大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用、拡散などは固くお断りします。※※

新年の挨拶①:歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」(松本幸四郎、尾上松也)とアヌーナ特別公演「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~とオペラ「グラウンデッド」(ジャニーン・テリソ、メトロポリタン歌劇場)と「笙|SHO」トーク+ミニコンサート(石田多朗、中村華子)と「蛇(巳)」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼「蛇(巳)」(ブログの枕)
少し気は早いですが、正月は忙しいので12月に「新年の挨拶①」及び「新年の挨拶②」の二回に分けて新年の挨拶を投稿します。2025年の干支は「蛇(巳)」ですが、中国の歴史家・班固らが編纂した史書「漢書」の律暦志には十二支が自然界の輪廻転生を表したものであるという由緒が解説されており、そのうち「巳」は「草木の成長が極限に達して、次の生命が宿され始める時期」とされています。これが日本に伝来して庶民にも理解し易いように十二支に動物の名前を割り当てた作り話で物語風に仕立てたものに「巳」が転じて「蛇」が登場します。この点、蛇は、脱皮を繰り返して成長する動物であることから「再生」「不死」「永遠」(ウロボロス)などのメタファーとして捉えられてきた一方で、毒を持ち獲物に巻き付いて丸吞みすることから「毒」「死」「執着」(七つの大罪)などのメタファーとしても捉えられてきた相反する多面的な性格を体現しており、歴史上、「信仰」(前者)と「畏怖」(後者)の対象になってきた動物ですが、物事には陽と陰の二面性があって、それらが調和して1つの世界ができているという常に反対の利益に配慮する重要性を教えてくれています。とりわけ水辺に生息する白蛇はインドの水神に起源している芸事、学問や蓄財などの神様である弁財天の使い又は化身として「信仰」の対象になることが多く、日本白蛇三大聖地(①山口県の岩國白蛇神社、②群馬県の老神温泉、③東京都の蛇窪神社)などで祀られています(以下の写真を参照)。因みに、「巳」という漢字は、頭と体がはっきりしてきた胎児の姿を象った象形文字で、子宮の中にいる胎児を表す「包」という漢字のうち「勹」(構の部分)に覆われた「己」(中の部分)と同じ語源を共有していますが(巳は上に、已はなかばに、己は下に)、そこから蛇が冬眠から覚めて地上に這い出す姿(産まれる、始まる、起こる)を表すようになったと言われています。
 
蛇窪神社(東京都品川区二葉4-4-12
①蛇窪神社:鎌倉時代、蛇窪村(現、品川区二葉四丁目)に清水が湧き出る場所があり白蛇が住んでいましたが、1323年に龍神へ雨乞いを祈願したところ雨が降ってきたので、蛇窪村に蛇窪神社を勧請し、神恩に応えて白蛇を祀ったのが由緒と言われています。また、白蛇は弁財天の使いとされており、荏原七福神として弁財天も祀っています。 ③白蛇辨財天社:蛇窪神社の境内には白蛇辨財天社が建立され、弁財天を祀っています。白蛇辨財天社には狛犬ならぬ狛蛇が祀られており、狛蛇のトグロには弁財天が霊験あらたかに鎮座していますので、疫病流行の折から無病息災を祈願したくなるような大変にありがたい神社と言えます。その脇には幸運と金運の宝珠を抱く撫で白蛇も祀られています。 ②蛇窪龍神社:蛇窪神社の境内には蛇窪龍神社が建立され、蛇窪村の守護神である龍神が祀られています。弁財天の使いである白蛇が8匹で龍になると言われており、神威が漲るパワースポットとも言えます。2025年は辰(龍)から巳(蛇)に干支が変わりますが、慈雨よろしく龍神が8匹の白蛇となって神の恵沢が注ぐ年になることを祈願します。 一粒万倍の碑:巳年の縁起は新しいものが生まれる年と言われていますが、一粒万倍は「種籾1粒から1本のイネが育ち、そこから万倍もの米が穫れること」を意味し、後の世の安寧と繁栄のための一粒に復活と再生をかける吉兆の年と言えるかもしれません。そんな明るい未来を暗示するように、今日も蛇窪神社の花手水が美しく咲き誇っています。
 
WHO(世界保健機関)の紋章には蛇があしらわれていますが、これは「魔術的な医療」から「科学的な医学」へと発展するための基礎を築いた古代ギリシャの医学の神であるアスクレピオスの杖で、上述のとおり蛇は脱皮を繰り返して成長する動物であることから「再生」(医療と医学)の象徴と捉えられています。その一方で、ミケランジェロのフレスコ画「原罪と楽園追放」(システィーナ礼拝堂の天井画)には楽園の蛇がイヴ(エヴァ)を唆して知恵の実(禁断の果実)を食べるように誘惑する場面(旧約聖書創世記第3章)が描かれており「悪魔」(悪知恵)の象徴と捉えられています。ここで「悪魔」(悪知恵)の象徴として蛇が選ばれている理由が問題になりますが、紀元前1200年頃の地中海沿岸の気候変動や歴史的な経緯などが関係していると考えられています。時代を遡ること、紀元前1800年頃、パレスチナで暮らすユダヤ人(ヘブライ人)は飢饉を逃れてエジプトへと移住しましたが、その後、ファラオ(エジプトの王)がユダヤ人(ヘブライ人)を奴隷にし始めたことから、起源前1200年頃、モーゼは奴隷にされたユダヤ人(ヘブライ人)を率いてエジプトから脱出してパレスチナへと戻ったと言われています(旧約聖書の出エジプト記)。丁度、この時期に北緯35度以北のアナトリア(トルコ)やギリシャの気候は湿潤化して森を維持できる環境が確保され、森(地)の恵みに頼った生活が可能(例えば、アナトリアのフリギア人は木造建築を主とする木の文化など)になりましたが、北緯35度以南のエジプトやパレスチナ(イスラエル)の気候は乾燥化して森を維持できる環境が確保されず、森(地)の恵みに頼った生活が困難(例えば、パレスチナのユダヤ人やアラブ人などは木造建築ではなく石造建築を主とする石の文化など)になり、益々、牧畜や放牧などに頼った生活を営むようになりました。北緯35度以北の「森の民」は森を育む多神教の世界観を持ち地を支配する蛇を信仰の対象と捉えていましたが、北緯35度以南の「砂漠の民」は気候の乾燥化による森(地)の荒廃に伴って信仰の基軸を地から天へと転換し、地の恵み(農耕や森林など)をもたらす多神教(地の女神)から天の恵み(日照や雨水など)をもたらす一神教(天の男神)へと信仰の対象が移行していったと考えられています(ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の誕生)。この点、ファラオ(エジプトの王)の1人であるツタンカーメンの王冠にはエジプトのシンボルである蛇(コブラ)があしらわれていますが、旧約聖書で悪魔(悪知恵)の象徴として蛇が選ばれたのは、上記のような地中海沿岸の気候変動や歴史的な経緯などを背景としてエジプトなどの多神教(蛇を信仰するアニミズム)の世界観と対決し、一神教の世界観を拓くにあたって邪教(悪魔、悪知恵)のシンボルとして蛇が利用されたからではないかと考えられています。その後、紀元後30年頃にキリスト教が普及して行く過程で疾病を治す奇跡などを起こす神として信仰を集めるにあたり、キリスト教が古代ギリシャの医学の神であるアスクレビオス(蛇に象徴される神)を凌駕する必要があったことも蛇が「悪魔」(悪知恵)の象徴として選ばれた理由として挙げられるのではないかと考えられています。因みに、その後のパレスチナは隣国に侵略されるなどしてユダヤ人(ヘブライ人)は国外へと離散し(ディアスポラ)、最終的にアラブ人(パレスチナ人)がパレスチナを支配しましたが、その後、ヨーロッパ各地に離散していたユダヤ人(ヘブライ人)がパレスチナへと戻り始めたことで相互に異なるアイデンティティを持ったユダヤ人(ヘブライ人)とアラブ人(パレスチナ人)が激しく対立するようになり(「」の感情の発動)、第二次世界大戦後に国連の仲介でユダヤ人(ヘブライ人改めイスラエル人)とアラブ人(パレスチナ人)がパレスチナを分割統治することになりました。しかし、それを不満として中東戦争が勃発して、現在のハマスによるイスラエル越境攻撃やイスラエルによるガザ侵攻へと発展しています(「対象」の除去)。閑話休題。これに対して、日本では蛇を象った装飾があしらわれている土器や女性を象った土偶(頭に蛇を乗せた土偶)が出土していますが、縄文人が「死者の再生」を願って蛇を男性器の象徴とし、土偶を妊婦の象徴として信仰の対象にしていた可能性が指摘されています。このような思想的な基盤を背景として、人間の誕生は蛇から人間への変身であり、人間の死亡は人間から蛇への変身であるという考え方が生まれて(蛇が脱皮を繰り返す姿は輪廻転生(回転運動)の象徴)、それが宇賀神信仰などにも体現されていると考えらえています。この点、日本書記に記されている箸墓伝説(日本書紀崇神天皇10年9月の条)には、第7代孝霊天皇皇女で巫女の百襲姫(ももそひめ)が災厄を鎮めるために三輪山に祀られている大物主神の妻になりましたが、大物主神が百襲姫のもとに夜しか通ってこないこと(妻問婚の習俗)から百襲姫は朝に大物主神の姿を見たいと懇願すると、大物主神は蛇の姿で現れたので百襲姫は驚愕し、大物主神は恥じて三輪山に隠れてしまいました。これを後悔して百襲姫が腰を落とした際に箸が陰部に刺さって絶命したので箸墓古墳奈良県桜井市)に葬られたとあり、三輪山の大物主神(男性器の象徴である蛇神)が人間に変身して巫女と神婚したという伝説として「信仰」の対象になっています。なお、あくまでも個人的な邪推ですが、箸が陰部に刺さっただけで絶命するのか疑問であり、実のところ巫女の百襲姫は神婚の儀式で蛇に陰部を噛まれ、蛇の噛み跡が2穴だったので箸が刺さったということになったのかもしれません。因みに、神社に張られている注連縄は、天照大神が天の岩戸に戻らないように(即ち、須佐之男命のご乱行に象徴される俗域の穢れから神域を守るために)縄を張られたのが起源と伝えられ、そこから「神域」(常世/とこよ)と「俗域」(現世/うつしよ)を分ける結界の意味を持つようになったと言われていますが、注連縄は2匹の白蛇が絡み合う交尾を象ったものであり(注連縄の発祥地:白龍神社)、地(黄泉の国)の支配者である蛇に「死者の再生」の願いを込めたものとも考えらえています。キリスト教は天での再生(跳躍運動/昇天)を祈念しているのに対して、仏教は地での再生(回転運動/輪廻転生)を祈念している宗教と言えるかもしれません。因みに、バチカン博物館には「卍」と「X」が描かれている骨壺があるそうですが、「卍」は2匹の交合した蛇を抽象化した波状の連続紋が幾何学的に変化したものであるという説があり(東洋では「卍」はヒンドゥー教のヴィシュヌ神のシュリーヴァッツァ(胸毛)を起源とする説もありますが、非常にシンプルな文様なのでC.ユングが言う集合的無意識の「元型」と捉えることができるかもしれません。)、それが「X」や「十」に発展したと考えられています。そう考えると、キリストが背負う十字架は原罪の象徴である蛇をイメージさせるものであり感慨深いものがあります。閑話休題。その一方で、ヤマタノオロチ伝説(古事記上巻3日本書紀神代上など)には、八つの谷と八つの峰を覆い尽す八首八尾の大蛇(又は地と天の双方を支配する龍)「ヤマタノオロチ」が須佐之男命により退治されたという神話が伝えられていますが、川や山などの自然が人間に牙を向く「畏怖」を蛇に化体して表現したものと考えられています。また、安珍・清姫伝説(本朝法華経記の紀伊國牟婁群悪女道成寺縁起など)には、奥州白河の若僧・安珍が熊野詣に向う途中で仮宿をとった家の娘・清姫に見染められますが、安珍は仏に帰依する身の上から清姫の好意を断ると(地元では安珍に弄ばれて裏切られたとも)、清姫は蛇体になって安珍の後を追い、道成寺の梵鐘の中に隠れていた安珍を焼き殺すという悲劇が伝えらえており、女の情念が渦巻く「畏怖」を蛇に化体して表現したものと考えられます。なお、本朝法華経記が書かれた平安時代は夜這いなどが横行する性に奔放な時代であったことから、全国から熊野詣に訪れる男達が旅先で地元の若い女性達を辱しめることなどがないように創作された伝説のようにも感じられます。この安珍・清姫伝説を題材として能「道成寺」(観世信光作)が創作され、これを元にして人形浄瑠璃「日高川入相花王」(竹田小出雲作)や歌舞伎「京鹿子娘道成寺」(近松門左衛門作)なども創作されています。能「道成寺」では蛇体に変身した清姫が鱗文様(正三角形又は二等辺三角形の連続紋)の能装束を身に着けますが、この鱗文様の衣装は能「葵上」の六条御息所や歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」の白拍子花子など女の情念から蛇体、鬼や怨霊に変身したものが身に着ける衣装として使われています。上述の三輪山など円錐形(三角形の鱗文様)の山は蛇がトグロを巻いた姿に似ていると言われていますが、古来、日本では蛇が悪霊を退ける霊力を備えていると考えられていたことから蛇の霊力を身に纏う憑依の文化があって蛇を抽象化した三角形の鱗文様が着物などにあしらわれ、また、死装束の三角巾を身に着ける習俗も生まれたと言われています。この何者かの霊力を身に纏う憑依の文化は、現代のデジタル社会にも「バ美肉」として花開いており、「バ美肉おじさん」(主に中高年の男性プレーヤー)がバーチャル世界で美少女アバターを受肉すること(即ち、バ美肉おじさんがリアル世界で美少女アバターの魂に憑依されること)により人生を着せ替えて(=蛇の脱皮)、何人もの異なる人生を生きること(壱人両名)が可能な時代になっています。この背景には歌舞伎や人形浄瑠璃の女形など日本の文化的な素地があることも指摘されていますが、リアル世界のシガラミやストレスなどから解放されて全く異質の世界観に没入してしまう麻薬的な魅力からディープな人気になっているようです。これまで「畏怖」の象徴とされた蛇に代表される化物はネガティブ・マインドのもの(陰)が殆どでしたが、現代の「カワイイ」の象徴とされる美少女アバターに代表される化物はポジティブ・マインドのもの(陽)として社会に認知されており、陰翳礼讃とは異なる日本人の美意識の発現として注目されます。
 
▼蛇(多神教)と太陽(一神教)
宗教 環境変化 信仰対象 舞踊
多神教 湿潤化
(農耕)
女神 回転運動
一神教 乾燥化
(牧畜)
男神 太陽 跳躍運動
※農耕は作物の恵みを地(多神教)に祈ることを信仰の基調とする一方、牧畜は獲物の恵みを天(一神教)に祈ることを信仰の基調としています。また、それを祈るための舞踊として農耕は地へアピールするための回転運動(水平運動)を基調とする一方、牧畜は天へアピールするために跳躍運動(垂直運動)を基調として発展しました。
※蛇は地の支配者(女神)を象徴するものとして信仰の対象になっていましたが、縄文時代には同時に男性器の象徴としても捉えられていたと考えられており、両性具有の美を体現する多面的な性格を帯びていたと考えることができるかもしれません。
 
▼多神教と一神教の世界観
宗教 思想 世界観
多神教 調和 ユニゾン 動物が人間に変身 寛容
一神教 支配 対位法 人間が動物に変身 不寛容
※一神教では他の宗教は邪教として排除する不寛容な教ですが、多神教はすべての神に対して寛容であるという特徴があります。
※多神教では人間と自然が調和すること(神人合一、即身成仏、自然尊重主義など)を基調とする一方、一神教では人間が自然を支配すること(福音信仰、人間中心主義など)を基調としています。このため、多神教では自然との調和(共生)の文化として動物が人間に変身することを観念することができますが、一神教では動物が人間(神の似姿)に変身すること(アンドロポモルフィズム)は観念できず、人間が動物に変身すること(テリオモルフィズム)しか観念できませんが、これは神の秩序から逸脱して悪魔、魔女、異端に化身すること(即ち、これらの象徴としての蛇に化身すること=邪教に改宗すること)を意味しており、僅かに吸血鬼や狼人間などの例しか見られません。
 
 
▼歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」
【演目】歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」
【原作】中島かずき
【演出】いのうえひでのり
【出演】ライ役 松本幸四郎
    サダミツ役 尾上松也
    ツナ/オボロヒ役 中村時蔵
    シキブ/オボロミ役 坂東新悟
    キンタ役 尾上右近
    シュテン/オボロツ役 市川染五郎
    アラドウジ役 澤村宗之助
    ショウゲン役 大谷廣太郎
    マダレ役 市川猿弥
    ウラベ役 片岡亀蔵
    イチノオオキミ役 坂東彌十郎  ほか多数
【演奏】ミュージシャン
     <Gt>岡崎司
     <Key>松崎雄一
     <Bs>福井ビン
     <Dr/Pr>グレイス
     <尺八、ティンホイッスル、イリアンパイプ>金子鉄心
     <唄、三味線、太鼓>木津かおり
    竹本連中
     <浄瑠璃>竹本東太夫、竹本翔太夫
     <三味線>鶴澤公彦、鶴澤翔也
    鳴物
     田中傳一郎、田中源一郎
     望月太左一郎、望月太喜十朗
     田中傳十郎、藤舎武史
    部長 田中傳左衛門
【美術】堀尾幸男
【照明】原田保
【衣装】竹田団吾
【音楽】岡崎司
【作曲】鶴澤慎治
【作調】田中傳左衛門
【音響】井上哲司
【映像】上田大樹  ほか多数
【日時】2024年11月30日(土)~12月26日(木)
【会場】新橋演舞場
【一言感想】ネタバレ注意!
2007年に市川染五郎(現、松本幸四郎)と劇団☆新幹線がW.シェイクスピアの歴史劇「リチャード三世」、「マクベス」と日本古来の物語「酒呑童子伝説」(源頼光と家臣である四天王が大江山に住む鬼神・酒呑童子を退治する伝説)を融合した舞台「朧の森に棲む鬼」(現代劇)が上演されて好評を博しましたが、その舞台が歌舞伎NEXT(現代歌舞伎)として甦ります。W.シェイクスピアの歴史劇「リチャード三世」は薔薇戦争(ランカスター家とヨーク家の王位継承争い)によりヨーク家が勝ち取った王位をリチャード三世が悪逆非道な手段を尽くして奪うというピカレスクの傑作ですが、エドワード三世を血脈とする一族内に渦巻く傲慢や復讐心を圧倒的な悪(欲望)で滅ぼし、最後はその悪(欲望)に自らの身も滅びる(現在のイギリス王室はボーズワースの戦いでリチャード三世を破ったリッチモンド伯エドマンド・テューダーの子孫)という爽快な悪漢芝居が人気です。プロモーションによれば、歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」の主人公ライは酒呑童子よろしく世の中の不条理が生み出した略奪などを繰り返す悪党ですが、朧の森に棲む魔物(人間の心の闇のメタファー)に唆されてリチャード三世よろしく権力欲に目覚めて悪逆非道の限りを尽くして王位を略奪し、やがて欲望に支配されたライは鬼と化すというプロットのようです。歌舞伎を鑑賞した後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、歌舞伎の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
―――>追記
 
近年、片岡愛之助松本幸四郎尾上松也などの新世代の歌舞伎役者の活躍により革新目覚ましい歌舞伎界ですが、その潮流を主導する歌舞伎NEXTは松本幸四郎らが仕掛ける歌舞伎(伝統劇)と劇団☆新幹線(現代劇)を融合して歌舞伎を新たなステージへと革新する企画公演で、2015年に公演されて話題になった歌舞伎NEXT「阿弖流為」に続く第2作目として歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」がリリースされました。上記で触れたとおり歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」はW.シェイクスピアの歴史劇「リチャード三世」、「マクベス」と日本古来の物語「酒呑童子伝説」を題材にして創作されていますが、後掲表のとおり舞台設定が対照されています。また、歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」はプロット(イギリスと日本の融合)だけではなく音楽も多様なものになっており、歌舞伎音楽、アイルランドの民族音楽、ロック、義太夫節、民謡やポップスなど国境、ジャンルや時代を超えて音楽を融合する意欲的なもので、非常に斬新に感じられました。なお、現在、歌舞伎NEXT「朧の森に棲む鬼」は他日公演がありますが、以下の感想ではネタバレしていますので、これから鑑賞される方はご注意下さい。
 
【第一幕】
 
第1場(戦場)
乱世、覇権を目指すエイアン国は山の民であるオーエ国に軍事侵攻して激しい戦闘が行われていますが、それを横目に主人公のライ(松本幸四郎)と弟分キンタ(尾上右近)は落ち武者刈りを行っている場面。舌(嘘)を武器にするライと剣を武器にするキンタが登場し、朧の森には人々の欲望を引き寄せる魔物が棲むという伝説について語ります。本日の舞台の引幕には障子を連想させる格子状の透過スクリーンが採用され、朧の森を連想させる鬱蒼と茂る木立の影絵とサウンドスケープがこの作品の世界観に誘う演出効果を上げていました。また、この場面では三味線、太鼓やエレキギターなどの楽器を使用して歌舞伎音楽(和)とロック(洋)を融合した音楽が演奏され、現代邦楽の成果が存分に活かされた完成度の高い音楽を楽しめました。
 
第2場~第4場:3つの契り
 
第2場(朧の森)
ライが朧の森に分け入ると3人の「朧の魔物」(光、水、闇に化身であるオボロ、オボロ、オボロ)が現れてライの生き血を代償としてライの王位に就きたいという欲望を叶えると誘うと、ライは「俺が俺に殺される時」に俺の生き血を差し出すという条件で朧の魔物と契りを交わし(1つ目の契り)、朧の魔物はライの舌のように自在に動く「朧の剣」(妖刀)をライに授ける場面。透過スクリーンに朧の森に舞う3人の魔物と陰囃子が映し出され、ライが陰囃子に合わせてリズミカルに語るラップ調の言立てが聴き所になっていました。ライの偽りの舌のように自在に動く朧の剣とは人を刺す嘘を象徴するものですが、K.リヒターがJ.S.バッハのマタイ受難曲第35曲のテノール・アリア「忍べよ,忍べよ,偽りの舌われを刺す時」で人を刺す嘘(偽りの舌)をさながら剣先(舌先)のようなチェンバロの鋭角な響きを利用して表現し、劇的な効果を挙げた演奏を思い出します。
 
第3場(オーエ国)
ライは朧の剣でエイアン国の四天王であるヤスマサ将斬を斬殺し、ヤスマサ将軍の懐中からエイアン国の四天王で妻のツナ将軍に宛てた書簡(その書簡にはヤスマサ将軍がエイアン国を裏切ろうと考えている胸中が吐露されている)を奪ってヤスマサ将軍に成り済ましたライはオーエ国の党首シュテン(市川染五郎)にエイアン国を裏切って内部を攪乱することでオーエ国に勝利に導くと持ち掛け、ライ(偽ヤスマサ将軍)とシュテンは「血の人形の契り」(2つ目の契り)を交わしてライがオーエ国から裏金を騙し取る場面。ライ(偽ヤスマサ将軍)が現代のオレオレ詐欺やフィッシング詐欺と重なって、ライの中に現代人の影が見え隠れしています。なお、血の人形の契りとは人形にお互いの血をつけて誓いを立て、この誓いを破ると人形の呪いで本人に危害が及ぶというもので、熊野牛王神符の誓詞と藁人形の呪いが組み合わされたものです。この場面の音楽ではアイルランドの民族楽器であるイリアンパイプが使用されており、独特の音響(笙に近い音響)が舞台を支配し、音が拓く世界観を堪能できました。この舞台ではアイルランドの民族楽器であるティンホイッスルも使用されていますが、今月、中世のアイルランド音楽とクラシック音楽、コンテンポラリー音楽を融合し現代的にアレンジして聴かせる合唱団「アヌーナ」が来日しますので、日本(歌舞伎)からアイルランドの伝統(アイルランドの民族音楽)へのアプローチと、アイルランド(合唱)から日本の伝統(今回の来日公演では能楽)へのアプローチを楽しめる良い機会になります。
 
第4場(エイアン国:ラジョウ市場)
ライとキンタはエイアン国の首都にあるラジョウ市場で盗賊の親分マダレ(市川猿弥)と出会い、エイアン国の四天王で検非違使庁長官(警察庁長官)のツナ将軍を始末しようと義兄弟の契り(3つ目の契り)を交わす場面。シュールな舞台セットと奇抜な衣装が目を惹き、リズミカルな民謡に合わせて日本舞踊が舞われました。この場面の音楽ではシタールのような響きがする異国情緒漂う楽器が使用されていましたが、エレキシタールが使用されていたのかもしれません。マダレを演じる市川猿弥が大きな芝居で道を極めた極道振りを好演していましたが、ライを演じる松本幸四郎の狡猾で道から外れた外道振りとの悪の対比も面白く感じられました。
 
第5場~第6場:4つの嘘
 
第5場(エイアン国:宮中)
エイアン国の国王オオキミ(坂東彌十郎)と愛人シキブ(坂東新悟)、エイアン国の四天王のサダミツ将軍(尾上松也)、ツナ将軍(中村時蔵)及びウラベ将軍(片岡亀蔵)は、エイアン軍がオーエ軍に惨敗し、エイアン軍の兵士に成り済ましたライからヤスマサ将軍が名誉の戦死を遂げたという嘘の報告(1つ目の嘘)を受ける場面。国王オオキミと愛人シキブの暗愚振り、サダミツ将軍とツナ将軍の対立などの物語設定が行われ、エイアン国が一枚岩ではなくその基盤が脆弱であることが印象付けられました(ヤスマサ将軍がエイアン国を裏切ろうと考えた動機か?)
 
第6場(エイアン国:偽りの舌)
ライはヤスマサ将軍から奪ったツナ将軍宛の書簡を小細工し、エイアン国に裏切り者がおりツナ将軍の命を狙っていると嘘の報告(2つ目の嘘)を行って疑心暗鬼に陥れ、ツナ将軍に上手く取り入って検非違使(警察官)に取り立てられました。また、ライは国王の愛人シキブにヤスマサ将軍がシキブに想いを寄せていたと嘘の報告(3つ目の嘘)を行って近付きます。さらに、ライは密偵アラウドウジはライと盗賊の親分マダレがグルであるとサダミツ将軍に密告したことを逆手に取ってヤスマサ将軍の書簡にあった裏切り者とはサダミツ将軍のことでツナ将軍の暗殺を企てているという逆賊の汚名を着せて(4つ目の嘘)斬殺する場面。ライはヤスマサ将軍が名誉の戦死を遂げたという嘘話をシキブに語り、シキブはヤスマサ将軍への想いがライへ乗り移って恋に落ちますが、ライとシキブの睦み合う姿はまるで文楽人形を見ているような幻想的な美しさを湛え、命を削る情念や身を焦がす色艶が立ち込める情緒纏綿とした義太夫節に僕のハートもハッキングされてしまいました。ワックスで磨いた表面的な光沢とは異なる長年軽石で磨き上げた底光りが感じられる至芸に圧倒されましたが、言霊とはこのような力のことを言うのかもしれません。
 
第7場~第10場:6つの裏切り
 
第7場(エイアン国;ライ将軍の誕生)
ライは盗賊の親分マダレとの義兄弟の契りを裏切って(1つ目の裏切り)、マダレの手下を捕らえながら検非違使として手柄を立てエイアン国の将軍に成り上がる場面。ロックが流れるなかを、ライがマダレの手下を次々に捕らえる捕物劇が展開され、お約束の「だんまり」の場面も差し挟まれましたが、些かマンネリズム(捕物=だんまり)の憾みがあり、もう少し演出上の工夫があっても良かったかもしれません。
 
【第2幕】
 
第8場(エイアン国:ツナ将軍の部屋)
ツナ将軍はライがヤスマサ将軍を斬殺する悪夢(正夢)を見てライに疑心を抱き始めるものの、ライから言い寄られると女心が揺らいで自分の秘密(ツナ将軍の一族には武門の証として腕に蛇の入れ墨があることや幼い頃に兄と生き別れて妹の自分が家を継いだこと)を明かしてしまう場面。ツナ将軍が悪夢を見るシーンでは透過スクリーンを効果的に使った演出が目を惹き、また、中国の民族楽器である古琴のような響きがする楽器(使用楽器がよく分かりませんでしたが、エレキギターのエフェクター?)とコーラスによる中国の伝統音楽を思わせる異国情緒漂う音楽が奏でられ、非常に印象的な場面になっていました。
 
第9場(オーエ国)
ライは悪巧みを思い付いて盗賊の親分マダレに腕に蛇の入れ墨を入れておくように頼んでオーエ国へ向います。ライはオーエ軍と戦闘中のウラベ将軍を裏切って斬殺し(2つ目の裏切り)、オーエ国の党首シュテンから厚遇で迎えたいという申出を受けますが、オーエ国の本国がエイアン軍に攻め落とされたという報告を受けたシュテンはライに謀られたことを悟り(3つ目の裏切り)、血の人形の契りの報いとして人形の目を衝きますが、ライではなく弟分キンタの目が見えなくなり、ライは自分の血ではなくキンタの血で血の人形の契りを交わしたことを告白し弟分のキンタまで裏切っていたこと(4つ目の裏切り)を明かす場面。歌舞伎音楽とロックを融合した音楽が流れるなかを、ライはマダレにオーエ国への出陣はオーエ国の金鉱を奪取することが目当てなので合戦ではなく悪巧みをしに行くのだと本心を語り、その欲望のために次々と仲間を裏切る悪漢振りはピカレスクの見せ場になっていました。
 
第10場(エイアン国:宮中)
エイアン国は戦勝報告に沸いていましたが、ライは愛人シキブを唆して国王オオキミを毒殺させ(5つ目の裏切り)、さらに、ライはシブキにオオキミ殺しの嫌疑をかけて殺害し(6つ目の裏切り)、エイアン国の国王に就任しようとする場面。シブキが別れの和歌を詠むとシキブの移り気を悟ったオオキミは浮かれ女として浮名を流すのも良いがライだけは止めておけと忠告するシーンやツナ将軍が国王の喪明けまでライの王位就任を待つように忠告にして時間稼ぎをするシーンで奏でられる音楽には、筝や琵琶のような響きがする楽器が使用されていましたが(使用楽器は分かりませんでしたが、エレキギターのエフェクター?)、上述のとおりこの作品では多様な楽器(又はその音響)を使用しながら国境、ジャンルや時代を超えて音楽を融合する斬新な試みが随所に感じられて耳でも楽しむことができる舞台になっていました。
 
第11場:3つの真
 
第11場(エーアン国:地下牢)
ツナ将軍は地下牢に幽閉されているオーエ国の党首シュテンからヤスマサ将軍を斬殺したのはライでありライがエイアン国に嘘の報告をしていたことを聞き出してライへの復讐を決意しますが(1つ目の真)、ライは盗賊の親分マダレの腕には蛇の入れ墨がありツナ将軍の兄であると告げて復讐を思い留まらせようとします(5つ目の嘘)。また、ライはヤスマサ将軍がエイアン国を裏切ろうとしていたこと(2つ目の真)を告げるとツナ将軍は自刃しようとしますが、マダレは腕にある蛇の入れ墨は幼い頃からあったものでツナ将軍の実兄でることを告白してツナ将軍の自刃を止め(5つ目の嘘から転じた3つ目の真)、シュテンが犠牲になってツナとマダレを逃がす場面。これまでの場面は「」と「欲望」に彩られていましたが、この場面では「」と「犠牲」が逆転して物語が大きく転換します。朧の剣による殺陣のシーンでは照明による演出効果により舞台に迫力を生んでいました。
 
第12場:2つの裏切り・・・
 
第12場(朧の森)
ツナ将軍と盗賊の親分マダレの手下、オーエ軍の残党から構成される連合軍はライが率いるエイアン軍と決戦になり、これを撃退します。ライは「俺が俺を殺さない限り死ぬことはない。」と朧の森に逃げますが、これまでライの欲望の犠牲になった人達の亡霊に取り憑かれ、朧の魔物からライの生き血を差し出す契りを果たすように迫りますが、ライは朧の魔物も裏切り鬼になって逃げ去る(7つ目の裏切り)場面。シェイクスピアの「リチャード三世」ではリチャード三世がボズワースの戦いでリッチモンド伯に破れて惨殺されますが、この作品ではライは他人を破壊することでしか自己を実感できない存在として朧の魔物すら裏切り鬼と化して逃げ延びる(鬼となったライが真っ赤な舌を出しながらワイヤーで1階席から3階席へ飛び去る)圧倒的な悪漢振りで、第11場で「嘘」と「欲望」が「真」と「犠牲」に敗れると予感していた顧客の期待まで鮮やかに裏切って(8つ目の裏切り)ピカレスクロマンの真骨頂を行くストーリー展開になっており、朧の森(心)に棲む鬼(欲望)はいつまでも絶えることはなく、人間の業の深さを印象付ける作品になっていました。最後は鬼と化したライですが、弟分キンタのために手心を加えるシーンもあり、また、他の登場人物も正義(善)と不正義(悪)を裏腹に抱えている矛盾した存在であるとも言え(その意味で、実社会でよく見かけるような小悪党がライという大悪党に滅ぼされるという一種の痛快さもあり)、ロシアによるウクライナ侵攻、ハマスによるイスラエル越境攻撃、イスラエルによるガザ侵攻やこれらに対する諸外国の対応などを見ていると、正義(善)と不正義(悪)は国家や人々の事情や都合などによって変わり得るオセロのコマのような相対的なもの(認知バイアス)であることを思い知らされ、人間が正義(善)を高らかと唱えるときが最も危険であると言えるかもしれません。
 
なお、最後に全般について、エンターテイメント性を重視したものなのか舞台展開が忙しなく色々と盛り込み過ぎている嫌いがあり、もう少し見せ場を絞った方が芝居に没入できるような気がします。また、これは個人的な嗜好の問題かもしれませんが、あまりクスグリ笑いに走ると陳腐な印象から厭きがくるので、芸の妙味やウィットで大人の笑いをとることを指向して貰いたいと感じます。古典劇としての歌舞伎とは異なる魅力を創造する歌舞伎NEXTの次回作にも期待しています。
 
▼舞台設定の対照
本作の設定 原作の設定
エイアン国 リチャード三世 ヨーク家
オーエ国 ランカスター家
オーエ国 酒呑童子 大江
ライ(嘘=Lie
キンタ(ライの弟分) 坂田金時(金太郎)
サダミツ将軍 薄井貞光
ツナ将軍 渡辺
ウラベ将軍 卜部季武
三人のマホロの魔物 マクベス 三人の魔女
マダレ(盗賊の親分) 今昔物語集
宇治拾遺物語
平安の大盗賊の袴垂
※道長四天王の1人・藤原保昌の弟・藤原保輔が盗賊に落ちぶれた説あり
シキブ(国王の愛人) 和泉式部
※道長四天王の1人・藤原保昌の妻
 
 
▼アヌーナ特別公演「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~
【演題】アヌーナ特別公演「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~
【演目】第一部 「アヌーナ」と「雪女」の神秘
    ①ドキュメンタリー映画「ビハインド・ザ・クローズド・アイ」
      <監督>マイケル・マクグリン(アヌーナ芸術監督)
    ②「雪女物語」絵と語りとチェロ
      <絵>伊勢英子
      <Vc>坂本弘道
      <語り>中井絵津子
      <構成>川島恵子
    ③講演「小泉八雲、「雪女」をめぐる物語」
      <講師>小泉凡(小泉八雲曾孫)
    第二部 「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~
    ④合唱団「アヌーナ」のコーラス(演目不詳)
    ⑤「雪女」の幻想
      <作曲>マイケル・マクグリン
      <原作>小泉八雲
      <コーラス>マイケル・マクグリン
            アンドリュー・ブーシェル
            キーアン・オ・ドンネル
            ライアン・ガーナム
            ダヒー・オ・ニューノイン
            ノア・タイス
            ジョナサン・レイノルズ
            エロディ・ポーン
            アシュリン・マクグリン
            ポリーン・ラングワ・ドゥ・スワートゥ
            サラ・ディ・ベッラ
            ローナ・ブリーン
            サラ・ウィーダ
            ローレン・マクグリン
            ルーシー・チャンピオン
      <能楽師>津村禮次郎
      <笙>東野珠実
      <大鼓>柿原光博
      <舞台監督>串本和也
      <音響>田中裕一
      <照明>藤原昭三
      <絵>伊勢英子
      <美術>OLEO
【日時】2024年12月7日(土)14:00~、17:30~
【会場】すみだトリフォニーホール
【一言感想】
前回のブログ記事でも触れましたが、中世アイルランドの伝統音楽とクラシック音楽やコンテンポラリー音楽などを融合して現代的にアレンジした合唱曲などを歌う合唱団「アヌーナ」が来日します。合唱団「アヌーナ」は2017年に来日した際にW.イエーツの戯曲「鷹の井戸」を題材に能と合唱とを融合したケルティック能「鷹姫」を上演して大変に話題になりましたが(同じくW.イエーツの戯曲「鷹の井戸」を題材にした坂本龍一さんと高谷史郎さんの舞台「LIFE-WELL」も秀逸)、今回は小泉八雲(ギリシャ系アイルランド人で日本に帰化したラフカディオ・ハーン)の怪談「雪女」を題材にして能の舞と合唱を融合した「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~が上演される予定になっています。また、この公演との併催として、アイルランドの詩人フランシス・レッドウィッジさんの詩にインスピレーションを受けて作曲活動を行うアヌーナの音楽監督を務めるマイケル・マクグリンさんがアイルランドの豊かな大自然を撮影し、その大自然にルーツを持つ合唱団「アヌーナ」の音楽性を伝えるドキュメンタリー映画の上映、絵本作家の伊勢英子さんの「雪女」のイラストを特別上映する音楽朗読劇の公演、小泉八雲曾孫の小泉凡さんによる「雪女」に関する講演が予定されており注目されます。この点、北欧地域にはノルド神話のスカジや冬の女神のカリアッハベーラなど冬、氷や雪などを司る女神、妖精や精霊などに関する伝説があり、また、日本にも古くから妖怪の雪女に関する伝説がありますが、これらの伝説には上述のとおり多神教(アイルランドではドルイド教、日本では神道や仏教)の世界観が持つ自然(地を支配する女神)に対する信仰と畏怖の二面性が彩る豊かなイマジネーション(C.ユングが言う集合的無意識の「元型」と捉えることができるかもしれないもの)が現れているように感じられ、非常に興味深いです。舞台を鑑賞した後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、舞台の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
―――>追記
 
第一部 「アヌーナ」と「雪女」の神秘
 
①ドキュメンタリー映画「ビハインド・ザ・クローズド・アイ」(2023年)
アイルランド詩人フランシス・レッドウィッジさんの詩にインスピレーションを受けたアヌーナ音楽監督で作曲家のM.マグクリンさんがアルスター管弦楽団と共演したアルバム「ビハインド・ザ・クローズド・アイ」に収録されている音楽を基に、その音楽の源泉となったアイルランドの美しい大自然と関係者のインタビューを交えたドキュメンタリー映像が放映されました。冒頭、アルバムに収録されている音楽と共に、アイルランドの美しい映像、サウンドスケープと楽譜がオーバーラップされたミュージックビデオが映し出されましたが、M.マグクリンさんが音楽を作曲するにあたり着想を得た景色を目の当たりにすることで音楽と自然の強い結び付きを統合的に認知できるようになり音楽のイメージが豊かに広がって行くのを感じました。過去のブログ記事でも触れたとおり、人間はミラーニューロンの働きにより他人の体験を追体験することで他人の心理、意図や文脈などを推測して共感(反感や不感を含む)するものなので、聴衆が作曲家の固有な体験を追体験し易くする古くて新しい工夫ではないかと思われます。このミュージックビデオは聴衆をマウントしてくる押し付けがましさや聴衆を煙に巻く取っ付き難さなどはなく、さながらアイルランドの風に吹かれているような自然と共鳴する優しい音楽が聴衆に寄り添ってくる心地良さがあり、聴衆が作曲家の表現意図を探りながら共感するエンパシー(排他性)というよりも、聴衆が自らのプロジェクションを音楽に投射しながら共感するシンパシー(包摂性)を促すもの(世阿弥の言葉を借りれば「その風を得て心から心に伝ふる花」のようなもの。※「風」とはWindのことではなくミラーニューロンの働きにより感じられるMindのこと)であり、過去のブログ記事でも触れましたが、多様性の時代を背景として「聴衆の感性や美意識、想像力や知性を尊ぶ」(能楽師・山本東次郎さんの名言)、即ち、聴衆の主体性を尊重するポスト・クラシカのような懐の広い音楽性を持ったものに感じられました。アイルランドの伝統音楽はケルト文化やドルイド教(多神教)の影響があり、日本の伝統芸能も神道や仏教(多神教)の影響がありますので、それぞれの文化には多神教的な価値観や自然観などを基層とする共通点が多いように感じられます。
 
②「雪女物語」絵と語りとチェロ
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談「雪女」を台本(ケルト音楽の普及に尽力されている主催の川島恵子さんの構成及び訳)として、スクリーンに絵本作家の伊勢英子さんの絵本「雪女」のイラストが映し出され、銅版画家・中井絵津子さんの語りと作曲家兼チェリストの坂本弘道さんの音楽による音楽朗読劇が上演されました。怪談「雪女」は誰もが知る有名な話なので筋書は追いませんが、スクリーンには淡い筆致で描かれた幻想的なイラストが映し出され、その現実とも幻想ともつかない間(あわひ)を紡ぐ精妙な風趣によって俗界(現実)と異界(幻想)が重なり合う怪談「雪女」の世界観へと誘われました。音楽は坂本さんが作曲されたものだと思いますが、チェロとエレクトロニクス(又はエフェクター)を使ってイラストに情感や空気感などを添えて行く多彩な音楽に魅了されました。ピッチカートでギターや琵琶を連想させる独特な音響を生み出しながら雪女の美しさに対する巳之吉の憧憬感を表現する叙情的な音楽や雪女の残酷さに対する巳之吉の恐怖心を表現する緊張感のある音楽など巳之吉の複雑な心情が音楽で雄弁に物語られていました。また、生音(俗界)と録音(異界)を使ったアンサンブルでは茂作を殺した雪女(異界が俗界にもたらす災厄)に対する巳之吉のやり場のない憤りやチェロとエレクトロニクスによるロングトーンで笙(又は篳篥)を連想させる独特の音響を生み出しながら揺蕩う音型やグリッサンドで俗界と異界の間(あわひ)を彷徨う雪女の異様な雰囲気が巧に表現しており、巳之吉が雪女との約束を破ったことで霞と消えるお雪の存在の二重性(俗界のお雪、異界の雪女)を重音で表現するなど非常に着想が豊かな劇性に富んだ音楽が出色でした。先年のコロナ禍では南北の格差解消のために北半球の資本を南半球に投入して急速に開発を進めたことで自然界に存在していた未知のウィルスが人間界に侵入し易くなったことが原因の1つに挙げられていましたが、怪談「雪女」は怪談という体裁を借りながら人間が自然の奥深くに分け入りその欲望のままに自然を破壊し続けてきたことに対する自然からの警告であり、自然を尊重し調和するように心掛けなければならないという人間に対する戒めではないかと思われ、その意味では世代間に受け継がれている怪談を含む民話は人類のナレッジ・バンク(教養、集合知)として機能しているのではないかと思われます。また、後述のとおりL.ハーンは幼少期に母親に捨てられた経験があることから、雪女の口をして巳之吉に子供達を不幸にしてはならないことを語らせているのかもしれません。現代でも子供が被害となる痛ましい事件が後を絶ちませんが、怪談「雪女」は現代人に対するメッセージ性を多分に含んだ作品と言えます。
 
③講演「小泉八雲、「雪女」をめぐる物語」
小泉八雲(L.ハーン)の曾孫で小泉八雲記念館の館長である小泉凡さんから小泉八雲の人生と怪談「雪女」に関する講演がありました。最初にL.ハーン(小泉八雲)の略歴が紹介されました。L.ハーンは1850年に誕生し、程なくして父親はインドへ単身赴任になり母親とアイルランドで暮らすことになりましたが、1854年に母親が精神疾患に陥り母国のギリシャへ帰国してしまったことから父親方の大叔母にアイルランドで養育されました。L.ハーンは大叔母が厳格なクリスチャンだった反動からキリスト教を敬遠するようになり、その家に雇われていた乳母から妖精の話などケルト文化を吸収しながら育ちドルイド教に傾倒していったそうです。その後、父親が病死し、大叔母が破産すると、L.ハーンは1869年にイギリスを経由してアメリカへ移住しましたが、そこで知人から日本は文明社会に汚染されていない美しい国であるという話を聞かされたことを契機として1891年に来日し、松江の中学校で英語教師の職に就くと共に、L.ハーンの家で住み込み女中として働いていた小泉セツと結婚しました。その後、熊本、神戸と職を変え、1896年に東京帝国大学の英文学講師の職に就いたことを契機として日本に帰化し、名前を小泉八雲に改めました(名前の八雲は出雲国の枕詞「八雲立つ」に由来)。L.ハーンは1903年に東京帝国大学を退職し、1904年に「KWAIDAN」を出版しましたが、その後間もなく永眠しました(享年54歳)。小泉凡さんによれば、1893年にL.ハーンが日本研究家・B.チェンバレンに宛てた手紙で初めて雪女のことに触れているそうですが、東京都青梅市千ケ瀬町(東京都八王子市楢原町の可能性も指摘されていましたが)に伝承されていた異類結婚譚を再話した可能性が高いと考えられ、それを基にして東京都新宿区大久保の自宅で小林セツの協力を得ながら「KWAIDAN」を執筆したそうです。また、小泉凡さんによれば、1901年にL.ハーンがアイルランド詩人のW.イェイツに宛てた手紙で自然と向き合うことの大切さに触れているそうですが、雪女は自然のメタファーであり自然を支配の対象と捉える人間中心主義的な傲慢さに対する警告ではないかという趣旨のことを語られていたことは正しく慧眼であり、怪談「雪女」は現代人の教養を育む現代的なテーマ性を多分に備えた作品に感じられました。なお、2025年度後期の連続テレビ小説(朝ドラ)では、小泉八雲(L.ハーン)の妻である小泉セツ(小泉凡さんの曾祖母)をモデルにしたドラマ「ばけばけ」が放映される予定になっているそうなので、今から楽しみです。怪談「雪女」はオペラ「雪おんな」にも翻案されているようですが、是非、朝ドラでも採り上げられる機会に再演を期待したいです。
 
第二部 「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~
 
④合唱団「アヌーナ」のコーラス(曲目不詳)
パンフレットには「コンサートではこの中から20曲前後が歌われる予定です。会場によって曲目・曲順が異なりますのでご了承ください。」と記載されていますが、老輩にはすべての曲目を覚えていられませんでしたので各曲毎の感想は割愛し、アヌーナの全体的な印象について簡単に触れておきたいと思います。アヌーナの音楽監督のM.マクグリンさんが「・・・我々はイギリスやドイツの古楽は歌うけど、アイルランドの古楽は歌っていないじゃないかと。・・これは現代の人々にも理解できるようにアレンジしたら人々の心を打つものができるのではないかと思ったんです。・・・それでアイルランドでは初となるプロフェッショナルなコーラス・グループを作ったのです。」とアヌーナを設立した動機を語ったうえで、「・・・アイルランドの古い楽譜をなんとか再現したかった。そのためには、オペラ的なベルカント唱法では無理だし、普通のポップスやフォークミュージシャンの発声法でもダメだと感じました。だから、歌う人それぞれの自然な声を活かし、響きを重視したハーモニーを創ったんです。同時に、世界中の民族音楽に残る発声法も研究して採り入れました。ヨーロッパでは廃れてしまった発声法が民族音楽の中に残っていると考えたからです。」とアヌーナの音楽性を語っていましたが、シルクのように柔らかく純度の高いアヌーナの奇跡のハーモニーは、このようにして生まれたものであることが理解できました。冒頭ではドイツ人女性で詩人兼作曲家のヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098~1178)が作曲した聖歌へのオマージュとしてM.マクグリンさんが作曲した聖歌「サンクトゥス」が歌われました。能舞台の橋掛り、本舞台、後座を意識してT字型に設えられた舞台をキリスト教会の祭壇に見立たて無数のローソクが立てられ、舞台照明が落とされるなかをローソクを灯した女性コーラスと男性コーラスが登場しました。サンクトゥス・ベルが鳴らされて聖歌「サンクトゥス」が歌われると会場は厳かな雰囲気に包まれました。バロック音楽のような装飾は施されず、ルネッサンス音楽を体現する長い音価が保たれた静謐なコーラスは全てを大らかに包み込む広がりのある響きを生むもので、その静謐なコーラスが静寂へと溶けて行く儚さや深遠さのようなものが愛おしく感じられるような極上のエンジェル・ボイスを堪能できました。なお、止むに止まれぬ思いからボヤいてしまいますが、日本人の拍手好きが祟ってミサの途中に拍手が起こり興を削がれましたが、歌舞伎でも「間」の良い掛け声は芝居を活かし、「間」の悪い掛け声は芝居を殺すのと同様に、(悪気はないとは思いますが)勇み足のような無粋な拍手で会場の空気を威勢よく壊してしまうご乱行は感心できず、静寂に心を澄ませる余裕やデリカシーのようなものを求めたいところです。もともと日本人には「岩にじみ入 蝉の声」を聴き分ける豊かな感性があったはずですが、誠に残念な状況です。その後、スクリーンにアイルランドの美しい大自然の映像が映し出され、M.マクグリンさんが作曲した音楽が歌い継がれて行きましたが、とりわけ柔らかいコーラスが幾重にも重なりながらアイルランドの山脈の稜線やアイルランドの風に撫でられる砂漠の風紋を表現する幻想的で美しい音楽に心を奪われ、さながら音楽を通じて自然に触れているような芸術体験が新鮮に感じられました。また、今日は日本人作曲家・光田康典さんが2018年に任天堂のゲーム「ゼノブレイド2」(人類が原罪によって追放された世界樹の上にある楽園を目指すという物語性があるゲーム)のために作曲し、アヌーナが歌を担当した「Shadow Of The Lowiands」(サウンドトラック)のギター編曲版も歌われましたが、近年、アヌーナはゲーム音楽などにも活動の幅を広げており、本日の公演でソリストを務めていたA.マクグリンさん(M.マクグリンさんの愛娘)は光田さんが音楽を担当したスクウェアのゲーム「クロノ・クロス:ラジカル・ドリーマーズ・エディション」(サウンドトラック)でもソリストとして参加し、2019年にNHK番組「のど自慢」にも出場した経験もあるそうですが(合格の鐘:ドシラソ・ドシラソ・ド・レ・ミが高らかに鳴らされたことに間違いありませんが)、まるで聖母マリアを思わせる慈愛に満ちた繊細な歌唱に魅せられました。
 
⑤「雪女」の幻想
小泉八雲(L.ハーン)の怪談「雪女」を題材にしてアイルランドの中世(アイルランドの伝統音楽)と日本の中世(能楽)を融合する幻想的な舞台に魅了されました。スクリーンには伊勢さんが描いた雪女のイラストが映し出され、大鼓の柿原光博さんと笙の東野珠美さんが舞台に向かって右側(切戸口)から入場し、また、舞台の両側(地謡座と見所の脇正面)に男性コーラスと女性コーラスが配置されました。笙の演奏に乗せてコーラスが歌われましたが、(音調は手間取るのかもしれませんが)笙は上記の歌舞伎公演で使われていたアイルランドの民族楽器イリアン・パイプに近い音響を持ち、笙の響きとコーラスの響きに親和性が感じられ、その神秘的な響きが雪女のイラストと重なって幻想的な舞台を作り出していました。やがてシテの津村禮次郎さんが能面(大向うに席に座っていたので何の能面をつけていたのか不明)をつけて白装束の衣被(異界の者が登場する場面などで能面が見えないように衣で頭を覆い隠す演出)で舞台に向かって左側(橋掛り)から登場しましたが、この場面で歌い添えられた純度の高い透明感のある女性コーラスが雪女の凍てつくような美しさをイメージさせるもので出色でした。また、シテが舞う場面では大鼓とコーラスという非常に珍しい組合せのアンサンブルが演奏され、正直に言ってしまえば、若干の違和感を禁じ得ませんでしたが(個人的なイメージでは、余白を生む大鼓、余白を彩るコーラスという性格の違いがあるように感じますが)、大鼓とコーラスがお互い干渉し合わないように間合や音量などに配慮したデリケートな演奏が聴かれました。シテはお雪を演じる場面ではピンクの装束、雪女を演じる場面では白の装束を身に着けていましたが、物語終盤でシテが白の衣装を身に着けて雪女を演じる場面では、舞台の前方で歌うコーラスが俗界、舞台の後方で演じるシテ、大鼓及び笙が異界を体現しているように感じられ、さながらコーラスは俗界と異界を結ぶワキのような存在として、コーラス(ワキの夢をイメージさせる幻想的な風趣)に彩られた幻想の世界の中でシテが謡い舞う俗界と異界が重なり合う幽玄の舞台が顕在しているように感じられて白眉でした。これまで能楽の革新的な舞台を色々と見物してきましたが、世阿弥とは異なるアプローチによって幽玄の世界観を見事に表現している舞台に目鱗でした。ヴラヴィー!
 
アンコールとして、さくらさくら、ダニーボーイ、ホリーナイトが歌われ、ホリーナイトではオーロラの映像が映し出されましたが、風にそよぐレースのカーテンのように柔らかく繊細に移ろうアヌーナのコーラスはオーロラのイメージそのものであり、淡い色彩を放ちながら空中に揺蕩っているようなイメージがあり、アイルランドの自然そのものがアヌーナの音楽性を育んでいることを体感できました。近年、世界各国で異常気象によるものと思われる自然災害に関するニュースが後を絶ちませんが、アヌーナの音楽は現代人が日常生活の中で触れることが難しい自然(人間が知覚できる環世界だけではなく、人間が知覚できないものを含む環境世界)を身近に感じ、自然を尊重し調和するための教養(心の豊かさ)を育むことができる現代人に必要とされる音楽ではないかと感じます。
 
 
▼オペラ「グラウンデッド」(メトロポリタン歌劇場)
【演目】メトロポリタン歌劇場
    オペラ「グラウンデッド」
【作曲】ジャニーン・テソリ
【台本】ジョージ・ブラント(戯曲「Grounded」に基づく)
【出演】ジェス役 エミリー・ダンジェロ(Mez)
    エリック役 ベン・ブリス(Ten)
    センサー役 カイル・ミラー(Bar)
    コマンダー役 グリア・グリムスリー(Bar)
【演奏】<Cond>ヤニック・ネゼ=セガン
    <Orch>メトロポリタン歌劇場管弦楽団
【美術】ミミ・リエン
【衣装】トム・ブロッカー
【照明】ケビン・アダムス
【映像】ジェイソン・H・トンプソン
    ケイトリン・ピエトラス
【音響】パーマー・ヘフェラン
【振付】デビッド・ニューマン
【助言】ポール・クレモ
【制作】マイケル・メイヤー
【日時】2024年12月13日~19日
【一言感想】ネタバレ注意!
稀代の名総裁・P.ゲルブさんのもとで改革が進むメトロポリタン歌劇場は、2016年にフィンランド人現代作曲家のカイア・サーリアホさんのオペラ「遥かなる愛」をメト初演したのを皮切りに、2018年に初めてアメリカ人現代作曲家のジャニーン・テソリ(1961年~)さん及びアメリカ人現代作曲家のミッシー・マッツォーリ(1980年~)さん(2026年にオペラ「バルドーのリンカーン」がメト初演予定)の2名の女性作曲家に新作オペラの作曲を委嘱しましたが、今回はそのうちの1作であるジャニーン・テソリさんのオペラ「グラウンデッド」がメト初演され、今般、日本でもその映像が公開されます。ジャニーソ・テソリさんは2015年にミュージカル「ファン・ホーム」(2013年世界初演)や2023年にミュージカル「キンバリー・アキンボ」(2021年)でトニー賞最優秀作曲賞を受賞され、2020年にアメリカの人種差別問題を扱ったオペラ「ブルー」で北米音楽批評家協会「ベスト・ニュー・オペラ賞」を受賞されるなど、多方面で活躍されている現在最も注目される現代作曲家です。近年、世界各地で自然災害により数多くの人々の命が失われ、その生活が奪われていますが、上述のとおり地の女神(=自然)は再生(与え)と破壊(奪う)の象徴とされており、このオペラの主人公・ジェスも母(再生の象徴)とドローン操縦士(破壊の象徴)の2つの顔を持ち、その狭間で葛藤する姿が描かれているようです。過去のブログ記事で人間が「憎」の感情を抱くときは「対象」を動物などに擬制することにより人間らしいイメージを払拭して「共感」の働きを抑制することにより「対象」への敵意や暴力を正当化する心理プロセスが働くと述べましたが、現代は「対象」を動物などに擬制するまでもなく遠隔地からモニターすることにより「対象」がバーチャルな存在(TVゲームなど)に擬制されてしまう時代ですが、プロモーションによれば、ジャスは母(再生の象徴)となって教養が磨かれ、豊かな知性を身に着けることによりモニターの向こう側に広がるリアルな存在(このオペラでは子を慈しむ親として同じアイデンティティを共有する人間性)に気付いて「憎」の感情を克服する姿が描かれているようであり、そう考えるとリアルとバーチャルのハイブリッドな世界に生きる現代人にとって深いテーマ性を備え、現代の時代性に共鳴するオペラと言えるかもしれません。オペラを視聴した後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、オペラの宣伝のために予告投稿しておきます。
 
 
オペラを視聴した後に時間を見付けて簡単に感想を書きます。
 
 
 
▼「笙|SHO」トーク+ミニコンサート
【演題】「笙|SHO」トーク+ミニコンサート
【演目】①中村華子 笙ミニコンサート
    ②「笙|SHO」トーク+ミニコンサート
【演奏】<笙>中村華子
【対談】石田多朗(作曲)、中村華子(笙)
    ささきえり(映像)、石尾一輝(監督)、青柳厚子(演出)
【日時】2024年12月15日(日)13:00~、14:00~
【会場】那須塩原市図書館みるる
【一言感想】
先日、エミー賞を受賞した映画「SHOGUN 将軍」のサウンドトラックが2025年2月に発表される第67回グラミー賞最優秀映像作品サウンドトラック部門作曲賞にノミネートされました。因みに、最優秀ニューエイジ・アンビエント・チャント・アルバム部門には坂本龍一さんの「Opus」もノミネートされています。このサウンドトラックは、ニック・チューバさん、アッティカス・ロスさん及びレオポルド・ロスさんが作曲を担当し、日本から石田多朗さんがアレンジャーとして参加して雅楽や日本の伝統音楽に関するアレンジやレコーディングなどを手掛けています。グラミー賞はノミネートされるだけも大変に名誉なことなので、心から祝意を述べたいと思います。その石田多朗さんが手掛ける最新作「陵王乱序|ANJO」が2025年1月(栃木)及び同3月(東京)に公演される予定がありますので、これは絶対に見逃せません。また、それに先立って12月3日、同4日、同15日に那須塩原市図書館みるるで石田多朗さんらによる「笙|SHO」の公開制作、トーク及びミニコンコンサートが開催される予定がありますので、こちらも見逃せません。12月3日、同4日は平日なので参加できませんが、同15日は休日なので久しぶりに那須塩原を満喫がてらことりっぷしてみようかと目論んでいます。楽しみ!来年に公演される「陵王乱序|RANJO」(僕は3月の東京公演に参加予定)の前哨戦として、「笙|SHO」の鑑賞後に簡単に感想を書いてみたいと思いますが、イヴェントの宣伝のために予告投稿しておきます。
 
 
鑑賞後に時間を見付けて簡単に感想を書きます。
 
 
 
▼新作オペラブームの到来(鳥羽山紗紀の新作オペラ「歌麿の恋」と永井秀和の新作オペラ「足立姫」と木下牧子の新作オペラ「陰陽師」)
メトロポリタン歌劇場が精力的に新作オペラの上演を行っており、日本でも昨年の新作オペラ「ニングル」や来年の新作オペラ「女王卑弥呼」及び新作オペラ「ナターシャ」、再来年の新作オペラ「奇跡のプリマ・ドンナ」など新作オペラを上演する機運が高まってきている状況を心から歓迎したいです。年内にははなさきオペラ工房が鳥羽山紗紀さんの新作オペラ「歌麿の恋」を世界初演し、路地裏寺子屋が永井秀和さんの新作オペラ「足立姫」を再演し、また、来年早々には東京室内歌劇場が木下牧子さんの新作オペラ「陰陽師」を世界初演するというので、日程の都合が付く新作オペラ「足立姫」と新作オペラ「陰陽師」の2公演を聴きに行く予定にしています。また、今回は都合がつきませんので聴きに行くことができませんが、来年にはNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」が放送されますので、新作オペラ「歌麿の恋」が再演される機会に恵まれることを強く願います。なお、【新年の挨拶②】で新年の抱負を書く予定にしていますが、来年は21世紀に創作された「新作」(その再演を含む)に価値を置いて集中的にキャッチアップして行きたいと考えています。
 
▼2025年度武満徹作曲賞ファイナリスト決定
2025年5月25日(日)に開催予定の武満徹作曲賞の審査員でオーストリア人現代作曲家のゲオルク・フリードリヒ・ハースさんによる譜面審査(33ヶ国137作品)の結果、以下の4名がファイナリストに選ばれました。おめでとうございます。これだけの応募作品を1人で審査するのは相当に大変ではないかと思いますが、世界中から数多くの作品が応募されていますので世界レベルの権威ある作曲賞と言えるのではないかと思います。その意味でファイナリストとしてノミネートされるだけでも大変に栄誉なことではないかと思います。
チャーイン・チョウ(中国) 潮汐ロック
我妻 英(日本) 管弦楽のための「祀」
金田 望(日本) 2群のオーケストラのための「肌と布の遊び」
フランチェスコ・マリオッティ(イタリア) 二枚折絵

女性と音楽研究フォーラム結成30周年記念「今、聴きたい女性作曲家たち」(女性作曲家を聴く・その10)と藝大プロジェクト2024第2回「日本が見た西洋音楽」と新作ミュージックシアター「Silver Mouth」(青木涼子、ジェイムス・ハリック/JOLT Arts)とイギリス歌曲リサイタル「ウィリアム・アダムス。またの名を三浦按針」と「疲」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼「疲」(ブログの枕)
11月1日は「いい医療の日」だそうですが、「医療」が目指す「健康」とはどのような状態を意味しているのかを紐解いて見ると、「健康とは、肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」(WHO憲章)という非人間的な定義が掲げられており、この定義に従う限り真っ当な社会生活を営む全ての人間は概ね不健康であるという帰結になりそうなのであまり参考になりません。この点、「病気を診る西洋医学、病人を診る東洋医学」と言いますが、それぞれの良い面を包含して「健康とは、病気その他の心身の異常がなく、心身の自然なバランスが保たれている状態」(医学の父・ヒポクラテス(BC400)の健康哲学/ヒポクラテス全集)という身の丈に合った再定義を心積もっておく方が地に足の着いた健康管理ができそうな気がします。一般的に、人間の「健康状態」には「健康」→「未病」→「疾病」の3段階があり、それに対する「医療」には「予防」と「治療」の2種類がありますが、「未病」及び「疾病」の予防(一次予防:健康管理)と「疾病」の治療(二次予防:疾病悪化の予防と三次予防:合併症の予防を含む)の各段階に応じて、「本人」(予防)から「医師」(治療)へと徐々に比重がシフトして行きます。ここで「未病」という概念は中国最古の医学書「黄帝内経」(AD200)において病気に向かう状態(疾病には至らないが健康からは離れつつある状態)として登場し、それが貝原益軒の健康法「養生訓」に採り入れられていますが、自覚症状はないが検査では異常がある西洋型未病(例えば、高血圧や高コレステロールの生活習慣病など)と、自覚症状はあるが検査では異常がない東洋型未病(例えば、三大生体アラームの1つ「疲れ」など)の2種類が存在し、荷重労働、睡眠不足、運動不足、暴飲暴食、ストレスなどの生活習慣の乱れが主な原因とされていますので、未病を予防又は改善するためには生活習慣の見直し(健康管理)が重要になります。ここで未病の1つ「」という漢字は、垂の部分の「疒」が病人が寝台にぐったり座っている様子、旁の部分の「皮」が足を引きずり身体が傾いている様子を表す象形文字で、何ものかに取り憑かれて心身が重くなっている状態を意味しています。また、「疲」と似た「」という漢字は、垂の部分の「疒」は同じですが、旁の部分が「皮」から「丙」(「并」(併、並)の省略形で、「あわせる」「ならぶ」を意味)に転じて、何ものかに取り憑かれて心身が一層と重くなっている状態を意味しています。「病」に関連する「」という漢字は、垂の部分の「疒」は同じですが、旁の部分が「丙」から「矢」(「はやい」「きず」を意味)に転じて、何ものかに取り憑かれて心身に傷を負っている状態を意味しています。因みに、「疾患」という言葉がありますが、「」という漢字は、冠の部分の「串」が2つの貫かれた重しを表し、脚の部分の「心」と併せて、何ものかに取り憑かれて心を貫かれ憂いている状態を意味しています。この点、清少納言の枕草紙には「病は、胸。物の怪。脚の気。はては、ただそこはかとなくて、物食はれぬ心地。」(第188段)と記されており、さらに、紫式部の源氏物語には「おこたり果てたまひて、いといたく面痩せたまへれど、なかなか、いみじくなまめかしくて、ながめがちに、ねをのみ泣きたまふ。見たてまつりとがむる人もありて、「御物の怪なめり」など言ふもあり。」(第4帖「夕顔」)と記されていることから、平安時代には人間に病み憑く(場合によって死に至らしめる)「物の怪」の存在が観念されていました。果たして、「ものゝけ」の本義については「折口信夫全集第8巻(国文学篇2)」(中央公論社)に有名な論考が収録されていますが、それを敷衍すると、元来、「ものゝけ」とは「もの(=霊)」による「け(=疾)」の意味であり、「もの(=霊)」が人間の心身に這入る為に起こる患ひによって「け(=疾)」を生じることを「霊の疾」(物の怪)と言い、当初は「もの(=霊)」そのものよりも「け(=疾)」を物語る文脈で使われていましたが、徐々に「もの(=霊)」そのものを物語る文脈で使われるように変化したという論考が展開されています。当時の医学(科学)では解明できなかった疾病について、日頃の不行状が「もの(=霊)」を呼び寄せて「け(=疾)」を生じるという豊かなイマジネーションを働かせて説明しようと試みていた夢見心地の時代であったと言えるかもしれません。過去のブログ記事で触れたとおり「怒」「憎」「恨」「忙」などの漢字は不幸な状態(何らかの原因で心(脳)が滞って余裕がなくなり「幸」が侭ならない状態)を意味していますが、昔から「流れる水は腐らない」と言われているとおり、これは心(脳)にも同じことが言え、(それを「霊」と観念するかは別としても)何ものかに取り憑かれて「疲」が溜まり(流れ去らずに滞り)、それに「患」わされて「病」へと進行するものなので、常日頃からそうならないために「疲」を発散する(取り去って流す)ように心掛けること(健康管理)が重要になります。「疲労」は、心身の過負荷により生じた「心身の機能低下や障害」とそれを不快と感じる「疲労感」から構成され、ホメオスタシス(人間が生命を維持するために心身の機能や状態を一定に保とうとする恒常性)を保つために発せられる三大生体アラーム(疲労は発熱や痛みと並んで脳がそれ以上の活動を制限し、休息するように促すために送るシグナル)に数えられています。このうち、心身の過負荷により生じた「心身の機能低下や障害」は分子生物学の分野で研究が進んでいますが、「疲労感」は科学的な解明が十分に進んでおらず、今後の研究課題になっています。人間は疲労感により疲労が蓄積していることを自覚して休息をとりますが、意欲、達成感や責任感などが疲労感を隠し(疲労感のマスキング)、疲労を十分に回復しないままで疲労が蓄積される状態が6ケ月以上継続すると疲労が回復しない「慢性疲労」に陥り、各種の疾病、うつ病や過労死などの原因になる(慢性疲労は疾病などへ移行する予知因子)と言われています。日本人には疲労感のマスキングに陥り易いセンチメンタリズムな気質があり、それが慢性疲労から過労死を招く顕著な症例を多発させて国際語「KAROSHI」(オックスフォード英語辞典)まで生んでいますが、疲労やリスクをゼロにすることは現実的に難しいのは当然として、疲労やリスクは「テイク」するものではなく「コントロール」するものであるという知性を持つことが重要です。現在、疲労を効果的に発散して溜めないようにコントロールする方法(健康管理)として休養学が注目を集めています。
 
▼健康状態と医療
健康状態 医療 主導
種類 内容
健康 一次予防
(健康管理)
未病の予防 本人
未病 疾病の予防
疾病 治療 疾病の治療 医師
二次予防 疾病悪化の予防
三次予防 合併症の予防
※最近では、社会保障給付費の削減などを企図して、健康指導など医師による予防医療(一次予防を含む)の取組みが活発になっています。
 
▼三大生体アラーム
健康状態 アラーム 意義 医療
未病 疲労 身体に休息の必要があることを知らせるための警告信号 予防
疾病 発熱 身体に感染や炎症があることを知らせるための警告信号 治療
痛み 身体に損傷や異常があることを知らせるための警告信号
※疲労を感じることを疲労感と呼び、疲労感が続くことを倦怠感と呼びますが、倦怠感(疲労)は痛みと並んで多いプライマリーケア(総合診療)の主訴になっていると言われています。この疲労感や倦怠感が6ケ月以上続くことを慢性疲労と呼び、これを放っておくと急性又は慢性の疾病やうつ病、過労死などの原因になると考えられています。
 
日本リカバリー協会が公表しているデータによると、日本人の約80%が何らかの「疲労」を感じており、そのうちの半数にあたる約40%が「慢性疲労」(半年以上疲労が持続している状態)を感じているという調査結果があり、コロナ禍後に働き方改革が停滞していることも原因してか、令和5年度の過労死等に係る労災の請求件数及び支給件数は前年度比で20%増加するなど高い水準で推移しています。また、慢性疲労により日常生活に支障を来して不登校などに陥っている「小児慢性疲労症候群」(未病)も増加傾向(小中学生の2%、高校生の5%、大学生の10%)にあり社会問題になっています。このように人間の活動や生活を停滞又は破綻させる疲労のメカニズムを(科学的に解明されている範囲で)簡単に紐解くと、疲労はエネルギーの枯渇や(筋肉を挫滅させるような激しい運動を除き)筋肉、内臓、血液や呼吸に対する組織的な影響などにより生じることは滅多になく、環境要因(心身への過負荷など)、疾病要因(がんや風邪などによるホルモン異常など)や老化要因(抗酸化酵素の機能低下など)などをトリガーとして脳の自律神経の中枢(視床下部、前帯状回などの生体機能の維持を司る部位)の処理が増大することで「活性酸素」が発生し、それが脳の自律神経の中枢の機能を低下させて「疲労脳」と呼ばれる状態に陥って、脳が「疲れた」というシグナルを脳の前頭葉腹側面下部(眼窩前頭野)に送り心身の「疲労感」(疲れた、飽きた、眠いなどの諸症状)として自覚させて活動を休止して休息するように促します。この点、過去のブログ記事でも触れましたが、太古の昔、生物の祖先は水素をエネルギーにしていましたが、その後、光合成から得られる糖をエネルギーにする植物の祖先(二酸化炭素及び水を太陽光で分解して糖を生み出し、その副産物である酸素を輩出)が誕生して地球上の酸素濃度が上昇したことで、地球上の生物は絶滅の危機に瀕しました(酸素ホロコースト:活性酸素は物質を酸化して錆びさせる性質があり、現在でも活性酸素は老化の原因)。この環境変化に適応して酸素を採り入れて他の生物から摂取した糖を酸素で分解してエネルギーに転換できるように進化した動物の祖先が誕生しました。通常、酸素は糖を分解してエネルギー(ATP)と水を生成しますが、偶に、不完全な電子と結び付いて水になりきれずエネルギー(ATP)と「活性酸素」を生成してしまうことがあります。このように活性酸素は不完全な電子と結び付くことで不安定な状態にあるので安定を取り戻そうと細胞などの分子を構成している他の原子(原子核)の周囲に漂う電子を奪う化学反応(細胞が酸化して錆びる現象)を引き起こす反応性(活性)が高い物質になり、これによって電子を奪われた他の原子も不安定になってその機能を低下させると共に安定を取り戻そうとさらに別の原子(原子核)の周囲に漂う電子を奪うようになり、それがゾンビのように全体に連鎖して細胞などの分子や細胞で組成されている組織の障害を引き起こし、やがて疾病、うつ病や過労死などの原因になることが分かっています。人間が呼吸して採り入れた酸素のうち約1~2%は活性酸素に変化すると言われていますが、その活性酸素を「抗酸化酵素」で水と酸素に分解して活性酸素の活動を抑制しています。しかし、環境要因や疾病要因などにより抗酸化酵素の防御力を上回る活性酸素が発生し又は老化要因などにより抗酸化酵素の機能が低下すると、活性酸素の活動を十分に抑制できなくなり疲労が蓄積していきます。この点、過労死する動物は人間だけだと言われていますが、上述のとおり人間は他の動物と比べて意欲、達成感や責任感などを司る前頭葉が発達したことから、脳が「疲れた」というシグナルを眼窩前頭野に送っても「疲労感」を隠してしまうことがあり(疲労感のマスキング)、「疲労感なき疲労」が蓄積して過労死に至ることがあると言われています。因みに、カフェイン(コーヒーやエナジー・ドリンクなど)を過剰に摂取すると疲労感のマスキングにつながる可能性がありますので注意が必要です。このため、1993年にEUで発令された「勤務時間指令」で24時間のうち11時間は休息時間をとらなければならないと定められ、これを参考にして日本でも「勤務間インターバル」という勤務制度を数多くの企業が導入しています。疲労があるときに集中力を高めて更に何かに打ち込むと疲労が蓄積し易いと言われており、疲れた、飽きた、眠いなどの生体アラームを自覚したときは、これに逆らわずに活動を休止して休息すること(短期的な心身の活動の休止)が大切ですが、「疲労感なき疲労」を発散して蓄積しないようにするためにはより戦略的な休養をとること(疲労を発散して心身をリフレッシュする長期的な活動)も大切になってきます。この点、休養には「パッシブ・レスト」(蓄積した疲れをとるために、心身を働かせずにリラックスする方法)と「アクティブ・レスト」(疲れが蓄積しないように、軽い運動やストレッチなど心身を動かして疲労を発散させる方法)の2種類があると言われており、心身の健康状態に応じた休養を取ることで疲労を効果的にコントロールすることが可能になります。また、2004年から厚生労働省及び農林水産省が参加する産官学連携で「森林セラピー」の効果を科学的に検証し、予防医療に役立てようとする研究が行われており注目されています。この点、森林の「ゆらぎ」がリフレッシュ作用をもたらすことで副交感神経を優位にして脳疲労を軽減すること(即ち、脳の活動が低下して活性酸素の発生を抑制すると共に、抗酸化酵素の働きが活発化して溜まった活性酸素を効率的に分解すること)が分かっています。この「ゆらぎ」とは、木漏れ日の輝き、体を伝う微風、川の潺、鳥の鳴き声、滝ツボから舞い上がる細かい水の粒子、温度、湿度、風向などが微妙に変化することを意味し、その微妙なズレを生じる「不規則な規則性」(前回のブログ記事で触れた混沌から生じるフラクタルも同様)を特徴とする諸現象のことを言いますが、森林の「ゆらぎ」と人体の「ゆらぎ」がシンクロすることで上述のリフレッシュ作用をもたらすと考えられています。これは量子力学における「量子ゆらぎ」と同じことを意味していると思いますが、万物は粒子でもあり波でもあると考えられており(波動粒子二重性)、生命を育む有機物を豊富に湛えている森林の「ゆらぎ」(波動)が都会生活などで乱れた人体の「ゆらぎ」(生命現象の波動)を整えてくれる作用があるのかもしれません。公共施設(オフィスや学校などを含む)や居住空間は照明、温度や湿度などを一定に保つために「ゆらぎ」がない空間に設えられることが多いですが、最近では、「サーカディアンリズム」(朝、昼、夜で光調、温度や湿度などを変化)を採り入れて公共施設(オフィスや学校などを含む)や居住空間に自然環境に近い「ゆらぎ」を再現することが見直されています。因みに、夜間のスマホライトはこのリズ厶を乱して副交換神経の機能を低下させる可能性がありますので注意が必要です。体を休ませていても脳を休ませなければ、疲労は蓄積される可能性があります。さらに、植物の緑葉成分からなる「緑青の香り」(青葉アルコールや青葉アルデヒドの香り)には抗疲労効果があることが科学的に確認されており、茶香炉やお茶アロマによる「リラックス」の演出などが注目されています。人間は疲労の分だけパフォーマンスが落ち、それが負のスパイラルを生んで、やがてバーン・アウトと呼ばれる状態(燃え尽き症候群)に陥ると言われていますが、「埃が溜まってからするのが掃除ではなく、埃が溜まらないようにするのが掃除である」という掃除の格言と同様に、慢性疲労に陥ると疲労が回復しなくりますので疲労が溜まる前に疲労を発散することが効果的であり、守りの休養(溜まった疲労を取るための休養)から攻めの休養(疲労が溜まらないように発散するための休養)が重要と言えるかもしれません。「掃除」と同じく「休養」が「急用」にならないように常日頃から「埃」も「疲れ」も溜めない心掛けが肝要です。
 
▼疲労の要因となる因子
要因 因子 予防
環境 心身への過負荷など
疾病 がんや風邪によるホルモン異常など
老化 抗酸化酵素の機能低下など
 
▼疲労と健康状態の変化
ステージ 健康状態
負荷 健康
環境要因、疾病要因、老化要因など
蓄積   未病
心身の
機能低下
疲労、倦怠 睡眠の質の低下
心身の
障害
慢性疲労 睡眠障害
発症 疾病
 
▼疲労を発散する休養
休養の種類 休養の内容
パッシブ・レスト 睡眠、読書、瞑想、アロマセラピー、映画鑑賞、音楽鑑賞、マッサージ、入浴など
アクティブ・レスト 散歩、軽いジョギング、ストレッチ、マッサージ、入浴など
※マッサージや入浴(エナジー風呂)は攻守のバランスのとれた休養と言えるかもしれません。
※一般に、音楽を聴くことは心身をリラックスさせる効果があるパッシブ・レストに分類されますが、例えば、クラブミュージックや一部の現代音楽は、脳が複雑なリズム、独特の音響効果、音の変化や力強いビートなどの情報を処理するために負荷がかかることがあり、却って、これらの音楽を聴くことで疲労が溜まる人がいると言われています。但し、そのような複雑な音楽でも「心地良い」と感じることができれば、脳がドーパミンやエンドルフィンなどのポジティブなホルモンを分泌して疲労を軽減させることがあると言われています。
 
▼今、聴きたい女性作曲家たち(女性作曲家を聴く・その10)
【演題】女性と音楽研究フォーラム結成30周年記念
    今、聴きたい女性作曲家たち(女性作曲家を聴く・その10)
    ~歌とピアノ、ヴァイオリンで綴る多彩な響き~
【演目】<歌曲>
     ポリーヌ・ヴィアルド(~1910年) 
      ①ヴィアドル夫人のアルバムより
       第1曲 山の子
       第2曲 礼拝堂
      ②6つのメロディーより
       第6曲 カディスの娘たち
      ③6つのメロディとハバネーズより
       第4曲 アイ・リュリ!
      ④フレデリック・ショパンの6つのマズルカより
       第3曲 愛の嘆き
       第2曲 私を愛して
     金井喜久子(~1986年) 
      ⑤ハイビスカス(作詞:川平朝申)
     渡鏡子(~1971年) 
      ⑥わがうた(作詞:北原白秋)
      ⑦祭のまへ(作詞:北原白秋)
     吉田隆子(~1956年) 
      ⑧組曲「道」より手(作詞:小倉雪江)      
      ⑨君死にたまふことなかれ(作詞:与謝野晶子)
    <ピアノ作品>
     ポリーヌ・ヴィアルド(~1910年) 
      ⑩ガボット
     セシル・シャミナード(~1944年)
      ⑪エール・ド・バレエ
     リリ・ブーランジェ(~1918年)
      ⑫明るい庭から
     ナディア・ブーランジェ(~1979年) 
      ⑬ピアノのための3つの小品より第1曲、第2曲
     グラツィナ・バツェヴィチ(~1969年) 
      ⑭ピアノ・ソナタ第2番より第1楽章
    <ヴァイオリン作品>
     幸田延(~1946年) 
      ⑮ヴァイオリンソナタ第1番変ホ長調
     吉田隆子(~1956年)
      ⑯お百度詣
     レベッカ・クラーク(~1979年)
      ⑰真夏の月
【演奏】<Mez>水越美和①②③④
    <Sop>梅野りんこ⑤⑥⑦⑧⑨
    <Pf>宮﨑貴子①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭
        蓼沼明美⑮⑯⑰
    <Vn>沼田園子⑮⑯⑰
【日時】2024年11月17日(日)14:00~
【会場】白寿ホール
【一言感想】
国立音大教授で「女性作曲家列伝」の著者でもある小林緑さんと音楽評論家の谷戸基岩さんの夫妻が17年前に開催した「女性作曲家音楽祭2007」を聴きに行った記憶がありますが、1993年に小林さんが設立した女性と音楽研究フォーラムの設立30周年を記念して「今、聴きたい女性作曲家たち」と題する興味深い演奏会を開催するというので聴きに行くことにしました。一般に知られている最も古い女性作曲家としてはG.カッチーニの娘のF.カッチーニの名前を挙げることができると思います。歴代の女性作曲家についてはアーロン・コーエン編「国際女性作曲家事典」に詳しいですが、第二次世界大戦まではクラシック音楽界は男性中心社会で女性作曲家の活躍の機会がなく、そのような状況下で歴史に埋もれることなく作品が残り続けてきた女性作曲家は大変に希少な存在です。過去のブログ記事でも触れましたが、第二次世界大戦後に女性作曲家のK.サーリアホさんやO.ノイヴィルトさんなどの世界的な活躍、P.ゲルブ総裁が率いるメトロポリタン歌劇場(今シーズンで2人目の女性作曲家の作品を公開)などの並々ならぬ尽力や30年に及ぶ女性と音楽研究フォーラムの活動成果などにより徐々に女性作曲家の地位が確立し、現代では女性作曲家が男性作曲家を凌ぐ活躍を見せるようになり、漸く音楽を含む芸術作品に性別、人種や国籍などのハードルがなくなりつつあることが実感される時代になったと思います。この演奏会では存命中の女性作曲家の作品は採り上げられていませんが、女性作曲家の来し方行く末に思いを馳せてみたいと思います。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。

――>追記
 
非常に演目数が多いので、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。なお、本日は19世紀半ばから20世紀半ばに活躍した女性作曲家の作品に焦点をあてた大変に貴重な演奏会でしたが、是非、次回は1980年代以降(とりわけ21世紀)に世界中で活躍している存命中の女性作曲家の作品を採り上げる演奏会も熱望しています。
 
〇ポリーヌ・ヴィアルド(~1910年) 
スペイン人作曲家P.ヴィアルドの父母兄姉はすべてオペラ歌手という著名な音楽一家で、父はジョアキーノ・ロッシーニの肝煎りのテノール歌手としてオペラ「セビリアの理髪師」を初演し、また、兄は世界初の咽頭鏡を発明して著書「Hints on Singing」(邦題:ベルカント唱法のヒント)を残しています。P.ヴィアルドはフランツ・リストにピアノを師事していましたが、その後、オペラ歌手でデビューして人気を博し、女性作家ジョルジュ・サンドから紹介されたフレデリック・ショパンとも親交が深かったという華々しい経歴の持ち主です。①第1曲「山の子」はG.サンドに献呈された曲だそうですが、ブリリアントな高音が冴え映えとする歌唱と歯切れが良く弾性のあるリズミカルなピアノによって天真爛漫な子供の快活な雰囲気を伝える演奏を楽しめ、また、①第2曲「礼拝堂」はフランス人画家A.シェフェールに献呈されたそうですが、陰影を帯びた低音による悲しみを湛えた歌唱と彼方で響く教会の鐘の音を連想させる厳かなピアノの連打によって(A.シェフェールとは作風が違いますが)J.ミレーの風俗画「晩鐘」のような風情を感じさせる演奏を楽しめました。この2曲では水越さんが高音域から低音域までの幅広い音域を使いながら異なる曲調を表情豊かに歌い分けていましたが、P.ヴィアルドの姉マリア・マリブランはソプラノからアルトまでの幅広い声域を持つ歌手だったそうなので、それがP.ヴィアルドの作風にも影響を与えているのかもしれないと思いを巡らせながら聴き入りました。②第6曲「カディスの娘たち」はピアノがボレロのステップを刻みながら、その伴奏に乗せて小気味よく喉を使う軽快な歌唱でスペインの若い女性の自由奔放な生き様が表現されていたるように感じられ、P.ヴィアルドの人物描写や情景描写の巧みさが映える面白い曲でした。前二曲とは全く異なる曲調でP.ヴィアルドの音楽表現のバリエーションの豊かさに魅せられました。③第4曲「アイ・リュリ!」はP.ヴィアルドの次女に献呈されたそうですが、憂いを湛えた歌唱と色彩豊かなピアノのギャップによって恋に翻弄されながらも恋に夢見る乙女のデリケートな心模様が表現されているように感じられ、秋の空にピッタリな曲を楽しめました。④第3曲「愛の嘆き」はP.ヴィアルドが親交のあったF.ショパンの「マズルカ」第1番嬰へ短調をへ短調の歌曲に編曲したものですが、水越さんと宮崎さんの好演を得て、嘆きに満ちた心の綾を繊細に織り込んで行くような情感表現に優れた歌唱とその情感に仄かな色彩を添えて行く詩情豊かなピアノが有機的に絡み合う充実した作品に感じられました。④第2曲「私を愛して」はP.ヴィアルドがF.ショパンの「マズルカ」第23番ニ長調をイ長調の歌曲に編曲したものですが、ピアノがアゴーギクを効かせながらオテンバ気味にマズルカのリズムを華やかに奏で、その伴奏に乗せてオペラチックな歌唱に魅了され、徐々にテンポやデュナーミクを増しながら絢爛たるクライマックスを築いていく音楽はまるでベルカント・オペラを観ているような高揚感を覚えるものでした。F.ショパンはオーケストレーションを不得手としていたとようなので1人でオペラの作曲は難しかったかもしれませんが、この2人の共作でオペラを残して欲しかったと思えるような充実した作品に感じられました。
 
〇金井喜久子(~1986)
〇渡響子(~1974)
〇吉田隆子(~1936)
金井喜久子は日本人女性で最初に交響曲を作曲した方で、沖縄音楽の普及に尽力された方としても知られています。⑤「ハイビスカス」は初聴の曲でしたので、沖縄音楽のエッセンスを十分に聴き分けるまでには叶いませんでしたが、どこか沖縄の風情を感じさせる魅力的な曲でした。渡響子は執筆活動にも精力的でしたが、本日の2曲ともシラビック(メリスマのように1音節を複数の音高で歌うものではなく、(グレゴリオ聖歌などに見られるように聖書などの)言葉を明確に伝えるために1音節を1音高で歌うもの)で書かれた曲で、⑥「わがうた」はニュアンスに富んだ美しい伴奏が印象的な曲、⑦「祭のまえ」は祭り囃子を思わせる賑々しいリズムで日本情緒を感じさえる魅力的な曲でした。吉田隆子は反戦活動により思想犯として投獄の経験もある方です。⑧「手」は強い意志力のようなものを感じさせる曲、⑨「君死にたまふことなかれ」は(オペラ化の構想もあったようですが)ピアノが刻む重々しい低音が深い嘆きを表現しているようで、悲しみを湛えた与謝野晶子の反戦詩が情感豊かに歌われる印象的な曲でした。
 
〇ポリーヌ・ヴィアルド(~1910年) 
〇セシル・シャミナード(~1944年)
〇リリ・ブーランジェ(~1918年)
〇ナディア・ブーランジェ(~1979年) 
〇グラツィナ・バツェヴィチ(~1969年) 
P.ヴィアルドは上記で簡単に触れていますので紹介は割愛します。⑩「ガボット」は軽快で優雅な印象の曲で、可愛らしいステップを刻むチャーミングな演奏を楽しむことができました。C.シャミナードは500万部以上の楽譜を売り上げる当時人気の作曲家で、その人気に肖ってイギリスの化粧品会社であるMORNYが彼女の名前を付けた香水「CHAMINADE」まで発売しています。⑪「エール・ド・バレエ」はまるでバレエを鑑賞しているような描写表現の優れた曲で、プリエやタンデュなどのエクササイズやピルエットやフエッテのようなターンなどを随所に織り交ぜた臨場感ある曲に想像力を刺激されながら聴き入ってしまいました。彼女の曲を聴くと、何故、絶大な人気があったのか分かります。N.ブランジェは教育者として知られ、彼女に師事していたA.ピアソラは彼のアイデンティティを形成しているタンゴを大事にするように勧められ、その後の彼の成功を導いた話は有名です。⑬「ピアノのための3つの小品」より第1曲は小気味よいスタッカートによるリズミカルな曲調とテヌートによる思索的な曲調の間を揺れ動く印象的な曲、第2曲は杏仁豆腐のような後味の良さを感じさえる短い曲を楽しめました。L.ブランジェはN.ブランジェの妹で女性初のローマ賞の受賞者であり、G.フォーレやC.サン=サーンスなどからも高い評価を受けた逸材です。⑬「明るい庭から」は低声部の重厚な響きをキャンバスにして高声部が印象派の絵画よろしく夢心地に微睡むんでいるような幻想的な雰囲気を醸し出す美しい旋律に彩られたもので、非常に魅力的な曲に感じられました。G.バツェヴィチはA.シェーンベルクやA.ベルクの影響を受けて「今日完成したすべての作品は、明日には過去のものになります。」と看破する野心的な作曲家です。⑭「ピアノ・ソナタ第2番」より第1楽章はパンフレットにおいて「調性の離脱、楽器の特性を活かす書法、豊富なリズム・パターン」を特徴とすると解説されているとおり自在な曲調で、ダイナミックな精悍さとメカニカルな精緻さを併せ持ち、幅広い音域を縦横無尽に駆け巡りながら機械的で無機質な肌触りや神秘的でファンタジックな肌触りなど硬軟を織り交ぜた変化に富んだ語り口で、二度の世界大戦や世界恐慌などに揺れ動いていた当時の時代の暗部も感じられる多彩な曲調を楽しめました。古典(光(調性)の絶対性)と前衛(闇(無調)の絶対性)のどちらにも極端に偏向していないA.シェーンベルクやA.ベルクのようなバランス感覚を持った音楽家のように感じられます。これらの女性作曲家達の華々しい経歴を見ていると、今日の女性作曲家の社会的な地位の確立は、この時代の才能豊かな女性作曲家達が男性社会に分け入って金字塔を打ち立てる功績を残し続けてきたことに依るところが多いと実感されます。このことはその後の時代の女性作曲家達の活動の足場ともなり、現代では女性作曲家が男性作曲家の活躍を凌ぐ活躍を見せているまでになっていると共に、その多様性が性別、人種、国籍やジャンルなどを越えて変革を促すダイナミックな時代の潮流になっているように感じられます。
 
〇幸田延(~1946年) 
〇吉田隆子(~1956年)
〇レベッカ・クラーク(~1979年)
幸田延は妹の幸田(安藤)幸と共に日本におけるクラシック音楽の黎明期に活躍した草分け的な存在です。⑮「ヴァイオリンソナタ第1番」は明るく抜けるような清澄感のあるヴァイオリンと快活に躍動するピアノが印象的な第一楽章、抒情的に歌うヴァイオリンとピアノが印象的な第二楽章が演奏されました。久しぶりに楽器を素直に鳴らし切る弦楽曲を聴きました。吉田隆子は上記で簡単に触れていますので割愛します。⑯「お百度詣」は戦地に夫を送った妻の痛切な想いが込めれた曲で、ピアノが同じフレーズを繰り返すのはお百度を踏む様子を表現したものでしょうか、冒頭のインパクトあるヴァイオリンの重音と終曲のテンションの高い熱演は妻の心の慟哭を表現しているように感じられ、教科書の歴史には載らない市井の人々の肉声が文学や音楽などの芸術作品として受け継がれていることを実感させるもので感慨深いものがありました。ヴィオラ奏者兼作曲家として才能に恵まれたR.クラークはジェンダー・ギャップなどから殆どの楽譜が未出版のまま忘れ掛けられていましたが、1976年にラジオ放送局がR.クラークの特集番組を放送したことが契機となって注目されるようになりました。⑰「真夏の月」はヴァイオリンが神秘的な雰囲気を湛えながらニュアンス豊かに歌い、これにピアノのアルペジオが有機的に絡み合うバランスの良いアンサンブルで、音にドラマがあり、それがクライマックスに向かって高揚して行く構築感のある演奏を楽しめました。沼田さんは懐の深さを感じさせる安定感、信頼感のある演奏で楽器を丁寧に鳴らし切る美観極まる演奏が出色でした。
 
 
▼藝大プロジェクト2024第2回「日本が見た西洋音楽」
【演題】藝大プロジェクト2024第2回「日本が見た西洋音楽」
【演目】①信時潔 「いろはうた」(無伴奏合唱版)
    ②信時潔 「いろはうた」(チェロ、ピアノ版)
                (クラウス・プリングスハイム編曲)
    ③髙田三郎 「山形民謡によるバラード」(弦楽合奏版)
                          (岡崎隆編曲)
    ④クラウス・プリングスハイム 「山田長政」(小島夏香補作)
【演奏】<Bar>黒田祐貴(山田長政役)
    <Sop>松岡多恵(リカ役)
    <Sop>根本真澄(トカウハム役)
    <Vc>向山佳絵子
    <Pf>江口玲
    <Cond>安良岡章夫、谷本喜基(合唱)
    <Orch>東京藝術大学音楽学部有志オーケストラ、合唱
    <司会>片山杜秀、仲辻真帆
【日時】2024年11月23日(土)15:00~
【会場】東京藝術大学 奏楽堂
【一言感想】
藝大プロジェクト第1回は「西洋音楽が見た日本」がテーマになっていましたが、第2回は「日本が見た西洋音楽」がテーマになっており、古典派(第1回)から後期ロマン派(第2回)まで100年以上も時代が進み、それを更に100年後の時代に生きる我々が聴いてみようという好事家の集いです。今回は東京藝術大学(東京音楽学校)の作曲科を創設したクラウス・プリングスハイムと同時代の日本人作曲家である信時潔、髙田三郎の作品が演奏され、日本は西洋音楽をどのように受容、受肉したのかに迫るというコンセプトのようです。なお、1939年にクラウス・プリングスハイムが作曲した音楽劇「山田長政」は完全なスコアが現存していないことから、今回、現代作曲家の小島夏香さんが補筆完成した版が初演されるようなので大変に楽しみです。同じく山田長政を描いたものに遠藤周作の戯曲「メナム河の日本人」がありますが、誰か新作オペラに仕立てて貰えないかしら。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
―――>追記
 
最初に毒を吐いてしまいます。藝大プロジェクト第1回は200年以上前の大昔の音楽、その第2回は100年前の昔の音楽でしたが、上記の「今、聴きたい女性作曲家たち(女性作曲家を聴く・その10)」でも言及したとおり、是非、第3回目として1980年代以降(とりわけ21世紀)に活躍している存命中の作曲家による現代の価値観、人間観、自然観や世界観など(これらは直近25年間だけでも大きく変化)を表現する「新しい音楽」を採り上げる演奏会を設けて欲しかったという憾みが残ります。「過去」の研究やアーカイブの整備なども必要的な取り組みだと思いますが(日本では音源や楽譜を含むアーカイブの整備などは国立国会図書館が中心になって精力的に取り組んでいますが)、折角、未来創造承継センターという組織があるのであれば、「過去」ばかりに囚われるのではなく、「現在」「未来」を見据えた挑戦的な試みとして新しい芸術体験を提案できるような「芸」(草木を刈り取ること)ではなく「藝」(草木の苗を植えること)を体現する骨太な取組みにこそ期待したいと思っています。この点、藝大プロジェクト第1回及び第2回ともに忌憚ない感想を述べれば、歴史的な記録として貴重な機会ではありましたが、それらが体現している価値観、人間観、自然観や世界観などは時代錯誤なものであり、また、その音楽は藝大プロジェクト第1回の感想でも書いたとおり、故・湯浅譲二さんの言葉を借りれば「既聴感」(即ち、脳の認知パターンの予測と脳が実際に認知する結果との間の「差分」が殆ど感じられない状態)の枠を超えるものではなく現代人の耳には繰り返しの視聴が厳しいものと言わざるを得ません。今般、藝大の奏楽堂では集客施策として友人紹介キャンペーンが行われていたようですが、かつて藝大の奏楽堂でよくお見掛けした常連客の姿はなく、また、藝大プロジェクト第1回及び第2回ともに客入りは決して芳しいものとは言えず、(かなり厳しいことを書くようですが)現在の藝大のあり様が時代のニーズとマッチしなくなりつつあるのではないかと憂慮を覚えます。未来を担う後進を育成する教育機関であるからこそ、客が担ぎたいと思える神輿になれるように「変わらないために変わり続ける」努力が求められているような気がします。
 
〇「いろはうた」(無伴奏合唱版)
過去のブログ記事で五十音図を採り上げた際に簡単に「いろは歌」にも触れましたが、パンフレットには「日本語の発音を集成したもので、広く日本人に知られており、仏教の深い含蓄もあることなどから、信時はこの歌詞を「合唱の歌詞として最も望ましい条件を備えている」」として採用し、「東洋旋律の洋楽作法による合金化」(この曲の主題に用いられている東洋旋律とは雅楽の越天楽今様の旋律のこと)の試みとして、この曲が作曲されたことが解説されています。いろは歌と仏教思想に関しては、以下の囲み記事に簡単にまとめていますが、過去のブログ記事でも触れたとおり、「道」(=実践)の宗教である古神道から「教」(=言葉)の宗教である仏教(悟りの宗教)が日本に普及して行くにあたり「いろは歌」が果たした役割は大きく、同じく「教」(=言葉)の宗教であるキリスト教(救いの宗教)がヨーロッパに普及して行くにあたり大きな役割を果たした讃美歌との融合を図った着眼点が非常に興味深く感じられました。冒頭でソプラノとアルトが主題を提示し、これにテノールとバスが歌い沿い、それらが合唱との様々な組合せと共に変奏されて行きましたが、奏楽堂の豊かな残響に澄み渡る透徹のコラール合唱が実に美しく声楽王国の異名を誇る東京藝大の面目躍如たる好演を堪能できました。聖書(キリスト教教義)の言葉を伝えるために生み出されたコラールの伝統を受け継いで、バロック音楽のような技巧的な装飾は排して中世の禁欲的でピュアーな音響を大事にしながら、いろは歌(仏教教義)の言葉が持つ響きの美しさを聴かせることに徹したようなポリフォニー音楽には、西洋音楽と真正面から向き合いながらその精髄を受容、受肉しようと心を砕いていた真摯な姿勢が滲み出ているようで好感しました。
 
● いろは歌に詠まれる仏教思想
この世の「悲しみ」(無常に対する執着)や「迷い」(煩悩)などの仏教思想について、十二音技法よろしく五十音図のヤ行の「イ」「エ」とワ行の「ウ」を除く47文字を一回づつ使って七五調の「いろは歌」が詠まれています。なお、いろは歌の作者は不分明ですが(空海?)、いろは歌を七行書きした末尾の文字をつなげると「とかなくてしす」(咎無くて死す)という暗号になっているとして様々に作者が憶測されています。
色は匂えど 散りぬるを
わが世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔いもせず
【意味】
桜花は(=色は)咲き誇っていても(=匂えど)、あっという間に散ってしまうのだから(=散りぬるを)、一体、この世の誰が(=わが世誰ぞ)、いつまでも変わることなくその栄華を保ち続けることができるでしょうか(=常ならむ)。
この変わり行く(=有為の)迷いの多い世の中を(=奥山)、今日こそは乗り越えよう(=今日越えて)、儚い夢を見ることもなく(=浅き夢見じ)、現実から目を背けることもなく(=酔いもせず)。
 
● 仏教真理(全ての人が本当の幸せになれる真理)
お釈迦さまが雪山童子という修行者であった時に、命と引き替えにして悟られた真理として伝えられています。
諸行無常 是生滅法
生滅滅已 寂滅為楽
【意味】
咲いた花がやがて散るのと同じように、生まれた人もやがて死ぬ。無常とは全てのものの免れぬ運命である。(諸行無常 是生滅法
悲しみ(無常に対する執着)や迷い(煩悩)という「輪廻」を超えて、何事にも執着するこなく全てをありのままに受け入れて安らぎ(解脱)を得る「涅槃」の境地を悟ることが大切である。(生滅滅已 寂滅為楽
 
〇「いろはうた」(チェロ、ピアノ版)
パンフレットには「編曲者の自筆とみられる楽譜には表紙に“Kiyoshi Nobutoki Irohauta Transcription for Violoncello and Piano by Klaus Pringsheim”とある。」と記載されています。K.プリングスハイムはミュンヘン大学で作曲、音楽理論やピアノを学び、その後、グスタフ・マーラーの薫陶を受けて、1931年から1937年まで東京音楽学校(現、東京藝術大学)で音楽理論などを教授していますが、その傍らで管弦楽曲の指揮なども行い、1937年にはJ.S.バッハのマタイ受難曲を日本初演しています。信時潔が作曲した無伴奏合唱版が東洋から西洋へのアプローチであるとすれば、それをK.プリングスハイムが編曲したチェロ+ピアノ版は西洋から東洋へのアプローチであるという趣きが感じられ、冒頭では日本情緒を感じさえるノスタルジックな曲調が採り入れられていますが、外連味のない端正な書法に徹した信時潔の無伴奏合唱版に対してK.プリングスハイムのチェロ+ピアノ版は和声を巧みに駆使して豊かな彩りを添える曲調で魅了するもので、同じ音楽素材を使いながら全く別の境地を示す器楽曲に昇華しています。西洋音楽の伝統の厚みを感じさせる優れた筆致には師匠としての風格のようなものが滲み出ているようであり、これも教授の一環として弟子が何かを学び取る契機になっていたということなのかもしれません(「優れた芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む」~P.ピカソ)。なお、幕間のトークで仲辻真帆さんの師匠である片山杜秀さんが、K.プリングスハイムから信時潔、髙田三郎ほかの作曲家へと受け継がれてきた日本における西洋音楽の系譜のようなお話をされていたのが非常に興味深く、是非、その研究成果をまとめて公表又は出版して頂けないものかと熱望します。
 
〇「山形民謡によるバラード」(弦楽合奏版)
パンフレットには「独特な節回しで方言に溶け合うような主題のメロディーは、山形県近江新田地域の子守歌」で、「「日本的和音を基とし、それに揺れを含ませる方法」が用いられている。」と解説されています。まるで子守歌を歌う母親の腕の中で揺られているような揺蕩う和声のなかを、ヴィオラ・ソロが提示した主題が他のパートへと順に受け継がれ、弦楽五部の音色のグラデーションが優美に絡み合うファンタジックな演奏に魅了されました。端正に織り込まれた長大なフーガで全曲が締め括られましたが、奏楽堂の豊かな残響も手伝って弦楽合奏の美観が際立つ演奏を堪能できました。
 
〇音楽劇「山田長政」
藝大プロジェクト第1回で高山右近、映画「SHOGUN」及び以下に紹介している別の公演で三浦按針(W.アダムス)、そして藝大プロジェクト第2回で山田長政を描いた作品を鑑賞する機会に恵まれました。ご案内のとおり、三浦按針は1600年に暴風で日本に漂着して徳川家康の外交顧問になったイギリス人、山田長政は1612年に通商などのためにタイ(アユタヤ)に自主的に移住した日本人、高山右近は1614年に江戸幕府のキリスト教禁教令によりフィリピン(マニラ)に追放となった日本人という違いがありますが、それらの人物の生き様を通して400年以上昔の日本が初めてグローバリゼーションの波に晒された変革の時代にどのように翻弄され、どのように乗り越えたのかを現在の政権との対比で再考する良い機会になりました。なお、山田長政にはタイ(アユタヤ)を侵略するスペイン艦隊を二度も退けた功績から王女の婿になり、その後、皇位継承問題に巻き込まれて殺害されたという俗説もあります。パンフレットには「ラジオ用の音楽劇である。1939年10月にJOAK(現在のNHK)から放送され」、「この音楽劇の台本は坪内士行による」もので「戯曲集「妙国寺事変」に収められて」いますが、「K.プリングスハイムが曲をつけた「山田長政」は物語的要素が少なく、戯曲集に掲載されている内容の断章のようである。」と解説されています。この解説のとおり、しっかりとしたプロットのようなものはなく音楽も断片的なので、オペラや音楽劇というよりも間奏曲付きの歌曲集と形容した方が良い作品かもしれません。この作品は完全なスコアが残されておらず、本日は現代作曲家の小島夏香さんが補筆完成した版が演奏されました。補筆完成には様々なスタンスがあり得ると思いますが、おそらく今回はK.プリングスハイムの作曲意図を逸脱することは極力避け、可能な限り原曲に忠実に復元するというスタンスで補筆完成されたものではないかと思われます。
 
● 第1曲(合唱とオーケストラ)
おそらく山田長政が1612年にタイ(アユタヤ)へ移住するために乗船していた朱印船の様子を歌ったものではないかと推測しますが、時代の荒波を超えてタイ(アユタヤ)へ向かう人生の航海を暗喩したものでしょうか、ドラムロールによる雷雨、フルートのトリルによる突風、弦のアタックによる波しぶきなど、非常に描写力のある音楽表現が印象的で、山田長政の運命を暗示するようなドラマチックな音楽が奏でられました。
 
● 第2曲(オーケストラ)
おそらく山田長政がタイ(アユタヤ)に到着した様子を音楽にしたものでしょうか、グロッケンシュピール、トライアングル、ティンパニー、ゴングなどの多彩な打楽器群による異国情緒が漂う音楽が奏でられました。
 
● 第3曲(ヴィオラソロ×2とチェロソロ×2)
どのような場面のための音楽なのか分かりませんが、山田長政の幸せな暮し振りを表現したものなのか、叙情的な音楽が演奏されました。ラジオ用の音楽劇として作曲されたものなので、当時のラジオ放送では場面説明のためのナレーションなどが挿入されていたのかもしれません。
 
● 第4曲(バリトンとオーケストラ)
山田長政がタイ(アユタヤ)に移住して約20年が経過し、日本を懐かしく回顧している場面と思われますが、ヴァイオリン・ソロに導かれてバリトンによる叙情的な歌唱に魅了されました。おそらく台本の影響もあると思いますが、劇的な感情を歌うアリアというよりも詩的な情緒を歌う歌曲という印象の音楽に感じられました。
 
● 第5曲(ソプラノ(リカ)、バリトン、合唱とオーケストラ)
幸若舞「敦盛」の詞章が歌われましたが、どのような場面を想定しているのか分からず、何とも感想の書きようがありません。
 
● 第6曲(ソプラノ(トカウハム)とオーケストラ)
山田長政とリカの恋仲に対する嫉妬心を歌ったものなのでしょうか、どのような場面を想定しているのか分からず、何とも感想の書きようがありません。
 
● 第7曲(合唱とオーケストラ)
ホルンやドラムの彷徨、快活な合唱による野趣漲る勇壮な音楽が奏でられましたが(祭り?)、どのような場面を想定しているのか分からず、何とも感想の書きようがありません。
 
● 第8曲(オーケストラ)
どのような場面を想定しているのか分かず(間奏曲?)、何とも感想の書きようがありません。
 
● 第7a曲(フルートソロとヴィオラソロ)
メランコリックな音楽が印象的でしたが、どのような場面を想定しているのか分からず、何とも感想の書きようがありません。
 
● 第9曲(ソプラノ(リカ、トカウハム)、バリトン、合唱とオーケストラ)
山田長政の偉業を湛える大団円になりましたが、現代音楽や大衆音楽などで「型破り」に慣れてしまっている現代人には「型通り」の健康的な音楽を聴くと、誰か又は何かを称揚して止まない社会主義リアリズムの音楽を連想してしまう憾みがあります。個人的には、人間の本質や美の核心は「光」よりも「影」の方に宿るものだと思っていますが、老輩には些か眩し過ぎる音楽という印象が残りました。
 
 
▼新作ミュージックシアター「Silver Mouth」
【演題】横浜国際舞台芸術ミーティング(YPAM)
【演目】ミュージックシアター「Silver Mouth」(世界初演)
     <謡>青木涼子(母役)
     <歌>ジェイムス・ハリック(銀の狐役)
     <音響パフォーマンス>JOLT Arts
【作曲】ジェイムス・ハリック
【日時】2024年11月30日(土)19:00~
【会場】BankART Station
【一言感想】
https://ypam.jp/documents/m_program/content/1724815850_7_0.jpg
昨年、オーストラリア人作曲家のジェームズ・ハリックさんが監督を務めるオーストラリアに拠点を置く前衛アート集団「Jolt Arts」と能声楽家・青木涼子さんが最先端のオーディオ・ビジュアル&インタラクティブ・パフォーマンス作品を公演して話題になりましたが、今回の公演ではジェームズ・ハリックさんが謡、歌、音響パフォーマンスを融合した新作ミュージックシアター「Silver Mouth」の公演(11月30日公演)と能の謡と弦楽四重奏のための新作「I wouldn ′  t」などの公演(12月1日公演)が開催される予定になっています。今回は後者の公演は都合が付きませんので聴きに行くことができませんが、前者の公演は万難を排して聴きに行く予定にしています。昨年の公演ではアートとテクノロジーを融合した新しい芸術体験に興奮を禁じ得ませんでしたので、今回の公演も非常に楽しみです。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。なお、今後の青木さんの公演予定のうち女性作曲家に関連するものに限って言えば、2025年2月27日~翌3月1日に現代作曲家の能オペラ「葵」がローザンヌで再演され、2025年6月19日~同21日に現代作曲家の望⽉京さんのオペラ「OTEMBA~不屈の女性たち~」がアムステルダムで開催されるホランド・フェスティバルで世界初演され、また、2025年9月5日~同6日に現代作曲家の小出稚子さんの能声楽とオーケストラのための新作が名フィルの定演で世界初演される予定なので注目されます。
 
―――> 追記
 
オーストラリアに拠点を置く前衛アート集団「JOLT Arts」の3度目の来日公演が昨年の公演と同じくBankART Station(新高島駅)で開催されました。昨年の公演で新高島駅周辺の再開発の話題に触れましたが、今年6月にヤマハの体験型「ブランドショップ」がオープンし、新しい芸術体験を模索するエコトーンとして革新のムーブメントを仕掛けるヤマハの野心が感じられる店舗になっており(下表の写真を参照)、横浜の新しいランドマークとして注目されます。本日公演されたオーストラリア人現代作曲家のJ.ハリックさんの新作ミュージックシアター「Silver Mouth」(英語上演)も新しい芸術体験を体現するもので、現代人の知性や感性を前提として現代の時代性を投射する内容は現代人の教養(心の豊かさ)を育み得る芸術表現に感じられました。この作品は謡、歌及び電子音響パフォーマンスから構成されていますが、その歌詞(詞章)は詩的であり抽象的なもので、その表現意図を読み解くことは一筋縄ではいかない印象を受けますが、敢えて、具体的なプロットを提示するのではなく、観客のプロジェクションによって様々な解釈を許容する懐の広い作品と言えるかもしれません。その前提に立って、あくまでも僕の個人的なプロジェクションで捉えた1つの解釈として感想を残しておきたいと思います。この物語には祖母(狼の精霊又は自然主義のメタファー)、母及び娘の3人が登場し、山の森に棲む祖母(狼の精霊と言われるとアニメ「もののけ姫」に登場する山犬=ニホンオオカミを連想しますが)は母や娘に「空に月を引く」ように諭します。個人的には、祖母はオーストラリアを含む世界各国で発生している地球温暖化による森林火災(歌詞の「キャンプファイヤー」は森林火災の比喩?)で犠牲になった生物や自然のメタファーではないかと感じられ、また、祖母が母や娘に「空に月を引く」ように諭す意味は月が地球を冷やす夜を比喩するものとして地球温暖化を阻止する必要性を暗示したものではないかと感じられました。過去のブログ記事で触れたとおり、約45億年前に地球に隕石が衝突して月が誕生したことにより、①月の引力による潮汐と海底との摩擦で地球の自転速度が1/5に減速し(この減速がなければ地表は大型ハリケーン並みの強風が吹き荒れ)、また、地球の地軸が23.4度に傾いたことで地表に安定した環境(地表の温度を夏に温め、冬に冷まして地球全体の温度を平準化)が生まれ、地球上の生物の繁栄が可能になったと言われていますので、月を生物や自然を育んだ祖母と捉えることができるかもしれません。第1幕は「狼の精霊である祖母が、空に月を引っ張ってきます。」と解説が付されています。月を抱く宇宙の拡がりを連想させる電子音響が流れるなかを、白髪にお面を付けたJ.ハリックさんが扮する祖母(能楽の伝統を意識したものか男性の役者がお面を付けて女性を演じています)が杖をつきながら登場して、「高潔な心は義務に従って判断する。あなたは月を引きますか?」と観客に問い掛けながら、月に見立てた照明の前で祈祷を捧げました。第2幕は「母親の口が銀色に変化します・・山の森からの呼び声を聞きます。」と解説が付されています。祖母の呪力を連想させるノイジーな電子音響のなかを、白装束の青木涼子さんが扮する母が摺り足の運びで登場し、木机の前に座りながら謡い舞いました。母は「山麓の川へ向かう。彼女はそこで失われた。私の母はそこで失われた。」と謡いましたが、個人的には、森林火災から逃げるために山の森から麓の川へ向かった狼(生物)が成す術もなく炎に飲み込まれた惨状を暗示しているように感じられました。また、母は「私の母はあの山で銀の口を持ったまま失われた」「彼女の口の銀が私の口に刻まれた」と謡いましたが、「銀の口」はスプーン、即ち、人間の欲望を比喩するものとして人間の欲望が地球温暖化による森林火災の惨禍を招いたことを暗示しているように感じられました。なお、青木さんは英語の詞章を違和感なく謡われており能声楽の真骨頂と言うべき好演でしたが、ネイティブの方にどのように聴こえていたのか興味があります。第3幕は「母親の娘も同じ精霊の声を森から聞きます。娘は月が自分に話しかけていると思い込み、母親は娘を心配します。」と解説されています。母は娘から「私は月の声を聞く・・あなたは月の声を聞く?」と質問され(能の作り物よろしく娘は黒髪のかつらのみで表現され、J.ハリックさんが音声のみを担当されていました。)、母は「娘よ、月と話さないでおくれ」と謡いましたが、母に扮する青木さんが娘の回りを素早い摺り足で運びながら母の狼狽振りを表現しているように感じられました。個人的には、この場面を見ながら数年前にアメリカ大統領ドナルド・トランプさんと環境活動家の少女グレタ・トゥンベリさんが地球温暖化を巡って舌戦を繰り広げていたことを思い出し、不都合な事実から目を背けようとする大人と現実を直視する子供の対比が印象的に描かれているように感じられました。第4幕は「娘に何かが起こる前に問題に対処しようと・・森へ向かいます。」と解説されています。山の森の映像が映し出されましたが、その前を摺り足で運ぶ青木さんの白装束にも山の森の映像がオーバーラップされるように映し出されて、さながら山の森と人間が一体となって共鳴しているアニミズム(過去のブログ記事でも触れた一元論的な世界観:母性原理)を彷彿とさせる幻想的な舞台が出色でした。母は山の森に深く分け入りますが、月(根本的な解決策)を顧みようとせずに山の森(対処療法)に迷い込む大人の姿が印象的に描かれているように感じられました。第5幕は「母親は自分の母親であり娘の祖母である銀の狼に出会います。祖母は、空に月を引くという義務を果たす時が来たと告げます。しかし、母親はそれを拒否」と解説されています。何か大きな力に支配されていることを連想させる電子音響のなかを、山の森を彷徨う母の前に祖母が顕在して「月を引くこと。生命の自然の仮を返すために。」と歌いましたが、母は「私は月を引かない。」と拒否します。個人的には、この場面を見ながら地球温暖化対策として始められたEVシフトがいつの間にか世界各国の自動車会社の競争戦略という矮小化された話に貶められている現状、即ち、地球温暖化で自分の家が燃えるまで誰も本気で月を引こうとしない現状を思い出していました。第6幕は「娘は家族の義務である月を引くために祖母のもとへ向かった。」と解説されています。母が家に戻ると娘の置き手紙があり「私は義務と真実を果たします。そして毎晩、私は月を引くでしょう。」と書き残されているのを読みましたが、個人的には、上述のとおり未来を担う子供の現実を直視する目(イノセント・アイ)は不都合な事実から目を背けようとする大人の目よりも曇りなく月を捉えていることが印象的に描かれているように感じられました。第7幕は「深い悲しみと罪悪感に苛まれた母親は、山の崖へと走り、身を投げようとします。」と解説されています。ミニマル音楽の電子音響が流れるなかを、母に扮する青木さんが台座の上に登って山の崖から身投げしようとしている様子を表現していました。個人的には、母の「銀の口の遠吠えがキャンプファイアーで燃え上がり、悲しみの敗北を燃え上がらせた。」という詞章は人間の欲望(銀の口)が地球温暖化による森林火災(キャンプファイアー)を招いたことを直視した母が絶望の淵(山の崖)に立っていることを表現しているように感じられました。また、母の「鏡の喉を通して私の銀の悲しみを飲み込んで」という詞章は第8幕の「地上の欲望の月の鏡を通して」とパラレルになっているように感じられ、人間の欲望(銀)が月(根本的な解決策)を隠してしまうこと(鏡の喉、月の鏡)を比喩的に表現したものではないかと感じられました。第8幕は「母親は夜に娘と一緒にいられますが、義務を果たさなかった罰として、再び太陽を見ることはできません。」と解説されています。祖母は母に「毎朝、私はあなたを飲み込み、毎夕、私はあたなを月の軌道の中のフクロウとして吐き出す。あたなの子を見守り・・彼女が義務を果たすように。」と歌いながら、絶望の淵(山の崖)から母を救い出し、母と共に舞台から消え失せました。個人的には、太陽は人間の欲望の象徴であり、その裏腹としての森林火災を比喩しているように感じられ、再び、人間が欲望に溺れることは戒めなければならず(森林火災を契機として我々は新しい教養を育み)、森の賢者であるフクロウの知性をもって自然と調和する自然主義の重要性を説いているように感じられました。一聴した限りの感想なので何度も鑑賞しているうちにどんどん違ったものが見えてくるように思われ、それに応じて感想や印象も変り得ると思いますが、そのような大きな器を持った作品に感じられました。
 
横浜シンフォステージ(神奈川県横浜市西区みなとみらい5-1-2
ヤマハミュージック横浜みなとみらい:2024年6月にヤマハ体験型「ブランドショップ」が開店し、音と光と楽器が描く、「新しい景色へ」をテーマとしたMusic Canvasが話題になっており、休日家族連れやカップルなどで大変な賑いとなっている新しいランドマークです。 AI Duo Piano:光るライトに合わせて簡単なメロディーをピアノで弾くと、それにAIの伴奏と映像が連動して。全くの素人でも音楽を奏でる楽しみを体感でき、小さい子供達が音楽を楽しむ姿が実に微笑ましいです。イノベーションによる音楽演奏の民主化が図られています。 Hug Me:人間が演奏する楽器に触れることは難しいですが、自動演奏する弦楽器に触れることで、木を伝わる振動を体感することができます。上記のブログの枕で「ゆらぎ」について触れましたが、万物は粒子でもあり波でもあるので人間は五感から知覚する波に共鳴しています。 Tall Bass:一本の太い弦を弾くことで、どのように音が生み出され、変化するのかその原理を体感できます。過去のブログ記事で触れましたが、空間に音が充満している訳ではなく空気その他の媒質を振動が伝わり、その振動を知覚することで脳が作り出すものが音の正体です。 Art of Sound:洗練された機能美に彩られた4種類の管楽器のパーツで出来たモニュメント(この角度はト音記号)です。過去のブログ記事でヤマハ銀座店の「江戸の洋琴」を紹介しましたが、遊び(無駄の蓄積)から新しいものは生まれると思いますのでヤマハの挑戦に注目です。
 
 
▼イギリス歌曲リサイタル「ウィリアム・アダムス。またの名を三浦按針」
【演題】イギリス歌曲リサイタル
    「ウィリアム・アダムス。またの名を三浦按針」
【演目】<パート1>
    ➊松尾芭蕉の「おくのほそ道」より序文
    ②アンリ・デュパルク 歌曲「旅への誘い」
    ③チャールズ・スタンフォード 歌曲「ドレイク提督の太鼓」
    ④ジョン・アイアランド 歌曲「海への情熱」
    ⑤ピーター・ウォーロック 歌曲集「3つのベロックの歌」より
                         第3曲「わが祖国」
    <パート2>
    ⑥ガブリエル・フォーレ 歌曲集「幻想の水平線」より
                      第1曲「海は果てしなく」
    ⑦アルバン・ベルク 歌曲集「7つの初期の歌曲」より
                            第1曲「夜」
    ⑧ガブリエル・フォーレ 歌曲集「幻想の水平線」より
                     第2曲「わたしは乗船した」
    ⑨アンリ・デュパルク 歌曲「波と鐘」
    ⑩イザベラ・ゲリス 歌曲「2つの俳句」より「俳句1」(世界初演)
    <パート3>
    ⑪へンリー・パーセル 歌曲「おお孤独よ、我が甘き選択」
    ⑫アンリ・デュパルク 歌曲「前世」
    ⑬イザベラ・ゲリス 歌曲「2つの俳句」より「俳句2」(世界初演)
    ⑭アイヴァー・ガーニー 歌曲「フランダースにて」
    ⑮ヴァーン・ウィリアムズ 歌曲集「旅の歌」より
                         第1曲「放浪者」
    <パート4>
    ⑯ジェラルド・フィンジ 歌曲集「おお、見るも美しい」
                  第4曲「ただ放浪する者だけが」
    ⑰アイルランド民謡「マイ・ラガン・ラブ」
    ⑱ァーン・ウィリアムズ
        歌曲集「シェイマス・オサリバンによる2つの詩」より
                 第1曲「トワイライト・ピープル」
    ⓳ジョン・ダン 宗教詩「私の病床からの神への賛歌」
    ⑳ヴァーン・ウィリアムズ 歌曲「フィデルのための哀悼歌」
【演奏】カウンターテナー ファーガル・モスティン=ウィリアムズ
    ピアノ 大高真梨絵
    ナレーター 竹内大樹
【日時】2024年12月4日(水)19:00~
【会場】ムジカーザ
【一言感想】
先日、映画「SHOGUN 将軍」がエミー賞を受賞し、今般、そのサウンドトラックが2005年2月に発表される第67回グラミー賞最優秀映像作品サウンドトラック部門作曲賞にノミネートされていますが、このサウンドトラックはニック・チューバさん、アッティカス・ロスさん及びレオポルド・ロスさんが作曲を担当し、日本から石田多朗さんがアレンジャーとして参加して雅楽や日本の伝統音楽に関連するアレンジやレコーディングなどを手掛けています。この公演は映画「SHOGUN 将軍」から着想を得てW.アダムス(三浦按針)がイギリスへ送った手紙の抜粋やカウンターテナーのF.ウィリアムズさんが創作したナレーションから構成されているW.アダムス(三浦按針)の半生を綴った物語で、この公演で歌われる歌曲はW.アダムス(三浦按針)が見たであろう景色や心情などを表現するものだそうです。最近の研究成果によって当時のキリスト教会の世界戦略や豊臣秀吉や徳川家康がそれを知りながらキリスト教会の勢力を自らの覇権のために都合良く利用していた実態などが解明されており、それが映画「SHOGUN 将軍」にも描かれていて興味深かったですが、非常にタイムリーな公演なので聴きに行く予定にしています。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
―――>追記
 
久しぶりにムジカーザに行きましたが、少し時間があったので小田急線の代々木上原駅前にある俳優の榎木孝明さん(武蔵野美術大学中退)が経営しているアートスペース「クオーレ」に立ち寄りました。現在、榎さんが描いた来年のカレンダー「四季こもごも」に使用されている挿絵の原画の展示会「2025年カレンダー「四季こもごも」展」が開催されていますので、ご興味がある方はお立ち寄り下さい。今日は榎木さんの挿絵が入ったブックカバーを購入しましたが、かごしま茶(榎木さんは鹿児島県伊佐市出身ですが、ご案内のとおり鹿児島県はお茶の生産量で静岡県とトップを競うお茶処)の試供品を頂戴し、毎日、非常に香り高くまろやかな緑茶を楽しんでいます。
 
パート1:人生の船出
 
➊+②:歌曲「旅への誘い」
冒頭、俳優の竹内大樹さんによるナレーションで松尾芭蕉の紀行文「おくのほそ道」の有名な序文が読み上げられ、W.アダムスの出自が物語られた後、A.デュパルクの歌曲「旅への誘い」が歌われました。ピアニストの大高真理恵さんが大航海時代に旅への想いを募らせる若きW.アダムスの心情を彩るように海波や洋光を連想させる伴奏に乗せてカウンターテナーのF.ウィリアムズさんが旅への憧れから心急く思いを詩的に紡ぐ歌が聴かれ、おくのほそ道の序文に綴られている松尾芭蕉の旅への思いと重なって、観客の心も(歴史の)旅へと誘われました。
 
③:歌曲「ドレイク提督の太鼓」
ナレーションで24歳のW.アダムスはスペインの無敵艦隊と戦うF.ドレイク提督の下でイギリス海軍の物資輸送艦の艦長になったことが物語られた後、C.スタンフォードの歌曲「ドレイク提督の太鼓」が歌われました。ダイナミックなピアノ伴奏に乗せて歯切れ良く歌われる勇ましい歌唱はW.アダムスが志を抱いて自信に満ち溢れる様子が表現されているようでした。現代人の感覚からすると大学を卒業したばかりの24歳は青く感じられるかもしれませんが、当時の平均寿命は50歳に満たないと思われますので、現代の働き盛り(40歳前後)に相当すると言えるかもしれません。
 
④:歌曲「海への情熱」
ナレーションで1598年に東インド会社が保有していた5隻の船隊の航海士総監(船隊の舵取り役)として雇われたことが物語られた後、J.アイアランドの歌曲「海への情熱」が歌われました。前曲とは紅一点、落ち着きのあるピアノ伴奏に乗せて航海士総監としての風格のようなものが感じられる歌唱にはW.アダムスの成長の変遷が感じられて面白かったです。因みに「舵」という漢字は来年の干支である「蛇」という漢字によく似ていますが、「舵」の偏の部分の「舟」は渡し舟の象形文字、「舵」の旁の部分の「它」は人が舟を漕ぐ姿が体をくねらせて進むヘビの姿に似ていることからヘビの象形文字になっています。
 
⑤:歌曲「わが祖国」
ナレーションでW.アダムスは銀の取引のために南アメリカの西海岸に航海し、その取引が成就しなければ日本へ遠征して銀の取引を行い(因みに、当時の日本は岩見銀山などを擁し、世界全体の銀の産出量の約30%を占めていました)、モルッカ諸島で香辛料を買ってイギリスへ帰るという航海計画であったことが物語られた後、P.ウォーロックの歌曲「わが祖国」が歌われました。イギリスの美しい景色をイメージさせる幸福感に満ちた叙情的な歌唱とピアノが印象的で、長旅で祖国への郷愁が募るW.アダムスの心情が伝わってくるようでした。
 
パート2:人生の岐路の
⑥:歌曲「海は果てしなく」
G.フォーレの歌曲「海は果てしなく」が歌われましたが、大海原を渡って行くような推進力のあるピアノ伴奏に乗せて遥か彼方に広がる世界に思いを馳せているW.アダムスの心情が生き生きと伝わってくる清々しい歌唱が印象的でした。
 
⑦:歌曲「夜」
ナレーションでマゼラン海峡を通過する途中で強風の影響から船を停泊せざるを得なかったことが物語られた後、A.ベルクの歌曲「夜」が歌われました。夜の神秘的な雰囲気をイメージさせるピアノ伴奏に乗せて夜の静寂に澄み渡るようなカウンターテナーの透明度の高い美声を堪能できました。
 
⑧:歌曲「わたしは乗船した」
ナレーションで1599年9月にマゼラン海峡を通過して太平洋に出た後、嵐に遭遇して5隻の船隊は離散しますが、W.アダムスはリーフデ号に乗り換えてフロレアナ島で他の船が到着するのを待っていたことが物語られた後、フォーレの歌曲「わたしは乗船した」が歌われました。太平洋の荒波に揺られているようなピアノ伴奏とは裏腹に全く動揺を感じさせない安定感のある歌唱にはW.アダムスの運命に立ち向かう不屈の精神(商魂)のようなものが感じられました。
 
⑨:歌曲「波と鐘」
ナレーションで5隻の船隊のうちフロレアナ島に着いたのはリーフデ号ともう1隻のみでしたが、フロレアナ島の住民との衝突で20人の乗組員が命を落としたことが物語られた後、A.デュパルクの歌曲「波と鐘」が歌われました。フロレアナ島の住民との衝突をイメージさせる激しいピアノ伴奏に乗せて鬼気迫る歌が聴かれ、やがてこの衝突で擬制になった20人の乗組員の魂を弔う鐘の音を連想させるピアノ伴奏に乗せて思い掛けない災厄に翻弄されて動揺し、悲しみや恐怖など複雑な感情に入り乱れる歌唱に聴き入りました。F.ウィリアムズさんの歌唱は歌への感情の乗せ方が素晴らしく、心の機微を繊細に表現する表現力が見事でした。
 
⑩:歌曲「俳句1」
ナレーションで1600年4月にリーフデ号は豊後(大分県)に漂着し、暫く留め置かれたことが物語られた後、イギリス系カナダ人現代作曲家I.ゲリスさんの歌曲「2つの俳句」から「俳句1」(松尾芭蕉の俳句「うき我を さびしがらせよ かんこ鳥」に付曲したもの)が歌われました。精妙なペダリングにより紡がれるピアノ伴奏は余白や滲みのようなものが連想され、F.ウィリアムズさんが口を閉じたまま「ん」(日本語の五十音は口を完全に開く「あ」から口を完全に閉じる「ん」までの50音の仮名で宇宙の全て(阿吽)を表現していますが、「ん」はすべてが終わりすべてが生まれる仮名として音が生まれる前の音を体現しています)で歌われていました。カウンターテナーの透明度の高い美声で芭蕉の俳句が詠まれましたが、その禁欲的な音楽は茶室のように簡素でありながら、そこに深い趣きが宿る研ぎ澄まされた美を発見する味わいのようなものがあり、「侘び」の不完全さが生む風趣が表現されているように感じられました。
 
パート3:人生の転機
 
⑪:歌曲「おお孤独よ」
ナレーションでイエズス会の宣教師達がW.アダムスを海賊だと主張して処刑を求めますが、徳川家康の命令で大阪城に投獄されたことが物語られた後、H.パーセルの歌曲「おお孤独よ」が歌われました。涙が滴り落ちているようなピアノ伴奏に乗せて悲しみと溜め息に満ちた歌唱が聴き所になっていました。ヘンデルのオペラ「リナルド」の有名なアリア「私を泣かせてください」に代表されるように、悲しみを歌うカウンターテナーは珠玉の美しさを湛えています。
 
⑫:歌曲「前世」
ナレーションでW.アダムスが徳川家康に謁見し、徳川家康はイギリス、航海や造船のことなどに高い関心を示していたことが物語られた後、A.デュパルクの歌曲「前世」が歌われました。ミニマル音楽のようなピアノ伴奏に乗せてW.アダムスが複雑な心情を抱えながらも運命を受け入れ始めていることをイメージさせる落ち着いた歌唱が聴かれ、やがてドラマチックなピアノ伴奏に乗せて喜びに満ちた歌唱へと変化しましたが、徳川家康との運命の出会いがW.アダムスの人生の転機になったことを印象付けるピースでした。
 
⑬:歌曲「俳句2」
ナレーションでW.アダムスは何度も徳川家康に謁見し、イギリスのことについて色々と話しましたが、投獄生活から解放されることはなかったことが物語られた後、イギリス系カナダ人現代作曲家I.ゲリスさんの歌曲「2つの俳句」から「俳句2」(松尾芭蕉の俳句「東にし あはれさひとつ 秋の風」に付曲したもの)が歌われました。グリッサンドを繰り返すピアノ伴奏は徐々に速度を速めながらやがてピアノの鍵盤を上滑りするだけで音を奏でなくなり、F.ウィリアムズさんが「シー」と息を吐き、松尾芭蕉の俳句の言葉を一言づつ嚙み砕くようにして非常にデリケートに詠まれました。そのフラジャイルな肌触り感には人生の儚さ(無常感)のようなものが表現されているように感じられましたが、日本人よりも俳句の心を鋭敏に感じ取り、その世界観を繊細な音(静寂に聴くものを含む)で表現している秀作に思われ、是非、続作を期待したいところです。
 
⑭:歌曲「フランダースにて」
A.ガーニーの歌曲「フランダースにて」が歌われましたが、幻想的なピアノ伴奏に乗せてW.アダムスのイギリスへの郷愁が感じられる美しい歌唱に聴き入りました。儚い人生だからこそ、この世は美しく切ないものに感じられます。
 
⑮:歌曲「放浪者」
竹内さんが袴姿に着替えて登場し、ナレーションで徳川家康はW.アダムスの有能さを評価して日本初の洋式帆船の建造を命じます。さらに、1608年にW.アダムスを旗本に取り立て三浦按針という名前を与え、江戸幕府の外交顧問としたことが物語られた後、V.ウィリアムズの歌曲「放浪者」が歌われました。晴れがましいピアノ伴奏に乗せて着物に着替えて脇差を挿したF.ウィリアムズさんが快活な歌唱で、サムライとして新しい人生を歩むことになったW.アダムス(三浦按針)の心映えが印象的に表現されていました。
 
パート4:人生の終幕
 
⑯:歌曲「ただ放浪する者だけが」
ナレーションでW.アダムス(三浦按針)は徳川家康から250石の知行を与えられ(現在価値で年収約1000万円程度)、日本を離れることを禁じられたことが物語られた後、J.フィンジの歌曲「ただ放浪する者だけが」が歌われました。W.アダムスが人生を達観しているような心穏やかな歌が聴かれましたが、大航海から大後悔に陥るのではなく、自らの運命を悟りそれをありのままを受け入れながら自らの人生を大きく切り拓いて精一杯に生きた人物であったことが感じられるピースでした。
 
⑰:アイルランド民謡「マイ・ラガン・ラブ」
ナレーションでW.アダムス(三浦按針)は徳川家康のもとで日本の外交や貿易を支援して日本の新たな貿易ルートの開拓など偉大な功績を残しましたが、やがて徳川家康が死亡したことが物語られた後、アイルランド民謡「マイ・ラガン・ラブ」が歌われました。柔らかい和音を奏でるピアノ伴奏に乗せて繊細に喉を使うニュアンス豊かなアイルランド民謡を堪能できました。パート4全体を通してW.アダムスの鎮魂歌のように感じられましたが、W.アダムスの魂が故郷のイギリスに戻ったことを感じられるピースでした。因みに、この時代、アイルランドはイギリスに実行支配されていました。
 
⑱:歌曲「トワイライト・ピープル」
ナレーションでWアダムス(三浦按針)は長崎県平戸で1620年5月16日に没したこと(享年56歳)が語られた後、V.ウィリアムズの歌曲「放浪者」が歌われました。F.ウィリアムズさんは椅子のうえに置いた着物と脇差を遺影に見立て、無伴奏でW.アダムス(三浦按針)の魂を慰める優しい歌唱が聴かれ、ピアノが弔鐘の音を奏でながら、ペダリングによる残響がさながらW.アダムス(三浦按針)の魂が天に召されるように儚く空に消え入る静謐な雰囲気が会場を支配しました。
 
⓳+⑳:歌曲「フィラデルのための哀悼歌」
ナレーションでジョン・ダンの宗教詩「私の病床からの神への賛歌」が朗読された後にV.ウィリアムズの歌曲「フィラデルのための哀悼歌」が歌われ、W.アダムスの鎮魂歌が捧げられました。(合掌)
 
 
①按針塚(神奈川県横須賀市西逸見町3-5-7
②三浦按針屋敷跡(東京都中央区日本橋室町1-10-8
③黒船橋(東京都江東区門前仲町1-3-7
④按針メモリアルパーク(静岡県伊東市渚町6
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①按針塚:W.アダムス(三浦按針)は徳川家康から神奈川県横須賀市逸見に250石の領地を与えられていましたが、京浜急行の安針塚駅にある塚山公園には按針塚という供養塔(向かって右塔がW.アダムス、左塔が妻)が安置されています。 ②三浦按針屋敷跡:オランダ東印度会社東洋派遣隊の航海士だったW.アダムス(三浦按針)は1600年に暴風のため大分県に漂着しましたが、その後、徳川家康の通商顧問になり、江戸城下の東京都日本橋室町に拝領屋敷を与えられていました。  ③黒船橋:黒船川は隅田川の支流である大横川に掛けられている橋ですが、W.アダムス(三浦按針)が黒船を係留していたことから命名されたという説があります。因みに、W.アダムスが乗船してきたリーフデ号は船体が黒く塗装されていました。 按針メモリアルパーク:W.アダムス(三浦按針)は航海術など西洋技術に精通していたことから徳川家康に命じられ、伊東で日本初の洋式帆船が建造されました。「三浦」は領地のある地名、「按針」は水先案内人の意味で命名されています。
 
 
▼能楽のアップデート:新作能「神武」とミュージックシアター「Silver Mouth」とアヌーナ公演「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~
現代音楽と同様に新作能の公演も関東よりも関西が活発な傾向(西高東低)があるように感じられますが、先日、熊野那智大社で世界遺産登録20周年を記念してシテ方宝生流能楽師・辰巳満次郎さんらによる新作能「神武」の奉納公演が行われました。熊野那智大社のご神体である那智大滝が降臨する滝雨の中での公演となりましたが、その模様がYouTubeにアップされていますのでご紹介しておきます。また、今月、能声楽家・青木涼子さんとオーストラリア人作曲家・ジェイムス・ハリックさん/JOLT Artsが能の謡、歌と音響パフォーマンスを融合した新作ミュージックシアター「Silver Mouth」と能の謡と弦楽四重奏のための新作「I wouldn ′  t」などを公演する予定になっており見逃せません。さらに、来月、中世のアイルランド音楽とクラシック音楽やコンテンポラリー音楽などを融合して現代的にアレンジして聴かせる合唱団「アヌーナ」が来日します。合唱団「アヌーナ」は2017年に来日した際にW.イエーツの戯曲「鷹の井戸」を題材にして能と合唱を融合したケルティック能「鷹姫」を上演して大いに話題になりましたが(過去のブログ記事で採り上げていますが、同じくW.イエーツの戯曲「鷹の井戸」を題材にした坂本龍一さんと高谷史郎さんの舞台「LIFE-WELL」なども有名ですが)、今回は小泉八雲(ギリシャ系アイルランド人で日本に帰化したラフカディオ・ハーン)の戯曲「雪女」を題材にして能の舞と合唱を融合した「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~が上演される予定になっており大いに注目されます。この点、アイルランドやアイスランドには冬、氷や雪を司る女神、妖精や精霊に纏わる伝説がありますので、ストーリーは全く異なりますが、アイスランドを舞台にしていると言われるディズニー映画「アナと雪の女王」(劇団四季ロングラン上演中)や日本でも古くから存在する雪女の伝説などとの文化的な基盤の類似性のようなものも感じられ、その意味からも興味深いです。いよいよ能楽も伝統から革新へとシフトする潮流が本格的なものになってきているような手応えがあり、非常に頼もしい限りです。
 
▼映画「シムサ」
1669年にアイヌ人の首長・シャクシャインを中心に勃発した松前藩に対する武装蜂起「シャクシャインの戦い」(史実)を題材として、俳優・寛一郎が演じる松前藩士・高坂孝二郎の目を通して当時のアイヌ人や和人を翻弄した悲劇をフィクションとして描くことで多文化・多民族共生という現代的なテーマを扱った映画「シムサ」が公開されています。現在、公開中のため、ネタバしないように具体的な内容に関する言及は避けたいと思いますが、史書によれば、シャクシャインの戦いはアイヌ人同士の抗争を発端とし、これに松前藩が絡んだことが直接のトリガーとなって勃発したと言われています。この点、この映画ではストリー展開をシンプルにするために、それ以前からアイヌ人と松前藩との間で鬱積していた問題(不平等な交易、天然資源の乱獲)に焦点を絞って描かれています。前回のブログ記事で「憎」という感情について触れましたが、「憎」は自らが属する「集団」を守って自らの生存可能性を高めるために「何をしたか」(行為)ではなく「何であるか」(対象)に向けられた感情であり、その対象を除去することで癒されると述べましたが、アイヌ人に命を救われた松前藩士・高坂孝二郎がアイヌ人の「憎」と和人の「憎」との狭間で揺れ動きながら「憎」を克服して行く姿を描く感動的な内容になっており、ロシアによるウクライナ侵攻、ハマスによるイスラエル越境攻撃やイスラエルによるガザ侵攻(いずれも民間人の犠牲を厭わない無差別攻撃)と重ね合わせながら、色々と考えさせられる映画でした。人類史を紐解けば、古今東西を問わず、アイデンティティが異なる集団同士で土地の奪い合いを繰り返してきた歴史であり(第二次世界大戦以降は土地の奪い合いから金銭の奪い合い(経済戦争)へと移行しましたが、近年、再び土地の奪い合いに戻ろうとしているのが現在の世界情勢です)、それと根を同じくするものとして日本でもアイデンティティが異なる対象に対する差別感情に基づくヘイト発言が後を絶ちませんが、先日、バイデン大統領が先住民同化政策を謝罪したように自らと異なるアイデンティティを持つ対象を(ヘイト発言を含む)暴力で除去しようと試みたり又は自らのアイデンティティに同化しようと試みるのではなく、前回のブログ記事でも触れたようにお互いの違いを大らかに許容することができる幅広い教養を培うことが益々重要になっていると思います。そんなことを考えさせる映画であり、是非、これからの多様性の時代を拓いていく若い人達にこそ見て貰いたい映画です。

深見まどか・ピアノリサイタル(B→Cバッハからコンテンポラリーへ)と明暮れ小唄「北斎小唄 より道 江戸・東京 橋めぐり」と藝大プロジェクト2024第1回「西洋音楽が見た日本」と「憎」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼「憎」(ブログの枕)
前回のブログ記事で「笑」という漢字は、冠の部分の「竹」が両手、脚の部分の「夭」が人体を表し、巫女が踊りで神を喜ばせる姿を象っており、気が緩んで心が空っぽになる状態を意味していると述べましたが、心の状態を表す漢字は他にも数多く(とりわけ忖、快、怖、悩、悔、惜など「りっしんべん」(忄)がつく漢字)、例えば、「忙」という漢字は、偏の部分の「忄」が心を表し、旁の部分の「亡」と併せて、何かに追われて心を亡くしている状態を意味しています。また、「憎」という漢字は、偏の部分の「忄」が心、旁の部分の「曽」が甑(こしき)を表していますが、曽(甑)は穀物を蒸すための器具を象っており、何かに煩わされて心が恒常的に一杯になっている状態(常に蒸気が充満して蒸されているような状態)を意味しています。現代は、価値観の多様化やSNSの普及に伴うコミュニケーション過多などを背景として、「外に紛争、内に炎上」という顕著な現象として社会に「憎」(ヘイト)が顕在化し易い時代になっていると言われていますが、何故、人間は憎むのかについて簡単に触れてみたいと思います。なお、「憎」と似た言葉に「怒」がありますが、「怒」という漢字は、冠の部分の「奴」が力を表し、脚の部分の「心」と併せて、何かに腹を立て心が一時的に一杯になっている状態を意味しています。この点、アリストテレスは著書「弁論術」において「怒」と「憎」を比較しながらそれらの違いを分析していますが、それを敷衍すると、「怒」は自分の生存可能性を低める「結果」(行為、出来事など)に対する一時的な感情の高ぶり(喧嘩、裁判など)であるのに対し、「憎」は自分の生存可能性を低める「対象」(人間、思想など)に対する恒常的な敵意の積もり(戦争、炎上、イジメなど)である点が異なっており、前者は自分の生存可能性を低める「結果」(負荷)が解消されれば癒されますが(負荷離脱)、後者は自分の生存可能性を低める「対象」(負荷)を除去しない限り癒されること(負荷離脱)はないという点に顕著な違いがあります。この点、ロシアによるウクライナ侵攻、ハマスによるイスラエル越境攻撃やイスラエルによるガザ侵攻などでは、それぞれの「憎」が民間人の犠牲を厭わない無差別的な攻撃(「対象」の除去)につながっていると言えるかもしれません。
 
▼漢字が物語る心の状態(「憎」とはどのような心の状態か?)
漢字 心の状態
あり 放下 心が空っぽ 幸福
生存可能性が
高まるっている状態
執着 心が一時的に一杯 不幸
生存可能性が
低まっている状態
心が恒常的に一杯
なし 心を亡くす
※「怒」は特定の相手(個体、何をしたか)に向けられ、その相手を変化させることに目的が向けられているのに対し、「憎」は特定の相手(個体、何をしたか)だけではなく不特定の相手(属性、何であるか)にも向けられ、その相手を破壊することに目的があるという違いがあります。
※「憎」が心に深く刻まれると「」になりますが、「忄」は心を表し、「艮」はいつまでも後に残ること(根、痕など)を表しており、心に深く刻まれた「憎」で心を囚われている状態を意味しています。
※「幸」という漢字は、「屰」(逆らう)と「夭」(死ぬ)を組み合わせて死ぬことに逆らうことを意味していますが、心に余裕がある状態は死ぬことに逆らう余裕があり「幸」に恵まれている状態にあることから「幸福」と言いますが、心に余裕がない状態は死ぬことに逆らう余裕がなく「幸」が侭ならない状態にあることから「不幸」と言います。
 
過去のブログ記事でも触れましたが、人類は約5万年頃の突然変異でミラーニューロンを獲得したことにより他人の表情や動作などを自らに置き換えて追体験やシミュレーションを行うことが可能になりましたが(認知革命)、これに伴って他人の心理、意図や文脈などを推測して「共感」する能力を発達させたことで血縁関係を越える集団を形成する社会性を備えたと考えられています。これを背景として人類はより大きな獲物を捕獲するために「集団」で狩猟するようになりましたが、一緒に狩猟を行う仲間が獲物を捕獲すること(富の獲得)により自らも食料を摂取すること(富の分配)が可能になったことで、脳が代理報酬(ドーパミンなどの分泌)を感得するように進化したことが「集団」の結束を強めたと考えられています。その後、人類は約1万年前頃の氷河期の終焉により狩猟採集よりも生活基盤が安定している農耕牧畜へ移行して定住生活を営むようになりましたが、これに伴って自らのイメージや記憶などを他人と共有する能力を発達させて高度な社会を形成するようになり、自然の模倣だけではなく人間の模倣も盛んに行われるようになったことで「学習」(「学(まな)ぶ」の語源は「真似(まね)る」、「習(なら)う」の語源は「倣(なら)う、慣(な)れる」)を通して文化が育まれ、アイデンティティを形成するようになったと考えられています。この過程で人類は大脳新皮質を進化させて知的感情(将来に対する不安や脅威など抽象的な対象に関係する感情)を臨機に生成して「集団」の最適化を図ることで自ら生存可能性をより高めるようになったと考えられています。この点、自らの生存可能性を高めるためには自らが属する「集団」(富の獲得と富の分配を効率化するためのインフラ)の持続、発展が欠かせなくなり、その脅威となるものから自らが属する「集団」を守ることが重要な使命になりましたが、他の集団との間で限られた食料やその他の資源などを奪い合う過酷な環境下においては他の集団を破壊すること(「対象」の除去)が自らが属する「集団」を守るために効果的であることから、そのような過酷な環境を生き抜くために「憎」という感情を発明したのではないかと考えられています。人間が「憎」の感情を抱くときは「対象」から人間らしいイメージを取り除くべく動物などに擬制して「共感」の働きを抑制することで「対象」への敵意や暴力を正当化し易くする心理プロセスが働いていると考えられています。この過程で人間の大脳新皮質が活発に活動し、本能的(情緒)ではなく理性的(論理)なプロセスとして「対象」の非人間化を図っていることが分かっていますので、このプロセス(認知バイアス)を止めて「対象」への攻撃を思い留まらせることは相当に困難であると言われています。ここで、人間は「集団」の内(守るべきもの)と「集団」の外(壊すべきもの)をどのように区別しているのかが問題になりますが、人間と同じく高度な社会性を有する蟻はキノコ体と呼ばれる脳(主に人間の大脳辺縁系の機能)を持ち、「集団」の内(我ら)と「集団」の外(彼ら)を「匂い」で区別していることが分かっており、自らが属する「集団」の「匂い」と異なる匂いを持つものを「集団」の外(富の獲得と富の分配を効率化するためのインフラの脅威となり得るもの)と認知して攻撃する習性(「匂い」という直感的な識別子を使いながら「集団」の同種性や同族性を重視し、それ以外の集団に対する攻撃性が高い傾向)があることから単一種や単一族による小規模な社会を形成する一方で、その種族は不変的なので「集団」の内に争いは生じ難いという特徴(日本人が蟻に例えられることが多いのは蟻と似たような特徴があるからだと思われます)を持っています。これに対し、人間は大脳皮質(脳幹、大脳辺縁系及び大脳新質の3層構造)と呼ばれる脳を持ち、「集団」の内(我ら)と「集団」の外(彼ら)を「アイデンティティ」で区別しており、自らが属する「集団」と同質の「アイデンティティ」を持つものは民族や文化などを超えて「集団」の内(富の獲得と富の分配を効率化するためのインフラを維持、発展させるもの)と認知して許容する習性(「アイデンティティ」という非直感的な識別子を使いながら「集団」の関係性を重視し、その関係性が保たれている限り許容性が高い傾向)があることから多民族や多文化による大規模な社会を形成する一方で、その関係性は可変的なので「集団」の内に争いが生じ易いという特徴を持っています。人間は「集団」を守ることで脳内の神経伝達物質であるドーパミン(快楽や意欲などを司り、脳を興奮させるホルモン)が活発に分泌されて「正義」(自らが属する「集団」を守ること)を実現しているという自己肯定感が強まると言われていますが、自らの生存可能性を高めるために自らが属している「集団」(同じアイデンティティを形成する同質的な内集団)を強く支持する一方で、他の集団(異なるアイデンティティを形成する異質的な外集団)に対して攻撃的になる習性があり「正義」の実現に脅威を及ぼす悪党としてバッシングする行動に快感や意欲などを覚え、それに同調する人々が集まってイングループ・バイアス(同質的な内集団に好意的、協力的に行動する特性)を一層と強め、この過程で他の集団から人間らしいイメージを取り除くべく動物などに擬制して他の集団に対する攻撃を正当化しながら正義感の暴走へと陥って行くと考えられています。現在、「憎」という感情を緩和又は払拭する医学的な治療法に関する研究は進んでおらず、また、上述のとおり人間は進化の過程で自らが属する「集団」を守り自らの生存可能性を高めるために「憎」という感情を発明した経緯(光と影の二面性)があることから「憎」という感情を完全に払拭することは困難であると考えられていますが、例えば、芸術体験などを通じて幅広い教養を培うことで自己理解を深めると共に「対象」に対する多面的な見方が可能になって「憎」を緩和する心理的な効果が期待できると指摘されていますので、多様性の時代を迎えて現代人の幅広い教養を培うことができる新しい芸術体験が求められています。この点、脳科学者の茂木健一郎さんは「「分かり合える」という思い込みを止めること」が重要であると仰っていますが、SNSの普及に伴うコミュニケーション過多などにより、かつては社会の潤滑油として有効に機能していた適度な誤解に隠れていた本音が容赦なく「見える化」(トリガー・イヴェント)してしまい、その状況に適切に対応することができるだけの智恵や胆力などが備わっていない人間が適度な誤解から過度な理解に陥って「憎」を逞しらしてしまう時代の副作用とも言える状況が生まれているように思われます。その意味で、コミュニケーションを重ねれば「分かり合える」というステレオタイプの短絡的な発想に飛び付くことは火に油を注ぐ結果になり兼ねず、お互いの違いを無理に無くそうと試みるのではなく、お互いの違いを大らかに許容することができる幅広い教養を培うことが益々重要になっていると思われます。なお、脳科学者の中野信子さんはイングループ・バイアスが強く働く「日本は「優秀な愚か者」の国」であると揶揄し、「集団の上位にいる人の教えや命令に忠実に従う、従順な人が重用される傾向は否めません。これは政府や企業に限らず、最高学府であるはずの大学でさえ例外ではありません。」と指摘していますが、余計なことを考えずに指示や命令などに闇雲に従う従順な人(集団のアイデンティティに馴染む同質な人)を重用し、指示や命令などに闇雲に従うのではなく思慮深く洞察力のある人(中野さん曰く、脳科学では前頭前野が発達している知能が高い人)は「使えない人、面倒くさい人」(集団のアイデンティティに馴染まない異質な人)と疎んじる傾向があることは否めず、このような風土に日本の大学が世界的なレベルに及ばず、また、この変革の時代にあって日本社会が凋落している原因の1つがある点を洞察されているのは正しく慧眼です。過去のブログ記事でも触れたとおり、多細胞生物は無性生殖による効率性を犠牲にしても有性生殖による多様性の創出を生存戦略として選択したことで高度な繁栄を実現にしましたが、このような進化のダイナミズムから学ぶべき点は多いと言えるかもしれません。
 
 
▼深見まどか・ピアノリサイタル(B→Cバッハからコンテンポラリーへ)
【演題】B→Cバッハからコンテンポラリーへ
    265深見まどか(ピアノ)
【演目】①C.ペパン ナンバー・ワン(2019)
    ②K.アカール プリペアド・ピアノのための
              「アルテファクト・エチュード第1番」から
                「鏡のヴァリアシオン」(2021)
    ③C.ドビュッシー 映像第2集
    ④J.S.バッハ トッカータホ短調BWV914
    ⑤J.S.バッハ トッカータト短調BWV915
    ⑥M.ラヴェル 水の戯れ
    ⑦P.エルサン 失楽園(2019)
    ⑧P.アタ エテュイ(2019/23)
    ⑨P.アタ エグラン・デテルヌ あるいは繁栄の大箱(世界初演)
    ⑩C.ペパン 虹色─氷(2023)
    アンコール 西村朗 星の輝
【演奏】<Pf>深見まどか
【日時】2024年10月15日(火)19:00~
【会場】東京オペラシティー リサイタルホール
【一言感想】
「自然と自由」をテーマとして、日本文化への造詣が深いフランスを代表する現代作曲家のP.エルサンさんの作品などフランス近現代音楽を採り上げる深見まどか・ピアノリサイタル(B→Cバッハからコンテンポラリーへ)を聴きに行く予定にしています。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
ーーー>追記
 
ピアニストの深見まどかさん(1988年~)はコンセルバトワール(パリ国立高等音楽院)で学び、フランス近現代音楽の演奏に定評がありますが、未だ定番曲好きが多い後進国日本では滅多に聴く機会がないフランス人の若手作曲家の作品を採り上げる興味深いプログラムでしたので聴きに行くことにしました。以前にも書きましたが、これからの時代の演奏家は単に定番曲を巧みに弾き熟すだけではなく、世界中の新しい傑作を発掘してその魅力を伝えることができる芸術家としての総合的な資質が問われる(その意味ではモダニズムの産物であるコンクールに入賞することにかつての価値を見出せない時代になっている)と思いますが、クラシック音楽がそうであったように時代の風雪に耐え得る現代音楽の傑作はごく一握りであると思われ、また、一生涯に聴くことができる音楽の数量には限りがあることなどを踏まえると、演奏家の審美眼で世界中の有能な若手作曲家の傑作を選りすぐり、その魅力を観客に伝えてくれる深見さんのような存在は有難く、そのような演奏家の台頭に心から期待したいと思っています。
 
C.ペパン ナンバー・ワン(2019)
パンフレットによれば「自然を主要なインスピレーションの源とするぺパンの音楽は、同じく自然をしばしば扱うドビュッシーやラヴェルの音楽に通じる瑞々しさと、師エスケシュの音楽を思わせる推進力と生命力を持ち味」として、「「ナンバー・ワン」(2019)は、ニューヨークの港に反射する夕暮れの光をドリッピングで描いたジャクソン・ポロックの同名の絵画(1950)に想を得た作品」と解説されています。過去のブログ記事でも触れましたが、20世紀に登場した前衛音楽は人間の認知能力を超えて複雑になり過ぎた為に観客の現代音楽離れを決定的にした面があることは否めないと思われますが、C.ぺパンさんの音楽は良い意味で過去のシガラミや戦後後遺症に囚われることなく、ドビュッシーやラヴェルなどのフランス印象主義の音脈を受け継ぎながらも、それを抽象絵画(J.ポロックなど)やミニマル音楽(S.ライヒなど)などアメリカニズムを参照しつつ現代的に進化させた21世紀を体現する作風が非常に魅力的に感じられます。J.ポロックの「ナンバー・ワン」(ラベンダーミスト/1950年)は滴りや飛沫が織り成す重層的で混沌とした抽象表現で世界の実相に迫る作品だと思われますが、冒頭から奔放自在に弾き鳴らされる音楽は混沌としながら自然的に調和しているJ.ポロックの画風を音楽的に見事に活写しているように感じられ、内部奏法やペダリングを巧みに使いながら音の絵具が空間に滲んで行くドリッピングの即興性のような風合いが音楽的に表現されているように感じられました。また、フランス印象主義を思わせる眩い光沢感のある音が随所に散りばめられ、その揺らめきは水面に煌めく光の印象を表現しているようにも感じられましたが、パンフレットの解説にあるとおり、J.ポロックの即興性とT.エスケシュの大胆な筆致が重なり合い、そこにドビュッシーやラヴェルの光の印象が重層的に描き込まれているようで、非常にビジュアルで恍惚感のある美しい音楽と演奏に魅了されました。中間部ではジャズ・テイストな音楽が展開され、フランス人ピアニストのF.サイやウクライナ人ピアニストのN.カプースチンの音楽を彷彿とさせる閃きに満ちたリズミカルで精彩を放つ演奏に惹かれました。J.ポロックはジャズの愛好家としても知られ、その画風にはジャズの即興性や自由奔放な性格が影響を与えていると言われていますが、この中間部はJ.ポロックの絵画にも見られる作品全体に活力を与えるアクセントとして有効に機能しているように感じられました。そして、終曲部は神秘的な和音に包まれながら教会の鐘を連想させる硬質な響きが連打されましたが、教会の鐘はフランス人のアイデンティティを彩ってきたランドマークとも言え、J.ミレーの「晩鐘」、E.ベルリオーズの「幻想交響曲」や後掲の⑧P.アタの「エテュイ」などフランスの絵画や音楽の重要なモチーフとして「鐘」が登場する機会は多いですが、C.ぺパンがJ.ポロックの「ナンバー・ワン」に何を見て、何を聴いたのか興味が尽きません。個人的には、人間が芸術を鑑賞するのは「暇潰し」のためであると考えていますが、その意味で僕の意識をイマジネーションの世界へと誘って時間感覚を無くしてくれるような作品を愛して止まず、この曲もそのような作品の1つであると実感させられる演奏でした。
 
K.アカール プリペアド・ピアノのための「アルテファクト・エチュード第1番」から「鏡のヴァリアシオン」(2021)
パンフレットによれば「本作では接着パッド、ネジ、洗濯バサミ、割り箸が用いられます。「人工物」を意味するフランス語「アルテファクト」がタイトルに入っているのはそのためでしょう。」と解説されています。ご案内のとおり、H.カウエルが1923年にピアノ曲「エオリアン・ハープ」で内部奏法を発明して(撥弦楽器(ハープ)の代用)、それにインスピレーションを受けたJ.ケージが1940年にバレエ曲「バッカナール」でプリペアド・ピアノを発明しましたが(演奏会場が狭く打楽器アンサンブルを配置できなかったことからピアノに細工して打楽器の代用)、本日の演奏会ではプリペアド・ピアノの設えにより様々な打楽器の音に加えてエレクトロニクスのような音まで聴こえてくる面白い演奏になりました。冒頭ではプリペアドされた低音とノーマルな高音を対比することでピアノ音楽の拡張性が強調されているような効果を生み、また、ペダリングを巧みに使ってプリペイドされた音の残響を豊かに保つことでエレクトロニクスのエフェクトを彷彿とさせる音響的な拡がりを感じさせる効果が新鮮で、エレクトロニクスがアコースティックの領域を侵食するのではなく、アコースティックがエレクトロニクスの領域を侵食しているような野心的な作品に感じられました。先日、P.マヌリさんのライヴ・エレクトロニクスを使ったウェルプリペイドピアノ作品(日本初演)に接してその面白さに興奮を禁じ得ませんでしたが、この作品でもプリペイド・ピアノが現代的に進化していることが窺える大変に興味深い芸術体験になりました。琵琶(撥弦楽器)のような音、シロフォンやシンバル(打楽器)のような音などプリペアド・ピアノならではの魅力が存分に発揮された面白い演奏を聴くことができ、深見さんの冴え映えとしたピアニズムがプリペアドされた音を飲み込んで異彩を放つ絢爛たるコーダに魅せられました。
 
C.ドビュッシー 映像第2集
J.S.バッハ トッカータホ短調BWV914
J.S.バッハ トッカータト短調BWV915
M.ラヴェル 水の戯れ
前半(③、④)と後半(⑤、⑥)に分けて演奏されましたが、J.S.バッハの音楽をフランス印象主義の音楽で挟み込んでしまうB→Cシリーズならではの組合せが新鮮に感じられ、J.S.バッハの対位法による「線」の音楽に対してフランス印象主義の和声法による「面」の音楽が明瞭に対比されて面白く感じられました。あくまでも個人的なイメージであると断ったうえで、J.S.バッハの音楽には「線」を使って緻密に造形された人工美(絶対主義的な美意識)に彩られている印象がある(但し、「自然と自由」というテーマに絡めて言えば、とりわけ⑤の演奏ではバッハの音楽の特徴の1つである即興性もあった)のに対し、J.ポロック、フランス印象主義の音楽やその音脈を受け継ぐC.ぺパンさんの音楽は混沌としたものが織り成す自然美(相対主義的な美意識)に彩られている印象があり、その音楽的な性格の違いが印象的に感じられて興味深かったです。後者が体現する混沌から生じるフラクタル(自然的な調和)の世界観が現代の多様で相対的な価値観や世界観をより良く表現するものに感じられ、(J.S.バッハの音楽が人類の至宝であることは疑いの余地がないとしても)前者が体現する人工的に規律された絶対主義的な価値観や世界観(神の秩序、予定調和)は現代の多様で相対的な価値観や世界観とは些か乖離したものに感じられますが、このような対比を可能にしてしまうところにB→Cシリーズの醍醐味の1つがあると言えるかもしれません。
 
P.エルサン 失楽園(2019)
パンフレットによれば「イギリスの詩人ジョン・ミルトンの代表作である叙事詩と同名のタイトルをもつ本作は、エルサンと交流のあったフランスの作曲家で、エルサンと同じく人間の情念の表現に関心を持っていたオリヴィエ・グレフへの追悼に捧げられています。」と解説されています。冒頭はガムランのペロッグ音階を使ってノスタルジックな音楽が奏でられましたが、その後、O.グレフの弦楽四重奏曲第4番(遺作)や歌曲集「魂の歌」などを参照しながらオマージュが捧げられました。この点、O.グレフを清教徒革命で絶対王政に抵抗して自由のために戦ったJ.ミルトンに擬えて、フランスの前衛音楽の潮流に抵抗して機能和声という禁断の果実を選択したO.グレフが夭折したことによる喪失感を表現した曲のように感じられました。過去のブログ記事でも触れましたが、A.シェーンベルクは無調性の扉を開く一方で、調性を排除する闇の絶対性には陥らないバランス感覚も保っていましたが、その後、オーストリアやフランスの前衛音楽を中心として調性を排除する闇の絶対性に偏向して執拗に音楽を複雑にしたことに現代音楽(クラシック音楽)の「失われた20世紀」を生んだ原因の1つがあると言えるかもしれず、逆説的な意味で、O.グレフが生きた時代状況を「失楽園」と捉えることができると言えるかもしれません。調性や無調性(手段)に価値があるのではなく、それらを駆使してどのような世界観を表現し得るのか(目的)に価値があると思います。
 
P.アタ エテュイ(2019/23)
パンフレットによれば「2019年に発生したパリのノートルダム大聖堂の火災に衝撃を受け、(中略)現代を生きる人びとの「容器」たる遺産・自然環境の崩壊・破壊をテーマとする作品」を創作しましたが、「本日の演奏は、組曲として本来の構想を活かして再構成された改訂版の初演になります。」と解説されています。ノートルダム大聖堂の鐘のモチーフが印象的に繰り返され、その合間には破壊的、狂気的なパッセージが挿入されましたが、やがてノートルダム大聖堂の歴史を刻んできたルネサンス音楽の残照が走馬灯のように現れては消えて行く印象的な音楽が展開されました。その無常観を湛えた音楽が心に余韻深く響く含蓄のある作品でした。
 
P.アタ エグラン・デテルヌあるいは繁栄の大箱(世界初演)
パンフレットによれば「自然と文化のあいだの対立についてのひとつの考え方がある。種子が発芽するイメージを通して、成長と増殖というプロセスに則ったシステムとして植生環境を音楽的に表現することで、自然は象徴される。文化を象徴するのは、シャーマニズム的とさえいえるある種の神秘主義である。」と解説されています。一見、大人しそうに見える深見さんですが、ウッド・チャイムを掻き鳴らし、激しい足踏み、クラスター奏法や内部奏法など打楽器的な奏法を大胆に駆使したリズミカルな演奏で度肝を抜き、シャーマニックな雰囲気を湛えた野性味溢れるダイナミックな演奏が展開されて会場もヒートアップしました(赤いメッシュは、このため?)。臆面もなく自然の生命力を漲らせてしまう一皮も二皮も剥けた熱演に感服しました。これからの時代のピアニストは自分の殻を破って色々と出来なければいけません。
 
C.ペパン 虹色─氷(2023)
パンフレットによれば「タイトルは、雲がさまざまな色に染まってみえる彩雲とよばれる現象を表したもので、「氷」は雲を構成する氷の結晶に太陽の光が干渉するという、彩雲が発生する仕組みに由来します。」と解説されています。左手の彩りに右手が表情を添えながら、音色のパレットと形容したくなる色彩感豊かなグラデーションが実に鮮やかで、色や光の共感覚に訴え掛けてくる非常にビジュアルな演奏が展開されて、ピアニスティックな美観極まる演奏に魅了されました。上述のとおり、C.ぺパンさんの曲はフランス印象主義の音脈を引き継ぎながら、それを現代的に進化させたような21世紀を体現する作風が非常に魅力的に感じられます。
 
アンコール 深見さんは西村朗さんが最後に選んだB→Cシリーズの出演者だそうで、西村さんへのオマージュとして「星の鏡」が演奏されました。ペダリングのエコー効果により漆黒の宇宙空間に澄み渡る星の輝きをイメージさせる静謐な美しさを湛えた演奏を楽しめました。単なる追悼という意味合いを超えて色々な機会に西村さんの名前を耳にすることが多いですが、非常に多くの人々に慕われていた音楽家だったのだなと感慨を深くしています。
 
 
▼明暮れ小唄「北斎小唄 より道 江戸・東京 橋めぐり」
【演題】明暮れ小唄
    北斎小唄 より道 江戸・東京 橋めぐり
【演目】隅田川さんぽメドレー(編曲:明暮れ小唄)
    気にいらぬ(作詞:宮川曼魚、作曲:竹枝せん)
    柳橋から~待乳沈んで(作者不詳)
    業平(伊勢物語)(作曲:春日とよ)
    五月雨や(作曲:三代目清元斎兵衛)
    だまされて(水鶏)(作詞:岡野知十、作曲:吉田草紙庵)
    都鳥(作曲:清元菊寿太夫)
    白魚舟(作詞:磯部東籬、作曲:春日とよ年)
    夕立と田を(作者不詳)
    並木駒形(作者不詳)
    さくら雨(作者:小林栄、作曲:春日とよ稲)
    どうぞ叶えて(作者不詳)
    またの御見(作者不詳)
    川風(作者不詳)
    上手より(作詞:桜川遊孝、作曲:小唄幸兵衛)
    涼み舟(作詞:渥美清太郎、作曲:春日とよ)
    浜町河岸(作詞:西條八十、作曲:中山小十郎)
    夏の月(作詞:伊東深水・田中青慈、作曲:関口八重)
    中洲から(作詞:市川三升・伊東深水・遠藤為春、作曲:吉田草紙庵)
    佃流し(作詞:小野金次郎、作曲:山田抄太郎)
    辰巳の左褄(作詞:伊東深水、作曲:清元寿兵衛)
    辰巳やよいとこ(作詞:伊東深水、作曲:常磐津三蔵)
    向島名所(作詞:磯部東籬、作曲:杉浦翠女)
    河水(作詞:宮川曼魚、作曲:中山小十郎)
【演奏】<小唄>明暮れ小唄
        千紫巳恵佳
        小唄幸三希
    <案内>柳家緑太
    <打物>福原千鶴
        多田恵子
    <笛>福原徹秋
    <演出・脚本>大和田文雄
    <映像>渡邉肇
    <制作>明治座舞台
    <美術>小池アミイゴ
【日時】2024年10月19日(土)16:00~
【会場】YKK60ビル AZIホール
【一言感想】
小唄のユニット「明暮れ小唄」では葛飾北斎の名作と小唄の名曲で江戸情緒を味わう「北斎小唄」というシリーズ公演を興行されていますが、今回は番外編(「より道」)として葛飾北斎、歌川広重、明治の浮世絵及び古写真を採り上げながら移り変わる隅田川の橋をフォーカスした明暮れ小唄「北斎小唄 より道 江戸・東京 橋めぐり」を聴きに行く予定にしています。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
ーーー>追記
 
1855年に清元お葉が開曲した小唄「散るは浮き」の人気が端唄から俗謡「江戸小唄」へと本格的に派生する契機になったと言われていますが、端唄は芝居小屋や寄席などの比較的に広い空間で演奏される機会が多かったことから大きく明瞭な音を出せるように三味線を撥で演奏すると共に平坦な節回しで延音を豊かに響かせて唄われますが、小唄は座敷などの比較的に狭い空間で演奏される機会が多かったことから繊細で表情豊かな音を出せるように三味線を爪弾きで演奏すると共に技巧的な節回しで早く小気味よいテンポで唄われるという特徴的な違いを持っています。パンフレットには小唄「河水」の歌詞「流れて続く隅田川、昔を今に映す河水」が引用され、江戸小唄は「江戸が終わろうとする頃に生まれて、明治、大正、昭和にかけてぞくぞくと名曲が作られ、人気を博しました。場所としての江戸、時としての江戸を懐かしむ音楽」であり「明治以降の人々が江戸を想うとき、おそらく江戸時代の江戸の庶民が江戸という町に対して感じていた以上に、江戸への郷愁、今は無き江戸への熱い想いを抱いていました。明治から昭和にかけての東京を想うときにも、その向うには江戸がありました。それらを私たちが追体験したいと思ったら、手始めとして小唄ほどうってつけの音楽はありません。」と趣意が述べられていますが、故・立川談志師匠がよく言われていた「江戸の風」(「柳に風」という言葉がありますが、江戸の町を象徴する隅田川の柳を伝う風は大火の原因ともなり、その大火で一夜にして無けなしの銭を含む全財産を焼失する江戸っ子の間では「宵越しの銭は持たない」という気質が生まれ、さながら風にそよぐ柳のように何事も粋に往なして乗り切ってしまう江戸庶民の生き様が彩る江戸の風情)を感じさせる公演でした。本日の演奏会場がある東京都墨田区亀沢は葛飾北斎の生誕地としても知られ(後掲の写真)、葛飾北斎の肉筆画「隅田川両岸景色図巻」には吉原へ通う柳橋から山谷堀までの隅田川の両岸の風情が描かれていますが、江戸の水運の要衝でもある隅田川を初めとして数多くの水路を擁する江戸の町は「水の都」とも称させる景勝地及び行楽地として安藤広重の浮世絵「名所江戸百景」などにも描かれており、その四季折々の風物詩が小唄にも唄われています。この点、三途の川(①善人は川に架けられた橋を渡る、②悪人は川の浅瀬を渡る、③極悪人は川の深瀬を渡る、三途がある川)に象徴されるように、古来、川は此岸(この世)と彼岸(あの世)の境目を意味し、その川に架けられた橋は此岸(この世)と彼岸(あの世)をつなぐもの(能舞台の橋掛りや神社の太鼓橋と同じ)と捉えられ、それをインスピレーションとして豊かな日本文化が育まれてきました。観世元雅作の能「隅田川」でも、隅田川の東岸(京都方面)を此岸(この世)、隅田川の西岸(蝦夷方面)を彼岸(あの世、その結界としての木母寺の梅若塚)と捉える思想的なバックボーンがあるように思われますが、その此岸(この世)と彼岸(あの世)のアワイを縫うように流れる隅田川を隠舟で通う吉原は此岸(この世)の憂さを彼岸(あの世)へと流す浮世とでも呼ぶべき場所であり、どこか背徳感が漂う風情を小粋に唄に織り込んで洒落に変え、浮名を流す遊び心に小唄の魅力の1つがあるような気がします。
 
①吾妻橋(旧、大川橋)(東京都墨田区吾妻橋
②すみだ北斎美術館(葛飾北斎生誕地)(東京都墨田区亀沢2-7-2
③中島伊勢住居跡(葛飾北斎生育地)(東京都墨田区両国3-13-9
④太鼓橋(亀戸天神社)(東京都江東区亀戸3-6-1
①吾妻橋(旧、大川橋)葛飾北斎の肉筆画「隅田川両岸景色図巻」は、吉原へ舟で通う柳橋山谷堀までの隅田川の両岸を描いたものですが、柳橋のほかにも両国橋大川橋(現、吾妻橋)が描かれ、また、現代でもランドマークになっている回向院駒形堂浅草寺木母寺(能「隅田川」の舞台)、見返り柳吉原大門などが描かれて昔風情を伝えており、巻末には落語中興の祖・烏亭焉馬の狂文が添えられています。 ②すみだ北斎美術館(葛飾北斎生誕地):葛飾北斎の生誕地(本所南割下水)にはすみだ北斎美術館が建立され、毎日、日本人だけではなく多数の訪日旅行外国人で賑わっており、西洋の芸術家にも多大な影響を与えた葛飾北斎の国際的な知名度の高さが窺われます。なお、現在、すみだ北斎美術館の常設展プラスには左述した葛飾北斎の肉筆画「隅田川両岸景色図巻」の実寸大のレプリカなどが展示されています。 中島伊勢住居跡(葛飾北斎生育地):赤穂浪士の討入りがあった吉良上野介の上屋敷跡は町人に払い下げられましたが(大石内蔵助が討入りで山鹿流陣太鼓を打ち鳴らしたと伝わる吉良家大門跡、赤穂浪士が吉良上野介の首級を洗ったと伝わる井戸)、その一角に葛飾北斎が養子に入っていた叔父・中島伊勢の住居跡があります。因みに、吉良家の家老・小林平八郎は葛飾北斎の母方の祖父又は曾祖父と言われています。 太鼓橋(亀戸天神社)太鼓橋は神域(彼岸)と俗域(此岸)の結界を意味し、本来、交わらない異質なものをつなぐ役割を担ってきました。西洋でも古代ローマ時代からアーチ橋が造られており、主に橋に掛かる荷重を分散する機能的な理由から使われてきましたが、映画「ジョーブラックをよろしく」のラストシーンでは太鼓橋と同様に此岸と彼岸をつなぐメディアとしてアーチ橋が効果的に利用されています。
 
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本日の公演は墨田川に架かる「橋」をメディアとして江戸、明治、大正、昭和の時代をつなぎ、隅田川の風情を写した浮世絵や写真などのビジュアルな素材と共に四季折々の風物詩を唄う小唄(陰囃子)や江戸庶民の人情を粋活きと甦らせる噺を織り交ぜながら時代を往還する趣向の興味深い公演でした。冒頭、隅田川に架かる橋が航空写真を使った立体地図で俯瞰され、そこから明治時代以降の写真と江戸時代以前の浮世絵で隅田川に架かる「橋」の時代の記憶を遡りながら歴史の旅(アースダイブ)へと誘われました。高橋竹山に代表される津軽三味線が津軽海峡を吹き荒ぶ地風を体現するような剛の音楽であるとすれば、三味線を爪弾きしながら江戸庶民の粋と艶を紡いで江戸の風情を表情豊かに唄う江戸小唄は柳に風を体現するような柔の音楽と形容したくなる繊細で優美な肌触り感があります。本日の公演では明暮れ小唄の阿吽の呼吸により二棹の三味線と唄が当意即妙に掛け合い、さながら風にそよぐ柳のようにしなやかに紡がれる調子の変化(コード進行のようなもの?)が独特の風情を醸し出し、まるで隅田川を舟遊びしているような情緒豊かな演奏に心地よく身を委ねる至福の時間でした。パンフレットと共に本日演奏する小唄の歌詞が配布されましたが、小唄の短い歌詞には隅田川の両岸に広がっていた昔風情を伝える情報がふんだんに盛り込まれており、その歌詞を素読しているだけでもその情景が目に浮かんでくるようでしたが(歌詞を掲載しようかとも思いましたが、昭和の曲もあり著作権が生きているかもしれませんので断念します。)、これに浮世絵や写真、ラフ・スケッチと共に小唄が唄われることで文化の基底を形作る集合的無意識に刻まれた「記憶」が鮮やかに甦ってくるような不思議な感興を覚え、興奮を禁じ得ませんでした。また、陰囃子のサウンドスケープも含蓄深い効果的な演出でして、例えば、明治の毒婦として語り継がれ、歌舞伎の演目としても知られる芸妓・花井お梅(墓:長谷寺重願寺)が両国橋の袂、浜町河岸箱屋(三味線の箱持ち)の峯吉を殺害した事件が小唄「浜町河岸」で唄われましたが、川柳に「石町は江戸を寝せたり起こしたり」と詠まれているとおり、江戸時代には浜町河岸の近くに石町時の鐘現在の東京都中央区日本橋室町四丁目)が設置され、大まかな時刻が江戸庶民に伝えられていましたが、小唄「浜町河岸」では陰囃子が四つの鐘を鳴らすことで夜更け(22時頃)であることを表現し、臨場感のあるイマジネーションを想起させていました。吉原の退けは四つの鐘(22時頃)、大退けは九つの鐘(0時頃)とされていましたので、犯行時刻には浜町河岸の人気はなかったものと想像されます。因みに、吉原では九つの鐘の時刻に四つの拍子木を打ち、客の帰り路に九つの拍子木を打って営業時間を小粋に延長していたそうですが(幕府は黙認)、川柳に「吉原は拍子木までが嘘をつき」と詠まれていますので、自粛警察が出没する現代よりも洒落が通じる世情だったのかもしれません。また、陰囃子の笛が吉原の華を伝えるもので出色であったことを特記しておきます。このように江戸小唄は非常に多くの時代の記憶が刻まれているアナログ・メディアとも言えますので、小唄を聴いてアースダイブしてみると教養(視野が広がる心の豊かさ)が培われるかもしれません。隅田川の都鳥(鴎)、夏の舟遊び、花火見物、蛍狩り、灯篭流しなどの風物詩が唄われましたが、紙片の都合から、全曲には触れられませんので、ご興味のある方は明暮れ小唄の公演にお運び下さい。オモロイです。さらに、落語家・柳家緑太さんの噺も江戸庶民の人情や暮らしぶりと共に隅田川の両岸に広がる風情を粋活きと伝える内容で、隅田川の河岸には菖蒲が群生して(堀切菖蒲園)、夏場には隅田川に涼み舟が繰り出されて人気役者が影芝居を行う御簾舟や物売りのウロウロ舟が往来する賑い振りは現代を凌ぐものであったことが窺われ、芸は売っても色は売らない辰巳芸者の心意気や柳島妙見様と中村仲蔵の出世噺(八代目柳家正蔵の落語「中村仲蔵」)、高尾の嶺に咲く花を摘み取る伊達の酔狂が生む人情噺(柳家小満んなどの落語「仙台高尾」)、戸を叩く音に似ていると評判のクイナの鳴き声を鑑賞する集りで主人の心根(音)を聞かれてしまう滑稽噺(柳家緑太さんの新作落語?)などを通じて「江戸の風」を楽しめる歴史の旅(アースダイブ)でした。自分が踏みしめている土地の歴史を探ることは自分が何者であるかを識る契機となる意味でも学び(面白味)が多く、大人だけではなく中高生などの若者などにも心からオススメしたい公演です。
 
▼いつか小唄に唄われるかもしれない新しい風物詩「終演後の撮影会」
 
▼藝大プロジェクト2024第1回「西洋音楽が見た日本」
【演題】藝大プロジェクト2024第1回「西洋音楽が見た日本」
【演目】音楽舞台劇「ティトゥス・ウコンドン、不屈のキリスト教徒」
【演奏】<作曲>ミヒャエル・ハイドン
    <台本>フローリアン・ライヒスジーゲル
    <俳優>小泉将臣(俳優座)、山森信太郎(髭亀鶴)、森永友基
        岡野一平、稲岡良純(文学座)、渡邊真砂珠(文学座)
        小口隼也、松平凌翔(俳優座)、市川フー(エンニュイ)
        笹川幹太、久保田里奈、大石麻椰、坂部星空
    <振付・ダンス>伊藤キム、金子美月(助手)
    <Orch>古楽科有志を中心としたオーケストラ
          コンサートミストレス 戸田薫
    <Chor>声楽科有志合唱
          合唱指揮 中山美紀
    <学術アドヴァイザー>西川尚生
    <美術>原田愛
        美術学部先端芸術表現科原田研究室(遅亦周、呉詩瑶)
    <構成・演出>布施砂丘彦
    <監督>浜田和孝
    <司会>朝岡聡
【日時】2024年10月20日(日)15:00~
【会場】東京藝術大学 奏楽堂
【一言感想】
M.ハイドンの音楽舞台劇「ティトゥス・ウコンドン、不屈のキリスト教徒」(1770/74)が約250年振りに復活上演されるので、藝大プロジェクト2024第1回「西洋音楽が見た日本」を聴きに行く予定にしています。題名にある「ウコンドン」とはキリシタン大名・高山右近(洗礼名:ドン・ジュスト(正義の人))をモデルにした登場人物のことで、劇中に出て来る「ショーグンサマ」は豊臣秀吉をモデルにした登場人物と言われており日本をテーマにした作品ですが、単に古典曲の復活上演という意味合いだけではなく、当時、M.ハイドンが日本をどのように捉えて描いたのか興味が尽きません。17世紀から19世紀初頭のヨーロッパではキリスト教布教を目的として日本におけるキリスト教信仰をテーマにした演劇作品が150作品以上も作られたそうで、高山右近だけではなく大友宗麟や有馬晴信をモデルとした作品なども作られたそうです。因みに、W.モーツァルトは、M.ハイドンの作品からインスピレーションを受けていたことは有名ですが(例えば、W.モーツァルトの交響曲第37番はM.ハイドンの交響曲第25番に序奏を付け加えたカバー曲であるなど)、W.モーツァルトのオラトリオ「救われたベトゥーリア」(1771)の終曲合唱はM.ハイドンの音楽舞台劇「ティトゥス・ウコンドン、不屈のキリスト教徒」(1770/74)の合唱曲「主に向かって歌え」をベースにしている可能性が高く、W.モーツアルトはこの作品を通して日本のことを知っていた可能性が指摘されていますので、その意味からも意義深い演奏会です。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。なお、キリシタン大名・高山右近はキリスト教信仰(ヨーロッパのアイデンティティ)を通じてヨーロッパ(キリスト教圏)という「集団」の内に受け入れられ、当時のヨーロッパを代表する音楽家であるM.ハイドンの音楽舞台劇で称揚されました。しかし、日本ではキリスト教信仰(ヨーロッパのアイデンティティ)は日本という「集団」の存続、発展の脅威となり得るもの(「集団」の外)と認識されて迫害の対象になり(「憎」という感情の発現と「対象」の除去)、踏み絵を踏んで「集団」の内になるか又は踏み絵を踏まずに「集団」の外として迫害の対象になるか選択を迫られましたが(映画「沈黙」ではキリシタンを「集団」の内に取り込むためにキリスト教信仰(ヨーロッパのアイデンティティ)を強制的に変更させる様子(転ぶ)を描いたもの)、高山右近はキリスト教信仰を変更することなく「集団」の外として戦うことを選択し、マニラに追放された大名です。
 
ーーー>追記
 
久しぶりに東京藝大の奏楽堂で開催される演奏会を聴きに行く機会に恵まれ、今も昔も変わらない奏楽堂に通う鼻曲りの小道の秋の風物詩である銀杏のニオイの洗礼を受けましたが、来し方行く末に思いを馳せると時代の大きな移ろいが実感されます。東京藝大では「「感動」を創造する芸術と科学技術による共感覚イノベーション」というコンセプトを掲げて時代を革新する新たな創造に果敢に挑戦し、そのための新しい施設建設も進められていますが、どの分野であれ、変わり続けなければ変わり果てるのが世の習いであり、とりわけこの変革の時代は変わり続ける覚悟と叡智が試されていると思いますので、これからの東京藝大の革新的な挑戦に期待したいと思っています。既にクラシック音楽(第一次世界大戦までの西洋音楽)は聴き飽きてしまったので、久しくクラシック音楽をメインとする演奏会から足が遠退いていましたが、上述のとおり企画力の優れた演奏会が開催されるというので珍しく聴きに行くことにしました。非常に分厚いパンフレットが配布されて詳細な解説が加えられていましたが、この企画に挑戦する関係者の熱量の高さが窺われます。M.ハイドンやW.モーツァルトが生きた18世紀のザルツブルグはカトリック大司教領として宗教教育が盛んに行われ、ザルツブルク大学やその付属中等校の学生達(アダムを唆したイブの罪深さから宗教音楽はカストラートに象徴されるように男文化だったことから全て男子生徒)がラテン語の宗教劇と幕間劇を定期的に上演していたそうですが、ラテン語の宗教劇では音楽は演奏されず(音楽は聖書の言葉を聞き取り難くするという伝統的な考え方に倣ったもの?)、主に幕間劇(バレエなど)で音楽が演奏されたという記録が残されているそうです。そのうちの1作であるM.ハイドンの音楽舞台劇「ティトゥス・ウコンドン、不屈のキリスト教徒」は1770年にラテン語で初演され、その後、1774年に庶民にも受容し易いようにドイツ語で再演されましたが、台本から確認できる限り音楽が演奏されたのは3場面(第1幕第2場で兵士達が退場する場面(楽譜紛失)、第2幕第1場でウコンドンとその家族が教会で神への賛美「主に向かって喜ばしく歌を歌え、僕たちよ!」(MH.142)を合唱する場面(楽譜現存)、第4幕第2場でショーグンサマの勘気を被ったウコンドンとその家族が信仰のために死を覚悟する賛歌「鹿が川の流れに向かって走って行くように」(MH.143)を合唱する場面(楽譜現存))のみであり、また、幕間劇は2部構成から成る音楽を伴う無言劇「捕えられ解放されたキリスト教信仰」で、前半は「キリスト教信仰に対抗しようとたくらむ魔術、地獄、怒り、死」を表現したバレエ・パントマイム、後半は「天の助力によるキリスト教信仰の勝利」を表現したバレエ・パントマイムであったことが分かるそうです。なお、無言劇の音楽はM.ハイドンの自筆譜が現存しており、前半が14曲の合奏曲、後半がシンフォニア+14曲の合奏曲で構成されているそうです。本日の公演では、宗教劇は日本語、合唱曲は原語(ドイツ語)で上演され、宗教劇の冒頭にカトリック大司教に捧げられる「献辞」に代えてM.ハイドンのオラトリオ「悔悟する罪人」(MH.147)の序曲が演奏され、また、楽譜が現存する宗教劇第1幕及び第2幕の2曲の合唱曲と幕間劇の合奏曲は原曲のまま演奏されました。さらに、楽譜が現存しない宗教劇第1幕の「フェルトムジーク」に代えてM.ハイドンが音楽舞台劇「祖国への敬虔」(MH.148)のために作曲した6曲の「フェルトムジーク」の一部を借用して上演されました。
 
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3b/Jesus_on_cross_to_step_on.jpg
踏絵(キリスト像)
 
さて、上述のとおりカトリック大司教に対する「献辞」に代えてM.ハイドンのオラトリオ「悔悟する罪人」(MH.147)の序曲が演奏されましたが、M.ハイドンは兄のJ.ハイドンやW.モーツァルトの影に隠れて歴史に埋もれている作曲家の1人なのでさすがに初聴の曲でしたが、良くも悪くも同時代の音楽的な規範を逸脱するものではなく、W.モーツァルトのオペラの序曲を想起させる快活で緊迫感が漂う曲調を小気味よい音運びによる引き締まった演奏で楽しめました。正直に告発すれば、この序曲と1曲目の合唱曲はそれなりに聴き応えを感じることができましたが、斬新な音楽表現に溢れるポップスに慣れ親しんでいる現代人の耳には、それ以外の曲はシンプル過ぎる印象を否めず、しかも繰り返しが多いので退屈に感じられてしまう憾みがあります。これに続く第一幕「ウコンドンへの恩寵」では、ショウグンサマはその弟の謀反を鎮圧したウコンドンに望みの褒美を与えると申し出ますが、ウコンドンはこの勝利は神の威光のお陰であると諭し、キリシタンの民衆の安寧を褒美として願い出ます。これに対して、ショウグンサマはそれだけは認められないと困惑し、ウコンドンも改宗しなければ庇い切れないと苦衷を吐露します。ウコンドンはショウグンサマへの忠誠を選択するか又は神への信仰を選択するかの二者択一を迫られますが、ウコンドンはショウグンサマへの忠誠は偽りのものではないとしながらも、人間を神と崇めることはできず神への信仰を捨てること(転ぶ)はできないと苦悩します。これに対し、ショウグンサマの側近達はウコンドンの態度はショウグンサマへの忠誠に背くものであり、また、日本の神仏を軽んじる態度は許されるものではないので、ショウグンサマのウコンドンに対する信頼を損なわせ(「憎」の感情の発動)、ウコンドンを排除しようと企みます(「対象」の除去)。ショウグンサマの側近達が退場する場面で音楽舞台劇「祖国への敬虔」(MH.148)よりフェルトムジークが演奏されました。この場面では、ショウグンサマとウコンドンの揺れ動く心の襞を繊細に表現する演技が素晴らしかったと思います。第二幕「ウコンドンへの陰謀」では、舞台セットの透過スクリーンに十字架と声楽有志合唱の姿が浮かび上がり、合唱「主に向かって喜ばしく歌を歌え、僕たちよ!」(MH.142/詩篇唱「トーヌス・ペレグリヌス」(第9詩篇唱定式の旋律))が歌われましたが、ウコンドンとその家族の信仰心の強さを体現する神の威光を荘厳に歌い上げる合唱は聴き応えがありました。幕間劇「バレエ曲」(MH.141)の第一部では、バレエ・パントマイムが展開され、照明の角度を効果的に使って舞台セットの透過スクリーンに映し出される「異形」のシルエットにより地獄絵図が描かれる興味深い舞台でした。なお、14曲の短い合奏曲が演奏されましたが、現代人の耳には平板な音楽に感じられてしまう憾みがあり、さながらE.サティーの「聴かれない音楽」を先取りしているような風合いがありました。第三幕「ウコンドンへの憎悪」では、ショーグンサマの側近達がウコンドンに対してショウグンサマへの忠誠を誓えば現世での成功が約束されると改宗を促し、ウコンドンは現世での成功には興味がなく神への信仰で得られる来世の約束が大切であると断りますが、この会話には見返りを求めない神の愛(アガペー)ではなく来世の約束という甘美な見返りを期待する人間の愛(フィリアなど)に支配されるウコンドン(信徒や宣教師)の等身大の姿が描かれていたのが印象的でした。仏教界はショウグンサマに対して日本の神仏を蔑ろにするウコンドンを罰するように懇願しますが、ウコンドンの忠誠を信頼するショーグンサマは躊躇います。再び、ショウグンサマの側近達はウコンドンに対して妻子が死罪になることを告げて改宗を促しますが、ウコンドンは褒美や領土をショウグンサマに返上したうえで、死をもってショウグンサマへの忠誠と神への信仰を全うしようと決意します。ここでは殉教(即ち、神の救い)に対するセンチメンタリズムに彩られていくウコンドン(信徒や宣教師)の等身大の姿が描かれていたのが印象的でした。第四幕「ウコンドンの寛大で強い心」では、合唱「鹿が川の流れに向かって走って行くように」(MH.143/詩篇唱「ドミネ・フローレ」(第6詩篇唱定式の旋律))が歌われましたが、ウコンドンとその家族が信仰を固く貫いて殉死を選び神へ祈る崇高な合唱が歌われました。幕間劇「バレエ曲」(MH.141)の第二部では、バレエ・パントマイムが展開され、照明の角度を効果的に使って舞台セットの透過スクリーンに映し出される「天使達から差し伸べられる複数の手」のシルエットにより神の救いが描かれる興味深い舞台でした。なお、シンフォニア+14曲の短い合奏曲が演奏されましたが、やはり現代人の耳には平板な音楽に感じられ、その予定調和な音楽には「差分」(脳の認知パターンに基づく予測と脳が実際に認知する結果との間の差)が感じられず、脳内の報酬系が刺激されないのでどうしても「飽きる」(退屈)という状態に陥ってしまいます。僕の周囲を見ても、ビギナー層を除いてはクラシック音楽の受容が厳しくなりつつ現状があることは否めず、だからこそ東京藝大の革新的な挑戦に期待したいと思っています。第五幕「ウコンドンの三重の勝利」では、ショウグンサマがキリシタンの味方に立つというフェイク・ニュースを信じた仏教界がショウグンサマへの謀反を企てますが、ウコンドンがその企みを未然に防ぐことでショウグンサマの信任を新たにします。ショウグンサマはウコンドンに対して神への信仰を捨てればショウグンサマの地位を譲ると申し出ますが、ウコンドンはそれを断って死を賜り家族のもとへ行きたいと懇願します。これを聞いたショウグンサマはウコンドンの神への信仰の強さに心を打たれて神への信仰を許すると共に、実際には処刑されていなかった妻子をウコンドンのもとに返して、今後もショウグンサマに次ぐ君主として仕え続けるように命じる大団円で終わるというバラ色のストーリー展開でした。当時、どのような演出が施されていたのか分かりませんが、本日の公演を鑑賞する限り、「日本」を描いた音楽舞台劇というよりも、どこの国に舞台を置き換えても成立し得るカトリック教会のドクトリンを描くことを目的とした音楽舞台劇に感じられ、その意味ではW.モーツアルトが断片的な情報から日本という国の存在を漠然と認知していた可能性はあるかもしれませんが、どこまで日本という国を理解していたのかは疑問が残ります。先日、映画「SHOGUN-将軍-」がエミー賞を受賞しましたが、漸く先入観に歪曲されたイミテーションとしての日本ではなく実像に近い日本が描かれ、それが受容される時代になったことが感慨深く思われます。最後に、カーテンコール中の音楽として、M.ハイドンのトルコ行進曲(MH.601)(布施砂丘彦編曲)とディヴェルティメントホ長調(MH.7)より第四楽章「バッロ.プレスト」(布施砂丘彦偏曲)が演奏されて終演となりました。なお、本公演では、原曲にはない打楽器を使った効果音が随所に付け加えられていたことを付記しておきます。
 
 
▼詩楽劇「めいぼくげんじ物語 夢浮橋」
2017年から東京国際フォーラムの開館20周年記念事業として「伝統と革新」をコンセプトに日本文化に親しみ、新たな価値発見の機会を提供することを目的とする企画公演「J-CULTURE FEST」がスタートしましたが、2024年1月3日~同7日には光源氏と紫の上の複雑な男女関係を描いた詩楽劇「『沙羅の光』~源氏物語より~」前回のブログ記事で触れた筝演奏者兼作曲家の中井智弥さんが楽曲提供)が開催され、これに続いて2025年2月8日~同12日には宇治十帖(「橋姫」から「夢浮橋」まで)を題材にした詩楽劇「めいぼくげんじ物語 夢浮橋」(前作に続いて中井智弥さんが楽曲提供されるので期待が膨らみます。)が開催され、「特別講座『源氏物語』を識る、聴く、詠む」と題する講演会も併催される予定になっています。紫式部が執筆した源氏物語は中世のジェンダー・バイアスを背景としてやんごとなき姫君達のシンデレラ・コンプレックスに彩られた世界観が描かれており、その限りではジェンダー・フリーを推進する現代の価値観とは大きなミスマッチがありますが、その一方で、効率や機能ばかりが重視されて日本文化を彩ってきた詩情が失われた現代にあって、花鳥風月を愛でる風流心を持ち和歌、物語や書画などを嗜む豊かな感性を湛えた中世の美意識に触れることは日本人のアイデンティティやバイタリティーを取り戻すために不可欠と思われ、個人的には、その観点から詩楽劇「めいぼくげんじ物語 夢浮橋」を楽しみたいと思っています。上述の明暮れ小唄のテーマになっている橋は人々の様々な想いをつないできましたが、水面に漂う浮橋が夢と現をつないでいるような儚い物語、ご興味のある方はいかが。

オペラ「ドクター・アトミック」(METライブビューイング)と長谷川将山・尺八リサイタル(B→Cバッハからコンテンポラリーへ)と中井智弥・箏リサイタル2024~ETERNITY~と「笑」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼「笑」(ブログの枕)
前回のプログの枕では古事記「天の岩戸」で天岩戸に隠れた天照大神(おそらくは月に隠れた太陽のこと)を慰めるために天鈿女命(巫女の元祖)が裸で踊るのを見て神々が大笑いし、その笑い声につられて天照大神が天岩戸から出て来られたという神話が「祭」の起源であると述べましたが、「笑」という漢字の造りを紐解くと、冠の部分の「竹」が両手を表し、脚の部分の「夭」が人の体を表す象形文字で、巫女が踊りで神を喜ばせる姿を表現しており、「よろこぶ」から転じて「わらう」(元々、わらうとは「箍が緩む」「木が緩む」ことを意味する言葉でしたが、そこから「気が緩む」に派生し、現代でも、その語感は「膝がわらう」という表現などに残されています。)を意味するようになりました。このような伝統を持つ日本では世界でも珍しく神に「笑」を奉納する祭事が発展して「笑」による神人合一が試みられてきましたが(母性社会:調和の論理)、例えば、現在でも山口県防府市には天下の奇祭と名高い「笑い講」という祭事が伝承されており、「世界お笑い協会」(日本ユネスコ協会連盟のプロジェクト未来遺産に登録)を設立して世界中の人々が笑顔で平和に暮らせるように笑いを広める運動を展開しています。過去のブログ記事でも触れたとおり、イタリアのベネディクト会が定めた「聖ベネディクトの戒律」(529年頃)は中世ヨーロッパ修道院の戒律のモデルになりましたが、その中で修道士に「沈黙」(神の声に心を澄ませて理性を働かせること)が求められたことから、修道士達はジェスチャーを使ってコミュニケーションをとるようになり、1760年にフランス人ド・レペ神父がそのジェスチャーを応用して聴覚障害者とのコミュニケーションをとるための手話を考案しました。この「沈黙」には理性を乱すと考えられていた笑いの禁止も含まれましたが(ルカによる福音書6章25節)、過去のブログ記事でも触れたとおり、中世ヨーロッパではローマ帝国がキリスト教(新興宗教)を公認するまではケルト文化が普及しており、その土着信仰であるドルイド教(既成宗教)に由来する夏の収穫を寿ぐ祝祭(例えば、ハロウィン祭の前身であるサウィン祭など)などの風習が民衆に広く浸透していたことから、それらの一部をキリスト教の暦の中に組み込んでキリスト教への改宗を促進する布教政策が採られ、それにより11世紀頃から徐々に笑いに寛容になったと言われています。これに対し、日本では古神道(既成宗教)の「遠神笑美給」(意味:遠い昔の神代のご先祖様、どうかお笑い下さい)という祝詞や、仏教(新興宗教)の弥勒菩薩(例えば、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像など)が人々を救済する深い慈悲を湛えている微笑みなどに象徴されているとおり、古くから神人共笑や笑門来福の思想が根付いており、大らかに笑いを信仰に採り込む伝統がありました。この点、古事記「天の岩戸」には(天鈿女命が)「神懸り為て、胸乳を掛き出し、裳の緒をほとに忍し垂れき。爾くして、高天原動みて、八百万の神共に咲(わら)ひ」という一文が登場しますが、「咲」という漢字の偏の部分の「ロ」を省略して、旁の部分の「关」だけを残して「笑」という漢字が誕生していることから、現代語の「咲く」と「笑う」の語源は同一になります。また、平安時代には「咲」という漢字の語感に「をかし」(愚か者を意味する「をこ(尾籠、烏許、痴)」を語源として面白いを意味)というニュアンスが含まれるようになりましたが、世阿弥が著した能の理論書「風姿花伝」の第四神祇には「天照大神、天の岩戸に籠り給ひし時、(中略)天の鈿女の尊、進み出で給ひて、榊の枝に幣を附けて、聲を挙げ、火處焼き、踏み轟かし、神憑りすと、歌ひ、舞ひ、かなで給ふ。その御聲ひそかに聞えければ、大神、岩戸を少し開き給ふ。國土また明白たり。神たちの御面、白かりけり。その時の御遊び、申楽の始めと云々。」という一文が登場し、また、同じく「習道書」の狂言の役人の事には「をかし者、かならず数人の笑ひどめく事、職なる風体なるべし。笑みの内に楽しみを含むと云。是は、面白く嬉しき感心也。この心に和合して、見所人の笑みをなし、一興を催さば、面白く、幽玄の上階のをかしなるべし。昔の槌大夫が狂言、此位風なりし也。」という一文が登場します。世阿弥は狂言の滑稽な様子を「をかし」と表現していますが、天鈿女命(巫女の元祖)が裸で踊るのを見て神々が笑う顔が天照大神(太陽)の光に照らされて白くなって行く様子が「面白い」の語源であり、その面白さとはゲラゲラと大笑いするような情緒的なクスグリ笑い(例えば、一発芸人の笑いなど)よりも一段と品位が高い心に沁みるような深い笑いを意味し、それが狂言の「幽玄の上階のをかし」であるという趣旨のことを説いています。これによれば咲(わら)ひを生むをかしには「幽玄の上階のをかし」とそれ以外のをかし(情緒的なクスグリ笑いなど)があることになりそうです。過去のブログ記事でも触れたとおり、平安時代の二大美意識を体現するものとして「をかし」の文学と言われる枕草紙(自分の立場から対象に同情(理解)するシンパシーに彩られた客観的な美意識の世界)と「あはれ」の文学と言われる源氏物語(対象の立場から対象と共感(同化)するエンパシーに彩られた主観的な美意識の世界)の二大文学が生まれましたが、これと同様に「をかし」の芸能と言われる狂言(自分の立場から対象に同情(理解)するシンパシーに彩られた客観的な美意識の世界)と「あはれ」の芸能といわれる能(対象の立場から対象と共感(同化)するエンパシーに彩られた主観的な美意識の世界)の二大芸能が生まれました。なお、能楽狂言方大蔵流・四世山本東次郎さん(人間国宝)が「能や狂言の演技や表現は、現代の諸々の芸能のように、押し付けをしません。また観客の内面に踏み込んでいこうともしません。常に少なに演じて、多くの余白を残し、観客の心に受け継いでもらう。ここが能と狂言に最も共通した理念だといって良いと思います。観客の知性を重んじ、観客の心の中の想像性に任せる、観客の感性や美意識、想像力や知性を尊ぶからこそ、能も狂言も観客の内面に踏み込むことを避け、謙虚な演技表現に踏み留まるのです。」(山本東次郎さんの著書「狂言のことだま」より抜粋引用)と語られていますが、多様性の時代にあってマイナスの美学という意味合いを越えてあらゆる芸術や表現に妥当する優れた見識ではないかと思われます。
 
▼平安時代の美意識と芸能(「咲ひ」の視座から)
芸能 言葉 所作 風趣 性格

(韻文)

(抽象)
幽玄 あはれ
(悲劇)
狂言 科白
(散文)
仕草
(具象)
上階のをかし をかし
(喜劇)
 
生物で笑うのは人間のみと言われていますが(但し、チンパンジーはくすぐると笑うことが分かっています。)、何故、人間のみが笑うのかについては未だ解明されていません。人間の笑いを誘発する刺激には、①知覚(例えば、くすぐるなど)、②認知(例えば、ジョーク、ユーモアなど)、③感情(例えば、他人の声色、表情やミラーニューロンによる同情(笑いの伝染)など)の3つのカテゴリーがあると考えられています。この点、上記①については、例えば、同じ知覚でも他人からくすぐられると笑うのに自分でくすぐっても笑わないという不思議な現象がありますが、単に皮膚に伝わる知覚だけではなく、くすぐっている人の属性によって感じ方が異なるという実験結果が発表されています。人間の心理状態には、大まかに、テリック状態(交感神経が活発な高覚醒状態)とパラテリック状態(副交感神経が活発な低覚醒状態)の2つがあって、仮に同じ知覚であってもそれぞれの状態によって感じ方が異なると考えられています。テリック状態(例えば、自分でくすぐるなどの目的意識を持っている状態)でくすぐられても皮膚に伝わる知覚(刺激)は相対的に低くなる傾向(覚醒>知覚)があり、あまりくすぐったく感じられませんが、パラテリック状態(例えば、他人からくすぐられるなどの目的意識を持っていない状態)でくすぐられると皮膚に伝わる知覚(刺激)は相対的に高くなる傾向(覚醒<知覚)があり、かなりくすぐったく感じられるという感じ方の違いになって現れると考えられています。これと同様に、人間はテリック状態(例えば、上司に笑うなどの目的意識を持っている状態)又はパラテリック状態(例えば、親友に笑うなどの目的意識を持っていない状態)によって、前者ではノン・デュシェンヌ・スマイル(表情筋のうち頬骨筋の収縮よる口角の上昇と目尻の下降による愛想笑い)、後者ではデュシェンヌ・スマイル(表情筋のうち大頬骨筋の収縮よる口角の上昇と目尻の下降に加えて、眼輪筋の収縮による目の表情の変化による愛情笑い)という笑い方の違いになって現れます(俗に「目が笑っていない」という表現は、これらの違いを適確に表現したものと言えるかもしれません。)。また、上記②及び③の笑いについては、過去のブログ記事でも触れたとおり、人間の脳は「知覚」(現在の情報)と「記憶」(過去の情報)の組合せで「認知」(未来又は未知の予測)し、その結果から「感情」(身体反応)を生み出しますが、環世界(<環境世界)に迅速に反応して生存可能性を高めるために「知覚」X「記憶」=「認知」をパターン化した認知パターン(例えば、ニャン=猫、ガァオ=虎など)を生成して環世界の効率的な認知を可能にして迅速な判断及び行動に結び付けています。その反面として認知パターンという一定の尺度でしか環世界を認知することができなくなる傾向(認知バイアス)に陥り(執着)、多様に変化する環世界に柔軟に適応することが困難になるという欠点を内包しています。そこで、人間の脳は認知パターンを生成する一方で、古くなった認知パターンを解体して(例えば、飽きるという現象(放下)により古くなった認知パターンを使わなくなり忘却するなど)、新しい認知パターンを新たに生成すること(例えば、面白いという現象(想像創造)により新しい認知パターンに興味を抱いて記憶するなど)で認知の鮮度を保っています。人間にとって環世界の知覚は「負荷」(迅速に反応して生存可能性を高めるための刺激)になり、これに迅速に反応して生存可能性を高めるために認知パターンの「予測」に従って「出力」(エネルギー)を準備しますが、「笑い」とは人間が「負荷」に基づく認知パターンの「予測」により準備した「出力」と実際の結果との間に生じた誤差が「負荷」<「出力」(エネルギーの余剰)となった場合、それを無害な形で発散してバランスを図る現象(例えば、ガァオという鳴き声(負荷)が聞こて緊張(エネルギー)しましたが、実際は虎ではなく猫だと分かり(エネルギーの余剰)、ホッとして「笑顔」(エネルギーの発散)になるなど)と考えられています。これとは逆に、「驚き」とは人間が「負荷」に基づく認知パターンの「予測」に従って準備した「出力」と実際の結果との間に生じた誤差が「負荷」>「出力」(=エネルギーの不足)となった場合、それを迅速に補足して生存可能性を高めるための現象(例えば、ニャオという鳴き声(負荷)が聞こえて気にしていませんでしたが、実際は猫ではなく虎だと分かり(エネルギーの不足)、ドキッとして「吃驚(緊張)」(エネルギーの補足)するなど)ではないかと考えられています。この笑いの仕組みを「コメディー」を例に換言するとすれば、劇が進行するにつれて認知パターンの予測を裏切る意外な展開に驚き(負荷>出力)を覚え、その後、この意外な展開が解決(オチ)して笑い(負荷<出力)が生じるという過程を辿りますが、この負荷離脱の落差が大きいほど笑いが大きくなる傾向があります。また、これとは逆に、いつまでも意外な展開に対する解決(オチ)が不分明又は不十分であると負荷離脱に至らずに不快になります。現代音楽を鑑賞している一般客がブツブツ言いながら憤慨している様子を偶に見掛けることがありますが、これは意外な展開が解決(負荷離脱)して面白いという状態(負荷<出力)に至らずに不快感を深めているということなのかもしれません(ケース・バイ・ケースだとは思いますが、音楽家と一般客の片方又は双方に原因する現象です。)。因みに、「VACATION」(休暇)の語源は「VACCUM」(空っぽ)で心が空っぽになる状態を意味していますが、笑いは負荷離脱により瞬間的に心を空っぽにする効果(負荷<出力)があると言われており、西田幾多郎が提唱する「純粋体験」(雑念が払われて忘我の境地に至り、心が空っぽになること)も同様の状態を意味している考え方ではないかと思われます。詳しくは触れませんが、笑いは人間の免疫機能に良い影響を与える可能性があることが科学的に解明されており、日本に古くから根付く神人共笑や笑門来福という考え方は実利に叶ったものと言えるかもしれません。過去のブログ記事で触れたとおり、日本語では主語や目的語等を省略する傾向が顕著であり、それらを文脈から補う必要がある「ハイコンテクストな文化」(言語への依存度が低く文脈への依存度が高いコミュニケーション)と言われるのに対して、英語では主語や目的語等を省略することは殆どないので、それらを文脈から補う必要がない「ローコンテクストな文化」(言語への依存度が高く文脈等への依存度が低いコミュニケーション)と言われており、話し手と聞き手が共同視点を持つこと(ハイコンテクストな文化)を前提とする日本語のコミュニケーションは状況を再現する表現(例えば、彼は水をゴクゴクと飲んだ)によって聞き手に感覚的な理解を誘うオノマトペが発達しましたが、話し手と聞き手が共同視点を持たないこと(ローコンテクストな文化)を前提とする英語のコミュニケーションは状況を説明する表現(例えば、He gulped water)によって聞き手に論理的な理解を誘う動詞が発達しました。これらの違いは笑いの文化にも影響を与え、日本語のコミュニケーションではハイコンテクストな文化を背景として状況の再現(非言語的な要素)による感覚的な誤差(ギャグなど)によって笑いを誘う特徴を持っているのに対し、英語のコミュニケーションではローコンテクストな文化を背景として状況の説明(言語的な要素)による論理的な誤差(ユーモア、ウィットなど)によって笑いを誘う特徴を持っていると言われています。先日、某著名人が英米の笑いとの比較で日本の笑いの「質」を揶揄する発言(某著名人の個人的な嗜好に基づく認知バイアス)に及んで物議を醸していましたが、それぞれの人にとってその人の心が楽になる笑いがその人にとっての「質」の良い笑いであって、それを個人的な嗜好を越えて一般論として語るのはナンセンスであり、他人に笑顔を強要する厚顔無恥な言動と同じ類の野暮天に感じられます。全く笑えません。
 
▼笑いの仕組み(認知パターンの誤差と感情による調整)
認知パターンの誤差 感情による調整
「負荷」<「出力」
(エネルギーの余剰)
「笑い」
(エネルギーの発散)
「負荷」>「出力」
(エネルギーの不足)
「驚き」
(エネルギーの補足)
 
▼笑い(エネルギーの余剰)を生む類型
類型 誘因 結果
ギャグ 情緒的な言動(クスグリ笑い)で
「負荷」を抜く
笑わせる
ユーモア 論理的な言動(ネガティブな機知)で
「負荷」を抜く
笑わせる
ウィット 論理的な言動(ポジティブな機知)で
「負荷」を抜く
笑わせる
コメディー 虚構の状況で
「負荷」が抜ける
笑われる
嘲笑 現実の状況で
「負荷」が抜ける
笑われる
 
▼オペラ「ドクター・アトミック」(METライブビューイング)
【演題】METライブビューイング アンコール2024
【演目】ション・アダムズ オペラ「ドクター・アトミック」
    <Bas-Bar>ジェラルド・フィンリー(オッペンハイマー博士役)
    <Mez>サーシャ・クック(オッペンハイマー夫人役)
    <Bas-Bar>エリック・オーウェンズ(グローヴス将軍役)
    <Bar>リチャード・ポール・フィンク(エドワード・テラー役)
    <Ten>トーマス・グレン(ロバート・ウィルソン役)
【台本】ピーター・セラーズ
【演出】ぺーニー・ウールコック
【指揮】アラン・ギルバード
【演奏】メトロポリタン劇場管弦楽団
【会場】東劇
【一言感想】
今日はMETライブビューイングのアンコール上映としてジョン・アダムズさんのオペラ「ドクター・アトミック」を鑑賞してきましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。このオペラの脚本はピーター・セラーズさんが担当していますが、オッペンハイマー博士を始めとするマンハッタン計画の関係者の手紙、日記、科学論文に取材し、また、オッペンハイマー博士が愛読していたジョン・ダンの詩を引用するなど、マンハッタン計画に関する実際の資料に基づいて可能な限り史事に沿った伝記的な内容になっています。第一幕の序曲では、舞台背景に元素周期表が表示され、当時の時代感覚を伝えるサウンドスケープ(機械音、エネルギー音、飛行機音、ラジオ音など)が流されました。その後、桝形の個室が縦横にミニマルに配列された3階建て舞台セットにマンハッタン計画の関係者の顔写真が掲出されましたが、その様子はさながらアルカトルズ刑務所の3階建ての独房を思わせる異様さが感じられるもので、プロメテウスの磔刑よろしくマンハッタン計画の関係者が歴史の裁き(人類を滅亡に導く「火」(=テクノロジー)を作り出した罪)によって刑務所に収監されているような印象すら与えさせるセンセーショナルなものでした。忙しなくパターンを変えながら繰り返されるリズムは風雲急を告げる時代の切迫感を感じさせるものであり、J.アダムズさんの真骨頂とも言うべき老練巧みな至芸が光る充実した音楽が聴かれ、そのリズムに乗せて人間は自然物を変形又は加工すること(一般に「生産」と言われる行為)しかできず、全く何も無いところから物質を創り出すことはできないが、物質をエネルギーに変換することで巨大な力が発生することを発見したことにより人間と自然の関係が大きく変わろうとしていること(これは地球環境破壊という現代的な問題への伏線)が歌われましたが、上述のとおりマンハッタン計画に関する実際の資料に基づいて可能な限り史事に沿った脚本が書かれている関係で歌劇というよりも台詞劇に近い印象を受ける舞台になっていたと思います。オッペンハイマー博士を始めとしたマンハッタン計画の関係者は日本への原爆投下にあたって人道上の配慮から日本への事前警告(降伏勧告を含む。)を検討していたようですが、原爆の威力を世界に示す視覚的な効果と国連主導による恒久平和の実現を優先するという判断に傾いて行った様子が描かれていました。この点、当時、技術的に不可能と考えられていた核分裂にナチス・ドイツが成功したことを受けて、アメリカは国運をかけて原爆の開発競争を勝ち抜くための極秘プロジェクトとしてマンハッタン計画を開始しましたが、当時、オッペンハイマー博士を始めとするやマンハッタン計画の関係者がどのような状況に置かれ、その状況が彼らの考え方にどのように影響を与えたのかをもう少し丹念に描いて欲しかったという憾みが残ります。その後、オッペンハイマー博士の妻が切々と平和を祈り上げるアリアやロスアラモスの核実験が荒天で危ぶまれる状況にあったことが切迫感のある音楽に乗せて歌われた三重唱などが聴き所になっていました。また、第一幕最後のオッペンハイマー博士のアリアが出色でして、原爆開発の重責を担う自らの立場と原爆開発が招来する大惨事に対する罪の意識の狭間で嘆き戸惑いながら神へ救いを求める悲痛な思いを切々と歌い上げ、その切り裂かれるような激しい心境が忙しなくパターンを変えながら繰り返されるリズムによって表現されており、さながらオッペンハイマー博士にプロメテウスの姿が重なり合うような迫真の歌唱が感動的でした。ヴラヴォー!第二幕の序曲では、ロスアラモスの核実験を直前に控えてオッペンハイマー博士の妻が不安な心情を歌うアリア(ジョン・ダンの詩を引用したもの?)に続いて、ネイティブ・アメリカンの女性が迫り来る不幸を暗示させるアリアを歌い継ぎましたが、映画「オッペンハイマー」ではネグられていた核実験で被爆したネイティブ・アメリカンの悲劇が丁寧に描かれていた点は好感を覚えました。核爆弾が招来する大惨事への懸念、核実験が荒天で危ぶまれる状況にあったことに対する懸念、軍関係者と科学者の思惑の違いから生じる軋轢、核爆発により大気発火する懸念、核実験の結果を賭ける一部の軽薄な関係者など、マンハッタン計画の関係者のそれぞれの思惑の違いが描かれていましたが、やや繰り返しが多く冗長に感じられる部分もありました。その後、オッペンハイマー博士と妻、その他のマンハッタン計画の関係者やネイティブ・アメリカンによる六重唱及びネイティブ・アメリカンの民族衣装を身を包んだトゥッティーの合唱により、それぞれの思惑の違いが交錯する複雑な状況と共に恒久平和に対する共通の願いが印象的に描かれていました。ロスアラモスの核実験の様子が描写された後、日本人女性の音声で「子供たちにお水を下さい。タニモトさん、助けて下さい。・・・」という言葉が日本語(英語字幕)で流されて終幕しましたが、映画「オッペンハイマー」(ページ最下欄の囲み記事)と同様に(興行的な制約からショッキングな描写は困難であったかもしれませんが)原爆投下の惨状を伝える内容は些か不十分な印象を否めませんでした。この点、第二次世界大戦中の帝国主義化した日本が理性を失って一億玉砕(民族自決)を唱える狂気的な状態にあったことが原爆投下の伏線を生んだという深い反省に立ちながら被爆国として原爆投下の惨状を世界に発信して行く意義を強く感じさせられると共に、核兵器の不使用、不拡散、不所持を推進するために必要な教養を育み続ける不断の努力が必要であると感じさせるオペラでした。なお、日本では芥川也寸志のオペラ「ヒロシマのオルフェ」(1959年)、保科洋のオペラ「はだしのゲン」(1981年)や錦かよ子のオペラ「いのち」(2015年)など原爆投下の惨状を題材にしたオペラが創作されています。
 
 
▼長谷川将山・尺八リサイタル(B→Cバッハからコンテンポラリーへ)
【演題】B→Cバッハからコンテンポラリーへ
    264長谷川将山(尺八)
【演目】①初代中尾都山 都山流本曲「慷月調」
    ②唯是震一 無伴奏尺八組曲第三番(1954/61)
    ③川島素晴 尺八(五孔一尺八寸管)のためのエチュード(2010)
    ④向井響 無伴奏尺八のためのパルティータ(世界初演)
    ⑤J.S..バッハ 無伴奏フルートパルティータイ短調
    ⑥坂東祐大 秘曲「象息之調」(世界初演)
    ⑦松村禎三 詩曲二番 ─ 尺八独奏のための(1972)
【演奏】<尺八>長谷川将山
【会場】東京オペラシティー リサイタルホール
【一言感想】
今日は長谷川将山・尺八リサイタル(B→Cバッハからコンテンポラリーへ)を鑑賞してきましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。虚無僧は尺八を吹きながら托鉢したそうですが、本日の演目うち②~⑥は音楽によるパフォーマンスを意識した内容になっており、「ながらスマホ」よろしく現代にも通底するテーマ性があるように感じられました。なお、今日はチケットを自宅に忘れてしまい、完売公演なので当日券の販売予定もなく煮詰まりましたが、東京オペラシティーの主催公演でしたのでチケットセンターに連絡したところ、①身分証明書及び②マイページのチケット購入履歴の提示で入場させて頂くことができました。「笛吹けど踊らず」(語源:新約聖書のマタイによる福音書11章17節)という世知辛い時世ですが、情理に通じたスタッフの方の迅速かつ親切な対応に感謝いたします。
 
①初代中尾都山 都山流本曲「慷月調」
パンフレットによれば、「1903年に発表された都山流本曲の最初の作品。タイトルは「月に向かって慨嘆する調べ」を意味し、日露戦争の「日露戦争の戦勝祈願で観心寺を詣でた時に思い立ち、秋の名月を仰ぎながら作曲した」と解説されています。先日、JSPN第5回定期公演の感想を書いた際にも触れましたが(因みに、長谷川さんはJSPNの正会員)、尺八都山流の流祖・中尾都山は石清水八幡宮を崇敬していたことから、南北朝の動乱で南朝方に味方した楠木正成が戦勝祈願のために石清水八幡宮に植樹した楠木(樹齢約700年)の根元に初代・中尾都山の頌徳碑が建立されています。この点、初代・中尾都山は「江戸時代に虚無僧に独占されていた古典尺八曲に代わる新しい都山流本曲のレパートリーを次々生みだしました」が、楠木正成の孫である楠木正勝が虚無層の祖(楠木正勝は普化宗に入門して虚無と名乗り、虚鐸(尺八)を吹きながら(北朝方の偵察のために)全国各地を巡り歩いたのが虚無僧の語源)と言われており、初代・中尾都山が楠木正成の菩提寺である観心寺で都山流本曲の最初の作品であるこの曲を着想したというのは何か深い縁を感じさせます。因みに、能楽を創始した観阿弥は楠木正成の甥にあたり、その孫の観世元雅は(南朝方と通じていると疑われて)巡業先の伊勢で北朝方の斯波氏に暗殺されたと言われています。さて、冒頭は夜空に澄み渡る月光をイメージしたものでしょうか、尺八が奏でる音はその輪郭が朧げに滲んで、光と闇が柔らかく重なり合っているような風情を湛えた音楽が聴かれました。その後も、様々な音色や音質などをニュアンス豊かに吹き分ける表情に富む演奏が展開され、さながら尺八という楽器と演奏者の呼吸器官が一本の管としてシームレスにつながりながら多彩な音楽を紡ぎ出しているような息の楽器の真骨頂を感じさせる演奏に魅了されました。これと同じようなことをS.シャリーノさんがフルートの特殊奏法を使って表現されていますが、既に初代・中尾都山が1903年にこのような曲を創作していたとは驚きです。
 
②唯是震一 無伴奏尺八組曲第三番(1954/61)
パンフレットによれば、「十二音技法に基いた古典的な組曲。原曲はフルート独奏のために作曲されましたが、都山流の第一人者で人間国宝の初代山本邦山が尺八で演奏したことをきっかけに尺八作品として去れ改定され」たものと解説されています。尺八音楽には調性(五音音階)がありますが、機能和声のような絶対主義的な規律はなく相対主義的な多彩な音楽を特徴としているためなのか、個人的には、尺八というフィルターを通すことで十二音音楽(無調)に対する違和のようなもの(認知バイアス)が緩和されているような印象を受けました。また、尺八に特有の音の揺らぎは十二音音楽を無機質な音楽ではなく非常にニュアンスに富んだ表情豊かな音楽として聴かせてくれる効果も生んでいるように感じられました。その一方で、十二音音楽の特徴とも言える延音ではなく連音で聴かせる「おしゃべりな尺八」という風情があり、時折、尺八の音が言葉(歌詞)に聴こえてくる面白い作品でした。
 
③川島素晴 尺八(五孔一尺八寸管)のためのエチュード(2010)
パンフレットによれば、「「演じる音楽」とは「『演奏行為の共有体験化』を実現するためのメソッド」であるという作曲家の言葉にあるように、この作品もさまざまな演奏上のアクションによって構成されています。曲は(中略)14種類の楽想によって展開され、奏者の演奏行為を目の当たりにするうちに聴き手は自らが演奏しているような錯覚に陥るであろう」と解説されています。冒頭から甲高い鋭角の響きでインパクトのある始まりとなりましたが、ユリ、コロコロ、玉音、ムラ息などの尺八の基本奏法をベースとして、それらに西洋音楽のハーモニクス、トリルやスタッカートの奏法などを加味しながら様々な音色や表情などを生み出す特殊奏法が連続し、熱量の高いクライマックスを築くグルーブ感のある演奏を楽しめました。自ら演奏しているような錯覚に陥るか否かは個人差があるとしても、尺八の表現可能性を拡張する特殊奏法のエチュードとして楽しめました。
 
④向井響 無伴奏尺八のためのパルティータ(世界初演)
パンフレットによれば、「今回、息音のための前奏曲、イベリア半島に残るリズムと電子音楽のイメージから作られた架空の舞曲、そして私がずっと書きたかったボレロの3曲を尺八のパルティータに組み込んだ」と解説されています。パルティータは音楽家のヴィンチェンツォ・ガリレイ(科学者のガリレオ・ガリレイの父)が作曲した「パッサメッツォと5つのパルティ」(1584年)に淵源があると言われていますが、天文学よろしく多様性(変奏曲、組曲)を本質とする音楽様式です。前半は短管(尺寸不明。因みに、尺八という名前は標準的な尺八の長さである一尺八寸からきています。)を使って激しい吹き込みや足踏みなどによるリズミカルな舞曲風の音楽が展開され、中間は長管を使って息の音や声の音(歌又は何か言っているネコ)などが感じられる声楽風の音楽が展開されました。後半は短管を使って1管で2声部(対位法?)を演奏しながら小刻みで快活な演奏を楽しめました。
 
⑤J.S..バッハ 無伴奏フルートパルティータイ短調
尺八の奏法を駆使して音程感のある快速調の演奏が展開されましたが、フルートが奏でる流麗なカリグラフィーに対して尺八が奏でる淡麗枯淡な墨跡の風情が感じられる面白い演奏を楽しめました。B→Cシリーズなのでバッハの曲を1曲は演奏しなければなりませんが、これまでバッハの曲をモダンピアノで演奏する意義については語り尽されていても、バッハの曲を尺八で演奏する意義についてはあまり語られておらず、バッハの曲を含む西洋音楽を尺八で演奏する意義について色々と考えさせられます。
 
⑥坂東祐大 秘曲「象息之調」(世界初演)
ヴラヴォー!この曲が本日の白眉でした。パンフレットには「人間と象との精神的なつながりや象そのものの神秘性が尺八音楽の歴史に多大な影響を与えてきたことはよく知られている」と前置きしたうえで、「戦前ヨーロッパに遊学した鳴吹流師範の尺八奏者が残した手稿譜が、偶然にも昨年ドイツで発見され、今回復曲を施すことができた。作品は大きく象洞之段、鳴鼻之段、像息之段の三つの段から成り立っているが、それぞれはあたかも儀礼のように続けて演奏される。という奇妙奇天烈嘘八百の設定を元に作曲したシアターピース」であると解説されています。先日、柴田南雄さんの追分節考の生演奏を拝聴して感銘を受けましたが、その音楽が生まれ、育まれた土壌(文化や環境など)を顧みて、再び、その音楽に生々しい命を吹き込むことで、その音楽のエッセンスが現代に蘇る稀有な芸術体験に興奮と感動を禁じ得ませんでしたが、そのような傑作群に連なる作品のように感じられました。冒頭では照明が落とされた客席後方から長谷川さんが虚無僧よろしく尺八を吹きながら舞台に歩み寄る舞台演出(シアターピース)に惹き込まれましたが、かつてスパイ活動を行っていた虚無僧の尺八には毒矢が仕込まれていたと言われており、さながら尺八から毒矢を吹くように、時折、尺八を空中に向けて「ポッ・・ポッ・・」と息を吹く特殊奏法が尺八の素性来歴を伝えるもので面白く感じられました。舞台に上がると様々な長さの尺八(中継ぎを含む)を使いながら、(浅学菲才による不見識からどのような奏法なのか分かりませんでしたが)象の鳴き声を模倣したような音を発したかと思えば、その尺八を縦向きから横向きに持ち替えて横笛として吹くなど、縦笛が誕生してから横笛へと発展して行く笛の歴史を音楽的に遡る趣向のように感じられ、象の音、息の音、笛の音、声の音を往還しながら尺八という楽器の始原を訪ねて音楽の旅をしているような規格外の音楽に魅了されました。また、この曲ではパフォーマンスが効果的に使用され、尺八を演奏しながら舞台上に設えられた光の空間(スポットライトが当たる場所)と闇の空間(スポットライトが当たらない場所)を彷徨いながら、ジャーマンを思わせるジャンプ、回転、屈伸などのパフォーマンスが展開されましたが、音楽とパフォーマンスが有機的に連携して演奏者のパフォーマンスが音楽の意味(音楽に投影されている観客のプロジェクション)を次々と切り替えて行くような新しいタイプの音楽に感じられ、非常に面白い芸術体験になりました。尺八が自然の気を取り込みながら、どこか神懸かりしているような長谷川さんの熱演と相俟って、この世ならざる者(お釈迦様の乗り物である象はアジアでは神聖な動物とされていますが、もしかすると象の霊か?)が憑依しているようなシャーマニックな趣きが醸し出されて出色でした。実に面白い!
 
⑦松村禎三 詩曲二番 ─ 尺八独奏のための(1972)
パンフレットによれば、「「洋の東西を超越した一本の笛」という作曲家の言葉にあるように尺八という一楽器を通して無伴奏による単旋律楽器の可能性を追求した作品」と解説されていますが、上記③、④、⑥の新しい作品と比較すると、寧ろ、(洋の東西を超越した一本の笛にしても)尺八の特徴がよく表れている作品に感じられ、尺八という楽器が持つ細やかなニュアンスや美観が感じられる骨太の演奏を堪能できました。
 
 
▼中井智弥 箏・二十五絃箏リサイタル2024〜ETERNITY〜
【演題】中井智弥 箏・二十五絃箏リサイタル2024
    〜ETERNITY〜 in 東京
【演目】①宮城道雄 潮音
    ②中井智弥 あさきゆめみし
    ③中井智弥 夕霧の花
    ④中井智弥 蝋梅
    ⑤中井智弥 とこしえに
    ⑥中井智弥 蝉丸
    ⑦中井智弥 野宮
    ⑧中井智弥 時をこえて
    ⑨中井智弥 御代の寿
    ⑩中井智弥 剣はじめ
    ⑪中井智弥 勿忘草
    ⑫中井智弥 雨夜の月
    ⑬中井智弥 ノクターン
    ⑭中井智弥 花のように
【演奏】中井智弥(箏・二十五絃箏)①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭
    長須与佳(琵琶・尺八)⑥⑨⑩⑪⑬
    藤舎推峰(笛)②③④⑤⑨⑩⑪⑫⑬
    中島裕康(十七絃)①②③④⑤⑧⑨⑩⑬
    長谷川将山(尺八)③④⑤
【会場】ヤマハホール
【一言感想】
今日は新作歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」詩楽劇「沙羅の月」への楽曲提供などで注目されている筝演奏家兼作曲家の中井智弥さんが7枚目のアルバム「Eternity」のリリースに併せて中井智弥・箏リサイタル2024~ETERNITY~を開催されるというので聴きに行くことにしました。色々と現代邦楽を聴いてきてきましたが(拙ブログに感想を書いていない演奏会も多い)、中井智弥さんは正しく令和の宮城道雄と形容するに相応しい稀有な才能の持ち主に感じられ、非常に満足度の高いリサイタルを楽しむことができました。かなり演目数が多いので、それぞれの曲についてごく簡単に一言感想を残しておきたいと思います。因みに、ヤマハ銀座店に伺うのは久しぶりでしたが(昔は輸入盤CDを漁りによく通っていましたが)、売り場にはCDが殆ど陳列されておらず時世の移ろいを感じさせます。なお、現在、ヤマハ銀座店では「江戸の洋琴」という企画展を開催しており、ヤマハデザイン研究所が考案した木製ミニピアノ弾き箪笥」「隙き間」「音彩絵」「音机」が展示されています。効率ばかりが重視されて遊び(無駄)を許容しない時世ですが、効率から新しいものは生れ難く、このような遊び(無駄の蓄積)から新しいものが生まれてくると思いますので、時世の移ろいに挑戦するヤマハの息吹のようなものが感じられて興味深いものがありました。
 
①宮城道雄 瀬音
パンフレットには「当時、邦楽には低音を担当する楽器がなかったため音楽表現の幅を求めて宮城道雄が新しく十七絃を開発」と解説されています。因みに、宮城道夫記念館(建替中)には宮城道雄がピアノを意識して開発した八十絃筝が展示されており、いつかその演奏を聴いてみたいと願って止みません。因みに、二十五絃筝は初代・野坂操寿が開発しましたが(二十弦筝は二代目・野坂操寿、三十絃筝は宮下秀冽)、まるでハープのような芳醇な響きが魅力です。さて、この曲は利根川の風情を描いた作品ですが、曲全体は緩-急-緩のソナタ形式のような構成で、利根川の川面が陽光に煌めいているような光沢感のある響きや微風に揺らいでいるような強弱のある響きなど、まるで景色や風情を音でデッサンしているような情景感のある音楽が魅力です。二十五絃筝と十七絃筝が奥行きのある音響で繊細な彩りを添えて行く風趣溢れる演奏を楽しめました。
 
②中井智弥 あさきゆめみし
パンフレットには「詩楽劇「沙羅の光」委嘱作品。オープニング曲として笛・二十五絃でメインモチーフとなる光源氏のテーマを提示し物語の始まりを表現」と解説されていますが、本日の演目の②~⑤が詩楽劇「沙羅の光」に提供された曲です。十七絃筝のハーモニーの奥ゆきと二十五絃筝のハーモニーの拡がりが織り成す色彩豊かな演奏と叙情的なメロディーを情緒纏綿と奏でる横笛の美観極まる演奏が相俟って、光源氏と女房達の感情の移ろいが多彩に表現されており、その世界観に惹き込まれました。残念ながら、僕は詩楽劇「沙羅の光」を鑑賞する機会を逃してしまいましたが、源氏物語に感じる「色」が音楽的に表現されているような印象を受ける曲調で、さながら音楽による絵巻物を鑑賞しているような音楽に魅了されました。正しく「何度も繰り返して聴きたくなる」音楽であり、それが音楽の生命力だと思いますが、中井さんの稀有な才能とセンスに脱帽です。
 
③中井智弥 夕霧の花
パンフレットには「夕霧の義母紫の上への愛と父光源氏への怒り、また光源氏による妻紫の上への自由奔放な愛を歌っている」と解説されています。もともと歌曲として作曲されたそうですが、今日は夕霧を尺八、光源氏を横笛にアレンジして器楽曲として演奏されました。夕霧の花は深い黄昏を思わせる色調をしていますが、夕霧の義母紫の上に対する叶わぬ恋慕の情を表現したものでしょうか、二十五絃筝と十七絃筝が陰影を帯びた音楽を奏でるなか、尺八が心定まらぬ朧げな音色でメランコリックな音楽を奏でましたが、愛の形も様々であることを感じさせる面白い演奏でした。尺八の甲高い音は夕霧の光源氏に対する怒りを表現したものでしょうか、これとは対照的に二十五絃筝と十七絃筝が分散和音を掻き鳴らしながら光源氏の移り気な様子を表現しているように感じられ、多彩な人間模様が情感豊かに表現されている音楽を楽しめました。
 
④中井智弥 蝋梅
パンフレットには「道化役が演じるチャリ場と呼ばれるコミカルな場面のために作曲。原曲は光源氏と宮中の女房達との掛け合いが歌唱版で描かれるが、器楽版へ編曲。」と解説されています。非常に短いピースでしたが、二十五絃筝と十七絃筝がミニマルミュージック風の三拍子のリズムを繰り返すなか、笛と尺八が歌心溢れる演奏で華やかに吹き抜ける快演を楽しめました。
 
⑤中井智弥 とこしえに
パンフレットには「最終章で光源氏と紫の上が永遠の愛を歌う劇中歌。二重唱形式のメロディーを器楽曲として紫の上を笛、光源氏を尺八でアレンジしている」と解説されています。二十五絃筝と十七絃筝が情熱的な音楽を奏でるなか、尺八は愛情を湛えた叙情的な音楽を歌い、これに横笛はどこか寂寥感を漂わせる音楽で歌い添いましたが、これは移り気な光源氏に心を痛める紫の上の内心を映したものでしょうか、男女の機微が繊細に表現されているように感じられました。また、男女が情を通わす様子が高音と低音の重なり合いで美しく描かれていた部分が印象的でした。
 
⑥中井智弥 蝉丸
パンフレットには「能「蝉丸」より作曲(中略)生き別れた姉と偶然の再開を果たす。互いの境遇に涙するも二度と元に戻れないと悟る二人。その別れと葛藤を琵琶と二十五絃筝で表現した。」と解説されています。琵琶の長須さんは新作歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」の出語りで名演を披露して注目されましたが、この曲の冒頭に登場する平曲の弾き語りはどこか殺伐とした迫力を湛え、修羅道を彷彿とさせる凄味を感じさせる好演に完全に魅了されてしまいました。これとは対照的に、二十五絃筝は温もりのある音色で慈愛に満ちた音楽を奏で、この世の地獄(琵琶)と慈悲(二十五絃筝)という異なる世界観が重なり合う雄弁な演奏を堪能できました。日本文化は「混ぜる」文化ではなく「和える」文化と言われますが、それぞれの楽器が持つ魅力の違いを存分に引き出しながら、それらの魅力を損なうことなく1つの世界観として調和している名曲、名演でした。是非、機会を見付けて鑑賞されることをオススメしておきます。ヴラヴィー!
 
⑦中井智弥 野宮
パンフレットには「能「野宮」より作曲。舞台は哀愁に満ちた秋の嵯峨野。昔を懐かしむ六条御息所の深い切なさや、辛く悲しい恋の妄執といった心のうねりを優雅かつしっとりと描いた作品。」と解説されています。二十五絃筝が叙情的な音楽を奏でながら、繊細な音の揺らぎ、繊細な音の強弱や絶妙な間合いが生む緊張などを効果的に使って六条御息所が心を千々に惑わせながら、一途に想いを募らして行く女心を繊細に表現する詩情溢れる演奏に魅了されました。やがて六条御息所が悲恋に心を散らし、哀しみに暮れて行く巧みな心理描写が実に見事で心を打つ名曲、名演でした。是非、機会を見付けて鑑賞されることをオススメしておきます。ヴラヴォー!
 
⑧中井智弥 時をこえて
パンフレットには「新作歌舞伎「刀剣乱舞から月刀剣縁桐~」テーマ曲。刀剣男子と呼ばれる主人公達が歴史を守るため時代を活躍する物語と、日本の伝統楽器が古より伝わり現代で活躍する様子を描いた作品」と解説されていますが、本日の演目の⑧~⑫が新作歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」に提供された曲です。邦楽器大編成作品を二十五絃筝と十七絃筝にアレンジしたものだそうですが、2面の筝から立体感のあるリッチな音響を紡ぎ出し、刀剣男子の活躍を快活に表現する、どこか江戸の粋のようなものを感じさせる清々しい音楽を楽しめました。
 
⑨中井智弥 御代の寿
パンフレットには「同作中の序幕第三場、足利義輝が第13代将軍になった際の宴の場面にて出囃子で演奏した楽曲」と解説されています。華やかな音楽に乗せて二十五絃筝と十七絃筝が天下泰平を寿ぐ祝言を歌いながら、これに横笛と尺八がユニゾンで歌い添う昔風情が漂うオメデタイ音楽を楽しめました。却って古風な曲調がアクセントになり新鮮に感じられました。
 
⑩中井智弥 剣はじめ
パンフレットには「「御代の寿」に続き、刀剣男子らが足利義輝に所望され舞を披露した楽曲」と解説されています。二十五絃筝と十七絃筝が剣の由来を歌いますが、中井さんと中島さんが色気のある美声で歌舞伎役者に劣らぬ芝居気たっぷりの歌を披露し、さらに、尺八の長須さんが剣の由来を歌い継ぐ贅沢な舞台を楽しめました。邦楽は西洋音楽のように歌、器楽、作曲の分業化(モダニズム)が完全に進まなかったことが現代邦楽の発展(ポストモダニズム)に大きく寄与しているように感じられます。
 
⑪中井智弥 勿忘草
パンフレットには「同作第二幕第二場にて、足利義輝の妹・紅梅姫の三日月宗近への純粋な恋心を歌った楽曲」と解説されています。パンフレットに「1面1枚(筝と歌)」と記載されていましたが、筝を「1面」と数えることは知っていましたが、歌を「1枚」と数えるのは初聴で、自らの浅学菲才を恥じ入るばかりです。横笛と二十五絃筝が叙情的な音楽を奏でるなか、紅梅姫に扮する長須さんが艶やかな美声で切ない恋心をしっとりと聴かせてくれる歌唱を堪能できました。これはミュージカルの歌としても使えてしまいそうな美しくハートフルなピースでした。
 
⑫中井智弥 雨夜の月
パンフレットには「この世ではもう会えない人も雨夜の月のように何処か遠くには居るのではないか。そんな想いを笛と二十五絃筝の二重奏に託した作品。亡き母に捧げる。」と解説されています。二十五絃筝が哀愁を湛えるなか、横笛が静かに追慕の情に浸りながら、次第に悲しみを募らせて感情を高ぶらせて行くことを繰り返す様子を表現しているように感じられましたが、それは雨夜で姿が見えない月が潮(心)の満ち引きを誘っている様子と重なって、その切なさが心に沁みてくる感動的な音楽でした。「音楽を聴かされている」感覚よりも「自分の心を奏でられている」感覚を覚える作品で、本来、音楽とはどのようなものなのかという原点を思い出させてくれる名曲、名演でした。是非、機会を見付けて鑑賞されることをオススメしておきます。ヴラヴィー!
 
⑬中井智弥 ノクターン
パンフレットには「原曲の疾走感溢れる後半の夜明けを描いた部分を邦楽合奏用に編曲した。曲の後半、3/4拍子と6/8拍子のポリリズムが印象的に、耳に馴染むメロディーは5音階で作られている。」と解説されています。ポリリズムや5音音階が使用されていることもあり、どこか即興感のあるジャズテイストな音楽が展開され、ノクターンという言葉のイメージを良い意味で裏切って、二十五絃筝、十七絃筝、琵琶、横笛が丁々発止に渡り合うスリリングなアンサンブルを楽しめました。最近、多様な音楽ジャンルに食指を延ばしているブルーノート東京への出演もあり得るかもしれません。
 
⑭中井智弥 花のように
アンコールとして演奏されましたが、強弱や緩急などを巧みに使いながら繊細なニュアンスに富む詩情溢れる演奏に魅せられました。本日の演目はアンコール曲を含めて1曲1曲が充実した内容を持ち、心の襞を繊細に紡ぐ心理描写に優れた心に響く名曲が多い印象を受けました。今後、中井さんとその仲間達を集中的にウォッチしていきたいと思っています。
 
 
▼映画「オッペンハイマー」
映画「オッペンハイマー」(アカデミー賞受賞)はK.バード及びM.シャーウィンの共著「オッペンハイマー」(ピューリッツァー賞受賞)を原作として原爆の父・オッペンハイマー博士の栄光と苦悩を描いた伝記映画です。オッペンハイマー博士をギリシャ神話に登場するプロメテウス(ゼウスから火(=テクノロジー)を盗み、人間に与えたことが原因で磔にされ、永遠の苦しみを受ける罰に処された神)に擬え、1954年に第二次世界大戦後の冷戦を背景にしてソ連のスパイ容疑を掛けられたオッペンハイマー博士(オッペンハイマー事件)が非公開の聴聞会で尋問される様子を描きながら、第二次世界大戦下のアメリカで原爆開発の極秘プロジェクト「マンハッタン計画」を成功に導いた栄光と原爆投下の惨状を聞かされた後の苦悩が時系列に沿って交錯しながら反芻されていきました。マンハッタン計画はナチス・ドイツが核分裂を成功させたことを契機としてアメリカの国運を掛けて原爆の開発競争を勝ち抜くために開始された極秘プロジェクトでしたが、アメリカが原爆を開発する前にナチス・ドイツが降伏したことから、原爆の実証実験を行う対象として日本が標的にされた経緯が描かれていました。当時のアメリカの科学者達の考え方としては、広島で原爆の威力を世界に示し、長崎で原爆の威力を背景として戦意を喪失させる意図があったそうで、これらを通して原爆の威力を世界中に印象付けた後に原爆を抑止力とする国連主導による恒久平和を目論んでいたことが描かれていました。但し、実際には、今日に至るまで原爆を抑止力とする国連主導による恒久平和は実現されておらず、科学史300年の成果として人類を滅亡させることができる兵器を生み出したという皮肉な事実のみが残される結果になっていることは否めません。この点、ウクライナ戦争における核兵器使用の脅威に象徴されるとおり、人間は状況の変化などによって簡単に考え方(決意)を変える弱い生物なので、核兵器の不使用、不拡散、不所持を促進するために必要な教養を育み続ける不断の努力が欠かせず、そのために芸術が果たすことができる役割は決して小さくないと感じます。なお、この映画では原爆投下の惨状を伝える内容は極めて不十分な印象を否めず、また、アメリカ国内の核実験で被爆したネイティブアメリカンの悲劇にも触れられていないなど、ややその描き方に偏りがある印象を否ませんでした。その意味では、少なくとも、前者については被爆国である日本から世界に発信して行く意義を強く感じさせる映画でした。

サントリーホール・サマーフェスティバル2024と「祭」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼「祭」(ブログの枕単編)
いよいよ夏の音楽祭シーズンが到来しましたが、昨年も参加したサントリーホール・サマーフェスティバルに参加する予定にしています。過去のブログ記事でも触れたとおり、かつて「祭」は来訪神や祖霊神を慰める神事(宗教儀礼)として人々が集って饗宴(神人共食)を催しましたが、現代では信心が薄くなり音楽祭、映画祭、学園祭などの見世物(羽目を外すお祭り騒ぎ)という意味で「〇〇祭」(それを気取って「〇〇フェス」)が使われるようになりました(祭事から催事へ)。古事記「天の岩戸」には天岩戸に隠れた天照大神(おそらくは皆既日食のこと)を慰めるために天鈿女命(天宇受売命)が裸で踊ったという神話(神楽、巫女、申楽(改め、能楽)やストリッパーなどの元祖)が登場しますが、これが祭りの起源とも言われています。この点、「祭」の本義については柳田国男の名著「日本の祭」や折口信夫の名著「古代研究」の民族学篇などに詳しい考察が加えられていますが、「祭」とは神の憑依(神意の顕現)を意味する「まつ」(待つ)を語源とし(能舞台の鏡板に描かれている春日大社の影向の松や年神様を迎えるための門松など神の依り代である「松」も同じ語源)、その神意を人々に伝えて恵沢をもたらすことを「まつりごと」(政)、それを神に報告し感謝することを「まつり」(祭)と言いますが、これらのほかにも神への供物を意味する「たてまつる」(奉る、献る)、神への服従及び奉仕を意味する「まつろう」(順う)、祭事への参加を意味する「まいる」(参る)などの言葉も語源を同じくしています。この背景には、主に西洋では神の恵みである獲物を追う狩猟社会(神霊を追う脱魂型シャーマニズム)を中心として「為す文化」(過去のブログ記事で触れた「社会」)が発達したのに対し、主に日本では神の恵みである作物の収穫を待つ農耕社会(神霊の憑依を待つ憑依型シャーマニズム)を中心として「成る文化」(過去のブログ記事で触れた「世間」)が発達したことが関係していると考えられます。このことは、日本語の「自ら」という言葉が「みずから」(自律、人間)と「おのずから」(他律、自然)という2とおりの読み方を持っていることにも端的に現れています。過去のブログ記事でも触れたとおり、人間(自律)の「みずから」を起点(人間中心主義)とすると自然(他律)の「おのずから」はあくまでも人間(自律)の「みずから」より「外」(父性社会:支配の論理)に観念されるという西洋的な思想(為す文化)につながり自然(他律)に抗するために科学を発展させて自然(他律)をコントロールしようとする発想(二元論的世界観)が生まれましたが(例えば、旧約聖書の創世記第1章の26節から29節、同第9章の1節から6節やR.デカルトの機械論的自然観など)、これに対して、生老病死に象徴される自然(他律)の「おのずから」を起点(自然尊重主義)とすると自然(他律)に抗し得ない人間(自律)の「みずから」は自然(他律)の「おのずから」の「内」(母性社会:調和の論理)に観念されるという日本的な思想(成る文化)につながって自然(他律)を尊重して自然(他律)と調和しようとする発想(一元論的世界観)が生まれました。さながら音楽祭は音楽家の霊性の発現を待ち焦がれ、その世界観に自らのナラティブを同期(トランス)して調和することで心を充足させて行く、宗教儀礼に似た非日常的な体験と言えるかもしれません。世界で初めて音楽祭のようなものが開催されたのがいつ頃なのかは見当も付きませんが、おそらく「祭」の起源と同じではないかと推測されます。この点、有史以来の記録に残るものとして、上述のとおり、日本では「天の岩戸」(年代不詳)で天岩戸に隠れた天照大神を慰めるために天鈿女命が裸で踊った際に「ひふみ祝詞」を奉唱したと言われていますので、これが日本で初めて開催された音楽祭のようなものと言えるかもしれません。また、西洋では古代ギリシャのピュティア競技会(紀元前582年頃:日本の縄文時代)でスポーツ競技のほかに詩、朗読、スピーチや音楽(ギリシャ神話の神アポロンに捧げるための音楽)なども催されたと言われており、これが西洋で初めて開催された音楽祭のようなものと言えるかもしれません。その後、音楽祭は神事から見世物へと性格を変えながら発展しましたが、前回のブログ記事で触れたとおり、西洋では神の支配から人の支配に移行して階級社会になると宮廷音楽と大衆音楽が分離し、音楽祭は王侯貴族などの上流階級に限定された排他的な性格を持つものに変化しましたが、二度の世界大戦を契機としてヨーロッパの前近代的な社会体制や文化遺産などが崩壊したことに伴って、1954年に米国ロードアイランド州でニューポート・ジャズフェスティバルが開催され、大衆に開かれた音楽祭が甦ったと言われています。このような状況のなか、日本では、1957年に現代作曲家の柴田南雄、入野義朗、黛敏郎、諸井誠らが新しい音楽の流れを実践するための場として「現代音楽祭」を開催しましたが、1959年に開催された第3回から武満徹が参加し、また、1961年に開催された第4回ではアメリカから帰国した現代作曲家の一柳慧が参加してジョン・ケージを中心とするアメリカの実験音楽を紹介した音楽祭(俗にケージ・ショック)が開催されました。さらに、1958年に大阪フェスティバルホールの杮落しとして「大阪国際芸術祭」が開催され、当初、ザルツブルク音楽祭などをモデルにして外貨獲得を視野に入れた国際的な音楽祭を目指していたようですが、朝日新聞を中心とする海外文化路線と毎日新聞を中心とする日本文化路線の対立が表面化して第2回目からは前者のみを引き継ぐ大阪国際フェスティバルとして継続され、1970年に開催された大阪万博では一部公演を共催しています。現在では後者も対象とする音楽祭という触れ込みになっていますが、殆ど前者を対象としたプログラム構成(インバンド観光客へのアピール度は低い)になっており、外貨獲得を視野に入れた国際的な音楽祭を目指すと言う性格は希薄になっています。因みに、現時点で、2025年の大阪万博では大阪国際フェスティバルとの共催ではなく大坂関西国際芸術祭が併催される予定のようです。その後、1961年に東京文化会館(2026年から改修を予定)の柿落として「東京世界音楽祭」が開催され、東西文化の交流を目的として西洋音楽のみならず東洋音楽及び日本の伝統邦楽や現代邦楽などが上演されました。これらが日本における音楽祭の先行事例になって1980年代(バブル景気)以降から音楽祭が急速に増加し、現在では①演奏型と②育成型に大別され、①ー1)ミーハー型(国際的に著名な家を演奏家を招集する演奏会)、①ー2)テーマ型(特定の作曲家や目的のために限定された曲を採り上げる演奏会)、②ー1)コンクール型(コンクールと演奏会が結び付いているもの)、②ー2)セミナー型(セミナーと演奏会が結び付いているもの)など様々なタイプの音楽祭が存在しますが、最近は類似する音楽祭が乱立してマンネリズムに陥りつつある印象を否めず、映画「サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)」に見られるようなワクワク感(充足感や高揚感など)が不足してきていることが指摘されています。その一方で、音楽祭の中には地元を上手く巻き込んで一過性のフェス・ブームから新しい「祭」として地元の生活文化(ライフ・スタイル)に浸透して根付きつつあるものもあり、従来の音楽祭という枠組みを超えて新しい生活文化(ライフ・スタイル)の実現やソーシャル・エンゲージメントの取組みなど、単なる音楽を提供する場から神事とは異なる趣旨で音楽などを通して何かを実現する場へと深化する潮流もあり、音楽祭の重層的な意義が問われる時代になってきていると言えるかもしれません。
 
▼音楽祭へ意義の重層化
祭=神事+饗宴

【近代国家の誕生】
土地の単独相続(家長主義)から金銭の分割相続(平等主義)
資本主義経済の高度化(一次産業から〇次産業へ)

【土地と生活文化の分離】
神事の社会的・文化的な基盤崩壊
音楽祭(〇〇祭)=饗宴
演奏型 育成型
ミーハー型 テーマ型 コンクール型 セミナー型
※上記の組合せにより以下のような様々なバリエーションの音楽祭が誕生していますが、現代音楽を積極的に採り上げて日本の音楽シーンを牽引する複合型の音楽祭として、東のサントリーホール・サマーフェスティバルと西の武生国際音楽祭が注目されます。
● 特定地型、移動型:生活文化(ライフ・スタイル)との結び付き(自治体助成との関係などもあり移動型は衰退)
● 都市型、リゾート型:客層(音楽祭への参加目的、参加態様など)の多様化
● 複合型、単一型:ジャンルレスを含む音楽的な嗜好の多様化
 
ところで、上述のとおり、「祭」の起源と言われている古事記「天の岩戸」では早朝に鳴き声を上げて太陽を呼び覚ます鶏(長鳴鳥)を止まり木で鳴かせたところ、天照大神が天岩戸(おそらくは月影のこと)から出て来られたことから、それ以来、神前には鳥居(=鶏の止まり木)を設けるようになったと言われています。この点、サントリーの名前の由来はサントリーの前身である「寿屋」の礎を築いた名品「赤玉ポートワイン」のトレードマークである「赤玉」から「サン」(=太陽)を採り入れて、これに創業者・鳥井信治郎の名字である「トリイ」(=鳥井)をつなげて「サントリー」とし、日本で音楽祭が開催され始めた時期の1963年から社名として使い始めたそうです。その後、1979年にサントリー文化財団が設立され、日本で音楽祭が急速に増加し始めた時期の1986年にサントリーホールが開館、1987年にサントリーサマーフェスティバルが開催、1990年に芥川也寸志サントリー作曲賞が開始され、正しく飛べない鶏を飛ばす勢いで日本の音楽文化の夜明けが到来したと言えるのではないかと思います。この点、鳥井氏の名字は「鳥居」に由来しているとも言われており、「太陽」と「鳥居」との組合せは古事記「天の岩戸」にも通じる非常に縁起の良いネーミングと言えると思います。因みに、サントリー角瓶のエンブレムには創業者・鳥井信治郎のサインが刻印されていますので、正体が定かでなくなる前にご確認下さい。このような鶏の神聖視は日本や東洋の国々だけではなく、例えば、バッハ「マタイ受難曲」のペテロの否認においてペテロがイエスを「知らない」と三度否認したところで鶏が鳴く声を聞いて我に帰り激しく後悔して落涙する場面(アリアのピッチカートは涙のモチーフ)がありますが、この鶏の鳴き声にはペテロの信仰をひらく役割(夜明け=魂の救済)が与えられており、西洋でも鶏が神聖視されていたことが伺えます。なお、「鳥居」という言葉は天上界から地上界へと光(天照大神)が戻ってきたこと(=通り入る)に由来としていると言われています。この背景には、生殖器信仰(古代ギリシャを初めとして世界各地に広く見られる原始的な信仰形態)に基づいて「生(=光)を司る神社」(これに対して「死(=闇)を司る寺社」)の「鳥居」は女性の生殖器を象徴し、「参道」(=産道)を遡上して「お宮」(=子宮)へと至り、お賽銭箱の上方からぶら下がっている「鈴」及び「紐」は男性の生殖器を象徴し、神社へお参りする度に新しく生まれ直す(安産祈願、お宮参り、七五三、初詣、合格祈願、結婚式等の人生の節目に深く縁のある場所)という意味合いがあると言われています。その意味ではサントリーホールも音楽で心の穢れを洗い流し、新しく生まれ直すことができる有難い場所と言えるのではないかと思います。
 
 
▼サントリーホール・サマーフェスティバル2024
毎年開催されているサントリーホールサマーフェスティバルですが、今年はプロデューサーシリーズに現代音楽のスペシャリストであるアルディッティ弦楽四重奏団、テーマ作曲家にライブ・エレクトロニクスの第一人者として知られるフランス人現代作曲家のフィリップ・マヌリさんをお迎えする贅沢なプログラムになっており、また、第34回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会も併催される予定になっております。全公演を合せると非常に演目数が多く全曲の感想を書くことは困難なので、演奏会を聴いた後に時間を見付けて、存命中の作曲家の作品に限り、いくつかの作品及び芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会をピックアップして簡単に感想を残しておきたいと思います。なお、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
--->後日追記
 
【演題】ザ・プロデューサー・シリーズ アーヴィン・アルディッティがひらく
    室内楽コンサート1(8月22日)
【演目】①武満徹
      「ア・ウェイ・ア・ローン」弦楽四重奏のための(1980年)
    ②ジョナサン・ハーヴェイ 弦楽四重奏曲第1番(1977年)
    ③細川俊夫
        「オレクシス」ピアノと弦楽四重奏のための(2023年)
    ④ヘルムート・ラッヘンマン 
         弦楽四重奏曲第3番「グリド」(2000/2001年)
【演奏】<Sq>アルディッティ弦楽四重奏団(①~④) 
    <Pf>北村朋幹(③)
【一言感想】
③細川俊夫 「オレクシス」ピアノと弦楽四重奏のための(日本初演)
この曲はアルディッティ弦楽四重奏団の結成50周年の記念作品として作曲されましたが、パンフレットによれば、オレクシスとはギリシャ語で「本能的欲求を意味する。存在の空白(虚空)を埋めたいという宇宙的な本能(内的な促し)に沿って、音楽を生み出したいという願いから、この題名を選んだ。」と作曲意図が解説されています。宇宙の塵やガスから地球や生物が誕生した宇宙進化(生物進化を含む)をイメージさせる非常にスケールの大きな音楽に感じられました。ピアノが柔らかい和音を奏でるなかを弦が幻想的に揺蕩う静かな始まりは原始宇宙(音子)を連想させましたが、やがて宇宙の呼吸を思わせる伸縮を繰り返し次第に密度を増しながら音像がはっきりと立ち上ってくると、エネルギー(音)の放出を連想させる鋭い上行形や下行形の音楽が重ねられてクライマックスを築きました。さながら音の呼吸が連鎖反応しながら音楽が生まれ、その音楽が持つ世界観(音宇宙)が広がりながら、ミクロとマクロ、光と闇、無と有などが絶え間なく交錯している様子をイメージさせる精妙な音響空間を彩る面白い作品に感じられました。アルディッティ弦楽四重奏団は音楽表現の懐が広く、音楽的なイメージを精妙かつ適確に伝える説得力のある演奏を展開していました。最近、現代音楽の分野で精力的に活動する北村さんの今後の活躍にも注目したいです。
 
④ヘルムート・ラッヘンマン:弦楽四重奏曲第3番「グリド」
H,ラッヘンマンさん(愛妻はラッヘルマン弾きとしても知られるピアニストの菅原幸子さん)は、楽器を伝統の文脈から解放するために特殊奏法などによって楽器から生まれる音を異化する「楽器によるミュージック・コンクレート」に取り組み、そこから紡がれる「個性的な音響のパレット」を使って体現する新しい音楽表現に特徴があります。パンフレットによれば、「「グリッド」とはイタリア語で悲鳴あるいは叫びを意味する。このタイトルと作品そのものは、前2作よりももっと鳴り響く曲を書いて欲しいとリクエストした」ことを受けて「主として通常通りに演奏される音高で構成」され、「スコアにはラッヘンマン的な効果が散りばめられてはいるが、それらはたいてい音高のある響きの背景である。」と解説されています。冒頭から特殊奏法などによる多彩な音(ノイズを含む)で彩られていきますが、単に音を異化するだけに留まらず、その多彩な音から斬新なボキャブラリーを生み出し、これまでに聴いたことがない音楽的な文脈(アンサンブル)を紡ぎ出す非常にユニークな作風に魅了されました。アルディッティ弦楽四重奏団の老練巧みな演奏が秀逸でして、作曲意図が適確に引き出され、この作品の魅力を縦横無尽に浮き彫りにして行く至芸に、会場からも盛大な歓声が飛んでいました。これを生演奏で聴けたことが大収穫でした。
 
【演題】サントリーホール国際作曲委嘱シリーズNO.46(監修:細川俊夫)
    テーマ作曲家:フィリップ・マヌリ
    オーケストラ・ポートレート(8月23日)
【演目】①クロード・ドビュッシー 
            「牧神の午後への前奏曲」(1891/1894年)
    ②ピエール・ブーレーズ
       「ノタシオン」オーケストラのための(1978/2004年)
    ③クロード・ドビュッシー(フィリップ・マヌリ 編曲)
          「夢」(オーケストラ用編曲)(1883/2011年)
    ④フランチェスカ・ヴェルネッリ
             「チューン・アンド・リチューンⅡ」
              オーケストラのための(2019/2020年)
    ⑤フィリップ・マヌリ
      「プレザンス」空間化された大オーケストラのための(世界初演)
【演奏】<Cond>ブラッド・ラブマン
    <Orch>東京交響楽団
【一言感想】
⑤フィリップ・マヌリ:「プレザンス」空間化された大オーケストラのための(世界初演)
これまでも来日の機会が多く日本に所縁が深いP.マヌリさんですが、パンフレットによれば、「新作「プレザンス」(存在、現在)は、「ケルン3部作」(2013~19)に次ぐ3部作の3作目にあたる。空間配置の実験である「ケルン3部作」に対し、新たな3部作はオーケストラの可能性を探求する点に特徴がある。「プレザンス」では、奏者の演奏中の移動と、「リング」(2016、「ケルン3部作」第一作)などでも試みられていた楽器グループの配置が組み合わされて」おり、「同族の楽器から構成される10の楽器グループが5つずつ、舞台の左右に対照的に配置される。」と解説されています。冒頭、プリペアドピアノの独特な響きが奏でられ、グリッサンドやハーモニクスによる繊細な響きの弦、ハーモンミュートによる滑稽な響きの金管、オーケストラにアクセントを与える眩い響きの鈴、クロタルや鐘などが加わって、それらが織り成す斬新な響きに惹き込まれました。細かく分けられた楽器群が舞台の左右に対照的に配置されたことにより散在的、重層的な響きは音の万華鏡とも言うべき音響空間を生み出し、新しい交響的な魅力を湛えるアンサンブルが白眉でした。その後、弦を土台として管打がリズミカルに飛翔し、時に夢心地に、時に緊迫感のある演奏が劇的に展開され、さながらシンフォニックダンスを聴いているような躍動感のある音楽を楽しめました。やがて舞台上の8人の管楽器奏者が舞台を降りて4人組み(バンダ隊)に分かれて客席の左右に展開して、舞台上のオーケストラと緊密に呼応しながらシアターピースならではの立体的な音響空間を生み出していました。その後、バンダ隊が退場して静かな終曲を迎えましたが、様々なアイディアにより、これまでにない交響的な魅力をオーケストラから惹き出すことに成功した作品に感じられました。文書では上手く伝わらないと思いますが、次代に受け継がれる充実した内容を持った傑作の世界初演に立ち会えた興奮を禁じ得ません。ヴラヴォー!
 
【演題】第34回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会(8月24日)
【演目】第32回受賞 波立裕矢委嘱作品演奏
    ①波立裕矢 「空を飛ぶために˖⋆࿐໋₊ 」
                打楽器とオーケストラのための(世界初演)
【演奏】<Perc>安藤巴
    <Cond>杉山洋一
    <Orch>新日本フィルハーモニー交響楽団
【演目】芥川也寸志サントリー作曲賞候補作品演奏・公開演奏
    ②石川健人 「ブリコラ-じゅげむ」(2023年)
    ③河島昌史 「e→e Ⅳ」(2023年)
    ④山邊光二 「Underscore」(2022年)
【演奏】<Cond>杉山洋一
    <Orch>新日本フィルハーモニー交響楽団
    <審査>新実徳英、望月京、山本裕之
    <司会>白石美雪
【一言感想】
①波立裕矢 「空を飛ぶために˖⋆࿐໋₊ 」打楽器とオーケストラのための(世界初演)
第32回芥川也寸志サントリー作曲賞を受賞した波立裕矢さんがその受賞記念としてサントリー芸術財団から委嘱された作品を世界初演しました。パンフレットによれば、「加速度的に変化する社会における人々の獰猛なステップと、その社会の行く末を音楽で描くことを構想し」ましたが、「作曲途中の音楽がドビュッシーのとある練習曲と深く共鳴していることに気付い」て「新たに聞こえた極限の神経質な音楽と、同時に眼前に浮かんだ小刻みな震えの印象に、私は「空を飛ぶ」ときと同じ物理的な機運を感じた。」と解説されています。近代の都市モデル(イギリス)や経済モデル(アメリカ)を象徴するような力強いリズムは急速に組織化、高度化した社会を表現したものでしょうか、やがてテンポの緩急(好景、不景)を繰り返しながら次第にリズムが薄弱となり足元が覚束なくなっていく様子はそれらの都市モデルや経済モデルが破綻を迎えている現状をアイロニカルに表現しているようにも感じられ、そのリズム感や諧謔性はどこか社会を風刺したショスタコーヴィチの音楽を彷彿とさせるようにも感じられました。オーケストラは打楽器的に扱われていましたが、ソリストとオーケストラのバランスに優れ、杉山さんと安藤さんの呼吸感もよく、ソリストとオーケストラが緊密に呼応しながら構成感のある演奏を楽しむことができました。カデンツァを挟んで曲想が一変し、神秘的に揺蕩う響きに満たされ、さながらドビュッシーの幻想的な色彩感や浮遊感を思わせる音楽が展開されました。やがてソリストとオーケストラがアンサンブルの密度を増しながらホルンの咆哮と共にクライマックスを築きましたが、このまま大団円に流れて行く古典的なセオリー通りの展開とは異なって徐々に弛緩して諧謔性を帯びながら終曲する現代風のスマートな後味の良さが感じられました。因みに、標題の最後に付されている記号文字は「かわいい」という理由で採用したものだそうですが、未だに「芸術音楽」「絶対音楽」「純音楽」などの死語(認知バイアス)に憑り付かれている昭和世代を滑稽に葬ってしまう時代の風を感じさせます。なお、パンフレットには「今様のダンサブルな音楽を引用しようとは思わなかった。私は好きだが、オーケストラに相応しくないと思われたので。」と注記されていましたが、P.マヌリさんのように近代のメディアであるオーケストラを今様にアップデートしてしまう挑戦にも期待したいです。
 
▼審査講評
今年の応募作品は約60作品にのぼり過去最高を記録したそうですが、アフターコロナから本格化している現代音楽の台頭を象徴するものと思われます。3人の審査員から各曲毎に以下のとおり講評がありましたので、その要旨を1〜2行でサマったうえで、簡単に僕の感想を付記しておきたいと思います。(以下、敬称略)
 
②石川健人 「ブリコラ-じゅげむ」(2023年)
【新実】冒頭の繰り返しは「じゅげむ」という心の叫びのように聴こえてくる。その必要な繰り返しには危機的心理が現れているようで面白い。
【望月】オーケストラの編成規模が小さいにも拘らず、音色や要素が多い印象を受けた。これまで提出されていない日本文化の要素を重層的に表現している。
【山本】プリコラージュとじゅげむという要素が重層的に組み合わされていて面白い。その組合せ方を考え抜いている印象だ。後半はカオスの中から秩序が生まれてくるようだ。
【私感】コンセプトは面白いのですが、小編成であったこともあり響きがシンプルで華奢に感じられ、やや音楽的な面白味に欠ける印象を否めませんでした。もう少し楽器編成にもプリコラージュ感を出せれば、更に面白かったかもしれません。
 
③河島昌史 「e→e Ⅳ」(2023年)
【山本】Eの音を軸にして繰り返しに拘りを感じる。その繰り返しは感覚的なものなのか、設計されたものなのか分からないが、音楽で表現できない言い知れぬ何かが魅力に感じられる。
【新実】Eの音を中心に執拗に繰り返す集中力。繰り返しの意味は市井の人々の日常を表現したものであり、ゲネラルパウゼの多用が良い意味で観客の期待を裏切っていたと思う。
【望月】バーゼルでは残響がなく、ゲネラルパウゼの沈黙が長く続いていたはずだ。サントリーホールは残響よく、それがこの曲を違った印象にしているのかもしれない。
【私感】「円の形」の微細な変化を表現するという拘りのコンセプトは興味深いものがありましたが、その一方で、些か音楽が単調な印象を否めず、どうしても飽きが来てしまう憾みがありました。
 
④山邊光二 「Underscore」(2022年)
【新実】非常にさわやか、あざやかな印象で色彩感があり美しい作品。シンプルな作品である点に魅力がある。
【望月】オーケストレーションが精緻で、色彩を重ねても透明感が損なわれていない。
【山本】無駄な音が書かれていない。空間的な音を意識させる。特殊奏法などに逃げることなく正統的な書法。
【私感】山本さんが指摘されていましたが、洗練されたアンサンブルの中に「不具合(バグやグリッチ)」を遊ぶというコンセプトをもう少し明瞭に表現する工夫があれば、更に面白い作品になっていたように感じます。
 
▼審査結果
【新実】一位:山邊、二位:石川、三位:河島
【望月】一位:石川、順位なし:河島、山邊
【山本】一位:河島、二位:石川、三位:山邊
【私感】聴衆賞:該当なし(昨年との対比において)
芥川也寸志サントリー作曲賞の運営上の課題として、今回のように3人の審査員の審査結果が分かれた場合は、3人の審査員の協議によって無理に1曲に集約しようとする昭和的なやり方ではなく、例えば、聴衆賞を1票として芥川也寸志サントリー作曲賞を選ぶ方法などに改善した方が「マシ」ではないかと思います。それぞれの審査員がお互いに忖度し、妥協して、無理に1曲に集約して行く過程を見せられると芥川也寸志サントリー作曲賞は妥協の産物のような印象しか受けず(審査基準の透明性などの問題も含む。)、それに権威を認めろと言われても当惑してしまいます。なお、音楽に国籍や国境はないと信じたいので、武満徹作曲賞のように日本人作曲家の作品だけではなく外国人作曲家の作品も幅広く選考対象に含めるのが望ましいと思いますが、運営面や費用面などから難しいということであれば、少なくとも、審査に「しがらみ」などが可能な限り影響しないように、(費用面が許すのであれば)外国人作曲家や外国人指揮者などを審査員として招聘することを考えてみても良いかもしれません。
 
▼審査結果
芥川也寸志サントリー作曲賞:石川健人 「ブリコラ-じゅげむ」(2023年)
聴衆賞:山邊光二 「Underscore」(2022年)
 
【演題】ザ・プロデューサー・シリーズ アーヴィン・アルディッティがひらく
    室内楽コンサート2(8月25日)
【演目】①エリオット・カーター 弦楽四重奏曲第5番(1995年)
    ②坂田直樹 「無限の河」弦楽四重奏のための(世界初演)
    ③西村朗 弦楽四重奏曲第5番「シェーシャ」(2013年)
    ④ハリソン・バートウィッスル 
                弦楽四重奏曲「弦の木」(2017年)
【演奏】<Sq>アルディッティ弦楽四重奏団
【一言感想】
坂田直樹 「無限の河」弦楽四重奏のための(世界初演)
この曲は室内楽コンサートで世界初演される予定の2つの委嘱新作のうちの1曲ですが、パンフレットによれば、「華厳思想から得られた二つの着想をもとに書かれている。一つ目のアイディアは、「一つの個体は全体のなかにあり、個体のなかにまた全体があり、個体と全体とは互いに即している」とする「一切即一」の世界観。二つ目の発想は、「一切の事象が対立することなく互いに溶け合い、調和する関係を保っている」とする「相即相入」の考え方。これらの観念にふさわしい音響とはどのようなものだろうか?まず、私にイメージされたのは尺八の複雑な響き。(中略)尺八のたったひと吹きのなかで宇宙全体が表現されているようでもあり、この伝統楽器の音を拠り所としつつ、作品を書き進めた。」と解説されています。西洋のアコースティック楽器は整数次倍音を美しく響かせるために改良が加えられてきた歴史があり、その反面として非整数次倍音を抑制してきたと言えると思われますが(父性原理)、尺八は整数次倍音と非整数次倍音が混在する自然の音を奏でる楽器で(母性原理)、西洋音楽のように音の連なり重なりで描く音世界とは異なる一音で描き切る音世界(一音成仏)に特徴があると思われます。この尺八(1本の管)の音世界を西洋音楽のメディアである弦楽四重奏(4挺の弦)で表現する野心的な試みに感じられました。弦の特殊奏法などを使って整数次倍音と共に非整数次倍音を多く含んだ音が多用され、また、息の楽器である尺八の特徴を捉えた音(音の立ち上がりは強く、息が続く限り音が持続して、息が切れると減衰する息の音)が表現されていたと思います。さらに、ニュアンス豊かなビブラートなどを使って尺八のユリを多様に表現するなど尺八の風情が随所に感じられ、弦が尺八の音世界を体現する面白い作品に感じられました。なお、演目数が多いので存命中の作曲家の一部の作品に限り感想を書くことにしていますが、昨年他界された西村朗さんがI.アルディッティさんの還暦祝いに献呈された弦楽四重奏曲第5番「シェーシャ」では、そのユニークで精緻な書法に瑞々しい生命が吹き込まれる構築感のある名演奏を堪能できたことを特記しておきたいと思います。
 
【演題】ザ・プロデューサー・シリーズ アーヴィン・アルディッティがひらく
    室内楽コンサート3(8月25日)
【演目】①ブライアン・ファーニホウ 
             弦楽四重奏曲第3番(1986/1987年)
    ②ジェームズ・クラーク 弦楽四重奏曲第5番(2020年)
    ③ロジャー・レイノルズ 「アリアドネの糸」(1994年)
    ④イルダ・パレデス 「ソブレ・ディアロゴス・アポクリフォス」
                  ピアノ五重奏のための(世界初演)
    ⑤ヤニス・クセナキス
            「テトラス」弦楽四重奏のための(1983年)
【演奏】<Sq>アルディッティ弦楽四重奏団
    <Elc>有馬純寿(④)
    <Pf>北村朋幹(⑤)
【一言感想】
ロジャー・レイノルズ 「アリアドネの糸」(1994年)
日本との所縁が深く武満徹さんとも親交が厚かったロジャー・レイノルズさんですが、この曲はアルディッティ弦楽四重奏団に献呈した4曲の弦楽四重奏曲のうちの1曲で、パンフレットによれば、「コンピュータ生成による音響が、弦楽四重奏に遂行可能なことの幅を拡張しながら、弦楽四重奏の音響を支え、増強し、それと交替し、時にはそれに取って代わる」ものとして機能し、「アリアドネは線をめぐる抽象的な主題となり、そのことからマティスや仙厓、クレーやレンブラントなどの創造力をかき立てるドローイングを、この楽曲で使用される音の輪郭線の着想源として用いることになった。」と解説されています。冒頭で弦が清澄な響きのロングトーンにより美しいドローイングを描いて見せた後、ライブ・エレクトロニクスが時に弦の音とシンクロしてシームレスにその音を拡張し、時に弦の音と異質な音で拮抗して緊張関係を作っていましたが、さながら様々な線種や線色で描かれる3次元的に交錯するドローイングをイメージさせる面白い音響空間を楽しめました。アコースティックの演奏と異なりライブ・エレクトロニクスの演奏ではどの位置の席に座るのかによって聴え方に大きな差が生じるように感じますが、(良席はスポンサーや業界関係者に割り当てられており)僕はスピーカーが設置してある会場隅の席に座っていた関係で、弦の音とライブ・エレクトロニクスの音がバランス良くブレンドされず、常に後方のスピーカーから聞こえてくるライブ・エレクトロニクスの音が弦の音をマウントしてくるような聴え方がしていた点が残念でした。この点、ライブ・エレクトロニクスの公演は、ホールで聴くよりも、マイクで拾った最適音をヘッドフォンで聴く方が作品の魅力を体感し易いのかもしれません。
 
イルダ・パレデス 「ソブレ・ディアロゴス・アポクリフォス」ピアノ五重奏のための(世界初演)
イルダ・パレデスさん(I.アルディッティさんの愛妻)はメキシコを代表する現代作曲家ですが、パンフレットによれば、「スペイン語による題名は、「創り上げられた対話について」という意味で、私がアルディッティ弦楽四重奏団のメンバーによるものとして創作した音楽的な対話のこと指し」ており、「アルディッティ弦楽四重奏団のことを知ることで、私はいつもインスピレーションをかき立てられる。というのも、彼らを知ることで、詩的・音楽的なドラマトゥルギーを構成しながら、音楽の進むべき方向を理解することができるからだ。」と解説されています。冒頭でピアノが閃きに満ちたパッセージをダイナミックに奏でましたが、その後、弦はハーモニクスや細かい刻みなどによるセンシティブな演奏を展開し、ピアノも内部奏法(指のほかにスティックなどを使用)による精妙な響きを紡ぎ出す思索的な演奏が展開されました。やがてピアノが奔放なリズムを奏でると、弦もピッチカートやスピッカートなどでリズミカルに応え、シャープな音によるアグレッシブな演奏が展開されましたが、さながらアイディアを音楽にして行く創作過程そのものをイメージしながら興味深く聴いていました。北村さんは内部奏法のために殆ど立ちっ放しの状態でしたが、内部奏法から紡ぎ出される独特な響きが随所で効果的に使用され、音楽に吸引力を生むアクセントになっていたように感じられ、表情豊かな演奏を楽しめました。
 
【演題】サントリーホール国際作曲委嘱シリーズNO.46(監修:細川俊夫)
    テーマ作曲家:フィリップ・マヌリ
    作曲ワークショップXトークセッション(8月26日)
【演目】第1部 フィリップ・マヌリX細川俊夫トークセッション
    <対談>フィリップ・マヌリ
        野平一郎
        細川俊夫
    <通訳>今井貴子
    第2部 若手作曲家からの公募作品クリニック/実演付き
    ①杉本能 「Earth, Water & 」Air」
    ②鷹羽咲 「エマルション」クラリネットとヴァイオリンのための
    ③浦野真珠 「BAT and CACTAS」弦楽三重奏のための
    <レクチャー>フィリップ・マヌリ、細川俊夫
    <通訳>今井貴子
【演奏】<Fl>山本英(①)
    <Cl>東紗衣(②)
    <Vn>迫田圭(②③)
    <Va>甲斐史子(③)
    <Vc>細井唯(③)
【一言感想】
〇第1部 フィリップ・マヌリX細川俊夫トークセッション
P.マヌリさんの日本の印象やプレザンスのワールドプレミエの感想などが語られた後に、IRCAMの活動についてトークが展開されました。そのなかで、ライブ・エレクトロニクスが十分に普及していない現状の課題について、クラシック音楽とエレクトロニクスの素養を兼ね備えた人材の不足が指摘されており、そのような環境がライブ・エレクトロニクスに興味を示す作曲家が少ない現状を生んでいるという問題意識が示されました。芸術界に限らず、どの分野でも「文理融合」が社会課題であることが浮き彫りにされました。P.マヌリさんの音楽家のスタンスとして、音楽からヒエラルキーな構造を取り払うことに取り組まれているそうですが(革新)、その一方でグレゴリオ聖歌に遡る伝統的な作曲技法を踏まえたエクリチュールの重要性を唱えられていたのが印象的でした(伝統)。これは映画「ター」でも採り上げられていた問題ですが、若い世代の音楽家には伝統的な作曲技法を踏まえたエクリチュールに興味を示さず、コンセプトのみを重視して無手勝流(型無し)に流れる人もいるようです。個人的には「型を学んで、型を追わず」(映画「ドラゴン・キングダム」より)という名言のとおり、いつまでも型通りでは花(世阿弥曰く「花と面白きとめづらしきと、これ三つは同じ心なり」)がなくつまりませんが、(100年に1人の天才を除いて)基本を洗練させたうえに一流や革新(型破り)は成立するものであり、これは芸術界に限らず、どの分野にも妥当することではないかと感じます。
 
〇第2部 若手作曲家からの公募作品クリニック/実演付き
冒頭、サントリーホールのスタッフから挨拶があり、この作曲ワークショップには27作品の応募があり、そのうち3作品が採り上げられることになったそうです。因みに、武満徹作曲賞は約100作品、芥川也寸志サントリー作曲賞は60作品の応募がありましたが、この作曲ワークショップを含めて応募数は増加傾向にあるようです。最近の現代音楽ブームを背景として、年々競争率は上がって行くことになるかもしれませんが、競争率だけではなく作品の質の向上にも期待したいです。
 
杉本能 「Earth, Water & 」Air」
この作品はパール・クレーのスケッチブックにある3つのテーマ「重力」「水面(波打つ)」「浮力」に焦点を当て作曲したものだそうで、キー・ノイズ、息の音、掠れた音、口笛のような音など特殊奏法が駆使して様々な線形が表現されていました。P.マヌリさんから音楽的な作品だが同じことを繰り返している点が残念に思われるので、どれか1つのテーマを重視するか又は3つのテーマを1つとして扱うと音楽的にまとまりが生まれて良い作品になるのではないかという趣旨のアドヴァイスがありました。
 
鷹羽咲 「エマルション」クラリネットとヴァイオリンのための
この作品は水と油の乳化を表現したものだそうで、冒頭では衝突していたヴァイオリンとクラリネットがやがて反応しながら乳化して行く様子が音楽的に表現されていました。P.マヌリさんから曲の終止感が弱く宙ぶらりんな印象を受けるので、終曲を工夫する必要があるという趣旨のアドヴァイスがありました。
 
浦野真珠 「BAT and CACTAS」弦楽三重奏のための
この作品はコウモリがサボテン「ゲッカビジン」を受粉する過程を表現したものだそうです。コウモリは耳で見る動物で超音波を使って花と対話しながら位置関係を把握しますが、3つの弦楽器の明確な性格付けと多彩なコンビネーションが面白い作品に感じられました。P,マヌリさんからドラマチックな心理変化や音響設計が面白く、想定外の終わり方が聴き手のイマジネーションをかき立てるものであり素晴らしかったという趣旨の高評価が示されました。次の武満徹作曲賞に応募してみてはいかがでしょうか。期待しています。
 
【演題】サントリーホール国際作曲委嘱シリーズNO.46(監修:細川俊夫)
    テーマ作曲家:フィリップ・マヌリ
    室内楽ポートレート(8月27日)
【演目】①フィリップ・マヌリ 
           弦楽四重奏曲第4番「フラグメンティ」(2015年)
    ②フィリップ・マヌリ
              「六重奏の仮説」6楽器のための(2011年)
    ③フィリップ・マヌリ
      「イッルド・エティアム」ソプラノと
          リアルタイム・エレクトロニクスのための(2012年)
    ④フィリップ・マヌリ
      「ウェルプリペアド・ピアノ(第3ソナタ)」ピアノと
             ライブ・エレクトロニクスのための(2020年)
【演奏】<Sq>タレイア・クァルテット(①)
    <Fl>今井貴子(②)
    <Cl>田中香織(②)
    <Mb>西久保友広(②)
    <Pf>永野英樹(②)
    <Vn>松岡麻衣子(②)
    <Vc>山澤慧(②)
    <Sop>溝淵加奈枝(③)
    <Elc>今井慎太郎(③)
    <Pf>永野英樹(④)
    <Elc>今井慎太郎(④)
【一言感想】
①フィリップ・マヌリ 弦楽四重奏曲第4番「フラグメンティ」(2015年)
パンフレットによれば、「「フラグメンティ」の名の通り、全体は、ごく短い11の断片から構成され、それぞれが、ひとつのアイディア、ひとつの身振りを音楽的に示す。すなわち、この作品においては、何らかの根本的アイディアが連続的に展開されるのではなく、性格の異なる断片どうしが大きな星座を形成していくのである。またマヌリは、弦楽四重奏曲というアンサンブルの同質性を活用して、その全体を16本の弦をもつ一つの大きな楽器のように扱ったという。」と解説されています。急~緩~Pizzなどの性格が異なる短いフラグメントが組み合わされていましたが、密度濃く硬質な響きで空間を満たす急~揺蕩うような淡い響きが空間を漂う緩~緊張関係にある点描が空間を彩るPizzなどを基本的なキャラクターとし、様々な奏法から生み出される多彩な音色やボキャブラリーなどを使ってメリハリのある音楽が展開されていました。従来の弦楽四重奏は4人の登場人物が1つの音楽的な物語を紡ぐ小説のようなものであるとすれば、この曲は1句1句が異なる世界観を持つ俳句集のような風合いを持った面白い作品に感じられました。
 
②フィリップ・マヌリ 「六重奏の仮説」6楽器のための(2011年)
パンフレットによれば、「室内楽を書くとは、つまるところ、人間の会話を思い描くことである。人間の会話は、ひとびとの間を往復し、新しいアイディア次第で増殖し、まとまるかと思えば散り散りになり、停止して沈黙し、再び出発点に戻る。室内楽も、同じようなものだ。」と解説されていますが、これはP.マヌリさんの作品が持つ特徴の1つになっていると言えるかもしれません。ピアノが跳躍音をダイナミックに奏で、これにマリンバが機敏に呼応しますが、これとは対照的に管弦は微細音を奏で静観している様子がユーモラスに感じられました。その後、ピアノが内部奏法によりハーモニクスを変化させながらドビュッシーの「雪の上の足跡」のモチーフを奏で、マリンバ(クロタルをアクセントとして効果的に使用)と音楽的なフレームを作ると、これに呼応して管弦が様々な音楽的なボキャブラリーで多彩な対話を重ねるユニークな音楽に感じられました。多様な奏法、音色、ボキャブラリーなどを使って織り上げられて行く豊かな物語性が飽きさせず、グルーブ感や即興感すら感じさせる熱量の高いアンサンブルは聴き応えがありました。音楽的な文脈が明瞭に伝わってくる演奏も素晴らしかったと思います。
 
③フィリップ・マヌリ 「イッルド・エティアム」ソプラノとリアルタイム・エレクトロニクスのための(2012年)
ライブ・エレクトロニクスの第一人者の真髄を堪能しました。パンフレットによれば、「この作品が主題とするんは、中世の魔術であり、その着想の源は、魔術が中心的問題のほとつになっているイングマール・ベルイマンの映画「第七の封印」にある。わたしは2つのテキストを利用していて、そのひとつはカルロ・ギンズブルグの著書「魔女たちのサバト」に掲載されているラテン語のテキストであり、もうひとつは、女声の詩人、ルイーズ・ラベによるとされる、古フランス語のテキストである。」と解説されています。ソプラノが異端審問官と魔女の2役を歌い分けましたが、異端審問官が冷徹な声で魔女を断罪しますが、ライブ・エレクトロニクスの硬質な金属音がこの世ならざるものの存在を予感させるもので、冒頭からインパクトのある世界観に惹き込まれました。その後、魔女がこの世ならざるものに心を囚われて霊感を帯びた言葉を歌い始め、その声をライブ・エレクトロニクスが拡張しながら反芻し魔女の心に宿るもう一つの闇の世界が不気味に描写されましたが、これまでに聴いたことがない強烈な世界観を持った声楽作品に鼻血が止まりませんでした。オモシロイ!その後、ライヴ・エレクトロニクスから教会の鐘の音が鳴ると、魔女の肉声(光)とライブ・エレクトロニクスの心の声(闇)が拮抗し、やがてライブ・エレクトロニクスの心の声が圧倒して魔女の内心を支配するハイブリッドな世界観が強烈なインパクトで表現されていました。魔女の肉声(光)は叫びに変って切り裂かれ、ライヴ・エレクトロニクスの心の声(闇)と共に教会の鐘の音(光のメタファー)が崩壊すると、炎に包まれた魔女の姿がいびつに歪み、最後は照明が落ちて深い闇に包まれるという悪魔的な展開に興奮を禁じ得ませんでした。ヴラヴォー!この作品は、映画の世界観を声楽作品として昇華したものに感じられ、単にライブ・エレクトロニクスの斬新な音響を使って現代音楽をサブカルチャー化したものとは異なり、サブカルチャーの要素を現代音楽に上手く採り入れなら声楽作品として確立することで新しい芸術体験を可能にしたという意味で、この分野の新しい表現可能性を感じさせる大変に意義深い作品に感じられました。どの分野でもそうですが、先達の成果を受け継ぎながら一人の天才の登場が道を切り拓くということかもしれません。是非、声楽家の皆さんは、この作品をレパートリーに加えて頂きたいと願って止みません。なお、この曲はあまりオペラのように芝居掛ると鼻に付き、聴衆のイマジネーションを阻害するのではないかと思われますが、ソプラノの溝渕さんは音以外の要素は抑制的で声質を上手く使いながらライブ・エレクトロニクスの音響効果を使って闇の世界を深めて行く演奏で、それが聴衆のイマジネーションを上手く引き出していたと思います。
 
④フィリップ・マヌリ 「ウェルプリペアド・ピアノ(第3ソナタ)」ピアノとライブ・エレクトロニクスのための(2020年)
前掲の声楽作品に続いて、この器楽作品でもライブ・エレクトロニクスの第一人者の真髄を存分に堪能できました。パンフレットによれば、「この曲のタイトルは、一方でバッハを仄めかしている。バッハの時代の調律論争(その痕跡はよく調律された(すなわち平均律)クラヴィーア曲集に現れている)は、楽器それ自体の響きを調整しようとする現代に通じるように思われたからだ。このタイトルは、一方で、ケージをアイロニカルに仄めかしている。参考にしたのは、ケージの「ソナタとインターリュード」だが、私の曲におけるピアノは、もはやボトルやナットではなく、電子的手段によって「プリペアド」され」、「ソリストが、あらかじめ作成された電子音楽に従うのではなく、機械のほうが、ソリストの演奏に合わせていく。」と解説されています。冒頭はピアノとライブ・エレクトロニクスが異なる音質で対話を続けてハイブリッドな世界観が印象付けられていましたが、やがてピアノの音がライブ・エレクトロニクスでプリペアド音に変換され、ピアノとライヴ・エレクトロニクスがシームレスに融合する音響空間が出現しました。この技術を使えば、プリペアドはもちろんのこと、ピアノの調律を変えなくても四分音ピアノに変換することも可能であり、さらに、1台のピアノで平均律ピアノと四分音ピアノの2台分(176鍵盤)の演奏をすることも可能ではないかと思われ、非常に興味深かったです。その後、ピアノとライヴ・エレクトロニクスのデュオが展開され、さながらジャズの即興演奏のようなグルーブ感のある完成度の高い演奏に興奮を禁じ得ませんでした。オモシロイ!ライヴ・エレクトロニクスが演奏を主導するのではなくピアノ(人間)が演奏を主導するデュオなので、人間の閃きがエレクトロニクスを主導しながら、更にライブ・エレクトロニクスが人間にインスピレーションを与える相乗効果が感じられ、単にピアノ(人間)をライブ・エレクトロニクスに置き換えてしまうよりも熱量が高い面白い演奏が聴けるような気がしています。ライブ・エレクトロニクスからガムランのような音が聴こえてくるなど、様々な意味で意外性のある音楽を楽しむことができ、優れて満足度が高い芸術体験になりました。ヴラヴォー!日本ではライヴ・エレクトロニクスの有馬純寿さんのほかにもヴァイオリニストの河村絢音さんとライヴ・エレクトロニクスの佐原洸さんなどもヴァイオリンとライヴ・エレクトロニクスの可能性を追求する活動を続けられていますが、今後、この分野の作品が革新されて行くことになるかもしれません。室内楽ポートレートで採り上げられた4作品はすべて日本初演になりますが、日本ではこれらの傑作群と出会う機会に恵まれていなかったのかと思うと歯痒い思いを禁じ得ず、これらの傑作群を発掘して紹介するプロデュース力の重要性を感じますし、このような機会を設けて頂いたサントリー芸術財団のスタッフの皆さんとこのシリーズを監修された現代作曲家の細川俊夫さんに大いに感謝したいと思います。是非、演奏家の皆さんにはP.マヌリさんの傑作群を採り上げる機会を増やして欲しいと切に願って止みません。
 
【演題】ザ・プロデューサー・シリーズ アーヴィン・アルディッティがひらく
    オーケストラ・プログラム(8月29日)
【演目】①細川俊夫 「フルス(河)」~私はあなたに流れ込む河になる~
             弦楽四重奏とオーケストラのための(2014年)
    ②ヤニス・クセナキス 「トゥオラケムス」
                   90人の奏者のための(1990年)
    ③ヤニス・クセナキス 「ドクス・オーク」
          ヴァイオリン独奏と89人の奏者のための(1991年)
      <Vn>アーヴィン・アルディッティ
    ④フィリップ・マヌリ 「メランコリア・フィグーレン」
             弦楽四重奏とオーケストラのための(2013年)
【演奏】<Sq>アルディッティ弦楽四重奏団
    <Cond>ブラッド・ラブマン
    <Orch>東京都交響楽団
【一言感想】
①細川俊夫 「フルス(河)」~私はあなたに流れ込む河になる~
             弦楽四重奏とオーケストラのための(2014年)
パンフレットによれば、「東洋の道教(タオイズム)の考え方では、世界の根底には、気(宇宙の根源を生み出すエネルギー)が流れており、その流れの変化が天地宇宙を形作る」と考えられていますが、「弦楽四重奏が人、そしてオーケストラはその人の内と外に拡がる自然、宇宙と捉え」て、「音楽を、世界の奥に流れる気の河(音の河)と捉え、それを陰陽の原理によって生成させたい。西洋音楽の音を素材として構築するという考え方ではなくて、世界の奥に流れている気の流れを聴きだし、それを陰陽の宇宙観によって紡ぎ出」したと解説されています。オーケストラは8形2管編成をベースにしていましたが、弦楽四重奏とオーケストラのバランスが絶妙で、それぞれの世界観がシームレスに繋がりながら、決して弦楽四重奏がオーケストラに埋もれてしまうことがないプレゼンスを感じさせる見事な協奏曲になっていました。冒頭はオーケストラから宇宙の気の流れを体現するように微細なロングトーンが聴こえ、銅鑼の音が柔らかく澄み渡り雄大な宇宙の調和をイメージさせるものに感じられました。徐々にオーケストラに陰の気の流れと陽の気の流れが交錯し、それが弦楽四重奏に伝播して、オーケストラと弦楽四重奏が相互に連鎖反応しながら脈打ち、これに管打が加わって大きなエネルギーの発散を感じさせるクライマックスを迎え、最後はPizzで静かに音楽を締め括られましたが、その静寂に拡がる圧倒的なものを何かを印象付ける終曲になっていました。なお、ブラッド・ラブマンさんは細部まで配慮に行き届いた指揮振りで、アルディッティ弦楽四重奏団と東京都京響楽団から精妙なアンサンブルを紡ぎ出すことに成功していたと思います。この作品は、ピアノ五重奏曲「オレクシス」の世界観に通底する宇宙の万物(生物を含む。)の根源にある未だ物理学が十分に記述できない宇宙の法則に迫真する非常にスケールの大きな音楽に感じれる傑作です。ヴラヴォー!
 
 
▼メトロポリタン歌劇場の2024/2025シーズン
メトロポリタン歌劇場の2024/2025シーズンが発表され、シーズン全17公演(特別公演を除く)のうち、現代オペラは以下の4作品(シリーズ全公演のうち約1/4)が採り上げられるそうで、メト総裁P.ゲルブさんの揺るぎない攻めの姿勢には心からの敬意を表したいと思います。大好き💘 その一方で、「Metropolitan Opera Live in HD」(日本の配信名:METライブビューイング)について、昨年は現代オペラ3作品を採り上げていて鼻血が止まりませんでしたが、今年は現代オペラは1作品のみで馴染みのある定番オペラばかりが並んでおり、METライブビューイングに関する限り些か拍子抜けの印象を否めません。これには映画館という敷居の低いメディアを使って普段はオペラを鑑賞しない客層をオペラハウスに呼び込むための誘客ツールとして活用したいという思惑があるのでしょうか?前回のブログ記事でも触れたとおり、どんな名画(リメイクを含む)でも何十回も観れば観飽きてしまうのと同様に、定番オペラ(新制作を含む)を観飽きている客層は僕の回りでも非常に多く、常に劇場では新作の話題が飛び交うワクワクするような状況にならないものとか夢想しています。いずれにしても、以下の4作品をメトのプロダクションで鑑賞してみたく、海外向けや遠隔地向け(アメリカ大陸は広大)にオンライン定期会員なんて作ってくれないかしら。
ジャニーン・テソーリのオペラ「グラウンデッド」
オスバルド・ゴリホフのオペラ「アイナダマール」
ジェイク・ヘギーのオペラ「白鯨」
 
▼東劇アンコール上映2024
METライブビューイングの東劇アンコール上映2024が発表され、現代オペラは以下の4作品が採り上げられるそうです。このうち、3作品については感想を書きましたので、オペラ「ドクター・アトミック」を鑑賞後に簡単に感想を残してみたいと思います。先日、映画「オッペンハイマー」が公開されて話題になっていましたが、オペラも神話、歴史、文学や映画などを題材にしたものが多く、このオペラもR.オッペンハイマーによる原爆開発の史実を題材にしたもので、既にオペラ版及びシンフォニー版共に日本初演されています。戦後70年以上を経過して、再び、ウクライナ戦争で核兵器の脅威が取り沙汰されていますが、現代人が核兵器の不使用、不拡散、廃絶を促進するために必要な教養を育むうえで芸術に期待される役割は益々大きなものがあると思います。
ダニエル・カターン オペラ「アマゾンのフロレンシア」
アンソニー・デイヴィス オペラ「マルコムX」
ジョン・アダムズ オペラ「ドクター・アトミック」
 
▼夏休みの自由研究課題
小中学校の夏休みの自由研究課題をどうしようかと悩んでいるちびっ子の皆さんも少なくないと思いますが、現在、民音音楽博物館(JR信濃町駅前)で企画展「こどものための世界民族楽器店」が無料開催されています。世界の民族楽器と日本の民族楽器の似ている点や異なっている点などを比較してみると、それらが各国の交流の歴史や各国の社会的又は文化的な違いに根差していることなども分かって面白いかもしれません。
 

JSPN第5回定期公演「世界を旅する尺八~尺八の<外交史>と現在~」と朗読とピアノのための「モーツアルトの質問」とEnsembleToneseek第3回演奏会と戦争後遺症からの解脱と音楽の甦り<STOP WAR IN UKRAINE>

▼戦争後遺症からの解脱と音楽の甦り(ブログの枕単編)
現代音楽、ブロードウェイやハリウッドの音楽などを精力的に採り上げてグラミー賞、トニー賞やエミー賞などの数々の国際賞を受賞している指揮者で、著書「指揮者は何を考えているか」や映画「Tar」の監修などでも知られているJ.マウチェリさんが著書「二十世紀のクラシック音楽を取り戻す」を上梓されましたので、(著作権にも配慮して)その触りのみを簡単に紹介しておきたいと思います。J.マウチェリさんはこの著書で「クラシック音楽に関する限り、総じて二十世紀は失われた世紀であり、損失は大きな問題である。」という歴史認識を示し、「新作の名の下に登場した新しい音楽は、ほぼ例外なく無調でおそろしく複雑で、殆どの聴衆にとっては理解不能だった。こうした音楽はごく一部の音楽愛好家にのみアピールし、さらに言えば、大抵はそうなるように意図して書かれたのである。」(①聴衆の理解力を超える作品の複雑化)や「七十五年を超えようとしている、「傑作」の見当たらない巨大な空白期間のせいで、クラシック音楽と現代の聴衆との間の接点がなくなってしまった。」(②それに伴う音楽と聴衆の乖離)などの状況認識を示したうえで、「理解できる可能性を放棄した芸術を創作するのは、非社会的であるだけでなく、音を聴いてそれを分析するという人間の営みとも相容れない。そこに、こうした芸術の魅力と永遠の違和感の源があるのかもしれない。しかし、それは新しいとか現代的と呼べるものではない。そのどちらでもない。」と舌鋒鋭く結論付けています。昔、芸術に大衆性は必要かという議論がありましたが、人間の知覚能力や認知能力が約1万年前から殆ど進化していないことを踏まえると、過去のブログ記事でも触れたとおり、人間の知覚能力や認知能力に耐え得ない複雑になり過ぎた分かり難い作品は、サティーの「聴かれない音楽」とは趣きが異なる(おそらく時代を超えて)「誰にも聴かれない音楽」になる蓋然性があることは完全には否定できませんので、J.マウチェリさんの主張は概ね首肯し得るものと個人的には感じます。但し、この著書には言葉の定義や主張の根拠などが十分に尽くされていない部分もあり、また、様々な意見(切り口や捉え方など)があり得る問題だと思いますので(過去のブログ記事で触れたとおり、西洋音楽の和声法に感じる美を理想的美と捉える傾向は後天的に備わったもの(認知バイアス)であり、決して普遍的ではないという研究結果が発表されていますが、個人的には映画音楽やゲーム音楽などにも無調が採り入れられて幅広く受容されていますので無調であることが問題なのではなく、ミイラ取りがミイラになったような調性を排除するという闇の絶対性に偏向して執拗に音楽を複雑にしてきたことに問題があったのではないかと感じています。その意味では、シェーンベルク生誕150年の記念年を迎えて「シェーンベルクが死んだ」のではなく、調性という光の絶対性から音楽を解放したシェーンベルクのフォースは調性を排除する闇の絶対性という暗黒面に堕ちることなく、調性を排除せずに調性と無調を相対化するバランス感覚を留めるジェダイであったと再評価し得るのではないかと感じています。)、この主張の是非に深入りすることは避けたいと思います。一般に「戦争の傷跡は半世紀残る」と言われていますが、個人的なイメージとしては、20世紀は二度の世界大戦という惨禍を招いた原因と考えられていた前近代的なもの(社会体制、価値観や戦時中に政治利用された音楽を含む)を排除しようと力み切っていた戦争後遺症とも言うべき状況が音楽と観客の乖離を生んで結果的に音楽を干乾びさせてしまった側面があることは完全には否定できないのではないかと思われる一方で、漸く21世紀前後になると戦争後遺症から解脱して過去のシガラミに囚われない新しい音楽が誕生するようになり、戦後70年を経てアフターコロナ(2023年〜)から本格的に現代音楽や現代オペラが数多くの演奏会にかけられるようになった状況を見ると、音楽が力強く甦りつつある手応えを感じます。
 
▼前衛上人の入寂と音楽の甦り
J.マウチェリさんがこの著書で紹介している西洋の伝統音楽の系譜をもとにして、その行間を埋めるために、多少、僕の個人的な理解も付け加えて一覧表にしてみました。なお、定規で線を引くように歴史を語ることはできませんし、また、その解釈には様々なものがあり得ると思いますが、時には正確性を犠牲にしても大胆に物事を単純化して粋に繕う遊び心も必要ではないかと思いますので、野暮天なクレームはご遠慮下さい。
クラシック音楽(王侯貴族文化)
バロック

ハイドン

モーツァルト

ベートーヴェン

ワーグナー
(ナチスによる政治利用)
二度の世界大戦:社会的・文化的な崩壊
オーストリア
前衛音楽の産地
(ナチスの占領国)
フランス
前衛音楽の聖地
(ナチスの占領国)
アメリカ
前衛音楽の疎地
(ナチスの敵対国)
マーラー

シェーンベルク

ウェーベルン

(ブーレーズ)
ドビュッシー

ストラヴィンスキー

メシアン

ブーレーズ
マーラー

ハリウッド
亡命作曲家
前衛音楽の終焉
(戦争後遺症からの解脱)
大衆文化の台頭
(アメリカニズム)
※ナチスの占領国であったオーストリアやフランスは調性音楽(主音のある音楽=宗主国を中心とする古い世界秩序)から脱却して無調音楽(主音のない音楽=宗主国を中心としない新しい世界秩序)を指向し、ナチスの敵対国であったアメリカは大衆のためのオルタナティブな音楽(アメリカを中心とする新しい世界秩序)を指向したと概観し得るような潮流が生まれました。
※もともとアメリカには王侯貴族が存在しないことから大衆文化を基調とし、クラシック音楽の歴史に連ならないオルタナティブな音楽文化として、アメリカのポピュラー音楽、ミニマル音楽や実験音楽などが誕生して世界を席巻し、また、敗戦国(占領国)であるドイツの電子音楽及びイタリアのノイズ音楽、そして世界の民族音楽などが脚光を浴びるようになりました。
 
(付録)西洋の伝統音楽は約100年周期で大きく変容?
一般に情報は切り口(視点)と組合せ(構造)によって付加価値を生むと言われています。この点、過去のブログ記事では様々な切り口や組合せから西洋の伝統音楽に連なる音楽の歴史を大雑把に俯瞰してきましたが(その①その②その③その④その⑤その⑥その⑦その⑧など)、今回は上記見出しの切り口から西洋の伝統音楽に連なる音楽の歴史を大雑把に俯瞰してみました。
支配 年代 音楽
神の支配 教会 ~1300年 中世音楽 教会旋法
対位法
人の支配 国王 1400年~ ルネサンス音楽
1600年~ バロック音楽 調性音楽
対位法
1750年~ 古典派音楽 調性音楽
ソナタ形式
ブルジョア 1850年~ ロマン派音楽
二度の世界大戦:社会的・文化的な崩壊
法の支配 国民 1950年~ 前衛音楽 無調音楽
音列技法 等
2050年? AI音楽? 脱人間化?
※最近はアンドロイド指揮者などスマート・ロボット(人工生命)=AI(脳)+センサー(目、耳などの感覚器官)+ロボット(体)の開発が盛んですが、産業革命は人類を重労働から解放し、AI革命は人類を労働そのものから解放すると期待されています。少し前までAIに対する感傷的な拒絶反応も見られましたが、倫理上の問題(例えば、バイアス除去など)に配慮する必要はあるものの、基本的に、AIが人類から何かを奪うという捉え方は卑屈に過ぎると思います。
 
J.マウチェリさんは、この著書で上述のような20世紀的な状況を招いた原因について興味深い考察を加えられており、その詳細についてはこの著書をお読み頂きたいのですが、「ナチスやイタリアのファシスト政権が出した様々な公式見解、さらにはそれに対する戦後の西側諸国の対応が大きく関係」している点を指摘したうえで、「ふたつの世界大戦で大きな傷を負った社会は、すべての感覚がマヒしたような状態にあった。そんな中にあって、新たなる音楽の領域は、情緒に流されず、複雑で知的な構造を持つこと」が相応しいと考えられるようになり、「複雑で物語性がない音楽(自然描写や文学的要素とは無縁の音楽)を書くひと握りの作曲家がトップに君臨し、そうした状況が二十一世紀に入っても続いた。」ことを原因の1つとして挙げています。この点、個人的なイメージとしては、当時、二度の世界大戦という惨禍を招いた原因と考えられていた前近代的なもの(社会体制、価値観や戦時中に政治利用された音楽を含む)を排除して新しい近代的なもの(音楽を含む)を模索する動きが活発になり、クラシック音楽のような主に大脳辺縁系に働き掛けて本能的に感じるものから、前衛音楽のような主に大脳新皮質に働き掛けて理性的に考えるものへ変化したと大雑把に捉えることができるのではないかと感じています。両者は音楽の聴き方が全く異なりますので、あくまでも前者の性格を持つ音楽を求めるという立場の聴衆には(音楽の聴き方を変えない限り)後者の性格を持つ音楽の受容は難しいと言えるかもしれません。また、この著書では「ミニマル・ミュージックのことをカーターは公の場でヒトラーのスピーチになぞらえ、何についても口を出さずにはおれないブーレーズは「キューイ・フルーツ」と呼んだ。」というエピソードを紹介して、「二十世紀の最後の四半世紀になると、今までとは違う実験音楽が登場し、二百年の音楽史をうまく説明してきたそれまでの歴史モデルをひっかり返した。それはまったく新鮮な響きを持つ音楽で、二十世紀のクラシック音楽において絶対的な権力を誇っていた半音階主義を拒絶した。従来の歴史モデルではこの音楽について説明がつかない。というわけである意味当然ながら、古い世代の前衛音楽家の多くは拒絶反応を示した。」と解説されていますが、この言葉を額面とおりに受け取るとすれば、前近代的なものを排除するつもりが、皮肉にも自分達と異質なものは新しい近現代的なものであっても排除しようとする音楽のファシズムのような状況が生まれていたと言わざるを得ません。その後、ミニマル・ミュージックは聴衆から熱烈な支持を受けています。もともと「前衛」という言葉は軍事用語として誕生したもので、「本隊」の後方を護衛する後衛に対して「本隊」の方を護する前衛に由来し、常に本隊より前方にあって真っ先に戦端を開く役割を担うことから、新しい時代を切り拓く最先端の音楽のことを前衛音楽と呼ぶようになりましたが、この背景には「新しいものは古いものより良いという未来主義の考え方に基づいており、主流派の芸術全般に反対するという考え」(進歩主義思想)があったそうです。この点、P.ドラッカーが「革新は、単なる方法ではなく新しい世界観を意味する」と看破しているとおり、20世紀は前近代的なものを排除することを目的的化していたところがあり世界観の革新ではなく方法(主に作曲技法)の革新に傾き過ぎたことも音楽を干乾びさせてしまった原因の1つとして挙げられるのではないかと感じます。しかし、21世紀はインターネットの普及の影響などにより大衆から個衆へと多様性の時代にパラダイムシフトしたことから時代の「本隊」を捉えることが難しくなり「前衛」も足場(意義)を失う状況が生まれて、過去のシガラミに囚われることなく本隊も前衛も後衛もない真に自由でジャンルレスな創作が可能になった時代と言い得るのではないかと思われます(モダニズムが死んだ。ポストモダン万歳!)。なお、最後に個人的な問題意識として、映画に喩えて言えば、どのような名画でも何十回も観れば観飽きてしまうのと同様のことがクラシック音楽にも言え、クラシック音楽の歴史がそのようであったように(歴史上の偉大な作曲家は常に新しい音楽を生み出してきたはずで)、戦後に現出した定番曲頼みの病的な状態(これは戦争後遺症の副作用とも揶揄したくなるような状態で、未だにそれに甘んじるのであれば志が低いと言わざるを得ず)を脱却して戦争後遺症から解脱している世界中の若く有能な現代作曲家の新しい作品を採り上げる機会をもっと増やして欲しいと切望しています。この点、日本と比べて現代音楽の比重が圧倒的に高く音楽文化(音楽家及び聴衆の双方を含む)が力強く息衝いている欧米の状況が羨ましい限りです。また、どのような映画でも公開から半年も経過しないうちにテレビ、ラジオやインターネットなどで無料又は安価で公開されるのであれば、わざわざ忙しいなかを都合を付けて適正な対価を支払って映画館に足を運ぶ人は減って行く(ホームシアターでも大満足)のと同様のことがクラシック音楽や現代音楽にも言え、余計なお世話かもしれませんが、このままではクラシック音楽や現代音楽のマーケット崩壊が進むのではないかと危惧を覚える状況があります。少なくとも、僕はそのような消費行動に切り替えようかと考え始めています。
 
 
▼世界を旅する尺八~尺八の<外交史>と現在~
【演題】JSPN第5回定期公演
    世界を旅する尺八~尺八の<外交史>と現在~
【解説】田中隆文(邦楽ジャーナル編集長)
【舞台】矢野守彦(おことの店矢野)
    進藤悟(喜久屋楽器)
    関屋宗真
【美術】澤本捨史
【演目】①田野村聡 寂滅の詩~鶴の一生に寄せる~(2018年)
     <尺八>菅原久仁義、素川欣也、田辺頌山
         芦垣皋盟、田辺洌山、渕上ラファエル広志
         大山貴善、阿部大輔
    ②Henry Cowell
        The Universal Flute(1946年)
     <尺八>渕上ラファエル広志
    ③一柳慧 密度(1984年)
     <箏>吉原佐知子、野澤佐保子
     <三絃>野澤徹也
     <尺八>大河内淳矢
    ④流祖中尾都山 都山流本曲 霜夜(1905年)
     <尺八>野村峰山、設楽瞬山、山口連山
         加藤奏山、井本蝶山
         山崎北山、樋口景山
    ⑤ビデオプログラム「世界の尺八演奏家」
     ヨーロッパ尺八協会(ESS)
     オーストラリア尺八協会(ASS)
     台湾尺八協会
     中国「尺八・一音無心」信藝術空間
     ワールド尺八フェスティバル テキサス2025
    ⑥ラヴィ・シャンカール
     1978年録音「アジアの出逢い」より
                「ナマハ・シヴァーヤ」(1978年)
     <タブラ>U-zhaan
     <尺八>石垣征山
    ⑦古典本曲 奥州傳 鶴の巣籠
     <尺八>古屋輝夫
    ⑧マーティン・リーガン
     shadows、shades、
              and Sihouettes(世界初演)
     <尺八>芦垣皋盟 岩田卓也 山口連山
         阿部大輔 本間豊堂 松本宏平
         素川欣也 竹井誠  田野村聡
         石川利光 大山貴善 設楽瞬山
【日時】2024年7月12日(金)19時~
【場所】豊洲シビックセンターホール
【一言感想】
1967年に武満徹さんの琵琶、尺八、オーケストラのための「ノヴェンバー・ステップス」がニューヨークで初演されましたが、その影響から世界中で尺八の演奏家、楽曲やイヴェントが増加し、その後、1994年からはワールド尺八フェスティバルが開催されるなど尺八が世界中で市民権を獲得しています。今般、JSPNが「海外に尺八を紹介し、そのかかわりの中で、新たな感性を取り込み、血肉としてきた尺八。その「外交史」を俯瞰することで、尺八の芸術性が世界中で愛好されるその源泉を探り、今後日本の伝統芸能の未来を考える機会となること」を企図する演奏会を開催するというので聴きに行くことにしました。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
ーーー追記
 
①寂滅の詩~鶴の一生に寄せる~(2018年)
この曲は、親鶴の一生をテーマにした⑦古典本曲 奥州傳 鶴の巣籠にインスピレーションを受けて作曲されたもので、パンフレットには「一つの存在が“生”まれて“滅”びることは、悠久の時の中では初めから無かったに等しいほど繊細なことなのかもしない。」という言葉が添えられていましたが、過去のブログ記事で触れた分子生物学者の福岡伸一さんが提唱されている学説「動的平衡」が示す生命観に近いものが表現されていると感じながら拝聴しました。この曲は全三楽章から構成され、第一楽章は子鶴の誕生(ベリクソンの弧の合成)を表現したものか、様々な音色を持つ8管の尺八が順番に短いフレーズを重ねながら、初めはか細く紡がれていた音楽が徐々に力強い音楽へと変化し、タギングにより描写される鶴の鳴き声には繊細なバランスで保たれている生命現象の有難さ、尊さが表現されているように感じられました。第二楽章は生命の躍動感を表現したものか、快活でリズミカルなミニマル・ミュージック風の音楽が奏でられましたが、これとは一転して第三楽章は親鶴の死(ベリクソンの弧の分解)を表現したものか、メランコリックな雰囲気を湛えた音楽が奏でられ、その対比が劇的な音楽効果を生んでいました。最後は親鶴の呼吸(鼓動)を表現したものか、徐々にリズムが弱々しく閑散となり静かな持続音と共に終曲になる余韻深い演奏に聴き入りました。
 
②The Universal Flute(1946年)
この曲はアメリカ人作曲家のヘンリー・カウエル(~1965)がアメリカで活動していた尺八奏者の玉田如萍から尺八の手解きを受けて1946年に作曲したものですが、この曲は西洋人が作曲した世界初の尺八音楽だそうです。今日の演奏はヘンリー・カウエル研究の第一人者で東京音楽大学教授の大竹紀子さんのご尽力によりニューヨーク公立図書館所蔵の自筆譜が使用される大変貴重な機会になりました。当初、西洋音楽の語法を使って作曲された西洋音楽調の尺八音楽を想像していましたが、音の横の連なりで旋律を優美に聴かせる性格のものではなく、尺八の特有の演奏法である「ユリ」(首振り三年コロ八年)や「コミ吹き」などを駆使しながら音の縦の揺らぎで1音1音を余韻深く聴かせる性格のものに感じられ、自然から切り出された音(ロゴス)というよりも、自然に溶け込み一体となっている音(ピュシス)と巡り合っているような感興を覚える尺八音楽の美観極まる名曲に魅了されました。この曲を演奏した渕上不ラファエル広志さんは日系ブラジル人で、当初、ブラジルの音大でフルートを専攻していましたが、その後、尺八の魅力に取り憑かれて尺八に転向されたそうで、今後ともその活躍が注目されます。
 
密度(1984年)
この曲は、二面の筝、三絃、尺八による四重奏曲ですが、前回のブログ記事でも触れたとおり、西洋音楽の特徴であるマクロの音響世界(音の組織化)ではなく日本音楽の特徴であるミクロの音響世界(音子の要素の変化)に比重を置いて作曲されているように感じられます。冒頭、二面の箏が短いモチーフを少しづつ変化させながら点描的な楽音(整数次倍音)を奏でるパートとスリ爪などの特殊奏法を使って激しく噪音(非整数次倍音、ノイズ)を奏でるパートが対照され、筝の音が奏でる楽音と噪音の魅力の違いが明瞭に感じられる演奏を楽しめました。また同時に、筝による点描的な音楽に対して尺八による線描的な音楽も対照されており、それぞれの楽器が持つ魅力の違いが引き立つ演奏も楽しめました。その後、三絃が上記の短いモチーフを引き継いで、筝のエッジの効いた音(甲音)と三絃のアールの効いた音(乙音)が対照される演奏やそれぞれの楽器の魅力を活かして時間的又は空間的に異なる密度を持つ重層的、立体的な演奏を楽しめました。その後、二面の箏と三絃によるビート感がある演奏と尺八によるメロディアスな演奏が対照され、再び、三味線が上記の短いモチーフを激しく点描して終曲となる文字通り密度の濃い演奏に聴き入りました。
 
④都山流本曲 霜夜(1905年)
この曲は、尺八都山流の流祖・中尾都山が1915年に自作曲を携えてロシアに海外演奏旅行に行った際に演奏された1曲で、公式の記録が残るものとしては日本初の海外演奏旅行だったのではないかと言われています。なお、尺八都山流の流祖・中尾都山は石清水八幡宮を崇敬していたことから、楠木正成が戦勝祈願のために石清水八幡宮に植樹した楠木(樹齢約700年)の根元に尺八都山流の流祖・中尾都山の頌徳碑が建立されています。霜夜は晩秋から初冬の霜降る寒い夜を意味する季語ですが、一段目はユニゾンで霜夜の寒さが身に染みる寂寥とした風情が表現されているように感じられました。二段目は三部合奏でコロコロなどの特集奏法を使いながら秋の虫の音が表現され、京極摂政前太政大臣こと藤原良経が詠んだ和歌「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む」(新古今和歌集)が思い出される詩情豊かな演奏を楽しめました。三段目は二部合奏で軽快に呼応する華やいだアンサンブルが聴き所になっていました。
 
⑤ビデオプログラム「世界の尺八演奏家」
ヨーロッパ、オーストラリア、台湾、中国、アメリカにある尺八協会の活動状況などがビデオ映像で紹介されましたが、著作権などの処理がどうなっているのか分かりませんので、その内容のサマリーを掲載するのは控えたいと思います。こんなにも外国の人々の心をハッキングする尺八の魅力について認識を新たにすると共に、今日の世界的な尺八の普及は数多くの人々の長年に亘る努力の賜物であることがよく理解できました。
 
⑥ナマハ・シヴァーヤ
過去のブログ記事で紹介したラヴィ・シャンカルは尺八奏者の山本邦山(人間国宝)のためにラーガ・シヴァランジョニ(インド古典音楽の旋法の1種)に基づいて尺八とタブラによるシヴァ神(ヒンドゥー教の三大神)に祈りを捧げるための曲を作曲しています。因みに、インド古典音楽理論「サンギータ・ラトゥナーカラ」には253種のラーガ(旋法)と120種のターラ(リズムパターン)が紹介されており、また、1オクターブを22のショルティ(微分音)に分割する理論なども掲載されている非常に興味深い内容で、O.メシアンやP.グラスなどにも多大な影響を与えています。過去のブログ記事でも紹介しているタブラ奏者のU-zhaanさんが共演されていましたが、尺八が無拍の音を朗々と奏でますが、シヴァ神への祈願を表現しているそうです。やがてタブラがターラ・ダードラ(インド古典音楽のリズムパターンの1種)で激しく伴奏すると、そのリズムに乗せて尺八が軽快な音を奏でる丁々発止のアンサンブルが展開されましたが、シヴァ神への愛と感謝を表現しているそうです。再び、尺八が憂いを帯びた音を奏でますが、シヴァ神へ恵みを祈って終曲となりました。当初、尺八とタブラのアンサンブルを想像し難くかったのですが、タブラは多彩な音色を持つ表現力豊かな楽器で、尺八とタブラから多彩な表情と魅力を存分に引き出しているラヴィ・シャンカルの稀有な才能に脱帽しました。
 
⑦古典本曲 奥州傳 鶴の巣籠
親鶴は子鶴に与えるエサがないときは自らの生身を切り割いて子鶴に与えると言われていますが(フラミンゴの例)、パンフレットには「江戸時代の虚無僧たちは、鳴声や羽ばたきなど鶴の生態の様々を模すことによってその大きな深い愛情の境地、すなわち大慈大悲の境地を我がものにしたいと願いこの曲を吹き伝えてきました。(中略)技巧に夢中になって大慈大悲の境地の顕現を忘れてはなりません。」と記載されています。今日は生憎の大雨でガラス張りの豊洲シビックセンターホールには外で吹き荒れる強風の音が微かに聴こえていましたが(サウンドスケープ)、そのなかを寂び寂びとした尺八の音がホールに静かに澄み渡り、厳しい自然とそれに耐えながら命を育む鶴の様子が風情豊かに伝わってくる効果を生んでおり感動的でした。尺八の音は自然に溶け合い一体になりながら自然の音を奏でるものであることを実感できる貴重な芸術体験になりました。タギングなどの特殊奏法による鶴の鳴き声の描写では、音そのものに命や心が宿っているような雄弁な演奏を聴くことができ、これぞ尺八音楽の醍醐味(1音成仏)であると感じられるような好演を楽しめました。ヴラヴォー!
 
⑧shadows、shades、and Sihouettes(世界初演)
この曲は、ワールド尺八フェスティバルの実行委員長を務めるアメリカ人現代作曲家のマーティン・リーガンさん(1972年~)に委嘱した新作で、本日、世界初演されました。アメリカのポピュラー・ソング「ミー・アンド・マイ・シャドウ」と谷崎潤一郎著「陰翳礼讃」からインスピレーションを受けて、影を音楽で表現するために類似する音楽素材を一拍ズラして使用することにより生まれる影付け(エコー)の効果を使って作曲したそうです。尺八の音は、その揺らぎの中に陰翳が宿る深みや余韻に魅力の1つがあると感じられ、その意味で影を表現するための楽器としての尺八の相性が良さを感じさせる曲でした。12管の尺八がユニゾンから1泊づつ音をズラしながらグラデーションを作りましたが、カノンのように2つの対象に完全に分かれてしまう明確なズレではなく、いわく分かち難い自分と影のあわいを揺蕩っているような幽かな揺らぎと重なりを同時に感じさせる不思議な印象を受けました。さながら映画「死亡遊戯」の鏡の間のシーンとでも言えばイメージし易いでしょうか。テンポやデュナーミクを大胆に操るアグレッシブな演奏や叙情的に聴かせる優美な演奏など尺八の多彩な魅力を引き出す着想豊かな音楽を楽しめました。
 
 
▼朗読とピアノのための「モーツアルトの質問」
【演題】谷篤ドラマティックリーディング2024
    朗読とピアノのための「モーツアルトの質問」
【演目】①スコットランド民謡 ロッホ・ローモンド
     <翻訳・編曲>谷篤
    ②S.フォスター 厳しい時代よもう来るな
     <翻訳・編曲>谷篤
    ③F.シューベルト 音楽に寄せて
    ④H.リップ リリー・マルレーン
     <翻訳・編曲>谷篤
    ⑤宮沢和史 島唄
     <翻訳・編曲>谷篤
    ⑥朗読とピアノのための「モーツァルトの質問」
     <原作>マイケル・モーパーゴ著「The Mozart Question
     <翻訳>谷篤
     <作曲>高橋宏治
【出演】<歌・朗読>谷篤
    <Pf>揚原祥子
【日時】2024年7月14日(日)14時~
【場所】トーキョーコンサーツ・ラボ
【一言感想】
イギリス人作家のM.モーバーゴさん(~1943年)が第二次世界大戦の史実をもとに芸術の政治利用が招いた悲劇と奇蹟を描いた物語「The Mozart Question」(2007)を題材にした音楽朗読劇が開催されるというので聴きに行くことにしました。既に原作の邦訳として「モーツァルトはおことわり」が出版されていますが、この訳本は音楽朗読劇に向いていないことからバリテノール歌手の谷篤さん(バリトンからテノールまでの声域に留まらず、カウンターテナーの声域をも併せ持つ稀有な逸材)が新訳を付して上演されるそうです。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
ーーー追記
 
ロッホ・ローモンド
厳しい時代よもう来るな
音楽に寄せて
リリー・マルレーン
島唄
これらの曲は、戦争の惨禍が人々から音楽を奪うことはできず、人々が音楽に想いを託して歌い継いだ作品が並べられています。①「ロッホ・ローモンド」は、スコットランドのローモンド湖畔を舞台にした民謡で、恋人の別れに託けて17世紀の名誉革命に抵抗するジャコボイドの反乱でイングランド軍に捕らえられた兵士の悲哀を歌ったものと言われていますが、歌とピアノが優美に絡み合いながら兵士が音楽に希望を繋ぐ郷愁や憧憬を湛えた美しい歌を楽しめました。②「厳しい時代よもう来るな」は、南北戦争に対する人々の悲哀を歌った曲として広まりました。しかし、実際には南北戦争が勃発する前に作曲された曲なので、幅広く社会的な弱者の苦しみ、悲哀を祈りに込めて作曲したものと言われており、フォスターが不幸な人々に心を寄せるその想いが伝わってくる包容力のある歌に感じられました。③「音楽に寄せて」は、兵役を避けるために教職に就いていたシューベルトがその才能を惜しんだ友人のショーバーの勧めで作曲に専念するようになりますが、その友情に応えてショーバーの詩に付曲したものです。シューベルトが音楽に生きる喜びや感謝に満たされ、穏やかな幸福感に包まれている情趣を湛えた歌を楽しめました。④「リリー・マルレーン」は、恋人を残して出征する兵士の想いを歌ったドイツのポピュラーソングで、第二次世界大戦中のドイツ軍放送局から毎晩定刻にこの歌が流されると、その間だけ銃声が鳴り止んだと伝えられています。戦意を高揚するための勇ましい軍放送を彷彿とさせるピアノ伴奏とは対照的に現実逃避するような陶酔感が漂う叙情的な愛の歌に聴き入りました。⑤「島唄」は、男女の別れを歌ったラブソングですが、実際にはさときび畑で出会った幼馴染みの男女がその思い出のさとうきび畑の下にある自然洞窟で集団自決した沖縄戦の悲劇と平和への切なる祈りが歌われています。平和な時代を体現するような南国情緒が漂う音楽に隠された土地の歴史に刻まれた悲劇が昔語り風の穏やかな口調に乗せて歌われる心に沁みる曲でした。
 
朗読とピアノのための「モーツァルトの質問」ネタバレ注意
この作品は今回の全国ツアーが世界初演でしたが、おそらく今後も再演が重ねられる作品だと思いますので、果たして、どこまで具体的に内容に触れて良いのか分かりませんが、今後、この作品を鑑賞される方の楽しみを奪うことがないように、ごくごく簡単に全体的な感想を残しておきたいと思います。この作品は、戦争の惨禍が某音楽家から生涯に亘って音楽を奪うことになったという話(悲劇)ですが、その子へと音楽は受け継がれ、やがて音楽が見事に甦って行くという話(奇蹟)です。特に予告はありませんでしたが、開演30分前に谷さんと揚原さんによるレクチャーが開催され、この作品のプロットの頭出しとこの作品で使われている音楽のライト・モチーフが解説されました。初聴の曲は細かいところまで聴き取ることが難しくどしても浅い鑑賞にしかなりませんが、谷さんの話が分かり易かったことも相俟って非常に鑑賞の手助けになりました。元新聞記者(語り手)が世界的なヴァイオリニストのパオロ・レヴィ(ユダヤ人)から聞いた話として、L.パオロの実父ジーロ・レヴィーの死まで秘密として封印していた①L.パオロの両親(ユダヤ人)及びL.パオロのヴァイオリン教師であったバンジャマン・ホロヴィッツ(ユダヤ人)が第二次世界大戦中のナチス強制収容所でオーケストラ団員として経験した悲劇と②それを踏まえてL.パオロがL.ジーロとの間で交わした約束について、L.ジーロの死後に初めて封印が解かれ、音楽が見事に甦ったことを回想する構成になっています。この作品は、第二次世界大戦中にナチスの占領政策のために音楽が政治利用され、ユダヤ人音楽家は自らの命と引き換えにナチスへの協力を強制された史実に基づいていますが、これ以上は、今後、この作品を鑑賞される方の楽しみを奪うことになってしまうので詳しく触れることは控えたいと思います。戦争の惨禍はユダヤ人から人生、家族や音楽を奪い、その癒えることのない心の傷は子の世代にまで暗い影を落としましたが、それでも音楽の火が絶えることはなく子の世代に戦争後遺症から脱却して音楽が甦ったことが物語られています。谷さんの歌心を感じさせる情感豊かな語りに粒際立つ小気味良いピアノ伴奏が添えられて物語はテンポ良く展開されましたが、ピアノが奏でるライト・モチーフ(問い、答え、真実、嘘、父、バンジャマン、パオロなど)が様々に変奏され、また、谷さんの語りと様々なパターンで組み合わされることで、真実が持つ多面性や複雑に交差する心情が雄弁に表現され、谷さんの語りがライト・モチーフに異なる性格を与え、ライト・モチーフが谷さんの語りの隠された意図を伝えて表現に繊細さや深みを感じさせる効果を生んでいたと思います。ヨーロッパの長い人種差別の歴史とその文脈に位置付けられる現在のイスラエルによるパレスチナ自治区ガザ侵攻に思いを馳せながら、未だ人類は戦争後遺症から完全には脱却できていないのかもしれないと色々と考えさせる含蓄深い作品でした。
 
 
▼Ensemble Toneseek 第3回演奏会
【演題】Ensemble Toneseek
    第3回演奏会 ~ 感光/sensitizations~
【演目】①吉田優歌 YOU(2024年)
    ②J.シェルホルン
       セリグラフィー「ノクターン」(2007/2017年)
    ③渡邉翔太 ほどけた焦点を伝い(2024年)
    ④J.シェルホルン
       セリグラフィー「バルカロール」(2007/2017年)
    ⑤細川俊夫 夕顔(2020年)
    ⑥増田建太 植木鉢(2019/2024年)
    ⑦矢野耕我 三者会合(2024年)
    ⑧J.シェルホルン
       セリグラフィー「プレリュード」第1番、第2番、第3番
                      (2007/2017年)
【演奏】<Cond>馬場武蔵
    <Fl/Pic>齋藤志野
    <Cl/B-Cl>鄭圭祥
    <Perc>沓名大地
    <Pf>秋山友貴
    <Vn>山本佳輝
    <Vc>下島万乃
【日時】2024年7月26日(金)19時~
【場所】トーキョー・コンサーツ・ラボ
【一言感想】
2022年に結成された現代音楽をレパートリーとする演奏集団「Ensemble Toneseek」は、日本ではコンクール以外に若手作曲家の作品が演奏される機会が非常に少ないという問題意識から、新たな取り組みとして若手作曲家から公募した作品を演奏するための演奏会を開催するというので聴きに行く予定にしています。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
---追記
 
本日の公演は一般客よりも業界関係者の方が圧倒的に多く「内輪」の集いに迷い込んでしまったような場違いな雰囲気を否めませんでしたが、足の踏み場もない会場が一杯になる満席の盛会でした。この公演に限りませんが、今後、どのように一般客を増やして行けるのかに現代音楽が抱える課題があるように感じます。さて、業界関係者が多かったので敢えて一般客が感想を残すまでもないと思いましたが、一般客がどのように聴いたのかという意味で若手作曲家4人の作品と巨匠2人の作品の順番でごく簡単に感想を残しておきたいと思います。なお、2024年7月27日(土)19時~にも公演がありますので、ご興味のある方は足をお運び下さい。
 
①YOU(2024年)
パンフレットには「聴衆と奏者、音楽と騒音、さまざまな境界線が曖昧になり、ステージ上で目撃したものは、あたな自身からもしれない。」と記載されていますが、聴衆は開演時及び終演時だけではなく各楽章間にも拍手することが求められるコンセプチャルな作品でした。冒頭、開演時の拍手の最中にボディー・パーカッションによる演奏が開始され、ヴァイオリン、スネアドラム、フルート、クラリネットの器楽演奏に転じながらリズム的な点描からメロディー的な線描へと音楽的な演奏に変化して舞台と客席に空間的に区別されましたが、再び、メロディー的な線描からリズム的な点描、ボディー・パーカッションによる演奏に戻って聴衆の拍手に回収され、舞台と客席に空間的な区別が曖昧になるという趣向の曲に感じられました。SNSの時代には、日々スマホの画面を通して他人の心をハッキングし(他人の中に見る自分)、他人に心をハッキングされ(自分の中に見る他人)、主体と客体の境界が曖昧になり相対的な関係性の中で揺らいでいる自分を発見しますが、そのようなことを感じさせてくれる面白い作品でした。
 
③ほどけた焦点を伝い(2024年)
パンフレットには「数年前から私の創作の中心には、故郷である山梨県、河口湖で幼少期から自然音を聴取した記憶の積み重ねによる、音の知覚や認識に対する興味がある。それを「朧げへの好み」と自身で捉え、その関心のもと作曲してきた。」と記載されていますが、岡倉天心らが生み出した近代日本絵画「朦朧体」の音楽版と言ったところでしょうか。微細音が揺蕩いながら朧げに音像が滲み浮かぶような幻想的な音世界が現出しました。フルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロは湖面の小波を体現しているような線描的にならない波形の音を朧げに紡ぎ、研ぎ澄まされた清澄なピアノは湖面の煌めきや静謐を体現しているような幻想的な雰囲気を湛え、また、スネアドラムは風に愛撫される草木の微かな騒めきに優しく包まれているようで、正しく音のスケッチといった風情が魅力的でした。晩年の坂本龍一さんは病床で音楽よりも自然の音が心地良く感じられると語っていたそうですが、文脈を持たない自然の音は押し付けがましくなく、いつまでも静かに寄り添っていてくれる音であることを感じさせる作品でした。
 
⑥植木鉢(2019/2024年)
パンフレットには「この音楽は、単なる植物の命の描写ではなく、観察者の命の存在を予感している。楽曲構造や種々の表現、そしてそれがもたらす聴衆の聴覚反応は、植木鉢という容器に起因する観察行為の世界観に集約する。」と記載されています。過去のブログ記事でも触れたとおり、植物には感覚や知性があり部屋に誰が入ってきたのかも認知していると言われていますが、2008年にスイス連邦政府機関は「植物界における生の尊厳」という報告書を発表し、人類の生存や鑑賞の目的を超えた植物の採取は生命倫理上の問題を生じ得るという見解を示しています。フルートが息やキーパーカッションの音を使って植物が光合成のために呼吸を行っていることを表現し、また、プリペイド・ヴァイオリンとプリペイド・チェロがノイズを使って植木鉢の窮屈さを効果的に表現していました。植木鉢を舞台にして植物と観察者との間の無言のコミュニケーションが繰り返されているようでしたが、最後は自分も植木鉢に入れられてしまったような気分にさせられるシュールな芸術体験になったことを告白しなければなりますまい。
 
⑦矢野耕我 三者会合(2024年)
パンフレットには「本作品では、甲高い声で感情的な人(=ピッコロ)、冷静沈着だが頑固が人(=バスクラリネット)、会合の進行役だが怒りをため込んで爆発させやすい人(=ヴァイオリン)という異なる三者による会合の様子を、架空の「リズム言語」を用いて描写する。」と記載されていますが、まるで音楽による落語の風情がありキャラ映えのする笑える作品でした。キャラクターを言葉で表現するのではなく、それぞの特徴を捉えた音(リズム言語)にすることで、それぞれの音が我々の身の回りにいる特定の誰かを投射し易いメディアとして機能し、聴衆が勝手に「こんな人、いるいる」と妄想を膨らませながら楽しめてしまう面白い作品でした。冒頭、進行役のヴァイオリンの話しにピッコロとバスクラリネットは相槌を打っていましたが、やがて声が大きいバスクラリネットが威圧的な発言に及ぶとピッコロがヒステリーを起こし始めて、冷静なヴァイオリンが仲裁に入りますが、やがてヴァイオリンもキレ始めて三者三様に捲し立てる様子はまるで朝まで生テレビを見ているようで、実に人間臭い笑える作品でした。
 
⑤夕顔(2020年)
パンフレットには「スコアには『<夕顔>花言葉:「夜」「はかない恋」「罪」Bottle gourd  夏の花/花の色は白 源氏物語に登場する女性の名』とある。(中略)楽曲全体を通して、全音と半音を交互に並べることで得られるオクタトニック集合を参照しながら響きが構成」と記載されています。個人的には、「夕顔」(因みに、夕顔はウリ科、朝顔及び夜顔はヒルガオ科なので別種)と聞くと、歌人・小島ゆかりさんの第二歌集「月光公園」(雁書館)に収録されている「ゆふぞらに みづおとありし そののちの 永きしづけさよ ゆうがほ咲く」という有名な俳句を思い出しますが、夕暮れから翌朝まで人知れず咲く夕顔の別名は黄昏草とも言い、夕立(みずおと)が過ぎて静寂(しずけさ)に包まれた黄昏時に夕顔が夕闇に白い花を咲く儚い風情を連想させます。ビブラフォンが紡ぐ繊細な音が夕顔の花の蕾みを連想せますが、その音がペダリングによる残響として静寂に澄み渡っていくような風趣が感じられました。やがてダイナミクスを変化させながら響きを重ねて徐々に夕顔の花が咲いて行く様子が表現されているようでしたが、モーターを効果的に使った豊かな残響により夕闇の静寂と夕顔の躍動が神秘的に綾を成す幽玄で詩情豊かな世界が広がって、やがて静寂の中に消え入るという夢幻能を見ているような余韻深い曲趣で、夕闇に咲く夕顔の儚い美しさが仄かに香っているような演奏に魅了されました。
 
②④⑧セリグラフィー(2007/2017年)
パンフレットには「作曲家はさながら、様々なふるい、テンプレート、色彩、印刷技法を駆使する技術者のように、テンポやピッチ、音色、ダイナミクス、アーティキュレーションといった要素を操作しつつ、そのモティーフを時に認識可能な、時に認識不可能なレベルで変化させてゆく。」と記載されています。フォーレのノクターン、バルカロール、プレリュードⅠ、プレリュードⅡ、プレリュードⅢをフィーチャーし、セリグラフィーの手法を使って作曲されており、各曲別の感想は付しませんが、この傑作が(日本でも音盤は入手可能ですが)未だに日本初演されていなかったとは驚きです。素人のプアーな耳ではフォーレのエッセンスがどのように変容されているのかを一聴しただけで聞き分けることは非常に難しく、レクチャーがあると鑑賞が深まると思います。.....とは言え、この曲が相当な魅力を備えていることは十分に感じられ、アルトフルート、バスクラリネット、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、ビブラフォン、グロッケンシュピールという特殊な編成による多彩な音色を活かして1音1音の響きが非常に美しく感じられる印象派の魅力も湛えた薫り高い曲に感じられ、いつまでも身を委ねたくなるような心地よい曲に魅了されました。この曲の美観極まるデリケートで精妙な演奏も出色でして、是非、このメンバーによる録音盤も期待したいく、また、この曲の日本での演奏機会の増加も望みたいです。
 
 
▼現代音楽レーベル「KARIOS」から日本人現代作曲家の作品が相次いでリリース
世界トップレベルの現代作曲家の作品を中心にリリースして数々の国際賞を受賞するなど現代音楽の分野で高い評価を受けているオーストリア(ウィーン)の現代音楽レーベル「KARIOS」から日本人現代作曲家の細川俊夫さんのアルバム「Works for Saxophone」(2024年4月発売)と桑原ゆうさんのアルバム「Sounded Vioce,Vioced Sound」(2024年6月発売)が相次いでリリースされています。これまで日本人現代作曲家では、世界的に評価が高い細川俊夫さん、藤倉大さん、桑原ゆうさんの3人の作品がリリースされています。
 
▼光と色彩の響き〜ベルリン・フィルとチン・ウンスク
現在、ベルリン・フィルのデジタルコンサートホールで現代作曲家のチン・ウンスクさん(1961年~)が自らの作曲家人生、音楽観や代表作を語った映像「光と色彩の響き」(ベルリン・フィルの自主レーベルからリリースされている「チン・ウンスク作品集」の特典映像)が無料公開されています。もう少し日本でもチン・ウンスクさんの作品が採り上げられるようになってくれることを切望したいですが、個人的な印象としては、世界的に評価が高いチン・ウンスクさんや細川俊夫さんなどの世界トップレベルの作曲家の作品は独特な世界観を持ち何度も聴いてみたくなるような筆致の優れたユニークな傑作が多く、これならの傑作ならば聴衆の心を掴むことも可能ではないかと常々感じています。
 
▼アマチュアオーケストラの現代音楽ブーム
これまでにもアマチュアオーケストラが現代音楽を採り上げた演奏会を紹介してきましたが、アマチュアオーケストラにも現代音楽ブームと言えそうな状況が生まれています。2024年6月23日に弥生室内管弦楽団が現代作曲家の水野修孝さん(1934年~)の作品を採り上げた演奏会及びアンサンブル・フランが現代作曲家の佐原詩音さん(1981年~)の作品を採り上げた演奏会が開催され、また、2024年7月21日には東京ユヴェンスト・フィルハーモニーが現代作曲家のG.リゲティ-さん(~2006年)の作品を採り上げる演奏会を開催する予定になっています。もともとアマチュアオーケストラの団員にはかなりコアな音楽愛好家が多いと聞いていますが、アマチュアオーケストラの演奏会に現代音楽をかけてくる状況はアマチュアオーケストラの演奏技量の向上と共に現代音楽を嗜む音楽愛好家層の裾野が広がってきている証左と思われます。

21世紀音楽の会第20回記念演奏会とオペラ「a Love story」(作曲:松岡あさひ)と北里柴三郎物語オペラ「ドンネルの夢」(作曲:神原颯太)とスティーヴ・ライヒ・プロジェクト「kuniko plays reich Ⅱ/DRUMMING LIVE」と日本音楽の構造<STOP WAR IN UKRAINE>

▼日本音楽の構造(ブログの枕短編)
令和6年6月6日は6のゾロ目ですが、中国では数字の語感から縁起が良い数字(六六大順)と捉えられている一方で、欧米では聖書の言葉から不吉な数字(新約聖書ヨハネの黙示録第13章第18節)と捉えられており、各文化圏のプロジェクションの違いが多様な世界観を彩っています。日本では6月6日は「楽器の日」や「邦楽の日」とされていますが、これは世阿弥の能の理論書「風姿花伝」の第一の年来稽古条々で「この藝において、大方、七歳をもて初めとす。この此の能の稽古、必ず、その者自然とし出す事に、得たる風體あるべし。舞・働きの間、音曲、もしくは怒れる事などにてもあれ、ふとし出ださんかかりを、うちまかせて、心のままにせさ、すべし。」という一節があり、能楽、歌舞伎、舞踊、邦楽などでは「稽古始めは6歳の6月6日」(7歳=満6歳)という仕来りが生まれましたが(6月6日は満6歳と語呂が良いことから付加されたもの)、これに肖って習い事を始める吉日として制定された記念日です。過去のブログ記事でも、言語と音楽の関係性(その①)言語と音楽の関係性(その②)謡と倍音の関係性科学と音楽の世界観の相似性言語と音楽のコミュニケーションの特性しぐさと芸術表現の関係性など伝統邦楽に関係する話題に断片的に触れてきましたが、2024年3月に尺八奏者の中村明一さんが伝統邦楽を含む日本音楽を解説した「日本音楽の構造」を上梓され、個人的にはこのような本質的かつ体系的な理論書を待ち望んでおり、これまで曖昧な理解であった点にも明解な解説が加えられていて目から鱗(語源:新約聖書使徒行伝第9章第18節)でしたので、「邦楽の日」に因んで、(著作権にも配慮して)その触りのみを簡単に紹介しておきたいと思います。但し、中村さんの考え方を正確に理解できているのか分かりませんし、行間を埋めるために個人的な考え方も織り交ぜていますので、ご興味のある方はこの本を貴兄姉のライブラリーに追加して折に触れて参照すると本質的かつ体系的な理解が進むのではないかと思います。過去のブログ記事でも触れたとおり、人間の聴覚は媒質(気体、液体、個体)を伝わる振動や圧力などが鼓膜に伝わって電気信号(生体電位)に変換され、それに応じてバーチャルな「音」を脳内で生成していますが(楽器を演奏する行為は「音」を生むというよりも振動や圧力などを生む行為)、過去のブログ記事でも触れたとおり、その「音」の捉え方には聴覚固有の形質の違い(先天的な要因)による個体差や音楽的な経験の違い(後天的な要因)による文化差(認知バイアス)などがあり、この本では主に後者の観点から日本音楽(前回のブログ記事で触れたヤポネシアの音楽としてヤマト人の音楽だけではなくアイヌ人やオキナワ人の音楽を含む)と西洋音楽の構造的な違いなどが解説されています。
 
日本音楽の構造

日本音楽の構造

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過去のブログ記事で触れましたが、西洋音楽はキリスト教の教義(言葉)を聴き取り易いように明瞭な響きを重視して発展(その後、人間の情感を表現するために明瞭な響きよりも多彩な響きを重視する方向に発展)した経緯があり、倍音を固定化してハーモニーを変化させる音楽表現(伝達性、再現性)が好まれてきました。これに対し、日本音楽は宗教儀式、自然信仰や日常生活と強く結び付いて発展した経緯があり、倍音を固定化するのではなく倍音そのものを変化させる音楽表現(共感性、多様性)が好まれてきたいう特徴があります。この点、ハーモニーとは倍音の重なりにより生まれますが、倍音が少ないと整数次倍音が重なり易くなり又は非整数次倍音が減少するので協和音を得られ易くなる傾向があるのに対し、倍音が多いと整数次倍音が重なり難くなり又は非整数次倍音が増加するので不協和音を得られ易くなる傾向があることから、西洋音楽は倍音を少なくしてハーモニーを変化させる音楽表現(明瞭性、父性原理に基づく外からの支配)を好むようになったのに対し、日本音楽は倍音を多くして倍音そのものを変化させる音楽表現(多様性、母性原理に基づく内への内包)を好むようになったと考えられます。この本では、西洋では空気が乾燥しており石造建築が多いなどの環境下でも聴き取り易い子音(非整数次倍音)を多用する言語が誕生したのに対して、日本では湿気が多く木造建築が多いなどの環境下でも聴き取り易い母音(整数次倍音)を多用する言語が誕生したことが、音楽表現の特徴にも現れているという示唆に富む考察が加えられています。即ち、西洋語は子音(非整数次倍音)を多用することから、音楽表現にあっては整数次倍音と音量を使って強調表現する傾向があるのに対し、日本語は母音(整数次倍音)を多用することから、音楽表現にあっては非整数次倍音を使って強調表現する傾向があり、それが音楽表現の特徴的な違いになって現れていると考察されています。西洋音楽では倍音の発生を抑えてハーモニーを豊かにするために非整数次倍音が多いチェンバロより整数次倍音が多いピアノを好むようになりましたが、以下の囲み記事でも触れているとおり、現代音楽では倍音の豊饒な響きの世界を活かしたチェンバロを使った音楽にも注目が集まるようになってきています。また、過去のブログ記事でも触れましたが、西洋では狩猟民族が獲物を追って早く走る動作の中でビート(=鼓動)を感じながら手足を交互に交差して進む連続的で規則的な運動を基調としていた背景から数学的な規則性を持った時間間隔であるリズム(ビート)を好むようになり、日本では農耕民族が田畑を耕すために鍬を入れる一連の動作と手足の動きを連動させながら一歩づつの間(=呼吸)を置いて進む不連続的で不規則な運動を基調としていた背景から呼吸の同調によって自在に伸縮する不規則な時間間隔であるリズム(間)を好むようになったと考えられます。この本では、西洋音楽やアフリカ音楽はリズム(ビート、鼓動)の枠組み(等拍)を固定化し、その枠組みの中を分割して変化させる音楽表現(分割リズム)が使われているのに対して(古典物理学的な時間観)、日本音楽はリズム(間、呼吸)の枠組み(等拍、不等拍)そのものを変化させる音楽表現(付加リズム)が使われている(相対性理論的な時間観)という示唆に富む考察が加えられています。これまでは人間がコントロールし易いマクロの音響世界を複雑に組織化すること(理性、ロゴス)に優位性や先進性が認められると考えられてきましたが(認知バイアス)、現代では人間がコントロールし難いミクロの音響世界と巡り合うこと(本能、ピュシス)で、これまで組織化により捨象されてきた豊饒な音響世界を取り戻す時代になっていますおり、現代音楽、ロックやポピュラー音楽などは、倍音(非整数次倍音の変化)、ノイズや付加リズムなども積極的に採り入れるようになっています。この点、現代作曲家の武満徹さんが琵琶、尺八とオーケストラのための「ノベンバー・ステップ」で日本音楽と西洋音楽のそれぞれの特徴を活かしながら新しい世界(西も東もない海)を拓きましたが、その遺心は現代作曲家の桑原ゆうさんの三味線、尺八とオーケストラのための「葉落月の段」(第71回尾高賞選考評/下野竜也さんの評)などの作品に受け継がれ、進化しています。尺八では「一音成仏」(一音で描き切る世界)が至上の境地とされていますが、グローバル化の進展と共に多文化交流が進んで、西洋音楽の連音で描く世界(西洋絵画の面描)だけではなく、日本音楽の延音で描く世界(日本絵画の線描、点描)なども柔軟に受容される時代になっており、それらの違いを「均す、無くす」のではなく、それらの違いを「磨く、活かす」ことから生まれる多様な世界観の面白さ(世阿弥曰く「花と面白きとめづらしきと、これ三つは同じ心なり」)を感じることができる豊かな時代になっています。
 
▼環境要因が育む文化的特徴
それぞれの環境要因がどのような文化的特徴を育んだと考えられるのかを簡単な一覧表にまとめてみました。可能な限り分かり易くする趣旨から二項対立で比較していますが、人間の知覚能力や認知能力で正確性を唱えてみたところで底は知れていますので、そのような野暮天の青さが映えるクレームはご遠慮下さい。
区分 日本の
文化的特徴
西洋の
文化的特徴
自然環境 多湿、木造

母音言語
(整数次倍音)

日本音楽
(非整数次倍音)
乾燥、石造

子音言語
(非整数次倍音)

西洋音楽
(整数次倍音+音量)
労働環境 農耕、山地


(リズムの伸縮)
狩猟、平原

ビート
(リズムの固定)
生活環境 高床、和服

密息
(リズムの伸縮)
土間、洋服

腹式
(リズムの固定)
 
▼音楽の要素解析
西洋音楽は人間がコントロールし易いように音子の要素(倍音、リズムなど)を固定化してその上位レイヤーである音を組織化すること(マクロの音響世界)を重視するのに対して、日本音楽は自然と調和し易いように音子の要素(倍音、リズムなど)を固定化せずに音子の要素そのものを多様に変化させること(ミクロの音響世界)を重視するという特徴的な違いがあり、20世紀の現代音楽、ロックやポップスなどは前者よりも後者を重視するように変化しながら豊饒な音響世界を拓いた(又は取り戻した)時代と言えるかもしれません。
ミクロの音響世界
量子力学的
マクロの音響世界
古典力学的
音量 音子
倍音
ハーモニー 様式
音高 音色 メロディー
時間的位置 音価 リズム
※テンポ、ダイナミクス、アクセント、アーティキュレーション、フレージングなどの要素は割愛しています。
 
▼概念のイメージ(子供たちのための)
かなり大雑把な概念のイメージを記載していますが、正確な定義はニューグローヴ世界音楽大事典などをご参照下さい。
概念 イメージ
媒質(気体、液体、個体)を伝わる振動(複数の周波数から構成)
音の三大要素
音量 基音(最も低い周波数の音)の振動の幅(縦関係)
音高 基音(最も低い周波数の音)の振動の数(横関係)
音色 上音(基音以外の音)の振動の形(縦横関係)
整数次倍音 基音の整数倍の音(俗に天使の声)
非整数次倍音 基音の非整数倍の音(三味線のサワリ)
音楽 音(環境音を含む)により人の感覚、感情や理性に作用し得るもの
音楽の三大要素
リズム 音価(基音の振動の長
  +時間的位置(音の始点と終点)(横関係)
メロディー 音高+リズム(横関係)
ハーモニー 2つ以上の音の振動が調和する響き(縦関係)
協和音 整数次倍音が重なる響き
不協和音 整数次倍音が重ならない響き
非整数次倍音の響き
※音、音量の定義
 圧力などの要素は割愛しています。
※楽音と非楽音
 ①楽音=基音+整数次倍音(=協和音)
 ②非楽音=基音+非整数次倍音 or 基音のない不規則な音(=不協和音、ノイズ)
※楽器(電子楽器を覗く)と音
 ①音が持続し易い楽器:擦弦楽器、管楽器
 ②音が減衰し易い楽器:撥弦楽器、打楽器
 
21世紀音楽の会第20回記念演奏会
【演題】21世紀音楽の会 第20回記念演奏会
【演目】①小島夏香 弦楽四重奏のための「モンタージュ」(世界初演)
     <1stVn>佐藤まどか
     <2ndVn>花田和加子
     <Va>安藤裕子
     <Vc>松本卓以
    ②石川健人 見えない壁(世界初演)
     <SopSax>大石将紀
     <Vn>佐藤まどか・花田和加子
     <Va>迫田圭
     <Cond>石川健人
    ③南聡 工房より/第2胴体塑像(世界初演)
     <Fl>多久潤一朗
     <Cl>有馬理絵
     <Hr>庄司雄大
     <Va>安藤裕子
     <Vc>松本卓以
     <Cond>安良岡章夫
    ④安良岡章夫 横・竪~箏独奏のための(2018/2020年)
     <箏>平田紀子
    ⑤渋谷由香 レイヤー(世界初演)
     <Fl>多久潤一朗
     <Cl>有馬理絵
     <Va>迫田圭
     <Vc>原宗史
     <Pf>田中翔一朗
     <Cond>石川健人
    ⑥野田暉行 
       オーボエと弦楽四重奏のための「春のさざめき」(2006年)
     <Ob>宮村和宏
     <Vn>佐藤まどか・花田和加子
     <Va>安藤裕子
     <Vc>松本卓以
     <Cond>安良岡章夫
【日時】2024年6月12日(火)19:00~
【会場】東京文化会館小ホール
【一言感想】
21世紀音楽の会は「心に残る、心に届く音楽」をめざして精力的に活動する作曲家集団とのことで、今回、第20回目の記念すべき演奏会を聴きに行く予定にしています。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
---追記
 
弦楽四重奏のための「モンタージュ」(世界初演)
パンフレットには「唸るような響きの開放弦と、高音域での重音やハーモニクスなどを含む音質が対になって・・(中略)・・異なる音色を共存させることで響きの奥行きを模索」し、「「動」=幅広い跳躍と「静」=音のない瞬間を対比させることで、曲全体に緊張感を張り巡らせ」て、「曲中で様々な要素が展開し、全体が多面的に構築されていくような構造を試みた」と記載されています。「コラージュ」(貼付)とは複数の素材をフレームに貼り付けることを意味するのに対し、「モンタージュ」(組立)とは複数の素材そのものを重ね合わせることを意味する点で異なりますが、パンフレットの解説にあるとおり様々な音響が重なり合い、その音響に間(無音)がフォルムを与えながら様々な音像を生み出して行く、万華鏡のような音楽を楽しむことができました。
 
②見えない壁(世界初演)
パンフレットには東京大学教授・福島智さんが「コミュニケーションが断たれるとは、魂にとって窒息するような、飢え渇くような状態です。(中略)誰かと交流することによって初めて、他者の存在に「反射する光」として自分を見付けるんです。」と語っていたことに影響を受けて「自己と他者との間にある差異が、差音やズレを伴うリズム、あるいは和音として立ち現れながら、楽曲は進行していきます。」と記載されています。さながら笙の音を連想させる弦楽3部のハーモニクスにソプラノサックスの透明感のある持続音が重ねられ、その美観極まる演奏に魅せられました(但し、会場の後方席にいたので残響も多く、十分に「差音」を聴き取ることはできませんでした)。やがて「点字」を描写したものなのかリズムによる点描へ変化しながら静かに心を通わせる終曲になりました。
 
③工房より/第2胴体塑像(世界初演)
パンフレットには「工房より/Ⅰ.頭部及びⅡ.第1胴体塑像」(2016年/2019年)の続編として作曲された曲で、「この曲はかなりでこぼこした肌触りの音楽。音楽は三度の楽想の起伏ののちに、口唇のアリエッタ(Arietta di le labbra)と名付けた cantandoな楽想に至る。この楽想の後は最初の気分が再帰してCodaとなる。」と記載されています。まるで粘土を打つ付けながら塑像していくようなリズミカルで快活な音楽が展開され、フォルムがドラマを生むように音像が物語性を帯びて行くような面白い作品に感じられました。パンフレットでは「音楽の仕掛けはかなり単純化している。これは本位ではなかったのだが、体力的にそうならざるを得なかった。」と謙遜しておられましたが、「大道は至りて簡し」という格言を体現する洗練至芸の境地のようなものが感じられました。
 
④横・竪~箏独奏のための(2018/2020年)
パンフレットには「世阿弥の「花鏡奥ノ伝」に記されている。「横」とは謡に於ける太く強い声、「竪」とは細く弱い声のことで、両者を兼ね備える(相音)こと」から着想を得て「冒頭では明確に区別されるが、次第に混然一体となり、最終的には再び分断され曲を閉じる。」と記されています。世阿弥は「横」(吐く息の真っ直ぐな発声)と「竪」(込める息の抑揚のある発声)とに分けて「竪より横へ謡い出だして、また竪に納まる声流なり」と音曲の極意(曲道息地)を説いていますが、これを筝曲に体現した興味深い作品でした。十三絃を使って、特殊奏法などを駆使した多彩な音色による活舌の良い演奏と押し手などによる微妙な表情を生む繊細な演奏によりコントラストを作りながら、やがて混然一体とした自在の境地へ至る様子が音楽的に表現された非常に面白い作品でした。
 
⑤レイヤー(世界初演)
パンフレットには「ある一定のほぼ同じに設定された時間枠が並置される。同時にその枠内も異なる拍節によってグループごとに枠取りされている。予め固定された枠内で配置することはたったひとつ、それはそれぞれの相互関係である。全てが相対的である事とそれによって見え方が変わる事」がテーマになっていると記載されています。パンフレットにはJ.アルバースの著書「配色の設計」や十二単に象徴される「重ねの色目」などが引用されていますが、時空の相関性が音楽的に表現されているような印象を受けましたので、その実は時間対称量子力学の世界観を体現した作品なのかもしれないと興味深く拝聴しました。ピアノの和音と休止の緊張関係が人間の意識が生み出す一方向に進む時間感覚を遮断し、その中を管弦の不協和が不確定的に揺蕩っている印象を受ける面白い作品でした。
 
⑥オーボエと弦楽四重奏のための「春のさざめき」(2006年)
野田暉行さんは2001年に結成された作曲家集団「21世紀音楽の会」の発起人で、2022年に他界されており、2023年に続く追悼演奏になりました。21世紀音楽の会は野田暉行さんの薫陶を受けた弟子達で構成されていますが、今回、演奏された小島夏香さん、石川健人さんや、同会のメンバーの渡部真理子さん、加藤真一郎さんなどは野田暉行さんの孫弟子にあたる第二世代になりますので、野田さんの遺志が次世代に受け継がれています。オーボエと弦楽4部がリズミカルに丁々発止と渡り合い、春の生命力や陽光を思わせる快活な音楽が展開され、オーボエの甲高く明るい音色でゴジュケイの鳴き声(チョットコイ)を高らかに歌い上げる部分が聴き所になっていました。同会の趣意「心に残る、心に届く音楽」を体現するように華やいだ気持ちにしてくれる聴き易い音楽でした。
 
 
オペラ「a Love story」
【演題】オペラのまど主催 第4回公演
    オペラ「a Love story」(世界初演)
【原作】芥川龍之介「蜘蛛の糸」
【脚本】松岡あさひ
【作曲】松岡あさひ
【演出】岩田達宗
【指揮】小津準策
【演奏】<Pf>齋藤亜都沙
    <蜘蛛>中桐かなえ(ソプラノ)
    <カエル>澤原行正(テノール)
    <子カエル>東大和少年少女合唱団
【日時】2024年6月14日(金)~アーカイブ配信
【会場】東大和市民会館ハミングホール
【一言感想】
オペラ「a Love story」(世界初演)のアーカイブ配信を視聴しましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。定番オペラに飽きている客層は少なくないと思いますので、現代オペラブームと言える状況は大いに歓迎したいです。
 
---追記
 
このオペラは芥川龍之介の児童向け短編小説「蜘蛛の糸」を翻案した作品です。原作は釈迦が地獄に堕ちた男の生前の善事(蜘蛛を踏み殺すことを思い留まったこと)から救いの手を差し伸べようと天国へ昇るための蜘蛛の糸を地獄に垂らしますが、この男は後を追って蜘蛛の糸を昇ってくる他の地獄の罪人達を振り払おうとして蜘蛛の糸が切れてしまう(天意により救いが切られてしまう)というストーリーです。但し、原作の設定には些か無理があり、蜘蛛を踏み殺すことを思い留まったことが果たして「善事」として評価し得ることなのか(単に「悪事」を思い留まっただけで「善事」とまで称揚する態度には他の生物を人間よりも一段と低く見る人間中心主義的な傲慢さが感じられます。仮にこの対象が他の生物ではなく人間であった場合、例えば、殺人を思い留まった通り魔を「善事」として顕彰することには違和感を禁じ得ません。)や、この男が他の地獄の罪人達を振り払おうとしたことが果たして「無慈悲」として評価し得ることなのか(生前の善事の有無に拘らず他の地獄の罪人達を慈悲を持って救うべきであるという立場に立つとすれば、この男や他の地獄の罪人達を慈悲を持って救わない釈迦の態度をどのように捉えたら良いのか児童向けの本にしては釈善としない厄介な問題を孕んでおり、その意味では圧倒的なパワーを背景とする気まぐれな制裁与奪は「シャカハラ」と揶揄したくなる無慈悲なものにも感じられます。)などの疑問がつきまといます。この点、このオペラでは主人公の蛙は生前に他人の餌を盗む悪事と蜘蛛を災厄から救う善事を行っており、その「悪事」によって地獄に堕ちた蛙の救済を願う蜘蛛の祈りが天に届いて天国へ昇るための蜘蛛の糸が地獄に垂らされますが、蛙は後を追って蜘蛛の糸を昇ってくる他の地獄の罪人達を振り払おうとして蜘蛛の糸が切れてしまう(自ら救いを切ってしまう)という無理のないストーリーに翻案されています。これが児童向けの本であることを踏まえば、この世を生きて行くうえで慈悲の心を持つことが自らを救う道(この世を天国にする方途)であり、無慈悲の心を持つことが自らを苦しめる道(この世を地獄にする方途)であるという教訓と捉えるのが座りが良く、原作のような無理なストーリーではなく自然なストーリーに翻案して児童にも受容し易くしたオペラと言えるかもしれません。ピアノ伴奏によるチェンバー・オペラでしたが、音楽はピアノの美観が際立つ色彩豊かなもので、それぞれのプロットに対して非常に聴き易い素直な音楽が付曲されており好印象を持ちました。ミレニアル世代以降の若い現代作曲家が書く作品は、前近代的なものを排除しようと力み切っていた20世紀的な音楽とは異なって、20世紀的な音楽の成果も踏まえつつ、西洋と民族(東洋を含む)、調性と無調、アコースティックとエレクトロニクスや既成のジャンル(芸術と商業、音楽とそれ以外を含む)などのシガラミ(認知バイアス)に囚われることなく、これらをごく自然に融合し、作曲技法や演奏技法などの表面的なこと(手段>目的)に終始するのではなく、新しい価値観、人間観、自然観、世界観などの実質的なこと(手段<目的)を重視した作品が増えてきていることは歓迎したい潮流ですし、そのような清廉な時代の風を感じさせる作品でした。冒頭の父蛙のアリアでは跳躍感のあるピアノ伴奏が印象的で、これに東大和市民少年少女合唱団による子蛙の輪唱が加わる田舎風情が漂う牧歌的な雰囲気に魅せられました。因みに、僕の住居の近隣には水田が多く、田に水を引く4月末頃からオス蛙がメス蛙に求愛するための大輪唱が聴かれますが、オス蛙は他のオス蛙と鳴き声と重ならないようにズラして鳴く習性があるので自然に輪唱になるそうです。暫くすると、子蛙の面倒をよく見てくれるメス蜘蛛が登場して父蛙は謝意を述べます(父親3.0:分散育児を実践する現代的な父親像)。メス蜘蛛は子蛙のためにエサを盗んでくる父蛙(ひとり親家庭の貧困問題)に対して改心を促す耽美的なアリアが歌われますが、五七調の歌詞にすることで日本語のアリアを美しく聴かせる工夫が奏功していました。天災地変が発生して父蛙はメス蜘蛛を庇って死にますが、エサを盗んでいた悪事から地獄へ堕ちます。メス蜘蛛は父蛙を助けるように天に祈りますが、このアリアではピアノが光沢のある高い音(天のメタファー)、メス蛙が陰影のある低い声(地のメタファー)で歌われ、これに子蛙がまるでマタイ受難曲の冒頭合唱で登場するボーイソプラノのような清澄な歌声で歌い添う美しいピースになっていました。人間は生れたばかりの姿が仏の姿に最も近く、世俗に塗れて智慧という穢れを身に纏う程に仏の姿からの遠退いて行くと言われいますが、幼子はその姿を見る者に分け隔てなく救いを与えてくれる存在であり、この子蛙の穢れなき慈悲は仏のメタファーと言っても良いかもしれません。この祈りが通じて天から蜘蛛の糸が吊るされ、父蛙は蜘蛛の糸につかまって這い上がってきますが、その後を追って地獄の魑魅魍魎が這い上がってくる場面ではピアノ伴奏が不協和を奏で、これを振り払おうとして蜘蛛の糸が切れてしまいます。父蛙とメス蜘蛛の二重唱が天への慈悲に感謝し、これに子蛙の合唱が加わってクライマックスとなりましたが、日本語の母音に感情を乗せる延音の特徴(一音で描き切る音の世界)を活かして「あ」の母音だけで歌われる終曲に魅せられました。この作品は子供達と一緒になって舞台を作り上げて行く、ドラマ・ワークショップによるコミュニティー・アートの可能性を示すものとしても非常に興味深く意義あるものに感じられ、今後の取組みにも期待したいです。
 
 
北里柴三郎物語オペラ「ドンネルの夢」
【演題】北里柴三郎物語オペラ「ドンネルの夢」(世界初演)
【脚本・作詞】新南田ゆり
【作曲】神原颯大
【演出】角岳史
【演奏】<Pf>神原颯大
    <北里柴三郎>土崎譲
    <北里貞>新南田ゆり
    <北里柴三郎(少年時代)>浅川夕輝
    <北里惟信>女屋哲郎
    <マンスフェルト>小栗純一
    <北里乕>辰巳真理恵
    <長与専斎>高田智士
    <福澤諭吉>瀧川かをん
    <コッホ>押川浩士
    <レフレル>磯谷大樹
    <青山胤通>飯田裕之
    <後藤新平>猪村浩之
    <ベーリング/志賀潔>加藤大聖
    <山田武甫>武田直之
    <緒方正規>水野洋助
    <田端重晟>川出康平
    <石黒忠悳>戸沢進
    <その他>ドンネル合唱団
    <ダンサー>影山慎二、山下瑞貴、高尾可奈子、幸道玲子 ほか
【日時】2024年6月15日(土)18:00~
【会場】杜のホールはしもと
【一言感想】
2024年7月3日から新紙幣が発行されますが、これを記念してリニア中央新幹線の神奈川駅を建設中の橋本(神奈川県)で北里柴三郎物語オペラ「ドンネルの夢」が世界初演されるというので聴きに行く予定にしています。オペラを視聴後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、オペラの宣伝のために予告投稿(但し、最近の現代オペラブームも手伝ってか既にチケットは完売)しておきます。因みに、講談師・神田あおい師匠が新作講談「講談で学ぶ!新札肖像の物語」を打たれていますので、ご興味があれば地元の役所やホールなどにリクエストしてみましょう。
 
---追記
 
北里柴三郎物語オペラ「ドンネルの夢」(脚本:新南田ゆりさん、作曲:神原颯大さん、初演:2024年)は、かなり話題になった歴史オペラの第1作目である杉原千畝物語オペラ「人道の桜」(脚本:新南田ゆりさん、作曲:安藤由布樹さん、初演:2015年)に続く第2作目にあたります。先ず、プロットを簡単に概観しておきますと、第一幕では1853年に熊本県阿蘇郡小国町北里(北里氏は大和源氏源頼親の系流の土豪又は地侍で、この土地を支配していましたが、過去のブログ記事でも触れたとおり名字は土地の名前に由来)に生まれた北里柴三郎は幼少期に流行したコレラで弟及び妹を亡くし、1971年に父・北里惟信の勧めで熊本医学校(現、熊本大学医学部)に進学してオランダ海軍軍医のC.マンスフェルトに師事した後、1874年に東京医学校(現、東京大学医学部)へ進学して医道論を提唱、第二幕では1886年にドイツ留学して世界的な細菌学の権威であるR.コッホに師事し、1889年に世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功して血清療法を確立、第三幕では1892年に福沢諭吉が私財を投じて設立した伝染病研究所の初代所長に就任し、1894年に香港で蔓延したペストの原因調査で世界で初めてペスト菌を発見した功績から国立の伝染病研究所になりましたが、これを快く思わない一部の医師界の権謀術数によって東京帝国大学(現、東京大学)の傘下に組み込まれると、1914年に北里柴三郎は自由な研究環境を確保するために北里研究所を設立して独立し、伝染研究所の殆どの職員(研究者、医師、看護師、事務職員)は北里柴三郎を慕って北里研究所に移籍しました。北里柴三郎の弟子には、黄熱病や梅毒の研究で知られた野口英世、世界で初めて赤痢菌を発見した志賀清、世界で初めてハブ毒の血清療法を確立した北島多一、世界で初めて抗菌薬サルバルサンを開発した秦佐八郎など錚々たる名前が並んでいます。今日の舞台には結核予防会(北里柴三郎が渋沢栄一らと共にその前身とも言える日本結核予防協会を設立)の理事長である尾身茂さんも合唱(一部、ソロあり)に参加されており、伝記オペラの枠組みを超えて、北里柴三郎の遺心が現代の感染症病医療の現場にも息衝いていることが実感できる大変に有意義な舞台になっていました。因みに、新紙幣は、1万円札:福沢諭吉➠渋沢栄一(産)、五千円札:樋口一葉➠津田梅子(学)、千円札:野口英世➠北里柴三郎(医)に刷新されますが、このうち福沢諭吉、渋沢栄一及び野口英世は北里柴三郎と密接な関係があり近代日本の礎を築いた偉人たちになります。第一幕の第1場から第3場では北里柴三郎の幼少期の時代状況として、文明開化とそれに伴う虎狼狸の流行(源氏物語には光源氏がマラリアに罹患する場面が登場しますが、遣唐使(=人の移動)によってマラリアが日本に持ち込まれて流行したのと同様に、文明開化の契機となった外国船来航(=人の移動)によってコレラが日本に持ち込まれて流行)及び武士の時代の終焉が合唱とアリアによって歌われましたが、当時の人々が新しい時代に込める期待(文明開化の光)が躍動感のある歌と音楽で、また、当時の人々が新しい疫病に抱く恐怖(文明開化の闇)が緊迫感のある歌と音楽で対照的に表現されていました。第1幕の第4番から第15場では北里柴三郎がマンスフェルトとの出会い、東京医学校への進学、福沢諭吉との出会い、ドイツ留学の決意など医学の道を立志する様子がアリア(一部、二重唱)によって歌われました。北里柴三郎は熊本医学校でマンスフェルトと出会ったことにより医学の道に進む決意をし、東京医学校へ進学を決めますが、若き北里柴三郎が先輩の部屋に居候しながら医学の理想に燃える姿にはベートーヴェンのハンマークラビーア(ピアノの進化と共にその表現可能性を飛躍的に拡張した革新的な音楽)を彷彿とさせるピアノ伴奏が付されていたのが印象的であり、また、北里柴三郎が人命を救うために医学の道を志す決意を歌う力強いアリアや北里乕が北里柴三郎を献身的に支えることを誓う優美なアリアが聴き所になっていました。ライバルの後藤新平との二重唱ではライバル意識を燃やす熱量が高い重唱、九州男児の長与専斎、緒方正規との三重唱ではさながらサツマイモが転がっているような振付とユーモラスな歌唱などが聴き所になっており着想が豊かな音楽を楽しめました。但し、それぞれの歌手の見せ場を作るための配慮だったのか又は歌(音楽)よりも劇(物語)を重視するためであったのか、全体的にアリアが多い印象を受けましたが、例えば、後述の医師界の権謀術数が渦巻く場面などでは力強い重唱を競演させるなど、もう少し音楽に変化があった方がドラマチックになったのではないかとも感じました。第二幕の第1場から第9場では世界的な細菌学の権威であるC.コッホに師事し、その研鑽が奏功して世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功して血清療法を確立した偉業が合唱とアリアで歌われました。その中の印象的なエピソードとして、北里柴三郎はC.コッホから医学における真理の探究の重要性を諭されてC.ペーケルハーリングの脚気論文に対する反対論文を公表することにしましたが、これに対してC.ペーケルハーリングから感謝の手紙が届いたという逸話が歌われていました。因みに、当時、東京帝国大学(現.東京大学)ではC.ペーケルハーリングと同じ学説を採用していましたが、その見直しが大幅に遅れたことなどから日清戦争及び日露戦争における脚気惨事という悲劇が発生しています。この点、現代でも、日本の学界のみならず、日本の政界や経済界に残されている体質として、前回のブログ記事でも触れたとおり、閉鎖的な組織やコミュニティーほど正しいこと(社会の正義)を疎んじて誤りでも都合の良いこと(世間の常識)に流され易い風潮がありますが、そのような誤りを認めようとしない風通しの悪い風土に屈することなく人命を救うという初心を貫徹して真理の探究を揺るがせにしなかった北里柴三郎の生き様には共感を覚えます。第三幕の第1場から第14場では福沢諭吉が設立した伝染病研究所の初代所長に北里柴三郎が就任、北里柴三郎が世界で初めてペスト菌を発見、北里柴三郎の弟子である志賀潔が世界で初めて赤痢菌を発見、伝染病研究所が東京帝国大学(現、東京大学)の傘下に組み込まれると北里柴三郎は自由な研究環境を確保するために北里研究所を設立して独立、伝染病研究所の殆どの職員は北里柴三郎を慕って北里研究所へ移籍がアリアと合唱で歌われました。志賀潔が世界で初めて赤痢菌を発見した場面では、志賀潔及び合唱は北里柴三郎が後進の研究者を育成してその後の日本の感染症医療の発展に大きな功績を残したことを歌いましたが、伝染病研究所が東京帝国大学(現、東京大学)の傘下に組み込まれると北里柴三郎は人命を救うために医学の道を志した初心と自由な研究環境を確保するために北里研究所を設立して独立する決意を力強いアリアで歌い、伝染研究所の殆どの職員が北里柴三郎を慕って北里研究所に移籍する清廉な志を美しい合唱で歌う大団円となりました。上述のとおり尾身茂さんが合唱に乗られていたことで、伝記オペラの枠組みを超えて、北里柴三郎さんの遺志が現代の感染症病医療にも受け継がれて息衝いていることが実感できる意義深いものに感じられ、コロナ禍で献身的に闘う医療従事者の姿と重なって感動的な舞台となりました。
 
 
スティーヴ・ライヒ・プロジェクト
【演題】スティーヴ・ライヒ・プロジェクト
    kuniko plays reich Ⅱ/DRUMMING LIVE
【演目】①フォー・オルガンズ(1970年)
    ②ナゴヤ・マリンバ(1992年)
    ③ピアノ・フェイズ(1967/2021年)ヴィヴラフォン版
    ④ニューヨーク・カウンターポイント(1985年)
    ⑤木片のための音楽(1973年)
    ⑥ドラミング(1970年)
【演奏】<Perc>加藤訓子(①②③④)
    <Perc>齋藤綾乃、篠崎陽子、西崎綾衣、
          横内奏、藤本亮平(⑤)
    <Perc>東廉悟、青栁はる夏、高口かれん、戸崎可梨、
          富田真以子、濱仲陽香、細野幸一、眞鍋華子(⑥)
    <Perc>三神絵里子(⑥)
    <Wh>藤本亮平(⑥)
    <Picc>菊池奏絵(⑥)
    <Vo>丸山里佳、向笠愛里(⑥)
【音響】寒河江勇志
【照明】岩品武顕
【監督】加藤訓子
【日時】2024年6月28日(金) 17:30~
【会場】彩の国さいたま芸術劇場音楽ホール
【一言感想】
世界的なパーカッショニストの加藤訓子さんが2024年4月25日に発売したアルバム 「kuniko plays reich II」の収録曲とドラミングを演奏するというので聴きに行く予定にしています。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
---追記
 
ヴラヴィー!フルタイムで働く社会人には厳しい平日の早い時間帯にさいたま芸術劇場で開演される公演でしたが、予想以上に客席が埋まるまずまずの盛会でした。冒頭、S.ライヒさんが加藤さんと観客に向けたビデオメッセージが流された後、第1曲目のフォーオルガンズからやられてしまいました。上記のアルバムでは加藤さんが4台の電子オルガンと1対のマラカスを一人五役で多重録音した演奏が収録されており、今日はどのように実演されるのか楽しみにしていましたが、舞台上には電子オルガンの録音を再生するための4台のスピーカーが設置され、その中央で加藤さんがマラカスを実演するというハイブリッドな演奏スタイルがとられました。この曲は4台の電子オルガンが奏でるE11コードと1対のマラカスが奏でる8ビートから構成されていますが、加藤さんがマラカスのビートをインテンポで刻むなかを、4台のスピーカーから流れる電子オルガンのE11コードが少しづつパターンを変えて徐々に音価を延ばしながら繰り返されましたが、僕は一般相対性理論(重力による時間の遅れ)の世界観を重ね合わせながら拝聴していました。加藤さんが刻むマラカスのビート(加藤さんが赤くライトアップされていたのはビート=心臓の鼓動のメタファー?)は一定の速さで進む地球上の時間(古典物理学の絶対時間:分割リズム)であると仮定すれば、徐々に音価が延ばされる電子オルガンのE11コードはさながらブラックホール(高い重力場)に引き寄せられながら徐々に時空が引き延ばされ(スピーカーが白くライトアップされていたのはブラックホールが引き寄せる光のメタファー?)、それに応じて遅く進む時間(相対性理論の相対時間:付加リズム)の関係性が聴覚的にも視覚的にも体感でき、それらが重なり合いながら1つの世界(映画「インターステラー」)を形成している大変に興味深い舞台を楽しめました。徐々に音価が延ばされる電子オルガンのE11コードが1サイクルする間に、マラカスがインテンポで16ビート、32ビート、64ビート、128ビート・・・・と刻みますが、瞬間(一音)に宿る永遠、永遠に刻まれる瞬間(一音)が交錯するような不思議な感覚(時空の歪み)に襲われる大変に面白い芸術体験になりました。音盤だけではなく加藤さんの実演に接すると、この曲の魅力を体感し易いと思います。なお、拙ブログは楽曲解説ではなく個人的な感想を認めているものであり、作曲家や演奏家の意図を離れて個人的なプロジェクションを投射しているものなので、その点は誤解を与えないようにお断りさせて頂きます。第2曲のナゴヤ・マリンバは今年2月に閉館した「しらかわホール」のために作曲された2台のマリンバのための曲ですが、ホールは無くなったとしても音楽は残り続けるということで、今日は1台のマリンバの録音がスピーカーから流され、加藤さんが1台のマリンバを実演するハイブリッドなスタイルで演奏されました。モチーフの反復と展開が多彩なフォルムを生み出し、高い演奏精度に支えられた精妙なカノン、音色や強弱のグラデーションによって奥行きのある立体的な音響空間が生み出されていて聴き応えがありました。過去のブログ記事でも触れましたが、人間の統合的認知(人間は視覚:約8割、聴覚:約1割、その他の知覚:約1割の割合で、全ての知覚情報を統合して認知を生成)の特性によって、それらの知覚情報のズレが錯覚(クロスモーダル現象)を生み出しますが、加藤さんの実演(視覚情報)とスピーカーから流れてくる音(聴覚情報)のズレがハイブリッドな音響空間をシームレスなものに感じさせる効果を生んでおり非常に面白い芸術体験になったと共に、視覚が聴覚に与える影響を考える上でも興味深い舞台でした。第3曲目はピアノフェイズを加藤さんがS.ライヒさんの許可を得て2台のビブラフォン版に編曲した曲ですが、今日は1台のビブラフォンの録音がスピーカーから流され、加藤さんが1台のビブラフォンを実演するという原曲と同様のハイブリッドな演奏スタイルがとられました。この曲はS.ライヒさんの音楽の特徴とも言えるフェイズ・シフティング(同じ音型を繰り返しながら少しずつ音をズラし、リズムを変化させる演奏技法)が使われ、最初はスピーカーから流れるビブラフォンの録音と加藤さんのビブラフォンの実演がユニゾンでリズムを刻み出しますが、加藤さんのビブラフォンの実演が少しづつ音をズラし、リズムを変化させながら精妙なグラデーションを作り出し、さながら響きの万華鏡といった風趣が素晴らしく、加藤さんの1音1音のニュアンスの豊かさや深みにも魅了されました。なお、ロックの舞台演出を斬新に採り入れたものでしょうか、照明を点滅させて視覚的にリズムを感じさせる演出も効果的で、観客の知覚に揺さぶりをかける工夫が随所に感じられて楽しめました。第4曲のニューヨーク・カウンター・ポイントはアルバム「Counterpoint -Kuniko plays Reich-」に収録されている曲ですが、S.ライヒさんが独奏楽器と磁気テープのために作曲したシリーズ作品に位置付けられ、今日は1台のマリンバの録音がスピーカーから流され、加藤さんが1台のマリンバを実演するという原曲と同様のハイブリッドな演奏スタイルがとられました。最初はユニゾンで刻まれていたパルス音(リズム)がメロディーとパルス音に分化し、やがてメロディーとメロディーの対位法へと発展してフェイズ・シフティングの技法を使いながら精妙なアンサンブルが展開される構成感のある演奏を楽しむことができました。後半はダンスミュージックのようにリズミカルで即興感のある演奏が展開され、マリンバを演奏する加藤さんの足が刻むステップは軽やかに舞うダンスのようであり、(年甲斐もなく逆上せ上がったことを書くようで気恥しいですが)まるで天使のマリンバとでも形容したくなるような音楽と一体となったグルーブ感のある演奏に魅了され、自在に音と戯れ、音を遊ばせているような天衣無縫な演奏に惹かれました。なお、照明としてミラーボールが使われていましたが、これはニューヨークの都会の喧騒を表現したものでしょうか、(個人的なプロジェクションとしては)音粒が天空へ飛翔しているようなイメージに映り、音楽の感興を増す効果的な演出であったと思います。第5曲目の木片のための音楽(クラベス五重奏)は休憩時間中にロビーコンサートとして若手演奏家が様々な音色の5組のクラベスを使って様々なクラーベ(リズムパターン)が組み合わされる曲を披露し、精巧なリズムで組み上げられる構築感のある音楽を楽しめました。木の硬質な響きは高音域の減衰が早いので、どこか温かみを感じせる不思議な魅力があり癒されます。第6曲目のドラミングは若手演奏者13人で実演されました。芸術家は舞台の上で育つと言いますが、加藤さんはこれまで取り組まれてきた活動の成果を次の世代に受け継ぐことにも注力されており、可能な限り若手演奏者に舞台経験を積ませる機会を設けたいという想いを語られていました。4人の若手演奏者が舞台中央に縦に並べられたボンゴドラム4組を使って革が生む弾性の響きによるリズムを繰り返しながらフェイズ・シフティングの技法や休符を拍子に置き換える技法などを使って徐々にリズムを変化させて行きましたが、最初は無機質に聴こえていた音群(リズム)が微妙なグラデーションに彩られると、人間の脳の認知特性から歌や言葉などの意味のある音群に聴こえ出して(アポフェニア)、強く意識を揺さぶられるような聴取体験となりました。やがてそのリズムは7人の若手演奏者による3台のマリンバに受け継がれましたが、木が生む硬質で温もりのある響きによるリズムが新鮮に感じられ、これに2人の若手奏者によるボーカルがデュナーミクを繊細に操りながら様々なリズムを口遊むことで幻想的な雰囲気を湛える美しい演奏が展開されました。やがて6人の若手奏者による3台のグロッケンシュピールに引き継がれましたが、金属が生む光沢感のある響きによるリズムが眩く感じられ、1人の若手演奏者による口笛と1人の若手演奏者によるピッコロが奏でる息のリズムが音楽に表情を与えていました。最後はボンゴドラム、マリンバ、グロッケンシュピール、ボーカル、ピッコロが加わる全奏となり、様々なリズムパターンが隙のないアンサンブルで奏でられる絢爛たるクライマックスを築き上げる好演になり、リズムを究めることで拓かれる広陵たる世界観を感じることができる充実した演奏会でした。
 
 
▼向井航のオペラ「野守の鏡」
日本人現代作曲家の向井航さん(1993年~)のオペラ「野守の鏡」が2024年6月1日及び6月2日にウィーンで世界初演されました。プロットは世阿弥の能「野守」から取材して、LGBTQ+セックスワーカーというダブル・マイノリティに属する登場人物達が「なぜ自分は生まれてきたのか」と存在意義を自問しながら、その答えを求めて地上、天国、地獄の全てを映し出す「野守の鏡」を探すというものだそうです。音楽はコンテンポラリー、バロック、ミュージカル、ジャズ、パンク、エレクトロニックなどをジャンルレスに採り入れたクィアなオペラだそうです。残念ながら、オンライン配信がなくワールドプレミアを鑑賞することはできませんでしたが、今から日本初演が楽しみです。
 
▼マルゲリーテ・レスゲン=シャンピオンの「チェンバロ協奏曲」
スイス人現代作曲家・マルゲリーテ・レスゲン=シャンピオンさん(~1976年)のチェンバロ協奏曲が発見され、スイス管弦楽団(指揮:レナ=リサ・ヴュステデルファーさん)がソリストにチェンバリスト・鈴木優人さん(1981年~)を迎えて2024年5月19日から2024年6月2日までスイスで4公演が演奏された模様です。そのうち2024年5月19日の公演は現地時間で2024年6月6日20:00(日本時間では2024年6月7日03:00)からIm konzertsaalで放送されるようなので早起きして聴いてみたいと思っています(後日談:アーカイブ音源が公開されていますが、鈴木さんの演奏は24:43~なのでご視聴あれ)。日本でも鈴木優人さんや染田真実子さんがチェンバロを使った現代音楽を採り上げた演奏会を精力的に開催しており、また、2024年8月30日には愛知室内オーケストラ権代敦彦さんのチェンバロ協奏曲を世界初演するようですが(ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲(マリンバ編曲版)を含めて東京での公演を熱望したいです)、コンテンポラリー・チェンバロがブームになりつつあります。
 
▼細川俊夫のオーケストラのための「さくら」(2021年)
日本人現代作曲家の細川俊夫さん(1955年~)の管弦楽作品集第4集が2024年6月28日に発売予定になっています。日本古謡「さくらさくら」(作者不詳)のモチーフを使ったオーケストラのための「さくら」、ヘルマン・ヘッセの詩からインスピレーションを受け、孤独に歩くトランペッターが世界に歌いかけていく情景を描いたトランペット協奏曲「霧のなかで」、ヴァイオリニスト・ヴェロニカ・エーベルレさん(1988年~)の出産祝いのために、ソリストは人、オーケストラはそのソリストを取り囲む自然、宇宙と捉えて作曲したヴァイオリン協奏曲「ゲネシス」(生成)、笙からインスピレーションを受けて楽器が生み出す螺旋状の響きを効果的に用いたオーケストラのための「渦」が収録されていますが、その中からオーケストラのための「さくら」をお聴き下さい。この音盤が欲しくなると思います🌸

ヤポネシアの耳と無料ライブ配信「ニコニコ東京交響楽団」(名曲全集第197回)とコンポージアム2024「マーク=アンソニー・ターネジの音楽」と2024年度武満徹作曲賞本選演奏会と日本人を枯れすすきにしてしまう世間とは?<STOP WAR IN UKRAINE>

▼日本人を枯れすすきにしてしまう世間とは?(ブログの枕短編)
あまり時間がありませんので軽く与太話で済ませたいと思います。昭和の名曲「昭和枯れすすき」の「貧しさに負けた、いえ世間に負けた・・・幸せなんて望まぬが、人並みでいたい・・・世間の風の冷たさに、こみあげる涙・・・」という歌詞には、メランコリー親和型気質が強い日本人のメンタリティーが色濃く映し出されていると言われています。この点、先日、「世界幸福度ランキング2024」が公表され、日本は昨年の47位から51位へとランクダウンしましたが、とりわけ30歳以下の若年層の世界幸福度ランキングが73位と低迷しており最近の若年層の海外流失を裏付けるデータになっています。これを見る限り、日本人のメンタリティーは昭和の時代と大きく変わっていないと言えるかもしれません。過去のブログ記事で日本は世界人助け指数の総合ランキングで142ケ国中139位と低迷している背景として、明治維新や高度経済成長などにより日本の共助の基盤となっていた「世間」が急速に崩壊してこれに代わる文化や制度などが育まれないまま自助を前提とする「社会」へ移行したことが社会課題となって表面化していることに触れましたが、日本人のナラティブをハッキングして枯れすすきにしてしまうほど強力に日本人の意識を捉えてきた「世間」とは一体何なのかについて簡単に触れてみたいと思います。
 
▼世間
もともと「世間」という言葉は仏教用語で「器世界」(山川草木国土)の中に存在する心を持つ有情(衆生)の集合体を「有情(衆生)世間」と呼んで無常な世の中を意味していました。その後、「世間」という言葉の世俗化が進んで人間関係を意味するようになり、やがて上述のとおり明治維新や高度経済成長などにより「世間」が破壊して「社会」へと移行しました。
 
〇仏教経典「雑阿含経」(第1175経)
「世尊告諸比丘、若於世間愛喜味者、則於世間受樂、彼於世間受樂者、則於世間生死往還。」(もし世間に対して愛着を持ち、その味わいを喜ぶならば、その者は世間において楽しみを受けるであろう。その者が世間において楽しみを受けるならば、その者は世間において生死を繰り返すことになるであろう。)
 
〇和歌集「万葉集」(貧窮問答歌/山上憶良)
世間を 憂しとやさしと 思えども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば」
 
〇浮世草子「世間胸算用」1巻(井原西鶴)
世間はむつかしい事のみ多く、ままならぬ事ばかりなり。」
 
〇小説「野分」(夏目漱石)
文学者・白井道也先生が田舎をいびり出されて東京へ出てきた際に俗世を痛烈に批判する台詞として「渡る世間に鬼はないと云うから、同情は正しき所、高き所、物の理窟のよく分かる所に聚ると早合点して、この年月を今度こそ、今度こそ、と経験の足らぬ吾身に、待ち受けたのは生涯の誤りである。世はわが思うほどに高尚なものではない、鑑識のあるものでもない。同情とは強きもの、富めるものにのみ随がう影にほかならぬ。」
 
「世間」という言葉は1200年以上前から日本に存在しており、日本最古の和歌集「万葉集」などにも使用されていますが、凡そ、人間関係という意味を持っています。その後、1877年頃に英語「Society」の訳語として(その語感から「世間」は不適切と判断されて)「社会」という言葉が作られており、これに続いて1884年頃に英語「Individual」の訳語として「個人」、また、1886年頃に英語「Right」の訳語として「権利」という言葉が作られています。「個人」とはこれ以上分割できない構成要素を意味し、また、その「個人」が集合して「社会」を構成し、その「個人」は「権利」を有するという考え方がヨーロッパから輸入されましたが、これらの概念(言葉)は江戸時代まで日本には存在していませんでした。これ以降、日本には「世間」(常識により規律される具体的な人間関係)と「社会」(法律により規律される抽象的な人間関係)から構成される二重構造の世界が誕生しました。その一方で、ヨーロッパでは11~12世紀頃まで「世間」が存在していましたが、キリスト教(一神教)の布教に伴って「告解」(懺悔)という宗教儀式が浸透したことにより世間との横のつながりよりも神(教会)との縦のつながりが重視されるようになり(世間の排除)、人々は告解(自分の心の内を神に告白すること)を通して自らの内面から生まれる自我を強く意識するようになりました(個人の誕生)。また、人々は神との約束(束を認めたものが旧約聖書、しい束を認めたものが新約聖書)に従って自らを規律するようになり、それが法のルール(見えるルール)によって規律される社会を形成する素地になりました。このように日本では村の鎮守に象徴される多神教を背景として村の横のつながりが重視され、村に迷惑をかけない振る舞いに価値を置いて常識のルール(見えないルール、俗に外国人から忍者の腹芸と呼ばれるもの)によって規律される世間を発達させました。このため、日本人は自らの意志で振る舞う「為す」文化よりも世間の顔色を伺いながら世間の意向に沿うように振る舞う「成る」文化(自ら何も決めずに様子を見ながら世間の成り行きに任せる特徴的な傾向のことで、例えば、日本企業で稟議書にズラズラと複数人のハンコを並べたがるのは世間の意向擬きを演出したいという深層心理の現れ)を発達させました。よって、世間に生きる人々は個人のナラティブを生きてきたというよりも、世間のナラティブ(人生のレール)に同期しながら世間における自らの役割を果たす生き方に馴染んできたため、目上・目下、先輩・後輩などの世間における序列が非常に重要な要素になり、例えば、英語では社会の抽象的な人間関係を示す「You」しかないところ、日本語では「貴殿」「あなた」「お前」などの様々なニュアンスを孕んだ言葉が生まれました。その意味で、世間は個人を権利や人権の主体として捉えるのではなく世間における役割の主体として捉える傾向が強く、個人の権利や人権を超えた権力を備える日本社会に独特の力学を体現するものと言えますが、多様性の時代と言われる現代には、これがハラスメント(世間と社会の衝突、即ち、世間の権力が個人(社会)の権利や人権を蔑ろにする現象)に姿に変えて顕在化していると言えるかもしれません。そう言えば、先日、某町長が「育休を1年取ったら殺すぞ」という趣旨の発言をしたことなどに端を発して辞任に追い込まれたという教科書事例のようなニュースがありましたが、これは世間のルール(他人に迷惑をかけないという世間の常識)を信奉する人が法のルール(権利、人権)を顧みようとしない典型的なケースと言え、また、古い体質の組織(終身雇用制度を事実上の前提として組織内の世間が残されている旧態依然とした体質など)は世間のルールを信奉する人を擁護したいという根強いマインドがあることから、未だにハラスメントに適切に対応できないケースも発生しています。上述のような違いを背景として、具体的な人間関係を前提とする「世間の目」「世間体」「世間に顔向け出来ない」という言葉が生まれ(それ故に「社会の目」「社会体」「社会に顔向けできない」という言葉はなく)、また、抽象的な人間関係を前提とする「社会基盤」「社会変革」「社会奉仕」という言葉が生まれた(それ故に「世間基盤」「世間変革」「世間奉仕」という言葉はない)ものと思われます。上述のとおり日本が世界人助け指数の寄付ランキングで142ケ国中139位と低迷しているのは日本の共助の基盤となっていた「世間」が急速に崩壊するなかでヨーロッパのような「公共」の意識が育まれなかったことが原因の1つと言われていますが、日本人には世間の「ウチ」(身内)と「ソト」(他人)の意識しかなく、世間の目があるウチでは世間体を気にして慎みますが、世間の目がないソトには関心が薄く「旅の恥はかき捨て」に象徴されるような変節になって表れます。これに対し、ヨーロッパでは上述のとおりキリスト教の布教などの影響から早くから「世間」が崩壊して法のルール(神の法が転じて人の法)によって規律される「社会」を形成するようになり、ここでは詳しくは触れませんが、王(国家)が神の法に背く専横を監視するために王(国家)に対抗する概念として「公共」の意識(ソトへの高い関心)が芽生えたと言われており、ヨーロッパにおいて寄付、ボランティアやデモ(公共としての働き掛け)などが多いのは、このためではないかと考えられます。最近、日本でネット世間という言葉が使われるようになりましたが、ネットの匿名性が世間の目を強化する効果を生み、ネットでの横のつながりが個人の自由を拡大する方向ではなく、キッズ(誹謗中傷)、KS(村八分)や炎上(魔女狩り)などの世間の悪い面(福沢諭吉が著書「学問のすすめ」で説いている世間論)を増幅する弊害を生んでいることが指摘されており、ネット世間に自らのナラティブをハッキングされ、そのネット世間から自らを否定的に扱われることで、自らの存在意義を見失い自殺するという悲劇まで生まれています。世間は浮世とも言われるとおり、所詮は仮初の世の人間の営み(芸術を含む)に過ぎず、そのようなものにどのような理屈をつけてみても大した意味などあるはずもなく(仏教用語として持っていた世間の本来的な意味)、現代にあっては、ネット世間に枯れすすきにされてしまう前に、人生を達観した鴨長明のようにネット世間を棄てる勇気、ネット世間を持たない分別も必要なのかもしれません。このように何の価値もないことを並べ立て無駄な時を過ごしているのは、ただ一心に「遊びをせんとや生まれけむ」(梁塵秘抄)という取るに足らない本性から出たものでございます。お粗末さま💖
 
▼鴨長明の随筆「方丈記」
「佛の人を教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。いま草の庵を愛するも科とす。閑寂に著するも障りなるべし。いかが用なき樂しみを述べて、空しくあたら時を過さむ。」
(意訳)仏の教えは何事にも執着心を持つなということだが、こうして草庵の暮しを愛する気持ちも一つの執着心の現れである。仏の世界から見れば何の価値もない楽しみを並べ立て無駄な時を過したものだ。
 
▼世間と社会の違い
構造 宗教 単位 価値 規律 意識
公共 互助
世間 多神教 地域 栄誉 常識に基づく評判 なし 地域意識(具体的な人間関係)に基づく共助
社会 一神教 個人 権利 法律に基づく裁判 あり 公共意識(抽象的な人間関係)に基づく寄付
 
▼ヤポネシアの耳~邦楽器をめぐる6つの邂逅
【演題】ヤポネシアの耳~邦楽器をめぐる6つの邂逅
【演目】①渡邉杏花里 Radiant Mosaicscape
     <笙>カニササレアヤコ
     <Tp>藤田サーレム
     <Cb>布施砂丘彦
    ②浦山翔太 艶
     <fl、afl>菊地奏絵
     <Vc>瀧川桃可
     <筝>吉越大誠
    ③和田遥人 水縹ノ刻
     <尺八>吉越瑛山
     <篠笛>山本一心
     <映像>荒木敬盛、斎藤愛生、 和田匠平
    ④橋本朗花 鶯音を入る
     <筝>吉越大誠
     <Pf、Syn>橋本朗花
    ⑤佐藤伸輝 Asian Music Guide
     <筝>鹿野竜靖
    ⑥江田士恩 燃ゆる命の十景
     <笙>カニササレアヤコ
     <Vn>青山暖
     <日本舞踊>花柳禮志月
【日時】2024年5月16日 19:00~
【会場】渋谷区文化総合センター 伝承ホール
【一言感想】
今日は東京藝術大学作曲科の学生が「西洋の音楽がもたらされる前、かつて日本列島(=ヤポネシア)に偏在していた邦楽器の音」に着目して「邦楽器の今日的な楽しみ方をそれぞれ提示」することをコンセプトとする「ヤポネシアの耳~邦楽器をめぐる6つの邂逅~」と題する演奏会を聴きに行きましたので、それぞれの曲について一言づつ簡単な感想を残しておきたいと思います。ヤポネシアという言葉は作家・島尾敏雄さんが提唱したラテン語の「ヤポニア」(日本)+「ネシア」(島々)を組み合わせた造語で、現在ではヤポネシアゲノムという学術用語としても使用され、主にアイヌ人などが居住していた北部(樺太、千島列島・北海道)、主にヤマト人などが居住していた中央部(本州、四国、九州とその周りの島々)、主にオキナワ人などが居住していた南部(西南諸島)に日本列島を3区分して約4万年前に日本列島に渡来した人々の起源や発展の歴史をゲノム解析により明らかにする研究が行われています。かつてセンチメンタリズムから日本は単一民族国家であると主張していた人達がいましたが、科学的には日本は多民族国家と認識されており、これが日本政府の公式な見解として採用されています。なお、今回は第1回ということで主にヤマト人を中心にして発達してきた邦楽器に着目していたようですが、「ヤポネシアの耳」をコンセプトにするのであれば、是非、第2回以降はアイヌ人やオキナワ人などが使っていた楽器や音楽語法(その源流となる楽器や音楽語法を含む)などにも焦点をあてた野心的な企画も期待したいです。本日の演目を概観して、芸術の分野に限らず、あらゆる分野に言えることですが、これからの時代はアナログ(アコースティック)の世界に安住しているだけでは足りず、デジタル(エレクトロニクス)を上手く採り込んで活用できるジャンルレスな創造的知性が求められており、その意味でも柔軟な感性を持った若い才能に期待したいです。
 
①渡邉杏花里 Radiant Mosaicscape
パンフレットの解説から抜粋引用すると「ビットマップ画像・・(中略)・・を拡大すれば色の点が並んでいる様子をノイズとして見ることができる。さらに拡大していくと、画面には数色の四角だけが映る。もっと拡大すると単一の色のみとなる。・・(中略)・・この、ミクロがマクロになる過程を曲の形式として落とし込んだ。」とのことですが、超指向性スピーカーを使った三次元的な音響空間(パンフレットには記載されていませんが、エレクトロニクスを使用)を演出するインスタレーション作品のようでもあり、もはや「ヤポネシアの耳」と形容するのが適当なのかと思われるような革新的な作品に挑発されました。冒頭は超指向性スピーカーを使ってエレクトロニクス(ノイズ)が会場を縦横無尽に駆け巡りますが、やがてトランペット(主に旋律)、笙(和音)、チェロ(主にリズム)が色の点を変化させて行く様子が音楽的に表現されていました。ビットマップ画像のデジタルな世界を表現した作品ですが、ノイズ(自然音)から旋律、和音、リズム(楽音)が生まれ、それらが拡大や縮小など変化を繰り返しながら音楽的な文脈(世界観)を表現しているようにも感じられ、音楽の始原に思いを馳せながら大変に興味深く拝聴しました。
 
②浦山翔太 艶
パンフレットの解説から抜粋引用すると「自身、あるいは人類に共通する負の感情を主題に作曲した。・・(中略)・・西洋における悪魔的な表現よりも日本特有の「湿度」を帯びた表現を心がけた。 ・・(中略)・・内に閉じた作品であり、共感を得ることは難しいかもしれないが自らの精神の縮図をこの場で提示したい。」とのことですが、冒頭からチェロが深い重音を奏でるなか、箏の艶っぽい音色、フルートの生温かい音色により、「負の感情」「艶」「湿度」のような肌触り感が陰鬱と立ち込め、箏のスリ爪による深く切り込むエッジの効いた響きやチェロと箏の激しく呼応する緊張感の高いアンサンブルなど複雑に入り乱れる心中が生々しく表現されているような印象を受けました。フルート、チェロ、箏という特殊編成のアンサンブルでしたが、杉浦さんはヘヴィー・メタルを中心とするロック・ミュージックに傾倒していた経験があるためなのか、非常に着想が豊かで様々な特殊奏法も組み合わせながらフルートと箏、チェロと箏のアンサンブルの表現可能性を追求する実験的かつ意欲的な作品に感じられ、個人的な音楽的趣味にあっていたこともあり、音楽的な完成度が高いセンスの良い作品に感じられましたので、今後の活躍が非常に楽しみです。
 
③和田遥人 水縹ノ刻
パンフレットの解説から抜粋引用すると「・・・水縹色から着想を得て今回曲を作った。一滴の水が落ち、集まり大量の水となる。それが川になり、海になる。そしてそれが蒸発し、また一滴の水となる。・・(中略)・・その中には様々な物語がある。その物語の中にある自然の音や水の流れを表すフレーズを沢山採り入れている。」とのことですが、音楽から着想を得た映像(「水をはじめとした自然の風景をモチーフに描かれる・・(中略)・・ドローイングと描画行為を記録」)が投影されました。過去のブログ記事でも触れたとおり、地球上の水は蒸発と降水を繰り返しながら河川水は約10日間、海洋水は約4000年間で全て入れ替わると言われています。昔から「流れる水は腐らない」と言われますが、これは心にも同じことが言え、禅語「放下著」という考え方に極まっています。会場のスクリーンには水辺の雑木林を散策し、気ままにドローイングする人の姿が映し出されましたが、篠笛の透き通るような音は水縹色を体現しているようであり、尺八のユリは淀みなく流れる水を体現しているようであり、それらは時に風の音(水の大気循環)のようにも聴こえ、時に息の音(水が育む生命)のようにも聴こえ、非常に感慨深い鑑賞になりました。
 
④橋本朗花 鶯音を入る
パンフレットの解説から抜粋引用すると「「鶯音を入る」とは晩夏の季語で、この曲では声が出なくなる寸前の掠れた鳴き声や心情を表現しています。・・(中略)・・老いは止められない、その事実を受け入れて自分の人生にもっと夢中になるべきだと己に叩き込むべく、このテーマを選びました。」とのことですが、橋本さんがMCで様々な禁則を犯して自分の殻を破ることを試みたという趣旨のことを語られていたとおり、橋本さんの花のような朗らかさの中に秘めるパトス(秘花)が炸裂するような作品でした。パンフレットに記載されていませんが、橋本さんがエレクトロニクスとピアノ、吉越さんがオカリナ(?)と筝を演奏しましたが、冒頭ではジャングルの中の野生動物の鳴き声を描写したような野性味溢れる演奏が展開され、エレクトロニクスとオカリナ(?)、ピアノと箏の組合せで交互にアンンブルが展開され、詞章が聴き取れなかったので謡曲又は誓願なのかよく分かりませんでしたが、吉越さんが世の儚さ又は祈りのようなものを謡いました。最後は箏の柱が吹き飛んでしまうほどピアノと箏が激しく激突する終曲となりましたが、これは橋本さんの決意表明の現れでしょうか、「音を入る」どころか「音を放つ」オテンバ振りに惚れ惚れしました。
 
⑤佐藤伸輝 Asian Music Guide
パンフレットの解説から抜粋引用すると「私は日本で生まれ、その後、中国に渡り、小学校と中学校で中国人として育てられた。・・(中略)・・日本に帰国した後、メディアでは中国のビル崩壊やエレベーターのショッキング映像が絶好のコンテンツとして消費されるのを見た。」ことに着想を得て作曲したとのことです。会場のスクリーンには中国のビル崩壊やエレベーターのショッキング映像などが映し出されましたが、日本人が抱いている中国に対するイメージ(認知バイアス)をデフォルメして笑いに変えてしまうセンスの良さが感じられ、映像と音楽が一体になって小気味よいテンポで捲し立てる捧腹絶倒にして確信犯的な作品に魅せられました。久しぶりに笑いました。スピーチ・メロディの手法でしょうか「ワハハハ」という笑い声と箏を違和感なく同期させていましたが、サブカル系現代音楽の旗手として山根さん、梅本さんに双璧する才能とセンスを持った逸材と思われ、今後の活躍に注目して行きたいと思っています。なお、ここまでデフォルメしてしまえばあまり嫌味には感じられないと思いますので、是非、第2回目ではAsian Music Guideの第2作目として日本をイジクリ倒したような作品にも期待したいと思っています。
 
⑥江田士恩 燃ゆる命の十景
パンフレットの解説から抜粋引用すると「手塚治虫の漫画「火の鳥」から着想をえました。・・(中略)・・笙は・・(中略)・・11種類の合竹と呼ばれる和音のみで演奏され・・(中略)・・それぞれ人生の特定のある場面を象徴するものとみなします。そしてこれらの場面を「火の鳥」のごとく振り子状に並べ替えることにより「誕生→死→幼年期→老い→青年期→家族愛→ロマンス→栄華→哀しみ→希望→現在」という場面のつながりを持った物語を作りました。」とのことですが、江田さんの英語表記であるE(ミ)・D(レ)・A(ラ)をモチーフとして作品の中で展開しているそうです。笙が和音を奏でると、その和音に対応した場面(ライフイベント)が羽衣(白の羽衣:生へ遡る過去、黒の羽衣:死へ向う未来)と扇子を使った日本舞踊で演じられ、ヴァイオリンの合図で場面展開していきました。宇宙の悠久の時を刻む笙の音と浮世の有限の時を彩る羽衣と扇子を使った日本舞踊が交錯する幻想的な舞台が広がり、これにヴァイオリンが叙情的な演奏で色(五蘊)を添える優美な舞台を楽しむことができました。最後に白い羽衣と黒い羽衣が重なり合って「現在」(有情世間)に生を感じ、死を想う無常感が漂う余韻深い終曲になりました。
 
 
▼ニコニコ東京交響楽団 名曲全集第197回
【演題】ニコニコ東京交響楽団
    名曲全集第197回
【演目】①ベルリオーズ 交響曲「イタリアのハロルド」
     <Va>青木篤子
    ②酒井健治 ヴィオラ協奏曲「ヒストリア」
     <Va>サオ・スレーズ・ラリヴィエール
    ③イベール 交響組曲「寄港地」
【演奏】<Cond>ジョナサン・ノット
    <Orch>東京交響楽団
【日時】2024年5月18日 14:00~ 
【会場】無料ライブ配信(ミューザ川崎シンフォニーホール)
【一言感想】
今を時めく現代作曲家・酒井健治さんのヴィオラ協奏曲「ヒストリア」が再演されるというので、無料ライブ配信「ニコニコ東京交響楽団」を視聴することにしました。この無料ライブ配信はコロナ禍を契機として2020年から東京交響楽団が開催している企画で、何と!定期演奏会を含む計10公演が無料ライブ配信されてしまうという他では類例を見ない太っ腹な企画ですが、もはや「試供品」のレベルを超えて「一物二価」と言い得る状況に驚きを禁じ得ません。この点、オンライン配信が生演奏と比べて遜色があるのか否かは個人の感じ方の問題であって、老婆心ながら、無料ライブ配信される演奏会の有料チケットの販売に影響は出ていないものなのか心配になります(知る限り無料ライブ配信では企業CMなども流れていません)。最近は演奏会から半年も経過しないうちにインターネットで演奏会の模様を収録した動画を無料で公開する風潮などもあるようですが、これは「撒き餌」(宣伝)としては有効な手段であるとしても、やはり有料チケットを購入する顧客が漸減(マーケット崩壊)しないのか、演奏会場も映画館のようになってしまわないのか懸念を覚えます。尤も、撒き餌を撒かなければ魚が集まらない、撒き餌を撒き過ぎれば魚は腹を満たしてしまう、いずれにしても魚が釣れない苦境を打開するための窮余の一策なのだろうとは思います。オンライン配信はデジタル田園都市国家構想を見据えた新しい芸術受容のあり方として必要的かつ有用なものだと思いますが、これも適正な対価を見込んで健全なマーケットとして育成して行かなければサスティナブルとは言えず、そのうち「令和枯れすすき」になってしまうような気もしています。....とは言え、何でも値上がる時代に素直に遊興費の節約に資する有難い企画だというのも本音です。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
---追記
 
演奏会場は空席が目立っていましたが(ミューザー川崎シンフォニーホールは約2000席)、無料ライブ配信の視聴者数は前半(①)が約3000人、後半が約5000人(②③)にのぼり興行性は別論にして盛会でした。ライブ配信の視聴者数が多いのは演奏家のモチベーションになるのかもしれませんが、アマオケ(趣味)ではないので健全なマーケットとして育成する観点からは無料ライブ配信「ニコニコ東京交響楽団」の一部公演を有料ライブ配信にしてみるなどの試行的な取組みも必要かもしれません。
 
①交響曲「イタリアのハロルド」
この曲はN.パガニーニがヴィオラの名器(ストラド)を手に入れたことからヴィオラ協奏曲の作曲をH.ベルリオーズに委嘱したことで誕生しましたが、N.パガニーニが独奏パートのヴィルトゥオージの不足など筆致が及んでいないことに落胆したので他のソリストにより初演されたという曰く付きの作品です。その後、H.ベルリオーズがヴィオラ独奏付き交響曲に改作し、これを鑑賞したN.パガニーニに賞賛されたという逸話が残されていますが、その信憑性には疑問が残されています。.....ということで、この曲は協奏曲から交響曲に改作された経緯もあり、個人的には、ヴィオラ独奏の位置付けが曖昧でオーケストラに埋没し兼ねない中途半端な印象を否めない作品に感じられますが、今日はソリストの青木さんがヴィオラ・トゥッティの前面(オーケストラは対向配置で、コンマスからソリストが見え難い指揮者の右側という珍しい配置)で演奏し、かつ、J.ノットさんがヴィオラ独奏とオーケストラのバランスに配慮した抑制を効かせた指揮に努められたことで、この難点を感じさない演奏を楽しむことができました。第一楽章はコントラバスと木管楽器が奏でるメランコリックな雰囲気を金管楽器が一掃すると、青木さんが大らかな歌い口でハロルドの主題を奏で始め、これにハープが光沢感のある響きで呼応して明るく牧歌的な雰囲気が支配的になり、ハロルドの複雑な心情の移り変わりが明瞭に表現されていました。パガニーニの言うとおりヴィルトゥオーソ的な華やかさはありませんが、独奏ヴィオラとオーケストラが軽快なリズム感で呼応するアレグロ主部などは独奏ヴィオラが映える聴き所になっていました。第二楽章はJ.ノットさんがオーケストラからデリケートな響きを紡ぎ出し、独奏ヴィオラとバランスする洗練されたアンサンブルを楽しめました。第三楽章は独奏ヴィオラの存在感が薄れてオーケストラの伴奏に回るなか、ピッコロ、オーボエやクラリネットなどがアルブッチ地方の民謡をモチーフとした舞曲風のリズムを華やかに乱舞する好演を楽しめました。第四楽章はベートーヴェンの交響曲第9番第4楽章(神、王や英雄の世界から市民の世界へ)をパロって、第一楽章から第三楽章を回想しては山賊たちの乱痴気騒ぎ(歓喜の歌)に飲み込まれますが、J.ノットさんの統率力のある指揮と東響の機動力が相俟ってメリハリのある快活な演奏を楽しめました。
 
②ヴィオラ協奏曲「ヒストリア」
ヴラヴィー!パンフレットの解説には「独奏楽器がタイムマシーンの様に音楽史を巡る旅」をしながら「多様な音楽語法が時代を超え交差」(語法面)し、「協奏曲がもつ独奏楽器と伴奏という古典的な図式に留まらない、そこから演繹される表現の可能性を追求」(様式面)した旨が記載されていました。このうち、語法面では「単純な和声から騒音的な表現へと漸化する様や微分音を含む自然倍音に基づいた平均律で構成されない和声」などが参照され、また、様式面では「独奏から楽想が染み出し次第にオーケストラに波及する様は、先述の独奏と伴奏という関係性から脱却」など協奏曲の表現可能性の拡張が試みられています。ベルリオーズの作品は独奏ヴィオラにスポットライトが当たらず華のない印象しかありませんが、これと比較すると、酒井さんの作品はヴィオラの独奏楽器としての魅力を存分に引き出し、その表現可能性を拓く革新性に満ちた魅力が感じられ、今後、ヴィオラ奏者にとって重要なレパートナリーの1つになり得る充実した作品に感じられました。また、ソリストのサオ・スレーズ・ラリヴィエールさんはテンションの高い閃きに満ちた快演で会場を圧倒していましたが、1音も疎かにしない細部まで配慮が行き届いた精巧さをも感じさせる相当な腕達者です。この点、既に様々な解釈や奏法などが試みられ、偉大な巨匠による模範的な名演奏が残されているクラシック音楽と異なって、現代音楽では演奏者が作品の魅力を引き出す分析力・洞察力やその魅力を観客に伝える技術力・表現力など演奏者の技量とセンスがその演奏の成否を大きく左右する要素が多いと思います。その意味でも、今回、サオ・スレーズ・ラリヴィエールさんをソリストに迎えられたことは、この作品にとって幸運な出会いであったと言えるのではないかと思います。日頃は内声を担当する地味な存在のヴィオラですが、この作品では垢ぬけたヴィオラの晴れ姿とでも形容したくなるような別の一面を惜しげもなく曝け出している印象で、ヴィオラ独奏が多彩な技巧や音色を駆使しながらオーケストラをリードし、ヴィオラ独奏とオーケストラが有機的に絡み合いながら緊密に呼応する緻密なアンサンブルを楽しめました。規格外の破壊力でアンサンブルを引き締めるパーカッション、独特な存在感を漂わせるコールアングレや梵音具「磬子」(因みに、梵音具「鐃鈸」はシンバルのルーツ、梵音具「木魚」はウッドブロックのルーツと言われていますが、梵音具は西洋音楽と親和的です)などが個性的に音楽を彩る着想の豊かさが随所に感じられて飽きさせず、その明瞭な音楽性が観客を強力に惹き込む吸引力を生んでいる作品に感じられました。このような面白い作品を創作する酒井さんから今後も耳が離せません。次の時代の定番になり得る作品だと思いますので、再演が待ち望まれます。アンコールはヒンデミットの無伴奏ヴィオラソナタ第四楽章でしたが、冴え映えとした技巧と熱く漲るパトスで容赦なく迫ってくるグルーブ感のある演奏に興奮させられました。ジャンルレスな懐の広さを感じさせるヴィオリストです。
 
③交響組曲「寄港地」
この曲はJ.イベールがローマ賞受賞に伴うローマ留学中に作曲した出世作で新婚旅行で訪れた地中海岸(ローマ~バレルモ~チュニス~ネフタ~バレンシア)の景色を描いたものです。J.ノットさんによる音楽的なイメージを適確に伝える明晰なアプローチと、海の情景を美しく描き出す弦楽器のアルペジオ、フルートとハープ、南国の喧騒を快活に描き出すトランペットとオーケストラ、異国情緒を薫らせるオーボエ、地中海の眩い陽光を思わせる光沢感のある管楽器などの好パフォーマンスとが相俟って、風情豊かで多彩な曲調を楽しむことができました。
 
 
▼コンポージアム2024「マーク=アンソニー・ターネジの音楽」
【演題】コンポージアム2024「マーク=アンソニー・ターネジを迎えて」
【演目】①ストラヴィンスキー 管楽器のシンフォニー(1920年版)
    ②シベリウス(ストラヴィンスキー編) カンツォネッタ
    ③ターネジ 
        ラスト・ソング・フォー・オリー(2018年/日本初演)
    ④ターネジ ビーコンズ(2023年/日本初演)
    ⑤ターネジ リメンバリング(2014年-2015年/日本初演)
【演奏】<Cond>ポール・ダニエル
    <Orch>東京都交響楽団
【日時】2024年5月22日 19:00~ 
【会場】東京オペラシティコンサートホール
【一言感想】
日本でもフランシス・ベーコンによる大オーケストラのための「3人の絶叫する教皇」などで知られ、今年の武満徹音楽賞の審査員を務める現代作曲家のマーク=アンソニー・ターネジさんに焦点を当てた演奏会が開催されるというので聴きに行く予定にしています。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
---追記
 
イギリス人現代作曲家のM.ターネジさんはジャズの要素をクラシック音楽(現代音楽を含む)に採り入れたシンフォニック・ジャズの系譜を受け継ぐ第一人者として知られています。二度の世界大戦で伝統的な社会秩序が崩壊した後、①伝統的な社会秩序に依拠しない新しい社会秩序を模索する潮流(新しい作曲技法を開発して無調音楽を基調とする表現可能性の拡張を模索するヨーロッパの前衛音楽、これに加えてヨーロッパ的なものにも依拠しないアメリカの実験音楽)と、②伝統的な社会秩序を参照しながら新しい社会秩序を模索する潮流(民族音楽の要素などを採り入れた調性音楽を基調とする表現可能性の拡張を模索した新古典主義など)が生まれましたが、M.ターネジさんは前者の潮流を回収しながら後者の潮流を受け継ぐ現代作曲家ではないかと個人的には理解しています。M.ターネジさんは10代後半からジャズに傾倒し、G.シュラーさん(1957年にジャズとクラシック音楽の中間に位置する新しい音楽を提唱)やO.ナッセンさん(G.シュラーに師事した兄弟子のような存在)の薫陶を受け、M.デイヴィスさんへのトリビュート、J.スコフィールドさんやP.アースキンさんとのコラボレーションなどを行いながらジャズのリズムをクラシック音楽に採り入れて自らの音楽語法として確立しました。S.ラトルさん(当時、バーミンガム市交響楽団音楽監督)が上述「3人の絶叫する教皇」を委嘱初演するなどM.ターネジさんの作品を度々採り上げ、また、EMIの巧みな販売戦略(当時、世界中で流行していたパンクファッションと結び付けたイメージ戦略)が奏功したことなどにより、世界的に広く知られるようになりました。日本では東京都交響楽団がM.ターネジさんに委嘱した新作「Hibiki」(2016年)及び新作「ライム・フライズ」(2022年にコロナ禍で公演中止になったのは知っていましたが、2023年に復活初演されていたようです。)が初演されていますが、新しい芸術文化の育成に熱心な東京都交響楽団や読売交響楽団の精力的な取り組みは、あらゆる時流に乗り遅れている凋落日本が世界から忘れられないためにも非常に有意義なものに感じられます。なお、2025年にはロイヤル・オペラで第51回カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞した映画「Festen」を題材として児童虐待や人種差別などの現代的なテーマを扱ったM.ターネジさんの新作オペラが世界初演される予定になっており、日本初演も待たれます。
 
①管楽器のシンフォニー(1920年版)
M.ターネジさんはI.ストラヴィンスキーから影響を受けているらしく、今日は「彼の作品の中でも「春の祭典」、「結婚」と並んで、きわめて独創的で革新的な曲」として、I.ストラヴィンスキーがC.ドビュッシーの追悼のために作曲した「管楽器のサンフォニー」が採り上げられました。13の木管楽器と11の金管楽器という特殊編成の曲なので演奏機会は多いとは言えず、僕は生演奏を聴くのは初めての機会になりました。I.ストラヴィンスキーはカンタータ「星の王」をC.ドビュッシーに献呈し、また、C.ドビュッシーは2台のピアノのための「白と黒で」第3曲をI.ストラヴィンスキーに献呈していますが、過去のブログ記事でもI.ストラヴィンスキーとC.ドビュッシーが葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」を背景にして映っている写真を紹介したとおり両者には親密な交流がありました。クラリネットが高音でヒステリックに奏でるモチーフとコラール風の音楽や民謡風の音楽が忙しなく入れ替わりながら各楽器が緊密に呼応して音楽が快活に展開していきましたが、やがて金管楽器が葬送風の厳かなコラールを奏でると深い悲しみを湛えて静かな終曲を迎えました。昔から都響は管楽器に定評がありますが、その信頼感の高い表情に富む好演を楽しめました。
 
②カンツォネッタ
この曲はI.ストラヴィンスキーがヴィフリ・シリベウス賞を受賞した返礼としてJ.シベリウスの弦楽合奏曲「カンツォネッタ」を管楽器用(+ハープとコントラバス)に編曲してヴィフリ国際賞財団に献呈したものです。M.ターネジさんは兄弟子のO.ナッセンさんからこの曲を紹介されたそうですが、僕はこのストラヴィンスキー編曲版は(音盤でも聴いたことない)完全な初聴でした。J.シベリウスの原曲は清澄な弦楽器が響きを重ねて生まれる哀愁漂う「風趣」が魅力ですが、この編曲は息の楽器である管楽器の特性を活かした歌心により哀愁が立ち込める「情趣」が薫り立つ曲であるように感じられ、管楽器に定評がある都響の卓抜した表現力が相俟って、原曲とは異なる魅力を引き出すことに成功しているように感じられました。I.ストラヴィンスキーは「音楽は音楽以外の何物も表現しない」(客観主義)という有名な言葉を残していますが、僕は音楽学者のJ.ストラウスさんが「ストラヴィンスキーの音楽は、実際には、劇的状況を大いに表現すると共に、感情的なものである」と述べているのと同じような印象を持っており、音楽は作曲家の思惑を超え、それを受容する者のプロジェクションによって自在に彩られるものであって、それが音楽を聴く面白さの重要な1側面であることを感じさせてくれる作品でした。
 
③ラスト・ソング・フォー・オリー(2018年/日本初演)
О.ナッセンさん(~2018年)の追悼音楽として作曲された「ラスト・ソング・フォー・オリー」が日本初演されました。この曲は①ダンスⅠ、②大きなフクロウ(O.ナッセンさんの愛称)のためのコラールⅠ、③ダンスⅡ、④ダンスⅠの再現、⑤大きなフクロウ(O.ナッセンさんの愛称)のためのコラールⅡ、⑥ソング・フォー・オリーの6部から構成されていますが、躍動するダンスパートと美しいコラールパートが交互に入れ替わる構成は上述の管楽器シンフォニーを彷彿とさせます。初聴の曲でしたが、全体的にはL.バーンスタインさんのシンフォニック・ジャズのニュアンスが随所に感じられ、スウィングする音楽はジャズを聴いているような感興すら生じさせるものでした。冒頭のダンスパートでは打楽器のリズムに乗せてデュナーミクを大きく振幅させながらオーケストラ全体がダイナミックにダンスしているような快活な音楽が展開され、やがて金管楽器の柔らかい和音や高弦の清澄な調べなどによる優美なコラールが奏でられましたが、故人との大切な思い出を回想し、追慕の情を表現しているように感じられました。その後、オーケストラがユニゾンで悲痛な旋律を歌い上げると、これに続いて木管楽器がメランコリックな不協和音を奏でて悲しみを深くしていましたが、最後はコントラバスのソロ(大きなフクロウのメタファー?)が儚げに奏でられて静かな終曲を迎え、故人のための祈りが捧げられる厳かな空気が会場を支配しました。
 
④ビーコンズ(2023年/日本初演)
M.ターネジさんは武満徹さんの悲報に接し、その追悼音楽として「Tune for Toru」という小品を作曲していますが、今日の演目を見ると、この曲以外は全て追悼音楽が選ばれています。この曲は、イギリスのコンサートホール「ビーコン」(意味:灯台)のリニューアル・オープンを祝福するために作曲されたもので、ドラムが中心になって軽快なリズムで力強く音楽を推進するグルーブ感のある演奏が展開され、ジャズの音楽語法に彩られたシンフォニック・ジャズを堪能できました。P.ダニエルさんの目配りの行き届いた統率力とビックバンドのような演奏も熟してしまう都響の懐の広さには脱帽です。
 
⑤リメンバリング(2014年-2015年/日本初演)
M.ターネジさんはJ.スコーフィールドさんとのコラボレーションを盛んに行われ、プライベートでも家族ぐるみの付き合いをされているそうですが、この曲はJ.スコーフィールドさんのご子息(~2013)が26歳の若さで夭折したことからその追悼音楽として作曲されたものだそうです。3管編成のオーケストラのうちのヴァイオリン・パートを除いた特殊編成で、実質上、ヴィオラ首席がコンサートマスターの役割を担っています。これはM.ターネジさんの支援者であるS.ラトルさんからブラームスのセレナード第2番と同じ編成で演奏できるようにヴァイオリン・パートを除いた特殊編成で作曲するように委嘱されたことによるものだそうです。第1楽章は金管楽器の激しい和音や打楽器の打撃音などが効果的に使用されたリズミカルな楽章でジャズの音楽語法に彩られたワイルドな印象の演奏が展開されたのに対して、第2楽章は管楽器がコラール風の音楽を奏でるなか、中低弦が粘性のある響きで慟哭のようなものを感じさせる彫りの深い演奏を楽しめました。なお、客席からはよく見えませんでしたが、梵音具「鍾(鈴)」(又はそのような音色の楽器)も効果的に使用されていました。再び、第3楽章はダンスミュージック風のリズミカルで緊迫感のある音楽が展開され、ヴィオラの陰影を帯びた響きと管楽器の光沢に彩られた響きを対置して音楽に明瞭なコントラストを生み出すなど色彩豊かなオーケストレーションを楽しめました。そして、第4楽章はヴィオラが憂いを帯びた音色で哀切に鳴き、ヴィオラ首席の鈴木学さんのソロとこれに歌い添うチェロが奏でるとめどなく溢れ出るようなエレジーが出色であり、最後は静謐な悲しみに包まれた厳かな終曲になりました。ここでも梵音具「鍾(鈴)」(又はそのような音色の楽器)が効果的に使われていましたが、洋の東西を問わず、沈香と同様に、梵音具の音色はそれを聞く者に独特な感慨を引き起こす効果があるのかもしれません。
 
 
▼2024年度武満徹作曲賞本選演奏会
【演題】2024年度武満徹作曲賞本選演奏会
【審査】マーク=アンソニー・ターネジ
【演目】①アレサンドロ・アダモ(イタリア) 括弧
    ②ホセ・ルイス・ヴァルディヴィア・アリアス(スペイン)
        AI-Zahra-オーケストラのための3つの小品
    ③ジョヴァンニ・リグオリ(イタリア) ヒュプノ-夢の回想
    ④ジンユー・チェン(香港) 星雲  
【演奏】<Cond>杉山洋一
    <Orch>東京フィルハーモニー交響楽団
【日時】2024年5月26日 15:00~ 
【会場】東京オペラシティーコンサートホール
【一言感想】
いまや世界からも注目されている現代作曲家の登竜門・武満徹作曲賞本選会を聴きに行く予定にしています。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
---追記
 
今日は武満徹作曲賞本選会を聴きに行ってきましたので、審査員のM.ターネジさんから発表された審査結果及び講評とそれぞれのノミネート作品に対する簡単な感想を残しておきたいと思います。いずれのノミネート作品も「現代」の時代というものを色濃く感じさせる音響であり着想であり、我々は「現代」のサウンドスケープやマルチメディアの中で感受性を磨き、創造的知性を育んでいることが分かる鮮度の高い「新しさ」が音楽に息衝いていることが感じられ、大変に興味深く面白い芸術体験になりました。20世紀の音楽的な成果を踏まえつつも、21世紀は結果的に干乾びてしまった音楽を力強く蘇生させて行く時代であることが感じられ、実に嬉しくも頼もしく感じられました。若手作曲家はプロオケに演奏して貰う機会が非常に少なく、そのことが貴重な経験になったという言葉が印象的でしたが、日本人に多い定評がある定番曲しか聴かない保守的な客層が若手作曲家の作品に興味を持ち得る柔軟な感性(視野の広さ)や幅広い教養(心の豊かさ)を育むことができなければ現状の改善は難しいのかもしれません。その意味で武満徹さんは次世代に彼の音楽作品だけではなく貴重な財産(機会)を残してくれたと思います。いずれにしても受賞者の皆さんには心からの賛辞を送ると共に、これを契機に日本を含めて世界で作品が演奏される機会が更に増えると思いますので、今後の活躍にも注目して行きたいと思っています。なお、このグローバル時代にあって日本人だから日本人の芸術家やその作品を贔屓にするという音楽的な価値とは無関係な狭い了見を快しとするものではありませんので、広い視野や懐を持って「作品本位」でアプローチして行きたいと考えていますし、それができる時代に生まれたことを嬉しく思っています。そんな気持ちにさせてくれる4人の受賞者の作品でした。
 
▼2024年度武満徹作曲賞の審査結果講評
【第1位】ジンユー・チェン(香港) 星雲
【第2位】ホセ・ルイス・ヴァルディヴィア・アリアス(スペイン)
        AI-Zahra-オーケストラのための3つの小品
【第2位】ジョヴァンニ・リグオリ(イタリア) ヒュプノ-夢の回想
【第3位】アレサンドロ・アダモ(イタリア) 括弧
 
〇審査基準
武満徹作曲賞は「世界各国の次代を担う若い世代に新しい音楽作品の創造を呼びかける」ことを目的として、毎年、一人の作曲家が審査員を務めるユニークな音楽賞です。今年の審査員を務めるM.ターネジさんは応募102作品を一人で譜面審査したそうですが、複雑になり過ぎた分かり難い作品ではなく、「思考の明瞭さ」「多彩さ」「透明性」を重視して審査したそうです。個人的な理解では、昨年の芥川也寸志サントリー作曲賞でも重視されていた点ではないかと思いますが、20世紀的な音楽に対する反省から人間による受容(認知特性)に耐え得ない複雑になり過ぎた分かり難い作品は音楽賞に相応しくないという趣旨(即ち、芸術的な価値がないという意味ではなく社会的な顕彰に馴染まないという趣旨)であると理解しており、その意味で21世紀に入って音楽賞に新しい意義が加えられたと言えるかもしれません。なお、過去のブログ記事で触れたとおり、人間は他人と異なるプロジェクションを生成し、それを自らのナラティブに仕立てる生き物なので、同じ芸術作品を鑑賞しても、その芸術作品に映し出される意味付け(プロジェクション)やそれに基づく感想なども当然に異なり得ると述べましたが、それこそが音楽を鑑賞する醍醐味だと思いますので、M.ターネジさんの講評とは別に僕の感想も簡単に残しておきたいと思います。
 
括弧
イタリア人現代作曲家のアレサンドロ・アダモさん(1995年~)は、第9回国際オンライン・ジャン・シベリウス・フェスト作曲コンクールの学生部門第1位、マエストロロズ・ヴィジョンアワーズ国際作曲コンクールヤングアーティスト部門第4位、カルロ・サンヴィターレ国際作曲コンクール第3位に続き、今回の2024年度武満徹作曲賞第3位と世界的に頭角を表している俊英です。パンフレットには「タイトルは、本作品が探る形式上の分節の形態を表したものであり、そこでは断片化が基礎となって」おり、「しばしば予想できない仕方で構造上の連絡が中断され」、「その不連続性が目指すのは、諸々の変形をより際立たせる」ことにあると記載しています。個人的には、ダルマさんが転んだやEV車の回生ブレーキが生み出す電力エネルギーなどをイメージしながら聴いていました。大小の様々なリズムパターン(ジャズの音楽語法を含む)が分節しながら変化して行きましたが、その分節(音楽を止める=エネルギーの凝縮)はリズムパターン(音楽を進める=エネルギーの発散)の変化を明瞭化するだけではなく、その分節の繰り返しが生む間(無音)が音楽に大きな吸引力(エネルギー)を生み出しているように感じられました。当初は、微視的な視点から音楽的な文脈が途切れているような感覚しかありませんでしたが、やがて様々なリズムパターンがオーケストラを埋め尽くすようになると巨視的な視点から音楽的な文脈を捉えるようになり新しい音楽的な地平が広がって行くような感覚を覚える構成感のあるヴィジュアルな音楽を楽しめました。
 
②AI-Zahra-オーケストラのための3つの小品
スペイン人現代作曲家のホセ・ルイス・ヴァルディヴィア・アリアスさん(1994年~)は、第33回SGAE-CNDMヤング・コンポーザー・スペイン賞第1位、第3回ニューミュージック・ジェネレーション国際作曲家コンクール第2位に続き、今回の2024年度武満徹作曲賞第2位の受賞になりましたが、他の受賞者の年齢を見てもZ世代の台頭が顕著になっており、このようなところにも「昭和枯れすすき」を感じてしまいます。パンフレットには「作品の主要な素材は、ポップス、サウンドトラック、ビデオゲームといった音楽産業に由来しいている。こうして私のなかで、ごた混ぜの、滑稽で、雑然とした書斎ができ上がり、それを私は作品の中に落とし込んだ。」と記載されていますが、音楽まで芸術的なものと商業的なものに区分しがたる20世紀(昭和)の規範性(認知バイアス)を重視とした硬直化した態度(クラシック音楽界の権威主義的な傾向)とは無縁のZ世代の瑞々しい時代感覚や柔軟な感性に彩られた豊かな才気を感じさせます。エッジの効いた鋭角のリズムが緩急を繰り返しながらオーケストラ全体に広がりましたが、音楽的な文脈を体現する明確な旋律線(点の音や線の音)で規律された音楽ではなく、音楽的な文脈を持たないリズム群(雲の音という形容で適当?)が充満して色彩鮮やかな音響世界へと昇華し、混沌としながら調和している現代の時代性、多様な世界観を体現しているような音楽に感じられ、まるでオーケストラが1つの楽器であるかのように振る舞う見事なオーケストレーションを堪能できました。
 
③ヒュプノ-夢の回想
イタリア人現代作曲家のジョヴァンニ・リグオリさん(1989年~)は、既に数枚の自作録音をリリースし、ヴィボ・ヴァレンティア音楽院で教鞭にとられているなど欧米を中心に活動されている現代作曲家です。今回、2024年度武満徹作曲賞第2位を受賞しましたが、個人的な感想ではジンユー・チェンさんの星雲と共に第1位を受賞しても不思議でない作品に感じられました。パンフレットには「夢を見るという体験の断片的な記憶を巡る旅、その体験から生じ得る、複雑にして多面的な心の動きを顕在化」し、「線的なナラティブや合理的な説明に回収されることを拒むという、夢そのものの謎めいた性質」を音楽的に表現したと記載されていましたが、人間は一晩にレム睡眠とノンレム睡眠を繰り返しながら脳内で記憶の整理や消去等を行い、その過程で様々な記憶と思考及びイメージ等とがアドランダムに組み合わされること(発火)で夢を見ると言われており、このうちノンレム睡眠中に見た夢は目覚めると記憶に残らず、レム睡眠中に見た夢は目覚めても記憶に残る可能性があることが分かっていますが、未だその詳しい原理などは解明されていません。冒頭はたゆたうような微弱音が波紋し、やがて色彩豊かな響きによる幻想的な音楽が展開されましたが、弦が奏でるハーモニーに管打が彩りを添えながら徐々に響き(夢の幻影)を増して行くオーケストレーションの見事さが際立つ作品でした。筆致が洗練されており無駄(不自然、不足や過剰)が感じられない明瞭な音楽に感じられ、音に物語性(但し、それはロゴスに回収されない描けないもの)を感じさせる面白い作品でした。
 
星雲
中国人現代作曲家のジンユー・チェンさん(1994年~)は、第3回ニューミュージック・ジェネレーション国際作曲家コンクール第2位、ホマートン作曲コンクール入賞、イギリス国際音楽コンクール作曲部門第1位に続き、今回の2024年度武満徹作曲賞第1位と若いアジア人からも世界的に頭角を現す逸材が輩出されており頼もしい限りです。パンフレットには「さまざまな音の調和を通して、これらの星雲の壮大さと神秘性を喚起しようと試み」、「これらの星々が育まれる場所の動的でつねに変化する性質を示し、宇宙の塵から光り輝く星々へ至る激動の度を表現する」と記載されていますが、管楽器の色彩豊かな響き(星々のメタファー?)、高弦の清澄な響き(光のメタファー?)、低弦や打楽器の重厚な響き(闇のメタファー?)が織り成す光と闇の世界が顕在し、その雄大な音楽に包み込まれて行くような感覚を覚えました。他の受賞者と同様にオーケストレーションが素晴らしく、眩い響きが多元的に連鎖しながら空間的に拡がって行く様子には心を奪われる美しさがあり、最後は宇宙の悠久の広がりを感じさせる銅鑼の音がタケミツホールの贅沢な残響に澄み渡る神秘的な芸術体験になりました。チェンさんは授賞式の挨拶で、武満徹さんの「作曲とは、世界に入りこみ、聞こえてくる音の自然な流れに正しい意味を与えてくれるものである」という言葉を引用し、「東洋の伝統的な文化と西洋のオーケストラの響きを融合」することに心を砕かれたと語られていましたが、未だ手が届かない宇宙が体現する世界観(西も東もない海)を堪能できる美しくスケールの大きな作品でした。
 
 
▼伝統芸能プロジェクトチーム「TRAD JAPAN」
伝承芸能プロジェクトチーム「TRAD JAPAN」は日本の伝統音楽の継承と創造をコンセプトとして活動している邦楽ユニットで、リーダーの矢吹和之さんは津軽三味線コンクール全国大会で優勝、津軽三味線日本一決定戦日本一の部(曲弾きの部及び唄づけの部)で優勝など日本を代表する津軽三味線奏者です。津軽三味線は、鈴鹿馬子唄中山道を介して信濃に伝わって信濃追分節に発達し、それが北国街道を介して越後に伝わって越後瞽女北前船羽州浜街道羽州街道を介して陸奥蝦夷へ広めたと言われていますが、津軽の仁太坊はなれ瞽女から三味線を学び、津軽の風土に合わせて太棹や叩き奏法などの改良を加えて誕生したと言われています。これまで西洋音楽の語法を使って演奏する邦楽ユニットは数多く存在しましたが、伝統邦楽の語法に根差した革新的な作品やユニークな活動も期待したいです。なお、TRAD JAPANのメンバーで過去のブログ記事でもご紹介した生田流筝曲演奏家の安嶋三保子さんは、これまで三大筝曲コンクールと言われる賢順記念全国箏曲コンクールで賢順賞(第1位)、長谷検校記念くまもと全国邦楽コンクールで優秀賞を受賞されていますが、2024年3月に開催された利根英法記念あいおい全国邦楽コンクールで金賞(現代曲)を受賞されたそうです。押しも押されもせぬ日本を代表する筝曲演奏家なので、今後の活動に注目して行きたいと思っています。
 
▼波の伊八 没後200年記念イヴェント
過去のブログ記事でも紹介しましたが、波の伊八(本名:武志伊八郎信由)は1752年に千葉県鴨川市打墨で生まれた彫刻師で「関東に行ったら波を彫るな」と言われたほどの名人であり、葛飾北斎は波の伊八作の欄間「波と宝珠」からインスピレーションを受けて浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖裏波」を創作し、また、C.ドビュッシーは葛飾北斎作の浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖裏波」からインスピレーションを受けて交響詩「海」を作曲したと言われており、波の伊八がいなければ葛飾北斎作の浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖裏波」やC.ドビュッシーの交響詩「海」などの傑作も生まれていなかった可能性があります。2024年5月18日及び19日に波の伊八 没後200年記念イヴェントが開催され、講談師・神田あおい師匠が創作した講談「初代波の伊八物語」が一席打たれます。
 
----追記
 
今日は波の伊八没後200年記念イヴェントに参加しました。今年の干支は偶然にも龍(辰)ですが、この地域に古くから伝わる川代神楽の獅子舞(獅子=龍)、講談師・神田あおい師匠の創作講談「初代波の伊八物語」(妙法寺「五体の龍」)、演歌歌手・美月優さんの「波の伊八」(歌詞に「竜の魂」)と波の伊八に因んで龍尽しの演目になっていました。「講談を聞くとタメになる、落語を聞くとダメになる。」という名言がありますが、冒頭、神田師匠の弟子入りしている講談師・一龍斎貞奈さんから講談(偉人の実話)と落語(市井の創話)の違いや講談の楽しみ方(歌舞伎と同様に客席から間合い良く「まってました」「たっぷり」などの掛け声を掛けて興に乗じるなど)が紹介されました。当初、会場は人の出入りが激しく非常に騒々しかったのですが、神田師匠の講談が進むにつれて、その世界観に会場の空気が呑まれて行く様子が分かり、観客のイマジネーションを巧みに誘いながら観客の心をハッキングしていく話芸に魅了されました。神田師匠の創作講談「初代波の伊八物語」は、①大五郎(後の波の伊八)が彫物師・島村丈右衛門貞亮へ弟子入りし、やがて妙法寺祖師堂の向拝「五体の龍」(東京都杉並区)で枠木からはみ出すような迫力の龍(さながら3Dサイネージ)など型破りな作風で才能を発揮して兄弟子達の嫉妬を買ったこと、②波の伊八は浦賀の仕事で勝川春朗(後の葛飾北斎)と出会って「時と天気と天地が入り混じった美しい一瞬」を捉えるような作品を創作したいと志を立てたこと、③波の伊八は大工頭・中井大和守正知から幕府彫物師への登用を打診されるが、その職人気質から「褒められたくて仕事をするようになる」という理由で断ったこと、④波の伊八は衆生を救うような作品を創作したいと宮彫りに打ち込んで行元寺の欄間彫刻「波と宝珠」(千葉県いすみ市)を完成し、これにインスピレーションを受けた葛飾北斎が浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」を創作したことを内容とするプロットでした。因みに、この浮世絵にインスピレーションを受けたC.ドビュッシーが交響詩「海」を作曲し、その初版譜には浮世絵の波が使われていますが、伊八の波は海を渡ってフランス音楽にも影響を与えています。なお、キリンビールの麒麟のエンブレムは波の伊八作の長福寺の本堂欄間「雲と麒麟」(千葉県いすみ市)がモデルとして使用されています。

創作浄瑠璃「毒婦お傳摩羅地獄譚」と TokyoCantat 2024と村治佳織ギターリサイタル(ほのカルテット)と志ん輔蝉の会(淡座)と地図を編む<STOP WAR IN UKRAINE>

▼地図を編む(ブログの枕単編)
GWなので軽く与太話で済ませたいと思います。GWで地図を見る機会が増えていると思いますが、先日、外国人の知人から日本地図には「関東」とは表記されているのに「関西」とは表記されていないのはどうしてなのかという質問を受けて説明に苦慮しました。日本の行政区画は8地方区分が採用され、これには「関東」は表記されていますが「関西」とは表記されておらず、また、気象予報区分でも「関東」は表記されていますが「関西」とは表記されていません。現在、一般的に流布されている整理では、「関西」(2府4県=京都府、大阪府、奈良県、和歌山県、滋賀県、兵庫県)、「近畿」(2府5県:三重県を追加)、「近畿圏」(2府6県:福井県を追加)となり、8地方区分でも同様の整理が採用されていますが、気象予報区分では上記の整理に従えば「関西」と表記されるはずの2府4県を「近畿」と表記しており混迷を極めています。最近では「近畿」という言葉が英語のKinky=変態と同じ響きを持っていることから、これを嫌って「関西」という表記に統一しようとする動きまで見られます。日本では大化の改新(奈良時代)で古代中国の律令制度が採り入れられましたが、古代中国では都のことを「畿」と表記したことから、日本の都とその周囲にある大和国、山城国、河内国、和泉国、摂津国の5ケ国のことを「畿内」と呼び、その近隣にある地域を「近畿」と呼ぶようになり、「畿内」を中心にした同心円状の距離に応じて日本列島を「近国」「中国」「遠国」に区分しました。その後、「畿内」から全国に伸びる七街道(東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)が整備されて日本列島を縦断する行政区画「五畿七道」に区分しました。このように「近畿」という言葉は畿内(西)を中心として日本を捉える象徴的な言葉です。しかし、鎌倉幕府が開かれると、東国から畿内への侵入を防ぐために設置されていた三関(東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛開関)を境とし、その東側を鎌倉幕府が政権を司る「関東」、その西側を朝廷が政権を司る「関西」と呼んで区別するようになりましたが、徐々に関西の政権も朝廷から幕府へ移行し(朝廷が任命した国司・郡司が弱体化し、幕府が任命した守護・地頭が台頭)、江戸時代になると江戸幕府が将軍家のお膝元にある「関八州」(武蔵国、相模国、上野国、下野国、上総国、下総国、安房国、常陸国の関東8ケ国)の警護を強化するために、箱根関(神奈川県と静岡県の境)、小仏関(神奈川県及び東京都と山梨県の境)、碓氷関(群馬県と長野県の境)の東側を「関東」(1都6県=東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、群馬県、栃木県、茨城県)と呼ぶように改まって、これが現在まで続いています。その意味で「関西」という言葉は朝廷が卑しき東夷(東国武士)に政権(土地の支配権=主権、土地の分配権=政権)を奪われた屈辱の歴史から生まれたものであり、関西人にとって古き良き時代を象徴する「近畿」という言葉が好んで使われてきたということかもしれません。なお、天智天皇は大化の改新(奈良時代)を成功した中臣鎌足に対して藤原姓と冠位を下賜しました。この姓は中臣鎌足の出身地である大和国高市郡藤原(現、奈良県橿原市)の地名から採られていますが、当時、この一帯の平原が「井ケ」(藤井とは藤の木の下に井戸があった場所)と呼ばれていたことに由来しています。このように「地名」は地形や地勢などの土地の特徴を表しているものが多いですが、「名字」(=「田」(土地)の「」(名前))は先祖が住んでいた土地の「地名」に由来するものが多く、例えば、佐藤(佐野に住む藤原氏)、伊藤(伊勢に住む藤原氏)、加藤(加賀に住む藤原氏)、近藤(近江に住む藤原氏)、遠藤(遠江に住む藤原氏)、武藤(武蔵に住む藤原氏)、須藤(那須に住む藤原氏)などはその典型例と言えます。また、企業名も創業者の出身地(吉野家、崎陽軒、大和ハウスなど)や創業の地(エバラ食品、亀田製菓、タカラトミー、オムロンなど)の地名に由来するものが少なくありません。昔は家長主義に基づく土地の単独相続を背景として「家」(家長による土地の支配を示すための名字)が重要な意義を持っていましたが、現代は平等主義に基づく金銭の分割相続を背景として「家」を支えてきた社会的な基盤が崩壊し、その意義は失われています。その一方で、「地名」は地形や地勢などの土地の特徴を表しているものが多いことから、最近では、防災・減災の観点から地名と自然災害の相関関係が研究されるようになっていますが(以下の囲み記事を参照)、例えば、土砂崩れを意味する「蛇落」や「埋め河」などの自然災害との相関関係がある地名は縁起が悪いとして「上楽」や「梅河」などの自然災害を連想させない縁起の良い地名に改められている例も多く、また、最近ではキラキラネームよろしくカタカナ地名も増加して地名が地形や地勢などの土地の特徴を表すものではなくなっているなど、地名と自然災害の相関関係が曖昧になって土地(地名)に刻まれてきた歴史の記憶(情報資産)が失われつつあるという問題が指摘されています。GWに田舎に帰られる方も多いと思いますが、未だ地方には土地(地名)に刻まれてきた歴史の記憶(情報資産)がそのまま残されているところが多いので、防災・減災の観点に限らず、自分の田舎の地図を編んでみると色々な発見があるかもしれません。
 
▼自然災害との相関関係の可能性が指摘されている地名例
災害 地名
水害 クボ(久保、窪)、カモ(加茂、鴨)、ウラ(浦)、ナミ(波、浪)、、ウキ(浮、宇喜)、イケ(池)、ハタ(端)、フクロ(袋)、エ(江)、イナ(猪名、伊奈、稲)、カマ(鎌、釜)、ミノ(美濃、箕面)、ワダ(和田)、アイ(合、相、会、英) など
土砂災害 キリ(切)、マヤ(摩耶、眉、迷)、アユ(鮎)、アリ(有)、イモ(芋)、クワ(桑)、サル(猿)、ハナ(花)、オガ(小川、鹿)、アラ(嵐、荒)、シギ(鴫)、トリ(鳥)、ワシ(鷲)、オリ(折)、ムギ(麦、牟岐)、ナギ(薙、那岐) など
水害
土砂災害
ナダ(灘、名田)、マイ(舞、米)、クラ(蔵、倉、桜)、タキ(滝、多気、多喜)、ヤギ(八木)、アオ(青)、アカ(赤)、ツル(鶴、都留、水流)、ヤシキ(屋敷)、クマ(熊、球磨、久万)、ジャ(蛇)、アシ(足、芦)、ヤ(矢、八)、イタ(板、伊丹、井田、潮来) など
 
▼創作浄瑠璃「毒婦お傳摩羅地獄譚」
【演題】創作浄瑠璃「毒婦お傳摩羅地獄譚」(R15指定)
【作話】sola(荒井宗羅)
【作曲/演奏】歌舞伎義太夫三味線奏者 野澤松也
【紙切】林家二楽「浅とお傳」
【協賛】長谷川建築デザインオフィス
【場所】SHINKA HALL
【日時】2024年4月26日(金)18:30~
【一言感想】
今日は明治の毒婦・高橋お傳を題材にした創作浄瑠璃が演じられるというので聴きに行くことにしました。今日の会場であるSHINKA HALLは鍛冶橋通り沿いにある高橋の袂にあり、何やら因縁めいたものを感じさせます。この事件は仮名垣魯文の小説「高橋阿伝夜刃譚」河竹黙阿弥歌舞伎「綴合於伝仮名書」映画「お傳地獄」などの数々の作品に翻案されていますが、いずれも虚実皮膜の間で彩られる戯曲なので、この事件の顛末(真相)を簡単に触れておきます。高橋お傳は夫の高橋浪之助と死別(病死)した後に愛人の小川市太郎と同棲しますが、その放蕩な暮し振りから金に困り、実姉の夫(又は雇い主)の後藤吉蔵から金を借りるために一夜を共にする羽目になりますが、後藤吉蔵は高橋お傳との約束を違えて金を貸そうとしないので、その宿で後藤吉蔵を殺害して金を奪ったことから、金のために男を殺した毒婦として世間を騒がせることになりました。その後、高橋お傳は市ヶ谷刑場で斬首刑に処せられましたが、その刑の執行にあたり愛人の小川市太郎の名前を叫んで騒いだので執行人の手元が狂って一太刀目、二太刀目は首を斬り損ね、漸く三太刀目で首を斬り落としたと言われています。昔から日本の刑事司法やマスコミは都合よく事実を捏造又は隠蔽して憚らない体質があったと言われており、この事件でも捏造や隠蔽により真相は闇に葬られてしまいました。なお、高橋お傳の遺体は解剖され、その性器は淫婦の局部標本としてホルマリン漬けされたそうですが、あまりにも悪趣味な明治の痴性には閉口せざるを得ません。高橋お傳の墓(埋め墓)鼠小僧次郎吉の墓などがある小塚原回向院に埋葬されましたが、その後、仮名垣魯文の呼掛けで歌舞伎役者や落語家などの寄付により谷中霊園に高橋お傳の墓(参り墓)が建立され、この墓に参ると三味線の腕前が上達すると言われています。さて、第一場の小川市太郎を恋い慕う高橋お傳が斬首される場面では小塚原刑場(史実では市ヶ谷刑場ですが、本作では脚色)の暮れ染める枯れ木の映像が投影され、その茜に染められた空は高橋お傳の情念の炎に焼かれているようにも見えましたが、野澤さんが高橋お傳の未練に揺れる女心から小川市太郎の憐憫の情までを情緒纏綿とした心情描写で弾き語りました。撥(バチ)を強く打ちつけて刀を振り下ろす殺気を表現し、また、ポツンポツンと爪弾いて血が滴り落ちる様子を表現するなど臨場感のある描写は聴き応えがあり、琵琶語りから派生した浄瑠璃三味線の表現力の幅広さを感じさせました。第二場の小川市太郎が高橋お傳を弔う場面では小塚原刑場に咲き乱れている桜月夜の映像が投影され、小川市太郎が高橋お傳の胴体が葬られている小塚原の墓にその首を弔うと、高橋お傳の霊が顕在して小川市太郎に顛末(真相)を告げて、初めて出会った頃の姿を思い出して欲しいと言い残して消え失せました。野澤さんの弾き語りを聴きながら、与謝野晶子の歌集「みだれ髪」に収められている短歌「清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢ふ人 みなうつくしき」を思い出していましたが、娼婦性と家婦性のあわひで儚い恋花を散らせた高橋お傳の悲恋が心に沁みる1曲でした。このプロットであれば新作能の題材としても使えるかもしれません。前回のブログ記事でも触れましたが、桜は日本人の詩情を映すプロジェクションとして、千年の時を超えて日本人の心を豊かに彩っています。
 
 
▼Tokyo Cantat 2024
【演題】セミナー「エストニアの合唱音楽~ヴェリヨ・トルミスの世界~」
【講師】トヌ・カリユステ
【場所】江東区森下文化センター 第1レクホール
【日時】2024年4月29日(月・祝)14:00~
【一言感想】
現在、音楽樹が主宰する「Tokyo Cantat 2024」が開催されています。このイべントは1996年から「日本における合唱音楽の浸透と、文化としての合唱活動の振興」を目的として「世界各国の合唱音楽の紹介と日本の合唱文化の再確認」というテーマを掲げ、毎年、世界的に著名な指揮者や作曲家を招聘してセミナーやコンサートなどを開催していますが、今年はスウェーデン人指揮者兼メゾソプラノ歌手のソフィ・ジャナンさん(1976年~)、エストニア人指揮者のトヌ・カリユステさん(1953年~)及びオーストリア人指揮者のエルヴィン・オルトナーさん(1947年~)を招聘して開催されています。また、1999年から現代作曲家の故・西村朗さん、新実徳英さんの協力のもと「合唱音楽の新たな地平」をコンセプトに掲げ、様々な現代作曲家と合唱作品を生み出してきましたが、その中からセレクトした合唱作品の再演と共に、前回のブログ記事でも触れた現代作曲家の神山奈々さん(1986年~)の新作が初演されるというので、非常に楽しみです。さて、今日はトヌ・カルユステさんがエストニアの合唱音楽を俯瞰したうえで世界的に著名なエストニア人現代作曲家のヴェリヨ・トルミスさん(~2017年)に関するセミナーを開催されるというので聴講することにし、その概要をごく簡単に残しておきたいと思います。エストニアと言えば、1988年に開催された合唱祭で約30万人(国民の1/3)のエストニア人がソヴィエト連邦の治世下で禁じられていたエストニア語(母国語)による合唱を歌ったことが契機となり1991年にソヴィエト連邦からの独立を勝ち取った「歌による革命」が記憶に新しいところです。トヌ・カルユステさんによれば、エストニアの民謡は農作業の仕事歌として発達してきましたが、ドイツから教会音楽(コラール)が伝わると人々が集って合唱する習慣が芽生えて、長年に亘ってエストニア人のアイデンティティを育む文化として醸成されてきたそうです。ドイツから伝わった教会音楽(コラール)の旋律にエストニア語(ウラル語系の言語でフィンランド語に近い)の歌詞を当て嵌めて歌うことでエストニア語が持っているリズム特性が音楽に反映されて独自の音楽文化として発展したそうです。やがてドイツから伝わった教会音楽(コラール)の旋律に代えてエストニアの民謡を採り入れた音楽が作曲されるようになり、その後、エストニアの民謡だけではなくハンガリーなど他国の民謡も採り入れた音楽が作曲されるようになったそうです。クロージング・コンサート(5月6日)で採り上げられるキリウス・クレークさん(~1962年)は世界中の民謡を約7000種類も採取し、また、トゥドゥル・ヴェティクさん(~1982年)はドイツの教会音楽(コラール)の旋律を真似るだけではなくエストニアの民謡を合唱音楽に採り入れた作曲家として知られているそうです。さらに、ヴェリヨ・トルミスさんはエストニアの民謡をそのまま使いながら伴奏の要素を付け加えた作曲家として知られているそうです。トヌ・カルユステさんはシベリアの民族楽器「シャーマンドラム」(本来は生まれる前のシカの皮を張るそうですが、現在は別のもので代替されているそうです。)を持参されていましたが、これはクロージング・コンサート(5月6日)で採り上げられるヴェリヨ・トルミスさんの代表作「鉄への呪い」(1985年)で使用する楽器で、その土俗的な響きとオスティナート音型がシャーマニックな雰囲気(この世ならざる者との交信を試みる儀式性)を醸し出しています。この曲はフィンランドの国民的叙事詩「カレヴァラ」のテキストをベースとして鉄への呪い(鉄を戦争や殺戮のための武器として乱用すること)に対する警告(反戦)を込めた作品になっており、現代的なメッセージ性を持った作品と言えます。日本のシャーマニズムと同様に自然や祖先への信仰が息衝いている音楽に感じられ、どこかアイヌ・ユーカラなどにも似た曲調のようにも感じられます。なお、トヌ・カルユステさんは合唱指揮の極意として指揮棒の動きを見せるのではなく呼吸を見せることを心掛けており、とりわけ吸う息の中に感情が宿ると語らえていたのが印象的でした。
 
▼トヌ・カリユステさんのニューアルバム「Tractus」
トヌ・カリユステさんが手兵のタリン室内弦楽楽団とエストニア・フィルハーモニー室内合唱団を従えて、現在、世界で最も人気がある存命作曲家のアルヴォ・ペルトさん(1935年~)の作品を取り上げたニューアルバム「Tractus」を昨年11月にリリースして話題になっています。
 
【演題】合唱音楽の生誕の季(とき)~「水のいのち」から「新作」へ
【演目】①髙田三郎 混声合唱組曲「水のいのち」(1964年)より
                  「雨」「水たまり」「海」「海よ」
     <Cond>松村努
     <Chor>Combinir di Coristaコンビーニ・ディ・コリスタ
     <Pf>織田祥代
    ②新実徳英 混声合唱組曲「幼年連祷」(1980年)より
                       「花」「憧れ」「喪失」
     <Cond>名島啓太
     <Chor>混声合唱団鈴優会
     <Pf>御邊里佳子
    ③柴田南雄 追分節考(1973年)
     <Cond>栗山文昭
     <Chor>栗友会合唱団
     <尺八>関一郎
    ④糀場富美子 生命の種まき(2010年)
     <Cond>野本立人
     <Chor>女声アンサンブル桜組2024
     <Pf>吉田慶子
    ⑤山内雅弘 蛙の交響(2014年)より第二楽章、第三楽章
     <Cond>清水敬一
     <Chor>早稲田大学コール・フリューゲル/松原混声合唱団(男声)
     <Pf>小田裕之
    ⑥信長貴富 女性合唱のためのモニュメント(2003年)
     <Cond>山脇卓也
     <Chor>女声合唱団ぴゅあはーと/早稲田大学女声合唱団
    ⑦久留智之 ハミングバード(1999年)より
                   「Ⅰ. ハミングバード」「Ⅱ.夜の歌」 
     <Cond>上西一郎
     <Chor>Chor Alyssumコール・アリッサム
    ⑧寺嶋陸也 合唱劇「かなしみはちからに、」(2015年)より
             「あまのがは」「永訣の朝」「かなしみはちからに」
     <Cond>横山琢哉
     <Chor>Coro Oraciónコーロ・オラシオン
     <Pf>寺嶋陸也
    ⑨西村朗 無伴奏混声合唱のための<敦盛>(2009年)
     <Cond>藤井宏樹
     <Chor>合唱団樹の会
    ⑩神山奈々 混声合唱とピアノのための
                   「春、はなるるひとよ」(世界初演)
     <Cond>神山奈々
     <Chor>八ヶ岳ミュージックセミナー合唱団
     <Pf>片山柊、トヌ・カリユステ
【場所】すみだトリフォニーホール 大ホール
【日時】2024年5月3日(金・祝)17:00~
【一言感想】
冒頭、現代作曲家の新実徳英さんから挨拶があり、音楽樹の活動は現代作曲家の故・西村朗さんが東京から離れて新しい合唱音楽を作りたいという掛け声から西村さん、新実さん、合唱指揮者の栗山文昭さん(島根県出身)が中心になり、最初の5回は隠岐の島で開催されたそうです。毎年、合唱音楽の新たな地平を拓くために様々な現代作曲家に合唱音楽の新作を委嘱してきたそうですが(因みに、これまで東京混声合唱団が新作を委嘱した合唱音楽の数は250曲にも上るそうです)、先ず、これまでの日本の合唱音楽を代表する3曲が冒頭で紹介され、これに次いで、これまで音楽樹が新作を委嘱してきた合唱音楽からセレクトした6曲、今回新たに音楽樹が新作を委嘱した合唱音楽1曲が演奏されました。約4時間に及ぶ演奏会でしたが、非常に演目数が多いので、音楽樹の活動を創始した②新実さんの曲、③柴田さんの曲(栗山さんの指揮)、⑨西村さんの曲と、⑩西村さんの愛弟子である現代作曲家の神山奈々さんの新作の感想をごく簡単に残しておきたいと思います。
 
混声合唱組曲「幼年連祷」(1980年)より「花」「憧れ」「喪失」
第1曲目は合唱の弱唱とピアノの分散和音が幻想的な雰囲気を醸し出す柔らかく透明感のある演奏、第2曲目は合唱の各声部が織り成す繊細な綾にピアノが色彩を添えて行く美しい演奏、第3曲目はピアノの躍動するリズムと合唱の強唱が生む光沢と陰影が印象的な演奏が魅力的でした。この曲は合唱音楽ですが、ピアノのプレゼンスが大きく、ピアニストの御邊里佳子さんがホールの残響を上手く捉えながらピアノの美観が際立つ演奏で出色でした。
 
追分節考(1973年)
一度、この曲のライブ演奏を聴いてみたいと思っていましたので、漸く念願が叶いました。この曲は総譜がなく指揮者が音楽素材を自由に組み合わせながら即興演奏する作品ですが、舞台に女性合唱、客席に男性合唱が配置されて、女声合唱が「お・い・わ・け・ま・ご・う・た」の平仮名が書かれた計8本の金扇子を持ち、指揮者の支持に従って金扇子を上げ下げしながら男性合唱に指示を出し、それぞれの金扇子に対応する音楽素材が歌われました。女性合唱の清澄なコーラスを背景として男性合唱が客席を巡りながら追分節を歌いましたが、一見異色と思われる西洋音楽のコーラスと日本音楽の民謡が上手く調和して(西洋的な「混ぜる」ではなく日本的な「和える」)、まるで峠に木魂している追分節を聴いているようなシアターピースならではの非常に面白い芸術体験になりました。上原六四郎著「俗学旋律考」の一節を朗読する女性合唱とこれに抗議して奇声を発する男性合唱、女声合唱が歌う追分節、尺八が演奏する追分節など栗山さんの即興指揮の妙味でバランス良く響きが重ねられ、その響きにより会場が荘厳な雰囲気に包まれて圧倒されました。最後は男性歌手と尺八奏者が追分節を演奏しながら舞台袖に引き上げていきましたが、暫く舞台袖の奥から微かに聴こえてくる追分節の余韻が峠で歌われた馬子唄の風情をよく伝えるもので白眉でした。この曲は再演が重ねられている人気曲ですが、こうしてライブ演奏を聴いてみても追分節と共に次世代に受け継がれていく名曲であることが確信できます。
 
無伴奏混声合唱のための<敦盛>(2009年)
西村さんが能「敦盛」(世阿弥作)の後場の詞章を使って作曲した作品ですが、合唱のコーラスとサウンドホースが生み出す幻妖な音響が此岸と彼岸のあわひへと意識を誘いました。能の足拍子を採り入れて間をとりながら詞章が歌われ、儚げに揺蕩う合唱には無常感のようなものが感じられました。やがて合唱は念仏を唱え出し、西村さんによれば「魂の救済と西方浄土からの光の象徴」であるチベットシンバルが打ち鳴らされるなか、平敦盛の霊は「跡弔ひて賜び給へ」と繰り返しながら徐々に魂が鎮まり、それと共に会場の照明も暗く落とされて消え失せる余韻深い作品を楽しめました。
 
混声合唱とピアノのための「春、はなるるひとよ」(世界初演)
この曲の印象を一言で言えば、言葉(ロゴス)から解放された合唱音楽ということになりましょうか。この曲には楽曲解説は付されておらず、神山さんの心象風景を映したようなエッセイが添えられていましたが、言葉(ロゴス)に音楽を閉じ込めてしまうのではなく、自然(ピュシス)に音楽を感じる風趣が非常に魅力的で、これからの時代の新しい合唱音楽の可能性を示す面白い作品に感じられました。合唱が「ドゥ~」「ツクツク」などの自然の音を模倣したような意味に支配されない音を繊細を紡ぎ出し、これにピアノがトリルで歌い添う自然(ピュシス)に包まれているような音響空間が出現しました。この曲に付されている歌詞(意味を持つ言葉)は僅か18語と短くピアノの神秘的な和音に乗せて叙情的に歌われましたが、口元に掌を当てる仕草はあくびを表現し、また、ピアノの柔らかいグリサンドは風に舞う桜を表現したものでしょうか、「ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ」(紀友則/古今和歌集)という和歌を思い出しながら長閑な雰囲気に身を委ねて聴き入りました。やがて口笛に応える鳥の鳴き声(録音)が聴こえて音楽が自然(ピュシス)に溶けて行くような静かな終曲となりました。そう言えば、最近、僕の自宅の屋根裏に巣を作ったスズメが僕の口笛を真似して鳴くようになりましたが(スズメには何種類かの鳴き方があり、それらを使い分けながら仲間とコミュニケーションをとっているようです。)、そんな春の風情を思い出させてくれる優しい音楽であり、歌の始原に触れるような音楽を楽しめました。神山さんは瑞々しい感性を持った稀有な才能の持ち主のように思われますので、今後も注目していきたいと思っています。
 
 
▼ライフサイクルコンサート
【演目】<昼の部>治佳織ギター・リサイタル
    ①イングランド民謡(カッティング編) グリーンスリーブス
    ②J.レノン/P.マッカートニー(武満徹編) イエスタデイ
    ③B.ブリテン ノクターナル Op.70
    ④J.ハリソン(セルシェル編) ヒア・カムズ・ザ・サン
    ⑤J.レノン/P.マッカートニー(武満徹編) ミッシェル
    ⑥J.ダウランド 涙のパヴァーヌ P.15
    ⑦作者不詳 4つのスコットランド古謡
    ⑧J.ダウランド ファンタジー P.1
    ⓪S.マイヤーズ(J.ウィリアムス編) 
            映画『ディア・ハンター』より「カヴァティーナ」
    ⓪A.ヨーク サンバースト
    <夜の部>村治佳織&ほのカルテット
    ⑨M.ファリャ 「7つのスペイン民謡」より
                      「ムーア人の織物」「ポロ」
    ⑩A.ピアソラ 「タンゴの歴史」より「ナイトクラブ1960」
    ⑪H.ヴィラ=ロボス ブラジル風バッハ第5番より
                  第1楽章 アリア「カンティレーナ」
    ⑫R.ニャタリ チェロとギターのためのソナタより
                          第1楽章、第3楽章
    ⑬L.ブローウェル ギター五重奏曲
    ⓪R.ディアンス タンゴ・アン・スカイ(ギターと弦楽合奏版)
【演奏】<Gt>村治佳織①~⑬
    <Sq>ほのカルテット
        <1stVn>岸本萌乃加⑨⑬
        <2ndVn>林周雅⑩⑬
        <Va>長田健志⑪⑬
        <Vc>蟹江慶行⑫⑬
【場所】第一生命ホール
【日時】2024年5月5日(日)14:00~、18:00~
【一言感想】
トリトン・アーツ・ネットワーク(第一生命ホール)は紀尾井ホール及びトッパンホールと並ぶ東京三大室内楽ホールの1つですが、最近の顧客ニーズの多様化に対応すべくターゲットを絞った演奏会を企画し、ライフサイクルコンサートでは人生のライフステージを意識したプログラム構成による演奏会を開催しているそうです。ギタリストの村治佳織さんはライフサイクルコンサートには3回目の出演になるそうですが、ギターという懐の広い楽器特性を活かして1回目「ととのえる・ほぐれる」、2回目「映画音楽」、3回目(今回)「イギリスの音楽とスペインの音楽」と多彩なテーマを採り上げられて、毎回、ジャンルレスにルネッサンスからコンテンポラリーまでの幅広いプログラム構成で顧客ニーズの多様化に対応しているそうです。非常に演目数が多いので、昼の部のノクターナルと夜の部の5曲の感想のみをごく簡単に残しておきたいと思います。なお、ほのカルテットという名称は1stVNの岸本萌乃加さんの名前から採られているそうです。
 
③ノクターナル
この曲はB.ブリデンがJ.ダウランドのリュート伴奏歌曲集第1巻の第20番「来れ深き眠りよ」を主題に選んで作曲した変奏曲ですが、今日はノクターナルの構成(ポリメーターや2段譜などが使用されている調性感が曖昧な現代音楽的な8つの変奏曲からJ.ダウランドの主題へ回帰する構成)に準えて、B.ブリデンのノクターナルの後にJ.ダウランドの2作品が演奏されるという趣向になっていました。非常に変化に富む特殊奏法が多い難曲ですが、村治さんは衒いや気負いを感じさせない鮮やかな手際で表情豊かに弾き熟し、最後にJ.ダウランドの主題が静かに奏でられると、やがて空へと音(魂)が消えて行くような余韻のある演奏を楽しめました。
 
⑨「7つのスペイン民謡」より「ムーア人の織物」「ポロ」
1曲目はギターの軽やかに紡がれるリズムとヴァイオリンの伸びやかに歌われるメロディーが織物を編み上げるように交互に絡み合う歌心ある演奏、2曲目はギターとヴァイオリンが緊密に呼応して拍節感のあるメリハリとパトスが感じられる演奏を楽しめました。ブルーを基調とするマタニティールックのような衣装でしたが、スペインの民族衣装をモチーフとしたものでしょうか?
 
⑩「タンゴの歴史」より「ナイトクラブ1960」
ギターの繊細な音色とヴァイオリンの清澄な音色とがバランスのよく絡み合う哀愁漂う演奏で、タンゴダンスを思わせる激しいパッセージではギターとヴァイオリンが丁々発止に渡り合う緩急自在な演奏を楽しめました。日本にはタンゴを専門に演奏するヴァイオリニストも増えてきていますが、もう少しヴァイオリンの音色に哀切な情感を乗せられると申し分ない演奏のように感じられました。
 
⑪ブラジル風バッハ第5番より第1楽章アリア「カンティレーナ」
原曲はソプラノとチェロ8挺の編成ですが、ソプラノとギターやフルートとギターなどの編成にも編曲されており、今日はチェロとギターの編成で演奏されました。チェロが弱音から儚く歌い出すと、これにギターが優しく応えて、チェロとギターが親密に歌い添い、絡み合う相性の良さを感じさせるアンサンブルが出色で、嫉妬したくなるような演奏でした。音にドラマが感じられる秀演でした。
 
⑫チェロとギターのためのソナタより第1楽章、第3楽章
チェロをヴィオラに代えて演奏されましたが、ヴィオラの音域を活かした深い呼吸の低音から明るく抜ける高音までの多彩な音色やヴィオラのフットワークの軽さを活かしたギターとの軽快なアンサンブルなど、チェロとは異なるヴィオラならではの魅力が感じられる演奏でした。村治さんのリードが巧みで、緩急のメリハリを付けながら音楽に豊かな表情を生む演奏を楽しめました。
 
⑬ギター五重奏曲
お恥ずかしながら初聴の曲でした。ボッケリーニのギター五重奏曲でも同様だと思いますが、ギター(撥弦楽器)と弦楽四重奏(摩弦楽器)は残響特性の違いからバランスの良い演奏が難しく弦楽四重奏のヴィブラートを抑制するなどの工夫が必要ではないかと思いますが、今日は村治さんの豊富な経験に裏打ちされた非常にバランスの良い演奏を楽しむことができ、さながら弦楽四重奏を音楽に敷き詰められた蓮の葉に喩えれば、ギターがカデンツァで咲く蓮の花と言った風情がありました。弦楽四重奏の豊かな音色を活かしながら弦楽四重奏とギターがリズミカルに呼応し、モチーフの受け渡しなどにも隙がない吸引力のある引き締まったアンサンブルを楽しめました。
 
 
▼志ん輔蝉の会
【演題】志ん輔蝉の会
【演目】①稽古屋
    ②棒鱈(初演)
    ③猫定(初演)*共演「淡座」
【出演】古今亭志ん輔(真打)
    淡座(共演)
     <Vn>三瀬俊吾
     <Vc>竹本聖子
     <三味線>本條秀慈郎
     <作曲>桑原ゆう
    金山はる(お囃子)    
    林屋ぽん平(前座)
【場所】紀尾井ホール 小ホール
【日時】2024年5月6日(月・祝)14:00~
【一言感想】
今日は古今亭志ん輔師匠が二ツ目の時代から続けられている独演会「蝉の会」(うち、一席は淡座との共演)を鑑賞することにしました。これまでは国立劇場で開催していたそうですが、今年は国立劇場の建替えのために紀尾井ホールでの開催になったそうです。しかし、紀尾井ホールの改修も予定されていることから、来年はどこで鳴こうか悩まれているそうです。最近、東京の老朽化したインフラの更新が急速に進んでいますが、来るべき南海トラフ地震や東京直下型地震などの復興資金を捻出する余力が残されているのか心配になります。・・と、こんな具体に、日本人は情報過多の時代を背景として日々取り留めもない不安に気を病む「生きづらさ」を感じています。過去のブログ記事でも簡単に触れましたが、日本人は欧米人と比べて不安遺伝子が多いと言われており、その要因は「経済」「健康」「人間関係」「自然災害」に関するものが多いと言われています。この点、落語は人間のダメさ加減を笑いに変えて救ってしまう魅力があり、心の処方箋と言えるかもしれません。
 
〇古典落語「子ほめ」
前座の林家ぽん平さんによる古典落語「子ほめ」ですが、おうむ返しのお手本とも言える定番の前座噺です。粗忽物の八五郎は近所の隠居からタダ酒を飲ませて貰うための世辞の極意を指南されますが、俄か仕込みの付け焼刃では上手く行くはずもなく、チグハグナな会話で周囲を困惑させてしまうという滑稽噺です。この噺のオチには何種類かのバリエーションがありますが、今日は竹さんの赤ん坊の誕生祝いの席で「竹の子は 生れながらに 重ね着て」(上の句)というお題に対し、八五郎が「育つにつけて 裸にぞなる」(下の句)と付句を詠んで台無しにしてしまうというオチがつきました。過去のブログでも触れたとおり、筍は皮が剥け落ちてをつけながら真っ直ぐに伸びた竹へと成長しますが、八五郎は「節を屈する」(節操なく周囲に合わせようとして、却って周囲の和を乱してしまう人騒がせな調子者)ようなところがあり、暗に節をつけずに裸のまま成長してしまった八五郎のようになると付句してしまう滑稽さが感じられます。八五郎はどうしようもなくダメな人間のように見えますが、徒然草に「内に思慮なく、外に世事なくして」(気に病まず、他人の顔色も気にしない)という人生の極意が説かれているとおり、その場を上手く繕うことに汲々として辻褄を合わせるだけの小さな人生よりも、八五郎のように多少奔放であっても大らかな人生に憧れを感じます。
 
〇古典落語「稽古屋」
古今亭志ん輔師匠による古典落語「稽古屋」ですが、五代目・古今亭志ん生師匠が十八番としていたハメモノ入りの音曲噺です。間が抜けた男が近所の隠居から女にモテるためには隠し芸を身に付けるのが良いと指南されますが、をつけて唄うことができずに読みになってしまうので唄の師匠も手を焼きます。唄の師匠から端唄「すり鉢」を稽古するように言われ、歌詞「海山を越えて この世に往みなれて・・・煙を立つる」の「煙を立つる」の部分を高い調子で唄うようにコツを教わったので、自宅の屋根(高い調子を取り違えて高いところ)にのぼって「煙を立つる」と大声で唄っていると近所の連中が火事だと騒ぎ出しますが、その後、「海山を越えて」と聞こえてきたので近所の連中は「そんなに遠けりゃ大丈夫だ」とチグハグナな会話でオチがつきました。これは江戸落語のオチですが、上方落語では色は思案の外という慣用句に掛けて「色は指南の外」と嗜めるというオチのヴァリエーションがあります。古今亭志ん輔師匠の噺のテンポが当意即妙なもので、会場の空気(客の意識)を待つ「間」の取り方が上手く、それでいて間伸びしてしまわない小気味よい言葉運びでグイグイと噺に惹き込んで行く話芸に魅せられました。また、登場人物のキャラクターが滲み出てくるような堀の深い語り口が噺の面白さを際立たせていたように思われました。同じネタでも間の取り方やキャラクターの立て方で笑えたり笑えなかったりすると思いますので、ネタに命が吹き込まれて面白くなる仏に魂を入れるような話芸は前座にとっても大変に勉強になるものではないかと思います。
 
〇古典落語「棒鱈」(初演)
古今亭志ん輔師匠による古典落語「棒鱈」(初演)ですが、鱈は酔っ払い、間抜けや野暮天などを意味するスラングです。寅さんとさんが男二人で酒場で飲んでいますが、熊さんは非常に酒癖が悪くヘベレケに酔っています。隣の座敷から芸者を上げて盛大に飲んでいる田舎侍の方言やヘタな唄が聞こえてきて散々にバカにします。熊さんが好奇心から隣の座敷を覗こうとしますが、千鳥足で足元が覚束ずに勢い余って隣の座敷に乱入してしまい、田舎侍と喧嘩に発展します。その騒ぎを聞きつけた店の料理人がコショウを持ったまま喧嘩を止めようとしますが、田舎侍も熊さんもくしゃみが止まらなくなって喧嘩どころではなくなり、喧嘩を止めてコショウ(故障)がないというオチがつきました。酒癖の悪い男が田舎侍を酒の肴に飲んでいたことに端を発して引き起こされた間抜けな滑稽噺ですが、人間は田舎者のような自分とは違う特徴や文化などを持った者をバカにしたがる性質があり、最近のSNSの普及や多様性の時代などを背景として、その性質が様々なトラブルを引き起こすようになっています。しかし、一皮剥けば、その違いは取るに足らない些少なものでしかなくコショウにくしゃみが止まらなくなる同じ人間であるということが分かるもので、現代にも通じる教訓噺と言えます。
 
〇古典落語「猫定」(初演)*淡座の共演
古今亭志ん輔師匠による古典落語「猫定」(初演)ですが、両国回向院猫塚にまつわる実話「猫の恩返し」を翻案した怪談噺です。猫塚の隣には鼠小僧次郎吉の墓(参り墓)がありますが、鼠と猫(小判)を並べて供養してしまう江戸の粋(洒落)を感じさせます。因みに、上述した創作浄瑠璃「毒婦お傳麻羅地獄譚」でも触れましたが、小塚原回向院に高橋お傳と共に鼠小僧次郎吉の墓(埋め墓)が安置されています。さて、過去のブログ記事でもご紹介していますが、今回も古今亭志ん輔師匠と淡座のコラボレーションとなりました。冒頭(前座)、舞台の照明が真っ暗に落された後、蒼白い霞がかった薄明りの中をヴァイオリンとチェロが霊気を描写するようなフラジョレットと猫の鳴き声を描写するようなグリサンドを奏で、三味線が猫の歩き音を描写するように甲高い音で3拍子の音型を繰り返し、さながら黄泉の世界で猫が鳴いているような妖気的な雰囲気が漂いました。博打打ちの定吉は道端で拾った黒猫をと名付けて懐に入れて賭場通いしますが、熊は賽の目を読めるらしく鳴き声の数で丁又は半なのかを当てるので定吉は大儲けします。ある日、定吉の妻・お滝が間男に依頼して定吉を殺害しますが、熊がお滝と間男を殺して定吉の仇討ちを果たすという怪談であり快談でもあります。古今亭志ん輔師匠の「間」の取り方一つで会場の空気を一変させてしまう話芸が魅力ですが、そこに淡座がこの世ならざるものの気配を感じさせる色を添えることで観客の想像力を掻き立てる効果を生んでいたと思います。
 
 
▼ラヴィ・シャンカルのシタール協奏曲第2番「ラーガ・マーラ」(1981年)
GWに自宅で留守番をしているお父さんのために、シタールの調べに癒されてみませんか。シタール奏者のアヌーシュカ・シャンカルさん(サックス奏者のジョン・コルトレーンさんや現代作曲家のフィリップ・グラスさんにも影響を与えた世界的なシタール奏者のラヴィ・シャンカルさんは実父、歌手のノラ・ジョーンズさんは異母妹)がラヴィ・シャンカルさんのシタール協奏曲第2番「ラーガ・マーラ」を演奏している動画をアップしておきます。知る限り、未だこの曲は日本初演されていない(?)のではないかと思われますが、同じ時期に現代作曲家・北爪道夫さんが作曲したシタール協奏曲「誕生」(1985年)とカップリングで採り上げてくれる楽団はないかしら。ライブ演奏を聴いてみたいです。
 
▼鎮座DOPENESSの「乾杯」
GWに自宅で留守番をしているほろ酔い気分のお父さんのために、フリースタイルMCバトルで一世を風靡した鎮座DOPENESSの14年前のセンス光るMVをアップしておきます。飲兵衛の気持ちを等身大で代弁しているハッピーな音楽です。

特別上映:坂本龍一パフォーマンス記録映像「LIFE-WELL」と歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」と東京・春・音楽祭2024(ディオティマ弦楽四重奏団)と仇桜< STOP WAR IN UKRAINE >

▼仇桜(ブログの枕単編)
「明日ありと 思う心の 仇桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは」(親鸞)
を見ながら親鸞が浮世の儚さを桜に仮託して詠んだ和歌を思い出しましたが、日本人は散華の美に象徴されるように桜に多様なプロジェクション(投射)を見い出す独特な感性を持っています。この点、「をかし」の文学と言われる清少納言の「枕草紙」は客観的な美(シンパシー:自分の立場から対象を理解する同情)を描いているのに対し、「あはれ」の文学と言われる紫式部の「源氏物語」は主観的な美(エンパシー:対象の立場から対象と同化する共感)を描いていると言われますが、親鸞の和歌などを詠むにつけて日本人は「をかし」を超えて「あはれ」へと至る深い情趣を抱きながら桜を愛でていたように思われます。この点、「もののあはれ」「もののけ」「ものがたり」などの言葉には、「もの」(対象)に対する深い共感(プロジェクション)が含意されており、これを自らのナラティブに組み込んで慈しむ母性原理の文化(一元的世界観)が息衝いているように思われます。桜の花びらは春風や昆虫などを媒介として受粉を終えると新しい葉や花に栄養素を譲るために自ら散っていきますが、過去のブログ記事でも触れたとおり、人類も進化の過程で子孫繁栄のために有性生殖を選択して自死のプログラムを実装するようになった有り様と重なります。後述するシネマ歌舞伎「刀剣乱舞」では「後の世の安寧」という台詞が何度か登場しますが、現代人の意識から希薄になりつつある「私」のためではなく「公」のために心を砕く美しい生き様が描かれていました(「美」という文字は神事の生贄となる「大」きな「羊」から構成)。この点、最近のニュースを見ていると、例えば、子育て支援策の負担増(私)ばかりが取り沙汰されて子孫繁栄(公)に資する傾聴に値する意見は乏しく、また、EVシフトが環境問題(公)から切り離されて単なる自動車メーカーの競争戦略(私)という矮小化された次元で語られる風潮など、現代人は随分と人間が小さくなってしまったものだと失笑を禁じ得ません。岸田政権は新しい資本主義の政策理念として「民間も公的役割を担う社会の実現」を掲げており、これを受けて経済同友会も新しい資本主義のモデルとして「共助資本主義」を提唱しています。今こそ、子孫繁栄(公)が仇桜とならないように真剣に社会変革に取り組まなければならない時機に来ているように感じます。近年、世界で頻発している大規模自然災害を踏まえて「公助」の限界と「共助」及び「自助」の重要性が再認識されるようになっていますが、一口に「共助」と言っても様々なスタイルのものがあり一様に論じることは難しく、「共助」の典型として「寄付」について簡単に触れてみたいと思います。コロナ禍、ウクライナ戦争、パレスチナ戦争や大規模自然災害などを契機としてクラウドファンディング、ふるさと納税、エシカル消費などに注目が集まり日本人の「寄付」に対する意識も高まってきていますが、イギリスの慈善団体「チャリティーズ・エイド・ファンデーション(CAF)」が毎年公表している「World Giving Index」(2023年)によれば、日本は世界人助け指数の総合ランキングで142ケ国中139位(寄付ラインキングで119位)と長年に亘り最下位層をキープしており、俄か仕込みでは越え難い文化や社会に根差した深い要因があるように思われます。日本の歴史を紐解けば、例えば、東大寺の大仏建立(現在の価値に換算して総工費約5000億円)は貴族や庶民の寄付とボランティアで賄われています。また、浪速八百八橋(大江戸八百八町のパロディー)は江戸幕府による御普請が僅か5%なのに対し、大阪の商人や町人が資金や資材を出し合った自普請が約95%にものぼっています。寺子屋は僧侶、神官、農民や大工などがボランティアで師匠(先生)を務め、京都の番組は自治組織として自治会費を徴収して活動しており、また、その他にもお布施、浄財、喜捨、寄進、勧進、寸志など、古くから日本にも様々な形で寄付やその他の共助が存在していました。しかし、これらの日本の寄付やその他の共助は江戸時代までの人口流動性があまり高くない時代を背景として近所や地域のつながりの中で育まれてきた文化(智慧)と言え、近所や地域などの狭いコミュニティー(=世間➞共助)の中での「分かち合い」の発想が息衝いていたのではないかと思われます。この点、例えば、日本のお中元やお歳暮に象徴される贈答文化は、密接な人間関係を背景として「もの」に仮託した「気持ち」を贈り合う習慣と言え、「気持ち」には「気持ち」で応える「お返し」の文化が育まれたと言えるかもしれません。このように「気持ち」を贈るものなので見ず知らずの他人に「もの」(寄付)を贈るという習慣は育まれ難かったものと思われます。明治維新や高度経済成長などを契機として日本が人口流動性の高い時代に移行すると近所や地域などの狭いコミュニティーから匿名性が高い広いコミュニティー(=社会➞自助)へ変貌し、これに伴って贈答文化は廃れ、お互いに「気持ち」がないのに建前で「もの」を贈り合うのは意味がないという合理的な考え方から企業でもお中元やお歳暮などの虚礼を廃止する風潮が広がりました。過去のブログ記事で子育てに関して触れたとおり、明治維新や高度経済成長などを契機として共助の基盤となっていた世間が急速に崩壊し、その代替的な機能を果たす新しい文化や制度などが整うことなく自助を前提とする社会へ移行したことが社会課題となって表出しているのではないかと思われます。もう1つ、日本で寄付が低調な理由として、日本人は平均的な行動から外れる目立った行動をネガティブに捉える心理(出る杭は打たれる、同調圧力などを生むユニゾン社会)が働いて、寄付しない者が寄付する者を「売名行為」と揶揄する蛮風が蔓延していることが指摘されています。これは東日本大震災や能登半島地震などでも取り沙汰されていましたが、仮に売名行為を意図したものであったとしても、それによって救われる人がいる限り、これを揶揄する行為は卑俗に過ぎる軽薄なものと言わざるを得ません。この点、上述のとおり日本で寄付が低調な要因の1つと考えられる人口流動性が高い時代という現代的な障壁を乗り越えるために、最近、SNSを利用して人々の属性に合わせたアプローチ(マッチング)を行い、バーチャルなコミュニティー(=世間、共助)を形成する試みが盛んになるなど、ソーシャルグッドな行動変容を促すために「ソーシャルマーケティング」という手法が注目を集めています。人々の不安や煩わしさを払拭して「気持ち」を醸成するための社会的価値を創造する(即ち、人々をバーチャルなコミュニティーに取り込み、人々のナラティブをハッキングすることで自分事にする)ことに加えて、これに対する「お返し」(クラウドファンディングのリターンやふるさと納税の返礼品など)という報酬を用意する(即ち、共感から共助や共創という強いつながりを生む)ことなどにより、脳内ホルモン(物質的な幸福を感じるエンドルフィンだけではなく精神的な幸福を感じるセロトニン)の分泌を促して多幸感を得易くする科学的なアプローチが試みられています。但し、このような手法は最近話題になっているSNSを利用した投資詐欺などに悪用されて深刻な社会問題になっており、強い光は濃い影を落とすという喩えのように現代の世相を色濃く反映しているものと言えるかもしれません。このように「寄付」という行為を通じて自らのナラティブ(私)を豊かに彩る共に、それによりソーシャルグッドを実現して子孫繁栄(公)にプラスになる好循環を社会に生み出す取組みは非常に有意義なものに感じられますので、自らも心掛けていきたいと思っています。以上は、以下の囲み記事の前振りでした。
 
「レコード芸術ONLINE」クラウドファンディング開始!!
2023年7月号で休刊した音楽誌「レコード芸術」がDX化して復活することになり、2024年4月10日から2024年5月20日までクラウドファンディングで支援を募っています。支援金額も然ることながら、どれだけ支援者数を集められるのか(反響)もマイルストーンになるのではないかと思います。あがる物価、あがらない収入の現実にこの世の不条理を感じている方も多いと思いますが、2000円から支援できますので、色々と考える前に、取り敢えず、支援してしまいましょう!Webサイトが立ち上がってしまえば、後は何とかなるはずです。個人的には、せっかくオンライン化するのですから音楽オンラインメディア「レコード芸術」が日本のメディアに留まらず世界のメディアとして注目されるようにワールドワイドな展開も視野に入れた取組みも期待したいと思っています。
 
▼特別上映:坂本龍一パフォーマンス記録映像「LIFE-WELL」
【演題】特別上映:坂本龍一パフォーマンス記録映像「LIFE-WELL」
【演目】LIFE-WELL(再編集版)(2013年)
【出演】梅若紀彰、野村萬斎、大倉源次郎、一噌隆之
    亀井広忠、小寺真佐人、坂本龍一 ほか
【演出】野村萬斎、坂本龍一、高谷史郎
【映像】高谷史郎
【上演】山口情報芸術センター(YCAM)
【上映】NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)
【日時】2024年4月6日
【一言感想】
昔、和泉流狂言師・野村萬斎さん、葛野流大鼓方・亀井広忠さん及び一噌流笛方・一噌幸弘さんの3人組が「橋の会」というユニットを結成して能楽の革新に取り組んでいた時代がありましたが、その取組みの成果が遺憾なく活かされている印象を受ける舞台作品でした。この舞台作品は2部構成になっており、第1部で狂言「田植」、舞囃子「賀茂 素働」、素囃子「猩々乱」という古典演目が革新的な演出で上演された後、第2部で能から影響を受けたアイルランドの詩人W.B.イェイツの戯曲「鷹の井戸」(1916年)とこれを翻案した横道萬里雄の能「鷹姫」(1967年)を融合した舞台「LIFE-WELL」、W.B.イェイツの詩「湖の島イニスフリー」の朗読(W.B.イェイツによる自作朗読の録音)が上演されました。前回のブログ記事でシアターピース「TIME」(坂本龍一、高谷史郎)の感想を簡単に残しましたが、既に、この舞台作品の中にシアターピース「TIME」へ昇華されるアイディアの多く見受けられます。因みに、4月7日にNHK総合で放送された「Last Days 坂本龍一最後の日々」では坂本さんが闘病生活の中で好んでいたという雨の音、風鈴の音、レースのカーテンなどが映されていましたが、これらはシアターピース「TIME」でも印象的に使われていました。この舞台作品は坂本龍一さんが20世紀(モダニズム)的な規範性(支配)を前提とした中心のある世界観から21世紀(ポストモダン)的な多様性(共生)を前提とした新しい時代の価値感への変遷を表現したオペラ「LIFE」(1999年)を起点とし、それを21世紀(ポストモダン)的な中心のない世界観(ノンリニアや不確定的な世界観)を体現するインスタレーション「LIFE」(2007年)へと進化させ、さらに、能楽とのコラボレーションにより様々なボーダーを越境する舞台「LIFE-WELL」(2013年)へと深化させています。第1部と第2部に一貫しているテーマは「水」であり、このテーマはシアターピース「TIME」へと受け継がれています。ハイブリッド空間を顕在させる能舞台の橋掛り、本舞台、四柱は照明とワイヤーのみで設えられ、また、能舞台の鏡板はスクリーンに松、海、雲の映像が投影されましたが、さらに、天井からはインスタレーション「LIFE」でも使用された9つの水槽が吊るされて人工的な霧と照明で空間を演出しており、能楽の特徴である見物のイマジネーションを引き出すマイナスの美学を活かしながらも現代的に舞台表現の可能性を拡張する革新的な設え(とりわけ第2部の演出で効果を発揮)となっており大変に興味深いものがありました。先ず、第1部から、狂言「田植」(能「賀茂」の替間狂言)は賀茂明神の神主が五穀豊穣を祈って早乙女達(氏子)に田植をさせる芽出度い曲ですが、賀茂川(下鴨神社糺の森よりも上流域を賀茂川、下流域を鴨川)から田に水を引く場面が出てきます。これに続く舞囃子「加茂 素動」では上賀茂神社の祭神(別雷神)が橋掛りではなく舞台の後方(鏡板)の暗闇から顕在して雷雨を呼び起こして神威を示しますが、天井から吊るされている9つの水槽から雷雲(人工的な霧)が湧き立ち雷光(照明)が走る様子が表現される迫力の舞台になっていました。因みに、地球上の水は蒸発と降水を繰り返して循環していますが、河川水は約10日間、大気水は約12日間、海洋水は約4000年間で全て入れ替わると言われており、また、人間の体も約1年間で体の全ての分子が別の分子に置き換わると言われています。昔から「流れる水は腐らない」「淀む水に芥溜まる」という言葉に表現されているとおり、絶え間なく変化し続けること(ベリクソンの弧が体現するピュシスの回復運動)が分解と合成のバランスを保ち常に蘇らせる(黄泉帰らせる)ということかもしれません。この点、禅語の「放下着」という言葉は執着が淀みを生じて心を腐らせることから執着を捨て心を清々しく保つことの大切さを説くものですが、日々の心の芥(執着)まで洗い流してしまうエナジー風呂の有難さが実感されます。素囃子「猩々乱」では能楽囃子と坂本龍一さんのピアノ即興の共演が披露されましたが、猩々は海に住む酒好きの妖精(酒の神様)なので酒造りには欠かせない「米」(狂言「田植」の題材)と「水」(舞囃子「加茂 素働」の題材)を強く結び付ける演目構成になっていたと思います。ピアノは屋根が外され、天井から吊るされている水槽の水面がピアノの響板に反射していましたが、さならがピアノは猩々が住む海でありピアノが紡ぐ音はシテの猩々を体現しているようでした。この共演は必ずしも相性が良いものではありませんでしたが、人間が認知し易いように有為不自然に同期(ロゴス)するのではなく、あるがままの無為自然に振る舞う非同期(ピュシス)が剥き出しにされた表現と言えるかもしれません。これに続く、第2部の舞台「LIFE-WELL」が出色でした。冒頭、舞台照明が落とされた暗闇の中で野村萬斎さんの朗読の声だけが聴こえ、「心の目以て見よ、枯れた井戸・・・」と語り掛けてきましたが、この暗闇が観客の感受性を研ぎ澄ませてイマジネーションのみで場を設えさせる舞台演出が顕在劇の魅力を十分に引き出す効果を生んでいたと思います。その後、舞台照明の薄明りに照らされた野村萬斎さんが間狂言の居語りよろしく戯曲を朗読し、同じく坂本龍一さんがピアノ即興で伴奏しましたが、協和音が確定的に描き出す作り出された空間ではなく不協和が不確定的に生み出す人知れぬ空間が観客のイマジネーションを異次元へと導く非常に完成度の高い舞台を楽しむことができました。因みに、音楽の三大要素と言われるメロディー、リズム、ハーモニーは人間が後天的に獲得した「認知モデル」(ロゴス)に過ぎませんが、メロディー、リズム、ハーモニーで魚(音)を切り身(音楽)にしなくても魚(音)そのものを味わう愉しみ方があることが聴衆にも認識される時代になっています。過去のブログ記事でも触れましたが、人間の脳は世界を認知し易くするために様々な対象などを抽象化して一般的な概念(言葉、記号や機能和声などの認知モデル)に仕立てていますが、その代償として、ある一定の視点のみから世界を捉えるようになり(ロゴスの呪縛=認知バイアス)、多様に変化する世界に柔軟に適応して生存可能性を高めることが難しくなるという欠点を内包しています。この点、人間の脳内にある神経伝達物資ドーパミンは認知モデルを創造する一方で、それを解体して新しい認知モデルを創造する働きも担っており、このような解体(分解)と創造(合成)をバランスしながら脳のクリエイティビティ(鮮度)を保つことが心を腐らせないための秘訣と言えるかもしれません。閑話休題。やがて暗闇の中に白い女面が浮かび上がりシテの鷹姫が顕在すると、天井から吊るされている水槽の水面が床に映し出されて井戸の水が顕在するという照明演出が出色でした。もし世阿弥が現代に生きていれば、このような「新しいもの」を貪欲に舞台に採り入れながら舞台を革新し続けていた(能には果てあるべからず)に違いありません。この舞台ではワキの老人は登場せず、野村萬斎さんによる朗読が井戸の水を飲むと永遠の命を得られるという言い伝えがあるので50年間も井戸の水が湧くのを待ち続けていると語りました。そこへ朗読者との二役を務める野村萬斎さんがゲルト神話の英雄・空賦麟(クー・フリン)に扮して登場し、ワキの老人は井戸の水は譲れないと空賦麟を追い払おうとしますが、大鼓の亀井広忠さんが暗闇の舞台に顕在し、大鼓の澄み渡る甲高い音と掛け声(鷹の鳴き声のメタファー)で囃すと、これに呼び覚まされるようにシテの鷹姫が低い唸り声を発しながら立ち上がりましたが、さながら大鼓は市井の女に憑依する鷹の霊を体現しているような演出効果を生んでおり鳥肌ものでした。能楽囃子の気魄が生み出す張り詰めた静寂(色即是空)には異界のエネルギー(空即是色)が満ち満ちているかのようであり、この世ならざる者を顕在させてしまう能の魅力、醍醐味が現代的な演出によって際立っている場面に魅了されました。やがて太鼓、小鼓、笛、地謡が入場し、これに坂本さんのピアノ即興が加わって、シテの鷹姫が舞いましたが、ピアノ即興が内部奏法を使った打楽器的な奏法により能楽囃子と緊迫感のある呼応が展開され、ピアノの内部奏法が生み出す多彩な音響が異界の風情を醸し出す音楽的な効果を生んでいました。また、ユニゾンで謡われる能の地謡に空賦麟の対位法的な声部が加わることで、まるでオペラの二重唱を思わせるようなパートは非常に面白く感じられました。能はシテの心情が歌舞で表現される舞台ですが、現代の時代性はシテもワキもなく、全ての人々の多様な心情が交錯しながら綾を織る時代なので、能の美学は活かしながらも、このようなオペラ的な表現様式も採り入れて現代の時代性を表現する新しい能の創作にも期待したいと思える非常に実りの多い舞台でした。やがて井戸に永遠の命が得られる水が湧くと、その水を巡ってシテの鷹姫と空賦麟が争いますが、その水と共にシテの鷹姫は消え失せます。まるで夢から覚めたように空賦麟と枯れた井戸のみが残されて、笛が寂び寂びとした調べを奏でて終曲となりました。その後、葦が生い茂る湖に浮かぶ小舟と人影の映像をバックにしてW.B.イェイツの詩「湖の小島イニスフリー」の朗読(W.B.イェイツによる自作朗読の録音)が流されました。この舞台作品にはシアターピース「TIME」の題材として使われていた夢十夜や邯鄲の枕に通じる人生の儚さが表現されているようでした。上杉謙信が中国の「枕中期」に準えて詠んだ辞世の句「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒」という人生を凝縮した言葉が思い出される感慨深い芸術体験になりました。
 
 
▼歌舞伎シネマ「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」
【演題】歌舞伎シネマ「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」
【原案】「刀剣乱舞ONLINE」より
          (DMM GAMES/NITRO PLUS)
【脚本】松岡亮
【演出】尾上菊之丞、尾上松也
【出演】<三日月宗近>尾上松也
    <小狐丸/足利義輝>尾上右近
    <同田貫正国/松永大和之助久直>中村鷹之資
    <髭切/義輝妹紅梅姫>中村莟玉
    <膝丸>上村吉太朗
    <小烏丸>河合雪之丞
    <異界の翁>澤村國矢
    <異界の嫗>市川蔦之助
    <近習 山口左司馬>大谷龍生
    <弾正奥方 柵>中村歌女之丞
    <善法寺春清>大谷桂三
    <松永弾正>中村梅玉
    <審神者の声>中村獅童   ほか多数
【演奏】<筝>中井智弥(二十五弦)、中島裕康(十七弦)
    <琵琶・尺八>長須与佳
    <笛>藤舎推峯
    <長唄>杵屋佐陽助、杵屋喜三郎、杵屋己志郎、
        杵屋己津二朗、杵屋和五郎
    <三味線>和歌山富之、岡安喜三郎、今藤龍市郎
         柏要吉、杵屋直光
    <囃子>望月太左久、望月太左成、望月太喜十朗、望月徹
        福原貴三郎、堅田喜三郎、梅屋喜三郎、望月左喜十郎
        福原百七、福原友裕
【美術】前田剛
【照明】高山晴彦
【作曲】中井智弥、杵屋己太郎(長唄)、豊澤勝二郎(竹本)
【音響】土屋美沙
【立師】澤村國矢、中村獅一
【衣装】黒崎充宏
【日時】2024年4月6日
【一言感想】
近年の歌舞伎界は新しい時代の歌舞伎のあり様を模索すべくメタバース、初音ミク、アニメ、ゲームなどの新しい素材や現代邦楽の成果を大胆に採り入れながら伝統の革新を精力的に試みている印象を受けます。一時期、くすぐり笑い系やド派手演出系などの安直なウケ狙いに走る傾向も見られて辟易としていましたが、昨年に新橋演舞場で公演された新作歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」(尾上松屋、澤村國矢など)や新作歌舞伎「流白浪燦星」(片岡愛之助、尾上松也など)などでは歌舞伎の魅力を現代的にアップデートした洗練された舞台を楽しむことができました。今日は、そのうち新作歌舞伎「刀剣乱舞 月刀剣縁桐」の舞台収録が歌舞伎シネマとして上映されるというので、久しぶりに映画観で鑑賞することにしました。ご案内のとおり、オンラインゲーム「刀剣乱舞」を題材とした作品で、既にミュージカル「刀剣乱舞」にも翻案されてますが、新作歌舞伎「刀剣乱舞」では歌舞伎の表現様式や伝統技芸と融合することで、より洗練された舞台になっていたと思います。世代交代が進む歌舞伎界にあって、歌舞伎界に新風を巻き起こしている歌舞伎俳優・尾上松也のセンスと才能に期待が集まっています。さて、簡単なあらすじは、西暦2205年、日本の歴史を改変ようと画策する者達は室町幕府第13代将軍・足利義輝が暗殺された「永禄の変」(西暦1558年~1570年)の首謀者である松永弾正を殺害して足利義輝を延命させるために時間遡行軍を編成して過去の時代へと送り込みますが、これを阻止して歴史を守護しようとする審神者(さにわ/古代神道の祭祀で神託を受けて、その神意を伝える者)は三日月宗近(国宝)、小烏丸(御物)、髭切(国指定重文)、膝丸(国指定重文/歌舞伎「土蜘」能「土蜘蛛」)、同田貫正国(市指定重文)、小狐丸(県指定重文/歌舞伎「小鍛冶」能「小鍛治」)の六振りの刀剣の付喪神(つくもがみ)を「刀剣男士」として過去の時代へ送り込みますが、三日月宗近は足利義輝の愛刀であった歴史を持つことから足利義輝の延命を阻止することに逡巡する様子が描かれています。付喪神とは、長年(九十九年でつくも)に亘って使ってきた道具類などの物が依代になり魂が宿った霊のことですが、精霊が物に憑り付くと人間に危害を及ぼす妖怪(例えば、提灯の付喪神である不落不落(ぶらぶら)などの物の怪)になると考えられていたことから、付喪神が成仏できるように長年に亘って使ってきた道具類などの物を埋葬する風習(例えば、人形供養文塚など)が生まれたと言われています。過去のブログ記事で触れましたが、人間の脳は外界の情報(感覚器官が体の内外から受け取る生の情報量)を過去の記憶と照合しながら意味付けを行い、それによって創り出された意味付けを外界に投射し(即ち、物理世界と精神世界を重ね合わせ)、それにより自分が意味付けた外界(プロジェクション)を自分の人生観や世界観に上手く組み込んで仕立てたナラティブを生きていますが、付喪神は長年に亘って使ってきた道具類などの物に対する思い入れがプロジェクションとして醸成され、それを自らのナラティブに組み込んで物を埋葬するという風習が生まれたものと思われます。過去のブログ記事でも触れたとおり、大まかに、物語にはストーリー(シンパシー)とナラティブ(エンパシー)の2種類があって、本来、付喪神はナラティブ(エンパシー)として物語られていたものですが、現代人のナラティブに付喪神というプロジェクションを組み込むことは難しくなっていますので、現代ではストーリー(シンパシー)として物語られているものと割り切って受容されています。なお、このようにプロジェクションを他人のナラティブに巧妙に組み込むことで、消費行動に結び付けようとするのが広告宣伝であり、信仰に結び付けようとするのが宗教であり、社会変革などに結び付けようとするのがソーシャリーエンゲージメント・アートと言えるのではないかと思います。冒頭のシーンから、刀鍛冶の錬金のリズムを基調とする歌舞伎囃子に乗せて歌い舞う刀剣ダンスが展開され、単にエンターテイメント性が高いというだけではなく、その洗練された技芸に魅せられました。笙の音、音響(女声コーラス)及び照明(三日月宗近のイメージカラーである青を基調とするもの)が神憑りな雰囲気を演出するなかを審神者が顕現して、時間遡行軍の陰謀を阻止するために刀剣男士を呼び寄せますが、ここで刀剣男士の名乗り口上の見せ場となり、刀剣男子は剣舞を披露した後に時間遡行軍を追って永禄年間の京へ向かいました。名乗り口上で聞かれる五七調の粋な台詞回しは日本語ラップのようにリズミカルで歯切れの良いノリに通じる清新さがありますので、歌舞伎に馴染みがない若い世代にも受け入れ易い表現スタイルではないかと思います。箏を主体として歌舞伎囃子なども加わる特殊な編成の邦楽アンサンブルは、ゲーム音楽風のポップな音楽を粋に奏でる好演でした。場面は永禄年間の京へ移り、足利菊幢丸(室町幕府第13代将軍・足利義輝の幼名)と妹・紅梅姫が花見の宴に興じているところへ時間遡行軍が襲来して足利菊幢丸を連れ去ろうとしますが、そこへ刀剣男子(但し、尾上右近は足利菊幢丸と小狐丸、中村莟玉は紅梅姫と髭切の一人二役のために、この場面では4人のみのご愛嬌)が駆け付けて時間遡行軍を撃退します。足利菊幢丸は刀剣男士の勇姿を頼もしく思って家臣に取り立てたいと申し入れますが、時間遡行軍の陰謀を阻止する密命(史実に基づく永禄の変の成就)を帯びている刀剣男士は固辞します。これに続く、紅梅姫が三日月宗近に仄かな想いを寄せる場面では箏とポップ調の歌が織り成す叙情的な音楽の美しさが印象的で、また、足利菊幢丸と紅梅姫の兄妹の絆を確かめる場面から足利菊幢丸が松永弾正の力添えにより室町幕府第13代の将軍宣下を受けるために京へ上る場面まで舞台展開のテンポが良く弛緩することなく楽しめました。この舞台の観客には見巧者が多かったようで大向うの掛け声は絶妙な間合いによるものが多く、それが舞台のテンポを引き締めて役者を興に乗せる効果を生んでいたのではないかと思います。この世に恨みを抱く異界の翁と異界の嫗は室町幕府の乗っ取りを目論んで異界の魔物・禍獣(わざわい)の霊力で祈祷師・果心居士と娘・雲井姫に化けて足利義輝に取り入り、共通の利益を持つ時間遡行軍と協力することを申し合わせました。なお、初音ミクとの共演でも話題の「超歌舞伎」で注目を集めている澤村國矢の悪役振りには定評がありますが、その堂々たる役者振りは主役まで食い兼ねない存在感があるものであり、その大きな芸に惚れ惚れとしました。祈祷師・果心居士と娘・雲井姫は足利義輝を意のままに操って殺生禁断の聖地・石清水八幡宮で狩りを行わせますが、これを諫めた宮司・善法寺春清及び松永弾正の子・松永久直を処断するなど常軌を逸した振舞いに及ぶようになります。これを見兼ねた三日月宗近は松永久直に対して自分は未来から歴史を守護するために遣わされたものであり史実のとおり父・松永弾正に足利義輝を討つように説き伏せます。義太夫、三味線や笛が情緒纏綿とした叙情的な音楽を奏でるなか、松永久直の影腹による命懸けの訴えが奏功して松永弾正は足利義輝を討つ決意を固めますが、舞台セットの襖に描かれた高山水墨画が松永弾正の孤高な心情を象徴しているようで目を惹きました。刀剣男士は異界の翁、異界の嫗及び時間遡行軍を撃退しましたが、その後の幕間に演奏された薩摩琵琶(三日月の響孔は三日月宗近のメタファー)が白眉で、凄まじい情念のようなものが感じられる凄味の効いた迫真の弾き語りに魅了されました。これは名演です。ヴラヴァー!!異界の翁に操られて魔界の形相となった足利義輝は松永軍を蹴散らしますが、三日月宗近が異界の翁を退治するとその呪縛から説かれた足利義輝は正気を取り戻して自らの運命を悟り、筝と笛が叙情的な音楽を奏でるなか、足利義輝は三日月宗近と悲しい定めの刃を交えた後に桜と散って、その場には三日月宗近の刀剣のみが残されるという幻想的で美しい舞台を楽しめました。
 
 
▼東京・春・音楽祭2024
【演題】東京・春・音楽祭2024
    ディオティマ弦楽四重奏団
    シェーンベルク 弦楽四重奏曲 全曲演奏会生誕150年に寄せて
【演目】①弦楽四重奏曲第3番
    ②弦楽四重奏曲ニ長調
    ③弦楽四重奏曲第1番ニ短調
    ④弦楽四重奏曲第4番
    ⑤弦楽四重奏曲第2番嬰ヘ短調(ソプラノと弦楽四重奏版)
    ⑥プレストハ長調
    ⑦スケルツォヘ長調
    ⑧浄められた夜
【演奏】<Sq>ディオティマ弦楽四重奏団
        <1stVn>ユン・ペン・ジャオ
        <2ndVn>レオ・マリリエ
        <Va>フランク・シュヴァリエ
        <Vc>アレクシス・デシャルム
    <Sop>レネケ・ルイテン
【日時】2024年4月6日~オンライン配信
【一言感想】
今年はA.シェーンベルクの生誕150周年なので、A.シェーンベルクをフィーチャーした演奏会が数多く開催されています。その中でもシェーンベルクの弦楽四重奏曲のチクルスを一晩で聴けるという非常に珍しい演奏会が開催されるというので、東京・春・音楽祭に参加することにしました。日本では弦楽四重奏曲のチクルスと言えば、ハイドンからショスタコーヴィチまでの定番曲しか採り上げられない傾向が顕著なので、久しく弦楽四重奏曲のジャンルから遠のいていましたが、最近では現代音楽を採り上げる弦楽四重奏曲の演奏会が増えてきていますので歓迎すべき傾向です。その意味では、東京・春・音楽祭の現代音楽(20世紀の前衛+21世紀のコンテンポラリー)を採り上げている骨太の演奏会が充実しているので、非常に有意義な音楽祭と言えるのではないかと思います。一般に、シェーンベルクの作風は、Ⅰ期:調性音楽の時代(~1908年)、Ⅱ期:無調音楽(表現主義)の時代(1908年~1920年)、Ⅲ期:無調音楽(十二音技法)の時代(1920年~)の3つの時代に区分されますが、今日の演目は、①(Ⅲ期前半)と②(Ⅰ期前半)-(休憩)-③(Ⅰ期後半)-(休憩)-④(Ⅲ期後半)と⑤(Ⅱ期)-(休憩)-⑥⑦⑧(Ⅰ期)という構成になっており、前半ではⅠ期:調性音楽とⅡ期:無調音楽(表現主義)又はⅢ期:無調音楽(十二音技法)を対比し、後半ではⅠ期:調性音楽の珍しい初期作品などが演奏されました。非常に演目が多く、本日の演目は前半(①~⑤)に比重が置かれていたと思いますので、後半(⑥~⑧)の感想は割愛します。なお、ディオティマ弦楽四重奏団は、ジェーンベルクの弦楽四重奏曲全集のほかにも数多くの現代作曲家の作品の音盤をリリースしており、次代を担う最も重要な弦楽四重奏団の1つと言えると思います。因みに、日本でもお馴染みのアンサンブル・アンテルコンタンポランの演奏会も視聴しましたが、2日間に亘る演奏会で非常に演目数が多いので感想は割愛します。個人的には、2日目のH.ホリガー「Klaus-Ur」、T.ミュライユの「臨死体験」、Y.マレシュの「アントルラ」やY.ロバンの「Ubergang」などは再演の機会があれば、是非、聴きに行ってみたい作品でした。
 
▼シェーンベルク著「和声法:和声の構造的諸機能」の整理
概念 説明 主音
(機能)
和声進行
progression
転調などにより調性や調域を移行するが、やがて調性が確立する和声の動き(拡張調性) 求心的 明確
和声連鎖
succession
転調などにより調性や調域を彷徨い、いつまでも調性が確立しない和声の動き(浮動調性) 遠心的 不明確
 
▼概念のイメージ(子供たちのための)
概念 イメージ
調 音の横のつらなり
和音 音の縦のつらなり
和声 和音の横のつらなり
機能和声 機能(※4)に基づく和音の横のつらなり
調性音楽 広義 主音がある音楽(※1)
狭義 機能和声に支配されている主音がある音楽
無調音楽 主音がない音楽(※2)(※3)
※1:五音音階は機能和声に支配されていない主音がある音楽として広義の調性音楽の一種
※2:主音自体が使われていなくても音関係から主音の存在が感じられれば調性音楽の一種
※3:浮動調性でも主音の存在を感じるので完全に主音の存在を感じない十二音音楽を開発
※4:主な和音の機能(安定や不安定を繰り返す和音の横のつらなりによる音楽的な文脈)
 
 
 
 
 
 
〇弦楽四重奏曲第3番(Ⅲ期前半)と弦楽四重奏曲ニ長調(Ⅰ期前半)
A.シェーンベルクは、最初の妻・マティルデの不倫で結婚生活が破綻していた1908年に作曲した弦楽四重奏曲第2番で調性音楽から無調音楽(表現主義)へと作風を変化し、さらに、第一次世界大戦を挟んだ1927年に作曲した弦楽四重奏曲第3番で無調音楽(十二音技法)へと作風を深化しましたが、第一次世界大戦で神(教会)や王を中心とする秩序作られた世界観(主音を中心とする予定調和な調性音楽)が破綻し、新しい世界(中心のない世界観)を表現するための新しい音楽(主音のない音楽)が求められるようになったと言えるかもしれません。A.シェーンベルクは、Ⅰ期:調性音楽の時代及びⅡ期:無調音楽(表現主義)の時代は革新的な楽式や編成などを積極的に試み、Ⅲ期:無調音楽(十二音技法)からは伝統的な楽式や編成への回帰が見られ、これと無調音楽(十二音技法)の融合を試みましたが、弦楽四重奏曲第3番も伝統的な4楽章形式が採用されています。第1楽章冒頭で第2ヴァイオリンとヴィオラが8分音符を忙しなく奏でるオスティナー音型(5音音列)が全楽章を通して展開されますが、A.シェーンベルクが語っているとおりブラームスの作風(短いモチーフを展開、構成することで楽曲全体に統一感を生み出す動機労作)の影響を受けていると言われています。この曲は時代の影を映すように陰鬱とした圧迫感や絶望感が支配的ですが、ディオティマ弦楽四重奏団は現代風にアク抜きした聴き易い演奏で魅了してくれました。各パートがバランスの良く緊密な呼吸感で呼応する有機的なアンサンブルを展開し、シャープな切れ味や軽快なリズム感の風通しの良い演奏が魅力的に感じられました。無機質に傾き過ぎることなく、テンポ、デュナーミクや間などを巧みに操りながらメリハリを効かせた活舌の良い演奏は音にドラマ性を生んでおり血潮の通う十二音音楽を楽しめました。これに続く弦楽四重奏曲ニ長調(俗に弦楽四重奏曲第0番)はA.シェーンベルクが24歳で最初に成功を収めた出世作で、その充実した筆致に非凡な才能が感じられます。ディオティマ弦楽四重奏団は第3番とは対照的に1stヴァイオリンのイニシアティブのもとに内声を豊かに薫らせながら心の綾を紡ぐ歌心溢れる流麗、優美な演奏で楽しませてくれました。とりわけ第3楽章の憧憬感を湛えたロマン薫る演奏や第4楽章の華やかにクライマックスを築く構築感のある演奏が聴き応えがありました。
 
〇弦楽四重奏曲第1番(Ⅰ期後半)
1905年に弦楽四重奏曲第1番が完成しますが、伝統的な4楽章形式を単一楽章にまとめて主題が循環する革新的な楽式を採用することで楽曲全体に統一感を増しています。この曲では未だ調性が維持されていますが、1907年にロゼ弦楽四重奏団により初演された際には、弦楽四重奏曲ニ長調とは反対に観客が激しい拒否反応を示し、G.マーラーがA.シェーンベルクを擁護したと言われています。弦楽四重奏曲ニ長調(俗に弦楽四重奏曲第0番)と並べて聴くと、明らかに調性が曖昧になっている印象を受け、無調音楽(表現主義)を先取りするような浮動調性に特有の浮遊感が漂う捉えどころのない音楽(弦楽四重奏曲第1番)であること明瞭に感じ取れ、今日の演目の配列意図を十分に堪能できました。ディオティマ弦楽四重奏団は精緻なアンサンブルで時に精妙に時にドラマチックに音楽をドライブする表情豊かな演奏で飽きさせませんでした。因みに、1913年3月31日にA.シェーンベルクの室内交響曲第1番(4度の不協和音程を使用)が初演された際には大乱闘に発展しましたが、同じ1913年5月29日にI.ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」が初演された際にも大乱闘に発展しました。当時の観客は伝統的なクラシック音楽の認知モデルの枠組みを大きく逸脱する新しい音楽に接して動物的な拒否反応(人間の脳は生存可能性を高めるために外界の情報を瞬時に判断できるように抽象的な認知モデルを創り出しますが(例えば、ニャンという鳴き声が聴こえれば猫と瞬時に判断するなど)、この認知モデルからかけ離れる外界の情報(例えば、これまでに聴いたことがない得体の知れない動物の鳴き声など)は生存可能性を低める可能性があるものとしてネガティブな感情を引き起こしてこれを忌避しようとする本能的な反応)を示していると言えます。人類が長年に亘って創り上げてきた認知モデル(常識や伝統など)を軽んじることはできませんが、その一方で、それは人間の環世界を前提として創り上げられてきたものでありこれが何か絶対性、普遍性又は不変性を体現するものであるかのように盲信することは軽率かつ傲慢な態度であり、個人的にはその認知モデルを揺さぶり又はこれを破ろうとするところに芸術の存在意義や醍醐味があるのではないかと感じています。この点、過去のブログ記事でも触れたとおり、人類は約5億年前の認知革命により社会性を備えて血縁関係を超える集団生活を営み始めますが、大まかに、「神による支配」-(科学革命)→「人による支配」-(市民革命)→「法による支配」という3段階を経て現代に至っており、そのうち「法による支配」は20世紀までの規制強化による規範化された社会を経て21世紀からの規制緩和による多様化された社会へとパラダイムシフトしています。20世紀までの中心がある世界観が行き詰まり21世紀からの(インターネットに象徴されるように)中心のない世界観へ移行されるようになって、漸くA.シェーンベルクが志向したとおり調性音楽(主音のある音楽)は相対的な価値観に過ぎず、無調音楽(主音のない音楽)にも相応の価値があると容認(認知モデルが再創造)され、調性音楽(主音のある音楽)と共に無調音楽(主音のない音楽)も受容されるようになってきたと言えるかもしれません。
 
〇弦楽四重奏曲第4番(Ⅲ期後半)と弦楽四重奏曲第2番(Ⅱ期)
1934年にユダヤ人のA.シェーンベルクはナチス・ドイツの迫害から逃れるためにアメリカに亡命し、1936年に弦楽四重奏曲第4番を作曲しています。弦楽四重奏曲第4番は伝統的な4楽章形式を採用した十二音音楽ですが、所々で調性や拍節への回帰が感じられるのはアメリカを中心とする国際秩序の回復(解決)を希求したものでしょうか。ディオティマ弦楽四重奏団はテンション高く活舌の良い演奏を展開し、ユニゾン(全体主義のメタファー?)と対位法(民主主義のメタファー?)の対照などその音楽性が明瞭な分かり易い演奏を楽しめました。これに続く弦楽四重奏曲第2番はA.シェーンベルクが妻・マティルデの不倫で結婚生活が破綻していた1908年に無調音楽(表現主義)へ踏み出した記念碑的な作品ですが、伝統的な4楽章形式を採用しながらも第3楽章及び第4楽章はドイツ象徴派詩人シュテファン・ゲオルゲの詩を使って弦楽四重奏と声楽の融合を図る革新的な編成が試みられ、かつ、第4楽章では無調音楽(厳密には浮動調性)が展開されています。妻・マティルデとの結婚生活を表現したものでしょうか、第1楽章や第2楽章では後期ロマン派の叙情や情熱、時には諧謔などが入り混じる幸福感のある演奏が聴かれましたが、これにソプラノが加わる第3楽章では弦楽が心情描写をするなか「深きはこの悲しみ、われを暗く包み・・われよりこの愛を取り去り、われに御身の幸福を授けたまえ・・」とドラマチックな歌唱で緊張感が高まり、これに続く第4楽章では弦楽が無調性の陰鬱した音楽を弱奏するなか「私は感じる どこか他の惑星からの風を・・暗闇を抜けて顔たちが蒼ざめてゆく・・」とソプラノの弱唱が病的な美しさを湛えてホールを満たす余韻深い演奏を楽しめました。I.クセナキスは著書「音楽と建築」で十二音音楽に象徴される線的思考を批判して「雲の音」なる概念を提唱しましたが、A.シェーンベルクが無調音楽(主音のない音楽)を切り拓くことで調性音楽(主音のある音楽)という強靭な認知モデルを相対化することに成功したことは音楽史に燦然と輝く金字塔として偉大な功績であると共に、その晩年には再び調性も採り込むバランス感覚(調性を排除するという闇の絶対性に支配されることなく、調性と無調性の境を無くして相対化することで音楽を自由にする態度)を持った天才作曲家であったと言えるのではないかと思います。
 
☞ 第34回芥川也寸志サントリー作曲賞ノミネート作品決定
先日、第34回芥川也寸志サントリー作曲賞ノミネート作品が発表されました。武満徹音楽賞は日本国籍だけではなく外国籍を有する方も対象とするワールドワイドな賞であるのに対し、芥川也寸志サントリー作曲賞は「日本国籍を有する者」「2023年1月1日~12月31日に国内外で初演されたオーケストラ作品」を対象とするドメスティックな賞ですが、今回、ノミネートされている河島昌史さんの作品はバーゼル作曲コンクール2023にもノミネートされており(因みに、木村真人さんの作品が第2位、神山奈々さんの作品が第3位に入賞)、また、山邊光二さんの作品は2023年度武満徹作曲賞で第2位に入賞していますので、芥川也寸志サントリー作曲賞も世界レベルにある賞と言えると思います。来る8月24日に選考演奏会及び第32回芥川也寸志サントリー作曲賞を受賞した波立裕矢さんの新作初演もありますので大変に楽しみですが、時代の価値観は規範性(モダニズム)から多様性(ポスト・モダン)に移行しており従来のコンクールのように順位をつけることにあまり意味がなくなっていることを前置きしたうえで、以下のノミネート作品はいずれも日本の音楽界をリードする世界レベルにある作品(作曲家)であることが認められたと言えると思いますので、あまり順位は気にせず、それぞれのノミネート作品の魅力を堪能させて貰おうと思っています。なお、2024年8月22日から2024年8月29日まで「サントリーサマーフェスティバル2024」が開催されますが、せっかくのサマーフェスティバルなので、ホワイエでよく冷えたサントリービールでも飲みながらほろ酔い気分で楽しみたいと思っています。
 
〇石川健人 ブリコラ-じゅげむ(2023年)
 初演:2023年6月16日
 場所:東京藝術大学第6ホール
 
〇河島昌史 e→eⅣ(2022年)
 初演:2023年2月10日
 場所:ドン・ボスコ・バーゼル(バーゼル作曲コンクール
 
〇山邊光二 Underscore(2022年)
 初演:2023年5月28日
 場所:東京オペラシティ コンサートホール
               (2023年度武満徹作曲賞本選会
 
〇第34回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会
【日時】2024年年8月24日(土)15:00~
【会場】サントリーホール 大ホール
【演目】波立裕矢 打楽器協奏曲(世界初演)
    上記のノミネート作品
【演奏】<Cond>杉山洋一
    <Perc>安藤巴
    <Orch>新日本フィルハーモニー交響楽団
【選考】<司会>白石美雪
    <委員>新実徳英、望月京、山本裕之
 
日本の作曲2020-2022年発刊
サントリー芸術財団が1969年から発刊している「日本の作曲」は、これまで10年毎に編纂されていましたが、最近の初演ブームを反映したものなのか、今後は3~4年単位で注目作品を選出する方針に切り替えられたそうで、先日、現在最も注目される日本の作曲家及び作品を選出した「日本の作曲2020-2022年」が公表されました。外国の作曲家及び作品が対象とされていないのは非常に残念ですが、さながら日本版グラミー賞現代音楽部門ノミネート作品と言った趣きがあり、最新の日本の現代音楽シーンを把握するには最適の指南書と言えいますので、これから現代音楽を攻略したいという諸兄姉にとって本書は良き羅針盤になるものと思います。もしサントリー芸術財団がなければ、日本の芸術文化は瘦せたものになっていたのではないかと思います。
 
現代オペラブームの到来
アメリカ人現代作曲家のジャン=カルロ・メノッティ(~2007年)のオペラ「ヘルプ!ヘルプ!宇宙人が襲ってきた!」(室内オーケストラ版/日本語上演)が今月末に武蔵野音楽大学で上演されます。アウトリーチ公演を含めて再演が続く日本でも人気が高い演目ですが、この公演も早々にチケットが完売してしまいましたのでチケットを入手できませんでした。定番オペラ(新制作を含む)に飽きている諸兄姉は多いと思いますので、最近の現代オペラブームは歓迎すべき潮流です。

第41回読響アンサンブル・シリーズ(鈴木優人)と東京藝術大学芸術未来研究場アートDXプロジェクト(河村絢音)と東京・春・音楽祭2024(成田達輝)とシアターピース「TIME」(坂本龍一、高谷史郎)と世界のサカモトの世界<STOP WAR IN UKRAINE>

▼世界のサカモトの世界(ブログの枕単編)
来る3月28日に一周忌を迎える坂本龍一さんですが、名前に「龍」の文字がつく人は辰年生まれの人が多く、坂本龍一さんのほかにも村上龍さんや芥川龍之介なども今年が年男の辰年生まれだそうです。因みに、坂本龍馬は辰年生まれではなく未年生まれですが、母・坂本幸が懐妊中に「麒麟」を受胎する夢を見たことに肖って、麒麟の頭=龍、麒麟の胴体=馬から「龍馬」と名付けたそうです。幕末、坂本龍馬のために奔走したイギリス人貿易商のT.クラバーは後に坂本龍馬の旧友・岩崎弥太郎の弟と協力してビール会社(現、キリンビール)を創立し、T.クラバーの提案で「麒麟」のエンブレムが採用されましたが、T.クラバーの手によって坂本龍馬はビールに生まれ変わり坂本龍一さんの音楽と共に現代人を酔わせ続けています。因みに、「麒麟」のエンブレムは、過去のブログ記事でも紹介した波の伊八こと武志伊八郎信由作の長福寺本堂欄間「雲と麒麟」(千葉県いすみ市)がモデルとして使用されています。なお、坂本龍一さんは自著「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」で自らのルーツに触れていますが、それによれば坂本龍馬との直接の関係はなさそうです。
 
 
さて、今回は坂本龍一さんの一周忌を迎えるにあたり、坂本さん(以下、「坂本さん」とは坂本龍一さんのこと)を追慕して供養したいという想いから世界のサカモトの世界と銘打って坂本さんについて書きたいと考えましたが、一応、巷に溢れる坂本さんに関する本(自著、他著)や音楽などには一通り触れてはいるものの、1ファンに過ぎない軽輩が坂本さんのことを無責任に書き散らかすことはできませんので、先日、NHKEテレで再放送された「SWITCHインタビュー達人達「坂本龍一X福岡伸一」」のEP1及びEP2で語られた内容に限り、その概要を簡単に採り上げてみたいと思います。この番組は、全く異なる分野の達人達の対談(エコトーン)により相互に共通するエッセンスなどを探る過程でどのようなスイッチ(シナプス可塑性)が生じるかというコンセプトによるクロスインタビュー番組で、坂本さんがアルバム「async」(坂本さんの命日2023年3月28日から6年前の2017年3月29日に発売)をリリースした年に予てから親交のあったロックフェラー大学客員教授(分子生物学)・福岡伸一さんと対談した模様を収録したものです。
 
▶ピュシスとロゴスの相克
芸術(音楽)と科学(生物学)の基本的な性質として、芸術(音楽)は一回性の表現(演奏は二度と同じ結果が得られないもの)であるのに対して、科学(生物学)は再現性の表現(実験は何度繰り返しても同じ結果が得られるもの)であるという意味で異なる営みのように見えますが、世界の成り立ちについてどのように表現するのかという意味では本質的な違いはないとも言えます。神の時代(神秘)から人間の時代(科学)へと移行したルネサンスを淵源とする20世紀型の思考は成果もありましたが、その弊害も見えてきています。本来、自然(ピュシス)はランダムなノイズに充たされた一回性の世界であり、科学はそのうちの再現性のあるシグナルのみを自然法則(ロゴス)として切り取ってきましたが、それによりノイズが見失われるようになったことでロゴスだけでは回収し切れない問題に対する新しいビジョンが必要になってきているという問題意識が示されました。この点、ドイツ人理論物理学者のJ.ユクスキュルは著書「生物から見た世界」で、人間以外の生物がどのように世界を知覚しているのかを説き表しましたが、過去のブログ記事でも触れたとおり、客観的に存在する「環境世界」に対し、それぞれの生物が知覚している主観的に存在する「環世界」(環境世界>環世界)があり、人間以外の生物はそれぞれの生存戦略として人間が捨象したノイズの一部を採り入れることを選択しているなど(例えば、可視域可聴域可嗅域など)、現代の科学はノイズを含めた総体として自然(古典物理学が記述するマクロの世界だけではなく、現代物理学が記述するミクロの世界を含む)を観察しなければ、この世界を正しく記述できないと認識されるようになっています。この点、前回のブログ記事でも触れたとおり、人間の脳は自らの生存可能性を高めるために偶然(ランダム)を嫌って理由(因果関係)を求める傾向があり、人間がコントロールし易いように偶然(ランダム)なものをロゴスで切り取って変形、加工しようとする認知特性(認識の監獄、即ち、言葉、分節や知識などによるロゴスの呪縛)から逃れられないというジレンマを抱えています。この背後には人間と自然は区分され(二元論的な世界観)、人間が自然の外側から自然を支配する者という認識がありますが、人間も自然の一部としてノイズを構成し(一元論的な世界観)、自然の内側から自然と共生する者であるという認識を持たなければならない時代状況にあり、過去のブログ記事(日本の耳が聞く蝉の声)でも触れた日本人が自然に対して持っていた鋭敏な感性を取り戻すところから始める必要があるかもしれません。このように芸術(音楽)や科学(生物学)が表現しようとする世界は、ロゴス(イデア、言語、論理、アルゴリズムなどで切り取られる人間中心主義的な世界)とピュシス(自然尊重主義的な世界観)の相克が絶え間なく交錯しているという問題意識が共有されました。
 
▶生命観(動的平衡)
生物は分子で構成されており、例えば、ネズミがチーズを食べるとネズミの分子の一部が分解されてチーズの分子に置き換えられますが、人間も約1年程度で体全体の分子が別の分子に置き換えられると言われています。科学は20世紀まで「作る」ことの研究が盛んでしたが、生命現象は「作る」ことよりも「壊す」ことの方が重要であることが認識されるようになると、20世紀末頃から「壊す」ことの研究が盛んになって、2016年に東京工業大学教授・大隅良典さんがオートファジー(自食作用)の研究でノーベル生理学・医学賞を受賞しました。福岡さんは著書「動的平衡」で、フランス人哲学者・H.ベルクソンが著書「創造的進化」で説いた「エラン・ヴィタール(生命の躍動)」やオーストリア人理論物理学者・E.シュレディンガーが著書「生命とは何か」で説いた「負のエントロピー」などの研究成果を参照しながら、生命現象とはエントロピー増大の法則(熱力学第二法則のことで、ここでは生命秩序の崩壊を意味しますが、これを簡単に言えば、分子がバラバラに分解していくイメージ)に抵抗して分子の分解と合成を繰り返しながら生命秩序の維持を図るためのバランス(動的平衡状態)を保とうとする作用ですが、常に分解のスピードが合成のスピードを上回っているので徐々に生命秩序の崩壊は進行してやがて消滅する運命にあり(ベリクソンの弧)、これが生命の有限性であると説いています。これを言い換えれば、ノイズから生命が合成されて、やがて生命はノイズに戻っていくとも言えます。(紙片の都合から詳細な内容は割愛しますが、ご興味がある方は引用書籍をご参照下さい。)
 
▶音楽観(async)
上述のとおり、人間はコントロールし易いように、本来、偶然的であるものをロゴスで切り取って変形、加工しようとする認知特性があり、自然(地)よりも自然法則(図)に意味を見出し、如何に自然法則(図)を美しいものに仕上げるのかということに価値を置いてきましたが、これはルネサンス以降の音楽についても同様のことが言えます。しかし、過去のブログ記事でも触れたとおり、禅や易学などの東洋思想の影響を受けたジョン・ケージは「ふつう〈音楽的〉と考えられているものに音が隷属させられている状態を拒否する」(著書「ジョン・ケージ 小鳥たちのために」)と宣言し、時間に従って音を構造化した図(音楽)ばかりではなく地(ノイズ)を聴くための偶然性(ランダム)を採り入れて、ロゴス(音楽的なもの)から音を解放しました。人間は時間や数字などに象徴される線形思考によりロゴスを使って世界を記述してきましたが、音楽も時間軸上に音符を並べて始点と終点がある線形的なものと考えられてきました。この点、現代音楽は分節ばかりに集中し、新たな連接の方法を見付け出せていないと言われてきましたが、坂本さんは直線的な時間の中で始点と終点を決める西洋音楽が一神教的な世界観であるとすると、もともと音楽はもっと多神教的、アニミズム的で始点や終点もなくタイムフレームからはみ出すようなものだったのではないかという考えから、線形ではない音楽、即ち、ピュシスとしての脳を持ち非線形的で時間軸がなく順序が管理されていない音楽を作れないものかと模索しているそうです。その意味では、坂本さんのアルバム「async」はベリクソンの弧のように音楽がノイズに戻りながらノイズから合成されるヒュシスの回復運動、本来音楽が持っている一回性のリズムなど、生命が発しているasync(非同期)を音楽的に表現したものと言えるかもしれません。人間が世界(ピュシス)を何らかの方法で表現しようとすれば、結局はロゴス化されることになりますが、坂本さんは「自然をできるだけありのままに記述する新しい言葉、より解像度の高い表現を求めることを諦めないこと、そのためにこそ音楽、科学、美術や哲学がある。文化と思想の多様性がある。」と看破されており、正しく慧眼です。坂本龍一さんが逝き、世の中が随分と味気ないものに感じられます。こんなことを口遊むのは、そろそろ僕も母なるノイズに戻って行くときが近いということかもしれません。なお、今月下旬に坂本さんが音楽監督を務めていた東北ユースオーケストラが坂本龍一監督追悼演奏会(既に東京公演は完売)を開催しますが、坂本さんが残した音楽文化のベリクソンの弧は次の世代へと受け継がれて音楽文化のヒュシスの回復運動として力強い歩みを続けています。
 
▼坂本龍一さんのアルバム「async」より「andata」
この曲には坂本さんの音楽観や死生観が表現されているのではないかと感じます。冒頭はピアノソロの演奏だけが流れますが、約55秒頃からオルガンが奏でる音楽はノイズの中から顕れ、ノイズと共に息衝き、ノイズの中へと戻って行く様子が表現されているかのようです。上述のとおり物質には合成と分解を繰り返す不思議な性質がありますが、この現象に宇宙、天体や生命の生滅の摂理が隠されています。この点、生物学者・福岡伸一さんが開設しているWebページの動画がイメージとして非常に分かり易く、この動画を観ながらこの曲を聴いてみることをお勧めします。大きな音楽が聴こえてきます。
 
▼第41回読響アンサンブル・シリーズ
【演題】第41回読響アンサンブル・シリーズ
    鈴木優人プロデュース
    2つのチェンバロ協奏曲とG.トラークルの詩による3つの作品
【演目】①J.S.バッハ チェンバロ協奏曲へ短調(BWV1056)
    ②A.ウェーベルン 6つの歌(作品14)
    ③H.ヘンツェ アポロとヒュアキントス
    ④鈴木優人 浄められし秋
    ⑤P.グラス チェンバロ協奏曲
【演奏】<Cond、Cem、Pf>鈴木優人①②③④⑤
    <Sop>松井亜希②④
    <CT>藤木大地③
    <Vn>戸原直①②③④⑤
        對島哲男①③④⑤
        赤池瑞枝④⑤
        太田博子④⑤
        寺井馨④
    <Va>森口恭子①③④⑤
        正田響子④⑤
    <Vc>唐沢安岐奈①②③④⑤
        林一公④⑤
    <Cb>瀬泰幸①④⑤
    <Fl>佐藤友美③⑤
    <Ob>荒木奏美⑤
        山本楓⑤
    <Cl>金子平②
        芳賀史徳②③
    <Fg>井上俊次③⑤
    <Hr>日橋辰朗③⑤
        伴野涼介⑤
    <Perc>金子泰子④
【場所】トッパンホール
【日時】2024年3月8日(金)19:00~
【一言感想】
読売日本交響楽団のクリエイティヴ・パートナーを務める鈴木優人さんが読響アンサンブル・シリーズでチェンバロ(古楽器)を使う現代音楽を採り上げるというので聴きに行きました。最近の顕著な傾向として、現代音楽を採り上げる演奏会で満席になる頻度が増えてきており、本日も満席の盛会になりましたが、徐々に、現代音楽を嗜む観客が増えてきている兆候ではないかと思われます。このような状況のなか、ストイックな響きやフットワークの軽さなどを特徴とする古楽器や古楽奏法を採り入れた現代音楽が注目されるようになってきていますが、昨年、BCJが霧島国際音楽祭で現代音楽を採り上げており、今後のBCJの動きからも目を離せません。人間の脳は飽きるように作られていますので、これからの時代の音楽家には定番曲を巧みに演奏するだけではなく世界中の新しい音楽の秀作(委嘱新作を含む)を発掘し、その魅力を観客に伝えてくれるような取組みにも期待したいと思っています。その意味で、鈴木優人さんのようにマルチな才能を発揮して多方面で活躍している逸材はいま旬の音楽家と言えるのではないかと思います。以下では、簡単に演奏の感想を残しておきたいと思います。
 
①J.S.バッハ チェンバロ協奏曲へ短調(BWV1056)
今日の演目はドイツ表現主義詩人ゲオルク・トラークルの詩を題材にした3つの声楽曲をJ.S.バッハとP.グラスのチェンバロ協奏曲(器楽曲)で挟むコンセプチャルな仕立てになっていましたが、チェンバロ(古楽器)とそれ以外の楽器(現代楽器)、J.S.バッハ(古楽曲)とP.グラス(現代曲)を対置して(十字架の縦棒「天の神」のメタファー?)、その間に麻薬中毒で現実と幻覚を彷徨ったトラークルの世界観を挟む(十字架の横棒「地の私」のメタファー?)というハイブリッドな演奏会になっていたのではないかと思います。上記のとおりチェンバロ(古楽器)以外は現代楽器が使用されていましたが、第二楽章がチェンバロの美観が際立つ好演でした。バッハの音楽は数多くの現代作曲家に影響を与え、その作曲にあたって参照され続けている文字通り天を仰ぎ見るような存在ですが、誤解を恐れずに言ってしまえば、P.グラスのチェンバロ協奏曲第一楽章を透かして見るとバッハの音楽の残照が浮かび上がってくるような肌触り感があります。(以下の囲み記事「チェンバロを使う現代音楽」で挙げているフランス人現代作曲家ジュール・マトンのチェンバロとオーケストラのためのバロック協奏曲第一楽章を聴いていても、音楽の父J.S.バッハの音脈を引く子が紡ぐ現代的なバロック(いびつ)であることが感じられて興味深いです。)
 
②A.ウェーベルン 6つの歌(作品14)
この曲は、A.ウェーベルンが様々な楽器編成で声楽曲を作曲していた時代の代表作ですが、G.トラークルの抒情詩集「夢の中のセバスチャン」から6篇の詩を選んで付曲したものです。セバスチャンとは、キリスト教徒を弾圧したディオクレティアヌス皇帝から処刑された近衛兵のことで、殉教後にキリスト教徒の夢の中に現れた聖人と言われています。G.トラークルは薬物中毒であったことが知られていますが、自然を題材にして独特な色彩、音韻や倒錯などを使って言葉(ロゴス)の意味を凌駕しながら夢(又は幻覚)の世界をイメージとして表現した詩人です。その一方、ウェーベルンはシェーンベルクの「1つの身振りで1編の小説を表し、1つの呼吸で1つの幸福を表す」という言葉に表されているとおりアフォリズム(物事の真実を簡素に表現する箴言警句を意味し、ヒポクラテスの「芸術は長く、人生は短し」という名言が代表例ですが、この言葉は坂本龍一さんのWebサイトでも引用されて話題になりました。因みに、世阿弥も「命には終りあり、能には果てあるべからず」(花鏡)という名言を残しています。)を音楽の特徴とし、無調音楽に傾倒しながら跳躍や緩急などを巧みに操って音楽に極度の緊張、凝縮を生む作風に魅力があり、それがG.トラークルの独特な詩の世界観と親和性があるように感じられます。この曲は、特殊な楽器編成(高音楽器:Vn又はCl、低音楽器:Vc又はBCl)で第1曲乃至第5曲は3つの楽器を多様に組合せた三重奏及び第6曲は4つの楽器の全奏で奏でられますが、全体的な印象としては閑寂とした趣きの中にも諧謔が入り混じる俳風に似た面白さが感じられました。読響メンバーの卓越したアンサンブル力により濃淡潤渇とした繊細さや奥深さを感じさせる集中力の高い演奏が聴かれ、これに呼応するソプラノの松井亜紀さんが高低強弱を淀みなく紡ぎながら、跳躍音の鋭さも感じられる研ぎ澄まされた清澄な歌唱には堂々とした風格や気品のようなものが感じられました。これまでのキャリアが一層と歌に磨きを掛けた印象があり、このアクのある難曲をすっきりとした後味良いものに感じさせてくれる好演でした。
 
H.W.ヘンツェ アポロとヒュアキントス
ギリシャ神話に登場するアポロンとヒュアキントスの物語(古代ギリシャでは同性愛は一般的でしたが、音楽の神アポロと恋仲にあった美少年ヒュアキントスに横恋慕した西風の神ゼフィルスが嫉妬の末に西風を吹かせてアポロンの投げた円盤をヒュアキントスに命中させてしまい、これによりヒュアキントスはヒアシンスの花になったという物語)は、W.A.モーツァルトの最初のオペラの題材にもなっています。20世紀半ば同性愛に不寛容であったドイツからイタリアに移住した同性愛者のH.W.ヘンツェがアポロンとヒュアキントスの物語を題材に選び、妹との近親相姦に苦しんだG.トラークルの抒情詩集「夢の中のセバスチャン」から「公園で」と題する詩を引用した意図を感じさせます。H.W.ヘンツェはオペラ作曲家として知られ、先日もH.W.ヘンツェが三島由紀夫の小説「午後の曳航」を題材にした傑作オペラ「午後の曳航(裏切られた海)」を採り上げた東京二期会の公演を拝聴しましたが、モダニズムからポスト・モダンへの端境期にあたる時代を生きた作曲家です。当初は十二音技法に傾倒していましたが、その後、斬新さ(革新的な様式)と聴き易さ(伝統的な様式)をバランスよく折衷した作風へ変遷していきました。この曲は十二音技法を使いながら新古典主義的な特徴も備えているという意味で、その片鱗が窺われると言えるかもしれません。この曲は女性のアルトが歌うのが通例ですが、本日の演奏では男性のカウンターテナー(変声期後の男性がファルセット唱法でアルトやメゾ・ソプラノの音域を歌うもので、変声期前のボーイ・ソプラノや去勢により変声期後も変声期前の声を維持しているカストラートとは異なります。)に代えて演奏されたこと、即ち、性をニュートラルにすること(女性の声域を男性に歌わせることによる性の倒錯)により、H.W.ヘンツェの作曲意図を効果的に演出するだけではなく、カウンターテナーの藤木大全さんの純度の高い透徹な声質が「朽ちた大理石」に刻まれた因縁深い歴史までも透かして映し出すような音楽的な効果を生んでいたと思います。大理石の彫像を思わせる十二音技法の無機質な肌触り感がある一方で、オペラ作曲家としての経験を感じさせる音が持つドラマ性や豊かな着想による劇的な展開などに惹き込まれる曲ですが、チャンバロと他の楽器陣が緊密に呼応するスリリングで雄弁な演奏を楽しむことができました。H.W.ヘンツェの作品は現代音楽の中では比較的に演奏機会が多いと思いますが、その作品価値に比べて日本での認知度や演奏機会は未だに低い印象を否めませんので、今後、さらに日本での認知度が向上して演奏機会が増えることを期待したいです。今日は、そんなことを改めて実感させられる充実した演奏でした。
 
④鈴木優人 浄められし秋
鈴木さんは、BCJの首席指揮者のほか、読売交響楽団のクリエイティブ・パートナー、関西フィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者を務めるなど飛ぶ鳥を落とす勢いの人気振りですが、東京藝術大学大学院古楽科及びハーグ王立音楽院オルガン科を卒業した古楽のエキスパートとして指揮者や鍵盤奏者の活動に留まらず、東京藝術大学作曲科も卒業した作曲家としても精力的に活動されており、そのバイタリティーには感心させられます。もともとバロック音楽(B)と現代音楽(C)は相性がよいと言われていますが、そのいずれにも精通している時代の寵児であり稀有な逸材です。この曲はG.トラークルの詩「輝く秋」を題材にしたものですが、パンフレットには「十二音音列的な旋律を描くソプラノ歌唱パートに対し、弦楽合奏はリズム・ユニゾンながらクラスター的な音響でそれを支え、コントラバス、ピアノとヴィブラフォンは、それらに体位的、対比的に絡まりながら進んで行く。」(音楽評論家・長木誠司さん)と楽曲解説が記されています。一聴した限りの感想になりますが、ユニゾンで力強く線(面)描する弦楽4部と、これに呼応して快活に点描するピアノ、ヴィブラフォン、コントラバスが対置されて音楽が展開されていきましたが、まるでジャズの編成のようなピアノ、ヴィブラフォン、コントラバスの組合せは非常に相性が良いもので、ジャズのグルーブ感を思わせる感興に乗じた面白い演奏を楽しめました。ソプラノの松井亜紀さんは詩情を湛えた優美な歌唱が出色で、上下に波打つような印象的な抑揚は「青い川を下る」又は「沈んでゆく」の様子を描写したものでしょうか、秋の憂いを帯びた美しい音風景を見ているようなヴィジュアルな印象を与える演奏を楽しめました。
 
P.グラス チェンバロ協奏曲
この曲は、P.グラスが2002年にノースウェスト室内管弦楽団から委嘱されて作曲した作品で、漸く2020年になって日本でも初演されましたが、僕も実演を聴くのは初となる貴重な機会となりました(鈴木さんと読響に感謝)。P.グラスは、チェンバロは古楽オーケストラよりも現代オーケストラの方が「力強くふくよかな響き」を作ることが可能であるという考えを持っており、以前からチェンバロを使った音楽の作曲に関心があったそうです。上述のとおり第一楽章はJ.S.バッハへのオマージュが感じられる曲想ですが、チェンバロと他の楽器陣が当意即妙に振る舞う自在なアンサンブルでミニマル・ミュージックが織り成す豊かなグラデーションを楽しむことができました。第二楽章はチェンバロがメランコリックに旋律を紡ぎ出し、それをヴィオラ、フルート、オーボエが歌い継ぐ叙情豊かな演奏に魅了され、この曲が湛えているチャンバロ音楽の美観の極致を汲み尽くす秀演を楽しむことができました。ヴラヴィー!第三楽章はアニメソングのような快活にしてユーモラスな曲想ですが、その垢ぬけたノリははっきりと好みが分かれるものかもしれません。今日は、そんなモヤモヤとした気持ちも割り切れてしまうような熱量の高い快演を楽しめました。
 
▼チェンバロ(古楽器)を使う現代音楽
チェンバロ(古楽器)を使う現代音楽は数多く作曲されていますが、Youtubeにアップされている音盤の一部を列挙しておきます。なお、日本人の現代作曲家もチェンバロ(古楽器)を使う現代音楽を数多く作曲していますが、Youtubeでチェンバロ(古楽器)を使っている音源が殆ど見当たりませんので列挙していません(今後、実演の機会が増えることを期待したいです)。
・ウォルター・リー (~1942年) ハープシコードと弦楽合奏のための協奏曲
・マヌエル・デ・ファリャ(~1946年)
・フランシス・プーランク(~1963年) 田園のコンセール
・クインシー・ポーター(~1966年) ハープシコード協奏曲
・ダリユス・ミヨー(~1974年) クラヴサンとヴァイオリンのためのソナタ
・フランク・マルタン(~1974年) 小協奏交響曲
・武満徹(~1996年) Rain Dreaming
・ヤニス・クセナキス(~2001年) ゴレ島にて
・ヘンリク・グレツキ(~2010年) クラヴサンと管弦楽のための協奏曲
・エリオット・カーター(~2012年)
・藤井喬梓(~2018年) 奈良組曲〜クラヴサンによる古都の七つの幻影
・クシシュトフ・ペンデレツキ(~2020年) 
・マイケル・ナイマン(1944年~) ハープシコードと弦楽のための協奏曲※日本公演
・ジョン・ラター(1945年~) 
・クシシュトフ・クニッテル(1947年~)
                   チェンバロと磁気テープのためのヒストワールⅢ
・ペテル・マハイジック(1961年~)
                   ハープシコードと弦楽のための協奏曲「既視感」
・フランシスコ・コル(1985年~) ハープシコード協奏曲
・ジュール・マトン(1988年~) チェンバロとオーケストラのためのバロック協奏曲
・ベンジャミン・アタヒル(1989年~) オペラ「パストラール」
 
 
▼東京藝術大学芸術未来研究場アートDXプロジェクト
【演題】東京藝術大学芸術未来研究場アートDXプロジェクト
【演目】①フィリップ・マリヌ パルティータⅡ(2012年)
    ②青柿将大 Soli2(委嘱新作/2023年)
    ③エマニュエル・ニュネス アインシュピールングⅠ(2012年)
【演奏】<Vn>河村絢音
    <Elc>佐原洸
【場所】東京藝術大学アーツ&サイエンスラボ
【日時】2024年3月17日(日)14:00~
【一言感想】
今日は、東京藝術大学が推進している「アートDXプロジェクト」の成果発表展として「ART DX EXPO#1」が開催され、ヴァイオリニストの河村絢音さんが「ヴァイオリンとライブ・エレクトロニクスのための作品委嘱と演奏発表」と題する研究成果の発表及び実演が行われるというので参加しました。今日の会場は、一昨年に竣工された国際交流棟(隈研吾設計)の隣にあるCOI活動の拠点であるアーツ&サイエンスラボ棟(音楽学部側)のドームシアターでしたが、東京藝大図書館の知的創生(エコトーン)の拠点であるラーニング・コモンズ棟(美術学部側)では3DCG、VRやメタバースなどのデジタル技術を使ったデジタルアーカイブ、コンセプチャルアートやゲームコンテンツなどの作品も展示されており、僅か10年前の東京藝大と比べてもその様変わりした革新的な姿に驚きを禁じ得ませんでした。何か新しいものを生み出そうと胎動しているエネルギーを感じます。因みに、これまで時代を拓いてきた東京藝大の正門は、僕にとっても奏楽堂や第6ホールへ足繫く通いながら夢を育んだ人生の1ページを飾る思い出の門ですが、先年、その再生プロジェクトに微力ながら協力した返礼として僕の名前が刻印されたレンガが埋め込まれています。これからも新しい時代を拓いて行く東京藝大の正門への「音楽の捧げもの」ならぬ「レンガの捧げもの」として。
 
 
河村さんはフランスやドイツに留学して研鑽を積んだ後に東京藝大博士課程に在籍してライブ・エレクトロニクスを研究しているそうです。具体的には、P.ブーレーズの「アンテームⅡ」、P.マヌリの「パルティータⅡ」、E.ニュネスの「アインシュピールングⅠ」などのヴァイオリンとライヴ・エレクトロニクスのための作品を題材にして「どのようにライブ・エレクトロニクスがヴァイオリン・パートに効果を与え、ヴァイオリン・ソロの手法と融合しているのか、両パートの双方向的干渉について研究」し、その研究成果を活かしてIRCAMで作曲研究を行っている現代作曲家・青柿将大さんにヴァイオリンとライブ・エレクトロニクスのための作品の作曲を委嘱したそうです。河村さんから説明された研究成果の詳細を公開することは控えますが、その概要の一部を簡単に紹介しておくと、P.ブーレーズの「アンテームⅡ」はヴァイオリン(アンテームⅠ)のパートの作曲後にエレクトロニクスのパートが作曲されているのに対して、P.マヌリの「パルティータⅡ」はエレクトロニクスのパートの作曲後にヴァイオリンのパートが作曲されているという違いがあり、それを踏まえて①ライヴ・エレクトロニクスがヴァイオリンの特性を増幅する効果と②ヴァイオリンとライブ・エレクトロニクスが双方向的に干渉(対話)する効果を解析及び比較すると、P.ブーレーズの「アンテームⅡ」は①の効果が高く、P.マヌリの「パルティータⅡ」は②の効果が高いことが判明したそうです。そこで、①の効果及び②の効果を両立させながらヴァイリンとライブ・エレクトロニクスを融合する作品を創作する試みとして、青柿さんにライブ・エレクトロニクスのパートを作曲することを前提にしてヴァイオリンのパートを作曲して貰い(Soli1)、それをベースにしてライヴ・エレクトロニクスのパートを追加(R.D.レインの詩集「結ぼれ」(1973年)にある文字と音をリンクして加工した音素材を使用してシュミレーション)して貰ったそうです(Soli2)。以上の研究成果の発表の後に実演が披露されましたが、P.マリヌの「パルティータⅡ」では、ヴァイオリンのパートとエレクトロニクスのパートが独立し、それぞれの世界観が対置、呼応するようなイメージの音楽に感じられました。これに対し、青柿将大さんの「Soli2」ではヴァイオリンが音楽を主導しながら、その世界観がエレクトロニクスによって拡張されて行くようなイメージの音楽に感じられ、この印象はE.ニュネスの「アインシュピールングⅠ」で更に強まり、ヴァイオリンの響きが拡張されてヴァイオリンの音とライブ・エレクトロニクスの音の境界が曖昧になって行く(アコースティック楽器の存在意義が希釈化されている)ようなイメージの音楽に感じられました。この点、青柿さんの「Soli2」は、Pマリヌの「パルティータⅡ」とE.ニュネスの「アインシュピールングⅠ」の中間にバランスしている印象を受けましたが、アコースティック楽器の存在感を残しながら、その世界観がライブ・エレクトロニクスによって拡張されていると共に、ライヴ・エレクトロニクスが独自にも振る舞うことでそれぞれの世界観が対置、呼応もしているようにも感じられ、ヴァイオリンとライブ・エレクトロニクスのための作品の表現可能性が拡げられている効果が感じられる面白い芸術体現になりました。河村さんと電子音響デザイン・作曲家の佐原洸さんはヴァイオリンとライブ・エレクトロニクスのユニット「Kasane(かさね)」を結成して新しい音楽の表現可能性を探求されているそうなので、今後の活躍に注目して行きたいと思っています。
 
 
▼東京・春・音楽祭2024
【演題】東京・春・音楽祭2024
    ミュージアム・コンサート:東博でバッハ 成田達輝
【演目】①J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番ト短調
    ②J.S.バッハ 
          無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番ホ長調
    ③J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番イ短調
    ④山根明季子 黒いリボンをつけたブーレ
    ⑤山根明季子 リボン集積
    ⑥山根明季子 リボンの血肉と蒸気
    ⑦山根明季子 パニエ、美学
    ⑧梅本佑利 Melt Me!
    ⑨梅本佑利 Embellish Me!
    ⑩J.S.バッハ シャコンヌ
【演奏】<Vn>成田達輝
【日時】2024年3月21日~オンライン配信
【一言感想】
今年も東京・春・音楽祭が開催されていますが、①現代音楽の公演及び②ストリーミング配信の公演が非常に充実しており未来志向の姿勢が感じられる点が他の音楽祭と比べて優れていると思います。コロナ禍後もストリーミング配信の公演を継続していますが、様々な事情で会場へ赴くことが難しい人々への配慮にもなり(SDGs:誰一人取り残さない社会の体現)、また、デジタル田園都市構想を見据えた新しい芸術受容のあり方を模索する意味でも必要的な取組みではないかと思います。これまでのように音楽を楽しむのに「正座」(殆ど教義化している演奏会マナーなるドクトリン)を強要されるような音楽受容のあり方は如何にも権威主義的で古めかしく、家飲みしながら気軽に現代音楽の生演奏を鑑賞できてしまうのは本当に贅沢な気分に浸れて満足度も高いです。非常に演目数が多いので、以下では各曲毎に一言感想を残しておきたいと思います。
 
無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番ト短調
まるでバッハの自筆譜を見ているような端正にして淀みなく流れる一筆書きの演奏が楽しめました。Adagio:気負いや衒いなどはなく滑らかなボーイングによる丁寧なフレージングで楚々と歌うナチュラルテイストの演奏、Fuga:1音1音を丁寧に鳴らす外連味や雑味のない演奏、Siciliana:このピースも1音1音を慈しむように慎重な足取りで紡いで行く演奏、Presto:春風を思わせる爽やかな軽快さが感じられ、デュナーミクを巧みに操りながら奥行きのある演奏を堪能できました。
 
無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番ホ長調
1音1音をゆるがせにしないしっかりとした足取りのリズム感がある演奏を楽しめました。Preludio:軽やかに飛翔するようなステップ感で、しかし1音1音が緻密に織り上げられていくような演奏、Loure:ゆっくりと慎重な足取りで繊細に歌わせる清潔感のある演奏、Gavotte en Rondeau:歌心があり、外連味のようなものがない誠実な印象を与える演奏、Menuett:華道に「花一輪に飼いならされる」という言葉がありますが、音楽に飼いならされて楽器を素直に鳴らす直向きな演奏、menuettⅡ:重音のバランスが良く、繊細なフレージングでポリフォニーの綾が美しく描かれる演奏、Bourree:生き生きとしたリズム感で澱みなくステップを運ぶ演奏、Gigue:誠実なアプローチですが、どこか小粋な遊び心も感じられる演奏を堪能できました。
 
無伴奏てヴァイオリンのためのソナタ第2番イ短調
東京国立博物館法隆寺宝物館エントランスホールの残響を上手く捕まえて、清澄な響きで深淵にして広がりのある無伴奏ヴァイオリン曲の醍醐味が感じられる演奏を楽しめました。Grave:1音1音が丁寧に紡がれ、情緒に流され過ぎない節度を保った品位ある演奏、Fuga:理知的に音を積み重ねて行く端正な造形美が感じられる演奏、Andante:低声部のリズムが遠景にコダマし、優しい歌い口にまどろんでいるような夢心地の演奏、Allegro:速いテンポながら細部の彫琢まで明晰に響かせる精緻な演奏を堪能できました。
 
④山根明季子 黒いリボンをつけたブーレ
⑤山根明季子 リボン集積
⑥山根明季子 リボンの血肉と蒸気
⑦山根明季子 パニエ、美学
⑧梅本佑利 Melt Me!
⑨梅本佑利 Embellish Me!
拙ブログの「現代を聴く」シリーズでもご紹介したことがある現代作曲家の山根明季子さんと梅本佑利さんはサブカル系現代音楽(少女性、日本のポップ、サブカルチャーというテーマを扱う現代音楽)の第一人者で、成田さんと共に現代音楽ユニット「mumyo」(合同会社無名)を結成して活動していますが(この名前は坂本龍一さんが枕草子に登場する琵琶の名前に因んで命名)、本日の演目は現代音楽ユニット「mumyo」の公演「ゴシック・アンド・ロリータ」で発表されたバッハの音楽を素材にした作品になります。「ゴシック」(バッハ)と「ロリータ」(少女性、日本のポップ、サブカルチャー)という水と油のような素材を容赦なく融合し、ゲルマン民族の四角い骨格をゆるふわっと換骨奪胎してしまう異次元の作風にシナプス可塑性が活発化し、その差分でドーパミンが大量放出してしまう面白さがあります。昨年末、山根さんの二管の笙のための「Showgirls」(因みに、showは笙の掛詞)という作品を拝聴する機会もありましたが、これもエルドリッチ風バッハという風趣で大変に面白い作品でした。楷書体で四角い感想を書いてしまうと興が削がれるので、草書体で丸い感想をゆるふわっと書いておきたいと思います。先ず、山根さんの作品から演奏されました。「⿊いリボンをつけたブーレ」は「無伴奏パルティータ第1番のプーレをもとに⻄洋の伝統と現代⽇本のストリートを重ね合わせて反復装飾を施した」曲ですが、バッハの音楽が拡張高く奏でられ始めたかと思うと、直ぐに調子が狂い出して無手勝流のダンスが展開されることを繰り返しながら変奏されて行きました。バッハの堅牢な彫琢を借りて、どこかたどたどしい多様性の時代が紡がれていく面白い作品で、現代にバッハが生きていればどんな曲を書いていただろうなと空想を膨らませながら愉しみました。「リボン集積」は「リボンという少⼥的アイコンを通して⻄洋⾳楽の崇⾼さの裏側を暴き出した」曲ですが、リボンのモチーフが音程や音型などを変えながら繰り返されて集積されていくリボンだらけの音楽になりました。成田さんが内股で演奏していたのは作曲家からの指定なのか又はこの曲が演奏者をそんな気分にさせるということなのか、新しい響きが心をハッキングして行くような面白い音楽を楽しみました。「リボンの⾎⾁と蒸気」は「加速する資本主義時代の⾁体の記憶をテーマに無伴奏ソナタ第2番のアレグロをコラージュした」曲ですが、オスティナートによる変奏を得意としたバッハの作風をデフォルメするようにモチーフが執拗に繰り返され、大胆なデュナーミクが施されていきました。さながら連写撮影するプリクラ風バッハと言った風情の音楽を楽しめました。「パニエ、美学」は「建築物のようなフーガを解体してストリートファッション⾵に裁断した」曲ですが、モチーフを転調や変奏によって裁断しながら音楽が展開し、バロック(いびつ)からヴァリアント(フォルクスワーゲンの造語で、たよう)を特徴とするコンテンポラリーが生まれる様子(B→C)を見ているようで楽しめました。突然、モチーフの途中で終曲しますが、地柄が途中で切断されて「ないものを描くデザイン」が体現されているようで興味深かったです。現代のデザインを見ると、四角が正義であった時代から角を丸めて容易なことでは正体を現さない流体が好まれるようになりましたが、時代は固定(古典物理学、クラシック音楽)から流動(現代物理学、コンテンポラリー音楽)へと移り変っていることを感じさせます。これに続いて、梅本さんが「ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」で使用されている⾔い回しからインスピレーションを受けた世界観をもとに「装飾(⾳)」について再考」した作品が演奏されました。「Melt Me!」は「溶けるケーキ=バッハのイメージで微分⾳的「装飾」を施した」曲ですが、どことなくバッハの風味を感じさせる曲調の音楽が奏でられ、溶けるケーキを表現したものでしょうか下行形のモチーフが音域を変えながら繰り返されました。梅本さんは2002年に生まれたZ世代ですが、ミレニアル世代よりも前に生まれた老輩には思いも付かない斬新な着想が非常に新鮮に感じられ、これからの時代を表現する新しい音楽を作ってくれる逸材であると大変に注目しています。「Embellish Me!」は「装飾⾳符が被装飾⾳の原型を留めないほど過剰に扱われる」曲ですが、今度は上行形のモチーフを細かいトリル(あまりに細かいトリルなのでグリッサンドに近い印象を受けますが、こちらも微分音が使われていたのでしょうか)を使って装飾音がデフォルメされていきましたが、メインカルチャーとサブカルチャーなど様々なものが越境して主客の別がなくなっていく現代の時代性を映すような面白い作品でした。人生の線路を走るエリートとそこから脱線した不良の2種類の人間しかいなかった昭和時代とは異なり、山根さんや梅本さんの斬新な音楽に触れてバッハの音楽に対する冒涜だと騒ぎだす三角定規のような角張った人間はいなくなりましたので、バッハの音楽で軽やかに遊ぶ奇抜な才気や感性に脱帽すると共に、今後も大胆な挑戦に期待したいと思っています。
 
⑩シャコンヌ
ヴラヴォー!この演奏が出色でして、この曲に真正面から真摯に取り組んでいることが実感できる充実した熱演に圧倒されました。演奏者の人生を思わせ振りに物語る芝居掛かったシャコンヌという印象はなく、成田さんの冴え映えとした技巧に支えられて、この曲が舞曲であることを思い出させてくれるステップ感のある演奏が展開されました。しっかりと音楽のドラマも伝わってくる1本筋の通った骨太の演奏を楽しむことができました。
 
 
▼シアターピース「TIME」
【演目】シアターピース「TIME」(日本初演)
【音楽】坂本龍一
【映像】高谷史郎
【主演】<Dans>田中泯、石原淋
    <笙>宮田まゆみ
【能管】藤田流十一世宗家 藤田六郎兵衛(2018年6月録音)
【照明】吉本有輝子
【PG】古舘健、濱哲史、白木良
【衣装】ソニア・パーク
【MG】サイモン・マッコール
【監督】大鹿展明
【技術】ZAK
【撮影】新明就太
【GF】南琢也
【音響】アレック・フェルマン、竹内真里亜、近藤真
【制作】湯田麻衣
【翻訳】サム・ベット(夏目漱石「夢十夜(第一夜)」「邯鄲」英訳)
    原瑠璃彦(「邯鄲」現代語訳)
    空音央(「胡蝶の夢」英訳)
【協力】福岡伸一
【場所】新国立劇場 中劇場
【日時】2024年3月30日(土)14:00~
【一言感想】ネタバレ注意!
他日公演がありますが、全公演が終わるまで待てませんので簡単に感想(注意:一部にネタバレあり)を残しておきたいと思います。もはやヴラヴィー!というスラングが陳腐に感じられてしまうほど含蓄のある作品でした。色即是空の世界観とでも言えば良いのでしょうか、言葉(ロゴス)で捉えようとすると掌から滑り落ちてしまうような、形なく相(すがた)を変え、色なく彩を放つ、さながら「水」のような作品でして、高谷さんが述べられているとおり、これから鑑賞を重ねる度に(さながら能面のように)違った表情を見せてくれる懐の広さや深さを持っている作品に感じられました。坂本さんは「パフォーマンスとインスタレーションの境目なく存在するような舞台芸術を作ろうと考え、「TIME」というタイトルを掲げ、あえて時間の否定に挑戦してみました。」と語られていますが、ここでの「時間の否定」とは時間芸術に象徴される過去から未来へと一方向に進む直線的な時間の流れ(時間感覚)の否定を試みたということだと思われます。過去のブログ記事で触れたとおり、人間の脳は物質の変化(エントロピーの増大)を知覚することで過去から未来へと一方向に進む直線的な時間の流れ(時間感覚)を認知しますが、相対性理論では時間が逆行する可能性(反物質)が指摘され、また、量子物理学では時間が離散的である可能性(クローノン)が指摘されており、現在では、過去から未来へと一方向に進む直線的な時間の流れ(時間感覚)は人間の脳が作り出す虚構であると考えられています(クオンタムネイティヴ)。この点、人間は1日周期で細胞のタンパク質の増減を繰り返すことで生体機能を管理する体内時計(身体性を前提とする因縁生)が備っており、その生命現象(ベリクソンの弧)が過去から未来へと一方向に進む直線的な時間の流れ(時間感覚:環世界)を生み出していると考えられていますが、上述のとおり「自然をできるだけありのままに記述」するために「環世界」(ロゴス)の呪縛から芸術を解放して「環境世界」(ピュシス)を描くための「より解像度の高い表現を求めることを諦めない」という創作的な試みが見事に結実している作品ではないかと思われます。上述のとおり懐の広さや深さを持った作品なので、この作品を見て何を感じるのかは人それぞれであり、そのような創造的鑑賞を許容する味わい深い作品と言えますが、僕はこの作品を能に擬えながら鑑賞しました。舞台上には、仏教が説く万物を生み出す五大元素(又は六大元素)、即ち、①(墓石で表現される「地」又は冥界の入口)、②「」、③④光(朱色の照明で表現される「」、黒闇で表現される「」(くう))、⑤スクリーンに映し出される画像(レースのカーテンで表現される「」、雲で表現される「」(の循環)など)が設えられ、⑥これに<>から作られたレンガ(「」のメタファー)と<>から伐採された小枝(「」のメタファー)が付け加えられているように感じましたが、さながら①石は此岸と彼岸の境界を画する能舞台の揚幕(地の底にある黄泉の国の神イザナミや地の底にある冥界を彷徨う森の木の妖精エウリディーチェに象徴される母なる大地は自然の循環により死(分散)から生(合成)へ輪廻する場所)、②水は此岸と彼岸をつなぐ能舞台の橋掛かり又はそれを介して顕在する本舞台(現実世界と夢幻世界又はロゴスとピュシスが交錯するハイブリッドな世界)、田中泯さんは現実世界と夢幻世界のあわひを旅するワキ、スクリーンに映し出される映像はワキが見る夢幻世界に顕在するシテのように感じられました。時間を分節する舞台幕はなく、いつ始まったのかどこからともなく雨の音(ロゴスで切り取ることができないピュシスとしての水の音)が緩やかに意識を捉え、また、いつ終わったのかどこからともなく風鈴の音(1920年にE.サティーが「家具の音楽」で聴かれない音楽を志向するよりも遥か昔の奈良時代から日本に存在していた風の音に戯れるアソビエント)が優しく意識を現実世界へと呼び覚ましましたが、一方向に進む直線的な時間の流れ(時間感覚)を画する「始まり」や「終わり」を感じさせない、即ち、人間が「環世界」としてロゴスで切り取る前から人間のタイムフレーム(時間感覚)を越えて存在している「環境世界」の存在を意識させる演出になっていました。宮田まゆみさんが「曲の方向性はジョン・ケージの音楽にも共通するものがあると思います。人間の感覚や情緒を表すのではなく、もっと大きな宇宙や自然の秩序を映している。そして人間もその宇宙の一部であることを感じさせる。」と書かれていますが、雨の音、石の音や鐘の音などのサウンドスケープと共にエレクトロニクスで「宇宙の音」(NASAが惑星や衛星が発する電磁波などを採取して人間の可聴音域に変換した音)を想起させる音響が奏でられました。J.ケージが語っているとおり、(西洋の)アコースティック楽器は調性音楽(ロゴス)を奏でるために改良されてきた歴史があり、そのために調性音楽以外の音楽(ピュシス)を奏でることには不向きであるという特徴がありますが、「環世界」(ロゴス)の呪縛から解放されて「環境世界」(ピュシス)を表現するための音楽にはエレクトロニクスを含む新しい楽器又は奏法による表現可能性の大幅な拡張が必要であると思われます。月夜のような淡い照明の中を宮田さんが宇宙を体現する笙の音を奏でながらゆっくりと水場を歩みましたが、「水清ければ月宿る」という言葉が持つ透明感をイメージさせる幻想的で美しい舞台に心を奪われました。幽光に浮かぶ宮田さんのシルエットがゆっくりとした足取りで歩みを進めると水場に「波紋」が広がるのが分かりましたが、ロゴスが象徴する直線的な時間(音)ではなくピュシスが象徴する離散的な時間(音)が表現されているようであり、正しく「音を視る、時を聴く」という風趣を湛えている舞台に魅了されました。宮田さんは「今は音楽にしても、映像にしても、空間にしても、とてもエモーショナルであったり、エンタテイメントとして刺激の多いものであったりすることが多いですよね。でも、この作品ではそういうものから離れて、もっと自然の中にある人間の存在を俯瞰で見ることを意識しました。その感覚は雅楽にも共通しています。」と語られていますが、ショパンの言葉を翻案すれば、バッハは「神」を表現するための音楽、ベートーヴェンは「人間(理性)」を表現するための音楽、ショパンは「人間(本能)」を表現するための音楽(いずれも環世界を表現するための音楽)を創作したのだとすれば、現代は人間中心主義に対する猛烈な反省から「自然(その一部としての人間を含む)」を表現するための音楽(環境世界を表現するための音楽)などが求められている時代であると言え、宮田さんが奏でる宇宙を体現する笙の音による神の栄光や人間の葛藤、渇望などのロゴスとは無縁の深い静寂が織り成す無為自然な世界観に心が澄まされるような感覚を覚えました。この舞台では、宮田さんがピュシスを体現し、田中さんがロゴスを体現していましたが、田中さんが水(ピュシス)を畏怖する様子を表現することで、かつて自然に畏敬の念を持ち自然と共生していた時代の人間の姿(レンガを並べるシーンの伏線)が象徴的に描かれているように感じられました。その後、夏目漱石の「夢十夜」(第一夜)を朗読する田中さんの声の録音が流れ出し(夢十夜のあらすじは割愛)、それに合わせて石(此岸と彼岸の境界)の近くの水場に横たわる女性(石原さん)と田中さんによるパフォーマンスが静かに展開されました。やがて自ら予告したとおり女性が死ぬと、スクリーンにはオルフェウスよろしく冥界の入口を探して石垣を彷徨うような田中さんの姿の映像(夢幻世界)が映し出されて、それを後追いするように水場を歩く田中さんの姿(現実世界)が(確率的に)共存し、やがてこれらの姿が重なるとスクリーンに映し出された田中さんの姿の映像は消えて水場を歩く田中さんの姿だけが残りましたが(波の収縮)、宛ら「シュレディンガーの猫」ならぬ「シュレディンガーの泯」が描く多世界解釈(量子物理学の世界観)を表現するコンセプチャルなアートのように感じられ、大変に興味深いシーンでした。その後、「夢十夜」(第一夜)の夢の途中で「邯鄲の枕」の夢が挿入され(邯鄲の枕のあらすじは割愛)、田中さんが水場に設えられた長椅子(邯鄲の枕)に伏せると、スクリーンには邯鄲の枕の夢として森林の映像が映し出され、木から作られた紙をめくる音、木から作られたピアノの内部奏法の音が聴こえてきましたが、本やピアノ(ロゴス)に価値を置くのではなく、本やピアノに使われている素材そのもの(ピュシス)に価値を置くことでロゴスとピュシスの価値の倒置を示唆すると共に、スクリーンには廃屋の映像、釜戸の映像、皇居の歴史的な建造物と丸の内の近代的な高層ビルの映像が映し出され、いくつもの異なる時間が重なり合う離散的な世界の中で物質が合成と離散を繰り返しながら万物が流転する世界観が象徴的に表現されているように感じられましたが、田中さんはそれらの邯鄲の枕の夢(離散的な時間の中に刹那的に顕れるロゴスとピュシスの相克)から目覚めて人生(ロゴス)の儚さを悟ります。再び、夢十夜(第一夜)の夢に戻り、田中さんは死んだ女性を土(地)に埋葬しますが、スクリーンには人間の営みを記録した沢山の画像が走馬灯のように過ぎ去った後、一輪の百合の花(中国では葉が何枚も重ね合わさる姿から「百合」(ヒャクゴウ)と書き、日本では花が風に揺れる姿から「揺り花」(ユリバナ)と言ったことから、日本語の「百合」(ユリ)という言葉になりましたが、ユリという言葉には「後で」という意味もあることから「何度でも逢える」という比喩表現として和歌などで使われるようになり、現代でも故人の枕辺に供える枕花として愛用されています。)が映し出され、田中さんは「百年はもう来ていたんだな」と人生(ロゴス)の儚さを悟ります。夢十夜(第一夜)では100年の「現実」を一瞬と捉える夢幻世界の中に生きる男と邯鄲の枕では50年の「夢幻」を一瞬と捉える現実世界の中に生きる男が対置されていましたが、夢幻世界の中に生きる男が見ている現実と現実世界の中に生きる男が見ている夢幻はいずれも脳が見せている虚構の世界とも言え、そのいずれが真実なのか又はそのいずれも真実ではないのか人間の知性では計り知れず、人間のタイムフレーム(時間感覚)では捉え切れない世界のあり様について取り留めもなく思いを巡らせました。田中さんは道具箱の中から土で作られたレンガと木から伐採した小枝を取り出し、これらを水場の向こう側へ渡るために直線的に並べる様子がパフォーマンスされました。高谷さんが「ロゴスとは物事をレンガのように分割して整理していく考え方、論理や言語ですね、そしてピュシスとは自然そのものです。つまり人間はピュシスをロゴスによって理解しよいうとするわけです。この作品はロゴスとピュシスの話が反映されていて、ピュシスをロゴスで制御しようとする人間を、田中泯さんがレンガを作った水の中の道を通って向こう側へ渡ろうとする姿で表現し、宮田まゆみさんの笙、そして水がピュシスの象徴になっています。」と書かれていますが、田中さんは冒頭での水(ピュシス)を畏怖する様子とは対照的に、レンガと小枝(いずれもロゴスのメタファー)を水場に直線的に並べて水(ピュシス)をコントロールしようと腐心する姿が象徴的に描かれていました(濁流が発生するシーンの伏線)。その後、スクリーンには荘子「胡蝶の夢」の原文(ロゴス)が水(ピュシス)に溶けて行く様子が映し出されました。ここで胡蝶の夢のあらすじには触れませんが、荘子「胡蝶の夢」では「現実の自分と夢で蝶になった自分のどちらが真実なのかを決めることなどせず、両方をあるがままに受け入れることが重要である。その境地に達することで真に自由な人間になれる」と説かれており、人生(ロゴス)の儚さを悟りその呪縛から解放されて自然(ピュシス)としての自分を回復する無為自然な生き方の有難さが身に染みてくるようです。その後、能楽笛方藤田流十一世宗家(現在は観世宗家預かりの空席)の藤田六郎兵衛さんが生前最後に吹いた笛の音の録音が流されましたが、笛の音はユリによる揺らぎを特徴として謂わば音の「揺り花」といった風情を湛えており、「芸術は長く、命は短し」を体現する感慨深い演出になっていました。やがて水滴の音が聴こえ出して、スクリーンには濁流(ピュシス)の映像が映し出されて田中さん(ロゴス)が飲み込まれましたが、坂本さんが生前に心を尽くされていた東日本大震災の記憶も影響しているシーンと言えるかもしれません。再び、雨の音、石の音や鐘の音などのサウンドスケープと共にエレクトロニクスで「宇宙の音」を想起させる音響が奏でられ、月夜のような淡い照明の中を宮田さんが宇宙を体現する笙の音を奏でながらゆっくりと水場を歩みましたが、上述のとおりどこからともなく風鈴の音(終わりを予定しない風の音)が聴こえ出しました。おそらく観客が風鈴の音の中を三々五々に退場することを企図したものではないかと思われましたが(粋)、今日の公演では風鈴の音の途中で「時間を分節する拍手」(ロゴスの音)が巻き起こってしまい(野暮)、大変に興を削がれてしまったのが残念でした。このようなことはクラシック音楽の演奏会などでも何度か経験していますが、(演目によっては)能の鑑賞と同様に拍手や歓声はご遠慮頂いても良いかもしれません。冒頭でも述べたとおり、この作品に何か見通しの良いナラティブを発見しようとすることはロゴスの呪縛に囚われることを意味し、この作品の本質から遠のいてしまうような気がします。ロゴスでは捉え切れない曖昧模糊としたものを残しながら、この作品を何度も繰り返し鑑賞するうちにロゴスから解放されてピュシスの境地を幻想する瞬間を体感することできるような気がしており、そのことでしかこの作品の本質に迫ることは難しいのかもしれません。これまでのクラシック音楽や前衛音楽とは全く異なる地平、高みにある新しい表現であると感じられ、文化的限界点という言葉を軽々しく口にしたがるチープな風潮とは異なって「芸術は長く、命は短し」という言葉の持つ重みが実感できる貴重な芸術体験になりました。「世界のサカモト」と言われる所以の一端に触れる作品に圧倒され、余人を持って代え難い本当に惜しい人を亡くしてしまったという喪失感が募ります。坂本さんと共に更なる新しい地平、高みを見てみたかったという思いを一層と強くしていますが、きっと、その志はこれからも高谷さんが育んで行ってくれるものと期待しています。
 
 
▼オペラ「ナターシャ」(委嘱新作/世界初演)
先月、新国立劇場が2024/2025シーズンを発表し、日本を代表する現代作曲家・細川俊夫さんのオペラ「ナターシャ」(委嘱新作)が世界初演されます。果たして、チケットが取れるのか分かりませんが、いまから大変に楽しみです。もしチケットが完売し、採算性や権利処理などの問題もクリアできれば、全世界に発信する新国ライブビューイング(オンライン配信)もご検討頂けないものかと夢が膨らみます。すでに脳内のお花畑は満開です🌸
 
▼映画「Ryuichi Sakamoto | Opus」
来月、坂本龍一さんが最後に開催したピアノソロ・コンサート(NHK509スタジオ)の模様を収録したコンサート映画が公開されます。坂本さんが長年愛用してきたカスタムメイドのヤマハ製グランドピアノを使用して、自ら選曲した20曲を演奏したもので、文字通り坂本さんの「白鳥の歌」と言って過言ではない貴重なコンサート映画です。僕が坂本さんのピアノ演奏を最後に聴いたのは赤坂ARTシアターで開催された「ロハスクラシック・コンサート2008」(坂本さんのプロデュース)でしたが、未だ無名だったピアニストの小菅優さんを紹介されていたのを印象深く覚えています。坂本さんが小泉文夫さんに触れながらアメリカのクロスカルチャーの潮流について熱く語っておられ、大変に触発されたことを思い出します。昔から「バカの長生き」という耳の痛い言葉がありますが、時代に必要とされている人物から他界していってしまいます。

向井響作曲個展「美少女革命」/カムイとアイヌの物語「イノミ」(ウポポイ)/オペラ「長い終わり」(高橋浩治)/アンサンブルフリーEAST第20回演奏会(大熊夏織)とナラティブを拡張する「推し」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ナラティブを拡張する「推し」(ブログの枕単編)
東京スカイツリーがある東京都墨田区押上の地名は、隅田川が東京湾へ注ぐ河口に堆積した土砂でげられて出来た陸地であることに由来しています。古地図を見ると、縄文時代には、武蔵野台地(東京)、大宮台地(埼玉)及び下総台地(千葉)以外は海湾が張り出し、東京都台東区浅草やその周辺には大小の島々が点在していたことが分かりますが、この近隣に向島、牛島、寺島、京島などの「島」の言葉が付く地名が多いのは、昔、実際に島や洲があった名残りと言われています。因みに、2012年に完成した東京スカイツリーの高さは「武蔵」の語呂合わせから634mになっていますが、その高度を利用して光格子時計を使った相対性理論に基づく時空の歪みの実証実験などが行われており、押上の陸地は人類の知性もげていると言えるかもしれません。
 
▼「ファン」と「推し」の違い
言葉 メディア 特徴 ナラティブ
ファン
(主体)
マスメディア
(一方向)
愛好
専有:縦関係
内への凝縮
個人的:1対1
推し
(客体)
ナノメディア
(双方向)
応援
共有:横関係
外への拡散
集団的:1対多
 
前回のブログ記事でナラティブについて簡単に触れましたが、現在、ナラティブを拡張する「推し」が注目されていますので、ごく簡単に触れてみたいと思います。「推し」という言葉は20世紀から21世紀へ移行する時期にインターネット(インタラクティブ通信)の登場、普及と共に使われるようになり、自ら執心するアイドルを応援する意味で使われていた「一押し」(イチオシ)が転じたものと言われています。インターネットの登場、普及に伴う情報革命によりマスメディア(アナログ)からナノメディア(デジタル)へ移行しましたが、初期のインターネットは未だシンプレックスな性格が強く片方向の情報流通が主流だったので自ら執心する対象を個人的に愛好すること(受動的な姿勢)を専らにしていましたが、SNSの普及に伴ってインタラクティブな性格が強まり双方向の情報流通が主流になるとSNSの共有機能(「いいね」によるクチコミ効果、「リツイート」、「シェア」や「ハッシュタグ」による情報拡散など)を活用して自ら執心する対象を応援すること(能動的な姿勢)によってエコーチェンバー現象が生まれて集団的に結び付くようになりました。前回のブログ記事でも触れましたが、これらを利用してインフルエンサーを使ったステルス・マーケティングなどによるナラティブ操作が社会問題化しています。このような状況のなか、2021年にユーキャン新語・流行語大賞には「推し活」がノミネートされ、また、2023年にネット流行語100大賞には「推しの子」が選ばれており、さらに、コロナ禍や能登半島地震などの復旧、復興を応援する「推し活」(クラウドファンディングふるさと納税など)が注目を集めるようになっています。この点、自ら執心する対象を愛好する「ファン」という言葉に対して、自ら執心する対象を「推し」(これを応援することを「推し活」「推し事」)という言葉が区別されて使われるようになり、そのうち最も熱を入れて応援する対象を「神推し」、また、そのうち完全に魅了されて信奉する域に達した対象を「尊い」として別格に扱うなど、多彩なナラティブを紡いでいます。
 
▼ナラティブを投射するメディアとしての「推し」
推論 内容 妄想の投射
帰納的推論 事象に基づいて一般的な法則を導き出す推論 通常
投射
演繹的推論 一般的な法則に基づいて事象を導き出す推論
アブダクション 事象や法則を仮定し、それらに基づいて新しい法則や事象を導き出す推論 異投射
虚投射
 
過去のブログ記事でも触れたとおり、人類は、紀元前5万年頃の突然変異で脳がミラーニューロン(1996年にイタリア・パルマ大学教授のG.リッツォラッティが発見)を獲得したことで他人の言動を自分の脳に置き換えて追体験やシュミレーションなどを行うことができる高度な認知能力を獲得しましたが(認知革命)、それにより他人の心理、意図や文脈等を推測し、他人の言動の意味を理解して共感(エンパシー)することが可能になったことで社会を形成し、血縁関係を越えた集団を形成する高度な社会性を備えるようになりました。人間は、この共感能力を獲得したことで「推し」が成功すると自分も成功したような快感(代理報酬)を覚えるようになり、これが「推し」を応援するようになった根源的な理由ではないかと考えられています。旧石器時代、人間は、より大きな獲物を捕獲するために集団で狩猟していたと考えられていますが、自分が獲物を捕獲するだけではなく、一緒に狩猟を行う仲間が獲物を捕獲することによっても食料を摂取することが可能になりましたので、その経験を通して代理報酬を感得するように進化したのではないかと考えられています。即ち、一緒に狩猟を行う仲間は獲物を平等に分かち合うことで集団を平和的に保ち、その結束を強めて協力関係を構築するようになり、それによって大きな獲物を捕獲する可能性も高まり、もって自分の生存可能性も高まるという経験を長い進化の過程で繰り返してきたと考えられています。このように「推し」(大きな獲物を捕獲する者)と自分達(自分及びその他の一緒に狩猟する仲間)が同じナラティブ(大きな獲物の捕獲という目標)に共感し、「推し」がそのナラティブを実現すること(大きな獲物の捕獲)で自分達もそのナラティブの実現を追体験して(大きな獲物を獲得し、それを皆で分かち合う)、もっと「推し」を応援する(大きな獲物を捕獲できるように協力する)という関係性が成立します。また、人間は、言葉を獲得したことによって多様なナラティブ(大きな獲物の獲得という具象的な目標だけではなく、人間の生存可能性を高めるための他の様々な要素を包含し得る抽象的な目標。例えば、宗教、権威、国家、貨幣やその他のナラティブなど)を創造し、これに共感することで集団の結束の強化と共にその拡張が可能になりました。前回のブログ記事でも触れたとおり、人間は、①知覚(推論):感覚器官が体の内外から情報を受け取ると脳が仮説の筋道(プロット)をシミュレーションし、②記憶(検証):その仮説の筋道(プロット)と過去の記憶を照合して、③認知(判断、行動):それらの間に発見されたミスマッチを修正して「現実」(ナラティブ)を仕立てると共に(これは「差分」と言い換えることもできるもので、その差分の大きさに比例して脳の報酬系が活性化)、それに適応した感情を作り出して必要な行動を促します。この点、人間の脳が認知に利用する情報は、感覚器官が体の内外から受け取る生の情報量よりも人間の脳が仕立てるナラティブの情報量の方が約10倍も多いと言われており、人間の脳は生の情報よりもナラティブの情報を重視するように設計され、人間の脳が認知する「現実」(ナラティブ)は生の情報を忠実に反映したものではないと考えられています。このように外界の情報(感覚器官が体の内外から受け取る生の情報量)を過去の記憶と照合しながら意味付けを行い、それによって創り出された意味付けを外界に投射し(即ち、物理世界と精神世界を重ね合わせ)、それにより自分が意味付けた外界(プロジェクション)を自分の人生観や世界観に上手く組み込んで仕立てたナラティブを生きています。この点、他人が生きているナラティブやそれを構成しているプロジェクションを調べる方法として映画「沈黙」で描かれている「踏み絵」が典型的ですが、現代でもアンケート(演奏会の感想を含む)やビックデータなどの様々な手法が使われており、さらに、上述のとおり様々な手法を使って他人のナラティブを操作しようとする試みなども盛んになってきています。人間は他人と異なるプロジェクションを生成し、それをナラティブに仕立てているので、同じ芸術作品を鑑賞しても、その芸術作品に映し出される意味付けやそれに基づく感想なども異なってきます。また、上述のとおり人間は具象的なものだけではなく抽象的なものを創造してそれを他人と共有する能力を持っていますので、例えば、芸術作品の余白に様々な意味付けを行って愉しむという芸術鑑賞の醍醐味(広陵たる精神世界の広がり)を可能にしており、過去のブログ記事で触れたとおり、例えば、枯山水、俳句や能に代表される「描かれないもの」も味わい尽くすという芸術鑑賞(アブダクション)などに見られるように、芸術表現における鑑賞者との関係性を重視する傾向が顕著になってきています。この点、「推し」は、宗教や権威(社会のナラティブ)などに代わって、鑑賞者の多様な個性(多様なプロダクションによる個人のナラティブ)を紡ぐ精神的な営みを豊かに彩ると共に、社会との接点(SNSなどのインタラクティブな場)を生み出すなど、これをダイナミックに拡張してくれる古くて新しいメディア(但し、多様なプロダクションと親和的なメディアである必要があることから、昔のようなスターやキラーは生まれ難くなっている)と言うことができるかもしれません。
 
▼推しかつ🐷
昔、BS-TBSで「東京とんかつ会議」という番組があり、料理評論家・山本益博さんの食べっぷりに惹かれて見ていましたが、推しかつ揚げに因んで、この番組を素材とする書籍をあげてみました。ここで謎かけを1つ「かつ揚げと掛けて、推し活と説く、その心はとことん熱中するとうまくあげられます。」オソマツ💦
 
▼向井響作曲個展「美少女革命」
【演題】向井響作曲個展「美少女革命」
【演目】①ピアノとエレクトロニクスのための「東京第七地区」(2017年)
    ②無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ(2022年)より
                第1曲:グラーヴェ、第2曲:メロディア
    ③チェロとエレクトロニクスのための
               「マグノリアの花」(2023年/日本初演)
    ④ユーフォニアムとエレクトロニクスのための
         「美少女革命/Drama Queens」(2022年)
    ⑤尺八とリコーダーのための「二人静」(2021年)
    ⑥乙女文楽、アンサンブル、電子音響、ヴィデオのための
         「美少女革命/本朝廿四孝 奥庭狐火の段」(世界初演)
     <乙女浄瑠璃>ひとみ人形座
【作曲】向井響
【映像】向井響
【音響】島村幸宏
【照明】植村真
【デザイン】阿部花乃子
【制作】田中真緒
【出演】<Elc>向井響⑥
    <尺八>長谷川将山⑤⑥
    <Rec>中村栄宏⑤
    <Eup>佐藤 采香④⑥
    <Vn>千葉水晶②⑥
    <Vn/Va>石原悠企②⑥
    <Vc>北嶋愛季③⑥
    <Pf>小倉美春①
    <Pf>田中真緒⑥
【会場】トーキョーコンサーツ・ラボ
【日時】2024年2月20日(火)19:00~
【感想】
人形浄瑠璃文楽「本朝廿四孝 奥庭狐火の段」を題材にした乙女文楽(女性の技芸員による一人遣いの文楽)とのコラボレーションによる新作が発表されるというので聴きに行く予定にしています。公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、公演の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
今日は向井響さんの作曲個展「美少女革命」を聴いてきましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。平日にも拘らず満席となる盛会でしたが、知る限り、昨年後半頃から現代音楽をメインに採り上げている演奏会の満席が目立つようになってきた印象を受けますので、漸く日本の観客も覚醒してきたということかもしれません。向井響さんは桐朋音大及びハーグ王立音楽院を卒業後にポルト大学(ポルトガル)でデジタルメディアを学び、現在、ポルトガルの民謡、日本の伝統芸能、エレクトロニクスなどを中心に研究されているそうですが、これまでにローソン・メイ作曲賞、マリン・ゴレミノフ国際作曲賞、第6回マータン・ギヴォル国際作曲コンクール第1位、ORDA-2019作曲部門第1位、2018年ストラスブール現代音楽祭最優秀賞などの華々しい受賞歴がある最も注目されている若手現代作曲家の1人です。昨年、第33回芥川也寸志サントリー賞を受賞した若手現代作曲家の向井航さんとは双子の兄弟で、彼らの諱である「響」(ひびき)と「航」(わたる)から彼らの音楽が海を越えて世界に響き渡るようにという願いが込められている(?)のかもしれませんが、それが現実のものになっています。なお、トウキョウ・コンサーツ・ラボがある早稲田界隈はラーメン激戦地としても知られていますが、早大女子に人気が高いラーメン「とも」は麺も汁も風味が豊かなのでお試しあれ。
 
①東京第七区
この曲は2020年マリン・ゴレミノフ国際作曲賞を受賞している作品だそうですが、豊洲移転前の築地市場でコンクリートが延々に広がる静かな空間にインスピレーションを受けて、実際に存在しない東京第七区(行政区、管轄区又は選挙区?)を想像しながら作曲したそうです。会場の四隅にエレクトロニクスのスピーカー4基が設置され、会場の照明を暗く落して聴覚を研ぎ澄ませるような舞台演出が取られるなか、ピアノの音響(アナログ)をエレクトロニクスのスピーカー(デジタル)で拡張又は装飾することでアナログ(現実)とデジタル(バーチャル)をシームレスにつなげるハイブリッドな音響空間を生み出すことに成功しており、非常に音楽的でもありながらインスタレーションのような空間演出もある興味深い作品を楽しめました。
 
②無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ
第1曲グラーヴェはイベリア半島に伝わる民謡のリズムからインスパイアされ、ヴァイオリンの弓をたっぷりと使った持続音を基調とた作品でした。当初、ヴァイオリンの音響がピアノの反響板にあたってピアノの弦と共鳴しているのかなと思っていましたが、実はエレクトロニクスを使ってヴァイオリンの音響を拡張することにより音響空間に豊かな広がりを与えていたもので、トーキョー・コンサーツ・ラボの抑制的な残響を上手く活かしてエレクトロニクスがヴァイオリンの繊細なニュアンスを伝えることにも一役買っていました。この点、マイクやスピーカーの音響に否定的な意見を耳にすることもありますが(個人の嗜好の問題なので拝聴するだけですが)、空間に「音響」が漂っている訳ではなく、人間の聴覚器官で知覚した「空気振動」(フォノン)を「電気信号(生体電位)」に変換して脳へ伝達し、それを脳が「音響」として認知(創造)しているものなので、電子機器が空気振動(フォノン)を生成する特性(利点と欠点)を踏まえても、エレクトロニクスはアコースティック楽器の音楽表現の可能性を広げる意味でも極めて有用なものであると感じました。第2曲のメロディアはポルトガルの民謡ファドの旋律からインスパイアされ、頻繁な移弦により音響に彩りを添えながら哀愁を湛えたモチーフを情熱的に織り上げて行く美しい作品を楽しむことができました。三味線奏者の本條秀太郎さんが「俚奏楽」(民謡曲を現代音楽に織り込んで昇華し、承継して行くことを目的としたジャンル)を創始されましたが、この作品も現代音楽の中にポルトガルの伝統が息衝いているのが感じられ、大変に興味深かったです。是非、日本の謡曲や民謡などからインスパイアされた作品も聴いてみたくなりました。
 
③マグロリアの花
この曲はモスクワ国立電子音響センターの委嘱によりマグノリア(白木蓮)の花のライフサイクルを音楽的に表現した作品で、ライブエレクトロニクスを使ってチェロが奏でる旋律から和音を生成すると共に、旧ソビエト連邦時代の反体制派として有名なウラジミール・ヴィソツキーさんのしわがれ声(アメリカへ亡命しようとするロシア人バレエダンサーを描いた映画「ホワイトナイツ」でV.ヴィソツキーさんの歌を使用)と並木路子さんのリンゴの唄の歌声(リンゴは何にも言わないけれど、リンゴの気持ちは良く分かる♬)をコラージュしています。チェロがグリッサンドしながらスルタスト奏法で音響を奏でると、スピーカーから並木路子さんのリンゴの唄の歌声とウラジミール・ヴィソツキーさんのしわがれ声のコラージュが幻聴のように聴こえ、やがてライブエレクトロニクスの音響が加わってチェロ(アナログ)とライブエレクトロニクス(デジタル)の境界が曖昧になって混然一体とした音響空間を作り出すと、最後に少女の声で白木蓮が咲いたという声が挿入されて終曲となりましたが、その声はさながら映画「バイオハザード」に登場する人工知能「レッド・クイーン」(赤い服を着た姉のホログラム)及び「ホワイト・クイーン」(白い服を着た妹のホログラム)を彷彿とさせるものになっており、次の美少女革命:Drama Queensの伏線になっているように感じられました。ここから先はあくまでも個人的な妄想であることをお断りしたうえで、赤い実(種)から白い花を咲かせる白木蓮に仮託してロシア人(赤)の秘めた内心(白)に花を添えた曲と捉えることもできるかもしれず、そう考えると歴史を刻印する名曲の風格を備えた作品と言えるかもしれません。
 
④美少女革命:Drama Queens
この曲は歌手が感情やドラマを自由に誇張して個性的に表現するポルトガルの民謡ファドの特徴からインスピレーションを受けて、ユーフォニウムの音響とそれから生成されたライブエレクトロニクスの音響を同化させることで、さながらユーフォニウム(過去のクイーン)がエレクトロニクス(現在のクイーン)にアップデートしてアイコニックな声と共に過去と現在のクイーン達が様々に変化しながら様々な時代の音楽を駆け抜けるという壮大な物語性を持った音楽に感じられました。ユーフォニウムの特殊奏法を駆使して奏でられる音響がエレクトロニクスとして様々な音響に拡張されながらユーフォニウムのアコースティックな音響(息により唇を振動させることで発生する空気振動)とライブエレクトロニクスのエレクトロニックな音響(電気によりコイルを振動させることで発生する空気振動)が交互に入り乱れ(過去のクイーンから現在のクイーンへとアップデートし、現在のクイーンから過去のクイーンにバックデートすることを繰り返しながらハイブリッドな世界観を体現し)、独特な音響空間描き出す面白い作品に感じられました。アコースティックとエレクトロニックのそれぞれの特徴的な違いを活かしながら、1つの音響空間に違和感なく融合してしまう手腕はデジタル世代の寵児と言える抜群のセンスを感じさせるものであり、音楽界のDXは異次元の領域に達していると言えるかもしれません。
 
⑤二人静
この曲は能「二人静」の菜摘女と静御前の亡霊の相舞からインスピレーションを受けて、尺八とリコーダーがリズム、ピッチ、音色を重ねて一つに溶け合うことを試みた作品で、2023年ローソン・メイ作曲賞を受賞しています。尺八の唄口はリコーダーの唄口のような吹口が設えられていない(尺八では自分の唇や楽器の角度などで調整する)ので安定した音を出すことが難しいと言われていますが、それは人間が扱い難い(人工的でない)という意味での脆さがある一方で、それにより揺らぎが生まれる(自然的である)という意味での豊かさもあり、それぞれの楽器に特徴的な違い(優位性)があります。尺八とリコーダーは短く切られた息遣い(息を合わせる)でリズムとピッチをコントロールし、エレクトロニクスなどを使って音色を重ね合わせることで尺八とリコーダーを一つに溶け合わせながら、しかし、尺八の首振りとリコーダーのタギングなどの違いから生まれる微妙に異なる風合いを活かすことで一つに溶け合いながらも二つの存在を感じさせる二人静の風情を醸し出す演奏になっており非常に楽しめました。尺八とリコーダーという異なる楽器を使用する意義と面白さを存分に感じさせる秀作でした。
 
⑥美少女革命:本朝廿四孝 奥庭狐火の段
この曲は、向井さんが乙女文楽(一人遣い)に魅了され、現代音楽、電子音楽、ポップミュージックやテクノなど様々な音楽と乙女文楽を融合することで伝統文化の可能性を模索するために創作した作品ですが、二人静の相舞の直後に乙女文楽(一人遣い)の人形遣いと人形による相舞を見せる構成上の工夫に唸らされました。本朝廿四孝は浄瑠璃や歌舞伎の人気演目ですが、戦国時代に長尾家の八重垣姫は父・謙信が許婿である武田家の勝頼の暗殺を企てていることを知り、諏訪明神の御加護で狐に化身して勝頼のもとへ知らせに走るという内容です。アコースティック(西洋)とエレクトロニック(唄を含む邦楽)、ヴィジュアルアート(現代)と文楽人形(古典)がクロスオーバーする形で物語が進行しました。お恥ずかしながら三人遣いの文楽ではなく一人遣いの乙女文楽を鑑賞するのは初体験でしたが、一人遣いなので人形遣いの動作と人形の動作が緊密に連携して一体感のあるリアルな表現が展開され(例えば、乙女文楽では人形遣いの首が人形の首と連動する仕掛けになっており三人遣いの文楽と比べても人形遣いの魂が人形に憑依しているような不思議な感覚を覚えて、さながら人形遣いと人形による能「二人静」の相舞を見ているような風情を堪能できました。さらに、この作品では人形遣いの魂が憑依したかのような人形に、狐の霊が憑依するという重層的な構成)が可能となり、それが人形に瑞々しい生命力を与えているように感じられました。八重垣姫が勝頼を慕う乙女心を表現したチューバとピアノのアンサンブル、西洋楽器が邦楽囃子をフィーチャーしたような音楽を演奏するパートなど聴きどころになっていましたし、バロック舞曲をフィーチャーしたような音楽に合わせて八重垣姫(人形)が日本舞踊を舞うシーンは非常に美しいピースに仕上がっていたと思います。また、チェロと尺八のアンサンブルは室内楽のピースとして純音楽的に楽しむことができる聴きごたえのあるものになっていました。さらに、ヴィジュアルアート(現代に生きる男女やポップなコンテンツなどを素材としたもの)を使って昔男に移り舞う少女(純情)と人待つ女の情念が呼び寄せた狐の霊が憑依する狂女(狂気)という複雑な心情を表現すると共に、それを通じて現代の世相にリンクするような多次元な表現が非常に面白く感じられました。上記③から⑥の演目では、アナログとデジタルのハイブリッドな世界が生み出すリアルとバーチャルという存在の二重性(仏教や量子力学の世界観にも通底)やオルタナティブな存在の憑依という古典的な表現方法を借用して矛盾したものが1つの人格を形成している人間存在の本質を浮き彫りにするダイナミズムが感じられ、将来が嘱望される若手の現代作曲家の稀有な才能に触れたような非常に満足感の高い芸術体験となりました。これは「推し」です。
 
 
▼カムイとアイヌの物語「イノミ」
【題名】ウポポイ渋谷公演
    カムイとアイヌの物語「イノミ」
【演目】①特別講演「カムイとアイヌの物語」
     <公演>千葉大学名誉教授 中川裕
     <実演>早坂駿、桐田晴華、上河彩
    ②伝統芸能「イノミ」
     <実演>アイヌ民族文化財団伝統芸能課
【会場】LINE CUBE SHIBUYA
【日時】2024年2月23日(祝)13:00~
【感想】
民族共生象徴空間「ウポポイ」がアイヌ儀礼「イヨマンテ」を題材にした伝統芸能「イノミ」(ストーリー性がある唄と踊り)を渋谷で公演するというので、これは万難を排して聴くべしと思い立ち事前抽選に応募したところ運よく当選しました。公演鑑賞後に簡単に感想を残したいと思います。なお、この公演は抽選制なので当日券などはありませんが、公演の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
民族共生象徴空間「ウポポイ」は、2020年7月に年間来館者数100万人という目標を掲げて開館しましたが、コロナ禍の影響もあって開館後3年間を経過した2023年9月に累計来場者数が100万人に到達しました。この点、ウポポイは、商業施設ではなく文化施設であることを踏まえると、もともと年間来館者数100万人という目標は(その意気込みは立派だとしても)実現可能性が低い法外な目標だったのではないかと思われます。因みに、商業施設では、ディズニーランド:約2500万人(これは別格)、ハウステンボス:約210万人、旭山動物公園:約80万人となりますが、これが文化施設になると、東京国立博物館:約125万人、東京文化会館:約45万人、ウポポイ:約35万人、京都国立博物館:約25万人、新国立劇場:約20万人の規模になり、ウポポイは立地条件(交通、気候など)のハンディーキャップを考えると相当に健闘している印象を受けます。やはり立地条件(気候)は来館者数に大きく影響するようで、ウポポイでは夏場の来館者数に比べて冬場の来館者数は著しく減少する傾向にあるようですが、その閑散期を利用してアイヌ文化の魅力を訴求するためのアウトリーチ公演を全国各地で開催しており、今日はウポポイ渋谷公演を鑑賞してきました。冒頭、アイヌ民族文化財団運営副本部長の野本正博さんから挨拶があり、アイヌ文化の保護及び継承だけではなく若い世代がアイヌ文化を現代に息衝くものとして刷新しその可能性に挑戦して行くことが大切であるという趣旨のことを話されていましたが、正しく慧眼です。単に伝統文化の保護及び継承だけではいずれは朽ち果ててしまいますので(普遍なものはあり得るとしても不変なものはあり得ない)、歴史が物語るように、常にその時代の時代性を織り込みながら伝統文化を革新して行く姿勢を持ち続けることで初めてその伝統文化の継承及び発展があり得るのだろうと思いますし、その意味でも本日の公演は大変に有意義なものであったと感じます。なお、アイヌ語には日本語のように母音で終わる言葉だけではなく子音で終わる言葉があり、その子音で終わる言葉をカナカナの小文字で表記しますが、都合上、以下では全て大文字で表記しています。
 
①特別講演「カムイとアイヌの物語」
この講演の講師を努められたアイヌ語研究の権威にして千葉大学名誉教授の中川裕さんは、アイヌ語研究の功績を讃えられて金田一京助博士記念賞及び文化庁長官表彰を受賞し、一世を風靡したマンガ「ゴールデンカムイ」(2018年手塚治虫文化省マンガ大賞)でアイヌ語の監修を担当した方としても知られていますが、本日はアイヌ文化の重要な概念の1つである「カムイ」について講演されましたので、その概要を簡単に書き留めておきたいと思います。アイヌ語の「カムイ」は神(カムイ→カ)を意味する言葉で、一般には「ムイ」と「カ」にアクセントを置いて発音する人が多いのではないかと思いますが、正しくは「カイ」と「ム」にアクセントを置いて発音するそうです(「カイ」(痒い)と同じアクセント)。アイヌ文化では、全ての事物(生物、自然現象、道具など)に魂が宿っており、そのうち何らかの精神や意思を持ったものをカムイと捉えているそうです。通常、カムイはカムイモシリ(カムイの世界)に魂の状態で存在していますが、「着物」(生物、自然現象、道具などの事物)を纏った姿でアイヌモシリ(人間の世界)に顕れて人間へ恩恵をもたらし、人間はその恩恵に対する感謝を込めて言葉や供物(酒、イナウなど)をカムイに捧げてカムイモシリに送り返すことで、再び、カムイは「着物」を纏った姿でアイヌモシリに顕れて人間へ恩恵をもたらしてくれると考えられているそうです。中川さんによれば、カムイは「神」や「精霊」などの特別な存在ではなく、もっと人間に身近な「環境」に近いニュアンスを持った概念だそうですが、カムイ(環境)と人間が相互に恩恵を分かち合う(上述のとおり現代の「推し活」に通底する精神)というアイヌ民族の生き方(自然共生)は、現代のSDGsの考え方を理想的に体現したものと言えるかもしれません。この点、アイヌ文化を代表するアイヌ・ユーカラ(神謡)はカムイ(環境)から見た世界をサケヘ(リフレイン)を使いながら歌い語るものですが、子音を発音するための独特な発声(内破音)から生み出されるアイヌ・ユーカラに特有の情緒に魅力があり、ハングル語に近い響きを持っているように感じられます。因みに、アイヌ文化では、他人の名前を本名で呼ぶと魔物が厄災を及ぼすと信じられていることから(上述のとおり枯山水、俳句や能に代表される「描かれないもの」を味わい尽す芸術鑑賞(アブダクション)にも通底する精神)、通常は「ポンレ」という愛称(=「ポン」(小さい)+「レ」(名前))で呼び合う風習があるそうですが、そのアイヌ文化を承継するためにウポポイの職員の間では本名ではなくポンレで呼び合っているそうです。本日、アイヌ・ユーカラを実演した早坂さんのポンレは「ペンレク」(意味:割れヒゲ)で「チカルカルペ」(北海道の全土に伝わるアイヌ民族衣装)を着用し、上河さんのポンレは「ペチャンポ」(意味:やせっぽち)で「ルウンペ」(白老町近隣に伝わるアイヌ民族衣装)を着用し、また、桐田さんのポンレは「クワンノ」(意味:まっすぐ)で「カパラミプ」(浦河町近隣に伝わるアイヌ民族衣装)を着用していましたが、各地域により民族衣装のデザイン(形状や文様)などに微妙な違いがあるそうです。なお、本日は時間的な制約からアイヌ文化のごく一部しか触れられていませんでしたが、アイヌ文化民族文化財団ホームページにはアイヌ文化を紹介した豊富なコンテンツが紹介されています。また、先日、中川さんが「アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」」の続編として「ゴールデンカムイ 絵から学ぶアイヌ文化」を上梓されたそうなので、こちらも必読です。
 
②伝統芸能「イノミ」
民族共生象徴空間「ウポポイ」では、アイヌの伝統芸能(アイヌの儀礼や日常で演じられている歌、踊、劇から構成される一種のミュージカル)を世界に発信する取組みを行っており、①シノツ(伝承芸能)、②イメル(復元芸能)及び③イノミ(創作芸能)の3つのジャンルを中心に活動しているそうです。本日は、このうち③イノミ(創作芸能)が上演されましたが、キムンカムイ(熊のカムイ)に感謝の祈りを捧げるために数日間に亘る饗宴を催して、土産を持たせてカムイモシリへ送り返す伝統的な儀礼「イヨマンテ」(熊の霊送り)を題材にして、その儀礼の流れを再現しながらイヨマンテの精神を表現することを目的とした舞台です。ウウエランカラプ(アイヌの正式な挨拶)から開始され、私達が来た道、私達が行く道の物語であることが紹介されました。先ず、儀礼の準備として、イユタ・ウポポ(穀物を脱穀、製粉するために女性達が3拍子で優美に歌う杵つき歌)、サケカラ・ウポポ(酒を濾すために女性達が2拍子で優美に歌う酒造りの歌)、タクサリムセ(笹や蓬などで作られたタクサを使ってカムイを迎えるための場を清めるために男性達が2拍子で勇壮に踊るお祓いの踊り)が上演されましたが、和人の作業歌(田楽、酒造りの歌など)と同様に日常の営みの中から生まれた生活に息衝く伝統文化であることがよく分かりました。次に、カムイへの祈りとして、カムイノミ(酒杯とイクパスイを使ったカムイへの祈り)が上演されましたが、歌や踊りなどはなく儀式性の高い厳粛な雰囲気の中で村人達が酒杯とイクバスイを回しながらカムイとアイヌ(人間)が同じ杯を分かち合いますが、過去のブログ記事で触れたとおり、和人の神人共食と同様に神(自然)の恵みに感謝し、神(自然)との調和(神人一体)を願う一元論的な世界観が感じられました。なお、アイヌ文化ではカムイへの祈りは火のカムイを媒介すると届き易くなると信じられていますが、過去のブログ記事でも触れたとおり、人間にとって道具の使用に次ぐ第二の技術革命と言われる火の使用により脳の発達が促されて高度な思考を行えるようになり、光、熱、音や煙などを生み出す火に神聖なもの(人ならぬ者の存在)を感じていたのではないかと思われます。最後に、カムイへ感謝を捧げるための饗宴として、タプカラ(カムイをもてなす男性達が2拍子で勇壮に歌い舞う踏舞)、ウポポ(裏声や息なども使って輪唱しながら歌う座り歌)、ハンチカプ・リムセ(鳥の鳴き声を模倣しながら衣装の袖を翼に見立てた水鳥の踊り)、エムシ・リムセ(男性2人が華麗に披露する刀の踊り)、イヨマンテ・リムセ(円陣を囲んで徐々にリズムを詰めながら歌い舞う熊の霊送りの踊り)、イエトコチヤシヌレアイ(キムンカムイがカムイリシモへ帰る道を清めるための射矢)が上演されましたが、バックスクリーンに北海道の雄大な自然が映し出され、アイヌの歌や踊りがその自然と一体となり幻想的に彩る舞台は本当に美しく(西洋音楽のように人工的に規律された音やリズムが空間や時間を切り取るような印象とは異な