大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

向井響作曲個展「美少女革命」/カムイとアイヌの物語「イノミ」(ウポポイ)/オペラ「長い終わり」(高橋浩治)/アンサンブルフリーEAST第20回演奏会(大熊夏織)とナラティブを拡張する「推し」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼ナラティブを拡張する「推し」(ブログの枕単編)
東京スカイツリーがある東京都墨田区押上の地名は、隅田川が東京湾へ注ぐ河口に堆積した土砂でげられて出来た陸地であることに由来しています。古地図を見ると、縄文時代には、武蔵野台地(東京)、大宮台地(埼玉)及び下総台地(千葉)以外は海湾が張り出し、東京都台東区浅草やその周辺には大小の島々が点在していたことが分かりますが、この近隣に向島、牛島、寺島、京島などの「島」の言葉が付く地名が多いのは、昔、実際に島や洲があった名残りと言われています。因みに、2012年に完成した東京スカイツリーの高さは「武蔵」の語呂合わせから634mになっていますが、その高度を利用して光格子時計を使った相対性理論に基づく時空の歪みの実証実験などが行われており、押上の陸地は人類の知性もげていると言えるかもしれません。
 
▼「ファン」と「推し」の違い
言葉 メディア 特徴 ナラティブ
ファン
(主体)
マスメディア
(一方向)
愛好
専有:縦関係
内への凝縮
個人的:1対1
推し
(客体)
ナノメディア
(双方向)
応援
共有:横関係
外への拡散
集団的:1対多
 
前回のブログ記事でナラティブについて簡単に触れましたが、現在、ナラティブを拡張する「推し」が注目されていますので、ごく簡単に触れてみたいと思います。「推し」という言葉は20世紀から21世紀へ移行する時期にインターネット(インタラクティブ通信)の登場、普及と共に使われるようになり、自ら執心するアイドルを応援する意味で使われていた「一押し」(イチオシ)が転じたものと言われています。インターネットの登場、普及に伴う情報革命によりマスメディア(アナログ)からナノメディア(デジタル)へ移行しましたが、初期のインターネットは未だシンプレックスな性格が強く片方向の情報流通が主流だったので自ら執心する対象を個人的に愛好すること(受動的な姿勢)を専らにしていましたが、SNSの普及に伴ってインタラクティブな性格が強まり双方向の情報流通が主流になるとSNSの共有機能(「いいね」によるクチコミ効果、「リツイート」、「シェア」や「ハッシュタグ」による情報拡散など)を活用して自ら執心する対象を応援すること(能動的な姿勢)によってエコーチェンバー現象が生まれて集団的に結び付くようになりました。前回のブログ記事でも触れましたが、これらを利用してインフルエンサーを使ったステルス・マーケティングなどによるナラティブ操作が社会問題化しています。このような状況のなか、2021年にユーキャン新語・流行語大賞には「推し活」がノミネートされ、また、2023年にネット流行語100大賞には「推しの子」が選ばれており、さらに、コロナ禍や能登半島地震などの復旧、復興を応援する「推し活」(クラウドファンディングふるさと納税など)が注目を集めるようになっています。この点、自ら執心する対象を愛好する「ファン」という言葉に対して、自ら執心する対象を「推し」(これを応援することを「推し活」「推し事」)という言葉が区別されて使われるようになり、そのうち最も熱を入れて応援する対象を「神推し」、また、そのうち完全に魅了されて信奉する域に達した対象を「尊い」として別格に扱うなど、多彩なナラティブを紡いでいます。
 
▼ナラティブを投射するメディアとしての「推し」
推論 内容 妄想の投射
帰納的推論 事象に基づいて一般的な法則を導き出す推論 通常
投射
演繹的推論 一般的な法則に基づいて事象を導き出す推論
アブダクション 事象や法則を仮定し、それらに基づいて新しい法則や事象を導き出す推論 異投射
虚投射
 
過去のブログ記事でも触れたとおり、人類は、紀元前5万年頃の突然変異で脳がミラーニューロン(1996年にイタリア・パルマ大学教授のG.リッツォラッティが発見)を獲得したことで他人の言動を自分の脳に置き換えて追体験やシュミレーションなどを行うことができる高度な認知能力を獲得しましたが(認知革命)、それにより他人の心理、意図や文脈等を推測し、他人の言動の意味を理解して共感(エンパシー)することが可能になったことで社会を形成し、血縁関係を越えた集団を形成する高度な社会性を備えるようになりました。人間は、この共感能力を獲得したことで「推し」が成功すると自分も成功したような快感(代理報酬)を覚えるようになり、これが「推し」を応援するようになった根源的な理由ではないかと考えられています。旧石器時代、人間は、より大きな獲物を捕獲するために集団で狩猟していたと考えられていますが、自分が獲物を捕獲するだけではなく、一緒に狩猟を行う仲間が獲物を捕獲することによっても食料を摂取することが可能になりましたので、その経験を通して代理報酬を感得するように進化したのではないかと考えられています。即ち、一緒に狩猟を行う仲間は獲物を平等に分かち合うことで集団を平和的に保ち、その結束を強めて協力関係を構築するようになり、それによって大きな獲物を捕獲する可能性も高まり、もって自分の生存可能性も高まるという経験を長い進化の過程で繰り返してきたと考えられています。このように「推し」(大きな獲物を捕獲する者)と自分達(自分及びその他の一緒に狩猟する仲間)が同じナラティブ(大きな獲物の捕獲という目標)に共感し、「推し」がそのナラティブを実現すること(大きな獲物の捕獲)で自分達もそのナラティブの実現を追体験して(大きな獲物を獲得し、それを皆で分かち合う)、もっと「推し」を応援する(大きな獲物を捕獲できるように協力する)という関係性が成立します。また、人間は、言葉を獲得したことによって多様なナラティブ(大きな獲物の獲得という具象的な目標だけではなく、人間の生存可能性を高めるための他の様々な要素を包含し得る抽象的な目標。例えば、宗教、権威、国家、貨幣やその他のナラティブなど)を創造し、これに共感することで集団の結束の強化と共にその拡張が可能になりました。前回のブログ記事でも触れたとおり、人間は、①知覚(推論):感覚器官が体の内外から情報を受け取ると脳が仮説の筋道(プロット)をシミュレーションし、②記憶(検証):その仮説の筋道(プロット)と過去の記憶を照合して、③認知(判断、行動):それらの間に発見されたミスマッチを修正して「現実」(ナラティブ)を仕立てると共に(これは「差分」と言い換えることもできるもので、その差分の大きさに比例して脳の報酬系が活性化)、それに適応した感情を作り出して必要な行動を促します。この点、人間の脳が認知に利用する情報は、感覚器官が体の内外から受け取る生の情報量よりも人間の脳が仕立てるナラティブの情報量の方が約10倍も多いと言われており、人間の脳は生の情報よりもナラティブの情報を重視するように設計され、人間の脳が認知する「現実」(ナラティブ)は生の情報を忠実に反映したものではないと考えられています。このように外界の情報(感覚器官が体の内外から受け取る生の情報量)を過去の記憶と照合しながら意味付けを行い、それによって創り出された意味付けを外界に投射し(即ち、物理世界と精神世界を重ね合わせ)、それにより自分が意味付けた外界(プロジェクション)を自分の人生観や世界観に上手く組み込んで仕立てたナラティブを生きています。この点、他人が生きているナラティブやそれを構成しているプロジェクションを調べる方法として映画「沈黙」で描かれている「踏み絵」が典型的ですが、現代でもアンケート(演奏会の感想を含む)やビックデータなどの様々な手法が使われており、さらに、上述のとおり様々な手法を使って他人のナラティブを操作しようとする試みなども盛んになってきています。人間は他人と異なるプロジェクションを生成し、それをナラティブに仕立てているので、同じ芸術作品を鑑賞しても、その芸術作品に映し出される意味付けやそれに基づく感想なども異なってきます。また、上述のとおり人間は具象的なものだけではなく抽象的なものを創造してそれを他人と共有する能力を持っていますので、例えば、芸術作品の余白に様々な意味付けを行って愉しむという芸術鑑賞の醍醐味(広陵たる精神世界の広がり)を可能にしており、過去のブログ記事で触れたとおり、例えば、枯山水、俳句や能に代表される「描かれないもの」も味わい尽くすという芸術鑑賞(アブダクション)などに見られるように、芸術表現における鑑賞者との関係性を重視する傾向が顕著になってきています。この点、「推し」は、宗教や権威(社会のナラティブ)などに代わって、鑑賞者の多様な個性(多様なプロダクションによる個人のナラティブ)を紡ぐ精神的な営みを豊かに彩ると共に、社会との接点(SNSなどのインタラクティブな場)を生み出すなど、これをダイナミックに拡張してくれる古くて新しいメディア(但し、多様なプロダクションと親和的なメディアである必要があることから、昔のようなスターやキラーは生まれ難くなっている)と言うことができるかもしれません。
 
▼推しかつ🐷
昔、BS-TBSで「東京とんかつ会議」という番組があり、料理評論家・山本益博さんの食べっぷりに惹かれて見ていましたが、推しかつ揚げに因んで、この番組を素材とする書籍をあげてみました。ここで謎かけを1つ「かつ揚げと掛けて、推し活と説く、その心はとことん熱中するとうまくあげられます。」オソマツ💦
 
▼向井響作曲個展「美少女革命」
【演題】向井響作曲個展「美少女革命」
【演目】①ピアノとエレクトロニクスのための「東京第七地区」(2017年)
    ②無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ(2022年)より
                第1曲:グラーヴェ、第2曲:メロディア
    ③チェロとエレクトロニクスのための
               「マグノリアの花」(2023年/日本初演)
    ④ユーフォニアムとエレクトロニクスのための
         「美少女革命/Drama Queens」(2022年)
    ⑤尺八とリコーダーのための「二人静」(2021年)
    ⑥乙女文楽、アンサンブル、電子音響、ヴィデオのための
         「美少女革命/本朝廿四孝 奥庭狐火の段」(世界初演)
     <乙女浄瑠璃>ひとみ人形座
【作曲】向井響
【映像】向井響
【音響】島村幸宏
【照明】植村真
【デザイン】阿部花乃子
【制作】田中真緒
【出演】<Elc>向井響⑥
    <尺八>長谷川将山⑤⑥
    <Rec>中村栄宏⑤
    <Eup>佐藤 采香④⑥
    <Vn>千葉水晶②⑥
    <Vn/Va>石原悠企②⑥
    <Vc>北嶋愛季③⑥
    <Pf>小倉美春①
    <Pf>田中真緒⑥
【会場】トーキョーコンサーツ・ラボ
【日時】2024年2月20日(火)19:00~
【感想】
人形浄瑠璃文楽「本朝廿四孝 奥庭狐火の段」を題材にした乙女文楽(女性の技芸員による一人遣いの文楽)とのコラボレーションによる新作が発表されるというので聴きに行く予定にしています。公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、公演の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
今日は向井響さんの作曲個展「美少女革命」を聴いてきましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。平日にも拘らず満席となる盛会でしたが、知る限り、昨年後半頃から現代音楽をメインに採り上げている演奏会の満席が目立つようになってきた印象を受けますので、漸く日本の観客も覚醒してきたということかもしれません。向井響さんは桐朋音大及びハーグ王立音楽院を卒業後にポルト大学(ポルトガル)でデジタルメディアを学び、現在、ポルトガルの民謡、日本の伝統芸能、エレクトロニクスなどを中心に研究されているそうですが、これまでにローソン・メイ作曲賞、マリン・ゴレミノフ国際作曲賞、第6回マータン・ギヴォル国際作曲コンクール第1位、ORDA-2019作曲部門第1位、2018年ストラスブール現代音楽祭最優秀賞などの華々しい受賞歴がある最も注目されている若手現代作曲家の1人です。昨年、第33回芥川也寸志サントリー賞を受賞した若手現代作曲家の向井航さんとは双子の兄弟で、彼らの諱である「響」(ひびき)と「航」(わたる)から彼らの音楽が海を越えて世界に響き渡るようにという願いが込められている(?)のかもしれませんが、それが現実のものになっています。なお、トウキョウ・コンサーツ・ラボがある早稲田界隈はラーメン激戦地としても知られていますが、早大女子に人気が高いラーメン「とも」は麺も汁も風味が豊かなのでお試しあれ。
 
①東京第七区
この曲は2020年マリン・ゴレミノフ国際作曲賞を受賞している作品だそうですが、豊洲移転前の築地市場でコンクリートが延々に広がる静かな空間にインスピレーションを受けて、実際に存在しない東京第七区(行政区、管轄区又は選挙区?)を想像しながら作曲したそうです。会場の四隅にエレクトロニクスのスピーカー4基が設置され、会場の照明を暗く落して聴覚を研ぎ澄ませるような舞台演出が取られるなか、ピアノの音響(アナログ)をエレクトロニクスのスピーカー(デジタル)で拡張又は装飾することでアナログ(現実)とデジタル(バーチャル)をシームレスにつなげるハイブリッドな音響空間を生み出すことに成功しており、非常に音楽的でもありながらインスタレーションのような空間演出もある興味深い作品を楽しめました。
 
②無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ
第1曲グラーヴェはイベリア半島に伝わる民謡のリズムからインスパイアされ、ヴァイオリンの弓をたっぷりと使った持続音を基調とた作品でした。当初、ヴァイオリンの音響がピアノの反響板にあたってピアノの弦と共鳴しているのかなと思っていましたが、実はエレクトロニクスを使ってヴァイオリンの音響を拡張することにより音響空間に豊かな広がりを与えていたもので、トーキョー・コンサーツ・ラボの抑制的な残響を上手く活かしてエレクトロニクスがヴァイオリンの繊細なニュアンスを伝えることにも一役買っていました。この点、マイクやスピーカーの音響に否定的な意見を耳にすることもありますが(個人の嗜好の問題なので拝聴するだけですが)、空間に「音響」が漂っている訳ではなく、人間の聴覚器官で知覚した「空気振動」(フォノン)を「電気信号(生体電位)」に変換して脳へ伝達し、それを脳が「音響」として認知(創造)しているものなので、電子機器が空気振動(フォノン)を生成する特性(利点と欠点)を踏まえても、エレクトロニクスはアコースティック楽器の音楽表現の可能性を広げる意味でも極めて有用なものであると感じました。第2曲のメロディアはポルトガルの民謡ファドの旋律からインスパイアされ、頻繁な移弦により音響に彩りを添えながら哀愁を湛えたモチーフを情熱的に織り上げて行く美しい作品を楽しむことができました。三味線奏者の本條秀太郎さんが「俚奏楽」(民謡曲を現代音楽に織り込んで昇華し、承継して行くことを目的としたジャンル)を創始されましたが、この作品も現代音楽の中にポルトガルの伝統が息衝いているのが感じられ、大変に興味深かったです。是非、日本の謡曲や民謡などからインスパイアされた作品も聴いてみたくなりました。
 
③マグロリアの花
この曲はモスクワ国立電子音響センターの委嘱によりマグノリア(白木蓮)の花のライフサイクルを音楽的に表現した作品で、ライブエレクトロニクスを使ってチェロが奏でる旋律から和音を生成すると共に、旧ソビエト連邦時代の反体制派として有名なウラジミール・ヴィソツキーさんのしわがれ声(アメリカへ亡命しようとするロシア人バレエダンサーを描いた映画「ホワイトナイツ」でV.ヴィソツキーさんの歌を使用)と並木路子さんのリンゴの唄の歌声(リンゴは何にも言わないけれど、リンゴの気持ちは良く分かる♬)をコラージュしています。チェロがグリッサンドしながらスルタスト奏法で音響を奏でると、スピーカーから並木路子さんのリンゴの唄の歌声とウラジミール・ヴィソツキーさんのしわがれ声のコラージュが幻聴のように聴こえ、やがてライブエレクトロニクスの音響が加わってチェロ(アナログ)とライブエレクトロニクス(デジタル)の境界が曖昧になって混然一体とした音響空間を作り出すと、最後に少女の声で白木蓮が咲いたという声が挿入されて終曲となりましたが、その声はさながら映画「バイオハザード」に登場する人工知能「レッド・クイーン」(赤い服を着た姉のホログラム)及び「ホワイト・クイーン」(白い服を着た妹のホログラム)を彷彿とさせるものになっており、次の美少女革命:Drama Queensの伏線になっているように感じられました。ここから先はあくまでも個人的な妄想であることをお断りしたうえで、赤い実(種)から白い花を咲かせる白木蓮に仮託してロシア人(赤)の秘めた内心(白)に花を添えた曲と捉えることもできるかもしれず、そう考えると歴史を刻印する名曲の風格を備えた作品と言えるかもしれません。
 
④美少女革命:Drama Queens
この曲は歌手が感情やドラマを自由に誇張して個性的に表現するポルトガルの民謡ファドの特徴からインスピレーションを受けて、ユーフォニウムの音響とそれから生成されたライブエレクトロニクスの音響を同化させることで、さながらユーフォニウム(過去のクイーン)がエレクトロニクス(現在のクイーン)にアップデートしてアイコニックな声と共に過去と現在のクイーン達が様々に変化しながら様々な時代の音楽を駆け抜けるという壮大な物語性を持った音楽に感じられました。ユーフォニウムの特殊奏法を駆使して奏でられる音響がエレクトロニクスとして様々な音響に拡張されながらユーフォニウムのアコースティックな音響(息により唇を振動させることで発生する空気振動)とライブエレクトロニクスのエレクトロニックな音響(電気によりコイルを振動させることで発生する空気振動)が交互に入り乱れ(過去のクイーンから現在のクイーンへとアップデートし、現在のクイーンから過去のクイーンにバックデートすることを繰り返しながらハイブリッドな世界観を体現し)、独特な音響空間描き出す面白い作品に感じられました。アコースティックとエレクトロニックのそれぞれの特徴的な違いを活かしながら、1つの音響空間に違和感なく融合してしまう手腕はデジタル世代の寵児と言える抜群のセンスを感じさせるものであり、音楽界のDXは異次元の領域に達していると言えるかもしれません。
 
⑤二人静
この曲は能「二人静」の菜摘女と静御前の亡霊の相舞からインスピレーションを受けて、尺八とリコーダーがリズム、ピッチ、音色を重ねて一つに溶け合うことを試みた作品で、2023年ローソン・メイ作曲賞を受賞しています。尺八の唄口はリコーダーの唄口のような吹口が設えられていない(尺八では自分の唇や楽器の角度などで調整する)ので安定した音を出すことが難しいと言われていますが、それは人間が扱い難い(人工的でない)という意味での脆さがある一方で、それにより揺らぎが生まれる(自然的である)という意味での豊かさもあり、それぞれの楽器に特徴的な違い(優位性)があります。尺八とリコーダーは短く切られた息遣い(息を合わせる)でリズムとピッチをコントロールし、エレクトロニクスなどを使って音色を重ね合わせることで尺八とリコーダーを一つに溶け合わせながら、しかし、尺八の首振りとリコーダーのタギングなどの違いから生まれる微妙に異なる風合いを活かすことで一つに溶け合いながらも二つの存在を感じさせる二人静の風情を醸し出す演奏になっており非常に楽しめました。尺八とリコーダーという異なる楽器を使用する意義と面白さを存分に感じさせる秀作でした。
 
⑥美少女革命:本朝廿四孝 奥庭狐火の段
この曲は、向井さんが乙女文楽(一人遣い)に魅了され、現代音楽、電子音楽、ポップミュージックやテクノなど様々な音楽と乙女文楽を融合することで伝統文化の可能性を模索するために創作した作品ですが、二人静の相舞の直後に乙女文楽(一人遣い)の人形遣いと人形による相舞を見せる構成上の工夫に唸らされました。本朝廿四孝は浄瑠璃や歌舞伎の人気演目ですが、戦国時代に長尾家の八重垣姫は父・謙信が許婿である武田家の勝頼の暗殺を企てていることを知り、諏訪明神の御加護で狐に化身して勝頼のもとへ知らせに走るという内容です。アコースティック(西洋)とエレクトロニック(唄を含む邦楽)、ヴィジュアルアート(現代)と文楽人形(古典)がクロスオーバーする形で物語が進行しました。お恥ずかしながら三人遣いの文楽ではなく一人遣いの乙女文楽を鑑賞するのは初体験でしたが、一人遣いなので人形遣いの動作と人形の動作が緊密に連携して一体感のあるリアルな表現が展開され(例えば、乙女文楽では人形遣いの首が人形の首と連動する仕掛けになっており三人遣いの文楽と比べても人形遣いの魂が人形に憑依しているような不思議な感覚を覚えて、さながら人形遣いと人形による能「二人静」の相舞を見ているような風情を堪能できました。さらに、この作品では人形遣いの魂が憑依したかのような人形に、狐の霊が憑依するという重層的な構成)が可能となり、それが人形に瑞々しい生命力を与えているように感じられました。八重垣姫が勝頼を慕う乙女心を表現したチューバとピアノのアンサンブル、西洋楽器が邦楽囃子をフィーチャーしたような音楽を演奏するパートなど聴きどころになっていましたし、バロック舞曲をフィーチャーしたような音楽に合わせて八重垣姫(人形)が日本舞踊を舞うシーンは非常に美しいピースに仕上がっていたと思います。また、チェロと尺八のアンサンブルは室内楽のピースとして純音楽的に楽しむことができる聴きごたえのあるものになっていました。さらに、ヴィジュアルアート(現代に生きる男女やポップなコンテンツなどを素材としたもの)を使って昔男に移り舞う少女(純情)と人待つ女の情念が呼び寄せた狐の霊が憑依する狂女(狂気)という複雑な心情を表現すると共に、それを通じて現代の世相にリンクするような多次元な表現が非常に面白く感じられました。上記③から⑥の演目では、アナログとデジタルのハイブリッドな世界が生み出すリアルとバーチャルという存在の二重性(仏教や量子力学の世界観にも通底)やオルタナティブな存在の憑依という古典的な表現方法を借用して矛盾したものが1つの人格を形成している人間存在の本質を浮き彫りにするダイナミズムが感じられ、将来が嘱望される若手の現代作曲家の稀有な才能に触れたような非常に満足感の高い芸術体験となりました。これは「推し」です。
 
 
▼カムイとアイヌの物語「イノミ」
【題名】ウポポイ渋谷公演
    カムイとアイヌの物語「イノミ」
【演目】①特別講演「カムイとアイヌの物語」
     <公演>千葉大学名誉教授 中川裕
     <実演>早坂駿、桐田晴華、上河彩
    ②伝統芸能「イノミ」
     <実演>アイヌ民族文化財団伝統芸能課
【会場】LINE CUBE SHIBUYA
【日時】2024年2月23日(祝)13:00~
【感想】
民族共生象徴空間「ウポポイ」がアイヌ儀礼「イヨマンテ」を題材にした伝統芸能「イノミ」(ストーリー性がある唄と踊り)を渋谷で公演するというので、これは万難を排して聴くべしと思い立ち事前抽選に応募したところ運よく当選しました。公演鑑賞後に簡単に感想を残したいと思います。なお、この公演は抽選制なので当日券などはありませんが、公演の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
民族共生象徴空間「ウポポイ」は、2020年7月に年間来館者数100万人という目標を掲げて開館しましたが、コロナ禍の影響もあって開館後3年間を経過した2023年9月に累計来場者数が100万人に到達しました。この点、ウポポイは、商業施設ではなく文化施設であることを踏まえると、もともと年間来館者数100万人という目標は(その意気込みは立派だとしても)実現可能性が低い法外な目標だったのではないかと思われます。因みに、商業施設では、ディズニーランド:約2500万人(これは別格)、ハウステンボス:約210万人、旭山動物公園:約80万人となりますが、これが文化施設になると、東京国立博物館:約125万人、東京文化会館:約45万人、ウポポイ:約35万人、京都国立博物館:約25万人、新国立劇場:約20万人の規模になり、ウポポイは立地条件(交通、気候など)のハンディーキャップを考えると相当に健闘している印象を受けます。やはり立地条件(気候)は来館者数に大きく影響するようで、ウポポイでは夏場の来館者数に比べて冬場の来館者数は著しく減少する傾向にあるようですが、その閑散期を利用してアイヌ文化の魅力を訴求するためのアウトリーチ公演を全国各地で開催しており、今日はウポポイ渋谷公演を鑑賞してきました。冒頭、アイヌ民族文化財団運営副本部長の野本正博さんから挨拶があり、アイヌ文化の保護及び継承だけではなく若い世代がアイヌ文化を現代に息衝くものとして刷新しその可能性に挑戦して行くことが大切であるという趣旨のことを話されていましたが、正しく慧眼です。単に伝統文化の保護及び継承だけではいずれは朽ち果ててしまいますので(普遍なものはあり得るとしても不変なものはあり得ない)、歴史が物語るように、常にその時代の時代性を織り込みながら伝統文化を革新して行く姿勢を持ち続けることで初めてその伝統文化の継承及び発展があり得るのだろうと思いますし、その意味でも本日の公演は大変に有意義なものであったと感じます。なお、アイヌ語には日本語のように母音で終わる言葉だけではなく子音で終わる言葉があり、その子音で終わる言葉をカナカナの小文字で表記しますが、都合上、以下では全て大文字で表記しています。
 
①特別講演「カムイとアイヌの物語」
この講演の講師を努められたアイヌ語研究の権威にして千葉大学名誉教授の中川裕さんは、アイヌ語研究の功績を讃えられて金田一京助博士記念賞及び文化庁長官表彰を受賞し、一世を風靡したマンガ「ゴールデンカムイ」(2018年手塚治虫文化省マンガ大賞)でアイヌ語の監修を担当した方としても知られていますが、本日はアイヌ文化の重要な概念の1つである「カムイ」について講演されましたので、その概要を簡単に書き留めておきたいと思います。アイヌ語の「カムイ」は神(カムイ→カ)を意味する言葉で、一般には「ムイ」と「カ」にアクセントを置いて発音する人が多いのではないかと思いますが、正しくは「カイ」と「ム」にアクセントを置いて発音するそうです(「カイ」(痒い)と同じアクセント)。アイヌ文化では、全ての事物(生物、自然現象、道具など)に魂が宿っており、そのうち何らかの精神や意思を持ったものをカムイと捉えているそうです。通常、カムイはカムイモシリ(カムイの世界)に魂の状態で存在していますが、「着物」(生物、自然現象、道具などの事物)を纏った姿でアイヌモシリ(人間の世界)に顕れて人間へ恩恵をもたらし、人間はその恩恵に対する感謝を込めて言葉や供物(酒、イナウなど)をカムイに捧げてカムイモシリに送り返すことで、再び、カムイは「着物」を纏った姿でアイヌモシリに顕れて人間へ恩恵をもたらしてくれると考えられているそうです。中川さんによれば、カムイは「神」や「精霊」などの特別な存在ではなく、もっと人間に身近な「環境」に近いニュアンスを持った概念だそうですが、カムイ(環境)と人間が相互に恩恵を分かち合う(上述のとおり現代の「推し活」に通底する精神)というアイヌ民族の生き方(自然共生)は、現代のSDGsの考え方を理想的に体現したものと言えるかもしれません。この点、アイヌ文化を代表するアイヌ・ユーカラ(神謡)はカムイ(環境)から見た世界をサケヘ(リフレイン)を使いながら歌い語るものですが、子音を発音するための独特な発声(内破音)から生み出されるアイヌ・ユーカラに特有の情緒に魅力があり、ハングル語に近い響きを持っているように感じられます。因みに、アイヌ文化では、他人の名前を本名で呼ぶと魔物が厄災を及ぼすと信じられていることから(上述のとおり枯山水、俳句や能に代表される「描かれないもの」を味わい尽す芸術鑑賞(アブダクション)にも通底する精神)、通常は「ポンレ」という愛称(=「ポン」(小さい)+「レ」(名前))で呼び合う風習があるそうですが、そのアイヌ文化を承継するためにウポポイの職員の間では本名ではなくポンレで呼び合っているそうです。本日、アイヌ・ユーカラを実演した早坂さんのポンレは「ペンレク」(意味:割れヒゲ)で「チカルカルペ」(北海道の全土に伝わるアイヌ民族衣装)を着用し、上河さんのポンレは「ペチャンポ」(意味:やせっぽち)で「ルウンペ」(白老町近隣に伝わるアイヌ民族衣装)を着用し、また、桐田さんのポンレは「クワンノ」(意味:まっすぐ)で「カパラミプ」(浦河町近隣に伝わるアイヌ民族衣装)を着用していましたが、各地域により民族衣装のデザイン(形状や文様)などに微妙な違いがあるそうです。なお、本日は時間的な制約からアイヌ文化のごく一部しか触れられていませんでしたが、アイヌ文化民族文化財団ホームページにはアイヌ文化を紹介した豊富なコンテンツが紹介されています。また、先日、中川さんが「アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」」の続編として「ゴールデンカムイ 絵から学ぶアイヌ文化」を上梓されたそうなので、こちらも必読です。
 
②伝統芸能「イノミ」
民族共生象徴空間「ウポポイ」では、アイヌの伝統芸能(アイヌの儀礼や日常で演じられている歌、踊、劇から構成される一種のミュージカル)を世界に発信する取組みを行っており、①シノツ(伝承芸能)、②イメル(復元芸能)及び③イノミ(創作芸能)の3つのジャンルを中心に活動しているそうです。本日は、このうち③イノミ(創作芸能)が上演されましたが、キムンカムイ(熊のカムイ)に感謝の祈りを捧げるために数日間に亘る饗宴を催して、土産を持たせてカムイモシリへ送り返す伝統的な儀礼「イヨマンテ」(熊の霊送り)を題材にして、その儀礼の流れを再現しながらイヨマンテの精神を表現することを目的とした舞台です。ウウエランカラプ(アイヌの正式な挨拶)から開始され、私達が来た道、私達が行く道の物語であることが紹介されました。先ず、儀礼の準備として、イユタ・ウポポ(穀物を脱穀、製粉するために女性達が3拍子で優美に歌う杵つき歌)、サケカラ・ウポポ(酒を濾すために女性達が2拍子で優美に歌う酒造りの歌)、タクサリムセ(笹や蓬などで作られたタクサを使ってカムイを迎えるための場を清めるために男性達が2拍子で勇壮に踊るお祓いの踊り)が上演されましたが、和人の作業歌(田楽、酒造りの歌など)と同様に日常の営みの中から生まれた生活に息衝く伝統文化であることがよく分かりました。次に、カムイへの祈りとして、カムイノミ(酒杯とイクパスイを使ったカムイへの祈り)が上演されましたが、歌や踊りなどはなく儀式性の高い厳粛な雰囲気の中で村人達が酒杯とイクバスイを回しながらカムイとアイヌ(人間)が同じ杯を分かち合いますが、過去のブログ記事で触れたとおり、和人の神人共食と同様に神(自然)の恵みに感謝し、神(自然)との調和(神人一体)を願う一元論的な世界観が感じられました。なお、アイヌ文化ではカムイへの祈りは火のカムイを媒介すると届き易くなると信じられていますが、過去のブログ記事でも触れたとおり、人間にとって道具の使用に次ぐ第二の技術革命と言われる火の使用により脳の発達が促されて高度な思考を行えるようになり、光、熱、音や煙などを生み出す火に神聖なもの(人ならぬ者の存在)を感じていたのではないかと思われます。最後に、カムイへ感謝を捧げるための饗宴として、タプカラ(カムイをもてなす男性達が2拍子で勇壮に歌い舞う踏舞)、ウポポ(裏声や息なども使って輪唱しながら歌う座り歌)、ハンチカプ・リムセ(鳥の鳴き声を模倣しながら衣装の袖を翼に見立てた水鳥の踊り)、エムシ・リムセ(男性2人が華麗に披露する刀の踊り)、イヨマンテ・リムセ(円陣を囲んで徐々にリズムを詰めながら歌い舞う熊の霊送りの踊り)、イエトコチヤシヌレアイ(キムンカムイがカムイリシモへ帰る道を清めるための射矢)が上演されましたが、バックスクリーンに北海道の雄大な自然が映し出され、アイヌの歌や踊りがその自然と一体となり幻想的に彩る舞台は本当に美しく(西洋音楽のように人工的に規律された音やリズムが空間や時間を切り取るような印象とは異なり、自然にある音やリズムに寄り添って広陵たる大自然に遊び、悠久の時間を紡ぐような風合い)、このようにアイヌの人々は自然と調和しながら生きてきたことを実感できた素晴らしい舞台でした。ムックリ(口琴)はスペクトル波形のような独特な響きを生む楽器ですが、非常に表情やニュアンスが豊かで色々な音楽表現が可能な面白い楽器であることが分かり興味深かったです。なお、以下の囲み記事でも紹介していますが、今春から阿寒湖アイヌコタンで新作シアターピース「満月のリムセ」が公開される予定なので、北海道へアイヌ観光に行ってみようかと思っています。本日の公演を拝見した印象からも、アイヌ文化に触れることで人生の大切なものが見つけられるような気がしています。また、現在、名著「アイヌ神謡集」を執筆した知里幸恵さんの半生を描いた映画「アイヌのうた」が公開されていますが、年甲斐もなく、とてもピュアなものに触れて心が裸にされ、自然と涙が溢れ出してくるような映画でした。横浜の映画観は満席の盛会で入場できない人が出るほどの人気振りですが、是非、映画観の大きなスクリーンでご覧になられることをお勧めします。
 
 
▼オペラ「長い終わり」
【題名】オペラ「長い終わり」(世界初演)
【作曲】高橋宏治
【台本】高橋宏治
【演出】植村真
【ドラマトゥルク】田口仁
【音響】増田義基
【監督】高橋宏治(芸術監督)、服部寛隆(舞台監督)
【録音】元木一成
【映像】後藤天
【制作】進藤綾音
【出演】<Sop>中江早希(私役)
    <Sop>薬師寺典子(声(ヴォイス)役)
【指揮】浦部雪
【演奏】<Vn>松岡麻衣子、清水伶香
    <Va>甲斐史子
    <Vc>原宗史
    <Perc>牧野美沙
    <Pf>弘中佑子
【感想】
過去のブログ記事で紹介しましたが、室内モノオペラ「プラットフォーム」(2020年)が東京藝大アートフェス2023で東京藝術大学学長賞を受賞した現代作曲家の高橋宏治さんが作曲、台本(オリジナル脚本を使用)及び芸術監督を手掛けた新作が初演されるというので聴きに行く予定にしています。公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、公演の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
今日は現代作曲家の高橋宏治さんが作曲、台本及び芸術監督を務めた新作の室内オペラ「長い終わり」を鑑賞してきましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。僕の基本的な鑑賞態度として、作曲家や演奏家の人となりなどの情報は認知バイアスを生み易いのであまり関心を持たないことにしていますが、この作品は少女の人生に仮託した高橋さんの私小説(モノローグ)という性格を持っているように感じられましたので、パンフレットに記載されている範囲内で高橋さんのことについて簡単に触れておきたいと思います。高橋さんには、映画監督になりたいという夢があったそうですが、その手始めとして自宅のピアノで作曲を始めたことが作曲家の道を歩む契機になったそうです。いずれは映画のような「大きな総合的な作品」を作るという目標を持ち続けたことが、この作品に結実されているようです。この点、室内オペラと銘打たれていますが、映画のような器の大きな作品に感じられ、古いものから新しいものまでジャンルレスに融合した新しい時代の新鮮な感性が感じられる作品になっています。新約聖書ルカ福音書第5章には「新しい酒は新しい皮袋に盛れ」という有名な言葉がありますが、これに擬えれば、第一次世界大戦を契機として「古い酒」を醸造するための「古い革袋」が破却され、20世紀(モダニズム)は「新しい酒」(世界観)を醸造するための「新しい革袋」(方法)の開発に関心が向けられた結果として、観客は「新しい酒」の醸造を待ち侘びながら、もはや酔えなくなるくらい「古い酒」を飲み尽くす羽目になりましたが、漸く21世紀(ポストモダン)になって「新しい酒」(現代の時代性を反映した多様な芸術表現)が醸造されるようになり、それに適した「新しい革袋」(ジャンルレスで多様な表現方法)が柔軟に使われるようになったことで、観客は銘酒を求めて「新しい酒」の利(聴)き酒を始めるようになったのが現在の状況ではないかと思います。その意味で、高橋さんのような「新しい酒」を振る舞ってくれる新鮮な感性を持った若き才能の登場を待ち侘びていたと言え、さしずめ拙ブログは「新しい酒」を求めて彷徨う垢ぬけないおじさんの酒場放浪記ということになりますが、少しでも「新しい酒」の風味などが伝われば飲兵衛冥利に尽きるというものです。さて、この作品のプロットは、1人の少女(私)が自分の内なる声に導かれ、「愛」(音楽のメタファー)を求めて自分のナラティブを綴り始めますが、いつか音楽が終わるように、いつか愛や人生も終わるという愛と人生の物語になっています。愛をテーマにしていますが、愛する人とのダイアログではなく、さながらシューベルトの歌曲集「冬の旅」のように愛する人を想う私のモノローグになっており、私の日常(人生)という小さな物語(個人のナラティブ)が綴られています。開演前から前奏曲としてアナログ時計の秒針の音(牧野さんがビブラフォンを叩く音)が刻まれ(但し、最新の物理学では、時間を逆行する反物質の存在が確認され、時間は不可逆的ではなく可逆的である可能性が指摘されています。)、やがて他の演奏者が静かに入場してアナログ時計の秒針の音(心臓が刻む鼓動のメタファー?)に合わせて音楽を奏で始め、人生に「愛」(音楽のメタファー)が生まれる瞬間を印象的に表現していましたが、ミュージカル「レント」の有名なピース「シーズンズ・オブ・ラブ」などにも通底するテーマ性を持った含蓄のある演出に感じられました。薬師寺さんが演じる「声」(但し、バンダとして声だけの出演ではなく、インテリメガネをかけたスーツ姿のエバンジェリストとして登場)の語りが希望なき未来を掴み取ろうとする現代の若者の諦観混じりの焦燥を上手く表現していました。これに続いて、過去の思い出らしき映像がモニターに映し出されるなか、中江さんが演じる「私」がラップ基調のリズムで自らの素性、来歴を歌いましたが、現在の自分ではない別の何者かになりたいと渇望する若者の野心のようなものを上手く表現していました。人生を足掻いた果てに無為自然の心境(老荘思想)へ収斂されていく老いらくに差し掛かった老輩にとっては、昔日の青春の残照を見ているようで懐かしく感じられました。「声」がコミカルな音楽と共に愛とは何かについてレクチャーを始めましたが、アガペー(神の愛)まで持ち出す二項対立の極論が笑いを誘っていました。「誤解によって愛は始まり、理解によって愛は終わる。」という名言にも表れていますが、愛には脳幹や大脳辺縁系で捉える本能的な愛(情動)と大脳新皮質で捉える理性的な愛(感情)の二種類があると言われており、これらの愛に通底している根本原理として自らの生存可能性を高めること(自らの遺伝子を受け継ぐコピーを数多く残すことが典型)が愛の本性であるとすれば、アガペー、ストルゲー、フィリア、エロスは択一的な関係ではなく、これらは愛の諸相として全て包含されるものとしか言いようがありません。この点、先日のカムイとアイヌの物語「イノミ」の公演でも触れたとおり、現代は、ヒューマニズムの視点を越えて、人間に対する愛から自然(その一部として人間を包含するもの)に対する愛が求められている時代になっているように感じます。その後、ワルツ(一般的にはA、B、Cと段階を踏む愛のセオリーをワルツのステップで表現)、ピアノ練習曲(人間を愛するためのノウハウをエチュードで表現)や間奏曲(ピアノ、パーカッション、チェロの三重奏がマリオネットのような不器用さを表現)により音楽に擬えて愛(人生)のレッスンが表現されましたが、果たして自分の青春時代はどんな風であったのか記憶の彼方です(苦笑)。これに続いて、ミニマル・ミュージック風の曲(エルガーのピアノ曲「愛の挨拶」のパロディー?)が奏でられるなか、「私」がレチタティーヴォ風の叙事詩として愛する人との出会いを歌いましたが(さながら愛の受難劇)、愛が人生の重大事であった若い時代を思い出す印象的なピースでした。アーメン終止を主題にした変奏曲が奏でられるなか、「声」が永遠に愛が続くように祈り歌いましたが、ピッチカートから旋律が生まれては消える曲想は愛の儚さを表現しているように感じられました。「私」と「声」が「あたなはわたしのフリをする」「わたしはあなたのフリをする」とカノン風に歌い重ねましたが、人間のミラーニューロン(共感細胞)が他人との共感を形成する様子が音楽的に表現され、お互いのナラティブを同期させながら調和した関係を保つストルゲーやフィリアの状態がユーモラスに描写されていたと思います。しかし、「声」は音楽と同様に愛にも終わりが近づいていることを宣言します。この作品は「私」の人生の節目(愛の萌芽、愛の終焉、人生の終焉)毎に間奏曲が挿入される構成になっており、ピアノとビブラフォンが「間」を効果的に使いながら愛がスレ違う様子を巧みに描写していましたが、非常に着想が豊かで面白い音楽表現に感じられました。「声」が同じモチーフを繰り返し歌いながら人生がマンネリズムに陥って行く様子をシュールに表現し、徐々にリズムが変化しながらお互いのナラティブが同期しなくなり不協和が生じている様子を描写していました。「私」は、レチタティーヴォ(過去)とラップ(現在)を使って愛の萌芽(過去)と愛の終焉(現在)を対照するように交互に歌いましたが、レチタティーヴォはバッハのマタイ受難曲のそれを彷彿とさせるものであり、さながら「愛」(イエスのメタファー)の磔刑を比喩しているような含蓄のある表現になっていました。これに続く間奏曲ではベルリオーズの「幻想交響曲」第四楽章の死への行進曲のパロディーが奏でられ、同曲第五楽章のカリヨン(弔いの鐘)よろしく愛する人の死を告げるスマホのベルが鳴り響くという趣向でしたが、現代は弔いの鐘の音も多様な時代になっています。「声」と「私」が時間を戻して欲しいと人生の後悔を歌いましたが、グリッサンドを使って時を遡る(又は過去を振り返る)様子が印象的に描写されていました。「声」はユーモラスな曲と共に終わりとは何かについてレクチャーを始めましたが、「結局、何も分からないまま人生を終えて行く」とオチがつけられていました。人間は有性生殖(人類が進化の過程で選択した多様性による生存戦略)に原因する遺伝子のコピーミスなどから種の絶滅を防ぐために自らの死を実装するようになりましたが、この摂理はキャプテン・ハーロックの名言「親から子、子からその子へと血は流れ、永遠に続く。それが本当の永遠の命だと俺は信じる。」に尽くされているように思います。人間の脳は自らの生存可能性を高めるために偶然を嫌って理由(因果関係)を求めたがる傾向がありますが、あるがまま(偶然)を受け入れて理由(因果関係)を求めない生き方が仏教思想の「自然」(じねん)であり、個人的にはそのような境地に至れるように智慧を磨いて行きたいと心掛けています。改めて、そのようなことを色々と考えさせられる作品でした。この作品の終曲が出色でして、冒頭ではアナログ時計の秒針の音(心臓のメタファー?)に合わせて音楽を奏で始め、人生に「愛」(音楽のメタファー)が生まれる瞬間が印象的に表現されていましたが、終曲では末期の呼吸の音が静かに流れるなか、歌(音楽)が声にならない息に変わり、命が静かに燃え尽きる呼吸のリズムを刻みながら消えて行く様子がリアルに描写され(オペラ「デット・マン・ウォーキング」のクライマックスを彷彿とさせるリアルな死の表現)、「人間は、生まれるときは息を吐き、死ぬときは息を吸う(息を引き取る)」と言われますが、最後に大きく息を吸って終曲(音楽が終わり、人生が終わる)となりました。この作品は少女の人生に仮託した高橋さんの私小説(モノローグ)という性格を持っているように感じましたが、何らかの正解や解決ではなく「問い」を投げ掛けることで観客が自分のナラティブと向き合うことを促す現代的なアート作品のように感じられました。高橋さんは新しい時代の新鮮な感性を持ち、そのための表現の引き出しも豊富にありそうな逸材なので、今後も高橋さんの作品に注目していきたいと思っています。
 
 
▼アンサンブル・フリーEAST第20回演奏会
【題名】アンサンブル・フリーEAST第20回演奏会
    アンサンブル・フリーWESTとの合同演奏会
【演目】①I.ストラヴィンスキー 
             バレエ音楽「ぺトルーシュカ」(1911年版)
    ②I.ストラヴィンスキー バレエ音楽「春の祭典」
    ③大熊夏織 踊れるものなら(改訂版)
    ④I.ストラヴィンスキー バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)
【指揮】浅野亮介
【演奏】アンサンブルフリーEAST
    アンサンブルフリーWEST
【会場】ティアラこうとう 大ホール
【日時】2024年3月3日(日)13:30~
【感想】
過去のブログ記事(現代を聴く)で紹介していますが、アンサンブルフリーは若手の現代作曲家、若手のプロ奏者や音大生等から構成され、日本の優れた現代音楽を高い演奏技術で世界に発信し、未来に残していくという目的で活動している団体ですが、第20回演奏会が開催されるというので聴きに行く予定にしています。公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、公演の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
過去のブログ記事(「現代を聴く」シリーズ)で「アンサンブルフリーJAPAN」をご紹介しましたが、指揮者・浅野亮介さんが100名を超える大規模な編成の曲、実演の機会が少ない曲や若手作曲家の委嘱作品などを積極的に採り上げるために設立し、若手のプロ奏者、音大生及びアマチュアなどから構成される楽団で、関西を中心に活動するオーケストラ「アンサンブルフリーWEST」、関東を中心に活動するオーケストラ「アンサンブルフリーEAST」及び若手のプロ奏者及び音大生から構成される「アンサンブルフリーJAPAN」の3楽団があるようです。今日はアンサンブルフリーEASTの設立20周年を記念して開催されたアンサンブルフリーWESTとの合同演奏会を聴きに行きましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。さて、ご案内のとおり、I.ストラヴィンスキーはカメレオンという異名を持っていますが、これはその吸い付くような丸い目からつけられたものではなく、その作風が原始主義、新古典主義、音列主義と次々に変化したことからつけられたものです。今日の演目では、クラシック(貴族:階層性)への反動としてモダン(大衆:民族性)が台頭してきた時代の潮流を背景としてI.ストラヴィンスキーが頭角を現す契機になったモダンとエスニシティを融合した革新的な3作品が採り上げられており、これに加えて、現代の時代性からクラシック(貴族:階層性)やモダン(大衆:民族性)が急速に廃れつつある状況にあるなかでポストモダン(多様:個性)が台頭してきた現代の潮流を体現する現代作曲家・大熊夏織さんの新作がカップリングされるという清新な息吹が感じられる演目構成になっていました。
 
▼ナラティブと音楽の変遷(イメージ図)
ナラティブ 価値観
(中心音)
音楽様式 作曲家
社会

絶対的 調性音楽
市民革命(封建:絶対的→市民:相対的)
相対的 旋法的音楽
半音階的音楽
微分音音楽
複調音楽
ドビュッシー
ワーグナー
ハーバ
ストラヴィンスキー
世界大戦(市民:相対的→大衆:均等的)
均等的 セリー音楽 シェーンベルク
個人

情報革命(大衆:均等的→個衆:個性的)
個性的 多様な音楽
※表組みが複雑になるのでアイヴズは割愛します。
※分かり易さを優先しているので正確な記載ではありません(ファクション)。
 
①バレエ音楽「ペトルーシュカ」(1911年版)
②バレエ音楽「春の祭典」
④組曲「火の鳥」(1919年版)
アンサンブルフリーEASTは個々の団員により若干の実力差が感じられましたが、アンサンブルフリーWESTと共にアマチュア・オーケストラとしては全国トップレベルの実力を備えており非常に信頼感の高い演奏を聴くことができました。全体を通して、指揮者・浅野さんが優れた統率力を発揮してオーケストラから遺憾なく実力を引き出しながらこれをダイナミックにドライブし、緩急を自在に操るメリハリから生まれる劇性や複雑なリズムを適確に捉えた明晰性など歯切れの良い演奏が心地よく、各パート間の緊密なコンビネーションによる隙のない演奏によりI.ストラヴィンスキーのオーケストレーションが精彩を放つ好演であったと思います。先ず、3曲の中で2番目に作曲されたバレエ音楽「ペトルーシュカ」(演奏:アンサンブルフリーWEST)は、ニコライ1世の治世化で搾取された農民の悲哀(社会のナラティブ)をペトルーシュカ(パペット)に化体して描いた作品です。第1場では多彩な音響と変拍子により市場の喧騒を生き生きと描写する躍動感のある演奏が展開され、パペットの踊りを華やかに彩る演奏は聴き応えがありました。第2場ではペトルーシュカ調(ハ長調と嬰へ長調の復調)を効果的に使ってペトルーシュカの悲哀を繊細に表現し、これに続く第3場ではムーア人(異教徒)のエキゾチックな魅力を醸し出しながらムーア人と踊り子のダンスを優雅に聴かせ、ペトルーシュカとムーア人のキャラクターの対照性が際立つ演奏を楽しめました。第4場では絢爛たる響きで市場の華やいだ雰囲気を生き生きと描写した後、ペトルーシュカとムーア人が乱闘する気忙しいパッセージを経て、ヴァイオリンソロとミュートを付けたトランペットがムーア人に殺されたペトルーシュカの亡霊をユーモラスに表現する終曲となりましたが、この作品を一筆書きでドラマチックに描き切る吸引力ある好演であったと思います。次に、3曲の中で3番目に作曲されたバレエ音楽「春の祭典」(演奏:アンサンブルフリーEAST)は、I.ストラヴィンスキーがバレエ音楽「火の鳥」を作曲している最中に「荘厳な異教徒の祭典」というコンセプトを着想し、その独特な世界観(プロット)を描いた作品です。第1部では冒頭のファゴットがやや持て余し気味の印象を受けましたが、周囲のサポートもあり新しい命の芽吹きに神力を感じさせる春先のミステリアスな雰囲気が芬々と立ち込めて、オーケストラは複雑なリズムを小気味よいキビキビした音運びで色彩豊かに聴かせていましたが、春先の清廉とした息吹が感じられる演奏を楽しめ、とりわけ第7曲ではポリリズムが生み出す狂爛たるクライマックスは聴き応えがありました。第2部ではペトルーシュカ調を効果的に使いながら生贄儀式の神秘的で陰鬱とした雰囲気を巧みに表現し、オーケストラが混然一体となって狂乱的なリズムを刻む緊迫感のある演奏が展開されました。アマオケとは思えない演奏精度の高さで、I.ストラヴィンスキーの緻密な管弦楽法から生み出されるカオス的な美(カオスからコスモスが生まれるその始源への眼差し)を堪能することができました。やがて力強い打楽器に導かれて絢爛たるフィナーレを迎える燃焼度の高い演奏は圧巻でした。最後に、3曲の中で1番目に作曲された組曲「火の鳥」(演奏:アンサンブルフリーEASTとアンサンブルフリーWESTの合同)は、I.ストラヴィンスキーがバレエ・リュスのセルゲイ・ディアギレフからミハイル・フォーキンの台本に基づくバレエ音楽「火の鳥」の作曲を委嘱されて創作した作品を組曲に改編したもので(本日は2管編成の1919年版)、伝統的なクラシック・バレエに反発してモダン・ダンスを基調とする革新的な作品を本格的に創作する契機になった記念碑的な作品です。序奏では深々と立ち込める夜の闇とその神秘的な雰囲気を低音楽器(大太鼓、コントラバス、ファゴット)、弦のハーモニクス、フルート、オーボエが印象的に表現し、これに続く火の鳥の踊りではそのステップを軽快なリズム感で聴かせて、闇と光を対照するメリハリのある演奏を楽しめました。王女たちの踊りではオーボエとハープがロマンチックに彩り、ヴァイオリン、チェロ、クラリネット、ファゴット、ホルンが色彩豊かに歌い継ぐロシア民謡の叙情香る演奏が出色でした。カッチェイ王の魔の踊りでは金管の威圧的な咆哮で雰囲気が一変し、パーカッション、ピアノ、弦が鋭いリズムを激しく刻みながら密度の濃い音楽を展開する高揚感のある演奏を楽しめました。火の鳥の子守歌ではハープが揺り籠にゆられているような夢見心地の調べを奏でるなか、ファゴットとオーボエがノスタルジックな子守歌を歌い添う美しい演奏に魅了されました。最後はハープと弦楽器が光沢感のある響きを増しながら、これに打楽器や金管が加わって力強くクライマックスを築く燃焼度の高い演奏を楽しめました。この3曲のライブ演奏を続けて聴くのは初めての経験でしたが、ロマン主義の残香が漂うバレエ音楽「火の鳥」から、原始主義、新古典主義、音列主義と作風を変化させながら、その書法が深化されて行く過程がよく分かる面白いプログラムでした。I.ストラヴィンスキーの革新的な作品は「現代音楽の古典」とまで言われていますが、近年のアマオケのレベルアップには目覚ましいものがあり、ここまでアマオケに演奏されてしまうと、プロオケはその存在意義をかけてクラシック(定番曲)ばかりを演奏していられない状況が生まれているのではないかと思います。
 
③踊れるものなら(改訂版/世界初演)
現代作曲家・大熊夏織さんのご高名は予てから聞き及んでおり「現代を聴く」シリーズでも採り上げたいと思っていた将来を嘱望される若手の1人ですが、その機会を逸していましたので、その曲の感想を簡単に残しておきたいと思います。この曲は、大熊さんが2019年に「踊りたくなる衝動」をテーマに作曲した作品がベースになっているそうですが、今回は「踊りたくなる衝動があっても踊り出せない感覚」(最初の一歩が踏み出せない、怖くて体が動かない、どう合わせて良いのか分からないなどの感覚)をテーマに大幅に改訂した新作だそうです。「踊る」ことをテーマにした曲は枚挙に暇がありませんが、「踊れない」ことをテーマにした曲は知る限り他に例を知らず(井上陽水の「ダンスは上手く踊れない」や踊ることを目的としない舞曲などが思い浮かびますが、これらは「踊れない」ことを直接のテーマとしたものではありません)、多様性の時代を背景にして非常にユニークなテーマ性を持つ曲だと思います。今回の改訂にあたっては、舞踊家・土方巽さんの暗黒舞踊からインスパイアを受け、「オーケストラを一つの身体に見立て、緊張と緩和を繰り返し、たった一つの振付(モチーフ)をひたすら踊り続けます。間違っていたとしても、それを利用して新たなダンスを生み出し、また、その繰り返し。」を表現したものだそうです。2管8型をベースにビブラフォン、スネアドラム、バスドラム、コンガ、ウッドブロック、ピアノなどを追加した特殊編成になっていましたが、非常に短い曲でありながら多彩なオーケストレーションを楽しめる作品になっていました。冒頭ではヴィオラとピアノによる打撃音で開始されましたが、これは踊りたくなる衝動を表現したものでしょうか。多様な楽器が多彩な響きでリズム感を捉えようとしますが、それらは持続せず、少しづつアレンジを変えながらリトライが繰り返されていきました。ジャズダンスやアフリカンダンスを想起させる聴きどころなどもあり、人間がリズムを使ってフォルムを創り出して行く様子が音楽的に表現されている面白い作品でした。若手の現代作曲家の作品には既成の概念に囚われない着想の豊かさを感じさせるものが多く、僕のような老輩には発想が及ばない曲想で世界観を広げられて行くような興趣が新鮮で面白く感じられます。
 
 
▼映画「カムイのうた」
前回のブログ記事で触れましたが、現在、アイヌ神謡集を執筆した知里幸恵さんの半生を描いた映画「カムイのうた」が公開されています。オペラ「ニングル」はアイヌ文化のエッセンスを現代人へのメッセージとして紡いだ感動作でしたが、知里幸恵さんのアイヌ神謡集の序文にも現れているとおり、アイヌ文化には現代の日本人が忘れてしまった自然と共生する謙虚で純真な精神が息衝いているように感じられ、本来、日本人(古モンゴロイド)が持っていたはずの美しい心を思い出させてくれます。
 
▼シアターピース「満月のリムセ」
2024年4月27日から阿寒湖アイヌコタンのシアター「イコロ」において、アイヌ文化への理解を深めることを目的として北海道釧路市が制作した新演目「満月のリムセ」が公開されます。かなり面白そうな公演なので、今年のGW又は夏休みは満月のリムセの鑑賞を兼ねて阿寒湖アイヌコタン(釧路市)、川村カ子トアイヌ記念館(旭川市)、ウポポイ(白老町)、知里幸恵銀のしずく館(登別市)、二風谷(平取町)などを巡る旅行を企画しており、いまから楽しみです!