大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

新年の挨拶①:オペラ「デッドマン・ウォーキング」とタンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのアリア」と淡座「音曲夢見噺」と共生(空間)が誘う共進化(時間)< STOP WAR IN UKRAINE >

 
▼共生(空間)が誘う共進化(時間)(ブログの枕単編)
今回も公演数が多くなりましたので、ブログの枕は単編にします。少し気が早いですが、例年のとおり今回と次回の2回に分けて新年の挨拶を投稿したいと思います。さて、多産で有名な兎は子孫繁栄の縁起物と考えられていますが、その兎(卯)を干支とする2023年は少子化対策、疫病、地域紛争、自然災害や人的災害(事故、事件を含む)など「命」について色々と考えさせられる年でした。2023年1月に岸田首相が年頭記者会見で「異次元の少子化対策」に取り組むという政府の方針を発表し、今年6月に「こども未来戦略方針」が公表されましたが、その財源論を含む実効性ある政策などが議論されています。そんななか今年6月に産学主導で設置された令和臨調(1960年代には高度経済成長を牽引する政官主導の第一次臨調が設置され、1980年代には規制緩和による民間活力を牽引する官産学主導の第二次臨調が設置されましたが、失われた30年を経て2020年代には時代の変革期に対応するための国家デザインを見直すために産学主導の令和臨調が設置されています。)が「人口減少危機を直視せよ」という提言を公表し、「もはや少子化対策だけでは日本の急激な人口減少を食い止めきれない」という危機意識から「日本社会をますます開かれたものとし、外国出身者を含めて、世界の多様な地域から集まった人々が力を合わせ、互いに学び合うことができる環境を整備したい」と少子化対策から一歩踏み込んだ人口減少対策を提言して注目を集めています。この点、日本は、2018年時点の外国人流入者数(有効なビザを保有し、90日以上滞在予定の外国人の数)が約52万人に上りドイツ、アメリカ、スペインに次ぐ世界第4位の移民大国(「OECD国際移民データベースと移民の市場の成果」より)になっており、多文化共生の推進が活発になっています。世界各国で移民政策には賛否両論あり慎重な議論を要する課題も多いですが、この節目に生物の生存戦略の観点から「共生」(空間)と「共進化」(時間)について簡単に触れてみたいと思います。ご案内のとおり、2021年にG7で2030年までに陸と海の30%以上を健全な生態系として保全し、生物多様性の損失を食い止めて再生する(ネイチャーポジティブ)という目標(30by30:サーティ・バイ・サーティ)が掲げられましたが、20世紀まで主流であった西洋思想に見られる自然と人間を非連続的に捉える二元論的な世界観(キリスト教や啓蒙主義を思想的な背景とする中世のルネサンス(文芸復興)や近代のヒューマニズムに通底する人間中心主義的な価値観、中心のある世界観を前提とする階層思考)への痛烈な反省から、21世紀からは東洋思想を採り入れた自然と人間を連続的に捉える一元論的な世界観(SDGsに体現されている現代のルネサンス(自然復興)や自然と人間の対称性の回復を志向する自然尊重主義的な価値観、中心のない世界観を前提とするネットワーク思考)へ大きく時代の舵が切られ始めています。
 
▼生命の歴史と共生の諸相
年代 イヴェント
約46億年前 地球の誕生
約44億年前 海の誕生
【海の安定】深海の熱水噴出孔で無機物から有機物が合成
約38億年前 生命(原核生物)の誕生
①大腸菌等の祖先:バクテリア(真正細菌)
②動植物の祖先:アーキア(古細菌)
約27億年前 シアノバクテリア(光合成)の誕生
原核生物(バクテリア)の進化
①ミトコンドリアの誕生:酸素で糖分解
②葉緑体の誕生:光合成+酸素で糖分解
【酸素ホロコースト】酸素濃度の上昇による生物の大量絶滅
【スノーボールアース(1回目)】生存戦略:細胞内共生
                     有性生殖による多様化
約22億年前 真核生物(アーキア+バクテリア)の誕生
①動物の祖先:アーキア+ミトコンドリア
②植物の祖先:アーキア+ミトコンドリア+葉緑体
約12億年前 有性生殖と死の誕生
【スノーボールアース(2回目)】生存戦略:細胞外共生
約7億年前 多細胞生物の誕生
【スノーボールアース(3回目)】生存戦略:生物進化による多様化
【カンブリア大爆発】生存戦略:ニッチ・シフト(棲み分け)
【マントル対流】陸の出現、土(植物・岩石の滞積)の誕生
約5億年前 植物(コケ)の進出
無脊椎動物(昆虫)の進出
脊椎動物(魚)の誕生
【ビックファイブ(1回目)】火山噴火による気候変動:約85%の生物絶滅
約4億年前 脊椎動物(両生類)の進出
植物(シダ)の誕生(湿地)
【ビックファイブ(2回目)】原因不明:約70%の生物絶滅
約3億年前 無脊椎動物(昆虫)の進出
裸子植物の誕生(内地)
【ビックファイブ(3回目)】火山噴火による気候変動:約95%の生物絶滅
【ビックファイブ(4回目)】火山噴火による気候変動:約80%の生物絶滅
約2億年前 脊椎動物(鳥)の進出
被子植物の誕生(花の誕生)
【ビックファイブ(5回目)】隕石衝突による気候変動:約70%の生物絶滅
約20万年前 ホモサピエンスの誕生
【大地帯溝(森林減少等)】生存戦略:生活環境変化に伴う生物進化
500万年前 直立二足歩行の開始
※上表は大まかな目安であり学説によって異なる見解があります。
 
さて、生命の歴史を俯瞰するにあたり、生命の源を育んだ地球の誕生まで遡る必要があります。約46億年前に誕生した地球には海がありませんでしたが、太陽から地球までの距離の約2.7倍より遠い宇宙(スノーライン)には氷が存在していることが分かっていますので(例えば、木星や天王星など)、スノーラインの外側から飛来した隕石や彗星などによって地球に運ばれてきた氷が地球の高い地表温度で水蒸気になり火山ガスなどの酸性成分と混合され、その後、地球の地表温度の低下に伴って酸性雨として地表面に降り注ぎ、地表面の鉱物などを溶かしながら地球上の殆どの元素を含んだ海(有機物を生成するための元素のプール)が誕生したと考えられています。この点、1953年にS.ミラーが地球上で無機物から有機物を生成できることを科学的に実証し、水素、二酸化炭素及び鉱物などが豊富にあった深海の熱水噴出孔で無機物から簡単な有機物(低分子:アミノ酸など)が合成され、そこから複雑な有機物(高分子:タンパク質など)が合成される化学進化(RNAレベルで無機物から複雑な有機物へ進化)を経て生命の源が誕生し、その後、細胞(生物の3要件:①自己複製、②エネルギー代謝、③細胞構造)が誕生して生物進化(DNAレベルで有機物から多様な生物へ進化)が始まったと考えられています。生物の設計図であるDNAには空き容量が多く、その空き容量を有効に使った「トランスポゾン」(神によるゲノム編集)により生物進化が繰り返されてきましたが、過去のブログ記事で触れたとおり、現在では「クリスパー・キャス9」(人間によるゲノム編集)という技術が開発され、デザイナー・ベイビーなどクリスパー革命が人類に与える影響を踏まえ、その取扱いについて慎重に議論されています(映画「GATTACA」)。海が安定した約38億年前に誕生した原核生物「バクテリア」(大腸菌等の祖先)及び「アーキア」(動植物の祖先)は硫化水素を分解して得られる水素をエネルギーにしていましたが、その後、二酸化炭素及び水を太陽光で分解して得られるをエネルギーにし、その際に生成される酸素を輩出する光合成を行う原核生物「シアノバクテリア」が誕生して地球上の酸素濃度が上昇しました。当時の原核生物にとって物質を酸化して錆びさせる酸素は猛毒であったので(現在でも活性酸素は老化の原因)、地球上の原核生物は大量絶滅の危機に瀕しました(酸素ホロコースト)。しかし、この地球環境の変化に適応して猛毒の酸素を有効に活用できるように進化したニュータイプの原核生物として、シアノバクテリアから接取した糖を酸素で分解してエネルギーにする原核生物「ミトコンドリア」(動物の祖先)やシアノバクテリアから進化して昼間は光合成により糖と酸素を生成し、夜間は酸素で糖を分解してエネルギーを得る原核生物「葉緑体」(植物の祖先)が誕生しました。このような状況のなか約22億年前にシアノバクテリアによる大量の酸素生成に伴う二酸化炭素の減少(地球温暖化と逆の現象)により1回目のスノーボールアース(大規模な氷河期による全球凍結)になりますが、原核生物の中には、迅速性を重視する生存戦略をとるもの(迅速に変異して環境変化に適応できるように数少ないDNAしか保有せず、その少ないDNAを迅速にコピーして増殖するためにDNAを格納するための細胞核を持たない生物)と、多様性を重視する生存戦略をとるもの(自らの細胞内に他の原核生物を取り込んで(細胞内共生)、それぞれの独自性を活かしながら相互協力して生存可能性を高めるために各々のDNAを格納するための細胞核を持つ生物(真核生物))が誕生し、アキーアの中には、ミトコンドリアを取り込んだ動物の祖先(植物が生成する有機物を分解してエネルギーを得るために植物を摂取する草食動物及びその草食動物を摂取する肉食動物は植物又は草食動物を摂取し易いように「動く」ことを選択し、外から有機物を吸収し易いように細胞壁を持たないもの)と、ミトコンドリアと葉緑素を取り込んだ植物の祖先(自ら有機物を生成してエネルギーを得ることができるので無駄なエネルギーを使わないように「動かない」ことを選択し、自ら生成した有機物を保管するために細胞壁を持つもの)が誕生しました。さらに、約12億年前に多様性を重視する生存戦略が深化され、それまでの「無声生殖」(他の個体のDNAと交配せずに自らのDNAのみを自己複製:量の戦略)ではなく「有性生殖」(他の個体のDNAと交配して新しいDNAを生成することで多様性を創出:質の戦略)が誕生し、これと同時に他の個体のDNAを交配することで生じる可能性があるDNAのバグの拡散を抑制してDNAの劣化を防ぐために全個体のDNAを短期間でデリートする仕組みとして「」が誕生して種の保存を図る生存戦略がとられました(個体と一緒にDNAもデリートされる死のプログラムを実装)。キャプテン・ハーロックの名言「鉄郎。たとえ父と志は違っても、それを乗り越えて若者が未来を作るのだ。親から子へ。子からまたその子へ血は流れ、永遠に続いていく。それが本当の永遠の命だと、俺は信じる。」は人生哲学だけではなく生物学的にも正しいものであり、文化芸術が若者のロマンと知性を育んでいた古き良き時代の風情が感じられます。様々な環境変化に適応するためには自らのDNAだけではなく他の個体のDNAと交配することで自らとは異なる性質を持った個体(親を乗り越える子)を増やす方が有利であり、そのような仕組みを有効に機能させるためにオスとメスが半数づつ誕生するようにブログラムされています。因みに、無性生殖する原核生物は細胞の分裂回数が有限であることから個体レベルでは「死」がありますが、新しく増殖した細胞の分裂回数はリセットされますので自らのDNAをそのまま複製したクローンDNAはデリートされることはなく、その限りでDNAレベルでは「死」はありません。
 
▼共生の有無と構造の違い
分類 細胞核
(DNA)
細胞壁
(有機物)
原核生物
(共生なし)
なし なし
真核生物
(共生あり)
動物
(栄養摂取)
あり なし
植物
(栄養生成)
あり あり
※真核生物では細胞内で他の原核生物と共生するために、それぞれの独自性が損なわれないように細胞核が設けられています。また、他の生物から栄養素を摂取する動物(従属栄養生物)は栄養素を取り込み易いように細胞壁がありませんが、自ら栄養素を生成する植物(独立栄養生物)は栄養素を保管するための細胞壁があります。
 
▼多様性を重視する生存戦略
分類 原核生物 真核生物
単細胞生物
細菌
(大腸菌等)
繊毛虫
(ゾウリムシ等)
多細胞生物
動物
直物
菌類
(キノコ等)
※人間同士のDNAは約99.9%が共通しており、残り約0.1%で各個人の外見、能力及びその他のパーソナリティー等が作られています。人間とチンパンジーでは約90%、猫では約70%、ハエでは約60%、バナナでは約50%のDNAが共通しており、生物の設計図は環境変化で消失してしまわないように多様な態様でバックアップされています。
※ウィルスは生物的に振る舞いますが、生物の三要件のうち②エネルギー代謝及び③細胞構造がありませんので、現在の生物学上は生物とは考えられていません。
 
約7億年前に大規模な地殻変動(地球の表面に近い地殻やマントルが大きく回転する「真の極移動」)が発生したことにより2回目のスノーボールアース(大規模な氷河期による全球凍結)になりますが、再び、真核生物は多様性を重視する生存戦略をとり、それまでの単細胞生物から複数の細胞が集まって1つの個体を形成する多細胞生物(複数の細胞が集まること(群体)で、防御力を高めると共に各細胞毎に役割分担することにより高機能化を図るもの)が誕生し、旧口生物(口から肛門が発達し、体の外側に固い外骨格を持つ無脊椎動物)や新口生物(肛門から口が発達し、体の内側に固い内骨格を持つ脊椎動物)などに分化しました。さらに、約5億5千年前に3回目のスノーボールアース(大規模な氷河期による全球凍結)になりますが、そのような激しい環境変化の中で多細胞生物の生物進化が促されて多種多様な生物が誕生し(カンブリア大爆発)、それによって激しい生存競争(弱肉強食)が生まれたことが更なる多細胞生物の生物進化を促す結果になり、例えば、外界の情報を効率的に収集するために視覚を発達させた生物や速く泳ぐことができるように内骨格を発達させた生物などが誕生しました。その後、約5億年前にマントル対流により巨大な陸が出現すると、大気中の酸素からオゾン層が生成されて紫外線がシャットアウトされたことなども手伝って、植物(緑藻類:植物が人間の視覚には緑色に見えるのは、光合成に必要な人間の視覚には青色や赤色に見える光を吸収し、光合成に必要ない人間の視覚には緑色に見える光を反射しているため)が陸に進出しますが、陸では水分の蒸発を防ぐための固い表皮が発達して外から水分を吸収し難くなったので地中に根を張って水分を吸収するように進化しました。当時、陸には岩石しかありませんでしたが、枯死した植物が分解及び蓄積し、これに岩石などが混合して有機物やそれを生成するための元素を豊富に含む土(生物を育む有機物のプラント)が誕生しました。その後、約4億年前に昆虫(無脊椎動物)、両生類(脊椎動物)の順で陸へ進出しましたが、カンブリア大爆発により激しい生存競争(弱肉強食)が生まれたことで「ニッチ・シフト」(棲み分け)という生存戦略(自然界では1つのニッチにはナンバー1の生物しか生存することができず、ナンバー2以下の生物は共存することができない厳しい現実がありますので、ナンバー2以下の生物は別のニッチに逃げるという生存戦略のほか、自分よりも上位の生物と活動時間や餌をズラすという生存戦略)がとられました。これによって弱い魚は天敵から逃げるために体内の塩分濃度を一定に保つための肝臓やミネラル分を蓄積するための骨を発達させながら硬骨魚に進化して海水から淡水へ進出し、やがてヒレを足のように発達させながら両生類(人類の祖先)に進化して陸へ進出するニッチ・シフトを果たしますが、これにより先に陸に進出していた昆虫は両生類から逃げるために約3億年前に足を羽に進化させて空へ進出するニッチ・シフトを果たしました。また、火山活動により酸素濃度が低下したことで気のうを発達させた小型の恐竜は大型の恐竜から逃げるために約2億5000年前に足を羽に進化させて鳥に進化して空へ進出するニッチ・シフトを果たしています。その後、約6500万年前に隕石衝突に伴う気候変動により恐竜が絶滅すると、それまで夜行性であった哺乳類は昼行性に復帰するニッチ・シフトを果たし、それに応じて視覚を発達させるなどの生物進化を遂げました。このように火山噴火や隕石衝突などを原因とする気候変動に起因する5度の大量絶滅(ビックファイブ)を経て、ニッチ・シフトをリトライしながら環境変化に適応するための高度な生物進化が遂げられました。一方、植物は、水辺から内陸へ進出するのに伴って、コケやシダ植物(胞子で生成された精子が水中を泳いで卵子に到達することで受精しますが、これは生物が海で誕生した名残りと言われており人間の受精も同様)から裸子植物(乾燥に耐えられるように固い表皮で覆われた種子を発明し、雨季を迎えて十分な水が得られるようになるまでは発芽を待つことができるようになったことで繁殖)や被子植物(迅速に環境変化に適応できるように成長に時間がかかる木ではなく成長に時間がかからない草として繁殖)などへ多様化し、これに応じて植物を摂取する動物も多様化しました。約2億年前に昆虫を呼び寄せて受粉されるためにアイコンとしての「花」が誕生し、被子植物は昆虫に蜜を与える代わりに花粉を運んで貰う共生関係や種子植物は動物や鳥に果実(種子入り)を与える代りに種子を運んで貰う共生関係などが築かれました。種子が成熟する前に果実を食べられないように種子が未熟な果実は葉の色と同じ色調(人間の視覚には緑色)で目立たなくしたうえで苦味を含んで動物や鳥が食べ難くし、種子が成長した果実は葉の色と異なる色調(人間の視覚には赤色など)で目立つようにしたと考えられています。このように生物同士で争うよりも助け合う方が生存可能性が高まることから、自分の利益を優先するよりも相手の利益になるように「食べられる」という生存戦略をとることで共生関係を築くなど、生物の共生は生物のレベルから生態系のレベルへステップアップが図られました。この点、生物の共生には①生物のレベル(生物学)、②生態系のレベル(環境学)及び③人間関係のレベル(社会学)の諸相がありますが、最近では、アートによって共生社会(人間関係)を実現する「共生アート」というジャンルが注目を集めており、2023年から東京藝大で新しい取組みも開始されています。また、人間の歴史はニッチを拡大・独占するために土地を奪い合う歴史(2度の世界大戦、ウクライナ紛争、パレスチナ紛争を含む。)であった反省をまえて、最近では、多文化主義に基づく多文化共生の取組みも活発になっています。さらに、上述のとおり人間界のニッチの拡大と独占の問題だけではなく、人間中心主義的な価値観が高じて自然界のニッチの拡大と独占の問題にも波及しており、自然界と人間界のニッチ・シフトのバランスを回復する必要性(30by30)も強く認識されるようになっています。過去のブログ記事でも触れたとおり、日本には父性原理(区別、支配)ではなく母性原理(包含、調和)が息衝く包容力のある社会を築いてきた伝統(「混ぜる」文化ではなく「和える」文化)もありますので、その良き伝統に共生の知恵を借りるという姿勢(温故知新)も必要かもしれません。
 
 
▼オペラ「デットマン・ウォーキング」(全二幕英語上演)
【題名】オペラ「デットマン・ウォーキング」(MET初演)
【原作】回想録「デットマンウォーキング」(ヘレン・プレジャン著)
【作曲】ジェイク・ヘギー
【台本】テレンス・マクナリー
【演出】イヴォ・ヴァン・ホーヴェ
【照明・美術】ヤン・ヴァースウェイフェルト
【衣装】アン・デュイ
【プロダクション・デザイン】クリストファー・アッシュ
【サウンド・デザイン】トム・ギボンズ
【出演】<Mez>ジョイス・ディドナート(ヘレン・プレジャン役)
    <Bass-Bar>ライアン・マッキニー(ジョゼフ・デ・ロシェ役)
    <Mez>スーザン・グラハム(パトリック・デ・ロシェ夫人役)
    <Sop>ラトニア・ムーア(修道女・ローズ役)
    <Bar>ロッド・ギルフリー(被害女性の父親役)  ほか
【指揮】ヤニック・ネゼ=セガン
【演奏】メトロポリタン劇場管弦楽団
【合唱】ニューヨーク市児童合唱団
【感想】ネタバレ注意!
メトロポリタン歌劇場の新シーズンが始まり、その第1作目であるアメリカ人現代作曲家ジェイク・ヘギーさんのオペラ「デットマン・ウォーキング」(MET初演)をMETライブニューイングで観てきましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。このオペラは、俳優ティム・ロビンスさんが監督及び脚本を手掛け、女優スーザン・サランドンさんがアカデミー主演女優賞を受賞した映画「デットマン・ウォーキング」(1995年)と同じく修道女ヘレン・プレジャンさんの回想録「デットマン・ウォーキング」を原作にしていますが、死刑囚ロシェが修道女ヘレンとの交流を通してどのように自らの犯罪と向き合いながら改心して行くのかという人間ドラマをヘレンの心の揺らぎと共に丹念に描いており、被害者の両親達、死刑囚とその家族及びヘレン(宗教)の各視点から死刑制度の存在意義を問い掛けるという意味で原作が持つ深遠なテーマ性を真正面から照射する骨太な作りになっているように感じます。このオペラは2000年にサンフランシスコ・オペラで初演されから各地で75回も再演されており、21世紀に最も上演されている現代オペラと言われていますが、現代人にも共感できる現代オペラの上演に心を砕きながらMET改革を主導するMET総裁P.ゲルブさんやMET音楽監督Y.ネゼ=セガンさんのような逸材が日本にも現れてくれないものかと羨望の眼差しを注いでいます。アメリカでは新しいものを柔軟に受容できる豊かな感性や幅広い教養を持った客層が分厚く、それを背景として新作オペラの上演も盛んな本当に羨むべき状況があります。これに比べると、日本はネガティブな状況にありますが、それでも日本の若手音楽家の中から有能かつチャレンジングな人達が現れ始めていますので(以下のシリーズ「現代を聴く」でも紹介しています。)、来年は更にアンテナを高くして、そのような人達の活動とその作品を応援して行きたいと思っています(2024年の豊富)。
 
▼日本のネガティブな状況
以前、日本経済新聞が「新国立劇場開場20周年の課題」と題する興味深い記事を掲載していましたが、新しいものを受容できない日本の観客の資質を背景として、現在の新国にもそのまま当て嵌まる状況だと思いますので、ご参考までに抜粋引用しておきます(太字添加)。
 
「海外の人気歌手を起用したスタンダード作品の上演が目につく。開場当初盛んに上演された日本人作曲家のオペラや斬新な演出による新制作が集客の観点から敬遠されたためだ。欧州のオペラ事情に詳しい音楽評論家の江藤光紀は「日本の国立劇場として、人材面でも作品面でも世界に通じる独自性がもっと必要だ」と指摘する。」(日本経済新聞2017年11月25日記事より抜粋引用)
 
未だこの現代オペラを鑑賞したことがない人が殆どだと思いますので筋書きを追って感想を残しておきたいと思います。先ず、第一幕の序曲では、この物語の端緒となるロシェらが被害者(高校生の男女)を殺害する犯行現場をフラッシュバックする映像が大スクリーンに投影されましたが、ポストクラシカ風の音楽が映像にマッチして現代の映像世代へ直感的に訴え掛けるリアリティのある演出になっており一気に物語世界へと誘われました。このオペラは「死刑制度」の是非に焦点が当てられているというよりも、それぞれの登場人物の「人生の旅路」に焦点が当てられているように感じられ、その「人生の旅路」に擬え、まるで運命へと誘われるように続く「道」(序曲では被害者及びその遺族、ロシェ及びその家族の人生の岐路となる犯行現場へと誘う道、第2場ではヘレンの人生の岐路となるアンゴラ刑務所へと誘う道)が印象的に描かれていました。第一場ではヘレンと修道女ローズがニューオーリンズのミッションスクールで子供達に賛美歌を教えている場面になり、ここで歌われている賛美歌「He will gather us around」(神は我らを手繰り寄せる)がヘレンのライトモチーフとして使用され、ヘレンの使命がロシェの魂の救済に向けられていることが印象付けられていました。第二場ではヘレンが周囲の反対を押し切ってアンゴラ刑務所へ車で向かう場面になり、ヘレンはロシェの魂を救済することができるのか大きな不安を抱えて逡巡します。アンゴラ刑務所へと誘う道の映像が大スクリーンに投影され、何かに急き立てられるような音楽が添えられ、大きな運命に翻弄されていくヘレンの人生を予兆させる劇的な効果を生んでいました。第3場から第5場ではアンゴラ刑務所に着いたヘレンを出迎えたグレンヴィル神父がロシェの魂の救済は不可能であると告げて低俗な冗談を言う大俗物として描かれ、それを印象付ける軽薄な音楽が添えられており、ロシェの魂の救済が自らの使命であると信じるヘレンの高潔な人物像との対比が際立っていました。アンゴラ刑務所のベントン所長は死刑に嫌気が差しながらもロシェの死刑は間違いないとして死刑執行までの精神的なサポートをヘレンに依頼し、ヘレンは死刑に反対の立場を表明しながらもロシェの精神的なサポートを引き受けます。ヘレンがロシェのもとに案内される途中で刑務所内の囚人達による心ない罵倒(コーラス)とヘレンの祈りの歌が対比されてロシェの魂の救済の困難さが印象付けられていましたが、ハンディーカメラを持ったスタッフが黒子として舞台上で接写した囚人達の姿を大スクリーンに投影することで刑務所内に渦巻く囚人達の憎悪がビビッとに伝わってくる迫力のある演出になっていました。歌舞伎の廻り舞台がオペラやミュージカルに採り入れられた話は有名ですが、歌舞伎の黒子とイノベーションを組み合わせた演出手法が奏功していたと思います。この点、これまでのオペラ鑑賞は舞台と客席を区分する二次元的な世界観(オフ・ステージの視点=三人称)でしたが、映画と同様に登場人物と同じ視点から眺める臨場感のある三次元的な世界観(オン・ステージの視点=二人称)を演出することで観客のミラーニューロンが活発に刺激されて共感度の高い鑑賞体験が可能になっているように感じました。第6場ではヘレンと面会したロシェが死刑への恐怖を吐露し、ヘレンは神の赦しを請うためにロシェの精神的なサポートを引き受けると言いますが、ロシェは恩赦委員会の公聴会で減刑を嘆願するようにヘレンに迫り、ヘレンとロシェの思惑の違いが鮮明に描かれていました。そして、第7場及び第8場が第一幕(及びこのオペラ)の一番の見せ場ではないかと思いますが、ロシェの母親が恩赦委員会の公聴会でロシェは日本製のべっ甲櫛をブレゼントしてくれる母親想いの優しい息子であることを訴えて減刑を嘆願しましたが、被害者女性の父親が悲痛な怒りを露わにすると、ロシェの母親はその計り知れない悲嘆に触れて心を痛め、息子が犯した罪の大きさに苛まれます。ソプラノのグラハムさんがロシェの母親の複雑な感情が入り乱れる狼狽振りとバリトンのギルフリーさんが被害者女性の父親の怒りを抑え切れない悲嘆振りを迫真をもって演じた二重唱が胸に迫りました。ヘレンはロシェの母親を擁護しますが、被害者の両親達は子供のいないヘレンに子供の幸せを神に祈る親の気持ちは分からないと迫り、ヘレンはその圧倒的な説得力の前に言葉を失って無力感に苛まれますが、被害者の両親達、ロシェの母親及びヘレンのそれぞれの思いが複雑に交錯する迫真の六重唱が白眉で、コロナ禍や紛争などで荒んでいた心に熱い血潮が滾るのを感じ、不覚ながら久しぶりに涙腺が緩んでしまいました。ヴラヴィー!!第9場ではローズが披露困憊するヘレンにニューオリンズに戻ろうと誘いますが、ヘレンはアンゴラ刑務所に残る決意をしてロシェと面会します。ヘレンは「真実はあなたを自由にする」という聖書の言葉を引用しながらロシェに真実を話して被害者の両親達の赦しを請うように諭しますが、ロシェは聖書の言葉に心を動かされながらも、未だ心を開こうとせず真実を話そうとしません。メゾソプラノのディドナートさんとバス・バリトンのマッキニーさんがヘレンとロジェの心の揺れ動きを繊細に歌い上げる二重唱も胸に迫るものがありました。ヴラヴィー!!第10場ではヘレンはミッションスクールの子供達、グレンヴィル神父やベントン所長などからロシェを救うのは諦めろと責められる幻聴を耳にして動揺しますが、丁度、そこにベントン所長が来てロシェの恩赦は却下されたことを告げ、ヘレンは被害者の両親達、ロシェ及びロシェの母親の思いに圧し潰されて気を失い、第一幕が閉幕しました。
 
▼METライブビューイングのナビゲーター
METライブビューイングのナビゲーターとして、何と!2023年にオペラ「オマール」でピューリッツァー賞音楽賞を受賞したアメリカ人現代作曲家リアノン・ギデンズさん(1977年~)が登場しました。近くオペラ「オマール」のMET初演が実現するかもしれません。アメリカなら異次元のアートライフが送れそう....(涙)
 
第2幕の第1場ではY.ネゼ=サガンさんが手兵のメトロポリタン管弦楽団を自在に操る手綱裁きで凄味を効かせた筋肉質の音楽を奏でるなか(ドラマチックな表現はメトの真骨頂!)、ロジェが死刑への不安から眠れず独房で腕立て伏せをして気を紛らわしていましたが、その一方、第2場ではヘレンが自室で犯行現場の悪夢を見てうなされ、ローズはロシェの精神的なサポートを続けるのであれば神ではなくヘレンがロシェを心から赦す気持ちになることが必要だとヘレンに助言します。メゾソプラノのディドナートさんとソプラノのムーアさんによるロシェを赦す愛(ファイリアよりもアガペーに近い愛)を体現する優しく包容力のある二重唱が聴きどころになっていました。第3場では死刑執行当日にヘレンとロシェが面会し、エルビス・プレスリーの話題で意気投合し、改めてヘレンはロシェに真実を話して赦しを求めるように進めますが、未だ完全には心を開くことができず真実を話そうとしません。第4場ではロシェとその家族が面会しますが、ロシェの母親は息子の無実を信じていると泣き崩れます。第5場ではヘレンは死刑執行に立ち会う被害者の両親達から拒絶されますが、被害者女性の父親だけは憔悴した様子で死刑執行されても悲しみが癒えることはなく、妻とも別居中であるという苦衷をヘレンに吐露します。ここで序曲の犯行現場へと誘う「道」が思い出されますが、被害者の人生を奪い、被害者の両親達の人生を破壊して、決して癒されることのない深い傷を与えてしまうことを考えると、死刑制度の是非を論じるにあたり理屈では割り切れない問題があることを痛感させられます。第6番及び第7場ではヘレンとロシェが最後の面会を行いますが、ヘレンが犯行現場を訪れたことを話すと、ロシェは犯行当日のことを思い出して取り乱し、涙ながらに真実を話して赦しを請いますが、ヘレンから神は全てを赦し、魂は救済されると抱擁されます。第8場ではベントン所長が「デットマンウォーキング」と叫ぶとロシェは処刑室へ行進し始め、ヘレンが聖書の一節を朗読しながらベンソン所長、被害者の両親達、グレンヴィル牧師らも主への祈りを厳かに歌います。その後、ロシェが死刑台に縛られると音楽がなくなって静寂に包まれ、ロシェは被害者の両親達へ真実を話して自分の死がその悲しみを少しでも和らげることを願うと伝え終わると薬剤を注射され、最後にヘレンに感謝しながら息を引き取ります。この場面ではドラマチックな音楽で死刑を虚飾に彩ることなく、ハンディーカメラを持ったスタッフが黒子として舞台上で接写する死刑執行の模様を大スクリーンに投影していましたが、そのリアルな描写が臨場感と共に観客に死刑制度の存在意義を問い掛けてきているように感じられました。最後に、ヘレンはロシェの死体に寄り添って賛美歌「神は我々を手繰り寄せる」を歌いながら静かに終演を迎えました。終演後、まるで会場を揺らすような怒号の歓声が飛び交い、MET史上に残る名舞台になったと言って過言ではなく、このような名舞台をライブで鑑賞できるアメリカの恵まれた環境を本当に羨ましく感じます。因みに、2020年に行われた日本の世論調査では、死刑容認が約80%超(主な理由:応報感情)、死刑廃止が約10%(主な理由:冤罪回避)となっており、日本では死刑制度の存続を支持する意見が優勢になっていますが、いずれの立場であるとしても軽々に正否を論じることができる問題ではなく、その問題を真正面から問い掛けてくる心に残るオペラであり、ブログの枕で触れたとおり「命」について色々と考えさせられた2023年を締め括るのに相応しい作品であったと思います。
 
 
▼タンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのアリア」(全二幕原語上演)
【題名】タンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのアリア」
【作曲】アストル・ピアソラ
【台本】オラシオ・フェレール
【出演】<Voc/Mez>小島りち子(マリア・影のマリア)
    <Voc/Bar>KaZZma(カントール・五役)
    <Voc/Bass>西村秀人(ドゥエンデ・朗読)
【演奏】<Bn>早川純
    <Vn>柴田奈穂、会田桃子
    <Va>田中景子
    <Vc>橋本歩
    <Fl>赤木りえ
    <Gt>田中庸介
    <Vib/Xyl>相川瞳
    <Pf>宮沢由美
    <Gtr>田辺和弘
    <Perc>海沼正利  ほか
【会場】座・高円寺2
【日時】2023年12月15日 18時30分開演
【料金】6600円
【感想】ネタバレ注意!
タンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのアリア」(1968年)を聴きに行く予定にしていますので、公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、演奏会の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
ヴラヴィー!!A.ピアソラのタンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのアリア」は聖書に擬えてタンゴのメタファーである(マグダラの)マリアの誕生、死及び再生を通じてブエノスアイレスを描いたオペリータで稀代の名作と名高い割に日本では上演機会が殆どないことが憾まれますが、この貴重な機会を聴き逃す訳には行かないと決意して全ての都合を踏み倒して聴きに行くことにしました。それにしてもヴォーカル陣の並々ならぬ歌唱力には痺れさせられましたが、タンゴのスペシャリストを揃えた器楽陣の好サポートも相俟って、その薫り立つ極上のパトス、ペーソス&エロスにハートを激しく揺さぶられ、萌え焦げました。今日はヴァイオリン奏者の柴田さん、タンゴ歌手の KaZZma(カズマ)さん、タンゴ研究家の西村さんらが率いるアルゼンチンタンゴ集団「タンゴケリード」にとって勝利の日になったと確信します。一時期、A.ピアソラは現代作曲家を目指していた話は有名ですが、そのときに師事していたフランス人現代作曲家のN.ブーランジェからA.ピアソラの音楽的な原点はタンゴにあると諭されたことを契機として(実にフランスらしいエピソード)、ダンス音楽としてのタンゴの伝統から逸脱し、クラシック音楽の様式やジャズのエッセンスなどを採り入れながら前衛的な作風によるタンゴ革命に目覚め、アルゼンチンの保守層から「踊れないタンゴ」などの罵倒を受けながらも、その作品価値が世間から評価されるようになった時期にこのオペリータが創作されました。このオペリータは、A.ピアソラがボサノヴァの創始者である歌手兼ギターリストのG.ジョアン及び作曲家のA.ジョビンと共に活動していた作詞家のV.モライスの舞台にインスパイアされ、詩人のH.フェレールと共にブエノスアイレスを題材にした朗読劇スタイルの新しい作品の創作を模索するなかで誕生したもので、これまでのタンゴ(伝統)とこれからのタンゴ(革新)をテーマにしてA.ピアソラの革新的な気風が随所に感じられる傑作です。先ず、第1幕の第1場(開始の合図)ではドラマチックな音楽で会場の空気をタンゴの世界に染め上げ、ヴァイオリンが第2幕第15場の「受胎告知のミロンガ」(H.フェレールがこの曲に別の歌詞を付けた「私はマリア」としても知られる有名なピース)のモチーフを叙情豊かに奏でると、ドゥエンデ役の西村さんが重厚感のあるバス声で聖と俗、生と死、愛と憎、忘却と追憶などが相剋する混沌とした世界の中からマリアが誕生したことを詩的な比喩を使って情熱的に語り掛けてきますが、その濃厚な世界観に心をハッキングされてしまう強力な磁力を感じました。クラシック(ヴェリズモやコンテンポラリーなどを除く)が神や王侯貴族のために創作された俗世の垢を感じさせない芸術であるとすれば、タンゴはジャズと同様に場末に生きる民衆のためにために創作られた決して綺麗事だけでは済まされない人生の綾を紡ぐ魂の芸術と言え、その人生の真実に迫る表現が現代人の圧倒的な共感を生むのだろうと思います(その意味では、上述のオペラ「デットマン・ウォーキング」も同様だと思います)。タンゴ研究家として知られる西村さんは名古屋大学准教授としてラテン・アメリカ音楽を研究されていた方ですが、その重厚感のあるバス声による情熱的な語り口は天賦の才なのか、日本人によるドゥエンデ役は西村さん以外には考えられないと思えるほどの適役でした。第2場(マリアのテーマ)ではギターが哀愁を紡ぐなかをマリア役の小島さんがメゾソプラノのデモーニッシュな声質を活かして憂いを帯びた陰影のあるハミングで歌い添い、これに小気味よいフルートやバンドネオンが加わって哀愁を深くする印象的なピースになっていました。小島さんは国立音大声楽科を卒業してクラシック畑で活躍されていますが、2014年から KaZZmaさんとタンゴデュオを結成してタンゴ歌手としても活躍されています。第3場(いかれたオルガニートへのバラード)ではフルートが黄昏を紡ぐなかをパジャドール(19世紀頃のラテン・アメリカに存在したギターの弾き語りを行う歌手)役の KaZZmaさんが卓抜した表現力を感じさせる歌唱でタンゴの衰退を憂い、ドゥエンデ役の西村さんが新しいタンゴの誕生を予言しますが、 KaZZmaさんを憂いを象徴するブルー、西村さんを情熱を象徴するレッドに照らす照明の演出も効果的でした。この標題は伝統的な作風の踊れるタンゴ「黄昏のオルガニート」を意識したものなのでしょうか、歴史を紐解くと芸術に限らずあらゆる分野で1人の天才の登場が新しい道を拓くということなのだろうと思います。 KaZZmaさんは相愛音大声楽科を卒業し、アルゼンチンでタンゴ歌手カルロス・ガリに師事していたそうですが、その本場仕込みの表現力豊かな歌唱には目を見張るものがあり、日本のタンゴ歌手としては傑出した存在であると思います。上記のとおり、この公演の成功はヴォーカル陣(上述のお三方)の並々ならぬ歌唱力、表現力に負うところが大きいと感じます。第4場(カリエゴ風ミロンガ)ではギターがノスタルジーを紡ぐなかを夢見る雀のポルテーニョ(ブエノスアイレスの市井の人)役の KaZZmaさんがアルゼンチンの詩情が溢れる歌唱で人生の悲哀を歌い、ヴァイオリンがピアソラ節とも言うべき甘く切ない旋律を叙情豊かに歌い添う恍惚感が漂う心に沁みる好演でした。ヴラヴィー!!A.ピアソラの音楽が「踊れないタンゴ」であったとしても、これだけ心を躍らされる音楽も少ないと感じます。第5場(フーガと神秘)は受胎告知のミロンガ(私はマリア)と並ぶ有名なピースですが、小気味よいリズムを刻みながらスリリングに展開するアンサンブルは教会で聴く荘厳なフーガとは対照的に場末の酒場で聴くフーガの真骨頂を感じさせる小粋な演奏になっていたと思います。第6場(ワルツによる詩)ではマリア役の小島さんがワルツの優雅なリズムに乗せてタンゴの終末を詩的に歌い掛けてきましたが、低音の艶に背徳の匂いを薫らせる情感豊かな歌唱が見事でした。第7場(罪深いトッカータ)ではドゥエンデ役の西村さんがタンゴのリズムに乗せてタンゴを終末へと導いた罪人をユダに擬えて激しく断罪しましたが、A.ピアソラの反骨精神が窺えるピースに感じられました。第8場(ミゼレーレ・カンジェンゲ)では古き大盗賊役の KaZZmaさんはマリアは死んだが13日金曜日に雄鳥が3回鳴くとマリアが復活することを情感たっぷりに歌い上げ、とりわけピアノ伴奏による歌唱が聴きどころになっていました。第2幕の第9場(葬送のコントラミロンガ)では憂いを帯びた音楽が奏でられるなかをドゥエンデ役の西村さんがさながら福音史家よろしくマリアが死んだことを熱く語り掛けてきましたが、バンドネオンの哀愁に満ちた演奏とそれに寄り添うように哀切に鳴くバック・バンドが聴きどころになっており、これに続く第10場(暁のタンガータ)ではベースが涙の音型を奏でるなかを器楽がバッハのマタイ受難曲のペテロの否みを思わせる鳴き節を奏でる演奏が心に沁みてきました。A.ピアソラの名曲を通じ、ジャンルを超えてバッハに音楽の原点を見る思いがします。第11場(街路樹と暖炉に寄せる手紙)ではマリアの影役の小島さんが黒い衣装で登場し(前半はタンゴの情熱を象徴する赤い衣装でしたが、後半はマリアの影を象徴する黒い衣装)、ブエノスアイレスからマリアの記憶が薄れて行く哀しみを歌いますが、ヴァイオリンが奏でる半音音階(又は微分音?)がマリア(これまでのタンゴ)への違和感を象徴しているようで印象的でした。第12場(精神分析医のアリア)はタンゴへの溢れる愛情が情緒纏綿と歌い継がれる最大の聴きどころになっているのではないかと思います。冒頭ではドラム、ピッコロ、ピアノ、木琴がショスタコーヴィッチ風の諧謔的なリズムでマーチを奏で、精神科医役の KaZZmaさんがブエノスアイレスの夢はマリアのためのものだとユーモラスに歌い掛けますが、マリアの影役の小島さんが登場すると曲調は一転して、精神科医役の KaZZmaさんが愛を失ったマリアの影役の小島さんに再び愛を思い出すように哀切に歌い掛けますが、マリアの影役の小島さんは再び愛を思い出すことはないと一層と影を深めます。このピースは精神科医によるマリアへの身を焦がすような愛撫であり、 KaZZmaさんの包容力のある情熱的な歌唱と相俟って、ご婦人方だけではなく僕のような殿方ですらこんな素敵な精神科医(又はKaZZmaさん)に抱かれてみたい💘と思わせるような恍惚感に襲われること必定です。ヴラヴィー!!第13場(ドゥエンデのロマンス)では洗練された極上のジャズバラード調のピアノとストリングスの伴奏に乗せてドゥエンデ役の西村さんがタンゴの来歴を語り、どこにマリアが居ても場末の酒場で紡がれる哀しみの数々がいずれはマリアを復活させると優しく語り掛ける感動的なピースです。ヴラヴィー!!第14場(アレグロ・タンガービレ)はバンドネオン、フルート、ギター、ドラム、木琴が非常にリズミカルで快速調のパッセージを奏でますが、これがピアノに引き継がれてグルーブ感のある演奏が展開され、さらにストリングやパーカッションが加わってクライマックスを築く非常に格好が良いパッセージに仕上がっていました。第15場(受胎告知のミロンガ)では力強いリズム感と多彩な音色による演奏が繰り広げられ、第12場とは対照的にマリアの影役の小島さんが娘(これからのタンゴ)が産まれようとしていることを情熱的に歌い上げる熱唱が見事でした。ヴラヴァー!!オペラの伝統的であるベルカント唱法と比べると、タンゴを含むポピュラー音楽のクルーナーの方が心の機微をより繊細に表現することに向いているように感じます。第16場(タングス・デイ/神のタンゴ)では低音の重苦しく物憂げな音楽が奏でられ、その日の日曜日の声役の KaZZmaさんとドゥエンデ役の西村さんとが日曜日の倦怠感が漂うブエノスアイレスの雰囲気を歌いますが、次第にテンポアップしながら、マリア役の小島さんの哀愁を湛えたハミングを歌うなかをドゥエンデ役の西村さんがマリアが生まれようとしていることをドラマチックに告げて、その日の日曜日の声役の KaZZmaさんがカリエゴ風ミロンガの情緒纏綿たる情熱的な音楽に乗せてマリアから娘が生れ、過去と未来のために同じマリアと名付けられたことを告げ、娘マリア(これからのタンゴ)の誕生を祝う鐘の響きで終演となりました。A.ピアソラの胸中にはタンゴ以外のジャンルを夢見た時期もあったが、やはりタンゴへの愛を捨て切れなかったという思いがあったのかもしれません。タンゴ熱にうなされ、ベランダのサンダルにすら情熱的に歌い掛けたくなるような圧倒的な充足感に包まれてしまいました。タンゴやジャズはライブに勝るものはないので再演を熱望します。なお、「見逃し配信」もあるようなので、正月は心の盃を涙で満たし、タンゴに酔い痴れてみませんか?
 
 
▼第六回本公演淡座二夜 第一夜「音曲夢見噺」
【題名】第六回本公演淡座二夜
    第一夜「音曲夢見話」
【演目】①反魂香(改訂初演)
    ②はすのうてな
    ③死神(新作初演)
【作曲】桑原ゆう
【美術】桑原ゆう
【出演】<落語>古今亭志ん輔①②
    <Vn>三瀬俊吾①②③
    <Vc>竹本聖子①②③
    <三味線>本條秀慈郎①②③
【会場】深川江戸資料館 小劇場
【日時】2023年12月26日 19時開演
【料金】5000円
【感想】ネタバレ注意!
第六回本公演の淡座二夜として第一夜「音曲夢見噺」(「反魂香」「はすのうてな」「死神」)及び第二夜「忠臣蔵端唄尽」(「夢の浮橋Ⅰ」「夢の浮橋Ⅱ」「三味三昧」「通さん場のための音楽」「継ぐ接ぎ忠臣蔵第一部」「継ぐ接ぎ忠臣蔵第二部」)が開催されます。諸事多忙を極めるなか何とか都合が付く第一夜「音曲夢見噺」のみを聴きに行く予定にしていますので、公演後に簡単に感想を書き残したいと思いますが、演奏会の宣伝を兼ねて予告投稿しておきます。
 
【追記】
 
上述のとおり2023年は「命」について色々と考えさせられる年でしたが、生死のあわいを紡ぐ古今亭志ん輔師匠による古典落語の名作「反魂香」(滑稽噺)及び「死神」(怪談噺)の2席とこれらの噺を題材として現代作曲家・桑原ゆうさんが作曲した3曲(新作初演を含む)が公演されました。この公演の主催団体である「淡座」は、2010年に「現代音楽、クラシック音楽、日本の芸術文化を行き来し、文化の古今と東西をつなぐための創作、演奏、表現活動を行う、作曲家と演奏家によるクリエイショングループ」として設立され、「洋の東西もない人間の本質や普遍性について思考し、音楽を通して多くの人びとにこの世の物事について問いかけ、新しい気づきをもたらす表現を追求」し、「「形のないもの、夢と現実のはざま、間(あわい)をえがく」ことを本願として「淡座」と名付けたそうです。因みに、「あわい」は漢字で「間」と書きますが、「あわい」と「あいだ」は厳密には異なる意味を持っており、「あわい」(合)はAとBを含む「間」(量子力学の状態の重ね合わせ)のことを意味するのに対して、「あいだ」(空)はAとBを含まない「間」のことを意味します。現代は「あわい」を紡ぐことができる人材が不足していることが社会課題として認識されていますが、淡座の活動は世界を非連続的なものではなく連続的なものとして捉え直し、これからの時代に求められる教養(心の豊かさ)を育んで未来を拓いて行くための芸術活動を志向しているように感じられますので、今後とも淡座の活動を注目して行きたいと思っています。
 
①反魂香
反魂香は、唐の詩人・白居易(俗称、白楽天)の「李夫人詩」に記されている故事に由来し、この香を焚くと煙の中に死者の姿が現れるというものですが(反魂とは死者の魂を呼び戻す意味の言葉)、この故事を素材にした歌舞伎や読本などが制作され、落語にもなっています。落語「反魂香」は長屋噺ですが、主人公の八五郎は、毎晩、同じ長屋から鐘を叩く音が聞こえて眠れないので文句を言いに行くと、坊主が出てきて吉原の高尾大夫と夫婦の契りを結んでいたが、高尾が某殿様の身請け話を断って手打ちになったので、毎晩、反魂香を焚いて高尾の魂を呼び戻しては慰めにしていると語ります。それを聞いた八五郎は、亡妻おかじと会いたくなり町中を探し回り反魂香と取り間違えて反魂丹(中国から堺に伝来した腹痛などに効く漢方薬で越中富山から全国に流通)を買い求めて、これを焚きながら「おかじ」と叫びますが、隣人が反魂丹(薬草)を焚く臭気に異変を感じて「おかじ」を「火事」と早合点して水を掛けるという間抜オチがつく滑稽噺です。過去のブログ記事でルビンの壺に触れましたが、人間の脳は「眼に見えているもの」だけではなく「脳に見えるもの」も認知する特性(脳内のシミュラクラ現象代理検出装置など)がありますが、ある現象に大切に想う故人の面影やこの世ならざる者の気配(神の音連れ)を感じ取るという体験は誰しも身に覚えがあり、外世界(物質世界)と内世界(精神世界)のあわいを笑いというオブラートに包んですっきりと飲み込ませてしまう含蓄のある噺(人間は外世界を客観的に認知している訳ではなく、人間の脳が都合よく創り出している虚構の外世界を認知しており、その意味で外世界と内世界を連続的に捉える噺には現代人の教養を育む含蓄があるよう)に感じます。冒頭、主人公の八五郎が長屋で熟睡しているところから噺は始まり、三瀬俊吾さんのヴァイオリンと竹本聖子さんのチェロがグリサンドやスピッカート、本條秀慈郎さんの三味線が擦弦(バチで弦を撥くのではなく擦る奏法ですが、不勉強のために奏法名が分かりません)などの特殊奏法を使ってスペクトル音楽のような波形の持続音で夢と現、冥界と現世のあわいを紡ぐような幻想的な音空間が演出されます。八五郎は大きな欠伸をしながら目覚めて鐘を叩く音が煩いと文句を言いに行くと、坊主から仔細を聞かされた八五郎は反魂香を焚く煙の中に高尾の姿が現れるのを拝みます。ヴァイオリンとチェロが微弱音のフラジョレットを使って立ち上る煙とそこに漂う妖気のようなものを描写し、徐々に音像(高尾の姿?)がはっきりとしてくると八五郎は寒気を感じ出し、高尾が煙に舞う姿を表現したものでしょうか三味線が音曲を奏で出して、やがてその姿は消えます。坊主は八五郎に反魂香を譲るのを断りますが、八五郎は諦め切れずに町中を探し回り漸く手に入れた反魂丹を焚いてみますが、再び、ヴァイオリンとチェロが微弱音のフラジョレットで立ち上る煙を描写するものの、三味線は沈黙するままで亡妻おかじが姿を現すことはなく、音のあしらいが興趣を誘う間抜オチとなりました。落語は客が噺からイメージを膨らませて愉しむ舞台ですが、そのイメージを音楽で代替するのではなく、落語家の噺のテンポや間がおかしみを生む噺芸の魅力を損なわないように噺の出番と音楽の出番が共生するようにニッチ・シフトを差配する工夫が随所に感じられ、客が噺からイメージした世界観を音楽が立体的に膨らませて行くような作風に好感を持ちました。
 
②はすのうてな
この曲は落語「反魂香」の世界観を音楽だけで表現することを試みた作品で、2011年に初演されてから何度か改訂を重ねて温めてきているものだそうです。「はすのうてな」とは極楽浄土に生まれ変わった人が座る蓮華の台座のことで、その台座を分かち合って運命を共にすることを一蓮托生と言いますが、落語「反魂香」には古今東西を問わず大切に想う故人と再び情を通わせたいと願う人々の儚い追慕の情(かなしみ、夕焼け)が滑稽な笑い(おかしみ、朝焼け)と重なり合うように描かれています。桑原さんはパンフレットで「三味線の開放弦から指を離すときのごく小さな音に、少しづつ色をつけていくかのように、ヴァイオリンとチェロによる音の層が重なっていきます。」と書かれていますが、最初は無音の中に点描画のような音粒が漂い、徐々に音像がはっきりと立ち上がってくるような印象の音楽が奏でられましたが、煙の中に徐々に故人の姿が浮かび上がるように、長い歳月が霞の彼方へと埋もれさせてしまう故人の微かな面影を手繰り寄せながら故人を偲ぶ心情が紡がれているような音楽に個人的には感じられました。桑原さんがパンフレットで「七年前の私とは、地続きでありながら、ほとんどちがう人間で、作曲当初の意図を殺さず、かたちだけを整えてあげるように改訂するのは、いつもながら、むずかしい」と語られていますが、この10年間を振り返っても時代は大きく変容し、人心は様変わりしていることを実感しますので、この時代の変革期に「はすのうてな」が淡座と共にどのように成長し、変容して行くのか楽しみです。因みに、来年3月16日に北陸新幹線が敦賀まで延伸されますが、その沿線にある富山県には反魂丹の薬玉を象った銘菓「反魂旦」という人気のお土産があるので、お近くにお寄りの方はお試し下さい。
 
③死神
初代三遊亭圓朝師匠がグリム童話「死神の名付け親」から翻案した落語ですが、2010年に現代作曲家の池辺晋一郎さんが落語「死神」を題材にして作曲したオペラ「魅惑の魔女はデスゴッデス!」(1977年に旧題オペラ「死神」として初演)を鑑賞した記憶があり、また、2017年にオペラ「死神」に復題して上演された際には古今亭志ん輔師匠が落語「死神」を共演されているなど、落語と共にオペラも人気のある演目です。落語「死神」は怪談噺と滑稽噺が組み合わされたような内容ですが、金に困った主人公の男が死神に声を掛けられ、死神が見える特別な能力を授けられますが、死神が病人の足元にいれば助かり、病人の枕元にいれば死ぬ運命にあり、病人の足元にいる死神は呪文を唱えれば消えて病気は本復すると教えられ、この能力を使って死神が足元にいる病人を本復させたことで名医と評判になり金回りが良くなります。しかし、その評判を聞きつけて死神が枕元にいる重病人ばかりが集まるようになり評判が地に落ちて再び金に困り始めると、死神が枕元にいる病人を死神に気付かれぬように180度回転させて呪文を唱えて死神を消してしまいます。その夜に男は死神に洞窟へ案内され、そこに並べられている沢山の蝋燭の火は人間の寿命であり、今にも火が消えそうな蝋燭が男のものなので早く新しい蝋燭を継ぎ足さないと死んでしまうと告げられます。慌てた男は手が震えて自分の蝋燭を上手く継ぎ足すことができず、「あ~、消えた」と叫んで倒れ込むという仕草オチがつく怪談噺です。落語「死神」には色々なオチがあり、自分の蝋燭を継ぎ足すことに成功した男がその火を頼りに洞窟から出たところでうっかりその火を吹き消してしまうというブラックなオチなどもあります。冒頭、三味線、ヴァイオリン及びチェロが点描的な音楽を奏でますが、これは蝋燭の火を描写したものでしょうか。その後、古今亭志ん輔師匠が高座に上り、通常の落語と同様に枕から本題へ入りましたが、金に困って自殺を考えている男に死神が声を掛ける場面ではヴァイオリンのフラジョレットが死神の妖気、チェロのピッチカートが死神の気配を表現したものでしょうか、この世ならざる者の顕在が音楽的に表現されているように感じられました。男が死神から授けられた特別な能力を使って名医と評判になる場面では揺蕩うような音楽で地に足が付いていない滑稽な雰囲気を醸し出すと共に、ピッチカートやポルタメントで死神が呪文で消える様子が表現されているように感じられました。洞窟の中の場面ではヴァイオリンやチェロによって蝋燭の火が風に揺らめく様子が表現され、生命の儚さを印象付ける効果を生んでいたと思います。此岸(生)と彼岸(死)が交錯している噺なので、此岸(生)と彼岸(死)という質感の異なるものが重なり合っていることを感じさせる音楽的な工夫が随所に見られ、それによって落語の世界観に重層的な広がりが生まれているように感じられました。今回は古典落語と現代音楽のコラボレーションでしたが、現代音楽とコラボレーションすることを前提にした創作落語なども聞いてみたくなりました。
 
 
▼シリーズ「現代を聴く」<Vol.31>
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
▼高橋浩治の室内モノオペラ「プラットフォーム」(2020年)
日本人現代作曲家の高橋浩治さん(1986年~)の室内モノオペラ「プラットフォーム」は、ベルギーで活動しているソプラノ歌手の薬師寺典子さん(1987年~)の委嘱により作曲され、2020年にモノオペラ「Amidst dust and fractured voices」としてベルギーで世界初演されました。その後、2021年に「PLAT HOME」に改題されて日本初演され、東京藝大アートフェス2023東京藝術大学学長賞を受賞していますが、東京藝大も大きく変わろうとしています。なお、高橋さんが作曲、台本(オリジナル脚本を使用)及び芸術監督を手掛ける2024年2月27日(火)及び同28日(水)にオペラ「長い終わり」が初演されますので、これは聴き逃せません。
 
▼A.ピアソラのタンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのマリア」(1968年)より「私はマリア」(受胎告知のミロンガ)(ヴァイオリンとピアノ編曲版)
スペイン人ヴァイオリニスト兼現代作曲家のマリア・ドゥエニャスさん(2002年~)及び既に日本でもお馴染みのイタマール・ゴランさん(1970年~)がA.ピアソラのタンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのマリア」より有名なピース「私はマリア」(受胎告知のミロンガ)をヴァイオリンとピアノ用に編曲した版を演奏した音盤がリリースされて話題になっています。その美しさだけでも罪だと言うのに、その狂おしく情熱的な演奏にメロメロにさせられる魔性を感じます(萌)。なお、2023年12月15日にA.ピアソラのタンゴ・オペリータ「ブエノスアイレスのマリア」(コンサート形式)の公演がありますので、これは聴き逃せません。