③観客が現代音楽の受容に積極的であることを挙げられていました。この点、毎年、飽きもせずに年末の第九や年始のニューイヤーには通う一方で新しい作品には関心すら示さない日本の観客の気質を見ていると、欧米人に比べてドーパミンの分泌量が少ない人の割合が多い日本人には現代音楽の受容は難しいのかもしれないと落胆を禁じ得ません。最近、日本でも現代音楽を採り上げる演奏会が増加してきたとは言え、未だに、その機会や客入りは相対的に少ないのが現状であり、観客の立場からフィンランドを含む欧米の状況を羨ましく思います。横山さんによれば、日本では委嘱新作の初演の度に「これが最後かもしれない」という不安な想いが常に付き纏っていたそうですが、現代音楽の演奏機会が多いフィンランドでは余計な雑念に煩わされることなく作曲に専念できる環境があるそうです。K.サーリアホさんは次の時代を担う若手の現代作曲家として横山さんにも目を掛けられ、この現代音楽プロジェクトに横山さんを推挙したのもK.サーリアホさんだったそうですが、今回は早逝されたK.サーリアホさんを地上から偲んで弦楽四重奏曲「テッラ・メモリア」を参照しながら横山さんの独自の作曲手法で弦楽四重奏曲「地上から」を作曲したそうです。打楽器的な特殊奏法を駆使してクァルテットを摩弦楽器ではなく打楽器のように扱う楽曲は非常にユニークで充実した内容を持つ作品でした。横山さんによれば、「テッラ・メモリアの構成やモチーフの使い方を自分なりに分析して書きました。たとえば、ベースラインのだんだん上昇していく動きや、チェロからヴィオラ、ヴァイオリンへと駆け上がっていく動き」などを参考にしながら作曲したと語られていましたが、弦楽四重奏曲「テッラ・メモリア」が線描画であるとすれば、弦楽四重奏曲「地上から」は点描画と言った風情があり、これまでも打楽器的な特殊奏法を使った様々な現代音楽を聴いてきましたが、それらの作品と比べても非常に着想が豊かで、それらの多彩な表現を駆使しながら緻密で構築感のある聴き応えのある音楽に感じられました。ジャズのコード進行こそ使われていませんが、ベースラインを追って行くとジャズのクァルテットを聴いているようなグルーブ感もあり、スリリングで面白い演奏が楽しめました。この曲では、洗濯ハサミ(木製3.5cm)で弦を挟む特殊奏法が使われていますが、非整数次倍音(自然音)で構成される音程感が不明瞭な金属のような響きを生む独特の効果を生んでいました。過去のブログ記事でも触れましたが、能の謡は声帯が閉じた状態(地声)で発声する非整数時倍音(自然音)を基調とするものですが、その意味で音に対する日本人的な感性も活かされている作品に感じられ、非常に興味深かったです。現在、弦楽四重奏曲「地上から」と一対になる作品(二連祭壇画)を構想されているそうなので、その作品と共に日本での再演が待ち望まれる秀作です。
 
④ソング・サイクル「かぐや」(世界初演)
今回の企画は2022年9月にフランスで森山開次さんがK.サーリアホさんのオペラ「Only the Sound Remains-余韻-」を公演した際に、それを鑑賞していたJ.スティーヴンソンさんを紹介されたことを契機として実現したものだそうです。J.スティーヴンソンさんは英国王立音楽院で作曲を学んだミレニアル世代の現代作曲家で、クラシック音楽とポピュラー音楽を1つの音楽と捉えたジャンルレスな音楽活動を行っていますが、方法(手段)よりも世界観(目的)を重視するポスト・モダン的な作曲姿勢が幅広い共感と支持を生んでいます。森山さんはJ.スティーブソンさんの印象から竹取物語を題材とすることを直感的に閃いたそうですが、J.スティーヴンソンさんはかぐや姫が平安時代の女性でありながら封建的な男性社会に屈することなく自分の意思を貫いた生き方に共感すると共に、B.オズボーンさん(日本の短歌にインスパイアされた詩「Tanka」を創作したこともある知日派)から与謝野晶子の詩を紹介されてかぐや姫と与謝野晶子の生き方が「女性の生きる強さ」(ジェンダーフリー)という点で重なり合うように感じ、また、B.オズボーンさんは竹取物語に「人間と自然の共生」「富と所有」(環境破壊)や「帰る場所の喪失」(移民問題)などの現代的なテーマ性を読み解いて、これらのテーマ性を意識して作品を創作されたそうです。この点、源氏物語第十七帖「絵合」にはかぐや姫が帝の后にならなかったこと(シンデレラ・コンプレックスと正反対の態度)をネガティブに評している部分があり、また、戦中の教科書ではかぐや姫の結婚拒否(求婚譚)を悪影響があるとして大幅にカットしていましたので、ジェンダーフリーの視点から竹取物語を現代的に再評価している点が注目されます。J.コスキネンさんの「イザナミの涙」はイザナミが地球(自然)を象徴する存在として環境破壊や人口減少の問題などを問い掛けてくる作品に感じられましたが、ソング・サイクル「かぐや」もかぐや姫が地球や女性の強さを象徴する存在として環境破壊やジェンダーフリーの問題などを問い掛けてくる作品に感じられ、両作品は共通する時代認識を持っており、現代の時代性と向き合いながら現代人の教養(心の豊かさ)を育むのに相応しい非常に充実した内容を備えているように思います。ソング・サイクル「かぐや」は特定の歌手が特定の役柄を演じるオペラやミュージカルとは異なって、ヴォーカルがキャラクターの声も担いながら物語の内側(オン・ステージの視点)と外側(オフ・ステージの視点)を往還し、ダンサーの身体表現及び器楽の音楽表現と共に物語を紡いで行く新しいスタイルの芸術表現のように思われます。J.スティーヴンソンさんはルネサンスのメランコリックな歌と21世紀の実験的なポップスの間に位置するスタイルを目指して作曲したと仰っていましたが、リリック・ソプラノを思わせるJ.スティーヴンソンさんの透徹な美声(クルーナー)はまるで月光が闇夜に澄み渡るようでもあり、その繊細な情感表出は圧倒的な恍惚感と共に歌(詩)の世界に惹き込み、自然と歌(詩)の言葉が心に沁み入ってくるような不思議な訴求力を持っていました。冒頭、弦楽器がさながら笙(竹製)のような響き(ハーモニー)を奏で、森山さんが芽吹きを待つ筍のように緑の着物を被りながら徐々に立ち上がって森の中に新しい生命が育まれる様子を表現されていましたが、これに「緑の壁の中で 静かに脈打つ 母の心臓の鼓動 共生のエコー」という歌(詩)が添えられ、照明効果も相俟って、かぐや姫が竹の精霊(日本風に言えば、八百万の神々)であるかのような幻想的な雰囲気を醸し出す美しい場面になっていました。筝の調べに乗せて森山さんが緑の着物を脱ぎ棄てこの世の美しさに触れ、生きる喜びを謳歌するように舞台を走り回りますが、その心象風景を詠むように与謝野晶子の俳句「ふたつ三つ わすられぬこと かきこして こゝろの上を はしりゆく人」(「明星抄」より)が日本語で歌われ、かぐや姫とそれを見守る与謝野晶子の姿が音楽的に重なり合っていました。やがて月の光の眩さが陰影を濃くするような照明演出があり、与謝野晶子の俳句「えもいはぬ はだかの少女 かぢとりて 船やるごとき 夏の夜の月」(「明星抄」より)が日本語で歌われた後に、「地球の半分で森が燃えている 木の葉が枯れるとき 木々が倒れるとき、海がせり上がるとき 根こそぎにしながら ひっかり返しながら 消し去りながら 地球が無と暗黒に屈指ようとするとき 月が昇る」という印象的な歌(詩)が続き、森山さんの地球が踠き苦しんでいる様子を激しいダンスで表現されていました。このピースはJ.スティーヴンソンさんの哀しみを湛えたひときわ美しいヴォーカル(大好き💘)が白眉で、かぐや姫(自然)の生命が尽きようとしていることを強く印象付ける叙情豊かな歌に魅了されました。自然を愛しむ心を育むことは芸術に期待されている重要な社会的な使命の1つであり、そのことを大脳新皮質(心の表層)に理解させるだけではなく脳幹や大脳辺縁系(心の深奥)に共感させられることが芸術の力であることを思い知らされました。ヴラヴィー!!この作品には政治的なメッセージは含まれていないそうですが、激しい打撃音を伴った「彼の愛を、黄金と武器で満たした」という歌(詩)は現代の時代性を色濃く反映しているように感じられ、これと対比するように、箏の調べは涙を描写したものでしょうか、森山さんが緑の着物を羽織って新しい生命の種が蒔かれようとしている様子を表現するなか、未来への希望が込められた「涙のしずくは、種子となり 落下しながら発芽する 来るべき春に向かって伸びる 月にかかる梯子」という歌(詩)が心に響きました。このピースではJ.スティーヴンソンさんが客席から舞台に向かって歌い掛けましたが、この物語は我々自身の物語であり、この歌(詩)は我々自身の願いであることを強く感じさせられる舞台演出であったと思います。謝野晶子の俳句の一部分「山の動く日きたる」(与謝野晶子の歌集「夏より秋へ」に収録されている「山の動く日きたる、 かく云へど、人これを信ぜじ」)が日本語で歌われ、再び、森山さんが緑の着物を被り芽吹きを待つ筍に変じると「あふれる自然が山肌を伝い 緑の幹をなぎ倒して流れる 森は常に変わり続けている 歩む足が種子を運び 新しい植物をもたらす」という歌(詩)が続き、自然の再生を願う終曲(我々自身のクレド)になっていたと思います。最後に、秋の句が挿入されたことで実りの秋(此岸と彼岸の境を越えて精霊などが地上に降り立つハロウィンを含む)を想起させると共に、かぐや姫を象徴する仲秋の名月を連想させる季節感は、この曲の叙情を一層と深いものにする効果を生んでいました。日本での再演を強く希望していますが、箏をギターに置き換えて演奏することができるようなので、世界各地で上演されることを願いたい秀作です。因みに、かぐや姫が月に昇ると言えば、東京文化会館小ホールの音響反射板「昇り屏風」は彫刻家・流政之さんの作品でタバコの箱の銀紙を折ったものがモチーフになっているそうです。この点、東京オリンピックの前後に整備された社会インフラは更新時期を迎えており、また、コンクリート打放しを含めて些か古びてきている印象も受けますので(東京文化会館の椅子が小さいのには泣かされます)、デジタル田園都市国家構想を踏まえて、これからの時代のコンサートホール(芸術受容)のあり方を含めた将来展望を考える時期に来ているのかもしれません。
 
 
▼東京都交響楽団 第993回定期演奏会Aシリーズ
【演題】東京都交響楽団 第999回定期演奏会Aシリーズ
    これは、事件だ!
【演目】①ジョン・アダムズ アイ・スティル・ダンス
                       (2019年/日本初演)
    ②ジョン・アダムズ アブソリュート・ジェスト(2011年)
    ③ジョン・アダムズ ハルモニーレーレ(1984/85年)
【演奏】<Cond>ジョン・アダムズ
    <Orch>東京都交響楽団
    <Sq>エスメ弦楽四重奏団
【場所】東京文化会館
【日時】2023年1月19日(金)19:00~
【一言感想】
現代最高峰のアメリカ人作曲家J.アダムズさんが日本のオケで自作を振るというので、この歴史的な事件に立ち会うために平日で時間的に厳しいのですが都響定演を聴きに行く予定にしています。公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、演奏会の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
ヴラヴィー!!終演後、スタンディングオベーションになる盛会でした。新年から暗いニュースに心を痛めていましたが、これは吉兆かもしれません。大編成のオーケストラというキャンバスを使って変幻自在に律動するリズムを三次元的に織り込んで描かれる音楽の大伽藍に圧倒され、特殊な編成、奏法や調性などによる斬新な響きに彩られた絢爛たるオーケストレーションに魅了された極上のひとときを堪能できました。ロマン派の音楽を参照しながらも、それを大きく拡張又は逸脱して行く才気溢れる筆致に21世紀の新しい地平へと目を開かれる心地ちがして大変に満足度の高い演奏会でした。エスメSQは天衣無縫のグルーブ感で現代とロマンを自在に往還する見事な演奏でしたし、まるで1つの生き物のように振る舞う都響の合奏精度にも惜しみない拍手を送りたいと思います。ポスト・ミニマルの旗手として、その名を歴史に刻む現代最高峰のアメリカ人作曲家ジョン・アダムズさん(1947年~)は2005年に武満徹作曲賞審査員として来日する予定でしたが、当時、サンフランシスコ・オペラで予定されていたオペラ「アントニーとクレオパトラ」世界初演の日程が変更されたことから来日が中止になり、今回、漸く日本のオーケストラを指揮する機会が巡ってきたので、この機会に実演に接したく万難を排して聴きに行くことにしました。先日、英国の有名なオンライン音楽雑誌「Bachtrack」が「Classical Music Staristics 2023」を公表しましたが、例年に続いて2023年に世界で最も演奏された存命作曲家としてJ.アダムズさんがエントリーされており、世界中で不動の人気を博しています。なお、この統計結果には、昨年と対比して、以下のような特徴的な傾向が特記されていますので、その概要をご紹介しておきます。
 
①日本を含む世界で現代音楽の演奏機会が漸増傾向にあること。但し、日本では、EVの普及率やその他の国際指標などと同様に、欧米と比べると相対的に現代音楽(とりわけ21世紀に創作された音楽)の演奏機会が非常に少ない印象を否めません。
②女性作曲家の数とその作品が演奏される機会が漸増傾向にあり、今後の更なる躍進が期待されること。
③古楽・バロックの作品の演奏機会が漸減傾向にあること。但し、個人的には、古楽器や古楽奏法を採り入れた現代音楽に注目しており、その作品数も増えてきているように感じますので、徐々に、そのニューズがシフトして来ている現れではないかと思います。
④2023年に世界で最も演奏された存命作曲家として2018年に武満徹作曲賞審査員を務められた韓国人現代作曲家のチン・ウンスク(陳銀淑)さんがアジア人として初めてエントリーされていること。
 
①I Still Dance(2019年/日本初演)
この曲は青いメガネがトレードマークのサンフランシスコ交響楽団音楽監督であるマイケル・トーマスさんの在任25周年を記念し、そのパートナーであるスウィング・ダンサーのジョシュア・ロビンソンさんの「I Still Dance(今でも踊っているよ)」という言葉から着想を得て作曲されたものだそうですが、ダンス音楽というよりもトッカータ(あるフレーズを様々な音域や技巧を使って即興的に演奏する快速調の曲)に近い性格を持っています。エレクトロニックベース、エレクトロニックオルガンや和太鼓などの特殊な楽器を追加して音響的に拡張された大編成のオーケストラが統率のとれた推進力ある演奏で疾駆し、終曲まで弛緩することのなく躍動感が漲るパワフルな演奏は息を付く暇を与えません。冒頭から木管が波打つ定型的なリズムを繰り返すなかを弦楽、金管、打楽器が変化に富んだ鋭角なリズムで音楽に表情を作りながら展開するアンサンブルは、絢爛たる色彩豊かな響きに彩られ、和太鼓の凄みがその響きに厚みを増して秩序とカオスが同居しているような規格外の演奏に魅了されました。現代人の認知パターンを小粋に凌駕していく「差分」の連続が大量のドーパミンの分泌を促し、一気に脳内が沸点に達してしまう高揚感は中毒症になる魅力に溢れていました。
 
②ABSOLUTE JEST(2011年)
この曲は弦楽四重奏とフルオーケストラが協奏するという革新的な作品で(バロック時代の合奏協奏曲スタイルを拡張した弦楽四重奏と弦楽合奏が協奏するエルガー「序奏とアレグロ」などはありますが、弦楽四重奏とフルオーケストラが協奏する作品は他に思い当たりません)、軽快な弦楽四重奏と重厚なフルオーケストラをそれぞれの持ち味を損なうことなく調和させてしまう至芸に感嘆させられます。この曲ではベートーヴェンの交響曲第9番及び弦楽四重奏曲第16番のモチーフを引用し、交響曲第8番、ピアノソナタ第21番及びピアノソナタ第29番なども参照しながら作曲されており、ベートーヴェンの音楽的なエッセンスが随所に感じられますが、そこで体現されている音楽はベートーヴェンの音楽とは別次元にある21世紀の音楽へと大きく飛躍した独創性が感じられます。冒頭は神秘的に立ち込める霞の中から交響曲第9番のモチーフの幻影が浮かび上がり、このモチーフが様々に変形しながら繰り返され、これにクァルテットが緊密に呼応する密度の濃い演奏が展開されました。やがてクァルテットが弦楽四重奏曲第16番のモチーフを奏で始めると、今度はそれがオーケストラに伝染して丁々発止の大協奏が繰り広げられる燃焼度の高い演奏に腰を抜かしました。エスメ弦楽四重奏団は超絶技巧を難なく熟す信頼感のある演奏でオーケストラに気後れすることなく天衣無縫に振る舞う表情豊かな演奏をアグレッシブに展開し、とりわけカデンツァのグルーブ感のある演奏は秀逸なもので魅了されました。もはやジャズです。これに都響がフットワーク軽く緊密にコンビネーションする隙がない演奏に萌え焦げました。大向こうの席に座っていましたが、前曲と同様に、音楽の細部まで緻密に構築される熟練した至芸には目を丸くするばかりであり、その一方で、優等生的な演奏に収まることも良しとせず、理知的でありながらも絢爛たる発狂とでも形容したくなるような熱量の高い演奏には自作自演ならではの自家薬籠中のものとする奔放さが生み出す溌剌とした生命力が息衝いていて身を乗り出して演奏に食い入る始末でした。最後はチェレスタの神秘的な響きで締め括られて束の間の夢から覚めるという趣向がこの曲の味わいを一層と深いものにしてしました。至福。
 
③Harmonielehre(1984/85年)
この曲は日本でも演奏機会が多い人気演目です。この曲のタイトルは今年で生誕150年を迎えるアルノルト・シェーンベルクがマーラーに捧げた著書「Harmonielehe」(邦題:和声学)から採られていますが、A.シェーンベルクが調性システムを否定的に捉えて十二音音楽を大成したのに対し、J.アダムズさんは調性システムを肯定的に捉えてポスト・ミニマル音楽を大成したという意味で、J.アダムズさんの代表作にして作曲家としての節目になる重要な曲と言えるかもしれません。J.アダムズさんのA.シェーンベルク評を抜粋引用しておくと「私はシェーンベルクという人物を尊敬し、畏怖さえ感じていたけれど、十二音音楽の響きを心底嫌っていたことを正直に認めよう。彼の美学において作曲家は神であり、聴衆は聖なる祭壇に向かうような存在で、私には19世紀の個人主義を拗らせたものにしか見えなかった。シェーンベルクと共に「現代音楽の苦悩」は誕生し、20世紀にクラシック音楽の聴衆は急速に減少したことは周知の通りである。少なからず、新しい作品の多くが聴き苦しいものとなったからだ。」と辛辣に語っているとおり、この曲ではA.シェーンベルクが作曲した後期ロマン主義音楽は参照されていますが、その後に大成する十二音音楽は参照されておらず、ミニマル音楽と後期ロマン主義音楽を結び付けたポスト・ミニマル音楽を打ち出しています。J.アダムズさんがハーバード大学で師事したレオン・キルヒナーさんはA.シェーンベルクの弟子でありながら方法(手段)に拘泥しない作曲家だったそうですが、当時、十二音音楽(音列主義)と後期ロマン主義音楽(感情主義)の狭間で揺れるJ.アダムズさんの音楽的な方向性に影響を与えた方と言われています。個人的には、現代人の耳は十二音音楽にも慣らされており、十二音音楽を忌避していませんので、音楽を調性から「解放」するという態度は歓迎したいのですが、その一方で、音楽から調性を「排除」するという偏狭な態度には病的なものを感じます。現代は、規範性を重視する時代ではなく多様性を重視する時代に変化しており、方法(手段)よりも世界観(目的)が重視される時代になっていると思います。また、J.アダムズさんは学生時代にテリー・ライリーさん(現在、山梨県在住)の代表作「In C」を聴いて音楽の基本的な要素であるリズム、調性や反復を使ったミニマル音楽に感銘を受けたそうですが、今回のサントリーホール公演ではT.ライリーさんがJ.アダムズさんの楽屋を訪問するというサプライズがあったそうです。因みに、J.アダムズさんは映画音楽を作曲していませんが、映画「ミラノ、愛に生きる」は特別の許可を得てJ.アダムズさんの音楽を使用していますので、是非、ご興味のある方はご覧下さい。この曲の全体的な印象としては、J.アダムズさんの音楽の素性、来歴を語る音楽的な叙事詩のようにも感じられます。第1楽章は、ホ短調の和音による強烈な打撃音でモチーフが提示され、そのモチーフが変形しながら多彩な響きを増していきますが、これはサンフランシスコ湾の巨大タンカーがロケットのように飛び立つ夢から着想を得たものだそうです。やがて弦楽器の小刻みなリズムを繰り返しながら緊張感を持続していると、オーケストラがマーラー風の官能的、退廃的なロマンが薫る甘美な旋律を奏でますが、やがてクラリネットが妖婉なトレモロを奏でると、再び、弦楽器が小刻みなリズムを繰り返し、ミニマル音楽と後期ロマン音楽が結び付いてポスト・ミニマル音楽を高らかに歌い上げて、再び、ホ短調の和音による強烈な打撃音で締め括られる実に華々しくカッコイイ演奏に痺れました。この巨大タンカーはポスト・ミニマル音楽が化体したもので、それが宇宙の大海原へ船出しようとしていることを比喩的に表現したものではないかとも思われ、この曲はJ.アダムズさんがポスト・ミニマル音楽を大成して未知の世界へ船出するまでの壮大な叙事詩と言えるかもしれません。第2楽章は、「アンフォルタスの傷」という標題が付けられていますが、R.ワーグナーの楽劇「パルジファル」にも登場する聖杯王アンフォルタスは禁断のミンネに身をゆだねて神の怒りから癒えぬ傷を負う人物ですが、J.アダムズさんによれば「無力感と鬱に苦しめられている魂の病」を象徴しているそうなので、これは十二音音楽の呪縛に対する心情を吐露したものかもしれません。不協和音による陰鬱としたシリベウス風の音楽が展開され、トランペットが悲哀を帯びた旋律を奏でますが、やがてティンパニーが激しい連打を繰り返すとマーラーの交響曲第10番へオマージュが捧げられる印象的な終わり方になっています。第3楽章は、「マイスター・エックハルトとクエッキー」という標題が付されていますが、J.アダムズさんの愛娘エミリーさん(愛称:クエッキー)が神聖ローマ帝国時代の神学者マイスター・エックハルト(そのネオプラトニズム的な思想が教会軽視につながるとみなされて異端宣告を受けた人物)の肩に乗って星々と共に輝いているという夢を見たことから着想を得て作曲したそうです。M.エックハルトは調性システム、教会はA.シェーンベルク又はアカデミズム、愛娘エミリーさん(愛称:クエッキー)は未来を担う次世代、星々は後期ロマン主義以前の歴史上の偉大な作曲家達をそれぞれ象徴したものかもしれません。管楽器がミニマル音楽を繰り返し、弦楽器が後期ロマン主義音楽を奏でるポスト・ミニマル音楽が展開されますが、その後、神秘的な響きを増しながら様々な調性を巡って金管が高らかなファンファーレを奏でるとオーケストラがホ長調の輝かしい響きでポスト・ミニマル音楽の勝利を高らかに歌い上げて東京文化会館の残響が飽和状態に達する壮大なクライマックスの高揚感に打ちのめされました。前衛音楽の終焉が囁かれるようになってから久しく、20世紀のモダニズムを体現する「前衛音楽」と21世紀のポスト・モダンを体現する「コンテンポラリー音楽」が区別して語られるようになってきていますので、A.シェーンベルクの生誕150年を迎える節目に前衛音楽を前時代的な過去の音楽として捉え直すタイミングに来ているのかもしれないということを強く印象付けられる演奏でした。また、J.アダムズさんは日本に来てくれないかしら....。
 
 
▼J-TRAD Ensemble MAHOROBA
【演題】J-TRAD Ensemble MAHOROBA~春海の頌歌~
【演目】①本條秀太郎 雪火垂
    ②スメタナ(中村匡寿編曲) 
          連作交響詩「我が祖国」よりVLTAVA(モルダウ)
    ③本條秀太郎 俚奏楽 花の風雅
    ④本條秀太郎 春かもしれない海
    ⑤宮城道雄(浦部雪編曲) 春の海
    ⑥坂本龍一(福島諭編曲) Tong Poo
    ⑦松本真結子 Kagura ParaphraseⅡ(世界初演)
    ⑧一柳慧(中村匡寿編曲) ピアノメディア
【楽器】<三味線>本條秀慈郎①②③④⑤⑥⑦⑧
    <三味線/胡弓>本條秀英二①②③④⑤⑥⑦⑧
    <尺八>川村葵山①②③④⑤⑥⑦⑧
    <筝>木村麻耶(二十五絃箏)①②③⑤⑥⑦⑧
    <筝>吉澤延隆(十七絃箏)①②③⑤⑥⑦⑧
    <小鼓>堅田喜三郎⑧、山口晃太朗①②③④⑤⑥⑦⑧
【場所】川口総合文化センター リリア音楽ホール
【日時】2023年1月20日(土)15:00~
【一言感想】
J-TRAD Ensemble MAHOROBAの演奏会を聴きに行く予定にしています。公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、演奏会の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
昔はコンサートゴアーとして鼻息荒く1日に2~3の演奏会を梯子することも珍しくありませんでしたが、昨日に続く連日の演奏会が骨身に染みる年齢になってしまいました。あまり無理はできません。さて、三味線演奏家の本條秀太郎さんが指導する若手演奏家の邦楽アンサンブル「MAHOROBA」は「アンサンブルの中での『洗練された音』の追求をモットー」として「日本の民族音楽としての『いま』の在り方を求めて現代音楽と伝統音楽の双方をレパートリーとし、時代に挑む音世界を展開する」ことを標榜していますが、伝統に根差しながらもそれに囚われることなく邦楽アンサンブルの表現可能性を意欲的に探求している活動が注目を集めています。少し演目数が多いので、各演目についてごく簡単に感想を残しておきたいと思います。
 
①雪火垂
新潟県の民謡を組曲にしたそうですが、パンフレットには楽曲解説などがなかったので、作曲意図を離れて個人的な妄想を膨らませると、「雪火垂」というタイトルから舞い散る粉雪が蛍の光のようにあちらこちらで儚く消え入る風情をイメージさせますが、冒頭、小鼓が強弱を叩き分けていたのは、その風情を描写したものでしょうか。琴、三味線、尺八が叙情的な旋律を織り上げながら風情ある景色を紡いで行く優美な小品に感じられました。
 
②連作交響詩「我が祖国」よりVLTAVA(邦楽編曲版)
尺八と箏が漣に煌めくモルダウ川の雄大な流れを描写的に奏でるなか、これに胡弓の叙情的な音色が加わって、邦楽編曲版ならではの独特の風情を生んでいました。この演奏会では演奏家によるMCがあり、本條秀慈郎さんの飾らない人柄が笑いを誘っていましたが、この曲の編曲を担当された中村匡寿さん(1986年~)はスメタナがロマンチックなハーモニーを書き込んでいて邦楽器とは決して相性が良いとは言えない点に苦労したと仰られていましたが、確かに、モルダウのように西洋絵画を象徴する面描は撥弦楽器や打楽器が主流の邦楽器には不向きかもしれず、同じく中村さんが編曲を担当された終曲のピアノメディア(リズムを主体とするミニマル音楽)のような日本絵画を象徴する点描や線描と比べると相性の違いがはっきりと感じられたという意味で大変に興味深く面白い芸術体験となりました。
 
③俚奏楽 花の風雅
今日のブログラムの前半は、第一曲の「雪火垂」で生まれた雫が第二曲の「モルダウ」で川になり、それが第四曲「春かもしれない海」、第五曲「春の海」で海に注がれるというコンセプトになっているそうです。個人的な妄想を膨らませて第三曲「俚奏楽 花の風雅」が挿入されている意義を読み解くとすれば、「俚奏楽」とは先述の本條秀太郎さんが日本音楽の新しい三味線音楽の一種(三味線音楽の源流である民謡曲が廃れ掛けている現状を憂い、その民謡曲に現代的な解釈と創作を加えて再生し、次の世代に承継して行く活動)として創始したものですが、ひと雫の志から芽生えた本條流という「流れ」がやがて大河になり大海へと開かれて行くことを祈念したプログラム構成になっているのではないかと感じました。第二曲と続けて演奏されたことで、邦楽器が持つ本来的な響きや風趣のようなものがより明瞭に感じられ、乙で吹かれる尺八の調べに日本的な叙情を鮮明に感じる面白さがありました。
 
④春かもしれない海(三味線、尺八、邦楽囃子編曲版)
宮城道雄さんが鞆の浦の海をイメージして作曲した筝曲「春の海」は本来は筝と尺八で演奏される曲ですが、これを三味線、尺八と邦楽囃子で演奏するためにアレンジが加えられた曲で、ユーモラスなタイトルが付けられていますが、基本的には、原曲に忠実な編曲になっており三味線曲「春の海」と言った風情があります。三味線の魅力を感じさせる逸品で、本当はこの曲の演奏を収録した動画をリンクできれば良いのですが、その代わりに映画「座頭市」で松村和子さんがじょんがら節を歌う場面をリンクしておきます。座頭市(盲人)の音に対する鋭敏な感性を印象的に描いている名シーンですが、松村さんの隠れなき名唱と相俟って現代人にも邦楽の魅力が十分に伝わるものではないかと思いますので、もし三味線音楽もいいなと感じられた方がいれば、是非、MAHOROBAの次回公演に足をお運び下さい。
 
⑤春の海
ヴラヴィー!!本日の白眉でした。筝曲「春の海」は三味線曲「春かもしれない海」のほかにもフランス人ヴァイオリニストのルネ・シュメーさんが尺八パートをヴァイオリン用に編曲して宮城道雄さんと共演した音盤が残されているなど、様々にアレンジされています。この曲は浦部雪さん(1991年~)が編曲されていますが、一応、編曲ということにはなっていますが、昨日のJ.アダムズさんの「アブソリュート・ジェスト」と同様に、筝曲「春の海」をフィーチャーしながらも全く新しい作品を創作したと言った方が良いような独創性を備えています。非常に着想が豊かで、異界の海に連れていかれたような面白い芸術体験になり興奮を禁じ得ませんでした。冒頭は冬から春にかけて表情を変えて行く海の様子が描かれたものでしょうか、尺八の厳しい息遣いや筝の陰影のある調べは冬の海をイメージさせるものでしたが、やがて春の海が奏でられると麗らかな春の海の景色が広がり、さながら邦楽囃子の鈴の音は春祭りの神事舞「三番叟」の鈴の音を連想させ、春を寿ぐ昔風情が生き生きと蘇ってくるようであり耳慣れた春の海が新鮮に感じられました。やがて調性感が曖昧になり音楽が浮遊し始めると、三味線のスリ(グリッサンド)や筝の特殊奏法(奏法名が分かりませんが、左手で筝の弦を撫でてピアノの内部奏法のような金属音を生む特殊奏法やプリペアド箏でしょうか非整数次倍音を生む特殊奏法など)によって異界の海に景色が一変し、まるで能楽囃子を彷彿とするように、尺八が能管の甲高い響きを奏で、三味線が小鼓の軽快なリズムで囃子立て、気魄を込めた掛け声を挙げてリズムを詰めながら急の舞(というより狂い舞)のような快速調の音楽が展開されましたが、再び、音楽が弛緩して諸国一見の僧が夢から覚めるように春の海が眼前に広がるという趣向に感じられ、複式夢幻能ならぬ複式夢幻音楽とでも言うべきハイブリッドな世界観を楽しむことができました。
 
⑥Tong Poo(邦楽編曲版)
この曲の編曲を担当した福島諭さん(1977年~)は、生前、坂本龍一さんと親交があったそうですが、この曲は坂本さん(YMO)の代表作でテクノポップのアップテンポな曲ですが、2024年5月10日に全国公開になる坂本龍一さんの最後のコンサートの模様を収録した映画「Ryuichi Sakamoto | Opus」ではスローテンポで演奏されているそうで、坂本さんが存命であればスローテンポの邦楽曲に編曲されたに違いないという想いからその曲調で編曲したそうです。この曲は坂本さんが中国音楽を参照しながら作曲したものと言われていますが、胡弓の哀愁漂う音色によってテクノポップの乾いた曲調から中国音楽を想起させる詩情豊かな曲調へと生まれ変わり、坂本さんがどのように中国音楽から着想を得て、それをどのようにテクノポップとして発展させていたのかを逆引きで追体験できるような面白い作品でした。
 
⑦Kagura ParaphraseⅡ(世界初演)
長野県出身の松本真結子さん(1994年~)は、地元の戸隠神社に伝わる太々神楽「巫女の舞」の陽音階と陰音階が織り成す独特の情緒に魅了され、その旋律をフィーチャーして作曲したそうです。巫女は、古事記「天の岩戸」で天照大神を慰めるために天の岩戸の前で舞った戸隠神社火之御子社の御祭神「天鈿女命」(天宇受売命)に由来し、宮廷や神社に仕えて神楽を歌い舞う女性(童女)のことですが、冒頭で筝曲家・木村麻耶さんが吉備楽の舞に伝わる歌詞を引用した唄を巫女よろしく清澄な声で祈り歌い、その後、邦楽囃子が神楽太鼓のリズムで祭り風情を彩るなか、その旋律をモチーフとして筝、三味線及び尺八が密度高く合奏する躍動感のある演奏が聴きどころになっていました。再び、木村さんが神を鎮めるように清澄な声で祈り歌って静かに終曲を迎えましたが、現代は不確実性の世相を背景として祈りの時代とも言われており、その時代性を映し出しているような面白い作品に感じられました。
 
⑧ピアノメディア(邦楽編曲版)
ピアノメディアは一柳慧さんがミニマル音楽を採り入れた曲として知られ、上記のJ.アダムズさんのポスト・ミニマル音楽に比べると、より厳格な書法によってモダニズム的な響きがするメカニカルな曲調ですが、同じ音型を繰り返す上声部(右手のパート)と徐々に変化する音型を繰り返す低声部(左手のパート)のズレが生む位相差が現代人の耳には心地よく感じられます。中村匡寿さん(1986年~)の編曲では、筝(二十五弦)が右手のパートを繰り返しながら、三味線と筝(十七弦)がスタッカートで右手のパートを奏でるなか、尺八が乙に吹く抒情的な節回しを添えていましたが、モダニズムの冷徹なマーシーンにポスト・ミニマルの人肌の温もりのようなものを添える現代的な味付けになっているように感じられ、単に邦楽編曲というだけではなく現代にアップデートされたピアノメディアを楽しむことができました。邦楽囃子が音楽を引き締めながら力強いクライマックスを築く熱演を堪能できました。上記のVLTAVAでも触れましたが、やはり邦楽器はリズミカルな曲調と相性が良いことを実感しました。
 
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.32(完)
シリーズ「現代を聴く」は、2022年6月から1年半に亘って1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介してきましたが、この1年半で現代音楽を採り上げる演奏会が相当に増えてきており、演奏の感想とは別にコーナーを設ける意義が希薄になってきましたので、今後は演奏の感想(本文+囲み記事)でご紹介していきたいと思います。
 
▼ベン・オズボーンの「Between」(2022年)
イギリス人現代作曲家のベン・オズボーン(1994年~)さんは、作曲家、ソングライター、音響デザイナーとしてドイツを拠点に活動されていますが、イギリスの伝統的なフォークソングにインスパイアされ、エレクトロニカ、クラシック音楽やポップスなどを採り入れてメッセージ性を帯びた独特な感興を想起させる音響空間を創出する作品が魅力的に感じられます。現代音楽プロジェクト「かぐや」では作詞を担当されていますが、日本を含む諸外国の文学にも精通されており、オペラなどジョセフィーヌ・スティーヴンソンさんとのコラボレーション作品も数多く創作されています。この曲は3つの歌と2つのインストゥルメンタルから構成されるアルバム「Studies」に収録されていますが、前回のブログ記事で日本語の漢字「間」には「あわい」(AとBを含む間)と「あいだ」(AとBを含まない間)の2種類の意味があり英語の「Between」は後者の意味であることに触れたとおり、AにもBにも着地せずに心の中を揺蕩っているような浮遊感のある曲調に感じられ、非常に思索的で音楽性の高い作品はまるで沈香のように心を整えてくれる不思議な魅力に溢れています。この曲に挿入されている焚火の音が温もりを感じさせる効果を生んでおり、耳で聴く音楽を越えて体で感じる音楽と言えるかもしれません。
 
▼現音作曲新人賞本選会
今回は2023年12月21日に開催された現音作曲新人賞本選会の入賞者をご紹介します。おめでとうございます。なお、本選会を視聴して感想を書きたいと思っていましたが、時節柄、諸事多忙のために視聴することが叶わず、また、入賞者には若い方が多いことから未だYou Tubeなどで作品動画も公開されていないようなので、入賞者の名前のみをご紹介しておます。今後、機会を見付けて作品の演奏も聴いてみたいと思っています。
 
【優 勝】魯戴維(LU Daiwei) 「エル・タンゴ」
     <Cl>菊地秀夫
     <Sax>坂口大介
【聴衆賞】渡邊陸 「歯車」
     <Vn>甲斐史子
     <Pf>大須賀かおり
【入 選】川口孟 「刻刻 」
     <Cl>菊地秀夫
     <Sax>坂口大介
     相澤圭吾 「2本角アテンション」
     <Cl>菊地秀夫
     <Sax>坂口大介
     渡邊陸 「歯車」
     <Vn>甲斐史子
     <Pf>大須賀かおり

新年の挨拶①:オペラ「デッドマン・ウォーキング」とタンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのアリア」と淡座「音曲夢見噺」と共生(空間)が誘う共進化(時間)< STOP WAR IN UKRAINE >

 
▼共生(空間)が誘う共進化(時間)(ブログの枕単編)
今回も公演数が多くなりましたので、ブログの枕は単編にします。少し気が早いですが、例年のとおり今回と次回の2回に分けて新年の挨拶を投稿したいと思います。さて、多産で有名な兎は子孫繁栄の縁起物と考えられていますが、その兎(卯)を干支とする2023年は少子化対策、疫病、地域紛争、自然災害や人的災害(事故、事件を含む)など「命」について色々と考えさせられる年でした。2023年1月に岸田首相が年頭記者会見で「異次元の少子化対策」に取り組むという政府の方針を発表し、今年6月に「こども未来戦略方針」が公表されましたが、その財源論を含む実効性ある政策などが議論されています。そんななか今年6月に産学主導で設置された令和臨調(1960年代には高度経済成長を牽引する政官主導の第一次臨調が設置され、1980年代には規制緩和による民間活力を牽引する官産学主導の第二次臨調が設置されましたが、失われた30年を経て2020年代には時代の変革期に対応するための国家デザインを見直すために産学主導の令和臨調が設置されています。)が「人口減少危機を直視せよ」という提言を公表し、「もはや少子化対策だけでは日本の急激な人口減少を食い止めきれない」という危機意識から「日本社会をますます開かれたものとし、外国出身者を含めて、世界の多様な地域から集まった人々が力を合わせ、互いに学び合うことができる環境を整備したい」と少子化対策から一歩踏み込んだ人口減少対策を提言して注目を集めています。この点、日本は、2018年時点の外国人流入者数(有効なビザを保有し、90日以上滞在予定の外国人の数)が約52万人に上りドイツ、アメリカ、スペインに次ぐ世界第4位の移民大国(「OECD国際移民データベースと移民の市場の成果」より)になっており、多文化共生の推進が活発になっています。世界各国で移民政策には賛否両論あり慎重な議論を要する課題も多いですが、この節目に生物の生存戦略の観点から「共生」(空間)と「共進化」(時間)について簡単に触れてみたいと思います。ご案内のとおり、2021年にG7で2030年までに陸と海の30%以上を健全な生態系として保全し、生物多様性の損失を食い止めて再生する(ネイチャーポジティブ)という目標(30by30:サーティ・バイ・サーティ)が掲げられましたが、20世紀まで主流であった西洋思想に見られる自然と人間を非連続的に捉える二元論的な世界観(キリスト教や啓蒙主義を思想的な背景とする中世のルネサンス(文芸復興)や近代のヒューマニズムに通底する人間中心主義的な価値観、中心のある世界観を前提とする階層思考)への痛烈な反省から、21世紀からは東洋思想を採り入れた自然と人間を連続的に捉える一元論的な世界観(SDGsに体現されている現代のルネサンス(自然復興)や自然と人間の対称性の回復を志向する自然尊重主義的な価値観、中心のない世界観を前提とするネットワーク思考)へ大きく時代の舵が切られ始めています。
 
▼生命の歴史と共生の諸相
年代 イヴェント
約46億年前 地球の誕生
約44億年前 海の誕生
【海の安定】深海の熱水噴出孔で無機物から有機物が合成
約38億年前 生命(原核生物)の誕生
①大腸菌等の祖先:バクテリア(真正細菌)
②動植物の祖先:アーキア(古細菌)
約27億年前 シアノバクテリア(光合成)の誕生
原核生物(バクテリア)の進化
①ミトコンドリアの誕生:酸素で糖分解
②葉緑体の誕生:光合成+酸素で糖分解
【酸素ホロコースト】酸素濃度の上昇による生物の大量絶滅
【スノーボールアース(1回目)】生存戦略:細胞内共生
                     有性生殖による多様化
約22億年前 真核生物(アーキア+バクテリア)の誕生
①動物の祖先:アーキア+ミトコンドリア
②植物の祖先:アーキア+ミトコンドリア+葉緑体
約12億年前 有性生殖と死の誕生
【スノーボールアース(2回目)】生存戦略:細胞外共生
約7億年前 多細胞生物の誕生
【スノーボールアース(3回目)】生存戦略:生物進化による多様化
【カンブリア大爆発】生存戦略:ニッチ・シフト(棲み分け)
【マントル対流】陸の出現、土(植物・岩石の滞積)の誕生
約5億年前 植物(コケ)の進出
無脊椎動物(昆虫)の進出
脊椎動物(魚)の誕生
【ビックファイブ(1回目)】火山噴火による気候変動:約85%の生物絶滅
約4億年前 脊椎動物(両生類)の進出
植物(シダ)の誕生(湿地)
【ビックファイブ(2回目)】原因不明:約70%の生物絶滅
約3億年前 無脊椎動物(昆虫)の進出
裸子植物の誕生(内地)
【ビックファイブ(3回目)】火山噴火による気候変動:約95%の生物絶滅
【ビックファイブ(4回目)】火山噴火による気候変動:約80%の生物絶滅
約2億年前 脊椎動物(鳥)の進出
被子植物の誕生(花の誕生)
【ビックファイブ(5回目)】隕石衝突による気候変動:約70%の生物絶滅
約20万年前 ホモサピエンスの誕生
【大地帯溝(森林減少等)】生存戦略:生活環境変化に伴う生物進化
500万年前 直立二足歩行の開始
※上表は大まかな目安であり学説によって異なる見解があります。
 
さて、生命の歴史を俯瞰するにあたり、生命の源を育んだ地球の誕生まで遡る必要があります。約46億年前に誕生した地球には海がありませんでしたが、太陽から地球までの距離の約2.7倍より遠い宇宙(スノーライン)には氷が存在していることが分かっていますので(例えば、木星や天王星など)、スノーラインの外側から飛来した隕石や彗星などによって地球に運ばれてきた氷が地球の高い地表温度で水蒸気になり火山ガスなどの酸性成分と混合され、その後、地球の地表温度の低下に伴って酸性雨として地表面に降り注ぎ、地表面の鉱物などを溶かしながら地球上の殆どの元素を含んだ海(有機物を生成するための元素のプール)が誕生したと考えられています。この点、1953年にS.ミラーが地球上で無機物から有機物を生成できることを科学的に実証し、水素、二酸化炭素及び鉱物などが豊富にあった深海の熱水噴出孔で無機物から簡単な有機物(低分子:アミノ酸など)が合成され、そこから複雑な有機物(高分子:タンパク質など)が合成される化学進化(RNAレベルで無機物から複雑な有機物へ進化)を経て生命の源が誕生し、その後、細胞(生物の3要件:①自己複製、②エネルギー代謝、③細胞構造)が誕生して生物進化(DNAレベルで有機物から多様な生物へ進化)が始まったと考えられています。生物の設計図であるDNAには空き容量が多く、その空き容量を有効に使った「トランスポゾン」(神によるゲノム編集)により生物進化が繰り返されてきましたが、過去のブログ記事で触れたとおり、現在では「クリスパー・キャス9」(人間によるゲノム編集)という技術が開発され、デザイナー・ベイビーなどクリスパー革命が人類に与える影響を踏まえ、その取扱いについて慎重に議論されています(映画「GATTACA」)。海が安定した約38億年前に誕生した原核生物「バクテリア」(大腸菌等の祖先)及び「アーキア」(動植物の祖先)は硫化水素を分解して得られる水素をエネルギーにしていましたが、その後、二酸化炭素及び水を太陽光で分解して得られるをエネルギーにし、その際に生成される酸素を輩出する光合成を行う原核生物「シアノバクテリア」が誕生して地球上の酸素濃度が上昇しました。当時の原核生物にとって物質を酸化して錆びさせる酸素は猛毒であったので(現在でも活性酸素は老化の原因)、地球上の原核生物は大量絶滅の危機に瀕しました(酸素ホロコースト)。しかし、この地球環境の変化に適応して猛毒の酸素を有効に活用できるように進化したニュータイプの原核生物として、シアノバクテリアから接取した糖を酸素で分解してエネルギーにする原核生物「ミトコンドリア」(動物の祖先)やシアノバクテリアから進化して昼間は光合成により糖と酸素を生成し、夜間は酸素で糖を分解してエネルギーを得る原核生物「葉緑体」(植物の祖先)が誕生しました。このような状況のなか約22億年前にシアノバクテリアによる大量の酸素生成に伴う二酸化炭素の減少(地球温暖化と逆の現象)により1回目のスノーボールアース(大規模な氷河期による全球凍結)になりますが、原核生物の中には、迅速性を重視する生存戦略をとるもの(迅速に変異して環境変化に適応できるように数少ないDNAしか保有せず、その少ないDNAを迅速にコピーして増殖するためにDNAを格納するための細胞核を持たない生物)と、多様性を重視する生存戦略をとるもの(自らの細胞内に他の原核生物を取り込んで(細胞内共生)、それぞれの独自性を活かしながら相互協力して生存可能性を高めるために各々のDNAを格納するための細胞核を持つ生物(真核生物))が誕生し、アキーアの中には、ミトコンドリアを取り込んだ動物の祖先(植物が生成する有機物を分解してエネルギーを得るために植物を摂取する草食動物及びその草食動物を摂取する肉食動物は植物又は草食動物を摂取し易いように「動く」ことを選択し、外から有機物を吸収し易いように細胞壁を持たないもの)と、ミトコンドリアと葉緑素を取り込んだ植物の祖先(自ら有機物を生成してエネルギーを得ることができるので無駄なエネルギーを使わないように「動かない」ことを選択し、自ら生成した有機物を保管するために細胞壁を持つもの)が誕生しました。さらに、約12億年前に多様性を重視する生存戦略が深化され、それまでの「無声生殖」(他の個体のDNAと交配せずに自らのDNAのみを自己複製:量の戦略)ではなく「有性生殖」(他の個体のDNAと交配して新しいDNAを生成することで多様性を創出:質の戦略)が誕生し、これと同時に他の個体のDNAを交配することで生じる可能性があるDNAのバグの拡散を抑制してDNAの劣化を防ぐために全個体のDNAを短期間でデリートする仕組みとして「」が誕生して種の保存を図る生存戦略がとられました(個体と一緒にDNAもデリートされる死のプログラムを実装)。キャプテン・ハーロックの名言「鉄郎。たとえ父と志は違っても、それを乗り越えて若者が未来を作るのだ。親から子へ。子からまたその子へ血は流れ、永遠に続いていく。それが本当の永遠の命だと、俺は信じる。」は人生哲学だけではなく生物学的にも正しいものであり、文化芸術が若者のロマンと知性を育んでいた古き良き時代の風情が感じられます。様々な環境変化に適応するためには自らのDNAだけではなく他の個体のDNAと交配することで自らとは異なる性質を持った個体(親を乗り越える子)を増やす方が有利であり、そのような仕組みを有効に機能させるためにオスとメスが半数づつ誕生するようにブログラムされています。因みに、無性生殖する原核生物は細胞の分裂回数が有限であることから個体レベルでは「死」がありますが、新しく増殖した細胞の分裂回数はリセットされますので自らのDNAをそのまま複製したクローンDNAはデリートされることはなく、その限りでDNAレベルでは「死」はありません。
 
▼共生の有無と構造の違い
分類 細胞核
(DNA)
細胞壁
(有機物)
原核生物
(共生なし)
なし なし
真核生物
(共生あり)
動物
(栄養摂取)
あり なし
植物
(栄養生成)
あり あり
※真核生物では細胞内で他の原核生物と共生するために、それぞれの独自性が損なわれないように細胞核が設けられています。また、他の生物から栄養素を摂取する動物(従属栄養生物)は栄養素を取り込み易いように細胞壁がありませんが、自ら栄養素を生成する植物(独立栄養生物)は栄養素を保管するための細胞壁があります。
 
▼多様性を重視する生存戦略
分類 原核生物 真核生物
単細胞生物
細菌
(大腸菌等)
繊毛虫
(ゾウリムシ等)
多細胞生物
動物
直物
菌類
(キノコ等)
※人間同士のDNAは約99.9%が共通しており、残り約0.1%で各個人の外見、能力及びその他のパーソナリティー等が作られています。人間とチンパンジーでは約90%、猫では約70%、ハエでは約60%、バナナでは約50%のDNAが共通しており、生物の設計図は環境変化で消失してしまわないように多様な態様でバックアップされています。
※ウィルスは生物的に振る舞いますが、生物の三要件のうち②エネルギー代謝及び③細胞構造がありませんので、現在の生物学上は生物とは考えられていません。
 
約7億年前に大規模な地殻変動(地球の表面に近い地殻やマントルが大きく回転する「真の極移動」)が発生したことにより2回目のスノーボールアース(大規模な氷河期による全球凍結)になりますが、再び、真核生物は多様性を重視する生存戦略をとり、それまでの単細胞生物から複数の細胞が集まって1つの個体を形成する多細胞生物(複数の細胞が集まること(群体)で、防御力を高めると共に各細胞毎に役割分担することにより高機能化を図るもの)が誕生し、旧口生物(口から肛門が発達し、体の外側に固い外骨格を持つ無脊椎動物)や新口生物(肛門から口が発達し、体の内側に固い内骨格を持つ脊椎動物)などに分化しました。さらに、約5億5千年前に3回目のスノーボールアース(大規模な氷河期による全球凍結)になりますが、そのような激しい環境変化の中で多細胞生物の生物進化が促されて多種多様な生物が誕生し(カンブリア大爆発)、それによって激しい生存競争(弱肉強食)が生まれたことが更なる多細胞生物の生物進化を促す結果になり、例えば、外界の情報を効率的に収集するために視覚を発達させた生物や速く泳ぐことができるように内骨格を発達させた生物などが誕生しました。その後、約5億年前にマントル対流により巨大な陸が出現すると、大気中の酸素からオゾン層が生成されて紫外線がシャットアウトされたことなども手伝って、植物(緑藻類:植物が人間の視覚には緑色に見えるのは、光合成に必要な人間の視覚には青色や赤色に見える光を吸収し、光合成に必要ない人間の視覚には緑色に見える光を反射しているため)が陸に進出しますが、陸では水分の蒸発を防ぐための固い表皮が発達して外から水分を吸収し難くなったので地中に根を張って水分を吸収するように進化しました。当時、陸には岩石しかありませんでしたが、枯死した植物が分解及び蓄積し、これに岩石などが混合して有機物やそれを生成するための元素を豊富に含む土(生物を育む有機物のプラント)が誕生しました。その後、約4億年前に昆虫(無脊椎動物)、両生類(脊椎動物)の順で陸へ進出しましたが、カンブリア大爆発により激しい生存競争(弱肉強食)が生まれたことで「ニッチ・シフト」(棲み分け)という生存戦略(自然界では1つのニッチにはナンバー1の生物しか生存することができず、ナンバー2以下の生物は共存することができない厳しい現実がありますので、ナンバー2以下の生物は別のニッチに逃げるという生存戦略のほか、自分よりも上位の生物と活動時間や餌をズラすという生存戦略)がとられました。これによって弱い魚は天敵から逃げるために体内の塩分濃度を一定に保つための肝臓やミネラル分を蓄積するための骨を発達させながら硬骨魚に進化して海水から淡水へ進出し、やがてヒレを足のように発達させながら両生類(人類の祖先)に進化して陸へ進出するニッチ・シフトを果たしますが、これにより先に陸に進出していた昆虫は両生類から逃げるために約3億年前に足を羽に進化させて空へ進出するニッチ・シフトを果たしました。また、火山活動により酸素濃度が低下したことで気のうを発達させた小型の恐竜は大型の恐竜から逃げるために約2億5000年前に足を羽に進化させて鳥に進化して空へ進出するニッチ・シフトを果たしています。その後、約6500万年前に隕石衝突に伴う気候変動により恐竜が絶滅すると、それまで夜行性であった哺乳類は昼行性に復帰するニッチ・シフトを果たし、それに応じて視覚を発達させるなどの生物進化を遂げました。このように火山噴火や隕石衝突などを原因とする気候変動に起因する5度の大量絶滅(ビックファイブ)を経て、ニッチ・シフトをリトライしながら環境変化に適応するための高度な生物進化が遂げられました。一方、植物は、水辺から内陸へ進出するのに伴って、コケやシダ植物(胞子で生成された精子が水中を泳いで卵子に到達することで受精しますが、これは生物が海で誕生した名残りと言われており人間の受精も同様)から裸子植物(乾燥に耐えられるように固い表皮で覆われた種子を発明し、雨季を迎えて十分な水が得られるようになるまでは発芽を待つことができるようになったことで繁殖)や被子植物(迅速に環境変化に適応できるように成長に時間がかかる木ではなく成長に時間がかからない草として繁殖)などへ多様化し、これに応じて植物を摂取する動物も多様化しました。約2億年前に昆虫を呼び寄せて受粉されるためにアイコンとしての「花」が誕生し、被子植物は昆虫に蜜を与える代わりに花粉を運んで貰う共生関係や種子植物は動物や鳥に果実(種子入り)を与える代りに種子を運んで貰う共生関係などが築かれました。種子が成熟する前に果実を食べられないように種子が未熟な果実は葉の色と同じ色調(人間の視覚には緑色)で目立たなくしたうえで苦味を含んで動物や鳥が食べ難くし、種子が成長した果実は葉の色と異なる色調(人間の視覚には赤色など)で目立つようにしたと考えられています。このように生物同士で争うよりも助け合う方が生存可能性が高まることから、自分の利益を優先するよりも相手の利益になるように「食べられる」という生存戦略をとることで共生関係を築くなど、生物の共生は生物のレベルから生態系のレベルへステップアップが図られました。この点、生物の共生には①生物のレベル(生物学)、②生態系のレベル(環境学)及び③人間関係のレベル(社会学)の諸相がありますが、最近では、アートによって共生社会(人間関係)を実現する「共生アート」というジャンルが注目を集めており、2023年から東京藝大で新しい取組みも開始されています。また、人間の歴史はニッチを拡大・独占するために土地を奪い合う歴史(2度の世界大戦、ウクライナ紛争、パレスチナ紛争を含む。)であった反省をまえて、最近では、多文化主義に基づく多文化共生の取組みも活発になっています。さらに、上述のとおり人間界のニッチの拡大と独占の問題だけではなく、人間中心主義的な価値観が高じて自然界のニッチの拡大と独占の問題にも波及しており、自然界と人間界のニッチ・シフトのバランスを回復する必要性(30by30)も強く認識されるようになっています。過去のブログ記事でも触れたとおり、日本には父性原理(区別、支配)ではなく母性原理(包含、調和)が息衝く包容力のある社会を築いてきた伝統(「混ぜる」文化ではなく「和える」文化)もありますので、その良き伝統に共生の知恵を借りるという姿勢(温故知新)も必要かもしれません。
 
 
▼オペラ「デットマン・ウォーキング」(全二幕英語上演)
【題名】オペラ「デットマン・ウォーキング」(MET初演)
【原作】回想録「デットマンウォーキング」(ヘレン・プレジャン著)
【作曲】ジェイク・ヘギー
【台本】テレンス・マクナリー
【演出】イヴォ・ヴァン・ホーヴェ
【照明・美術】ヤン・ヴァースウェイフェルト
【衣装】アン・デュイ
【プロダクション・デザイン】クリストファー・アッシュ
【サウンド・デザイン】トム・ギボンズ
【出演】<Mez>ジョイス・ディドナート(ヘレン・プレジャン役)
    <Bass-Bar>ライアン・マッキニー(ジョゼフ・デ・ロシェ役)
    <Mez>スーザン・グラハム(パトリック・デ・ロシェ夫人役)
    <Sop>ラトニア・ムーア(修道女・ローズ役)
    <Bar>ロッド・ギルフリー(被害女性の父親役)  ほか
【指揮】ヤニック・ネゼ=セガン
【演奏】メトロポリタン劇場管弦楽団
【合唱】ニューヨーク市児童合唱団
【感想】ネタバレ注意!
メトロポリタン歌劇場の新シーズンが始まり、その第1作目であるアメリカ人現代作曲家ジェイク・ヘギーさんのオペラ「デットマン・ウォーキング」(MET初演)をMETライブニューイングで観てきましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。このオペラは、俳優ティム・ロビンスさんが監督及び脚本を手掛け、女優スーザン・サランドンさんがアカデミー主演女優賞を受賞した映画「デットマン・ウォーキング」(1995年)と同じく修道女ヘレン・プレジャンさんの回想録「デットマン・ウォーキング」を原作にしていますが、死刑囚ロシェが修道女ヘレンとの交流を通してどのように自らの犯罪と向き合いながら改心して行くのかという人間ドラマをヘレンの心の揺らぎと共に丹念に描いており、被害者の両親達、死刑囚とその家族及びヘレン(宗教)の各視点から死刑制度の存在意義を問い掛けるという意味で原作が持つ深遠なテーマ性を真正面から照射する骨太な作りになっているように感じます。このオペラは2000年にサンフランシスコ・オペラで初演されから各地で75回も再演されており、21世紀に最も上演されている現代オペラと言われていますが、現代人にも共感できる現代オペラの上演に心を砕きながらMET改革を主導するMET総裁P.ゲルブさんやMET音楽監督Y.ネゼ=セガンさんのような逸材が日本にも現れてくれないものかと羨望の眼差しを注いでいます。アメリカでは新しいものを柔軟に受容できる豊かな感性や幅広い教養を持った客層が分厚く、それを背景として新作オペラの上演も盛んな本当に羨むべき状況があります。これに比べると、日本はネガティブな状況にありますが、それでも日本の若手音楽家の中から有能かつチャレンジングな人達が現れ始めていますので(以下のシリーズ「現代を聴く」でも紹介しています。)、来年は更にアンテナを高くして、そのような人達の活動とその作品を応援して行きたいと思っています(2024年の豊富)。
 
▼日本のネガティブな状況
以前、日本経済新聞が「新国立劇場開場20周年の課題」と題する興味深い記事を掲載していましたが、新しいものを受容できない日本の観客の資質を背景として、現在の新国にもそのまま当て嵌まる状況だと思いますので、ご参考までに抜粋引用しておきます(太字添加)。
 
「海外の人気歌手を起用したスタンダード作品の上演が目につく。開場当初盛んに上演された日本人作曲家のオペラや斬新な演出による新制作が集客の観点から敬遠されたためだ。欧州のオペラ事情に詳しい音楽評論家の江藤光紀は「日本の国立劇場として、人材面でも作品面でも世界に通じる独自性がもっと必要だ」と指摘する。」(日本経済新聞2017年11月25日記事より抜粋引用)
 
未だこの現代オペラを鑑賞したことがない人が殆どだと思いますので筋書きを追って感想を残しておきたいと思います。先ず、第一幕の序曲では、この物語の端緒となるロシェらが被害者(高校生の男女)を殺害する犯行現場をフラッシュバックする映像が大スクリーンに投影されましたが、ポストクラシカ風の音楽が映像にマッチして現代の映像世代へ直感的に訴え掛けるリアリティのある演出になっており一気に物語世界へと誘われました。このオペラは「死刑制度」の是非に焦点が当てられているというよりも、それぞれの登場人物の「人生の旅路」に焦点が当てられているように感じられ、その「人生の旅路」に擬え、まるで運命へと誘われるように続く「道」(序曲では被害者及びその遺族、ロシェ及びその家族の人生の岐路となる犯行現場へと誘う道、第2場ではヘレンの人生の岐路となるアンゴラ刑務所へと誘う道)が印象的に描かれていました。第一場ではヘレンと修道女ローズがニューオーリンズのミッションスクールで子供達に賛美歌を教えている場面になり、ここで歌われている賛美歌「He will gather us around」(神は我らを手繰り寄せる)がヘレンのライトモチーフとして使用され、ヘレンの使命がロシェの魂の救済に向けられていることが印象付けられていました。第二場ではヘレンが周囲の反対を押し切ってアンゴラ刑務所へ車で向かう場面になり、ヘレンはロシェの魂を救済することができるのか大きな不安を抱えて逡巡します。アンゴラ刑務所へと誘う道の映像が大スクリーンに投影され、何かに急き立てられるような音楽が添えられ、大きな運命に翻弄されていくヘレンの人生を予兆させる劇的な効果を生んでいました。第3場から第5場ではアンゴラ刑務所に着いたヘレンを出迎えたグレンヴィル神父がロシェの魂の救済は不可能であると告げて低俗な冗談を言う大俗物として描かれ、それを印象付ける軽薄な音楽が添えられており、ロシェの魂の救済が自らの使命であると信じるヘレンの高潔な人物像との対比が際立っていました。アンゴラ刑務所のベントン所長は死刑に嫌気が差しながらもロシェの死刑は間違いないとして死刑執行までの精神的なサポートをヘレンに依頼し、ヘレンは死刑に反対の立場を表明しながらもロシェの精神的なサポートを引き受けます。ヘレンがロシェのもとに案内される途中で刑務所内の囚人達による心ない罵倒(コーラス)とヘレンの祈りの歌が対比されてロシェの魂の救済の困難さが印象付けられていましたが、ハンディーカメラを持ったスタッフが黒子として舞台上で接写した囚人達の姿を大スクリーンに投影することで刑務所内に渦巻く囚人達の憎悪がビビッとに伝わってくる迫力のある演出になっていました。歌舞伎の廻り舞台がオペラやミュージカルに採り入れられた話は有名ですが、歌舞伎の黒子とイノベーションを組み合わせた演出手法が奏功していたと思います。この点、これまでのオペラ鑑賞は舞台と客席を区分する二次元的な世界観(オフ・ステージの視点=三人称)でしたが、映画と同様に登場人物と同じ視点から眺める臨場感のある三次元的な世界観(オン・ステージの視点=二人称)を演出することで観客のミラーニューロンが活発に刺激されて共感度の高い鑑賞体験が可能になっているように感じました。第6場ではヘレンと面会したロシェが死刑への恐怖を吐露し、ヘレンは神の赦しを請うためにロシェの精神的なサポートを引き受けると言いますが、ロシェは恩赦委員会の公聴会で減刑を嘆願するようにヘレンに迫り、ヘレンとロシェの思惑の違いが鮮明に描かれていました。そして、第7場及び第8場が第一幕(及びこのオペラ)の一番の見せ場ではないかと思いますが、ロシェの母親が恩赦委員会の公聴会でロシェは日本製のべっ甲櫛をブレゼントしてくれる母親想いの優しい息子であることを訴えて減刑を嘆願しましたが、被害者女性の父親が悲痛な怒りを露わにすると、ロシェの母親はその計り知れない悲嘆に触れて心を痛め、息子が犯した罪の大きさに苛まれます。ソプラノのグラハムさんがロシェの母親の複雑な感情が入り乱れる狼狽振りとバリトンのギルフリーさんが被害者女性の父親の怒りを抑え切れない悲嘆振りを迫真をもって演じた二重唱が胸に迫りました。ヘレンはロシェの母親を擁護しますが、被害者の両親達は子供のいないヘレンに子供の幸せを神に祈る親の気持ちは分からないと迫り、ヘレンはその圧倒的な説得力の前に言葉を失って無力感に苛まれますが、被害者の両親達、ロシェの母親及びヘレンのそれぞれの思いが複雑に交錯する迫真の六重唱が白眉で、コロナ禍や紛争などで荒んでいた心に熱い血潮が滾るのを感じ、不覚ながら久しぶりに涙腺が緩んでしまいました。ヴラヴィー!!第9場ではローズが披露困憊するヘレンにニューオリンズに戻ろうと誘いますが、ヘレンはアンゴラ刑務所に残る決意をしてロシェと面会します。ヘレンは「真実はあなたを自由にする」という聖書の言葉を引用しながらロシェに真実を話して被害者の両親達の赦しを請うように諭しますが、ロシェは聖書の言葉に心を動かされながらも、未だ心を開こうとせず真実を話そうとしません。メゾソプラノのディドナートさんとバス・バリトンのマッキニーさんがヘレンとロジェの心の揺れ動きを繊細に歌い上げる二重唱も胸に迫るものがありました。ヴラヴィー!!第10場ではヘレンはミッションスクールの子供達、グレンヴィル神父やベントン所長などからロシェを救うのは諦めろと責められる幻聴を耳にして動揺しますが、丁度、そこにベントン所長が来てロシェの恩赦は却下されたことを告げ、ヘレンは被害者の両親達、ロシェ及びロシェの母親の思いに圧し潰されて気を失い、第一幕が閉幕しました。
 
▼METライブビューイングのナビゲーター
METライブビューイングのナビゲーターとして、何と!2023年にオペラ「オマール」でピューリッツァー賞音楽賞を受賞したアメリカ人現代作曲家リアノン・ギデンズさん(1977年~)が登場しました。近くオペラ「オマール」のMET初演が実現するかもしれません。アメリカなら異次元のアートライフが送れそう....(涙)
 
第2幕の第1場ではY.ネゼ=サガンさんが手兵のメトロポリタン管弦楽団を自在に操る手綱裁きで凄味を効かせた筋肉質の音楽を奏でるなか(ドラマチックな表現はメトの真骨頂!)、ロジェが死刑への不安から眠れず独房で腕立て伏せをして気を紛らわしていましたが、その一方、第2場ではヘレンが自室で犯行現場の悪夢を見てうなされ、ローズはロシェの精神的なサポートを続けるのであれば神ではなくヘレンがロシェを心から赦す気持ちになることが必要だとヘレンに助言します。メゾソプラノのディドナートさんとソプラノのムーアさんによるロシェを赦す愛(ファイリアよりもアガペーに近い愛)を体現する優しく包容力のある二重唱が聴きどころになっていました。第3場では死刑執行当日にヘレンとロシェが面会し、エルビス・プレスリーの話題で意気投合し、改めてヘレンはロシェに真実を話して赦しを求めるように進めますが、未だ完全には心を開くことができず真実を話そうとしません。第4場ではロシェとその家族が面会しますが、ロシェの母親は息子の無実を信じていると泣き崩れます。第5場ではヘレンは死刑執行に立ち会う被害者の両親達から拒絶されますが、被害者女性の父親だけは憔悴した様子で死刑執行されても悲しみが癒えることはなく、妻とも別居中であるという苦衷をヘレンに吐露します。ここで序曲の犯行現場へと誘う「道」が思い出されますが、被害者の人生を奪い、被害者の両親達の人生を破壊して、決して癒されることのない深い傷を与えてしまうことを考えると、死刑制度の是非を論じるにあたり理屈では割り切れない問題があることを痛感させられます。第6番及び第7場ではヘレンとロシェが最後の面会を行いますが、ヘレンが犯行現場を訪れたことを話すと、ロシェは犯行当日のことを思い出して取り乱し、涙ながらに真実を話して赦しを請いますが、ヘレンから神は全てを赦し、魂は救済されると抱擁されます。第8場ではベントン所長が「デットマンウォーキング」と叫ぶとロシェは処刑室へ行進し始め、ヘレンが聖書の一節を朗読しながらベンソン所長、被害者の両親達、グレンヴィル牧師らも主への祈りを厳かに歌います。その後、ロシェが死刑台に縛られると音楽がなくなって静寂に包まれ、ロシェは被害者の両親達へ真実を話して自分の死がその悲しみを少しでも和らげることを願うと伝え終わると薬剤を注射され、最後にヘレンに感謝しながら息を引き取ります。この場面ではドラマチックな音楽で死刑を虚飾に彩ることなく、ハンディーカメラを持ったスタッフが黒子として舞台上で接写する死刑執行の模様を大スクリーンに投影していましたが、そのリアルな描写が臨場感と共に観客に死刑制度の存在意義を問い掛けてきているように感じられました。最後に、ヘレンはロシェの死体に寄り添って賛美歌「神は我々を手繰り寄せる」を歌いながら静かに終演を迎えました。終演後、まるで会場を揺らすような怒号の歓声が飛び交い、MET史上に残る名舞台になったと言って過言ではなく、このような名舞台をライブで鑑賞できるアメリカの恵まれた環境を本当に羨ましく感じます。因みに、2020年に行われた日本の世論調査では、死刑容認が約80%超(主な理由:応報感情)、死刑廃止が約10%(主な理由:冤罪回避)となっており、日本では死刑制度の存続を支持する意見が優勢になっていますが、いずれの立場であるとしても軽々に正否を論じることができる問題ではなく、その問題を真正面から問い掛けてくる心に残るオペラであり、ブログの枕で触れたとおり「命」について色々と考えさせられた2023年を締め括るのに相応しい作品であったと思います。
 
 
▼タンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのアリア」(全二幕原語上演)
【題名】タンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのアリア」
【作曲】アストル・ピアソラ
【台本】オラシオ・フェレール
【出演】<Voc/Mez>小島りち子(マリア・影のマリア)
    <Voc/Bar>KaZZma(カントール・五役)
    <Voc/Bass>西村秀人(ドゥエンデ・朗読)
【演奏】<Bn>早川純
    <Vn>柴田奈穂、会田桃子
    <Va>田中景子
    <Vc>橋本歩
    <Fl>赤木りえ
    <Gt>田中庸介
    <Vib/Xyl>相川瞳
    <Pf>宮沢由美
    <Gtr>田辺和弘
    <Perc>海沼正利  ほか
【会場】座・高円寺2
【日時】2023年12月15日 18時30分開演
【料金】6600円
【感想】ネタバレ注意!
タンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのアリア」(1968年)を聴きに行く予定にしていますので、公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、演奏会の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
ヴラヴィー!!A.ピアソラのタンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのアリア」は聖書に擬えてタンゴのメタファーである(マグダラの)マリアの誕生、死及び再生を通じてブエノスアイレスを描いたオペリータで稀代の名作と名高い割に日本では上演機会が殆どないことが憾まれますが、この貴重な機会を聴き逃す訳には行かないと決意して全ての都合を踏み倒して聴きに行くことにしました。それにしてもヴォーカル陣の並々ならぬ歌唱力には痺れさせられましたが、タンゴのスペシャリストを揃えた器楽陣の好サポートも相俟って、その薫り立つ極上のパトス、ペーソス&エロスにハートを激しく揺さぶられ、萌え焦げました。今日はヴァイオリン奏者の柴田さん、タンゴ歌手の KaZZma(カズマ)さん、タンゴ研究家の西村さんらが率いるアルゼンチンタンゴ集団「タンゴケリード」にとって勝利の日になったと確信します。一時期、A.ピアソラは現代作曲家を目指していた話は有名ですが、そのときに師事していたフランス人現代作曲家のN.ブーランジェからA.ピアソラの音楽的な原点はタンゴにあると諭されたことを契機として(実にフランスらしいエピソード)、ダンス音楽としてのタンゴの伝統から逸脱し、クラシック音楽の様式やジャズのエッセンスなどを採り入れながら前衛的な作風によるタンゴ革命に目覚め、アルゼンチンの保守層から「踊れないタンゴ」などの罵倒を受けながらも、その作品価値が世間から評価されるようになった時期にこのオペリータが創作されました。このオペリータは、A.ピアソラがボサノヴァの創始者である歌手兼ギターリストのG.ジョアン及び作曲家のA.ジョビンと共に活動していた作詞家のV.モライスの舞台にインスパイアされ、詩人のH.フェレールと共にブエノスアイレスを題材にした朗読劇スタイルの新しい作品の創作を模索するなかで誕生したもので、これまでのタンゴ(伝統)とこれからのタンゴ(革新)をテーマにしてA.ピアソラの革新的な気風が随所に感じられる傑作です。先ず、第1幕の第1場(開始の合図)ではドラマチックな音楽で会場の空気をタンゴの世界に染め上げ、ヴァイオリンが第2幕第15場の「受胎告知のミロンガ」(H.フェレールがこの曲に別の歌詞を付けた「私はマリア」としても知られる有名なピース)のモチーフを叙情豊かに奏でると、ドゥエンデ役の西村さんが重厚感のあるバス声で聖と俗、生と死、愛と憎、忘却と追憶などが相剋する混沌とした世界の中からマリアが誕生したことを詩的な比喩を使って情熱的に語り掛けてきますが、その濃厚な世界観に心をハッキングされてしまう強力な磁力を感じました。クラシック(ヴェリズモやコンテンポラリーなどを除く)が神や王侯貴族のために創作された俗世の垢を感じさせない芸術であるとすれば、タンゴはジャズと同様に場末に生きる民衆のためにために創作られた決して綺麗事だけでは済まされない人生の綾を紡ぐ魂の芸術と言え、その人生の真実に迫る表現が現代人の圧倒的な共感を生むのだろうと思います(その意味では、上述のオペラ「デットマン・ウォーキング」も同様だと思います)。タンゴ研究家として知られる西村さんは名古屋大学准教授としてラテン・アメリカ音楽を研究されていた方ですが、その重厚感のあるバス声による情熱的な語り口は天賦の才なのか、日本人によるドゥエンデ役は西村さん以外には考えられないと思えるほどの適役でした。第2場(マリアのテーマ)ではギターが哀愁を紡ぐなかをマリア役の小島さんがメゾソプラノのデモーニッシュな声質を活かして憂いを帯びた陰影のあるハミングで歌い添い、これに小気味よいフルートやバンドネオンが加わって哀愁を深くする印象的なピースになっていました。小島さんは国立音大声楽科を卒業してクラシック畑で活躍されていますが、2014年から KaZZmaさんとタンゴデュオを結成してタンゴ歌手としても活躍されています。第3場(いかれたオルガニートへのバラード)ではフルートが黄昏を紡ぐなかをパジャドール(19世紀頃のラテン・アメリカに存在したギターの弾き語りを行う歌手)役の KaZZmaさんが卓抜した表現力を感じさせる歌唱でタンゴの衰退を憂い、ドゥエンデ役の西村さんが新しいタンゴの誕生を予言しますが、 KaZZmaさんを憂いを象徴するブルー、西村さんを情熱を象徴するレッドに照らす照明の演出も効果的でした。この標題は伝統的な作風の踊れるタンゴ「黄昏のオルガニート」を意識したものなのでしょうか、歴史を紐解くと芸術に限らずあらゆる分野で1人の天才の登場が新しい道を拓くということなのだろうと思います。 KaZZmaさんは相愛音大声楽科を卒業し、アルゼンチンでタンゴ歌手カルロス・ガリに師事していたそうですが、その本場仕込みの表現力豊かな歌唱には目を見張るものがあり、日本のタンゴ歌手としては傑出した存在であると思います。上記のとおり、この公演の成功はヴォーカル陣(上述のお三方)の並々ならぬ歌唱力、表現力に負うところが大きいと感じます。第4場(カリエゴ風ミロンガ)ではギターがノスタルジーを紡ぐなかを夢見る雀のポルテーニョ(ブエノスアイレスの市井の人)役の KaZZmaさんがアルゼンチンの詩情が溢れる歌唱で人生の悲哀を歌い、ヴァイオリンがピアソラ節とも言うべき甘く切ない旋律を叙情豊かに歌い添う恍惚感が漂う心に沁みる好演でした。ヴラヴィー!!A.ピアソラの音楽が「踊れないタンゴ」であったとしても、これだけ心を躍らされる音楽も少ないと感じます。第5場(フーガと神秘)は受胎告知のミロンガ(私はマリア)と並ぶ有名なピースですが、小気味よいリズムを刻みながらスリリングに展開するアンサンブルは教会で聴く荘厳なフーガとは対照的に場末の酒場で聴くフーガの真骨頂を感じさせる小粋な演奏になっていたと思います。第6場(ワルツによる詩)ではマリア役の小島さんがワルツの優雅なリズムに乗せてタンゴの終末を詩的に歌い掛けてきましたが、低音の艶に背徳の匂いを薫らせる情感豊かな歌唱が見事でした。第7場(罪深いトッカータ)ではドゥエンデ役の西村さんがタンゴのリズムに乗せてタンゴを終末へと導いた罪人をユダに擬えて激しく断罪しましたが、A.ピアソラの反骨精神が窺えるピースに感じられました。第8場(ミゼレーレ・カンジェンゲ)では古き大盗賊役の KaZZmaさんはマリアは死んだが13日金曜日に雄鳥が3回鳴くとマリアが復活することを情感たっぷりに歌い上げ、とりわけピアノ伴奏による歌唱が聴きどころになっていました。第2幕の第9場(葬送のコントラミロンガ)では憂いを帯びた音楽が奏でられるなかをドゥエンデ役の西村さんがさながら福音史家よろしくマリアが死んだことを熱く語り掛けてきましたが、バンドネオンの哀愁に満ちた演奏とそれに寄り添うように哀切に鳴くバック・バンドが聴きどころになっており、これに続く第10場(暁のタンガータ)ではベースが涙の音型を奏でるなかを器楽がバッハのマタイ受難曲のペテロの否みを思わせる鳴き節を奏でる演奏が心に沁みてきました。A.ピアソラの名曲を通じ、ジャンルを超えてバッハに音楽の原点を見る思いがします。第11場(街路樹と暖炉に寄せる手紙)ではマリアの影役の小島さんが黒い衣装で登場し(前半はタンゴの情熱を象徴する赤い衣装でしたが、後半はマリアの影を象徴する黒い衣装)、ブエノスアイレスからマリアの記憶が薄れて行く哀しみを歌いますが、ヴァイオリンが奏でる半音音階(又は微分音?)がマリア(これまでのタンゴ)への違和感を象徴しているようで印象的でした。第12場(精神分析医のアリア)はタンゴへの溢れる愛情が情緒纏綿と歌い継がれる最大の聴きどころになっているのではないかと思います。冒頭ではドラム、ピッコロ、ピアノ、木琴がショスタコーヴィッチ風の諧謔的なリズムでマーチを奏で、精神科医役の KaZZmaさんがブエノスアイレスの夢はマリアのためのものだとユーモラスに歌い掛けますが、マリアの影役の小島さんが登場すると曲調は一転して、精神科医役の KaZZmaさんが愛を失ったマリアの影役の小島さんに再び愛を思い出すように哀切に歌い掛けますが、マリアの影役の小島さんは再び愛を思い出すことはないと一層と影を深めます。このピースは精神科医によるマリアへの身を焦がすような愛撫であり、 KaZZmaさんの包容力のある情熱的な歌唱と相俟って、ご婦人方だけではなく僕のような殿方ですらこんな素敵な精神科医(又はKaZZmaさん)に抱かれてみたい💘と思わせるような恍惚感に襲われること必定です。ヴラヴィー!!第13場(ドゥエンデのロマンス)では洗練された極上のジャズバラード調のピアノとストリングスの伴奏に乗せてドゥエンデ役の西村さんがタンゴの来歴を語り、どこにマリアが居ても場末の酒場で紡がれる哀しみの数々がいずれはマリアを復活させると優しく語り掛ける感動的なピースです。ヴラヴィー!!第14場(アレグロ・タンガービレ)はバンドネオン、フルート、ギター、ドラム、木琴が非常にリズミカルで快速調のパッセージを奏でますが、これがピアノに引き継がれてグルーブ感のある演奏が展開され、さらにストリングやパーカッションが加わってクライマックスを築く非常に格好が良いパッセージに仕上がっていました。第15場(受胎告知のミロンガ)では力強いリズム感と多彩な音色による演奏が繰り広げられ、第12場とは対照的にマリアの影役の小島さんが娘(これからのタンゴ)が産まれようとしていることを情熱的に歌い上げる熱唱が見事でした。ヴラヴァー!!オペラの伝統的であるベルカント唱法と比べると、タンゴを含むポピュラー音楽のクルーナーの方が心の機微をより繊細に表現することに向いているように感じます。第16場(タングス・デイ/神のタンゴ)では低音の重苦しく物憂げな音楽が奏でられ、その日の日曜日の声役の KaZZmaさんとドゥエンデ役の西村さんとが日曜日の倦怠感が漂うブエノスアイレスの雰囲気を歌いますが、次第にテンポアップしながら、マリア役の小島さんの哀愁を湛えたハミングを歌うなかをドゥエンデ役の西村さんがマリアが生まれようとしていることをドラマチックに告げて、その日の日曜日の声役の KaZZmaさんがカリエゴ風ミロンガの情緒纏綿たる情熱的な音楽に乗せてマリアから娘が生れ、過去と未来のために同じマリアと名付けられたことを告げ、娘マリア(これからのタンゴ)の誕生を祝う鐘の響きで終演となりました。A.ピアソラの胸中にはタンゴ以外のジャンルを夢見た時期もあったが、やはりタンゴへの愛を捨て切れなかったという思いがあったのかもしれません。タンゴ熱にうなされ、ベランダのサンダルにすら情熱的に歌い掛けたくなるような圧倒的な充足感に包まれてしまいました。タンゴやジャズはライブに勝るものはないので再演を熱望します。なお、「見逃し配信」もあるようなので、正月は心の盃を涙で満たし、タンゴに酔い痴れてみませんか?
 
 
▼第六回本公演淡座二夜 第一夜「音曲夢見噺」
【題名】第六回本公演淡座二夜
    第一夜「音曲夢見話」
【演目】①反魂香(改訂初演)
    ②はすのうてな
    ③死神(新作初演)
【作曲】桑原ゆう
【美術】桑原ゆう
【出演】<落語>古今亭志ん輔①②
    <Vn>三瀬俊吾①②③
    <Vc>竹本聖子①②③
    <三味線>本條秀慈郎①②③
【会場】深川江戸資料館 小劇場
【日時】2023年12月26日 19時開演
【料金】5000円
【感想】ネタバレ注意!
第六回本公演の淡座二夜として第一夜「音曲夢見噺」(「反魂香」「はすのうてな」「死神」)及び第二夜「忠臣蔵端唄尽」(「夢の浮橋Ⅰ」「夢の浮橋Ⅱ」「三味三昧」「通さん場のための音楽」「継ぐ接ぎ忠臣蔵第一部」「継ぐ接ぎ忠臣蔵第二部」)が開催されます。諸事多忙を極めるなか何とか都合が付く第一夜「音曲夢見噺」のみを聴きに行く予定にしていますので、公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、演奏会の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
上述のとおり2023年は「命」について色々と考えさせられる年でしたが、生死のあわいを紡ぐ古今亭志ん輔師匠による古典落語の名作「反魂香」(滑稽噺)及び「死神」(怪談噺)の2席とこれらの噺を題材として現代作曲家・桑原ゆうさんが作曲した3曲(新作初演を含む)が公演されました。この公演の主催団体である「淡座」は、2010年に「現代音楽、クラシック音楽、日本の芸術文化を行き来し、文化の古今と東西をつなぐための創作、演奏、表現活動を行う、作曲家と演奏家によるクリエイショングループ」として設立され、「洋の東西もない人間の本質や普遍性について思考し、音楽を通して多くの人びとにこの世の物事について問いかけ、新しい気づきをもたらす表現を追求」し、「「形のないもの、夢と現実のはざま、間(あわい)をえがく」ことを本願として「淡座」と名付けたそうです。因みに、「あわい」は漢字で「間」と書きますが、「あわい」と「あいだ」は厳密には異なる意味を持っており、「あわい」(合)はAとBを含む「間」(量子力学の状態の重ね合わせ)のことを意味するのに対して、「あいだ」(空)はAとBを含まない「間」のことを意味します。現代は「あわい」を紡ぐことができる人材が不足していることが社会課題として認識されていますが、淡座の活動は世界を非連続的なものではなく連続的なものとして捉え直し、これからの時代に求められる教養(心の豊かさ)を育んで未来を拓いて行くための芸術活動を志向しているように感じられますので、今後とも淡座の活動を注目して行きたいと思っています。
 
①反魂香
反魂香は、唐の詩人・白居易(俗称、白楽天)の「李夫人詩」に記されている故事に由来し、この香を焚くと煙の中に死者の姿が現れるというものですが(反魂とは死者の魂を呼び戻す意味の言葉)、この故事を素材にした歌舞伎や読本などが制作され、落語にもなっています。落語「反魂香」は長屋噺ですが、主人公の八五郎は、毎晩、同じ長屋から鐘を叩く音が聞こえて眠れないので文句を言いに行くと、坊主が出てきて吉原の高尾大夫と夫婦の契りを結んでいたが、高尾が某殿様の身請け話を断って手打ちになったので、毎晩、反魂香を焚いて高尾の魂を呼び戻しては慰めにしていると語ります。それを聞いた八五郎は、亡妻おかじと会いたくなり町中を探し回り反魂香と取り間違えて反魂丹(中国から堺に伝来した腹痛などに効く漢方薬で越中富山から全国に流通)を買い求めて、これを焚きながら「おかじ」と叫びますが、隣人が反魂丹(薬草)を焚く臭気に異変を感じて「おかじ」を「火事」と早合点して水を掛けるという間抜オチがつく滑稽噺です。過去のブログ記事でルビンの壺に触れましたが、人間の脳は「眼に見えているもの」だけではなく「脳に見えるもの」も認知する特性(脳内のシミュラクラ現象代理検出装置など)がありますが、ある現象に大切に想う故人の面影やこの世ならざる者の気配(神の音連れ)を感じ取るという体験は誰しも身に覚えがあり、外世界(物質世界)と内世界(精神世界)のあわいを笑いというオブラートに包んですっきりと飲み込ませてしまう含蓄のある噺(人間は外世界を客観的に認知している訳ではなく、人間の脳が都合よく創り出している虚構の外世界を認知しており、その意味で外世界と内世界を連続的に捉える噺には現代人の教養を育む含蓄があるよう)に感じます。冒頭、主人公の八五郎が長屋で熟睡しているところから噺は始まり、三瀬俊吾さんのヴァイオリンと竹本聖子さんのチェロがグリサンドやスピッカート、本條秀慈郎さんの三味線が擦弦(バチで弦を撥くのではなく擦る奏法ですが、不勉強のために奏法名が分かりません)などの特殊奏法を使ってスペクトル音楽のような波形の持続音で夢と現、冥界と現世のあわいを紡ぐような幻想的な音空間が演出されます。八五郎は大きな欠伸をしながら目覚めて鐘を叩く音が煩いと文句を言いに行くと、坊主から仔細を聞かされた八五郎は反魂香を焚く煙の中に高尾の姿が現れるのを拝みます。ヴァイオリンとチェロが微弱音のフラジョレットを使って立ち上る煙とそこに漂う妖気のようなものを描写し、徐々に音像(高尾の姿?)がはっきりとしてくると八五郎は寒気を感じ出し、高尾が煙に舞う姿を表現したものでしょうか三味線が音曲を奏で出して、やがてその姿は消えます。坊主は八五郎に反魂香を譲るのを断りますが、八五郎は諦め切れずに町中を探し回り漸く手に入れた反魂丹を焚いてみますが、再び、ヴァイオリンとチェロが微弱音のフラジョレットで立ち上る煙を描写するものの、三味線は沈黙するままで亡妻おかじが姿を現すことはなく、音のあしらいが興趣を誘う間抜オチとなりました。落語は客が噺からイメージを膨らませて愉しむ舞台ですが、そのイメージを音楽で代替するのではなく、落語家の噺のテンポや間がおかしみを生む噺芸の魅力を損なわないように噺の出番と音楽の出番が共生するようにニッチ・シフトを差配する工夫が随所に感じられ、客が噺からイメージした世界観を音楽が立体的に膨らませて行くような作風に好感を持ちました。
 
②はすのうてな
この曲は落語「反魂香」の世界観を音楽だけで表現することを試みた作品で、2011年に初演されてから何度か改訂を重ねて温めてきているものだそうです。「はすのうてな」とは極楽浄土に生まれ変わった人が座る蓮華の台座のことで、その台座を分かち合って運命を共にすることを一蓮托生と言いますが、落語「反魂香」には古今東西を問わず大切に想う故人と再び情を通わせたいと願う人々の儚い追慕の情(かなしみ、夕焼け)が滑稽な笑い(おかしみ、朝焼け)と重なり合うように描かれています。桑原さんはパンフレットで「三味線の開放弦から指を離すときのごく小さな音に、少しづつ色をつけていくかのように、ヴァイオリンとチェロによる音の層が重なっていきます。」と書かれていますが、最初は無音の中に点描画のような音粒が漂い、徐々に音像がはっきりと立ち上がってくるような印象の音楽が奏でられましたが、煙の中に徐々に故人の姿が浮かび上がるように、長い歳月が霞の彼方へと埋もれさせてしまう故人の微かな面影を手繰り寄せながら故人を偲ぶ心情が紡がれているような音楽に個人的には感じられました。桑原さんがパンフレットで「七年前の私とは、地続きでありながら、ほとんどちがう人間で、作曲当初の意図を殺さず、かたちだけを整えてあげるように改訂するのは、いつもながら、むずかしい」と語られていますが、この10年間を振り返っても時代は大きく変容し、人心は様変わりしていることを実感しますので、この時代の変革期に「はすのうてな」が淡座と共にどのように成長し、変容して行くのか楽しみです。因みに、来年3月16日に北陸新幹線が敦賀まで延伸されますが、その沿線にある富山県には反魂丹の薬玉を象った銘菓「反魂旦」という人気のお土産があるので、お近くにお寄りの方はお試し下さい。
 
③死神
初代三遊亭圓朝師匠がグリム童話「死神の名付け親」から翻案した落語ですが、2010年に現代作曲家の池辺晋一郎さんが落語「死神」を題材にして作曲したオペラ「魅惑の魔女はデスゴッデス!」(1977年に旧題オペラ「死神」として初演)を鑑賞した記憶があり、また、2017年にオペラ「死神」に復題して上演された際には古今亭志ん輔師匠が落語「死神」を共演されているなど、落語と共にオペラも人気のある演目です。落語「死神」は怪談噺と滑稽噺が組み合わされたような内容ですが、金に困った主人公の男が死神に声を掛けられ、死神が見える特別な能力を授けられますが、死神が病人の足元にいれば助かり、病人の枕元にいれば死ぬ運命にあり、病人の足元にいる死神は呪文を唱えれば消えて病気は本復すると教えられ、この能力を使って死神が足元にいる病人を本復させたことで名医と評判になり金回りが良くなります。しかし、その評判を聞きつけて死神が枕元にいる重病人ばかりが集まるようになり評判が地に落ちて再び金に困り始めると、死神が枕元にいる病人を死神に気付かれぬように180度回転させて呪文を唱えて死神を消してしまいます。その夜に男は死神に洞窟へ案内され、そこに並べられている沢山の蝋燭の火は人間の寿命であり、今にも火が消えそうな蝋燭が男のものなので早く新しい蝋燭を継ぎ足さないと死んでしまうと告げられます。慌てた男は手が震えて自分の蝋燭を上手く継ぎ足すことができず、「あ~、消えた」と叫んで倒れ込むという仕草オチがつく怪談噺です。落語「死神」には色々なオチがあり、自分の蝋燭を継ぎ足すことに成功した男がその火を頼りに洞窟から出たところでうっかりその火を吹き消してしまうというブラックなオチなどもあります。冒頭、三味線、ヴァイオリン及びチェロが点描的な音楽を奏でますが、これは蝋燭の火を描写したものでしょうか。その後、古今亭志ん輔師匠が高座に上り、通常の落語と同様に枕から本題へ入りましたが、金に困って自殺を考えている男に死神が声を掛ける場面ではヴァイオリンのフラジョレットが死神の妖気、チェロのピッチカートが死神の気配を表現したものでしょうか、この世ならざる者の顕在が音楽的に表現されているように感じられました。男が死神から授けられた特別な能力を使って名医と評判になる場面では揺蕩うような音楽で地に足が付いていない滑稽な雰囲気を醸し出すと共に、ピッチカートやポルタメントで死神が呪文で消える様子が表現されているように感じられました。洞窟の中の場面ではヴァイオリンやチェロによって蝋燭の火が風に揺らめく様子が表現され、生命の儚さを印象付ける効果を生んでいたと思います。此岸(生)と彼岸(死)が交錯している噺なので、此岸(生)と彼岸(死)という質感の異なるものが重なり合っていることを感じさせる音楽的な工夫が随所に見られ、それによって落語の世界観に重層的な広がりが生まれているように感じられました。今回は古典落語と現代音楽のコラボレーションでしたが、現代音楽とコラボレーションすることを前提にした創作落語なども聞いてみたくなりました。
 
 
▼シリーズ「現代を聴く」<Vol.31>
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼高橋浩治の室内モノオペラ「プラットフォーム」(2020年)
日本人現代作曲家の高橋浩治さん(1986年~)の室内モノオペラ「プラットフォーム」は、ベルギーで活動しているソプラノ歌手の薬師寺典子さん(1987年~)の委嘱により作曲され、2020年にモノオペラ「Amidst dust and fractured voices」としてベルギーで世界初演されました。その後、2021年に「PLAT HOME」に改題されて日本初演され、東京藝大アートフェス2023東京藝術大学学長賞を受賞していますが、東京藝大も大きく変わろうとしています。なお、高橋さんが作曲、台本(オリジナル脚本を使用)及び芸術監督を手掛ける2024年2月27日(火)及び同28日(水)にオペラ「長い終わり」が初演されますので、これは聴き逃せません。
 
▼A.ピアソラのタンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのマリア」(1968年)より「私はマリア」(受胎告知のミロンガ)(ヴァイオリンとピアノ編曲版)
スペイン人ヴァイオリニスト兼現代作曲家のマリア・ドゥエニャスさん(2002年~)及び既に日本でもお馴染みのイタマール・ゴランさん(1970年~)がA.ピアソラのタンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのマリア」より有名なピース「私はマリア」(受胎告知のミロンガ)をヴァイオリンとピアノ用に編曲した版を演奏した音盤がリリースされて話題になっています。その美しさだけでも罪だと言うのに、その狂おしく情熱的な演奏にメロメロにさせられる魔性を感じます(萌)。なお、2023年12月15日にA.ピアソラのタンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのマリア」(コンサート形式)の公演がありますので、これは聴き逃せません。

MUSIC DAY IN KUNITACHI 2023(加藤訓子、 向笠愛里)とシャリーノ祭りとオペラ「午後の曳航」(二期会)と能声楽家・青木涼子コンサートシリーズ 「現代音楽✕能」と心を彩る感情をハッキングする芸術<STOP WAR IN UKRAINE>

▼心を彩る感情(ブログの枕前編)
毎年10月27日から11月9日までの期間は「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」という崇高な理念を掲げた読書週間とされていますが、今年も世界一の古本屋街として名高い神田神保町で神田古本まつりが開催され、お宝を求めて全国から本の虫(古い本に棲み付いて紙を餌とする「紙魚」(シミ)という虫に喩えて、本を貪る人のことを本の虫と言います。)が集まり活況を呈していました。丁度、11月から文学作品を題材にした興味深い舞台公演が目白押しであることから「心を彩る感情」(主に心理学と脳科学)とその「感情をハッキングする芸術」(主に文学論)について簡単に触れてみたいと思います。
 
▼脳の三層構造仮説(ポール・マクリーン)
年代 脳の発達
38億年前 生命の誕生
 5億年前 神経管の誕生(脳の起源)
 3億5000万年前 生命脳の誕生(反射/欲/一人称)
生命維持(体温、血圧、免疫等の調節や食欲、性欲、睡眠欲等の感覚等)を司る脳幹(爬虫類脳)※現在では哺乳類は両性類から枝分れしたと考えられていますが、便宜上、爬虫類のままにしています。
 2億5000万年前 情動脳の誕生(本能/緒/二人称)
基本情動(喜怒哀楽等)を司る大脳辺縁系(旧哺乳類脳)
    500万年前 直立二足歩行の開始
    250万年前 論理脳の誕生(理性/性/三人称)
高度な精神活動(言語、思考、想像、計画、倫理等)を司る大脳新皮質(新哺乳類脳)
     20万年前 ホモ・サピエンスの誕生
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「心」という漢字は心臓を象って記号化した文字ですが、昔は心臓が情動により強い生理反応を伴う臓器であることから心を司っていると考えられていました。しかし、現在は脳の働きである知情意の総体であると考えられ、脳と心を別物とする「心身二元論」(我思う、故に我在り)ではなく脳が心を生み出す「心身一元論」(我在り、故に我思う)が科学的な常識になっており、生命脳が誕生した3億5000万年前頃に心の起源を求めることができるかもしれません。心の状態を示す「感情」(Affection)には、古い脳である「生命脳(脳幹)」又は「情動脳(大脳辺縁系)」が知覚に応じて無意識(反射的又は本能的)に生み出す生理反応を伴う「情動」(Emotion)と、新しい脳である「論理脳(大脳新皮質)」が記憶(短期記憶は海馬、長期記憶は大脳新皮質)に応じて意識的(理性的)に生み出す生理反応を伴わない「感情」(Feeling)の大きく2種類に分類することができますが、これらは脳の進化に対応して誕生したと考えられています。上表のとおり5億年前に脊椎動物が獲得した神経管(脳の起源)が生命脳(脳幹)に進化して、体外(自然環境)又は体内の変化を知覚して「快」又は「不快」の原始情動を引き起こして記憶を参照することなく反射的(無意識)に生命維持(例えば、体温を一定の状態に保つなどの生体恒常性)を促すことで(迅速性>>適切性)、その変化に迅速に適応して生存可能性を高めたと考えらえています。やがて水中生活から陸上生活への移行や生物の多様化などの自然環境の複雑化に適応する必要から情動脳(大脳辺縁系)という新たな脳領域が形成され、体外(複雑化した自然環境)又は体内の変化を細かく知覚し、それに適した「快」から派生した「喜」「楽」、「不快」から派生した「怒」「哀」などの基本情動を引き起こして記憶を参照することなく本能的(無意識)に生体反応(例えば、逃げるなどの生命維持よりも強い反応)を促すことで(迅速性>適切性)、自然環境に迅速かつ適切に適応して生存可能性を高めたと考えられています。その後、過去のブログ記事でも触れたとおり、人類は気候変動による森林面積の縮小などに伴って樹上生活から地上生活へ移行しましたが、食物を運搬及び加工する必要が生じたことなどから約500万年前頃に樹上生活で柔軟になった関節を活かして直立二足歩行を開始し、それによってが解放されたことで約250万年前頃に道具や技術などを使って集団で狩猟採集を行うようになったことや約180万年前頃に火を使った料理の発明により狩猟採集した食物を柔らかくして摂取するようになったこと(消化及び吸収などの効率化)での発達が促されたことなどを背景として、集団の形成に伴う社会環境の多様な変化に適応する必要から論理脳(大脳新皮質)という新たな脳領域が形成され、その多様な変化を踏まえて記憶を参照しながら理性的(意識的)に「愛情」「受容」「感謝」などの社会感情(具象的な対象に関係する感情)を臨機に生成して情動をコントロールすることで(迅速性<適切性X柔軟性)、社会環境に柔軟かつ適切に適応して集団を維持して、その中での生存可能性を高めたと考えられています。その後、狩猟採集に必要となる能力(空間把握、未来予測や集団行動など)を進化させますが、約5万年頃に生じた突然変異によって脳がイメージ、記憶や言葉などを操る高度な認知能力を獲得して(認知革命)、少なくとも、約3万5000年前頃には狩猟採集の対象である自然を観察して模倣する能力が発達して動物を描いた壁画(絵画)骨で作られた笛(音楽)などが誕生しました。因みに、「ひょっとこ」は火を熾すために息を吹く火男(ひおとこ)が訛って生まれた言葉ですが、人類は火を熾すために息を吹く習慣が生まれたことや直立二足歩行で首が伸びて咽頭が長くなったことなどから発声音を制御する調音の能力が発達して言葉を話せるようになったと考えられています。その後、約1万年前頃に氷河期の終焉に伴って狩猟採集から農耕牧畜へ移行して定住生活を営むようになると、人類はイメージ、記憶や言葉などを自分で認知するだけではなく、それらを他人と共有する能力を身に付けて高度な社会を形成するようになりました。この背景には人類が突然変異によりミラーニューロン(共感細胞)を獲得したことで他人の表情や言動などを自分の脳に置き換えて追体験やシミュレーションなどを行うことが可能になり、それによって他人の心理、意図や文脈などを推測し、他人の表情や言動などの意味を理解して「共感」(エンパシー)することが可能になったことで血縁関係を越えた集団を形成する社会性を備えたことがあると考えられています。これによって自然の模倣だけではなく人間の模倣なども盛んになり、「学習」(「学ぶ」の語源は「真似る」、「習う」の語源は「倣う、慣れる」)を通して文化が形成され、その歴史的な文脈に日本の芸道論(「およそ、何事をも、残さず、よく似せんが本意なり。」(風姿花伝第二物学条々/世阿弥)も位置付けられるものと思われます。このような社会環境の高度化に適応する必要から論理脳(大脳新皮質)は更に進化して、その高度化した社会環境を踏まえて記憶を参照しながら理性的(意識的)に「共助」「将来不安」「道徳」などの知的感情(抽象的な対象に関係する感情)を臨機に生成して社会環境の最適化を図ることで(迅速性<最適性X柔軟性)、社会環境を柔軟かつ最適に改良及び維持して、その中での生存可能性を高めたと考えられています。その後、約4000年前頃に他人との意思疎通を容易にするために絵画を記号化した文字が発明されましたが、我々が文学の登場人物の心情を推論して、これに共感できる能力を備えているのは、このような進化の経緯を辿っているためだと考えられます。過去のブログ記事でも認知と感情の関係について簡単に触れましたが、体外又は体内の変化の知覚(感覚信号)を生命脳(脳幹)又は情動脳(大脳辺縁系の主に扁桃体)が処理する過程(ボトムアップ処理)で情動が生まれ、これを論理脳(大脳新皮質)が記憶と照合して認知(予測信号)し、それらの精度を検証して修正する過程(トップダウン処理)を繰り返しながら感情を生成し、それが生存可能性を高めるための判断、行動を促すという生存戦略を採用しましたが(悲しいなどの感情が生成されたから泣くなどの情動を生じるのではなく、泣くなどの情動が生じてから悲しいなどの感情が生成され、その悲しいという感情が泣くなどの情動を適切に処理(例えば、涙を堪えるなど)しています。)、感情には感覚信号(ボトムアップ処理:本能、本音)と予測信号(トップダウン処理:理性、建前)の葛藤を調停し、これらを統合して適切な判断、行動を促す役割を担っています。なお、現在ではイノベーションによる脳機能の拡張が試みられていますが、例えば、感覚信号(意欲、情緒)に影響する技術としてXR、予測信号(知性)を支援する技術としてAIなどが注目されており、心のDXも進められています。
 
▼感情の階層と種類(ロバート・プルチックの「感情の輪」)
  感情
Affection
種類 情動
Emotion
感情
Feeling
原始情動 基本情動 社会感情 知的感情
特性 無意識 意識
生理反応あり 生理反応なし
先天的・普遍的・不変的 後天的・個別的・可変的
脳の部位 古い脳 新しい脳
生命脳
脳幹
情動脳
大脳辺縁系
論理脳
大脳新皮質
前回のブログ記事でも触れた神経美学は、美の神経心理学(=認知心理学+大脳生理学)とも言われているとおり、美意識と感情はパラレルな関係にあります。
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▼感情をハッキングする芸術(ブログの枕後編)
坂本龍一の一周忌にあたる2024年3月28日に坂本龍一が生前最後に作曲したシアターピース「TIME」(音楽:坂本龍一、ヴィジュアルデザイン:高谷史郎)が日本初演される予定ですが、そのテキストとして「こんな夢を見た」の書き出しで有名な夢を題材にした10の短編から構成される夏目漱石の小説「夢十夜」が使われています。因みに、黒澤明監督が見た夢を題材にした8のオムニバスから構成される映画「」でも冒頭に「こんな夢を見た」という一文が挿入されています。小説「夢十夜」の第三夜では父親殺しが題材として扱われていますが、夏目漱石の幼少年期の不遇と重なってエディプスコンプレックスの語源ともなっているギリシャ神話「エディプス王」に着想を得たものではないかと思われます。これに対し、三島由紀夫の小説「午後の曳航」は小説「夢十夜」の第三夜との類似点も挙げられますが、エディプスコンプレックスというよりも絶対的なものに対するロマン主義的美学の発動としての義父殺しが題材として扱われているように感じられます。なお、作家・村上春樹が「芥川龍之介短篇集」(新潮社)の序文で国民的作家10人を挙げていますが(実際には9人しか挙げられておらず「あとの一人はなかなか思いつけない」と言葉を濁していますが、村上春樹を含めて10人目として誰を挙げるのか後世の見識に後事を託しているように思われます。)、その筆頭に挙げられている日本近代文学の父・夏目漱石が「文学論」を残していますので、紙片の都合から、その触りのみをごく簡単に触れておきたいと思います。
 
文学=(
 
夏目漱石は、文学論の冒頭で「文学とは何か」という根源的な問いに対して「文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。」と看破しています。「」とは意識の焦点(認識/ocus)を意味し(「認識」(物事の実質的な理解)<「認知」(物事の形式的な理解))、また、「」とは「F」から生じる心の状態(情緒/eeling)を意味しており(「情緒」=「感情」)、文学作品の内容は()から構成されると気前よく結論付けています。即ち、全ての文書のうち、情緒(f)を伴うものが文学作品、情緒(f)を伴わないものがそれ以外の文書と分類され、文学作品の価値は文学表現(異なる素材の組合せ)によりどのような情緒(f)を読者に生起させること(幻惑=感情のハッキング)ができるのかによって決まると説いています。この点、情緒を伴わないものとして科学論文などを挙げることができますが、文学作品は人間の肉眼で知覚できる範囲で具体的、多義的に対象を捉えて、それを情緒的、主観的に記述することを本願としてその真実性は重視されないのに対し、科学論文は人間の肉眼で知覚できない範囲のものも含めて一義的、抽象的に対象を捉えて、それを論理的、客観的に記述することを本願としてその真実性が重視されるという特徴的な違いが挙げられます。一方、読者の認識(F)は次々と寄せる波のように入れ替わり(意識の波)、その意識の波に併せて特定の情緒を生起し又は特定の記憶を呼び起して連想を重ねながら常に移ろいますが、同じ文学作品でも個人によって捉え方が異なるのは知覚(生物的な差異)が認識(F)に影響を与え、記憶(経験的な差異)が情緒(f)に影響を与えるためだと考えられます。この点、通常、他人の心の状態はその人の言葉、表情や態度などから推測するしかありませんが、文学作品では登場人物の心の状態を文学表現として紡ぐことが可能なので、その文学表現に読者が幻惑(感情をハッキング)されて他人の心の状態を追体験又はシュミレーションすることができる点に大きな魅力の1つがあります。夏目漱石は、当時の心理学の最新の知見を参照しながら情緒(f)を単純なもの(基本単位とみなせる情動)と複雑なもの(基本単位とみなせる情動が組み合わさった状態)に分けて捉え、例えば、後者では嫉妬=思慕+憤怒、崇高=感嘆+恐怖、忠義=義務+尊敬+忠実+犠牲+面目など詳細な分析を加えて文学表現に活かしています。また、夏目漱石は、刺激(暗示)や時代の趣味などによって情緒(f)の種類も増えて行く可能性があることを指摘し、文学は社会の一部であって社会現象(経済、科学、哲学、宗教、政治など)との関わりで考える必要があり、固定観念(予期の牢獄)から抜け出すためには多様な刺激(暗示)を受け入れて自分の趣味の壁を壊し、複数のモノサシを駆使できるようになることで固定観念(予期の牢獄)に囚われることもなくなると文学の革新の必要性を説いており、現代にも通用する文学論と言えるかもしれません。例えば、文学作品から受けるカタルシス(緊張から弛緩に向かって解放される心の状態の浄化)は、上述のとおり読者のミラーニューロン(共感細胞)が働いて登場人物に対する「共感」(エンパシー)が生まれることで感得されるものですが、現在、このように脳科学の観点から文学を研究する神経文学という学問が注目を集めています。未だ明治時代は学問領域の細分化・専門化が進んでおらず文理が厳格に区分されていなかった時代状況にあり、例えば、夏目漱石は物理学(相対性理論)にも精通し、小説「吾輩は猫である」では首縊りの力学、小説「三四郎」では光線の圧力測定などに関する話題が登場しますが、総合知(文理融合を含むエコシステム、エコトーンの創出)の必要性が指摘されている現代にあって夏目漱石の文学論を再読し、改めて現在の日本の繁栄の礎を築いた明治の知性を見直してみるのも有意義かもしれません。
 
①ザ・ポピー(神奈川県横浜市中区元町2-86
②京浜急行バス停杉田(神奈川県横浜市磯子区杉田4-5
③宮城道雄記念館(東京都新宿区中町35
①ザ・ポピー:三島由紀夫の小説「午後の曳航」で母・黒田房子が元町で経営しているという設定の舶来洋品店レックスのモデルとなった店がザ・ポピーと言われています。 ②京浜急行バス停杉田:息子・黒田登らはドックで解体するために旧、横浜市電杉田駅(現、京浜急行バス停杉田)から富岡総合公園(北台展望台)まで義父・塚崎竜二を曳航。 ③宮城道雄記念館:三島由紀夫が評価する内田百聞(漱石門下)の短編集「サラサーテの盤」には箏の師匠・宮城道雄をモデルにした「東海道刈谷駅」「柳検校の小閑」を収録。 ③八十弦筝:黒澤明監督は内田百聞の随筆集「まあだかい」から着想を得て映画「」(赤富士)や「まあだだよ」を制作しています。写真は宮城道雄が開発した幻の八十弦箏。
 
▼MUSIC DAY IN KUNITACHI 2023(三善晃没後10年記念事業)
【演題】MUSIC DAY IN KUNITACHI 2023(三善晃没後10年記念事業)
【演目】①向笠愛里ソプラノリサイタル「フランス〜日本への回帰」
     フォーレ 蝶と花
     シャブリエ 小さなアヒルたちのヴィラネル
     デュティユー 月の光の妖精の国
     三善晃 四つの秋の歌
     プーランク 変身
     プーランク 戯れの婚約
     プーランク 歌劇「ディレジアスの乳房」より「いいえ、ご主人様」
      <Sop>向笠愛里
      <Pf>川本嵐
    ②ミュージックシアター「鍵」(原作:谷崎潤一郎)
     三善晃 組曲「会話」
     三善晃 トルスⅢ
     三善晃 リップル
     加藤訓子(編曲) 大正ソング「ゴンドラの唄」
                   「美しき天然」
                   「雨降りお月」
      <Perc>加藤訓子
      <Danc>中村恩恵
【演奏】<Perc>東廉悟、青栁はる夏、篠崎陽子、三神絵里子、横内奏、
    細野幸一、真鍋華子、濱仲陽香、戸崎可梨、古屋千尋、齋藤綾乃
【場所】くにたち市民芸術小ホール
【日時】2023年11月3日(金・祝)14:00~
【一言感想】
今日は文化の日ですが、打楽器奏者・加藤訓子さんがプロデュースするMUSIC DAY IN KUNITACHI 2023(三善晃没後10年記念事業)として、①向笠愛里ソプラノリサイタル「フランス〜日本への回帰」及び②ミュージックシアター「鍵」という興味深い公演があったので聴きに行くことにしました。第2日目(11月4日)の公演「三善晃の世界」は諸事情で聴きに行くことができませんが、第1日目の公演の感想を簡単に残しておきたいと思います。なお、この公演は、加藤さんが主宰する若手演奏家の育成を目的としたプログラム「inc.」(incubationの略)の一環として開催されたもので、今回は加藤さんが桐朋音大の学生であった時代に同音大の学長であった現代作曲家・三善晃さんが声楽や打楽器のための作品を数多く残されていることから、これらの曲を後世に伝えて行くために没後10年を記念して三善さんの曲を中心に採り上げたそうです。
 
①向笠愛里ソプラノリサイタル「フランス〜日本への回帰」
ヴラヴィー!!向笠愛里さんの演奏を聴くのは初めてでしたが、桐朋音大ピアノ専攻を卒業後に同大学院で声楽専攻に転向した異色の経歴の持ち主で、何故、声楽に転向したのか得心させられる豊かな才能を感じさせる秀演でした。フランス音楽に造詣が深かった三善さんへのオマージュもあると思いますが、フランスの声楽曲を得手とする向笠さんによる趣味の良い選曲で、フォーレでは優雅で可憐な歌唱、シャブリエとデュティーユではウィットに富んだ軽妙洒脱な歌唱、三善では清澄で叙情を湛えた歌唱が見事で、川本嵐さんのクリアなタッチによる美観際立つ演奏が歌唱に彩りを添える好パフォーマンスでした。そして、何と言っても、今日のリサイタルの白眉はプーランクでして、とりわけ戯れの婚約ではその恍惚感のある歌唱に鳥肌を禁じ得ませんでした。心技のバランスに優れ、多彩な感情を瑞々しく表出する洗練された技巧と豊かな表現力に裏打ちされた自然な共感に溢れる歌唱が心に沁みてきました。ピアノが奏でる透き通るような和音の中をたゆたうように紡がれる繊細な歌唱などを聴いていると、夢見心地の気分にさせられて至福の時間を過ごすことができました(ステキ)。終曲のアリアは表情の作り方や身振りなど視覚的にもアピール度の高いドラマチックな表現を堪能でき、歌曲だけではなく歌劇でも十分に通用する多彩な実力を備えている印象を受けましたので、今後、歌曲だけではなく歌劇でも注目して行きたいと思っています。アンコールで三善晃さんが作曲したアニメ「赤毛のアン」よりエンディング曲「さめない夢」が演奏されましたが、ウィットの効いた心憎い選曲でした。
 
なお、後半の演目の舞台設定のために長い休憩が挟まれましたが、そのインターバルを使って「inc.」 のメンバーがロービーコンサートを開催するという嬉しいサプライズがありました。三善晃さんが打楽器奏者・吉岡孝悦さんのために作曲した2本マレットのマリンバのための「6つの練習前奏曲」(音階、和音、重音響、半音階、対位法、同音(オクターヴ)連打)が演奏されました。「inc.」 のメンバーの高い技量による解像度の高い演奏の賜物だと思いますが、現代音楽の傾向的な特徴とも言える取っ付き難さのようなものは感じられず、どのようにモチーフが展開され、楽曲が構成されているのかなど大変に見通しの良い聴き易い音楽で、その多彩な響きと共にマリンバという楽器の特徴や魅力が存分に発揮されている隠れた名曲ではないかと感じられました。
 
②ミュージックシアター「鍵」(原作:谷崎潤一郎)
2016年にベルギーのシアターカンパニーLODが舞台演出に俳優のジョス・ドゥパウさん、音楽監督に加藤訓子さんを迎えて谷崎潤一郎著の小説「鍵」を題材としたミュージックシアター「De Sleutel(鍵)」を世界初演しましたが、今回は舞踊家の中村恩恵さんとの協演により日本公演が実現したそうです。この小説は映画(芥川也寸志さんが音楽を担当。外国映画新作映画などリメイクも多数。)、TVドラマオペラなどに何度も翻案されていますが、この作品では三善晃さんが作曲したマリンバのための曲や加藤さんが編曲した大正ソングを使用して音楽及びダンスを主体とした作品に仕上げられている点に特徴があります。冒頭で、加藤さんと中村さんのプレトークが行われ、この作品の創作秘話などが語られました。少し「間」が置かれた後、お互いの日記に関する話題に移り、やがてプレトークにオーバーラップするように小説を朗読するフランス語の音声が流れ始め、徐々にプレトークからショーイングへ移行して行きましたが、プレトーク(現実世界、私)とショーイング(物語世界、登場人物)の境界を曖昧にする演出上の工夫がみられました。この点、小説では読者が登場人物の視線を通して日記(心)を盗み見るという共犯関係を結ぶことで読者と登場人物の倒錯を誘いますが、その舞台効果を狙った演出と言えるかもしれません。小説に出てくる印象的な言葉(日記の中に書かれている単語や短いセンテンス)が舞台奥の段幕に投影され、観客はその言葉(登場人物の脳内に記憶されている日記の断片)と音楽及びダンスを通して登場人物の深層心理を詮索してイメージを膨らませることになりますが、朗読劇とも異なるイメージの自由な広がりを許容する新しい芸術体感が面白く感じられました。加藤さんが小説の世界観にぴったりだと仰っていたとおり選曲が当意即妙なもので、登場人物の心の動揺を時にシリアスに時にコミカルに肌理細かく表情を変えながら描き出すマリンバの心理描写が素晴らしく、また、中村さんによるダンスの所作に登場人物の心の襞のようなものが繊細に表現されていて、台詞劇よりも観客のイマジネーションを一層と効果的に引き出すことに成功して饒舌で深みのある舞台鑑賞を可能にしていたように感じられました。終板で演奏された大正ソング「ゴンドラの唄」は黒澤明監督の映画「生きる」で志村喬さんがブランコに乗りながら歌う名場面を思い出しますが、主人公の儚い生涯を遠景に捉えながら人間の滑稽や此岸の無常などを哀惜の情と共に説示するマリンバの奥床しく懐深い表現に魅せられました。なお、強いて難点を挙げるとすれば、若干、中弛みを覚える部分があったので、もう少し中盤をコンパクトにアレンジすることができれば中盤も集中力を持続して鑑賞できたのではないかと思います。いずれにしても21世紀を代表する名作の1つと言っても過言ではない充実した内容を持っている作品に感じられました。ヴラヴィー!!最近、外国人が日本の文学(近代文学に限らず、能や和歌などの古典文学を含む)を題材にして創作した作品に接する機会が多く、それら外国人の作品を通して日本文化の素晴らしさを再認識させられていますが、日本の優れたコンテンツが外国人の心をハッキングし、それらを題材にして外国人が新しい価値を付け加えて創作した新しいコンテンツが日本人の心をハッキングし返しているということなのだろうと思います。このようなハッキングなら大歓迎です!
 
 
▼シャリーノ祭り(ローエングリン関連企画)
【演題】神奈川県民ホール開館50周年記念オペラシリーズvol.2
    ローエングリン関連企画 シャリーノ祭り
【演目】サルヴァトーレ・シャリーノ作曲
    ①どのようにして魔法は生み出されるのか(1985年)
    ②アトンの光輝く地平線(1990年)
     <Fl>山本英
    ③精細な精神の完全性 14の鐘のための補完(1986年)
    ④白の探求(1986年)
     <Perc>安藤巴
    ⑤6つのカプリチオ(1976年)
     <Vn>石上真由子
【講演】吉開菜央(映画作家、振付家、ダンサー/演出担当)
    杉山洋一(作曲家/指揮担当)
    沼野雄司(音楽学者/芸術参与)
【映画】シャリーノさんに会いに行く(2023年)
     <監督>仲本拡史
【場所】神奈川県民ホール 小ホール
【日時】2023年11月18日(土)15:00~
【一言感想】
2024年10月に神奈川県民ホール開館50周年記念オペラシリーズVol.2としてイタリアを代表する現代作曲家のS.シャリーノさんのモノオペラ「ローエングリン」(1982/84年)が上演される予定ですが、その関連企画である「シャリーノ祭り」を聴きに行きました。2005年に開催された「サントリーホール国際作曲委嘱シリーズ」のテーマ作曲家としてS.シャリーノさんが採り上げられるまでその存在を知りませんでしたが、その後、2011年に開催された「武満徹作曲賞」の審査員を務めるなど、日本でも知名度の高い現代作曲家です。現代作曲家のルイジ・ノーノさんはS.シャリーノさんのことを「鋭い音響の亡霊」と評していますが、多様な特殊奏法を駆使して静寂の中から顕れる精妙な音響世界に特徴的な魅力があり(さながら複式夢幻能(顕在劇)の幽玄な興趣を音楽的に体現しているような曲想)、とりわけフルート作品の人気が高く日本でも演奏機会が多いと思います。S.シャリーノさんは2005年に来日した際に音と静寂について講演され、耳を澄まして音と静寂の境界を聴き分けるのではなく、心を澄まして知覚できないものを聴くという聴取態度から演奏者が発する楽音以外の音を感じ取ることが可能になるという趣旨のことを話されていましたが、日本人の伝統的な美意識と親和性がある考え方のように思われます。今日は吉開菜央さんがイタリアのウンブリア州までS.シャリーノさんを訪ねた記録ムービーが公開され、ヨーロッパに特有の赤瓦屋根の低層建築が建ち並ぶ歴史情緒を湛えた美しい町並みが印象的でした。とりわけS.シャリーノさんがルネサンス時代に建築されたチッタ・ディ・カステッロ大聖堂の長い残響音に倍音構造を聴き取っているシーンがありましたが、木造建築が多い日本とは対照的に石造建築が多いヨーロッパで和声法やスペクトル音楽が育まれた文化的な素地のようなものが感じられて非常に興味深い映像でした。なお、今日はオペラの配役が発表され、エルザ役として吉開さんからダンスを学んでいる女優の橋本愛さん、声(エルザの幻聴)のアーティストとして国立音大声楽科卒の山崎あみさんの出演が決定したそうです。イタリアで音楽活動を行う経験豊富な杉山洋一さんを要にして、吉開さん、橋本さん、山崎さんなどの若手をジャンル横断的に起用した舞台作りに何か新しい表現が生まれるのではないかと期待が膨らみます。
 
①どのようにして魔法は生み出されるのか(1985年)
②アトンの光輝く地平線(1990年)
伝統的な西洋楽器は調性音楽を演奏するために様々な改良が加えられてきた歴史があり、フルートもベルカントの伝統から美しく旋律を歌うための楽器として発達してきましたが、それゆえに調性音楽以外の音楽を演奏するには不向きであるという限界を抱えており、無調音楽の展開(半音階的音程→十二音技法→総音列技法→微分音、スペクトル音楽)に伴う特殊奏法の開発などにより、その表現可能性の拡張が試みられてきました。S.シャリーノさんはフルートの特殊奏法とその記譜法を探求された方ですが、この2つの楽曲ではフルートの通常奏法は殆ど使用されておらず、その全体を通して多様な特殊奏法が使用されています。先ず、1曲目ですが、上述のとおり人類は進化の過程で息を吹く習慣が生まれたことなどから発声音を制御する調音の能力が発達しましたが(フルートという名称はラテン語の息及び息吹を意味するFlatus(フラトゥス)が語源で、昔から生命を吹き込む神聖な楽器と考えられてきました。)、物音を模倣する過程で言葉や歌が生まれた「魔法」(奇蹟)を表現した曲想に感じられました。冒頭では静寂の中で微弱なキーノイズ(物音)が繰り返されましたが、キーノイズ(物音)に誘われるように弱く鋭いタングラム(息による物音の模倣)が現れ、やがて静寂(言葉や歌がなかった世界)を破る強く鋭いタングラム(調音の能力の発達)が入り混じるようになると、それが表情を増しながら言葉や歌になっていく過程が表現されているように感じられ、フルートの楽器としての性格を越えて人間の発声器官(呼吸器官を含む)との境界が曖昧に感じられる独特な音響世界が非常に面白く感じられました。次に、2曲目ですが、息を吐く、息を吸うという生命のリズムを繰り返しながら(個人的には寝息をイメージ)、キーノイズ、スラップ・タギングやトリルなどが処々に挿入されていきましたが(個人的には寝息が途切れる鼾や寝言などをイメージ)、その深い呼吸によって刻まれる生命のリズムが心地良く感じられ、耳で聴く音楽というよりも体で感じる音楽という特徴はマインドフルネスの実践などにも有効であるように感じられ、遥か太古の生命を育んだ海(波)のリズムにイメージを膨らませながら音楽の根源的な意義に思いを馳せる貴重な芸術体験になりました。これらの2曲はフルートの特殊奏法の高度な演奏技術も然ることながら、どのように楽譜を読み解いて(その記譜法にも興味がありますが)、どのように音を作り表現するのかという豊かな想像力や表現力が求められる楽曲に感じられますが、山本英さんの音楽的なイメージが明確に伝わってくる好演で楽しめました。
 
③精細な精神の完全性 14の鐘のための補完(1986年)
④白の探求(1986年)
先ず、1曲目ですが、14個の組鐘が一般的な構成なのか分かりませんが(楽器はオーダーメイド?)、オルゴールの起源と言われている室内用カリヨンを使って演奏されました。冒頭では静寂の中で1つの鐘が均等かつ厳かに連打されましたが、やがてリズム、強弱や音色などのバリエーションを増しながら音楽へと発展して行く過程が表現されているように感じられ、最後に鐘の残響を聴きながら再び静寂に出会う余韻のある終曲になっていました。この曲の標題から、古来、ヨーロッパでは鐘の音は神のしるしであり、その神聖な響きは悪魔を祓うものとされ、町の中心にあるキリスト教会の鐘楼は時を支配するキリスト教会の権威を象徴するものでしたが、ヨーロッパ人が聴く鐘の音が持つ歴史的・文化的な意味に思いを馳せながら興味深く傾聴しました。次に、2曲目ですが、ジャズドラムを使って演奏されましたが、1曲目と同様にスネアドラムが均等に連打されますが、やがてバスドラム、フロアタム、シンバルなどが加わって音色、リズムや強弱などのバリエーションが重なり、ジャズドラムの多彩な音響を楽しめました。安藤巴さんが演奏機会が少ない楽曲であると仰っていましたが、とりわけ④白の探求は日本初演?と言えるかもしれず、(知る限り音盤なども見当たりませんので)大変に貴重な機会になりました。
 
⑤6つのカプリチオ(1976年)
S.シャリーノさんは「音響の魔術師」と評されているとおり、音価、音圧、音色や音高(微分音ではなくグリッサンド)などを細分化した微細音を精妙に操りながら独特の音響世界を顕在させる天才です。全曲を通してハーモニクスが効果的に使用されており、第1曲は細かく波打つアルペジオ、第2曲は幻想的にたゆたうトリル、第3曲は細かく高密度な重音スピッカート、第4曲はトリル、グリッサンド、スタッカートやデュナーミクなどを駆使したテンションの高い鋭角の音響、第5曲はスラーやデュナーミクなどを効果的に使った浮遊感や遠近感のある音の連なり、第6曲は左手のピッチカートが印象的に使用され、まるでスペクトル音楽を聴いているようなS.シャリーノさんの真骨頂とも言うべき多彩な音響など、ヴァイオリンの表現可能性を探求した多彩な曲想が面白く感じられ、アコースティック楽器からエレクトロニクスのような音響を紡ぎ出す「魔術」と言ってよいかもしれません。石上真由子さんは惚れ惚れするような盤石のテクニックで規格外の曲想(Sシャリーノさんのアイディア)を汲み尽くす演奏効果の高い秀演を楽しむことができ、是非、この曲をレパートリーに加えて頂いて再演を期待したいと思っています。イタリアのシンボルカラーである青を基調とする衣装とメッシュも舞台に華を添えていました。
 
☟S.シャリーノのモノオペラ「ローエングリン」の台本は、ジュール・ラフォルグの散文集「道徳的伝説」より「パルジファルの子~ローエングリン」(1887年)を翻案したものです。
 
▼オペラ「午後の曳航」
【演題】二期会創立70周年記念公演/日生劇場開場60周年記念公演
    オペラ「午後の曳航」
【演目】ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ オペラ「午後の曳航」
     <黒田房子>林正子(Sop)
     <登/3号>山本耕平(Ten)
     <塚崎竜二>与那城敬(Br)
     <1号>友清崇(Br)
     <2号>久保法之(Br)
     <4号>菅原洋平(C-ten)
     <5号>北川辰彦(B-br)
     <航海士>市川浩平(Ten)
     <ダンサー>池上たっくん、石山一輝、岩下貴史、後藤裕磨
           澤村亮、高間淳平、巽imustata、中内天摩
           中島祐太、パトリック・アキラ、丸山岳人、山本紫遠
【原作】三島由紀夫
【台本】ハンス=ウルリッヒ・トライヒェル
【演出】宮本亞門、澤田康子(助手)、成平有子(助手)
【指揮】アレホ・ペレス
【演奏】新日本フィルハーモニー交響楽団
【美術】クリストフ・ヘッツァー
【照明】喜多村貴
【映像】パルテック・マシス
【振付】avecoo
【監督】幸泉浩司(舞台)、大島幾雄(公演)、佐々木典子(公演補)
【場所】日生劇場
【日時】2023年11月23日(木・祝)17:00~
【一言感想】
公演後に簡単に感想を書きたいと思います。
 
H.W.ヘンツェさん作曲のオペラ「午後の曳航」(1990年初演)を東京二期会が宮本亞門さんの演出で上演するというので観劇することにしました。このオペラは三島由紀夫さんの小説「午後の曳航」(1963年)を原作としていますが、1997年の神戸連続児童殺傷事件の犯人・酒鬼薔薇聖斗の出現を暗示した作品としても話題になったことは未だ記憶に新しいと思います。海外と異なってラブリー&イージーなもの(大脳辺縁系に効く作品)しか好まない観客が多い日本では受容され難い作品(大脳新皮質に働き掛ける作品)かもしれませんが、オペラ公演の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
千秋楽(ネタバレ解禁)を迎えたので、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。上述したとおりH.W.ヘンツェさんは三島由紀夫さんの小説「午後の曳航」(1963年)を原作としてオペラ「裏切られた海」(1990年)を作曲しましたが、その日本語改訂版を2003年にアルブレヒトさん@読響がセミ・ステージ形式で日本初演し、その際にオペラのタイトルが原作の題名である「午後の曳航」に改められました。その後、海外での再演にあたりドイツ語版に改訂されましたが、今回、そのドイツ語版が日本初演されました。因みに、日本人の現代作曲家が三島文学を題材にして創作したオペラは、僕が知る限り、青島広志さんのオペラ「黒蜥蜴」(1984年)、同「サド侯爵夫人」(2017年)、細川俊夫さんのオペラ「班女」(2004年)及び2019年に東京二期会で上演された黛敏郎さんのオペラ「金閣寺」(1991年)などに留まりますが、後者2作品は海外の委嘱作品であることを踏まえると、新しいものを受容できない日本の観客の資質が祟って日本で新しいオペラを創作し、それを世界に発信することの難しさを感じさせます。さて、このオペラは外国で上演することを前提に創作された為なのか、原作の題名になっている少年達が塚崎竜二(去勢された戦後日本のメタファー)を解体するためにドックまで曳航する重要な場面(上表の写真を参照)が割愛されている点、少年達が救済計画を理論武装する過程で日本の刑法(ドイツの刑法も日本と同じく14歳未満は刑事責任能力なし)を挙げる重要な場面が割愛されている点、「少年」(去勢された戦後日本を断罪する者)を「ギャング」(単なる反社会的勢力)という設定に変更することで原作のテーマ性(但し、日本人以外には理解し難いテーマ性だとは思いますが)が矮小化されてしまっている点及びラストシーンで黒田房子が塚崎竜二を解体するドックに姿を現す点(原作では少年達の綿密な計画により黒田房子を巧妙に騙して塚崎竜二は海に帰った「英雄」として始末される含みが残されていますが)などにより原作までもが去勢されてしまった憾みがあり、その意味で(日本人以外には理解し難いとしても)オペラの台本には改良の余地があるように感じられます。その点を除けば、このオペラが20世紀を代表する傑作オペラであると確信するに足りる充実した内容を備えたものであることを堪能できる舞台を楽しむことができました。冒頭で穴を覗き込む黒田登の目がスクリーンに大きく映し出されましたが、これは去勢された戦後日本の時代状況をじっと覗き込む目であり、その視線の先にある客席の観客も塚崎竜二に連なる一人(断罪の対象となり得る被告人)としてドラマの当事者であることを強く意識させる効果的な演出になっており、冒頭から宮本亞門さんのウィットの効いたセンスの良さに唸らされました。何よりも、このオペラに付されているH.W.ヘンツェさんの音楽が素晴らしく、ペレスさん@新日フィルのメリハリの効いた推進力ある演奏に支えられて、力強いリズムと多彩なオーケストレーションに彩られた音楽による緊迫感に満ちたドラマ運びには固唾を呑みました。H.W.ヘンツェさんは数多くの傑作オペラを残していますが、その音楽はポスト・モダンよろしく聴き易さと斬新さとがバランス良く共存しており、それが人々から高い評価を得て世界中で再演されているのも得心できます。日本人は映画、ドラマやゲームなどを通して現代音楽に慣れ親しんできた人が多いと思いますが、このオペラも現代音楽の語法を巧みに採り入れて劇的な表現効果を生むことに成功している好事例であり、オペラ愛好家の減少が囁かれる状況にあって、オペラというジャンルの伸び代の大きさを感じさせる傑作だと思います。このオペラは全二幕14場で構成されており幕間休憩以外は間断なく舞台が展開しますが、水墨画をイメージさせるストイックな舞台セット(ビジュアル・アートを含む)が小気味よい舞台展開を可能にし、その抽象性が却って観客のイマジネーションを豊かに誘う効果を生んでおり、歌、ダンス、音楽、演出、美術、舞台展開がテンポ良く有機的に絡み合う洗練された舞台になっていました。大阪・関西万博でも批判の的になっている大量の廃棄物を排出する大掛りな設えはもはや前時代的であり、SDGsの時代に相応しい舞台演出にも配慮の行き届いたコンパクトな舞台にまとめられていたように感じました。このオペラでは黒田登の周囲にダンサー(黒子)が配置され、黒田登の刻々と移り変る内心をダンスによって表現していましたが、ドラマとダンスがバランス良く融合し、少年達が集う場面(上述のとおりギャングという設定)ではミュージカル「ウェスト・サイド・ストリー」を思わせるような挑発的な音楽が挿入されるなど、歌劇(オペラ)の枠組みから一歩踏み出して歌舞劇(ミュージカル)を見ているようなアピール度の高い舞台表現の拡がりが感じられました。このオペラの中心に据えられている少年達のドックでの密談、謀議にはいずれも充実した音楽が付されており、4声(テノール、カウンター・テナー、バリトン、バス・バリトン)の五重唱とダンス(群舞)がこのオペラ全体を引き締める迫力のある場面になっていました。少年達の五重唱を含めて東京二期会の精鋭を揃えた歌手陣によるクォリティーの高い歌唱には面目躍如たるものがあり、第2場(塚崎竜二との出会い)や第13場(塚崎竜二との結婚)ではソプラノの林正子さんが黒田房子の女心を歌う繊細な情感表出が出色で第14場(塚崎竜二の解体)の阿鼻叫喚との明暗を際立たせるドラマティックな展開を生んでおり、また、テノールの山本耕平さんが歌う黒田登の純粋な精神から生まれる繊細と狂気(ロマン主義的な美学)の狭間に揺れ動く複雑な心理描写と、バリトンの与那城敬さんが歌う塚崎竜二の英雄的な高潔さ(死と向き合う海上の生活)から小市民的な偽善(堕落した陸上の生活)へと変貌し、去勢されていく心理描写が対照的に表現されており、塚崎竜二、黒田房子、少年達(ギャングという設定)の三様とそれらの狭間で揺れ動く黒田登の関係性が明瞭な舞台になっていたと思います。現代音楽(オペラを含む)を扱う公演は客入りが芳しくない傾向がありますが、新しいものを受容できない日本の観客の資質に合わせていては優れた作品を後世に残すことは叶いませんので、将来への投資として芸術文化を助成するための公的な支援は必要不可欠なものであると実感します。
 
 
▼能声楽家・青木涼子コンサートシリーズ「現代音楽✕能」
【演題】能声楽家・青木涼子コンサートシリーズ「現代音楽✕能」
    第10回記念公演
【演目】①アヌリース・ヴァン・パレイス
     「蝉のおべべ 」謡と弦楽三重奏のための(世界初演)
     <能声楽>青木涼子
     <Vn>成田達輝
     <Va>東条慧
     <Vc>上村文乃
    ②ホセ・マリア・サンチェス=ベルドゥ
     「彼方なる水」謡とヴァイオリンのための(2018年)
     <能声楽>青木涼子
     <Vn>成田達輝
    ③細川俊夫 「小さな歌」チェロのための (2012年)
     <Vc>上村文乃
    ④クロード・ルドゥ
     「富士太鼓」 謡と弦楽四重奏のための (2021年/日本初演)
     <能声楽>青木涼子
     <Vn>成田達輝
     <Vn>周防亮介
     <Va>東条慧
     <Vc>上村文乃
    ⑤坂田直樹 「鉄輪」謡と弦楽四重奏のための(世界初演)
     <能声楽>青木涼子
     <Vn>成田達輝
     <Vn>周防亮介
     <Va>東条慧
     <Vc>上村文乃
【場所】東京文化会館小ホール
【日時】2023年11月30日(木)19:00~
【一言感想】
公演後に簡単に感想を書きたいと思います。
 
能の謡を現代音楽に融合させた「能声楽」という新しいジャンルを生み出し、2010年から世界的な現代作曲家・細川俊夫さんを始めとして世界20ケ国44名の現代作曲家の委嘱作品を発表している青木涼子さんが能声楽家・青木涼子コンサートシリーズ「現代音楽X能」第10回記念公演を開催するというので聴きに行くことにしました。海外公演の招聘が多く、海外では非常に注目されてきている印象を受けます。海外と異なってラブリー&イージーなもの(大脳辺縁系に効く作品)しか好まない観客が多い日本では新しいもの(大脳新皮質に働き掛ける作品)を生み出し又はこれが受容されることは非常に厳しい状況にあると思いますが、演奏会の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
今日は大阪・関西万博開幕500日前だそうですが、夜間、東京スカイツリーが大阪・関西万博のイメージカラーである「赤」「青」「白」の3色にライトアップされていました。大阪・関西万博の公式キャラクター「ミャクミャク」は約38億年前に生命が誕生してから脈々と受け継がれてきた生命の営み(文化、芸術を含む)を未来につなぐというコンセプトから生まれ、そのイメージカラーは生命を育むために必要な「赤」(細胞)、「青」(水)、「白」(光)を意味しているそうですが、丁度、青木涼子さんの衣装が「青」「白」、成田達輝さんの衣装が「赤」「黒」を基調とするデザインでしたので、青木さんが取り組まれている能の謡を未来につなぐという趣意と重なって縁起のようなものが感じられました。今日は現代音楽の公演には珍しく客入りが好調でしたが、これまでの青木さんの取組みが海外だけではなく日本国内でも支持されていることがよく分かり、この活動が次世代へ脈々と受け継がれて行くことを期待します。この点、もともと能は前衛的な性格が強く、能の客層はコンテンポラリー作品を受容できる資質を備えた方が多いと思われ、また、海外では日本的な美に対する関心が高いと聞いていますので、能声楽という新しいジャンルの潜在的なニーズは高いのではないかと思われます。因みに、青木さんは先日の東京二期会のオペラ公演「午後の曳航」で新日フィルを指揮したアレホ・ペレスさんと旧知の仲だそうですが、そのパンフレットに青木さんがA.ペレスさんを紹介したインタビュー記事が掲載されており活動、交友の幅広さを窺わせます。
 
①「蝉のおべべ」謡と弦楽三重奏のための(世界初演)
ベルギー人現代作曲家のアヌリース・ヴァン・パレイスさん(1975年)は、オペラ、インスタレーション、ミュージックシアターなどの声楽作品に定評がありますが、今日は青木さんが作曲を委嘱した作品が世界初演されました。昨年、V.バレイスさんが来日された際に出会った金子みすゞさんの詩と来日中に耳にした蝉の鳴き声にインスピレーションを受けて、金子みすゞさんの詩「蝉のおべべ」をテキストとして使用し、この曲を作曲したそうです。金子みすゞさんの詩は自然を愛しみ、そこに脈々と息衝く生命の営みに暖かい眼差しが向けられているものが多い印象を受けますが、弦楽三部がフラジョレット、アルペジオ、ポルタメントなどの特殊奏法を織り交ぜながら蝉の鳴き声や夏の陽炎などをイメージさせる幻想的な音楽表現でこの詩の世界観へと誘い、謡が繊細な節回しでこの詩の言葉に込められた情緒を優しく紡ぎ出す好演を楽しめました。
 
②「彼方なる水」謡とヴァイオリンのための(2018年)
スペイン人現代作曲家のホセ・サンチェス=ベルドゥさん(1968年)は、サウンド、ビジュアルやパフォーマンスなどを使った空間演出に優れたインストレーションや舞台作品に定評がありますが、今日は2018年に日本スペイン外交樹立150周年を記念して在日スペイン大使館が作曲を委嘱した作品が再演されました。古今和歌集に収録されている「水」にまつわる三首の和歌(①伝)柿本人麻呂の和歌、②紀貫之の和歌、③詠み人しらずの和歌)をテキストに使用し、この曲を作曲したそうです。ステージの四隅に向かい合うように譜面台が配置され、その譜面台を青木さんと成田さんがすり足で移動しながら演奏することで空間的な広がりが感じられる舞台になっていました。先ず、上記①の和歌ですが、ヴァイオリンがフラジオレット、アルペジオなどの特殊奏法による微細音を使いながら、この和歌に詠まれている小波や霞などの情景をまるで印象派の絵画のように幻想的に描き出し、此岸と彼岸をつなぐ能の物語構造を意識したものか、東京文化会館小ホールの残響を上手く利用して繊細に響きを操りながら遠景のしじま(静寂、彼岸)へと消え入るような余韻を湛えた謡が白眉でした。心象風景を見ているような描写力のある音楽を楽しめました。次に、②の和歌ですが、吐息や繊細な節回しを織り交ぜながら、さながら月光が柔らかく差し込むようなホールに澄み渡る謡の美しさが出色で、ヴァイオリンが謡を模倣して天空の月(謡)と水面の月(ヴァイオリン)を対照する風流を解する空間表現が面白く感じられました。最後に、③の和歌ですが、ヴァイオリンが奏でる微細音のアルペジオは乱れる恋心、ピッチカートは零れ落ちる涙を表現したものか、謡が和歌に込められた言葉にならない想いをささやくようなカタリや溜め息などで表現し、ヴァイオリンが和歌の一言一言にピッチカートで歌い添う情感表現が詩情を深くする効果を生んでいたと思います。閑寂な風情を醸し出す日本的な美意識の表現が素晴らしい珠玉の3曲を楽しむことができました。
 
③「小さな歌」チェロのための (2012年)
日本人作曲家の細川俊夫さん(1955年)は、毛筆の線を音で表現する「音の書(カリグラフィー)」を創作のテーマの1つにされていますが、2009年にチェリスト・堤剛さんに献呈したチェロ協奏曲「チャント」をチェロ独奏用に改作した曲が堤さんの愛弟子である上村さんにより演奏されました。今日は細川さんが会場に見えられており、毛筆と声の関係に関する興味深い話を伺うことができました。「チャント」とは仏教音楽「声明」のことで、声明は毛筆のような柔らかい線を持ち、その声(毛筆の線)は無音(空白)から生まれて無音(空白)へと帰するもので、その声の延長線上に器楽があるという趣旨の話を伺うことができました。毛筆は呼吸と筆面から美しく生きた線が生まれると言われており、息を吸ってから筆を下ろし(入筆)、静かに息を吐(呼)きながら筆を走らせる(運筆、終筆)という一連の呼吸によって書が生み出されますが、これは息を吐く(産声を上げる)ことで命が生まれ(有)、息を吸う(息を引き取る)ことで命が終わる(無)という仏教の死生観にも通じるものがあるように思われます。演奏者の吐息やピッチカートから演奏が始まり、やがて重音、ビブラート、フラジオレット、デュナーミクやテンポなどを操りながら様々な書風(毛筆の線の太さ、勢い、濃淡など)が表情豊かに表現され、流れる線や迫力のある線など様々な線が生み出されるイメージが音楽的に生き生きと表現されていました。細川さんの音楽には深淵な世界観や強いメッセージ性を感じることが多いですが、この曲は音の書(毛筆の線=有、空白=無)を通して仏教的な世界観(一即一切、一切即一)を表現しているように感じられます。なので、終曲(終筆)の無音(空白)に宿る音(書、生命)の源泉を感じ取りたかったのですが、最も静寂が求められる瞬間に咳込む客人がいて興が覚めてしまいました。生理現象なので仕方がないと言えば聞き分けが良さそうですが、やはり大人の思慮分別があれば、演奏開始前に飴を口に含む気働きが欲しいと言わざるを得ません。僕は習慣化しています。
 
④「富士太鼓」 謡と弦楽四重奏のための (2021年/日本初演)
ベルギー人現代作曲家のクロード・ルドゥさん(1960年)は、音楽のクロスオーバーという視点から民族音楽を精力的に研究され、とりわけ日本を含むアジア音楽にインスパイアされた作品を数多く作曲されていますが、今日は2021年にベルギーのアルスムジカ音楽祭から作曲を委嘱され初演された作品が再演されました。能「富士太鼓」の詞章をテキストとして使用し、この曲を作曲したそうです。能の構造を意識したのか、能楽囃子よろしく弦楽四部が刻みやピッチカートなどを使ってリズム(気魄や間など)の緩急を奏で、演奏者が気魄こそ込められていませんでしたが掛け声を発し、名ノリ笛よろしく青木さんが拍子木と鐘を叩くと、弦楽四部がフラジオレットを奏でながらシテ(亡霊)が顕在する様子が音楽的に表現されていました。富士太鼓が登場する場面では上村さんと成田さんが楽器の裏板を叩いて太鼓を表現し、また、白銀の扇を使った「花のような美しい舞」を披露する場面では弦楽四部がリズムを詰めながら序破急を演出しているように感じられましたが、やがて謡が「ああなつかしい」としみじみと謡うと留め拍子よろしく鐘と拍子木を鳴らし、弦楽四部が微弱音のスピッカートで余韻ある終曲を迎えました。この曲は能楽堂にインスピレーションを受けて作曲したそうですが、能の構造を踏まえて、その世界観を西洋の楽器と音楽語法を使って表現した意欲作に感じられます。
 
⑤「鉄輪」謡と弦楽四重奏のための(世界初演)
日本人作曲家の坂田直樹さん(1981年)は、シリーズ「現代を聴く」でも採り上げましたので改めて紹介しませんが、青木さんが委嘱した作品が世界初演されました。能「鉄輪」の詞章(後場終曲)をテキストに使用し、この曲を作曲したそうです。今日は坂田さんがフランスから駆け付けられていましたが、フランスの伝統が育んできた響きに対する鋭敏な感性を大切にし、そのなかに日本的な美意識も盛り込みながら創作活動を行っていきたいという豊富を語られていました。この曲では能の特徴であるテンポの伸縮を使ってシテの混沌とした内面を捉え、深い哀しみから鬼になる心情の変化を表現したと語られていました。能「鉄輪」は夫に捨てられた妻が夫と愛人を呪い殺そうとする丑の刻参りで鬼になるという曲趣ですが、上述のとおり嫉妬は思慕と憤怒という相反する感情が入り乱れた状態であり、このような感情が繰り返し生起するうちに怨恨(憤怒が思慕を上回る状態)へ発達し、やがて人間の脳はこのような生存可能性を低下させる可能性がある状態を回避する行動を促すように働きます。坂田さんが響きを大切にしていると仰っていたとおり、その響きを巧みに使った表現のバリエーションが非常に豊かに感じられ、この曲も恨み節の1本調子ではなく、様々な特殊奏法を駆使しながらシテの内心に入り乱れる複雑な心情とそれが取り留めもなく変化する様子が肌理細かく描写されているように感じられました。やがて嫉妬から怨恨へと心が染まると、弦楽四部がポルタメントやフラジョレットなどの特殊奏法を使って妖気的な雰囲気を醸し出し、テンポやデュナーミクなどを効果的に使って心に募る女の情念の焔が見事に表現されていました。やがて不協和音を重ねながら女の情念が塒を巻き、謡が地の底から響いてくるような声で「うらめしや」と繰り返すと憤怒が思慕を覆い尽して鬼になる悲劇が繊細かつドラマチックに表現されており、非常に着想が豊かで面白い曲を楽むことができました。坂田さんは噂とおりの稀有な才能の持ち主のようなので、今後とも耳を離せません。
 
現代に観阿弥や世阿弥が生きていれば、おそらく今日の公演のように能の新しい表現可能性を貪欲に追究していたのではないかと思いますが、「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である。」というC.ダーウィンの名言のとおり、能の未来を拓く青木さんの革新的な取組みに今後とも期待し、応援していきたいと思っています。
 
☟このアルバムにはP.エトヴェシュさんが三島由紀夫さんの自決を題材にして作曲したミュージックシアター「harakiri」(バス・クラリネット版)が収録されています。必聴。
能×現代音楽

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◆シリーズ「現代を聴く」Vol.30
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼ミッシー・マッツォーリのオペラ「Proving Up(証明)」(2018年)
アメリカ人現代作曲家のミッシー・マッツォーリ(1980年~)さん(再掲)は、2017年にアメリカ音楽批評家協会第一回最優秀オペラ賞、2022年にミュージカル・アメリカ年間最優秀作曲家賞などを受賞し、P.ゲルブ総裁のもとで改革が進むメトロポリタン歌劇場からアメリカ人現代作曲家のジャニーン・テソリ(1961年~)さんと並んで新作を委嘱された最初の女性作曲家の1人で、オペラ「バルドーのリンカーン」が2025年に英国国立歌劇場、2026年にメトロポリタン歌劇場で初演される予定です。この動画はアメリカ人作家のカレン・ラッセル(1981年~)さんの短編集「レモン畑の吸血鬼」に収録されている同名小説を翻案したオペラで、2018年にオペラ・オマハなどにより初演され、2022年にシカゴ・リリック・オペラで再演されています。
 
▼ダン・ヴィスコンティのインタラクティブ・ビデオ・ゲーム・オペラ「パーマデス」(2018年)
アメリカ人現代作曲家のダン・ヴィスコンティ(1982年~)さんは、ヴァイオリニストとして活躍していましたが、最近ではジャズ、ブルースやロックなどのアメリカン・ポップスの要素と現代音楽を融合した作風で現代作曲家としても頭角を現し、その斬新で多彩な作品が人気を博してジュピター弦楽四重奏団などの著名な団体から新作を委嘱されるなど、最も注目されている現代作曲家の1人です。このオペラはゲームとオペラを融合したハイブリッドな作品で、1974年に宝塚歌劇団が始めたアニメとミュージカルを融合した2.5次元ミュージカルのオペラ版です。この題名「パーマデス」とはゲームアバターが死亡するとプレーヤーは全てを失うゲームシステムを意味し、21世紀の神々であるゲームアバターがサイバー空間で壮絶な死闘を繰り広げるオペラになっています。
 
▼薮田翔一の「柳河風物詩」より「かきつばた」(2023年)
日本人現代作曲家の薮田翔一(1983年~)さんは、2015年に弦楽四重奏曲「 Billow(大波)」で第70回ジュネーブ国際音楽コンクール作曲部門優勝、2016年に第26回出光音楽賞などを受賞し、現在、最も注目されている若手の現代作曲家の1人です。この曲は、北原白秋が少年時代を過ごした故郷の福岡県柳川市の思い出を歌い上げた第二詩集「思ひ出」(全7章215篇)のうち最終章「柳河風俗詩」から詩篇「かきつばた」をもとに薮田さんが作曲したものです。過去、この詩篇をもとに現代作曲家の多田武彦さんが男性合唱曲(無伴奏)を作曲していますが、薮田さんはソプラノ独唱(ピアノ伴奏)として作曲することで、この詩の世界観を瑞々しく表現しています。ソプラノの小川栞奈さん及びピアニストの大下沙織さんによる詩情を湛えた美しい演奏をお聴き下さい。

瀬川裕美子ピアノ・リサイタル「ブーレーズ:第2ソナタ別様の作動」とジュリアード弦楽四重奏団「カヴァティーナ」とアート脳を描写する神経美学<STOP WAR IN UKRAINE>

▼アート脳を描写する神経美学(ブログの枕単編)
今回も公演数が多くなりましたので、ブログの枕は単編にします。前々回のブログ記事では現代アートの歴史を簡単に俯瞰しながら美意識の拡張について触れましたが、今回はその続編として最先端の学問である神経美学の概要を簡単に概観しながら美意識の拡張について触れてみたいと思います。現在、「美」に関する普遍的な定義は存在しませんが、「分析美学」(1950年頃に生まれた分析哲学の手法を用いて「美」の主観的な側面を扱う哲学的なアプローチ)や「神経美学」(2000年頃に生まれた脳科学や心理学の手法を用いて「美」の客観的な側面を扱う科学的なアプローチ)などの学問領域で「美」の諸相が探求されています。これまで哲学的にアプローチされてきた「美」の概念に科学的なアプローチが加わったことで、より高い解像度で「美」の実相に迫ることができるようになり「美学」が見通しの良い学問へ発展しているように感じられます。さて、前々回のブログ記事で現代アートの歴史を簡単に俯瞰しましたので、それ以前のアートの歴史を美学的な視点から大雑把に俯瞰しておくと、中世までは「美」と「アート」の概念は区別されて「美」(神の秩序)は神学の領域、「アート」(人の技芸)は「美」を本質的な要素としない学芸(知識人が頭脳を使う文芸及び音楽)及び技術(職業人が身体を使う絵画、彫刻及び建築などの造形)の領域で扱うものとされ、「美」は神の秩序を模倣する完全な調和や均整を体現したシンメトリーなものとされていたなど、宗教権威が「美」を独占して「美」の客観的な規範を定めていました(客観主義)。やがて十字軍遠征の失敗による宗教権威の失墜などを契機として近代前期(15~16世紀)にルネサンスが勃興すると(宗教権威による神の支配から絶対王政による人の支配へと移行)、王立アカデミーが設立されて「美」が神学の領域から学芸の領域で扱うものとされ、「美」と「アート」の概念が融合されて「アート」のうち「美」(神の秩序から人の理性へと変遷)を本質的な要素とする「芸術」(文芸、音楽、絵画、彫刻や建築など)が発展しました。その後、近代後期(17~19世紀)に科学革命(N.コペルニクスの地動説、I.ニュートンのニュートン力学など)や啓蒙思想(J.ロックの経験主義など)の影響から神の秩序に基づく世界観が崩壊し、宗教権威や絶対王政による「美」の独占を逸脱して「美」(人の理性から人の本能へと変遷)は自らの感覚で主観的に発見するものであるという考え方が生まれ(主観主義)、芸術家の感情を表現する不完全で混沌としたアシンメトリーなものにも「美」を発見するようになり「美」の概念が客観主義から主観主義へ大きく転換しました。なお、I.カントは真や善などの宗教的又は理性的な概念から「美」を解放して「美」の自律性を説きましたが(19世紀の耽美主義へと発展)、その一方で「美」は普遍的妥当性も要求されるものとして客観主義との折衷的な考え方を採り入れました(美学の誕生)。現代(20~21世紀)は、「イズム」(モダニズムに基づく規格化された価値観)から「アート」(ポスト・モダンに基づく多様な価値観)を志向する潮流が生まれ(芸術からアートへ美意識を拡張)、客観主義又は主観主義、自然主義又は耽美主義などの二項対立で「美」の概念を捉える硬直化した態度は廃れ(例えば、コンセプチャル・アートは「概念」を採り入れ↔美の自律性、ソーシャルエンゲージメント・アートは「実用表現」を目的としている↔耽美主義など)、また、従来の「美」の概念を逸脱して「醜」をアート表現として採り入れ(例えば、F.ベーコンは「醜」を人間の真実を映し出すものとして利用したなど)、さらに、従来の「アート」の概念を逸脱して人の技芸を必要としないものもアート表現として採り入れるなど、「美」や「アート」の概念を柔軟に捉えた多様なアートが生み出されています。上述のとおり「美」に関する普遍的な定義は存在しませんが、1990年代後半に開発された脳の血流の変化を調べる機能的MRI(BOLD法)が開発され、人間の知覚、認知、情動や行為などに関する脳の機能を研究する学問(認知神経科学)が大幅に進歩したことで人間が「美」を感じる際の脳の機能が徐々に解明されてきています。その研究成果として人間が具象や抽象などのジャンルを問わずアートに「美」を感じる際には常に「内側眼窩前頭皮質」(左上の脳のイラストの赤色下部にある新しい脳)が活発に活動することが解明され、また、アート以外のもの(身体、道徳、数理など)に「美」を感じる際にも同じく「内側眼窩前頭皮質」が活発に活動することが解明されています。また、脳の機能の観点から見ると「美」には、身体、感覚、欲望など生物(自然)的欲求に関係する先天的に備わる普遍的・不変的な「本能的美」と心根、芸術、道徳など社会(人工)的欲求に関係する文化や学習など後天的に備わる個別的・可変的な「理性的美」の大きく2種類に分類することができ(過去のブログ記事で触れたとおり、西洋音楽の和声法に由来する美は理性的美として後天的に備わったもので普遍的な美意識でないという研究結果があります。)、「本能的美」は「内側眼窩前頭皮質」+「腹側線条体」(左上の脳のイラストの黄色部位にある古い脳)が、また、「理性的美」は「内側眼窩前頭皮質」+「背側前頭前皮質」(左上の脳のイラストの赤色上部にある新しい脳)がそれぞれ活発に活動していることが分かっています(下図参照)。宛ら、人間が「美」を感じる際に共通して活動する「内側眼窩前頭皮質」は美のオペレーティング・システム(統合処理を行うOS)、「美」の種類に応じて活動する「腹側線条体」及び「背側前頭前皮質」などは美のアプリケーション(分散処理を行うAP)として、これらが連携して多様な美意識を生成していると形容することができるかもしれません。過去のブログ記事でも触れたとおり、人類は約5億年前の認知革命(突然変異)を契機として徐々にアート脳にアップグレードされてきましたが、人間が進化する過程で迅速な判断と行動を可能とするために、先ず、「腹側線条体」(古い脳)が生命活動において生存可能性を高めるもの(例えば、肉食の動物とは異なって、人間の視覚には食用の果物は色鮮やかに見えるなど)を「美」として認知する認知パターンを構築し、自然環境に迅速に適応するために普遍的・不変的な美意識(主な対象は自然の事物)を生成するようになり、次に、人間が社会を形成するようになると「背側前頭前皮質」(新しい脳)が社会活動において生存可能性を高めるものを「美」として認知する認知パターンを構築し、流動的な社会環境に柔軟に適応するために個別的・可変的な美意識(主な対象は人工の事物)を生成するようになったと考えられます(美意識の拡張)。
 
【認知テスト】何が見えますか?
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さて、ここで突然の謎掛け(認知テスト)ですが、上の画像に何が見えますか?過去のブログ記事で何度か触れているとおり、人間は「知覚」X「記憶」の組合せで「認知」しますが、この組合せを越えて「認知」することは不可能と言われています。この点、人間が「認知」を拡張するためには、「知覚」X「記憶」の組合せのパターンを変えること(新しい視点)又は「知覚」(体験)や「記憶」(学習)を増やすこと(新しい知識)が必要であると言われています。また、人間の「認知」は認知対象以外の環境(知覚)や文脈(記憶)などからも影響を受け易いと言われており、例えば、同じワインでもワインラベルやストーリーテリングによってそのワインの風味が違って感じられるという研究結果もありますので(ラベリング効果による同調バイアス)、美意識を含む人間の「認知」はいい加減なものと言えそうです。A.アインシュタインが人間嫌いであったことは有名な話ですが、独創的な発想とは他人との交流(同調バイアスを受け易い状態)の中から生まれるのではなく、他人との交流を遮断した環境(同調バイアスを受け難い状態)の中から生まれると言われています。例えば、即興演奏を行うアーティストの脳内では「デフォルトモード・ネットワーク」(自分の内面から生じる音楽的な衝動に意識を向かわせる脳の機能)や「背側前頭前皮質」(他人への注意や批判に意識を向けることを抑制する脳の機能)が活発に活動していることが分かっており、他人への関心を弱めて自己の内面に向かうことが独創的な発想を育み、閃きに満ちた創造的な営為へと昇華するために必要であると考えられています。日本人には同調バイアスが強く全体主義的な傾向(西洋音楽の対位法に対して伝統邦楽のユニゾンに象徴される日本社会の文化的な基層)が見られることから欧米人に比べて独創的な発想を育み難いことが指摘されていますが、これが日本人は欧米人に比べて現代アートに対する不寛容な態度に陥り易く、また、時代の変革期に脆い凋落日本の原因の1つになっているのではないかと思われます。閑話休題。上記の謎掛けの解題ですが、上の画像(知覚)に何(記憶)が見えますか?と質問されても何も見えてこない(認知)かもしれませんが、上の画像(知覚)に犬(記憶+)が見えますか?と質問されるとダルメシアンの姿が見えてくる(認知)のではないかと思います(それでも分からない方のためにキュレーションをリンクしておきますが、人間の色覚は物の境界線を明確にすることで迅速な認知を可能にする重要な機能を担っています)。この点、「記憶」(犬という属性情報)を補足するだけで格段に認知が容易になることが分かります。このように抽象的なイメージの中に具象的なイメージを認知する現象をワンショット・ラーニング(アハ体験)と言いますが、人間は生存可能性を高めるために曖昧な認知を嫌う特性(認知的完結欲求)がありますので、一度、このような認知パターンを獲得すると、以後、上の画像からダルメシアンの姿を消すことは困難になります(認知バイアス)。P.クレー、W.カディンスキーやP.ピカソなどの画家は、このような認知バイアス(常識)から逃れるために、未だ認知バイアスに支配されていない純粋な目(イノセント・アイ)を持つ子供達が描いた絵画(プリミティブ・アート)を熱心に研究し、人間の認知力の限界に挑戦して新しい世界の発見に心を砕いたと言われています。抽象的なアート表現は、具象的な世界の基本的な構成要素を解体し又はその構成要素の一部を無効にすることで、鑑賞者が自らの記憶に基づいてその世界を創造的に再構築するための機会を与えてくれることがありますが、(個人的な嗜好の問題であることは十分に踏まえたうえで)鑑賞者が知覚から得られる「本能的美」の受容(プリミティブな芸術体験)に留まって記憶から得られる「理性的美」の発見(ソフィスティケートされた芸術体験)に心を拓かない限り「芸術認知症」から抜け出すことは難しいかもしれません。キュレーションは同調バイアスが働いて鑑賞の可能性を狭めてしまう副作用(知識の監獄)が指摘されていますが、その一方で人間を相手にするアート表現である限り記憶から得られる「理性的美」の発見(ソフィスティケートされた芸術体験)の手掛りとなり深い鑑賞を可能にするものとして必要的かつ有用なものであるとも言え、キュレーターから「新しい視点」を学ぶことで新しい視野が拓かれ、「理性的美」の感度が上がって行くことが実感できます(美意識の拡張の実践)。僕の座右の銘の1つに「花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり。」(世阿弥)という言葉がありますが、「花」の存在に気付き得る人間でありたいと願っています。
 
▼美意識を拡張するアート脳
  対象
体に作用する本能的美
(身体・感覚・欲望)
心に作用する理性的美
(心根・芸術・道徳)
脳の認知 知覚
(現在の情報:体験)
記憶
(過去の情報:学習)
脳の部位 新しい脳 (内側)眼窩前頭皮質
(背側)前頭前皮質など
古い脳 (腹側)線条体
脳の報酬 生物的報酬
(好き>欲しい)
社会的報酬
(好き<欲しい)
脳の特性 先天的・普遍的・不変的 後天的・個別的・可変的
アート脳の誕生 認知革命
 
▼瀬川裕美子ピアノ・リサイタル「ブーレーズ:第2ソナタ別様の作動」
【演題】瀬川裕美子ピアノ・リサイタル Vol.9
    「ブーレーズ:第2ソナタ別様の作動」2 in 1 in 2【その1】
    双生の場所:B✕B✕...地続きの間隙・モザイク・透過
【演目】①クルターク 8つのピアノ小品
    ②ベートーヴェン ピアノソナタ第29番変ロ長調
                「ハンマークラヴィーア」から第1、2楽章
    ③ブーレーズ ピアノソナタ第2番から 第1楽章
    ④福士則夫 とぎれた記憶(2000年)
    ⑤ブーレーズ ピアノソナタ第2番 から第3、4楽章
    ⑥ベートーヴェン ピアノソナタ第29番変ロ長調
                「ハンマークラヴィーア」から第3楽章
    ⑦ブーレーズ ピアノソナタ第2番 から第2楽章
    ⑧ブクレシュリエフ 群島Ⅳ(1970年)
    ⑨ベートーヴェン ピアノソナタ第29番変ロ長調
                「ハンマークラヴィーア」から第4楽章
【演奏】<Pf>瀬川裕美子
【場所】トッパンホール
【日時】2023年10月14日(土)16:00~
【一言感想】
伝統の中の革新とその伝統の革新の諸相(解体と再構築):B(ベートーヴェン)→B(ブーレーズ)の世界。演奏会を聴いた後に簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
今日はピアニストの瀬川裕美子さんが2016年から続けているクレーの造形思考をフィーチャーしたコンセプチャルな(かつ、実験的とも言える)演奏会を聴きに行きましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。先ず、約40ページにも及ぶ「私の想形・造形・造響思考ノート」なる冊子が頒布されました。非常に分量が多く、また、濃厚な内容なので未だ冊子に目を通せていませんが、ブーレーズの作品について譜例を用いたアナリーゼが詳述されているようなので、この冊子だけでも十分に元が取れてしまいそうです。2024年1月27日の演奏会でも同じ冊子が頒布されるそうなので、ご興味のある方は入手されることをお勧めします。本日と次回の演奏会の演題はクレーの作品のタイトルから借用されたものであり、また、本日の演奏会は特殊なプログラム構成(上記演目を参照)になっていますが、この冊子の序章には、これらの意図について『「ひとつ」のうちの「ふたつ」と、それを通じた「複次性」。次元を異にしつつも互いに損ねることなく、「対立」ではなく、「両立」しているように見える、<一様ではない複層的な出来事>』を『<統合とは別のあり様の全体性>から、新たに「引き受け直し」、自らを「語ること」』により『ブーレーズの作品の「演奏と解釈」の、更なる「飛躍」への個人的な足掛かり』にしたいと述べられており、瀬川ワールドのエッセンスが僕にも分かる言葉で翻訳されていました。「全体は部分の総和以上である。」(アリストテレス)と言いますが、複雑な全体を部分に分節し、その分節された部分やそれらの部分相互の繋がりを捉え直すことで、全体への新しい視座を獲得するというアプローチは有効な手法ではないかと思われ、それを瀬川さんと一緒に体験するという趣向(一種の実験)が面白く感じられました。以下では、本日のプログラム全体を1つのコンセプチャルな作品として捉え、全ての演目を一括りにして簡単に感想を残しておきたいと思います。先ず、ブーレーズと同年代のクルタークの曲が演奏されましたが、音域を広く使った跳躍音が多く、強音の打鍵や弱音のトリルで描かれる点描、重厚なトーン・クラスターや軽快なグリサンドで描かれる線描、残響と静寂のコントラストなどピアノの多彩な音響を使った視覚的な演奏を楽しむことができました。これに続いて、ベートーヴェンの第1楽章及び第2楽章、ブーレーズの第1楽章と福士さんの曲を挟んで第3楽章及び第4楽章が演奏されました。ベートーヴェンの曲はまるでブーレーズの曲を演奏するように演奏されていたような印象を受けましたが、多少の向こう傷は厭わないアグレッシブな演奏が展開されました。その一方で、ブーレーズの曲は自家薬籠中のものとする洗練された演奏が展開され(この曲を暗譜で演奏されていましたが、それだけ弾き込まれているということなのでしょうか。この曲を暗譜で演奏できるピアニストは世界中を探しても瀬川さんくらいではないかと思います。)、この複雑、難解な曲を後味良く聴かせてしまう力量に舌を巻きました。この後に演奏された福士さんの曲では、その中間部と最終部にバッハのマタイ受難曲から受難コラール「おお、血と傷にまみれし御頭」の和音が借用されており、これがブーレーズの第4楽章やベートーヴェンの第4楽章と呼応して、本日のプログラム構成に有機的な関係性を与える重要な役割を担っていたように感じられました。さらに、この曲では、ペダリングによる息の長い残響が音楽に淡い色彩感を添える効果を生んでいましたが、後半の演目との「間隙の地続き」を演出しているようにも感じられ、非常に考え抜かれたプログラム構成に感心させられました。休憩を挟んで、ベートーヴェンの第3楽章とブーレーズの第2楽章が演奏されました。このように並べて聴いても伝統音楽と現代音楽の隔たりが生む全く異質な曲であるという印象は変わりませんでしたが、その基底にはブーレーズがベートーヴェンの曲を参照しながら作曲した(であろう)ことから生じる親和性のようなものも感じられる貴重な体験となりました。また、両曲ともペダリングによる残響を効果的に使って演奏されていましたが、福士さんの曲との「間隙の地続き」を強く印象付けるものになっていました。これに続いて、ブクレシュリエフの曲が演奏されましたが、本日のプログラム構成自体を群島と形容することもでき、いわば劇中劇を聴くような趣向が面白く感じられました。この曲の楽譜(これは図形楽譜?)がロビーに展示されていましたが、楽譜のどの部分からどのような順番でどのように演奏するのかは演奏者の自由に委ねられているようなので、不確定性の音楽ではなく即興音楽に分類されると思います。多彩な響きで、それぞれの島の個性が際立つ演奏を楽しめました。最後に、ベートーヴェンの第4楽章が演奏されました。この曲はソナタ形式(和声法)にバッハに極まるフーガ(対位法)を採り入れ、これらを凌駕する革新的な試みによって伝統の中の革新が企てられており、ブーレーズなど20世紀の作曲家にも多大な影響を与えていますが、音楽の表現可能性を追究して伝統に挑戦する精神はバッハ(B)からベートーヴェン(B)、ブーレーズ(B)へと受け継がれ、ソナタ形式の解体の試みに見られる伝統の革新に息衝いていることを感じさせる感慨深い終曲になっていました。アンコールではバッハのマタイ受難曲から第39曲アリア「憐れみたまえ、我が神よ」が瀬川さんの独唱付で演奏されましたが、現在も発声レッスンを行われている?ような美声による祈りの歌が心を捉え、涙の音型が心に沁みてきましたが、さながら神のような存在である3Bへのオマージュのようにも聴こえました。
 
▼ジュリアード弦楽四重奏団「カヴァティーナ」
【演題】ジュリアード弦楽四重奏団「カヴァティーナ」
【演目】①ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第13番
    ②ヴィトマン 弦楽四重奏曲第8番(2022年)日本初演
    ③ヴィトマン 弦楽四重奏曲第10番「カヴァティーナ」
                       (2022年)日本初演
    ④ベートーヴェン 弦楽四重奏曲「大フーガ」
【演奏】ジュリアード弦楽四重奏団
     <1stVn>アレタ・ズラ
     <2ndVn>ロナルド・コープス
     <Va>モリー・カー
     <Vc>アストリッド・シュウィーン
【場所】紀尾井ホール
【日時】2023年10月20日(金)19:00~
【一言感想】
伝統の中の革新とその伝統の革新の諸相(融合と進化):B(ベートーヴェン)→W(ヴィトマン)の世界。演奏会を聴いた後に簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
ヴラヴィ〜!!今日はドイツ人現代作曲家、指揮者兼クラリネット奏者のJ.ヴィトマン(1973年~)さんの後期弦楽四重奏曲が日本初演されるというので聴きに行くことにしました。ワールドプレミアの評判などは聞こえてきていましたが、100年後も聴き継がれているであろう名曲の誕生を確信し、その日本初演に立ち会えたことに興奮を禁じ得ません。ヴィトマンさんは、2022年に最も演奏された現代作曲家ランキングで第6位(英国バックトラック社のクラシック音楽統計2022より抜粋)にエントリーされており、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンポーザー・イン・レジデンスを務めるなど、現在、最も旬な現代作曲家の1人です。2026年度の武満徹作曲賞の審査員にも指名されており、どのような視点でどのような曲を選考するのか楽しみです。さて、1997年から2005年までの前期に作曲された弦楽四重奏曲第1番から第5番は既に複数の音盤がリリースされており日本でも演奏会で度々採り上げられている人気曲ですが、今日は2019年から2022年までの後期に「ベートーヴェン・スタディー」というシリーズとして作曲された弦楽四重奏曲第6番から第10番のうち、ジュリアード弦楽四重奏団の委嘱により作曲された弦楽四重奏曲第8番(ベートーヴェン・スタディーⅢ)及び弦楽四重奏曲第10番「カヴァティーナ」(ベートーヴェン・スタディーⅤ)の2曲が日本初演されました。この2曲は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第13番変ロ長調及び弦楽四重奏曲「大フーガ」変ロ長調から主題の一部を借用し、ベートーヴェンの音楽語法のエッセンスを模倣していますが、俄かに調性や様式などを逸脱して自在な書法で次元の異なる地平へと誘う「21世紀の幻想曲」風の曲想が非常に面白く感じられました。先ず、第一ヴァイオリンのアレタ・ズラさんがイニシアティブを発揮する統率のとれた演奏でベートーヴェンの弦楽四重奏曲第13番を手堅く聴かせた後に、ヴィトマンの弦楽四重奏曲第8番(ベートーヴェン・スタディーⅢ)が演奏されました。ヴィトマンの第1楽章の重厚なユニゾンはベートーヴェンの第1楽章のユニゾンを意識したものと思われますが、緩急を自在に操り和声を拡大した浮遊感のあるスリリングな演奏が展開され、これに続く第2楽章ではベートーヴェンの第4楽章のドイツ舞曲風の主題が引用され、それが多様に変奏されましたが、どこかシュールな印象を醸し出す曲調でユーモラスに感じられました。最終の第3楽章ではベートーヴェンの第6楽章の主題に着想を得たものかスタッカートを多用したリズミカルな主題が密度濃く展開され、まるで百花繚乱と形容したくなる多彩で華々しい終曲にまとめられていましたが、ベートーヴェンが伝統の中の革新を企てたエッセンスを使いながらそれを伝統の革新へと進化させる既聴感のない新しい音楽にドーパミンの分泌が促されてシナプス可塑性が活発化することによる知的な興奮や満足を堪能できました。休憩を挟んで、ヴィトマンの弦楽四重奏曲第10番「カヴァティーナ」(ベートーヴェン・スタディーⅤ)が演奏されましたが、ベートーヴェン自身が会心の作と言っている第5楽章「カヴァティーナ」の名前を冠するに相応しい傑作で、ベートーヴェンの時代の叙情とは異なる「21世紀の叙情」とも言うべき独特な情趣を湛え、実に感銘深い恍惚感にすっかり魅了されました。ハーモニクスの使い方が上手く、高弦の清澄なハーモニクスと中低弦の豊かな内声が織り成すコントラストを美しく聴かせ、さらに、コーダでは弱音器を使った微弱音による透徹のハーモニクスが白眉で深い余韻と静寂を湛えて劇的な演奏効果を生んでいました。最後のベートーヴェンの弦楽四重奏曲「大フーガ」は弦楽四重奏曲第13番の最終楽章として作曲されたものですが(当時の聴衆には難解で理解されなかったことから、楽譜の売れ行きを心配した出版社の意向で最終楽章を書き直し、この大フーガだけを独立させて別に出版しています)、今日はヴィトマンの第10番に続けてベートーヴェンの大フーガを演奏するという趣向でした。神のための音楽を作曲したバッハのフーガは理路整然とした端正な彫塑、彫琢により天に向かって祈り上げる荘厳な大伽藍というイメージがある一方で、人間のための音楽を作曲したベートーヴェンのフーガは人間味溢れる荒々しいタッチで地を這いながら何か不条理なものと葛藤している魂の慟哭というイメージがあり全く肌触りの異なるものですが、今日のジュリアード弦楽四重奏団の演奏にはベートーヴェンのフーガに熱い血潮を通わせる凄まじい情念のようなものが感じられ、この曲の精髄に触れる高揚感のある熱演に心腹させられました。なお、最後に愚痴になりますが、今日は超一流のプレーヤー及び演目であったにも拘らず、残念ながら、現代音楽を採り上げている公演のためなのか空席が目立ちました。個々人の嗜好の問題ではありますが、現代音楽や現代アートなど「新しいもの」を受容できないフラジャイルな日本人が多い現状に眉を顰めたくなります。これが日本の優秀、有能なアーティストが国内ではなく海外で活動したがる原因の1つと思われ、また、海外の優秀、有能なアーティストが新作の日本初演にあまりインセンティブが働かない原因の1つでもあると思うと、本当につまりません。さながらエンジン車へのノスタルジーからEVシフトに出遅れ、世界のマーケットから締め出されつつある日本の自動車産業の姿と重なってきます。色々な意味で随分と肌寒くなってきました。
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.29
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼キャロライン・ショウの「マイクロフィクション・ボリューム1」(2022年)
アメリカ人現代作曲家のキャロライン・ショウ(1982年~)さんは、2013年に「8声のためのパルティータ」でピューリッツァー賞、2022年に「海峡」でグラミー賞(最優秀現代クラシック作曲部門)、また、2014年に「Roomful of Teeth」のメンバーとしてグラミー賞(最優秀小規模アンサンブル部門)を受賞するなど、現在、世界で最も注目されている現代作曲家です。この動画はミロ弦楽四重奏団により世界初演された際の模様を収録したものですが、ショウさんは声楽作品を中心にして非常に独創的な曲が多く個人的に注目している作曲家の1人です。
 
▼茂木宏文のチェロ協奏曲「雲の記憶」(2019年)
日本人現代作曲家の茂木宏文(1988年~)さんは、2014年にヴァイオリン協奏曲「波の記憶」で第3回山響作曲賞21、2016年に交響曲「不思議な言葉でお話しましょ!」で武満徹作曲賞第1位、2017年にチェロ組曲「雲の記憶」で芥川作曲賞第1位を受賞するなど、現在、最も注目されている若手の現代作曲家です。この録音は2017年の芥川作曲賞で世界演奏された際の模様を収録したもので、この曲はチェリスト・山澤彗さんに献呈されています。山澤さんは現代音楽のスペシャリストで委嘱初演を含む活発な活動を続けており最も注目しているチェリストの1人です。
 
▼近藤嶺のゲーム音楽「大神」から「太陽は昇る」(2006年)
日本人現代作曲家の近藤嶺(1982年~)さんは、カプコンから発売されているゲームソフト「大神」で現代作曲家の上田雅美さんらと共に作曲を担当されています。米国グラミー賞では2023年からゲーム音楽部門が新設されてゲーム音楽が社会的に認知されましたが、この曲はゲーム音楽の日本版グラミー賞とも言える「みんなで決めるゲーム音楽ベスト100」で2007年から16年間に亘り上位をキープし続けています。この曲は西洋音楽の語法を基調としていますが、伝統邦楽器やその奏法が利用されており、若い世代が伝統邦楽及び現代邦楽に興味を抱く契機としても注目されています。

JOLT Showcase Yokohama 2023<STOP WAR IN UKRAINE>

【注】今回は番外編として「ブログの枕」と「シリーズ現代を聴く」はお休み。
▼JOLT Showcase Yokohama 2023
【演目】①Augented Hyenas
     <サウンドアート・アンサンブル>ノイズ・スカベンジャーズ
    ②The Mother in The Silver Mouth
     <能声楽家>青木涼子
    ③Disruptive Critters
     <パフォーマー>ジョナサン・ダックワース
                  (ロイヤルメルボルン工科大学准教授)
     <パフォーマー>ジェイムズ・ハリック(作曲家)
    ④Strange James
     <エレキギター、歌>ジェイムズ・ハリック(作曲家)
     <ライブ・ペインター>中山晃子       
    ⑤Hagoromo
     <能声楽家>青木涼子
     <サウンドアート・アンサンブル>アンプリファイド・エレファンツ
    ⑥Paracollider
     <映像作家>牧野貴
     <サウンドアーティスト>キャル・ライアル
【技術】ジョナサン・ダックワース(ロイヤルメルボルン工科大学准教授)
    望月茂徳(立命館大学映像学部准教授)
    ロス・エルドリッジ
【場所】BankART Station ギャラリー
【日時】2023年9月24日(日)15:00~
【一言感想】
オーストラリア人作曲家のジェームズ・ハリックさんが監督を務めるオーストラリアに拠点を置く前衛アート集団「JOLT Arts」が能声楽家・青木涼子さんやライブペインター・中山晃子さんらと共に最先端のオーディオ・ビジュアル&インタラクティブ・パフォーマンスの作品及びアーティストを紹介する「 JOLT Showcase Yokohama 2023 」を日本で開催するというので横浜まで視聴に行きました。これだけ充実した内容の公演なのに無料とは驚きましたが、アートとテクノロジーを融合したボーダーレス(音楽とアート、古典と前衛、西洋と東洋、デジタルとアナログなど)なオルタナティブ・アートに触れることができて興奮を禁じ得ません。ヴラヴィー!!なお、2023年9月28日(木)19時~、「JOLT KYOTO 2023」が京都のアートスペース「UrBANGUILD」で開催されますので、ハイブリッドな脳をお持ちの方やハイブリッドな脳にアップグレードしたい方などには特にオススメしておきます。また、2023年11月30日(木)19時~、「能声楽家・青木涼子コンサートシリーズ「現代音楽X能」第10回記念公演」が開催されますので、こちらも聴き逃せません。
 
①Augented Hyenas
ノイズ・スカベンジャーズは、社会から疎外された若者を対象としたサウンド・アート(ルイジ・ルッソロの騒音芸術を嚆矢として視覚ではなく聴覚に訴求するアート表現を基調とし、従来の作曲、演奏や聴取という音楽の基本的な構成要素から逸脱し、音素材から構成された音自体を体感するインスタレーション、パフォーマンスやメディアアートなどのアート作品<具体例>)のワークショップ・プログラムとして誕生したそうですが、このバンド名であるスカベンジャーとはハイエナなどの腐肉食動物を意味し、また、この曲のタイトルはAR技術の頭文字であるAugmented Reality(拡張現実)と掛詞になっており(?)「拡張されたハイエナ」という意味に直訳できますので、現代社会の腐肉とも言えるノイズを捕食するテクノロジーと融合したハイブリッドなハイエナを連想させる挑発的なネーミングに感じられます。ご存命ならば故・坂本龍一さんも興味を示されたのではないかと推測しますが、2022年に作曲家のジェームス・ハリックさんらが「ウェアラブル・インタラクティブ・シンセサイザー」という新しい楽器を開発し、この曲が創作されています。エレキギター、ドラム及びシンセサイザーから構成されるロックバンドですが、この新しい楽器をメンバーの手首や指に装着し、その動きに連動して電子音が鳴る仕組みになっており、ロックともジャズとも現代音楽(エレクトロニクス)とも異なって、これまでに聴いたことがないパフォーマンスが織り成す異次元の音響空間が面白く感じられ、新しいアート体験に興奮を禁じ得ませんでした。この新しい楽器をワイヤレスに改良し、ダンサーの身体に装着しても面白いかもしれません。
 
②The Mother in The Silver Mouth
青木涼子さんは能の謡と現代音楽を融合した「能声楽」という新しいアート表現を生み出し、作曲家・細川俊夫さんをはじめとして世界中の作曲家と親交を結びながら世界的に活躍しています。能楽界は男性社会(過去のブログ記事でも触れたとおりクラシック音楽界も男性社会でしたが、K.サーリアホさんやO.ノイヴィルトさんらの活躍で状況が改善してきています。)であり、現在でも「女流能」という差別的な表現が存在するようにジェンダー・ギャップが根強く残されています。この点、歴史を紐解くと新しいものは時代の逆境を契機として生まれることが多いですが、作曲家のJ.ケージ及び美術家のM.デュシャンが志向した「能オペラ」を嚆矢とし、上述のような時代の逆境が青木さんをして新しいアート表現を生み出す原動力になったのかもしれません。以前、月刊誌レコード芸術で現代音楽の音盤評を担当していた長木さんが「単に新しい能を作るというようなせせこましいスケールに捕われるのではなく、能や謡の発想から発していることは間違いないものの、何かもっと別の、声と楽器、声と息のパフォーマンスへと翔んでしまっており、それが非常にエキサイティング」(レコード芸術2014年7月号準特選)と書かれていましたが、非常に重要なことを指摘されていると思います。単に大衆迎合的なコンテンツを伝統芸能の鋳型に嵌め込む改良ではなく、伝統芸能のエッセンスは活かしながらも伝統の殻を破って新しいアート表現を志向する革新に挑戦する若手の活躍に期待し、応援していきたいと思っています。さて、能の謡は声帯が閉じた状態(地声)で発声されることから低く籠ったような声(非整数次倍音=自然音)が出ますが、西洋の声楽は声帯が開いた状態(裏声)で発声されることから高く抜けるような声(整数次倍音=人工音)が出るという特徴的な違いがあると言われています。この曲は、J.ハリックさんが能の謡(歌+台詞)と現代音楽(エレクトロニクス)のために作曲した作品で、英語の詞章であったことから日本語と英語の音節構造の違いが影響しているのかもしれませんが、能の謡の魅力と西洋の声楽の魅力がミクスチャーしたようなジャンルレスな曲調(謡)が新鮮に感じられ、能の謡に特徴的な声帯の使い方が西洋の声楽にはない豊かな表現世界の広がりを生んでいたように思います。能声楽という新しいアート表現の未知数の可能性を感じさせる面白い作品でした。
 
③Disruptive Critters
この曲ではJ.ダックワースさんが開発した自律型AIコンピュータ「オーディオ・ビジュアル・インターフェース」(AVI)という新しい楽器が使われました。元々は外傷性脳損傷者のリハビリテーションのためにスクリーンに触れると様々な音が出るデバイスとして開発されたそうですが、それを楽器に改良したものだそうです。この曲のタイトルは「破壊的な生き物」という意味に直訳できますが、AVIのスクリーンに表示されている様々な幾何学的な記号にはそれぞれ異なった音(文脈を持たない人声)が割り当てられ、パフォーマーがスクリーンに表示されている記号に触れると、その幾何学的な記号が画面上を生き物のように自律的に動き回りながら音を発し、その記号を指で動かしたり大きさを変えたりして音を変化させることで即興演奏します。今日はAVIのスクリーンがバックスクリーンに拡大投影されましたが、この幾何学的な記号が自律的に動き回りながら様々な形に変化し、さながら動く抽象絵画を見ているような面白さがありましたが、文脈を持たない人声が発せられることで、その幾何学的な記号の動きや変形に文脈が生まれ、人間社会の縮図をイメージさせる効果も感じられ、デジタル・ディスラプション(新しいデジタル・テクノロジーにより新しい商品・サービスが生まれ、既存の商品・サービスの市場が破壊される現象)の世界観をコミカルに表現する面白さが感じられました。最近、人類の文化的な進歩は限界に達しているのではないかという論説を拝見することがありますが、アートとテクノロジーの融合によってアート表現の可能性は異次元の地平へと広がりを見せており、年甲斐もなくまだまだ世の中は面白いと実感できる新しいアート体験に興奮を禁じ得ませんでした。
 
④Strange James
この曲のタイトルは「奇妙なジェイムズ」という意味に直訳できますが、奇妙なジェイムズの深層心理を覗き見るシュールな世界観が表現されています。J.ハリックさんが顔に黒いアイマスクをペインティングして登場し、エレキギターを弾きながら上ずった裏声で心の叫びにも似た奇妙なジェイムズの深層心理を熱唱し、その音楽にインスパイアされるように美術家・中山晃子さんがアライブ・ペインティング(様々な素材を反応させて絵を描くライブ・パフォーマンス)で奇妙なジェイムズの深層心理を吐露する音楽を絵(色彩、形象など)で表現しましたが、さながら動くシュールレアリスム絵画やアクション・ペインティングを見ているような面白さがありました。そう言えば、昔、ブラームスの交響曲を聴くと寡男の万年床を連想させるディープな世界観に心を捉えられていた時期がありましたが、複雑でストレスフルな現代の世相を反映してか奇妙なジェイムズの心の闇に蠢く混沌とした割り切れないものが心を強く捉え、それが共感と慰めを生んでいるように感じられました。
 
⑤Hagoromo
能では能舞台という装置を使って此岸と彼岸を接続するハイブリッド空間を演出しますが、今日は、ボリュメトリック・キャプチャ技術(現実空間を3次元のデジタルデータとして取り込み、それを仮想空間に忠実に再現する技術)を使って(能「二人静」を彷彿とさせますが)地上界の天女(リアルな青木さん)と天上界の天女(バーチャルな青木さん)が共演するハイブリッドな舞台を楽しむことができました。能では能舞台という装置と共に能面がこの世のもの(前場)とこの世ならざるもの(後場)を見物の心に映し出すメディアとして機能しますが、ボリュメトリック・キャプチャ技術は能面に代わる次世代のメディアとして機能しているように感じられ、ハイグレードなハイブリッド空間を演出してアート表現の可能性を飛躍的に拡張させるものとして注目されます。この作品は、能「羽衣」を素材とし、能囃子に代わってサウンド・アート・アンサンブル「アンプリファイド・エレファント」がオーディオ・ビジュアル・インターフェース、シンセサイザー、エレクトロニクス及びエレキギターを使って音響空間を設えるものでしたが、もともと能は前衛的な性格を持つ表現なので現代音楽との親和性が高く、非整数次倍音を豊富に含む謡はノイズを含むエレクトロニクスとの相性も良いもので違和感なく楽しむことができました。能「羽衣」では、天女の舞(天女の羽衣を彩るのは自然の美しい景観)で自然の美しさを讃えて天上界へ帰りますが、近時、オーストラリアにおける森林火災やコアラの絶滅危機(レトロウィルスの蔓延)など世界中が自然環境破壊に起因すると思われる未曽有の惨禍に直面するなか、この作品には人間中心主義から自然尊重主義への回帰(自然との対称性の回復)を訴える現代的なメッセージが込められていて胸を打つものがありました。なお、ボリュメトリック・キャプチャ技術は進歩途上の技術ですが、リアルな人間の動きにバーチャルな映像の動きをリアルタイムで同期させる技術の改良、開発が待たれます。
 
⑥Paracollider
この作品のタイトルは「異常」(para)と「粒子」(collider)から作られた造語ではないかと思われますが、おそらく「水」や「泡」をモチーフにしたオーディオ・ビジュアル作品ではないかと思われます。水流や気泡の抽象的なイメージがオーディオ&ビジュアルで表現され、密度、速度、色彩、音色などを多層的に変化させて触感や質感のあるオーディオ&ビジュアルに包まれながら感情が揺さぶられ、様々なイメージを想起させる圧倒的なアート体験が新鮮に感じられました。直接、脳に働き掛けるオーディオ&ビジュアル作品という印象ですが、非常にインパクトの強い作品なので光感受性発作などを心配される方は無理して視聴せずに自覚症状が出る前に瞑目するなど適切な対応を心掛けることが必要かもしれません。ウーファーの空気振動によって心臓のあたりにビートを感じる音響演出(?)がありましたが、これによって血液や生命を強く連想し、水が生命の源であることを再認識させられる貴重なアート体験(エコロジー体験)となりました。日頃、あまり使っていない脳領域を刺激されることで、新しい視野や世界観が拓かれて行くようでした。古き良きものの価値を否定するつもりはありませんが、そこに留まり続けることは世の中を狭くし、世の中をつまらなくするだけかもしれません。
 
▼変貌する新高島
10年前の新高島には劇団四季のキャッツシアターしかない更地でしたが、日産本社の進出を皮切りに、この変革の時代を勝ち抜いてきた革新的な企業が挙って新高島に進出し、横浜市と協力して次の時代を見据えたイノベーションのためのエコシステムやエコトーンの基地となり得るような再開発に着手し、文字とおり「みなとみらい」という地名を体現するような街造りが進められています。東京よりアタラシイかも🤩
みなとみらい地区 新高島界隈(神奈川県横浜市西区みなとみらい5-1
BankART Station:横浜市が「創造都市構想」の一環として新高島駅構内に設けているパブリック・アートのためのオルタナティブ・スペースです。みなとみらい地区にはハイブリッドな脳にアップグレードするための仕掛けが数多く存在します。 BankART Station:Hagoromoではボリュメトリックキャプチャ技術が使用されていますが、新高島界隈には本格的なキャプチャスタジオ「白河清澄BASE」を持つソニーがソニーシティみなとみらいを設けて、エコトーンを仕掛けています。 山葉オルガン:山葉楽器製作所が1890年内国勧業博覧会で入賞したオルガンです。来春、ヤマハ(株)はみなとみらい地区再開発の一環として新高島にプランドショップを開設して文化の面からエコシステムの拠点化を目指す構想を掲げています。 横浜アンパンマンこどもミュージアム:新高島界隈と言えば横浜アンパンマこどもミュージアムが有名ですが、この界隈でも一段と熱気が溢れているパワースポットです。ちびっ子たちの脳内ドーパミンの分泌を促すにはもってこいだと思います。

染田真実子チェンバロ・リサイタルと黒川侑ヴァイオリン・リサイタルとファジル・サイ2023(服部百音)と両国アートフェスティバル2023(西陽子、山田岳、林正樹)と画餅に描かれているもの<STOP WAR IN UKRAINE>

▼画餅に描かれているもの(ブログの枕短編)
今回は公演数が多くなりましたので、ブログの枕は短編にしています。さて、今年の中秋の名月は9月29日(金)ですが、過去のブログ記事でも触れたとおり、中国から「玉兎」伝説が日本に伝来し、月を意味する「望月」が「餅付き」を連想させることから、月では兎が薬草ではなく餅を付いているという伝説にアレンジされて一般に広まりました。そのためか日本人には月の表面の模様(玄武岩が黒く見えている部分)が餅を付いている兎の姿に見えてきますが(認知バイアス)、どうやら外国人にはカニの姿や女性の姿などに見えるそうなので、「眼に見えているもの」(知覚)と「脳に見えるもの」(認知)の間には文化や時代などに彩られたレトリック(ルビンの壺)がありそうです。因みに、770年前の1253年9月29日(月)(新暦)に曹洞宗の開祖・道元禅師が示寂されましたが、道元禅師の仏教思想書「正法眼蔵」には「画餅」の巻があり、唐の香厳禅師の言葉「画餅は飢えを充たさない」(即ち、仏教典(=画餅)を理解する(=眺める)だけでは修行を成就する(=飢えを充たす)ことは適わないという戒め)を引用して「画餅」は一生食することは適わない(即ち、一生修行である)という教えが説かれていますが、既に中世の日本にはコンセプチュアル・アートが存在していたと言えるかもしれません。P.ピカソは「芸術は私たちに真実を気付かせる嘘である」という名言を残していますが、「眼に見えているもの」(知覚→認知)を描く写実主義(伝統)を経て、「脳に見えるもの」(認知→認識)を描く印象主義、キュビズムやフォービズム(モダン)から「心で見るもの」(認識→想像、創造)を描くコンセプチュアル・アート等(ポスト・モダン)に至る現代アートの潮流(具象→抽象)は世界の見方に関する気付きを現代人に与えてくれています。前回のブログ記事でも触れたC.ボードレールは、F.ドラクロワの絵画を「何が描かれているかではなく、色彩だけで彼の絵は分かる」と評して現代アートの萌芽を予兆しましたが、過去のブログ記事でも簡単に触れたとおり、ルネサンス以降の伝統である「眼に見えているもの」(知覚→認知)をそのまま描く「写実主義」(アカデミズム)はカメラの普及によってその存在意義が問い直されるようになり、チューブ絵具の誕生によって屋外で絵を描くことが容易になったことで被写体を纏う光や空気感などを捉えて自然的なイメージを描く「印象主義」(モネなど)、1枚のキャンバスに複数の視点を共存させて描かれたP.セザンヌの絵画「りんごとオレンジ」などから影響を受けて被写体を一点透視図法ではなく多視点で捉えて描く「キュビスム」(ピカソなど)や印象主義のような光学に基づく自然な色使いではなく色と音の関係など人間の共感覚などに基づく人工的な色使いにより被写体の創造的なイメージを描く「フォービスム」(マティスなど)などがフランスで誕生し、カメラで写すことができない「脳に見えるもの」(認知→認識)を描くようになりました。過去のブログ記事でも簡単に触れましたが、教会、宮廷、貴族(ブルジョア)が築き上げ、これを継承してきた中近世的な社会体制を破壊した第一次世界大戦の勃発によって中立国のスイスに逃れていた芸術家達の間で教会、宮廷、貴族(ブルジョア)が築き上げ、これを継承してきた中近世的な価値観を破壊する芸術運動「ダダイズム」が盛んになり、その影響を受けた現代アートの父・M.デュシャンが「」(レディーメイド)を発表してモノを創作することからコンセプトを創作することに美術の領域を拡張しました。また、S.フロイトによる無意識の発見などを背景として、人間が戦争するのは人間の心の中に原因があると捉えられるようになったことで(A.アインシュタイン&S.フロイト「ひとはなぜ戦争をするのか」)、絵画の関心は人間の外側にある物質世界(具象)を描くのではなく人間の内側にある精神世界(抽象)を描くことに移り、オートマティスム、コラージュ、アンサアンブラージュ、デペイズマンなどの手法を使って人間の心の中に抑圧された無意識を描く「シュールレアリスム」(ダリなど)がフランスで誕生し、さらに、第一次世界大戦後に世界の政治、経済及び文化の中心がヨーロッパ(中近世的な社会体制、貴族社会)からアメリカ(近現代的な社会体制、大衆社会)へと移行するなか、シュールレアリスムの影響を受けてアクションペインティング、カラーフィールドペインティングなどの手法を使って人間の心の中に抑圧された感情を描く「抽象表現主義」(ポロックニューマンなど)がアメリカで誕生しました。なお、抽象絵画の父・W.カンディスキー(フォービズムの影響を受けたドイツ表現主義)は、抽象絵画の画家でもあった無調音楽の父・A.シェーンベルクと親交がありましたが、1911年1月1日に開催されたニューイヤーコンサートでシェーンベルクの「3つのピアノ曲」及び「弦楽四重奏曲第2番」を聴いて主音がなく音色や音響が変化するだけの無調音楽に衝撃を受けたことで具象絵画から抽象絵画へ踏み出すことを決意し、その後に完成した十二音技法の音列を絵画の形態や色彩の関係性に捉え直した新しい表現方法(シュルレアリスムの影響)を模索しました。因みに、現代作曲家・P.ブーレーズは、W.カンディスキーと親交があった抽象絵画の画家・P.クレーから影響を受けたと言われています。
 
▼芸術認知症に陥らないためのハイブリッドな脳
抽象絵画は、写実絵画と比べ、鑑賞者が作品を知覚するだけで認知(受容)することは難しく、鑑賞者が作品を記憶(過去の経験や知識等の教養)に照らして解釈することで認知(受容)することが可能になると言われています(現代音楽は、クラシック音楽と比べ、この傾向が強いと思わます)。この点、過去のブログ記事で触れたとおり、鑑賞者は記憶(過去の経験や知識等の教養)を充実させて芸術家の認知世界(非共有世界)に対する想像力を育むことで自らの認知世界(共有世界)を芸術家の認知世界(非共有世界)へ拡大することが可能になりますが、鑑賞者の記憶(過去の経験や知識等の教養)が不十分なために芸術家の認知世界(非共有世界)に対する想像力を育むことが困難な場合には、「これは芸術なのか?」という類のプリミティブな反応に陥り易いと言われており(芸術認知症)、近年、そのギャップを埋めるための存在としてキュレーターの役割が注目されています。ハイブリッドな脳にバージョンアップできなければ、画餅に描かれているものを心眼で見破ることは適わず、そのような未熟な修行僧にとって道元禅師はキュレーターのような存在だったと言えるかもしれません。
認知
(未知の予測)
知覚
(現在の情報)
記憶
(過去の情報)
写実主義
(人間の外側)
知覚
(芸術家側の因子)
記憶
(鑑賞者側の因子)
抽象主義
(人間の内側)
知覚
(芸術家側の因子)
記憶
(鑑賞者側の因子)
 
1950年代頃から深刻化した東西冷戦の対立(朝鮮戦争、ベルリンの壁建設など)を背景として、若者による社会的な権威に対する反発からカウンター・カルチャーが隆盛しました。これに伴って、芸術の形式美(フォーマリズム)を重視して芸術の自律性を追求するモダニズム的な考え方は自由な芸術表現の足枷になると認識されるようになり、より自由な芸術表現を求めて芸術表現の空間性(ex.中世日本の「置き合わせ」文化)や鑑賞者との関係性などを重視して芸術の他律性を採り入れながら芸術表現の可能性を広げるポスト・モダン的な考え方が台頭し、「イズム」(モダニズムに基づく規格化された価値観を背景として「上手さ」が持て囃された時代)から「アート」(ポスト・モダンに基づく多様な価値観を背景として「面白さ」が重視される時代)を志向する現代的な潮流が誕生しました。これにより芸術の形式美(フォーマリズム)の呪縛から芸術表現を解放する潮流が生まれ、抽象表現主義の影響から伝統的な芸術の形式美ではなくパフォーマンスなどを重視して人間の心の中に抑圧された感情を描く「パフォーマンス・アート」(カプローなど)がアメリカを中心に生まれますが、創作物(造形芸術)よりも創作行為(時間芸術)を重視する性格が強く音楽(時間芸術)への接近が見られるようになり(例えば、フルクサスのパフォーマンスや音響彫刻など)、ジャンルレスなどの現代的な潮流へ受け継がれています。また、現代心理学の父・W.ヴントを嚆矢とする心理学の発展により芸術の心理的な側面の研究が進んだことで鑑賞者の関与なく芸術表現は成立しないと考えられるようになり、パフォーマンスや感情などの芸術家の主体性を可能な限り排除してシンプルな形式を反復しながら鑑賞者との関係性により芸術表現が完成する「ミニマル・アート」(ジャットなど)や芸術の形式ではなくコンセプトを重視しながら鑑賞者との関係性により芸術表現が完成する「コンセプチュアル・アート」(コスースなど)がアメリカを中心に生まれ、芸術表現への関与を「芸術家>鑑賞者」ではなく「芸術家<鑑賞者」として鑑賞者の主体性を重視する傾向が強くなりました。
 
▼フォーマリズムからの解放(多様なアートの誕生)
過去のブログ記事でも触れましたが、東西冷戦の対立(朝鮮戦争など)の深刻化を背景にイズムなど社会的な権威に反発するカウンター・カルチャーとしてヒッピ文化が隆盛し(S.ジョブズもヒッピー)、権威主義的なフォーマリズムの呪縛から芸術表現を解放する潮流が本格化しましたが、その世代がIT革命の思想的な基盤(例えば、管理者を置かない分散型ネットワークの発想など)を築いて、現代の多様な社会(多様なアートを含む)が誕生しています。
種類 表現 主体
フォーマリズム 形式美を重視 芸術家の主体性
  イズム(冷戦)
への反発
   
パフォーマンス
アート
パフォーマンス 芸術家の主体性
      心理学の影響
ミニマルアート シンプルな形式
の反復
鑑賞者の主体性
コンセプチャル
アート
コンセプト 鑑賞者の主体性
 
上述のとおり第一次世界大戦の勃発やダダイズムの影響によって人間の外側にある物質世界(具象)ではなく人間の内側にある精神世界(抽象)を表現するようになりましたが、本格的な消費社会(大量生産・大量消費型のアメリカ式資本主義)の到来によって再び人間の外側にある物質世界(具象)を表現することが見直されるようになりました。このような背景から、芸術の主題や素材の呪縛から芸術表現を解放する潮流が生まれ、これまで芸術の主題や素材として扱ってこなかった大衆文化を象徴する工業製品(廃棄物を含む)やイメージなどを即物的又は即興的に表現する「ネオ・ダダ」やその影響を受けた「ポップ・アート」(ウォーホルなど)などがアメリカで生まれ、ハイカルチャー(貴族文化)とローカルチャー(大衆文化)、オリジナルと模倣、イメージと意味などのボーダー(既成概念)を破壊しましたが、これは「グラフィティ・アート」、「マイクロ・ポップ」、「ネオ・ポップ」や「ナラティブ・アート」などの現代的な潮流へと受け継がれています。なお、「ネオ・ダダ」は、作曲家のジョン・ケージに影響を与え、音響を即物的(文脈から切り離された表現素材)及び即興的(創作者の作為から切り離された偶然性)に捉えた「4分33秒」などを生み出す契機になりました。その後、1990年代頃から東西冷戦の終結(ソビエト連邦崩壊、ベルリンの壁崩壊など)、グローバル社会の進展やインターネットの普及などを背景として、ボーダーレスやインタラクティブなどの新しい視点を採り入れる潮流が生まれ、芸術家と鑑賞者のボーダーを越えて芸術家と鑑賞者や鑑賞者相互のコミュニケーションそのものを芸術表現として捉える「リレーショナル・アート」、実用と娯楽のボーダーを越えて社会問題や政治問題に関するメッセージなどの実用表現を芸術表現として捉える「ソーシャルエンゲージ・アート」、文化のボーダーを越えて西洋中心の芸術観を見直し第三世界の芸術を尊重する「マルチ・カルチャリズム(多文化主義)」、メインカルチャー(貴族文化及び大衆文化のマジョリティ)とサブカルチャー(マイノリティ)を含むジャンルのボーダーを越えて複数のジャンルに跨った芸術表現を行う「アート・コラボレーション」などの現代的な潮流が生まれました。また、情報革命(IT、AIなど)を背景として、アートとテクノロジーを融合する潮流が生まれ、SNS、VR、AI、NFTやメタバースなどのデジタル環境が整備されるのに伴って、「サウンド・アート」、「スメル・ラボ」、「メディア・アート」(ビデオ・アート、インスタレーション・アート、インタラクティブ・アート、デジタル・アート、生成AIアート、バイオ・アートなどを含む)などの現代的な潮流が生まれています。現在はあらゆるボーダー(モダニズム)が取り除かれて混沌としている時代状況(ポスト・モダン)から、古いものと新しいものを再構成して多様な現代アートを育む時代(オルタナティブ・モダン)へ移行しつつあると言われています。
 
▼現代アートの泥酔沼(歴史編)
芸術は社会を映す鏡ですが、歴史的な潮流と絡めながら現代アートの歴史を大まかに俯瞰してみました。現代アートにインスパイアされた現代作曲家、現代音楽にインスパイアされた現代アーティストは数多いですが、それらを網羅的に併記することは紙片の都合から難しいので、別の機会に一覧してみたいと思います。
年代 アート 音楽
18世紀 産業革命
19世紀 写実主義 クラシック
1839年 カメラの発売 録音技術の発明
<世界の価値>
伝統から革新(モダニズム)へ
1860年 印象主義 ドビュッシー
1900年 キュビスム ストラヴィンスキー
フォービズム ヒンデミット
1914年 第一次世界大戦(中近世の社会体制の破壊)
ダダイズム(中近世の価値観の破壊)
現代アートの父・デュシャンの「泉」
<美術の対象>
人間の外側の世界(具象)から人間の内側の世界(抽象)へ
1920年 ドイツ表現主義 シェーンベルク
シュルレアリスム
1939年 第二次世界大戦
<世界の中心>
ヨーロッパ(貴族社会)からアメリカ(大衆社会)へ
1940年 抽象表現主義 シェーンベルク
1950年 東西冷戦の対立(朝鮮戦争、ベルリンの壁建設)
カウンター・カルチャーの隆盛(社会権威への反抗)
消費社会の到来
<美術の潮流>
イズム(モダニズム)からアート(ポストモダン)へ
1950年 形式からの解放
パフォーマンス・アート
ミニマル・アート
コンセプチュアル・アート
ケージ
ライリー(山梨県民)
主題、素材からの解放
ネオ・ダダ
ポップ・アート
1990年 東西冷戦の終結(ソビエト連邦・ベルリンの壁崩壊)
グローバル社会の到来(一極集中から多極分散へ)
情報革命(IT、AI) など
1990年 リレーショナル・アート
ソーシャルエンゲージ・アート
マルチ・カルチャリズム
アート・コラボレーション
テクノロジー・アート など
(略)
※上表の年代は、便宜上、大まかな目安を記載しており厳密ではありません。
 
▼現代アートの陶酔沼(鑑賞編①)
現代アート作品の写真を掲載する訳には行きませんので、実際の現代アート作品を鑑賞しながら現代アートの歴史を俯瞰することができるDIC川村記念美術館をご紹介しておきます。本当にここは日本なのかと驚くような充実した収蔵品の数々で、DIC川村記念美術館に足を運ぶ度に自分なりの新しい発見があり意識を変えられるのを感じます。
DIC川村記念美術館(千葉県佐倉市坂戸631
DIC川村記念美術館:20世紀以降の現代アート作品を中心に収蔵している日本を代表する美術館です。神の芸術とも言うべき四季折々の自然(庭園)も鑑賞できます。 ランプシェード(エンドランス天井):和菓子ではなく、DIC川村記念美術館のエントランス天井にあるランプシェードです。84枚の布を縫製して作られています。 立礼式茶席和菓子作家・ 坂本紫穗さんの監修で夏休み期間中の企画展「ジョセフ・アルバースの授業」に因んで「色彩演習」と題した創作和菓子が提供されていました。  収蔵品カタログ:ロスコ・ルームが有名ですが、レンブラント、モネ、ピカソ、シャガール、カンディスキー、ポロック、ステラ、藤田嗣治など鼻血が出てきそうです。
 
▼現代アートの陶酔沼(鑑賞編②)
2023年9月1日から映画「ウェルカム トゥ ダリ」が日本で公開上映中ですが、英米を拠点としているアート専門オンライン新聞「The Art Newspaper」によれば、資金不足により「the makers of the film Dalíland were unable to afford to license any of Dalí’s art 」(抜粋引用)とのことなので、ダリのコレクションで世界的に有名な「諸橋近代美術館」(福島県)とセットで鑑賞することをお勧めします!視聴後に無性にダリの絵を見たくさせられる映画です。徐々に気候も穏やかになってきていますので、福島を訪ねて、福島で遊んで、福島を食べて、芸術、観光、食欲の秋を満喫してみるのも良いかもしれません。
 
▼染田真実子チェンバロ・リサイタル
【演題】染田真実子チェンバロ・リサイタル「はなだま」(東京公演)
【演目】①久木山直 Falling Water 
               Flowing Flowers(委嘱作品)
    ②藤倉大 Jack(委嘱作品)
    ③カイヤ・サーリアホ Jardin Secret Ⅱ
    ④トリスタン=パトリス・シャル
       Camarette Fermentations(日本初演)
    ⑤松宮圭太 One up(委嘱作品)
【演奏】<Cem>染田真実子(①②③④⑤)
    <Rec>森本英希(④)
    <Elc>有馬純寿、松宮圭太(③⑤)
【場所】チャボヒバホール
【日時】2023年9月8日(金)19:15~
【一言感想】
過去のシリーズ「現代を聴く」でもご紹介しましたが、僕が知る限り、現状、日本国内で古楽器を使用した現代音楽の演奏(新作委嘱を含む)を精力的に行われている演奏家は指折りしかいませんが、その草分け的な存在として関西を本拠に活動しているチェンバリスト・染田真実子さんの名前を挙げることができます。今日は染田さんが東京で演奏会を開催されるというので、台風13号に伴う避難指示が出され、各所で道路が冠水していましたが、決死隊となって聴きに行くことにしました。今回の演奏会を聴いた全体的な印象としては、染田さんがチェンバロの伝統を踏まえながら、その伝統の枠を越えてチェンバロという楽器の表現可能性を新しい領域へ拡張して行く野心的な取組みが非常に斬新で面白く感じられ、とりわけアコースティック(アナログ)とエレクトロニック(デジタル)の境界を越えたハイブリッドな楽器としてのチェンバロという楽器の新しい表現可能性とその魅力に触れられたことは大収穫で、今後もその活動に注目して行きたいと思っています。なお、①②③はモダンピッチ(440Hz)、④⑤はバロックピッチ(415Hz)で演奏されました。因みに、染田氏の発祥地は奈良県宇陀市室生染田(旧、大和国山辺郡染田村)と言われていますが(一般に名字は地名が由来で、水田の土壌が衣服を赤く染めることに因んだ地名だとか)、を金色にめるりを予感させる充実した演奏会でした。
 
①久木山直 Falling Water 
               Flowing Flowers(委嘱作品)
久木山直さん(1958年~)は、MusicToday国際作曲コンクールや日本音楽コンクールなどに入賞された経歴を持ち、テレビ番組の音楽制作にも携わられているのでご存知の方も多いと思いますが、染田さんが桐朋音大でソルフェージュを学んだ際の指導教官だったそうです。現在も、桐朋音大洗足音大尚美学園聖徳大学などで後進の指導にあたられています。さて、プログラム・ノートには、チェンバロの響きを持続させながら停滞でも進行でもない揺れ動く時間の流れを表現したという趣旨のことが書かれています。チェンバロにはピアノのように離鍵してもダンパーを弦から上げておくためのダンパーペダルやソステヌートペダルに相当する機構がなく、離鍵すると直ぐにダンパーが下りて弦の振動を止めるので、基本的にチェンバロに豊かな残響を期待することはできません。そこで、久木山さんは同じ音型を反復することでチェンバロの響きに持続感を与えながら、その上声部を微かに変化させることで揺れ動く時間の流れを現代的に表現するように工夫したとのことです。左手は同じ音型を反復しながらしっかりとした安定感のある響きの土台を築き上げ(物理的な時間の流れ)、右手がゆっくりとしたテンポで短いフレーズを微かに変化させながら奏で、時折、そこに現代的な響きも織り交ぜて停滞でも進行でもないたゆたうような重層的な時間の流れ(文化的な時間の流れ)が表現されているように感じられました。
 
②藤倉大 Jack(委嘱作品)
チェンバロの発音機構の1つであるジャック(Jack)が題名になっていますが、ジャックはプレクトラム(昔は鳥の羽軸で作られた爪でしたが、現代はプラスチックで作られた爪)が設置されている木製の棒のことで、演奏家が鍵盤を押すとジャックが持ち上がってプレクトラムが弦を撥いて発音する仕組みになっています。これまで藤倉さんはバロック・フルート協奏曲「緑茶」(2021年)(バロック・フルート(フラウト・トラヴェルソ)+バロック弦楽器+ハープシコード(+テオルボ))を作曲した際にチェンバロの基本的なことについて学んだそうですが、ジャックを作曲するにあたっては染田さんから細かいアドバイスを受けながら作曲したそうです。一言で感想を言えば、撥弦楽器の特徴が十分に活かされた「爪(プレクトラム)」(又はジャック)を強く意識させる曲調に感じられ、撥弦楽器に特有のノイズを効果的に使ったアナログな響きから、エッジの効いた粒際立ったデジタルな響きまで多様多彩な響きを楽しむことができました。非常に楽想が豊かで、音色、音域や奏法もバリエーションに富んでいて飽きさせず、チェンバロの表現可能性に挑戦しているような意欲的な作品に感じられました。前回のブログ記事で現代音楽の受容環境(課題感)について触れたとおり、一夜限りの関係ではなく繰り返し聴いてみたいので音源があれば購入したいのですが、染田さんは音源をリリースされる予定はないでしょうか。
 
③カイヤ・サーリアホ Jardin Secret Ⅱ
過去のブログ記事でも触れたとおり、今年6月2日にフィンランド人作曲家のカイヤ・サーリアホさんが急逝されましたが、その早世を悼んで世界中で追悼公演が開催されており、日本でもK.サーリアホさんの作品が演奏会で採り上げられる機会が増えています。前回のブログ記事で触れたオーストリア人作曲家のオルガ・ノイヴィルトさんと共に、世界をリードする女性作曲家として注目され、コロナ禍の2021年に能「経正」及び能「羽衣」を題材にしたオペラ「Only the Spund Remains ~余韻~」が日本初演されたことは記憶に新しいところです。K.サーリアホさんはヘルシンキ大学で造形美術を学んだ経験があり音と色の共感覚を持っていたそうですが、音楽を視覚的に着想してスケッチを描きながら曲の構想を具体化していくという独特な作曲手法を採り入れ、その構想と音素材の組合せなどによって作曲していたと言われています。この点、K.サーリアホさんは音素材として音高に着目する機能和声は限界に達していることから、これに替わる音素材として音色に着目する作曲手法(Jardin SecretⅠ)や、リズムに着目する作曲手法(Jardin SecretⅡ)を考案し、この曲が誕生しています。この曲は、チェンバロ、エレクトロニック、声(K.サーリアホさんの肉声)が様々なリズムで絡み合いながら音場を形成して行きますが、視覚的、空間的な音場を形成している印象が強く、その楽曲の構成感や音素材の音響効果に劇性を感じさせる面白さがありました。後年、能を題材にしたオペラを作曲したのが頷けます。
 
④トリスタン=パトリス・シャル
       Camarette Fermentations(日本初演)
この曲には、Camarette Fermentations(カマレット発酵)という題名が付けられていますが、オーガニック・ワインの生産地として知られ、ワイン・ツーリズムの人気観光地でもあるカマレット(フランス)のワイン醸造所を舞台にした作品で、歌劇、楽劇ならぬ器劇とでも言うべき新しいジャンルの音楽劇のように感じられました。冒頭、リコーダー奏者の森本英希さんがリコーダーを演奏しながら入場し、会場(ぶどう畑?)の周囲を見回したり、楽譜(ワイン樽?)の周りを周回したり、また、染田さんも腕を突き上げたり(ぶどうの収穫?)、掌を顔に当てたり(ワインの香りを嗅ぐ?)などのパフォーマンスを随所に挟みながら演奏が展開されていきました。途中、森本さんと染田さんが床に膝を付きながら演奏する場面がありましたが、これは発酵又はミサ(キリストの血)をイメージしたパフォーマンスだったのでしょうか。森本さんと染田さんが言葉を発する場面があり、本日は作曲家の了解を得てフランス語ではなく関西弁で実演されましたが、音楽やパフォーマンスだけでは抽象的なイメージしか伝わって来ませんので、この歌がない器劇を鑑賞するにあたっての有効な手掛りとなっていました。最後は森本さんと染田さんが足踏み(ぶどうの足踏み?)をしながら退場しましたが、レストランでワインでも楽しみながら鑑賞したくなる愉快な作品でした。カマレット産のワインは、まろやかな渋味のある香り豊かで肉厚な風味が特徴なので(肉料理にぴったり!)、ご興味のある方はお試しあれ。酒に音楽に人生に酔い給え(C.ボードレール)。
 
⑤松宮圭太 One up(委嘱作品)
松宮圭太さん(1980年~)は、第8回武生作曲賞、第8回デステロス作曲コンクール第3位などを受賞しており、現在、最も注目されている若手作曲家の1人です。この曲はチェンバロとエレクトロニックのための作品ですが、エレクトロニックはサラウンド・スピーカーではなくチェンバロの響板に振動スピーカーを圧着してチェンバロの弦を共鳴させるというハード面でのハイブリッド楽器を実現するための初の試みで、図らずも、この歴史的な事件とも言える演奏会に立ち会った生き証人の1人になりました。この曲の題名である1UPとはコンピュータゲーム用語ですが、松宮さんはゲーム音楽も手掛けられる作曲家で、この曲ではチェンバロの音楽書法(レジスターによる音色の変化、アーティキュレーションや装飾音による表情の変化などを利用したアナログな書法)とゲーム音楽の音楽書法(三角波、矩形波、パルスやノイズなどによる音色の変化、高速アルペジオによる疑似和音の生成などを利用したデジタルな書法)を採り入れたソフト面でのハイブリッド音楽まで実現しています。このように古楽(アコースティック)と現代(エレクトロニック)を深層で融合する斬新な試みによって、アコースティックな響きとエレクトロニックの響きの境界が曖昧になり、これらが混然一体となって1つのハイブリッドな世界観を表現している非常に面白い音楽体験を楽しめ、チェンバロの異次元の表現可能性を堪能できました。ヴラヴィー!それにしても最近の若手芸術家は、過去の概念、習慣や伝統に縛られることなく、幅広い教養と柔軟な発想で面白いことを考えているなと感心させられます。新しい芸術表現が生まれようとしているホットな現場に立ち会っているような興奮を禁じ得ません。今後も集中的にウォッチして行きたいと思っています。
 
 
▼B→C バッハからコンテンポラリーへ 254黒川侑
【演題】B→Cバッハからコンテンポラリーへ254黒川侑
【演目】①J.S.バッハ ヴァイオリン・ソナタ第4番ハ短調
    ②カイヤ・サーリアホ トカール
    ③ヤニス・クセナキス ディクタス
    ④J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番ト短調
    ⑤ロディオン・シチェドリン エコー・ソナタ
【演奏】<Vn>黒川侑(①②③④⑤)
    <Pf>秋元孝介(①②③)
【場所】東京オペラシティー・リサイタルホール
【日時】2023年9月12日(火)19:00~
【一言感想】
1998年から東京オペラシティ文化財団の主催事業としてバッハのバロック音楽(BachのB)と現代音楽(ContemporaryのC)からプログラムを構成するソロリサイタル企画「B→Cシリーズ」が開催されていますが、個人的には「のだめカンタービレ」的なものに愛想を尽かし始めた2010年頃から転機を迎え、その火種がアフターコロナに本格化した初演ブームとして華開して現代音楽を取り巻く状況が一変したように感じます。「B→Cシリーズ」の過去の出演者や演目を紐解いてみると、このような日本における現代音楽の受容が黎明期から過渡期を経て成長期へと至る道程の一端を伺い知ることができて非常に興味深いです。関東地方では、サントリーホール、両国門天ホール及びトーキョーコンサーツ・ラボなどと共に、東京オペラシティが質及び量ともに現代音楽を育む中心的な役割を担う殿堂と言えるのではないかと思います。今日は音楽の父・バッハのDNAがコンテンポラリー音楽にどのように昇華しているのか、その一端が感じられる趣向が凝らされた演目を楽しむことができましたが、中世日本から伝わる「置き合わせ」の文化のセンスを感じさせるヴァイオリニスト・黒川侑さんの企画力にも唸らされました。
 
①J.S.バッハ ヴァイオリン・ソナタ第4番ハ短調
現代作曲家から常に参照され、多大な影響を与え続けているJ.S.バッハの音楽には時代の風雪に揺らぐことのない圧倒的な存在感や説得力がありますが、もはや多くのことが語り尽くされている感があり、今更、J.S.バッハの音楽の感想を書くのは気が引けますので、以下の②及び③の演目との関連で若干触れる程度に留めます。
 
②カイヤ・サーリアホ トカール(2010年)
J.S.バッハのヴァイオリン・ソナタ第4番は1人目の妻と死別した年に作曲されており、第一楽章の哀切な鳴き節はK.サーリアホさんへの追慕の情を湛えているようで聴かせるものでした。また、消え入るような弱音のあしらいやモダン・ピアノによる演奏の利点を活かした立体的な音響構築などピアニスト・秋元孝介さんの伴奏は細部への配慮が行き届くもので出色でした。J.S.バッハのヴァイオリン・ソナタ第4番第二楽章ではJ.S.バッハが得手とする半音階進行が登場しますが、K.サーリアホさんはスペクトル学派第二世代に位置付けられ、中心音と半音や微分音との間の揺れを音素材として和音を構成する作曲手法を採り入れていたことから、J.S.バッハの半音階進行の現代的な進化系として捉えることもできるかもしれません。さて、この曲の題名になっているトカールとはスペイン語で「触れる」という意味ですが、ヴァイオリンとピアノが有機的に絡み合う造形美ではなくヴァイオリンとピアノが繊細に触れ合う印象美が魅力的に感じられました。ヴァイオリンは抑揚の効いたポルタメントやデュナーミク、ハーモニクスなどを精妙に操りながらアールを感じさせる流線的な響きを奏で、また、ピアノは微かに変化する色彩感を感じさせる点描的な響きを奏でながら、それらの異なる音像のイメージが重なり合って1つの世界観を描き出し、さながら抽象絵画を鑑賞しているような印象深い演奏を楽しむことができました。
 
③ヤニス・クセナキス ディクタス(1979年)
J.S.バッハは数字の宗教的な意味などを意識して作曲していたことが指摘されていますが、音楽の専門教育を受けていなかったI.クセナキスは師匠のO.メシアンから和声法ではなく既に専門教育を受けている数学や建築学を作曲に活かしてはどうかというアドバイスを受けて、トータル・セリエリズムに対するアンチテーゼとしてコンピューターによる確率論を使って建築よろしく音楽を設計して作曲するストカスティック・ミュージックという作曲技法を考案するなど、J.S.バッハと同様に数字を意識した作曲を行っていました。因みに、2025年の大阪・関西万博に関する話題を耳にするようになりましたが、1970年の大阪万博では鉄鋼館でI.クセナキスの電子音楽「響-花-間」(委嘱作品)が使用され、また、ドイツ館でK.シュトックハウゼンによる電子音楽のライブ演奏が行われ、さらに、現代作曲家のP.スカルソープやB.ツィンマーマンなどの作品も使用されるなど最新の現代音楽の博覧の場にもなっていたようで、日本の戦後復興の勢いを感じさせるアバンギャルドに彩られた刺激的な催しだったようです。果たして、パビリオン建設でモタついている現在の凋落日本が前回の万博を越える斬新なものを世界に発信できるのか注目されます。さて、この曲の題名になっているディクタスとはヒンディー語で「2つの本性から作られた1つの人格のようなもので二重の実在を意味」しているとのことですが、「状態の重ね合わせ」(量子物理学)のようなものを意味しているのかその語感はよく分かりません。I.クセナキスは、ブラウン運動(気体や液体を構成している分子は常に振動しており、人間はこの分子の振動を熱として知覚し、この分子の振動が激しくなるほど熱さを感じますが、気体や液体の中に含まれている微粒子がこの分子の振動に衝突して不規則な運動を繰り返す現象)の確率論に着想を得てこの曲を作曲しましたが、冒頭のピアノの硬質な響きは気体や液体の分子の振動を表現したものであり、これに呼応するヴァイオリンがグリッサンド、重音、スタッカートなどによりこの分子の振動に影響されて活性化されるブラウン運動を表現したものに感じられ、ポリリズムなど複雑なリズムを使って物質の状態が複雑に変化して行く様子が音楽的に表現されています。黒川さんは老練巧みな手綱捌きで銘器グァルネリ(1742年製)を手懐けて、そのパワフルなサウンドを効果的に活かしながら、この難曲を変幻自在にドライブする解像度の高い演奏を展開し、これに秋元さんがセンシティブかつスリリングに呼応する精妙なアンサンブルを楽しめました。さながら数理モデルを見るような冷徹な美しさとスリリングに展開される活性状態が同居しているような饒舌な演奏を堪能できました。
 
④J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番ト短調
現代作曲家から常に参照され、多大な影響を与え続けているJ.S.バッハの音楽には時代の風雪に揺らぐことのない圧倒的な存在感や説得力がありますが、もはや多くのことが語り尽くされている感があり、今更、J.S.バッハの音楽の感想を書くのは気が引けますので、以下の⑤の演目との関連で若干触れる程度に留めます。
 
⑤ロディオン・シチェドリン エコー・ソナタ(1984年)
R.シチェドリンの妻はバレリーナ・M.プリセツカヤで、チェリスト・M.ロストロポーヴィチなどの献身的な尽力により世界的な知名度を得て行きました。無伴奏ヴァイオリンのためのエコーソナタは、J.S.バッハの生誕300年を記念して作曲された音楽で、既にヴァイオリニスト・M.ヴェンゲーロフらが音盤をリリースしていますので日本でも知名度が高い演目です。個人的には、R.シチェドリンが作曲した「24の前奏曲とフーガ」(1963年/1970年)を好物にしており(この曲はJ.S.バッハの没後200年を記念して開催された第1回国際バッハ・コンクールに優勝したT.ニコラエワの演奏を聴いたD.ショスタコーヴィチが触発されて作曲した「24の前奏曲とフーガ」(1951年)に倣って作曲されたもの)、どなたか演奏会で採り上げて頂けないものかと切望している1曲です。さて、エコー・ソナタは、冒頭でソロ・ヴァイオリンが主題を提示し、その主題が9つに変奏されてエピローグを迎えるという構成になっていますが、第7変奏でJ.S.バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番からフーガがレファーされ、また、エピローグで無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番からアンダンテ及び無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番からガボットがレファーされていますが、このレファーされた部分以外にも随所にバッハのエッセンスのようなものが感じられます。デュナーミクや重音などを巧みに利用した空間的な広がり(遠近的なエコー効果)を演出するだけではなく、現代的な響きの中にバッハのイディオムが変形又は変質されて織り込まれているような印象を受けるという意味で時間的な広がり(重層的なエコー効果)をイメージさせる音楽になっている点が興味深く、そのような多様なエッセンスを纏綿と表現し尽す黒川さんの辣腕に舌を巻くような圧巻の演奏を楽しむことができました。「B→Cシリーズ」はコンセプチャルな企画なので、本日の演目はその企画意図を意識してどのような理由や視点などから選曲したものなのかを含めて簡単なレクチャーなどがあると、一層と楽しみが広がると感じます。
 
 
▼FAZIL SAY 2023
【演題】FAZIL SAY 2023 SAY PLAY SAY
【演目】①ファジル・サイ 無伴奏ヴァイオリンのための「クレオパトラ」
    ②ファジル・サイ
          ヴァイオリン・ソナタ第2番「イダ山」(日本初演)
    ③ファジル・サイ ピアノ・ソナタ「ニューライフ」
    ④ファジル・サイ ピアノ曲「3つのバラード」
    ⑤ファジル・サイ ピアノ曲「パガニーニ・ジャズ変奏曲」
    ⑥ファジル・サイ ピアノ曲「サマータイム変奏曲」
    ⑦ファジル・サイ ピアノ曲「トルコ行進曲・ジャズ変奏曲」
【演奏】<Pf>ファジル・サイ(①③④⑤⑥⑦)
    <Vn>服部百音(①②)
【場所】紀尾井ホール
【日時】2023年9月14日(木)19:00~
【一言感想】
度々、来日して精力的に演奏活動を行っているトルコ人作曲家兼ピアニストのファジル・サイさんですが、2023年2月に新盤「J.S.バッハ ゴルトベルク変奏曲」をリリースしたことに伴って「FAZIL SAY 2023」を開催することになり、新作の日本初演もあるというので聴きに行くことにしました。個人的には2008年にすみだトリフォニーホールで開催された「ファジル・サイ プロジェクト in Tokyo 2008」爾来のライブになります。なお、ヴァイオリニスト・服部百音さんは2009年(当時10歳)にヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールを史上最年少で優勝し、現在は桐朋音大院に在籍して研鑽を積まれていますが、作曲家の服部良一(曾祖父)、服部克久(祖父)、服部隆之(父)の血筋を汲む毛並みの良さに留まらず、その演奏に接すると音楽に対して妥協を許さない覚悟や凄みのようなものまで伝わってきます。なお、⑤⑥⑦のクラシック音楽のジャズ変奏は、サイさんが自家薬籠中とするレパートナリーで過去に数多くの演奏会で採り上げられていますので感想を割愛します。
 
①ファジル・サイ 無伴奏ヴァイオリンのための「クレオパトラ」
この曲は2011年のアンリ・マルトー国際ヴァイオリン・コンクールの課題曲として委嘱され、フランス人ヴァイオリニスト兼作曲家のA.マルトーへのオマージュとして、A.マルトーの24のカプリースより第10番「間奏曲:第5ポジションのための練習曲」を参照して作曲されています。アラビア音階風のオリエンタルな響きが特徴ですが、東西文化が交錯するアラブ・中東のエキゾチックな風情を湛えているような独特のあしらいの左右のピッチカートやコル・レーニョ、また、クレオパトラの波乱に満ちた人生を象徴するような時に妖艶で時に峻烈な表情豊かなアルコやハーモニクスなど多彩な技巧を駆使してアラビアの独特な世界観が描かれています。服部さんはまるでクレオパトラが憑依したかのような集中力の高い演奏でアグレッシブに音楽をドライブし、複雑なリズムを明晰かつ闊達に操る雄弁な演奏で会場を魅了していました。会場にはちびっ子の姿も目立ちましたが、とても刺激になる演奏だったのではないかと思います。なお、過去のブログ記事でも触れましたが、この曲の標題になっているクレオパトラ(カエサルの死後、紀元前41年にトルコでアントニウスと結婚)は世界で最初にアイラインやアイシャドウを使用した人と言われていますが、本日の服部さんはマラカイト(弘雀石)をイメージさせるグリーンを貴重とする華やかなドレスだったので、クレオパトラのアイラインを意識した衣装かもしれません。おそらくこの曲は服部さんのレパートリーに加えられているのではないかと思いますので、次の再演の機会も心待ちにしたいと思います。
 
②ヴァイオリン・ソナタ第2番「イダ山」(日本初演)
ヴラヴィー!この曲は、2019年にマスコミ報道されて問題が明るみになったイダ山の鉱山採掘事業による環境破壊に対する抗議のための音楽であり、上述したソーシャルエンゲージ・アートの1種と言えるかもしれません。1993年にイダ山は国立公園に指定されましたが、その後、2010年にトルコ政府はカナダの採掘会社に約9000万ドルでイダ山の採掘権(主に金や銀)を与え、これまでに鉱山採掘のために約20万本以上の木が伐採され(トルコ政府から許可された伐採本数の約4倍だそうです)、また、鉱山採掘に使用された約2万トンのシアン化物や水銀などによって深刻な土壌汚染が発生しているそうです。さて、第一楽章は「自然の破壊」、第二楽章は「傷ついた鳥」、第三楽章は「希望の儀式」という標題が付されていますが、この未曽有の環境破壊を世界(次世代を含む)に告発し、その抗議の意志を歴史的に刻印する意義を持った正しく現代に息衝いている音楽です。この点、日本でも神宮外苑の再開発問題が社会的な議論になっていますが、これに反対する日本の芸術家も多いと聞いていますので、果たして、どのような表現で抗議しようとしているのかウォッチしてみたいと思っています。第一楽章ではサイさんがピアノでトーンクラスターのような低音群を破壊的に連打して採掘機による掘削を描写し、これに服部さんが自然が泣いているような哀愁を湛えたヴァイオリンで歌い添う印象的な始まりになっています。サイさんと服部さんが切迫したリズムで打撃音、反復音や跳躍音などを繰り返しながら際限のない環境破壊を迫真的な表現で描写し、やがて自然の死を告げるように服部さんが物悲しくも不気味なハーモニクスを奏でると、全てが死滅した荒涼とした音世界が眼前に広がり息を呑みましたが、このような明確なイメージを音楽的に共有できる説得力のある表現力に脱帽してしまいます。第二楽章では服部さんが鳥の鳴き声を生き生きと可愛らしく描写していましたが、サイさんが物憂げな不協和音を漂わせて鳥たちに迫る災禍を効果的に暗示していました。再び、採掘機の音が鳴り響くと、鳥の鳴き声がか細く消え入るという印象的な終わり方になっています。耳障りの良いヒューマニズムという感傷と傲慢がもたらす災禍に対する自戒の念を強くするという意味でも、服部さんが鳥の鳴き声を可愛らしく描写していたのは効果的であったと思います。第三楽章ではヴァイオリンとピアノの快活なパッセージが続きますが、これはイダ山の鉱山採掘事業による環境破壊に対する抗議を表現したものに感じられ、再び、服部さんが鳥の鳴き声を奏で出してイダ山に自然が戻ってくるという明るい未来が暗示されています。エピローグではピアノの独奏が静かに聴衆に語り掛けてきますが、その音楽的なメッセージに心を澄まされる感動的な終曲になっていました。是非、再演を待ち望みたいです。なお、平成11年生まれの服部さんは9月14日が誕生日だそうで、サイさんがハッピーバースデーを演奏し、花束をプレゼントするというサプライズがありました。サイさんに誕生日を祝って貰えるとは羨ましい...。
 
③ファジル・サイ ピアノ・ソナタ「ニューライフ」
この曲は、新型コロナウイルス感染症のパンデミック禍で作曲した音楽で、新型コロナウィルスのパンデミック禍を表現したものだそうです。2023年5月5日にWHOは新型コロナウイルス感染症に関する「国際的な公衆衛生上の緊急事態」の宣言は終了すると表明しましたが、未だその脅威は消えていないとして、現状、パンデミック(世界的大流行)の宣言は継続しています。第一楽章のイントロダクションではピアノ・ソナタ第2番「イダ山」やアンコールとして演奏されたピアノ曲「ブラック・アース」でも見られたピアノの内部奏法(ピアノの弦を手で撫でる、弾く、押さえるなど)が使用され、新型コロナウィルスが人間の遺伝子を乗っ取って感染する様子を描写したものに感じられました。これに続くアレグロでは主題と変奏が展開され、人間に感染した新型コロナウイルスが変異しながら感染を拡大して行く脅威を描写したものに感じられました。第二楽章のペザンテでは重々しい印象の曲が展開され、パンデミック禍の不不確実性や不安に苛まれた時代の空気感を印象的に表現したうで、静寂な印象の曲に変わり、ロックダウンによって人影がなくなった閑散とした街並みを印象的に表現しているようでした。第三楽章のフィナーレではリズミカルで感興に乗じた快活な音楽が展開し、漸く日常生活を取り戻した希望が表現されているようでした。近年、人類とウィルスの闘いが本格化してきた背景として、南北間の経済格差を解消するために北半球の資本を投入して南半球の開発を急速に進めた結果、これまで自然界に閉じ込められていた未知のウィルスが人間界に侵入し易くなったことが触れていますが、この曲は単にパンデミックの記憶を綴るというだけではなく、ピアノ・ソナタ大2番「イダ山」でも表現されているとおり、自然と人間がどのように対称性を取り戻し、調和して行けるのかという現代的な課題を浮き彫りにしているようにも感じれ、色々と考えさせられる音楽でした。
 
 
▼第8回両国アートフェスティバル2023
【演題】第8回両国アートフェスティバル2023
    <第4夜>映画と音楽、そして対話~音楽から映画を照射する
【演目】①西陽子 ゴッホへの手紙(委嘱作品)
    ②山田岳 シャドウランズの踊り子(委嘱作品)
    ③田中慎太郎 Echoes of the Phamtom Palace(公募作品)
     ※2台のピアノのための公募作品「山本純ノ介賞」受賞
    ④RINA 父親からの贈り物(公募作品)
     ※2台のピアノのための公募作品「佐藤利明賞」受賞
    ⑤林正樹 解放(委嘱作品)
【演奏】<箏>西陽子(①)
    <Gt>山田岳(②)
    <Pf>吉森信(①)、川村恵里佳(②)、山田剛史(③④)、
        入川舜(③④)、林正樹(⑤)、田中信正(⑤)
【対談】現代作曲家 山本純ノ介
    映画研究科 佐藤利明
【場所】すみだトリフォニーホール小ホール
【日時】2023年9月15日(金)19:00~
【一言感想】
現代音楽の殿堂・両国門天ホールの主催で第8回両国アートフェスティバル2023が開催されていたので聴きに行くことにしました。今年のテーマは「映画と音楽、そして対話」ですが、映画研究家・佐藤利明さんを芸術監督に迎えて「第一夜:ヨーロッパの映画」(筝とピアノ)、「第二夜:アメリカの映画」(ギターとピアノ)、「第三夜:日本の映画」(2台のピアノ)、「第四夜:音楽から映画を照射する」(筝とピアノ、エレキギターとピアノ、2台のピアノ)というシリーズ公演が開催され、各回とも「映画と音楽」という切り口による対談及びピアノを使った特殊編成による映画音楽の演奏が行われましたが、架空の映画のための委嘱及び公募の新作を演奏する第四夜を聴きに行くことにしました。過去のブログ記事でも触れたとおり、現代音楽の受容史は映画、テレビ及びゲームなどのメディアを抜きにしては語れませんが、これらのメディアを通して現代人の「耳」(脳の認知モデル)が鍛えられたことで、古い世代の「耳」(脳の認知モデル)とは異なり新しい世代の「耳」(脳の認知モデル)は前衛音楽の無調などに違和感がないハイブリッドな仕様へアップロードされています。過去のブログ記事でも触れましたが、一般的に伝統的な西洋音楽の調性を心地よく感じるのは「先天的に備わっているもの」(聴覚固有の形質)ではなく「後天的に備わったもの」(音楽的な経験)であることが分かっており、伝統的な西洋音楽と無縁な生活を送っている南米の先住民チマネ民族は協和音及び不協和音に対する快感又は不快感の区別が存在せず、協和音及び不協和音を同じように快いと感じているという研究結果も発表されています(イギリスの総合科学雑誌「Nature」(2016年7月発刊535号)より)。この点、上述のとおり人間の認知を公式化すると「認知=知覚記憶」になりますが、人間は生存可能性を高めるために自然界に存在する無数の選択肢の中から幾つかのパターンに絞り込んだ認知モデル(認知バイアスや世代間ギャップの素)を作り迅速な状況判断や未来予測を可能にしましたが(モダニズム的な仕組み)、その限界(殻)を破ることが創造や発明などにつながると考えられています(ポスト・モダン的な発想)。映画「ター」でも描かれていましたが、クラシック音楽界(教育現場を含む)の一部に残る権威主義的な体質は、古い世代が後天的に得てきた経験(知覚)によって形成された記憶に基づく認知モデルを絶対的なものであると過信し、その規範に当て嵌めて新しい世代が挑戦しようとしていることを評価し、これを改めさせようとする態度と言えるかもしれません。現在は変革の時代と言われ、芸術の分野に限らずあらゆる分野で、これまでの経験(知覚)によって形成された記憶に基づく認知モデルを懐疑し、その限界(殻)を破ることに挑戦することが求められていますが、アメリカ人などと比べるとドーパ民の割合が少ないと言われる日本人は保守的な傾向が強く革新的な発想が不得手なのかもしれません。海外と比べて日本では、新しい世代の作曲家及び演奏家の挑戦を聴きに行こうという古い世代の聴衆が少ない傾向があることに歯痒さを覚えます。
 
①西陽子 ゴッホへの手紙(委嘱作品)
架空の映画「ゴッホへの手紙」を構想し、その映画のために筝とピアノのための音楽を作曲したそうです。この映画は、心に虚しさを抱えた一人の少女がゴッホの自画像(この映画で想定されているゴッホの自画像がどれなのかは特定されていませんが、「耳を切った自画像」(1889年)には画中画として龍明鬙谷の浮世絵「芸者と富士」(1870年代)が描かれており、ゴッホのジャポニズム熱が窺い知れます。)にインスパイアされ、ゴッホが弟テオに宛てた手紙を紐解きながら、①ゴッホの自画像(テーマ曲の提示)、②アトリエ(アルル)、③浮世絵(江戸)、④星月夜(サン=レミ)、⑤ゴッホの自画像(テーマ曲の再現)(オーヴェル=シュル=オワーズ)を旅する白昼夢を見ますが、その白昼夢から目覚めた少女はゴッホに届くことのない手紙を綴って終曲するという構成になっています。今日は、西陽子さんが4面の筝(十三絃、十七弦、二十弦、二十五弦の4種類?)を並べて演奏し(因みに、宮城道雄がモダン・ピアノの88鍵を意識して八十弦の筝(宮城道雄記念館所蔵)を考案しましたが、現在では使用されていないようです)、吉森信さんがモダン・ピアノによる伴奏を努め、上記の5つのパートの間に西さんがゴッホがテオに宛てた手紙を抜粋して朗読するという形で進行しました。冒頭のテーマ曲を提示するパートは非常にメロディアスな曲調だったのでゴッホが精神を病む前の自画像を想定していたのかもしれません。その後、短いモチーフを繰り返すミニマル音楽風の曲が展開されますが、アトリエでのゴッホの創作活動の様子を描写したものかもしれません。次に、ジャポニズム(日本情緒)が漂う筝曲が演奏されますが、やがてピアノが筝曲の調子とは異なる西洋音楽を奏で出し、日本文化と西洋文化の交流(それぞれの特徴が融合して別のものになる「混ぜる」ではなく、それぞれの特徴が損なわれることなく調和する「和える」)が表現されていたと思われます。その後、ゴッホが精神を病むとノイズが多用される重苦しく音楽が奏でられますが、西さんが筝の弦に金属のようなものを当て独特の響きを生み出していたのが面白く感じられました。過去のブログ記事でも触れましたが、邦楽はクラシック音楽のように演奏家と作曲家の分離が進まなかったことが現代筝曲としての目覚ましい進化に大きく寄与しているように感じられます。再び、冒頭のテーマ曲が奏でられ、白昼夢から覚めた少女がゴッホへの手紙を綴って終曲しますが、現実と幻想を往還する循環形式による朗読劇の構成感や物語性、各々の場面のイメージを豊かにする斬新な音楽性が有機的に結び付いて表現効果を生んでおり、非常に完成度の高い作品に感じられました。
 
②山田岳 シャドウランズの踊り子(委嘱作品)
山田岳さんは、架空の映画を構想するにあたり、当世流行の生成AIを活用されたそうですが、既に多くの現代作曲家は楽曲のアレンジなど創作の一部に生成AIを活用しており、そのような作品を耳にする機会も多くなってきています。山田さんは「自分の想像力の外からの影響が惜しかったのでタイトルをAIに考えてもらうことにした」とのことで、生成AIが「シャドウランズの踊り子」というタイトルとこれに関連した短いプロットを作成し(但し、この曲は具体的なシーンを想定して作曲したものではないため、そのプロットは非公開)、それらに着想を得て作曲したそうです。因みに、僕が調べた限りでは、未だ日本国内では「シャドウランズ」(Shadowlands)という文字で商標登録されたものは存在していないようです。この点、生成AIの活用にあたっては知的財産権の侵害(タイトルでは商標権、コンテンツでは著作権など)が社会的な話題になっていますが、個人的には、生成AIの活用にあたって一番大きな問題であると感じている点は、知的財産権などの利害調整の問題というよりも、現状、生成AIが「英語」又は「英語文化圏」をベースに開発されており、生成AIを活用した創作の過程における思考そのものが「英語」又は「英語文化圏」による思考やそれに基づく最適解に画一化されてしまう虞があるのではないかという点にあるのではないかと感じています。日本文化は外国文化(外来語を含む)を柔軟に取り込んできた適応力に強みがあると言われていますが、その一方で、戦後の西洋偏重主義に基づく義務教育が齎した弊害とその反省を踏まえれば、生成AIを社会実装して行く段階で、日本語による思考や「英語」又は「英語文化圏」による思考に基づく最適解以外の選択肢の可能性が損なわれることがないような慎重な配慮が求められます。AIは人間から仕事やその他の何かを奪うものではなく、産業革命が人類を重労働から解放したように、AI革命は人類を労働そのものから解放し、新しい恵みを齎す可能性を秘めていますが、それだけに副作用も大きくなる可能性がありAIの社会実装にあたっては多面的な思慮が必要ではないかと思います。閑話休題。この曲の冒頭ではエレキギターを使って台詞のようなものを語り掛けてきていましたが、その後の中間部では映画で使用される特殊効果音へのオマージュとして実験的な面白い試みを聴くことができました。過去のブログ記事でも触れましたが、映画の特殊効果音はハリウッド界隈の専売特許ではなく、日本でも佐藤勝が映画「用心棒」の斬殺音(人が刀で斬られる音)や伊福部昭が映画「ゴジラ」のゴジラの鳴き声(コントラバスと動物の鳴き声を合成)などの特殊効果音が考案されて、これらがハリウッドにも採り入れられていますが、さながら映像はデッサン、音楽(特殊効果音を含む)は色彩と形容することができるかもしれません。今日の公演ではモダン・ピアノの響版とエレキギターのアンプやスピーカーが対抗するようにモダン・ピアノが斜めに配置されていましたが、それが劇的な効果を生み、当初、バラバラに聴こえていたモダン・ピアノのアコースティックな響きとエレキギターのエレクトロニックな響きが次第に融合して独特な音場を形成して行く非常に面白い演奏を聴けました。上述の他公演で初演された松宮圭太さんの「One Up」という作品では、チェンバロの響板にエレクトロニックの振動スピーカーを圧着してハイブリッドな音場を生み出す面白い演奏を聴きましたが、これと同じような効果がモダン・ピアノでも得られており、エレキギターの響きがモダン・ピアノの響きに取り込まれて、モダン・ピアノが時にアコースティックに振る舞い、時にエレクトロニックに振る舞う正しくハイブリッドな音世界を堪能できました。現代音楽を得手とするピアニストの川村恵里佳さんによる精妙な響きのあしらいが演奏効果を一段と高めていたと思います。過去のブログ記事で紹介した山根明季子さんの2台ピアノのための「eye glitch animated eye」(2021年に両国門天ホールで初演)も四分音ピアノを効果的に使って異次元の音世界を表現していましたが、この曲でもモダン・ピアノという楽器の表現可能性を十分に引き出した歴史的な事件とも言い得る意欲作であり、ピアノ音楽の可能性を探求する両国門天ホールの面目躍如たる公演であったと思います。是非、山田さんには、このユニークな音楽的アイディアを様々な音楽に応用して革新的な世界観を楽しませて貰いたいと期待しています。
 
③田中慎太郎 Echoes of the Phamtom Palace(山本純ノ介賞)
④RINA 父親からの贈り物(佐藤利明賞)
複数の公演の感想をまとめて投稿したことにより紙片の都合からごく短い感想に留めておきます。指揮者の故・山本直純さんをご尊父に持つ作曲家の山本純ノ介さんが公募作品の審査員として招聘され、冒頭で音楽から映像が浮かんでくるような作品を選んだという総評がありました。先ず、山本純ノ介賞は田中慎太郎さんの「Echoes of the Phamtom Palace」が受賞されました。この曲は映画「雨月物語」から着想を得て作曲したそうですが、早坂文雄さんが作曲した笙のハーモニーと能楽囃子、筝、三味線を組み合わせた印象的なテーマ曲へのオマージュとして合竹(笙の和音)を使用し、ミニマル音楽風の映画のシーンが蘇ってくるような幻想的な美しい曲に魅了されました。次に、佐藤利明賞はRINAさんの「父親からの贈り物」が受賞されました。この曲は映画「Life Is Beautiful」から着想を得て作曲したそうですが、ジャズピアニストでもあるRINAさんは中間部でブルーノート音階を効果的に使用してユダヤ人家族の悲惨な境遇を音楽的に表現していましたが、全体的に明るい曲調でメロディアスな印象の音楽が非常に聴き易く感じられました。演奏は現代音楽の演奏でも定評のあるピアニストの入川瞬さんと山田剛史さんでした。
 
 
【訃報】現代作曲家・西村朗さん
本日、現代作曲家・西村朗さんが9月7日に急逝されたという訃報が飛び込んできましたが、あまりに突然の早世に言葉がありません。西村さんがパーソナリティーを務めていたNHK-FM「現代の音楽」を愛聴していましたので、大きな喪失感に苛まれています。NHK-FM「現代の音楽」では「よく分かりませんね~」など西村さんの気さくな人柄が滲み出るコメントに吹き出していましたが、素人にも分かりやすい解説で現代音楽の魅力を伝えてくれ、世界観を広げてくれた僕にとって掛け替えのない貴重な芸術家の1人でした。昨年、道元禅師の仏教思想書「正法眼蔵」の梅華の巻にある「華開世界起」という思想から着想を得て作曲した「華開世界~オーケストラのための」(2020年)で第69回尾高賞を受賞し、これから益々の活躍が期待されていた矢先の不幸ということもあり本当に残念でなりません。衷心よりご冥福をお祈り致します。なお、9月17日及び24日に放送予定のNHK-FM「現代の音楽」は「追悼~作曲家・西村朗」と題して西村さんの主要作品を紹介しながら、西村さんを偲び、お別れするための特番になっており聴き逃せません。また、10月からのNHK-FM「現代の音楽」のパーソナリティーは、前回のブログ記事でも触れました現代音楽のエキスパート・白石美雪さんが引き継がれるそうなので、西村さんが種を撒いて芽吹かせた現代音楽ブームの潮流(華)を白石さんが美しく咲かせてくれること(開)を期待し、応援したいと思っています。
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.28
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼カルロス・シモンのピアノ三重奏曲「be still and know」(2015年)
アメリカ人現代作曲家のカルロス・シモン(1986年~)は、現在、ジョン・F・ケネディ舞台芸術センターのレジデント作曲家で、最新アルバム「Requiem For The Enslaved」は1838年にジョージタウン大学で奴隷売買された272人の黒人を追悼する音楽として作曲され、2023年にグラミー賞(最優秀現代音楽作曲賞)にノミネートされて話題になるなど、現在最も注目されている若手現代作曲家の1人です。この曲は、テレビ司会者のO.ウィンフリーがインタビューで神の降臨を感じながら生きてきたと語ったことにインスピレーションを受けて作曲したものです。
 
▼ピアニスト:イム・ユンチャン/尹伊桑(ユン・イサン)のピアノ曲「5つの小品」(1958年)
韓国人ピアニストのイム・ユンチャン(2004年~)は、改めて紹介の必要はありませんが、2022年ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで史上最年少優勝を果たした天才ピアニストで、現代音楽の演奏にも卓抜した才能を発揮して最優秀新人賞を同時受賞しており、次代を担うピアニストとして世界中から注目を集めています。イムは尹伊桑国際音楽コンクール(2019年)にも優勝していますが、この動画はその際に尹伊桑の「ピアノのための5つの小品」を演奏した模様を録画したもので、最新アルバムには尹伊桑の交響詩「光州よ、永遠に」(1981年)も収録されています。
 
▼ピアニスト:瀬川裕美子/ヤニス・クセナキスのピアノ曲「ヘルマ」(1961年)
日本人ピアニストの瀬川裕美子(1986年~)は、第7回ショパン国際ピアノコンクールアジア大学生部門金賞及び審査員特別賞等を受賞し、現在、画家パウル・クレーの造形思考をフィーチャーしたコンセプチャルな演奏会などを精力的に開催し、また、日本屈指のブーレーズ弾きとしても知られる最も注目されているピアニストです。2013年10月14日及び2024年1月27日に「『ブーレーズ:第2ソナタ』別様の作動」と題する興味深いリサイタル(サントリー芸術財団推薦)が開催されますので、これは聴き逃せません。なお、この曲は、I.クセナキスが弟子の高橋悠治に献呈して初演されています。

サントリーホールサマーフェスティバル2023と音楽の芥川賞とドーパ民革命<STOP WAR IN UKRAINE>

▼酔い給え(ブログの枕前編)
前回のブログ記事で近代能楽集「卒塔婆小町」について簡単に触れましたが、三島由紀夫は現実の空虚さを冷静に見詰めて生き長らえる老婆の生き方を志向することが芸術家の道であると説いていますが、フランスの詩人C.ボードレールが散文詩集「パリの憂鬱」に収録している「酔い給え」(以下の囲み記事で一部抜粋)で高らかに歌い上げているように、その芸術を受容する聴衆は動もすると陶酔のうちに死を夢見る詩人の生き方に堕落して行く傾向があると言えるかもしれません。この点、H.カラヤンは「指揮者もオーケストラも陶酔するのは三流、指揮者が冷静でオーケストラが陶酔するのは二流、指揮者もオーケストラも冷静で聴衆が陶酔するのが一流」という有名な名言を残していますが、美の本質を志向して芸術表現を究める永遠の闘いに身を投じる芸術家の生き方と芸術表現の一回性に萌え尽きる刹那な陶酔に身を溺れさせる聴衆の生き方は対照的であるように思われ、上述のような芸術家の矜持(プロフェッショナリズム)があるからこそ聴衆を陶酔沼に沈めてしまう老婆の呪力を授けられると言えるかもしれません。過去のブログ記事で触れたとおり、人類は起元前500年頃の精神革命により芸術を発明しますが、遥か昔、約1000万年前の突然変異によりアルコールを分解する代謝能力を獲得してアルコール(果樹や蜂蜜が発酵して自然に生まれたお酒)を摂取するようになったと言われていますので、最初に人類を陶酔沼に沈めたのはお酒だったのではないかと推測されます。紀元前8000年頃の中近東でワイン、ビールやパンが発明され、その原料となる穀物を栽培するために狩猟採集(旧石器時代の移動生活)から農耕牧畜(新石器時代の定住生活)へ移行したと言われており、紀元前3000年頃のエジプトでは世界最古のビール工房が建設され、ピラミッド建設に従事する労働者に報酬として毎日5リットル/人のビールが支給されていたと言われています。時代は下って、1989年のフランス革命はパリ市内に運び込まれるワイン等に対する関税を徴収するために設置された税関所を市民が襲撃したことが直接の端緒になったと言われており(ワインの値段が関税で4倍になり、「3スーのワイン万歳!12スーのワインを打倒せよ!」が革命のスローガンになったと言われています)、お酒が人類のモチベーションを発酵し、フランス革命を醸造したと言えるかもしれません。なお、西洋の酒神「バッカス」は豊饒と陶酔をもたらす神として崇められ、その酒神を祀るデュオニソス祭は神の狂気がダンサー達に憑依する放蕩な祭りとして有名で(演劇の誕生)、その酒神の宴「バッカナール」は西洋音楽(例えば、C.サン=サーンスのオペラ「サムソンとデリラ」、R.ワーグナーのオペラ「タンホイザー」、J.イベールの管弦楽のためのスケルツォ「バッカナール」、A.グラズノフのバレエ音楽「四季」、A.ルーセルのバレエ音楽「バッカスとアリアーヌ」、R.シュトラウスのオペラ「ナクソス島のアリアドネ」、J.ケージのプリペアドピアノのための「バッカナール」や黛敏郎の管弦楽のための「バッカナール(饗宴)」など)の題材として好んで使われています。しかし、キリスト教の影響等もあり、西洋では人前で酔うこと(理性を失って本能に支配される酒狂)を非社会的(病、悪魔)な行為として恥辱と捉える傾向が強いと言われています。その一方で、日本では三大酒神(松尾大社梅宮神社大神神社)に代表される各地の酒神や酒飲みの神「布袋尊」等が崇敬され、また、千葉県酒々井町酒の井伝説等が酒神の奇蹟として信奉されるなど、神と人がお酒を酌み交わして一体になる神人共食の伝統が育まれ、酔うという行為が神との結び付きを強めると考えられてきたことから、日本では人前で酔うこと(神の依り代である肉体を精神から解放する酒興)を社会的な行為として栄誉と捉える傾向が強いと言われています。この点、お酒は脳の神経伝達物質「ドーパミン」(快楽物質)の分泌を促してハイな状態(ほろ酔い)にしますが、お酒を過ごすと運動を司る小脳や記憶を司る海馬を麻痺させる泥酔状態(呂律が回らない、千鳥足や記憶喪失)になり、これが習慣化するとドーパミン中毒(アルコール依存症)を発症するリスクが指摘されています。立川談志が「酒が人間をダメにするんじゃない。人間はもともとダメだということを教えてくれるものだ。」という酩言を残していますが、お酒は自分を映す縁であり、お酒に飲まれて神との結び付きを失ってしまうようなダメな人間なのか、酒神は試されています。
 
Enivrez-vous
Il faut être toujours ivre. Tout est là : c’est l’unique question. Pour ne pas sentir l’horrible fardeau du Temps qui brise vos épaules et vous penche vers la terre, il faut vous enivrer sans trêve. Mais de quoi ? De vin, de poésie ou de vertu, à votre guise. Mais enivrez-vous. ~ C. Baudelaire ~
 
【意訳】酔い給え
絶えず酔っていなければならない。そのことに尽きる。時間という重荷に翼を折られ、地上に引き摺り降ろされる恐怖を感じないためには酔い続けなければならない。どうやって酔うか?酒、詩、美徳、好きなもので構わない。とにかく酔い給え。(C.ボードレール)
 
▼ドーパ民革命(ブログの枕後編)
前回のブログ記事で神経伝達物質の分泌量は脳の報酬量に比例して増えるのではなく、予測していた脳の報酬量と結果的に得られた脳の報酬量の「差分」に比例して増えることに簡単に触れましたが、人間は同じ刺激を繰り返し受けると慣れが生じて「差分」を感じなくなり、それに伴って「ドーパミン」(快楽物質)の分泌量も減少するために、「ドーパミン」(快楽物質)の分泌を促すべく新しい「差分」を求めるようになります。これが過剰に働くとドーパミン中毒(アルコール依存症、スマホ依存症などの原因)と揶揄される状態に陥りますが、その一方で、これが人類を進化させてきた原動力でもあり、その適度な活性は幸福な人生を送るうえで欠かせないものの1つと言えるかもしれません。マンガ「ミュジコフィリア」では、調性システムを使うと「既聴感」のある音楽しか創作できず、如何に「未聴感」のある音楽を創作するのかが現代音楽の課題であることに触れていますが、この「未聴感」が「差分」を生んで「ドーパミン」(快楽物質)の分泌を促す可能性があります。この点、既存の音楽を巧みに演奏し又はその解釈に工夫を尽くしても、その「差分」は些少なものでしかなく、未聴感のある音楽等による新しい芸術体験が求められるようになってきているのが最近の初演ブームとも言える状況ではないかと思います。ドーパミンを生成する細胞は脳細胞全体の僅か0.0005%を占めるに過ぎませんが、最新の研究成果では、ドーパミンは生存と生殖につながる行動を促して生存可能性を高めるという重要な働きを担っており、「快楽」だけではなく未だ実現していないことに関する「未来予測」「達成」等に関係する未来志向型の神経伝達物質であることが分かっています。これに対し、セロトニン(心のバランス)、オキシトシン(愛情ホルモン)、エンドルフィン(脳内モルヒネ)、エンドガンナビノイド(脳内マリファナ)は既に実現していることに関する「現状維持」「満足」等に関係する現在志向型の神経伝達物質であることが分かっており、現在志向型の神経伝達物質(セロトニン等)の働きが活性されると未来志向型の神経伝達物質(ドーパミン)の働きが抑制され、未来志向型の神経伝達物質(ドーパミン)の働きが活性されると現在志向型の神経伝達物質(セロトニン等)の働きが抑制されるという仕組みで脳内のバランスが保たれています。この点、現状に対する不満は新しい快楽を求めて新しい挑戦を促すためのドーパミンが分泌される契機になり、ワイドショーの格好のネタになっている芸能人の不倫騒動は、このようなドーパミンの働きが引き起こしている現象と考えられます。一般に、セロトニン等の活性が高い人は現状を維持する保守的な思考が強く(ex.伝統的な家族観の尊重)、ドーパミンの活性が高い人は現在よりも良い未来を想像するリベラルな思考が強い(ex.ジェンダー平等の実現)と言われています(ベンチャー企業やエンタメ業界に多いタイプ)。過去のブログ記事でも触れたとおり「創造」と「狂気」は紙一重ですが、例えば、「ADHD」はドーパミンの分泌量が増加して注意欠如、多動性や衝動性等の症状を発症する精神疾患ですが、J.ガーシュウィンは「ADHD」の症状があり、それが斬新なリズムや多彩なハーモニー等の魅力的な音楽の創作に寄与したと言われています。また、「総合失調症」はドーパミンの分泌量が異常に増加して幻想や幻覚が発生する精神疾患(潜在抑制機能障害)ですが、(映画「ター」でも描かれているとおり)芸術作品の創作過程で脳の潜在抑制機能が低下することが分かっています。この点、「創造」とは過去に存在していなかった真実や美を創作し、表現することを意味しますが、芸術家は認知モデル(従来の世界観)を解体して全く新しい視点で世界を捉え直すために常識に囚われない自由に飛躍する思考が求められ、そのためにドーパミンの活性が重要になります。但し、芸術家は聴衆の認知世界(共有世界)に対する共感力(セトロニン等の活性)も備わっていて聴衆の認知世界とは隔絶されていない点が精神疾患者と異なっており、また、聴衆は芸術家の認知世界(非共有世界)に対する想像力(ドーパミンの活性)を育むことで自らの認知世界を芸術家の認知世界(非共有世界)へと拡張することが可能になります。認知モデルは、脳が世界を認知し易くするために様々な対象を抽象化して一般的な概念に昇華したものですが、その一方で、一定の視点からしか世界を捉えられなくなり多様に変化する世界に柔軟に適応して生存可能性を高めることが難しくなるという欠点を内包しています。そこで、ドーパミンは、認知モデルを創造する一方で、それを解体して新しい認知モデルを再創造する働きにも寄与しています。一般に、ドーパミンの活性が高い人間は人間関係を苦手とする傾向が強いと言われていますが、これはドーパミンの働きが活性されるとセロトニン等の働きが抑制され、人間への共感力が弱くなるためではないかと考えられています。この点、A.アインシュタインは「私の燃えるような社会正義感と社会責任感は、他の人間達との直接的な触れ合いを求める気持ちの明らかな欠如と、常に奇妙な対照をなしていた。」「私は人類を愛しているが、人間を憎んでいる。」と語っており(小説家のF.ドストエフスキーや詩人のE.ミレイなど著名な芸術家も同様の趣旨のことを語っています)、また、アインシュタインは妻以外の複数の女性との不倫関係で浮名を流しましたが、相対性理論を創発するためには多量のドーパミンが必要であったと考えられ、それによりセロトニン等が抑制されたために、妻を含む特定の女性を愛し続けることが難しく次々と新しい恋愛へ駆り立てられていったものと考えられます。全世界で約1/5の選ばれた人間だけがドーパミンの活性を強める遺伝子(7Rアレル)を持ち、創造的な発想が行う能力を備えて新しいものや珍しいものを見い出す傾向が強いと言われています。最近の研究では、このドーパミンの活性を強める遺伝子(7Rアレル)を持つ人間は、現世人類の世界拡散(様々なルートが指摘されていますが、アフリカ大陸→ユーラシア大陸→ベーリング海峡→アメリカ大陸)でより長い距離を移動した集団に属していた可能性(ドーパミンの分泌量が多いほど遠くへ移動する傾向)が高いことが指摘されています。この点、ドーパミンの過剰な活性によって引き起こされる双極性躁症状の有病率は、移民が多いアメリカは4.4%(世界最高)なのに対し、殆ど移民がいない日本は僅か0.7%(世界中でも極めて低い)に留まっており、また、アメリカでは20歳までに発症する患者は2/3に上ると言われているのに対し、ヨーロッパでは20歳までに発症する患者は1/4に満たないと言われており、現代のアメリカの経済的及び技術的な発展はドーパミンの活性が高いアメリカの遺伝子プールに理由の1つがあると言えるかもしれません。時代の変革期に日本が取り残されている理由の1つは、日本人のドーパミンが相対的に不活性であることが原因しているのかもしれず、(仮に、将来も日本が大国の地位に留まり続けたいと考えるのであれば)ドーパミンの活性が高いドーパ民への体質改善、意識改革が求められていると言えるかもしれません。人間の脳内ホルモンは約3ケ月前後で置き換わると言われていますので、この夏はサントリービールにしたたかに酔いながらサントリーサマーフェスバル2023年に参加して新しい芸術作品が描き出す新しい世界観に心酔することでドーパミンの活性を促したいと目論んでいます。
 
 
▼サントリーホールサマーフェスティバル2023①
【演題】作曲ワークショップ✕トークセッション
【演目】①オルガ・ノイヴィルト✕細川俊夫 トークセッション
    ②若手作曲家からの公募作品クリニック(実演付き)
     ・内垣亜優「チェロ・チュロス・チョリソー」
       <Vc>下島万乃
     ・室元拓人「トカラ・イヴォーク」
       <Fl>齋藤志野
       <Va>甲斐史子
       <Vc>下島万乃
     ・山田奈直「鯨」
        <Cl>田中香織
【講師】オルガ・ノイヴィルト、細川俊夫
【場所】サントリーホール
【日時】2023年8月23日(水)19:00~
【一言感想】
◆オルガ・ノイヴィルトさんの紹介
今年のサントリーホール国際作曲委嘱シリーズのテーマ作曲家はオーストリア人のオルガ・ノイヴィルトさんです。オペラの伝統の象徴であるウィーン国立歌劇場が史上初めて女性作曲家のO.ノイヴィルトさんに新作オペラを委嘱し、2019年にウィーン国立歌劇場の創立150周年を記念してオペラ「オルランド」を初演して話題になりましたが(コム・デ・ギャルソンの川久保玲さんが衣装を担当)、先日、他界されたカイヤ・サーリアホさんと共に、世界をリードする女性作曲家の1人として注目されています。因みに、ウィーン国立歌劇場はイオアン・ホレンダーさん(伝統音楽の聖地・オーストリア産)が総監督を勤められていた時代(当時の音楽監督は小澤征爾さん)までは保守的な体質でしたが、2010年にドミニク・マイヤーさん(前衛音楽の聖地・フランス産)に総監督が交代すると、T.アデスさんやP.エトヴェシュさん(三島由紀夫さんの切腹を契機としてオペラ「ハラキリ」を作曲したことでも知られている作曲家)などの現代オペラや現代的な演出によるプロダクションの上演を積極的に行うなどウィーン国立歌劇場の一大改革に着手し、そのような文脈の中でウィーン国立歌劇場が史上初めて女性作曲家へ新作オペラを委嘱し、その体質が革新的に改まったことを強く印象付けることになりました。O.ノイヴィルトさんのご祖父は作曲家・音楽学者、ご尊父はジャズ・トランぺッターという音楽一家で育ち、当初はジャズ・トランぺッターを目指していたそうですが、交通事故で顎を負傷したことを契機として作曲家に転向して、実験音楽・大衆音楽の聖地・アメリカのサンフランシスコ音楽院で作曲、映画及び絵画、また、ウィーン音楽大学で作曲及び電子音楽を学び、作曲家L.ノーノの薫陶も受けているらしく、それがO.ノイヴィルトさんのジャンルに囚われない懐の広い音楽性になって現れており、時代の申し子と言うべき豊かなキャリアと稀有な才能に恵まれています。O.ノイヴィルトさんはクラシック音楽の歴史を育んできたウィーンの伝統に押しつぶされそうになりながら、男性社会であるクラシック音楽界の中で時代の価値観を先取りする自分の音楽を追求するために格闘して来たそうですが、漸く時代はO.ノイヴィルトさんをキャッチアップしつつあると言えるかもしれません。なお、O.ノイヴィルトさんは作曲家に転向した10代後半に5週間ほど日本に滞在した経験があるそうですが、日本に対する印象として演劇形式(能?)の抽象性に魅了され、また、「侘び」の美意識が浸透している社会の中に息衝く「衒い」(反語、当て擦り、皮肉、嫌味など)が面白く感じられ、高尚と低俗や素朴と外連など両極端な価値観が共存している点に興味を惹かれたそうです。
 
◆内垣亜優「チェロ・チュロス・チョリソー」
子音+母音で構成される日本語の発音の特性を生かして、チェロの「チェ」(特殊音)という発音から「チュ」(拗音)でチュロス、「チョ」(拗音)でチョリソーと連想し、それらの言葉のリズムやイントネーションなどから着想を得て作曲したそうです。さながら俳諧の連歌のように2・3・4の定型文を基調(モチーフ)とし、これをミニマル・ミュージック風というよりも変奏曲風に繰り返し変化させながら音楽が紡がれて行きました。O.ノイヴィルトさんからアイロニーを伝統的なスキームに収める手法で作曲されているが、例えば、ノイズや特殊奏法などチェロという楽器が持っている表現可能性を十分に活かしながら、もう少しアイロニーをワイルドに表現しても面白かったのではないかという趣旨のアドヴァイスがありました。自分の音楽を追求してウィーンの伝統に挑戦してきたO.ノイヴィルトさんらしいアドヴァイスに感じられました。なお、内垣亜優さんは、第8回日本国際合唱作曲コンクール第3位を受賞しているようですが(女性としては初の受賞者)、その受賞作品「ナンセンス・アルファベット」を聴くと、この曲と同様に言葉の意味ではなくその音(響き、リズム、イントネーションなど)を重視して作曲されているように感じます。この点、世阿弥の詞章を読むと、言葉の意味よりもその音に配慮して慎重に言葉を選んでいる印象を受けますが(和歌は目で理解する「読む」ものではなく耳で感じる「詠む」もの)、現代では日本語から失われつつある音の魅力に聴衆の意識を向ける面白い着想だと思います。
 
◆室元拓人「トカラ・イヴォーク」
シリーズ「現代を聴く」でもご紹介していますが、2022年に武満徹作曲賞第1位を受賞されている最も注目される若手作曲家ですが、その期待を裏切らない非常に面白い曲を聴くことができました。ブラヴォー!神の音連れ(訪れ)を音楽的に表現した物語性のある作品で、振れ幅の大きいノイズ(無秩序)で自然界に宿る神の気配、なだらかな楽音(秩序)で自然界から顕在する神を表現し、再び、振れ幅の大きいノイズ(無秩序)で自然界へと消え失せて鎮まる神の気配を表現するもので、此岸と彼岸の境界が曖昧な一元論的な世界観が精妙に描かれていました。先日、日本初演された細川俊夫さんのヴァイオリン協奏曲「祈る人」でも同じような世界観が描かれていて感動を禁じ得ませんでしたが、世界各地の異常気象とそれに伴う深刻な被害状況が報告されるなかで、改めて自然と人間の関係を捉え直す音楽には現代及び未来に込められたメッセージ性(ヒューマニズムに対する懐疑的な眼差しと対称性の回復に向けた意識的な変革)があるように感じられ、これまでのクラシック音楽では扱われていなかった、しかし現代人にとって非常に重要な価値観が表現されている現代人にとって必要な芸術であると感じ入りました。O.ノイヴィルトさんから室元さんがどのような着想を得て作曲した作品なのかプレゼンテーションがあったことで音楽的なイメージを共有できたことは非常に有益であった旨の総評が示されたうえで、更に楽器の使い方を工夫して表現のバリエーションを増やすことも考えられる旨のアドバイスがありました。
 
◆山田奈直「鯨」
深海を遊泳する鯨の声(仲間とのコミュニケーションを行うための「鯨の歌」、障害物を探知するための「エコーロケーション」(クリック音)、魚を狩猟するための「フィーディングコール」など)から着想を得て、鯨の雄大なイメージや深海の暗く静寂な世界を表現したそうです。クラリネット奏者が特殊奏法を駆使して鯨の声をイメージさせる音響を生み出しながら、舞台の四方向に設えられた譜面台を文字とおり回遊しながら演奏していきましたが、遠くに響く音、近くで響く音、線的に伸びる音、面的に広がる音などのバリエーションを使って深海の広大さや鯨の勇壮な遊泳を感じさせる立体的で動きのある音響空間を演出する工夫が非常に面白く効果的であったと思います。流石はVR世代の発想です。深海や鯨の世界を疑似体験することで、自然は人間の知覚能力が及ばない広大で深遠な世界が調和して成立しており、人間の知覚能力が及ぶ範囲を世界の全てであると勘違いして浅はかに振る舞ってきたヒューマニズムに対する警鐘を鳴らす現代的なメッセージを含んだ作品であるように感じられました。O.ノイヴィルトさんはオペラ「追放された者」で白鯨を題材にした作品を作曲した際に鯨の生態を研究したそうですが、鯨のクリック音は等間隔ではなく対象物に近付くと間隔を狭めて行くので、そのようなリアルな表現を採り入れて音楽表現に迫真を生む工夫が考えられるという趣旨の実践的なアドバイスや、鯨の獰猛な面も表現できればドラマが生まれて更に豊かな世界が広がるのではないかという趣旨のアドバイスもありました。
 
サントリーホールサマーフェスティバル2023②
【演題】オーケストラ・ポートレート(委嘱新作初演演奏会)
【演目】①ヤコブ・ミュールラッド「REMS」(短縮版・世界初演)
    ②オルガ・ノイヴィルト「オルランド・ワールド」(世界初演)
    ③オルガ・ノイヴィルト「旅/針のない時計」(2013年)
    ④アレクサンドル・スクリャービン 交響曲第4番「法悦の詩」
【演奏】<Mes>ヴィルピ・ライサネン
    <Con>マティアス・ピンチャー
    <Orc>東京都交響楽団
【場所】サントリーホール
【日時】2023年8月24日(木)19:00~
【一言感想】
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◆ヨーロッパの音楽事情
近年、ヨーロッパの現代音楽祭は「現代の音楽」という切り口よりも「アクチュアルな音楽」という切り口で特集が組まれる傾向が強いそうですが、美術界でもソーシャルエンゲージメント・アートが注目されているように、現在、我々が直面している様々な社会問題(政治、環境破壊、ジェンダー、人種差別、テクノロジーなど)を題材として、それらの社会問題と正面から向き合い、新しい世界観を表現できる芸術表現が求められているそうです。映画「ター」にも描かれていますが、例えば、現代は「音楽とは、男の心から炎を打ち出すものでなければならない。そして女の目から涙を引き出すものでなければならない。」(ベートーヴェン)という認知バイアスが違和感なく受け入れられていた一昔前とは時代状況や時代感覚が大きく異なっており、もはや歴史上の偉大な芸術遺産だけでは現代人の教養(学問、知識、経験や芸術受容等を通して養われる心の豊かさ)を育むことは難しくなっているように感じます。再び、時代は大きな変革期に入っていますので、メトロポリタン歌劇場総監督のP.ゲルブさんも仰っているとおり、いつまでも懐古趣味に閉じ籠っているばかりではなく、現代人にも共感でき、現代人の教養を育み得る新しい芸術表現とその柔軟な受容が必要になっていると痛感します。さて、本日の演目はテーマ作曲家O.ノイヴィルトさんのチクルスではありませんでしたが、人間が生み出す様々なボーダー(時間、性別、意識など)を越える芸術体験というテーマ性に基づいた選曲であったのではないかと感じられます。
 
◆ヤコブ・ミュールラッド「REMS」(短縮版・世界初演)
スウェーデン人現代作曲家のヤコブ・ミュールラッドさん(1991年〜)は、ウォール財団特別賞(2018年)、TCO文化賞(2018年)、エル・ガラ賞(2019年)などを受賞し、また、ホーリー・ミニマリズムの特徴を持った曲が収録されているアルバム「TIME」がスウェーデンのグラミー賞(2019年)にノミネートされるなど、現在最も注目されている若手作曲家です。この曲は、夢と睡眠が持つ「謎めいた、心震わせる」ような体験に着目し、世界の子守歌やインドのラーガなどを参照しながら自らが体験した夢と睡眠を音楽的に表現したものだそうですが、本日は原曲(約26分)を1/4の長さに編曲したものが演奏されました。冒頭は寝入り端の無意識の世界を表現したものか静かなロングトーンが演奏されますが、やがて打楽器が時を刻み出すと、夢の抽象的なイメージを表現したものか弦楽器や管楽器がポルタメントやグリサンドを繰り返しながら、やがて夢の具象的なイメージを表現したものか何度かクライマックスを築いた後に、再び無意識の世界へ戻って静かに終曲するという夢の世界を疑似体験するような面白い作品でした。過去のブログ記事でもご紹介しましたが過去に夢をテーマにしたクラシック音楽は多く、後述するO.ノイヴィルトさんの「旅/針のない時計」でも夢のイメージが表現されていますが、夢のイメージ(認知パターン)とそれを表現するための音楽的な手法に相似している部分があり、夢と音の共感覚は世界で共通する要素があるかもしれません。
 
◆オルガ・ノイヴィルト「オルランド・ワールド」(世界初演)
本日は、上述のオペラ「オルランド」(原曲)からオルランドの歌唱パートの一部とその前後のオーケストラパートの一部で構成された組曲版が世界初演されました。このオペラの台本はイギリス人女性作家で女性解放運動のパイオニア的な存在としても著名なヴァージニア・ウルフさんのメタ小説「オーランドー」(1928年)が使用されていますが、1598年のエリザベス1世の治世下から物語が始まり、オルランドが昏睡状態の末に男性から女性に変身し、第二次世界大戦(ナチズム、原爆投下)を経て1928年(2019年(このオペラの台本ではオペラの世界初演日である2019年)まで約4世紀に亘って女性作家として男性社会の歴史に疑問を感じ、女性に対する偏見と闘いながら生きてきたという内容(O.ノイヴィルトさんの生き方とも重なる部分があるかもしれませんが)になっており、ジェンダーをはじめとして児童虐待、人種差別、ポピュリズムなど現代的な社会問題を先取りする内容が盛り込まれている作品として現在注目を集めています。このオペラではO.ノイヴィルトさんの多彩なキャリアと才能を反映してルネサンス音楽から現代音楽(エレクトロニクス、ミニマルミュージックなど)、ポップス、ロック、ジャズなど時代やジャンルのボーダーを感じさせない実に多彩な音楽が混然と調和しており、これがオルランドのノン・バイナリーな生き方を音楽的に体現する形にもなっていると思います。冒頭はタイムトリップを演出したものなのか霞がかったような微弱音から徐々にはっきりとした音像が浮かび上がってきましたが、さながら映画のトランジション効果を音楽的に演出したような劇的な効果が感じられました。また、チェンバロ、打楽器、エレキギターなど多種多様な楽器が使用され、それらが様々なジャンルの音楽を混然と演奏する様子(何か1つの表現にまとめられたり、線が引かれて区分けされたりしない様子)は、さながら多様な価値観を持った人間が息衝く現代社会の縮図を見ているようで、それゆえに真実味のある説得力のある音楽として心に響きました。これだけアグレッシブな音楽でありながら破綻を来さないのはO.ノイヴィルトさんの多彩なキャリアと才能の裏付けによるものだと思われ、決して他の作曲者には真似ができない個性的な作風ではないかと思われます。メゾ・ソプラノのV.ライサネンさんが男性から女性に変身する場面では、歌舞伎の早替りよろしく舞台上で一瞬で衣装替えを行って、その声域も低音域(男性)から高音域(女性)に変えて歌われるなどの演出上の工夫が大きな見所になっています。映画「ター」にも描かれていますが、オルランドの「慣習など僕にとっては無意味だ」という台詞は、過去の慣習や常識、伝統などに囚われ、それらの鋳型に若者の多様な才能を嵌め込もうとしがちな権威主義的な態度を戒めているようで心に刺ります。なお、組曲版では重唱パートや合唱パートなどが大幅にカットされた関係で、DVD(原曲)と聴き比べると音楽的な魅力のある聴きどころが減ってしまっていますので、是非、オペラ公演(原曲)も生演奏で聴いてみたい衝動に駆られます。この点、新国立劇場は握りキンタマ(財政難?)になっているのか来シーズンの演目はクラシック一色に逆戻りして物足りなさを否めませんので、是非とも、再来シーズンではO.ノイヴィルトさんのオペラ「オルランド」やオペラ「追放された者」など新しいオペラ作品の上演(新製作だけではなく日本初演)も積極的に考えて貰いたいと切望しています。
 
◆オルガ・ノイヴィルト「旅/針のない時計」(2013年)
この曲は、ウィーン国立歌劇場総監督がドミニク・マイヤーさんに交代した2010年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団からグスタフ・マーラー没後100周年記念のために委嘱されたものだそうですが、当時、O.ノイヴィルトさんはオペラ「アメリカ人ルル」などの作曲に取り掛かっていたことから2015年まで委嘱が延期されることになったそうです。O.ノイヴィルトさんは他界したご祖父がドナウ川の河畔で人生を歌う夢を見たそうですが、その夢から着想を得てこの曲を作曲したそうです。この曲では時計の秒針を思わせるビート音が過去又は異次元への旅を想起させるように印象的に使用され、グリサンドやポルタメントなどの特殊奏法を挟んでマーチ、舞曲、ジャズやポップスなどのどこかで聴いたことがあるような懐かしい様々な曲調の音楽が奏でられ、再び、時計の秒針を思わせるビート音が刻まれることを繰り返しながら音楽が様々な時空を旅して行きます。おそらくマーチ、舞曲、ジャズやポップスなどのどこかで聴いたことがあるような懐かしい様々な曲調の音楽は、夢に現れたご祖父の人生のフラグメントであり、ご祖父へのオマージュであるように感じられ、親から子へ、子から孫へと受け継がれて行く人間の命の営みを思い起こさせてくれる含蓄の深い音楽に感じられました。日本はお盆(盂蘭盆)を終えたばかりですが、時に触れ、折に触れて先祖のことを思い出すこと(思いやり=「思い」を「遣る」)が何よりの供養であり、それが先祖から授けられた自らの命を愛しむということにもつながるのだろうと思います。そんな気持ちにさせてくれる音楽でした。
 
◆アレクサンドル・スクリャービン 交響曲第4番「法悦の詩」
調性音楽(具象絵画)から無調音楽(抽象絵画)へと向かう過渡期の時代に、スクリャービンが神秘和音(複合的な和声)を使って作曲した曲(印象主義~フォービズム)ですが、定番曲でもあり、紙片の都合から感想は割愛します。
 
サントリーホールサマーフェスティバル2023③
【演題】第33回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会
【演目】①第31回芥川也寸志サントリー作曲賞受賞記念委嘱作品
     ・桑原ゆう「葉落月の段」(世界初演)
       <尺八>黒田鈴尊
       <三味線>本條秀慈郎
    ②第33回芥川也寸志サントリー作曲賞候補作品
     ・田中弘基「痕跡/螺旋(差延 II)」(2021年)
     ・向井航「ダンシング・クィア」(2022年)
     ・松本淳一「忘れかけの床、あるいは部屋」(2016年)
【演奏】<Con>石川征太郎
    <Orc>新日本フィルハーモニー交響楽団
【司会】白石美雪
【審査】稲森安太己、小鍛冶邦隆、渡辺裕紀子
【場所】サントリーホール
【日時】2023年8月26日(土)15:00~
【一言感想】
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◆現代音楽の受容環境(課題感)
観客の立場から、最近、現代音楽の受容環境について課題感を持っていることは、殆どの曲が初聴であり一聴しただけではその魅力を十分に理解することが困難な複雑な曲が多いにも拘らず、クラシック音楽とは異なって参照できる音源などがリリースされておらず、また、その曲が再演される可能性も極めて低い状況にあるなか、せっかく現代音楽の演奏会に足を運んで某曲を見染めても、その某曲の魅力を十分に理解できないままに一夜限りの行きずりの関係で終わってしまうヒモジイ芸術体験しか期待できない憾みがあります。クラシック音楽であれば、演奏会で気に入った某曲と出会えれば、その某曲の音源を入手して何度でも繰り返して視聴しながら鑑賞を深め、その某曲の真価に触れて愛を育むという豊かな芸術体験が可能ですが、現在のところ、このような大人の関係は現代音楽では期待し得ないことだと諦めざるを得ません。このまま観客にとって現代音楽が夜鷹のような存在にしかなり得ないならば、益々、現代音楽の演奏会から客足は遠退いて、現代音楽のファンを増やすことは叶わないのではないかと危惧を覚えます。もし演奏会の模様を録画されているのであれば、例えば、演奏会のチケットを購入した観客に限って、一定期間、その録画をアーカイブ配信するなど豊かな芸術体験を可能にする工夫を真剣にご検討頂きたいと感じています。観客が現代音楽と愛を育むことは許されないのでしょうか。
 
▼現代音楽の演奏会で某曲を見染めた帰り道の観客の心中
此の世の名残り、夜も名残り、死にに行く身を譬ふれば、あだしが原の道の霜、一足ずつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ、あれ数ふれば、暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響の聞き納め、寂滅為楽と響くなり。(曽根崎心中改め、観客心中、道行)
 
◆桑原ゆう「葉落月の段」(世界初演)
桑原ゆうさんは「タイム・アビス」で第31回芥川也寸志サントリー賞を受賞しましたが、その恩典として委嘱されたオーケストラ作品が初演されました。タイトルの「葉落月の段」(三味線と尺八のためのドッペル・コンチェルト)は武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」(琵琶と尺八のためのドッペル・コンチェルト)を意識したものだそうですが、ご案内のとおりノヴェンバー・ステップスは小澤征爾さんがニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督だったL.バーンスタインに武満徹を紹介し、L.バーンスタインがニューヨーク・フィルハーモニック創立125周年を記念する曲を武満徹に委嘱して誕生した曲で、1967年11月の初演予定から「ノヴェンバー」、邦楽の段構成から「ステップス」と命名されました。これを踏まえて、2023年8月の初演予定から旧歴8月を意味する「葉落月」と命名されたそうですが、桑原さんの野心と自信の程が窺える逸話です。武満徹が東西の音楽的な特徴について「洋楽の音は水平に歩行する。だが、尺八の音は垂直に樹のように起る。」と語っているとおりノヴェンバー・ステップスの作曲にあたって東西の音楽的な特徴の違いに着目されていましたが(西洋の音楽は西洋の絵画のように音(色)の連なり重なりで描く音世界、日本の音楽は水墨画のように一音(一線)で描き切る音世界などの音楽的な特徴の違いは、西洋の言語が連音、日本語が一音で感情表現する延音などの言語的な特徴の違いと通底するものがあります。)、桑原さんは東西の音楽的な特徴を「比べる」や「混ぜる」のではなく、東西の音楽的な特徴の背後にある音や音楽の本質に迫ることで東西の音楽的な特徴を活かしながら共生する「和える」(日本的な発想)という視点から新しい芸術表現を探求し、武満徹を嚆矢とする日本人のアイデンティティに根差した現代音楽の創作を次のステップ(ノヴェンバーから葉落月)へと進化させたいという並々ならぬ覚悟と意欲が感じられます(注:あくまでも僕なりの理解で意訳していますので、桑原さんの考え方はご本人の発言を直接参照して下さい)。現代は第三世界が台頭するポスト・アメリカニズムの時代と言われているとおり多極化、多文化及び多様化などを前提として世界の調和を志向する新しい世界観が模索され始めていますが、さながら桑原さんの作曲理念はそれを芸術表現の次元で探求するものであるように感じられ、これからの時代を表現する新しい芸術としてどのように進化して行くのか注目されます。今日はオーケストラ作品なので二階席で鑑賞することにしましたが、そのために三味線や尺八の細かいニュアンスまで十分に感じ取ることができず(国立劇場や能楽堂では前方の席を好みますので)、邦楽コンチェルトの席取りの難しさを感じました。また、僕のような素人の耳では新曲を一聴しただけで音楽の細部まで聴き取ることは難しいので、次回の再演の機会まで詳しい感想は留保することにし、いくつか印象的であった部分のみの簡単な感想を残しておきたいと思います。この曲の冒頭では三味線が撥弦楽器とは思えないような微弱音を奏で、これと掛け合う尺八も息の音から楽器の音へと徐々に変化して行く繊細な演奏が印象的でしたが、念や声、息から音が紡がれて音楽が奏でられる過程が表現されているようで、冒頭から三味線と尺八が奏でる世界に惹き込まれました。ソリストである三味線と尺八の掛け合いが音楽をリードしながら、これをオーケストラがサポートするというコンチェルト・スタイルで音楽が進行しましたが、東洋の音楽的な特徴と西洋の音楽的な特徴が活かされた新しい試みが随所に聴かれ、例えば、三味線が西洋的な叙情性を湛えた旋律を奏でるパートやフルートが東洋的な風情を湛えた虫の音を奏でるパートなど、東西の音をクロスオーバーさせながら東西の音の美意識の違いを聴かせる工夫などが面白く感じられました。現代音楽はノイズを効果的に採り入れて東西の音の美意識の違いを乗り越える試みが盛んですが、基本的に西洋音楽は清音を基調として耳で知覚できる音を連ね重ねて観客へ訴え掛ける音空間を作り上げるのに対し、邦楽は清音及び濁音(自然界の音に近い雑味を含む音)を巧みに操りながら耳で知覚できない間や余韻を聴かせることで観客を惹き込む音空間を作り上げるという特徴的な違いがあり、両者の魅力を並存させながら1つの世界観を表現するためには様々な工夫を尽くさなければならない難しさがあると思います。桑原さんによれば、「演奏家に多くの部分をまかせる」(=即興演奏 ≠ 偶然性・不確定性の音楽)という邦楽的な作曲手法を積極的に採り入れたいと仰っていましたが、例えば、尺八は首振り1つを取っても演奏者によって演奏日によって変化し得る振れ幅があると言われており、その音楽の揺らぎが邦楽の特徴的な魅力になっていますが、後半の三味線と尺八の掛け合い(カデンツァ)を含めてどのような指示が楽譜(五線譜?邦楽譜?ハイブリッド楽譜?又は図形楽譜のようなメタ楽譜?)に書き込まれているのか、即ち、東西の音楽的な特徴を活かしながら共生する音楽を創作するために邦楽器及び西洋楽器の演奏者との間でどのようなメディアを使ってどのようなコミュニケーションを試みられているのかという点にも興味があります。クラシック音楽はバロック音楽の時代から世代間で受け継がれてきた即興演奏の伝統がありましたが、戦後から本格化した楽譜至上主義に基づく演奏習慣(モダニズム)によって音楽の自由度が損なわれたことから、現代音楽では音楽の自由度(楽譜からの解放)を採り入れる試み(ポストモダン)が盛んです。この点、世界からは邦楽の特徴的な魅力を含む日本人のアイデンティティが感じられる独創性のある芸術作品が求められ、評価される傾向があるように思いますので、今後も桑原さんの作品から耳を離せません
 
◆演奏会形式の公開審査(結果と概要)
若手作曲家の登竜門になっている音楽の芥川賞である第33回芥川也寸志サントリー作曲賞は(音楽の直木賞は武満徹作曲賞か?)、以下の作品に決定されました。これと併せて、SFA賞(聴衆賞)も、以下の作品に決定されました。向井航さん、ダブル受賞おめでとうございます🎉  僕のような軽輩にもSFA賞(聴衆賞)の投票権がありましたので(但し、会場には作曲家、演奏家、音大生、本格派を気取る聴衆などコアーな客層が多いように感じられましたので、さしずめ本屋大賞と言ったところでしょうか。)、以下の作品に投票させて頂きました。3作品共に三者三様の個性や面白さがあり甲乙を付けるのはナンセンスにも感じられましたが、P.ドラッカーの名言を借りれば、現代に求められている革新とは「どのように表現するのか」(方法)よりも「何を表現するのか」(世界観)が問われており、その観点から以下の作品が最も充実した実質を備えていると感じられたというのが投票理由です。なお、当日は公開審査会が開催され、各審査員が各作品について簡単に講評したうえで、審査員の合議で受賞作品が決定されましたが、その概要を簡単に残しておきたいと思います。
 
▼第33回芥川也寸志サントリー作曲賞受賞
向井航「ダンシング・クィア」(2022年)
 
◆田中弘基「痕跡/螺旋(差延 II)」(2021年)
タイトルの「痕跡」は、J.デリダの「差延」(différance)の考え方を使った脱構築の試みを示すものと思われますが、パンフレットの解説を引用すると「音響や素材の「痕跡」(trace)を「辿る」(trace)」過程で「その「痕跡」を、時間的な隔たり(遅延)と共に、新しい文脈の中で他の音響や素材との「差異」(difference)によって新たに定義し続ける(差延/différance)」ことで「決して一定の「主題―展開」的機能を生じさせず、各音響・素材の意味性が時間を超越して流動的に変化して行く形式を模索」したとのことです。簡単に言えば、映画「燃えよドラゴン」の鏡の間の決闘シーンで鏡に映る無数のリーの姿(どれが本物か分からない状態)をイメージして頂くと分かり易い?のではないかと思います。なお、タイトルの「螺旋」の説明は、非常に技巧的な内容なので割愛します。審査員からはスペクトルによらない音響設計や楽器を色々な方法で組み合わせいる面白さがある一方で、一聴しただけでは分かり難い細々とした複雑さがある点などが指摘されていました。個人的には、ポスト構造主義を音楽的に志向されているのは分かるのですが、どのような世界観(目的)を表現したくて、このような手の込んだ「オーケストラ音響の設計方法」(手段)を考案されたのかについて言及がなかった点が残念に感じられました。この作品の作曲意図の形式面ではなく実質面を窺いたかったですが、そのイメージが伝わり難かったことがSFA賞(聴衆賞)の結果にも表れているような気がします。
 
◆向井航「ダンシング・クィア」(2022年)
パンフレットの「クィア・アクティビズムとしてのドキュメンタリー・ミュージック・シアター」というキャッチコピーが目を惹きますが、現代のアーティストにとってセルフプロデュース力も重要な資質であり、センスの良さを感じさせます。この曲は2022年にアンサンブル・フリーEASTが初演していますが、ヴォーギング(クィア・アクティビズムのダンス・ムーブメント)及びオーランド銃乱射事件(2016年に米国フロリダ州で起きたゲイクラブ銃乱射事件)をテーマにして、拡声器を持ったスピーカー(英語)をバンダに配し、世界最初のクィア・アクティビズムと言われるキャバレー・ソング「Das lila Lied」の歌詞からの引用及びヴォーギングやオーランド銃乱射事件に対するヴォーギング・ダンサー、著名人や政治家の発言からの引用等を読み上げ、これにオーケストラがヴォーギングから着想を得て作曲された曲を演奏して呼応するというスタイルで舞台が進行します。ドキュメンタリー映画の編集技術を参照して演出されており、非常に劇性のある舞台に固唾を呑みました。審査員からは作曲家の生き様が舞台に現れており非常に説得力があったとする一方で、演説のテンポを変えるなど更に劇性を増す工夫があったら更に良かったのではないかという点などが指摘されていました。個人的には、この曲には明確なメッセージ性が感じられ、また、そのドキュメンタリー性を表現するために非常に効果的な表現手法が用いられており(オーケストラ音響の設計方法などの形式が新しい必要はなく、その音楽が伝えようとしている世界観が現代人の教養を育むのに相応しい実質を備えたものなのか、また、その世界観を表現するために効果的なオーケストラ音響の設計方法などが選択又は開発されているのかが重要だと思いますが、その意味では非常に成功している面白い作品に感じられました。)、それがSFA賞(聴衆賞)の結果にも表れていると思います。
 
◆松本淳一「忘れかけの床、あるいは部屋」(2016年)
この曲ではスコルダトゥーラ(変則調弦)が使用されています。これまでもマーラーの交響曲第4番第2楽章のソロ・ヴァイオリンなどでスコルダトゥーラ(変則調弦)が使用される例はあり決して珍しいものではありませんが、これだけ大規模にスコルダトゥーラが使用されている演奏は初めて聴きました。人間は「楽曲前提」(知覚)と「体験前提」(記憶)とが組み合わされて音楽を聴取するという認知モデルをベースとして、オーケストラを「スコルダトゥーラ群が奏でる前提=「床」」(変則調律による5つの楽曲前提)と「床上でのオーケストラ体験=「部屋」」(標準調律442Hz(ISO16)による8つの体験前提)の2群に分け、「【床】のピッチと【部屋】すなわちオーケストラピッチの強固で微細なズレは、床面に絶えず差異、相克、対立、曖昧、混沌、同化などを浮かび上がらせますが、時間経過や音量バランス、反復や再現などの手法により、徐々に忘れ去られたり思い出したり」するという観客による音楽の認知体験そのものが音楽的に表現されています。審査員からはスコルダトゥーラ(変則調音)は開放弦による重音を使って短いフレーズが繰り返されるなど相対音感でも演奏が可能なように配慮されており美しい響きを持った音楽にまとめられているとする一方で、(詳しいことは分かりませんが)スコルダトゥーラ(変則調音)の大規模な使用については色々と物議になっていた点などが指摘されていました。個人的には、敢えて、エレクトロニクスではなくアコースティックなオーケストラサウンドを使った大規模なスコルダトゥーラ(変則調音)の音響が実に新鮮に感じられ、その豊かな表現可能性を感じさせる面白い作品でした。「床」と「部屋」のイメージを使った認知モデルの音楽的な表現もインスピレーションを掻き立てるもので興味深く感じられましたが、やや繰り返しが多く単調に感じられる部分もありました。SFA賞(聴衆賞)で向井さんと人気を二分する結果も頷けます。
 
SFA賞(聴衆賞)の発表現場 
スタッフの温もりが伝わってくる手作り感💞
 
▼僕の頭を支配するもっと!(編集後記)
残念ながら都合が付かずに上記の3公演以外に参加することは困難ですが、サントリーホールサマーフェスティバル2023では小出稚子さんや宮内康乃さんなど若手作曲家の新作も初演される「Music in the Universe」、室内楽にも定評があるO.ノイヴィルトさんの「室内楽ポートレート(室内楽作品集)」、三輪眞弘さんがガムランのコスモロジーを表現した「プロジェクト型コンサートEn-gawa」などの魅力的な演奏会が予定されています。また、このフェスティバルとは別建ての公演になっていますが、このフェスティバルの期間中に開催される「湯浅譲二 作曲家のポートレート-アンテグラルから軌跡へ-」(サントリーホール主催)も聴き逃せない垂涎の企画になっており、このような贅沢な機会は滅多にないと思いますので、是非、ご都合の付く方はお運び頂き、その感想等をお聞かせ下さい。因みに、月刊誌「音楽の友」(8月号)で音楽評論家の白石美雪さんがサントリーホール国際作曲委嘱シリーズと紐付けて1990年代以降の現代音楽の潮流について分り易くまとめられており、大変に参考になります。なお、日本及び世界の舞台芸術を牽引するサントリーホール(サントリー芸術財団)の活動及び実績には傑出したものがあり、個人だけではなく団体(公益社団法人を含む)も対象としている地域文化功労者表彰を考えても良いのではないかと常々感じており、勝手ながら文化庁を外局とする文部科学省にリクエストしてみました。
 
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.27
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼ディアナ・ロタルのピアノとエレクトロニクスのための「ベルベット・アリス」(2021年)
ルーマニア人作曲家のディアナ・ロタル(1981年~)は、入野賞(2004年)、ISCM-IAMIC若手作曲家賞(2008年)、ジョルジュ・エネスク賞(2010年)など数多くの音楽賞を受賞し、武生国際音楽祭から新作の作曲を委嘱されるなど最も注目されている若手作曲家の1人です。この曲は、ピアニストの山本純子と作曲家のオリバー・サッシャ・フリックに献呈された作品ですが、ルイス・キャロルの児童小説「不思議の国のアリス」とピピロッティ・リストの映像作品「不思議の国」から着想を得て作曲されていますが、おもちゃのピアノの音を同期することで現実世界と幻想世界のパラレルワールドが効果的に表現されている面白い作品です。
 
▼周久渝の弦楽四重奏曲第1番(2010年)
台湾人作曲家の周久渝(CHOU Chiu-Yu)(1981年~)は、国立台湾交響楽団管弦楽作曲コンクールで第1位(2010年)、ISCM-IAMIC若手作曲家賞(2011年)を受賞し、ブリテン・ピアーズ財団から助成金が支給されるなど現在最も注目されている若手作曲家の1人です。この曲は周久渝がISCM-IAMIC若手作曲家賞を受賞することになった出世作で、この動画は台北国立芸術大学でリディアン弦楽四重奏団が再演した模様を収録したものですが、再演されるだけあって繰り返しの受容に耐え得る構成力のある充実した内容を持った曲に感じられ、緩急や強弱を効果的に織り交ぜながらテンションの高い音楽を楽しめます。
 
▼宮内康乃のつむぎね公演「〇」(2017年)
日本人作曲家の宮内康乃(1980年~)は、実験的なミュージック、アート及びパフォーマンスフェスティバル最優秀賞(2008年)、アルスエレクトロニカ賞特別賞(2008年)、第6回JFC作曲賞(2011年)など数多くの音楽賞を受賞し、小出稚子と共にサントリーホールサマーフェスティバル2023で作品が採り上げられるなど最も注目されている若手作曲家の1人です。この動画は、宮内さんが主宰するパフォーマンスグループ「つむぎね」の公演の模様を収録したもので、宛らデュオニオス祭やアイヌ古式舞踊などシャーマニックな雰囲気が漂い、日頃とは別の感覚が覚醒されて新鮮な世界観が拓かれて行くような面白い体験型作品です。

細川俊夫のヴァイオリン協奏曲「祈る人」(日本初演)とフランソワ・ファイのオペラ「卒塔婆小町」(世界初演)とミラーニューロンが彩る心映え<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ミラーニューロンが彩る心映え(ブログの枕)
今年は1923年9月1日に発生した関東大震災から100年の節目にあたりますが、この教訓を語り継ぐために9月1は「防災の日」に指定されています。また、1854年11月5日に伊豆から四国にかけて発生した安政南海地震では約15mの津波が発生し、和歌山県有田郡広川町の濱口梧陵さん(後にヤマサ醤油社長)が稲に火をつけて村民の避難を誘導した話が残されており、この教訓を語り継ぐために11月5日は「津波防災の日」に指定されています。さらに、今年は2011年3月11日に発生した東日本大震災の犠牲者の十三回忌を迎えましたが、地元の方々の話を伺うと、一旦は高所に避難した人が予想よりも津波の到達が遅れたことから油断して家の様子を見に帰り津波の犠牲になったケースが多かったと涙ながらに語られており、この教訓を後世に語り継ぎたいと心を砕かれている姿を印象深く思い出します。この点、仏教では、初七日、四十九日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌などの宗教的な節目に追善供養を行い、経文が書かれた「卒塔婆」を立て善行を積むことで故人の冥福を「祈り」ますが、「卒塔婆」(ソトバ)は古代インドのサンスクリット語「ストゥーパ」(仏塔)が起源と言われ、これが中国に渡って「卒塔婆」(層塔)になり、そのまま日本に「卒塔婆」(層塔)が伝来して、これを簡素化したもの(層塔を擬した角塔婆板塔婆)が普及したと言われています。また、日本語の「祈り」という言葉は「い」(生)+「のり」(宣り)から構成され、「故人の冥福を祈る」とは生人が善行を積むことで故人が界で無事に転して幸になることを仏に願う(る)ことを意味しています。このように、本来、「祈り」とは、人ならぬもの(神仏、自然界の精霊、先祖の霊など)との交信を試み、故人、家族や共同体などの無事な生を願い、これを感謝すること(清浄)を言いますので、年末に除夜の鐘で煩悩を祓った直後に初詣で自らの欲望を叶えるために願掛けをして煩悩を逞しくすること(不浄)は「祈り」とは異なる節操のない行為と言えるかもしれません。過去のブログ記事でも触れましたが、人間は約500万円前頃に直立二足歩行を開始して両手が解放されると道具やそれを操る技術等を発明しますが、その過程で脳の発達が促されて紀元前5万年頃の突然変異によりイメージや言葉などの観念的なものを操る高度な認知能力を獲得し(認知革命)、それらの観念的なものを他人と共有する能力を身に付けたことで社会を形成するようになりました。また、人間は生存可能性を高めるべく十分な知覚情報を得られなくても素早く判断ができるように、脳が不足している知覚情報をイメージ(予測)して認知するようになり(シミュラクラ現象)、さらに、社会を形成するようになったことで他人の表情や行動の背後にある意図をイメージ(共感)する能力を身に付けますが(芸術鑑賞に欠かせない能力)、これらの能力が過剰に働いて全く意味のない現象や刺激に意図や気配を認知するようになりました(代理検出装置)。果たして、これらの能力を身に付けた人間は、疫病、飢饉や天変地異など人知の及ばない不条理に対して人ならぬものの力をイメージ(想像)し、それらを儀式、芸能や物語などで知覚化させて取り除くこと(例えば、桃太郎の鬼退治など)により社会の不安を和らげる知恵を働かせるようになりました。過去のブログ記事でも触れたとおり、人ならぬものとの交信を試みるために肉体的な境界を超える技能を身に付けたシャーマンが誕生し、狩猟社会(神の恵みである動物を追う生活)では肉体から魂が離脱して人ならぬものを追う脱魂型シャーマニズムが主流となり(肉体から精神を解放するために陶酔状態になりますが、それがゴスペルのコール・アンド・シャウトからロックのシャウトへと発展)、農耕社会(神の恵みである植物の収穫を待つ社会)では肉体を依り代として人ならぬものの憑依を待つ憑依型シャーマニズムが主流になりましたが(精神から肉体を解放するために瞑想状態になりますが、それが人ならぬものを顕在させる依り代としての夢幻能へと発展)、これらは音楽や舞踊などを効果的に利用し、場合によっては向精神作用がある薬草(例えば、魔女が箒に跨って空を飛ぶ姿は、20世紀まで女性はパンツを履く習慣がなく、箒の柄にベラドンナの成分を塗布して、それが性器の粘膜から吸収されて浮揚感を覚えたことが起源になったと言われているなど)なども利用していました(これに対して、キリスト教では聖書に書かれた神の言葉(ロゴス、理性)が信仰の拠り所とされ、理性で本能をコントロールすることが重視されましたので、人々から理性を奪う可能性がある肉体的な興奮を喚起し、人々を狂気(トランス)させる本能的・野性的なリズムの使用を忌避しましたが、I.ストラヴィンスキーが本能的・野性的なリズムを西洋音楽に採り入れたバーバリズムによってリズムの解放を果たしています。)。この点、シャーマニックな知性とは、人間が人間以外の多様な視点を持って自然や世界を捉えることに特徴がありますが、人間中心主義的な自然観や世界観の矛盾や破綻等が明確に意識されている現代にあって、再び、シャーマニック・マインド(ネオ・シャーマニズム)が見直されるようになっています。因みに、人間が人間以外の多様な視点をもって自然や世界を捉えることができるのは、脳のミラーニューロン(共感細胞)の働きによるものであることが分かっています。人間は道具を使って狩猟を行う際に動物と自分の位置関係を把握するために自分の外側(三人称)から客観的に自分を眺めるオフ・ステージの視点(自我の発見)を持つ必要が生じたことからミラーニューロン(共感細胞)が発達したと考えられており、これが他人の表情や行動の背後にある意図をイメージするなど非言語コミュニケーションでも重要な役割を担うようになったと言われています。この点、人間は本能的に向社会性(利他的な行動をとる特徴)を有していると言われており、例えば、他人の幸福を祈ると神経伝達物質「オキシトシン」(ハッピーホルモン)が分泌されて自分も幸福を感じ、他人の不幸を祈ると神経伝達物質「コルチゾール」(ストレスホルモン)が分泌されて自分も不幸を感じること(ミラーリング)が分かっています。「人を呪わば穴二つ」という格言にも表れていますが、「祈り」とはミラーニューロンのミラーリングによって自分自身の意識に作用し、それによって自然や世界の捉え方も変わってくるという意味で、その行為自体が自分の生き方を定め、また、他人のミラーニューロンのミラーリングに作用して他人の意識にも影響を与え得るシャーマニックな効果を持つものと言えるかもしれません。
 
①奇跡のピアノ(いわき震災伝承みらい館)(福島県いわき市薄磯3-11
②旧豊間中学校校舎跡(福島県いわき市平薄磯南街63-16
③祈りの鐘(塩屋岬)(福島県いわき市平薄磯宿崎33-3
④東日本大震災慰霊碑(福島県いわき市平豊間榎町102-1
奇跡のピアノ(いわき震災伝承みらい館):東日本大震災の津波で被災した旧豊間中学校体育館のグランドピアノを調律師・遠藤洋さんが修復し、ピアニストの西村由紀江さん及びシンガーソングライターのKiroroさんが弔問演奏しています。その後、遠藤さんは熊本県豪雨災害で浸水したグランドピアノも修復し、2022年9月に福島県いわき市の「奇跡のピアノ」と熊本県球磨村「希望のピアノ」の初共演が実現しています。 旧豊間中学校校舎跡旧豊間中学校校舎は薄磯海水浴場に面した風光明媚な場所にありましたが、現在は防災緑地として整備され、旧豊間中学校校舎前にあった「豊かな人間性」石碑のみが往時の記憶を留めています。いわき震災伝承みらい館には旧豊間中学校に設置されていたタイムレコーダーが津波被害が発生した時刻を指したままの状態で保存され、その生々しい爪跡が現在も続く自然災害に対する警鐘を鳴らし続けています。 祈りの鐘(塩屋岬):旧豊間中学校校舎跡の近くに美空ひばりの大ヒット曲「みだれ髪」(星野哲郎作詞)に「憎や恋しや塩屋の岬」、「暗や涯てなや塩屋の岬」、「祈る女の性かなし」と歌われた風光明媚な塩屋岬があり、美空ひばり像や祈りの鐘(震災慰霊)が設置されています。また、薄磯海水浴場は外洋の良質な波が多いことから、湘南やその他の県外のサーファーが詰め掛けるサーフィンスポットとしても知られています。 東日本大震災慰霊碑:東日本大震災では福島県、宮城県及び岩手県を中心に約2万人の死者・行方不明者が出る大惨事になりましたが、これらの被災地では各所に慰霊碑が建立され、犠牲者が慰霊されています。なお、この慰霊碑の直ぐ近くには、映画「超高速!参勤交代」に登場する岩城湯長谷藩岩城平藩の城跡があり、また、岩城平藩には近代筝曲の開祖・八橋検校が専属音楽家として召し抱えられていたことがありました。
 
▼細川俊夫のヴァイオリン協奏曲「祈る人」(日本初演・読響定期)
【演題】第630回定期演奏会
【演目】モーツァルト フリーメイソンのための葬送音楽ハ短調
    細川俊夫 ヴァイオリン協奏曲「祈る人」(国際共同委嘱/日本初演)
     <Vn>樫本大進
    モーツァルト 交響曲第31番ニ長調「パリ」
    シュレーカー あるドラマへの前奏曲
【指揮】セバスティアン・ヴァイグレ
【演奏】読売日本交響楽団
【場所】サントリーホール
【日時】2023年7月27日(木)19:00~
【感想】
今日は日本が誇る世界的な作曲家・細川俊夫さんのヴァイオリン協奏曲「祈る人」の日本初演があるというので、その歴史的な瞬間に立ち会うべく聴きに行くことにしました。この曲はベルリンフィルハーモニー管弦楽団(ドイツ)、ルツェルン交響楽団(スイス)及び読売日本交響楽団(日本)の共同委嘱で作曲され、2009年9月からベルリンフィルハーモニー管弦楽団の第1コンサートマスターを務めているヴァイオリニストの樫本大進さんに献呈されています。因みに、2009年3月にヴァイオリニストの安永徹さんがベルリンフィルハーモニー管弦楽団の第1コンサートマスターを退任していますが、その空席を樫本さんが埋めていますので、1983年から実に40年間に亘って日本人が第一コンサートマスターとしてベルリンフィルハーモニー管弦楽団のサウンド作りに貢献しています。この曲は2023年3月2日にパーヴォ・ヤルヴィ指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団が世界初演していますが、3日間の公演は全て完売で会場から多くのヴラヴォーが飛ぶ盛会だったそうです。細川さんは「旅」や「花」をテーマにした曲が多く、東日本大震災以降は「祈り」をテーマにした曲も多く作曲されていますが、パンデミック、ウクライナ戦争や異常気象など世界が多くの危機に直面して各地で「祈り」を捧げる人が増えている状況にあることから、この曲の作曲を決意したそうです。この曲はソリストをシャーマン、オーケストラをシャーマンの内(憑依)と外(脱魂)に拡がる宇宙(自然)に見立て、シャーマンが祈りの歌を紡ぎながら宇宙(自然)と調和していく世界観が表現されていますが、人間による環境破壊が自然と人間の関係を崩し始めている現状を憂慮し、自然と人間の調和を取り戻したいという細川さんの「祈り」が込められているように感じられます。因みに、細川さんのご祖父は華道家だそうですが、「花一輪に飼い慣らされる」という華道の境地は、花本来の美しさに身を委ね、花の移ろい(命の営み)に心を澄ませながら、自らも自然の一部として調和する日本の伝統的な自然観を表しており、このような価値観が細川さんの創作の源泉にあるように感じられます。この曲は「序奏」「間奏」「祈りの歌」「闘い」「浄化」の5つのパートから構成され、それぞれのパートが間断なく演奏されますが、樫本さんによるテンションの高い神憑かった演奏とこれに敏感に呼応するオーケストラの多彩で隙のない演奏とが相俟って、この世ならざる独特の世界観を描き出し、これを聴く者の意識が徐々に別次元へ誘われ(但し、トランス状態になるという意味ではなく、音楽的なイメージが明確に伝ってくる説得力のある表現という意味)、自然(宇宙)との繋がりを取り戻して行くような感覚(対称性の回復)を生起するという意味で、これまでのクラシック音楽にはない新しい芸術体験をもたらしてくれる音楽に感じ入りました。「序奏」及び「間奏」では、樫本さんがロングトーンを静かに奏で出すと静謐な空間が広がりシャーマンの祈りが始まりますが、そのテンションの高い演奏にはさながら能楽のシテを見ているような静謐さの中に凝縮された激しいエネルギーの動きのようなものが感じられ、それが徐々に沸点に達するようにトレモロが次第に強さを増しながらオーケストラのヴィブラフォン、木管、弦(スピッカート)へ伝播し、神秘的な世界が拓かれて行く様子が色彩豊かに幻想的に描き出されていました。所々、樫本さんとコンマスの二重奏が協和音を奏でますが、さながらシャーマンが脱魂して自然の一部として調和ていることをイメージさせるものであり、前回のブログ記事で触れた松尾芭蕉の俳句にも通底する世界観に感じ入りました。「祈りの歌」では、樫本さんがカデンツァ風に祈りの歌を歌い上げ、これにオーケストラが敏感に呼応しながら緊密なアンサンブルが展開されましたが、まるでシャーマンの祈りが自然に木魂しているような不思議な感興に包まれ、樫本さんとオーケストラの信頼関係を感じさせる精妙な呼吸感が出色でした。「闘い」では、金管が奏でる重厚なハーモニー(災害や戦争のメタファー?)と共に、樫本さんとチェロ首席が不協和音を奏でますが、ルネサンス期に広まったヒューマニズムは人間中心主義(自然と人間を非連続に分離する二元論的な世界観)を生み、その驕りが招いた環境破壊に対する自然の慟哭のようにも感じられました。樫本さんによる力強い祈りの歌とオーケストラによる金切音や打撃音(自然の悲鳴)は自然と人間の厳しい対立をイメージさせますが、人間による環境破壊が自然と人間の関係を崩し始めている様子が痛々しく描かれているのに対し、樫本さんによる力強い祈りは人間が自然(宇宙)との繋がりを取り戻す決意の表明(生+宣り)のようでもあり、その未来に繋ぐ希望が一隅を照らしているようにも感じられました。「浄化」では、オーケストラは鎮まり、仏教の供養に用いる鈴(りん)、鈴鉦、大きんなどの楽器が鳴らされ、樫本さんとオーケストラが調和して優しいアンサンブルを奏でながら静寂のうちに消え入るように終わりますが、さながら揚幕に消え失せる能楽のシテを想起させる余韻が心を満たします。自然(宇宙)との繋がりを取り戻すようなシャーマニックな体験を通して、人間と自然のあるべき姿を見詰め直す契機となるような傑作であり、音楽だけでここまでの世界観を描き出せるものなのかと感嘆させられました。なお、樫本さんにはシャーマンの資質があるとしか思えない霊性を湛えた演奏で魅了してくれましたが、このような懐の深いヴァイオリニストをソリストに迎えたことが、この曲の初演を成功に導いた大きな要因と言っても過言ではないと思います。次世代に聴き継がれることになる傑作の初演に立ち会えた興奮を禁じ得ません。ヴラヴォー!!樫本さんのような傑出した奏力がなければこの世界観を描き出すのは並大抵ではないと思いますが、是非、若く有能なヴァイオリニストの皆さんにも挑戦して貰いたいと思いますし、これからの時代にレパートリーに加えておくべき1曲になるのではないかと思います。是非、再演が待ち望まれます。なお、現代音楽を採り上げる演奏会では団員の練習時間の制約からモーツァルトの名曲やラヴェルのボレロなどあまり練習を必要としない演目とカップリングされることが多いですが(オーケストラの経営を圧迫しないための止むを得ない措置)、これらの演目はイマサラ感がありますので感想は割愛させて頂きます。
 
 
▼フランソワ・ファイトのオペラ「卒塔婆小町」(世界初演)
【演題】オペラ「卒塔婆小町」(世界初演)
【作曲】フランソワ・ファイト
【台本】三島由紀夫「近代能楽集」(仏訳:マルグリット・ユルスナール)
【出演】<Mes>小林真理(卒塔婆小町)
    <Bar>リオネル・サドゥン(詩人、男1)
    <Sop>柚木たまみ(女1)
    <Sop>谷口美也(女1)
    <Mes>筧明絵(男2)
    <Pf>松田琴子
    <Vib>沓野勢津子
【場所】京都文化博物館別館ホール
【日時】2023年8月1日(火)~(アーカイブ配信)
    ※実演:2023年7月15日(日)17時00分~
【一言感想】
三島由紀夫さんの近代能楽集「卒塔婆小町」を題材にしたオペラとしては、作曲家・石桁真礼生さんのオペラ「卒塔婆小町」(1956年初演)がありますが、これは日本で最初に十二音技法を使って作曲されたオペラとしても知られています。今回はフランス人作曲家・フランソワ・ファイトさんがメゾソプラノ歌手・小林真理さんのために三島由紀夫さんの近代能楽集「卒塔婆小町」を題材にして作曲したオペラが京都で初演されるというのでアーカイブ配信を視聴することにしました。コロナ後は新曲の初演ブームとでも呼ぶべき喜ばしい状況が生まれていますが(もちろん時代の風雪に耐えて次世代に聴き継がれる名曲に育つのはごく僅かだと思いますが)、本来、これがクラシック音楽の伝統ではないかと思われ、100年以上も昔に作曲された曲の再演しか行われなかった戦後のクラシック音楽界の状況が異常であったと言わざるを得ません。さて、能「卒都婆小町」は老女をシテとする老女物(「卒都婆小町」「鸚鵡小町」「姥捨」「檜垣」「関寺小町」が老女物五曲と言われ、とりわけ後者の三曲は三老女として最高の秘曲とされています。)に数えられ、「老い」をテーマとして扱う深い内容であることから、未熟な能楽師には披くことが許されない位の高い曲とされています。因みに、原作である観阿弥作の能の題名は「卒婆小町」ではなく「卒婆小町」ですが、これは「卒」(ソト)と「」(都落ち)の掛詞になっており、曲中で「極楽の内ならばこそ悪しからめ そとは何かは苦しかるべき」(そとは=卒都婆)という詞章が出てきますので、現世極楽(都生活)の外にある現世地獄(乞食)に身を堕とした小野小町の過去の栄華(都生活、美貌)と現在の不遇(乞食、老醜)を暗喩したものと考えられ、これを現代劇に翻案した三島由紀夫さんが現代の時代状況を踏まえて近代能楽集の題名を「卒婆小町」に戻しています。なお、三島由紀夫さんの近代能楽集は数多くの舞台等で上演されているほか、近代能楽集「卒塔婆小町」及び近代能楽集「葵上」は映画化されています。因みに、能「葵上」及び近代能楽集「葵上」は共に六条御息所の生霊が葵上を祟る脱魂型シャーマニズムの物語ですが、能「卒都婆小町」は深草少々の亡霊が小野小町に憑依する憑依型シャーマニズムの物語であるのに対し、近代能楽集「卒塔婆小町」は小野小町の亡霊が老婆、深草少々の亡霊が詩人にそれぞれ転生して物語を展開していますので、小野小町の亡霊と深草少々の亡霊が転生せずに顕在する能「通小町」とも異なり独特な内容になっています。このほか、老婆(小野小町の亡霊の転生)は朽木の卒塔婆ではなく公園のベンチに腰掛けて榧の実ではなくタバコの吸い殻を拾い集めている点、仏法を巡る僧侶との問答が死生観を巡る詩人(深草少々の亡霊の転生)との語り合いに置き換えられている点、また、深草少々の亡霊が小野小町に憑依して物狂いするシーンは老婆と詩人が鹿鳴館で社交ダンスを踊るシーンに置き換えられている点など、現代の時代状況を踏まえて宗教色を希釈化した内容に翻案されています。因みに、能「卒都婆小町」の題材になっている「百夜通い」は、小野小町が言い寄ってくる深草少々に対して深草少々の屋敷(欣浄寺)から小野小町の屋敷(隋心院)までの片道約5kmの道程を100夜通うことができれば気持ちを受け入れると約束し(深草少将が小野小町への愛に陶酔してその切なさのあまりに涙を落した「少将姿見の井戸(涙の水)」)、深草少々は小野小町の屋敷に通ってきた証として1夜毎に1つの榧の実を門前に置いて帰りましたが(小野小町の屋敷があった「隋心院の山門」、小野小町に縁の「榧の実」)、100夜目に大雪が降って凍死した悲恋(小野小町が深草少々の通った道すがら植えた榧の実が育ったものと伝わる樹齢1000年以上の「西浦の小町榧」「小野葛籠尻町の小町榧」「随心院の小町榧」)が語り継がれています。この物語を受けて、近代能楽集「卒塔婆小町」では100年毎に深草少々の亡霊が転生した詩人が同じく100年毎に小野小町の亡霊が転生した老婆に出会い、詩人が老婆への愛の陶酔から美しいという呪いの言葉を発して絶命してしまうという物語です。この曲では能楽の囃子方を意識してピアノ(弦打楽器)及びヴィヴラフォン(鍵盤打楽器)が使用されたのではないかと思われますが、メロディーやハーモニーではなくリズム(打撃音と間)を主体として舞台空間を音楽的に演出する工夫が見られました。舞台構成は①公園の場面、②鹿鳴館の場面、③公園の場面の3場となり、先ず、①公園の場面では、タバコの吸い殻を拾い集める老婆がベンチに座っている若いカップルを追い払いますが、そこに酔っ払った詩人が登場して老婆と死生観を巡り語り合う楽劇風の舞台が展開されました。次に、②鹿鳴館の場面では、舞踏会の喧騒が影絵で表現され、99歳の老婆から20歳の美女に早変わりしたメゾソプラノの小林さんとバリトンのサドゥンさんがワルツを踊りますが、ピアノがワルツのステップを刻み、ヴィヴラフォンが可憐な歌を奏でる美しい音楽が出色でした。再び、メゾソプラノの小林さんが20歳の美女から99歳の老婆に早変わりして③公園の場面に戻り、ヴィヴラフォンが100夜目を告げる鐘の音を奏し、詩人が老婆への愛の陶酔から美しいという呪いの言葉を発して絶命しますが、これとは対照的に老婆は「ちゅうちゅうたこかいな」とタバコの吸い殻を数え出し、冒頭で奏でられた音楽が終曲でも繰り返される循環形式になっており、次の100年目の到来を予感させる印象的な終曲になっています。陶酔のうちに死を選ぶというロマン主義的な悲劇への意思を持った詩的な存在である詩人の生き方に対し、現実の空虚さを冷静に見詰めて生き長らえる観念的な存在である老婆の生き方が対照的に描かれていますが、近代能楽集は1956年に出版されてから既に半世紀以上の歳月が流れていますので、ストイックな時代に生きる現代人にとって詩人の生き方に共感できる要素を見付けるのは困難になっているようにも感じられます。因みに、能「卒都婆小町」には「これは出羽郡司 小野良実が娘 小野小町が成れの果てにて候なり」という詞章が出てきますが、小野篁の子・小野良実は807年に出羽国郡司(国司の誤りか?)として秋田県湯沢市小野桐木田に桐木田館を構え、地元の女性(小野良実が見染めた美人)との間に設けた子が秋田美人の元祖・小野小町と言われています。小野小町は809年に桐木田館で生まれており、道の駅おがち「小町の郷」、小野小町の産湯に使われた「桐木田の井戸」、小野小町の母の墓「姥子石」などの観光施設も多く、小野小町を祀る「小町堂」を参詣すると美しさに一段と磨きが掛かるという評判から女性の観光客が後を絶ちません。
 
 
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▼境界を越えて新しい世界へ(編集後記)
人間は同じ刺激が繰り返されると慣れが生じ、幸福を感じる神経伝達物質の分泌量が減ってくることが分かっています。この点、S.ジョブズも「共感」よりも「意外性」が重要だと語っていますが、神経伝達物質の分泌量は脳の報酬量に比例して増えるのではなく、予測していた脳の報酬量と結果的に得られた脳の報酬量の差分に比例して増えることが分かっていますので、独創性や新鮮みがないマンネリズムは人間に良い影響を与えず、人間の幸福にとって独創性や新鮮みが重要であることが分かっています。この点、先日の鈴木@読響によるミシェル・カミロのピアノ協奏曲第2番「テネリフェ」(日本初演)に続いて、今回のヴァイグレ@読響による細川俊夫のヴァイオリン協奏曲「祈る人」(日本初演)と、新しい芸術体験をもたらしてくれる読響の革新的なプログラムには溜飲が下がる思いがします。現状、演奏会のプログラムの革新性という点では西高東低の印象を否めませんが(革新の風は常に西から吹いてくる)、主要な在京オケに限って言えば、読響、都響や日フィルは現代音楽を積極的に採り上げる革新的なプログラムが比較的に多く好印象を受けますが、それ以外は保守的なプログラムが比較的に多い印象を否めず、色々な事情はあると思いますが、やや「握りキンタマ」(夏目漱石の金言)の傾向がチラチラと見え隠れするのがタマに傷です。時代の変革期に世界から取り残されている日本の凋落に頭の中まで付き合わされるつもりはありませんので革新の風に吹かれて未来志向で豊かに心を養っていきたいと思っています。ついては、毎年恒例の年末のベートーヴェンや年始のニューイヤーを聴きに行って満足できるほどオメデタイ脳(シナプス可塑性が不活発な状態)ではありませんので、年末年始の演奏会難民からの切実な祈りとして、年末年始に何か気の利いたプログラムの演奏会を企画して頂けると大変に有難いと思っています。「音楽は音を楽しむと書くのだから気軽に楽しめばいい!」というレベルの薄っぺらな芸術体験ではなく、新しい世界観に触れて視野が拓かれるような芸術体験(シナプス可塑性の活発化)を通して初めて味わうことができる本当の楽しさを求めています。
 
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.26
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼エリック・ネイサンの2つのオーボエのための「Just a Moment」(2021年)
アメリカ人現代作曲家のエリック・ネイサン(1983年~)は、BMIのウィリアム・シューマン賞(2008年)、ASCAP財団のモートン・グールド賞(2008年、2010年)及びルドルフ・ニッシム賞(2011年)など数々の賞を受賞されている非常に注目されている現代作曲家です。この曲は、2本のオーボエをステージとバルコニーに距離を置いて配置し、まるでロミオとジュリエットのようにお互いに音やフレーズを呼応しながら音楽を奏でるユニークな着想の曲で、微妙なズレや不協和が物語を生み出し、それらの音が空間的に広がり絡み合いながら1つの世界を形作っています。現代はスマホの普及によって何時でも何処でも誰でも「つながる」ことができる距離を感じさせない社会ですが、その一方で、和歌等に詠まれているように距離が育む人間の想像力や思慕の情のようなものを感じられない無粋な時代に生きているとも言え、心を募らせるという体験がどれだけ人間の感受性や生きる力を育んでいるのかということを考えさせられる面白い作品です。
 
▼ジェームス・オキャラハンの「Doubt is a body」(2018年)
カナダ人現代作曲家のジェームズ・オキャラハン(1988年~)は、サルヴァトーレ・マルティラーノ記念作曲賞(2016年)、ISCM若手作曲家賞(2017年)、カナダのグラミー賞に相当するジュノー賞(2014年、2020年)など数々の賞を受賞されている非常に注目されている現代作曲家です。今日は2台の楽器を使った作品をフォーカスしていますが、この曲は、演奏家が楽器で奏でるアコースティックな音と、これに反応するトランスデューサー・スピーカーを使って生成されるエレクトロニックな音によるアンサンブルという点でユニークな着想の曲です。演奏家は楽器を自らの身体機能の拡張として捉えていますが、その身体性すら超越している点で新しい試みと言えます。過去のブログ記事でも触れたとおり、BMI技術による人工指が開発されていますが、これまでは1人の演奏家が複数の声部を演奏するために身体機能の限界に挑戦して様々な演奏技法を開発してきましたが、その限界すら超えて1人の演奏家が複数の声部を演奏する時代が来ています。
 
▼山根明季子の2台ピアノのための「eye glitch animated eye」(2021年)
日本人現代作曲家の山根明季子(1982年~)は、いまさら紹介の必要がないビックネームですが、武生作曲賞入選(2005年)、第22回日本現代音楽協会作曲新人賞(富樫賞)(2005年)、第20回芥川作曲賞(2010年)などを受賞されている現代最も注目されている現代作曲家です。この曲は、第6回両国アートフェスティバルで初演された際の映像ですが、四分音ピアノを使ってアニメキャラクターのパッチリ目がグリッチしている様子を音楽的に表現し、アコースティックなピアノでエレクトリックな音世界を描き出すことに成功している面白い作品です。なお、この曲の初演を成功に導いたピアニストの及川夕美さん及び大須賀かおりさんは現代音楽作品の魅力の発掘やその紹介に尽力されている現代に欠かせない演奏家なので、併せて、この機会にご紹介しておきます。来る9月9日~9月15日に日本の現代音楽の聖地となっている両国門天ホールで第8回両国アートフェスティバルが開催されますので、お時間の許す方は新しい世界観を拓いてみませんか。

アンサンブル室町「室町のミサ」とボンクリ・フェス2023「スペシャル・コンサートA面」と日本の耳が聞く蝉の声<STOP WAR IN UKRAINE>

▼日本の耳が聞く蝉の声(ブログの枕)
去る7月1日は郵便番号記念日でしたが、1968年に郵便番号制度が開始されたことで、日本全国津々浦々へ郵便物の効率的な配送が可能になりました。因みに、ナンバー君は郵便番号制度を宣伝するためのシンボルマークとして活躍し、その後、1998年に郵便番号7桁化を宣伝するための新しいシンボルマークとしてポストンが考案されましたが、日本語入力ソフトのIMEで「郵便」と入力して変換すると現在でもナンバー君(〠)が表示されます。郵便番号の起点は東京中央郵便局がある東京都千代田区の「100-0000」で、その終点は北海道別町南兵村一区の「099-6509」ですが、ここで洞察力の鋭い方はお気付きのとおり、これを見ると起点よりも終点の方が若番になっています。これは郵便番号が不足して1000番台の郵便番号を使用せざるを得なくなりましたが、郵便局のシステム上で郵便番号の桁数を増やすことができなかったのでやむを得ずに0番台の郵便番号を使用さざるを得なくなり、これに伴って最も小さい数字の郵便番号は北海道札幌市北区の「001-0000」で、最も大きい数字の郵便番号は山形県遊佐町の「999ー8531」(道の駅「鳥海ふらっと」)となり、山形県遊佐町は最も大きい数字の郵便番号の町としてPR動画(04:00~)まで制作する熱の入れようです。この周辺は、鳥海山のほかに松尾芭蕉がおくの細道で俳句を詠んだ「象潟」(汐越や 鶴はぎぬれて 海涼し)や「吹浦」(あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ)などがある日本でも屈指の景勝地&避暑地なので、今年のような猛烈な酷暑が予想される年のバケーションにオススメです。因みに、日本一高地にある郵便ポストは富士山頂でブルドーザーによって郵便物を集荷しますが、(公式の記録上では)日本一低地にある郵便ポストは和歌山県すさみ町沖の海中10mにある海中ポスト(2002年に世界一深いところにある海中ポストとしてギネスブック認定)でダイビングガイドが郵便物を集荷します。その後、伊豆の海中ポスト(海中20mなので、現在は、こちらが日本一低地にある郵便ポストかもしれません。)や沖縄の海中ポスト(海中7m)なども設置されています。その他にも、新穂高(西穂高口駅)、立山(室堂駅)、葛城山(山上駅)や鋸山(山頂駅)などの高地にある郵便ポストは交通機関によって郵便物を集荷し、また、白馬岳山頂にある郵便ポストは山岳ガイドが郵便物を集荷しますが、尾瀬ロッジ(群馬県)にある郵便ポスト(〒378-0411 群馬県片品村戸倉898-9)は郵便局員が鳩待峠休憩所から片道約3kmの道程を徒歩で郵便物を集荷します。また、立石寺(山形県)にある山寺郵便ポスト(〒999-3301 山形県山形市山寺4456-3)も郵便局員が徒歩で郵便物を集荷しますが、俳聖・松尾芭蕉がおくの細道紀行で立石寺について「岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ」と記しているとおり、(現在は石段の登山道が整備されているものの)1000段以上の石段が続く峻険とした登り坂を炎天下や吹雪など過酷な環境下でも毎日欠かさずに郵便物を集荷するために往復しなければならない郵便局員の苦労が偲ばれます。その意味では立石寺参拝の記念として山寺郵便ポストから投函した絵ハガキは、その想いを届ける郵便局員の功徳が積まれた有難い下され物と言えるかもしれません(拝)。
 
立石寺(山形県山形市山寺4456
立石寺(登山口):立石寺は860年に清和天皇の勅願によって慈覚大師円仁が開山した天台宗の寺院で、その境内には清和天皇御宝塔(供養塔)が安置されています。1686年7月13日(新暦)に俳聖・松尾芭蕉及び門人・河合曾良が立石寺を訪れた模様がおくのほそ道の紀行文に詳しく記されています。 俳聖・松尾芭蕉及び門人・河合曾良の銅像:天地総子さんのCMソングで一世を風靡したでん六豆を製造する株式会社でん六は山形県で創業していますが、その創業者・鈴木伝六さんは地域への恩返しとして1972年に松尾芭蕉の像を寄贈し、1989年に二代目の鈴木伝四郎さんが河合曾良の像を寄贈しています。 せみ塚(百丈岩):俳聖・松尾芭蕉及び門人・河合曾良は、門人・鈴木清風を訪ねて銀山温泉で有名な尾花沢に逗留していましたが、人々から静閑の地である立石寺を訪れるように勧められて、尾花沢から七里ほど引き返して立石寺に立ち寄り、松尾芭蕉が有名な句「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」を詠んでいます。 納経堂(入定洞)と開山堂(百丈岩):毎日、郵便物の集荷のために立石寺中性院にある山寺郵便ポストまで自らの足で登り、功徳を積む天空の郵便局員の姿には後光が射しているかのようです。一緒に登山させて頂きましたが、参詣を終えて下山する地元民や旅行客から暖かい言葉を掛けられ、皆から愛されています。
 
ウクライナでは小学校5年生から外国文学を学び、その中では日本文学として松尾芭蕉の俳句も採り上げられ、日本文化の特徴である「わび」「さび」などを勉強するそうですが、日本では小学校3年生から松尾芭蕉の俳句を学びますので、ウクライナの小学生は日本の小学生と比べても遜色ないレベルで日本文化を理解していると言えるかもしれません。上述のとおり、松尾芭蕉はおくの細道で「吹浦」や「象潟」を訪れる前に「立石寺」に立ち寄り有名な俳句「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」を詠んでいますが、現代作曲家の故・小倉朗さん(1916年~1990年)が著書「日本の耳」の中で、この俳句を採り上げながら日本の音世界に関する興味深い考察を展開されていますので、その概要に簡単に触れながら個人的な理解を述べてみたいと思います。小倉さんはこの俳句について蝉の声が「激しく耳を打っているうちに、やがて耳鳴りのように無感覚になって、いつの間にか深い静寂に取り囲まれて行く(中略)意識と無意識の間を去来する遠近の感情」(この句境を松尾芭蕉はおくの細道紀行で「佳景寂莫として心すみ行」と表現しています)を「岩にしみ入」と聞き分けたのではないかと考察しています。個人的には、この俳句を詠むと、雄大な自然の中で育まれる生命の営みを音として感じ取り、その営み(自らの存在を含む)が雄大な自然の中に取り込まれて、溶け込んで行くような仏教の世界観(一即一切、一切即一)が眼前に拓かれるような感興を覚えます。小倉さんは、これは寺の鐘の鳴る音よりもその響きがゆっくりと無の空間に吸い込まれて行く余韻を楽しむと言った風趣にも似ていると語っていますが、その音と音の間隙の無音に澄み渡る緊張を聞き分けて、その余韻を追って限りない静寂と出会う閑寂とした音世界に「さび」(閑寂な趣(寂色)に顕れる味わい)や「わび」(閑寂な趣(寂色)を楽しむ境地)の精神が生まれます。この点、現代人は松尾芭蕉が詠んだ俳句(「わび」の世界)に出会うことで、その閑寂の趣(寂色)が持つ奥ゆかしさ(「さび」の世界)に触れ、心に沁みるということなのだろうと思います。日本では、このような美意識を背景として静寂を乱す一切の音を極限まで削ぎ落して、その音と音の間隙の無音に澄み渡る緊張から「間」の感覚を生み出しましたが、能楽は囃子方が気魄を込めた掛声と共に息を詰め、その張り詰めた緊張によって見物の息も殺して絶対の静寂を作り出し、その無の空間にこの世ならざる者を顕在させるという「日本の耳」が生んだ究極の美的表現と言うことができるかもしれません。過去のブログ記事で触れましたが、日本語は「母音」で終わる言葉が殆どなので声帯が震える有声音として音素がはっきりと聞こえるのが特徴ですが(日本語は声の音と言われ、母音を自在に延ばせることが邦楽ホールで残響を必要としなかった理由の1つ)、これに対して、英語(西洋の言語)は「子音」で終わる言葉が多く声帯が震えない無声音として音素がはっきりと聞こえず息を吐いたような音になるのが特徴と言われています(英語(西洋の言語)は息の音と言われ、子音を延ばすことが難しいことがクラシック音楽ホールで残響を必要とした理由の1つ)。このような特徴から日本語は発声を延ばし易い母音の性質を活かして母音に感情を乗せる延音が好まれ、その延音によって喉(感情の綾)を聞かせながら緩やかな調子で唄う長唄などが生まれる(過去のブログ記事で触れましたが、オン・ステージの視点から延音に感情を乗せてイメージを共有)と共に、声楽を中心に発展した邦楽器は一音一音の余韻を楽しみ、その余韻に拡がる静寂に音楽的な意味を見い出す「日本の耳」を育みました。日本では、尺八、能管、篠笛などの木管楽器、三絃、琵琶、琴などの撥弦楽器や鼓、鉦などの打楽器が発展しましたが、胡弓などの擦弦楽器が発展しなかったのはこのような文化的な背景も関係しているかもしれません。これに対して、英語(西洋の言語)は子音を発音し易いように単語(子音)と単語(母音)を繋げて発音する連音が好まれ(例えば、“This is a pen”は“Thi/si/sa/pen”のように子音と母音を繋げてリエゾン)、息の強弱(ストレス・アクセント)によって音節を区切ることで言葉の意味を聞き分け(例えば、“Christmas”は、Christ(キリスト)+mas(ミサ)の2音節で聞き分けますが、日本語は雨と飴、箸と橋などのように声の高低(ピッチ・アクセント)によって言葉の意味を聞き分けるという点が異なっています。)、その音節と音節をリズムなどで繋げて歌う歌曲が生まれました。この点、過去のブログ記事でも触れましたが、西洋では自分(主体)と相手(客体)との間に共同視点を持たずに客観的な視点(三人称)から「分別」(対象の属性を捉えて分ける→木を見る西洋人)により世界を捉える特徴がある(二元論的な世界観)のに対して、日本では自分(主体)と相手(客体)との間に共同視点を持ち主観的な視点(一人称)から「無分別」(対象の本質を捉えて和える→森を見る日本人)により世界を捉える特徴がある(一元論的な世界観)という違いがあり、それが禅(瞑想)では自然と同化した呼吸状態になること(一元論)を目指し、浄土真宗(念仏)では阿弥陀如来と同じ境地になること(一元論)を目指すという特徴になって現れていると述べましたが、このような特徴は伝統邦楽が全てユニゾン(単一の旋律)で唄われるという特徴にも現れていると考えられ(母子が肉体的に一体であるように主客の別がない母性原理、仏教)、このために伝統邦楽にはメロディやリズム(間)の概念が必要だった一方で、(音楽的な分別を前提とする)ハーモニーの概念は必要なく、日本社会で同調圧力(ユニゾンの欲求)が強いのはこのような文化的な背景があったためかもしれません。これに対して、クラシック音楽はコーラス(複数の旋律)で歌われるという特徴にも現れていると考えられ(父子が肉体的に一体ではないように主客の別がある父性原理、キリスト教)、このためにクラシック音楽にはメロディやリズム(ビート)の概念に加えて、(音楽的な分別を前提とする)ハーモニーの概念が必要とされ、社会契約(和声法)によって一定のルールを設けて社会の調和(ハーモニー)を図るという発想はこのような文化的な背景があるためかもしれません。さらに、このような特徴から伝統邦楽ではリズム(間)は呼吸の同調によって自在に伸縮する不規則な時間間隔、小節(こぶし)は不規則な音の高低差として発展し(主観的、体験的)、クラシック音楽ではリズム(ビート)は数学的な規則性を持った時間間隔、ビブラートは規則的な音の高低差として発展した(客観的、理論的)という違いも生まれたと言えるかもしれません。この点、日本のリズム(間)と西洋のリズム(ビート)の特徴的な違いは、農耕民族が田畑を耕すために鍬を入れる動作として手と足の動きを一致させながら一歩づつ間(ゆっくりとした動作で感じる呼吸の伸縮)を置いて進む不連続的で不規則な運動を基調としていたのに対して、狩猟民族が獲物を追って早く走る動作としてビート(迅速な動作で感じる心臓の鼓動)を感じながら手と足を交互に交差して進む連続的で規則的な運動を基調としていたという違いも関係しているのではないかとも考えられ、多面的な理解が必要な問題なのかもしれません。小倉さんによれば、尺八は息を吹いて鳴らすものなので息の切れ目が音の切れ目になり、その一音一音に没入して一音で描き切る音世界という基本的な特徴を持っているのに対して、フルートはタギング(drdrdr、trtrtrなど)を練磨して音の切れ目を作らないように全体の流れを追って集中して行く音の連なり重なりで描き出す音世界という基本的な特徴を持っているという趣旨のことを解説されていますが、これは線と余白の広がりで世界を描く日本画と色の連なり重なりで世界を描く西洋画の特徴的な違いなどにも通底するものがあり、その感性が松尾芭蕉の俳句に詠まれた蝉の声の果てに広がる閑寂の趣きを聞き分ける、五線譜に書くことができない「日本の耳」になり、過去のブログ記事でも触れたとおり、それが西洋の現代作曲家などにも多大な影響を与えていると言えるかもしれません。
 
 
▼柿沼唯「室町のミサ」
【演題】室町のミサ(委嘱作品・初演)
【作曲】柿沼唯
【舞踊】田中誠司
【監督】大平健介
【照明】松本永
【演奏】アンサンブル室町
    和楽器
     <尺八>黒田鈴尊
     <篳篥>三浦元則
     <笙>石川高
     <箏>日原暢子
     <琵琶>久保田晶子
    古楽器
     <Vn>須賀麻里江
     <Vn>髙岸卓人
     <Vag>和田達也
     <Vc>山田慧
     <Cem>桒形亜樹子
     <Org>大平健介
     <Ct>久保法之
【料金】5000円
【感想】
アンサンブル室町は、2007年にフランス人のチェンバロ奏者であるローラン・テシュネさんを中心として西洋の古楽器と日本の邦楽器による世界初のアンサンブルとして結成されましたが、予てから古楽器や邦楽器を使った現代音楽に興味があり、作曲家・柿沼唯さんの能とパイプオルガンと合唱のためのオペラ「天鼓」(2021年世界初演)の好評も耳にしていましたので、柿沼唯さんの新作「室町のミサ」(世界初演)を聴きに行くことにしました。なお、アンサンブル室町の「室町」は最初に日本に西洋楽器が伝来したのが室町時代であったことから命名したそうですが、公式の記録上は1582年に織田信長が日本人で初めて舞踊付の西洋音楽を鑑賞したそうなので、それから440年後の現代の感性で創作された舞踊付の西洋音楽を鑑賞することになりました。一言で感想を言えば、「多様性の時代」を表現した秀作ということになりますが、料理に喩えれば、それぞれの素材を加工して全く別のものを作る「混ぜる」ではなく、それぞれの素材の個性を生かしながら全体として調和しているものを作る「和える」作品として成功しているのではないかと思います。その意味では、室町時代に日本文化と西洋文化が出会った異文化の出会いがどのようなものであったのか、その戸惑いや驚き、覚醒などが音楽的に表現された作品になっていると思います。柿沼さんによれば、この曲は伝統的なミサの形式に従って構成されており、アンサンブル室町の12人の奏者を最後の晩餐に登場する12使徒に準えて、クレド(琵琶と箏のデュオによる隠れキリシタンの信仰告白)以外の曲はグレゴリオ聖歌のミサ曲第11番の旋律を低旋律に使用し、また、長崎県生月島に伝わる隠れキリシタンの祈りと言われる唄オラショ「ぐるりようざ」の旋律をモチーフとして使用しているとのことです。個人的な印象としては、舞台上(=地上界)に古楽器5人(=キリスト教宣教師のメタファー)、和楽器5人(=隠れキリシタンのメタファー)、ダンサー1人(=イエス・キリストのメタファー)と、オルガンコンソール(=天上界)にオルガニスト及びカウンターテナー(=父なる神とその啓示のメタファー)を配し、舞台上では古楽器と和楽器がそれぞれの世界観を交錯しながら舞踊劇としてイエス・キリストによる受難の物語が表現されたいたのではないかと感じられました。舞台上に置かれた藁束はイエス・キリストが馬小屋で誕生したという故事を象徴するものに感じられ、また、ダンサーが脚立を背負って客席を巡り(=ゴルゴダの丘と受難を目撃する群衆のメタファー)、舞台上に脚立を据え付けてオルガンコンソールに向かって登りますが、その脚立は十字架と昇天を象徴するものに感じられ、舞台と客席、室町時代と現代をクロスオーバーするスケールの大きな舞台を楽しむことができました。田中さんは「肉体と空間と精神の震え」(存在証明)を大事に踊られているそうですが、正しく受難劇の大きなテーマである肉体(本能)と精神(理性)の鬩ぎ合いが感じられる魂の叫びとでも言うような息を呑む気魄のダンスが圧巻でしてイエス・キリストの迷いや強さを繊細に表現するパフォーマンスに惹き込まれました。柿沼さんは、古楽器も和楽器も楽譜至上主義ではなく演奏者の自由な表現(装飾や即興など)を許容する懐の広い音楽である点は共通しているものの、その一方で、西洋と日本の感性の違いによる異質な部分が多い点も指摘されていましたが、その異質な部分を繕って誤魔化さない誠実な創作姿勢が感じられ(これこそ異文化の出会いのダイナミズム)、それぞれの個性を尊重しながら1つの楽想として調和するための工夫が随所に施され、チェンバロと篳篥、オルガンと笙、チェロと琵琶、ヴァイオリンと尺八や琴、カウンターテナーと篳篥などの異色の組合せによるアンサンブルには新しい表現可能性を発見するような面白さが感じられて出色でした。その他にも、琴の唄い物と琵琶の語り物のアンサンブルや琴によるミニマルミュージックなど新鮮な音楽も聞かれ、古典的な曲調でありながら、それでいて古臭さのようなものを感じさせない新しさをふんだんに盛り込んだ非常に聴き易く、かつ、聴き応えのある秀作であると思います。いずれかの作曲賞にエントリーされてもおかしくない完成度の高い充実した内容であり、是非、再演が待ち望まれます。なお、カウンターテナーの久保さんの歌唱を初めて聴きましたが、その清潔感溢れる清澄な歌声と伸びのある洗練された歌唱が白眉でした。注目される期待の新星です。なお、アンサンブル室町は「ヒューマニズムの精神」を探求されているそうですが、現代はヒューマニズムの矛盾や破綻が明確に意識され、新しい価値観が模索されている時代にあり、その意味では「ヒューマニズムの精神」を越える新しい世界観を表現する舞台にも挑戦して貰いたいと期待しています。
 
 
▼ボンクリ・フェス2023「スペシャル・コンサートA面」
【演題】ボンクリ・フェス2023「スペシャルコンサートA面」
【演目】ハリス・キトス ファイブ・ウェイズ・トゥ・ムーブ(世界初演)
     <映像>ハリス・キトス
    ドゥ・ユン スロー・ポートレーツ(日本初演)
     <映像>デイヴィット・ミヒャレック
    藤倉大 尺八協奏曲(アンサンブル版世界初演)
     <写真>二コラ・フロック
     <アート・ディレクション>フローレンス・ドゥルーエ
     <尺八>小濱明人(尺八)
【演奏】アンサンブル・ノマド
     <Con/Gt>佐藤紀雄
     <Fl>木之脇道元
     <Ob>林憲秀
     <Cl>菊地秀夫
     <Fg>塚原里江
     <Hr>岸上穣
     <Tp>佐藤秀徳
     <Tb>今込治
     <Pf/Cel>中川賢一
     <Pec>宮本典子
     <hrp>高野麗音
     <Vn>野口千代光、花田和加子
     <Va>甲斐史子
     <Vc>竹本聖子
     <Cb>佐藤洋嗣
【場所】東京芸術劇場
【日時】7月8日13時00分~
【料金】1500円
【一言感想】
2017年から毎年、作曲家・藤倉大さんをアーティスティック・ディレクターに迎えて「今の時代の音楽をより多くの人々に楽しんで頂くこと」というコンセプトのもとに東京芸術劇場で開催されている「ボンクリ・フェス」(ボンクリとは、ボーン・クリエイティブの略で「人間はみんな、生まれつきクリエイティヴだ」という意味)ですが、今年はスペシャルコンサートA面に参加しましたので、その感想をごく簡単に残しておきたいと思います。スペシャルコンサートA面は映像と音楽のコラボレーションがテーマになっているらしく、先日、尾高賞を受賞した藤倉さんの尺八協奏曲のアンサンブル編曲版を含む3曲が映像付きで上演されました。
 
▼ハリス・キトス「ファイブ・ウェイズ・トゥ・ムーブ」(世界初演)
この作品はギリシャ人作曲家のハリス・キトスさんが旅先で「動き」をテーマに撮り溜めた森林(徒歩)、街並み(電車の車窓)、波、風車、スキー場(飛行機の車窓)の短編映像作品(モノトーン)と、これらの映像作品に着想を得て作曲した5つの小曲で構成されています。冒頭の森林(徒歩)の短編映像作品に弦楽器のトレモロによる演奏が添えられましたが、客観的な映像作品(モノトーン)に心象風景としての色彩が音楽的に添えられて作品の世界観が広がって行くような芸術体験が得られ、映像と音楽をコラボレーションする醍醐味が感じられました。また、映像作品は楽譜情報を越える音楽的なイメージを演奏者に与えるもの(映像楽譜)として機能する意味でも芸術表現の可能性を広げるメディアとして注目されます。過去のブログ記事でも触れましたが、人間の脳は複数の感覚情報を統合して認知し、音楽鑑賞も聴覚情報だけではなくマルチモダールな知覚を統合して認知することが分かっており、例えば、作品のタイトル、演奏者の衣装やレコードのジャケットなども聴覚情報以外の要素による意図された聴衆への働き掛けとして音楽鑑賞に大きな影響を与えています。
 
▼ドゥ・ユン「スロー・ポートレーツ」(日本初演)
この作品は中国人作曲家のドゥ・ユンさんがアメリカ人映像作家のデヴィット・ミヒャレックさんが創作した映像作品「Portraits in Dramatic Time」(全45作品)から採り上げた2つの映像作品と、その2つの映像作品から着想を得て作曲した2つの小曲で構成されています。D.ミヒャレックさんの映像作品は超高速・高精細カメラを使って有名な俳優のパフォーマンスを収録したもので、この作品には中国人棍劇俳優・チェン・イーさんとアメリカ人舞台俳優・ルース・マレチェックさんのパフォーマンスを収録した映像作品が使われています。瞬間を切り取った動きのある映像をスローモーションで再生し、それに音楽を添えていますが、我々が一瞬一瞬に感じては消えて行く無意識の感情の移ろいに焦点をあて、その瞬間の中に永遠を発見して行くような含蓄のある作品で、さながら松尾芭蕉の俳句を鑑賞するような奥深い世界観が感じられるものであり、その意味で映像と音楽をコラボレーションした作品として非常に新しく、豊かな芸術体験をもたらしてくれる充実した内容を持っているように感じられます。ヴラヴォー!是非、シリーズ化して貰いたい面白い作品でした。
 
▼藤倉大「尺八協奏曲」(アンサンブル版世界初演)
この作品はイギリス在住の日本人作曲家・藤倉大さんがブリュターニュ管弦楽団の委嘱を受け、尺八という楽器の特徴に加えて、ブルターニュや下田などで研究するフランス人海洋研究家&海洋写真家のニコラ・フロックさんの海洋写真(モノクロ)に着想を得て作曲したものです。かつて藤倉さんが尺八奏者・藤原道山さんのために作曲した独奏尺八曲「ころころ」を協奏曲に発展させたものだそうで、今年、藤倉さんの尺八協奏曲が第70回尾高賞を受賞されましたが(もちろん尾高賞なのでオーケストラ版)、それをボンクリ・フェスのためにアンサンブル版に編曲してアンサンブル・ノマドにより世界初演されました。藤倉さんによれば、N.フロックさんの海洋写真(モノクロ)は、海の底に風が吹き、水面が空のように映る美しい写真で境界を曖昧にするような不思議な感覚を与えてくれると語っていますが、尺八奏者の小濱明人さんが奏でる尺八の息の音は海底に吹く風のようであり、アンサンブル・ノマドが奏でるトレモロやタギングは風に揺らいで変幻自在な海水又は海藻のようであり、金管が奏でる和音は海底に差し込む太陽の光のようであり、海洋写真と相俟って幻想世界を楽しめました。
 
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.25
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼ミヒャエル・ゼルテンライクの弦楽四重奏曲「鍾乳石と石筍」(2018年)
イスラエル人現代作曲家のミヒャエル・ゼルテンライク(1988年~)は、武満徹作曲賞(2016年)、イスラエル首相賞作曲賞(2016年)、国際現代音楽協会若手作曲賞(2018年)を受賞するなど現在最も注目されている若手の現代作曲家です。この曲はサンタフェ室内楽音楽祭の委嘱により作曲され、フラックス弦楽四重奏団によって世界初演されていますが、タイトルと楽想との間にどのような関係があるのか否かは分かりませんが、非常に緻密な筆致で響きの質感が感じられる曲調が魅力です。
 
▼ジャグ・マルコヴィッチのソプラノと弦楽四重奏曲のための「セルビアの愛の歌」(2016年)
セルビア人現代作曲家のジャグ・マルコヴィッチ(1987年~)は、釜山丸国際コンクール特別賞(2016年)、香港打楽器作曲コンクール第1位(2016年)、TENSO若手作曲家賞(2017年)、第3回アントン・マタソフスキー作曲家コンクール第1位(2017年)、ISCM若手作曲家賞(2019年)を受賞するなど現在最も注目されている若手の現代作曲家です。この曲は7つのセルビア語で書かれた詩を選び、その詩に古風ながらモダールハーモニーを使った先進的な曲が付されています。
 
▼坂田直樹の「残像の器」(2022年)
日本人現代作曲家の坂田直樹(1981年~)は、もはや紹介の必要がないビックネームですが、武生作曲賞(2011年)、第36回入野賞(2015年)武満徹作曲賞第1位(2017年、2018年)、第28回芥川作曲賞(2018年)、第66回尾高賞(2018年)などを受賞し、未だ受賞していない賞を見付けるのが困難です。この曲は、いずみシンフォニエッタ大阪の関西出身若手作曲家プロジェクト第8弾で委嘱された作品ですが、革新の風は常に西から吹いてくることを感じさせる垂涎の企画です。

調布国際音楽祭ワークショップ「新しい音楽を作る」とオペラ「チャンピオン」(MET初演)と拙ブログの立ち位置<STOP WAR IN UKRAINE>

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▼拙ブログの立ち位置(今回はブログの枕はお休み)
月刊誌「レコード芸術」が2023年7月号(6月20日発売)をもって休刊します。僕の周囲にはクールな反応も多いですが、個人的には現代音楽に関する最新の情報に触れることができる殆ど唯一の公器として大変に重宝していましたので残念でなりません。が、営利企業である音楽之友社の決定には重いものがあります。音楽評論家の沼野雄司さんが文藝春秋7月号に『「レコード芸術」存続を望む』と題する記事を寄稿されていますが、採算性のない雑誌の存続を求めるという無理な主張(単なる署名活動)ではなく、この公器が担ってきた社会的な役割を再生するためのサスティナブルなソリューションを模索する苦衷が綴られています。詳しい内容は文藝春秋7月号の記事(原文)をお読み頂きたいのですが、以下のような問題意識(概要)が示されており色々と考えさせられます。
 
①音楽家のモチベーション
日本国内で販売された全ての音盤を評論家が批評するコーナーが音楽家のモチベーションになっている点
【個人的な所感】上述の利点と共に、昔から、売れる音盤が一部に偏ってしまうという弊害も指摘されてきました。この点、音楽家のモチベーションを醸成するという観点で言えば、現代はメディアや活動が多様化していますので音盤に限らない幅広いメディアや活動を対象とする音楽賞のようなものを充実させる取組みも有効ではないかと思います。
 
②音盤データのアーカイブ
全ての国内で発売された新譜に関する情報がアーカイブとして蓄積されている点
【個人的な所感】私企業の企業努力だけに頼るのは社会インフラとして脆弱ではないかと思います。この点、現在、国立国会図書館等がナレッジセンターとしての機能を強化しており、音源、音楽資料や映像資料を含む知的財産のアーカイブの収集及び公開に積極的に取り組んでいますので、そのような取組みにも期待したいです。
 
③音楽関係者が交わるハブ
ファン、評論家、アーティスト、レコード会社が交差する場になっている点
【個人的な所感】現代音楽に関する最新の情報に触れることができる殆ど唯一の公器がなくなってしまうのは手痛いです。この点、そのような機能の一部分でも月刊誌「音楽の友」等で代替されることを期待したいですが、これからの情報流通のハブとしては紙媒体を前提としたシンプレックスなマスメディアよりも電子媒体を前提としたインタラクティブなナノメディアの活用に期待したいです。
 
なお、月刊誌「モーストリー・クラシック」が2023年8月号(6月20日発売)で20世紀の音楽を特集していますが、このようなウブな雑誌でも現代音楽が採り上げられるようになったことは歓迎したい潮流です。しかし、既に死んでいる作曲家(しかも数多くの重要な作曲家も漏れている)ばかりが採り上げられて現代に生きて活躍している作曲家が(インタビュー記事等の中で僅かに登場するほかは)殆ど採り上げられていないのは残念でなりません。20世紀(インターネット普及前のアナログ時代)と21世紀(インターネット普及後のデジタル時代)では時代状況が一変しており、21世紀に生きている現代人にとって20世紀に活躍した既に死んでいる作曲家の作品にも増して21世紀の時代性を表現し得る現代に生きて活躍している作曲家の作品の重要性を看過することはできません。この点、20世紀以前の「歴史」しか語れず、21世紀以降の「現代」を語り「未来」を見通すことができない日本人の縮図(アナログ時代に世界を席巻し、デジタル時代に世界から取り残された日本の凋落)を見ているようで歯痒さを感じます。尤も、この雑誌にそこまでの役割を求めるのは些か酷かもしれませんので、浅学無能な不甲斐ない身の上ですが、拙ブログでは現代に生きて活躍している芸術家の作品やこれを実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきたいと志を立て、言葉を編む「大言海」(大槻文彦)や音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」(僕)と改名することで、果てしない後悔へと船出する決意表明としています。
 
 
▼オペラ「チャンピオン」(全二幕原語上演)
【題名】オペラ「チャンピオン」(MET初演)
【振付】カミール・A・ブラウン
【美術】アレン・モイヤー
【衣装】ポール・ダズウェル
【照明】ドナルド・フォールダー
【映像】グレッグ・エメダー
【出演】<Boy-Sop>イーサン・ジョゼフ(少年期のエミール・グリフィス
    <Bas-Bar>ライアン・スピード・グリーン
                         (青年期のエミール・グリフィス
    <Bas-Bar>エリック・オーウェンズ(老年期のエミール・グリフィス
    <Sop>ラトニア・ムーア(エミールの母/エメルダ・グリフィス)
    <Mez>ステファニー・ブライズ
                   (ゲイバーの店主/キャシー・ヘイガン)
    <Ten>ポール・グローブス(帽子屋の店主/ハウウィー・アルベルト)
    <Bar>エリック・グリーン(対戦相手/ベニー・キッド・パレッド)
                                   ほか
【演奏】メトロポリタン劇場管弦楽団
    <Ba>マット・ブリューワー
    <Gt>アダム・ロジャース
    <Dr>ジェフ・テイン・ワッツ
【料金】2500円
【感想】ネタバレ注意!
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①MET改革について
先日、久しぶりにMETライブビューイングのオペラ「チャンピオン」を観てきましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。冒頭、メトロポリタン歌劇場総裁のP.ゲルブさんから挨拶があり、「現代の観客に共感して貰えるように新しい作品の上演に注力しており、その取組みによって若く多様な客層が増えてきている。」とMET改革の手応えを語っていたのが印象的でした。2020年3月11日にWHOが新型コロナウイルス感染症パンデミック(世界的大流行)を宣言したことを受けてメトロポリタン歌劇場も2020年シーズンから約1年半に亘る閉鎖を余儀なくされましたが、その後、2021年シーズンから再開すると、その復帰第一作としてMET初の黒人作曲家であるテレンス・ブランチャーの「Fire Shut Up in My Bones」(2019年世界初演)が上演されて話題になり、マシュー・オーコインの「エウリディーチェ」(2020年世界初演)やブレット・ディーンの「ハムレット」(2017年世界初演)など新しい作品のMET初演を皮切りとして2022年シーズンにはケヴィン・プッツの「めぐりあう時間たち」(新作オペラの世界初演)やテレンス・ブランチャードの「チャンピオン」(2013年世界初演)、2023年シーズンにはジェイク・ヘギーの「デッドマン・ウォーキング」(2000年世界初演)、アンソニー・デイヴィスの「マルコムX」(1985年世界初演)やダニエル・カターンの「アマゾンのフロレンシア」(1996年世界初演)など新作オペラを含む新しい作品のMET初演を次々に打ち出すなどMET改革に向けた攻めの姿勢を崩していません。先日、P.ゲルブさんは日本の新聞社のインタビューに答えて「オペラ界はいま、大きな転換期に入った。劇的に変わらなければ、この芸術は生き残れないだろう。」という危機意識を語ったうえで、最近ではMET改革が奏功して「総裁就任時、観客の平均年齢は60歳代だったが、現在は52~55歳。1回券の購入客に限れば45歳まで下がっている。」と語っていましたが、今後も世界のオペラ界に革新の風を吹かせる先導的な役割を担ってくれることを大いに期待したいと思います。これに対して、新しい作品を上演する資金的な余力がないのか新国立劇場の来シーズンはクラシック一色の演目に逆戻りしてしまったことは本当に残念でなりません。その意味では日本人の豊かなオペラ受容を支えるためにMETライブビューイングの存在意義は益々大きなものになっていると言えそうです。
 
②作品背景について
テレンス・ブランチャードは、ウィントン・マルサリスらと並ぶ現代を代表するジャズ・トランぺット奏者兼作曲家としてグラミー賞を7回受賞し、映画「ブラック・クランズマン」(2018年)及び映画「ザ・ファイブ・ブラッズ」(2020年)でアカデミー作曲賞にノミネートされるなど不動の名声を獲得していますが、2022年1月にMET初の黒人作曲家としてオペラ「Fire Shut Up In My Bones」がMET初演されて話題になり、その好評を受けて2023年4月にT.フランチャードのオペラ「チャンピオン」がMET初演されました。このオペラは実話がベースになっていますが、主人公のウェルター級及びミドル級元世界王者エミール・グリフィスアメリカ領ヴァージン諸島の出身で19歳のときにニューヨークに出て帽子職人の見習いをしながらボクサーを目指しました。1962年、当時のウェルター級世界王者ベニー・パレットに挑戦しますが、12ラウンドでダウンしたB.パレットが昏睡状態に陥って10日後に死亡した事件(パレット事件)が発生して社会的に大きな問題になりました。試合前の計量でB.パレットがE.グリフィスに対してゲイを蔑むスラング「faggot」で挑発したと言われており(因みに、楽器のファゴットとは綴り(fagotto)が異っています。)、それが原因ではないかなど様々な憶測を呼ぶことになりました。なお、当時、同性愛は精神疾患アメリカ医師協会)と考えられており、また、イリノイ州以外のアメリカの全州で犯罪とされていましたが、晩年、E.グリフィスはバイセクシャルであることをカミングアウトし、この事件によって不眠症になるなど悩み苦しんだことを告白しています。このオペラは10年前に初演されてから再演が繰り返されている人気作ですが、ヴェリズモ・オペラの伝統を受け継いでLGBTQ、DVや認知症など現代的な問題を採り上げながら自分の居場所を求めて生きる現代人の等身大の姿を描いており、神話、英雄や貴族など時代錯誤な題材を取り扱ったオペラ・セリアとは異なって現代人でも共感できる観応えのあるオペラになっています。上述のとおりT.ブランチャードはW.マルサリスらと共に現代を代表するジャズ・トランペット奏者兼作曲家ですが、ジャズ界の一部からは伝統を重視する音楽性を捉えて革新性や自由度に欠けるという批判もありますが(この点はクラシック音楽界にも同じような批判が当て嵌まるかもしれませんが)、このオペラではジャズとクラシックを巧みに融合し、オペラ・セリアのようにスター歌手のための派手なアリアを重視するのではなく、ミュージカルのように歌以外の演技やダンス等の表現力も重視して、ジャズ、ブルース、ポピュラーやミニマルミュージック等の語法を効果的に採り入れながらレチタティーボ風の朗誦によって複雑な舞台を分り易く展開し、また、登場人物の内心を吐露するアリアでは映画的な演出を効果的に利用するなど、新しいものと旧いものとが違和感なく融合している舞台になっています。エミールの前半生を描いた第1幕ではジャズ・テイストのリッチな音楽と多彩なダンスの魅力に溢れ、エミールの後半生を描いた第2幕では共感性の高い物語に惹き込まれる内容になっています。因みに、METのホームページによれば、5月13日公演はY.セガンに代わって日本人指揮者の渡辺健翔が振っているようです。
 
③第一幕について
老年期のエミールはボクサーとして活躍していた時代の後遺症(パンチドランカー)が祟って認知症を発症し、トラウマになっている過去の記憶がフラッシュバックとして蘇り又は幻覚を見るようになりますが、自室に籠る老年期のエミールを2階、フラッシュバックとして蘇る少年期及び青年期のエミールを1階に分けて演じることで、少年期、青年期及び老年期のエミールが重層的に絡み合う複雑な舞台をまるで映画を観ているかのように視覚的に分り易く演出しています。老年期のエミールが認知症のために靴の片方を靴箱ではなく冷蔵庫に入れてしまう場面で歌われるマイ・シューズの歌が、このオペラ全編を貫くモチーフになっています。マイ・シューズはエミールの思惑とは異なる方向に歩み出す人生又は運命のメタファーとして表現されていますが、マイ・シューズはどこへ向かおうとしているのか、自分の居場所はどこにあるのかという漠然とした不安を歌うことで老年期のエミールの不安定な精神状態を印象付けています。昨年、Y.セガンらと共に来日したバス・バリトンのE.オーウェンズはMETのベテラン歌手ですが、老年期のエミールの心の綾を円熟味のある歌唱によって繊細で人間味豊かに表現し、この公演を成功に導く好パフォーマンスを見せています。このオペラでは複雑な場面展開を分り易く進行するためにダンスやリングアナウンスを節目に挟ませるという演出上の工夫が凝らされていますが、ジャズのリズムに乗せたバーバリズム風のダンスと場面展開を告げるリングアナウンスが挟まれた後、スーツケースを持った青年期のエミールが登場して自分以外の何者かになるためにニューヨークへ旅立つと若き野心を歌い、老年期のエミールは自分以外の何者にもなり得ないと人生を達観した老境を歌います。青年期のエミールは帽子のデザイナー、野球選手又は歌手になることを夢見ていますが、帽子のデザイナーは女性のメタファー、野球選手は男性のメタファー、歌手はどちらでもない性のメタファーとして歌われているのではないかと思われます。青年期のエミールはニューヨークのハーレム街で自分を捨て色々な男と浮名を流す奔放な生き方をしている母のエメルダと再会します。母のエメルダは、当初、青年期のエミールを遊び友達と勘違いしてマイ・ベイビーと色仕掛けしてきますが、実は色々な男との間で設けた沢山いる子供達のうちの1人(son of a bitch)であることに気付くと子供を捨てるような愚母であることを後悔してマイ・ベイビーと母性を歌います。母のエメルダは青年期のエミールを連れ立って帽子屋店主のアルベルトに帽子のデザイナーとして息子を雇うように懇願しますが、帽子屋店主のアルベルトは青年期のエミールの体格が良いことに着目してボクサーとして養成しようと考えます。第二幕で描かれていますが、母のエメルダに捨てられた少年期のエミールは虐待により体を鍛えられますが、帽子のデザイナー(女性のメタファー)になりたいという内心とは裏腹に、体格が良いこと(外見)からボクシングの道(男性のメタファー)に進むことになります。ボクシング事務所(1階)の場面では、ジャズのリズムに乗せて練習生(トゥッティ)によるボクササイズ風のダンスと母のエメルダによる韻を踏んだラップミュージック風の歌による躍動感のある舞台が展開されますが、自室(2階)に籠る老年期のエミールがマイ・シューズの歌を歌いながらエミールの人生が思わぬ方向へ歩み出そうとしていることを暗示する演出効果の高い舞台を楽しむことができました。ゲイバー(1階)の場面では、ゲイバー店主のヘイガンが夜の歓楽街の魅惑を歌い、ゲイバーの客(トゥッティ)によるホモセクシャルなダンスと合唱の華やかな舞台が展開されますが、彼らに心を開く青年期のエミールの回想として、母のエメルダに捨てられた少年期のエミールは仕事場でブロックを持ち上げさせられる虐待を受けたことで体が鍛えられたという辛い経験を歌い、自室(2階)に籠る老年期のエミールがブロックを持ち上げる少年期のエミールと同じ姿勢をとりながらその辛い経験をユニゾンで歌うことで、その少年期の記憶がトラウマになっていることを印象付けるという優れた演出が出色でした。少年期のエミールを演じるボーイ・ソプラノのE.ジョセフの清澄な歌声は老年期のエミールを演じるバス・バリトンのE.オーウェンズの力強い低声との対比でその美しさが一層と際立ち、この情感豊かなでリリカルなアリアが大きな聴き所になっています。試合前計量の場面では、青年期のエミールは母のエメルダ、帽子屋店主のアルベルト、大勢の新聞記者(トゥッティ)がいる前で対戦相手のパレッドからゲイを蔑むスラングで挑発を受けて一色触発になりますが、後日、これがパレット事件の原因になったのではないかと憶測を呼ぶことになりました。青年期のエミールが、世間は外見で人を判断するが、それとは異なる人格が内面で作られており、自分とは何者なのかと内心の葛藤を歌うアリアも大きな聴き所になっています。青年期のエミールを演じるバス・バリトンのL.グリーンはボクサーに見える身体に仕上げるために30kgも減量したそうですが、彼自身もストリートギャングが蔓延る街で母親から虐待を受けながら育ち受刑歴がある経験を活かして演技力豊かな歌唱で青年期のエミールの繊細さから自暴自棄に陥る粗暴さまでを見事に演じ分ける好パフォーマンスを見せています。試合の場面では、青年期のエミリーと対戦相手のパレットのファイトが(決して暴力的な表現にならないように)ジャズの演奏に乗せてダンス風に表現されていますが、母のメリンダ、帽子屋店主のアルベルト及び老年期のエミールによる三重唱及び観客による合唱の熱狂と相俟って隙のない緊迫感のある場面にまとめられており、このオペラの再演が繰り返されていることを得心させる非常に充実した舞台を堪能できました。
 
④第二幕について
老年期のエミールは対戦相手のパレットの幻覚に咎められて罪の意識に苛まれますが、この場面ではミニマル・ジャズによる緊迫感のある音楽が効果的に使われています。息子のルイスは幻覚に苦しむ老年期のエミールを気遣い、明日、対戦相手のパレットの息子のパレットJr.に会いに行こうと誘います。カーニバル風のダンスを挟んで、パレット事件後の青年期のエミールはボクサーとして成功を納めて派手な暮らしを送っていますが、妻のセイディとの結婚式で酔いが廻ると人生を恨む本音を吐露して、既に人生が狂い始めていることを印象付けています。その姿を見た母のエメルダは子供を捨てる愚母であった過去に対する罪の意識を歌いますが、ソプラノのL.ムーアの歌唱力のみで聴かせる(僅かに伴奏が添えられていますが、事実上の)無伴奏独唱によるアリアによって却って歌に訴求力が感じられました。帽子屋店主のアルベルトは、対戦相手のパレットが前回の試合のダメージで頭が痛いと言っていたことを思い出し、エミールは殺人者の汚名を着せられているが本当の死因が何であったのか分からないと歌いますが、現代的な題材を取り扱う作品では様々な配慮も欠かせません。老年期のエミールはある日全てを手に入れ、ある日全てを失うと歌いますが、この頃から青年期のエミールにはパンチドランカーの症状が出始めており、母から愛されなかった青年期のエミール、夫から愛されなかった妻のセイディ、事件への罪の意識に苛まれる老年期のエミール、子供への罪の意識に苛まれる母のエメルダがそれぞれの人生模様を歌う四重唱が大きな聴き所になっています。結婚後もゲイバーに通う青年期のエミールはゲイバーで知り合った客と浮名を流しますが、ゲイバーから出たところで鉄パイプを持った若者達に襲撃される場面があり、この時代の時代感覚を印象的に描いています。老年期のエミールは暗の世界で「俺が男を殺しても、世界は許してくれた。だが、俺が男を愛すると、世界は俺を殺したがる。」と歌いますが、息子のルイスによって光の世界へと導かれて、対戦相手のパレットの息子のパレットJr.と対面を果たします。老年期のエミールは対戦相手のパレットの息子のパレットJr.に赦しを請いますが、対戦相手のパレットの息子のパレットJr.は決して自分から逃れたり隠れたりすることはできないので自分を許すことができるのは自分だけであると歌うと、これに呼応するように出演者全員が舞台上に登場して、人生の最後は自分一人だけであり、その最後に自分を許すことができるのは自分だけだと歌い、老年期のエミールと対戦相手のパレットの息子のパレットJr.が抱きしめ合います。この場面では少年期のエミールを演じたボーイ・ソプラノのE.ジョセフのソロが白眉でしたが、子供に歌わせることで聴衆の涙を誘う演出は非常に計算高くも(僕のような涙脆い年配者には)極めて効果覿面であったことを告白しなければなりません。最後に、老年期のエミールがマイ・シューズを歌いながら、人生は自分が意図していない方向に歩み出してしまうものだが、その勝敗に拘らず、最後に自分を許せるのは自分だけであると歌う非常に強いメッセージ性を持った作品であり、ドラマティックな悲劇も救済もない人生の真実の姿が説得力をもって胸に迫まってきます。日本はG7で最も自殺率の高い国ですが、現代人の生きる力を養うことも芸術の重要な社会的な役割の1つであることを感じさせてくれる作品でした。これまでは現代人が抱えている心の問題や社会的な課題など現代的なテーマはミュージカルやポピュラー音楽の独断上でしたが、漸くオペラでも現代的なテーマを取り扱う作品が増えてきたことは歓迎したい潮流ですし、今後もこのような潮流を先導するMET改革に期待したいと思っています。因みに、METの初日公演は普段の客層とは異なって若く多様な客層が目立ち、客席も熱狂的だったそうです。そんな未来に拓かれた活力のある社会(芸術を含む)を次世代に残したいものだと強く感じています。
 
 
▼調布国際音楽祭「新しい音楽を作るVol.2」
【演目】三谷峰生 35.7℃
    フィリップ・シートン Shigeruの戦争
    出会ユキ SEIGAIHA2023
【演奏】<Com>金子仁美
    <Com>細川俊夫
    <Com>藤倉大
    <司会>鈴木優人
    <Fl>上野由恵
    <Va>成田寛
    <Hr>福川伸陽
【日時】6月24日16時00分~
【料金】3000円
【一言感想】
https://chofu-culture-community.imgix.net/2023/02/CIMF_emblem-B_2023_221228_2-1.png?auto=compress%2Cformat&width=365&fit=crop&crop=entropy
来る6月24日(土)から7月2日(日)までの間、調布国際音楽祭が開催されます。初日のワークショップに参加することにしましたので、後日、簡単に感想を書きたいと思いますが、音楽祭の宣伝のために予告投稿しておきます。なお、この音楽祭では、最近、ブームになっているゲーム音楽のオーケストラコンサートが開催されるなど新しい試みにも挑戦していますので、ご都合の付く方はお運び下さい。
 
-->以下、後日追記
 
クラシック音楽界に革新の風を吹かせている鈴木優人さんがエグゼクティブ・プロデューサーを務める調布国際音楽祭のオープニングを飾るワークショップ「新しい音楽を作るVol.2」に参加しましたので、その概要を簡単に残しておきたいと思います。今日は、現代音楽の鑑賞を深めるためのヒントを探るために、現代作曲家がどのように着想を得て作曲し、それを表現するための表現方法(音楽語法、楽器選定、奏法、表現として成立するために聴衆に伝わる(>伝える)ための工夫等)をどのように発想し、それを演奏者とのリレーションの中でどのように音(音楽)に変換するのか、そして、何より聴衆の立場から現代音楽を鑑賞する際の視点(手掛り)となり得るような新しい引出しを増やしたいという思いで参加しました。なお、本日、アドバイザーとして参加されていた現代作曲家の細川俊夫さんも7月10日に国立音大作曲科の学生を対象としたワークショップ(一般公開)を開催される予定ですが、クラシック音楽の受容と同様に現代音楽の受容にあっても、その鑑賞を深めて豊かな芸術体験を得るためには、ある程度、受容者側からのアプローチ(作曲家の考え方や楽曲に関する知識等を得ること)が有用又は必要であると考えます。偶に芸術鑑賞に知識は必要ないという考え方も聞きますが、人間は「知覚」(現在の情報)と「記憶」(過去の情報)の組合せを増やすことでしか認知を広げ又は深めることはできませんので、とりわけ新しい芸術作品の鑑賞にあたっては、ある程度、その芸術作品に関する知識を得ることは必要的であり、その鑑賞を深めて豊かな芸術体験を得るためには受容者側の努力も欠かせません。ワークショップに参加した若手の現代作曲家毎に、①作品の演奏、②作曲家の楽曲解説、③アドバイザー及び演奏者を交えた議論、④その議論を踏まえた作品の再演という順番で進行しましたので、以下にその概要を簡単に残しておきたいと思います。
 
◆三谷峰生 35.7℃
①編成:
ヴィオラ1、ホルン1
②キュレーション(要旨):
主催者から約3分程度の楽曲にまとめるように指示があったそうですが、その制限時間内で、風呂を題材として34℃(冷めた湯)と40℃(温かい湯)の中間温度で人体の表面温度と言われる35.7℃をテーマとし、仕舞湯→思考停止→混沌→水紋→空想→羊水という入浴体験を音楽的に表現したものであることが譜例を使って解説されました。
③アドバイザー及び演奏者の議論(要旨):
● 楽曲解説の必要性について
どれくらい作曲意図が受容者に分かった方が良いのかという問題提起が行われたうえで、入浴体験を音楽的に表現していることから、プログラムノートに作曲意図が示され、それを連想しながら聴取するのが効果的ではないかという指摘がありました。
【個人的な所感】
今日は楽譜が投影されていましたので音楽受容の手掛りとすることができましたが、プログラムノートや楽譜もなく上述の作曲意図を音のみから理解することは困難だと思います。もちろん、そもそも作曲意図が(全て又は正確に)伝わる必要があるのかという問題はありますし、敢えて作曲意図を曖昧にし又は作曲意図を誤解させるという表現手法もあり得ると思いますが、それにしても何の手掛りも与えられないというのは些か乱暴ではないかと思います。プログラムノート等が自由で多様な音楽受容を制約してしまう可能性はあるとしても、聴衆がその鑑賞を深めて豊かな芸術体験を得るためには、プログラムノート等は有用又は必要なコミュニケーションツールではないかと思います(後述)。
● 楽器の使用方法について
音楽制作ソフト(Logic)を使って作曲しているそうですが、三谷さんからアコースティック楽器では出せない音を作り出すことを1つのテーマとしているという趣旨のコメントがありました。これに対し、アコースティック楽器を使用して音を出すという選択肢を排除せずにその可能性も含めて作曲活動に取り組むと更に音楽表現の可能性が広がるのではないかという趣旨のアドバイスがありました。また、もっと楽器の響きを融合させる工夫、音楽の文脈を分り易くするためにメリハリのあるコントラストをつける工夫などがあると良いのではないかという趣旨のアドバイスがありました。
【個人的な所感】
アコースティック楽器を使用した音楽受容は「聴覚器官で知覚される空気振動」を前提としたものですが、過去のブログ記事でも触れたとおり、空気振動以外の方法を使ってコミュニケーションをとっている植物や微生物の存在や、人間の知覚能力(環世界)では及ばないマクロ世界(宇宙)やミクロ世界(量子)の存在(環境世界)が解明されてきており、これらの世界観を音楽的に表現するためにはアコースティック楽器だけで十分なのかという問題があると思います。また、J.ケージも指摘しているとおり、西洋のアコースティック楽器は調性音楽を演奏するために様々な改良を加えてきた歴史がありますが、それ故に調性音楽以外の音楽を演奏するには不向きであるという限界もあります。さらに、現在、VR技術(ボイス・トゥ・スカル技術など)では「聴覚器官で知覚される空気振動」を媒介せずに音を脳に直接送信する方法が開発されており、近い将来、アコースティック楽器を使わない方法によっても音楽を受容できる時代が到来すると言われています(アコースティック楽器が不要になるという意味ではありません)。その意味では、アコースティック楽器では出せない音を作り出し又はアコースティック楽器では不可能な音楽表現の可能性を探求することは、これからの時代の「新しい音楽」を生み出すための有意義な活動であると思います。
 
◆フィリップ・シートン Shigeruの戦争
①編成:
フルート1、ヴィオラ1、ホルン1
②キュレーション(要旨):
主催者から約3分程度の楽曲にまとめるように指示があったそうですが、その制限時間内で、調布市に在住していた漫画家の故・水木しげるさんの著作「総員玉砕せよ!」「コミック昭和史」を題材とし、それらからインスピレーションを受けて前奏曲・密林の行進曲→美しい天然→攻撃の直前・唯一の生存者を作曲したことが譜例及び漫画の挿絵を使って解説されました。
③アドバイザー及び演奏者の議論(要旨):
● 楽想について
SHIGERUのモチーフが随所に登場し、戦争の音楽というよりも水木しげるのキャラクターを表現した音楽という楽想を持っており、ホルンの特殊奏法によって風、いびきや無言歌を表現するなど非常にユニークな楽想であることが評価されていました。
【個人的な所感】
ホルンによる風の描写表現では、マウスピースのカップ(口先)ではなくシャンク(根本)から息を吹き込むことで風の音を出しているそうですが、演奏者の楽器や奏法に関する知識を採り入れながら楽想を音に変換して行く創作活動のホットな現場を垣間見るようで面白く感じられました。
● 音楽とメディアアートについて
水木しげるさんのことを知らないと理解できない作品なのかという問題提起が行われ、シートンさんから戦争と戦争音楽について学会で発表する予定がありますが、その際には漫画の挿絵を投影しながら演奏する予定であるとのコメントがありました。なお、演奏者から漫画の挿絵を見たことで音楽的なイメージが豊かになったという意見があった一方で、漫画の挿絵を投影することで音楽がBGMになってしまう懸念があるという意見もありました。藤倉さんから個人的なスタンスとして音楽家は音のみで勝負すべきであって映像に頼るのはどうかという意見も出されました。
【個人的な所感】
YouTubeやSNSの普及により音楽の流通や受容が大きく変化しましたが、このような影響もあってか最近の現代音楽は楽曲の内容やアーティストのポートレイトを視覚的に表現したミュージックビデオを公開するものが多く、それが音楽作品の一部を構成しています。このワークショップで藤倉さんの音楽観を初めて知りましたが、(作曲家としての基本的な心構えのことを仰られているのだろうとは思いますが)意外に古いタイプの作曲家ではないかという印象を受けました。現代音楽にはタイトルが付されているものが多く、これも(音楽との関連性の有無に拘らず)音以外の要素による聴衆への働き掛けになり得るものであり、その意味ではタイトルもミュージックビデオ(漫画の挿絵を含む)も媒体が異なるだけで同じ性格又は機能を有するものではないかと思います。この点、藤倉さんの作品にもタイトルが付されているものが少なくないですが、どのように整合性ある捉え方をされているのか詳しい話を伺ってみたい気もします。さらに、最近ではパフォーマンスアートやインスタレーション等と組み合わされた音楽作品も珍しくなく、その表現態様は広範かつ多様なものになっていますが、藤倉さんの考え方ではこのような表現態様はどのように位置づけられているのかなども話を伺ってみたい気がします。これからの時代の「新しい音楽」にとって、果たして、従来の音楽概念(純音楽や劇伴音楽等のカテゴライズを含む)が有効なのかという点も含めて考えさせられます。
 
◆出会ユキ SEIGAIHA2023
①編成:
フルート1、ホルン1
②キュレーション(要旨):
主催者から約3分程度の楽曲にまとめるように指示があったそうですが、その制限時間内で、邦楽を題材とし(但し、邦楽から引用した楽曲を西洋音楽の語法に置換)、フルートを笙、ホルンを篳篥に見立てた音取→青海波(源氏物語)→笙合竹→終曲を作曲したことが譜例を使って解説されました。(出会さんは笙の奏者
③アドバイザー及び演奏者の議論(要旨):
● 楽想について
メシアンクセナキスに和声法ではなく専門の数学や建築学を利用して作曲してはどうかとアドバイスしたことを引き合いに出し、西洋音楽の語法に置換したことで雅楽の魅力がなくなってしまっているのではないかという問題提起がありましたが、これに対し、出会さんから作曲意図として雅楽らしさを出したい訳ではないとのコメントがありました。
【個人的な所感】
これまでの邦楽器を使って西洋音楽西洋音楽の語法を使った音楽)を奏でるというパターンと逆転し、西洋楽器を使って邦楽を奏でるという着想は面白いと思いました。但し、アドバイザーからの問題提起のとおり邦楽を西洋音楽の語法に置換してしまったことで邦楽の世界観が失われ、西洋楽器で西洋音楽を奏でるのとあまり差異がなくなってしてしまった点は勿体ないと感じられました。メシアンも作曲していますが、西洋楽器を使って邦楽の世界観を表現するような「新しい音楽」(温故知新)を期待したいです。
● プログラムノートについて
藤倉さんからプログラムノートを書くことに抵抗があるという趣旨の意見が出されました。
【個人的な所感】
聴衆の立場から言えば、現代音楽のような新しい語法による初聴の曲をプログラムノートもなく受容することは困難です。クラシック音楽でも作曲家のライフイベントや考え方、楽曲解説等の知識を前提として鑑賞が成立しており、ホールに響いている音だけを頼りに鑑賞している聴衆は殆どいないのではないかと思います。これまで現代音楽が受容されて来なかった大きな理由として、現代作曲家が聴衆に作品を受容して貰うための工夫を尽くしてこなかったことも一因として挙げられるのではないかと思います。人類は突然変異によってミラーニューロンを獲得し、他者との高度なコミュニケーション(芸術を含む)が可能になりましたが、日常生活の中の簡単なサインであれば理解することはできても、(一部の天才でもない限り)音楽のような複雑な抽象表現を音のみによって受容できるだけの認知能力は人間には備わっていないと思います。
 
最後に、演奏者が作曲家の説明を直接聴くことで音楽のイメージがより豊かに広がったと仰っていましたが、作曲家の楽曲解説並びにアドバイザー及び演奏者の議論が行われた後の再演を聴くと作曲意図が音としてより明瞭に表現されているように感じられ、音楽的な魅力が増したことが実感できました。今年度に入ってから現代音楽を採り上げる演奏会の数が各段に増えた印象があり、しかも現代音楽を採り上げている演奏会の客入りが(演奏会により濃淡はありますが)好調な傾向が見られますので、やはり聴衆(とりわけ若い客層)は新しいものを求めているということかもしれません。
 
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.24
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼テッド・ハーンの「ベンチからの音」から「声の出し方」(2014年)
アメリカ人現代作曲家のテッド・ハーン(1982年~)は、この曲で2018年にピューリッツァー賞にノミネートされています。この曲は米国最高裁判所の口頭弁論にインスピレーションを受けて合唱、エレキギター及びドラムのためのカンタータとして作曲されましたが、その後も社会性の高いテーマを取り扱った作品でグラミー賞ピューリッツァー賞にノミネートされており、現在、最も注目されている若手の現代作曲家です。YouTubeやSNSの普及で音楽がジャンルレスに融合する潮流が現れ、インディーズクラシックなどクラシックとジャズの垣根が崩壊した作品も生まれており、そのような時代の文脈の中に上述のT.ブランチャードやT.ハーン等も位置付けられます。ある1つのジャンルで音楽を語ることがナンセンスな時代になり、幅広いジャンルの耳やボキャブラリーが必要になっています。
 
▼ステファニー・エコノモウの「アサシン・クリード・ヴァルハラ~ラグナロクラグナロクの始まり」(2022年)
アメリカ人現代作曲家のステファニー・エコノモウ(1990年~)は、2023年の第65回グラミー賞から新設されたゲーム音楽部門で最初の受賞者になりました。これまでのグラミー賞ではプロの音楽関係者がサウンドトラックを評価していたのに対し、ゲーム音楽部門では音楽受容の変化を踏まえてメディアやインフルエンサー等が実際のゲームの中で流れる音楽を評価する点で大きく異なっています。前回のブログ記事で紹介した映画「Tar」でモンスターハンター狩猟音楽祭が採り上げられ、調布国際音楽祭でもアナザーエデンのゲーム音楽が演奏されますが、最近、ゲーム音楽が演奏文化の大きな潮流になりつつあり。それが聴衆からも支持されている実態があります。インタラクティブな個衆社会にあって、いつまでも貴族趣味よろしくハイカルチャーと気取ってみたところで時代遅れと見限られるだけかもしれません。
 
▼小出稚子の「植物組曲」シリーズより「ギターのための3つの小品」(2009年)
日本人現代作曲家の小出稚子(1982年~)は、第17回芥川作曲賞受賞(2007年)、第18回出光音楽賞(2008年)、アリオン賞(2011年)等を受賞しています。また、2016年に現代作曲家・尹伊桑の出身地で開催された統営国際音楽祭のアジア作曲家ショーケースゲーテ賞及び聴衆賞を受賞し、昨年にはBBCRadio3の委嘱作品により「揺籠と糸引き雨」がBBC交響楽団によって世界初演されるなど、世界的に活躍している期待の俊英です。この動画は、2007年からジャンルレスに新しい音楽の世界を探索し、挑戦することを意図して開催されているテッセラ音楽祭「新しい耳」において、小出稚子と共に第18回出光音楽賞を受賞しているギタリストの大萩康司が「植物組曲」シリーズより「ギターのための3つの小品」(2009年)を演奏した模様(2019年)を収録したものです。

演奏会「京都・国際音楽学生フェスティバル2023」と映画「Tar/ター」と「か゜~」(五十音図(古典)とその拡張(前衛))<STOP WAR IN UKRAINE>

▼五十音図(古典)とその拡張(前衛)(ブログの枕)
拙ブログのサイドバー「イヴェント情報」でもご紹介していますが、今年度に入ってから あ”~ 聴きに行きたいと思える食指が動く演奏会が増えてきた手応えを感じています。いわゆるクラシック音楽界にも本格的な革新の風が吹き始めている顕れであれば歓迎したい潮流です。将棋の格言に「名人に定跡なし」というものがあり、十七世名人・谷川浩司さんも「自分の常識を疑うことから新しい世界への挑戦が始まる」という名言を残されていますが、現在活躍している藤井総太さんの棋跡のように過去の遺産である「定跡」(古典の承継)に留まることなく新しい世界観を切り拓く「奇手」(前衛の革新)に将棋界の未来を期待したいですし、このことはクラシック音楽界にも同様のことが言えるのではないかと思います。この世界に普遍的なものがあり得るとしても不変なものはありませんので(諸行無常の摂理)、これからの時代は過去の音だけではなく未来の音も奏でられる素養を持った音楽家が益々求められ、また、それを受容し得る観客の幅広い教養と柔軟な感性が試されていると思います。さて、前三回のブログ記事で「いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2023」について触れましたが、敢えて触れずにおいた石川県に関連する話題に簡単に触れてみたいと思います。去る5月10日は「五十音図・あいうえおの日」でしたが、日本三大霊峰の1つである白山を祀る薬王院温泉寺石川県加賀市山代温泉18-40甲)の初代住職・明覚上人が日本語の「音」と「文字」を一致させるために著書「反音作法」(1093年)で「五十音図を発案したと言われており、丁度、これと同時代に(真言宗の開祖・空海によって?)「いろは歌」も発案されたと言われています。過去のブログ記事でも触れたとおり、日本は弥生時代まで無文字社会であり言霊信仰(神の音連れ)に象徴されるように文字ではなく音声によってコミュニケーションする社会でした。その後、5~6世紀頃(古墳時代)に仏教経典と共に漢字が伝来しますが、無文字社会の伝統を持つ日本人には漢字(文字)を習得することが非常に難しかった一方で、仏教経典の漢字を正確に発音しなければその御利益を得られないという考え方から難解な漢字(例、楝=あふち)を正確に発音するために別の漢字の発音(例、安不知)を当て字として付記する「万葉仮名」(意訳ではなく音訳=発音記号)が発達しました。これは意味ではなく音感を重視する当世流行の「キラキラネーム」のルーツやポケベルの語呂合わせ(例.0840=オハヨー)からiモードへ発展した文化的な素地になったと言えるかもしれません。やがて平安時代に唐の滅亡により遣唐使が廃止されると、中国から渡来した「漢字」とは別に、画数が多い「万葉仮名」と比べてより平易な「片仮名」(五十音図)や「平仮名」(いろは歌)が誕生して日本特有の和歌や物語などの文化(目で読むことを主体とする表意文字の文化ではなく、声に出して詠む又は語ることを主体とする表音文字の文化)が花開き、朝廷、貴族や僧侶ばかりではなく武士や庶民にも広く浸透して世界でも有数の高い識字率を誇る国になりました。このような時代背景を踏まえて、明覚上人は日本語の音韻体系を整理した五十音図(10行の子音+5段の母音の組合せ)を発案しましたが、これは「ア」(口を開いて最初に出す音=宇宙の元始)から始まって「ン」(口を閉じて最後に出す音=宇宙の収束)で終わるという世界観を表現し、「ア」と「ン」の間に全ての音(=宇宙の無限)が生じるという仏教思想を体現しています。この世界観は、寺院の仁王像の一方が「ア」(阿)の形に口を開いて、もう一方は「ン」(吽)の形に口を閉じていることでも表されています。なお、五十音図及びいろは歌は清音(≒ 協和音)のみから構成されていますが、これは奈良時代及び平安時代に朝廷、貴族や僧侶等の支配階層が日本語を独占して濁音等(≒ 不協和音)を殆ど使用していなかったことによるもので(和歌は清音のみで詠われ、濁音等で詠われることは殆どありません。)、鎌倉時代になると武士や庶民に片仮名及び平仮名が普及したことで日本語は大きく革新して、濁音等(≒ 不協和音)も使用されるようになりました。やがて室町時代になると「ヲ、オ」「エ、ヱ、ヘ」「ヒ、イ、ヰ」の発音の区別及び江戸時代になると「ヂ、ジ」「ヅ、ズ」の発音の区別がなくなるなど時代と共に日本語の発音は変化し、例えば、江戸時代には「江戸」を「イェド」(yedo)と発音していたことが西洋人の記録等から分かっていますので、現代では「イェ」(ye)という発音が「エ」(e)に収束したことになります。また、式亭三馬が著した滑稽本「浮世風呂」において東北では「が」を「か゜」又は「か゜゜」と発音すると記載しており(白圏=白抜き濁点で表記して、ガ行鼻濁音「ng」と発音します。)、非常に鋭敏な語感を持っていたことが窺えますが、この感性は五十音図(古典)では表現し切れない語感を伝えるために日本のマンガに見られる「あ”」や「ん”」などの革新的な表現(前衛)に受け継がれていると言えるかもしれません。さながら全音及び半音から構成される十二平均律(古典)では表現し切れない世界観を表現するために微分音(前衛)を使用する現代音楽の試みと似ていると言えます。因みに、NHK-FM「現代の音楽」のパーソナリティーである現代作曲家の西村朗さんによれば、「古典」に対し、その伝統を承継して発展した最先端にあるものを「前衛」と言い、その伝統を承継せず全く新しい境地を切り拓くものを「実験」と言うそうです。明治時代になると近代的な軍隊を組織する必要性から日本全国から集まる人々に軍の命令を正確かつ効率的に伝達するために各地の方言を矯正して標準語を普及させるための教材として「五十音図」が利用され、また、小学校の国語の教科書に五十音図が掲載されると共に、日本初の近代的な国語辞典「言海」で五十音順の配列が採用されたことなどにより五十音図を利用した日本語教育が普及して、現代でも子供や外国人が日本語を学習する際には五十音図を覚えることから始めます。その後、第二次世界大戦後になると天皇や軍部等が使用する言葉と庶民が使用する言葉の違いが民主主義の支障になると考え、GHQによる民主化施策の一環として「歴史的仮名遣い」から「現代的仮名遣い」に変更されています。これに伴って漫画「サザエさん」に登場する「磯野カツ➟磯野カツ」に変更され、「ラオ➟ラオ」「ビルング➟ビルディング」など身近な日本語の表記にも変化が生じました。なお、五十音図には英語の「V」の発音を表記することができる仮名がなく、福沢諭吉が「V=ヴ行」(例、VIVALDI=ヴィヴァルディ)、「B=バ行」(例、BACH=バッハ)と表記することを考案しましたが、2019年に在外公館名称位置給与法の一部が改正されて公文書等に記載する国名の表記方法として「ヴァ➟バ」「ヴィ➟ビ」「ヴ➟ブ」「ヴェ➟ベ」「ヴォ➟ボ」「ティ➟テュ」「チ➟チュ」に統一されることになり、これを受けて「ヴ行」の文字を使用している国名以外の名称(例、マンション名のヴィルヌーブ)も「バ行」に変更するか否かが話題になっています。個人的には、「ビバルディ」という表記ではその音楽の華々しさが損なわれてしまう野暮ったさのようなものが感じられ、今後も「ヴィヴァルディ」と表記することにしたいと思っています。現代の日本語は会社で報告書を書くための言語として機能性ばかりが重視されていますが、寧ろ、どうすれば和歌に詠まれ又は世阿弥が創作した謡曲に漂う詩情豊かな日本語の香気(人の心を染める言葉の力)を取り戻すことができるのかに心を砕くべきではないかと思っており、このような短絡的な法改正によって日本人の語感が貧しくなってしまうのは本当につまらないことだと感じています。その意味では常識に囚われることなく日本人の語感を拓いてくれる日本のアニメ文化には大いに期待したいと思います。さらに、2020年に高等学校学生指導要領が改訂されて、「現代文」という科目が廃止されて「論理国語」(論理的に書いたり、批判的に読んだりする資質・能力の育成を重視した科目)と「文学国語」(創造的に書いたり、情緒的に読んだりする資質・能力の育成を重視した科目)の選択科目制が採用されましたが、これは国際社会で生きて行くために必要なコミュニケーション能力を醸成するという観点から行われた有意義な改訂であると思われます。その一方で、「写実的な漢文、印象的な和歌」(過去のブログ記事でも触れたとおり、中国は有文字社会として共同視点を持たないことを前提としたローコンテクストな文化が発展したのに対し、日本は無文字社会として共同視点を持っていることを前提としたハイコンテクストな文化が発展しました。)という言葉に端的に表れていますが、日本語が日本特有の文化や国民性などを歴史的に育んできた側面があり、それが世界からも高い関心と評価を受けている現状を踏まえれば、単に言語の機能性や実用性だけに着目して日本語的な発想や思考方法等(日本人のアイデンティティ)を損なうことがないように十分に留意していかなければならないと感じています。因みに、薬王院温泉寺がある石川県加賀市は五十音図の発祥地であると共に九谷焼の発祥地としても知られており、その境内には五十音が書かれた九谷焼の陶板がはめ込まれた石段があります。この地を訪れた与謝野鉄幹は「山代の いで湯に遊ぶ 楽しさは たとえて言えば 古九谷の青」と詠んでいますが(過去のブログ記事で触れたとおり、「古九谷の青」(青手古九谷)とは青信号と同様に実際には緑色(エメラルドグリーン調)をしています)、昔から文化水準の高い刺激的な場所であったことが窺え、石川県の観光には欠かせない心も体も温まるホット・スポットになっています。式亭三馬の言葉を借りれば、東北弁で加賀は「かか゜」と発音するそうなので、早速、東北訛りが抜けない知人に電話して自分の耳で確かめてみたいと思っています。
 
▼加賀発祥の五十音図(古典)
過去のブログ記事で簡単にいろは歌に触れましたが、五十音図に使用されている片仮名(50文字)は画数が多い万葉仮名(上段)の側を略記したもの(下段)であり、いろは歌に使用されている平仮名(47文字)は画数が多い万葉仮名(上段)を易に書き崩したもの(下段)ですが、これが物語、和歌等の日本独自の文化へと昇華しました。なお、五十音図(片仮名)は日本語の音韻体系を「子音+母音」の組合せで整理した論理的な世界観を表現したものであるのに対して、いろは歌(平仮名)は真言宗の開祖・空海(?)が仏教の無常観を詠った情緒的な世界観を表現したものであると言われています。現代では、いろは歌は廃れ、五十音図は平仮名で記載されています。
 
【五十音図】
片仮名:万葉仮名の一部分
【いろは歌47文字】
平仮名:万葉仮名の書崩し
阿 伊 宇 江 於
ア イ ウ エ オ
安 以 宇 衣 於
あ い う え お
加 幾 久 介 己
カ キ ク ケ コ
加 幾 久 計 己
か き く け こ
散 之 須 世 曽
サ シ ス セ ソ
左 之 寸 世 曽
さ し す せ そ
多 千 川 天 止
タ チ ツ テ ト
太 知 川 天 止
た ち つ て と
奈 二 奴 禰 乃
ナ ニ ヌ ネ ノ
奈 仁 奴 祢 乃
な に ぬ ね の
八 比 不 部 保
ハ ヒ フ ヘ ホ
波 比 不 部 保
は ひ ふ へ ほ
万 三 牟 女 毛
マ ミ ム メ モ
末 美 武 女 毛
ま み む め も
也 伊 由 江 与
ヤ イ ユ エ ヨ
也   由   与
や   ゆ   よ
良 利 流 礼 呂
ラ リ ル レ ロ
良 利 留 礼 呂
ら り る れ ろ
和 井 宇 慧 乎
ワ  ウ  ヲ
和 為   恵 遠
わ     を


※上表は清音のみを記載し、濁音(ば)、半濁音(ぱ)、拗音(ゃ)、促音(っ)は記載していません。
※五十音図及びいろは歌には「ン/ん」(撥音)を含みません。
※「ヰ/ゐ」及び「ヱ/ゑ」は現代仮名遣いでは使用しません。
 
五十音図発祥の地碑
(あいうえおの郷 山代温泉)
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/4a/2a2c52e133b49226248c103e872a8642.jpg
 
▼映画「Tar/ター」
【題名】映画「Tar/ター
【監督】トッド・フィールド
【製作】トッド・フィールド
    スコット・ランバート
    アレクサンドラ・ミルチャン
【脚本】トッド・フィールド
【撮影】フロリアン・ホーフマイスター
【美術】マルコ・ビットナー・ロッサー
【衣装】ビナ・ダイヘレル
【編集】モニカ・ウィリ
【音楽】ヒドゥル・グドナドッティル
【出演】<リディア・ター役>ケイト・ブランシェット
    <フランチェスカ・レンティーニ役>ノエミ・メルラン
    <シャロン・グッドナウ役>ナウニーナ・ホス
    <オルガ・メトキナ役>ソフィー・カウアー
    <セバスチャン・ブリックス役>アラン・コーデュナー
    <アンドリス・デイヴィス役>ジュリアン・グローバー
    <エリオット・カプラン役>マーク・ストロング
【料金】1900円
【感想】ネタバレ注意!
先日、映画「Tar/ター」を観てきましたので、ネタバレしない範囲内で、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。この映画は、C.ブランシェットが演じるリディア・ターが女性指揮者として初めてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任したという設定で(ご案内のとおり、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に女性の団員は存在しますが、現時点で女性の首席指揮者が就任したことはありません。なお、この映画ではベルリン・フィルハーモニーホールと同じワインヤード(葡萄畑)型コンサートホールであるクルトゥーア・パラストを使用してドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団が出演、演奏しています。)、ジェンダー、ハラスメント、SNSなどの現代的な問題を採り上げながら指揮者の実像(但し、現在では民主的な指揮者(支援型リーダー)が多いという実態があるのに対して、この映画では些か前時代的とも言える独裁的な指揮者(支配型リーダー)像がベースになっています。)に迫るサイコスリラー風のフィクション映画です。この映画の中でターは作曲家が楽譜に込めた表現意図はその音楽を聴く者に対する問い掛けでもあるという趣旨のことを語っていましたが、この映画もクラシック音楽界が直面している諸課題に関する問い掛けが発せられているように感じます。未だ映画をご覧になられていない方もいるのではないかと思いますので、ストーリーを追うのではなく印象に残った場面のみを断片的に採り上げることにします(ご興味のある方は映画館等でご覧下さい)。この映画はソナタ形式のような構成になっており、映画の冒頭で、かつてターが採録したシピボ=コニボ族(南米アマゾンのウカヤリに棲む先住民)が歌う民族音楽「イカロ」(癒やし歌)をバックにしてクレジットタイトルが映し出され(提示部)、これがエンディングにおいてターがフィリピンで開催されたモンスターハンター狩猟音楽祭(?)でゲーム音楽を指揮するシーンと呼応して(再現部)、この映画に一貫したテーマ性を与えています。この民族音楽とゲーム音楽に挟まれる形で、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者としてクラシック音楽界の頂点を極めた輝かしいキャリアとその後のスキャンダル(実際のクラシック音楽界にも多いハラスメント問題)により転落して行くターの半生が描かれています(展開部)。映画の前半では、マーラーの交響曲第5番を素材にしてターの音楽観や来歴などが語られますが、この曲は老年期の男性作曲家が美少年に魅了される映画「ヴェニスに死す」(1971年)の主題曲として使用されたことで有名になった経緯があり、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートミストレスであるシャロン・グッドナウと同性愛の関係にあるターの人生を象徴するものとして使用されているように感じます。ターが学生を指導する場面では、伝統的な価値観を象徴するバッハやベートーヴェンの音楽を崇拝し、自分を殺して音楽に奉仕することが理想的な指揮者像であるという古い常識に凝り固まった権威主義的なター(「型通り」)と、多様性が尊重される時代を背景として、伝統的な価値観に違和感を覚えてバッハやベートーヴェンを顧みようとせず、自分本位に流される個人主義的な学生(「型無し」)のジェネレーションギャップが先鋭的に描かれていますが、伝統に根差しながらも常識に囚われることなく時代を革新する新しい音楽を表現できる「型破り」な音楽家(クラシック音楽界における藤井総太さんのような逸材)が現れ難い状況にあることを揶揄しているようにも感じられます。ターは指揮の傍ら作曲も手掛け、世界的に権威ある賞「PEGOT」(ulitzer、mmy、rammy、scar、ony)のうち、後者4賞を受賞して作曲家としても名誉ある地位を確立しているという設定で、作曲に行き詰まりを感じながら、その研ぎ澄まされた感受性のためにメトロノームや冷蔵庫などの音に過敏に反応し、夜には耳鳴り、暗闇では幻聴などの症状に悩まされるようになりますが、過去のブログでも触れたとおり、新しい世界観を拓くことができる稀有な才能は「創造」と「狂気」の狭間で発現されるものなのかもしれません。アパートで暮らすターは隣人の騒音(生活音=非楽音)などにより度々作曲を妨害されていましたが、逆に、その隣人からターの騒音(演奏=楽音)が煩いとクレームを受けるシーンがあり、ある音(楽音及び非楽音を含むサウンドスケープ)を聴く人の立場や環境などによってその音が持つ意義は様々であり得ることが印象的に描かれています。この映画の冒頭で、ターはシピボ=コニボ族が歌う「イカロ」について「伝える相手がいて歌になる」と音楽の原点を語っていますが、ターがスキャンダルによって転落するなかでL.バーンスタインがヤングピープルズコンサートで語った「音楽は私達を旅に連れて行ってくれる」という言葉を契機として音楽の原点に立ち返り、フィリピンで開催されたモンスターハンター狩猟音楽祭(?)でゲーム音楽を指揮しながらモンスターに仮装した子供達と共にゲームの世界へ旅立つ印象的なシーンで終わります。人生に正解がないように、この結末には様々な解釈があり得ると思います。なお、主演女優のC.ブランシェットは貫禄の演技で創造と狂気の狭間にある指揮者の光と闇を見事に演じ分けており、また、フィールド監督は指揮者のJ.マウチェリ(書籍「指揮者は何を考えているか」の著者として知られ、L.バーンスタインと親交があった方)による監修や業界関係者への丹念な取材などを重ねて指揮者の実像に迫り、クラシック音楽界が直面している諸課題に鋭くメスを入れる観応えのある映画にまとめており、もう一度観たくなるような一癖ある後味に仕上げる手腕は流石です。フィールド監督は「映画をどのように解釈するかについての権利は観客にあると私は考えている」と語っていますが、日本人はコンテンポラリー作品を含めて俄かに理解できないものに対して直ぐに心を閉ざしてプリミティブな反応を示す傾向が強いように感じています。現代は何事につけても「はっきりと分かること」「分り易いこと」が持て囃される時代ですが、正解を求めるのではなく多様な解釈を許容し又はこれまでにない新しい世界観を表現している漠然としたもの(受容者の認知レベルを越えるもの)を柔軟に受け入れて、その可能性に遊ぶ懐の広さ、包容力や幅広い教養のようなものが失われてしまっているように感じます。そのようなことを悶々と考えさせられるアクの強い映画ですが、センチメンタリズムに彩られた予定調和のヒューマンドラマとは異なって大人の視聴に耐え得る観応えのある内容を備えていますので一見の価値があります。因みに、現在、ターに最も近い女性指揮者と言えるS.ヤングが来週5月27日及び28日にBPOのデジタルコンサートホールでO.メシアンのトゥーランガリラ交響曲を指揮します。
 
 
▼演奏会「京都・国際音楽学生フェスティバル2023」
このフェスティバルは「音楽を通じた国際交流と若き音楽家たちの育成」を目的として京都で開催されるもので、今年はジュリアード音楽院、パリ国立高等音楽院、京都市立芸術大学及び東京藝術大学の学生が招聘されています。このフェスティバルの意義は学生に作曲を委嘱し、その作品を学生が演奏するという点にありますが、残念ながら、今年は外国の学生が作曲した作品のみが演奏され、日本の学生が作曲した作品は演奏されないようです。この点、昨年は、日本の学生が作曲した作品も演奏されているようなので、何らかの事情があったものと思われますが、是非、次回は欧米の学生が作曲した作品に加えて日本及び欧米以外の国々の学生が作曲した作品も幅広く採り上げられることを熱望します。また、このフェスティバルは教育目的のために開催されるためなのか第一次世界大戦以前に作曲された作品(クラシック音楽)を中心に採り上げているように感じますが、これからの時代は第一次世界大戦後に作曲された作品(現代音楽)の重要性が益々増してくると思いますので、もう少し現代音楽を採り上げて頂けると有難いですし、現代音楽と聴衆の橋渡しができる音楽家(現代音楽の魅力を発見してそれを観客に伝えることができるアナリーゼやプレゼンテーションの能力)の育成を行う取組みも重要ではないかと感じています。
 
【演目】①W.モーツァルト ディヴェルティメント変ホ長調より第6楽章
    ②L.ベートーヴェン セレナード二長調より第1楽章、第5楽章
    ③N.ハフナー(ウィーン国立大学学生)
            弦楽三重奏のための夢想(委嘱作品/世界初演)
    アンコール
    ④岡野貞一 童謡「故郷」(GAC編曲)
      演奏:京都市立芸術大学
      <Vn>都呂須七歩
      <Va>片岡紀楽々
      <Vc>柳澤明日花
    ⑤L.ベートーヴェン ヴァイオリンソナタ第5番ヘ長調「春」
                           より第1楽章
    ⑥J.マスネ タイスの瞑想曲
    ⑦F.クライスラー 愛の悲しみ
    ⑧F.クライスラー 愛の喜び
    ⑨L.フィアルディーニ(ミラノ・ヴェルディー音楽院学生)
              木の葉のカデンツァ(委嘱作品/世界初演)
    アンコール
    ⑩貴志康一 月
      演奏:東京芸術大学
      <Vn>武元佳穂
      <Pf>大野譲
    ⑪F.ハイドン 弦楽四重奏曲第67番ニ長調「ひばり」
    ⑫C.ウェーバー 歌劇「魔弾の射手」序曲(J.ワイス編曲)
    ⑬A.ドヴォルザーク ピアノ五重奏曲第2番イ長調より第1楽章
    アンコール
    ⑭J.ブラームス ハンガリー舞曲第5番嬰へ短調(佐野秀典編曲)
      演奏:京都市立芸術大学&東京芸術大学の合奏
      <Vn>武元佳穂、都呂須七歩
      <Va>片岡紀楽々
      <Vc>柳澤明日花
      <Pf>大野譲
【場所】京都府立府民ホール アルティ
【日時】5月27日15時00分~(アーカイブ配信:5月29日~)
【料金】500円
【一言感想】
非常に演目数が多いので、一部の演目に限り一言感想を残しておきたいと思います。
 
③N.ハフナー 弦楽三重奏のための夢想(委嘱作品/世界初演)
④岡野貞一 童謡「故郷」(GAC編曲)
前菜の①モーツァルト及び②ベートーヴェンでウォームアップした後(これらの曲を聴いてもボンカレーの味を懐かしむようなイマサラ感がありますので感想は割愛します)、主菜の③弦楽三重奏のための夢想(委嘱作品/世界初演)が演奏されました。冒頭、この曲を作曲したウィーン国立音楽大学学生のN.ハフナーさんのMCがあり、この曲の簡単な解説が行われました。夢(想)は、個々人の日常生活における記憶、思考やイメージ等が入り混じりながら自分だけの世界を造り出すもので、その本質を音楽的に表現したものだそうです。完全四度と完全五度の安定した音程で「現実」と「記憶」を表現し、トレモロで「夢」を表現しているそうですが、聴衆を異なる精神状態に誘うことで何らかの心理的な変化を促すことを企図した作品だそうです。これまでも夢(想)をテーマとした曲は多く、ベルリオーズの「幻想交響曲」より第一楽章「夢、情熱」、サンサーンスの「アルジェリア組曲」より第三曲「夕べの夢想」、フォーレの歌曲集「3つのメロディ」より第一曲「夢のあとに」、ドビュッシーのピアノ曲「夢」、シュミットの交響詩「夢」、デュティーユのヴァイオリン協奏曲「夢の樹」などが挙げられますが、この曲は作曲家の夢(想)に対する主観的なイメージを表現したものではなく、脳科学や心理学等の最新の知見を踏まえて夢(想)に対する客観的なイメージを表現したうえで、聴衆の夢(想)に対する主観的なイメージを引き出すことを試みているという点で、かつてないユニークな曲想を持っています。いわば当世流行の参加型の聴取体験を促す曲ですが、過去のブログ記事で触れたとおり、聴衆の外部から明確なメッセージを伝えるオフ・ステージの視点ではなく聴衆の内部に働き掛けてメッセージを補完させるオン・ステージの視点を持つものであり、さながら禅や能楽の風趣すら感じさせる面白さがあります。人間は、一晩にレム睡眠とノンレム睡眠を繰り返しながら脳内で記憶の整理や消去等を行い、その過程で様々な記憶と思考、イメージ等とが組み合わせられることで夢を見ると言われており、このうちレム睡眠中に見た夢は目覚めても記憶に残っており、ノンレム睡眠中に見た夢は目覚めると記憶に残っていないことが分かっていますが、未だその詳細は解明されていません。この知識を踏まえて聴くと、この曲想をより把握し易くなるのではないかと思います。弦楽器の儚げな響きによって「現実」と「記憶」を表現する完全四度と完全五度の安定した音程と「夢」を表現するトレモロとが繰り返され、その響きが変容しながら様々な音楽的なイメージを伝え、一つの不思議な世界観を形作っており、耳で聴く音楽というよりも脳で感じる音楽と形容した方が良いかもしれません。カラードノイズが注目を集めている状況にも似ていますが、これまでのように耳で楽しむための音楽というレイヤーから脳に働き掛けて全身で感じるための音楽というレイヤーへと音楽の意義を深化させて聴衆に新しい聴取体験をもたらす試みとも言え、今後の活躍が大いに期待できる秀作と言えるのではないかと思います。アンコールとして、④童謡「故郷」(GAC編曲)が演奏されましたが、弦楽三重奏の魅力が引き立つ演奏で、高中低の弦三部がバランス良く絡み合い、すっきりとした見通しの良さを感じさせる優美なアンサンブルを堪能できました。
 
⑨L.フィアルディーニ 木の葉のカデンツァ(委嘱作品/世界初演)
⑩貴志康一 月
前菜の⑤ベートーヴェン、⑥マネス及び⑦⑧クライスラーでウォームアップした後(これらの曲を聴いてもボンカレーの味を懐かしむようなイマサラ感がありますので、感想は割愛します)、主菜の⑨木の葉のカデンツァ(委嘱作品/世界初演)が演奏されました。冒頭、この曲を作曲したミラノ・ヴェルディー音楽院学生のL.フィアルディーニさんのMCがあり、この曲の簡単な解説が行われました。L.フィアルディーニさんは俳句を勉強していたことがあるらしく、この曲は松尾芭蕉の俳句「尊がる 涙や染めて 散る紅葉」(明照寺の仏恩の有難さに零れる涙で舞い散る紅葉が滲んで見えます)に着想を得て作曲したそうです。因みに、この俳句は、松尾芭蕉が門弟の河野通賢(俳号:李由)が住職を務める明照寺へのオマージュとして詠んだものです。これまで俳句、俳諧に関する現代音楽として、J.ケージのピアノ曲「七つの俳句」、O.メシアンのピアノと小オーケストラのための「七つの俳諧」、湯浅譲二の合唱曲「芭蕉の俳句によるプロジェクション」、新実徳英の女性合唱とピアノのための「おくのほそ道」、箕作秋吉の歌曲「芭蕉紀行集」、柏木俊夫のピアノ曲「芭蕉の奥の細道による気紛れなパラフレーズ」、細川俊夫のピアノ曲「ピエール・ブーレーズのための俳句ー75歳の誕生日にー」などが挙げられますが、この曲は俳句、俳諧の形式や言葉に着目するだけではなく、L.フィアルディーニさんが俳句の鑑賞を通して感じたイメージを音楽的に表現している点に特徴があり、外国人が松尾芭蕉の俳句の世界観をどのように捉えて表現するのか興味深いものがありました。ヴァイオリンはグリッサンドを効果的に使いながら息の長い持続音を繊細でメランコリック(落葉の風情)に奏でますが、これは紅葉の木の枝振りをイメージしたもの、時折、印象的に奏でられるピッチカートやトレモロは落葉をイメージしたものではないかと感じられました。また、ピアノは点描手法のような緊張感や色彩感のある浸透力ある響きで音楽に彩りを添えていましたが、これは涙をイメージしたものではないかと感じられ、ヴァイオリンとピアノが紡ぎ出す儚げな風趣は西洋的な幻想美とは異なる蕉風のさび、しおり、細み、軽みのようなものを感じさせる閑寂として気品のある曲想を楽しむことができる秀作と言えるのではないかと思います。最近では、イタリア人のI.ディオニシオさんが外国人の新鮮な視点で日本の古典を捉え直した著書「平安女子は、みんな必死で恋してた~イタリア人がハマった日本の古典」が話題になっていますが、是非、今後ともL.フィアルディーニさんには俳句、俳諧などに題材した作曲を期待したいと思っています。アンコールとして、⑩月が演奏されましたが、先日、ゼレンスキー大統領が来日したことを踏まえると趣向ある選曲と言えるかもしれません。かつて神戸東灘区にはロシア革命を逃れてウクライナ、リトアニアやロシアなどから日本へ移住してきた亡命音楽家が暮らしていた「深江文化村」という場所がありましたが(現在は阪神淡路大震災の被災でその殆どが倒壊)、そこで彼らから音楽を学んだ日本人のなかには貴志康一、大澤壽人、朝比奈隆、服部良一や山田耕作などがいます。それを映すように、この曲の提示部及び再現部では日本的な情緒が纏綿とする詩情豊かな演奏が聴かれ、これとは対照的に中間部ではスラブ舞曲風のリズミカルで高揚感のある演奏が聴かれましたが、これらの曲調を鮮やかに弾き分けるメリハリの効いた饒舌な演奏を楽しむことができました。
 
【演目】①J.S.バッハ 無伴奏チェロ組曲第1番ト長調
            より1.前奏曲、4.サラバンド、6.ジーグ
    ②C.ドビュッシー 月の光
    ③G.フォーレ 悲歌ハ短調
    ④R.シューマン アダージョとアレグロ変イ長調
    アンコール
    ⑤C.サン=サーンス 動物の謝肉祭より白鳥
      演奏:パリ国立高等音楽院
      <Vc>ジャン=パティスト・メジェール
      <Pf>ニコラ・ブルドンクル
    ⑥J.S.バッハ ヴァイオリンソナタ第3番ホ長調より第1楽章
    ⑦N.パガニーニ 24の奇想曲より第24番イ短調
    ⑧j.マスネ タイスの瞑想曲
    ⑨G.プッチーニ 小さなワルツ
             ~ムゼッタのワルツ「私が町を歩くとき」~
    ⑩G.タルティーニ ヴァイオリンソナタト短調「悪魔のトリル」
    アンコール
    ⑪G.ガーシュイン 歌劇「ボギーとベス」より
             何でもそうとは限らない(J.ハインフェッツ)
      演奏:ジュリアード音楽院
      <Vn>ヴィレリー・キム
      <Pf>バロン・フェンウィク
    ⑫H.ベルリオーズ 序曲「ローマの謝肉祭」 (O.ジンガー編曲)
    ⑬J.ブラームス ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲イ短調
                      より第3楽章(佐野秀典編曲)
    ⑭R.ワーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
                    第1幕への前奏曲(佐野秀典編曲)
    アンコール
    ⑮J.シュトラウス ラデツキー行進曲(佐野秀典編曲)
      演奏:ジュリアード音楽院、パリ国立高等音楽院
         京都市立芸術大学、東京芸術大学
      <Vn>ヴィレリー・キム、武元佳穂、都呂須七歩
      <Va>片岡紀楽々
      <Vc>ジャン=パティスト・メジェール、柳澤明日花
      <Pf>ニコラ・ブルドンクル、バロン・フェンウィク、大野譲
【場所】京都府立府民ホール アルティ
【日時】5月28日15時00分~(アーカイブ配信:5月29日~)
【料金】500円
【一言感想】
非常に演目数が多いので、欧米日の混成からなる最後の全員合奏に限り一言感想を残しておきたいと思います。
 
⑭R.ワーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲(佐野秀典編曲)
ヨーロッパ的な伝統を承継する前衛音楽の聖地フランスを代表するパリ国立高等音楽院の学生と、ヨーロッパ的な伝統と決別する実験音楽の聖地アメリカを代表するジュリアード音楽院の学生が参加しているにも拘らず、アンコール以外に現代音楽が一曲も採り上げられていないのは、正直、些か拍子抜けの印象を否めませんでした。大学のカリキュラムとの関係があるのかもしれませんが、アンサンブル力だけではなく個々の奏者が相当な奏力を備えていることが分かるだけに次世代を担う有能な若者が奏でる未来の音を聴いてみたかったのですが、その点は残念でなりません。....とは言え、佐野秀典さんによる編曲の妙味が活かされた面白い演奏を聴けましたので、R.ワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲(佐野秀典編曲)に限り一言感想を残しておきたいと思います。今日は管楽器及び打楽器のパートを2台のピアノで代用した室内楽編成に編曲された版が演奏されましたが、オーケストラの大伽藍とは異なるストイックな響きにより室内楽特有の小気味良い歌心溢れる演奏が聴かれ、また、内声の細部の動きまで明瞭に感じられる解像度の高い演奏で楽曲の構造美、構築美が浮き彫りとなる面白い演奏を楽しめました。2台のピアノが管楽器及び打楽器に負けない多彩な響きを紡ぎ出し、V.キムさんやJ.メジェールさんが主導するアピール度の高いアグレッシブな演奏が展開され、優等生的な巧さだけに納まらない溌剌とした息吹を感じさせる熱演を楽しめました。
 
【訃報】カイヤ・サーリアホさん、亀井忠雄さん
 
▼フィンランド人現代作曲家のカイヤ・サーリアホさん
6月3日に上記のアーカイブ配信を視聴していたところ、6月2日、フィンランド人現代作曲家のカイヤ・サーリアホさんが逝去されたという訃報が飛び込んできました。過去のブログ記事でもK.サーリアホさんが能「経正」及び能「羽衣」を題材にして創作したオペラ「Only the Sound Remains ~  余韻 ~」をご紹介し、また、英国の音楽サイト「bachtrack」が「2023年に注目すべき8人の女性作曲家」としてK.サーリアホさんをエントリーしていることを紹介しましたが、現在、世界からその活躍が最も期待されている現代作曲家が早世してしまったことは本当に残念でなりません。K.サーリアホさんの追悼公演としてオペラ「Only the Sound Remains ~  余韻 ~」の再演を期待したいですが、先ずは、衷心よりK.サーリアホさんのご冥福をお祈り申し上げます。
 
▼能楽師(葛野流大鼓方)の亀井忠雄さん(人間国宝)
昨日のK.サーリアホさんの訃報に続いて、6月4日、能楽師(葛野流大鼓方)の亀井忠雄さん(人間国宝)が逝去されたという訃報が飛び込んできました。亀井さんは2016年にカーネギーホールで開催された「グランド・ジャパン・シアター」で能楽を披露して話題になりましたが、最近、一時代を築いた芸術家の訃報が続いており時代の節目を感じます。既に、ご子息の能楽師(葛野流大鼓方)の亀井忠広さん、歌舞伎(田中流長唄囃子方)の田中傳左衛門さん及び田中傳次郎さんが各界でご活躍されていますので、そのことが何よりのご供養になるのではないかと思います。衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.23
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。なお、毎回、外国人2名及び日本人1名をご紹介していますが、今回は外国人1名及び日本人2名(組)をご紹介してみたいと思います。
 
▼フランチェスコ・トリスターノの「トッカータ」(2022年)
ルクセンブルク人現代作曲家のフランチェスコ・トリスターノ(1981年~)は、フランスで開催されている現代音楽のみを課題曲とする第6回オルレアン国際20世紀ピアノコンクールで優勝(2004年)し、現在、ピアニスト&現代作曲家としてジャンルレスにクロスオーバーな活躍をしている現在注目されている期待の俊英です。2017年に故・坂本龍一のオファーで「GLENN GOULD GATHERING」に参加し、東京の心象風景を表現した作品「東京ストーリーズ」も話題になりました。この動画は、最新のアルバム「オン・アーリー・ミュージック」に収録されている1曲です。
 
▼チェンバリスト:染田真実子/藤井喬梓の「奈良組曲〜クラヴサンによる古都の七つの幻影」(2017年)
日本人チェンバリストの染田真実子(1988年~)は、オランダで開催された現代音楽国際コンクールで第2位(2015年)を受賞し、チェンバロによる現代音楽の演奏を中心に活動している期待の俊英です。過去のブログ記事でも書きましたが、ストイックな響きの古楽器と現代音楽の相性は非常に良いと感じており、新しいジャンルとして古楽器を使用した現代音楽に注目しています。この動画は藤井喬梓の「奈良組曲~クラヴサンによる古都」を世界初演したときの模様です。2023年8月31日及び2023年9月8日「染田真実子チェンバロリサイタルvol.4 はなだま」の演奏会は聞き逃せません。
 
▼田中慎太郎の「灯火」(2022年)
日本人現代作曲家の田中慎太郎(1988年~)は、音の肌触りや静けさをテーマにしてポストクラシカル、アソビエントや映像作品への楽曲提供等を中心にして活動している現在注目されている現代作曲家です。この動画は、アルバム「永遠と一日」に収録されている曲をフィディアス・トリオ(Vn:松岡麻衣子、Cl:岩瀬龍太、Pf:川村恵里佳)が演奏したものですが、この三重奏団はクラリネット三重奏の魅力を追求することを目的として主に現代音楽(日本初演や委嘱作品を含む)を演奏する団体として設立されていますので、併せて、この機会にご紹介しておきます。

いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2023(5月5日)とクロスオーバーする加賀文化<STOP WAR IN UKRAINE>

▼クロスオーバーする加賀文化(ブログの枕)
GWの連休を利用して観光がてら「いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2023」に来ています。石川県は、日本三霊山の1つである白山を水源とする手取川が上流から多くのを流すであることから命名されたものですが、その中心地にある金沢市には詩人・室生犀星(ライツネーム)の由来になっている犀川が流れ、その水流を利用した日本四大用水の1つである辰巳用水金沢市街を流れていることから水の都という異名も持っています。水が美味ければ、当然、酒も美味いということで、昨晩、酒を求め肴を求めて金沢の街を彷徨っていたら、したたかに酔いつぶれ、ブログの枕を更新できませんでしたが、音楽祭の合間に金沢周辺を観光しましたので、歩き周れた範囲内で金沢の文化的な魅力についてクロスオーバーの観点から少しばかりご紹介してみたいと思います。なお、音楽祭の会場(有料公演又は無料公演)があった場所の周辺で時間が許す限りで観光しましたので、来年観光がてら音楽祭に行ってみたいと考えている方のために、(おそらく来年も同じ演奏会場が設けられると思いますので)演奏会場から観光地までの移動手段と所要時間を併記しておきます。今回歩き周れなかった場所は、是非、次の機会に伺いたいと思っています。
 
【会場】石川県立音楽堂(石川県金沢市昭和町20−1)
【観光】近江町市場(石川県金沢市上近江町50):徒歩15分
近江町という地名は1501年に蓮如上人の命を受けた祐乗坊が近江商人と共に移住してきたこと(場所のクロスオーバー)に由来しています。全国的に有名な店も多く早朝6時頃から行列ができます。
【会場】北國新聞赤羽ホール(石川県金沢市南町2−1)
【観光】尾山神社(石川県金沢市尾山町11−1):徒歩5分
前田利家公とお松の方が祀られている神社で、明治8年に建設された神門は堅固な構造とするために和漢洋の折衷(文化のクロスオーバー)になったそうです。朝陽に映えるステンドグラスが美しい!
【観光】長町武家屋敷跡(石川県金沢市長町1-3-12):徒歩5分
江戸時代に中級武士が暮らしていた武家屋敷跡ですが、令和時代も実際に住人が暮らしています(時代のクロスオーバー)。その歴史的な景観から映画の撮影に使われることも多い人気のスポットです。
【会場】金沢市役所(石川県金沢市広坂1-1-1)
【観光】石川四高記念文化交流館(石川県金沢市広坂2ー2ー5):徒歩1分
鈴木大拙西田幾多郎を排出した旧制石川第四高校の校舎で、国の重要文化財に指定されています。金沢の街並みには近世建築、近代建築及び現代建築が並存しています(時代のクロスオーバー)
【観光】金沢21世紀美術館(石川県金沢市広坂1-2-1):徒歩1分
現代美術を収蔵している美術館ですが、この隣には金沢能楽美術館と石川県立美術館があるので、同じエリア内に中近世美術、近代美術及び現代美術が展示されています(時代のクロスオーバー)。
【観光】金沢能楽美術館(石川県金沢市広坂1-2-25):徒歩1分
昔、金澤能楽堂があった場所で、この隣には金沢21世紀美術館と石川県立美術館があるので、同じエリア内に中近世美術、近代美術及び現代美術が展示されています(時代のクロスオーバー)。
【観光】鈴木大拙館(石川県金沢市本多町3-4-20):徒歩10分
前回のブログ記事で触れたとおり禅や浄土宗の東洋思想を西洋人に理解できるように哲学まで昇華し、それを世界中に広めてJ.ケージの作品など様々な影響を与えています(文化のクロスオーバー)。
【観光】兼六園(石川県金沢市兼六町1−22):徒歩10分
日本三大名園の1つで、宋代の書物「洛陽名園記」でつの優れた景観をね備えることが名園の条件とされ、その全てを備えているので兼六園と名付けられました(文化のクロスオーバー)。
【観光】金沢城(石川門)(石川県金沢市丸の内1−1)徒歩10分
金沢城浄土真宗一向宗)の寺院として創建された尾山御坊(金沢御堂)の跡地に造営されており、クロスオーバーする加賀文化の中心拠点となった場所です。金沢の地名の由来は城霊です。
【会場】イオンモール白山(石川県白山市横江町5001)
【観光】白山比咩神社(石川県白山市三宮町二105−1):車30分
日本三大霊山の1つの白山をご神体とする白山神社の総本山で、永平寺白山権現鎮守神とています(宗教のクロスオーバー)。なお、僕の先祖は白山権現分祀し、某所に白山神社を創建しています。
【会場】なし(※以下、クロスオーバーとは関係なく興味本位で赴いた場所)
【観光】石川県立能楽堂(石川県金沢市石引4-18-3)
現在の金沢能楽堂は、1932年に能楽師・二代目佐野吉之助が再建した金沢能楽堂の本舞台を石川県が譲り受けて現在地に移築したもので、杜若像(佐野吉之助がモデル)が建立されています。
【観光】金沢蓄音器館(石川県金沢市尾張町2-11-21)
金沢市内でレコード店を営んでいた故・八日市屋浩志さんが収集した蓄音器540台、SPレコード2万枚のコレクションが展示されており、現在も寄贈等によりコレクション数が増加しています。
【観光】ひがし茶屋街(石川県金沢市東山1-14-9)
大人の嗜みである芸者遊びなど行う茶屋文化が金沢で盛んでしたが、現在でもその情緒豊かな街並みが残されており、五木寛之作「朱鷺の墓」の舞台としても描かれています。
【観光】加賀友禅燈ろう流し本部(石川県金沢市東山1-18-26)
浅野川(女川)の友禅流しに見立て、5月4日に浅野川(女川)の鯉流しが開催されていたので立ち寄ってみました。なお、観光客には、友禅染、輪島塗や九谷焼に加えて金箔ソフトが人気です。
【観光】鏡花記念館(石川県金沢市下新町2-3)
泉鏡花の生家跡に記念館が建立されており、その直ぐ近くには泉鏡花の小節「化鳥」や「照葉狂言」の舞台として描かれている浅野川(女川)に架かる中の橋が現存しています。
【観光】西田幾多郎記念館(石川県かほく市内日角井1)
主客を分別して世界を捉える西洋思想と主客を包括して世界を捉える東洋思想を融合し、主客が分離する前の原初的な「純粋経験」を見直して、それを実践することが善であると説いています。
 
最後に、この音楽祭を企画及び運営されたスタッフ、ボランティアや音楽家の皆さんに心から謝意を申し上げます。色々なところにおもてなしの心を感じることができた音楽祭で、風と緑を感じながら音楽に酔いしれる3日間を楽しむことができました。なお、石川県立音楽堂の前でブレイキンやヒップホップダンスの練習をしている若者の姿を沢山見掛けましたが、現代音楽等のコンテンポラリー系と同様に、今まさに石川県で育まれている新しい文化を紹介する機会が設けられれば、客層のクロスオーバーも生まれて石川県らしい更に充実した音楽祭になるのではないかと感じます。それくらいこの音楽祭には期待しています。
 
 
▼いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2023(5月5日)
▼筝のしらべで広がる 邦楽の愉しみ
【演目】A.ドボルザーク ユモレスク
    J.ブラームス ハンガリー舞曲
    沢井忠夫 黒田節幻想曲
     <筝>石川県箏曲連盟
     <書道>斎藤千霞
     <横笛>藤舎秀代
     <日舞>藤間信乃輔
【場所】石川県立音楽堂 邦楽ホール
【日時】5月5日 10時00分~
【料金】2000円
【一言感想】(288文字以内/演目)
古典筝曲の演奏後、和洋のクロスオーバーとして筝(十三弦、十七弦)とフルート及びチェロの合奏でユーモレスク及びハンガリー舞曲が演奏されましたが、調弦可能な筝と西洋楽器の相性の良さを感じさせる好演でした。続く、ジャンルのクロスオーバーとして横笛の演奏に合わせて「百華斎放」(「斎」は書道家の名前から)の4文字が揮毫され、花々が一斉に咲き誇るように芸術も色々なものが発信されることが大切だという願いが込められたこの音楽祭に相応しい書です。最後に、古典と現代のクロスオーバーとして黒田節(沢井忠夫編曲)に合わせて槍舞が披露され、その洗練された所作の美しさに酒ではなく息を吞みました。
 
▼ジュニアオーケストラ公演
【演目】B.バルトーク ルーマニア民族舞曲
    李哲芸 廟埕~テンプル・スクエア
      <指揮>許忠淳
      <Orc>台湾宜蘭ジュニアオーケストラ
    W.モーツァルト ディベルティメント変ロ長調
      <指揮>なし
      <Orc>福井ジュニア弦楽アンサンブル
    B.バルトーク 「子供のために」より10のやさしい小品
      <指揮>中川洋司
      <Orc>ジャスタ・イン・トヤマ・ジュニア
    A.ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調新世界より」から第四楽章
      <指揮>松井慶太
      <Orc>石川県ジュニアオーケストラ
    A.ドヴォルザーク スラヴ舞曲第2集より第2番ホ短調
    A.ドヴォルザーク スラヴ舞曲第2集より第1番ハ長調
      <Orc>合同
【場所】石川県立音楽堂 交流ホール
【日時】5月5日 13時30分~
【料金】500円
【一言感想】(288文字以内/演目)
この音楽祭に参加した台湾、福井、富山及び石川のジュニアオケの演奏を聴くことにしました。台湾:海外遠征で難曲に挑戦し、ハンガリー民族音楽の魅力と台湾の民族音楽の魅力の違いを上手く表現する素晴らしい演奏でした。福井:指揮者を置かないアンサンブルですが、実にモーツァルトらしい軽やかで清澄な響きによる正統派のアンサンブルを楽しめした。富山:トラは対象外として、少し緊張していたのかやや演奏に硬さが感じられる部分もありましたが、合奏力のある演奏を楽しめました。石川:ザッツに乱れがなく豊かなハーモニーも感じられる非常に精度が高い演奏で、石川県の音楽人材の分厚さを見せつけられました。
 
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.22-3日目(台湾人)
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。なお、「いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2023」に3日間参加する予定なので、今回は1日毎に1人づつご紹介します。
 
▼鄭伊里の「Touch,duo」(2019年)
台湾人現代作曲家の鄭伊里(1982年~)は、国立台湾師範大学を卒業し、エレクトロニカサウンドスケープ、ビジュアルアート、パフォーマンスやインスタレーションを利用した作品が特徴です。この動画は、水の性質を利用したインスタレーションで、音や音楽を聴覚的だけではなく視覚的(及び触覚的)に感じるという面白い着想の作品で「Touch」シリーズとして複数の作品があります。音や音楽は空気を伝わる振動を耳が知覚して電気信号に変換し、それを脳が認知(創作)しているものですが、音や音楽の形を感じることができます。