大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

新年の挨拶

f:id:bravi:20181231222640j:plain

謹賀新年。久しぶりのブログ更新になります。昨年は、人生の「節目」を迎えて、この機会に自分の先祖について調べてみたいと思い立ち、暫く先祖の調査に専念しておりました。今年の干支は「亥」(猪)。人間が食糧を安定的に確保するために野生の「猪」を家畜として飼うようになり「豚」が誕生したと言われていますので、「猪」は「豚」の先祖ということになりますが(どんなに「社畜」として飼い慣らされても「猪」に肖って心の牙はなくさないように心掛けたいものですが....)、我が家は楠木正遠の末裔として観世家と同根同租の間柄にあり大変に名誉なことであると感じています。先祖の事績が風化してしまわないように書籍に纏めて自費出版(非売)し、国立国会図書館へ献本したいと目論んでいます。今回、自分の先祖の調べてみて、各々の先祖が時代の転換期に信念を貫いて誇り高く生きた生き様に触れるにつけ、果たして自分はそれらの先祖に恥じない生き方ができているのかと背筋を正される思いがすると共に、より明確に自分の人生の視座のようなものが定まり、これまでに増して人生の意義深さを感じられるようになりました。年始を迎えて、家族や親戚と共有する時間が増える時期だと思いますが、平成最後の年という時代の「節目」にあたり一年の計に自分の先祖について調べるという目標を追加されてみるのも良いかもしれません。

先祖を千年、遡る (幻冬舎新書)

先祖を千年、遡る (幻冬舎新書)

 

今年は平成最後の年賀状になりますが、インターネットの普及や新暦移行に伴う年賀の形骸化(一昨昨年の年始のブログ記事)等に伴って2019年分の年賀葉書の発行枚数は2004年から約40%も減少しており、また、小学生の基礎学力調査でも年賀状のどこに自分と相手の氏名や住所を書くのか分からない生徒が半数に上るそうなので、急速に年賀状が廃れて来ています。日本では奈良時代から「年始の挨拶回り」の習慣が生まれ、平安時代には公家の年中行事として定着します。丁度、この頃、中国の唐の勢力が衰えて遣唐使が下火になり、これに伴って中国から渡来した難解な「漢字」とは別に平易な「仮名」が誕生、普及して日本独自の文化(物語、和歌や書道等)が華開き、これらの文化が公家や武家ばかりでなく身分の低い庶民にも浸透したことで寺社等における「仮名」教育が活発化してキリスト教宣教師が驚くほどの識字率を誇る国になりました。(これにより日本では公式の記録に留まらず、身分の上下を問わず様々なことが手紙、日記や落書等の文字で記録され、それが大量の古文書等として後世に残されたことで自分の先祖を調べる際の大きな手掛りとなっています。閑話休題。)このような時代背景を受けて、平安時代の学者・藤原明衡(約950年前)は日本最古の手紙文例集「明衡往来」を著し、この中で年始の挨拶文例として「春始御悦向貴方先祝申候」(直訳:春の始めの御悦び、貴方に向かってまず祝い申し候)を紹介していることから(現存する日本最古の年賀状)、平安時代には年賀状の先祖と言える年始の挨拶文を認めた「手紙」のやりとりがあったものと思われます。その後、鎌倉時代には習字や読本の初級教科書として使用された「庭訓往来」が広く普及し、また、江戸時代には飛脚制度(江戸時代の通信革命)が整備、充実されたことに伴って下級武士や商人等の間にも遠方の親戚や知人に宛て年始の挨拶文を認めた「手紙」をやりとり風習が浸透しました。

年賀状の先祖(現存する日本最古の年賀状)
原文
【意訳】
初春の慶びをお祝い申し上げますと共に、貴殿の益々のご多幸をお祈り申し上げます。
年が明けて直ぐに年始の挨拶を申し上げるべきでしたが、折しも子の日の遊びにあたり、皆さんから野遊びに誘われて心ならずも年始の挨拶が遅くなってしまいました。
さながら軒の梅を心待ちにしている鴬が人家の暖かさに惹かれてその蕾が開きかけているのを忘れているような、あるいは、庭園の胡蝶が春陽の移ろいも知らないで日影で遊んでいるようなものなので、全くもって本意ではございません。
ところで、楊弓・雀小弓の試合、笠懸・小串の会、草鹿・円物の遊び、三々九・手挟・八的等の音楽会を近く開催致します。弓馬の達者な方をお誘い合わせのうえ、お越し頂ければ幸いです。
心に思うことは多いのですが、拙筆なので手紙には認めず、今度、お会いする機会に申し上げることに致します。

謹言

1月5日 藤原左衛門尉

石見守 殿

殺風景な冬景色から百花繚乱の麗らかな春の到来を寿ぐ筆者の華やいだ気持ちが伝わってくるような季節感の漂う芽出度い正月の挨拶文です。電子メールの同報通信で「あけおめ」等と正月早々から軽口を叩き、ぐうたら寝正月を想起させるような当世流の挨拶文とは大違いです。いくら通信の手段(技術)が発達しても通信の内容(心、即ち、伝達される情報の質や言葉に含まれている情報の量)が空疎になる一方では日本文化は昔と比べて退化していると揶揄されても仕方がありません。

 

その後、明治維新を経て年始の挨拶が「手紙」ではなく「葉書」で送られるようになりますが、これは1869年にオーストリア・ハンガリー帝国で「手紙」より安価な通信手段として発明された世界初の「ポストカード」を郵便の父・前島密が「葉書」と命名して日本にも導入したことに端を発しています。日本では既に戦国時代にはモチノキ科の常緑広葉樹「多羅葉(たらよう)」の葉の裏に爪や枝で文字を刻んだものが簡易な通信手段として利用されていたそうですが(古代インドでブッダの教えを多羅樹(たらじゅ)の葉に刻んで伝承していたことに由来し、日本における葉書の先祖とも言えるもの)、これと「ポストカード」が類似していることから“葉に書く”で「葉書」と命名されたそうです。平成9年に多羅葉は郵便局のシンボルツリーに指定され、全国各地の郵便局では多羅葉を植栽しているところが多く(例、東京中央郵便局)、現在でも多羅葉の葉の裏に宛先を明記して定型外の郵便切手を貼れば配達してくれます。なお、日本の自然信仰の原点である熊野本宮本社の境内には御神木「多羅葉」が植樹され、その横に神の遣いとされる八咫烏(神託を伝えるという意味で「葉書」の由来と同じ)のポストが設置されていますが、熊野本宮創建2050年の「節目」を迎えた記念として2018年12月31日までにこのポストに投函された葉書には八咫烏消印が押印されるというので、初詣がてら熊野詣と洒落込みました。 因みに、八咫烏サッカー日本代表のエンブレムとしてもお馴染みです。古代ギリシャ古代ローマでは紀元前200年頃には足でボールを蹴る遊戯が発明されていたそうですが、日本では飛鳥時代に中国から伝来した蹴鞠(けまり)が平安時代になると宮廷貴族の遊戯として流行し、当時の蹴鞠の名人で「蹴聖」と言われた藤原成道は蹴鞠上達祈願のために50回以上も熊野詣をし、熊野本宮の大神の前で「うしろ鞠」の名技を奉納したという記録が残されていますので(「古今著聞集」より)、日本のプロ・サッカー選手の先祖は藤原成道(約850年前)と言えそうです。そのため、サッカー日本代表の選手や日本サッカー協会の関係者、全国のサッカーファン等がW杯の必勝祈願やサッカーの上達祈願のために熊野本宮大社へ参詣しています。

 

 

ところで、熊野本宮本社の近くには、映画「海難1890」の舞台となった船甲羅岩礁和歌山県串本町)があります。1874年に第一次世界大戦の原因となった普仏戦争に勝利して成立したドイツ帝国が中心となって万国郵便連合が結成されたことで国際郵便制度が整備され、その結果、国際的な通信・物流革命が実現しました。このような国際情勢のなか、1889年にオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号明治天皇宛ての親書を携えた親善使節団を乗せて日本へ来航しますが、その帰路に台風で船甲羅岩礁座礁して沈没し、地域住民の決死の救出活動により乗組員69名が救出され、残る578名が死亡するという大海難事故が発生しました。それから約100年後の1985年に勃発したイラン・イラク戦争に巻き込まれたテヘラン駐在の日本人は(日本政府が自国民の救出に躊躇する一方で)トルコ共和国の厚意によって無事に救出されました(テヘラン邦人救出事件)。エルトゥールル号遭難事件はオスマン帝国の元首から大日本帝国の元首への親書(手紙)を契機として発生した悲劇ですが、1通の手紙が人の運命を変え、歴史を作る力を持ち、それらが様々な物語や歌として語り、歌い継がれてきています。「先義後利」(孟子)という言葉がありますが、果たして自分は利得に心を曇らせて信義に惑うことなく、たとえどのような状況にあっても他人(又は社会)に対して誠実に尽くすことができる「真実な方達」(映画「雨あがる」より)たり得ているのかということが心に掛かる今日この頃です。因みに、先日、アメリカは万国郵便連合からの離脱を表明しましたが、これは万国郵便連合によってアメリカが中国からの輸入荷物をアメリカ国内で無料配達しなければならない義務(発展途上国への優遇措置)を課されおり、それがアメリカ国内の流通業者の負担になっていることを忌避するものです。トランプ・ショック(アメリカ・ファーストに象徴される保護主義的な傾向)を非難することは簡単ですが、中国の台頭が目覚ましく国際社会の勢力地図が塗り替えられようとしているなか、そろそろアメリカが国際社会のリーダーとして余計に負担してきたコストを見直す時期に来ているのかもしれません。(イギリスのEU脱退もイギリスが余計に負担を強いられることなどを巡る問題という意味では同じ文脈です。)

 

 

さて、「節目」と言えば、昨年は明治維新150周年及び第一世界大戦終戦100周年の節目にあたり、また、今年は実用化フェーズに入ったAI技術の本格的な普及(例えば、自動運転無人小売店舗等の商用化と、それらを支える通信の大容量・高速化キャッシュレス化等の社会インフラの整備など)により新たな時代の転換期(産業革命は人類を「重労働」から解放し、AI革命は人類を「労働」そのものから解放するイノベーション)を迎えようとしていますが、これらに伴って社会の価値観が大きく変化(パラダイムシフト)しようとしています。このような時代の転換期を迎えて、巷では人類の歴史を大きなトレンドとして俯瞰し、将来の変化を見通そうとする試みが持て囃され、時代を写す鏡である「芸術」(その創作と受容)の分野についても、過去にどのように変容してきたのかを俯瞰し、それを手掛りにして現代の「芸術」の意義を読み解こうとする映画や書籍等が次々とリリースされています。先日も、NHK-BS1で『映像の世紀プレミアム 第1集「世界を震わせた芸術家たち」』やクラシカジャパンで『楽しく分かる音楽の歴史Vol.4「20世紀以降」』と題する番組が放映されていましたが、第一次世界大戦によって近世的な社会体制や価値観等が破壊されたことで「芸術」も大きく変容し、その後、第二次世界大戦と冷戦を経て「平成」(「内」(史記)や「知」(書経)に由来)という言葉を体現するようにグローバリゼーション(交通と通信の革命による人、物、金、情報のダイナミックな流通)が急速に進展したことで「芸術」が更に大きく変容しようとしている状況が記録映像と共に紹介されていました。そこで、時代の転換期にある年の始めにあたり、現代音楽を含むアヴァンギャルド芸術が市民権を得つつある現状を踏まえて、「芸術」の来し方行く末について考えてみたいと思います。なお、本当は現代社会との関係性(とりわけ科学技術の進展)を踏まえつつボーダレス及びジャンルレスに幅広い「芸術」(全世界の音楽、舞踊、絵画、文学、芸道等)を俯瞰しなければ、多種多様に変容し、それ故に難解になっている現代の「芸術」の意義を読み解くことは難しいと思いますが、僕のような素人には手に余るテーマなので(また、未だ専門教育機関等でもそのような広範多岐に亘る分野を網羅するカリキュラム、とりわけ中近東やアフリカまで漏れなく射程としているものは殆ど存在しないようなので)、非常に歯がゆく口惜しい限りですが、今回は「芸術」のうち「音楽」、さらに、その「音楽」のうちでも上記のテレビ番組で採り上げられていたヨーロッパの「クラシック音楽」(近世までの調性音楽)の崩壊と20世紀以降の「前衛音楽」(近代以降の無調音楽)の誕生(但し21世紀の混沌状態を除く)というごくごく限られた狭い分野について簡単に概観するに留めたいと思います。

 

変革の時代にあって「知識」よりも「視点」(物の見方)を整理した方が刻々と移ろう時代を見通すための応用につながると思いますので、例えば、国民楽派5人組や新ウィーン楽派3人組(who、when、where、what)等の教科書的な知識を追うのではなく(それらを詳説したWebサイト書籍は巷に多く溢れていますので)、過去の時代の変容(trend)を機軸として、それに伴って音楽がどのように変容してきたのか(why、how)を大掴みにすることで、自分なりに時代との関係性の中で前衛音楽の意義を把握するように努め、それを手掛りとして聴衆の立場から前衛音楽へのアプローチの仕方(但し、方法論のような本格的なものではなく漠然としたもの)を考えてみたいと思います。「クラシック音楽」(近世までの調性音楽)と異なって「前衛音楽」(近代以降の無調音楽)は人間の感情に根差さず、物語性など音楽的な文脈を持たず、また、耳慣れない複雑な語法や音響が使用されているなど見通しの効き難いものが多いので、一体、何を手掛りに音楽に寄り添えば良いのか途方に暮れることが少なくないですが、多様な前衛音楽についてそれぞれの「時代」背景との関係性の中から表現の意義を見出すことで、そこで何が考えられ、行われているのかを自分なりに理解する手掛りとすることができるのではないかと考えています。現代の大衆消費社会ではSNSの「いいね!」に象徴されるように人間の刹那的な欲求を手っ取り早く満たすことができる(即ち、消費行動に結び付き易い)ラブリー&イージーなものばかりが持て囃される風潮が根強く、それ故に却って調性という麻薬が中毒症(但し、それは音楽の可能性を狭めてしまう副作用)を持ち易い環境にあると言えるかもしれませんが、いつまでも安易に流されて「クラシック音楽」(近世までの調性音楽)を消費しているだけの状態に留まっているようでは、いずれ時代の変革に伴って音楽的な欲求を十分に満すことができなくなるのではないかとも感じています。その意味で、遅ればせながら、今年は自分の中で音楽のパラダイムをシフトしてみたいと企図しています。

 

昨年で終戦100周年の「節目」を迎えた第一次世界大戦を契機として「クラシック音楽」から「前衛音楽」に至る音楽の変容を大雑把に俯瞰するにあたり、近世から近代に亘ってルネサンス音楽(旋法音楽)~バロック音楽(調性音楽の確立期)~古典派音楽(調性音楽の発展期)~ロマン派音楽(調性音楽の爛熟期)へと至る音楽の変容を時代(社会の価値観や体制)の変容と共に大掴み(....なので楽器の進化や受容環境の変化が音楽の創作に与えた影響等の諸要素は思い切って割愛)しておきたいと思います。なお、何でも物事を二項対立の図式に単純化して捉える危険性は十分に認識していますが、残念ながら人間の脳は正確な対象(即ち、物事を緻密に分ける(=分かる)ための属性を多く備えた複雑な対象)から「視点」(物の見方)を抽出できるほど有能にはできていませんので、敢えて二項対立の図式に単純化して捉え直してみるということも必要ではないかと思います。この点、本来、時代は色々な要素が絡み合いながら行きつ戻りつマダラ模様に展開して行くものなので定規で線を引いたように綺麗に整理することはできませんが、上述の理由から何を基軸に整理するのかによって多少は時代認識の先後などがありますのでご了見下さい。

 

ルネサンス(近世):中世的な価値観からの解放(ルネサンス音楽バロック音楽:旋法音楽の崩壊と調性音楽の萌芽)

宗教改革により主権が教会から国王へ移行すると、ローマ・カトリック時代のキリスト教的な価値観(肉体的な本能から生じる欲望を抑制し、肉体より精神性を重んじる価値観=神聖性)から解放されて古代ギリシャ時代のギリシャ神話的な価値観(肉体的な本能から生じる欲望を肯定し、精神と肉体のバランスを重んじる価値観=人間性)を見直す方向にパラダイムシフトします。このような時代の変容を受け、絶対王政に基づく封建制の重層的な社会体制を背景として複雑なポリフォニー(複数の独立した声部が重層的に絡み合う音楽)による秩序(決して交わらない絶対的な身分関係により規律される社会)だてられた均整のとれた美しさが持て囃されるルネサンス音楽(旋法音楽)から徐々に人間性に富むドラマチックな表現が可能な独唱形式(モノフォニーの萌芽)を採用するバロック音楽(調性音楽)へと移行して行きました。バロック音楽古典派音楽の端境期に活躍した宮廷音楽家ハイドン(イギリス)は、自らの創作意欲に忠実であること(芸術家気質)よりも、自らのパトロンである王侯貴族の趣味に合わせた音楽を量産すること(職人気質)に創作活動の主眼が置かれ、その結果として108曲もの交響曲が創作されることになりました。 

 

②市民革命・産業革命(近代前半):近世的な価値観からの解放(古典派音楽~前期ロマン派音楽:調性音楽の発展とその爛熟)

市民革命により主権が国王から市民へ移行すると、ギリシャ神話的な価値観がより一層重視されるようになります。絶対王政に基づく封建的な社会体制から市民の自由や平等が確立された社会体制を背景として一般市民にも親しみ易い単純なモノフォニーによる美しい響きの調和(平等な人間が相互に交わり合いながら協調する単層的な社会)を求める古典派音楽(明快な和声による調性音楽)が隆盛となり、やがて近代市民社会の定着により社会が複雑化するにつれて人間の感情をより豊かに表現するための個性的な響きが求められるロマン派音楽(複雑な和声による調性音楽)へと進化します。古典派音楽とロマン派音楽の端境期に活躍したベートーヴェン(ドイツ)は宮廷から解放されたフリーランスとして作曲活動を行ったことにより、注文主の趣味に合わせた音楽を創作するのではなく、自らの創作意欲に忠実であること(芸術家気質)に創作活動の主観が置かれ、その結果として9曲しか交響曲が創作されていません。

 

帝国主義・世界大戦(近代後半):近代的な価値観の破綻(後期ロマン派音楽~調性音楽の崩壊と前衛音楽の萌芽)

産業革命を経て資本の独占が進む一方で、都市部に集中した労働者は過酷な労働条件下で搾取されて貧困を強いられるという社会の歪み(個人レベルでの格差)が深刻化し、自由で平等な市民社会の理想が破綻を来します。また、大量生産される商品の消費市場と生産資源を確保するために、資本家と国家権力が結び付いて軍事力を背景とした植民地政策(帝国主義)(国家レベルでの格差)が本格化します。このような近代社会の矛盾が露呈するのと併せて、中心となる音(資本家、帝国主義宗主国)との関係で他の音(労働者、帝国主義の従属国)が規律、構成される調性音楽(合理的な秩序)による理想的な美(平等な人間が相互に交わり合いながら協調する社会の調和)を表現するだけではその時代を上手く表現できないという行き詰りを見せ、その行き詰りを打開するために中心となる音(資本家、帝国主義宗主国)によって規律、構成される調性からの解放を目指して新しい世界を表現するための音楽の模索が始まります。後期ロマン派音楽と前衛音楽の端境期に活躍したワーグナー(ドイツ)は半音階的転調により調性の内側から調性(中心となる音)を崩すことで音楽を調性から解放することで新しい世界を表現するための音楽(トリスタン和音)を模索します。また、これと同時期にドビュッシー(フランス)は旋法音楽等を使って調性の外側から調性(中心となる音)を崩すことで音楽を調性から解放することで新しい世界を表現するための音楽(印象主義音楽)を模索します。

<調性音楽の特徴:縦の主従関係による秩序>

音の関係 特徴的な傾向
音の縦関係(音の色彩) 【制約:和声等】
和声や対位法に規律され、主題に対する関係で伴奏や対旋律は制約度が高い。
音の横関係(音の運動) 【自由】
和声や対位法に規律されず、主題は比較的に自由度が高い。

ナショナリズムと音楽
市民革命により絶対王政や宗教権威の秩序(束縛)から解放されて市民が自由と平等を手にする一方で、産業革命によって工場がある都市部へ人口が集中して市民が大衆化すると市民の間に一体感のようなものが生まれて個人主義から集団主義へと市民の意識が変化していき、やがて第一次世界大戦の勃発により危機的な状況に陥るとその傾向に拍車がかかります。このような社会の変容を受け、市民(個人)を全体(集団)へと統合するための音楽としてベートーヴェン交響曲第9番等が政治利用されます。ベートーヴェン交響曲第9番は第三楽章で天上の音楽(王侯貴族や教会の音楽)を奏でた後に、我らが理想とする音楽(世界)はこのような権威的又は禁欲的な音楽(世界)ではないと否定して第四楽章の世俗の音楽(良き市民の集いと酒盛りの歌の熱狂を思わせる大衆の音楽)へと突入します(そのためなのか第四楽章の合唱は誰でも歌い易いように作られています)が、良き市民の集いとその陶酔的な熱狂(歓喜)はナチスドイツを生むという苦い教訓を人類に残す結果となり、現代ではベートーヴェン交響曲第9番は耳障りの良い言葉を無批判、無責任に受け入れる良き市民の集い(感傷的なムード)が陥り易い愚衆性や偽善性を省みるための戒めの音楽(年末に煩悩を祓う除夜の鐘の如きもの)としても機能しています。

 

その後、植民地政策(帝国主義)は、これに先行していたイギリス、フランス、ロシア(三国協定)とこれに出遅れていたドイツ、オーストリア、イタリア(三国同盟)の間で利害衝突(帝国レベルでの格差)を生じ、これが契機となり第一次世界大戦が勃発してロシア、ドイツ、オーストリア及びオスマンの四大帝国とブルジョア文化(貧富の格差の象徴であった社交場を含む)など近世的な社会体制の一部が破壊されます。これに伴って王侯貴族(特権階級)やブルジョアジー(有産階級)など階級社会が支援し、受容してきた調性音楽(クラシック音楽)も終焉を迎えます。やがて第一次世界大戦で植民地(市場)を失った敗戦国のドイツ及びイタリアや十分な植民地(資源)を持っていなかった後発国の日本の経済的な行き詰りから再び植民地政策を積極的に展開したことで第一次世界大戦戦勝国との間で利害衝突を生じ、第二次世界大戦が勃発して帝国主義など近世的な社会体制が完全に破壊されます。これにより産業革命の副産物である植民地政策(帝国主義)とこれを原因として発生した2度の世界大戦に対する反省から、国家が「平等」に富を分配すること(人工秩序)によってバランスする社会を理想とする社会主義的な考え方と、公正で「自由」に競争すること(自然秩序、いわば神の見えざる手)によってバランスする社会を理想とする資本主義的な考え方の2つのイデオロギーが対立する冷戦時代を迎えます。このような時代の変容を受け、シェーンベルクオーストリア Rotes Wien)は音(富)の中心や偏りを排除するために1オクターブの中に含まれる12の音を1回づつ均等に使った音列(セリー)(人工秩序による平等を理想とする社会)を組み合わせて作曲する十二音技法(無調音楽)を発明します(但し、現実には、ソ連スターリン主義のもと音楽の政治利用を企図して社会主義リアリズム音楽へと傾倒)。その一方で、ケージ(アメリカ)は作曲者の意図(国家の介入)を排除するために偶発的な要素(例えば、プリペアド・ピアノ、占いやサイコロなど、いわば神の見えざる手)(自然秩序による自由を理想とする社会)を採り入れて作曲する偶然性・不確定性の音楽を考案します(但し、偶然性の音楽はモーツァルトの「音楽のサイコロ遊び」(K516f)等に代表されるように比較的に古くから使われていた作曲技法です)。 

<無調音楽の特徴:横の調整関係による秩序>

音の関係 特徴的な傾向
音の縦関係(音の色彩) 【自由】
伴奏や対旋律も音列(セリー)に影響されるが、和声や対位法には規律せれないので自由度が高い。
音の横関係(音の運動) 【制約:音列】
音列(セリー)に規律されるので制約度が高い。

自然秩序による自由のグラデーション(統制から規制、規制から緩和、緩和からトレンドへ)
一見、偶然性の音楽と不確定性の音楽は相似しているように見えますが、偶然性の音楽作曲(統制)の過程で偶然の要素が加わって創作される音楽である(即ち、演奏の過程では偶然の要素はない)のに対し、不確定性の音楽演奏(行動)の過程で不確定の要素が加わって創作される音楽なので(即ち、再現可能性が低く録音(確定)に馴染まない)、両者は本質的に異なる音楽です。また、演奏の過程で不確定の要素が加わるという意味で不確定性の音楽と即興演奏は相似しているように見えますが、不確定性の音楽演奏者の自由を排除(規制)して占いやサイコロ等によって音符を選ぶなど音楽的に制約されているのに対し、即興演奏は殆ど音楽的な制約がなく演奏者の自由に委ね(緩和)られているので、両者は本質的に異なる音楽です。即興演奏
演奏者の自由に詩、言葉や記号等のインスピレーションを与える(流行、アイディア、目標等)フルクサスになります。

 

④大衆消費社会・ボーダレス社会・イノベーション(現代):現代的な価値観の勃興(前衛音楽の展開と軽音楽の台頭)

前述のとおり産業革命によって植民地政策(帝国主義)が本格化し、帝国レベルでの格差が原因となって二度の世界大戦を引き起しますが、国家レベルの格差によって従属国(植民地)では宗主国からの独立を求める気運(民族主義)が高まり、二度の世界大戦を経て民族の独立運動(脱植民地主義)へと発展します。このような時代背景を受け、宗主国側のワーグナー(ドイツ)、ドビュッシー(フランス)、シェーンベルクオーストリア)等による調性(中心となる音=宗主国)からの解放の動き(前述)に加え、従属国側のバルトークハンガリー)等は民族のアイデンティティを求めて帝国主義を推進していたブルジョアジー(有産階級)が支援し、受容してきた調性音楽に民族音楽の音階、和声、リズム、拍子等をそのまま採り入れて、調性音楽(宗主国)と民族音楽(従属国)を対等の立場で融合する音楽(新古典主義音楽)を模索します(その後のEU統合を暗示するメンタリティ)。また、これと同時期にストラヴィンスキー(ロシア)は調性音楽と民族音楽を融合するのではなくそれぞれを独立した素材として各々の個性(独自性)を尊重する音楽(コラージュ的な音楽)を模索します(その後のソ連崩壊を暗示するメンタリティ)。また、ストラヴィンスキーキリスト教的な価値観(精神で肉体をコントロールすること(=理性)を重視)から肉体的な興奮を喚起するリズムの使用を避けてきた調性音楽(クラシック音楽)に民族音楽の本能的・野性的なリズム等を採り入れて調性音楽(クラシック音楽)の理性的・禁欲的なリズムを破壊する新しい音楽(バレエ音楽「春の祭典」など、いわゆるバーバリズム)を創作しますが、シェーンベルク調性を解放して音の縦関係(音の色彩)を自由にし、ストラヴィンスキーリズムを解放して音の横関係(音の運動)を自由にしたこと(美のパラダイムシフト)で近代までの調性音楽(クラシック音楽)は終焉を迎えます。

ミクロコスモス I

ミクロコスモス I

アメリカナイゼーションと音楽
アメリカの南北戦争後に奴隷解放された黒人によってヨーロッパの讃美歌等(白人音楽)にアフリカの民族音楽(黒人音楽)のリズムを融合したジャズが誕生しますが(その後、ジャズのブルースやラグタイム等(黒人音楽)とカントリー&ウェスタ(白人音楽)が融合してロックンロールへと発展。また、プロテスタント牧師の説教からトーキング・ブルースが生まれてヒップホップ文化等の影響を受けながらラップへと発展)、第一次世界大戦アメリカからヨーロッパへ派遣された黒人部隊がヨーロッパ各地でジャズを演奏したことや、電気録音(レコード)、テレビジョン放送やジェット旅客機等の発明によって本格的なグローバリゼーションが進展するにつれてジャズやロックンロール等を始めとしたアメリカのポピュラー音楽が全世界へと広がります。これによりバルトークストラヴィンスキーガーシュイン等はジャズをクラシック音楽に採り入れ、また、バルトークは電気録音の発明によって世界の民族音楽を採集、分析することが可能になり、その後の創作活動に重要な影響を与えています。なお、アメリカのポピュラー音楽が全世界へと広がった背景には、
第一次世界大戦後にイギリスがドイツから支払われる賠償金をアメリカへの多額のドル借款の返済に充当したことでアメリカに世界の富が集中したこと(この富の偏在が第二次世界大戦の引金)や、第二次世界大戦後にアメリカが中心となって新しい国際協調の枠組みとして国際連合が設立されたことなどにより、ヨーロッパを中心とした世界秩序からアメリカを中心とする新しい世界秩序へと構築し直されたことが挙げられます。現在、世界の富の約半分がアメリカへ集中していますが、再び、時代の転換期を迎えてアメリカを中心とした世界秩序が揺らぎ始めています(前述)。古今東西を問わず人類の歴史で繰り返されてきた新しい秩序を模索するための戦争が経済の高度化により土地の奪い合いから金の奪い合いに姿を変えて軍事力の行使から経済力の行使(経済制裁等)へと様変わりしつつあるなか、日欧を巻き込んだ米中貿易戦争やイギリスのEU脱退等の混乱状況を招いているのが現在ではないかと思います。人類の歴史は非常に単純な力学で動いており同じようなことを繰り返しながら技術革新を重ねて徐々に発展してきているに過ぎませんが、その文脈に照らして前衛音楽を捉え直すと、一見、複雑難解と思われがちな前衛音楽も非常に単純なことを試み、些細な変化を生んでいるに過ぎない(その意味で身構えるほどハードルは高くない)ように思われ、何やら思わせ振りに「音楽とは何か」と眉間に皺を寄せて論じてみることの滑稽さが微笑ましくさえ感じられます。

 

前述のとおり産業革命及び植民地政策(帝国主義)による富の格差が世界大戦の引金となったことを教訓として、戦後、国又は国際機関が規制を強化すること(人工秩序)で富を平等に分配する政策(社会主義のみならず、資本主義における富の再分配としての社会福祉政策や富の集中防止としての公正競争政策等を含む。)がとられますが、やがて規制の強化による経済発展は行き詰まりを見せるようになり、これを打開するために国又は国際機関が規制を緩和すること(自然秩序、神の見えざる手)で自由に競争する政策へと転換します。即ち、資本主義では経済発展を遂げて富を平等に分配するよりも規制を緩和して自由に競争することで経済を活性化させることが重視され、また、社会主義では経済政策の失敗と情報化社会の到来によって資本主義社会との間で富の格差が生じていることが明らかとなり資本主義を実験的に導入する方向に政策転換して冷戦が終結します。このような社会の変容を反映するように、十二音技法(セリエリズム)は音高のみを対象として音列(セリー)技法により作曲する方法(12音を平等に1回づつ用いた音列を原形として、その逆行形、反行形、逆反行形と派生し、また、それぞれの形の移高や組合等で作曲)からリズム、音色、音価、強弱、アーティキュレーション等も対象として音列技法により作曲するトータル・セリエリズムへと発展しますが(規制の強化)、その結果、音楽が複雑化して演奏や鑑賞が困難となり行き詰まりを見せるようになったことから、これを打開するために12音の全部が使用されていなくても一度使用した音譜を反復して使用しても良い(反復性)又は音列に調性を感じさせても良い(物語性)など音列技法のルールを緩和して自由に作曲するポスト・セリエリズムへと移行し(規制の緩和)、これに伴って無調音楽(自然の音、前衛性)と調性音楽(人工の音、大衆性)がボーダレスになりゲームソフト、アニメや映画等の商業音楽でも使用されるようになります。また、トータル・セリエリズムにより音楽が複雑化して演奏又は鑑賞が困難になると「楽譜に書かれている音楽」(理想)と「実際に聞えてくる音楽=響き」(現実)の間に大きな乖離を生じ、徐々に「楽譜に書かれている音楽」(理想、社会思想)よりも「実際に聞えてくる音楽=響き」(現実、経済実態)が注目されるようになって響きの探究(後述)が盛んに行われるようになります。これに伴って調性音楽(クラシック音楽)がキリスト教的な価値観(理想)から肉体的な興奮を喚起するリズムの使用を避けてきたのと同様に理性によってコントロールできない響き(周期的な振動ではなく非周期的な振動からなる響き=ノイズ)の使用を忌避してきた伝統が徐々に破壊され、ノイズを解放して音の構成物(音の素材)を自由にし(美のパラダイムシフト)、やがてロックンロールやハードコア・パンク等へと応用されます。

<音楽の解放①~西洋音楽の伝統へのアンチテーゼと美のパラダイ ムシフト~>

音楽の解放 調性音楽 無調音楽
音の縦関係
(音の色彩)
調性の解放
【制約】
和声や対位法に規律される。
【自由】
和声や対位法に規律されない。
音の横関係
(音の運動)
【自由】
音列(セリー)に規律されない。
【制約】
音列(セリー)に規律される。
音の構成物
音の素材)
ノイズの解放
【制約】
周期的な振動からなる音程(楽音)のみを使用。
【自由】
非周期的な振動からなる音程(噪音)も使用。

 

第二次世界大戦後の経済発展により大衆消費社会が本格化するにつれて人手のみで大量生産を支え、複雑化する社会に対応することが人間の能力の限界に達したので、技術革新を重ねて工業機械やコンピュータ等によるオートメーション(省人間)化が進み、やがて都市には工場生産、物資輸送や建物建設等によって人工的に生み出される騒音(五線譜上の音程で表すことが困難で物語性を持たない響き)が溢れて社会問題化します。このような時代の変容を受け、コンピュータ等によって録音や編集の技術が飛躍的に向上し、既存の音を録音して並べ替えたり又は加工するたりして音楽を創作するミュージック・コンクレート(既存の音の発生原因や意味等を省みず物語性や目的性を持たない響きのみを重視し、最初に出てくる既存の音を主題として様々なリズムで展開する音楽で、サンプリング・ミュージックからヒップホップやテクノ等のクラブ音楽へと発展)が誕生します。また、音楽の録音技術の向上によりレコード芸術が普及したことにより音楽の受容シーンが多様化(バックグラウンド・ミュージック、サウンド・エフェクト等)し、社会には音楽が溢れて音楽の大衆化が進みます。さらに、音そのものを人工的に作り出す電子音楽(ロック、ポップス、ゲームや映画等の商業音楽へと発展し、大衆消費社会を背景として騒音問題に配慮して消音機能を備えた電子楽器として一般人にも普及)が誕生し、トータル・セリエリズム(前述)やスペクトル音楽(後述)など人間の能力の限界(人間の声を含む楽器の性能や演奏の技術)を超えて複雑化し演奏が困難になった音楽(社会)を人間に代わって実演するための手段(省人間)としても持て囃され、やがて五線譜上の音程で表すことが困難な微分音(半音以下の音)等の周波数を解析して音程に置き換えるスペクトル音楽へと進化します(Open Music等)。また、都市に騒音が溢れたことから、騒音対策として日常の音をコーディネートするサウンド・デザイン、バリアフリーとして視覚障害者のためのサウンドマップや健常者にとってのリラクゼーション、防犯等を企図して音をアレンジするユニバーサル・デザイン等を行うサウンドスケープが誕生します。さらに、科学技術の進歩に伴ってコンピュータを利用して遺伝子の塩基配列を音符に変換する遺伝子ミュージック音楽療法等の目的のために脳波に良い影響を与えるバイオミュージック等も登場します。

 

産業革命により工場のある都市部へ人口が集中したことで市民が「大衆」化すると市民の間に一体感のようなものが生まれて市民の意識が個人主義から集団主義へと変容し、世界大戦の勃発による危機的な状況が相俟ってその傾向に拍車がかかります。戦後、新しい国際秩序が構築されてグローバリズムが進展すると、その集団主義が企業主義へと姿を変えて飛躍的に経済が発展します。また、経済の発達に伴って社会の分業体制が確立し大量生産・大量消費を支える社会インフラが整備されてマス・メディアが重要な役割を担うようになると、1人1人の市民(個性)に着目するのではなく市民を没個性的な大衆(mass)として捉える大衆消費社会が本格化します。このような時代の変容を反映するように、トータル・セリエリズムによって複雑化した音楽から生み出される響きは音列(セリー)が織り成す多声部(個性的な市民)としては認識できず、1つの音塊(sound mass)(没個性的な大衆)として認識されるようになり、1つ1つの音の音程関係を厳格に管理する作曲技法トータル・セリエリズムではなく、1つ1つの音の音程関係を重視せずにぼんやりとした音塊として捉えて、ある2つの音の間を響きで埋め尽くす作曲技法トーン・クラスタ(密集音群)が生み出され(ペンデレツキ「広島の犠牲者のための哀歌」が有名)、ジャズの奏法等に応用されます。また、細かく分割された楽器パートが各々異なった動き(分業)を行いながらそれらが1つのまとまった雰囲気(社会、集団)を織り成す作曲技法ミクロ・ポリフォニーが生み出されるなど、トータル・セリエリズムのように理論(社会思想)を重視するのではなく実際に耳から聴こえてくる響き(経済実態)を重視する音楽を模索する動きが活発になります。

 

経済の発展に伴って社会の分業体制が確立し、社会が高度に構造化(規格化、単位化、システム化等)して社会が安定してくると、何の物語性や目的性を持たないルーティンな日常が続き、都市は無機質に反復する機械音や電子音で溢れます。大衆はこのように安定した社会状態を是認する立場の保守派とその変革を望む立場の革新派に二分されていきます。このような社会の変容を反映するように、最小単位のモチーフ(日常、機械音等)を反復するミニマル・ミュージックが誕生し(その萌芽は既にサティ「家具の音楽」等に見られ)、常に鳴り響く音楽の“今”(日常)を重視し、その結果、音楽(人生)がどのような物語を紡ぎ又はどのような目的を持っているのかということはあまり重視されなくなります。ミニマル・ミュージックモチーフを小さく変化させながら(音楽への集中を生みながら)反復する音楽なのでシャーマニスティックな効果によりトランス状態(陶酔感、恍惚感)を喚起する音楽(革新的な性格)であるのに対し、最小単位のモチーフを変化させずに反復することでトランス状態の喚起など心理的な変化を避けるアンビエントが誕生し、日常に埋没するかのような「意識されない音楽」(保守的な性格)が創作されます。やがてこれらはミニマル・テクノ(例えば、ピコ太郎「PPAP」等)やアンビエント・テクノ(例えば、クラブの休憩中に流れるBGM等)等のクラブ音楽へと応用されます。なお、調性音楽にも最小単位のモチーフを反復する音楽は存在しますが(例えば、ベートーヴェン交響曲第5番」の運命のモチーフ等)、前述のとおりクラシック音楽ではキリスト教的な価値観からシャーマニスティックな効果により肉体的な興奮(精神で肉体をコントロールすること(=理性)ができなくなる状態)を喚起することを忌避する傾向が強いので、ミニマル・ミュージックに比べてモチーフを大きく変化(展開)させていますので(革命的(≧ 革新的)な性格)、トランス効果の喚起等は起こり難いと言えるかもしれまません。 

<音楽の解放②~西洋音楽の伝統へのアンチテーゼと美のパラダイムシフト~>

音楽の解放 クラシック音楽
調性音楽
現代音楽
調性音楽 & 無調音楽
音の横関係
(音の運動)
リズムの解放 【制約】
肉体的な興奮を喚起するリズムを忌避し、理性的・禁欲的なリズムを使用。
【自由】
シャーマニスティックな効果を生む野性的・本能的なリズムも許容。
構造の解放 【制約】
単調な反復を忌避し、主題を大きく変化させながら展開。
【自由】
主題を殆ど変化させずに単調な反復によるトランス効果。

 

経済発展が一段落して社会が安定すると生活に必要なもの(本来価値)が全て満たされて機能性や合理性を追求する規制社会(モダニズム)は行き詰まりを見せるようになり、この閉塞状況を打開するために新たな豊かさ(付加価値)を生む多様性や過剰性等を促す規制緩和の動き(ポスト・モダニズム)が登場し、バブル経済へと突入します。その後、バブル経済は崩壊し、また、ITの普及等による情報通信革命(第四次産業革命)が起こったことでモダニズムを支えてきた社会構造が徐々に崩壊して再び社会が大きく変容しています。このような時代の変容を反映するように、常に新しいもの(新しいものが生む本来価値)を求め続けて来た前衛音楽はモダニズムと共に行き詰まりを見せ、ポスト・モダニズムの潮流と共に過去のもの(調性音楽等)を自由に採り入れながら創作(既存のものに追加される付加価値=バブル)するロマン主義が誕生します。また、このような状況に加えて、音楽のデジタル化が進むと音楽のアレンジが容易になって音楽のオリジナル信仰が希薄となり既存の音楽をアレンジして作曲する多様式主義が盛んになります。これによって既存のもの(音楽を含む)がジャンル(社会の分業体制)を超えて融合されるようになり(例えば、映像と音楽やパフォーマンスのコラボレーションによるメディアアートなど)、それぞれのジャンルの違いが曖昧になって表現が個別化・細分化し、何でも許されるカオスの状態(権威主義的なモードは廃れ、SNS等に象徴される個別化されたムーブメントとしてのスタイル)が生まれて現在の混沌とした停滞感を生んでいると言えるかもしれません。また、既存のものをアレンジして生まれる付加価値に「新しさ」(本来価値に昇華し得るもの)を求めてきたポスト・モダニズムの潮流にも手詰り感が生まれてきているように感じられます。そんななか、2015年にAI囲碁ソフト「AlphaGo」が初めて人間のプロ棋士に勝利して人工知能(AI)が注目を集め、人間の限界を超えて新しいもの(本来価値)を生み出す可能性があるものとして期待が高まり、これまでの人間本位の社会から脱人間(≠ 非人間的)の社会への移行(近代産業革命によって人類は重労働から解放され、AI革命によって人類は労働そのものからも解放!?)が予想されています。現在、AI自動作曲ソフトとしては「Flow Machines」(Sonny CSL)「Amper Music」(AMPER)「AIVA」(AIVA)等が商用化されていますが(各々の代表作と思われる曲をリンクしており、「AIVA」  はフルオーケストラ曲も作曲しています。)、これらの曲を聴く限り(非常によく出来ていますが)優等生的な作風の域を出るものではなく、今一つ面白味に欠けて筆致が及んでいない印象を否めませんので、今後の進化が期待されます。また、人間の演奏者と息の合った合奏を行うAI自動演奏システム「YAMAHA MuEns」(YAMAHA)が開発され、その演奏を瞑目して聴いていると人間によるアコースティック楽器の演奏と殆ど遜色を感じません。また、AI(人工知能)とAL(人工生命)によるアンドロイド「オルタ3」がオーケストラを指揮し、舞台で歌うオペラ公演も計画されていますが、弦楽器の自動演奏は今後のロボット工学の進歩を待つ必要があるかもしれません。その一方で、マスタリングやトラックダウン等の音楽制作工程では音楽エンジニアやアレンジャーに代ってAIソフト(LANDR、IZOTOPE NEUTRON等)が活躍し始めています。さらに、最新の研究では、大阪大学人間の脳波を読み取りながらどのような音楽を聞かせれば脳を活性化させて快感を覚えるのかを考えて自動作曲するAIソフトが開発され(バイオミュージックの進化系)、音楽の創作や受容のあり方に一大変革を巻き起こす可能性を示唆するものとして注目されています。10年後には誰でもAI作曲支援ソフトを使って簡単に作曲することができるようになるという予測もあるようですが、バッハであればきっとこのように作曲したに違いないと思えるような「フーガの技法」の補筆完成版を楽しめる日も遠からずやって来るのではないかと楽しみです。これから数十年の第四次産業革命による社会の変容に伴って、社会を映す鏡である音楽を含む芸術のあり方も大きく変容する可能性があり、とても面白い時代に生きていると言えるかもしれません。なお、21世紀以降の現代音楽の最新動向はキャッチアップし切れておらず、NEW COMPOSERELE-KING等から情報を入手しているところですが、元号も変わることですし、そのうち機会を見つけて整理してみたいと目論んでいます。因みに京都市立芸術大学が中心に結成し、メディアアートの分野で国際的に高い評価を受けているアーティストグループ「ダムタイプ」(Dump(唖)+Type(型))の新作が「KYOTO STEAM-世界から文化交流祭-2020」で発表される予定ですが、その制作過程の一部を先行公開する「NEW PROJECT WORK IN PROGRESS 2019」が2019年3月24日(日)に開催されますので見逃せません。

はじめての<脱>音楽 やさしい現代音楽の作曲法

はじめての<脱>音楽 やさしい現代音楽の作曲法

 

 

前衛音楽のアプローチの仕方(対策)を考えるにあたっては、どうして調性音楽と比べて前衛音楽を難解に感じるのか(原因)を簡単にお浚いしておく必要があると思います。前述のとおりバロック音楽から古典音楽の時代にかけて個人の内面を音楽的に表現するための方法(このように作曲すれば、このように聴いて貰えるという一種の決まり事)として調性システム(調性、リズム、拍子、メロディーやハーモニーの理論的体系等)が確立し、長年に亘って、この調性システムを深化させながら音楽を創作する側としての宮廷作曲家及びカントル等と、音楽を受容する側としての王侯貴族及び教会等との間で音楽的なコミュニケーションが重ねられてきました。しかし、市民革命により音楽を受容する側は王侯貴族及び教会等から市民(有産階級)へと主役が移り、その後、産業革命を契機として第一次世界大戦が勃発すると調性音楽を受容してきた社交界(王侯貴族及び教会等から遺産を引き継いだ有産階級の集い)等の社会システムが完全に破壊され、これに伴って調性システムも崩壊します。戦後、その反省に立って古い社会システムの再建を目指すのではなくそのアンチテーゼとして新しい社会システムの構築が模索され、音楽の分野でも調性システムの使用を意図的に排除する方法として十二音技法等の無調音楽が誕生します。これにより音楽を受容する側(大衆)はどのような方法で音楽を創作する側(作曲家の作品)との間で音楽的なコミュニケーションをとれば良いのか手掛りを失い、長年に亘って、音楽を創作する側(作曲家)と音楽を受容する側(大衆)との間で音楽的なコミュニケーションの断絶とも言える状態に陥ってきました。これを言語に例えれば、これまでは日本語でコミュニケーションをとっていたところ、突然、相手が英語で話し始めたので、英語が話せる人は理解できるが、英語が話せない人は全く理解できない状態が続いたと言えるかもしれません。現在、前衛音楽がゲームや映画等の商業音楽で使用される機会が多いのは、英語(前衛音楽)がよく分からなくもジェスチャー(映像やシチュエーション等)を交えると何となく「伝わる」という状況が生まれているではないかと思います。この点、ジェスチャーを交えずに英語を理解するためには英語を日本語に翻訳しようとするのではなく英語を英語として理解する姿勢が求められますが、直ぐに英語を英語として理解することは難しいのでジェスチャーに頼りながら徐々に英語に慣れ親しんで英語を英語として理解し始めているというのが現在の状況ではないかと思います。無論、これまで使い慣れてきた日本語のみを使って日本人のみとコミュニケーションをとりながら狭い世界の中で生きて行くという考え方は人生の選択の問題なので議論の外ですが、僕は狭い世界(過去の遺産を消費しながらその中で約束された娯楽や癒し等を求めて満足する世界)の中だけで生きて行くのは面白くないと感じています。前述のとおり前衛音楽は言葉を変えたほかにも、文法を変え(言葉を変えれば、自ずと文法も変わります)、文章の機能を変え(小説ではなくクロスワードパズルなど)、或いは言葉以外の方法(絵文字など)を用いて、これまでの約束された娯楽や癒し等から新しい表現世界を開きましたが、それ故にその表現は多種多様で複雑なものになってしまい、例えば、日本語の小説を読むつもりで英語のクロスワードパズルを前にしても何をどうしたら良いか分からずに途方に暮れてしまうのは当然とも言えます。後掲「現代音楽の行方 黄昏の調べ」の著者の大久保賢さんが前衛音楽について「楽譜を見せて貰って解説を受けないと、耳を通してだけ聴き取るのが難しい音楽」と語られていますが、後述のとおり美術の分野で一般的に普及している客と作品との間を媒介(通訳)するキュレーターのような存在が前衛音楽にも必要ではないかと感じます。クラシック音楽(調性音楽)では音楽を創作する側の「伝える」と音楽を受容する側の「伝わる」との間の相互往還があり、日常会話と同様に正しく理解できているかは別として「伝わる」という状態(漠然と理解できた状態や理解できたと誤解している状態等を含む)に至ってコミュニケーションが成立し、そこに共感(約束された娯楽や癒し等)を形成するという一連のプロセスがあると思います。この点、英語のクロスワードパズルを理解するためには日本語の小説とは自ずと異なるコミュニケーションの有り様とそれに応じた「伝わる」という状態(但し「伝わらない」ことが全く無益であるのかは別論)について、音楽を受容する側が認識を広げることが第一歩ではないかと感じます。もともと日本の伝統音楽は、音程や音色が不安定で調性音楽(クラシック音楽の調性システムに基づく音楽)のような調性感はなく、リズムも精妙で複雑なものが多いなど前衛的な性格が色濃いものでしたが、明治維新後の近代化政策によって調性音楽のみを義務教育で扱うようになり(2002年から義務教育で和楽器を教えるようになりましたが、現状、和楽器を使用した曲でも日本の伝統音楽の言葉や文法等ではなくクラシック音楽の言葉や文法等を使って創作された作品が多いのが現状で)、長年に亘って、義務教育及び日常生活で調性音楽のみを学び(即ち、クラシック音楽等の調性音楽の抽象表現を理解する素養を身に着けるための教育的な機会は与えられてきましたが、日本の伝統音楽等の前衛的な音楽を理解する素養を身に着けるための教育的な機会は与えられず)、これに慣れ親しんできたこと(即ち、日本では明治維新を契機として前近代的であるという理由から事実上前衛的な性格を有する日本の伝統音楽の殆どが事実上折衷というより破棄に近い状態に置かれてきたこと、西洋ではルネサンスを契機としてキリスト教的な価値観である神聖性(精神、理性)からギリシャ神話的な価値観である人間性(肉体、本能)を回復するために教会旋法を破棄して調性音楽を導入したこと)が原因として挙げられます。よって、(最新の脳科学の研究に照らして同じような結論に達し得るのかは分かりませんが、その観点からの整理は次回に回すとして)前衛音楽を理解するためには意識的に前衛音楽を学ぶ機会を設け、これに慣れ親しむ自助努力が必要ではないかと感じます。そのためには、例えば、英語のクロスワードパズルを理解するためのコミュニケーションの有り様を認識する必要があり、「調性音楽の義務教育」に相当するものを補うために作曲者による解説やキュレーターによる媒介は必要的又は有効ですし、これに慣れ親しむためには先述したとおりジャスチャー等の助けを借りて前衛音楽に慣れ親しみながら自学自習すること(今回のブログは前衛音楽の代表的な作曲技法の意義を社会の変容との関係性の中で整理して前衛音楽のアプローチの仕方の1つの手掛りを模索し、調性音楽における感情表現への共感に代り得る何かを見出だしたかったというのが趣旨)など地道な方法しかないと感じています。また、最近では、調性音楽への回帰など音楽を受容する側にとって認識し易いコミュニケーションの有り様を採り入れて音楽を受容する側の現状に歩み寄る創作が増えているようです。個人的には「〇〇音楽」というカテゴリーに狭く閉じ籠るのではなく、そのフィールドをシームレスに広げて社会の変容をキャッチアップして(もって自分の世界も広げて)行けるような柔軟性を身に着けたいと心掛けている最近です。なお、先程、美術の分野ではキュレーターが普及していると申し上げましたが、音楽の分野でも、例えば、音楽を聴く行為と身体の関係について研究されている堀内彩虹さん(東京大学大学院後期博士課程、2017年柴田南雄音楽賞受賞)が最新の研究成果を踏まえて現代音楽のアプローチの仕方を指南する体験型ワークショップの開催を企画されており(クラウドファンディングに挑戦中)、また、NHK-FMで作曲家の西村朗さんが現代音楽を分かり易く解説しながら紹介するラジオ番組「現代の音楽」(日曜AM8:10~)を放送されており、現代音楽について何を又はどのように聴いたら良いのか分からないという方にとっては絶好の水先案内人となっています。鑑賞の世界を過去から現在、未来へと拡げてみませんか? 

黄昏の調べ: 現代音楽の行方

黄昏の調べ: 現代音楽の行方

▼現代音楽史の俯瞰(社会を映す鏡としての音楽)

 

【おまけ】

最近は著作権保護が厳しく、ブログに貼り付けられる動画も限られてきます。著作物は頒布(使用)されてその価値を生むものなので、著作権を保護するために著作物の頒布(使用)を制限するのは「正解」とは言い難く、その頒布(使用)にあたって適正な対価が著作権者に支払われる仕組みを考えて、寧ろ、どのようにすれば著作物の頒布(使用)が促進されるのかという方向で知恵が絞られるべきではないかと思います。著作物の頒布(使用)を制限することで事足れりとする現代の風潮が残念でなりません。

♬ 加古隆作曲「パリは燃えているか」(映像の世紀プレミアムのテーマ曲)

この曲を聴きながら産業革命に端を発する激動の近現代史は僅か100年間に繰り広げられた歴史なのだと思うと感慨深くも、これから生じ得る時代の変化の激しさを思うと恐ろしくも感じられます。2019年1月31日(水)にNHKスペシャル「映像の世紀コンサート」が開催されますので、ご興味のある方はいかが。


加古隆クァルテット『パリは燃えているか [Takashi Kako Quartet / Is Paris Burning]』

♬ シェーンベルク作曲「浄夜」(弦楽合奏版)

未だ調性感が残されているシェーンベルクの初期作品ですが、「クラシック音楽」(中世の調性音楽)の終焉を告げる音楽の1つとして採り上げておきます。なお、画像中央のチェック柄のワンピースを着ている女性はヒラリー・ハーンです。


Arnold Schoenberg "Verklarte Nacht" (Transfigured Night) Op. 4 for String Orchestra 

♬ シェーンベルク作曲「弦楽三重奏曲」

シェーンベルクが十二音技法を考案(発明)して「クラシック音楽」(中世の調性音楽)から「前衛音楽」(近代の無調音楽)へと羽搏きますが、その傑作品の1つを採り上げておきます。十二音技法が考案(開発)されてから約100年が経過しておりその間の現代音楽の目まぐるしい変容を顧みると、最早、十二音技法はコンテンポラリーではなく古典的な風情を湛えていると言えるかもしれません。


Trio Arkel, Die Forelle Concert, Schoenberg String Trio Op 45

  【今日のイチオシ】

エリス・マルサリス国際ジャズ・ピアノ・コンペティション第2位及び最優秀作曲賞を受賞し、また、ボストンミュージックアワード2018のジャズ・アーティスト・オブ・イヤー部門にノミネートされたジャズピアニスト・山崎梨奈さん(バークリー音大卒)の演奏をどうぞ。いま最も注目される若手ジャズピアニストの1人です...らぶ💖2019年2月11日(月祝)及び2月13日(水)山崎梨奈トリオとして凱旋ライブが開催されますので、これは聴き逃せません。


Rina Yamazaki- Cherokee