大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2023(5月4日)と禅(鈴木大拙とジョン・ケージ)<STOP WAR IN UKRAINE>

▼禅(鈴木大拙とジョン・ケージ)(ブログの枕)
GWの連休を利用して観光がてら「いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2023」に来ています。石川県が生んだ賢人と言えば、哲学者の鈴木大拙(「」「日本的霊性」)と西田幾多郎(「善の研究」)の名前を挙げる人が多いのではないかと思いますが、コロナ禍の2020年に生誕150周年を迎え、昨年2022年に渡辺俊幸作曲のオペラ「禅~ZEN」オーケストラアンサンブル金沢@鈴木恵里奈の演奏により世界初演されて話題になりました(2023年11月再演予定)。因みに、鈴木大拙と西田幾多郎は旧制第四高等学校石川県金沢市広坂2-2-5)の同級生であり盟友でしたが、同校は総理大臣をはじめとして各界で活躍した人材を数多く輩出する名門校でした。さて、現代作曲家のジョン・ケージは、1940年代後半にコロンビア大学で行われた鈴木大拙の禅哲学のクラスを受講し、その後、何度か日本にいる鈴木大拙の元も訪れていますが、それが「4' 33"」を始めとする彼の作品の思想的な裏付けになったことが知られており(クロスオーバー)、また、その思想が物語る世界観は現代物理学(量子力学)にも通じるものがありますので、この機会に簡単に概観しておきたいと思います。鈴木大拙と西田幾多郎は、文化的相対主義(全ての文化を独自の価値体系を持つ対等な存在であると捉える立場)から東洋思想(禅や浄土宗、浄土真宗等の考え方)を西洋人にも理解できるように哲学理論として昇華し、それを世界中に広めて様々な影響を与えています。過去のブログ記事でも触れましたが、仏教は悟りの宗教、キリスト教は救いの宗教であるとすれば、神道や禅は行いの宗教という特徴がありますが、日本には5~6世紀頃に仏教が伝来し、鎮護国家の思想(仏教には怨霊を鎮魂し、国家を守護して安定させる力があるとする思想)を背景として朝廷や公家の間で普及したのに対し、朝廷から武家へ政権が移行した鎌倉時代には武士や庶民にも理解し易い禅(瞑想)や浄土真宗(念仏)等の新しい仏教(鎮魂から供養へ)が普及しましたが、鈴木大拙は仏教が伝来した鎌倉時代に日本人の意識に潜在していた「日本的霊性」(日本人が古来から無意識に育んできた宗教的な意識)が覚醒したと説いています。過去のブログ記事で触れましたが、西洋では自分(主体)と相手(客体)との間に共同視点を持たずに客観的な視点(三人称)から「分別」(対象の属性を捉えて分ける(分かる)→木を見る西洋人)によって世界を捉える特徴がある(二元論的な世界観)のに対し、日本では自分(主体)と相手(客体)との間に共同視点を持ち主観的な視点(一人称)から「無分別」(対象の本質を捉えて和える→森を見る日本人)によって世界を捉える特徴がある(一元論的な世界観)という違いがあり、それが禅(瞑想)では自然と同化した呼吸状態になること(一元論)を目指し、また、浄土真宗(念仏)では自分と阿弥陀如来が1つの境地になること(一元論)を目指すという特徴になって現れています。J.ケージは1940年代後半にハーバード大学の無響室に入った経験からアソビエント・ノイズミュージックを着想し、「4'  33"」(1952年、この曲のプロトタイプとして構想していた「Silent Prayer」(黙祷)の曲名を「4' 33"」に変更)を創作する直接的な契機になったと語っていますが、同じ時期に、上述のとおりコロンビア大学で行われた鈴木大拙の禅哲学のクラスを受講しており、その思想から多大な影響を受けました。鈴木大拙は日本的霊性とは精神と物質を1つにする働きであると説いていますが、これは「音/沈黙」「必然/偶然」「音楽/ノイズ」の関係にも同様のことが言え、現代物理学(量子力学)の「状態の重ね合わせ」にも通じる時代を先取りした世界観と言えますが、J.ケージは「4' 33"」を全ての可聴音を音楽的偏見から解放する試みであると語っており、これらを包括するものとして音楽を捉え直していたことが伺えます。最近では、集中力の向上や睡眠の改善等への効果からカラードノイズが注目を集めており、音楽に求められる社会的な意義も大きく変化してきています。後年、J.ケージは龍安寺石庭を訪れて「龍安寺(Ryoanji)」という作品を完成させていますが、枯山水の沈黙から心に生まれる水の音に着想を得て、枯山水の岩と砂紋をドローイングによる図形楽譜にして水の流れを表現する作品を作曲しました。この点、二元論的な世界観を前提として発展してきた西洋音楽に、一元論的な世界観を前提として確立してきた東洋思想(「音/沈黙」等を包括的に捉える世界観)を採り入れることに成功した画期的な作品と言えます。J.ケージは、「過去の傑作を理想の作品と崇拝することには共感しません。和声を使うことで音楽を印象的で壮大にすることに感心しません。楽器を完璧なものにさせていく歴史は、進歩ではなく、何らかのものを否定してきた歴史なのだ。」と語っていますが、これまで西洋文明が切り捨ててきた世界に心を拓き、その世界観を広げた作曲家としてその功績は計り知れないものがあり、鈴木大拙の禅哲学がその契機となったことの意義深さについて、金沢の土地の歴史を訪ねながら感慨を深くしています。なお、過去のブログ記事でS.ジョブズはピッピーであったことに触れましたが、鈴木大拙の禅哲学はヒッピー世代にも大きな影響を与え、彼は商品開発にあたって決してマーケティング調査を行わずに座禅によって自らの心の内に耳を澄ませて自らが本当に望むものは何なのかを見極めたことが知られており、これが世の中に存在しないものを生み出す創造の源泉になっていたと考えられます。また、世界の精神医療の現場では瞑想や呼吸法のトレーニングを通じて健康な状態に近づく「マインドフルネス」が注目を集めていますが、様々な分野で鈴木大拙の禅哲学が影響を与えています。石川県(加賀国)のお膝元には永平寺(禅)があり、また、加賀一向衆(浄土真宗)によって育まれた風土がありますが、これが鈴木大拙や西田幾多郎という賢人を生み、世界に様々な影響を与えていると言えます。
 
 
▼いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2023(5月4日)
▼ガルガン・アンサンブル feat.日野皓正
【演目】H.カーマイケル スターダスト
    T.モンク ラウンド・ミッドナイト
    日野皓正 アローン・アローン・アンド・アローン
      <Tp>日野皓正
      <Pf>高橋佑成
      <Con>鈴木恵理奈
      <Orc>カンガルーアンサンブル
    L.ヤナーチェク 弦楽のための牧歌
      <Orc>カンガルーアンサンブル
    F.レファール メリー・ウィドウより
      <Con>鈴木恵理奈
      <Orc>カンガルーアンサンブル
【場所】北國新聞赤羽ホール
【日時】5月4日 10時30分~
【料金】2000円
【一言感想】(288文字以内/演目)
現在、日野さんはカリフォルニア在住だそうですが、今年81歳とは思えない溌剌とした若々しさが感じられます。T.モンクの名曲の後に演奏された自作「アローン・アローン・アンド・アローン」が白眉でした。立川談志の言葉を借りればイリュージョンということになりましょうか、ピアノ伴奏に合わせてタップを踏んでリズムを支配し、ピアノの弦にトランペットのベルを近づけて咆哮し共鳴させることで異次元の音響空間を生み出すなど、流石はアメリカ文化の洗礼を受けながら活動している斬新さが感じられます。ヤナーチェクの弦楽のための牧歌が出色で、軽快な機動力と解像度の高いアンサンブルは聴き応えがありました。
 
▼バルトーク国際コンクール第2位 髙木凜々子が独奏イオリンとオルガンで奏でる民族音楽Ⅱ
【演目】A.ドヴォルザーク スラブ舞曲第1集より第1,2、3番
      <Con>沖澤 のどか
      <Orc>オーケストラ・アンサンブル金沢
    H.ヴィエニャフスキ ヴァイオリン協奏曲第2番
      <Vn>髙木凜々子(バルトーク国際コンクール第2位)
      <Con>沖澤 のどか(ブザンソン国際指揮者コンクール優勝)
      <Orc>オーケストラ・アンサンブル金沢
【場所】石川県立音楽堂 邦楽ホール
【日時】5月4日 12時40分~
【料金】2500円
【一言感想】(288文字以内/演目)
高木さんは1音1音を丁寧に鳴らす堅実な演奏でハイポジションやワンボースタッカート等で若干の曖昧さが感じられたところはありましたが、全体を通して信頼感のある演奏を楽しめました。技巧の冴えでアグレッシブにドライブするタイプというよりも、ヴァイオリンをしっとりと鳴らしながら抒情豊かに歌い上げて行くその美しさは恍惚感すら覚えるもので暫し聴き惚れてしまいました。ヴラヴァー!第二楽章でソリストを導くクラリネットが実に繊細で白眉。ヴラボー!を送りたいです。沖澤さんは準備時間がなかったと思いますが、オケから柔和な響きを引き出してソリストに付かず離れず寄り添う好サポートでした。
 
▼三舩優子&堀越彰 ピアノとドラムスがつくる新境地
【演目】Z.コダーイ 組曲「ハーリ・ヤーノシュ」より第2曲
    A.ボロディン ダッタン人の踊り
    池辺晋一郎 ふたりづれの蝶がくぐる
    G.ガーシュウィン ラプソディー・イン・ブルー
      <Pf>三舩優子
      <Dm>堀越彰
【司会】池辺晋一郎
【場所】石川県立音楽堂 交流ホール
【日時】5月4日 15時00分~
【料金】1000円
【一言感想】(288文字以内/演目)
ジャズにはピアノとドラムのデュオという編成があり、池辺さんはこの組合せを使って何か新しいことはできないかという発想から、クラシックピアニスト・三舩優子さんとジャズ・ドラマー・堀越彰さんのデュオをお誘いして実現したものだそうです。池辺さんの「ふたりづれの蝶がくる」は2台4手のピアノための作品として作曲されたものですが、これを三舩さんが1台2手に編曲し、更にジャズ・ドラムを組み合わせて演奏されました。今日の白眉はラプソディー・イン・ブルーで誰の編曲版か分かりませんでしたがジャズ・テイストが追加された斬新なアレンジになっており、非常にグルーブ感のある演奏を楽しめました。
 
▼左手のピアノニストたち
【演目】つきはしさゆり 雫
    J.S.バッハ 無伴奏パルティータ第3番よりガボット
    J.シベリウス もみの木
      <Pf>黒崎菜保子
    梶谷修 風に・・・波に・・・鳥に・・・
    U.シサスク エイヴェレの星たち
    梶谷修 赤とんぼ(原曲:山田耕作)
      <Pf>舘野泉
【場所】音楽堂やすらぎ広場
【日時】5月4日 16時30分~
【料金】無料
【一言感想】(288文字以内/演目)
石川県の出身で左手のピアニスト・黒崎菜保子さんが前半の3曲を演奏されました。黒崎さんの特徴と言えるのかもしれませんが、どの曲も旋律美を讃えた詩情豊かな演奏を楽しむことができ、左手のピアノの魅力を堪能できました。次に、舘野泉さんが後半の3曲を演奏されました。いずれの曲も舘野さんに献呈された自家薬籠中とするレパートリーですが、その演奏には老成の境地とでも言うべき巨匠の風格のようなものが感じられ、思索的で情感豊かな演奏からは様々な音楽的なメッセージが伝わってきて心が満たされて行くような濃厚な時間を楽しむことができました。これぞ芸術鑑賞の醍醐味です。
 
▼新鋭沖澤のどか「新世界」を振る!
【演目】A.ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」
      <Con>沖澤のどか
      <Orc>ヤナーチェク・フィルハーモニー管弦楽団
【場所】石川県立音楽堂 コンサートホール
【日時】5月4日 19時40分~
【料金】2000円
【一言感想】(288文字以内/演目)
今年から京都市立交響楽団常任指揮者に就任した沖澤さんを聴きに行くことにしました。沖澤さんは分厚い音響を構築してグイグイと迫るマッチョな演奏とは異なり、オーケストラから優美な響きを紡ぎ出して(ジャンダーバイアスですが)女性らしい配慮の行き届いた繊細な演奏が特徴だと思いますが、もうもうと土埃が舞うようなドヴォルザークの土俗性よりもノスタルジーを美しく際立たせる演奏を楽しむことができました。殆ど練習時間はなかったと思いますが、(オケは連日複数公演を熟す疲れからやや雑味が出た部分もありましたが)オーケストラを巧みに補正する掌握力、統率力に優れた指揮者の手腕が感じられました。
 
いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2023(5月4日)
鼓門(金沢駅兼六園口):夜の帳に真っ赤にライトアップされた鼓門が浮かんで昼間と全く異なる姿を見せています。 石川県立音楽堂ロビー:誰の演奏なのか分かりませんが、音楽堂のロビーを立ち見客が埋め尽くす盛況振りです。 ANAクラウンプラザホテル金沢:誰の演奏なのか分かりませんが、ホテルのロビーを立ち見客が埋め尽くす盛況振り。 もてなしドーム地下広場:モニュメントを伝って水が流れ落ちていますが、これは加賀の友禅流しをイメージしたもの?
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.22-2曲目(日本人)
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。なお、「いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2023」に3日間参加する予定なので、今回は1日毎に1人づつご紹介します。
 
▼ヴァイオリン奏者:篠原悠那/藤倉大の「夜明けのパッサカリア」(ヴァイオリン編曲版)(2022年)
この動画は、現代作曲家の藤倉大がソプラノのための「夜明けのパッサカリア」(2018年)をヴァイオリンために編曲したものをヴァイオリニストの篠原悠那(1993年~)が初演したときの模様を収録したものです。ヴァイオリニストの篠原悠那は、2019年に第65回ARDミュンヘン国際音楽コンクール弦楽四重奏部門第3位(コンクール委嘱作品最優秀解釈賞)及び2023年に第17回岩城宏之賞などを受賞しており、これからの時代に必要な現代音楽のアナリーゼやそれを実演する技量に卓越した能力を持つ注目される期待の俊英です。

いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2023(5月3日)とボヘミアン(ジプシーと加賀一向衆)<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ボヘミアン(ジプシーと加賀一向衆)(ブログの枕)
GWの連休を利用して観光がてら「いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2023」に来ています。クラシック音楽~現代音楽、西洋音楽~民族音楽(邦楽やジャズ等を含む)、プロフェッショナル~アマチュア(若者)とクロスオーバーを意識したバランスの良い企画内容で、音楽祭ならではの多種多様な音楽を一度に聴く機会に恵まれています。しかも、新しい芸術表現の可能性を模索する未来志向の企画も用意されているなど、正しく「変革の時代」に相応しい音楽祭になっており足を運ぶことにしました。「音楽は音を楽しむと書くのだから気軽に楽しめばいい!」というレベルの薄っぺらな芸術体験ではなく、新しい世界観に触れて視野が拓かれるような芸術体験(シナプス可塑性の活発化)を通して初めて味わうことができる本当の楽しさを求めています。さて、ロシアによるウクライナ侵攻に対する抗議もあるのでしょうか、この音楽祭には「東欧に輝く音楽~プラハ・ウィーン・ブタベスト~」という副題が付されていますが(ウクライナ民謡を採り上げている演奏会もあります)、少し切り口を変えて「ボヘミアン(ジプシーと加賀一向衆)」「禅(鈴木大拙とジョン・ケージ)」「クロスオーバーする加賀文化」という「金沢」を基点としたテーマ性を持って音楽祭に参加してみたいと思います。ジプシーのように自由な生き方をする人達のことをボヘミアン(仏、ボエーム)と言いますが、15世紀頃にチェコ共和国ボヘミア地方からパリへ流浪して来た(と考えられていた)ジプシーを意味する言葉として使われ始めたもので、19世紀にフランス人作家のH.ミュルジェールが小説「ボヘミアン生活の情景」でパリへ出稼ぎに来ている自由な生き方をする若く貧しい芸術家を指す言葉として使用したことで世界中に広まり、G.プッチーニはこの小説を題材にしてオペラ「ラ・ボエーム」を作曲し、また、J.ラーソンはこのオペラを題材にしてミュージカル「レント」を作曲しました。アメリカ人作家のL.ストーバーは著書「ボヘミアン宣言」(2004年)でボヘミアンを5つのタイプ(ジプシー:移民、ヌーボー:中流層、ダンディー:上流層、ビート:芸術性、:精神性)に分類し、各々のタイプに適したライフスタイルを提案して話題になりましたが、このうちジプシーの祖先は10世紀頃にインド北西部タール砂漠へ侵攻したペルシャ王朝の奴隷になることを忌避して中近東へ流浪し、その後、音楽やダンスを興行する旅芸人等として生計を立てながら15世紀頃に東欧等へ進出して、やがて全世界へ分布して行きました(ジプシーと同じく流浪の民である東欧のユダヤ人のクレズマー音楽については別の機会に触れます)。この点、ジプシーは流浪民として迫害を受けてきた歴史があり、その呼称に差別的なニュアンスを含むことから、1971年にポリティカル・コレクトネスの観点から「ロマ」に改称されています(但し、便宜上、拙ブログではジプシーと表記します)。F.リストの著作「ハンガリーのジプシーとその音楽」(1859年)に世界初のジプシー音楽の調査結果が記録されていますが、ジプシー音楽はハンガリーの民謡、スペインのフラメンコ、トルコのベリーダンス、アメリカのジャズやパンクロックとクロスオーバーしながら多様に革新、発展してきた音楽で、1987年にフランスのバンド「ジプシー・キング」がフラメンコ、ポップスやロックなどを融合した音楽で大ヒットし(世界のルーツ・ミュージックのポップ化の潮流)、1989年のベルリンの壁崩壊(東欧の解体)及び1990年代のインターネットの普及に伴ってジプシー音楽のグローバル化が進み、現代でもジプシー・ジャズ、ジプシー・ブラス、ジプシー・パンクなどが世界で人気を博しており、日本ではジプシー・ヴァイオリン奏者・古舘由香佳子さんなどの活躍が注目されています。なお、ジプシー音楽とスウィング・ジャズを融合してジプシー・ジャズを創始した天才ギタリストのR.ジャンゴの半生を描いた映画「永遠のジャンゴ」には、R.ジャンゴが第二次世界大戦で犠牲になったジプシー達のために作曲した現代音楽「レクイエム」(未完)が登場しますが、ジプシーの豊かな音楽性を示しています。ご案内のとおりジプシー音楽を題材としたクラシック音楽の曲は多く、F.リスト「ハンガリー狂詩曲」、ブラームス「ピアノ四重奏曲第1番」、P.サラサーテ「ツィゴイネルワイゼン」(ツィゴイナー:ジプシーを意味するドイツ語)など枚挙に暇がなく、また、G.エネスク「ルーマニア狂詩曲第1番」、バルトーク「ルーマニア民俗舞曲」、M.ラベル「ツィガーヌ」(ツィガーヌ:ジプシーを意味するフランス語)、D.ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」、今年生誕100周年を迎えたG.リゲティ「ヴァイオリン協奏曲」など20世紀以降の作品にも影響が見られます。ところで、石川県(加賀国)の歴史を紐解くと、1488年(フランス革命の300年前)から1580年の約100年間に亘って一向衆(本願寺門徒)が中心となって国人や農民が自由自治する惣国を樹立して(百姓の持ちたる国)、世界に先駆けて共和制(不完全ながら自由主義や民主主義、阿弥陀如来の前では皆同じとする平等主義)が誕生していたと言われています。徳川家の重臣であった本多正信は諸国流浪の末に加賀一向一揆に参加したと言われており、この時代にはボヘミアニズムの理想を求めて諸国から加賀国へ移住してきた人が多かったのではないかと考えられ、僕の傍系の先祖の一人も1491年に他国から加賀国金津荘(石川県かほく市)へ入り加賀一向衆に対する軍事指導を行っていたという記録が残されています。このようなボヘミアニズムを育んできた風土が伝統に根ざしながらも時代を革新する新しい芸術表現を創造するポテンシャルを持った文化的な土壌を根付かせたと言えるかもしれません。ロシアによるウクライナ侵攻を契機としてアメリカを中心した国際秩序から多極化した国際秩序へ時代が変遷しようとしているなかで、法の支配(神の支配(宗教権威)→人の支配(絶対王政)→法の支配(民主主義))に基づく自由で開かれた国際秩序(ボヘミアニズム的な価値観を含む)の重要性を考える契機になっている音楽祭とも言えます。なお、色々な催し物があり感想を書いている時間がありませんので、一部の有料公演に限って一言感想を残しておきたいと思います。
 
▼A.ラローチャ(生誕100周年)へのオマージュ
今年生誕100年を迎えたA.ラローチャへのオマージュとして、J.トゥリーナ作曲「5つのジプシー風舞曲第1集」から第5番「サンクロモンテ」をアップしておきます。スペイン音楽の魅力を世界に紹介するなど傑出した功績を遺した20世紀を代表する名ピアニストですが、その明晰なリズム感は西アジア~東欧~西欧をダイナミックにクロスオーバーするジプシー(ロマ)文化の昇華により生まれた音楽に瑞々しい生命力を吹き込んでいます。
 
▼いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2023(5月3日)
▼田中祐子 名古屋音楽大学の吹奏楽団を振る
【演目】R.ガランテ レイズ・オブ・ザ・サン
    J.フチーク フローレンティナー・マーチ
    天野正道 レトロ(2023年全日本吹奏楽コンクール課題曲Ⅲ)
    Z.コダーイ 組曲「ハーリ・ヤーノシュ」
      <Con>田中祐子
      <Bra>名古屋音楽大学吹奏楽団
【場所】石川県立音楽堂 コンサートホール
【日時】5月3日 9時40分~
【料金】1500円
【一言感想】(288文字以内/演目)
音楽祭のオープニングを飾るのに相応しい華々しい演奏を楽しむことができました。指揮者の田中祐子さんは体調を崩して療養されていたそうですが、この演奏会が復帰公演になったようです。病み上がりとは思えない力強いイニシアティブで、メリハリのあるデュナーミクや緩急の効いたテンポなど、細部まで配慮の行き届いた統制感のあるアンサンブルが見事でした。演奏者の名前は分かりませんでしたが、多彩な音色で歌うソロ・フルートが出色でした。なお、石川県立音楽堂(コンサートホール)は、後部残響音が柔らかく広がり音楽の余韻を深くする魅力的なホールです。
 
▼シンフォニエッタ 村上春樹の「1Q84」にも登場!
【演目】L.ヤナーチェク  シンフォニエッタ
      <Tp>ザ・トランペットコンサート
      <Con>レオシュ・スワロフスキー
      <Orc>ヤナーチェク・フィルハーモニー管弦楽団
    Z.コダーイ 組曲「ハーリ・ヤーノシュ」
      <Con>レオシュ・スワロフスキー
      <Orc>ヤナーチェク・フィルハーモニー管弦楽団
【司会】加羽沢美濃
【場所】石川県立音楽堂 コンサートホール
【日時】5月3日 15時00分~
【料金】2000円
【一言感想】(288文字以内/演目)
村上春樹の小説「1Q84」でL.ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」が採り上げられて話題になりましたが、ヤナーチェク・フィルハーモニー管弦楽団(JFO)が同曲を演奏するというので聴くことにしました。JFOの演奏は初聴でしたが、オペラ指揮で定評があるL.スワロフスキーがその持ち味を発揮したドラマチックな演奏に魅了されました。とりわけ弦のトレモロの美しさには恍惚感すら覚え、ヨーロッパのオーケストラに漂う独特の香気のようなものが感じられました。13管のバンダは日本人がトラとして乗っていましたが、五音音階の処理を含めて面目躍如たる好演でした。ヴラヴォー!
 
▼田中泯 東欧音楽との出会い
【演目】B.バルトーク 無伴奏ヴァイオリンソナタより
                第1楽章「シャコンヌのテンポで」
    B.バルトーク 弦楽四重奏第6番
              <Dan>田中泯
              <Str>クァルテット・インテグラ
                   <1stVn>三澤響果
                   <2ndVn>菊野凛太朗
                   <Va>山本一輝
                   <Vc>築地杏里
【場所】石川県立音楽堂 邦楽ホール
【日時】5月3日 16時20分~
【料金】2000円
【一言感想】(288文字以内/演目)
クアルテット・インテグラは、バルトーク国際コンクールで優勝、ミュンヘン国際音楽コンクールで第2位を受賞するなど、現在注目されている弦楽四重奏団ですが、全く隙のない密度の濃い演奏(桁違いに上手い)を聴かせてくれ、この演奏に触発されるように俳優の田中眠さんが即興ダンスを披露しました。照明(影を使った演出)や舞台セット等が用意されていましたので基本的なコンセプト(アイディア)は共有されていたようですが、あの複雑な動きは準備してできるものではなく、その場のインスピレーションに突き動かされているような霊感のようなものが感じられ、自らの全てを曝け出す凄みのようなものが感じられる舞台でした。
 
▼林英哲の和太鼓 広上淳一&OEKと白熱の競演
【演目】林英哲 千の海響
      <和太鼓>地元子ども達と英哲風雲の会
    石井眞木 モノプリズム
      <和太鼓>林英哲、英哲風雲の会
      <Con>広上 淳一(指揮)
      <Orc>オーケストラ・アンサンブル金沢
           ガルガン・アンサンブル
【場所】石川県立音楽堂 コンサートホール
【日時】5月3日 20時30分~
【料金】2000円
【一言感想】(288文字以内/演目)
北陸は和太鼓が盛んで地元の小中学生10名による和太鼓演奏が披露されましたが、胃袋まで響く迫力の演奏を楽しめました。オーケストラ・アンサンブル金沢は初代音楽監督の故・岩城宏之さんの意向もあり「コンポーザー・オブ・ザ・イヤー」というプロジェクトを立ち上げ、過去、日本人の現代作曲家の作品を積極的に演奏してきました。モノプリズムは和太鼓のモノクロームとオーケストラのプリズムから出来た造語ですが、強靭でしなやかなバチ裁きによる繊細で勇壮な和太鼓の響きに、オーケストラを打楽器のように操りながらフットワーク軽く呼応して精妙で圧倒的な音響世界を構築する好演は見事でした。ヴラヴォー!
 
いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2023(5月3日)
おもてなしドーム(金沢駅兼六園口):加賀の友禅流しをイメージしたものかと思っていましたが、「駅を降りた人に傘を差し出す、もてなしの心」がコンセプトだそうです。実に清々しい! もてなしドーム地下広場:3人のミューズの饗宴(<Vn>中川紗優梨、<Fl>藤井ひろみ、<Pf>山田ゆかり)の演奏は大勢の立ち見客が出るほどの混雑ぶりで大変に盛り上がっていました。 音楽堂安らぎ広場:台湾宜蘭ジュニアオーケストラの演奏は早朝の時間帯にも拘らず、沢山のちびっこ連れの家族で会場に入り切らないほどの行列ができていました。写真は会場外の覗き窓から撮影。 音楽堂前広場:ハンガリージプシーバンドの演奏はハンガリーの民族楽器であるツィンバロ厶による演奏が披露されましたが、これだけ間近でツィンバロ厶の演奏を聴くのは初めての経験でした。
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.22-1曲目(チェコ人)
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。なお、「いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2023」に3日間参加する予定なので、今回は1日毎に1人づつご紹介します。
 
▼マルティン・ブルンナーの「Behind the Clouds」(2009年)
チェコ人現代作曲家のマルティン・ブルンナー(1983年~)は、作曲家グループ「プラハ・シックス」のメンバーで、モダンジャズ、クラシックやロックを融合したジャズ及び現代音楽の作品を創作する現代作曲家であり、マーティン・ブルナー・バンドやマーティン・ブルナー・トリオ等のピアニストとしても活躍するなど、現在、チェコで最も注目されている新世代の現代作曲家兼ピアニストです。この曲は、ジャズ批評の「ジャズオーディオ・ディスク大賞」(2009年)で入賞している出世作とも呼べるアルバムで日本でも人気を得ています。
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東京シンフォニエッタ第52回定期演奏会と言葉が彩る世界<STOP WAR IN UKRAINE>

▼言葉が彩る世界(ブログの枕)
前回のブログ記事で「世界を色取る言葉」として日本語の色名について簡単に触れましたが、今回は「言葉が彩る世界」として日本語が日本人の認知(意識)にどのような影響を与えているのかを英語との比較において簡単に触れてみたいと思います。日本語と英語は、語彙の違いに加え、文法(日本語:SOV、英語:SVO)、省略(日本語>英語)、代名詞(日本語>英語)、音数(日本語<英語)、音節(日本語:開音節、英語:閉音節)、アクセント等に特徴的な差異が存在します。また、古くからヨーロッパは文字社会(表音文字)であったのに対し、日本は無文字社会でしたが、5~6世紀頃に中国から伝来した表意文字(真名)と遣唐使の廃止に伴って独自に発展した表音文字(仮名)の双方を使うようになりました。このように、古来、日本は無文字文化として直接接触が優勢な社会であったことから、話し手と聞き手が共同視点を持つことを前提とするコミュニケーションが発展しましたが、ヨーロッパは有文字文化として間接接触が優勢な社会であったことから、話し手と聞き手が共同視点を持たないことを前提とするコミュニケーションが発達しました。このため、日本語では話し手(一人称)と聞き手(二人称)が共同視点を持つこと(オン・ステージの視点:舞台の上で実演する俳優の視点)を前提として日本語が組み立てられますので、共同視点から文脈把握できる主語や目的語等を省略する傾向が顕著であると言われています(引き算の美学=イメージの共有→顕在劇としての能楽)。これに対し、英語では話し手(一人称)と聞き手(二人称)が共同視点を持たないこと(オフ・ステージの視点:舞台の下で鑑賞する観客の視点)を前提として英語が組み立てられますので、状況を俯瞰する客観的な視点(三人称)によるコミュニケーションが求められ、主語や目的語等を省略することは殆どなくその全てを言語で説明すると言われています(足し算の美学=ファクトの説明→台詞劇としてのオペラ)。例えば、日本語で「いま行きます」という表現は、英語では「I am coming」と 「I am going」の2種類の表現がありますが、英語では客観的な視点(三人称)から「come」(聞き手に近づくという趣旨の行く)と「go」(聞き手から遠ざかるという趣旨の行く)の2種類の表現を分析的に使い分けますが、日本語では話し手(一人称)の視点から「行く」という1種類の表現を包括的に使い、これが「森を見る日本人」と「木を見る西洋人」という認知(意識)の特徴的な違いになって現れています。しかも、日本語では誰が行くのかは聞き手が文脈(共同視点)から補うことを前提としていますが、英語では誰が行くのかは聞き手が文脈(共同視点)から補うことを前提としていませんので、話し手の「I」(話し手である自分を客観視=自我の発見)を省略することはありません。このような事例は枚挙に暇がなく、英語ではLGBTQ+の告白を「Coming out」 (相手に歩み寄って理解を求めるニュアンス)と言いますが、これも同様に客観的な視点(三人称)から捉えている表現であり、話し手(一人称)の視点から捉え直すと「Going out」 と表現したくなる感覚になります。なお、このような客観的な視点(三人称)から世界を捉える発想(世界を俯瞰(自然観察)し、これを支配(科学)しようとする父性原理)は一神教を観念し易い傾向がある一方、主観的な視点から世界を捉える発想(世界と同化(自然信仰)し、これと調和(尊重)しようとする母性原理)は多神教(アニミズム)を観念し易い傾向があり、言語が人間の認知(意識)に与える影響の大きさが伺われます。日本語では主語や目的語等を省略する傾向が顕著であり、それらを文脈から補う必要があることから「ハイコンテクストな文化」(言語への依存度が低く文脈への依存度が高いコミュニケーション)と言われるのに対し、英語では主語や目的語等を省略することは殆どないので、それらを文脈から補う必要がないことから「ローコンテクストな文化」(言語への依存度が高く文脈等への依存度が低いコミュニケーション)と言われており、外国人から見ると日本人は言葉が少なく何を考えているのかよく分からないと当惑されること(影)がある一方で、日本人は何も言わなくても何を考えているのかよく気づくと感嘆されること(光)も多いという特徴になって現れています。このような日本語の特性が世界で最も短い詩の形式「俳句」を生み出し、「一を聞いて十を知る」「阿吽の呼吸」「以心伝心」「暗黙の了解」「察する」等の言葉が生まれ、それが世界に誇る「おもてなし」の文化として昇華しています。さらに、日本語の話し手と聞き手が共同視点を持つことを前提とするコミュニケーションは状況を再現する表現(例えば、彼は水をゴクゴクと飲んだ)によって聞き手に感覚的な理解を誘うオノマトペが発達し、これが世界に誇るマンガ文化として昇華しています。これに対し、英語の話し手と聞き手が共同有視点を持たないことを前提とするコミュニケーションは状況を説明する表現(例えば、He gulped water)によって聞き手に論理的な理解を誘う動詞が発達しました。このように日本語と英語では世界の捉え方が異っていますが、人間の脳は約1000億個以上の神経細胞から組成され、1つの神経細胞に約1万のシナプス(神経結合)があって情報伝達していることが分かっていますが、約1歳でシナプスの密度はピークに達し、その後、約4歳までシナプスの刈り込み(ニューラルネットワークの最適化)が行われ、この時期を過ぎると新たなシナプス(神経結合)の生成は容易ではなくなり、それに伴って新しい言語の獲得も難しくなることが分かっています。この点、音楽にも同様のことが言え、例えば、西洋音楽のリズムは客観的な視点(三人称)からメトロノームによる数学的な規則性のある時間間隔(「拍」)を客観的に刻むという特徴(ニュートン力学の時間観)があるのに対し、日本の伝統邦楽のリズムは奏者の視点(一人称)から呼吸の同調(共同視点)による不規則な時間間隔(「間」)を主観的に刻む(リズムが伸縮する)という特徴(相対性理論の時間観)があります。そこで、西洋音楽家、日本の伝統邦楽家及び一般人を対象にしてリズムに対する脳の認知能力を調査したところ、それぞれリズムに対する脳の認知能力(聴覚を含む)に違いが現れ、西洋音楽家や日本の伝統邦楽家は一般的な音楽教育だけでは発達しないリズムに対する特殊な脳の認知能力が育まれている可能性があるという研究結果が発表されていますが、言語や音楽は早期教育が重要である一方で、この世界を彩り豊かなものにするためには、それぞれの言語や音楽の違いが育む多様な世界観とそれにより生じる多彩な発想(創造性)も大切にする必要があります。
 
▼日本語と英語の世の中の捉え方の違い
【用例①】日本語の主観(一人称)と英語の客観(三人称)
     <日本語>いま行きます。
     <英 語>I am coming.
                                   I am going.
【用例②】日本語の感覚(オノマトペ)と英語の論理(動詞)
     <日本語>彼は水をゴクゴクと飲んだ。
     <英 語>He gulped water. ※gulpe:がぶ飲みする
 
▼認知言語と社会性
言語 特性 認知 社会・文化
日本語 主観性
(一人称)
包括的
(森を見る)
母性原理(調和) 無文字
社会
英語 客観性
(三人称)
分析的
(木を見る)
父性原理(支配) 有文字
社会
 
▼言葉と文脈への依存度比較
 
▼東京シンフォニエッタ第52回定期演奏会
【演題】東京シンフォニエッタ第52回定期演奏会 ほか
【演目】エムレ・エロズ 弦楽四重奏曲
      <Vn>山本千鶴、梅原真希子
      <Va>吉田篤
      <Vc>宇田川元子
    室元拓人 Tokara Evoke III
      <Con>板倉康明
      <Orc>東京シンフォニエッタ
    マルコ・ロンゴ Light Lapse II
      <Con>板倉康明
      <Orc>東京シンフォニエッタ
    入野義朗 小管弦楽のためのシンフォニエッタから
                        第1楽章「序奏とフーガ」
      <Con>本名徹次
      <Orc>オーケストラ・ニッポニカ
    ⑤黛敏郎 スフェノグラム
      <Mez>加賀ひとみ
      <Con>板倉康明
      <Orc>東京シンフォニエッタ
    ⑥黛敏郎 トーンプレロマス55
      <ミュジカルソー>荻原誠
      <Con>岩城宏之
      <Orc>東京佼成ウインドオーケストラ
【放送】NHK-FM「現代の音楽」 司会:現代作曲家・西村朗
【日時】4月16日(日)4月23日(日)各8時10分~(エアチェック)
【料金】無料
【感想】
今日は、NHK-FM「現代の音楽」で2022年12月22日に東京文化会館で開催された東京シンフォニエッタ(1994年に現代音楽を演奏するための理解力や技術力など非常に高度な要求に応えることができる楽団として設立)の第52回定期演奏会の模様が放送されていましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。この演奏会は「作曲コンクール」がテーマになっており、近年、どのような新しい作品が生み出され、選ばれているのかをキャッチアップするという趣向でした。なお、NHK-FM「現代の音楽」のテーマ曲がT.アデス「イン・セブン・デイズ」(2008年)からS.ライヒ「ランナー」(2016年)に変更になりましたが、これらの曲を含めて次世代に受け継がれるべき芸術資産は創造されています。かつて、第一次世界大戦以降の時代を「(クラシック音楽)不毛の時代」と揶揄するオセンチな時代がありましたが、その認知能力(教養)の低さを棚に上げて古い世界観から抜け切れない頭が不毛だったという不名誉なことにしかならないと思います。ロマン派以前の音楽が過去の偉大な芸術遺産であるとしても、それらの作品で表現されている又はその表現の前提になっている自然観、世界観や価値観の劣化、乖離、矛盾や破綻等が明確に認識され、それらに対する各分野からの異議申立てが行われている時代であり、現代の知性を前提として現代人の教養(学問、知識、経験や芸術受容等を通して養われる心の豊かさ)を育むための新しい音楽が求められていると思います。その意味で、近代以前の価値観等を前提として「調性音楽」と「無調音楽」や、「芸術音楽」と「大衆音楽」などの区分に拘泥する態度がプアーであり、現代の知性を前提としてどのような世界観を表現し、それを表現するためにどのような表現方法等を選択するのかという実質が問われていると思います。
 
①エムレ・エロズ 弦楽四重奏曲
トルコ人現代作曲家のエムレ・エロズ(1995年~)は、現在、パリ国立高等音楽院の学生ですが、この曲は2020年に四川音楽院(四川省成都市)で開催された第16回陽光杯学生作曲コンクール(西村さんが審査員を担当)で優勝したものです。4挺の弦楽器が無窮動、ロングトーン、スル・ポンティチェロやコル・レーニョなどの特殊奏法を駆使して様々な音色や質感のきしみ音を奏で、それらが緩急を繰り返しながらポリフォニックに変化して独特の音場を形成するテンションの高い音楽です。この曲想を音として再現するためには、非常にに高度なアナリーゼが演奏者に求められると思います。
 
②室元拓人 Tokara Evoke III
過去のシリーズ「現代を聴く」でもご紹介しましたが、日本人現代作曲家の室元拓人(1997年~)は、現在、東京藝術大学大学院に在籍し、2022年武満徹作曲賞第1位を受賞しています。この曲は、鹿児島県トカラ列島に伝わる伝統行事に着想を得て作曲されたものだそうですが、(ラジオなのでどのように音を作っているのか分かりませんでしたが)トカラ列島の自然の音(サウンドスケープ)を再現しているような様々な音が渾然一体として1つの世界観を形成し、トカラ列島の伝統行事でも体現されているであろう自然への畏敬と憧憬(同化)を体感できる不思議な曲想の音楽を楽しめました。
 
③マルコ・ロンゴ Light Lapse II
イタリア人現代作曲家のマルコ・ロンゴ(1979年~)は、トレント音楽院及びサンタ・チェチーリア音楽院で音楽を学び、2020年に第41回若い作曲家のための国際作曲コンクール入野賞を受賞しています。一言で表現すれば、映画「燃えよドラゴン」で鏡の部屋のシーンがありますが、あの幻惑的な映像世界を音楽的に表現したような独特の音響効果を生んでいる作品です。全曲を通して明確なメロディー、リズム、ハーモニーのようなものは感じられずに重層的な響きが揺蕩っているような曲想ですが、その響きに身を委ねていると中毒症を引き起こしてしまう不思議な魅力が感じられる作品です。
 
④入野義朗 小管弦楽のためのシンフォニエッタから第1楽章「序奏とフーガ」
この演奏会の演目ではありませんが、現代作曲家・入野義朗(上記③)へのオマージュとして作品が紹介されました。この曲は日本で初めて十二音技法を使って作曲された作品(1953年)ですが、既にA.シェーンベルクが十二音技法を考案してから100年を迎えようとしており、人類に新しい世界観を拓いた十二音技法はもはや古典と言い得る風格を備えています。序奏部でピアノと木管が音列を提示していますが、リズムを上手く使っているためなのか、あまり十二音技法を使用しているような曲調には感じられません。
 
⑤黛敏郎 スフェノグラム
黛敏郎は、僅か1年でパリ留学から帰国し、東洋に潜在する創造力を喚起する活動を開始しますが、1951年(黛20歳)に、この曲が第25回国際現代音楽祭(ISCM)に入選して日本の作曲家の実力が世界水準にあることを示しました。この曲は黛敏郎の音楽的なヴィジョンが明解に感じられ、その豊かな曲想と独特な世界観を体現する音楽に早熟な才能が感じられる名曲ですが、これに対する深い理解を示した東京シンフォニエッタの好演を楽しむことができました。第4曲での加賀ひとみの妖艶な歌唱も秀逸でした。
 
⑥黛敏郎 トーンプレロマス55
この曲は1955年に吹奏楽のための作品として作曲されましたが、黛敏郎が前衛音楽、実験音楽、民族音楽やエレクトロニカなど多彩な活動に取り組んで新しい世界観を拓く気概に満ちていた時代の意欲的な作品です。なお、松本清張の長編推理小説「砂の器」に登場する前衛音楽家・和賀英良は黛敏郎がモデルと言われています。曲名の「トーンプレロマス」とはトーンクラスターのことを意味するE.ヴァレーズの造語だそうですが、非常にパワフルで荘厳な音響等には黛敏郎の溌剌とした野心のようなものが感じられます。
 
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.21
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼ニルス・フラームの「4′33“ ジョン・ケージへのオマージュ」(2021年)
ドイツ人現代作曲家のニルス・フラーム(1982年~)は、現在、ピアニスト&現代作曲家として活躍し、ポスト・クラシカルの現代の偉才としての地位を確立している実力者です。「人間が作ったジャンルの壁を壊していきたいと思っている」と自身語っているとおり、ジャンルレスにクロスオーバーな活動をしています。なお、ジョン・ケージが禅の影響を受けて「空即是色」の世界観を表現したとも言われる「4′33“ 」はジャンルを超えて様々なアーティストにカバーされていますが、この動画はジョン・ケージへのオマージュとしてポスト・クラシカルらしい立ち位置で繊細で独創的なサウンドスケープを表現しています。
 
▼チェロ独奏:ジュリアン=ラファリエール/細川俊夫のチェロとオーケストラのための「昇華」(2016年)
この動画は、2017年のエリザベート王妃国際音楽コンクール・チェロ部門に優勝したフランス人チェロ奏者のジュリアン=ラフェリエール(1990年~)が本選会で細川俊夫作曲「昇華」を演奏したときの模様を収録したものですが、来る5月23日に20世紀を代表する名曲であるO.デュティユーのチェロ協奏曲「遙かなる遠い国へ」及びP.デュサパンのチェロ協奏曲「アウトスケイプ」(世界初録音)を収録したニュー・アルバムをリリースする予定になっており、現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している現在最も期待されている若手の演奏家の1人として、この機会にご紹介しておきます。
 
▼近江典彦の鉱物集第1集「サファイア」(2015)
日本人現代作曲家の近江典彦(1984年~)は現代作曲家・西村朗に師事し、西村朗や細川俊夫等が審査員を務める武生作曲賞(2006年)、名古屋市文化振興賞(2010年)などを受賞している期待の俊英です。コロナ禍がありましたので、現在、活動を継続しているのか分かりませんが、現代音楽アンサンブルTokyo Ensemnable Factoryを主催し、「現代音楽の本当に面白いところに手が届いたプログラムが少ない」「演奏団体が自国の作曲家、作品にほとんど目を向けない」という問題意識を持って活動されているようなので、その活動に注目すると共に聴衆の立場からも出来ることはないか考えています。

アマービレフィルハーモニー管弦楽団第13回定期演奏会と世界を色取る言葉<STOP WAR IN UKRAINE>

▼世界を色取る言葉(ブログの枕)
過去のブログ記事で文化圏による虹色の認識の違いに触れ、日本語には色(単色)や色彩(配色)を表現するための言葉(色名)の種類が多いと述べましたが、色名を表現する日本語の歴史と日本語が認知に与える影響について簡単に触れてみたいと思います。古代の日本語の色名には、大気(光)の色を表現する「赤」「白」「青」「黒」の4種類の言葉(概念)しかなかったと言われていますが、例えば、「青」は「緑」「黄」「紫」等の幅広い色名を表現する言葉として使われており、現代でも「新緑」のことを「青葉」と言い、信号機の「緑色の灯火」(Vienna Convention on Road Signs and Signals/ChapterⅢ Article23-1-(a)-<(i)/P15)を「青色の灯火(俗に青信号)」(道路交通法施行令第2条)と言うのは、その名残です。因みに、信号機に色の三原色の1つである青色ではなく緑色の灯火が使用されているのは、過去のブログ記事でも触れた人間の視覚を司る光受容体(錐体細胞)が青色に比べて緑色に対する感度が高く明るく感じられることに加え、青色に比べて緑色は光の波長が長く遠くからの視認性に優れていることなどが理由になっています。俗に「燃えるような緑」という表現がありますが、緑色は人間の視覚に最も映える色彩と言えるかもしれません。6世紀頃に中国から仏教、儒教及び陰陽五行説が日本に伝来して、森羅万象を構成する色彩、方位、季節、星座、四神及び十二支などの考え方が日本に普及し、それまでの「赤」「白」「青」「黒」の4種類の基本色に「黄」が追加されて(色の三原色:「青」「黄」「赤」)、天上の「黒」に対する地上の「黄」という易経の考え方から地上で最上のものを示す言葉として「黄河」「黄帝(皇帝)」(ex.ユンケル黄帝液)「黄門」(ex.水戸黄門)など「黄」の言葉が使われるようになりました。このように宗教の伝来と伴って日本語の色名が徐々に増え、平安時代になると、それまで数十種類しかなかった日本語の色名が数百種類へと増加しました。もともと古代の日本には、仏教の釈迦やキリスト教のイエスのような教祖を崇める信仰ではなく、自然そのものをご神体として崇める信仰が定着し、例えば、紅、紅梅色、桜色、櫨染、苅安、杜若、緑、藍、葡萄染、蘇芳、紅葉、朽葉、梔子、楝など植物、鉱物やその他の自然物を日本語の色名に採り入れて自然を愛でる文化が育まれ、それは「桜色に 衣は深く 染めて着む 花の散りなむ 後の形見に」(古今和歌集/紀有朋)のように「色」や「花」(自然)等に「心」を巧みに織り込んで表現する和歌として実を結んで世界的にも稀に見る高度な芸術(文学)として昇華しました。また、平安時代の宮廷文化である女房装束「襲の色目」(かさねのしきもく)には自然を敏感に感じ取る感性とそれを生活に巧みに採り入れる知性が多彩色として表現され、時節に合った色合いの装いで自然と調和(色を混ぜるという人工的な美ではなく、色を和える(重ねる)という自然的な美を尊重)する雅や(宮)びやかなファッションとして定着しました。その一方で、鎌倉時代及び室町時代の武家文化になると、禅宗の「一即多、多即一」という理念(虚飾(多)を排して本質(一)を追求)の影響を受けて、「墨の五彩」(白、灰、黒の濃淡)という単彩色として自然の本質が表現され、それは枯山水(庭園)や侘び茶(茶道)等としても昇華し、江戸時代の奢侈禁令を背景として四十八茶百鼠が流行するとその豊富な色名と共に日本人の繊細な色彩感覚が極まりました。因みに、もともとお茶はその名前のとおり茶褐色でしたが、江戸時代に宇治茶を栽培していた永谷宗円(そのご子孫が永谷園を創業)が「青製煎茶製法」というお茶の製法を発明して茶葉が茶褐色から青色(緑色)になって緑茶が誕生し、それが評判になり「宇治の煎茶」が日本を代表するお茶と言われるまでになりました。なお、安土桃山時代、江戸時代末期(葛飾北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」に使用されているベロ藍など)及び明治維新には、日本の天然染料・顔料とは異なる合成顔料が西洋から流入し、西洋の極彩色を基調とする色彩革命が起こり、その良し悪しは別論として日本人の美意識が大きく変革されました。真言宗の開祖・空海(吉備真備など諸説あり)が仏教の無常観を詠った「いろは歌」の冒頭は「色は匂へど」で始まりますが、これは草花の香が匂うことを意味しているのではなく、花根の色が匂う(映える)ことを意味しています。「紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも」(万葉集/額田王)も「紫草のように美しいあなた」という視覚表現として「にほへる」を使っていますが、やがて視覚と嗅覚の意識が分離して「色」は視覚、「匂う」は嗅覚を表現する言葉に分化されました。この点、過去のブログ記事で脳の統合認知機能に触れましたが、本来、脳は五感を別々に認知しているのではなく、これらを統合して最適な認知を創り出しており、これを表すように「色が匂う」「香りを聞く」「目で味わう」「音色」など複数の知覚を統合して表現する言葉が多く存在しています。前回のブログ記事で坂本龍一さんがアメリカのクロスオーバーの潮流を語られていたことに触れましたが、近代的な「分け」て物事を捉えるだけではなく現代的な「和え」て物事を捉えることで、「記憶」(過去の情報)と「知覚」(現在の情報)の組合せが豊富になり(シナプス可塑性の活発化)、認知(創造性につながる未来又は未知の予測)の可能性を広げて行くという発想が益々重要になっていると思います。上述のとおり、「赤」は「明」が語源になっていますが、「赤の他人」「真っ赤な嘘」「赤っ恥」「赤裸々」など明らかなことを意味する言葉として「赤」が使われ、また、「明」の語義から「赤」が「闇」に棲む魔物を退ける魔除けの意味を持つようになり鳥居や達磨等に赤色が使われています。また、明治時代までは男性が元服すると前髪を剃り落としましたが、その跡が青く見えるのは未熟な証拠であるとして「青臭い」「青二才」など未熟なことを意味する言葉として「青」が使われるようになるなど、色名が持つイメージ( ≠ 共感覚)と結び付いて認知の世界を豊かに色取っています。
 
▼古代の日本語の色名
「明」(赤):朝になり空が赤く色付いた状態
「顕」(白):太陽が昇り白々とはっきり見える状態(ex.顕著)
「漠」(青):太陽が沈み青み掛かって見る状態(ex.漠然)
「暗」(黒):夜になり空が黒く色付いた状態
 
▼仮名文字の十二音技法「いろは歌」
色は匂へど 散りぬるを(いろはにほへと ちりぬるを)
我が世誰ぞ 常ならむ(わかよたれそ つねならむ)
有為の奥山 今日超えて(うゐのおくやま けふこえて)
浅ぎ夢見じ 酔ひもせず(あさきゆめみし ゑひもせず)
 
 
▼アマービレファイルハーモニー管弦楽団第13回定期演奏会
【演題】アマービレファイルハーモニー管弦楽団第13回定期演奏会
【演目】近藤浩平 マリンバ協奏曲「アオバトの森」(作品216)
        (アマービレフィルハーモニー管弦楽団委嘱作品・世界初演)
      <Mar>大森香奈
    ②モーツァルト 交響曲第35番ニ長調「ハフナー」(K.385)
    ③ストラヴィンスキー 組曲「プルチネルラ」
【演奏】<Con>松岡究
    <Orc>アマービレフィルハーモニー管弦楽団
【会場】茨木市市民総合センター「クリエイトセンター」
【日時】4月16日(日)14時~(ライブストリーミング配信)
【料金】2000円
【一言感想】
今日は大阪府茨木市を拠点に活動するアマービレフィルハーモニー管弦楽団(APO)のライブストリーミング配信を視聴することにしました。日本オーケストラ連盟に加盟している団体としては最も新しく、一般企業が経営母体になっている数少ないプロオーケストラの1つです。2023年4月から松岡究さん(現、東京ユニバーサルフィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者)がAPOの音楽監督兼常任指揮者にも就任された模様です。今日の演目は非常に考えられた構成になっており、クラシック音楽を聴き始めたばかりの入門者向けにモーツァルト、未だ第一次世界大戦前の音楽しか聴かない新参な客層向けにストラヴィンスキーの新古典主義時代の聴き易い曲、既に第一次世界大戦前の音楽は聴き飽きて第一次世界大戦後の音楽を物色している古参な客層向けに近藤浩平さんの新曲と、幅広い客層のリピーター開拓を企図したものになっていました。レコード芸術の休刊に象徴されるように定番曲の僅かな解釈の差異を聴き比べる音盤コレクターの時代は終焉し、シナプス可塑性を活発化して新しい世界観を拓いてくれる新しい芸術体験が求められるようになり、その意味でオーケストラの演奏会にも前例踏襲ではない創意工夫が求められる時代になっていると感じます。今後も、現代に生きて活躍している作曲家の作品を紹介するなど、他のオーケストラがやっていないようなことにも積極的に取り組んで貰いたいと期待しています。
 
①近藤浩平:マリンバ協奏曲「アオバトの森」
APOが現代作曲家の近藤浩平さん(日本の音楽展・作曲賞入選、ベルリン・ドイツ・オペラ「世界の音・東アジア」作曲コンクール第2位など)に委嘱した作品で、ブログラム・ノートには「マリンバには森の木立のイメージがあり、木々と生き物たちがざわめくような協奏曲を書いてみようと考えた」と記載されており、山の作曲家の異名を持つ作曲家ならではの森の生命力のようなものを感じさせる面白い作品を楽しむことができました。ソリストの大森香奈さん(イタリア国際打楽器コンクール第1位、KOBE国際音楽コンクール第1位など)は、現在、打楽器メーカーのADAMS社(オランダ)Encore Mallets社(アメリカ)及びSABIAN社(カナダ)の契約アーティストになっており、大森さんのトレードマークであるピンクマリンバは大森さんのためにADAMS社が特別に制作したものだそうです。また、Encore Mallets社が発売しているマリンバ・マレット「大森香奈シリーズ」は大森さんが開発したものだそうで本日の演奏でも使用されていましたが、このマレットは木の温もりが感じられる暖かくクリアな音色を紡ぎ出す特徴があり、この楽曲の曲想である「マリンバには森の木立のイメージ」という音世界を表現するのに適した音色を生んでいたと思います。なお、この曲の標題「アオバト」に因んだものなのでしょうか大森さんは青色を基調とするドレスをお召しになられていましたが、実際のアオバトは緑色をしており「緑鳩」と書いて「アオバト」と読みます。上述のとおり古代の日本語には色名を表現する言葉として白、赤、青、黒の4種類しかなく、そのために緑は青に分類されたいたことからアオバト(緑鳩)と命名されています。オケはストコフスキーシフトの一管編成を基本として、弦5部はヴァイオリン:各2.5プルト、ヴィオラ/チェロ:各1.5プルト、コントラバス:1プルトの小編成でしたが、これに対して打楽器は4名と充実した編成になっていた点が特徴的でした。第一楽章は、マリンバの音板を弦楽器のように弓で擦り、弦楽器の表板を打楽器のように指で叩くという倒置的な表現が用いられていますが、人間が都合よく自然を切り出した偏狭とした世界観(人間中心主義的な視点)から、本来、自然が持っている多様な世界観(自然尊重主義な視点)へと観客の視野が拓かれて行くような示唆に富む表現が印象的でした。その後、アオバトの鳴き声から着想を得たものと思われる「正体不明の声」が聴こえてきますが、姿が見えない生物への感性が研ぎ澄まされて森の音世界へと誘われ、ガーシュイン風とでも形容すれば良いのか華やかで多彩なリズムや音色(ギロ、鈴、拍子木など打楽器の種類も豊富)によって森が育む多彩な生物の存在を感じさせる面白い曲想になっています。第二楽章は、リズミカルな第一楽章とは対照的にロングトーンが用いられていますが、森の喧騒とは対照的に森の静寂が表現されているようで、生物の位相(音を出す動物に対し、音を出さない植物や微生物)と森に流れる多様な時間を感じさせる面白い曲想になっています。第三楽章は、第二楽章の曲想を引き継ぎながら、これに第一楽章の曲想が加わって、マリンバとオーケストラが緊密に呼応しながら森のオーケストラとでも言いべき多彩な音楽が展開されてクライマックスを築いて行きます。現在、札幌でG7環境大臣会合が開催されていますが、そのレセプションに相応しい曲ではないかと感じながら聴いていました。なお、アンコールはマリンバ独奏によるリベルタンゴでしたが、マリンバの柔らかい音はリラックス効果が高く心地よく響きます。現代音楽は初聴の曲が殆どで、また、音盤がリリースされていないものも多いので、一聴しただけでは深い鑑賞は困難であるとも感じています。その意味では、ライブストリーミング配信だけではなくアーカイブ配信も採り入れて頂けると、現代音楽の鑑賞の手助けとなるのではないかと感じています。
 
②モーツァルト:交響曲第35番ニ長調「ハフナー」
モーツァルトの曲を聴いてもボンカレーの味を懐かしむようなイマサラ感がありますので、感想は割愛します。オケはストコフスキーシフトの2管編成を基本としていましたが、それにしては弦5部が小編成(上述①と同じ5型)になっており、また、(マイクの感度が原因かもしれませんが)ややデットなホールであったことも手伝って若干響きが華奢に感じられましたが、低弦が内声を豊かに響かせる存在感で引き締まった演奏を楽しむことができました。
 
③ストラヴィンスキー:組曲「プルチネルラ」
ヨーロッパを中心とする世界秩序を破壊する第一次世界大戦中の1918年に、ストラヴィンスキーはバーバーリズムから新古典主義への移行を模索するバレエ「兵士の物語」を初演し、その直後にパンデミック禍にあったスペイン風邪に感染していますが、アメリカを中心とする世界秩序から多極化した世界秩序への潮流を生む誘因となっているウクライナ戦争とコロナ禍にある現在と状況が似ています。このような状況のなか、ストラヴィンスキーは1919年~1920年にバレエ「プルチネルラ」を作曲し、1924年にこれを組曲(器楽曲)として編曲しています。組曲「プルチネルラ」は新古典主義の作品と位置付けられていますが、ストラヴィンスキーが新たに作曲した部分は少なく、G.ペルゴレージやD.ガッロなどのバロック時代の作品に近代的なリズムやハーモニー等を採り入れた編曲のみを行っている部分が多い印象ですが、当時、バロック時代の作品を近代的に再解釈するというアイディアは斬新なものだったと言われています。本日の演奏は、(多少のキズはありましたが)小編成ならではの軽快なアンサンブルを楽しむことができ、とりわけ第6曲のガボットではストラヴィンスキーの編曲の妙味を存分に堪能できる多彩で優美な木管アンサンブルが秀逸で、他の曲を含めて木管の好パフォーマンスが目立っていました。なお、プログラム・ノートには第4曲のタランテラの原曲について「ケレーラの作品」と記載されていますが、おそらくヴァッセナール伯のコンチェルト・アルモニコ第2番第四楽章ではないかと思います。また、第5曲のトッカータと第6曲のガボットの原曲について「作者不詳のチェンバロ組曲」と記載されていますが、おそらくカルロ・モンツァのチェンバロ組曲第1番と第3番ではないかと思います。
 
▼日本の作曲
サントリー芸術財団が1969年から10年毎に編纂している「日本の作曲2010-2019」が公開されましたのでご紹介します。外国の現代作曲家が掲載されておらず、また、日本の現代作曲家も一部(ビックネーム)しか掲載されていませんが、この10年間に存命し、活躍した日本の現代作曲家を紹介しており非常に有難い媒体です。
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.20
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼オーラブル・アルナルズの「回想」(2021年)
アイスランド人現代作曲家のオーラブル・アルナルズ(1986年~)は、最も期待されているポスト・クラシカルの俊英で、前回のブログ記事でも触れた坂本龍一さんのヨーロッパツアーで前座を務め、また、東日本大震災被災地支援プロジェクト「kizunaworld.org」 に楽曲を提供するなど日本でもお馴染みの現代作曲家です。この曲はアンビエントやエレクトロニカなどのジャンルで注目されている「Soft Piano」(弦とハンマーの間にフェルトを挟んで録音された音源)を使って作曲されており、倍音の少ない丸みのある音色が魅力です。
 
▼リサ・シュトレイクの「ネロリ」(2021年)
スウェーデン人現代作曲家のリサ・シュトレイク(1985年~)は、クラウセン・サイモン作曲賞(2020年)等を受賞し、英国の音楽サイト「bachtrack」が国際女性デーを記念して先月3月8日に公表した「2023年に注目すべき8人の女性作曲家」においてリサ・シュトレイクがエントリーされるなど、現在、ヨーロッパで最も注目されている若手の女性作曲家です。なお、この8人の女性作曲家には過去のシリーズ「現代を聴く」でもご紹介させて頂いた日本人現代作曲家・桑原ゆうさんがエントリーされているのも注目されます。
 
▼渋谷由香の「Found Overtone」(2021年)
日本人現代作曲家の渋谷由香(1981年~)は、第19回京都芸術祭新人賞や第28回現音作曲新人賞等を受賞し、現在、注目されている若手の俊英です。この動画は2021年に門天ホールで開催された「未来に受け継ぐピアノ音楽の実験(Cプログラム)」の模様を収録したもので(渋谷さんの曲は01:03:31~)、J.ケージが発明したプリペアドピアノや特殊奏法を使用して、各曲とも多彩な曲想による独特の世界観が表現されており非常に面白いです。Aプログラム及びBプログラムもあり、非常に贅沢な演奏会を楽しむことができます。

演奏会「東京・春・音楽祭2023」とエナジー風呂と心の病<STOP WAR IN UKRAINE>

▼哀悼の意とエナジー風呂(ブログの枕の前編)
先日、坂本龍一さんが急逝されましたが、改めて、その存在感の大きさに思いを馳せています。僕は、2008年に赤坂ACTシアターで開催された坂本さんがプロデュースする公演「ロハスクラシック・コンサート2008」において、坂本さんが当時のアメリカでジャンルレス及びボーダレスにダイナミックに展開していたクロスボーダーの潮流について語られていたことに感化され、その視野を大きく拓かれたことを思い出します。過去のブログ記事でも触れたとおり、上野学園大学(音楽大学)の閉鎖クラシカジャパンの放送及び配信の終了レコード芸術の休刊などクラシック音楽業界の行き詰りが顕著になっていますが、坂本さんが精力的に取り組まれていたクロスボーダーなど新しい芸術表現の可能性を探求する試みが次世代に受け継がれ(エナジー風呂のユーモアに隠された坂本龍一さんの音(響き)と音楽とが織り成す多彩な世界観には脱帽)、より豊かな実を結ぶことに期待したいです。過去のブログ記事でも触れ、また、映画「犬王」にも描かれていますが、過去の芸術的な遺産を「伝承」(消費)するという低い志に満足するのではなく、「伝統」に根差しながらも時代を「革新」(創造)するという高い志を持ち新しい芸術表現の可能性を探求し続ける取組みこそが「伝統」に新しい命を吹き込み、これを育むことにつながると思います。その観点からも、これまでの坂本さんの偉大な功績を讃えると共に、衷心より哀悼の意を捧げたいと思います。さて、前回のブログ記事では生物の設計図「ゲノム」を記述するメディア「DNA」について簡単に触れて、有性生殖する生物(人間を含む)はDNAのコピーミスによる種の絶滅を防ぐために、それを除去する仕組みとして死のプログラムを内蔵するようになったことに言及しましたが、その一方、人間がゲノム編集する技術「クリスパー」によるDNA治療(臨床医療)やバイオハッキング(予防医療、回復医療)などでDNAのコピーミスを修復し又は回避することが可能になりつつある現状を俯瞰しました。そこで、近年、増加傾向が続く心の病の原因(DNAのコピーミスによるエナジーフローの乱れなど)について医科学的に解明されつつある現状に簡単に触れてみたいと思います。これまでは主に体の病の原因について医科学的な研究が進められてきましたが、例えば、現代病の1つである肥満症や糖尿病は寒冷期(小氷期)などに生じた進化の名残りが影響しているのではないかと言われています。この点、1895年に天文学者のA.ダグラスが年輪年代測定法を考案し、17世紀頃の約1世紀間に亘って北半球は寒冷期(小氷期)にあったことが判明しましたが、この時代に年輪幅が狭く密度の高い樹木が生育したことによりストラディバリウス等の銘器が誕生し、17~18世紀の西洋音楽の発展に大きく貢献したと言われています。その一方、この寒冷期(小氷期)等を乗り切るために生じた進化の負の側面として現代病の1つである肥満症や糖尿病を遺伝的に発症し易くなる体質に変化したのではないかと考えられています。人間の体は寒さを知覚すると手足の毛細血管を収縮して生命維持に不可欠な内臓を傷付けないようにすることが知られていますが(凍傷で手足を欠損しても内臓の温存を図る生存戦略)、血液の氷結により内臓を傷付ける虞もあることから、血液が氷結し難くするように余分な水分を対外に排出するための小便を促す生理現象が活発に働くようになったと言われており(寒いと小便に行きたくなる理由)、また、血液の氷点を下げるために血液中の糖の濃度(血糖値)を高くし易い体質になったのではないかと考えられています。このため、インスリンの分泌能力が高い欧米人は肥満症になり易い遺伝的な体質になり、インスリンの分泌能力が低い日本人は糖尿病を発症し易い遺伝的な体質になったと言われています。これに対して、心の病は久しく宗教的な理由によるものではないかと考えられてきたことなどから、その原因に関する医科学的な研究は大幅に遅れています。
 
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ウクライナの平和を祈って(坂本龍一作曲「Piece for Illia」)
過去のブログ記事でも触れましたが、映画「陽光桜」は元教員の故・高橋正明さんが第二次世界大戦で教え子を戦地へ送り出した後悔から、当時、植物遺伝学上、人工受粉(花粉交配)は不可能と考えられていた桜の新品種登録第一号となる「陽光」を生み出すことに成功し、世界各国へ平和の花として無償で苗木を配り、ローマ法王ほか世界各国から陽光桜が花を咲かせたという感謝の手紙が届けられたという実話に基づく物語です。一日も早く、ウクライナに平和の花が咲き、平穏な暮しが戻ることを心から祈ります。自宅のパソコンからでもできること:【国連】【ユニセフ】【赤十字
平和の花「陽光桜」(花言葉:精神の美しさ)
 
▼天才を育む心の病(ブログの枕の後編)
古代ギリシャ時代は黒胆汁が心の病の原因と考えられ、中世キリスト教時代は心の病は7つの大罪のうちの怠惰の一種として「罪」と認識されていました(病気から罪へ)。ルネッサンス時代になると天文学や占星学等と結び付いて土星の影響であると考えられるようになり、やがて宗教改革期の画家のA.デューラーの銅版画「メレンコリアI」(F.ロダンの銅像「考える人」にも見られ、心の病を象徴するしぐさのモチーフ)において遠近法(透視図法)的な空間把握に近代的な「主体」の概念の萌芽が見られるようになり(遠近法は主体の視点を自覚した描画技法)、その後、神学的な影響を克服したデカルトが「自我」を発見し、心の病の原因を心身の相互作用として捉えるようになりました(罪から病気へ)。20世紀になると体液(黒胆汁)説や悪魔憑依説の非科学的な俗説は廃れ、何らかの喪失を原因として引き起こされる不安や抑鬱等を分析対象とする精神医学が確立されました(病気から治療へ)。過去のブログ記事でも脳科学的な観点から「創造」と「狂気」は紙一重であることに触れましたが、その狭間で傑出した才能を発揮した稀代の芸術家や科学者には心の病を発症していた人も多く、例えば、過去のブログ記事でも触れたA.ウォーホルは「ためこみ症」の症状があったと言われており(ゴミ屋敷の原因)、それはブリロの箱やキャンベルのスープ缶など特徴的な作風に表れています。また、P.チャイコフスキー、R.シューマンやS.ラフマニノフなどには「うつ病」の症状があったと言われており、それはどこか喪失感のようなものを漂わせる詩情豊かなメランコリーなど特徴的な曲調に表れています。さらに、J.ガーシュウィンは「ADHD(注意欠如・多動症)」の症状があったと言われており(授業に集中できない子供の原因)、それは斬新なリズムや多彩なハーモニーなど特徴的な曲調に表れています。また、C.ダーウィンは「不安症(パニック障害)」の症状があったと言われており、生涯に亘って心身の不調や発作等に悩まされましたが、「不安は、おそらく危険信号への反応として発生したものが、危険を回避するという一連の反応傾向を形成するに至ったもの」という進化論的な分析を残しています。さらに、A.アインシュタインは「ASD(自閉症スペクトラム症)」の症状があり、非社交的で不躾な振舞いが目立つなど特徴的な傾向が見られたことが知られていますが、S.ジョブズにも共通する特徴があったと言われており天才の条件と言えるかもしれません。現代では心の病の原因について医科学的な解明が徐々に進み、認知症は老年になるとβ-アミロイドというタンパク質が作られ、それがシナプスを攻撃して情報伝達を妨害すること(エナジーフローの乱れ)により正しい認知ができなくなることが分かっています。また、うつ病は過度なストレス等により神経細胞が減少し、それによりモノアミン(気分に関与する神経伝達物質)の分泌量も減少(エナジーフローの乱れ)して気分障害が発生することが分かっています(五月病の原因)。さらに、総合失調症は遺伝要因又は/及びストレス等の環境要因により中脳皮質で神経伝達物質のドーパミンの分泌量が減少(エナジーフローの乱れ)して感情や意欲が低下し又は中脳辺縁で神経伝達物質のドーパミンの分泌量が異常に増加(エナジーフローの乱れ)して幻想や幻覚が発生することが分かっています。なお、猫の体内で無性生殖するトキソプラズマという寄生生物(パラサイト)が人間に感染すると総合失調症を発症し易くなると言われており、トキソプラズマが人間の脳をコントロールしてトキソプラズマに感染しやすい行動(衛生習慣を怠るなど)を執るように作用することが分かっています。このようにDNAのコピーミス等によるエナジーフローの乱れ以外に寄生生物(パラサイトを文字って「パラ斎藤さん」というフィギュアが訪日外国人に人気のお土産)が心の病の原因になっている症例も確認されています。また、上述のとおり芸術家や科学者に比較的に多い心の病として(下図参照)、自閉症スペクトラム障害は側頭葉、前頭葉下部、偏桃体など脳内に先天的な障害があり他人の心を理解する機能や他人との違いを意識する機能が弱く(エナジーフローの乱れ)、コミュニケーション障害、対人関係障害やイマジネーション障害を発症することが分かっています。このため、自閉症スペクトラム障害を発症している人は、他人と一緒に行動することを好まず、自分の信念を貫き通す傾向(出る杭)が強いことから独創性を育み易い気質であると言われています。さらに、ADHD(注意欠如・多動症)は前頭連合野にある神経細胞の異常によって神経伝達物質のドーパミンの分泌量が適切でなくなり(エナジーフローの乱れ)、注意欠如、多動性や衝動性等の症状を発症することが分かっています。このように心の病の原因について医科学的な解明が徐々に進められていますが、これと併せて、これまでの薬物療法、電気療法や心理療法に加えてバイオハッキングや量子治療等の新しい治療法の研究も進められています。現代人は心の病とまで行かなくても日常的に生きづらさを感じている人は少なくないのではないかと思いますが、その原因は遺伝要因や環境要因など様々なものが考えられ、例えば、神経質(周囲との感覚差に苦しむ傾向)、心配症(周囲の顔色を伺う傾向)、潔癖症(正義感が強く周囲に不寛容な態度をとる傾向、自粛警察など)、過剰な共感(周囲に振り交わされて苦しむ傾向、SNS中毒など)、過剰な責任感(責任感の強さから無理に頑張る傾向)、過剰な罪悪感(周囲の期待を重圧に感じる傾向)、物事の拡大解釈や過少評価などのファクターが指摘されており、最近ではこれらの兆候を把握して脳の健康状態を維持するための予防的な取組みとしてブレインフィットネスが注目されています。また、自宅で手軽にできる対策として、毎日、お風呂に入ってエナジーフローを整えるだけでも生きづらさの緩和につながるかもしれません。
 
▼世界観の拡張(創造と狂気の狭間に広がる豊饒な世界)
上述のとおり「創造」と「狂気」の狭間で傑出した才能を発揮した稀代の芸術家や科学者に心の病を発症していた人は少なくありませんが(もちろん全ての天才が心の病を発症していた訳ではありません)、これらの芸術家や科学者は心の病を発症する一般人と異なり正常者の認知世界(共有世界)に対する共感能力も備えていて正常者の認知世界と隔絶されていない点に特徴があり、正常者がこれらの芸術家や科学者の認知世界(非共有世界)に対する共感能力を育むことで、自らの認知世界をこれらの芸術家や科学者の認知世界(非共有世界)へと拡張して行くことが可能であると言われています。過去のブログ記事でも触れましたが、人間は「知覚」(現在の情報)と「記憶」(過去の情報)との組合せで「認知」(未来又は未知の予測)しますが、その組合せが平凡なものを「想像力」、その組合せが非凡なものを「創造力」といい、これらの芸術家や科学者はその組合せが非凡なものになる可能性が高いと言われています。この点、その組合せに何らかの関係性や法則性等を見い出すことができなければ、これに対して正常者が共感能力を育むことは難しく「狂気的なもの」という評価に陥り易いですが、その組合せに何らかの関係性や法則性等を見い出すことができれば、これに対して正常者が共感能力を育むことは比較的容易になり「創造的なもの」という評価を得易いと言われています。現代音楽や現代美術に接して「これは芸術と言えるのか」というプリミティブな反応しかできない人は非共有世界(新世界)へ認知を拡張して行くための教養(連想の因子)が不足している(シナプス可塑性が不活発な常態)と考えられ、そのような人が非共有世界(新世界)へ認知を拡張して行くためにはキュレーター(美術では学芸員、音楽では演奏者、科学では研究者に求めらる重要な素養)の存在が益々重要になってきていると感じます。
 
 
▼演奏会「東京・春・音楽祭2023」
【演題】フィンランド放送交響楽団首席フルート奏者による
              日本とフィンランドのフルート作品を集めて
【演目】①雰囲気から
      <Com>L.ヴェンナコスキ 
    ②ノクターン
      <Com>J.P.レヘト
    ③冥
      <Com>福島和夫 
    ④デジタルバード組曲
      Ⅰ.鳥恐怖症
      Ⅱ.夕暮れの鳥
      Ⅲ.さえずり機
      Ⅳ.真昼の鳥
      Ⅴ.鳥回路
      <Com>吉松隆 
    ⑤想い出は銀の笛
      Ⅰ.エメラルドグリーンの風
      Ⅱ.真紅のルビー
      Ⅲ.ブラック・インヴェンション
      Ⅳ.紫の薔薇
      Ⅴ.ブルー・パステル
      <Com>三浦真理 
    ⑥線Ⅰ
      <Com>細川俊夫
    ⑦フルート・ソナタ「スクリプト」(世界初演)
      Ⅰ.水
      Ⅱ.月
      Ⅲ.虫~魚~虫
      Ⅳ.石垣~雪の猿
      <Com>J.P.レヘト
    <Pf>内門卓也
【会場】旧東京音楽学校奏楽堂
【日時】4月8日(日)14時~(ライブストリーミング配信)
【料金】1200円
【感想】
今日は、現在開催されている「東京・春・音楽祭2023」で、NATO加盟で話題になっているフィンランドと日本のフルート作品を集めた演奏会をライブストリーミング配信で視聴することにしました。小山さんは慶応大学理工学部に在籍していた時代から注目していましたが、現在はフィンランド放送交響楽団首席フルート奏者として活躍され、フィンランドの現代音楽の紹介等に尽力されており、本日採り上げられるフィンランドの現代音楽はすべて日本初演になります。最近、変革の時代を背景として音大卒以外の異色の経歴を持つ音楽家の活躍が目に留まりますが、今後とも小山さんには理工系の知識を活かして新しい時代の芸術表現の可能性を探求した精力的な取組みに期待し、注目したいと思っています。なお、「東京・春・音楽祭2023」は、日本の音楽祭では珍しく現代音楽を積極的に採り上げており、また、デジタル田園都市構想を見据えてオンライン配信など新しい芸術受容のあり方にも精力的に取り組まれているので注目しています。
 
①ロッタ・ヴェンナコスキ:雰囲気から
ロッタ・ヴェンナコスキ(1970年~)はフィンランドを代表する女性作曲家で、RSOへの楽曲提供や、日本の演奏会でも採り上げられるなど国際的に知名度が高い現代作曲家です。フルートとピアノのための「雰囲気から」は日本初演だそうですが、知る限り、輸入盤も含む音盤等はリリースされておらず初聴の曲になります。ピアノの神秘的な伴奏に乗せてフルートの霞むように微弱で繊細な音色が揺蕩う幻想的な演奏を楽しむことができました。演奏の途中で何度か音声(録音)が流されましたが、何を言っているのか聴き取れず、音声を聴き取らせることを企図したものではなかったのかもしれません。なお、現代音楽は初聴の作品が多く、また、クラシック音楽のような構造的聴取にも馴染まない作品が多いので、何らかのキュレーションがないと非常に鑑賞は難しいもの(音から受ける単なる印象)になってしまいます。是非、パンフレット等に(作曲家の紹介ではなく)楽曲の解説を添えて頂けると鑑賞の手助けとなると思いますので、次回以降の改善に期待したいと思っています。
 
②ユッカ=ペッカ・レヘト:ノクターン
⑦ユッカ=ペッカ・レへト:フルート・ソナタ「スクリプト」(世界初演)
ユッカ=ペッカ・レヘト(1958~)は現役のフルーティストとして活躍される一方で現代音楽の作曲家としても活躍されており、フルート・ソナタ「スクリプト」(世界初演)は2021年タンペレピアノコンクールのための課題曲作曲コンクールで第2位を受賞し、ピアノパートに面白い曲想が見られます。フルート・ソナタ「スクリプト」は4楽章から構成され、演奏を聴いた限りでは「スクリプト」は台本ではなくブログラム言語を意味しているような印象を受けます。第1楽章ではフルートとピアノの緊密な呼応がプログラム言語の入力と出力を表現しているようで面白く、第2楽章ではその入出力が洗練されて忙しなく呼応します。第3楽章ではリズミカルで小気味よいメカニカルな響きがユーモラスに感じられたのに対し、第4楽章ではストラヴィンスキーのバーバリズムを思わせる激しく無機質なリズム(まるでキーボードを叩きつけるような印象)で闊達な演奏が繰り広げられました。各楽章に標題が付されており作曲意図は別にあるのかもしれませんが、スリリングで面白い演奏が聴けました。
 
福島和夫:冥
福島和夫(1930年~)は上述のとおり既に閉鎖が決定されている上野学園大学(音楽大学)の日本音楽史研究所所長を務められている方で、「冥」(1961年)は恩人シュタイネッケ博士のための追悼曲として作曲されたものです。さながら高音域は能管のひしぎ音を彷彿とさせる気魄があり、低温域は尺八の節回しを彷彿とさせる抒情が感じられ、これらの響きが緊密に連携しながら此岸と彼岸をつなぐ1つの音世界を形作っているような印象を受ける作品です。フィンランドの作品と続けて聴くと、とても同じ楽器とは思えない多彩な音色や世界観を楽しむことができました。
 
④吉松隆:デジタルバード組曲
吉松隆(1953年~)は今更解説を要しないビックネームであり、小山さんと同じく慶応大学理工学部出身という異色の経歴の持ち主で、その聴き易い曲調が人気を博し、大河ドラマ「平清盛」のテーマ曲を担当されるなど非常に知名度が高い現代作曲家です。「デジタルバード組曲」(1982年)は「機械仕掛けの鳥を主人公にした架空のバレエのための架空の音楽」というコンセプトを持ち、全体で5楽章から構成されています。第1楽章では小気味よいリズムでメカニカルな印象を与える曲調なのに対し、第2楽章ではフルートによる流麗な演奏で優雅に大空を舞う鳥の姿が描写されましたが、ピアノの不協和音がどこか機械仕掛けの違和感のような風情を醸し出していてユーモラスな印象を受けました。第3楽章では「さえずり機械」という標題が付されていますがフルートソロが巧みなスタッカートで鳥のさえずりを表現する面白い曲想でした。第4楽章では第1楽章と同じく機械仕掛けを印象付ける曲調になっており、これに続く第5楽章では快活に曲が締め括られますが、フルートという楽器の表現可能性を感じさせる表情豊かな演奏を楽しめました。
 
三浦真理:想い出は銀の笛
三浦真理(1960年~)は元NHK交響楽団のファゴット奏者で、現在、現代作曲家として活躍されています。「想い出は銀の笛」(1990年)はフルート四重奏曲として作曲され、フルート三重奏、サックス四重奏、フルート七重奏、木管フレックス五重奏など様々な編成に編作されている人気曲です。全体で5楽章から構成されており各楽章に標題が付されていますが、第1楽章ではフルートの音色から想い出が零れ落ちてくるような抒情性が美しく、第2楽章では優美な歌が聴かれます。第3楽章はバッハ風、第4楽章はラベル風、第5楽章は軽快な曲調で、アクのない素直な聴き易さが魅力的でした。
 
⑥細川俊夫: 線Ⅰ
細川俊夫(1955年~)も今更解説を要しないビックネームであり、先日のBPOのデジタルコンサートホールでも作品が採り上げられるなど国際的な知名度も高い日本を代表する現代作曲家です。フルート独奏のための「線Ⅰ」(1984年)は毛筆で書く線を音で表現した「音の書(カリグラフィー)」という着想により創作された作品で、「音は空白(沈黙)から生まれ、空白(沈黙)へ帰っていく」という世界観を表現したものです。フルートの一筆書きを思わせるような気魄を感じさせる入魂の演奏で、フルートから尺八のような響きを引き出し、息を吐くだけではなく、息を吸い、息を止めるなどの一連の所作が音(無音を含む)によって表現され、慎重にして大胆な筆運びによって1つの音(線)が立ち上がって行く細川さんのアイディアが鮮やかに再現される好演でした。本日の演奏会は、この曲とフルート・ソナタ「スクリプト」(世界初演)の2曲だけでもお釣りがくるような充実した内容で、日本が凄いのは野球だけではないことを感じさせてくれるした好演だったと思います。
 
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.19
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
今回は若い現代作曲家の登竜門である武満徹作曲賞にフォーカスして2023年5月28日に開催される本選会に選出されている現代作曲家4名をご紹介しておきたいと思います。最近では本選会まで譜面審査にしてしまう破廉恥なコンクールがあるなかで、2023年度武満徹音楽賞の審査員を務めている現代作曲家・近藤譲さんの「2023年度武満徹作曲賞 譜面審査を終えて」と題する総評を拝見すると、音楽に対する謙虚で真摯な姿勢に溜飲が下がる思いがしますし、その現代音楽に接するスタンスは音楽を受容する側にとっても大いに参考になるものがあり目鱗です。なお、5月23日から5月29日まで東京オペラシティで現代音楽祭「コンポージアム2023」と銘打って、本選会を前後に挟んで、フィルム&トーク、近藤譲さんのオーケストラ作品(世界初演を含む)、室内楽作品及び合唱作品の演奏会が開催される予定になっていますので、GWは働くことにして、この期間に休みを取ろうかと考えています。
 
▼ギジェルモ・コボ・ガルシアの「真空のエネルギー」(2019年)
スペイン人現代作曲家のギジェルモ・コボ・ガルシア(1991年~)の詳しいプロフィールは、2023年度武満徹作曲賞ファイナリストの紹介に譲ります。「真空のエネルギー」というタイトルを見て量子力学がピンと来なければ、現代音楽を受容するための教養が不足している証拠です。真空は無ではなく発生源のない無限のエネルギーが存在していて「色即是空、空即是色」は宗教哲学ではなく現代物理学です。この曲は、真空と発生源のない無限のエネルギーを連想しながら聴くと面白く感じられる曲想です。なお、2012年に発見されたヒッグス粒子と宇宙の誕生については別の機会に触れてみたいと思います。
 
▼マイケル・タプリンの「ゆらめく火」(2017年)
イギリス人現代作曲家のマイケル・タプリン(1991年~)の詳しいプロフィールは、2023年度武満徹作曲賞ファイナリストの紹介に譲ります。人類は火を使った料理を発明したこと(食材が柔らかくなり顎の筋肉が弱まって頭蓋骨が拡大、消化エネルギーの節約により脳にエネルギー配分)で脳が発達し、熱(分子の激しい運動)と光(電子のエネルギー放出)を発する火に、この世ならざる者の存在を感じたことが宗教の始まりとも言われており、最近では火(炎)を鑑賞する趣味が注目を集めています。この曲は、ゆらめく火を描写したものだと思われますが、豊かな着想で火の表情を多彩に表現した面白い作品です。
 
▼山邊光二の「ダルメシアン」(2015年)
日本人現代作曲家の山邊光二(1990年~)の詳しいプロフィールは、2023年度武満徹作曲賞ファイナリストの紹介に譲ります。この曲の題名にはディズニー映画「101匹わんちゃん」でもお馴染みのダルメシアンとつけられ、水玉模様がメディアアートとしてあしらわれています。ダルメシアンは生まれたときは真っ白で数週間かけて黒や茶色の水玉模様が全身に現れますが、その様子から着想を得て作曲されたものではないかと推測される可愛らしい作品です。自然界には水玉模様、縞模様、迷路模様など様々な模様を持った動物がいますが、カモフラージュや体温調節などを行うためではないかと考えられています。
 
▼ユーヘン・チェンの「雨に林と空と私が塗りつぶされる」(2020年)
中国人現代作曲家のユーヘン・チェン(1998年~)の詳しいプロフィールは2023年度武満徹作曲賞ファイナリストの紹介に譲ります。この曲は谷川俊太郎の詩「梅雨」の「物音には湿度がある」という一節から着想を得て作曲された曲です。熱の正体が分子の激しい運動ならば音の正体は分子の周期的な振動ですが、湿度が高い=分子の密度が高いと音の振動は拡散し音が聞こえ難くなる(高音域は波長が短く密度の高い分子を振動させられず減衰)傾向があります。この点、日本の梅雨はヨーロッパの2倍の湿度で和音や残響等を重視するクラシック音楽に不向きと言われ、日本の伝統邦楽はシンプルな音で構成されています。

【演奏会】第24回レア・ピアノミュージック「温故知新ブーレーズとエスケシュの場合」と温故知新DNAとクリスパー革命<STOP WAR IN UKRAINE>

▼温故知新DNAとクリスパー革命(ブログの枕)
前々々回のブログ記事でE.モリコーネ(P.ブーレーズと同世代の現代作曲家)へのオマージュとしてごく簡単に彼の代表的な映画音楽に触れ、それに関連して前々回及び前回のブログ記事でごく簡単にメディア論に触れましたが、今回は神(自然)が生物の設計図「ゲノム」(生物の設計図の全体をゲノム、そのうちの個々の機能の設計図を遺伝子)を記述するメディア「DNA」と、人間がこれを編集する技術「クリスパー」に簡単に触れてみたいと思います。人間には約60兆個の細胞があり、1個の細胞に46本の染色体があってDNAが巻き付いています。DNAは塩基(「A」(アデニン)、「T」(チミン)、「G」(グアニン)、「C」(シトシン))などから構成され、それがいくつも連鎖状に連なって一本鎖DNAになり、別の一本鎖DNAと結合して二本鎖DNA(二重螺旋構造)を形成しています(左上のイラスト)。因みに、二本鎖DNA(二重螺旋構造)は「A」と「T」及び「G」と「C」の組合せによる塩基対で結合していますが、どちらか片方の一本鎖DNAが損傷しても塩基対を手掛かりにすれば、その損傷した部分の塩基配列を修復することが可能であることから二本鎖DNA(二重螺旋構造)になっていると言われており、その修復に失敗するとがん細胞等に変化します。なお、人間のDNAには合計約32億の塩基対があると言われていますが、そのうちの約2%の領域に約2万3千個の遺伝子が飛び飛びに記述されています。残りの約45%の領域は酵素を使って他の染色体に移動すること(突然変異を生じ得る得る変化)ができる転移因子「トランスポゾン」で種の進化に関係していると言われており(トランスポゾンは神によるゲノム編集クリスパーは人間によるゲノム編集)、それ以外の約53%の領域は未解明の塩基配列で種の分化に関係しているのではないかと考えられています。現在、異次元の少子化対策が議論されていますが、子供の遺伝子は父母(2人)から半分ずつを受け次ぎますので、祖父母(4人)、曾祖父母(8人)と先祖を辿って行くと約30世代前(平安時代から鎌倉時代頃)には現在の日本人の人口よりも多い10億人以上の先祖が存在していた計算になってしまいます(血統崩壊のパラドクス)。この点、昔は高速移動手段や遠隔通信手段等がなく、ごく限られたコミュニティーの中で近親婚が繰り返されており、実際には先祖を遡ると相当数の重複があると言われていますので、先祖の数が指数関数的に増えて行くことはありません。因みに、子供の細胞内にあるミトコンドリアは母のみから受け継ぎますので、ミトコンドリアを遡って行けば人類の共通の先祖であるミトコンドリア・イブに辿り付くと考えられており、約20万年前にアフリカ南部(ボツワナ)に住んでいた女性(但し、それは1人とは限らない)ではないかと言われていますが、各人の外見、能力やその他のパーソナリティ等の違いはDNA全体の僅か約0.1%~約0.2%(人間とチンパンジーは約1.23%)の差異が生んでいます。このように人間を含む多細胞生物は有性生殖(雄及び雌のDNAを結合して組み替えることにより雄及び雌とは異なる遺伝子を持つ個体を生産すること)により子孫を残す方法を選択しましたが、これは環境変化に適応した子孫を残し易く又は新型コロナウィルスのような変異の速い病原体等の抗体を子孫に広め易くするためであると考えられています。その一方で、有性生殖でDNAの組み替えに異常を生じ又は細胞分裂でDNAの複製に異常を生じる可能性があり、それによる種の絶滅を防ぐために、それらの異常を消去するための仕組みを持つようになったことで人間を含む多細胞生物は個体死するようになったと考えられています。これに対し、DNAの組み替えを行う必要がない無性生殖の単細胞生物は事故死でもなければ個体死することのない不死生物です。なお、生物の設計図「ゲノム」は生物にとって重要な情報であることから、それが記述されているメディア「DNA」は細胞核という金庫に厳重に保管されており、生命活動のために遺伝子の情報を利用する必要があるときは、その必要な部分だけを金庫の外にいるプロの運び屋「mRNA」(メッセンジャーRNA)に転写し(但し、mRNAは金庫の中に入る権限はありません)、そのmRNAに転写された情報を翻訳して生命活動に不可欠なタンパク質が作られます。タンパク質は20種類のアミノ酸のうちの3種類のアミノ酸が結合してできる分子で、このアミノ酸の組合せを遺伝子暗号表(コドン表)と呼んでいますが、現在、これを利用した生命の音楽としてDNAミュージック等が研究されています。この遺伝子暗号表(コドン表)は地球上の全生物に共通していることから、地球上の全生命は共通の先祖から分岐して進化したと考えられています。因みに、mRNAは新型コロナウィルスのワクチン開発で利用されていますが、mRNAに新型コロナウィルスの突起の部分の設計図を転写し、人間の細胞の中で新型コロナウィルスの突起の部分だけ(ダミーのウィルス)を作らせて事前に抗体(免疫)を増やすことで新型コロナウィルスの感染やその重症化を防ぐ仕組みですが、上述のとおりmRNAは細胞核には入れませんので遺伝子を書き換える虞はなく安全だと考えられています。2020年にカルフォルニア大学のJ.ダウドナ教授及びスウェーデン・ウメオ大学のE.シャルパンティエ博士は、人間がゲノム編集(gRNAがDNAの特定の部位に結合してキャス9という酵素がその部分のDNAを切断等)を行うことができる技術「クリスパー・キャスナイン」を開発してノーベル化学賞を受賞しましたが、人工交配による品種改良(例えば、野生の辛子の品種改良により生まれたカリフラワー、ブロッコリー、キャベツ、コールラビ、ケールなど)やバクテリア等を使って外部から新しい遺伝子を追加する遺伝子組換え(例えば、大豆、トウモロコシ、綿花、菜種など)は非常に成功率が低いという問題がありましたが、生物の内部の遺伝子を直接に書き換えるクリスパーは極めて成功率が高い画期的な技術と言われており、その応用に期待が集まっています。例えば、有害なJトランス脂肪酸を発生しない大豆、二日酔いしないワイン、角の生えないホルスタイン(乳牛)、肉量を大幅に増加させた肉牛、伝染病にかかりにくい豚、メスしか生まない鶏、受粉しなくても実がなるトマト、芽から毒素を取り除いたジャガイモ、成長の早いサバなどの開発に応用され、また、ゲノム編集によるDNA治療やバイオハッキング(人間の生体情報を計測して改善することで健康やパフォーマンスを向上させる技術)等が注目されており、2023年7月に日本初のバイオハッキング複合施設が開設する予定になっています。但し、クリスパーは100%の精度ではなく患者の体内でゲノム編集によるDNA治療を行うリスクが指摘されており(オフターゲット効果)、治療(例えば、肥満)とそれ以外の目的(例えば、美容)の境界が曖昧になるなどの問題も指摘されています。また、がん、糖尿病、精神疾患など遺伝的要因と環境的要因が複合的に作用して発症する病気については治療の対象とすべきDNAを特定することが困難であることなど実用化への課題も認識されています。このような状況を踏まえ、2023年3月6~8日の3日間、2018年及び2015年にヒトゲノム編集に関する国際サミットが開催され、人間の体細胞の基礎研究及び臨床研究並びに生殖細胞の基礎研究については容認できるとする一方で、デザイナーズ・ベイビーなど人間の生殖細胞の臨床研究は容認できないという指針が示されるなど、クリスパー革命が人類に与える影響について慎重に議論されています(映画「GATTACA」)。
 
 
▼第24回レア・ピアノミュージック「温故知新ブーレーズとエスケシュの場合」(シリーズ「現代を聴く」特別編)
【演題】第24回レア・ピアノミュージック
    温故知新ブーレーズとエスケシュの場合
【演目】ティエリー・エスケシュ 3つのバロック・エチュード(2009年)
    ピエール・ブーレーズ ピアノ・ソナタ第2番(1948年)
    <アンコール>
    ケヴィン・プッツ 交流電流(1998年)より第2楽章
【演奏】<Pf>法貴彩子
【日時】3月19日(日)22時~(3月26日(日)~アーカイブ配信)
【料金】2500円~
【感想】
ヴラヴァー!!先日のブログでも紹介したピアニスト・法貴彩子さんがパリ国立高等音楽院の学友であるピアニスト・福間洸太郎さんがプロデュースするシリーズ企画「レア・ピアノミュージック」で、パリ高等音楽院の大先輩であるT.エスケシュの「3つのバロック・エチュード」及びP.ブーレーズの「ピアノ・ソナタ第2番」を採り上げる演奏会が開催されたので、そのアーカイブ配信を視聴することにしました。法貴さんの繊細かつ明晰なピアニズムによる緻密な構築感のある目の覚めるような好演に接して興奮を禁じ得ません。T.エスケシュの名前はバッハの「フーガの技法」(エスケシュ補筆完成版)で知っていましたが、今回、初めてその作品を聴く機会に恵まれ、法貴さんの好演と相俟って新天地を切り拓くことができた収穫の多い満足度の高い演奏会でした。法貴さんは積極的に現代音楽を演奏会で採り上げる活動をしていますが、福間さんと法貴さんの対談で現代音楽の演奏会は客入りが芳しくないという苦労話をされていたのが印象的で、昔、現代美術家・村上隆さんが某シンポジウムの対談で「現代美術は輸入文化であり、日本国内では未だ咀嚼されていません。食わず嫌いが極まって、現代美術の文法を学ぼうとしていない、というか拒絶しています。」と失望していたことを思い出します。年明けからのオーケストラの演奏会の演目を見ていても、BPOの映像配信「デジタル・コンサートホール」の演目は約50%が現代音楽(日本人の現代作曲家の作品を含む)で占められており新しい世界観を拓いてくれそうな新鮮味のあるプログラムが魅力に感じられるのに対し、日本のオーケストラの演奏会の演目は約15%しか現代音楽が採り上げられておらずいつまでも懐古趣味に偏向した新鮮味に欠けるプログラムが並んでいる印象を否めない哀しむべき実態がありますが(最近、海外のオーケストラの演奏会をオンライン視聴しようかと真剣に考えています。)、村上隆さんが仰っているように欧米の客層と異なり私を含む多くの日本の客層は新しいものを柔軟に吸収できる教養に不足していること(高学歴低教養)が根本的な原因なのかもしれません。過去のブログ記事でも触れましたが、元来、日本は支配を基調とする父性原理ではなく調和を基調する母性原理が息衝く社会であり、それ故に新しいものを柔軟に吸収できる能力に優れていたはずですが、過去のブログ記事でも触れたとおり、2000年以降の変革期を迎えてDXやQXの出遅れに象徴されるように各種の国際指標を見ても日本の凋落振りは顕著と言わざるを得ず、これらの根本的な原因にも通底するものがあると言えるかもしれません。遅れ馳せながら日本のクラシック音楽界(観客を含む)も「CX」(コンテンポラリー・トランスフォーメーション)に真剣に取り組むべき時期に来ているのではないかと感じています。
 
①T.エスケシュ 3つのバロック・エチュード(2009年)
この曲は、パリ国立高等音楽院出身でフランス人ピアニストのクレール=マリ・ル・ゲが2009年にパリ・アテネ劇場の専属ピアニストに就任した記念演奏会で演奏するための曲をT.エスケシュに委嘱し、T.エスケシュがバッハの作品を参照しながらバロック音楽に対する個人的な解釈やビジョン等を投影した3楽章の作品として書き上げたものです。エチュードという控え目なタイトルが付されていますが、バッハの作品のほかにフランス印象派作曲家のエチュードや(エチュードは書いていませんが)ラヴェルやデュティーユの作品の音楽スタイル、ジャズの即興性などの要素を採り入れている優れて現代的な作品で演奏至難な曲であると感じます。バッハの作品と対比しながら聴くと、どのようにバッハの作品とその世界観が拡張されているのかが分かり、そこがこの曲の面白味にもなっていて現代音楽の魅力を堪能できる作品ですが、この曲の構造や魅力等を理解するためには深い鑑賞を必要とする難しさもあります。是非、法貴さんの演奏で、この曲とこの曲で参照されているバッハの作品をカップリングしたCDをリリースして欲しいと思いますが、どこかのレーベルで企画、制作して貰えないものでしょうか。
 
エチュード第1番(Vivacissimo)
T.エスケシュによれば、J.S.バッハが作曲した降誕節のためのオルガン・コラール「今ぞ喜べ、愛するキリストのともがらよ」(BWV734)の糸紡ぎのように流れる軽やかな曲調に着想を得て作曲されたそうです。冒頭では同曲を彷彿とさせるように右手の高声部が軽快なリズム感で駆け巡るなかを左手の低声部が定旋律を奏でますが、やがて神の調和を体現する協和音を破って不協和音を奏で出すと、音域やデュナミークを拡大しながら、右手の高声部(神のメタファー)と左手の低声部(私のメタファー)が交互に不協和音を奏でつつ、それらの聖俗の境界が曖昧にって行く世界観が現れてくるという(あくまでも個人的な)イメージを持って聴いていました。このコラールは、F.ブゾーニによる編曲版(1909年)が知られていますが、この1世紀で世界の景色が大きく変化したことを感じさせる面白い曲です。
 
エチュード第2番(Andante)
T.エスケシュによれば、J.S.バッハが作曲した待降節のためのオルガン・コラール「いざ来ませ、異教徒の救世主よ」(BWV659)のノスタルジックな曲調に着想を得て作曲したそうですが、冒頭では右手の高声部(神のメタファー)と左手の低声部(私のメタファー)が静かに応唱し、やがて右手の高声部と左手の低声部が一体になって音楽を奏で出しますが、さながら(私の信仰心に)神が降臨する様子を音楽的に描写しているような神秘的な印象を受けます。オルガンの1音(和音)で描く響きの世界を思わせるような鋭いスタッカートが音楽のテンションを高めながら、左手の低声部が定型のリズムを奏でるなかを右手の高声部がエッジを効かせて先鋭的に跳躍しますが、ノスタルジックな曲調というよりもモダン・ピアノの特徴を活かした粒際立った硬質な響きによるストイックな印象を受ける曲に感じられます。
 
エチュード第3番(Moderate)
T.エスケシュによれば、バッハの「パッサカリア」(BWV582)やレーガーの「パッサカリア」(作品127)等に着想を得て作曲したそうですが、この曲の主題をレガートではなくスタッカートで小気味よく刻みながら変奏曲風に展開して行きます。この曲にはバロック・エチュードというタイトルが付されていますが、ロマン派音楽調に旋律を歌わせるのではなく、舞曲のステップや神の言葉を刻むようなバロック調を意識してスタッカートが多用されているのかもしれません。右手の高音部及び左手の低音部がそれぞれ幅広い音域を跳躍しながら、まるでパイプオルガンが多声部の音楽を奏でるように多彩な音色やデユナミークを使って音楽が重層的に奏でられますが、エチュードとは思えない演奏至難な曲に気後れすることなく、鍵盤を縦横無尽に駆け巡り活舌良く表情豊かに弾き分ける自在な演奏に舌を巻きました。
 
②P.ブーレーズ ピアノ・ソナタ第2番(1948年)
この曲が初演された年から3年後の1951年にA.シェーンベルクが逝去した際、当時26歳のP.ブーレーズは「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳。」という若い血気に逸る文書を発表して物議になりましたが、これに対するJ.ペイザーの著書「ブーレーズ」に関する書評としてグレン・グールドが冷静な分析を行っている内容が参考になります。この点、G.グールドは「シェーンベルクは一度は自身の革命熱に燃えていたにも拘らず、その生涯最後の四半世紀は十二音技法を後期ロマン主義の構造基準に融合させようという不毛の試みに費やし、ひと言で言えば時代との関連性を失った。」と看破しています。過去のブログ記事で触れたとおり、シェーンベルクはロマン派音楽の構造を前提として12音技法を調性から解放するための主題的労作の手段と位置付けていましたが、A.ウェーベルンはロマン派音楽の構造とも決別して12音技法を単なる主題労作の手段と位置付けるのではなく、音列を旋律的なもの(音楽)ではなく音響的なもの(音)として扱うことで音程関係だけではなく音の強弱、長さ、音色や奏法など複数のパラメーターをも規律するトータル・セリエリズムへと発展させました。さながらA.シェーンベルクは十二音技法で主音の支配(封建的なもの:宗教権威、絶対王政)から音楽を解放し、A.ウェーベルンは総音列技法で人間の感情(ロマン的なもの:ブルジョアジー)から音楽を解放して音楽の再構築を試みますが、さらに、J.ケージは人間の作為そのもの(人間中心主義:プロレタリアート)からも音楽を解放して音楽の再生(人工から自然への回帰)を試みたと形容することができるかもしれません。この曲は、このような歴史的な文脈のなかに位置付けられ、法貴さんの言葉を借りれば「旧来の様式の解体」を試みた作品と言えます。第1楽章(Extrêmement rapide)は伝統的なソナタ形式を使用して作曲しながら、その内部からの解体が試みられています。冒頭の2小節で12音音列の主題が提示されますが(以下の囲み記事)、その主題は旋律的な性格(線)を失い、提示部から展開部へ移行するにつれて独立した音(点)としてバラバラに解体され(音楽から音へ)、それぞれの音は音程関係を離れて音の強弱、長さ、音色や奏法など音楽の構造の中に組み込まれ、それに伴ってソナタ形式が無意味化して雲散霧消して行き、どこから再現部に入ったのか分からないという捉えどころのない音楽ですが、法貴さんのメリハリの効いた明晰なタッチによって姿形を変えた主題の残影が其処此処に感じられ、P.ブーレーズの音楽的なアイディアが鮮やかに浮かび上がっているような好演であったと思います。
 
▼第一楽章冒頭の2小節で提示される12音音列の主題(P.ブーレーズの作品は著作権が残っていますので、楽譜をULすることは控えます。)
 
法貴さんによれば、特徴的なリズムはそのまま残されていて「ソナタ形式が透けて見える」と仰っていましたが、正直言に告白すれば、そこまでの深い鑑賞を可能にする鍛えられた耳(脳の認知能力)を持ち合わせていないので(しかし、脳の認知能力を鍛えれば鑑賞可能な曲であり、この曲の受容にはもう少し高度な音楽的なコミュニケーション能力が求められているという意味で、シナプス可塑性が活発化される面白味のある曲)、是非、法貴さんには更なる鑑賞の高みへと私を誘って頂きたく楽譜と実演を使ったレクチャー・コンサートの開催を切望しており、勝手ながら朝日カルチャーにリクエストさせて頂きました。ご興味ある方はリクエストしてみて下さい。企画が成るかもしれません。第二楽章(Lent)は変奏曲形式をとり、冒頭の4小節で12音音列の主題が提示され、その主題から派生する変奏で構成されていますが、敢えて、音を点描して行くように響かせることで、音高の変化だけではなく音色、音価や音量などの変化が際立つ多彩な変奏を楽しめます。第三楽章(Modéré presque vif)は4つのスケルツォと3つのトリオからなる複合形式で、冒頭の3小節で12音音列の主題が提示されて、それが基本形-逆反行形-基本形の変奏-基本形の変奏の逆反行形と展開されますが、楽譜を見ながら視聴しないと(もとゐ、楽譜を見ても)素人の耳で聴き分けるのは容易ではありません。メカニカルな構造美を楽しめます。第四楽章(Vif)はロンド形式ですが、導入部を経て細かい主題が躍動するパートと旋律的な性格(線)を失いリズミカル(点)に振る舞う4声部のフーガからなるパートが交互に発展しながら展開し、次第にフーガは解体されてドイツ語音名「BACH」の音型へと消え入るという余韻嫋々とした趣きのある終曲になっています。
 
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.18<
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼アンナ・クラインのチェロ協奏曲「雲の王子」(2018年)
イギリス人現代作曲家のアンナ・クライン(1980年~)は、2015年に第57回グラミー賞にノミネートされ、2022年に世界で最も作品が演奏された現代作曲家の8位(上位20位のうち女性の現代作曲家は9人)にランクインするなど、現在、最も注目されている期待の俊英です。この動画は、1918年にエルガーのチェロ協奏曲が作曲されてから100年後にアンナ・クラインが作曲し、第57回グラミー賞にノミネートされた曲です。
 
▼ミッシー・マッツォーリの「デス・バレー・ジャンクション」(2010年)
アメリカ人現代作曲家のミッシー・マッツォーリ(1980年~)は、オペラ作品に定評がありメトロポリタン歌劇場から作曲を委嘱された世界初の女性作曲家で、2019年に第61回グラミー賞にノミネートされ、2022年に世界で最も作品が演奏された現代作曲家の19位にランクインするなど、現在、最も注目されている期待の俊英です。この動画は、2018年に開催されたボウディン国際音楽祭におけるイヴァラス・クァルテットの演奏です。
 
▼山本哲也のバリトンサックス四重奏「チャラサックス」(2021年)
日本人現代作曲家の山本哲也(1989年~)は、2022年に第9回スメデレヴォ国際ピアノコンクール作曲部門で第1位や2022年に久石譲主催「Music Future Vol.9」の第4回Young Composer’s Competitionで優秀作品賞を受賞するなど、非常に注目されている期待の俊英です。この動画は、2020年に東京都のアーティスト支援事業「アートにエールを!東京プロジェクト」(2023年3月31日で事業終了)で採用されたものを再編集したものです。

新作ミュージカル「マリー=ガブリエルの自画像」(アトリエ公演)としぐさの文化<STOP WAR IN UKRAINE>

▼しぐさの文化(ブログの枕)
前回のブログ記事でアナログメディア革命及びデジタルメディア革命に伴ってメディアが人間の意識を生産するようになった点に触れましたが、日本はバブル経済が崩壊した1990年1月4日からの「失われた30年」で、メディアが大衆の不安ばかりを煽るネガティブトーンが支配的になり、その傾向はコロナ禍の混乱で極まった感がありますが、それによって人間の意識に悪影響が及んでいるという調査結果があります。その意味でも、このようなネガティブトーンに酔うメディアに意識を支配されることなく、人間の創造力で社会課題を解決して明るい未来を切り開くポジティブトーンに意識を転換することが重要になっていることが指摘されており、そのために芸術に期待されている役割は益々大きくなっていると感じます。また、デジタルメディア革命に伴うパーソナルメディアの普及によって同じ価値観を持った者同士が集うコミュニティーを形成する傾向が顕著になっており、それが人間の意識の分断(そのポジティブな面での顕れ方は多様性)を深刻化させている要因の1つになっていることが指摘されていますが、マスメディアを前提とした「自分の立場から相手の気持ちに同情する共感力」(Sympathy)ではなく、パーソナルメディアを前提とした「他者の立場に立って相手の気持ちを想像する共感力」(Empathy)が求められるようになっており、そのような高度なコミュニケーション力を支える豊かな想像力を培いメディアリテラシーを向上させるための知恵を磨くためにも、芸術が果たすべき役割は益々重要になっていると感じます。決して社会課題から目を背けるという意味ではなく時代の影ばかりに目を奪われて光を見失うことがないような意識付け(Positive.NewsThe Happy NewsGood News Network)が必要であり(ネガティブ・ケイパビリティ)、人生を賛歌するミュージカル、映画や音楽などを鑑賞して豊かな情操を養うように心掛けるだけで世界が違ったものに感じられると思います。「ハーバード・ビジネスレビュー」でも紹介されていましたが、スタンフォード大学ではエンパシーを養うための教材として「エンパシーマップ」を採り入れ、「発言」(Say)、「行動」(Do)、「思考」(Think)、「感情」(Feel)の4つの兆候を手掛かりとしてエンパシーを育む実践的な訓練が行われています。この点、昔から日本人は日本人同士にしか通用しない特殊なコミュニケーション力(エンパシー)として「Hara-gei」(腹芸)という忍術を使うことが世界的に知られていますが、このような相手の気持ちを慮る精神は「O-mote-nashi」(御持成)という神対応を生むことでも世界中から驚かれています。しかし、グローバル社会への移行に伴って「Hara-gei」(腹芸)だけでは通用しなくなり、1955年頃から異文化コミュニケーション力が注目されるようになりました。この点、人間のコミュニケーションは、言語を使用して伝えられるものが約30%、非言語を使用して伝えられるものが約70%と言われており、そのうち言語情報(語義や語類など)が約7%、聴覚情報(口調や間合いなど)が約38%、視覚情報(しぐさや表情など)が約55%の割合を占めると言われています(メラビアンの法則)。このように人間は視覚情報に頼って外界の情報を知覚しており、言語や宗教と比べて身体表現は翻訳可能性が高く、異文化コミュニケーションにおいてしぐさや表情等は大きな役割を果たしていると言われています。但し、しぐさは世界で普遍的な意味を有しているとは限らず同じしぐさでも民族や文化等によって異なる意味を有しているものが少なくないと言われています。紙片の都合から詳しく触れられませんが、例えば、小指を立てるしぐさは日本では特別な関係にある女性を意味するのに対し、フランスでは男性器が小さいことを意味します。また、手の平を真っすぐ相手に突き出すしぐさは日本では何かを断ることを意味するのに対し、ギリシャではムンザと言われる侮辱行為を意味します。さらに、親指を突き立てるしぐさは欧米では満足(Good)を意味するのに対し、アラブでは性的侮辱を意味するなど、異文化コミュニケーションでは言語だけではなくしぐさなどに関する正しい理解も必要になります。この点、前回のブログ記事で紀元前20万年頃に人類は直立二足歩行を開始したことで脳が発達し、紀元前5万年頃の突然変異で脳がイメージ、記憶や言葉などを操る高度な認知能力を獲得しますが(認知革命)、そのイメージ、記憶や言葉等を他人と共有する能力も身に付けて社会を形成したことに触れましたが、人類は進化の過程でミラーニューロン(1996年にイタリア・パルマ大学教授のG.リッツォラッティが発見)を獲得したことで他人の言動を自分の脳に置き換えて追体験やシュミレーション等を行うことができるようになり、それによって他人の心理、意図や文脈等を推測し、他人の言動の意味を理解して共感(エンパシー)することが可能になったと考えられています。これにより血縁関係を越えた集団を形成する高度な社会性を備えることが可能になりました。また、人類は進化の過程で1つのニューロンに複数の異なる記憶(情報)を留めておくことができるようになり、1つのニューロン(又は複数のニューロン間)で異なる記憶(情報)を組み合わせるなど連想を行う能力を獲得したことにより閃き、空想や創造等を行うことが可能になったと考えられています。過去のブログ記事でも触れましたが、人類は複数の異なる記憶(情報)を組み合わせるなど連想を行うことにより新しい概念などを生み出すことができるようになりましたが、人類の脳はアトランダムに電気発火する性質を持っていることから(脳のゆらぎ)、パターン化された連想を飛び出して様々な別の記憶と結び付いて新しい連想を生み出すことがあり(シナプス可塑性)、これが閃き、空想や創造等を豊かなものにしていると考えられています。例えば、根を詰めて物事を考えていると脳が緊張(1点に注意を集中)して新しい連想が生み難くなりますが、ボーっとしているとき、新しいことを学習しているとき、新しいことを体験しているときなどは脳がリラックスし又は新しい刺激を受けて活発化して新しい連想を生み易くなると言われており(ワーケーションが注目されているのは、脳がリラックスし易く、かつ、新しい刺激を受けて活発化し易い環境に身を置くため)、これにミラーニューロンが作用することにより示唆に富む独創的な芸術表現が可能になり、又は感受性豊かな芸術受容が可能になると考えられています。因みに、過去のブログ記事でも触れましたが、古代のシャーマニズムでは人間の身体を神霊とのコミュニケーションを媒介するメディアとして利用し、神霊が憑依することによって現れる人間の身体の変化(しぐさなど)がダンスの起源になったと言われていますが、その人間の身体の変化(しぐさなど)に神聖なものを感じるのも同様の能力が働いていると考えられます。このような歴史的な文脈から、中世の修道会では修道士が「沈黙」(神の声に心を澄ませるために理性を働かせている状態)を守りながら他の修道士と必要なコミュニケーションをとるためのしぐさの決り事(ジェスチャー)が定められていたと言われており、それを参考にして1760年にド・レペ神父が聴覚障害者とコミュニケーションをとるための手話を考案しますが、踊りの巧みさで魅せるバロックダンスとは異なり、演劇的な要素を持つバレエや日本舞踊などと同じようにしぐさを社会的な記号(社会共通の意味付け)として利用しています。なお、手話は世界共通ではありませんが、現在は世界共通の国際手話も制定されており聴覚障害者にも異文化コミュニケーションの途が開かれています。
 
 
新作ミュージカル「マリー=ガブリエルの自画像」(アトリエ公演)
【演目】アトリエ公演Vol.12
    新作ミュージカル「マリー=ガブリエルの自画像」
【脚本】家田淳
【演出】家田淳
【作曲】篠原真
【振付】打越麗子
【出演】洗足学園音楽大学ミュージカルコース選抜学生
    ※ワークインプログレス公演のためにパンフレット等がなく出演者名は不明
【会場】洗足音楽大学キッズスクエア1階
【日時】3月4日(土)13時~(オンライン配信)
    3月5日(日)13時~(オンライン配信)
【料金】無料
【感想】
今日は、洗足音大で新作ミュージカル「マリー=ガブリエルの自画像」のワークインプログレス公演が一般にもオンライン公開されましたので視聴することにしました。今年10月に予定されている本公演に向けて更にブラッシュアップされるそうです。開演前の舞台挨拶で脚本・演出を担当した家田淳さんから、国立西洋美術館に収蔵されている新古典主義の女性画家マリー=ガブリエル・カペ作「自画像」(1783年)に興味を持ち、18世紀は美術学校に入ることも困難であった女性画家の半生を舞台の題材として採り上げることでジェンダー・ギャップ後進国の日本社会に向けたメッセージを込めたという趣旨の話がありました。そう言えば、3月8日は「国際女性デー」ですが、1904年3月8日にニューヨークで婦人参政権を求めたデモが開催されたことに由来して1975年に国連が同日を国際女性デーとして制定し、女性の十全かつ平等な社会参加を企図する日とされています。過去のブログ記事でも触れましたが、2022年に世界経済フォーラムが公表したジェンダー・ギャップ指数で日本は146ケ国中116位という不名誉な結果に陥っており、日本全国で同日にハッピー・ウーマン・フェスタというイヴェントを開催してジェンダー・ギャップ指数の改善に向けた取組みが活発化しています。さて、アトリエ公演とは銘打たれていますが、洗足音大の人材層の厚さを感じさせる完成度の高い舞台を楽しむことができました。オープニングで17世紀(安土桃山時代)の長崎出島の様子を描いた狩野内膳筆「南蛮屏風」(神戸市立博物館所蔵)が舞台幕に投影され、メディアアート(オンライン配信だったので3Dサイネージなどの技術が使われていたのかは不明)により舞台幕に投影された南蛮屏風からキャラック船が飛び出して18世紀のヨーロッパへ船出するファンタジックな映像とリリカルなピアノ伴奏による演出が出色の出来映えでした。開幕後、国立西洋美術館で若いカップルがマリー=ガブリエル・カペ作「自画像」(1783年)を見ながら「女性画家は少なく、その自画像は珍しい」と会話する場面が挟まれ、この舞台のテーマである「ジェンダー・ギャップの問題」と「18世紀のヨーロッパと現代の日本の対比という視点」が提示されました。その後、18世紀後半のヨーロッパ(「君主」と「臣民」(貴族、平民)、「主人」(貴族、ブルジョアジー)と「召使」(平民、プロレタリアート)、「男性」と「女性」という階級・階層社会)に場面を移し、召使の娘として生まれたために絵の才能に恵まれながらパリへ留学して絵を学ぶ機会に恵まれないカペの不遇と、主人の息子として生まれて弁護士になるためにパリへ留学して法律を学ぶ機会に恵まれているダビアンの好遇が対比して描かれ、その恵まれた才能があるにも拘らず下級の被支配階層(出自)であり女性(性別)であるために十分な機会を与えられないカペの逆境が紹介されましたが、それでもカペはいつか絵を学びたいという夢を歌います。やがて成長したカペは絵を学ぶために憧れていたパリへやってきましたが、民衆(Tutti)が「パリへようこそ!」(Bienvenue à Paris !)を歌いながらパリの街の華やかな喧騒とパリの民衆の生き生きとした姿をアクティブなダンスで表現し、やがてフランス革命を成就する民衆の力を印象付けます。カペは夢中でパリの民衆の姿をスケッチしながら、心のままに絵を描きたいと歌います。しかし、当時、女性が美術学校に入って絵を学ぶことは難しかったので、カペは新古典主義の女性画家アデライド・ラビーユ=ギアールに弟子入りして絵を学ぶことにします。当時、新古典主義の代表的な女性画家エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランマリー・アントワネット肖像画家として活躍しており、ギアールの姉弟子達(三重唱)が社交界を彩る優雅なダンスを舞いながらルブランへの憧れを歌いますが、この場面では歌、音楽とダンスが融合した洗練された舞台を楽しめました。王立アカデミーの会員になることを夢見るギアールとルブランがサロンへ出展しましたが、サロン会員(Tutti)は上流階級に取り入ることが上手なルブランと世渡り下手なギアールの対照的な性格を歌います。ルブランを寵愛するマリー・アントワネットはルイ16世に王立アカデミーの会員としてルブランを推挙し、マリー・アントワネットとルブランがフランス語の二重唱を歌います(ワークインプログレス公演でパンフレット等の準備がなかったので何を歌っているのかは不明)。新古典主義の代表的な男性画家ジャック=ルイ・ダヴィッドギリシャに学べ、ローマに倣えと王立アカデミーの権威を讃えて歌い、(史実か否か分かりませんが)ギアールの画家としての実力を見抜きながらもは自分の推挙がないと王立アカデミーの会員になるのは難しいとギアールに交際を迫りますが、ギアールはこの誘いを気丈に断ります。現代でもジェンダー・ギャップ等を奇貨として社会的に優位な立場を利用して交際(異性に限らず)を無理強いするなどハラスメントに及ぶ破廉恥な人間は後を絶ちませんが、他の被害者を出さないためにも泣き寝入りしないことが重要です。1783年、ルブランだけではなくギアールも女性初の王立アカデミーの会員に認められます。一方、カペは、ギアールの恋人で新古典主義の男性画家フランソワ=アンドレ・ヴァンサンから、サロンで高い評価を得るために歴史画を描くのではなく、自分の画風を活かして人物画を描いてはどうかというアドバイスを受け入れ、カペとヴァンサン(二重唱)は自分に誇りを持ってありのままに好きな絵を描けばいいと歌います。この作品の隠れたテーマとして、カペと洗足音大の学生を重ね合わせて先生方から学生に対するメッセージが込められているのかもしれません。カペはパリの街でグビアンと偶然に再会しますが、グビアンは啓蒙思想の影響からキリスト教会の権威(神による支配)や絶対王政の権力(人による支配)ではなく人間の理性(法による支配)によって規律される社会を目指すべきだと革命の理想を語り、カペは芸術家は教養を身に付けなければならず社会の動きにも関心を持っていると理解を示し、カペとグビアン(二重唱)はお互いに対する恋心を歌います。民衆(Tutti)は救いはないのかと嘆き歌い、ドラム(大衆文化のメタファー)を打ち鳴らす音楽に乗せて拳を突き上げる激しいダンスで民衆の怒りを表現する一方で、マリー=アントワネットはフルートとチェンバロ(宮廷文化のメタファー)が奏でる音楽に乗せてフィガロの結婚に興じるなか、バスティーユ監獄の襲撃を契機としてフランス革命が勃発しました。
 
【休憩を挟んで後半】
 
民衆(Tutti)が自由(iberté)を渇望して歌い、拳を突き上げ、地面に手を着くダンス(ステップのみのダンスは宮廷文化の特徴であるに対し、地面に手を着くダンスは大衆文化の特徴)で民衆蜂起を表現し、フランス人権宣言を勝ち取ります。このような情勢から、グビアンは治安の悪化したパリを離れてリヨンに疎開するのでカペに専業主婦になるように求めますが、カペは画家になる夢を捨てきれずパリに残る決心をします。また、ギアールもパリに残る決心をしますが、ルブランはイタリアへ逃亡することにし、父親がくれたクレヨンで絵を描き始め、現在でも父親に褒められたくて絵を描き続けているという心に秘めたピュアーな心情を歌います。フランス革命が成就してナポレオン政権が樹立するまでの歴史的な経緯が俯瞰され(フランス革命後の国民議会では革命の急進派(ジャコバン派)が左側、穏健派(ジロンド派)が右側に着席したことが、現代の左翼、右翼の語源)、民衆(Tutti)は革命の理想に対する幻滅とナポレオンに対する期待を歌い、ナポレオン皇帝が誕生しますが、ダヴィットが描いたナポレオンの肖像画等がプロパガンダとして利用されます(芸術の政治利用)。ダヴィットは王立アカデミーを廃止して新たに芸術アカデミーを設立しますが、ギアールやカペは芸術アカデミーが女性画家に会員資格を与えない旧弊とした体質の組織であることに落胆します。ギアールは王立アカデミーの会員であったことから王党派の嫌疑をかけられて没落し、ギアールを看病するカペに対してアトリエを飛び出して自由に羽ばたくように促します。カペーはフランス革命後も女性画家が社会的に認知されない現実に自分を見失いそうになりますが、サロンに出展を続けるうちに画家を志望する若い女性を弟子にとり、ギアールからカペに受け継がれた心を弟子へと引き継いで(「心より心に伝ふる花」世阿弥)、1918年に永眠しますが、やがて、それらの心が世界に大きな変革を生んで花開きました。再び、現代に舞台を移して、現代人(Tutti)が女性画家の作品を集めた展覧会が開催されるまでに時代は変革したが、この変革を更に前進させるために自分達に何ができるのか、過去から何を受け継いで(伝承)、未来へと何を引き継いで行くのか(革新)、自画像の中の女性画家達はじっと見ていると歌い、その心が観客へと引き継がれて終演します。過去のブログ記事でも触れたとおり、映画製作に携わる女性スタッフの割合は脚本家13%、監督7%、作曲家3%に過ぎず、また、ブロードウェイ・ミュージカルの歌手や作家に占める白人の割合が圧倒的に多い状況にあり、SDGsに掲げられているジェンダー・ギャップやレイシズム等の問題は18世紀のヨーロッパから現代まで続く未解決の社会課題であると言え、そのことを強く感じさせるメッセージ性のある作品でした。終演後の舞台挨拶で音楽を担当した篠原真さんが、やや後半が冗長なので改良の余地があると語られていましたが、確かにフランス革命の成就からナポレオン政府の樹立までの歴史的な経緯はかなりのボリュームで描かれていたので(観客の集中力が持つ上演時間は2時間半程度が限界か)、「ジェンダー・ギャップの問題」のテーマがぼやけてしまった印象は否めません。しかし、後半に民衆(Tutti)が自由を渇望して歌うダイナミックな音楽とダンスは大きな見せ場になっていた印象もありますので、今年10月の本公演までにどのように舞台をブラッシュアップするのかという点もワークインプログレス公演を鑑賞する醍醐味の1つです。
 
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.17
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼クレア・ロバーツの弦楽四重奏曲「伸縮」(2021年)
イギリス人現代作曲家のクレア・ロバーツ(1992年~)は、作曲家、ジャズボーカル及びヴァイオリニストとマルチに活動し、ロイヤルフィルハーモニー協会作曲賞(2019年)、ジャーウッド芸術作曲家賞(2021年)、ウェールズ音楽組合若手作曲家賞(2022年)などを受賞し、欧米で非常に注目されている期待の俊英です。この動画は、イギリスで現代音楽を精力的に育成、支援しているヴォーン・ウィリアムズ財団ジェマ・クラシック音楽財団などの援助により制作されています。
 
カミーユ・エル=バシャの前奏曲Ⅴ「ルーメン」(2023年)
レバノン人現代作曲家のカミーユ・エル=バシャ(1989年~)は、ピアニストのアブデル・ラーマン・エル=バシャの息子で、クラシック及びジャズの両分野に跨ってピアニスト及び作曲家として活動し、エレクトロ・ミュージックのユニット「Leone Jadis」でアルバムをリリースするなど、現在、欧州で注目を集めているホットな若手の現代作曲家の1人です。この動画は、ソロ・デビューアルバム「Lumne」に収録されている自作の前奏曲Ⅴ「ルーメン」です。
 
▼岡出莉菜の映画音楽「マイ・ダディ」(2021年)
日本人現代作曲家の岡出莉菜(1991年~)は、洗足音大作曲科(2013年卒)で現代音楽を学び、WOWOW「CONTACT ART~原田マハと名画を訪ねて〜」のテーマ曲など数多くの劇伴音楽を手掛ける最も嘱望されている若手の1人で、最近では映画「マイ・ダディ」(2021年)でサントラも手掛けています。過去のブログ記事で触れたとおり、現代はメディアミックスの潮流を背景に現代作曲家と映画音楽は蜜月の関係にあります。なお、洗足音大は作曲科の学生と作品を紹介するWebサイトを公開しており有意義な取組みです。

演奏会「Register Trio Vol.3 開拓」とメディア論<STOP WAR IN UKRAINE>

▼人類とメディアの関係(ブログの枕)
前回のブログ記事ではE.モリコーネへのオマジューとして映画と映画音楽の歴史を大雑把に俯瞰しましたが、映画の誕生は20世紀前半のアナログメディア革命に位置付けられますので、この機会にメディアの歴史を簡単に俯瞰しておきたいと思います。過去のブログ記事でも触れましたが、約500万年前頃に人類は直立二足歩行を開始したことにより「」が解放され(人類の先祖は気候変動による森林面積の縮小等に伴って樹上生活から地上生活へ移行しましたが、手を使って物を運搬し又は加工するために樹上生活で柔軟になった関節を活かして直立二足歩行を開始)、手で道具や技術等を使用するようになりました。その過程で「」の発達が促され、紀元前5万年頃の突然変異により脳がイメージ、記憶や言葉等を操る高度な認知能力を獲得したと言われており(認知革命)、人類はイメージ、記憶や言葉等を自ら認知するだけではなく、そのイメージ、記憶や言葉等を他人と共有する能力を身に付けて社会を形成しました。紀元前3万年頃から人類は「脳」が認知するイメージ、記憶や言葉等を「手」で道具や技術等を使用して洞窟壁画粘土板文書に表現するようになり、この洞窟や粘土板が人類初のメディアと言われています(「脳」+「手」)。とりわけショーヴェ洞窟壁画は動物の連続した動きを表現しており、紀元前3万年頃に洞窟(映画館)の闇と光を利用した「原シネマ」(プロトタイプムービー)が誕生していた可能性が指摘されています(映画「世界最古の洞窟壁画3D 忘れられた夢の記憶」)。その後、羊皮、木簡、パピルス(パピルス草を圧着させたもの)等に絵や文字が書かれていましたが、105年頃に中国で紙が発明され、1267年頃にイタリアにその製法が伝わるとヨーロッパで紙の製造が始まり、1450年頃にJ.グーテンベルクが活版印刷技術を発明したことで活字メディア(書物、新聞、雑誌等)が誕生し、それまでの情報を記録するためのメディアから情報を伝達するためのメディアへと革新しました(活字メディア革命)。これによって書物が流通するようになり、それまで宗教権威等が独占していた知識が庶民にも広まり(情報の民主化)、ルネッサンス、宗教改革や市民革命など近世、近代の到来に大きく貢献しました。18世紀、J.S.バッハと同世代であるG.ライプニッツは陰陽道の基礎になった中国の古典「易経」から影響を受けて全ての言語は0と1の二進法による人工記号のシステムで表現するのが最も合理的であるという「普遍記号論」を提唱してコンピュータの原理を哲学的に発明しており(デジタルメディア革命の萌芽)、G.ライプニッツがコンピューター及び人工知能の祖父、A.チューリングがコンピューター及び人工知能の父と言われています。なお、過去のブログ記事でも触れたとおり、11世紀頃にD.グイドが記譜法を発明して羊皮の楽譜に記譜されていましたが、活版印刷技術の発明により紙の楽譜が広く流通するようになると、人気のある作曲家とその曲の演奏を専らとする演奏家に分離していきました。その後、1826年に写真機、1876年に電話機、1877年にフォノグラフ(蓄音機)、1895年にシネマトグラフ(映写機)、1920年にラジオ、1935年にテレビ、1965年にビデオテープレコーダーが誕生し(アナログメディア革命)、それまでは「脳」が認知するイメージ、記憶や言葉等を「手」で道具や技術等を使用して活字メディアに表現しましたが、それに加えて「」が認知するイメージ、記憶や言葉等を「機械」を使用してアナログメディアで表現するようになりました(「脳」+「手」又は「機械」)。過去のブログ記事で触れたとおり、人間は「知覚」(現在の情報)と「記憶」(過去の情報)の組合せによって「認知」(未来や未知の予測)し、その反応として「感情」(意識)を生みますが、それまでは人間が直接に「知覚」できる範囲の情報を元に意識を形成していましたが、人間の知覚を拡張するアナログデバイスの登場によって、本来、人間が直接に「知覚」できない多種多様な情報が入力されるようになり、それらを元に人間の意識が形成されるようになりました。このように映画、ラジオやテレビ等のアナログメディアが人間の意識に多大な影響を及ぼすようになり、人間の意識を表現するためのメディアから人間の意識を生産するためのメディアへ革新し、アナログメディアの影響を強く受ける「大衆」が誕生しました。この点、T.エジソンが特許権で支配する西部の映画業界から逃れるために東部へ移って自由な映画製作を目指した映画会社によりハリウッドが誕生しますが、ハリウッドは大衆の夢(欲望、消費等)を大量生産する夢の工場と呼ばれるようになり、ハリウッドが提供する均質化・平準化されたイメージが大衆の意識に植え付けられました。また、S.フロイトの甥で広報宣伝の父と言われるE.バーネイズは女性の喫煙が社会的に理解されていなかった1920年代にS.フロイトの精神分析学等を応用して喫煙する女性は現代的で格好良いというイメージを大衆の意識に植え付けるマーケティング戦略により女性の喫煙を普及させることに成功しました(消費の生産)。このような時代背景等から、近代言語学の父と言われるF.ソシュールは言葉(記号)に表現(シニフィアン)と意味(シニフィエ)の二面性があることを前提とし、人間がその言葉(記号)を通してどのように世界を意味付けているのかという関係を解明するための「現代記号論」を提唱しました。また、C.パースは言語以外の全ての現象を記号から対象を想起して解釈を発生する記号過程で捉えることを提唱し(cf.ピカソ「雄牛の頭部」)、その系譜に連なるS.ランガーが音楽をモデルとして「芸術記号論」を展開しましたが、紙片の都合から芸術記号論や認知心理学等については別の機会に触れてみたいと思います。その後、1969年にデジタルシンセサイザー、1975年にPC、1982年にCG、1982年にCD、1989年にインターネット、1989年にVR、1994年にスマートフォン、1996年にDVD、2002年にデジタル映画、2005年にオンデマンド配信、2006年にAI(ディープラーニング)、2011年にデジタル放送が誕生し(デジタルメディア革命)、それまでは「脳」が認知するイメージ、記憶や言葉等を「手」で道具や技術等を使用して活字メディア又は「機械」を使用してアナログメディアで表現しましたが、それに加えて「脳」又は「人工知能」が認知するイメージ、記憶や言葉等を「手」で道具や技術等を使用して活字メディア又は「機械」を使用してデジタルメディアで表現するようになりました(「脳」又は「人工知能」+「手」又は「機械」)。インターネットの前身であるアーパネットは核戦争時にも通信が遮断しないように軍事目的で開発されたネットワークでしたが、1989年にアメリカと旧ソビエト連邦がマルタ会談で冷戦終結を宣言したことでアーパネットが民間に開放され、これによりアナログデータがデジタルデータに置き換えられてデジタルメディア革命が急速に進展しました。過去のブログ記事でも触れたとおり、日本はアナログメディアの時代を勝ち抜きましたが、デジタルメディアへの移行(DX)が出遅れたことで国際競争力を失い、再び、クオンタムメディアへの移行(QX)の準備にも出遅れつつあります。デジタルメディア革命によって、「ポスト・グーテンベルク」(活字メディアの衰退)、「ポスト・モダン」(近代的な価値観が崩壊し、現代美術家・村上隆の言葉を借りれば、ハイカルチャーやサブカルチャーなど近代的な文化階層秩序が完全に価値を失ったスーパーフラットな状態)、「ポスト・ナショナル」(近代ヨーロッパが作り出した国民国家を単位とする世界が相対化)、「ポスト・ヒューマン」(過去のブログ記事でも触れましたが、2022年が画像生成AI元年と言われているように、人工知能により人間が補助され、代替され、人工的に合成されるなど人間とテクノロジーの境界が揺らいでいる状況)等の社会変革が生まれ、現在は、活字メディアやアナログメディアの時代の枠組み(紙文化、近代主義、国民国家、人間中心主義等)から急速に脱しつつある過渡期にあると言われています。アナログメディアの特徴として「マスメディア」と言われるのに対し、デジタルメディアの特徴として「パーソナルメディア」と言われますが、アナログメディア(マスメディア)では皆が同じ情報に接して同じ意識を形成する大衆社会(大量生産・大量消費の枠組み)を形成しましたが(一極集中による力の均衡と平和の維持)、デジタルメディア(パーソナルメディア)では皆が異なる情報に接して異なる意識を形成する個衆社会(多品種・少量生産への移行)を形成し、また、インタラクティブ通信により同じ意識を持った人間だけがつながる小さなコミュニティーを形成するようになり(エコーチェンバー)、社会が多様化、細分化、分極化しました(多極分散による力の偏在と地域紛争等の増加)。その結果、人々の意識の違いが先鋭化して相互に不寛容な態度をとる分断の時代と言われる社会問題を生じており、メディアリテラシー(上述の特性を踏まえて賢く振る舞う知恵)の向上の必要性が認識されています。また、デジタルメディアによってデータの加工や生成等が可能となり、それまでの情報を記録するためのメディアからデータをシミュレーションするためのメディアへと革新しました。例えば、テレビ、映画、ゲームやWeb等ではCG、VR等の技術を使用してバーチャルを生成することが可能となり、また、そのバーチャルに生成されたデータを取引するためのNFT等が注目を集めるなどリアルな生産及び消費からバーチャルな生産及び消費の時代へと突入しています。このように人類はリアルな空間だけではなくバーチャルな空間(メタバースなどメディアの中の世界)へと活動領域を拡張しようとしていますが、いずれはバーチャルな空間での社会経済活動がリアルな空間での社会経済活動に比肩し又はこれを凌駕する時代がやってくるかもしれません。アナログメディアの衰退と共に現代記号論も廃れましたが、現代は人間の意識を奪い合う情報洪水の中に生活しており、日々、情報洪水に晒されるなかでコピーペースト、ランダムアクセスや倍速再生などデータの摘まみ食いのような状態が蔓延し、ハイパー・アテンションが招く注意力不足の状態に付け込む詐欺、情報窃取やフェイクニュース等が社会問題になっています。また、人工知能によるオートターゲティング広告など人工知能によって人間の意識が生産され、人の生活が支配される時代になっています。このような時代状況のなか、どのように情報洪水に溺れずに自らの意識や生活を自律的に制御して行くのかという精神エコロジーの問題をはじめとして、デジタルメディアの時代に直面する様々な社会問題と向き合うために普遍記号論及び現代記号論をアップデートした「新記号論」(情報記号論)という学問が注目を集めています。
 
 
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STOP WAR IN UKRAINE
今日でロシアによるウクライナ侵攻から1年になります。1989年にベルリンの壁が崩壊してアメリカと旧ソビエト連邦がマルタ会談で冷戦終結を宣言したのはロックが東欧諸国の若者の意識を変えたことによるものだと言われていますが、芸術には人間の意識を変える力があると信じたいです。坂本龍一がウクライナのヴァイオリニスト、イリア・ボンダレンコのために作曲した「Piece for Illia」の動画をアップします。1日も早くウクライナの人々の平穏な生活が戻ることを願い、そのために何ができるのか心を砕きたいと思います。自宅のパソコンからでもできること:【国連】【ユニセフ】【赤十字
 
▼Register Trio Vol.3 開拓
【演目】①スキャピュラ(2020年)
      <作曲>稲盛安太己
      <Vn>高岸卓人
      <B.Cl>東沙衣
      <Pf>小塩真愛
    ②永遠の賛歌 ヴァイオリンのための 作品107
                    (2007年/22世紀委嘱)
      <作曲>権代敦彦
      <Vn>高岸卓人
    ③問うことはなぜ無意味なのか?(2018年)
      <作曲>森紀明
      <Vn>高岸卓人
      <Cl>東沙衣
      <Pf>小塩真愛
    ④合いの手~無伴奏クラリネットのための~(2018年)
      <作曲>小林由直
      <Cl>東沙衣
    ⑤鏡の中の鏡(2022年/RegisterTrio委嘱)
      <作曲>向井響
      <Vn>高岸卓人
      <Cl/B.Cl/ラチェット>東沙衣
      <Pf>小塩真愛
【演奏】Register Trio
【会場】両国門天ホール
【日時】2月11日(土)17時~(オンライン配信:2月11日(土)~)
【料金】1000円
【一言感想】
「Register Trio」は2013年に東京芸大の同級生で結成されたヴァイオリン、クラリネット及びピアノから編成される室内楽のトリオで、この編成による音楽表現の可能性を追求することを目的として活動しており、第1回目「朗読」第2回目「ロマ音楽」及び第3回目「開拓」というテーマ性のある演奏会を開催しています。第3回目「開拓」は日本の現代作曲家の作品を集めた演奏会で、現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家ということで、このトリオ及び現代作曲家の紹介がてら演奏会の感想を簡単に残しておきたいと思います。なお、このオンライン配信のプラットフォームを提供している「Salon  d’Art」(サロン・ダール)は音楽家のための会員制サロンで演奏会のオンライン配信などオンラインというメディアを活かした音楽活動の支援に注力しているそうですが、単に新型コロナウィルス感染症など疫病対策という一過性の文脈ではなく、Society5.0で掲げられているデジタル田園都市構想の推進により近代を象徴するロンドン型の都市モデルである一極集中社会を脱却して現代的な地方分散社会へと移行して行く大きな時代の文脈のなかで、前者を前提とする演奏会場を中心とした近代的な音楽活動から後者を前提とするオンライン配信等のメディアミックスを活用した現代的な音楽活動へと脱皮して行くために非常に意義ある活動をされていると思います。
 
①スキャピュラ(2020年)
この曲には、ラテン語(英語読み)で「肩甲骨剥がし」を意味する「スキャピュラ」という標題が付けられていますが、「ポリリズムによる疑似的な複合テンポで、3人の奏者が噛み合いどころを探りながら進行していく。次第に各楽器の使用音程が拡がって、より滑らかに歯車が嚙み合って行く。」という解説が付されています。筋肉と骨の間にはファシアという繊維質の組織があり、あまり運動しないとファシアが筋肉や骨に癒着して凝り(固まり)ますが、肩甲骨と癒着したファシアを運動によって剥がすことで肩凝りは解消すると言われています。同じ音型を繰り返し、その音型、強弱やリズム等を変化させながら肩甲骨はがしの運動が表現されていますが、冒頭はポリリズムとテンションの効いた音でゴキゴキとした力みのある動きが表現され、やがて強弱を付けた運動を繰り返しながら動きが整い出し、ついには余分な力みが取れて滑らかな運動になって呼吸を整えられるという一連の流れになっています。「肩甲骨剥がし」というエクササイズを音のイメージ(記号)に置き換えて参加型の聴取体験を誘う面白い作品です。
 
②永遠の賛歌(2007年)
この曲には、2005年に発生した池田小学校児童殺傷事件で犠牲になった生徒へのレクイエムとして、その生徒の母親の手記をもとに作曲された作品だそうですが、「「突然」絶たれた命と、宗教がよく救いを説くときに持ち出す「永遠の命」」を比べて「「突然」の重さを、果たしてこの「永遠」という概念で救いとることができるのか(中略)僕の「永遠」への信仰と懐疑がメチャクチャに雑ざった曲」という解説が付されています。突然に命が絶たれることに対する不条理のようなものを表現したものなのか弦にテンションを加えてノイジーな響きによるロングトーンとしゃくりが繰り返され、それに続く小刻みで執拗なオスティナートにより、その瞬間に永遠に閉じ込められて出口を見出せずに何度も逡巡しているような閉塞感を受けますが、あの事件が社会に与えた傷の深さを感じさせる印象深い曲です。なお、この曲は2月5日(日)放送のNHK-FM「現代の音楽」(現代作曲家・西村朗)に採り上げられ、また、この曲を初演したヴァイオリニスト・堀米ゆず子「ヴァイオリン・ワークス2」にも収録されています。
 
③問うことはなぜ無意味なのか?(2018年)
この曲には、「カフカの日記から引用した以下の断片的なテキストがタイトルとして付けられた、長さとキャラクターの異なる4つのモノローグから構成されており、続けて演奏されます。」と前置きしたうえで、それぞれのモノローグとして「Nichts als ein Erwarten, ewige Hilflosigkeit(ある期待のほか何もなし、永遠の寄る辺なさ)」「Der Anruf(何もかも引き裂くこと)」「Alles zerreinben(呼びかけ)」「Im Frieden kommst du nicht vorwarts, im Krieg verblutest du(平和な時にはお前は前に進まない。戦争の時には出血多量で死ぬ。)」という標題が付されています。これらの標題を離れた個人的な感想で恐縮ですが、まるで能楽や伝統邦楽を鑑賞しているときのような面白さが感じれる曲でした。徹底的に無駄をそぎ落とした隙のない張り詰めた緊張感は音楽に求心力を生み、余白が奥行きを生み、1音で完結する世界観は圧倒的な説得力があり、空即是色の世界観を垣間見ているような哲学的な音楽が魅力的でした。紙玉を触るカサカサという音はカフカ著「変身」を音で暗喩しているのような諧謔が感じられます。
 
④合いの手~無伴奏クラリネットのための~(2018年)
この曲には、「クラリネットの鋭く高い音の間に短く低い音を「合いの手」のように挿入する」ことにより構成された作品で、「グリサンド、重音、息の掠れるような音、舌を震わせる濁った音など、様々な奏法が使われ、多彩な音を交えながら進行」していきますが、「「合いの手」が、作品全体の良きスパイスになってくれればと思います。クラリネットたった一本により繰り広げられる世界をお楽しみください。」という解説が付されています。現代作曲家・小林由直は三重大学教授で保健センター所長を務められている現役の医師という異色の経歴を持っており、管楽器のほかマンドリンのための曲を多数作曲されており、世界各国のマンドリン・コンクールのための課題曲や審査員に選ばれています。クラリネット奏者・東沙衣はまるでE.T.を思わせるような長い指(光ってはいませんでしたが・・笑)でクラリネットから軽妙洒脱な表現を紡ぎ出していましたが、低音部の「合いの手」が曲全体を上手く統率しながら、高音部が天衣無縫に振る舞い多彩な音色(奏法)による豊かな表情を持つ音楽を楽しむことができました。
 
⑤鏡の中の鏡(2022年)
この曲には、M.エンデの30の連作短編集「鏡の中の鏡」からタイトルが付けられ、「30の小さなモチーフを、組み合わせたり、拡大、縮小したり、時に変奏させて、音楽を紡いでいった。」という解説が付されています。M.エンデは「この本を理屈で解ろうとせず、ありのまま感じればいい」と語っていますが、「鏡の中の鏡」とは「この本」(外部世界の鏡)に映し出される「読者」(内部世界の鏡)のことであり、「この本」を外部世界にあるものとして客観的に理解しようとするのではなく、「この本」を内部世界に取り込んで主観的に感じることが必要であると語っており、さながら、この本を能楽の能面(見物の心を映す鏡)のようなものとして捉えている示唆に富む考え方ですが、これは現代音楽の受容にも当て嵌まることかもしれません。ヴァイオリンの弓棹に糸状のものを巻いて弦を弾く、ピアノの弦をグリッサンドする、ヒモが出ている円筒形の箱(創作楽器?)を振って音を出すなど数々の特殊奏法や特殊楽器が使用されていますが、さながら響きの万華鏡を見ているような不思議な世界観を楽しめました。
 
Sax:馬場智章、Pf:上原ひろみ、Drs:石川駿の演奏が凄い!!マンガ(原作)はグルーヴ感まで伝わってくるような迫力の作画が魅力でしたが、やはり実際の演奏に乗せて鑑賞するとひときわ感興に迫るものがあり、マンガ(原作)張りに音楽のイメージを作画や色彩の凄みで感じさせる映像も圧巻です。体で音楽を感じながら、やっぱりジャズっていいなと思える音楽好きにはオススメの映画です。因みに、映画のパンフレット(左上写真)はLP盤レコードのジャケット仕様になっていて粋な計らいです。
 
【訃報】3月2日にアートブレイキー&ジャズメッセンジャーズ、マイルス・デイヴィスのクインテットバンド、ウェザーリポート等のテナーサックス奏者及びジャズ作曲家として一時代を築いたジャズ界のレジェンド、ウェイン・ショーターが逝去されました。漫画「GLUE GIANT」(第7巻)にウェイン・ショーターのインタビュー記事が掲載されていますが、原作にも多大な影響を与えています。衷心よりご冥福をお祈り致します。
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.16
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼ドブリンカ・タバコヴァの「チェロと弦楽のための協奏曲」(2008年)
ブルガリア系イギリス人現代作曲家のドブリンカ・ダバコヴァ(1980年~)は、僅か14歳で第4回ウィーン国際音楽コンクールでジャンフ=レデリック・ベエルヌー賞を受賞して一躍脚光を浴び、エリザベス女王即位50周年を祝うゴールド・ジュビリーで「prise」が演奏され、また、デビューアルバム「String Paths」が2014年の第56回グラミー賞(米)にノミネートされるなど、欧米で非常に注目されている期待の俊英です。この動画以外にも魅力的な作品の宝庫です。
 
▼マルコ・ガルヴァーニの合唱曲「アレフ」(2020年)
イギリス人現代作曲家のマルコ・ガルヴァーニ(1994年~)は、アナログ音の合唱音楽とデジタル音の電子音楽を融合して現代的でありながらファンタジックな世界を表現することを得手としており、現在、イギリスで最も注目されている若手の現代作曲家の1人です。この曲は、ロンドン国際アカペラ合唱コンクールで優勝したヴォーカルアンサンブル「サンサラ」がガルヴァーニの作品を収録したアルバム「見えない都市」に収録されていますが、透徹な合唱と幻想的な電子音が効果的に調和しています。
 
▼根岸宏輔の混声合唱とピアノのための組曲「遠望」より「智慧の湖」(2020年)
日本人現代作曲家の根岸宏輔(1998年~)は、2020年第37回現音作曲新人賞及び2021年度武満徹作曲賞第1位を受賞するなど、日本の現代作曲家で最も注目されている若手の俊英の1人です。この曲は2020年第31回朝日作曲賞を受賞し2022年第75回全日本合唱コンクールの課題曲となりましたが、この動画は2022年第75回全日本合唱コンクール混声の部全国大会及び2022年第77回東京都合唱コンクール混声合唱の部で第1位を受賞したあい混声合唱団によるものです。

映画「モリコーネ 映画が恋した音楽家」と映画音楽<STOP WAR IN UKRAINE>

▼世界を席巻した20世紀最大の発明(ブログの枕前編)
2020年7月に映画音楽の巨匠、エンニオ・モリコーネが逝去されましたが、E.モリコーネへのオマージュとして公開されたドキュメンタリー映画を鑑賞しましたので、この機会に映画音楽の歴史を大雑把に俯瞰したうえで、その感想を簡単に残しておきたいと思います。過去のブログ記事でも触れたとおり、映画音楽劇音楽の系譜に位置付けられ、その歴史は詩、舞踊及び音楽が結合した古代ギリシャ劇まで遡ることができますが、古代ギリシャローマ帝国に滅ぼされるとキリスト教の教義を題材にしたラテン語による典礼劇(神のための宗教音楽)等が主流となり、やがて十字軍遠征の失敗等からキリスト教会の権威が失墜するとルネッサンスの勃興により人間の本性等を題材にした英語によるシェイクスピア劇(人間のための世俗音楽)等が台頭しました。その後、バロック時代になると古代ギリシャ劇を復活する試みの中からイタリア語によるオペラが誕生しますが、言葉の障壁、和声理論の確立や楽器の発達等の影響から言葉を使わずに旋律美よりも和声美を重視する器楽曲が発達して、言葉を使わない音楽のうち、絵画や文学など音楽以外の要素と音楽を結び付けることなく音の構造のみで表現する絶対音楽(音楽の自律性)が隆盛を極めましたが(ソナタ形式や機能和声等の駆使)、市民社会の台頭を背景として作曲家はより多彩で分り易い表現を求め、言葉を使わない音楽のうち、絵画や文学など音楽以外の要素と音楽を結び付けて表現する標題音楽(音楽の附随性)が発達しますが(ソナタ形式や機能和声等の際限ない拡張)、その影響等からR.ワーグナーは音楽の自律性から劇よりも音楽を重視するオペラではなく音楽の附随性から劇を表現の目的として音楽、台詞、美術等を総合する楽劇を提唱してライトモチーフなど音楽を使って劇を物語る表現手法を考案し、その後の映画音楽に多大な影響を与えました。このような歴史的な文脈を経て技術革新により映画及び映画音楽が誕生しました。1888年にT.エジソンは「キネトスコープ」(覗き穴方式の映写機)や「キネトグラフ」(映像撮影用のカメラ)を発明しましたが、その影響等から1895年にリュミエール兄弟は「シネマトグラフ」(スクリーン方式の映写機+映像撮影用のカメラ)を発明し、1895年12月28日にパリで映画の興行(多数の観客を集めて映画鑑賞料金を徴収すること)を催しており(映画「リュミエール」)、この日が「映画誕生の日」とされています。このような経緯により、現在、映画を意味する日本語には「キネトスコープ」や「キネトグラフ」に由来する「キネマ」(英語)と「シネマトグラフ」に由来する「シネマ」(フランス語)の2種類があります。サイレント映画は、無声なので映像以外の方法で場面の状況説明を補足する必要があったことやシネマトグラフが発する雑音が耳障りであったことなどから、ピアノ、足踏みオルガンやオーケストラなどによる既成曲の生伴奏(日本では和楽器の伴奏や活動弁士による解説等)と一緒に上映されていましたが、やがてD.ショスタコーヴィチなど若手のクラシック音楽家などが映画館でピアノ伴奏のアルバイトをするようになりました。また、映画のためのオリジナル曲を作曲するクラシック音楽家なども登場して、C.サン=サーンス(70)がサイレント映画「キーズ公の暗殺」(1908年)のために作曲した映画音楽「ギーズ公の暗殺」が世界初の映画音楽と言われていますが(駄作などには作品番号を付していないC.サン=サーンスがこの曲には作品番号を付していることから純音楽と商業音楽(映画音楽)を分け隔てなく捉えていたと考えられます)、第一次世界大戦クラシック音楽やオペラ等の古典作品を育んできた中近世的な社会体制や価値観等が崩壊し、これに伴って芸術・文化等も大きく変容した時代の転換点)を挟んで、P.ヒンデミット(26)がサイレント映画「山との闘い」(1921年未完)のために作曲した映画音楽「嵐と氷の中で」、A.オネゲル(30)がサイレント映画鉄路の白薔薇」(1922年)のために作曲した映画音楽「車輪」(この経験から、A.オネゲル交響的断章第1番「パシフィック231」(1923年)を作曲しましたが、それまでのクラシック音楽が題材として扱っていなかったものを音楽に採り入れる契機となり映画という表現媒体の懐の広さを物語る逸話です。)、E.サティ(58)が自作のバレエ「本日休演」(1924年)の幕間に上映するサイレント映画のために作曲した映画音楽「幕間」(この幕間映画にはバレエ「本日休演」の台本、美術及び演出を担当したダダイストの画家・ピカビアとミニマル音楽の先駆者・サティが出演しています。)やD.ショスタコーヴィチ(22)がサイレント映画「新バビロン」(1929年)のために作曲した前衛的・諧謔的な性格に彩られたポピュラー音楽風の映画音楽「新バビロン」などが誕生しました。また、A.シェーンベルクは12音技法を使って特定の映画のためではなく架空の映画を想定して「迫りくる危険」「不安」「破局」という3つの標題を持った「映画の一場面のための伴奏音楽」(1930年)を作曲しました。1895年にT.エジソンはキネトスコープ(映像)とフォノグラフ(音声や音楽)を組み合わせた「キネトフォン」を発明してトーキー映画(トーキング・ピクチャー)の開発に先鞭をつけましたが、1925年にビクターがレコード(電気録音)を開発して、1926年にワーナー・ブラザースが「ヴァイタフォン」(映像が記録されているフィルムとは別に音声や音楽をレコードに記録して、その映像とレコードを映画館で同時に再生して上映する方式)を発明して、第一次世界大戦後の本格的な大衆社会を迎えつつあった1927年に世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」(1927年)を上映してトーキー映画が誕生し、同じ年に日本でもトーキー映画「黎明」(1927年)が上映されて、山田耕作が映画音楽を担当しました。因みに、過去のブログ記事でも触れましたが、同じく1927年に物語と歌を融合したブック・ミュージカル「ショー・ボート」が上演され、ヨーロッパの貴族文化の流れを汲むオペレッタに対するアメリカの大衆文化としてミュージカルが誕生し、ハリウッド(東部)がブロードウェイ(西部)からミュージカル音楽の作曲家を招聘してミュージカル映画が隆盛しました。しかし、ヴァイタフォンはレコードと映像の再生タイミングがズレ易いなどの欠点が問題となり、1927年にフォックスが「ムービートーン」(映像が記録されているフィルムに音声や音楽を記録して(サウンドトラック)、そのフィルムを映画館で上映する方式)を導入して、その欠点を克服することに成功しました。その後も技術的な改良が重ねられましたが、1935年に放送開始されたテレビの普及によって1950年代から映画人気は急速に衰退した一方で、第二次世界大戦過去のブログ記事でも触れたとおり、ヨーロッパを中心とする古い世界秩序からアメリカを中心とする新しい世界秩序へ移行したことに伴うアメリカニズムの台頭)を契機としてアメリカの独自性が発揮されるようになり、J.ディーンやE.プレスリーなどの登場で若者文化が隆盛し、また、1964年から1973年まで続いたベトナム戦争に反対する若者のカウンターカルチャーとしてヒッピー文化が生まれましたが、その時代の若者の姿を描いた1969年に映画「イージー・ライダー」がヒットして映画人気が回復し、若い映画監督が積極的に起用されるようになってロックやポップス等の若者文化の幅広い音楽が映画音楽に採り入れられました(ニュー・シネマ運動)。その後、1975年に開発されたビデオの普及により旧作映画のビデオソフト販売が開始されてビデオソフト市場が急伸し、それまで映画館(大衆)で見ていた映画を自宅(家族)で見るようになりました。1998年にソニーがフィルム映画に比べて編集や保存に優れたデジタル映画を発明し、2002年にデジタル映画「スター・ウォーズ エピソード2」が上映されましたが、その後、インターネットの普及により自室やスマホ(個衆)で映画を見るようになり、個人の趣味嗜好に合わせるようにヒップホップやポストクラシカルなど多様な音楽が映画音楽に採り入れられています。トーキ映画が誕生した以降の映画音楽の歴史は、以下で簡単に後述します。
 
▼映画と映画音楽の歴史
僅か100年の間に社会や技術のイノベーションと共に時代を映す映画も革新し、それに伴って映画音楽の有り様も変化しています。
社会 映画 映画音楽
資本 映画館 映画の誕生
サイレント映画
クラシック音楽
第一次
世界大戦
クラシック音楽の終焉>
トーキー
革命
クラシック音楽
ポピュラー音楽(ミュージカル)
大衆 第二次
世界大戦
現代音楽
ポピュラー音楽(ジャズ、ミュージカル)
ベトナム
戦争
自宅 TV
革命
現代音楽
ポピュラー音楽(ロック、ポップス、ジャズ、ミュージカル)
ビデオ
革命
個衆 自室 デジタル
革命
<ボーダレス社会の到来>
多様な音楽
 
映画音楽=現代音楽+ポピュラー音楽(ブログの枕後編)
上述のとおりサイレント映画では音声や効果音に代わって映像を補足説明するための音楽が映像の全編にベタ付されましたが(ワークナーの楽劇を淵源とし、ポスト・クラシカルやオーディオ・ビジュアルアートの先駆け)、トーキー映画の誕生によって映像と音(音声、音楽、効果音)の同期が可能になると音楽は映像及び音声と有機的に結び付いてバックグランドミュージックとして発展しました。トーキー映画誕生の翌年、W.ディズニーはミッキーマンスを生んだ短編アニメ映画「蒸気船ウイリー」(1928年)を制作するにあたり、トーキー映画の規格である24コマ/秒をメトロノームの代わりにして映像と音を同期させる技法(ミッキーマウスに因んで「ミッキーマウシング」と呼ばれています。)を考案しますが(過去のブログ記事で触れましたが、パソコンのマウスの感度を表す単位を「ミッキー」と呼ぶのもミッキーマウスに由来しています。)、この技法を使って製作された映画「キング・コング」(1933年)で映画音楽家M.スタイナーワーグナーのライトモチーフの手法を採り入れて人物や場面に音楽テーマを設定した初めての映画音楽を作曲し、映像を補足説明するための映画音楽から映像(行動や状況)と音楽を同期して劇的な効果を生む映画音楽へ革新しました。当時、ハリウッドは旧世界(貴族趣味を反映するヨーロッパの伝統)から新世界(大衆趣味が息衝くアメリカの革新)へクラシック音楽家を積極的に招聘していましたが、オペラ「死の都」でR.シュトラウスの再来と言われたE.コルンゴルトユダヤ人)がこれに応えてナチス=ドイツのオーストリア併合でアメリカに亡命して第二次世界大戦終結まで映画音楽の作曲に専念し、映画「風雲児アドヴァース」(1936年)や交響的序曲「スムスル・コルダ」を使用した映画「ロビンフッドの冒険」(1938年)でアカデミー作曲賞を受賞しました。但し、E.コルンゴルトはハリウッド式のキュー・シート(映像のどの部分にどの長さでどのような音楽を付すのかという指示書)に従って映画音楽を作曲するスタイルには馴染めず、オペラの作曲と同様に映像や脚本から受ける自らのイマジネーションに従って映画音楽を作曲したと言われています。また、ロシア革命アメリカに亡命していたS.プロコフィエフ旧ソ連に戻って映像と音の対位法について述べた「トーキに関する宣言(モンタージュ論)」に触発されて映画「アレクサンドル・ネフスキー」(1938年)のための映画音楽を作曲しました。やがて第一次世界大戦第二次世界大戦を契機とするアメリカニズムの台頭を背景としてアメリカの独自性が発揮されるようになると、アメリカの現代作曲家のA.コープランドが映画「我等の町」(1940年)等でアメリカ民謡等の要素を取り入れた明快な作風を映画音楽に採り入れ、アメリカらしさを音楽的に表現することに成功しました(A.コープランドは、アメリカに滞在中に弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」を作曲したA.ドヴォルザークの孫弟子)。その弟子のA.ノースは映画「欲望という名の電車」(1951年)等で人物の外面(行動や状況)に音楽テーマを設定するのではなく人物の内面(性格や個性)に音楽テーマを設定してライトモチーフの手法を拡張し、B.ハーマンは映画「市民ケーン」(1941年)等でライトモチーフの手法を使用することなく物語のテーマに迫る映画音楽を志向しました(手法の革新)。また、テレビの普及により映画人気は急速に衰退した一方で、J.ディーンやE.プレスリーなどの登場で若者文化が隆盛したことを背景として、世界的なジャズ・トランぺッターのM.デイヴィスが映画音楽を担当した映画「死刑台のエレベータ」(1955年)、世界的なロックン・ローラーのB.ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」をフィーチャーした映画「暴力教室」(1955年)やH.マンシーニが映画音楽を担当した映画「ティファニーで朝食を」(1961年)などでジャズ、ロックやポップスのポピュラー音楽が映画音楽に積極的に採り入れられるようになり(語法の革新)、世界的な指揮者のL.バーンスタインは映画「ウェストサイド・ストーリー」(1957年)等でジャズを採り入れた映画音楽を作曲し、また、世界的なピアニストのA.プレヴィンも映画「地下街の住人」(1960年)等でジャズを採り入れた映画音楽を作曲し、J.ガーシュインのミュージカルを題材にした映画「ボギーとべス」(1959年)等で音楽監督を務めるなど、クラシック音楽界で活躍する音楽家がポピュラー音楽等を使った映画音楽の世界へ進出しました(ジャンルの越境)。1956年からテレビで映画が放映されるようになるとテレビ局の資金でテレビ用の映画を製作するようになり映画界はテレビ局の資本に依存しながら共存する道を歩み始めましたが、現在でも、このような潮流は衛星放送やオンライン配信事業者等に受け継がれています。その後、ベトナム戦争を契機とするニューシネマ運動の影響などから若者文化の幅広い音楽が映画音楽に採り入れられ、それまでのようにオリジナルの映画音楽を作曲するのではなく既成曲をコラージュする手法が主流となり、映画「2001年宇宙の旅」(1968年)でクラシック音楽、映画「卒業」(1967年)でフォークロック、映画「愛の狩人」(1971年)でスウィングジャズ、映画「目を閉じて」(1971年)や映画「ロマノフ王朝の最後」(1981年)で現代音楽、映画「ゴットファーザー」(1972年)で古民謡、映画「ペーパー・ムーン」(1973年)でポップス、映画「アメリカン・グラフィティ」(1973年)でロックンロール等が映画音楽に使用されるようになり、映画「小さな恋のメロディー」(1971年)や映画「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977年)などレコード会社とタイアップしてサントラ盤を売ることを意識した映画が作られるようになりました。ベトナム戦争終結後、その閉塞感を吹き飛ばし戦前の古き良きアメリカを取り戻すかのようにJ.ウィリアムズはS.スピルバーグ監督の映画「スターウォーズ」(1977年)及び映画「E.T.」(1982年)や映画「シンドラーのリスト」(1993年)で大編成のオーケストラによるオリジナル曲を作曲して米アカデミー賞作曲賞を受賞し、坂本隆一も映画「ラストエンペラー」(1987年)で大編成のオーケストラによるオリジナルの映画音楽を作曲して日本人初の米アカデミー賞作曲賞を受賞しました。因みに、日本の映画音楽では、早坂文雄黒澤明監督の映画「酔いどれ天使」(1948年)、映画「羅生門」(1950年)や映画「七人の侍」(1954年)等の映画音楽を作曲し、その弟子・佐藤勝黒澤明監督の映画「用心棒」(1961年)の映画音楽を作曲して日本人で初めて米アカデミー賞作曲賞にノミネートされましたが、その年は映画「ティファニーで朝食を」(1961年)のH.マンシーニが受賞しました。この映画で人が刀で斬られる効果音(斬殺音)が初めて採り入れられました。早坂文雄のアシスタントを務めたことがある武満徹黒澤明監督の映画「」(1985年)の映画音楽を作曲し、また、ハリウッドの映画「ライジング・サン」(1993年)等の映画音楽も手掛けていますが、「映画音楽の役割は、映像が示さないもの、映像だけでは表現できないものを顕在化することにある。」と語っています。早坂文雄と新音楽連盟を結成した盟友の伊福部昭は映画「ゴジラ」(1954年)の映画音楽を作曲し、コントラバスと動物の声を合成してゴジラの鳴き声を作成するなど効果音の作成にも熱心に取り組みました。黛敏郎はハイウッド映画の超大作である映画「天地創造」(1966年)の映画音楽を作曲しました。このほかに、芥川也寸志團伊玖麿池辺晋一郎ジブリ映画でお馴染みの久石譲大島ミチル戸田信子等の活躍が顕著です。1981年からMTVの放送が開始された影響から、既成曲をコラージュしたサントラ映画「フットルース」(1984年)、音楽家の伝記を題材としたミュージシャン映画「戦場のピアニスト」(2002年)やブロードウェイ作品を題材としたミュージカル映画シカゴ」(2002年)等がヒットし、このような潮流は現在まで続いています。20世紀後半以降、映画「禁断の惑星」(1956年)で電子音楽、映画「時計仕掛けのオレンジ」(1971年)でシンセサイザー(YMO結成は1987年)、映画「トロン」(1982年)でCG、映画「スターウォーズ エピソード2」(2002年)でデジタル映画、映画「アバター」(2009年)で3Dなどデジタル技術が導入され、また、ビデオ、ハードディスクやインターネット等が実用化されてTV(地上放送、衛星放送)で放映される映画を録画することが可能になり、また、ビデオソフト(VHS、DVD、デジタルコンテンツ)の販売、レンタルや動画配信なども開始されると、それまで映画館で見ていた映画を自宅や自室又はスマホで移動しながら見るなど、好きな時間に好きな場所で好きな映画を見ることができるようになりました。このように映画受容環境の激変や音楽嗜好の多様化を背景として、映画という表現媒体の懐の広さから、ポップス、ジャズ、ロック、R&B、ソウル、テクノ、ポスト・クラシカル、エスニック、フュージョンなど、様々な音楽が映画音楽に使用されるようになりました。さらに、VR(仮想現実の映画体験)、IMAX・ULTIRA(高画質とサラウンドによる臨場感ある映画体験)や4DX・MX4D(上映中の映像に合わせてシートが前後左右に動いたり、寒暖や香り、煙など多感覚型の映画館体験)などの技術が開発されており、映画受容環境はさらに大きく革新しようとしています。近年では、映画「美女と野獣」(1991年)など数多くのディズニー映画の映画音楽を作曲したA.メンケン、映画「タイタニック」(1997年)等の映画音楽を作曲したJ.ホーナー、映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」(2003年)等の映画音楽を作曲したH.ジマー、映画「キングダム・オブ・ヘブン」(2005年)等の映画音楽を作曲したH.ウィリアムズ、映画「モアナと伝説の海」(2016年)等の映画音楽を作曲し、ミュージカル音楽の作曲家としても著名なL.ミランなどの活躍が記憶に新しく、また、映画「コヤニスカッティ」(1998年)を作曲したP.グラス、映画「めぐり逢わせのお弁当」(2013年)を作曲したM.リヒター、映画「博士と彼女のセオリー」(2014年)でゴールデングローブ賞を受賞したJ.ヨハンソンなどの数多くの現代作曲家(ポスト・クラシカル)の活躍も目覚ましいものがあります。なお、映画音楽家R.ポートマンは映画「エマ」(1996年)で女性初の米アカデミー賞作曲賞を受賞していますが、2016年に興行収入上位250本の映画を対象に調査したところ、映画製作に携わるスタッフの中に女性が占める割合は脚本家13%、監督7%、作曲家3%に過ぎないという報告があり、今後、女性を含む多様な才能が映画音楽家を含む映画界に参画し、更なる新風を吹き込んでくれることを期待したいです。
 
 
【題名】映画「モリコーネ 映画が恋した音楽家」(原題「ennio」)
    ジェームズ・ヘットフィールド
    ローランド・ジョフィ
    リナ・ウェルトミューラー
【日時】1月13日(土)
【感想】
今日は2020年7月に逝去した映画音楽の巨匠、E.モリコーネへのオマージュとして公開されたドキュメンタリー映画を鑑賞しましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。この映画は、E.モリコーネの盟友である映画監督のJ.トルナトーレがE.モリコーネな生前から撮影を開始したドキュメンタリー映画で、本人及び映画関係者のインタビューを挟みながらE.モリコーネの生涯と映画音楽を振り返るものですが、この映画が完成する前にE.モリコーネは他界しました。E.モリコーネは日本でも非常に人気が高く、2003年にNHKの大河ドラマ武蔵MUSASHI」に楽曲を提供したのに続いて、2004年~2005年にはE.モリコーネの指揮による来日コンサートが開催され、小泉純一郎首相(当時)などの著名人も駆け付けてマスコミでも大きな話題になりました。1928年、E.モリコーネはトーキー映画と共に誕生し、幼い頃からトランぺッターの父の手解きを受けており、本人は医者志望でしたが父の希望によりサンタ・チェリア音楽院へ進学してトランペットと作曲法(十二音技法など)を学びました。E.モリコーネはサンタ・チェリア音楽院を卒業後に生活のためにラジオ局やテレビ局でカンツォーネを演奏するための編曲及び指揮を担当しましたが、この頃にE.モリコーネの魅力であるオーケストレーション能力が磨かれました。E.モリコーネは映画「連邦政府」(1961年)で映画音楽家としてデビューし、映画「太陽の下の18才」(1962年)でブレイクする順調な滑り出しで、その翌年にこの曲を木の実ナナがカバーしました。E.モリコーネの小学校の同級生である映画監督のS.レオーネの招聘により、黒澤明監督の映画「用心棒」から影響を受けた映画「荒野の用心棒」(1964年)や映画「続・夕陽のガンマン/地獄の決闘」(1966年)等のマカロニ・ウエスタン(当初、欧米ではスパゲッティーウェスタンと呼ばれていましたが、映画評論家の淀川長治が「スパゲッティでは細くて貧弱そうだ」として「マカロニ」と呼び変えたものが欧米に広まったもの)の映画音楽を担当して大ヒットし、一躍、スターダムへと駆け上がりました。サンタ・チェリア音楽院で学んだ現代音楽の作曲技法、父親の影響によるジャズのリズム感、カンツォーネの編曲経験を活かして鞭や鐘など楽器以外の音、口笛、奇声、不協和音等を織り込む革新的なアレンジ等を駆使し、映画の主題を巧みに捉えた魅力的な旋律美や対位法等を使った色彩豊かなオーケストレーション等による音楽スタイルを確立しました。E.モリコーネは、1本の映画の中で自分の音楽と一緒に他人(クラシック音楽家を含む)の音楽を使われることを嫌っていましたが(自分の絵具に他人の絵具を混ぜられるような違和感と語っています)、映画音楽の作曲にあたってはバッハ(及びバッハが対位法を学び取ったであろうフレスコヴァルディー)まで立ち返ることが多かったそうです。例えば、映画「シシリアン」(1969年)はバッハの「前奏曲とフーガ(イ短調)」から着想を得たそうですが、確かに聴き比べてみると音型が似ていることに気付きます。因みに、E.モリコーネは、RCAレコードから映画「天地創造」(1966年)の映画音楽の作曲を依頼されたそうですが、上述のとおり最終的に黛敏郎が作曲した映画音楽が採用されました。その後、E.モリコーネは、自らの音楽スタイルを洗練させながら、映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト(ウェスタン)」(1968年)、映画「わが青春のフローレンス」(1970年)、映画「ラ・カリファ」(1970年)、映画「夕陽のギャングたち」(1971)、映画「1900年」(1976年)、池田満寿夫監督の「エーゲ海に捧ぐ」(1979年)等の映画音楽を担当し、映画「死刑台のメロディー」(1971)で銀リボン音楽賞を受賞するなど第一期黄金期を築きました。その後、パンパイプの響きが印象的な代表作の映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984年)では製作会社がアカデミー賞への出品を忘れて受賞を逃し、映画「ミッション」(1986年)ではアカデミー賞作曲賞にノミネートされましたが、映画「ラウンド・ミッドナイト」(1986年)のH.ハンコックが受賞し、また、映画「アンタッチャブル」(1987年)でもアカデミー賞作曲賞にノミネートされましたが、上述したとおり映画「ラストエンペラー」の坂本龍一が受賞しました。その後、映画監督のS.レオーネの死を契機として映画界を去って現代作曲家に復帰しようとしましたが、映画監督のJ.トルナトーレ強い招聘により映画「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988年)で復帰し、映画「海の上のピアニスト」(1998年)、映画「マレーナ」(2000年)等の映画音楽を手掛け、2007年に映画界への多大な貢献と実績が讃えられて米アカデミー名誉賞が授与され、また、同年にはアメリ同時多発テロの犠牲者に捧げたカンタータ静寂の声」(2007年)を国連で演奏して世界的に話題になりました。さらに、映画「へイトフル・エイト」(2015年)でアカデミー賞作曲賞を受賞するなど映画音楽の巨匠の地位を不動なものとする第二期黄金期を築きました。なお、過去のブログ記事でも触れましたが、E.モリコーネは、サンタ・チェリア音楽院で十二音技法を学び、シェーンベルクは主音が絶対的な存在として振る舞う中心がある調性音楽的な世界観(宗教権威、絶対王政)ではなく十二音が形式的に均等に扱われる中心のない無調音楽的な世界観(社会主義+民主主義、形式的平等)を音楽的に体現し、ベルクは十二音が相対的に均等に扱われる中心のない無調音楽的な世界観(自由主義+民主主義、実質的平等)を音楽的に体現していると語っており、音楽は社会と密接に関係しており、第一次世界大戦及び第二次世界大戦を契機としてシェーンベルクやベルクが登場したのは決して偶然ではないと達観しています。また、E.モリコーネは、インタビューの中で「絶対音楽」(発言の趣旨から「純音楽」のこと?「絶対音楽」≧「商業音楽」≠「純音楽」)に優位性を感じて「商業音楽(映画音楽)」を作曲することに抵抗があったそうですが、1970年頃から経済的な理由で映画音楽の作曲に専念するようになり、少し経済的に落ち着いた1980年頃から現代音楽の作曲も再開したと語っています。但し、E.モリコーネは、映画音楽(商業音楽)は懐の広い表現手段であることから、映画音楽を作曲する際も自らの創作意欲に忠実に実験音楽的な要素も盛り込んでおり、「絶対音楽」と映画音楽の垣根を壊すと共に、映像と物語を結び付け、色々なものを融合できるものだとも語っています。この理念は、例えば、映画「ミッション」の映画音楽で西洋、異郷(南米)及び大自然を融合するスケールの大きな音楽に体現されており、E.モリコーネが目指した音楽の理想が示されているようで感動的です。この映画の中では、某映画のワンシーンを使いながら、①映画音楽がない映像、②ピアノ伴奏だけの映画音楽がある映像、③オーケストレーションを施した映画音楽がある映像を対比していましたが、①から③へ進むにつれてまるで絵画が色を帯び、絵画に命が宿る(詩情が込められる)ような感覚を体験できたことは貴重で、E.モリコーネが映画音楽を手掛けた映画は映像よりも音楽を先に思い出すものが多く、如何にE.モリコーネの映画音楽が強烈な印象として観客の心を捉え、映画のイメージを決定付けているのかを示しています。このように観客の心を捉えるE.モリコーネの映画音楽は、現在でも映画音楽以外の様々なジャンルの音楽等に影響を与え続けています。映画「ワンス・アポン・ア・イン・アメリカ」、映画「ミッション」、映画「海の上のピアニスト」等は、その珠玉の映画音楽と相俟って、僕にとっての「生涯の映画」に数えられる名作であり、映画と映画音楽で人生を教えてくれたE.モリコーネに心から感謝すると共に、哀悼の意を捧げたいと思います。
 
 
▼特選コンサート情報
来る2月7日にピアニスト・法貴彩子が「ソナタの魅力と呪縛」と題してベートーヴェンソナタ形式の駆使)、リスト(ソナタ形式の拡張)及びブーレーズソナタ形式の解体)のピアノソナタを採り上げる非常に興味深い演奏会が開催されます。とりわけブーレーズピアノソナタ第2番は演奏至難な曲であり、現状、この曲を演奏できる日本で活動しているピアニストは、東の横綱瀬川祐美子と、西の横綱法貴彩子とに二分されるのではないかと思います。大阪近郊にお住まいの方は聴き逃せません!
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.15
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
マイケル・アベルズの「アイソレーション・ヴァリエーション」(2020年)
イギリス人現代作曲家のマイケル・アベルズ(1962年~)は、映画音楽等でも著名で各種の賞を受賞ている現代作曲家の巨匠です。この曲は、2020年にヒラリー・ハーン(1979年~)が初演していますが、2023年2月に開催される第65回グラミー賞(最優秀クラシック・インストゥルメンタル(ソロ)部門)にノミネートされています。なお、シリーズ「現代を聴く」は1980年以降に生まれた方のみを対象にしていますが、ヒラリー・ハーンの演奏で現代音楽を開眼された方も少なくないと思いますので採り上げます。
 
▼ヤン・イー・トーのフルートとバスクラリネットのための「虹色の影」(2020年)
シンガポール人現代作曲家のヤン・イー・トー(2000年~)は、ヨン・シュー・トー音楽院で作曲を専攻する現役の音大生で、ボストン・ニューミュージック・イニシアチブ(BNMI)が主催する第8回若手作曲家コンクールで優勝している将来を嘱望されている期待の俊英です。同コンクールで優勝したこの曲以外にも面白い作品が多く注目しています。なお、BNMIは現代音楽の演奏機会を創出する国際ネットワークとして米国の大学生が組織したものですが、このような芸術を革新するための取組みにも期待したいと思っています。
 
中村由紀の声楽アンサンブルのための「セッティング」(2022年)
日本人現代作曲家の中橋由紀(1995年~)は、2022年にジュネーブ国際コンクールで第2位を受賞して大変に話題になりましたので、改めて採り上げるまでもなく世界的に著名な現代作曲家です。この動画は、中橋由紀がジュネーブ国際コンクールで第2位を受賞した際の映像ですが、J.S.バッハのカンタータにインスピレーションを受けて作曲された曲です。前回のブログ記事で2019年にジュネーブ国際コンクール作曲部門で優勝した髙木日向子を採り上げましたが、最近、日本の若手現代作曲家の躍進が目覚ましいです。

現代音楽フェスティバル「Cabinet of Curiosities」と第二次量子革命<STOP WAR IN UKRAINE>

▼DXからQXへ(ブログの枕の前編)
前々回及び前回のブログ記事では今年の干支である卯(兎)をモチーフにして、金烏玉兎のコンセプトとデザインの話しから、古典的な暦と時間の話しを経て、革新的な光格子時計と相対性理論の話しへと飛躍しましたが、その蛇(兎)足として、新年に相応しく明るい近未来の展望を示す現在最もホットな第二次量子革命によるDX(デジタル変革)からQX(クオンタム変革)への飛躍に触れてみたいと思います。QXに応用されている量子力学は、1905年にアインシュタインが光量子仮説(金属に光をあてると金属の内部にある電子が光のエネルギーを吸収して金属の外部へ飛び出る光電効果から、光は波であると同時に粒子でもあり「波と粒子の二面性」を持つ量子であること)を発表して古典物理学(分子以上の物体を対象とするマクロの世界を記述するニュートン力学+相対性理論)に対する現代物理学(原子以下の物質を対象とするミクロの世界を記述する量子力学)の礎を築いたことで誕生し、これによって1921年にアインシュタインはノーベル物理学賞を授与されました。それまでは1807年にトーマス・ヤングが二重スリットの実験で光が波の性質(回折や干渉など)と同じ現象を生じることを発見したことから光は波であると考えられていましたが、1905年にアインシュタインが光電効果の実験で光を明るく(即ち、波の振幅を大きく)しても光のエネルギーが増加して光電効果を生じることはなく電子の個数のみが増加するという粒子の性質と同じ現象を生じることに着目し、光は波であると同時に粒子でもあるという仮説を提唱し、現在では光だけではなく全ての物質やエネルギーは量子であると考えられています。この点、原子は原子核(陽子、中性子)と電子から構成されており、波の性質を持つ電子は原子核を取り囲む雲のように広がっていますが(電子雲)、マクロな物体(分子以上)と触れ合うとその相互作用によって波の性質が失われ(波の収縮)、粒子としての電子が現れると考えられています。よって、粒子としての電子は、波の収縮を生じるまでは電子雲のどこに現れるのか確率論的にしか定まらない状態(状態の重ね合わせ)にあり、粒子としての電子の位置が決まると波としての電子の運動方向が定まらず、波としての電子の運動方向が定まると粒子としての電子の位置が定まらないという関係性(不確定性原理)にあると考えられています。さらに、「波の収縮」が生じる前の「状態の重な合わせ」にある量子を分割すると、両方の量子が理論上は宇宙の端から端まで遠く離れていても、一方の量子の状態が変わると他方の量子も状態も瞬時に変化する(量子もつれ)と考えられていましたが(アインシュタインは「不気味な遠隔作用」と表現)、アメリカ・クラウザー研究所のクラウザー博士及びパリ・サクレー大学のアスペ教授は実際に量子もつれが存在することを実験で証明することに成功し、また、ウィーン大学のツァイリンガー教授は量子もつれを利用して片方の量子に埋め込んだ情報がもう片方の量子に瞬時に伝わること(量子テレポーテーション)を実験で証明することに成功して量子コンピューター、量子暗号や量子通信等の研究開発を行う量子情報科学という新しい学問分野の開拓に貢献したことから、2022年にこの3人の学者にノーベル物理学賞が授与されています。現在、地球と土星との間の通信は片道約80分を要しますが、量子もつれを通信技術に応用できればリアルタイム通信が可能になり、アルテミス計画を嚆矢とするこれからの宇宙開発時代には不可欠の技術になると期待されています。さらに、波の性質を持つ電子は壁などをすり抜ける現象があり(トンネル効果)、江崎玲於奈博士は半導体(個体)におけるトンネル効果が存在することを実験で証明することに成功して、1973年にノーベル物理学賞を授与されています。このようにミクロの世界は波と粒子の二面性、状態の重ね合わせ、不確定性原理、量子もつれ、トンネル効果など、人間の認知能力が及ぶマクロの世界の常識では理解できない不可思議な現象があることが分かっていますが、これらの研究成果が様々な技術開発に応用され、実用化されています(後述)。現代は、自分が認知し又は理解し得る範囲が世界の全て又は真実であるとは限らないという謙虚さを持ち、これまでの常識に囚われることなく世界観を広げて行こうとする柔軟さが求めらえており、過去のブログ記事でも触れましたが、これは芸術表現や芸術受容の態度にも言えることではないかと思います。なお、来る2月17日(金)に量子の世界観を描いた映画「アントマン&ワスプ:クアントマニア」(第3作)が公開される予定なので、映画「アントマン」(第1作)及び映画「アントマン&ワスプ」(第2作)と併せて量子の世界観を体験してみませんか。因みに、同日にジャズを題材とした人気マンガを映画化した「BLUE GIANT」も公開されますので、こちらも見逃せません。
 
 
▼量子コンピュータと近未来予想図(ブログの枕の後編)
20世紀前半に光量子仮説や状態の重ね合わせの研究によって量子力学が確立し、その研究成果はセシウム原子時計(前回のブログ記事)、半導体、レーザーや太陽光発電等の技術開発に応用され(第一次量子革命)、パソコン、スマートフォン、CD・DVD、レーザー加工、レーザー治療や太陽光パネル等として実用化されてSociety4.0(情報社会)を実現しましたが、20世紀後半に量子もつれや量子テレポーテーションの研究によって量子力学が深化し(上述のとおり2022年にノーベル物理学賞が授与)、その研究成果は量子コンピュータ、量子暗号や量子通信等の技術開発に応用され(第二次量子革命)、数年内の実用化が期待されています。この点、前回のブログ記事で触れたSociety5.0(超スマート社会)の進展に伴ってデータの容量や種類は急激に増加し、その高度利用に伴う複雑なデータの処理等も予想される一方で、「古典コンピュータ」(1949年に誕生した2進法を使ってデータを逐次処理する現在のノイマン型コンピュータ)の性能向上は限界を迎えていると言われており(ITRS2015:ムーアの法則の限界)、量子力学を応用した次世代の「量子コンピュータ」の実用化が期待されています。日本は世界の中でもDX化が大幅に出遅れていますが(スイスの国際経営開発研究所が毎年公表している世界デジタル競争力ランキング2022によれば、日本のデジタル競争力は世界63ケ国中で29位(アジア14ケ国中でも8位)、2021年:28位、2020年:27位と低迷)、日本が遅々としているうちに、世界の関心はDXの次のQXへと移り変ろうとしています。古典コンピュータは、トランジスタで電圧のオンとオフを切り替えて、データを「0」(電圧低)又は「1」(電圧高)のどちらかの状態で表現(バイナリ・ビット)して2進法で「演算」(数式に従って1つずつの数値を処理)しますが、2つ以上の状態を同時に表現することはできません。これに対し、量子コンピュータは量子力学の「状態の重ね合わせ」「量子もつれ」「トンネル効果」などを応用して、データを「0」又は「1」のどちらかの状態に加えて「0と0の重ね合わせ」「0と1の重ね合わせ」「1と1の重ね合わせ」など2つ以上の状態を同時に表現(量子ビット)して並列的に「計算」(複数の演算を同時に行って1つの結果を導き出す処理)することなどが可能です。例えば、古典コンピュータが4バイナリビットで同時に表現できる状態は1通りしかありませんが、量子コンピュータが4量子ビットで同時に表現できる状態は16通りもあり、古典コンピュータを使えば、この16通りの状態を16回の演算で処理する必要がありますが、量子コンピュータを使えば、この16通りの状態を1回の計算で処理することができますので、計算プロセスを大幅に減らすことが可能です。2019年にGoogleが量子コンピュータを使ってスーパーコンピュータ(最も性能が良い古典コンピュータ)でも約1万年を要する複雑な問題を僅か約3分20秒で解いたというニュースが世界中を駆け巡り、古典コンピュータでは実用可能な時間内で解けない複雑な問題を量子コンピュータでは実用可能な時間内で解ける能力を有していること(量子超越性)が実証され、量子コンピュータの開発競争に拍車がかかっています。
 
▼物理と西洋音楽に見る「古典」と「現代」の相似的な特徴
あらゆる分野で人間中心主義的な考え方(偏在的な価値観)が限界を迎え、自然尊重主義的な視点(普遍的な価値観)を見直すことでその限界を超越しようとしています。
コンピュータ 特徴 音楽
古典コンピュータ
(古典物理学)
バイナリ
ビット
(デジタル)
人工的
確定的
制限的
クラシック音楽
(調性、確定性、全音、十二平均律等)
量子コンピュータ
(現代物理学)
量子
ビット
(アナログ)
自然的
不確定的
包含的
現代音楽
(無調、不確定性、微分音、スペクトル等)
※量子コンピュータは超電導回路、イオントラップ、半導体(電子スピン)、フォトニクス(光)や冷却原子等から量子ビットを生成し、量子ゲート方式(量子ゲートで量子ビットを操作して論理的に計算する汎用型量子コンピュータ/IBM、Google、Intel、日立、理化学研究所等が開発)と量子アニーリング方式(量子ビットを利用してメタヒューリスティックに最適化問題を解く特化型量子コンピュータ/D-Wave、NTT、NEC等が開発)の2方式が主流です。
※量子コンピュータは量子ビットがノイズの影響を受け易く計算の失敗が多いことから量子ビットの数を制限せざるを得ないという課題に直面していますが、現在、量子ビットの誤りを訂正できる「誤り耐性量子コンピュータ」(NISQ)の開発が進められており、Googleのロードマップでは2029年までにNISQが完成する予定です。これに対し、日本の統合イノベーション戦略推進会議のロードマップでは2040年頃にNISQが完成する見通しになっており、DXだけではなくQX(量子コンピュータの開発競争)でも遅れをとっています。
 
▼社会と西洋音楽の革新の歴史
精神革命による宗教の台頭(→宗教権威/神による支配)を契機として教会音楽が誕生し、ルネサンスの勃興(→絶対王政/人による支配)を契機として調性音楽が誕生し、世界大戦の勃発(→国民主権/法による支配)を契機として無調音楽が誕生しています。
社会 革命 音楽
Society1.0
(狩猟社会)
認知革命(人類の世界拡散) 古代
音楽
Society2.0
(農耕社会)
農業革命(文明の誕生)
精神革命(宗教・芸術の誕生)
科学革命(ルネサンス)
古典物理学
教会
音楽

調性
音楽

Society3.0
(工業社会)
第一次産業革命(蒸気機関)
第二次産業革命(石油、電気)
現代物理学
無調
音楽
Society4.0
(情報化社会)
第三次産業革命(コンピュータ、デジタル、インターネット)
第一次量子革命
Society5.0
(超スマート社会)
第四次産業革命(AI、バイオテクノロジー、量子技術、マテリアル)
第二次量子革命
 
現在、量子コンピュータは、古典コンピュータ(AI、IoT、ビックデータ、クラウドなど)を組み合わせたハイブリッド・コンピューティング等により渋滞回避、CO2削減、エネルギー安定供給、サプライチェーン構築、防災減災、情報セキュリティ対策、食料自給率改善、労働力不足や少子化対策など、様々な分野の社会課題を解決して世界を最適化することが期待されています。例えば、渋滞を回避するために3つのルートを選択できる車が30台あると仮定すると、その選択肢の組合せは約200兆通りにのぼりますが、これを瞬時に計算して最適なルートを選択することは古典コンピュータには不可能なので量子コンピュータ(50量子ビットで約1100兆通りの組合せを瞬時に計算して最適解を導き出すことが可能であり、近い将来、NISQが実現すれば100万量子ビット以上を実装可能)が必要になります。また、量子コンピューター以外にも量子力学を応用した技術開発として、上述した①量子暗号・量子通信(暗号資産のハッキング盗難防止、宇宙通信等)、②量子計測・量子センシング・量子シュミレーション(完全自動運転、診断医療、スマート生産、新薬開発等)、③量子マテリアル(トポロジカル、スピントロニクス、エネルギー変換、ナノデバイス、高性能電池等)、④量子ビーム(スマート生産、高度医療、量子生命学等)などの分野が注目されており、Society5.0(超スマート社会)を実現して大きな社会変革をもたらすと考えられています。今後、技術面や資金面の問題から量子技術の開発が停滞すること(量子の冬)を懸念する声もありますが、前回のブログ記事でも触れたとおり、日本はSociety5.0(超スマート社会)を実現するために量子コンピュータの開発をはじめとする量子技術の社会実装(QX)等に向けた計画「総合イノベーション戦略2022」を策定して産学官が連携して精力的に取り組んでおり、欧米は量子ゲート方式の量子コンピュータ、中国は量子暗号・量子通信、日本は量子アニーリング方式の量子コンピュータを中心にして加速度的な開発競争が繰り広げられています。2023年も量子コンピュータ国際会議「Q2B」がパリ(5月)、東京(7月)及びシリコンバレー(12月)で開催される予定なので、その議論の行方が注目されています。このように世界はダイナミックに変革しており、その世界を表現する芸術表現や芸術受容にも革新の風潮が生まれ始めています。このような社会変革の潮流の現れなのか、2022年度第60回レコード・アカデミー賞で現代音楽作品が大賞を受賞したことは時代の転換点を象徴する出来事であると思います。
 
 
▼Cabinet of Curiosities 2022「New Performative Music」
【演目】①中心はどこにでもある(2012年)
      <作曲>クリスティーヌ・ヒョーゲション 
    ②のの字(2012年)
      <作曲>渡辺裕紀子
    ③Dro(世界初演)
      <作曲>宗像礼
    ④奇妙な秋(日本語版世界初演)
      <作曲>スティーブン・カズオ・タカスギ
    ⑤境界線(2009年)
      <作曲>ハンナ・ハートマン
    ⑥ハロー(2014年)
      <作曲>アレクサンダー・シューベルト
【演奏】<Sop>太田真紀
    <Vn>白小路紗季
    <Per>沓名大地、安藤巴、茶木修平
    <Gt>山田 岳
    <El>佐原洸
【司会】宗像礼、森紀明、渡辺裕紀子、小出稚子ほか
【会場】ドイツ文化会館
【日時】12月24日(土)18時~(オンライン配信12月30日(金)~)
【一言感想】
毎年、年末年始のテレビ番組と演奏会はお節料理よろしく食指が動かないものばかりになってしまいますが、昨年末、2000年以降に創作された現代音楽を若手演奏家の演奏によって紹介するという非常に興味深い現代音楽フェスティバルが開催されましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。なお、この現代音楽フェスティバルは12月24日(テーマ:新しい音楽*パフォーマンス)及び25日(テーマ:新しい音の世界地図)の2日間に亘って開催されましたが、非常に演目数が多いので、12月24日公演の感想のみを残しておきたいと思います。なお、この現代フェスティバルを主催した現代作曲家の渡辺裕紀子さんがパンフレットに示唆に富むことを書かれていたので、その一部を抜粋引用すると「作曲家=演奏家であった時代を経て、この二つの役割は分業化・・(中略)・・近年その流れに変化があり、作曲と演奏(と、それを越えたパフォーマンス)を兼任する音楽家が多く誕生」している現状を指摘したうえで「自然を人間尺度で計り、区別し、取り壊し、人工物を構築してきたように、音楽の世界の中でも本来地続きであるものを分割し、パーツ化することで時間を構築し、更に境界線に分けられた分岐に従ってそれらを理解してきた歴史」を振り返り「パフォーマティブな音楽から投げかけられている境界線への問いかけは、音楽だけではなく社会そのものを新たな視点で見つめ直すきかけになる」と指摘されている部分は正しく慧眼です。上述のとおり現代物理学と現代音楽は同じ世界観を共有するようになっており、今後、この不可逆的な時代の流れは加速度的に進展するものと思われますので、新しい時代を表現するのに相応しく、現代の知性を前提として現代人の教養を育み得る新しい音楽が益々求められるようになっていると思います。
 
①中心はどこにでもある
この曲はB.パスカルの「自然は無限の球体であり、その中心はどこにもあり、その限界はどこにもない」という言葉から曲名が付けられたコンセプチャリズムの音楽です。C.ダーウィンの「(生命は)この惑星が重力の法則に従って回転している間に生命の起源から多様な系統に進化してきた」という言葉がナレーションとして挿入され、また、BBCドキュメンタリー「ディビット・アッテンポロー、生命の起源」から「化石は地球上で最もロマンチックなものだ・・・」という趣旨のテキストと映像が引用されており、生物の多様な進化の過程(過去の時間)が封印された化石を紐解くロマンが綴られ、生物の進化の壮大な物語へと誘われるような曲です。先ず、横置きにしたバスドラムのフロントヘッドの上で懐中電灯に照らされた円盤がくるくると回りますが、光と共に生命が誕生する神秘的な世界が表現されているようです。次に、上述のC.ダーウィンの言葉がナレーションとして挿入された後、フロアタムやスネアドラムのバターヘッドに張られた糸を叩く又は擦る、ハーモニックパイプを回す、口笛を吹くなど様々な音を奏しながら、生命のビックバンと言われるカンブリア紀の生物の多様な進化が描写されているようです。やがてディビット・アッテンポローが化石を手にしながら解説している上述のBBCドキュメンタリーの無声映像が流れるなか、フロアタムのバターヘッドに張られた糸を叩く、ギロを擦る、ハーモニカを吹く、音叉を鳴らすなど映像に合わせて様々な音を奏でながら、化石の発掘とそこに封印されている多様に進化した生物の不思議が表現されているようです。過去のブログ記事でも触れましたが、人間は地球上の植物の約10%しか把握しておらず、その約10%の植物種から薬の成分の90%以上を生成していますが、コロナ禍(現在の生物学の定義ではウィルスは生物には分類されませんが、ウィルスは変異を繰り返しながら環境に適用して行く知性を備えている生物的な存在です。)にあって、人間はバイオダイバーシティのごく一部(地球上には約3000万種と言われる生物の多様性とその生態系があり、このうち人間が把握できている生物種は僅か約175万種)しか垣間見ていませんが、それらの全ての生物種(及びウィルス)が1つの環境世界を構成しているということを謙虚に考えさせられる作品です。
 
②のの字
この曲は2012年に某ワークショップで創作されたものだそうですが、演奏中に演奏者が楽器を解体して行くというパフォーマンスを採り入れた不確定性の音楽で、プログラムに図形楽譜(イラストと説明文が付されたスクリプト)の一部が抜粋されており、それがどのように解釈され、実演されるのかを視聴(体験)する楽しみがあります。プログラムには「モノ/モノを消費する人間、楽器/その楽器を使う演奏家という枠組みを超えて、モノが人になり人がモノになる瞬間を音楽を通して表現」というテーマが解説されていますが、人類の歴史は道具等(楽器を含む)を発明して身体機能を拡張することで繁栄してきましたが、前回のブログ記事でも触れたとおり、近年では脳、機械及び人工知能(AI)を接続したブレイン・マシン・インターフェイス(BMI)の開発が盛んになり機械の身体化(モノが人になる)、身体の機械化(人がモノになる)が進んでいますので、そのような現代の時代性を音楽的に表現した作品と言えそうです。舞台には3つのフロアタムが置かれて3人の打楽器奏者が登場しますが、冒頭、フロアタムのバターヘッドの上にハンカチで曲名の「のの字」を書きます。パンフレットに曲名の意味に関する改題がなく想像の域を出ませんが、連体助詞「の」は2つの名詞を結び付ける機能を持ちますので、上述のテーマを抽象的に表現したものではないかと思われます。その後、フープのテンションボトルをカタカタと鳴らしたり、ボトムヘッドを顔に押し当てカサカサと音を出したり、通常のフロアタムの演奏では聴くことがない音を発しながら楽器を解体し、シェルの中に頭を入れてフロアタムの内側から様々な音を発することで人とモノの境界を越えて行こうとする不思議な作品です。過去のブログ記事でも触れたとおり、近年では有機的生命体の細胞構造に囚われることなく人工知能(AI)等から無機的生命体を創り出す「人工生命」(Alife)という研究分野が注目を集めていますが、人間の身体機能の拡張と無機的生命体との関係性について考えさせられる作品です。
 
③Dro
この曲には世界的に有名なスウェーデンのリセベリ遊園地に行ってジェットコースター「ヴァルキュリア」に乗りたい旨の短い解説が付されていますが、この曲趣とどのような関係にあるのかは明瞭ではなく、それが聴衆のイマジネーションを誘う効果を生んでいるようにも感じられます。プログラムに図形楽譜(イラストと説明文が付されたスクリプト)の一部が抜粋されており、打楽器奏者が横置きにしたバスドラムにゆっくりと歩み寄ってそのフロントヘッドに豆を注ぎ入れたら足早に離れ、再び別の豆を持ってバスドラムに歩み寄るという指示が記されていていますが、さながらジェットコースターで繰り返される緩急の運動(エネルギーの集積と解放で作られる世界)を抽象的に表現しているようで興味深かったです。フロアタムの上に棒ささらを立て擦る又は叩く、フロアタムの上に皿を置いて叩く、フロアタムの上に金属で出来た球状の縦格子を置いて撫でる、ヴァイオリンの絃を縦方向に擦る又は弦を押さえる左手の上を弓で擦る、リコーダーのヘッド部分を吹くなど様々な音を生み出していますが、遊園地又は日常の喧騒(音環境)を構成する1つ1つの音にフォーカスし、その音のイメージを表現したものかもしれません。
 
④奇妙な秋
この曲はヴィーラント・ホーバンの2つの言語で書かれた詩に着想を得て創作されたものですが、原詩(通常は奇数面側)と訳詩(通常は偶数面側)という異質な世界がページの継ぎ目でつなげられ、それが読書を超越した1つの世界観を提示しており、それらを切り離して読書の世界へ引き戻そうとしても原詩又は訳詩の喪失による不確実性の状態が現れるという趣旨の解説と共に「私たちが存在と呼ぶ難問の内側に入り込むことに成功」という意味深長なコメントが付されています。これは、量子力学の「状態の重ね合わせ」と「不確実性原理」の世界観を表現したものではないかと個人的には解釈しています。英語と日本語による詩の朗読(実演と録音)が重なり合いながらその言葉が持つ意味という属性を失い、それはカサカサと音を立てる紙(異質な世界をつなぐ場)の変化によっても表現されているようです。やがてその詩の朗読と紙の変化は収束して長い沈黙が訪れますが、さながらジョン・ケージの4分33秒を彷彿とさせる不確実性の世界が表現されているようです。再び、その詩の朗読と紙の変化が再現されますが、2つの言語で書かれた詩から「波と粒子の二面性」という全ての存在(物質とエネルギー)の本質に迫る表現のように感じられ、非常に興味深い作品でした。
 
⑤境界線
この曲には解説が付されていませんが、寧ろ、様々な解釈を許容する懐の広い作品ということなのかもしれません。植木鉢の淵を指で撫でる、植木鉢を机の上で回す、長い針金で鉄、木や植木鉢を擦る、長い針金に五円玉を通して落とす、ヴァイオリンの弓を弦に置いて撫でるなど、様々な摩擦音をマイクで収音して聴かせる作品です。この点、過去のブログ記事で触れましたが、摩擦音は物体と物体が擦れ合うことで振動(電子の反発)を発生し、その振動が「空気」を伝わって人間の聴覚で知覚されると、その振動が電気信号に変換されて脳に伝わり「音」を認知(即ち、脳内で「音」を作り出)しています。摩擦音は物体と物体の境界(厳密には気体の境界を含む)で発生するものであり、それよって異質な物体の存在を区別するプロセスであると同時に、それは境界を接する物体同士が結合するアプローチであると言えるかもしれません。お互いが触れ合うことでお互いの違いを認識し、1つに調和するプロセスが始まるという意味でコミュニケーションの本質について考えさせられる作品です。なお、全ての物質やエネルギーは量子からできていると考えらえていますが、物体を伝わる音はフォノン(粒子)であると考えられておりその研究が進められています。因みに、過去のブログ記事で触れましたが、植物は「土壌」を伝わる振動を知覚してコミュニケーションをとっており、低周波の振動が植物の生育に良い影響を与えることから音響農学に活かされています。
 
⑥ハロー
この曲は作曲家が自宅のリビングで撮影したジェスチャーや文字(HALLO、JAZZ、AND、※)等から構成される映像を投影し、それを演奏者が解釈して演奏する映像楽譜を兼ねたオーディオビジュアル作品です。JAZZの即興性やポスト・クラシカルのビジュアル性等を採り入れ、作曲家の演奏的な行為、演奏家の作曲的な行為が呼応しながら1つの世界観を描くユニークな内容になっており、芸術表現の来し方行く末を考えさせられる面白い作品でした。前回のブログ記事でも触れましたが、現在のクラシック音楽界の行き詰まりは作曲家と演奏家を分離し、楽譜至上主義という呪縛(近代主義的な硬直化した価値観)に囚われて新しい芸術表現を顧みない体質に陥り芸術表現の幅を狭めたことに原因の1つがあるのではないかと感じます。同じことは、世阿弥や金春善竹の名作ばかりを上演して新作能に挑戦する機運(世阿弥曰く「能の本を書く事 この道の命なり」)が余り感じられない能楽界にも言えるのではないかと感じます。映画「犬王」を観ながら、某人間国宝の「「伝承」とは昔から伝えられてきたことをきちんと守ることですが、「伝統」とはその時代の人間が最も新しい事にチャレンジしてきた連続であって、伝統とは革新です。」という言葉が持つ重みを感じたことを思い出しますが、若手の現代作曲家や現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家の活躍と共に、「伝統」をアップデートする若手の能楽師の挑戦に期待したいです。
 
▼Cabinet of Curiosities 2022「New Musical Atlas」
【演目】①ウィリバルト・モーター・ランドスケープ(2012年)
      <作曲>エイヴィン・トルヴン
    ②ほとんどト調の(2016年)
      <作曲>クリスティアン・ヴィンター・クリステンセン
    ③ベルリンのジョン・ホワイト(2003年)
      <作曲>ローレンス・クレイン
    ④自己実験、他者(2013年)
      <作曲>マルティン・シュットラー
    ⑤形(2012年)
      <作曲>エリック・バブルズ
【演奏】<Con>馬場武蔵
    <Sop>太田真紀
    <Fl>齋藤志野
    <Cl>キュサン・ジョン
    <Per>沓名大地
    <Pf>大瀧拓哉
    <Gt>山田岳
    <Vn>松岡麻衣子
    <Vc>下島万乃
    <El>佐原洸
【司会】宗像礼、森紀明、渡辺裕紀子、小出稚子ほか
【会場】ドイツ文化会館
【日時】12月25日(日)17時~(オンライン配信12月30日(金)~)
【一言感想】
上述のとおり2日間の公演で非常に演目数が多いので、紙片の都合から12月24日公演の感想のみを残しておきたいと思いますが、12月25日公演の演目と演奏家を記録として残しておきたいと思います。現状、現代音楽と聴衆の橋渡しをしてくれる演奏家やメディアの数は非常に少なく、現代音楽と聴衆が出会う機会は極めて限られているのが現状であり、それが現代音楽の晩婚化傾向を深刻なものにしている状況を歯痒く感じます。政府の少子化対策と同じく新しい芸術文化を育む対策も必要であり、例えば、文化庁が音頭をとって現代音楽のアーカイブ配信動画等をアップし(海外ではコンテンポラリー作品のアーカイブコレクションを提供しているWebサイト等があります。)、いつでも聴衆が有料又は無料で視聴できるプラットフォーム(現代作曲家やその演奏家にお金が落ちる仕組み)を提供するなど、単に助成金をバラ撒くのではなく将来につながる支援の形態等も検討して良いのではないかと感じます。
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.14
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼ジョン・アダムズのピアノ協奏曲「悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか?」(2018年)
アメリカ人の現代作曲家のジョン・アダムズ(1947年~)は、ポスト・ミニマリズムの巨匠でピューリッツァー賞(2003年)を受賞するなど著名な現代作曲家です。この曲は、ロサンゼルス・フィルハーモニックの委嘱作品によりピアニストのユジャ・ワン(1987年~)のために作曲されたものですが、2022年12月22日にBPOのデジタルコンサートホールでも配信されて話題になっています。ユジャ・ワンは現代音楽のレパトリーが多く積極的に演奏会で採り上げているので、今後も目が離せません。
 
▼アダム・シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲「霧の果樹園」(2018年)
アメリカ人の現代作曲家のアダム・シェーンベルク(1980年~)は、吹奏楽の作曲で定評があり、グラミー賞に2度のノミネート経験があるなど最も注目されている俊英です。この動画は、2018年にこの曲が世界初演された際の映像ですが、冒頭からヴァイオリン独奏のアン・アキコ・マイヤーズによる繊細で肌理細やかな情感表出が瑞々しく響き、サミール・パテル指揮@サンディエゴ交響楽団がヴァイオリン独奏に豊かな彩りを添える好サポートで、早速、この曲の決定版とも言えるような好演を聴かせてくれています。
 
▼髙木日向子のオーボエとアンサンブルのための「瞬間(L'instant)」(2019年)
日本人の現代作曲家の髙木日向子(1989年~)は、2019年にジュネーブ国際コンクール作曲部門で優勝して大変に話題になりましたので、改めて採り上げるまでもなく世界的に著名な現代作曲家です。この動画は、高木日向子がジュネーブ国際コンクールで優勝した際の映像ですが、画家・高島野十郎作「蝋燭」からインスピレーションを受けて作曲された曲です。次回のブログ記事で2022年にジュネーブ国際コンクールで第2位を受賞した中橋由紀を採り上げる予定ですが、最近、日本の若手現代作曲家の躍進が目覚ましいです。

新年の挨拶(その2)と人工知能美学芸術展「演奏家に指が10本しかないのは作曲家の責任なのか」<STOP WAR IN UKRAINE>

 
▼時をかける兎と世界の新年(ブログの枕の前編)
謹賀新年!「新しき 年の始めに かくしこそ 千歳を重ねて 楽しきを積め」(詠み人知らず/古今和歌集)と詠まれているとおり、未だWHOからパンデミック終息宣言はありませんが、今年は人生を楽しむための年にしたいと思っています。前回のブログ記事で「金烏玉兎」とは日を象徴する烏と月を象徴する兎を掛けて月日(歳月)を意味する言葉であることに触れましたが、そこから月日(歳月)が早く流れる喩えとして「兎走烏飛」という言葉が生まれており、文字通り時をかける兎と言えそうです。この点、過去のブログ記事でも触れましたが、紀元前1万年頃の農業革命に伴って農作物の安定的な生産に必要となる季節の周期性(時間の流れ)を正確に把握するために古代エジプトで紀元前6000年頃に太陽の運行(昼間)や月・星の運行(夜間)を基準にして季節を測る「暦」の概念が発明されます。その後、紀元前3500年頃にオベリスク(ホワイトハウスにも建てられている方尖柱)が影を落とす位置を12分割(時分秒のうちの時)したことで「時間」の概念が発明され、やがて昼間だけではなく夜間も12分割して1日を24分割する考え方(時分秒のうちの時)が確立しますが、太陽の運行や月・星の運行を基準にしていたので未だ不定時法(季節によって日出から日没までの時間の長さが伸縮するので、それを分割する1時間の長さも伸縮)でした。なお、人間が物体を測る単位は自然の法則や人体の部位(インチ:親指の幅、スパン:親指と小指を張った長さ、フィート:足の爪先から踵までの距離など)を基準としたものが多く、古代エジプトで12進法が採用された理由も月が約30夜の周期(年月日のうちの月)で満ち欠けを繰り返してその周期の12回目(年月日のうちの年)で同じ季節に戻ること、親指の先で残り4本の指の関節を数えると12になり数え易いことや12は2・3・4・6と約数が多く便利な数字であることなどがあると言われています。しかし、太陽の運行や月・星の運行を基準にして時間を測る方法では悪天等に時間を測ることが難しくなるため、様々な環境下でも時間を測ることができる方法が考案され、水桶の漏水を利用する水時計(日本の時刻制度と所縁が深い近江神宮の境内にある日本で利用された水時計「漏刻」)、蝋燭や線香の燃焼を利用する火時計(抹香を使って香りで時間をデザインする香時計)(近江神宮時計宝飾眼鏡専門学校を設けて時計職人等を養成している近江神宮の境内にある古代中国で使用されていた古代火時計)や氷が張る冬期でも利用できて繰り返し使える砂時計等が開発されました。その後、1300年頃にイタリアでルネサンスが勃興すると、イタリアで錘を利用した機械式時計が発明されますが、その錘を吊るすためにある程度の高さが必要であったことから教会や宮殿等に機械式時計が設置されるようになり(現存する中で世界最古のソールズベリー大聖堂の塔時計)、これに伴って1日を均等に24分割する定時法に移行しました。それまで「時」は神(太陽)が支配するものと考えられ、毎日のミサを時間通りに行わなければならないというキリスト教の戒律を遵守するために時計が必要とされましたが(ミレー作「晩鐘」は遠景に教会が描かれており日本の暮れ六つの鐘と同様に日没を迎える午後6時の晩鐘に合わせて農民夫婦が晩課の祈祷を行う様子を描いたもの)、機械式時計の発明によって「時」は人間(機械)が支配するものと考えられるようになりました。やがて1530年頃にゼンマイで動く小型で携帯が可能なゼンマイ式時計が発明され、また、1583年にガリレオ・ガリレイが振り子等時性の法則を発見し、それを応用した小型で軽量の振子時計が発明されると一般家庭にも時計が普及して生活の中で時間が意識されるようになりました。それまでの時計は時間の精度が低く大まかな時間を示す時針しかありませんでしたが、振子時計の発明によって時計の精度が格段に向上したことから1時間を60分割した「分」や1分間を60分割した「秒」という単位が生まれて分針及び秒針が追加されて(「分」や「秒」の単位では60進法が採用されていますが、ガリレオが手首の脈拍を測りながら振り子等時性の法則を発見したので人間の平均的な脈拍数1時間約3600回(60分*60秒)が基準とされたことや、60は2・3・5・6・10・12・15・30と約数が多く便利な数字であることなどがあると言われています)、これにより天体観測の精度が向上したことでケプラーの法則が発見され、ニュートン力学(古典物理学)が大成する契機になりました。なお、過去のブログ記事でも触れましたが、日本では明治改暦により江戸時代までの不定時法(映画「天地明察」)から定時法に変更されたことで、江戸時代まで時間にルーズだった日本人に厳格な時間意識が芽生えたと言われています(書籍「遅刻の誕生」)。現代では協定世界時を基準として世界各地の標準時が定められていますが、昔のヨーロッパでは「日没」を1日の終わりと捉え、そこから次の1日が始まる感覚があったので、クリスマスイブはクリスマスの前日(前夜)ではなくクリスマスの当日という意識で祝うのに対して、日本では「日出」を1日の始まりと捉えますのでクリスマスイブはクリスマスの前日(前夜)という意識で祝うという時間感覚の違いがあると言われています。また、暦は太陽の運行(昼間)や月・星の運行(夜間)など自然の法則を基準にして作られていますので、西暦(グレゴリオ暦、太陽暦)を採用する国でも宗教や風習と結び付いて独自の暦(日本の節句、雑節、二十四節気、七十二候、六曜等を含む)が残されています。例えば、イスラーム諸国では公式の暦は西暦を利用していますが、これとは別にヒジュラ暦(太陰暦)を利用してイスラム教の宗教行事や祝休日を定めています。また、中国では新暦(太陽暦)の正月に加えて旧暦(太陰太陽暦)の正月(春節)を祝う風習があり、カンボジアでは新暦(太陽暦)の正月、旧暦(太陰太陽暦)の正月(春節)に加えて仏暦(太陰暦)の正月(クメール正月)を祝う風習がありますので、1年に3回も正月がやってくる芽出度い国です。このように人工的に作られた時間(定時法)とは別に、旧暦は世界各国の独自の文化と結び付いて現代にも息衝いています。因みに、日本の正月は、除夜の鐘を聞きながら年越し蕎麦(細く長い麺に肖って長寿を願い、よく切れる麺に肖って厄を断ち切る縁起物)を食べるという風習がありますが、スペインではマドリードのプエルタ・デル・ソル広場にある時計台が元旦の午前0時に鳴らす12回の鐘の音に合わせて12粒の葡萄を食べ切ると幸福になれると言われており、年末になると年越し葡萄(12粒の種無し葡萄)が売られています。アメリカでは家に親戚や友人が集まってパーティーを開き、旧友と酒を酌み交わしながら昔語りに花を咲かせようという内容のスコットランド民謡「オールド・ラング・サイン」(日本では「蛍の光」の原曲として知られていますが、原曲は「蛍の光」のような辛気臭い歌ではありません。スコットランドでは第2の国歌と言われ、ハイドンベートーヴェン等も編曲しています。)を歌います。これに対してイスラム諸国ではイスラム教の戒律によって新年を祝う風習はありません。ブラジルでは平和の象徴である白い服を着て海に入り波を回飛び越えながら大願成就を祈るという風習があり、また、エストニアでは食事を1日に回摂りながら食の恵みを祈るという風習があるなど、世界各国で正月の捉え方や過し方(風習)は様々です。この点、世界中でという数はラッキーセブンとして親しまれており、(これは野球に由来するという俗説もありますが)昔から天地創造の7日間や7つの大罪など特別な数として使われ、また、日本でも七福神や七草粥など縁起の良い数として使われていますが、アメリカ人認知心理学者のジョージ・ミラー博士は人間の短期記憶の限界が7個(プラス/マイナスで2個前後の個人差)であることを発見して人間の認知能力にとって7は特別な数(マジカル・ナンバー)であるという研究結果を発表しており、このために切りの良い数として7が好まれてきたと言えるかもしれません。なお、日本では虹の色は7色とされていますが、これに対してアメリカやイギリスでは6色、ドイツや中国では5色、インドネシアでは4色とされており、文化圏によって虹の色に対する認識は異なっています。しかし、インドでは日本と同じく7色とされていますので、僕らのヒーローであった愛の戦士レインボーマンに破綻はありません。これはインドでは仏教の考え方(天部と六道から構成される7つの世界観)の影響があり、日本では色彩を意味する言葉(和名)が多く微妙な色彩の違いを認知し易いことに由来しているのではないかと言われています。因みに、1976年からLGBTのシンボルとして使われているレインボーフラッグは6色(当初は8色)で、過去のブログ記事で人間の視覚と認知の関係について簡単に触れましたが、上述のとおり宗教や風習と結び付いた暦(正月の捉え方や過ごし方を含む)だけではなく虹の色に対する認知も多様です。人間は自分が認知している世界は客観的な世界であって、その世界を支配する絶対的な秩序があると信じたがる傾向がありますが、近年の科学技術の進歩に伴って人間が認知している世界は脳が創り出す主観的な世界であって、その世界は相対的な関係性によって定まっていることが理論的だけではなく実証的にも解明されてきており、人間の世界に対する認知は大幅に更新されようとしています。近代以前のクラシック音楽は前者の世界観を前提として創作されてきたものですが、これからは後者の世界観を前提として創作される現代音楽に対する期待が益々高まってくると思います。
 
▼ノルウェー人現代作曲家のハラール・セーヴェルー(~1992年)のピアノのための抒情的小品「兎と狐」(1960年)
 
▼光格子時計と相対性理論(ブログの枕の後編)
今年の干支である卯(兎)をモチーフにして、金烏玉兎のコンセプトとデザインの話し(前回のブログ記事)から、古典的な暦と時間の話しを経て、革新的な光格子時計と相対性理論の話しへと飛躍してみたいと思います(シナプス可塑性の事始め)。上述のとおり、人類は農作物の安定的な生産のために暦や時間という概念を発明し、自然の法則(暦=地球の公転、時間=地球の自転)を基準にして時間を計測してきましたが、前回のブログ記事で記載したとおり現在も地球の自転は潮汐摩擦等によって徐々に遅くなっており、精度が高い時間の計測が困難でした。そのために機械式時計が発明され、17世紀後半に開発された振子時計は約5分に1秒の誤差、20世紀前半に開発されたクオーツ時計は約1年に1秒の誤差、20世紀後半に開発されたセシウム原子時計は3000万年に1秒の誤差と精度を飛躍的に向上してきましたが、21世紀前半(2014年)に東京大学の香取教授が約300億年(宇宙の歴史は約138億年)に1秒の誤差しか生じない光格子時計を開発し、2026年に開催される予定の国際度量衡総会において新しい1秒の定義(現在はセシウム原子が約92億回振動する間を1秒と定義)として採用される可能性が高いと考えられています。一般人の感覚では、これほど精度の高い時計は必要ないのではないかと疑問に思われますが、現在、光格子時計はSociety5.0を実現するための基盤技術として大変に注目されており、例えば、GPSと比べて高い精度で地殻変動等を計測することができることから地震予知、噴火予知や地下資源探索等での活用が検討されています。ところで、サルバトール・ダリは「記憶の固執」(1931年)で相対性理論の時空の歪み(空間が歪んで停止した状態の現在の時計と過去の時計)を描いたという説がありますが、光格子時計の開発によって相対性理論の時空の歪みを計測することが可能になり相対性理論が正しいことが実証されました(後述)。この点、日本の高校ではマクロの世界を記述するための理論としてニュートン力学のみを教えて相対性理論を教えていないそうですが、カーナビの技術には相対性理論が応用されており(相対性理論によれば、高度約2万kmを飛行するGPS衛星は地上と比べて重力が弱く、その分、時間が早く進行することになりますので、その誤差を補正して正確な位置情報を演算することで実用精度を実現しています。因みに、GPS衛星に搭載されている原子時計に0.0000001秒の誤差が生じると地上の位置情報は約30メートルもズレてしまいますので、カーナビの技術に相対性理論は不可欠です。)、現代はアルテミス計画が本格化して宇宙ビジネスが現実味を帯びている時代であり、また、文系大卒生では一度も相対性理論を学ぶことなく社会に出てしまう可能性がありますので、少なくとも相対性理論の概要レベルは高校でも教えるべきではないかと感じます(Society5.0の社会課題:文理分断からの脱却)。
 
▼物理学がデザインする世界観の変遷
物理学 自然観 時空
古典
力学
ニュートン力学
(1687年)
マクロの世界 決定論 絶対的
相対性理論
(1905年)
相対的
量子力学
(1925年)
ミクロの世界 確率論
→ 統一理論
※自然界には①重力、②電磁気力、③(電磁気力より)強い力、④(電磁気力より)弱い力の4つの力があり、①は相対性理論、②③④は量子力学によって説明されていますが、これらを統一的に説明する理論として相対性理論と量子力学を矛盾なく融合する量子重力論が研究されています。
 
ニュートン力学では時空を絶対的なものとして光の速度が変化すると捉えていましたが、アインシュタインは、1905年に電磁気学の光速度不変の原理(真空中の光の速度は常に一定)から光の速度を絶対的なものとして光速に近い速さで移動している特殊な状況では時空が相対的なものとして伸び宿みする(即ち、光速に近い速さで移動すると時間の進み方はゆっくりになる)という特殊相対性理論を発表します。この理論によれば、例えば、光速の99%で移動する宇宙船内では地球で1年間が経過する間に50日間しか経過しないことになります。この点、御伽話「浦島太郎」は竜宮城が光速の99.9%で移動していると仮定すれば理論的に実現可能な話しであることから、このような現象のことを「ウラシマ効果」と呼んでいます。また、アインシュタインは、1916年に自らで発見した等価原理(同じ質量の物体に働く重力と慣性力は等価)から光速に近い速さで移動していない一般的な状況でも重力によって時空が伸び宿みする(即ち、重力が強いところでは時間の進み方はゆっくりになる)という一般相対性理論を発表していますが、この理論を題材とした映画「インターステラー」(但し、現代人の知識レベルでも理解し易いように単純なイメージ)が公開されています。上述のとおり2014年に光格子時計が開発されたことで相対性理論の時空の歪みを計測することができるようになり、2019年に東京スカイツリーの地上階と展望台(標高450mの展望台は地上階よりも僅かに重力が小さい)に光格子時計を設置して時間を計測したところ、地上階に比べて展望台では1日で0.000000001秒ほど遅く時間が進むことが確認され、(1919年の皆既日食を利用した時空の歪みの観測、2015年に重力波の観測、2019年にブラックホールの撮影等に続いて)一般相対性理論が正しいことが実証されました。この点、ニュートン力学が時空を絶対的なものと捉えていたように、近代以前の宗教や芸術は世界を支配する絶対的な秩序を観念し、その絶対的な秩序に美の基準を求めていた時代と言えます。しかし、20世紀以降に相対性理論や量子力学が発表され、もはやニュートン力学では世界を正しく記述することが難しいことが認識されるようになると、ニュートン力学の古い自然観から相対性理論や量子力学の新しい自然観に置き換えられ、Society5.0はそれらの科学的な成果を実用レベルにブレイクダウンして社会実装(革新)するためのコンセプトと言えます。但し、これらの自然観は人間の認知能力(環世界)を超えるもの(環境世界)なので、これらの自然観を表現し又はそれらを前提とするコンテンポラリー作品(現代音楽を含む)に対する聴衆の関心や理解が追い付かずに不遇な扱いを受けているというのが現状なのだろうと思います。この背景には、上述のとおり日本の高等教育にも原因があるかもしれません。なお、人間の脳は物質の移動(エントロピーの増大)を知覚することで過去から未来への時間の流れを認知していますが(但し、相対性理論では光速を超えて移動する物質は時間を逆行することになり、実際に時間を逆行する反物質の存在が確認され、また、宇宙で最も強力な爆発現象であるガンマ線バーストは光速を超えて移動し時間を逆行しているという研究論文(2019年)が発表されています。このような時間が逆行する世界観は映画「TENET」(但し、現代人の知識レベルでも理解し易いように単純なイメージ)で描かれていますので、ご興味のある方はご覧あれ。)、このような時間感覚とは別に生物には体内時計が備わっており、1日周期のリズムで細胞内のタンパク質が増減を繰り返すことで生体機能を時間管理しています。朝型の人と夜型の人の違いは生活習慣以外に細胞内のタンパク質の増減に影響する遺伝子の個人差によるものと考えられており、昼間に太陽の光を浴びないと体内時計が最大2時間も遅れ、夜間にスマホの光を見続けると体内時計が最大2時間も進むことから生体機能に異常を生じて生活習慣病等を発症し易くなると言われています。時間の精度を求めるために機械式時計を発明し、時間の計測が自然の法則から切り離されたことが人間の健康に悪影響を及ぼす結果になっています。この点、時間を単に精度の問題として捉えるだけではなく、その本質的な意義について考え直してみる必要があるのかもしれません。因みに、兎は、生後1ケ月で約2歳、1年で約20歳、5年で約46歳、8年で約64歳と不規則な年齢の重ね方をすると言われていますが、年齢に応じて時の歩ませ方を変えてみるという視点を持つという生き方も有効かもしれません。
 
 
▼人工知能美学芸術展:演奏家に指が10本しかないのは作曲家の責任なのか
【演目】①自動演奏ピアノのための習作第1、15、36、27、21番
      <作曲>コンロン・ナンカロウ
    ②2台のピアノのための四分音ハノン(世界初演)
      <作曲>人工知能美学芸術研究会
      <Pf>大須賀かおり、及川夕美
    ③2台のピアノのための3つの四分音曲(世界初演)
      <作曲>チャールズ・アイヴズ
      <Pf>大須賀かおり、及川夕美
    ④スティーヴ・ライヒ讃(日本初演)
      <作曲>ゲオルク・フリードリヒ・ハース
      <Pf>秋山友貴
    ⑤第43回AI美芸研シンポジウム
     演奏家に指が10本しかないのは作曲家の責任なのか
      <講演>大屋雄裕(NPO法人AI愛護団体)
          片山杜秀(音楽評論家)
          中ザワヒデキ(美術家、人工知能美学芸術研究会)
          草刈ミカ(美術家、人工知能美学芸術研究会)
    ⑥人工知能美学芸術交響曲(世界初演)
      <作曲>人工知能美学芸術研究会
      <Con>夏田昌和
      <Cor>ヴォクスマーナ、混声合唱団 空、女声合唱団 暁
      <Orc>タクティカートオーケストラ(Com:甲斐史子)
      <Pf>秋山友貴
      <Odm>オンド・マルトノ:大矢素子
      <Org>井川緋奈
    ⑦交響曲第4番(2011年改訂批判校訂版:日本初演)
      <作曲>チャールズ・アイヴズ
      <Con>夏田昌和、浦部雪、西川竜太
      <Pf>秋山友貴
      <Cor>ヴォクスマーナ、混声合唱団 空、女声合唱団 暁
      <Orc>タクティカートオーケストラ(Com:甲斐史子)
      <Odm>大矢素子
      <Org>井川緋奈
【会場】パルテノン多摩
【日時】12月25日(日)15時~(オンライン配信12月27日(火)~)
【感想】
毎年、年末年始のテレビ番組と演奏会はお節料理よろしく食指が動かないものばかりになってしまいますが、アメリカ人現代作曲家のC.アイヴズの有名な言葉「演奏家に指が10本しかないのは作曲家の責任なのか」をテーマに掲げ、近い将来、人工知能(AI)を利用することで「人間という窮屈な枠組」から芸術創作を解放することを視野に捉えた興味深い演奏会「人工知能美学芸術展」が開催され、そのオンライン配信を視聴しましたので、簡単に感想を残しておきたいと思います。これまで「Ⅰ:人間美学/人間芸術」(下図参照)に制約されてきた芸術創作に人工知能(AI)を利用することで「Ⅳ:機械美学/機械芸術」への拡張(これを人間又は人間性の排除と捉える人間中心主義者的なセンチメンタリズムとは一線を画し、人間の可能性を広げるもの)を試みる挑発的な提案になっていますが、過去のブログ記事でも触れたとおり、デジタルアートの分野ではプチ・シンギュラリティーとも呼べるような革新的な状況が生まれていますので、この提案は人類が射程に捉え始めている現実的なものと言えるのではないかと思います。これまで拙ブログでも縷々触れてきたとおり、上述の相対性理論や量子力学をはじめとする各分野で人間中心主義的な世界観の破綻が認識されるようになり、それに伴って芸術創作も神の栄光や人間の理性・本能(俗に、心)を表現するためだけの狭量なものから、人間という枠組に収まらない世界を表現するための新しい芸術創作が求められる時代になってきており、この新しい時代の幕開けを告げる2023年を迎えるにあたり相応しい内容の演奏会だと思います(主催者に感謝)。なお、オンライン配信には収録されていませんが、当日はホワイエで同テーマによるアート展も開催されていたようなので、状況が許せば会場に伺いたかったのですが、オンライン配信は時間、場所や環境等を選ばずにライフスタイルに合わせた芸術鑑賞を可能とする不可欠な社会インフラになっており、Society5.0によりデジタル田園都市構想が進展して都市集約型の社会(ロンドンの都市モデル)から地方分散型の社会へと移行すれば、益々、オンライン配信の重要性は高まるのではないかと感じますし、また、デジタル技術を活かした芸術表現の可能性も広がるのではないかと期待しています。
 
▼芸術創作の枠組
人間美学 機械美学
人間芸術
機械芸術
※人工知能美学芸術研究会のホームページより引用
 
①自動演奏ピアノのための習作第1、15、36、27、21番
お恥ずかしながらこの曲は初聴でしたが、冒頭からブン殴られてしまったような衝撃を受けました。リゲティが「ウェーベルンやアイヴズに匹敵する大作曲家」と評したことがよく分かります。1947年、C.ナンカロウは自動演奏ピアノ用のロール紙に穴を開ける機械を入手したことを契機として、自動演奏ピアノで演奏することを前提とした人間には演奏不可能なリズム構造を持つ「自動演奏ピアノのための習作」(Ⅲ:人間美学/機械芸術)の作曲に打ち込み、その後の現代作曲家に多大な影響を与えています。当初、自動演奏ピアノは、主にピアニストが自分の演奏を記録するために利用されていましたが(その後の録音技術の発達で衰退)、C.ナンカロウはピアニストの演奏(人間による枠組)に頼らない芸術創作を行うために自動演奏ピアノを利用したという点で先進的な考え方を持っていたと言えます。<第1番>連弾でも演奏困難と思われる密度の濃い複雑なリズムが展開されていますが、日本の伝統音楽(能楽や邦楽)を好む方ならこの複雑で精妙なリズムは心地よく響くと思います。マイクがロール紙の回る機械的な音まで拾っていますが、自然界にはロールのように回転運動する生き物は存在しないので非生物的(機械的)な運動によって奏でられる音楽と言えるかもしれません。しかし、それによって奏でられる音楽は大変に魅力的に感じられます。<第15番>秩序正しい狂気とでも形容すれば良いでしょうか、人間という枠組を超える音楽が展開され、凝縮されたエネルギーのようなものを感じさせる濃密な表現に唖然とさせられます。是非、音盤を購入したいと思います。<第36番>ピアノはこのような響き方もする楽器なのかと驚嘆させられます。これまでに聴いたことがない音楽なので何とも表現のしようがない曲調ですが、まるで人声のような響きが面白く、無理や破綻などを感じさせずに極めて独特な世界観を表現しています。ご興味のある方は、是非、ご一聴下さい。<第27番>前曲に続いて、ピアノという楽器が持つ未知の表現可能性を感じさせてくれる曲です。まるで電子楽器のような響きが面白く、強弱や緩急のメリハリが効いた奥行きを感じさせる魅力的な曲です。<第21番>この曲は「カノンX」という別名を持っていますが、その別名のとおり音が交差(X)しています。まるでゲーム音楽のような響きが斬新で、リズムの緊張と細分化が彩る面白い曲です。全体を通し、人間という枠組から芸術創作を解放することで、これだけ多彩な音楽を聴くことができるのかと驚嘆しますが、上述のとおり芸術創作から人間又は人間性を排除するという二者択一の文脈ではなく、人間による芸術表現の可能性を広げるという視点を包含することが重要ではないかと感じます。なお、本日の演奏で使用された自動演奏ピアノはクナーベ・ベビー・グランド(1926年製アンピコA方式)を修復したものだそうです。
 
②2台のピアノのための四分音ハノン(世界初演)
③2台のピアノのための3つの四分音曲(世界初演)
④スティーヴ・ライヒ讃(日本初演)
人工知能美学芸術研究会が作曲した「2台のピアノのための四分音ハノン」(世界初演)は、C.アノンが作曲した「60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト」(俗に、ハノン)に取材し、四分音違いで調律された2台のピアノを使ってハノンの「機械美学的な美」を表現しているとのことです。C.ナンカロウが作曲した「自動演奏ピアノのための習作」はリズムを細分化した音楽でしたが、この曲は音律を細分化した音楽としてC.アイヴズが作曲した「2台のピアノのための3つの四分音曲」(世界初演)及びG.ハースが作曲した「スティーヴ・ライヒ讃」(日本初演)を意識したものではないかと思われますので、3曲の感想をまとめて記載します。四分音はオクターブを24分割(全音の半音の半音)した微分音で、自然界に存在する音のうち、人間の認知能力に都合の良い音を配列したピアノの鍵盤と鍵盤の間に切り捨てられてしまった音です。C.アイヴズは「いつしか全音階もすたれ、四分音音階の名曲を学童が口笛で吹くようになるようになる頃には、こうした境界的作例も理解される」という言葉を残しているそうですが、人間中心主義の破綻が明確に意識されるようになり自然尊重主義へ大きく舵が切られている現代にあって、より自然音に近い四分音を含む微分音はポピュラー音楽でも効果的に使用されている例が増えてきていることから、サブカルチャーに鍛えられた現代人の耳には微分音に対する抵抗は殆どなくなっているのではないかと思います。「2台のピアノのための四分音ハノン」は、ピアノの運指を訓練するものではなく聴衆の耳を四分音に慣らすための練習曲の意図が隠されているのかもしれません。この点、この曲は四分音の音世界を表現することに主意があるというよりも、音楽的な効果を主意とせず運指の練習という教育的な効果を主意とする曲という意味での機械美学的な美を表現したものに感じられます。一方、「2台のピアノのための3つの四分音曲」は四分音の豊饒な音世界の広がりを明確に意識させてくれる曲であり、音楽的な世界観を広げてくれる芸術体験が魅力的です。また、「スティーヴ・ライヒ讃」は2台のピアノを「ハ」の字形に配置し、1人のピアニストが片手で四分音ピアノ、片手で全半音ピアノを奏でるというもので、人間という枠組(10本の指)を前提として音楽的な世界観を広げることを試みたい意欲的な曲に感じられました。最近、カラードノイズが注目されていますが、それと似たような効果があり秋山さんが奏でる正確なリズムと四分音の精妙な響きが織り成す心地良い音場が非常に印象的でした。自然美>機械美学>人間美学という関係で世界観が広がって行くイメージを持っていますが、上述のとおり現代物理学は顕微鏡や光格子時計の発明等によって人間の認知能力を超える世界を記述することが可能になり、これまでの世界観を大幅に更新していますが、これと同様に、機械美学(二十四平均律)は人間美学(十二平均律)をより自然美の方向に拡張するための役割を果たすものであると捉えています。過去のブログ記事で触れましたが、人間は知覚(現在の情報)と記憶(過去の情報)から認知(未来又は未知の予測)し、その結果から感情を生じますが、おそらく人間の記憶(学習)から全音や半音を人間美学的な美として認知し、微分音を機械美学的な美として認知する傾向があるのではないかと思いますが、これも知覚(体験)と記憶(学習)を繰り返すことによって微分音に対する認知(美意識)は変化すると考えられます。
 
⑤第43回AI美芸研シンポジウム
この演奏会のテーマである「演奏家に指が10本しかないのは作曲家の責任なのか」との関連で大屋さんから示唆に富む面白い話を聞けましたが、現在、ブレーン・マシン・インターフェース(BMI)として6本目の人工指の開発が注目されていますが、現代人はスマホなど人体の外部からの柔らかな働き掛けによって人間という枠組を拡張して生活するようになっており、また、21世紀に入って人工知能(AI)が実用化フェーズへ移行すると、20世紀以前の人間は「理性的な存在」として他の生物に優位するという人間中心主義的な人間観は破綻し、人間は「不完全な存在」であり、その不完全さをテクノロジーで補うという人間観が支配的になっている趣旨の話しがありました。過去のブログ記事で触れましたが、人間以外の植物や微生物にも優れた知性が備わっていることが科学的に解明され、また、上述のとおり人間の認知能力だけでは世界を正確に記述できないことが科学的に自明になると、人間という枠組(宗教を含む)から世界を捉え、表現するという姿勢では世界の真理に迫ることは難しく、益々、世界(人間を含む)を表現するための芸術にも革新が求められているということなのだろうと思います。
 
⑥人工知能美学芸術交響曲(世界初演)
人工知能美学芸術研究会が作曲した「人工知能美学芸術交響曲」(日本初演)は「人工知能美学芸術宣言」(2016年)に記されている「人工知能が自ら行う美学と芸術」(Ⅳ:機械美学/機械芸術)ではなく、そこに至る道程として人間が創作したものであるとの解説が付されています。現時点では人工知能(AI)に意識(美学)は芽生えておらず(昨年、Googleの研究者が大規模言語モデルのAI「LaMDA」に意識が芽生えた可能性があると発表したというニュースが世界を駆け巡りましたが、その後、その証拠は見付かっていないという結論に至っています。)、また、「人間が人工知能を使って創る芸術」(Ⅲ:人間美学/機械芸術)にも興味がないとのことで、基本的に「Ⅱ:機械美学/人間芸術」を志向した曲という印象を受けますが、第二楽章には1961年にベル研究所がコンピュータに歌を歌わせた世界初の音源が使用されていますので「Ⅳ:機械美学/機械芸術」への志が強く感じられる曲になっています。なお、第一楽章は器楽による金属音と合唱による機械音(カタカタ)、第三楽章は器楽による打撃音と合唱による持続音が繰り返されますが、「機械美学」という言葉に引きずられて音楽のモチーフが「機械音」に限定されてしまっている印象を否めず、例えば、知性を備える植物や微生物の生体電位を音楽のモチーフに採り入れるなど機械に限らず非人間的な要素を広く包含し得るカテゴリライズがより望ましいのではないかと感じます。現在、ディープラーニングを通して自律的に進化する人工知能(AI)と環境変化に適応して他律的にも進化する人工生命(AL)の考え方を補完的に組み合わせる研究も盛んになっており、将来、人工知能(AI)が人間に双璧し又は凌駕する意識や知性を備えたときに果たして機械というカテゴライズが有効なのかとも感じます。
 
⑦交響曲第4番(2011年改訂批判校訂版:日本初演)
C.アイヴズが作曲した交響曲第4番は、複数のテンポが同時進行するために複数の指揮者を必要とし、大編成のオーケストラと合唱団、特殊楽器の使用、演奏難度などの事情から日本では過去に3度しか演奏されたことがなく、C.アイヴズの紹介に尽力した指揮者のL.ストコフスキーをして「アイヴズ問題の核心」と言わしめるほど梃子摺らせ、C.アイヴズ死後の1965年に漸く全曲初演に漕ぎ付けることができた演奏至難の難曲です。C.アイヴズ(1874~1954年)は、A.アインシュタイン(1879~1955年)と同世代で、あくまでも個人の勝手な感想ですが、交響曲第4番にも宇宙創成の壮大な物語を聴くことができるのではないかと感じます。交響曲第4番は1910年から1916年の間に作曲されており、丁度、A.アインシュタインが1905年に特殊相対性理論、また、1916年に一般相対性理論をそれぞれ発表した時期に符号し、これらの革新的な理論からインスピレーションを受けて創作に取り組んだのではないかと想像します。なお、その影響なのか、ユニヴァース・シンフォニー(宇宙交響曲)の創作にも取り組んでいたそうですが、残念ながらこの曲は未完成の遺作となっています。因みに、この2人と同時代を生きたP.ピカソ(1881~1973年)も相対性理論などからインスピレーションを受けてキュビスムを創始したのではないかと言われています。交響曲第4番の曲調を形容すべき適当な言葉が見付かりませんが、ピカソの絵画を見ているような独創と狂気の狭間を紡ぐ天才にしか創作できない曲であるという印象を受けます。カオス(混沌)からコスモス(秩序)が生まれてくるようなイメージがあり、起伏に富んだドラマやファンタジーが展開されますが、全てが手中にあって破綻を来していないのは天才としか言いようがありません。宇宙創成の物語に準えて曲の感想を書くとすれば、第一楽章はビックバン後のカオス(混沌)な様子、第二楽章はエントロピーが局所的な増大と減少を繰り返しながら宇宙の秩序が形成されて行く様子、第三楽章は宇宙が調和している様子(近代以前の世界観を垣間見ているような胡散臭さ)、第四楽章は宇宙がカオス(混沌)な状態に戻って終焉に向かう様子をイメージして聴いていましたが、一聴すると錯綜しているようでありながら非常に描写力に優れた曲のように感じられて惹き込まれました。オンドマルトノに誘われて登場する合唱は宇宙を支配する圧倒的な何ものかを表現しているようにも感じられます。複数のテンポ(時間)の同時進行は相対性理論の相対的な世界観やインターネットやブロックチェーンにも採り入れられている中心のない世界観を表現しているようにも感じられますが、世阿弥の言葉を借りれば「花」(風姿花伝第7巻別紙口伝「花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり」)のある名曲であり、かなりシナプス可塑性が活発化されること請け合いなので、是非、未聴の方は一聴することをお勧めしますし、是非、ライブ演奏で聴いてみたいと念願しています。主催者と演奏者にヴラヴォー!
 
▼第15回現代音楽演奏コンクール「競楽XV」本選会の結果
オンライン公演がなく演奏を拝聴できませんでしたが、朝日新聞社が後援する現代音楽演奏コンクール「競楽」が開催されましたので、その結果と共に次代を嘱望された若く有能な芸術家達を讃えたいと思います。このコンクールは若い演奏家及び演奏団体による現代音楽の演奏を奨励するために隔年で開催されている非常に有意義なコンクールです。現代はクラシック音楽が表現し又はその表現の前提としてきた近代以前の価値観、人間観、自然観及び世界観等に対する各分野からの異議申立が行われ、それらが大幅に更新されている時代であり、現代人の知性を前提とするとクラシック音楽が現代人の教養(学問、知識、経験や芸術受容等を通して養われる心の豊かさ)を育むことは難しくなっていると思います。この点、ギドン・クレーメルやヒラリー・ハーン等の当代一流の演奏家は現代に生きて活躍している現代作曲家の知られざる名曲を掘り出して演奏会やレコーディング等で積極的に採り上げ、その魅力を伝えることで現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している真の意味で偉大な演奏家ですが、今後、このような演奏家が増えてくれることを心から願いたいですし、そのような活動を行う若く有能な芸術家達を全力で応援していきたいと思っています。その意味で、今回の入賞者達の奮闘を心から讃えると共に、今後の活躍に注目し応援していきたいと思っています。
 
第1位 島田菜摘(打楽器)
第2位 天野由唯(ピアノ)
第3位 北條歩夢(打楽器)
入 選 中村淳(フルート)
入 選 福光真由(マリンバ)
奨励賞 青栁はる夏(打楽器)
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.13
シリーズ「現代を聴く」では、1980年代以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼マーティン・サックリングの弦楽五重奏曲「エミリーの電気的不存在」(2017年)
イギリス人現代作曲家のマーティン・サックリング(1981年~)は、ロイヤル・フィルハーモニー協会作曲賞(2008年)スコットランド新音楽賞(2020年)を受賞するなど注目されている若手作曲家です。この曲は、オーロラ室内管弦楽団の委嘱でシューベルトの弦楽五重奏曲とアメリカ詩人エミリー・ディキンソンへのオマージュとして作曲され、2022年にリリースしたニューアルバム「The Tuning」に収録されています。
 
▼アベル・セラオコーの「嘆き」(2018年)
南アフリカ人現代作曲家のアベル・セラオコー(1992年~)は、チェロ奏者としても著名で作曲活動と共に演奏活動も精力的に行っており、歌、パーカッション、即興演奏等を採り入れてアフリカ音楽と西洋音楽を融合する独自の音楽作りで非常に注目されている期待の俊英です。この曲は、イタリア人のチェロ奏者のジョヴァンニ・ソッリマがズール語で歌われる喉歌にインスピレーションを受けて作曲した曲をセラオコーがアフリカ風にアレンジしたものです。
 
▼今野玲央の「空へ」(2018年)
日本人現代作曲家の今野玲央(1998年~)は、筝奏者としても著名で作曲活動と共に演奏活動も精力的に行っており、第29回出光音楽賞(2019年)や第68回神奈川文化賞未来賞(2019年)を受賞するなど非常に注目されている期待の俊英です。この曲は、困難に直面した際に空を見上げながら自由にやってみようと思い立ち作曲した曲だそうです。作曲家と演奏家を完全に分離しなかった点が伝統邦楽が現代邦楽へ脱皮する原動力になっていると感じます。

新年の挨拶(その1)と2つの演奏会(演奏会「第一回藤舎花帆リサイタル 月をめでる」と演奏会「安嶋三保子 第一回箏ソロリサイタル」)<STOP WAR IN UKRAINE>

▼「市三伝」から「鳶目耳」(ブログの枕の前編)
旧年中は、拙ブログをご愛顧賜り誠にありがとうございました。皆様にとりまして幸多い新年になりますことを衷心より祈願しております。アフターコロナやニューノーマルという言葉が全く聞かれなくなりましたが、今年も分散初詣に出掛けることにしましたので、少し早めに新年の挨拶(その1)をアップしておきたいと思います。なお、改めて、新年を寿ぐために新年の挨拶(その2)をアップしたいと思いますので、新年も変わらぬご愛顧を賜れれば幸甚に存じます。2022年はウクライナ侵攻に明け暮れた一年でしたが、人々の疑心暗鬼が生んだ様々なフェイクニュース(情報戦、コロナ関連情報や災害被害などを含む)が世間を騒がした一年であったと印象深く振り返っています。「市三伝」(「ある人が市中に虎が出没したと言ったら信じるか」と尋ねると「信じない」と答え、「それならばもう一人別の人が同じことを言ったら信じるか」と尋ねると「わからない」と答え、「三人ならどうか」と聞くと「信じるだろう」と答えたという故事から、真実ではないことでも多くの人が言えばいつの間にか真実として広まるという意味)という言葉がありますが、虎年から兎年に改まる新年は「鳶目耳」(鳶の目は遠くの物まで見ることができ、兎の耳は遠くの音まで聞くことができるという意味から、情報を収集して見極める能力に長けているという意味)という言葉のとおり賢く振る舞うべく心掛けたいと思っています。と、ここまでは正月の建前で、最近は「ファクトフルネス」(10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣)が持て囃されていますが、社会を混乱させ、又は人々を対立させるようなフェイクニュースは願い下げだとしても、世界はデータ(理性)に基づく合理的な正しさだけでは割り切れない人間的なもの(本能)に基づく不合理な多様さがダイナミズムを生んでいる側面もあるのではないかと思われますので、ファッションデザイナーのダイアナ・ヴリーランドが言うとおり「ファクト」に適度な「フィクション」を織り交ぜて人々の心を躍らせる面白味(洒落を解する遊び心)を大らかに許容する「ファクション」(虚実皮膜の間)がもう少し見直されてもよいのではないかと感じています。
 
①戸越八幡神社(夢叶うさぎ)(東京都品川区戸越2-6-31
調神社(狛兎)(埼玉県さいたま市浦和区岸町3-17-25
戸越八幡神社(夢叶うさぎ)東海道五十三次の1番目の宿場「品川宿」があった場所の地名を「戸越」と言いますが、この地名は「江戸越え」が由来になっており、この宿場を過ぎると「川崎宿」(相模国)になります。 夢叶うさぎ(戸越八幡神社/戸越八幡神社のご神体が出現した泉に住み着いていた猿と兎が「福分け猿と夢叶うさぎ」として祀られています。なお、境内には猫が多いので「にゃまびえ様」の御朱印状が人気になっています。 調神社(狛兎)/この社名は、伊勢神宮へ納める貢(調)物(みつぎもの)を納めた場所に造営されたことに由来し、貢(調)物の搬入出の支障とならないように鳥居が設けられなかったことから鳥居がない神社として有名です。 狛兎(調神社/この社名の「調」は「みつぎ」のほかに「つき」とも読み、神の使いとされている兎が月の生き物であることから月待信仰と結び付いて月読社と呼ばれ、狛兎のほかにも手水舎などにも安置されています。
 
▼金烏玉兎とデザイン(ブログの枕の後編)
全国各地には今年の干支の兎に因んだ通称「うさぎ神社」が祀られていますが、兎が一度に10羽前後の赤ちゃんを出産する多産な動物であることに肖って安産や縁結びなどに御利益があると言われています。個人的にはいずれの御利益も直接の関係はありませんが、首都圏で兎に因んだ神社として有名な「戸越八幡神社」(品川)及び「調神社」(浦和)へ一足早い分散初詣に行ってきました。兎が両足を揃えて飛び跳ねるのは人間のように足を交互に歩ませるよりも速く走ることができるためですが、その飛び跳ねる姿が鷺のようにも見えることから「」(ウ)+「」(サギ)=「兎」(ウサギ)になり、鳥と同じく兎を「羽」と数えるようになったという俗説があります(破戒僧が四足歩行する動物を食べてはいけないという仏教の戒律を潜脱して兎の肉を食べるための方便として、兎を二足歩行する鳥だと強弁したことに由来するという俗説も有力です)。因みに、地球上で一番速く走る動物(鳥を除く)はチーター(捕食者)で時速約120kmですが、ガゼル(被捕食者)の時速約100kmよりも速く走ることができます。また、人間の生活圏に棲む動物では「」(被捕食者)が犬(捕食者)や馬と同じく時速約70kmと速く走る(飛び跳ねる)ことができます。これに対し、人間は重い脳を支えるためにバランスを重視したことで時速約35km程度でしか走れず、熊の時速約50kmと比べても大幅に遅いので熊と遭遇したときに走って逃げるのは得策とは言えません。一方、地球上で一番速く飛べる鳥はハヤブサで最高時速約350km(現時点の新幹線の最高時速約320kmよりも速い)です。また、人間の生活圏に棲む鳥では「カラス」(捕食者)が時速約60kmで飛ぶことができますが、スズメやハト(被捕食者)の時速約45kmよりも速く飛ぶことができます。このように人間に身近な動物の中では「兎」や「カラス」が一番速く移動できると言えそうです。この点、茶席の禅語に「金烏急玉兎速」(碧巌録第12則「洞山麻三斤」)という言葉がありますが、「ある修行僧が洞山和尚に「仏とは何ですか?」と訪ねたところ、洞山和尚は「三斤の麻だ」と即答した。」という公案(禅問答)があり、この公案に対する宋代の禅僧・雪竇重顕の頌(人徳を讃えた評)として「金烏急、玉兎速。善応何曾有軽触。・・・」という韻文が添えられています。「三斤の麻」とは1人分の衣服を作るために丁度良い分量の麻のことを意味し、仏とは三斤の麻で作った衣服のように人の心にしっくりと馴染んで包み込むような存在であるということを短い比喩で即答していますが、洞山和尚の端的に仏の本質を捉えた即答により修行僧を悟りへと導く機知に富む鮮やかな手並みを「金烏急玉兎速」(烏が急いで飛ぶように太陽は慌しく出入りし、月の兎が速く飛び跳ねるように月は忙しく移動するので、月日の移り変わりは早い。即ち、それだけ修行僧が悟りを開くのも早い。)に喩えて讃えたものです。ここで「金烏」は中国神話に登場する太陽に棲む烏で、陰陽五行説における偶数=陰(月)、奇数=陽(日)という考え方から足が三本(奇数)ある三足烏を日天(太陽を象徴する動物)として神聖視しました。この三足烏は日出から日没までの間に活動する昼行性の「カラス」であると考えられており、日本では神武天皇を熊野から大和へ導いた熊野本宮大社主祭神の神使である八咫烏として信仰され、日の丸に八咫烏というデザイン(左上の写真)で親しまれています。過去のブログ記事で触れましたが、平安時代の蹴聖(蹴鞠の名人)であった藤原成道が50回以上も熊野詣をし、蹴鞠上達を祈願して熊野本宮大社に「うしろ鞠」の名技を奉納した故事(古今著聞集)に肖って八咫烏はサッカー日本代表のエンブレムにもなっています。一方、「玉兎」は中国神話に登場する月に棲む兎で、その全身が玉のように白いことから玉兎と呼んで月天(満月を象徴する動物)として神聖視しました。この玉兎は月出から月没までの間に活動する夜行性の「兎」が月で薬草を搗いて仙薬(不老不死の仙人になるための薬)を作っているという伝説と共に信仰されました。このように「金烏玉兎」という言葉には「金烏」及び「玉兎」を月日(月=季節、日=時間)を象徴する動物と捉えて聖なる宇宙へ泰平祈願を託するという思いが込められています。これが日本に伝来し、日本語で満月を意味する「望月」(もちづき)の発音から「餅」を連想するので、仙薬ではなく餅を搗く兎として親しまれるようになりました。平安時代の教養である中国の古典(ファクト)と日本語の掛詞の洒落(フィクション)が生んだ平安時代の「ファクション」と言えるかもしれません。日本美術では「玉兎」(満月を象徴する兎)をデザイン化(前回のブログ記事でも触れましたが、デザインとは表現対象の属性を削って本質を磨き上げながら伝えたいものから伝わるものへと洗練させて行く「引き算」のプロセス)し、月を連想させるモチーフとして「秋草に兎」(天を振り仰ぐ兎に秋草を添えて描くことで、月を描かなくても観る者に月を想い描かせる風流心を誘うデザイン)、「木賊に兎」(日本では木賊の堅くざらざらした茎を木材、骨や爪などを磨くための磨き材として使用していましたが、世阿弥の創作と伝わる能「木賊」の詞章「木賊刈る 園原山の木の間より 磨かれ出づる 秋の夜の月影をもいざや刈らうよ」に題材して、兎に木賊を添えて描くことで、観る者の豊かな教養に訴え掛けて明るく輝く満月を連想させるデザイン)や「波に兎」(金春禅竹の創作と伝わる能「竹生島」の詞章「緑樹影沈んで、木魚に上る気配あり、月海上に浮かんでは、兎も波を走るか、面白き浦の景色や」に題材して、湖面の白い波を兎が飛び跳ねている姿に見立て、観る者の感性に訴え掛けて月明かりの湖面に沢山の兎が飛び跳ねる様子を連想させるデザイン)等を生み出しました。また、「玉兎」のデザインは日本美術以外にも幅広く採り入れられ、例えば、兎が月天として神聖視されていたことからその神威に肖って武士の甲冑の装飾に利用され、また、「玉兎」の「かわいい」という現代的なイメージから形(視覚)で彩る食文化として「最中 夢調兎」(浦和の菓匠「花見」)や「うさぎまんじゅう」(上野の老舗「うさぎや」)などの和菓子にも利用されています。さらに、訪日外国人のお土産として人気の食品サンプルフィギュアなどに象徴されるように日本のお家芸とも言えるミニチュア文化として装飾、玩具やキャラクターにも「玉兎」のデザインは愛用され、ネイルのデコパーツや京都コスメ「舞妓さんの練り香水 うさぎ饅頭」などの装飾品のデザインとしても人気が高く、また、サンリオのマイメロディーなどのキャラクターも息の長い人気に支えられています。最近では、TVアニメの戦国御伽草子「半妖の夜叉姫」に双子の姉妹として「金烏」(姉)と「玉兎」(妹)というキャラクターが登場しますが、アルテミス計画など月面開発が本格化している時代を背景としてすっかり廃れてしまった「金烏玉兎」という伝統的なコンセプトは、このように様々な形で現代的に翻案され、新しい価値を吹き込まれて現代に蘇っています。上述のとおり「金烏玉兎」とは日を象徴する烏と月を象徴する兎に掛けて月日(歳月)を意味する言葉であり、そこから月日が慌しく過ぎ去って行くことを意味する「烏兎怱怱」という言葉が生まれていますが、現代は科学技術の発展や地球環境の破壊等が急速に進んで近代以前の価値観、人間観、自然観や世界観の矛盾、破綻などが明確に認識されるようになった時代であり、それらを所与の前提として芸術作品(但し、その当時は革新的な芸術表現であったという意味で過去の偉大な芸術遺産)を創作していた近代以前の芸術家の生誕又は没後のアニバーサリーに興じることはそろそろ卒業し、現代の芸術家の作品に数多く触れることで、現代に生き、未来を培うための教養(学問、知識、経験や芸術受容等を通じて養われる心の豊かさ)を深め、月日の移り変わりと共に急速に変化して行く現代や未来について考える年にして行きたいと思っています。因みに、約45億年前に地球に隕石が衝突して月が誕生するまでは、地球は1日約5時間(現在の約5倍)の速さで自転し、1年約1800日であったと考えられていますが、月の引力の影響を受けた潮汐(潮の満ち引きによる大量の海水の移動)により海底との摩擦を生んだことで地球の自転の速度にブレーキが掛かり、現在の1日約24時間になったと言われています(その影響から現在も地球の自転速度は徐々に遅くなっています)。仮に、地球に隕石が衝突して月が誕生していなければ、地球の自転にブレーキが掛からずに地表は常に大型ハリケーン並みの強風が吹き荒れることになり、また、地球の地軸が23.4度に傾かず地表に安定した環境(地表の温度を夏に温め、冬に冷まして地球全体の温度を平準化する四季)が生まれることもなかったと言われており、地球上の生物の繁栄が難しくなっていたことを考えると、兎の多産性よろしく月が地球上の生物の繁栄を育んだとも言えそうです。このように昔の人々が「玉兎」を月天として崇めたことは故ないことではないとも言え、上述の「波に兎」のデザインは科学的に正しいイメージ(波の力*月の引力*兎の脚力)と言えそうです。
 
 
▼第一回藤舎花帆リサイタル 月をめでる
【演目】第1部
    長唄「藤船頌」
      <作曲>三世 今藤長十郎
      <作調>四世 藤舎呂船
      <作詞>林悌三
      <長唄>今藤長一郎、杵屋正一郎、杵屋喜太郎
      <三味線>今藤長龍郎、今藤龍市郎
      <笛>中川善雄
      <小鼓>藤舎花帆
    ②現代邦楽「土声」
      <作曲・十七絃>沢井比河流
      <尺八>小湊昭尚
      <小鼓>藤舎花帆
    ③現代曲「小鼓とチェロのための帆 HAN」(世界初演
      <作曲>武智由香
      <小鼓>藤舎花帆
      <チェロ>海野幹雄
    第2部 月をめでる
    ④「古事記」より神々の語りごと
      <作曲>福嶋頼秀
      <語り>今藤長一郎
      <長唄三味線>今藤長龍郎
      <十三絃>沢井比河流
      <尺八>小湊昭尚
      <小鼓>藤舎花帆
      <囃子>梅屋喜三郎
      <チェロ>海野幹雄
      <アコーディオンアイリッシュハープ>中村大史
    ⑤「竹取物語」より
      <作曲>大曽根浩範
      <語り>藤舎花帆
      <十三絃>沢井比河流
      <尺八>小湊昭尚
      <小鼓>藤舎花帆
      <囃子>梅屋喜三郎
      <チェロ>海野幹雄
      <アコーディオンアイリッシュハープ>中村大史
【構成】織田紘ニ
【美術】八戸香太郎(書)、新海友樹子
【照明】袰主正規
【音響】梶野泰範
【映像】金曽武彦
【道具】角田清次郎
【衣装】細田ひな子
【化粧】間島紀代美
【意匠】堤岳彦
【監督】滝沢直也
【演出】藤舎花帆
【企画】藤舎花帆
【会場】日本橋公会堂
【日時】10月15日(土)14時~(オンライン配信~12月29日(木))
【一言感想】
去る10月15日(土)に開催された演奏会を収録した動画が12月29日までオンライン視聴可能(有料)でしたので、簡単に演奏会の感想を残しておきたいと思います。但し、上記の演奏会と合わせると演目数が多くなりますので、紙片の都合から各演目につき一言ずつ感想を残しておきたいと思います。なお、邦楽はクラシック音楽のように演奏家と作曲家の分離が行われなかったこともあり、それに伴う弊害(楽譜至上主義を含む)が少なかった印象を受けており、また、そのためなのか現代音楽を積極的に採り上げる意欲的な演奏会が多く、現代に息衝く芸術表現を育み易い環境にあるのではないかと期待を持っていますので、新年も藤舎花帆さんほか若い世代の活躍に注目して行きたいと思っています。
 
長唄「藤船頌」
この曲は藤舎流(囃子方)を再興した四世・藤舎呂船の襲名披露のために三世・今藤長十郎が作曲したもので、この曲名は芸名から「藤」と「船」の2文字をとって花と舟に掛け、また、上述のとおり「頌」は人徳を湛えた評のことで藤舎呂船を讃えた曲になっています。僕は初聴の曲で全体的にゆったりとしたテンポの落ち着いた曲趣でしたが、小鼓の名手・藤舎呂船のために書かれた曲だけあって小鼓が緩急を織り交ぜながらリズミカルに立ち回る変化に富んだ見せ場が多く、音色の種類や強弱等を活かしてメリハリを効かせた表情豊かな演奏を楽しむことができ、三味線とのスリリングな掛け合いが印象的な好演でした。また、藤の花房を揺らす風のような流麗な笛が白眉で、優美な唄方と共に風情を感じさせる演奏が聴き所になっていました。なお、長唄は詞章の意味より音が大切だと聞いていますが、やはり詞章の意味が分かった方が鑑賞が深まるのではないかと感じることもあります。僕は「長唄名曲要説」(浅川玉兎「長唄を読む」(西園寺由利著)を持っていますが、いずれも収録曲数が少ないので網羅性のある曲集が待ち望まれます。
 
②現代邦楽「土声」
この曲はもともと17絃(筝)と尺八のために作曲されたものですが、今日は小鼓を加えた三重奏版で演奏されました。てっきりリズム楽器である小鼓は尺八の伴奏に徹するのかと思っていましたが、良い意味で期待を裏切られ、小鼓の伝統的な奏法ではあまり見られない小刻みな連打、音色や掛け声などを効果的に使いながら、この曲の中心的な役割を担うパフォーマンスで、その卓抜した表現力に舌を巻きました。躍動感のある曲趣との相性もよく、小鼓という楽器の可能性を感じさせる面白い曲及び演奏を楽しめました。因みに、大河ドラマ真田丸」の主題歌で尺八を演奏していたのが小湊昭尚さんですが、メジャーデビューを果たして多ジャンルで活躍されているだけあって懐の広さを感じる演奏は流石です。現代邦楽界の嚆矢・沢井比河流さんが作曲された曲ということもありますが、邦楽界は伝統に根差しながらも伝統というシガラミに縛られることなく新しい取組みに果敢に挑戦している革新的な気風が感じられ、何か新しいものが生み出されるような期待感を覚えますので、今年はもっと現代邦楽界の動きに注目していきたいと考えています。
 
③現代曲「小鼓とチェロのための帆 HAN」
この曲は藤舎花帆さんが小鼓とチェロの音色の相性が良さが契機になって現代邦楽の作曲で定評がある武智由香さんに小鼓とチェロのための曲の作曲を委嘱したものですが、この曲名の「帆(HAN)」は四世・藤舎呂と藤舎花から採られ?、小鼓という楽器の表現可能性を模索する旅に出る船出の意味合いが込められたものなのでしょうか?この曲は小鼓とチェロのための音楽としては世界初だそうですが、この意外な組合せにも拘らず無理や破綻のない非常に面白い曲でした。楽曲解説がないので勝手な想像ですが、暗闇(舞台袖)から小鼓が演奏しながら顕在し、演奏途中でチェロの周りを旋回(舞)しましたが、宛ら能楽シテ方を彷彿とさせ、また、この曲の構成が緩徐→展開→急拍に分かれており、宛ら能楽序破急を連想させるものでした。こうなると小鼓の掛け声は能楽の謡いのようにも感じられてきます。海野幹雄さんは、スル・ポンティチェロ、グリッサンド、重奏、トリル、楽器を叩く等の特殊奏法を巧みに使いながら独特な世界観を表現し、小鼓との阿吽の呼吸による張り詰めた「間」によって演奏に求心力を生む好演でした。
 
④「古事記」より神々の語りごと
この曲は藤舎花帆さんが古事記に描かれている月の世界を表現するために現代邦楽の作曲で定評がある福嶋頼秀さんに作曲を委嘱したものですが、古事記上巻のうち、天地の創始から月読命の出現までを語りと音楽で綴られた曲です。邦楽器及び洋楽器が奏でるアンサンブルは実に多彩な響きがしますが、その多彩な響きと舞台上の演出効果(セットや照明)を活かして古事記の物語世界が表情豊かに描写されており楽しめました。とりわけ国生みでは大鼓が小気味よいテンポで主導しながらリズミカルな演奏を展開して島々が生まれる様子を活写する巧みな音楽表現が面白く感じられました。黄泉国では黄泉の世界を表現する邦楽器(尺八や三味線)の陰影のある音色がイザナミの哀しみを表現する洋楽器(チェロや洋楽器)の叙情的な音色(心情)を引き立てる効果を生み、そのコントラストが聴き所になっていました。天照大御神の出現では邦楽器(13絃)の光沢感のある輝かしい音色で太陽を表現する一方で、月読命の出現では洋楽器(アイリッシュハープ)の透明感のある眩い音色で月を表現し、月見の風情を感じさせる風流な曲で締め括られました。
 
⑤「竹取物語」より
この曲は藤舎花帆さんが世界最古の物語、竹取物語に描かれている月の世界を表現するために現代邦楽の作曲で定評がある大曽根浩範さんに作曲を委嘱したもので、語りと音楽で綴られた曲です。竹取物語の風情を感じさせる抒情的な曲趣が魅力で、非常に聴き易く素直な曲ながら聴衆に媚びるような安易さもなく聴き応えのある曲に感じられました。朗読と演奏が一体になって紡ぐ物語世界で、筝とアイリッシュハープ、筝とアコーディオン、尺八とチェロ、尺八とアイリッシュハープ、小鼓とチェロなど様々な組合せによる邦楽器と洋楽器の演奏に相性の良さが感じられ、とりわけアコーディオンやチェロが主導して邦楽器が奏でるタンゴ調のパートは新鮮で音楽表現の可能性を感じさせるものでした。藤舎花帆さんがかぐや姫に扮してその心情を小鼓で繊細に表現しながら月(風情を誘う望月の色合いが素晴らしい)に昇る演出があり、薄紫の羽衣は雅なものと藤舎流(藤の花)を象徴する演出ではないかと思われます。藤舎花帆さんの白い和装は玉兎のように見え、久しぶりに月にロマンを感じる面白い作品でした。なお、最後にドビュッシーの月の光が添えられています。
 
この演奏会は小鼓という楽器の豊かな表現力とその表現可能性を縦横無尽に感じさせてくれる意欲的な内容でしたが、その試みは大いに成功しているように感じました。年末年始のテレビ番組や演奏会はお節料理よろしくマンネリズムでツマラナイというのが通り相場なので、この演奏会に興味を持たれた方はオンライン視聴をお勧めします。
 
▼安嶋三保子 第一回箏ソロリサイタル
【演目】①秋風の曲
      <作曲>光崎検校
      <作詞>藤田雁門
    ②数え唄変奏曲
      <作曲>宮崎道雄
    ③秋風幻想~光崎検校作曲「秋風の曲」によせて~
      <作曲>深海さとみ
    ④ゆれる秋
      <作曲>沢井忠夫
      <作詞>北原白秋
    十七絃独奏による主題と変容「風」
      <作曲>牧野由多可
【演奏】<筝・歌>安嶋三保子
【企画】安嶋三保子
【監修】深海さとみ
【調絃】深海あいみ
【進行】吉川卓見
【着付】石本由紀
【化粧】太田順子
【衣装】深澤サチ子
【撮影】橋詰高志
【美術】櫻井彩加
【会場】杉並公会堂小ホール
【日時】12月11日(日)14時~(オンライン配信~12月31日(土))  
【一言感想】
去る12月11日(日)に開催された演奏会を収録した動画が12月31日までオンライン視聴可能(有料)でしたので、簡単に演奏会の感想を残しておきたいと思います。但し、下記の演奏会と合わせると演目数が多くなりますので、紙片の都合から各演目につき一言ずつ感想を残しておきたいと思います。なお、上述のとおり伝統邦楽はクラシック音楽のように演奏家と作曲家の分離が行われなかったこともあり、それに伴う弊害(楽譜至上主義を含む)が少なかった印象を受けており、また、そのためなのか現代音楽を積極的に採り上げる意欲的な演奏会が多く、現代に息衝く芸術表現を育み易い環境にあるのではないかと期待を持っていますので、新年も安嶋三保子さんほか若い世代の活躍に注目して行きたいと思っています。
 
①秋風の曲
この曲は、江戸時代の天保年間(1830~1844)に光崎検校がパトロンの越前福井藩士・蒔田雁門(高向山人)と共に詩人・白楽天白居易)の漢詩長恨歌」(傾城傾国の美女と言われ、安史の乱で殺害された楊貴妃の死の50年後に、唐代の玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を題材にして詠まれたもの)に取材して創作した筝曲です。八橋検校が創始した段物(数段からなる器楽曲)と歌物(六歌からなる組歌)を組み合わせた新様式を確立した光崎検校の代表作で、楊貴妃が殺害される際に吹いていた秋風を描写するために陰音階の上行形を基調とする新しい調弦法「秋風調子」を考案して寂寥感が漂う曲調になっています。前半の段物では右手の呼吸(間)や強弱、左手の繊細な表情付けなど一音一音を丁寧に響かせる余韻のある落ち着いた演奏でしっとりと聴かせていました。後半の歌物では天賦の艶やかな声質による気品のある歌唱に魅せられました。
 
②数え唄変奏曲
この曲は1940年に宮城道雄(46歳)がクラシック音楽の変奏曲の様式を採り入れて作曲し、俗謡「正月の数え歌」の旋律を主題としてこれを変奏する手事物と言われる超絶技巧曲で、最初の2段で主題を提示し、残りの6段で変奏するという構成になっています。前曲の落ち着いた演奏とは一転し、手際よい冴え映えとする滑舌な演奏で、この曲の魅力を十分に引き出す演奏効果をあげる好演でした。一段と二段ではオーソドックスに主題提示が行われますが、その後の変奏では多彩な技巧と相俟って、三段では三味線の音色、四段ではハープの音色、五段ではウクレレの音色、六段ではハープシコードの音色、七段ではエレキギターの音色をイメージさせる豊かな音色や表現を楽しむことができ、八段では華々しい筝の音色による大団円となります。非常に懐の広さを感じさせる楽器で、現代作曲家に好まれる理由がよく分かる曲です。
 
③秋風幻想
この曲は、生田流筝曲家・深海さとみさんが「秋風の曲」へのオマージュとして作曲したもので、前半は調弦法「秋風調子」を踏襲した元曲と同じような曲調になっていますが、後半は漢詩長恨歌」の組歌をイメージして幻想的な曲調になっています。決して演奏が容易な曲ではなさそうですが、安嶋三保子さんは深海さとみさんの愛弟子だそうで、自家薬籠中の曲としているような自在な演奏であり、この曲が持つ世界観を雄弁に物語る好演でした。後半はさながらミニマルミュージックを彷彿とさせ、右手が同じ音型を繰り返しながら左手がピッチカートで歌を奏で圧倒的なクライマックスを築いていきますが、突然、追慕の情から覚めるように抒情的な曲調に戻って老いらくの侘びを感じさせる趣きのある感動的な終曲を迎えます。現代筝曲の到達点を見るような名曲で、未だ聴かれたことがない方は、是非、一聴をお勧めします。
 
④ゆれる秋
この曲は、歌物の作曲を依頼された沢井忠夫さんが北原白秋の詩「風」からインスピレーションを受けて、その詩の世界を表現するために作曲した弾き歌いの曲です。冒頭は琵琶楽を彷彿とさせる風情が漂い、弾き歌いというよりも弾き語りに近い部分もあります。あくまでも詩(歌)を主体にして、その詩(歌)に寄り添うように音楽(筝)が添えられていますが、色々な風が筝が奏でる音になって吹き抜けて行く描写表現が詩(歌)の世界観を深める効果を生んでおり、筝という楽器の多彩な表現力を堪能できる興味深い曲です。おそらく秋の風なので色とりどりの落ち葉が舞い散っているのでしょうか、風が吹き抜けると共に筝が奏でる音も色とりどりの表情でドラマティックに展開し、詩情豊かな演奏を楽しむことができました。やや声域が合わないところがあったのか歌い難そうな部分もありましたが、天賦の美声は魅力です。
 
十七絃独奏による主題と変容「風」
この曲は、1921年に宮城道雄によって考案された十七絃ですが(2021年が十七弦生誕100周年)、1965年に現代作曲家の牧野由多可さんがベースラインを担当する伴奏楽器であった十七絃に興味を持ち、その重厚な音色や広い音域に惹かれ、世界初の十七絃の独奏曲として作曲したものです。今日の演奏会は「秋」と「風」がテーマになっていましたが、「風」にも様々な風情があり、それを表現する筝の音色(十七絃ならではの音域の広さを含む)や奏法(クラシック音楽の対位法を含む)にも様々なものがあるものだと感心させられる面白い曲です。この曲は難曲として知られていますが、無理や破綻を全く感じさせない安定感があり、繊細さから凄みのようなものまで歌心に乗せた冴え渡る技巧によって滑舌良く表情豊かに歌い回す風格ある演奏で相当な腕達者であることが分かります。
 
古典から現代まで難曲揃いの意欲的なプログラムでしたが、安嶋三保子さんの配慮の行き届いた安定感のある演奏を楽しめ、秋風幻想のような名曲との出会いもありましたので、非常に満足度の高い演奏会でした。年末年始のテレビ番組や演奏会はお節料理よろしくマンネリズムでツマラナイというのが通り相場なので、この演奏会に興味を持たれた方はオンライン視聴をお勧めします。因みに、個人的な話しで恐縮ですが、磐城平藩主・内藤義概(弟・内藤政亮に領地を分与して立藩した磐城湯長谷藩映画「超高速!参勤交代」に登場)は教養人として知られ、八橋検校磐城平藩の専属音楽家として召し抱えていますが、同時代に僕の先祖が磐城平藩士だったので八橋検校の演奏を拝聴する機会に恵まれていたかもしれないというのが僕の飲み屋の語り草です。
 
▼ブックサンタ
今年も、様々な事情で大変な状況にある子供達(日本のウクライナ避難者の子供達を含む)にサンタクロースから本を届けるチャリティプログラム「ブックサンタ」(NPO法人チェリティーサンタ)が開催されています。最寄りの書店やオンラインで気軽に参加できますので、心を温めてみませんか。なお、最寄りの書店で参加したところ素敵なサンクスレターとステッカー(左上写真)を頂戴し、また、後日、本を届けた子供達の声や写真が寄付者限定のWebページ(非公開)に掲載されるそうなので、僕らブックサンタにとって何よりのクリスマスプレゼントです。
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.12
シリーズ「現代を聴く」では、1980年代以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼アラシュ・サファイアンの「ファンタジー」(2020年)
イラン人の現代作曲家のアラシュ・サファイアン(1981年~)は、バイエルン芸術振興賞(2013年)や映画「Lara」バイエルン映画賞映画音楽部門(2019年)を受賞するなど注目されている若手作曲家です。この曲は、バッハの音楽をモチーフにした「Uber Bach」に続く第2段でベートーヴェンの曲をモチーフにした現代音楽「This Is (Not) Beethoven」に収録されています。
 
▼ララ・ポーの交響曲「地平線」(2017年)
アメリカ人の現代作曲家のララ・ポー(1993年~)は、RCMコンチェルトコンペティション作曲部門第1位(2018年)やBMI学生作曲家賞(2021年)を受賞するなど注目されている若手作曲家です。この曲は、RCMコンチェルトコンペティション作曲部門第1位(2018年)を受賞した後に、これを祈念してRCM交響楽団によって世界初演された作品です。
 
▼織田理史の「水の生」(2022年)
日本人の現代作曲家の織田理史(1993年~)は、「根源的な二元性から成る多様体(マルチメディア)」をテーマに電子音楽メディアアート等の作品を創作し、ペンシルバニア州立大学音楽祭2022で優勝、中国国際電子音楽コンクール2021で3位入賞など数々の国際コンクールで入賞している期待の俊英です。この作品は、ADGsアートとして水の歴史をテーマにした作品です。

演奏会「現音 Music of our Time 2022」とブリロの箱<STOP WAR IN UKRAINE>

▼マウスとデザイン(ブログの枕の前編)
現代人が1日の中で一番長く握り締めているものは筆記用具(~昭和)からマウスやスマホ(平成~)へ変化したと言えるかもしれませんが、来る12月9日は「マウスの誕生日」です。同じマウスでも「ミッキーマウスの誕生日」は11月18日ですが、パソコン画面上でカーソルを1ドット移動させるためにマウスを動かさなければならない距離は1/100インチ(=0.254mm)に設計されており、その距離(単位)のことを「ミッキー」と呼ぶのはミッキーマウスに因んでいます。1967年にITの父・D.エンゲルバートマウスを発明して特許を取得し、1968年12月9日にマウスのデモンストレーションを行ったことから「マウスの誕生日」とされています。それまでのコンピュータはプログラムを入力できる専門家しか扱えませんでしたが、マウスの誕生によって誰でも直観的な操作でコンピュータを扱うことができるようになり、その後のIT革命の礎となりました。1969年10月29日にUCLAのL.クラインロック教授からARPANET(インターネットの前身となるパケット通信ネットワーク)を使った最初のメッセージがD.エンゲルバートに送信され、この日が「インターネットの誕生日」になっています。このように今日のIT社会を支えているマウスやインターネット等は1960年後半に相次いで誕生していますが、S.ジョブズはマウスの開発がパーソナルコンピュータの普及に重要な鍵になると考えて操作性とコスト面に優れたシンプルなデザインにすることを追求し、1983年に世界初のマウスを使うためのインターフェイスを備えたコンピュータ「Apple Lisa」を発表して、各メーカーがマウスの改良等に乗り出したことからパーソナルコピューターが普及して行きます。これにより1997年にD.エンゲルバートはマウスの発明等(プログラム型コンピュータからインタラクティブ型コンピュータへの発展)の功績によりIT業界のノーベル賞と言われるチューリング賞を受賞しています。因みに、この前年の1996年にスマートフォンの原型となった電話機能付きPDA端末が発売されています。過去のブログ記事で触れたとおりS.ジョブズはマウスだけではなくMac(フォントを含む)やiPhoneの開発にあたってデザインを重視し、エンジニアが商品の仕様設計を行ってからそれに合う商品のデザインをデザイナーに考えさせるのではなく、デザイナーが商品のデザインを考えてからそれに合う仕様設計をエンジニアに行わせるという独特な開発プロセスを踏んだと言われています。この点、デザイン(design)の語源は、ラテン語のデ(de=削る)とザイン(sign=形作る)であり私欲を削ぎ落して本質を磨き上げることを意味していることから、デザインは「引き算」のプロセス(伝えたいものではなく伝わるもの)に重要な意義を求め、コンセプトとターゲットを意識してデザインする(削る)ことで伝わるものへと洗練させて行く創造的営為と言われています。S.ジョブズは、単なる表面的な美しさを追求するのではなく実用性と結び付いたシンプルで無駄のない機能美を追求した結果としてMacやiPhone等に見られる媚びない、驕らない洗練されたシンプルなデザインが誕生し、それが世界中の人々から圧倒的に支持される要因の1つになったと言われています。過去のブログ記事サウンドスケープ・デザインと脳の認知について簡単に触れましたが、それと同じくデザインのセンスは人間の「知覚」(体験=現在の情報)と「記憶」(学習=過去の情報)の組合せによって未知や未来を予測する能力(正確性や独創性等)のことであり、豊富な知識を蓄積することで物事を高い精度で最適化し得る脳の認知能力を磨くことが重要だと言われています。この点、S.ジョブズは、上述のとおり京都をはじめとして世界中を旅して色々な「本物」に触れながら豊富な知識を蓄積したことで自らのデザインのセンスを磨き、MacやiPhone等のデザイン性の優れた商品を生み出すことができたのではないかと思われます。
 
 
▼ブリロの箱とポップ・アート(ブログの枕の後編)
上記で採り上げた「マウスの誕生日」(工業デザイン)に因んで、先日、ポップ・アートの巨匠A.ウォーホルがマウスの誕生(1968年)と同時代に制作した代表作「ブリロの箱(Brillo Boxes)」(1964年)を島根県2025年春開館予定の鳥取県立美術館で所蔵する目玉作品として約3億円で落札したニュースが物議になっていました。マスコミ各社の論調を見ると、大要、①作品理解の問題、②購入経緯の問題及び③財政状態の問題の3点が議論になっていたようですが、このうち上記②及び③の問題は島根県島根県民との間のコミットメント・プロセスの問題であり部外者が口を挟むのは差し控えたいと思いますので、上記①の問題を考えるために簡単にポップアートについて採り上げてみたいと思います。過去のブログ記事でも触れましたが、第一次世界大戦で中・近世的な社会体制や価値観等が崩壊し、宮廷文化の伝統を受け継いだブルジョア(≒ 貴族)文化を象徴する伝統芸術を否定して「反芸術」(レディー・メイド、アッサンブラージュやコラージュなど既製品や大衆性を素材とする表現)を志向するダダイズムが誕生します。その後、第二次世界大戦帝国主義が崩壊し、世界の中心がヨーロッパからアメリカへ移行するとヨーロッパ(貴族社会)の伝統芸術に対するアメリカ(市民社会)の大衆文化が華開き、1950年代にイギリスでダダイズムの影響等からヨーロッパ(貴族社会)の伝統芸術に反発するアメリカの大衆文化を意味する「ポップ・アート」という概念が誕生し(「伝統からの解放」を志向するアメリカニズム)、その後、1960年代にアメリカで抽象表現主義(風景や人物など目に見えるものを描く具象絵画(伝統)から解放されて人間の内面など目に見えないものを描く自由な表現を志向して興隆しますが、やがてアーティストの自由な表現を制約する権威的な性格を強めて衰退)を否定し、再び、「反芸術」(大量生産・大量消費社会を背景としてレディー・メイド、アッサンブラージュやコラージュの素材として新製品ではなく廃棄物を利用するなど即物的、即興的な性格を強めた表現)を志向するネオ・ダダイズムやその影響を受けたポップ・アートが主流になります。ネオ・ダダイズムは、作曲家ジョン・ケージにも影響を与え、音響を即物的(ポップ・アートと同様に文脈から切り離された表現素材)、即興的(ポップ・アートと同様に創作者の作為から切り離された偶然性)に捉えた「4分33秒」等の作品を生み出す契機になりました。また、過去のブログ記事で触れましたが、M.シェーファーが著書「世界の調律」(1977年)で人工的に生み出される騒音など日常空間にある音環境を包括的に研究対象とするサウンドスケープという概念を提唱しています。1970年代にベトナム戦争でポップ・アートが時代の雰囲気に合わなくなると、社会的な権威に対するカウンターカルチャーとしてヒッピー文化が主流になりアースワークやミニマルアートが台頭しますが、その考え方がIT革命の思想的な基盤(例えば、管理者を置かない分散型ネットワークの発想など。因みに、S.ジョブズもヒッピーでした。)を形成したと言われています。その後、2000年代に入ってポップ・アート等を採り入れたストリート(ヒップ・ホップ)文化が華開き、また、ポップ・アートとメディア・アート(IT技術)が融合したネオ・ポップ(VTuberなどiポップを含む)へと発展します。このように伝統というシガラミ(歴史的な文脈)を持たないアメリカが震源となり、伝統芸術(ヨーロッパ文化)に反発する反芸術(アメリカ文化)としてポップアートが誕生し、社会的な権威(体制)に反発するカウンターカルチャー(若者)としてヒッピー文化が誕生し、また、中産階級(白人社会)に反発する貧困階層(黒人社会)からストリート文化が誕生しており、社会の歪みを背景として古い価値観を新しい価値観に塗り替えようと反発することで新しい文化を育んできたアメリカ(市民社会)のダイナミズムがあり、その先兵としてポップ・アートが位置付けられるのではないかと思います。ポップ・アートは、第二次世界大戦後に世界中を席捲したアメリカのフォード・システムに象徴される大量生産・大量消費を可能にした製造業(モノ)中心の現代社会をテーマとし、それまでの伝統芸術が扱ってこなかった広告、漫画、雑誌や写真など日常にある素材を使って制作された作品で、伝統芸術が求める見た目の美しさではなく、その背後にある考え方、思想やコンセプト等を重視した表現である点に特徴があります。よって、見た目の美しさを求めてポップ・アート(現代アート)を鑑賞しても、「これは芸術と呼べるのか」という種類の的外れな反応しか生まれず、その表現意図や価値観等を看破し得る現代や未来に開かれた豊かな教養力、洞察力や感受性等がなければ、いつまでも鑑賞は深まりません。1964年、A.ウォーホルは、ブリロのソープパッド、キャンベルのトマトスープやケロッグのコーンフレークなど大量生産・大量消費を象徴する商品の梱包箱に使用されているデザインをシルクスクリーンで忠実に転写した立体作品(彫刻)をニューヨークのギャラリーで発表しますが、これはメディア広告等により社会階層や国境等を越えて伝播する商品イメージ(記号、アイコン)をその本来の文脈から切り離して反復的に強調することで、(現在では当たり前のように享受していますが)大量生産・大量消費によって誰でも平等に同じ水準の生活を送ることができるようになった現代社会の特質を浮彫りにすると共に、その表現領域を現代の時代性にミスマッチな伝統芸術から逸脱して現代の時代性に迫真するフィールドへと拡張することで、現代社会の特質とも言える芸術と日常の融合やオリジナル神話の打破等を意図して現代の時代性に根差した表現スタイルを志向したものであり(大衆芸術革命)、芸術に日常的なものを採り入れる反芸術的な性格を持った「フルクサス」や芸術家の創作行為のみによって完結する自律型の表現スタイルを逸脱して聴衆の受容行為(体験)を通じて完結する参加型の表現スタイルを持った「ミニマリズム」等とも通底する考え方だと思われます。過去のブログ記事でも触れたとおり、ジャンル、メディアや次元等を越境し、人間の再現能力の限界を克服するデジタル社会の到来を先取りするかのような先進的な考え方を表現していたと言えるかもしれません。その意味で、鳥取県鳥取県立美術館で所蔵する目玉商品として、世界的に知られるA.ウォーホルの代表作「ブリロの箱」を落札したことは、上記②及び③の問題を除いて上記①の問題や県外民、訪日外国人の集客という点から言えば正しく慧眼であったと言えるかもしれません。なお、日本では、デヴィット・ボーイの楽曲「アンディ・ウォ-ホル」(1971年)やA.ウォーホルが出演するTVCM「TDKのHiFiビデオテープ」(1983年)などが有名ですが、最近では、UNIQLOのコラボ商品「アンディ・ウォーホルUT(ブリロの箱Tシャツ)」などが話題になっています。また、現在、「アンディ・ウォーホル・キョウト」展が開催されており、そのテーマソングとして常田大樹作曲の「Mannequin」が使用されています。
 
 
▼演奏会「現音 Music of our Time 2022」
日本現代音楽協会が主催する現代音楽のフェスティバル「現音 Music of our Time 2022」が11月13日から12月25日まで開催されており、フォーラム・コンサート第1夜、フォーラム・コンサート第2夜及び第39回現音作曲新人賞本選会の3公演をオンライン配信で視聴することにしましたので、日本人の現代作曲家の紹介がてら、その感想を簡単に残しておきたいと思います。但し、1公演の演目数が非常に多いので、紙片の都合から各演目につき一言づつの感想とさせて頂きます。
 
▼フォーラム・コンサート第1夜(11/24 オンライン視聴)
【演目】①scenes(2022年初演)
      <作曲>河野敦朗
      <B-Cl>菊地秀夫
      <Pf>榑谷静香
    ②チェロ独奏の為の「浄瑠璃」(2022年初演)
      <作曲>田口雅英
      <Vc>北嶋愛季
    ③Affectus Ⅴ~バスフルートとクラシックギターのための~
                           (2022年初演)
      <作曲>平良伊津美
      <B-Fl>大野和子
      <Gt>山田岳
    ④フルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための音楽
                           (2022年初演)
      <作曲>浅野藤也
      <Fl>増本竜
      <Cl>田中香織
      <Vn>亀井庸州
      <Vc>松本卓以
      <Pf>大須賀かおり
    ⑤三瀬川(2022年初演)
      <作曲>二宮毅
      <Hp>篠﨑史子
    ⑥ヤルダン〜風の壁画(2022年再演)
      <作曲>遠藤雅夫
      <尺八>田嶋直士
      <Vc>植木昭雄
    ⑦禱Ⅱ〜トロンボーン三重奏のための(2022年初演)
      <作曲>高見富志子
      <T-Tb>田厚生、西岡基
      <B-Tb>飯田智彦
    弦楽四重奏曲第3番「異形・日本・かぐや姫」(2013年再演)
      <作曲>ロクリアン正岡
      <SQ>弦楽四重奏団「Fluorite」
          <Vn>矢澤結希子、石川倫歌
          <Va>上見麻里子
          <Vc>小野口紗
【一言感想】
①scenes
scenesとは「光景」の意味で「音楽でも芸術でも自然でもなく、豊かな、未知の、よろこばしい何か、、、、」という解説が付されています。この解説に拘らず、僕の勝手な印象を書き残すとすれば、ピアノとバスクラリネットのスリリングなアンサンブルが展開され、ピアノの響きは迸る炭、バスクラリネットの音色は滲む炭のようであり、大胆な筆致、繊細な濃淡、凝縮された余白で紡がれる水墨画を見ているようなイメージで最後まで弛緩することなく楽しめました。
 
②チェロ独奏の為の「浄瑠璃
曲名にもあるとおり「伝統的な素材を模倣した部分とそこからの様々な逸脱や変形の組み合わせからなっており、浄瑠璃の音楽の要素を現代的な手法で素材化・再構成することを試みた。」という解説が付されています。低音と高音の音色やピッチカート、フラジオレットグリッサンド、スル・ポンティチェロ等の特殊奏法を効果的に使い分けながら義太夫の語りや三味線の節付け等が明瞭に感じられる面白い曲趣で、その面白味が感じられる雄弁な演奏も出色でした。
 
③Affectus Ⅴ~バスフルートとクラシックギターのための~
Affectusとはラテン語で「情緒」の意味で「フーガを多く用い、ある意味古典的な作品になりました。また、特殊奏法も多く使い、引き締まった作品になりました。」という解説が付されています。撥弦楽器木管楽器という珍しい組合せによって奏でられるアンサンブルがこのように相性が良いものかと驚かされましたが、特殊奏法を効果的に使用しながら非常に表情豊かな曲趣を表現力豊かな演奏で楽しむことができました。
 
④フルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための音楽
「それぞれの楽器が対立することなく、それぞれの歌を歌いながらお互いに寄り添うように溶け合うようなアンサンブルになるように心がけながら作曲した。」という解説が付されています。各楽器に主張はありますが、それは他を押し退けるものではなく各楽器との関係性の中で調和している不思議な曲趣です。「混ぜる」(洋食)ではなく「和える」(和食)という日本的な考え方に親和的で、ダイバシティが尊重される現代の時代性を感じさせます。
 
⑤三瀬川
三瀬川は「三途の川」の別称で「このコロナ禍において、つかの間の不通のはずが思いがけず永久の離別となり、その見送りすら適わぬものが相次いだ。それは送る者のみならず旅立つ者にもまた同じであったのかとも思う。こうしたことの自身の身近な知人への送りの音楽として、この作品を編むに至った。」という解説が付されています。人間の死がもたらす荘厳で静寂な時を想起させる鎮魂歌とでも言うべき印象深い曲趣です。
 
⑥ヤルダン〜風の壁画
ヤルダンとはウイグル語で「険しい崖のある土丘群の地」の意味で「この幻想的な光景を尺八とチェロで転写しようと作品を書き進め」「尺八は第1楽章は一尺八寸、第2楽章では一尺六寸、第3楽章二尺三寸管が使われ、それぞれ朝昼夜のイメージを重ねた。」という解説が付されています。尺八は風、チェロは壁画を表現したものだろうか、風(尺八)と壁画(チェロ)が表情豊かに絡み合う景色を見てるような面白さがありました。
 
⑦禱Ⅱ〜トロンボーン三重奏のための
「突如発生したパンデミックは姿形を変え、多くの人々の心に新たな戸惑いや悲しみの影を落としていますが、私自身もその余りの大きさ、重さに未だ心の整理つかないままの状況で」「こうした、私の千々に乱れる今の思いをトロンボーン三重奏によって表現することを試みました。」という解説が付されています。鬱屈として気が晴れず、情緒も不安定になり厭世観に苛まれている現代人の心情を巧みに表現し、どこか思い当たる節のある共感溢れる曲趣に感じ入りました。
 
弦楽四重奏曲第3番「異形・日本・かぐや姫
かぐや姫が地球の六人の男の結婚要望を拒んだ如くに一オクターブ半音階の一つ置きの音を捨て、残る6音のみによる全音音階(WTS)に使用音を限った」「現代人は全音階(DS)に調律されている。演奏者が発射する全音音階の音達が撥のように人の聴覚を打つとき、自ずと全音階の音が鳴り12個のいずれかの調性感が備わる」という解説が付されています。過去のブログ記事でも触れましたが、音楽の認知について考えさせられるコンセプチュアリズム作品です。
 
▼フォーラム・コンサート第2夜(11/25 オンライン視聴)
【演目】①ダンテスダイジの詩による二つの歌曲(2022年初演)
      <作曲>大平泰志
      <Sop>根本真澄
      <Pf>宮野尾史子
    組曲 気候変動Ⅳ 静と動(2022年改訂初演)
      <作曲>楠知子
      <Pf>楠知子
      <Pc>サウンド再生
    ③Go Down the Rabbit Hole(2022年初演)
      <作曲>桃井千津子
      <Fl>鈴木茜
      <Pf>筒井紀貴
    メディテーション(2007年初演)
      <作曲>堀切幹夫
      <Vc>豊田庄吾
      <Pf>高木早苗
    ⑤ゆがんだ十字架のヴァリアント ―ピアノ独奏のための―
                           (2008年再演)
      <作曲>木下大輔
      <Pf>堀江真理子
    クラリネットソナタ第3番(嘆きの歌)(2022初演)
      <作曲>露木正登
      <Cl>鈴木生子
      <Pf>及川夕美
    ⑦《夕闇のかなたに》~マリンバ独奏のための(2022年改訂初演)
      <作曲>河内琢夫
      <Mar>高橋治子
【一言感想】
①ダンテスダイジの詩による二つの歌曲
「禅者であり、最終解脱者でもある、ダンテスダイジの詩」「性と死というコインの表裏のような関係にある2つの主題を選び」「「性愛」はエロスを通じた悟りに関する詩であり、「いつ死んでもいい」はより人生的な悟りに関する詩である。」という解説が付されています。性と死に関する「悟り」とありますが、その言葉が持つイメージとは裏腹に跳躍音が多く非常にダイナミックな曲調で、人間の本性を看破した詩の世界観を力強く訴え掛けてきます。
 
組曲 気候変動Ⅳ 静と動
「コロナワクチンの開発で人類の壊滅的危機は回避されたのも束の間、春には、デジタルメディアによって、東欧の紛争が連日報道された。私も微力ながらと、思いを馳せ、自宅でその国歌のメロディーに伴奏をつけてみた。すると、哀愁を帯びた短調長調の未分化のものが聞こえる。」という解説が付されています。善意と憎悪、救いと破壊、希望と絶望など様々なものが混沌とする複雑な時代に生きていることを想起させる含蓄のある曲想で聴き応えがありました。
 
③Go Down the Rabbit Hole
「曲は3つに分かれ、賛美歌風(過去)、フーガ風(現在)、舞曲風(未来)の雰囲気をもつ」「「ドリア」は記憶の薄れ、「オクタトニック2種」はコロナ渦の最中、「完全4度の連続も含むぺンタトニック5種」で未来を予想、これらを順列による(小節ごとの)使用音で「異なる状況」の表現を試みた。」という解説が付されています。非常に曲想が豊かで個人的には好みの曲趣なので、この作曲家の他の作品も聴いてみたいと思っています。
 
「短い間だったけれど、共に生活をした女性との思い出がある」という設定のようですが、「属九の和音(それは彼女の豊かな肉体の響きだ)をベースに」「13分のメディテーションは終わる。」という解説が付されています。曲名のとおり全体を通して瞑想的な曲調が支配的で、優しい語り口のチェロと、これに寄り添うピアノが心地よい気怠さのようなものを漂わせる繊細な演奏を楽しむことができました。
 
⑤ゆがんだ十字架のヴァリアント-ピアノ独奏のための-
「この作品ではシ/ド♯\ソ/シ♭の音型を用いる。この4音は音程関係がシンメトリーではない。すなわち「ゆがんだ十字架」」「この音型にもとづく主題と、その自由な性格変奏6篇から成る。」という解説が付されています。冒頭で主題の音型が印象的に提示された後、これに続く明瞭な性格的特徴に彩られた変奏がドラマチックに展開する聴き応えのある作品でした。アーカイブ配信が数日で終了してしまうので、是非、音盤のリリースが待たれます。
 
クラリネットソナタ第3番(嘆きの歌)
クラリネット独奏によるプロローグとエピローグを伴った3つの楽章により構成」「プロローグは「嘆きの歌1」、第1楽章は「5つの情景と嘆きの歌2」、第2楽章は「間奏曲」、そして第3楽章は「嘆きの歌3」」という解説が付されています。クラリネット奏者・鈴木生子さんに献呈された曲ですが、クラリネットの陰影のある深みを感じさせる音色が印象的で、クラリネットとピアノのスリリングな丁々発止も聴きどころとなっていました。
 
⑦《夕闇のかなたに》~マリンバ独奏のための
「この作品は北海道小樽にほど近い余市町にあるフゴッペ洞窟の古い壁画に触発されて作曲」「初めて小樽近郊を訪れたのはある冬の寒い夕暮れ時だったが、曲のタイトルと全体のムードはその時の心象風景」という解説が付されています。この壁画はアイヌ民族よりも前の先住民が描いたものだそうですが、マリンバの豊かな色彩感や空間的な広がりを感じさせる響きによって、この土地に重層的に刻まれている歴史へと誘われているような感慨深さが感じられました。
 
▼第39回現音作曲新人賞本選会(12/5 オンライン視聴)
【演目】▼第1部:現音作曲新人賞本選会(テーマ:弦楽アンサンブル)
    ①Rrrrrr...(2022年初演)
      <作曲>吉田翠葉(新人賞入選)
      <Vn>佐藤まどか
      <Va>甲斐史子
      <Vc>松本卓以
      <Gt>土橋庸人
    ②ブラウンノイズ〜2台のヴィオラと2台のチェロのための〜
                           (2022年初演)
      <作曲>井上莉里(新人賞優勝、聴衆賞)
      <Va>安藤裕子
      <Va>甲斐史子
      <Vc>松本卓以
      <Vc>山澤慧
    ③A.コレッリによる〈ルーツ〉 弦楽三重奏のための
                           (2022年初演)
      <作曲>徳田旭昭(新人賞入選)
      <Vn>松岡麻衣子
      <Va>安藤裕子
      <Vc>山澤慧
    ④でぃすこみゅ:Statement(20227年初演)
      <作曲>中村俊大(新人賞入選)
      <Vn>佐藤まどか
      <Va>甲斐史子
      <Vc>松本卓以
      <Vc>山澤慧
    ▼第2部:日本現代音楽協会会員作品上演
    ⑤Tactics-for Violin and Violocello-
                           (2022年初演)
      <作曲>中辻小百合
      <Vn>佐藤まどか
      <Vc>松本卓以
    ⑥Adagietto for string trio
                           (2022年初演)
      <作曲>赤石直哉
      <Vn>松岡麻衣子
      <Va>安藤裕子
      <Vc>山澤慧
    ⑦螺旋の記憶Ⅱ〜2つのヴィオラのための(2022年初演)
      <作曲>山内雅弘
      <Va>安藤裕子
      <Va>甲斐史子
【一言感想】
①Rrrrrr...
「モールス信号と点字を利用し、英語、フランス語、日本語の「繰り返し」という単語のみを用いて」「リズムを発展させて繰り返し(中略)和声においても1つの核和音から全て派生させ構成」という解説が付されています。この曲の特徴は曲名によく現われていますが、短いリズムの繰返しはベートーヴェン(ミニマルの元祖?)へのオマージュにも聴こえ、モールス信号や点字(6点の組合せ)のように音を点描するような着想の面白さを感じさせる曲です。
 
②ブラウンノイズ〜2台のヴィオラと2台のチェロのための〜
「持続性というものは大切にし、テンポや拍子は常に一定であるがその中で様々な表情の変化があること、そして低く調弦されたヴィオラとチェロが絡み合いながら新たな音色を見出」という解説が付されています。最近、集中力や睡眠等への効果から話題になっているカラードノイズをテーマとした曲ですが、これまで(映画を除いて)ノイズとして安易に切り捨てられていき音(非可聴音を含む)が持つ豊かな表現力、広陵とした世界観が感じられる興味深い曲です。
 
③A.コレッリによる〈ルーツ〉 弦楽三重奏のための
「A.コレッリによる旋律が引用され」「音楽的財産の引用から作曲方法をさらに掘り下げ、何らかの新たなヴィジョンを示すことを目指して書かれた」という解説が付されています。コンチェルト・グロッソに代表される弦楽アンサンブルの発展に多大な貢献があったA.コレッリの曲を遠景に捉えながら、伝統のシガラミから解放されて音楽表現を大幅に拡張してきた現代的な視座から弦楽アンサンブルの可能性を示す意欲的で示唆に富む作品を楽しめました。
 
④でぃすこみゅ:Statement
ディスコミュニケーション(相互不理解)の音楽のステートメント(声明)であり、現代におけるディスコミュニケーションの種々の様相を描写しようと試みるもの」という解説が付されています。人間の真実(下世話なこと)を表現することがタブーなクラシック音楽に対し、タブーなく人間の真実に迫って行く現代音楽の醍醐味のようなものが感じられる曲です。「誤解によって愛は始り、理解によって愛は終わる」とも言いますが、夫婦で耳を傾けたい一曲です。
 
⑤Tactics-for Violin and Violocello-
「チェロを捕食者、ヴァイオリンを被食者に見立て」「色々な生き物たちが天敵から逃れるために身につけた多種多様な戦略に焦点」という解説が付されています。生物の生存戦略を豊かな描写力で表現した知的好奇心を掻き立てる面白い曲で目を見張りました。音楽とは人間の心を伝えるだけの矮小なものではなく、宇宙の真理や自然の摂理などを表現し得る大きな器を持ったものだということを実感させてくれる曲です。佐藤さんと松本さんの当意即妙な演奏も出色。
 
⑥Adagietto for string trio
「テーマもモティーフもありません。ただの音、音たち」「当初全てラだけで書こうとしていましたが、あまりの怠惰を省み音が増えていきました」という解説が付されています。この解説によれば、コンセプトや音型等が設定されていない曲のようでしたので音脈が感じられないカオスな曲趣を想像していましたが、寧ろ、メリハリのある音脈のようなものが感じられ、それが繰り返されながら様々に変容して行く構成力や表現力のある曲という印象で楽しめました。
 
⑦螺旋の記憶Ⅱ〜2つのヴィオラのための
「第1楽章では第2ヴィオラはC線とG線を半音低く調弦し」「2つのヴィオラは基本的に協調しつつ、DNAの二重螺旋のように絡み合いながら、いわゆるスパイル・ポリフォニーによって展開」という解説が付されています。ヴィオラからこんな音色や音場を紡ぎ出せるものなのかと舌を巻くような独創的な曲趣で、これまでにない新しい音楽体験に完全にノックアウトされました。ヴラヴォー!この世界観を音楽として再現してしまう安藤さんと甲斐さんの力量にも脱帽。
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.11
シリーズ「現代を聴く」では、1980年代以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼ミケル・ケレムの「1984組曲」(2019年)
エストニア人の現代作曲家のミケル・ケレム(1981年~)は、ヴァイオリニストとしても著名で作曲活動と共に演奏活動も精力的に行っている期待の俊英です。この動画は、権威主義国家に分割統治される近未来の世界の恐怖を描いたジョージ・オーウェルの小説「1984年」を題材に制作されたミュージック・シアター作品で、ケレムが楽曲提供しています。
 
▼エリク・デシンペラーレの「独奏コントラバスメゾソプラノとオーケストラのための風の夜の狂詩曲」(2019年)
ベルギー人の現代作曲家のエリク・デシンペラーレ(1990年~)は、ピアニストとしてコントラバス奏者の兄と共に演奏活動も精力的に行っており、2013年にハレルベーケ国際作曲コンクールで優勝している期待の俊英です。この曲は、イギリスの詩人T.S.エリオットの詩「風の夜の狂詩曲」に着想を得て作曲され、コントラバス奏者の兄に捧げられたものです。
 
▼會田瑞樹の「雨の降る前に… -二人の奏者と一台のヴィブラフォンのための-」(2021年)
日本人の現代作曲家の會田瑞樹(1988年~)は、ヴィブラフォン奏者としても著名で作曲活動と共に演奏活動も精力的に行っており、2021年度第59回レコードアカデミー賞を受賞している期待の俊英です。武満徹の名曲「雨の樹」のプレリュードとして作曲され、ペットボトルやチェーンなどを使った特殊奏法が面白い演奏効果を挙げています。

演奏会「洗足学園オンラインフェスティバル2022」と映画「土を喰らう十二ヵ月」と一汁三菜の日<STOP WAR IN UKRAINE>

▼一汁三菜の食文化(ブログの枕の前編)
毎月13日は「一汁三菜の日」とされていますが、2013年に「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録され、それを記念して「うま味」(1908年に東京帝國大学・池田菊苗教授が「甘味」「酸味」「塩味」「苦味」とは異なる第5の味としてうま味成分であるアミノ酸に含まれるグルタミン酸を発見し、これによって「UMAMI」は国際公用語になり、現在、西洋料理のソース作りや調味料等にも活かされています。)を上手に使うことで動物性の油脂が少ない食生活を実現し、また、余分な塩分や糖分等を排出して消化吸収を良くする理想的な栄養バランスを実現する一汁三菜を食育に活かすことを目的として2016年に「一汁三菜の日」が設けられました。一汁三菜とは、「ごはん」(炭水化物)、「汁物」(水分)、「おかず(主菜1品、副菜2品)」(主採:タンパク質、副菜:食物繊維、ビタミン、ミネラル等)で構成される献立のことで、手前左側に「ごはん」、手前右側に「汁物」、奥左側に副菜、奥中央に副々菜、奥右側に主菜を配膳します。因みに、過去のブログ記事でも触れましたが、日本建築は玄関の土間で履き物を脱いで一段高く設えられた床に上がって家内に入る「高床式建築」ですが、西洋建築は玄関の土間と床の区別がなく履き物を履いたまま家内に入る「土間式建築」です。この違いは、狩猟民族が多い西洋では何時でも狩りに出られるように家内でも履き物を履いたままの方が都合が良かったのに対し、農耕民族である日本は多雨多湿な気候による洪水や湿気を避けるために地面よりも一段高い場所に食料を保存する必要があり、その床が湿気を持った泥等を吸わないように家内では履き物を脱ぐ方が都合が良かったことにあると考えられています。その結果、西洋では土間と床の区別がないことから、人間がくつろぎ、食事をとる場としての家具(椅子やテーブル、ベットなど)が発達しましたが、日本では土間と区別して床が設えれたので、人間がくつろぎ、食事をとる場として床がそのまま使われるようになりました。このため、顔に間近い高さのテーブルの上で食事をとる西洋では食器を持ち上げないままで食事をとることが可能でしたが、顔から距離がある床に据え置かれた膳で食事をとる日本では食器を持ち上げて食事をとらなければならなくなったという食文化の違いになって現れています。また、狩猟民族が多い西洋では1つの獲物(動物)を囲んで食事をしたことから皆が同じテーブルを囲んで食事をとるスタイルになり、その1つの獲物(動物)が盛られた食器を持ち上げて独り占めすることはマナー違反であると考えられるようになりましたが、農耕民族である日本では複数の作物(主に植物)を一人づつ分配して膳で食事をとることから自分に分配された作物(植物)のみが盛られている食器を持ち上げて食事をしてもマナー違反にはならなかったという事情も挙げられると思います。このような食文化の違いを背景として、日本では身分(官職の上下、父と母子、嫡子と庶子など)に応じて膳に盛られる食事の内容に差がつけられるようになり、その後、近代になって膳ではなくテーブルが使われるようになってからもお父さんや長男はおかずの品数が多いや魚や肉などの主菜がひと回り大きいなど「食卓の差別」として膳(食文化)の影響が残ることになったと考えられます。いつから「一汁三菜」という和食スタイルが定着したのかは分かっていませんが、最も古い記録として平安時代末期から鎌倉時代初期の時代に書かれた様々な病気を記録した絵巻物「病草紙」に収録されている「歯のゆらぐ男」(一般庶民の男性が歯槽膿漏歯周病)になり、歯がぐらついて用意された食事を食べられずに困り果て、口を大きく開けて妻に歯を見て貰っている絵)には「ごはん」、「汁物」、「おかず(主野1品、副菜2品)」が並べられている様子が描かれており、この頃には「一汁三菜」という和食スタイルが確立していたことが窺えます。因みに、歯槽膿漏歯周病)は、歯と歯茎の境目に歯垢(口内細菌)がたまって歯茎を炎症させ、やがて骨を溶かして歯がぐらつくようになり終いには歯が抜けてしまう病気です。人間の口には約300種類以上の口内細菌が存在すると言われていますが、歯茎の抵抗力が弱いと僅かな口内細菌でも歯槽膿漏歯周病)を発症し易い危険があると言われており頻繁に歯を磨いて口内細菌の数を減らすべく努めることで歯槽膿漏歯周病)の発症を予防することが重要と言われています。この点、人類の歯磨きの歴史は意外と古く人類が狩猟採取から農耕牧畜へ移行した約1万年前頃(農業革命)と言われていますが、その後、中国から仏教と共に歯磨きの習慣が日本へ伝来し(釈迦は弟子達の口臭に悩まされて歯磨きを勧めたことが仏典「律蔵」に収録されています)、当初は僧侶の間で歯磨きが行われるようになり、やがて朝廷貴族等の上流階級へ広がりました。その後、1625年に研磨砂や漢方薬から作った日本初の歯磨粉「丁字屋歯磨(大明香薬)」が発売され、一般庶民にも歯磨きの習慣が普及しました。この商品には「歯を白くする」「口の悪き匂いを去る」という効能が書かれていたそうですが、江戸時代には歯並びが良く歯の白い男性がモテたようなので、江戸っ子は歯磨きに精を出したと言われています。なお、歯磨きの習慣と共に歯を磨くための木(歯木)も日本へ伝来しますが、後に、これが爪楊枝へ発展し、江戸時代には浅草寺に約200軒の爪楊枝屋が軒を並べるほど繁盛したそうです。中国思想「薬食同源」は「五味は、五臓を養う」としてバランスの良い食事が生命を養い健康を保つために重要であると考えられていましたが、1972年、この考え方を採り入れた「医食同源」という造語が日本で生まれ、高度経済成長に伴う飽食や洋食文化の普及に伴うバランスに配慮に行き届かない食事が日本人の健康に与える悪影響について国民的な関心が高まりました。この点、一汁一菜によるバランスの良い食事だけではなく、オーラルケア(食後の歯磨きだけではなく食中の咀嚼(唾液分泌量の増加)による口腔衛生の確保を含む。)の視点からも日本の食文化を捉え直して見る必要があるかもしれません
 
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病草紙「歯の揺らぐ男」<国宝/京都国立博物館蔵>
 
▼味覚と錯覚(ブログの枕の後編)
プログの枕の前編では、生活の三大要素「衣食住」のうち、食文化の観点から「食」と「住」の関係について触れましたが、過去のブログ記事でも触れたとおり「食」と「衣」の間にも密接な関係があります。約5億年前に植物は移動せずに太陽光を利用して自らエネルギーを作り出すという生存戦略を選択しましたが、動物は移動して他の生物を捕食しエネルギーを摂取するという生存戦略を選択し、そのうちの恒温動物は他の生物をより多く捕食するために広範囲を移動する必要から外気温の変化に左右されず活動を継続できるように体温を一定に保つ生理機能が備わり、そうちの人類は約20万年前頃から外気温の急激な変化にも体温を一定に保つことができるように「衣」(人間の体温調整を補うための毛皮や植物など)を着用し始めたと言われています。その意味で、人間の生命維持にとって「食」と「衣」は密接不可分な関係にあると言えます。これに対し、動物に捕食されないように他の生物は毒を蓄え又は腐敗することなどで身を守る生存戦略をとるようになり、動物が他の生物を捕食するのは危険を伴う行為になりました。そこで、動物は最初に食物に触れる舌を毒見役として味覚を発達させて、「身体に有益なもの」は美味しいとして好み、「身体に有害なもの」は不味いとして嫌い、とりわけ生命の危険を招く可能性がある有害なものは嘔吐という生理的反応を起こすことで生存可能性を高めるようになります。この点、味覚は、舌の表面にある味蕾という味覚受容体(味細胞)が物質(分子)を感覚することで「味」を感じますが、その「味」は脳が創り出している感覚(知覚)で、それによって生理的反応(美味しいとして好む、不味いとして嫌う、嘔吐など)を起こすことが分かっています。過去のブログ記事で視覚や嗅覚の基本的な仕組みに触れ、物質に色や匂いが付いている訳ではなく(客観的な世界)、人間の目や鼻で受容した「感覚」(目は光、鼻は分子)を電気信号に変換し、それを神経を介して脳に伝達することにより脳が創り出す「知覚」が色や匂いの正体であることを言及しましたが(主観的な世界)、これは味も同様で、物質(分子)に固有の味がついている訳ではなく(客観的な世界)、人間の舌で受容した「感覚」(唾液に溶けた化学物質)を電気信号に変換し、それを神経を介して脳に伝達することにより脳が創り出す「知覚」が味の正体です(主観的な世界)。なお、人間の味覚受容体が物質(分子)を感覚するためには、その物質(分子)が、①水溶性であること(味覚受容体が物質(分子)を感覚するためには味蕾の味菅を満たしている液体に物質(分子)を溶かさなければなりません。よって、箸やスプーンなど液体に溶けないものを口に入れても味はしません。)及び②味覚受容体に対する適応性があること(1種類の味覚受容体は1種類の基本味に適応し、人間には5種類の基本味に対応する5種類の味覚受容体があります。)が必要と考えられています。因みに、5種類の基本味とは、「甘味」(エネルギー源のシグナル)、「塩味」(ミネラル源のシグナル)、「酸味」(腐敗のシグナル)、「苦味」(毒物のシグナル)、「うま味」(アミノ酸のシグナル)を意味しており、「辛味」や「渋味」は味覚ではなく刺激として痛覚や温度覚に分類されています。この点、猫には「甘味」を感覚する味覚受容体はなく砂糖を舐めても味を感じませんが、これは猫を含む肉食動物の進化の過程で糖類を含む果物等を食物の選択肢から除外したことから甘味を感覚する必要がなくなり退化したと考えられています。これと同様の理由から、竹や笹を主食とするパンダは「うま味」を感覚する味覚受容体がなく、食物を咀嚼せず飲み込むイルカは「甘味」を感覚する味覚受容体がないなど、動物によって味覚は大幅に異なっています。また、肉食動物は味蕾の数が少なく猫の味蕾の数は約500個しかありませんが、上述と同様の理由で肉食動物は植物を捕食しないことから毒見をする必要がないためだと考えられています。その一方で、草食動物の味蕾の数は多く豚の味蕾の数は約15,000個、牛の味蕾の数は約25,000個、来年の干支である兎(卯)の味蕾の数は約17,000個もありますが、これは植物を捕食することから毒見をする必要があるためだと言われています。上述のとおり植物は移動せずに自らエネルギーを作り出す生存戦略を選択したことで、動物に捕食されないように毒を蓄えるようになりましたが、動物は無数に生い茂る植物達の中から毒を蓄えている植物と毒を蓄えていない植物を見分けることは困難であることから(視覚が不得手な分野)、植物の味で判断する必要があったのではないかと考えられています(味覚が得手とする分野)。なお、雑食動物である人間の味蕾の数はそれらの中間で約5000~約7000個ありますが、老年期になると味蕾の数が著しく減少して味覚(とりわけ塩味)の感度が低下するため、一般的な傾向として老人は塩辛いものを好むようになると言われています。上述のとおり脳が創り出す「知覚」が味の正体ですが、味覚(味)だけではなく嗅覚(風味)も重要な影響を及ぼしており、これにより風邪をひいて鼻が詰まっている(鼻をつまんで食事をしても同じ)と食事が味気(風味)なく感じると言われています。人間の嗅覚は、鼻先から空気を採り入れて鼻腔へ流れ込んだ物質(分子)を受容する「オルソネーザル」という経路と口腔から食物を採り込んで鼻腔へ流れ込んだ物質(分子)を受容する「レトロネーザル」の2経路で匂いを感じていますが、脳はオルソネーザルを経由して感じた食物の匂いからレトロネーザルを経由して感じる食物の風味を正確に予測すると言われており、その風味が食物の好き嫌いに影響すると言われています。子供が嫌いな食物を食べるときに鼻をつまんで咀嚼せずに飲み込むのは、嫌いな食物の風味を感じないようにするために有効な対策と言えます。また、脳が創り出す「知覚」には嗅覚だけではなく聴覚や視覚など他の感覚も影響しており、例えば、好きな音楽を聴きながらジェラートを食べると甘さを引き立てる効果がある一方、嫌いな音楽を聴きながらジェラートを食べると苦さを際立たせる傾向があることが分かっており、近年では「音響調味」の研究が盛んになっています。また、「わさび」と「からし」は異なる味と認識している人が多いと思いますが、「わざび」と「からし」の原料は同じくアブラナ科の植物から採取され、その辛味成分も同じアリルイソチオシアネートなので(「わざび」にはグリーンノートという香料が添加されていますが、その香りは数分で減衰)、「わさび」と「からし」を目隠しをして食べると味の区別がつかなくなるという実験結果があり、脳が色と香りから「わさび」と「からし」を異なる味であると知覚(錯覚)していると考えられています。これと同様に、かき氷のシロップにはレモン、メロン、イチゴなど色々な種類がありますが、それぞれのシロップの原料は同じ果糖ブドウ糖液糖なので、それぞれのシロップのかき氷を目隠しをして食べると味の区別はつかなくなるという実験結果があり、やはり脳が色と香りからそれぞれのシロップを異なる味であると知覚(錯覚)していると考えられています。このほかにも、黒いグラスに注いだワインは赤い照明をつけると甘くフルーティーに感じられるという実験結果があるなど、脳が創り出す「知覚」は視覚から大きな影響を与えていることが分かります。このような現象は、ごく一部の人にしか見られない「共感覚」(ある感覚刺激から別の感覚を引き起こす現象で、例えば、ある色を見るとある匂いを感じるなど。)とは異なり、多くの人に見られる「クロスモーダル」(感覚間相互作用)という現象であり、このような食事が人間の複数の感覚器官に作用する現象を研究するために実験心理学、認知神経学、知覚科学、ニューロ・ガストロノミー、マーケティング学、デザイン学、行動経済学などの学問分野を統合した「ガストロフィジスク」(「ガストロノミー」(美食学)と「サイコフィジスク」(精神物理学)を組み合わせた造語)という学問分野が注目を集め、その研究成果を活かした「オフ・ザ・プレート・ダイニング」(料理を超えるトータル・プロダクトとしてのマルチセンソリーな食体験)という新しい食文化が生れています。人間は常に複数の感覚を働かせて雰囲気や環境を感じており、その雰囲気や環境が料理を味わい、食体験を楽しむうえで非常に大きな影響を与えていることが分かっています。また、その研究成果はVR技術の開発にも応用され、例えば、プレーンクッキーをチョコレートクッキーであるかのようなバーチャルな映像と香りを与えながら食べさせると、脳はチョコレート・クッキーを食べたと知覚(錯覚)するという実験結果があり、映像や香りを偽装して脳をだます「食のトリックアート」という技術が注目されています。将来、この技術を使って効率的なダイエットや効果的な糖尿病治療などが可能になると期待されています。また、人間の頭部(脳)へ電気信号を送ることでバーチャルな視覚、嗅覚、味覚、聴覚や触覚を知覚させる技術開発も進んでおり、虚実皮膜の間を彩る芸術体験に革新的な潮流を生み出すことが期待されています。
 
高家神社(料理の神様)(千葉県南房総市千倉町南朝夷164
②包丁塚(高家神社)(千葉県南房総市千倉町南朝夷164
③鯖の塩麹発酵セット(道の駅こうざき)(千葉県香取郡神崎町松崎855
④落花生焼酎ぼっち(道の駅こうざき)(千葉県香取郡神崎町松崎855
高家神社(料理の神様)日本で唯一「料理の神様」をお祀りしている神社で、日本全国の料理人から崇敬されています。千葉県は醤油の生産量が日本一で三大醤油メーカー(キッコーマン、ヒゲタ、ヤマサ)の本社がありますが、毎年、ヒゲタは高級醤油「高倍」を高家神社に奉納しています。キッコーマン宮内庁御用達、ヒゲタは神様御用達の醤油と言えます。 包丁塚(高家神社/料理が趣味であった孝行天皇が臣下・藤原山陰に命じて宮廷行事の四條流包丁式を確立します。右手に包丁、左手にまな箸を持ち、食材に指一本触れずに雅楽の演奏に合わせて魚を捌きます。毎年、四條流包丁式が高家神社に奉納されており海外の料理人からも注目されています。四條流包丁式は映画「武士の献立」の一場面にも登場しています。 鯖の塩麹発酵セット(道の駅こうざき)/江戸時代から発酵文化が盛んであった神崎にある道の駅こうざきでは、神崎で生産された発酵食品のほかに日本全国から厳選された発酵食品が販売され、レストラン・オリゼでは発酵食品料理を楽しむことができます。店名は、清酒、味噌、醤油、みりんの発酵に欠かせないアスペルギルス・オリゼ(麹菌)を意味しています。 落花生焼酎ぼっち(道の駅こうざき)/千葉県は落花生の生産が日本一で、その収穫期にあたる11月11日は落花生の日とされています。道の駅こうざきには、千葉県産の落花生を使用して作られた焼酎が販売されていますが、落花生の豆は「畑の肉」と言われていますが、落花生の香りに加えて、どことなく肥沃な土が持つ風味のようなものも感じられて美味です。
 
【演題】土を喰らう十二ヵ月
【監督】中江裕司
【原案】水上勉
【脚本】中江裕司
【音楽】大友良英
【料理】土井善晴
【出演】<ツトム>沢田研二
    <真知子>松たか子
    <美香>西田尚美
    <隆>尾美としのり
    <写真屋瀧川鯉八
    <文子>檀ふみ
    <大工>火野正平
    <チエ>奈良岡朋子
【開演】2022年11月13日(日)
【料金】1800円
【感想】
▼映画「土を喰らう十二ヵ月」と一汁一菜
去る11月11日(映画の料理を担当している井上義晴さんが提唱している「一汁一菜」を意識して選ばれた公開日でしょうか?上述のとおり千葉県の特産品である落花生の日でもあります。)に映画「土を喰らう十二カ月」が公開され、観客が少ないオールナイト上映で鑑賞してきましたので、ネタバレしない範囲でごく簡単に感想を残しておきたいと思います。「食」という漢字は「人」に「良」と書きますが、過去のブログ記事でも触れたとおり、この映画の題名には食という営みの根源的なものが現れているように思います。この映画は、作家・水上勉さんの料理エッセイ「土を喰う日々 わが精進十二カ月」が原作になっており、「食」を通じて自然界を生滅流転する命(死生観)について描きながら「食」を見詰め直した映画です。陳腐なヒューマンドラマに彩られた感傷的な内容ではなく、人間の真実を描き出そうとする作り手の真摯な態度に好感を覚えました。ストーリーは長野県の山深き雪深きポツンと一軒家に暮す作家・ツトム(作家・ツトムを演じる沢田研二さんの面構え、手付きや佇まいなどから滲み出てくる朴訥とした燻し銀の演技がこの映画の隠し味になっています。)の日常を四季の移り変わり(節気)と共に淡々と描くもので、近所にコンビニ、スーパーや飲食店等がないので、日々、「畑にあるもの」「自然にあるもの」(それらを梅干、漬物や味噌等として発酵させた保存食を含む)を使って幼少期に禅寺で修行した精進料理を作り、自然を頼りとして一所、懸命に生きるという内容です。この映画では、道元著「典座教訓」(典座とは禅寺で「食」を司る僧のこと)の言葉を引用しながら、「畑にあるもの」「自然にあるもの」を頂くことは栄養価の高い「」の食材を頂くことであり、また、「畑にあるもの」「自然にあるもの」に触れ、土を洗い流し、それを頂くことは自然-台所-人間(腸)がつながっていることを日々感じることであり、それが「食」(生きる)ということの根源にあるものだということが描かれています。現代は「畑にあるもの」「自然にあるもの」に触れる機会は少なくなくなり、コンビニやスーパーに並ぶ加工された食材(土を洗い流した規格野菜を含む)やハウス栽培された季節外れの食材に触れる機会が多くなりましたので、必然、日常の中で自然とのつながりを感じる機会も減り、そのような意識が希薄になったことが「和食」を育んできた文化的な土壌を破壊させ、近年では異常気象、生活習慣病や疫病流行等の社会問題を顕在化させている遠因になっていると言えるかもしれません。この映画では、食材だけではなく、音、器、火、水も拘りを持って描いており、「食」が五感をもって味わうものであることが分かります。作家・ツトムは心筋梗塞に倒れて死を強く意識するようになりますが、人間は自然から命を得てやがて自然に命を返すという摂理(自然界の生滅流転)が亡妻の遺骨を散骨するシーンで印象的に描かれています。この点、日本では明治時代まで土葬(神道キリスト教)が主流で(現在も土葬を禁じる法律はなく自治体の条例で禁止されていない限り所定の条件で土葬も可能)、その後、衛生面や埋葬場所の問題等から土葬を禁止する自治体が増え、釈迦が火葬されたという故事の影響もあって火葬(仏教)が主流になりましたが、人間だけが自然の生滅流転(循環)に逆らう不自然な行為に及んでいるということかもしれません。なお、この映画に登場する料理は料理研究家土井善晴さんが調理したものですが、米、野菜や豆類など精進料理で使われる食材のみが登場し、肉、魚や卵など精進料理で使われない食材は登場しません。土井さんは、料理をすることは自然とのつながりを持つ大切な機会であり、人間の土台を作りそれを磨くための必要な要素(自然とのつながりを持つ料理を作る人を通じて料理を食べる人との間で様々な情報交換が行われ、料理の向こう側にある様々なものを想像する力を育んで感性を高めるために必要な経験)が詰っていると語っていますが、現代人は職住分離や共働きなどによって十分な可処分時間を確保することが難くなったことなどからあまり料理をしなくなったことを憂慮し、現代人でも簡単( ≠ 手抜き)に料理ができる「一汁一菜」(ご飯、味噌汁及び漬物を基本とし、味噌汁を具沢山にすることで一汁三菜のうちの二菜を補って必要な栄養価を摂取できるバランスの良い食事)を提唱しています。「洋食」は「人間の哲学」(人間中心主義)を基本とし、食材に色々な味付けをして様々な食材を重ねること(手を掛けること)を料理と考えますが(料理を食べる人は自分でスープに調味料を加えて好みの味する個人主義的な食文化)、「和食」は「自然の尊重」(自然中心主義)を基本とし、できるだけ食材に手を加えることなく食材(自然)の味を引き出すこと(手を掛けないこと ≠ 手抜き)を料理と考えますので(料理を食べる人は味噌汁を料理をする人の味付けのままで頂く自然尊重的な食文化)、料理に手を掛ける時間がない現代人には「洋食」よりも「和食」の方が向いていると言えるかもしれません。この点、「洋食」は粘土を加えながら造形を整えるプラスの彫刻と喩えられるように人間が手を掛けて舌と脳が美味しいと感じる味(美味)を作るのに対し、「和食」は一木から造形を掘り出すマイナスの彫刻と喩えられるように人間が手を掛けることなく身体を慈しむ食材(自然)が持つ味(滋味)を引き出す点に特徴がありますが、食材(自然)が持つ味(滋味)を味わい尽くす「和食」文化をもう一度見直してみたいと感じさせる映画でした。
 
 
▼演奏会「洗足学園オンラインフェスティバル2022」
今回は、一汁一菜(ご飯、味噌汁、漬物)のブログとするためにブログの枕、映画の感想、演奏会の感想を配膳してみたいと思います。前回のブログ記事でも書きましたが、今後、デジタル田園都市構想が推進されるとオンライン配信の需要は益々高まることが予想されますが、(現在の技術を前提とする限りではホールで生の舞台を視聴することに勝るものはないと思いますが)将来のVR技術等の発展によってオンライン配信でも生の舞台に双璧し又はこれを上回るような芸術体験が可能になる日も遠くないと期待しています。過去のブログ記事で音大崩壊の話題に触れましたが、そのなかでも洗足学園はいち早くクラシック音楽だけではなく邦楽やコンテンポラリー等(現代音楽、ジャズ、ポピュラー、ロック、ミュージカル、ダンスなど)を柔軟に採り入れながら革新的な取組みを続けてきたことで幅広い若者層の支持を集めて成功している大学の1つではないかと思います。その洗足学園が「オンラインフェスティバル」という新しい試みを始められたようなので、紙片の都合から一部の演目に限り一言づつ感想を残しておきたいと思います。今後、オンライン(デジタル)の特性を活かした新しい芸術体験の試みなどにも挑戦して貰いたいと期待しています。なお、このようなオンラインフェスティバル(ライブ)という趣向を凝らしたイベントを楽しめるのも舞台のセッティング等を担当されていたスタッフの皆さんの陰働きがあってのことだと思いますので感謝に絶えません。
 
洗足学園音楽大学OB合唱団(12日/10:00~10:40)
【演目】イ調のミサ曲
     <作曲>M.コチャール 
    悲しみの枝に咲く夢
     <作曲>木下牧子、<作詞>大手拓次
    女声合唱とピアノ三重奏のための「ピーナッツベストヒットメドレー」
     <編曲>田中達也
【演奏】<合唱>洗足学園音楽大学OB合唱団
    <指揮>中村拓紀
    <Pf>山本佳世子
    <Vn>青木知子
    <Vc>小澤和子
    <Mc>飛田都
【一言感想】
早朝公演にも拘らず、予想を上回る多数の視聴者が鑑賞する盛会となりました。オンラインでもライブと録画では視聴者に与える感興に違いがあるように感じます。1曲目のイ調のミサ曲が出色でした。照明を落としてキリエを歌いながら合唱団が入場する厳かなオープニングは鳥肌もので、合唱のクオリティの高さと演出効果が相乗効果を生んでいたと思います。これに続く照明をアップしてのサンクトゥス/ベネディクトゥスは清廉で輝かしい歌声に魅了され、アニュス・デイでは静謐な祈りが込められているような繊細な歌声に心洗われる思いがしています。2曲目の悲しみの枝に咲く夢では描写力のある色彩感豊かなピアノ伴奏が実に美しく、3曲目の女声合唱とピアノ三重奏のための「ザ・ピーナッツベストヒットメドレー」ではタンゴ調のアレンジによってピーナッツの往年の名曲達に新しい命が吹き込まれていて楽しめました。
 
コールファンタジア(12日/12:00~13:00)
【演目】※作曲者名、作詞者名は省略
    怪獣のバラード
    風になりたい
    花咲く旅路
    カチューシャの唄
    青い珊瑚礁
    あの素晴しい愛をもう一度
    群青
    花は咲
【演奏】<合唱>コールファンタジア
    <指揮>不明(紹介なし)
    <Pf>不明(紹介なし)
【一言感想】
コールファンタジアは、BS-TBS「日本名曲アルバム」に出演している合唱団なので、お馴染みの方も多いのではないかと思います。演目数が多いので演目毎の感想は割愛しますが、合唱団員の顔の表情や声の表情が非常に豊かで、歌が持っている情感や世界観が生き生きと伝わってくる共感溢れる歌唱を楽しむことができました。「伝える」だけではなく「伝わる」ために必要な歌唱とはどのようなものなのかを肌感覚で分からせてくれる歌唱で目鱗でした。
 
Wind Orchestra RESOUND(12日/14:00~14:45)
【演目】行進曲「秋空に」
     <作曲>上岡洋一 
    オーバーチュア・5リングス
     <作曲>三枝成章
    渚スコープ
     <作曲>吉田峰明 
    吹奏楽のためのインヴェンション第1番
     <作曲>内藤淳一
    楓葉の舞(コンクールエディション)
     <作曲>長生淳
    スマイル(アンコール)
     <作曲>チャールズ・チャップリン
【演奏】<楽団>Wind Orchestra RESOUND
    <指揮/Sax>大和田雅洋
【一言感想】
吹奏楽コンクールの課題曲を中心に季節を感じさせる選曲が魅力的で、総じて洗足学園の管打楽器奏者の層の厚さを実感させる秀奏でした。一言づつ感想を残すと、1曲目は行進曲でしたが、アンサンブルのバランスの良さが感じられる流麗で爽やかな演奏、2曲目はNHK時代劇「宮本武蔵」のTV音楽を再構成した曲で、ピッコロ奏者が篠笛に持ち替えて演奏したことで張り詰めた緊張感のようなものが走り、ティンパニーの野趣が凄みを感じさせる演奏、3曲目は金管の重厚なサウンド木管の繊細なサウンドが織り成す緩急の妙味が感じられ、クラリネット、サックス、ホルンのソロパートのコンビネーションが出色な演奏、4曲目はクラリネットが楓が舞い散る様子を繊細に表現し、フルート、ピアノ、ビブラフォンが色彩感豊かな演奏で紅葉が織り成す眩い世界を描写的に表現、アンコールのスマイルは大和田さんによるテナーサックスの哀愁漂うソロ演奏が秋の深まりと共にしみじみと響いてきました。
 
▼ダンスコース『Color』(12日/17:30~17:50)
【演目】結び目
     <振付>渡邉百々香、森崎結香
     <作詞/作曲/編曲>古賀優希
     <ダンス>渡邉百々香、森崎結香
    Generation
     <振付>竹田桃薫、川﨑唯加
     <作詞/作曲>MA ZIHAO
     <Vocal/歌詞英訳>MA ZIHAO、Myotoishi Emi
     <ダンス>岩本明日佳、川﨑唯加、高曽根杏美、竹田桃薫、中桐衣麻
    En D
     <振付>北村桃詩
     <作詞/作曲/Vocal>XU XIN
     <ダンス>北村桃詩、岩本明日佳、大石琴愛、竹田桃薫、細山麗
          石河心遥、永倉アクア愛、プライス実唄
    帽子の女
     <構成>古山栞帆
     <振付>全員
     <作曲>大野隆広
     <出演>古山栞帆、網井雄大、磯部桃花、髙遼太郎、中桐衣麻
    Translucent
     <構成>出口稚子
     <振付>全員
     <作曲>橋口幸寿
     <映像制作>サトウシミズパトリッキ悠斗、LIU XIANGDONG
           XU XIN、FU XINYUE、CHEN SHUPING
     <ダンス>井上祐美子、入澤ほのか、金尾杏里、出口稚子、
          松本有祐美、米盛有香、渡邊花鈴
【一言感想】
洗足学園が伝統の承継(保存)だけではなく現代の時代性を表現するための革新的な表現(創造)を学ぶための場として有効に機能していることが感じられる演目群でした。「結び目」は「自らの殻に閉じこもっていた2人...互いの糸はいつしか重なり合う。」というテーマを表現したダンスです。ドラマとヒップホップが融合したようなミュージカル風のダンス表現で、邦楽に乗せて2人のダンスが離反を繰り返しながら徐々に同期して行く様子が表現され、2人の心の綾のようなものが繊細に表現されていました。「Generation」は「ポジティブな新世代からのパワフルな活力、学生の明るさ元気さを届ける。」というテーマを表現したダンスです。ビジュアルアートとダンスが融合したようなダンス表現で、ビートの効いた洋楽に乗せて歯切れ良いリズミカルなステップで世の中を彩って行くエネルギーが感じられるアクティブなダンスが展開されていました。「En D」は「恋人に裏切られても忘れられない女性の雨模様な心。』というテーマを表現したダンスです。回転運動や優美な身体美等を特徴とするクラシックバレエの動きを基調としたダンス表現で、バラード調の洋楽に乗せて複雑に揺れ動く女心を表現しているような哀しみを湛えたダンスが展開されていました。「帽子の女」は「アンリ・マティスの絵画「帽子の女」をイメージして作られた楽曲となっており、自由で気ままに表現する個性豊かな5人の色」というテーマを表現したダンスです。ビジュアルアートとヒップホップダンスを融合したようなダンス表現で、それぞれのダンサーの個性(色彩)を表現したアピールの強いダンスが展開されていました。「Translucent」は「ダンスコース1期卒業生7名で踊ります。今年の春に卒業し、それぞれの道を歩んでいますが、久しぶりに会い、練習し、踊る事を嬉しく思います。」というテーマを表現したダンスです。コンテンポラリーバレエとヒップホップを融合したジャズダンス風のダンス表現で、バラード調の洋楽に乗せてコンビネーションの良いダンスが展開されていました。
 
▼SSC混声合唱団(13日/10:30~11:15)
【演目】※作曲者名、作詞者名は省略
    平和の鐘
    流れゆく時
    ソング イズ マイ ソール
    時の旅人
    雨上がりのステップ
    不明(曲名を失念)
    花の名前
    信じる
    明日への助走
【演奏】<合唱>SSC混声合唱
    <指揮>不明(紹介なし)
    <Pf>不明(紹介なし)
【一言感想】
演目数が多いので演目毎の感想は割愛しますが、現在の世相を反映し、コロナ禍で失われた歌う喜びを取り戻し、人生を前向きに生きて行こうという強いメッセージが伝わってくる歌唱を楽しむことができました。とりわけ若い世代に向けた青春賛歌が多く、夢や信じる心などを失わず未来に羽ばたいて行こうという若い世代の力強さにおじさん世代が目頭を熱くして勇気付けられしまう始末でした。総じて柔らかく澄んだハーモニーと若く瑞々しい感性を感じる清廉として美しい合唱が秀逸でした。ピアノ伴奏は合唱団員(副科?)が交替で担当し、多少のミスタッチは玉に瑕でしたが、この優美な合唱に豊かな音色やハーモニーで彩りを添える好サポートで、ピアノ伴奏が高らかに奏でる平和の鐘のモチーフは印象深く響きました。
 
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.10
シリーズ「現代を聴く」では、1980年代以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼アレクサンダー・カンプキンの「希望」(2018年)
イギリス人の現代音楽家アレクサンダー・カンプキン(1984年~)は、17歳のときに多発性硬化症の診断を受けてヴィオラ奏者になる夢を断念し、作曲家に転向したという異色の経歴を持っています。包容力のある優しい音楽が特徴的で、とりわけ合唱曲には定評があります。この動画はBBCプロムス2018で「希望」を初演したものですが、このときカプキンがBBCのTV番組で「希望」を創作した想いを語っており鑑賞を深めてくれます。
 
▼ヒドゥル・グドナドッティルの「人は顔を得る」(2020年)
アイスランド人現代音楽家ヒドゥル・グドナドッティル(1982年~)は、アコースティック音楽とエレクトロニカを融合したポスト・クラシカルの特徴を持つ作品が多く、TVドラマ、ダンスや映画等への楽曲提供にも積極的で、映画「ジョーカー」では第77回ゴールデングローブ賞作曲賞や第92回アカデミー作曲賞などを受賞しています。この曲は、2015年にアイルランドで賛成派又は反対派に分裂して争われた難民追放問題に対する抗議として作曲されました。
 
▼挾間美帆の「ダンサー・イン・ノーホエア」(2018年)
日本人の現代作曲家(ジャズ、クラシック、吹奏楽等)の狭間美帆(1986年~)は、2016年にアメリカを代表するジャズ雑誌「ダウン・ビート」が企画した「未来を担う25人のジャズアーティスト」にアジア人として唯一選出されるなど世界的に注目されています。2020年に開催された第62回グラミー賞において最優秀ラージ・ジャズ・アンサンブル・アルバム部門にノミネートされたアルバム「ダンサー・イン・ノーホエア」をお聴き下さい。

演奏会「バロックチェロ✕モダンチェロ~2台のチェロによる独奏演奏会~」と聴覚<STOP WAR IN UKRAINE>

文化の日とレコードの日(ブログの枕の前編)
今日は「文化の日」です。もともと11月3日は明治天皇の誕生日で祝日とされていましたが、1946年11月3日に日本国憲法が公布されたことを記念して1948年に「自由と平和を愛し、文化をすすめる」という趣旨で「文化の日」に改められ、文化勲章の授与式のほか美術館や博物館等の入場料が割引になるなどのイヴェントが開催されています。また。日本レコード協会が「文化の日」を記念して1957年に11月3日を「レコードの日」と定めて、レコード・CD店がセールやイベントなどを開催しています。レコードの売上高は1980年に約1812億円でピークを迎えた後、CDやネット配信に押されて2010年には約1.7億円まで落ち込みましたが、最近、デジタル世代の若年層にレコードを再評価する傾向が見られ、2020年に約21億円、2021年に約23億円まで売上げを回復しています。このようなトレンドはアメリカでも見られ、2020年にレコードの売上高がCDの売上高を上回り、2021年もその傾向に拍車が掛っているなど、レコードの復権は世界的な潮流になっています。このような状況を受けて、昨年9月に渋谷店にレコード専門店が開店していますが、この背景として、デジタル世代の若年層に①ネット配信のように形のないもの(バーチャル)ではなく、レコードやジャケットのように手に取って見て楽しむことができる形のあるもの(リアル)が再評価されていること、②CDやネット配信のデジタル音源ではなく、レコードのアナログ音源の音質が再評価されていること、③CDやネット配信のワンクリック再生ではなく、レコード盤やレコード針の手入れなどを含めて手間暇を掛けて良い音を造る参加型の音楽受容が再評価されていることなどが指摘されています。この点、デジタル世代の若年層は「ショート動画」(30秒から1分程度の短い動画)を好み、「ファスト映画」(映画の内容を10分程度にサマライズしたもので違法)を持て囃すなど、「効率性」や「機能性」を追及して長時間の身体的拘束を強いる芸術鑑賞を敬遠し(但し、マンガ等とのメディアミックスで人気を博している「2.5次元」と言われるジャンルを除く)、「非効率性」や「無駄の蓄積」に楽しみを感じない世代と言われていますが、その一方で、「結果」を急ぐのではなく「プロセス」を楽しむ様式の文化に価値を見い出し、視覚、聴覚や触覚等を駆使した多感覚な芸術鑑賞を行う豊かな感受性を持つ若年層が生まれていることがレコードの復権につながっているものと考えられます。
 
①レコード発祥地の碑(神奈川県川崎市川崎区旭町1-16
港町十三番地の碑(港町駅)(神奈川県川崎市川崎区港町1-1
③耳守神社(茨城県小美玉市栗又四ケ2051
④竹筒の絵馬(耳守神社)(茨城県小美玉市栗又四ケ2051
レコード発祥地の碑現在、京浜急行港町駅」の北側一帯は、1909年から2007年まで日米蓄音機製造(日本コロンビアの前身)の川崎工場があり、日本初のレコード、蓄音機、CD等が製造されました。現在は高層マンションが建てられています。 港町十三番地の歌碑(港町駅京浜急行港町駅」の構内には美空ひばりの歌謡曲港町十三番地」の歌碑がありますが、日本コロンビアの川崎工場があった場所を歌っています。当初は演歌や歌謡曲が中心でしたが、やがて幅広い音楽を手掛けました。 耳守神社/全国でも珍しい耳にご利益がある神社です。平将門の甥・平兼忠の娘・千代姫には聴覚障害がありましたが、熊野の神々のご利益により奇跡的に快癒します。人々の耳を守りたいという千代姫の遺言で、千代姫を祀る耳守神社が建立されました。 竹筒の絵馬(耳守神社)/耳守神社の絵馬は非常に変わっており、短く切った竹筒に願い事を書き留めて、その竹筒の両端に紐を通して社殿に吊り下げるというものです。竹筒の両端に紐を通すのは「耳の通りが良くなる」という願いも込められています。
 
▼音と聴覚(ブログの枕の後編)
前回のブログ記事で触れたましたが、人間が外界の情報を得る知覚の割合は視覚83%、聴覚11%、その他6%で圧倒的に視覚から得られる情報の割合が多く、「百聞は一見に如かず」という諺に示されているとおり、人間の知覚は視覚から得られる情報に頼っていると言えます。しかし、人間同士のコミュニケーションの場面では言葉7%、口調38%、表情55%(即ち、視覚約60%、聴覚約40%)と言われ、聴覚から得られる情報に頼る割合が大幅に増えていることが分かります(メラビアンの法則)。これは文化的な背景によっても違いが生まれ、複数の文化圏の人々と接する機会が多い多民族国家に住むアメリカ人は「表情」(視覚)から得られる情報に頼る割合が大きい一方で、少数の文化圏の人々としか接する機会がない少民族国家に住む日本人は「口調」(聴覚)から得られる情報に頼る割合が大きいと言われており(日本人の表情が乏しいと言われる理由の1つ)、アメリカ人が表情を隠してしまうマスクに抵抗感が強い理由の1つと考えられます。前回のブログ記事で視覚や嗅覚の基本的な仕組みに触れ、物質に色や匂いが付いている訳ではなく(客観的な世界)、人間の目や鼻で受容した「感覚」(目は光、鼻は分子)を電気信号に変換し、それを神経を介して脳に伝達することによって脳が創り出す「知覚」が色や匂いの正体であると言及しましたが(主観的な世界)、音も同様でして、空間に音が存在している訳ではなく(客観的な世界)、人間の耳で受容した「感覚」(耳は空気を伝わる振動や圧力等)を電気信号に変換し、それを神経を介して脳に伝達することによって脳が創り出す「知覚」が音の正体です(主観的な世界)。この点、耳鳴りは外界からの刺激がないのに他人に聞こえない音が聞こえる現象ですが、過去のブログ記事でも触れたとおり、これは難聴等を原因として外界の情報が脳に伝達され難くなる状況が生じると、その不足を脳が補おうとして電気信号を増幅することによって生じる音(脳の知覚)であると考えられており、脳が創り出す「知覚」が音の正体であることを示している1例と言えます。因みに、スメタナは耳鳴りが酷く、弦楽四重奏曲「わが生涯より」でスメタナを悩ます耳鳴りを表現しています(以下の囲み記事)。このように、音は、空気を伝わる振動や圧力等として客観的な世界に存在し、それが聴覚器官を介して脳に伝達、知覚されることによって音として主観的な世界に創出されるものであり、人によって聴覚器官の遺伝子が少しづつ異なっていることから、色や匂いと同様に音の感じ方にも微妙な差が生れます。
 
▼耳鳴りの音楽
スメタナは梅毒を罹患して両耳に高度の難聴を発症しており耳鳴りが酷かったと言われていますが、弦楽四重奏曲「わが生涯より」第四楽章の第一ヴァイオリンが奏でる高音の持続音(動画27分40秒~)はスメタナの耳鳴りを表現したものと言われています。
 
さて、音は「Hz」(音の高低/空気を伝わる振動の速さと音の高さが比例)、「dB」(音の大小/空気を伝わる圧力の大きさと音の大きさが比例)及び「音色」(音の特色/空気を伝わる振動のパターンと音の特色が関係)で構成されていますが、例えば、ヘリウムガスを吸って声を出すと倍速再生をしたときのような甲高い声(ヘリウムボイス)が発生するのは、ヘリウムガスの振動が空気の振動に比べて約3倍の速さで伝わるためです。因みに、日本とポーランドの音大生を比較したところ、日本の音大生の約90%が早期の音楽教育を受け、そのうちの約30%の人が絶対音感(基準音を与えられずに音高が分かる能力)を備えているそうですが、ポーランドの音大生は約70%しか早期の音楽教育を受けておらず、そのうちの約7%の人しか絶対音感を備えていないそうです。この点、絶対音感は遺伝的な要因と早期の音楽教育によって備わる能力と考えられていますが、相対音感(基準音を与えられると、その基準音との関係で正確に音程を捉えることができる能力)は年齢に関係なく誰でも訓練により備わる能力と考えてられており、演奏家にとっては、どんなピッチで演奏しても混乱なく正確に音程を捉えることができるという意味で絶対音感よりも重要な能力(「絶対音感相対音感」>「相対音感」>「絶対音感」)と言えるかもしれません。人間の可聴音域は20Hz~20,000Hzの間と言われていますが、犬の可聴音域は65Hz~50,000Hzの間、猫の可聴音域は60Hz~100,000Hzの間なので、人間以外の動物には人間の可聴音域以外の音(20Hzを下回る低周波音や20,000Hzを超える超音波)を聞く能力が備わっています。この差を利用してイノシシ、シカやネズミ等の野生動物やハエ、蚊やゴキブリ等の害虫を超音波で追い払う商品が注目を集めていますが、カラスやスズメ等の野鳥の可聴音域は300Hz~8000Hzの間と人間の可聴音域よりも狭く超音波で追い払うことができないので、昔から人間の可聴音域の音(おどし鉄砲など)が利用されています。人間の聴覚の仕組みは、空気を伝わる振動や圧力等が「外耳の鼓膜」に到達して鼓膜を振動させ、その鼓膜に付いている「中耳の耳小骨」に振動が伝わって振動や圧力等が増強され(外耳から中耳までが伝音器官)、それが「内耳のリンパ液」を振動させることで「内耳の感覚毛(有毛細胞)」が揺らされて電気信号を発生し(気体→物体→液体→物体→電気)、それが神経を介して脳へ伝達されて音として知覚されます(内耳から脳までが感音器官)。難聴は、伝音器官の障害により生じる難聴、感音器官の障害により生じる難聴、その双方の障害により生じる難聴の3種類に大別されますが、ベートーベンは伝音器官の障害(耳小骨の振動伝達が悪くなる耳硬化症)のために48歳頃からは筆談でコミュニケーションを取らなければならない聾の状態で、演奏会の拍手の音も聞こえなかったと言われています。但し、ベートーヴェンは振動で音を感じることはできたようなので、感音器官は正常であったと考えられています。なお、ジェット機のエンジン音など100dB以上の音に晒され続けると感音器官の障害(感覚毛(有毛細胞)の損傷など)による騒音性難聴を発症する危険性が高いと言われていますが、オーケストラの管楽器の近くもジェット機のエンジン音と同じくらいの音の大きさになるので、フレンチホルン奏者の約1~2割に騒音性難聴の傾向があると言われています。また、電車内の騒音は約70dBくらいと言われていますが、イヤホンを使って70dBを上回る音量で音楽を聴き続けていると騒音性難聴を発症する危険性があることが指摘されており、パソコンやスマホを原因とする視力低下も同様ですが、電気によって生成又は増幅された光や音は人間の視覚や聴覚の受容能力を超えて有害になる虞があります。上述のとおり脳が創り出す「知覚」が音の正体ですが、視覚の補完機能(三角形があるように見える)と同じく聴覚にも補完機能が働くことが分かっており、脳の「認知」によって創り出される音も存在します。例えば、音楽や言葉の合間に短い雑音を入れて音楽や言葉を聞こえないようにすると、脳は過去の記憶から雑音により聞こえない音楽や言葉を推測して補い、途切れない連続する音楽や言葉として「認知」します(連続効効果現象)。しかし、音楽や言葉の合間に無音を入れて音楽や言葉を聞こえないようにすると、脳は過去の記憶から無音により聞こえない部分に音楽や言葉は存在しないと推測し、途切れた不連続の音楽や言葉として「認知」します。このような聴覚の補完機能は、音の横関係だけではなく音の縦関係にも働き、例えば、1つの音を構成する周波数のうち、基本音の周波数(音を構成している複数の周波数のうちの一番低い基本の周波数)が欠落していても、脳は過去の記憶からその倍音の周波数(音を構成している基本音の周波数と整数倍の関係にある周波数)を手掛りに基本音の周波数を推測して補い、基本音の周波数(ピッチ)を「認知」します(ミッシング・ファンダメンタル現象)。このように脳は「知覚」(現在の情報)と「記憶」(過去の情報)から音の関係性等を推測して音脈を「認知」(未来又は未知の予測)するように出来ており、その反作用として、基本音の周波数の差が大きいと脳が過去の記憶から別の音脈であると「認知」します(音脈分凝)。例えば、チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」第四楽章の冒頭部分では旋律声部の最初の音符を第二ヴァイオリンが奏で次の音符を第一ヴァイオリンが奏でるという具合に旋律声部を交互に奏でますが、基本音の周波数の差が小さいので第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが1つの旋律を奏でていると認知する一方で(以下の囲み記事)、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第2番の重音奏法では1挺のヴァイオリンが奏でますが、基本音の周波数の差が大きいので別々の旋律を奏でるものと認知します。
 
うつ病の音楽
チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」第四楽章の冒頭部分では旋律声部の最初の音符を第二ヴァイオリンが奏で次の音符を第一ヴァイオリンが奏でるという具合に旋律声部を交互に奏でるパートがありますが、第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが向かい合う対抗配置で演奏しても、空間的な関係性を優先して第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが別々の旋律を奏でていると認知するのではなく、基本音の周波数の近接性を優先して第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが1つの旋律を奏でていると認知します。その意味で、チャイコフスキーは、このパートでステレオ効果を狙ったというよりも、旋律声部を第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンに交互に演奏させることで、レガートのように滑らかに演奏されることを避けてテヌート風の重さのある演奏効果を企図し、メランコリックな情趣を醸し出したかったのではないかと推測します。
 
人間が聴覚で音を受容してから脳で知覚されるまでに100ミリ秒を要すると言われていますが、これはサルの50ミリ秒、チンパンジーの60ミリ秒と比べると非常に遅く、脳が大きくなるほど感覚情報の処理速度は遅くなる傾向があり、これは視覚などの他の感覚器官でも同様です。この点、オーケストラなどのアンサンブルで周囲の音をよく聴き、周囲の動きをよく見ることが重要であると言われますが、音が1mの距離を進むのに3ミリ秒を要すること(光は音の約88万倍の速度)を考えると、その音が脳で知覚されるまでに30m以上の距離を進んでいる計算になり、人間が周囲の音をよく聴き、周囲の動きをよく見てアンサンブルすると、物理的な時間基準(客観的な世界)では、その音のタイミングは大きくズレていることになります。しかし、人間の脳は、その音のタイミングのズレを補正してアンサンブルが合っているように知覚すると共に、光(視覚)よりも音(聴覚)が到達する時間の遅れを補正して光(視覚)と音(聴覚)の感覚情報を統合(同期)して知覚しいます(主観的な世界)。おそらくサルやチンパンジーが人間のアンサンブルを聴いても合っていないと感じるかもしれません。この点、「ガ」と発音している映像(視覚)に「バ」という音声(聴覚)を合わせて視聴させると「ダ」に聞こえ、同じものを目を閉じて聴かせると「バ」に聞こえるという現象(マガーク効果)があることが報告されており、脳が光(視覚)と音(聴覚)の感覚情報を統合(整合)して知覚していることを示しています。この点、視覚は精度の高い空間情報を把握することを得手にしており、聴覚は精度の高い時間情報を把握することを得手にしていると言われているように、それぞれの感覚器官には得手又は不得手があり、脳はそれぞれの感覚器官が得手とする情報を状況に応じて適切に統合(選択、同期、整合等)して人間が知覚している世界(環世界)を創り出し、それらの感覚器官がもたらす情報の一貫性によって脳がリアリティ(統合された外界の認知)を生み出していると考えられています。よって、VR技術は、視覚だけではなく聴覚、触覚、嗅覚や味覚などの五感に対して同時に働き掛ける仕掛けを設けなければ、人間の脳を完全に騙すバーチャル・リアリティを創出することは難しいかもしれません。前回のブログ記事でも触れましたが、既成の価値観、自然観や世界観を揺るがし、現代人の教養(学問、知識、経験や芸術受容等を通して養われる心の豊かさ)を育むことに芸術の存在意義があるとすれば、人間が知覚している世界(環世界)から客観的に存在している世界(環境世界)へと人間の認知を拡げ、新しい芸術体験をもたらす革新的な芸術表現が益々求められている時代ではないかと思われます。
 
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【演題】バロックチェロ✕モダンチェロ~2台のチェロによる独奏演奏会~
【演目】(B)バロックチェロ、(M)モダンチェロ
    ①J.ダッラパーコ:11のカプリースより第4番(B)
    ②N.フーバー:沈黙の中に...(1998年)(M)
    ③J.ダッラパーコ:11のカプリースより第5番(B)
    ④R.ホフマン:シュライファーのメソッド のための5のトレーニン
                           (2009年)(M)
    ⑤J.ダッラパーコ:11のカプリースより第6番、第7番(B)
    ⑥マティアス・ピンチャー:NowⅡ(2015年)(M)
    ⑦見澤ゆかり:メチル化(委嘱作品)(2022年)(B)
【演奏】<Vc>北嶋愛季
【会場】Studio WAVES
【開演】2022年11月6日(日)15時~
【料金】配信チケット(ストリーミング、アーカイブ)1500円
【感想】
バロックチェロ✕モダンチェロ~2台のチェロによる独奏演奏会~(シリーズ「現代を聴く」特集)
北嶋愛季さんはバロックチェロとモダンチェロを操る二刀流チェリストとして知られ、とりわけ現代音楽の普及に尽力するために精力的な演奏活動を行っており、リサイタルのほかにも「現在進行形の音楽を形に耳に」を信条とする音楽グループ「Project PPP」や「新しい時代を切り開くアンサンブル」を標榜するオーケストラ「green room players」など幅広い活躍を行われています。個人的にはバロック楽器を使った現代音楽に興味があり、今後も目が話せないチェリストの1人です。冒頭、北嶋さんから現代音楽は聴衆がどのように聴いても構わない自由な音楽であり、感性的聴取を許容する懐の広い音楽であるという話がありました。しかし、クラシック音楽のような構造的聴取と異なり、現代音楽を受容するにあたって何も手掛りがないと聴衆が戸惑ってしまう現実もあるので、作曲家の作曲意図等を紹介し、現代音楽を聴く際のヒントにして貰いたいということで、現代音楽の作品解説を含むMC付の演奏会となりました。現代音楽の作品解説と共に各演目の感想を一言づつ簡単に書き残しておきたいと思います。なお、いくら自由な音楽とは言っても、北嶋さんの発言意図や作曲者の作曲意図等を適切に汲み取れていない可能性がありますが、やはり音楽は実際に音を聴いてみなければ始まりませんので、ご興味をお持ちの方は、是非、北嶋さんの演奏会に足をお運び下さい。また、北嶋さんはオンライン配信にも積極的なので、地方在住の方(今後、デジタル田園都市構想が進展すれば、益々、オンライン配信の需要は増えてくると思います。)や仕事の都合などで演奏会場に足を運べない方も北嶋さんの演奏を聴く機会を得易いのではないかと思います。
 
①J.ダッラパーコ:11のカプリースより第4番(B)
今日はバロックチェロとモダンチェロを交互に演奏するプログラムでしたが、あまりバロックチェロとモダンチェロを一緒に聴く機会がありませんので、その音色の違いを楽しめました。モダンチェロはスチール弦とバロックチェロはガット弦という違いの他にも、モダンチェロは標準ピッチ440Hzとされている(ISO16:1975)のに対し、バロックチェロではドイツのカンマートーン415Hz(標準ピッチより半音低い)、フランスのティーフカンマートーン392Hz(標準ピッチより全音低い)、教会のコアトーン466Hz(標準ピッチより半音高い)、ウィーンのモーツアルトピッチ430Hzなど、日本の伝統邦楽器と同様に様々なピッチが使われています。この点、近代市民社会の到来に伴って、少人数を集めた宮廷や教会での演奏から大人数を集めたコンサートホールでの演奏に変化したことで、より大きな音がする楽器が求められるようになり、弦の強い張力に耐えられ、また、幅広い音域の音が出せるように楽器の構造が強化されると共に、上述のような弦の材質や大人数で演奏し易いピッチの標準化などの変更が加えられ、それまでの宮廷や教会の演奏で使用されていたバロックチェロに対してコンサートホールで使用するためのモダンチェロが誕生します。本日はどのピッチでバロックチェロ調弦されていたのか分かりませんが、モダンチェロの伸びやかで輝かしい高音と対比してバロックチェロの豊かに響く中低音の温かい音色と、まるで語り掛けてくるようなゆったりとしたテンポによる深い息遣いが感じられる演奏で、モダンチェロとは異なるバロックチェロの魅力を堪能できました。
 
②N.フーバー:沈黙の中に...(1998年)(M)
北嶋さんから楽曲解説がありましたが、この曲は「音の空間性」をテーマにした現代音楽です。本来、大きい音は訴求的に聴こえ、小さい音は内省的に聴こえるという基本的な性格の違いがありますが、この曲は音が小さくなるほど訴求的に聴こえるように企図して作曲されたもので、音が小さくなればなるほど音の空間的な拡がりを意識して聴くことで、(曲名よろしく)沈黙の中に何かを発見するような芸術体験が楽しめる作品です。北嶋さんは、能楽の「序破急」を連想させるような緩急や強弱のメリハリが効いた曲想を繊細かつ大胆にドライブし、まるで墨の濃淡と余白で空間的な広がりを詩的に表現する水墨画の世界観をイメージさせる雄弁な演奏は、微弱音や無音の音価のようなものが空間に浸透して行くような不思議な感興を生じさせてくれる秀演でした。僕は諸事情によりアーカイブ配信で視聴しましたが、ジョン・ケージ4分33秒にも通底する色即是色のような思想性を感じさせる深みのある作品であり、是非、音の空間性をより良く体験できる残響効果のあるコンサートホールで聴いてみたい曲です。
 
③J.ダッラパーコ:11のカプリースより第5番(B)
J.ダッラーバコは18世紀後半に活躍した音楽家ですが(J.S.バッハの25歳年下)、この時期はバロックポリフォニー音楽)から古典派(ホモフォニー音楽)への時代の過渡期にあたります。11のカプリース通奏低音のない無伴奏曲ですが、J.S.バッハの無伴奏チェロ組曲と同様に、それまでは通奏低音楽器であったチェロを使って高声部のメロディーを歌わせながら、重音奏法や跳躍音程(音脈分凝)等の技法を駆使して低声部のハーモニーも奏でさせる立体的な音響設計が行われており、重厚に語るバロックチェロから朗々と歌うモダンチェロへと変貌して行く萌芽が見られる作品と言えるかもしれません。北嶋さんは、メロディーを表情豊かに歌わせながら存在感のある低声部が有機的に絡み合う立体感のある演奏で楽しませてくれました。
 
④R.ホフマン:シュライファーのメソッド のための5のトレーニン
                           (2009年)(M)
北嶋さんの楽曲解説がありましたが、この曲はドイツの室内合奏団「アンサンブル・モデルン」のチェリスト・M.カスパーのために書かれた現代音楽で、R.ホフマンの「シュライファーのメソッド」を演奏するために必要なテクニックを使って作曲されているそうです。この曲の楽譜にはテンポ、リズムや奏法等のみが指示されており音高は書かれていない非常にユニークな音楽ですが、演奏家は作曲家が音高を書かなかった意図を効果的に表現できるように演奏上の工夫が求められるそうです。本日、北嶋さんは、音高を書かなかった作曲家の意図を踏まえ、敢えて、弦高(弦と指板の間隔)が狭く半音低い音が出るチェロを使用して演奏されました。この曲ではチェロを擦弦楽器ではなく撥弦楽器のように扱い、弓を置いて両手の指を使ったピッチカートやグリッサンド、弓を使ったスタッカート(スタッカーティシモ?)などの奏法を使って演奏されますが、弦高の狭いチェロを使ったことで、これらの奏法の演奏効果を十分に引き出すことに成功していたのではないかと思います。個人的には、相対性理論の時空の歪みや量子力学超弦理論の世界観をイメージしながら聴いていました。オモロイ。
 
⑥マティアス・ピンチャー:NowⅡ(2015年)(M)
この曲は、M.ピンチャーの「光のプロファイル」の3部作のうちの2作目にあたりますが(NowⅠ:ピアノ独奏のための、NowⅡ:チェロ独奏のための、Uriel(神の光、天使):チェロとピアノのための)、抽象表現主義の画家であるB.ニューマンに触発されて作曲したそうです。抽象表現主義の絵画には一定のスタイルのようなものはなく、外部の客観的な世界を描く写実主義印象主義等とは対照的に画家の内部の主観的な世界を描くことから多様な表現が生まれますが、そのなかでもB.ニューマンの絵画はカラーフィールド・ペインティングに代表されるようにはっきりした輪郭や平坦な色面が特徴的です。北嶋さんによれば、B.ニューマンの絵画は相反するものが影響し合うイメージと捉えることもできるのではないかと解説されていましたが、正しくB.ニューマンの絵画に影響を受けたM.ピンチャーのNowⅡは、コル・レーニョなどの特殊奏法を使いながら音楽の輪郭が明瞭なアグレッシブなパートと、スル・ポンティチェロ、スル・タスト、フラジオレットなどの特殊奏法を使いながら音楽の輪郭が曖昧なセンシティブなパートが交互に演奏され、やがてそれらの対照的な性格を持ったパートが相互に影響し合いながら1つの世界観を描いているような曲想で、B.ニューマンが生きたい戦争と冷戦の世紀と言われる時代性を意識しながら、この曲が持つ世界観を興味深く聴くことができました。
 
見澤ゆかり:メチル化(委嘱作品)(2022年)(B)
作曲家の見澤ゆかりさんは国立音大で作曲を学び、現在、永心寺の副住職を勤めながら現代音楽の作曲を続けている異色の経歴を持つ方です。冒頭、見澤さんから自作の解説が行われました。見澤さんは、遺伝子は生まれてから変化を続け、とりわけ幼少期に受けた遺伝子を変化させる環境要因が生涯に亘って身体や精神に影響を与えるという事実に興味を持って、生物学のメチル化(DNA配列の変化)を題材にした音楽を作曲することを着想したそうです。第一楽章は遺伝子を構成する4種類の塩基であるアデニン(A)、グアニン(G)、チミン(T)、シトシン(C)のアルファベットをドイツ語の音名(TはEに読み替え)に置き換えて作曲し、第二楽章は遺伝子の二重螺旋構造を表現するために、北嶋さんが2本の弓を持って開放弦を弾く文字通りの二刀流の演奏が行われました。第三楽章は観客がルーレット(モーツアルトの「音楽のサイコロ遊び」ではサイコロを使用)を回して出た数字と結び付けられた12のモチーフを2本の弓で演奏する偶然性の音楽により遺伝子が偶然に変化(進化)して行く様子が表現されるなど遊び心が感じられる曲でした。クラシック音楽は人間中心主義的な価値観を背景として神の真理や人間の心(理性や本能等)を表現するための音楽が作曲されてきましたが、現代は科学技術の進歩や地球環境の問題等を背景として人間中心主義的な価値観の矛盾や破綻等が意識されるようになった時代であり、現代音楽は神の真理や人間の心(理性や本能等)だけではなく自然尊重主義的な価値観から人間を取り巻く環境世界等を表現するための音楽を作曲するようになっており、これからの時代に必要とされる音楽なのだと思います。
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.9
シリーズ「現代を聴く」では、1980年代以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
ジェイク・ルネスタッドの「アース・シンフォニー」(2022年)
アメリカ人の現代作曲家のジェイク・ルネスタッド(1986年~)は、合唱音楽では定評があり「合唱のロックスター」という異名まで持っているアメリカで最も注目されている若手の俊英です。2022年に「アース・シンフォニー」でエミー賞作曲部門を受賞しましたが、この曲は5部構成で人新世の後の母なる大地の声による劇的なモノローグを通じて現代人に環境問題を問い掛ける内容になっており、現代の時代性を表現する音楽と言えます。
 
ニコラ・コウォジェイチクの「プログレッシブ・バロック」(2016年)
ポーランド人の現代作曲家(ジャズ等)の二コラ・コウォジェイチク(1986年~)は、ポーランドグラミー賞にあたる「フレデリク2015」及び「フレデリク2016」を続けて受賞するなど数々の賞を受賞してポーランドで注目されている期待の俊英です。2016年にジャズ・アルバム・オブ・ザ・イヤーで「フレデリク2016」を受賞した、バロック楽器や民族楽器などを使用している「プログレッシブ・バロック」をお聴き下さい。
 
▼【追悼】一柳慧の「ピアノメディア」(1972年)
このシリーズは若手の現代作曲家の紹介を趣意にしていますが、去る10月7日に現代作曲家の大家である一柳彗さんが逝去されましたので、哀悼の意を表し、故人の偉業を讃えるため、一柳彗さんがミニマル・ミュージックに触発されて作曲した作品「ピアノメディア」をご紹介します。ジョン・ケージなど前衛音楽家の作品の紹介に尽力し、不確定性の音楽やフルクサス等を採り入れた創作活動なども活発に行い、2018年に文化勲章を授与されています。