大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用、拡散などは固くお断りします。※※

ヤポネシアの耳と無料ライブ配信「ニコニコ東京交響楽団」(名曲全集第197回)とコンポージアム2024「マーク=アンソニー・ターネジの音楽」と2024年度武満徹作曲賞本選演奏会と日本人を枯れすすきにしてしまう世間とは?<STOP WAR IN UKRAINE>

▼日本人を枯れすすきにしてしまう世間とは?(ブログの枕短編)
あまり時間がありませんので軽く与太話で済ませたいと思います。昭和の名曲「昭和枯れすすき」の「貧しさに負けた、いえ世間に負けた・・・幸せなんて望まぬが、人並みでいたい・・・世間の風の冷たさに、こみあげる涙・・・」という歌詞には、メランコリー親和型気質が強い日本人のメンタリティーが色濃く映し出されていると言われています。この点、先日、「世界幸福度ランキング2024」が公表され、日本は昨年の47位から51位へとランクダウンしましたが、とりわけ30歳以下の若年層の世界幸福度ランキングが73位と低迷しており最近の若年層の海外流失を裏付けるデータになっています。これを見る限り、日本人のメンタリティーは昭和の時代と大きく変わっていないと言えるかもしれません。過去のブログ記事で日本は世界人助け指数の総合ランキングで142ケ国中139位と低迷している背景として、明治維新や高度経済成長などにより日本の共助の基盤となっていた「世間」が急速に崩壊してこれに代わる文化や制度などが育まれないまま自助を前提とする「社会」へ移行したことが社会課題となって表面化していることに触れましたが、日本人のナラティブをハッキングして枯れすすきにしてしまうほど強力に日本人の意識を捉えてきた「世間」とは一体何なのかについて簡単に触れてみたいと思います。
 
▼世間
もともと「世間」という言葉は仏教用語で「器世界」(山川草木国土)の中に存在する心を持つ有情(衆生)の集合体を「有情(衆生)世間」と呼んで無常な世の中を意味していました。その後、「世間」という言葉の世俗化が進んで人間関係を意味するようになり、やがて上述のとおり明治維新や高度経済成長などにより「世間」が破壊して「社会」へと移行しました。
 
〇仏教経典「雑阿含経」(第1175経)
「世尊告諸比丘、若於世間愛喜味者、則於世間受樂、彼於世間受樂者、則於世間生死往還。」(もし世間に対して愛着を持ち、その味わいを喜ぶならば、その者は世間において楽しみを受けるであろう。その者が世間において楽しみを受けるならば、その者は世間において生死を繰り返すことになるであろう。)
 
〇和歌集「万葉集」(貧窮問答歌/山上憶良)
世間を 憂しとやさしと 思えども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば」
 
〇浮世草子「世間胸算用」1巻(井原西鶴)
世間はむつかしい事のみ多く、ままならぬ事ばかりなり。」
 
〇小説「野分」(夏目漱石)
文学者・白井道也先生が田舎をいびり出されて東京へ出てきた際に俗世を痛烈に批判する台詞として「渡る世間に鬼はないと云うから、同情は正しき所、高き所、物の理窟のよく分かる所に聚ると早合点して、この年月を今度こそ、今度こそ、と経験の足らぬ吾身に、待ち受けたのは生涯の誤りである。世はわが思うほどに高尚なものではない、鑑識のあるものでもない。同情とは強きもの、富めるものにのみ随がう影にほかならぬ。」
 
「世間」という言葉は1200年以上前から日本に存在しており、日本最古の和歌集「万葉集」などにも使用されていますが、凡そ、人間関係という意味を持っています。その後、1877年頃に英語「Society」の訳語として(その語感から「世間」は不適切と判断されて)「社会」という言葉が作られており、これに続いて1884年頃に英語「Individual」の訳語として「個人」、また、1886年頃に英語「Right」の訳語として「権利」という言葉が作られています。「個人」とはこれ以上分割できない構成要素を意味し、また、その「個人」が集合して「社会」を構成し、その「個人」は「権利」を有するという考え方がヨーロッパから輸入されましたが、これらの概念(言葉)は江戸時代まで日本には存在していませんでした。これ以降、日本には「世間」(常識により規律される具体的な人間関係)と「社会」(法律により規律される抽象的な人間関係)から構成される二重構造の世界が誕生しました。その一方で、ヨーロッパでは11~12世紀頃まで「世間」が存在していましたが、キリスト教(一神教)の布教に伴って「告解」(懺悔)という宗教儀式が浸透したことにより世間との横のつながりよりも神(教会)との縦のつながりが重視されるようになり(世間の排除)、人々は告解(自分の心の内を神に告白すること)を通して自らの内面から生まれる自我を強く意識するようになりました(個人の誕生)。また、人々は神との約束(束を認めたものが旧約聖書、しい束を認めたものが新約聖書)に従って自らを規律するようになり、それが法のルール(見えるルール)によって規律される社会を形成する素地になりました。このように日本では村の鎮守に象徴される多神教を背景として村の横のつながりが重視され、村に迷惑をかけない振る舞いに価値を置いて常識のルール(見えないルール、俗に外国人から忍者の腹芸と呼ばれるもの)によって規律される世間を発達させました。このため、日本人は自らの意志で振る舞う「為す」文化よりも世間の顔色を伺いながら世間の意向に沿うように振る舞う「成る」文化(自ら何も決めずに様子を見ながら世間の成り行きに任せる特徴的な傾向のことで、例えば、日本企業で稟議書にズラズラと複数人のハンコを並べたがるのは世間の意向擬きを演出したいという深層心理の現れ)を発達させました。よって、世間に生きる人々は個人のナラティブを生きてきたというよりも、世間のナラティブ(人生のレール)に同期しながら世間における自らの役割を果たす生き方に馴染んできたため、目上・目下、先輩・後輩などの世間における序列が非常に重要な要素になり、例えば、英語では社会の抽象的な人間関係を示す「You」しかないところ、日本語では「貴殿」「あなた」「お前」などの様々なニュアンスを孕んだ言葉が生まれました。その意味で、世間は個人を権利や人権の主体として捉えるのではなく世間における役割の主体として捉える傾向が強く、個人の権利や人権を超えた権力を備える日本社会に独特の力学を体現するものと言えますが、多様性の時代と言われる現代には、これがハラスメント(世間と社会の衝突、即ち、世間の権力が個人(社会)の権利や人権を蔑ろにする現象)に姿に変えて顕在化していると言えるかもしれません。そう言えば、先日、某町長が「育休を1年取ったら殺すぞ」という趣旨の発言をしたことなどに端を発して辞任に追い込まれたという教科書事例のようなニュースがありましたが、これは世間のルール(他人に迷惑をかけないという世間の常識)を信奉する人が法のルール(権利、人権)を顧みようとしない典型的なケースと言え、また、古い体質の組織(終身雇用制度を事実上の前提として組織内の世間が残されている旧態依然とした体質など)は世間のルールを信奉する人を擁護したいという根強いマインドがあることから、未だにハラスメントに適切に対応できないケースも発生しています。上述のような違いを背景として、具体的な人間関係を前提とする「世間の目」「世間体」「世間に顔向け出来ない」という言葉が生まれ(それ故に「社会の目」「社会体」「社会に顔向けできない」という言葉はなく)、また、抽象的な人間関係を前提とする「社会基盤」「社会変革」「社会奉仕」という言葉が生まれた(それ故に「世間基盤」「世間変革」「世間奉仕」という言葉はない)ものと思われます。上述のとおり日本が世界人助け指数の寄付ランキングで142ケ国中139位と低迷しているのは日本の共助の基盤となっていた「世間」が急速に崩壊するなかでヨーロッパのような「公共」の意識が育まれなかったことが原因の1つと言われていますが、日本人には世間の「ウチ」(身内)と「ソト」(他人)の意識しかなく、世間の目があるウチでは世間体を気にして慎みますが、世間の目がないソトには関心が薄く「旅の恥はかき捨て」に象徴されるような変節になって表れます。これに対し、ヨーロッパでは上述のとおりキリスト教の布教などの影響から早くから「世間」が崩壊して法のルール(神の法が転じて人の法)によって規律される「社会」を形成するようになり、ここでは詳しくは触れませんが、王(国家)が神の法に背く専横を監視するために王(国家)に対抗する概念として「公共」の意識(ソトへの高い関心)が芽生えたと言われており、ヨーロッパにおいて寄付、ボランティアやデモ(公共としての働き掛け)などが多いのは、このためではないかと考えられます。最近、日本でネット世間という言葉が使われるようになりましたが、ネットの匿名性が世間の目を強化する効果を生み、ネットでの横のつながりが個人の自由を拡大する方向ではなく、キッズ(誹謗中傷)、KS(村八分)や炎上(魔女狩り)などの世間の悪い面(福沢諭吉が著書「学問のすすめ」で説いている世間論)を増幅する弊害を生んでいることが指摘されており、ネット世間に自らのナラティブをハッキングされ、そのネット世間から自らを否定的に扱われることで、自らの存在意義を見失い自殺するという悲劇まで生まれています。世間は浮世とも言われるとおり、所詮は仮初の世の人間の営み(芸術を含む)に過ぎず、そのようなものにどのような理屈をつけてみても大した意味などあるはずもなく(仏教用語として持っていた世間の本来的な意味)、現代にあっては、ネット世間に枯れすすきにされてしまう前に、人生を達観した鴨長明のようにネット世間を棄てる勇気、ネット世間を持たない分別も必要なのかもしれません。このように何の価値もないことを並べ立て無駄な時を過ごしているのは、ただ一心に「遊びをせんとや生まれけむ」(梁塵秘抄)という取るに足らない本性から出たものでございます。お粗末さま💖
 
▼鴨長明の随筆「方丈記」
「佛の人を教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。いま草の庵を愛するも科とす。閑寂に著するも障りなるべし。いかが用なき樂しみを述べて、空しくあたら時を過さむ。」
(意訳)仏の教えは何事にも執着心を持つなということだが、こうして草庵の暮しを愛する気持ちも一つの執着心の現れである。仏の世界から見れば何の価値もない楽しみを並べ立て無駄な時を過したものだ。
 
▼世間と社会の違い
構造 宗教 単位 価値 規律 意識
公共 互助
世間 多神教 地域 栄誉 常識に基づく評判 なし 地域意識(具体的な人間関係)に基づく共助
社会 一神教 個人 権利 法律に基づく裁判 あり 公共意識(抽象的な人間関係)に基づく寄付
 
▼ヤポネシアの耳~邦楽器をめぐる6つの邂逅
【演題】ヤポネシアの耳~邦楽器をめぐる6つの邂逅
【演目】①渡邉杏花里 Radiant Mosaicscape
     <笙>カニササレアヤコ
     <Tp>藤田サーレム
     <Cb>布施砂丘彦
    ②浦山翔太 艶
     <fl、afl>菊地奏絵
     <Vc>瀧川桃可
     <筝>吉越大誠
    ③和田遥人 水縹ノ刻
     <尺八>吉越瑛山
     <篠笛>山本一心
     <映像>荒木敬盛、斎藤愛生、 和田匠平
    ④橋本朗花 鶯音を入る
     <筝>吉越大誠
     <Pf、Syn>橋本朗花
    ⑤佐藤伸輝 Asian Music Guide
     <筝>鹿野竜靖
    ⑥江田士恩 燃ゆる命の十景
     <笙>カニササレアヤコ
     <Vn>青山暖
     <日本舞踊>花柳禮志月
【日時】2024年5月16日 19:00~
【会場】渋谷区文化総合センター 伝承ホール
【一言感想】
今日は東京藝術大学作曲科の学生が「西洋の音楽がもたらされる前、かつて日本列島(=ヤポネシア)に偏在していた邦楽器の音」に着目して「邦楽器の今日的な楽しみ方をそれぞれ提示」することをコンセプトとする「ヤポネシアの耳~邦楽器をめぐる6つの邂逅~」と題する演奏会を聴きに行きましたので、それぞれの曲について一言づつ簡単な感想を残しておきたいと思います。ヤポネシアという言葉は作家・島尾敏雄さんが提唱したラテン語の「ヤポニア」(日本)+「ネシア」(島々)を組み合わせた造語で、現在ではヤポネシアゲノムという学術用語としても使用され、主にアイヌ人などが居住していた北部(樺太、千島列島・北海道)、主にヤマト人などが居住していた中央部(本州、四国、九州とその周りの島々)、主にオキナワ人などが居住していた南部(西南諸島)に日本列島を3区分して約4万年前に日本列島に渡来した人々の起源や発展の歴史をゲノム解析により明らかにする研究が行われています。かつてセンチメンタリズムから日本は単一民族国家であると主張していた人達がいましたが、科学的には日本は多民族国家と認識されており、これが日本政府の公式な見解として採用されています。なお、今回は第1回ということで主にヤマト人を中心にして発達してきた邦楽器に着目していたようですが、「ヤポネシアの耳」をコンセプトにするのであれば、是非、第2回以降はアイヌ人やオキナワ人などが使っていた楽器や音楽語法(その源流となる楽器や音楽語法を含む)などにも焦点をあてた野心的な企画も期待したいです。本日の演目を概観して、芸術の分野に限らず、あらゆる分野に言えることですが、これからの時代はアナログ(アコースティック)の世界に安住しているだけでは足りず、デジタル(エレクトロニクス)を上手く採り込んで活用できるジャンルレスな創造的知性が求められており、その意味でも柔軟な感性を持った若い才能に期待したいです。
 
①渡邉杏花里 Radiant Mosaicscape
パンフレットの解説から抜粋引用すると「ビットマップ画像・・(中略)・・を拡大すれば色の点が並んでいる様子をノイズとして見ることができる。さらに拡大していくと、画面には数色の四角だけが映る。もっと拡大すると単一の色のみとなる。・・(中略)・・この、ミクロがマクロになる過程を曲の形式として落とし込んだ。」とのことですが、超指向性スピーカーを使った三次元的な音響空間(パンフレットには記載されていませんが、エレクトロニクスを使用)を演出するインスタレーション作品のようでもあり、もはや「ヤポネシアの耳」と形容するのが適当なのかと思われるような革新的な作品に挑発されました。冒頭は超指向性スピーカーを使ってエレクトロニクス(ノイズ)が会場を縦横無尽に駆け巡りますが、やがてトランペット(主に旋律)、笙(和音)、チェロ(主にリズム)が色の点を変化させて行く様子が音楽的に表現されていました。ビットマップ画像のデジタルな世界を表現した作品ですが、ノイズ(自然音)から旋律、和音、リズム(楽音)が生まれ、それらが拡大や縮小など変化を繰り返しながら音楽的な文脈(世界観)を表現しているようにも感じられ、音楽の始原に思いを馳せながら大変に興味深く拝聴しました。
 
②浦山翔太 艶
パンフレットの解説から抜粋引用すると「自身、あるいは人類に共通する負の感情を主題に作曲した。・・(中略)・・西洋における悪魔的な表現よりも日本特有の「湿度」を帯びた表現を心がけた。 ・・(中略)・・内に閉じた作品であり、共感を得ることは難しいかもしれないが自らの精神の縮図をこの場で提示したい。」とのことですが、冒頭からチェロが深い重音を奏でるなか、箏の艶っぽい音色、フルートの生温かい音色により、「負の感情」「艶」「湿度」のような肌触り感が陰鬱と立ち込め、箏のスリ爪による深く切り込むエッジの効いた響きやチェロと箏の激しく呼応する緊張感の高いアンサンブルなど複雑に入り乱れる心中が生々しく表現されているような印象を受けました。フルート、チェロ、箏という特殊編成のアンサンブルでしたが、杉浦さんはヘヴィー・メタルを中心とするロック・ミュージックに傾倒していた経験があるためなのか、非常に着想が豊かで様々な特殊奏法も組み合わせながらフルートと箏、チェロと箏のアンサンブルの表現可能性を追求する実験的かつ意欲的な作品に感じられ、個人的な音楽的趣味にあっていたこともあり、音楽的な完成度が高いセンスの良い作品に感じられましたので、今後の活躍が非常に楽しみです。
 
③和田遥人 水縹ノ刻
パンフレットの解説から抜粋引用すると「・・・水縹色から着想を得て今回曲を作った。一滴の水が落ち、集まり大量の水となる。それが川になり、海になる。そしてそれが蒸発し、また一滴の水となる。・・(中略)・・その中には様々な物語がある。その物語の中にある自然の音や水の流れを表すフレーズを沢山採り入れている。」とのことですが、音楽から着想を得た映像(「水をはじめとした自然の風景をモチーフに描かれる・・(中略)・・ドローイングと描画行為を記録」)が投影されました。過去のブログ記事でも触れたとおり、地球上の水は蒸発と降水を繰り返しながら河川水は約10日間、海洋水は約4000年間で全て入れ替わると言われています。昔から「流れる水は腐らない」と言われますが、これは心にも同じことが言え、禅語「放下著」という考え方に極まっています。会場のスクリーンには水辺の雑木林を散策し、気ままにドローイングする人の姿が映し出されましたが、篠笛の透き通るような音は水縹色を体現しているようであり、尺八のユリは淀みなく流れる水を体現しているようであり、それらは時に風の音(水の大気循環)のようにも聴こえ、時に息の音(水が育む生命)のようにも聴こえ、非常に感慨深い鑑賞になりました。
 
④橋本朗花 鶯音を入る
パンフレットの解説から抜粋引用すると「「鶯音を入る」とは晩夏の季語で、この曲では声が出なくなる寸前の掠れた鳴き声や心情を表現しています。・・(中略)・・老いは止められない、その事実を受け入れて自分の人生にもっと夢中になるべきだと己に叩き込むべく、このテーマを選びました。」とのことですが、橋本さんがMCで様々な禁則を犯して自分の殻を破ることを試みたという趣旨のことを語られていたとおり、橋本さんの花のような朗らかさの中に秘めるパトス(秘花)が炸裂するような作品でした。パンフレットに記載されていませんが、橋本さんがエレクトロニクスとピアノ、吉越さんがオカリナ(?)と筝を演奏しましたが、冒頭ではジャングルの中の野生動物の鳴き声を描写したような野性味溢れる演奏が展開され、エレクトロニクスとオカリナ(?)、ピアノと箏の組合せで交互にアンンブルが展開され、詞章が聴き取れなかったので謡曲又は誓願なのかよく分かりませんでしたが、吉越さんが世の儚さ又は祈りのようなものを謡いました。最後は箏の柱が吹き飛んでしまうほどピアノと箏が激しく激突する終曲となりましたが、これは橋本さんの決意表明の現れでしょうか、「音を入る」どころか「音を放つ」オテンバ振りに惚れ惚れしました。
 
⑤佐藤伸輝 Asian Music Guide
パンフレットの解説から抜粋引用すると「私は日本で生まれ、その後、中国に渡り、小学校と中学校で中国人として育てられた。・・(中略)・・日本に帰国した後、メディアでは中国のビル崩壊やエレベーターのショッキング映像が絶好のコンテンツとして消費されるのを見た。」ことに着想を得て作曲したとのことです。会場のスクリーンには中国のビル崩壊やエレベーターのショッキング映像などが映し出されましたが、日本人が抱いている中国に対するイメージ(認知バイアス)をデフォルメして笑いに変えてしまうセンスの良さが感じられ、映像と音楽が一体になって小気味よいテンポで捲し立てる捧腹絶倒にして確信犯的な作品に魅せられました。久しぶりに笑いました。スピーチ・メロディの手法でしょうか「ワハハハ」という笑い声と箏を違和感なく同期させていましたが、サブカル系現代音楽の旗手として山根さん、梅本さんに双璧する才能とセンスを持った逸材と思われ、今後の活躍に注目して行きたいと思っています。なお、ここまでデフォルメしてしまえばあまり嫌味には感じられないと思いますので、是非、第2回目ではAsian Music Guideの第2作目として日本をイジクリ倒したような作品にも期待したいと思っています。
 
⑥江田士恩 燃ゆる命の十景
パンフレットの解説から抜粋引用すると「手塚治虫の漫画「火の鳥」から着想をえました。・・(中略)・・笙は・・(中略)・・11種類の合竹と呼ばれる和音のみで演奏され・・(中略)・・それぞれ人生の特定のある場面を象徴するものとみなします。そしてこれらの場面を「火の鳥」のごとく振り子状に並べ替えることにより「誕生→死→幼年期→老い→青年期→家族愛→ロマンス→栄華→哀しみ→希望→現在」という場面のつながりを持った物語を作りました。」とのことですが、江田さんの英語表記であるE(ミ)・D(レ)・A(ラ)をモチーフとして作品の中で展開しているそうです。笙が和音を奏でると、その和音に対応した場面(ライフイベント)が羽衣(白の羽衣:生へ遡る過去、黒の羽衣:死へ向う未来)と扇子を使った日本舞踊で演じられ、ヴァイオリンの合図で場面展開していきました。宇宙の悠久の時を刻む笙の音と浮世の有限の時を彩る羽衣と扇子を使った日本舞踊が交錯する幻想的な舞台が広がり、これにヴァイオリンが叙情的な演奏で色(五蘊)を添える優美な舞台を楽しむことができました。最後に白い羽衣と黒い羽衣が重なり合って「現在」(有情世間)に生を感じ、死を想う無常感が漂う余韻深い終曲になりました。
 
 
▼ニコニコ東京交響楽団 名曲全集第197回
【演題】ニコニコ東京交響楽団
    名曲全集第197回
【演目】①ベルリオーズ 交響曲「イタリアのハロルド」
     <Va>青木篤子
    ②酒井健治 ヴィオラ協奏曲「ヒストリア」
     <Va>サオ・スレーズ・ラリヴィエール
    ③イベール 交響組曲「寄港地」
【演奏】<Cond>ジョナサン・ノット
    <Orch>東京交響楽団
【日時】2024年5月18日 14:00~ 
【会場】無料ライブ配信(ミューザ川崎シンフォニーホール)
【一言感想】
今を時めく現代作曲家・酒井健治さんのヴィオラ協奏曲「ヒストリア」が再演されるというので、無料ライブ配信「ニコニコ東京交響楽団」を視聴することにしました。この無料ライブ配信はコロナ禍を契機として2020年から東京交響楽団が開催している企画で、何と!定期演奏会を含む計10公演が無料ライブ配信されてしまうという他では類例を見ない太っ腹な企画ですが、もはや「試供品」のレベルを超えて「一物二価」と言い得る状況に驚きを禁じ得ません。この点、オンライン配信が生演奏と比べて遜色があるのか否かは個人の感じ方の問題であって、老婆心ながら、無料ライブ配信される演奏会の有料チケットの販売に影響は出ていないものなのか心配になります(知る限り無料ライブ配信では企業CMなども流れていません)。最近は演奏会から半年も経過しないうちにインターネットで演奏会の模様を収録した動画を無料で公開する風潮などもあるようですが、これは「撒き餌」(宣伝)としては有効な手段であるとしても、やはり有料チケットを購入する顧客が漸減(マーケット崩壊)しないのか、演奏会場も映画館のようになってしまわないのか懸念を覚えます。尤も、撒き餌を撒かなければ魚が集まらない、撒き餌を撒き過ぎれば魚は腹を満たしてしまう、いずれにしても魚が釣れない苦境を打開するための窮余の一策なのだろうとは思います。オンライン配信はデジタル田園都市国家構想を見据えた新しい芸術受容のあり方として必要的かつ有用なものだと思いますが、これも適正な対価を見込んで健全なマーケットとして育成して行かなければサスティナブルとは言えず、そのうち「令和枯れすすき」になってしまうような気もしています。....とは言え、何でも値上がる時代に素直に遊興費の節約に資する有難い企画だというのも本音です。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
---追記
 
演奏会場は空席が目立っていましたが(ミューザー川崎シンフォニーホールは約2000席)、無料ライブ配信の視聴者数は前半(①)が約3000人、後半が約5000人(②③)にのぼり興行性は別論にして盛会でした。ライブ配信の視聴者数が多いのは演奏家のモチベーションになるのかもしれませんが、アマオケ(趣味)ではないので健全なマーケットとして育成する観点からは無料ライブ配信「ニコニコ東京交響楽団」の一部公演を有料ライブ配信にしてみるなどの試行的な取組みも必要かもしれません。
 
①交響曲「イタリアのハロルド」
この曲はN.パガニーニがヴィオラの名器(ストラド)を手に入れたことからヴィオラ協奏曲の作曲をH.ベルリオーズに委嘱したことで誕生しましたが、N.パガニーニが独奏パートのヴィルトゥオージの不足など筆致が及んでいないことに落胆したので他のソリストにより初演されたという曰く付きの作品です。その後、H.ベルリオーズがヴィオラ独奏付き交響曲に改作し、これを鑑賞したN.パガニーニに賞賛されたという逸話が残されていますが、その信憑性には疑問が残されています。.....ということで、この曲は協奏曲から交響曲に改作された経緯もあり、個人的には、ヴィオラ独奏の位置付けが曖昧でオーケストラに埋没し兼ねない中途半端な印象を否めない作品に感じられますが、今日はソリストの青木さんがヴィオラ・トゥッティの前面(オーケストラは対向配置で、コンマスからソリストが見え難い指揮者の右側という珍しい配置)で演奏し、かつ、J.ノットさんがヴィオラ独奏とオーケストラのバランスに配慮した抑制を効かせた指揮に努められたことで、この難点を感じさない演奏を楽しむことができました。第一楽章はコントラバスと木管楽器が奏でるメランコリックな雰囲気を金管楽器が一掃すると、青木さんが大らかな歌い口でハロルドの主題を奏で始め、これにハープが光沢感のある響きで呼応して明るく牧歌的な雰囲気が支配的になり、ハロルドの複雑な心情の移り変わりが明瞭に表現されていました。パガニーニの言うとおりヴィルトゥオーソ的な華やかさはありませんが、独奏ヴィオラとオーケストラが軽快なリズム感で呼応するアレグロ主部などは独奏ヴィオラが映える聴き所になっていました。第二楽章はJ.ノットさんがオーケストラからデリケートな響きを紡ぎ出し、独奏ヴィオラとバランスする洗練されたアンサンブルを楽しめました。第三楽章は独奏ヴィオラの存在感が薄れてオーケストラの伴奏に回るなか、ピッコロ、オーボエやクラリネットなどがアルブッチ地方の民謡をモチーフとした舞曲風のリズムを華やかに乱舞する好演を楽しめました。第四楽章はベートーヴェンの交響曲第9番第4楽章(神、王や英雄の世界から市民の世界へ)をパロって、第一楽章から第三楽章を回想しては山賊たちの乱痴気騒ぎ(歓喜の歌)に飲み込まれますが、J.ノットさんの統率力のある指揮と東響の機動力が相俟ってメリハリのある快活な演奏を楽しめました。
 
②ヴィオラ協奏曲「ヒストリア」
ヴラヴィー!パンフレットの解説には「独奏楽器がタイムマシーンの様に音楽史を巡る旅」をしながら「多様な音楽語法が時代を超え交差」(語法面)し、「協奏曲がもつ独奏楽器と伴奏という古典的な図式に留まらない、そこから演繹される表現の可能性を追求」(様式面)した旨が記載されていました。このうち、語法面では「単純な和声から騒音的な表現へと漸化する様や微分音を含む自然倍音に基づいた平均律で構成されない和声」などが参照され、また、様式面では「独奏から楽想が染み出し次第にオーケストラに波及する様は、先述の独奏と伴奏という関係性から脱却」など協奏曲の表現可能性の拡張が試みられています。ベルリオーズの作品は独奏ヴィオラにスポットライトが当たらず華のない印象しかありませんが、これと比較すると、酒井さんの作品はヴィオラの独奏楽器としての魅力を存分に引き出し、その表現可能性を拓く革新性に満ちた魅力が感じられ、今後、ヴィオラ奏者にとって重要なレパートナリーの1つになり得る充実した作品に感じられました。また、ソリストのサオ・スレーズ・ラリヴィエールさんはテンションの高い閃きに満ちた快演で会場を圧倒していましたが、1音も疎かにしない細部まで配慮が行き届いた精巧さをも感じさせる相当な腕達者です。この点、既に様々な解釈や奏法などが試みられ、偉大な巨匠による模範的な名演奏が残されているクラシック音楽と異なって、現代音楽では演奏者が作品の魅力を引き出す分析力・洞察力やその魅力を観客に伝える技術力・表現力など演奏者の技量とセンスがその演奏の成否を大きく左右する要素が多いと思います。その意味でも、今回、サオ・スレーズ・ラリヴィエールさんをソリストに迎えられたことは、この作品にとって幸運な出会いであったと言えるのではないかと思います。日頃は内声を担当する地味な存在のヴィオラですが、この作品では垢ぬけたヴィオラの晴れ姿とでも形容したくなるような別の一面を惜しげもなく曝け出している印象で、ヴィオラ独奏が多彩な技巧や音色を駆使しながらオーケストラをリードし、ヴィオラ独奏とオーケストラが有機的に絡み合いながら緊密に呼応する緻密なアンサンブルを楽しめました。規格外の破壊力でアンサンブルを引き締めるパーカッション、独特な存在感を漂わせるコールアングレや梵音具「磬子」(因みに、梵音具「鐃鈸」はシンバルのルーツ、梵音具「木魚」はウッドブロックのルーツと言われていますが、梵音具は西洋音楽と親和的です)などが個性的に音楽を彩る着想の豊かさが随所に感じられて飽きさせず、その明瞭な音楽性が観客を強力に惹き込む吸引力を生んでいる作品に感じられました。このような面白い作品を創作する酒井さんから今後も耳が離せません。次の時代の定番になり得る作品だと思いますので、再演が待ち望まれます。アンコールはヒンデミットの無伴奏ヴィオラソナタ第四楽章でしたが、冴え映えとした技巧と熱く漲るパトスで容赦なく迫ってくるグルーブ感のある演奏に興奮させられました。ジャンルレスな懐の広さを感じさせるヴィオリストです。
 
③交響組曲「寄港地」
この曲はJ.イベールがローマ賞受賞に伴うローマ留学中に作曲した出世作で新婚旅行で訪れた地中海岸(ローマ~バレルモ~チュニス~ネフタ~バレンシア)の景色を描いたものです。J.ノットさんによる音楽的なイメージを適確に伝える明晰なアプローチと、海の情景を美しく描き出す弦楽器のアルペジオ、フルートとハープ、南国の喧騒を快活に描き出すトランペットとオーケストラ、異国情緒を薫らせるオーボエ、地中海の眩い陽光を思わせる光沢感のある管楽器などの好パフォーマンスとが相俟って、風情豊かで多彩な曲調を楽しむことができました。
 
 
▼コンポージアム2024「マーク=アンソニー・ターネジの音楽」
【演題】コンポージアム2024「マーク=アンソニー・ターネジを迎えて」
【演目】①ストラヴィンスキー 管楽器のシンフォニー(1920年版)
    ②シベリウス(ストラヴィンスキー編) カンツォネッタ
    ③ターネジ 
        ラスト・ソング・フォー・オリー(2018年/日本初演)
    ④ターネジ ビーコンズ(2023年/日本初演)
    ⑤ターネジ リメンバリング(2014年-2015年/日本初演)
【演奏】<Cond>ポール・ダニエル
    <Orch>東京都交響楽団
【日時】2024年5月22日 19:00~ 
【会場】東京オペラシティコンサートホール
【一言感想】
日本でもフランシス・ベーコンによる大オーケストラのための「3人の絶叫する教皇」などで知られ、今年の武満徹音楽賞の審査員を務める現代作曲家のマーク=アンソニー・ターネジさんに焦点を当てた演奏会が開催されるというので聴きに行く予定にしています。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
---追記
 
イギリス人現代作曲家のM.ターネジさんはジャズの要素をクラシック音楽(現代音楽を含む)に採り入れたシンフォニック・ジャズの系譜を受け継ぐ第一人者として知られています。二度の世界大戦で伝統的な社会秩序が崩壊した後、①伝統的な社会秩序に依拠しない新しい社会秩序を模索する潮流(新しい作曲技法を開発して無調音楽を基調とする表現可能性の拡張を模索するヨーロッパの前衛音楽、これに加えてヨーロッパ的なものにも依拠しないアメリカの実験音楽)と、②伝統的な社会秩序を参照しながら新しい社会秩序を模索する潮流(民族音楽の要素などを採り入れた調性音楽を基調とする表現可能性の拡張を模索した新古典主義など)が生まれましたが、M.ターネジさんは前者の潮流を回収しながら後者の潮流を受け継ぐ現代作曲家ではないかと個人的には理解しています。M.ターネジさんは10代後半からジャズに傾倒し、G.シュラーさん(1957年にジャズとクラシック音楽の中間に位置する新しい音楽を提唱)やO.ナッセンさん(G.シュラーに師事した兄弟子のような存在)の薫陶を受け、M.デイヴィスさんへのトリビュート、J.スコフィールドさんやP.アースキンさんとのコラボレーションなどを行いながらジャズのリズムをクラシック音楽に採り入れて自らの音楽語法として確立しました。S.ラトルさん(当時、バーミンガム市交響楽団音楽監督)が上述「3人の絶叫する教皇」を委嘱初演するなどM.ターネジさんの作品を度々採り上げ、また、EMIの巧みな販売戦略(当時、世界中で流行していたパンクファッションと結び付けたイメージ戦略)が奏功したことなどにより、世界的に広く知られるようになりました。日本では東京都交響楽団がM.ターネジさんに委嘱した新作「Hibiki」(2016年)及び新作「ライム・フライズ」(2022年にコロナ禍で公演中止になったのは知っていましたが、2023年に復活初演されていたようです。)が初演されていますが、新しい芸術文化の育成に熱心な東京都交響楽団や読売交響楽団の精力的な取り組みは、あらゆる時流に乗り遅れている凋落日本が世界から忘れられないためにも非常に有意義なものに感じられます。なお、2025年にはロイヤル・オペラで第51回カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞した映画「Festen」を題材として児童虐待や人種差別などの現代的なテーマを扱ったM.ターネジさんの新作オペラが世界初演される予定になっており、日本初演も待たれます。
 
①管楽器のシンフォニー(1920年版)
M.ターネジさんはI.ストラヴィンスキーから影響を受けているらしく、今日は「彼の作品の中でも「春の祭典」、「結婚」と並んで、きわめて独創的で革新的な曲」として、I.ストラヴィンスキーがC.ドビュッシーの追悼のために作曲した「管楽器のサンフォニー」が採り上げられました。13の木管楽器と11の金管楽器という特殊編成の曲なので演奏機会は多いとは言えず、僕は生演奏を聴くのは初めての機会になりました。I.ストラヴィンスキーはカンタータ「星の王」をC.ドビュッシーに献呈し、また、C.ドビュッシーは2台のピアノのための「白と黒で」第3曲をI.ストラヴィンスキーに献呈していますが、過去のブログ記事でもI.ストラヴィンスキーとC.ドビュッシーが葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」を背景にして映っている写真を紹介したとおり両者には親密な交流がありました。クラリネットが高音でヒステリックに奏でるモチーフとコラール風の音楽や民謡風の音楽が忙しなく入れ替わりながら各楽器が緊密に呼応して音楽が快活に展開していきましたが、やがて金管楽器が葬送風の厳かなコラールを奏でると深い悲しみを湛えて静かな終曲を迎えました。昔から都響は管楽器に定評がありますが、その信頼感の高い表情に富む好演を楽しめました。
 
②カンツォネッタ
この曲はI.ストラヴィンスキーがヴィフリ・シリベウス賞を受賞した返礼としてJ.シベリウスの弦楽合奏曲「カンツォネッタ」を管楽器用(+ハープとコントラバス)に編曲してヴィフリ国際賞財団に献呈したものです。M.ターネジさんは兄弟子のO.ナッセンさんからこの曲を紹介されたそうですが、僕はこのストラヴィンスキー編曲版は(音盤でも聴いたことない)完全な初聴でした。J.シベリウスの原曲は清澄な弦楽器が響きを重ねて生まれる哀愁漂う「風趣」が魅力ですが、この編曲は息の楽器である管楽器の特性を活かした歌心により哀愁が立ち込める「情趣」が薫り立つ曲であるように感じられ、管楽器に定評がある都響の卓抜した表現力が相俟って、原曲とは異なる魅力を引き出すことに成功しているように感じられました。I.ストラヴィンスキーは「音楽は音楽以外の何物も表現しない」(客観主義)という有名な言葉を残していますが、僕は音楽学者のJ.ストラウスさんが「ストラヴィンスキーの音楽は、実際には、劇的状況を大いに表現すると共に、感情的なものである」と述べているのと同じような印象を持っており、音楽は作曲家の思惑を超え、それを受容する者のプロジェクションによって自在に彩られるものであって、それが音楽を聴く面白さの重要な1側面であることを感じさせてくれる作品でした。
 
③ラスト・ソング・フォー・オリー(2018年/日本初演)
О.ナッセンさん(~2018年)の追悼音楽として作曲された「ラスト・ソング・フォー・オリー」が日本初演されました。この曲は①ダンスⅠ、②大きなフクロウ(O.ナッセンさんの愛称)のためのコラールⅠ、③ダンスⅡ、④ダンスⅠの再現、⑤大きなフクロウ(O.ナッセンさんの愛称)のためのコラールⅡ、⑥ソング・フォー・オリーの6部から構成されていますが、躍動するダンスパートと美しいコラールパートが交互に入れ替わる構成は上述の管楽器シンフォニーを彷彿とさせます。初聴の曲でしたが、全体的にはL.バーンスタインさんのシンフォニック・ジャズのニュアンスが随所に感じられ、スウィングする音楽はジャズを聴いているような感興すら生じさせるものでした。冒頭のダンスパートでは打楽器のリズムに乗せてデュナーミクを大きく振幅させながらオーケストラ全体がダイナミックにダンスしているような快活な音楽が展開され、やがて金管楽器の柔らかい和音や高弦の清澄な調べなどによる優美なコラールが奏でられましたが、故人との大切な思い出を回想し、追慕の情を表現しているように感じられました。その後、オーケストラがユニゾンで悲痛な旋律を歌い上げると、これに続いて木管楽器がメランコリックな不協和音を奏でて悲しみを深くしていましたが、最後はコントラバスのソロ(大きなフクロウのメタファー?)が儚げに奏でられて静かな終曲を迎え、故人のための祈りが捧げられる厳かな空気が会場を支配しました。
 
④ビーコンズ(2023年/日本初演)
M.ターネジさんは武満徹さんの悲報に接し、その追悼音楽として「Tune for Toru」という小品を作曲していますが、今日の演目を見ると、この曲以外は全て追悼音楽が選ばれています。この曲は、イギリスのコンサートホール「ビーコン」(意味:灯台)のリニューアル・オープンを祝福するために作曲されたもので、ドラムが中心になって軽快なリズムで力強く音楽を推進するグルーブ感のある演奏が展開され、ジャズの音楽語法に彩られたシンフォニック・ジャズを堪能できました。P.ダニエルさんの目配りの行き届いた統率力とビックバンドのような演奏も熟してしまう都響の懐の広さには脱帽です。
 
⑤リメンバリング(2014年-2015年/日本初演)
M.ターネジさんはJ.スコーフィールドさんとのコラボレーションを盛んに行われ、プライベートでも家族ぐるみの付き合いをされているそうですが、この曲はJ.スコーフィールドさんのご子息(~2013)が26歳の若さで夭折したことからその追悼音楽として作曲されたものだそうです。3管編成のオーケストラのうちのヴァイオリン・パートを除いた特殊編成で、実質上、ヴィオラ首席がコンサートマスターの役割を担っています。これはM.ターネジさんの支援者であるS.ラトルさんからブラームスのセレナード第2番と同じ編成で演奏できるようにヴァイオリン・パートを除いた特殊編成で作曲するように委嘱されたことによるものだそうです。第1楽章は金管楽器の激しい和音や打楽器の打撃音などが効果的に使用されたリズミカルな楽章でジャズの音楽語法に彩られたワイルドな印象の演奏が展開されたのに対して、第2楽章は管楽器がコラール風の音楽を奏でるなか、中低弦が粘性のある響きで慟哭のようなものを感じさせる彫りの深い演奏を楽しめました。なお、客席からはよく見えませんでしたが、梵音具「鍾(鈴)」(又はそのような音色の楽器)も効果的に使用されていました。再び、第3楽章はダンスミュージック風のリズミカルで緊迫感のある音楽が展開され、ヴィオラの陰影を帯びた響きと管楽器の光沢に彩られた響きを対置して音楽に明瞭なコントラストを生み出すなど色彩豊かなオーケストレーションを楽しめました。そして、第4楽章はヴィオラが憂いを帯びた音色で哀切に鳴き、ヴィオラ首席の鈴木学さんのソロとこれに歌い添うチェロが奏でるとめどなく溢れ出るようなエレジーが出色であり、最後は静謐な悲しみに包まれた厳かな終曲になりました。ここでも梵音具「鍾(鈴)」(又はそのような音色の楽器)が効果的に使われていましたが、洋の東西を問わず、沈香と同様に、梵音具の音色はそれを聞く者に独特な感慨を引き起こす効果があるのかもしれません。
 
 
▼2024年度武満徹作曲賞本選演奏会
【演題】2024年度武満徹作曲賞本選演奏会
【審査】マーク=アンソニー・ターネジ
【演目】①アレサンドロ・アダモ(イタリア) 括弧
    ②ホセ・ルイス・ヴァルディヴィア・アリアス(スペイン)
        AI-Zahra-オーケストラのための3つの小品
    ③ジョヴァンニ・リグオリ(イタリア) ヒュプノ-夢の回想
    ④ジンユー・チェン(香港) 星雲  
【演奏】<Cond>杉山洋一
    <Orch>東京フィルハーモニー交響楽団
【日時】2024年5月26日 15:00~ 
【会場】東京オペラシティーコンサートホール
【一言感想】
いまや世界からも注目されている現代作曲家の登竜門・武満徹作曲賞本選会を聴きに行く予定にしています。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
---追記
 
今日は武満徹作曲賞本選会を聴きに行ってきましたので、審査員のM.ターネジさんから発表された審査結果及び講評とそれぞれのノミネート作品に対する簡単な感想を残しておきたいと思います。いずれのノミネート作品も「現代」の時代というものを色濃く感じさせる音響であり着想であり、我々は「現代」のサウンドスケープやマルチメディアの中で感受性を磨き、創造的知性を育んでいることが分かる鮮度の高い「新しさ」が音楽に息衝いていることが感じられ、大変に興味深く面白い芸術体験になりました。20世紀の音楽的な成果を踏まえつつも、21世紀は結果的に干乾びてしまった音楽を力強く蘇生させて行く時代であることが感じられ、実に嬉しくも頼もしく感じられました。若手作曲家はプロオケに演奏して貰う機会が非常に少なく、そのことが貴重な経験になったという言葉が印象的でしたが、日本人に多い定評がある定番曲しか聴かない保守的な客層が若手作曲家の作品に興味を持ち得る柔軟な感性(視野の広さ)や幅広い教養(心の豊かさ)を育むことができなければ現状の改善は難しいのかもしれません。その意味で武満徹さんは次世代に彼の音楽作品だけではなく貴重な財産(機会)を残してくれたと思います。いずれにしても受賞者の皆さんには心からの賛辞を送ると共に、これを契機に日本を含めて世界で作品が演奏される機会が更に増えると思いますので、今後の活躍にも注目して行きたいと思っています。なお、このグローバル時代にあって日本人だから日本人の芸術家やその作品を贔屓にするという音楽的な価値とは無関係な狭い了見を快しとするものではありませんので、広い視野や懐を持って「作品本位」でアプローチして行きたいと考えていますし、それができる時代に生まれたことを嬉しく思っています。そんな気持ちにさせてくれる4人の受賞者の作品でした。
 
▼2024年度武満徹作曲賞の審査結果講評
【第1位】ジンユー・チェン(香港) 星雲
【第2位】ホセ・ルイス・ヴァルディヴィア・アリアス(スペイン)
        AI-Zahra-オーケストラのための3つの小品
【第2位】ジョヴァンニ・リグオリ(イタリア) ヒュプノ-夢の回想
【第3位】アレサンドロ・アダモ(イタリア) 括弧
 
〇審査基準
武満徹作曲賞は「世界各国の次代を担う若い世代に新しい音楽作品の創造を呼びかける」ことを目的として、毎年、一人の作曲家が審査員を務めるユニークな音楽賞です。今年の審査員を務めるM.ターネジさんは応募102作品を一人で譜面審査したそうですが、複雑になり過ぎた分かり難い作品ではなく、「思考の明瞭さ」「多彩さ」「透明性」を重視して審査したそうです。個人的な理解では、昨年の芥川也寸志サントリー作曲賞でも重視されていた点ではないかと思いますが、20世紀的な音楽に対する反省から人間による受容(認知特性)に耐え得ない複雑になり過ぎた分かり難い作品は音楽賞に相応しくないという趣旨(即ち、芸術的な価値がないという意味ではなく社会的な顕彰に馴染まないという趣旨)であると理解しており、その意味で21世紀に入って音楽賞に新しい意義が加えられたと言えるかもしれません。なお、過去のブログ記事で触れたとおり、人間は他人と異なるプロジェクションを生成し、それを自らのナラティブに仕立てる生き物なので、同じ芸術作品を鑑賞しても、その芸術作品に映し出される意味付け(プロジェクション)やそれに基づく感想なども当然に異なり得ると述べましたが、それこそが音楽を鑑賞する醍醐味だと思いますので、M.ターネジさんの講評とは別に僕の感想も簡単に残しておきたいと思います。
 
括弧
イタリア人現代作曲家のアレサンドロ・アダモさん(1995年~)は、第9回国際オンライン・ジャン・シベリウス・フェスト作曲コンクールの学生部門第1位、マエストロロズ・ヴィジョンアワーズ国際作曲コンクールヤングアーティスト部門第4位、カルロ・サンヴィターレ国際作曲コンクール第3位に続き、今回の2024年度武満徹作曲賞第3位と世界的に頭角を表している俊英です。パンフレットには「タイトルは、本作品が探る形式上の分節の形態を表したものであり、そこでは断片化が基礎となって」おり、「しばしば予想できない仕方で構造上の連絡が中断され」、「その不連続性が目指すのは、諸々の変形をより際立たせる」ことにあると記載しています。個人的には、ダルマさんが転んだやEV車の回生ブレーキが生み出す電力エネルギーなどをイメージしながら聴いていました。大小の様々なリズムパターン(ジャズの音楽語法を含む)が分節しながら変化して行きましたが、その分節(音楽を止める=エネルギーの凝縮)はリズムパターン(音楽を進める=エネルギーの発散)の変化を明瞭化するだけではなく、その分節の繰り返しが生む間(無音)が音楽に大きな吸引力(エネルギー)を生み出しているように感じられました。当初は、微視的な視点から音楽的な文脈が途切れているような感覚しかありませんでしたが、やがて様々なリズムパターンがオーケストラを埋め尽くすようになると巨視的な視点から音楽的な文脈を捉えるようになり新しい音楽的な地平が広がって行くような感覚を覚える構成感のあるヴィジュアルな音楽を楽しめました。
 
②AI-Zahra-オーケストラのための3つの小品
スペイン人現代作曲家のホセ・ルイス・ヴァルディヴィア・アリアスさん(1994年~)は、第33回SGAE-CNDMヤング・コンポーザー・スペイン賞第1位、第3回ニューミュージック・ジェネレーション国際作曲家コンクール第2位に続き、今回の2024年度武満徹作曲賞第2位の受賞になりましたが、他の受賞者の年齢を見てもZ世代の台頭が顕著になっており、このようなところにも「昭和枯れすすき」を感じてしまいます。パンフレットには「作品の主要な素材は、ポップス、サウンドトラック、ビデオゲームといった音楽産業に由来しいている。こうして私のなかで、ごた混ぜの、滑稽で、雑然とした書斎ができ上がり、それを私は作品の中に落とし込んだ。」と記載されていますが、音楽まで芸術的なものと商業的なものに区分しがたる20世紀(昭和)の規範性(認知バイアス)を重視とした硬直化した態度(クラシック音楽界の権威主義的な傾向)とは無縁のZ世代の瑞々しい時代感覚や柔軟な感性に彩られた豊かな才気を感じさせます。エッジの効いた鋭角のリズムが緩急を繰り返しながらオーケストラ全体に広がりましたが、音楽的な文脈を体現する明確な旋律線(点の音や線の音)で規律された音楽ではなく、音楽的な文脈を持たないリズム群(雲の音という形容で適当?)が充満して色彩鮮やかな音響世界へと昇華し、混沌としながら調和している現代の時代性、多様な世界観を体現しているような音楽に感じられ、まるでオーケストラが1つの楽器であるかのように振る舞う見事なオーケストレーションを堪能できました。
 
③ヒュプノ-夢の回想
イタリア人現代作曲家のジョヴァンニ・リグオリさん(1989年~)は、既に数枚の自作録音をリリースし、ヴィボ・ヴァレンティア音楽院で教鞭にとられているなど欧米を中心に活動されている現代作曲家です。今回、2024年度武満徹作曲賞第2位を受賞しましたが、個人的な感想ではジンユー・チェンさんの星雲と共に第1位を受賞しても不思議でない作品に感じられました。パンフレットには「夢を見るという体験の断片的な記憶を巡る旅、その体験から生じ得る、複雑にして多面的な心の動きを顕在化」し、「線的なナラティブや合理的な説明に回収されることを拒むという、夢そのものの謎めいた性質」を音楽的に表現したと記載されていましたが、人間は一晩にレム睡眠とノンレム睡眠を繰り返しながら脳内で記憶の整理や消去等を行い、その過程で様々な記憶と思考及びイメージ等とがアドランダムに組み合わされること(発火)で夢を見ると言われており、このうちノンレム睡眠中に見た夢は目覚めると記憶に残らず、レム睡眠中に見た夢は目覚めても記憶に残る可能性があることが分かっていますが、未だその詳しい原理などは解明されていません。冒頭はたゆたうような微弱音が波紋し、やがて色彩豊かな響きによる幻想的な音楽が展開されましたが、弦が奏でるハーモニーに管打が彩りを添えながら徐々に響き(夢の幻影)を増して行くオーケストレーションの見事さが際立つ作品でした。筆致が洗練されており無駄(不自然、不足や過剰)が感じられない明瞭な音楽に感じられ、音に物語性(但し、それはロゴスに回収されない描けないもの)を感じさせる面白い作品でした。
 
星雲
中国人現代作曲家のジンユー・チェンさん(1994年~)は、第3回ニューミュージック・ジェネレーション国際作曲家コンクール第2位、ホマートン作曲コンクール入賞、イギリス国際音楽コンクール作曲部門第1位に続き、今回の2024年度武満徹作曲賞第1位と若いアジア人からも世界的に頭角を現す逸材が輩出されており頼もしい限りです。パンフレットには「さまざまな音の調和を通して、これらの星雲の壮大さと神秘性を喚起しようと試み」、「これらの星々が育まれる場所の動的でつねに変化する性質を示し、宇宙の塵から光り輝く星々へ至る激動の度を表現する」と記載されていますが、管楽器の色彩豊かな響き(星々のメタファー?)、高弦の清澄な響き(光のメタファー?)、低弦や打楽器の重厚な響き(闇のメタファー?)が織り成す光と闇の世界が顕在し、その雄大な音楽に包み込まれて行くような感覚を覚えました。他の受賞者と同様にオーケストレーションが素晴らしく、眩い響きが多元的に連鎖しながら空間的に拡がって行く様子には心を奪われる美しさがあり、最後は宇宙の悠久の広がりを感じさせる銅鑼の音がタケミツホールの贅沢な残響に澄み渡る神秘的な芸術体験になりました。チェンさんは授賞式の挨拶で、武満徹さんの「作曲とは、世界に入りこみ、聞こえてくる音の自然な流れに正しい意味を与えてくれるものである」という言葉を引用し、「東洋の伝統的な文化と西洋のオーケストラの響きを融合」することに心を砕かれたと語られていましたが、未だ手が届かない宇宙が体現する世界観(西も東もない海)を堪能できる美しくスケールの大きな作品でした。
 
 
▼伝統芸能プロジェクトチーム「TRAD JAPAN」
伝承芸能プロジェクトチーム「TRAD JAPAN」は日本の伝統音楽の継承と創造をコンセプトとして活動している邦楽ユニットで、リーダーの矢吹和之さんは津軽三味線コンクール全国大会で優勝、津軽三味線日本一決定戦日本一の部(曲弾きの部及び唄づけの部)で優勝など日本を代表する津軽三味線奏者です。津軽三味線は、鈴鹿馬子唄中山道を介して信濃に伝わって信濃追分節に発達し、それが北国街道を介して越後に伝わって越後瞽女北前船羽州浜街道羽州街道を介して陸奥蝦夷へ広めたと言われていますが、津軽の仁太坊はなれ瞽女から三味線を学び、津軽の風土に合わせて太棹や叩き奏法などの改良を加えて誕生したと言われています。これまで西洋音楽の語法を使って演奏する邦楽ユニットは数多く存在しましたが、伝統邦楽の語法に根差した革新的な作品やユニークな活動も期待したいです。なお、TRAD JAPANのメンバーで過去のブログ記事でもご紹介した生田流筝曲演奏家の安嶋三保子さんは、これまで三大筝曲コンクールと言われる賢順記念全国箏曲コンクールで賢順賞(第1位)、長谷検校記念くまもと全国邦楽コンクールで優秀賞を受賞されていますが、2024年3月に開催された利根英法記念あいおい全国邦楽コンクールで金賞(現代曲)を受賞されたそうです。押しも押されもせぬ日本を代表する筝曲演奏家なので、今後の活動に注目して行きたいと思っています。
 
▼波の伊八 没後200年記念イヴェント
過去のブログ記事でも紹介しましたが、波の伊八(本名:武志伊八郎信由)は1752年に千葉県鴨川市打墨で生まれた彫刻師で「関東に行ったら波を彫るな」と言われたほどの名人であり、葛飾北斎は波の伊八作の欄間「波と宝珠」からインスピレーションを受けて浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖裏波」を創作し、また、C.ドビュッシーは葛飾北斎作の浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖裏波」からインスピレーションを受けて交響詩「海」を作曲したと言われており、波の伊八がいなければ葛飾北斎作の浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖裏波」やC.ドビュッシーの交響詩「海」などの傑作も生まれていなかった可能性があります。2024年5月18日及び19日に波の伊八 没後200年記念イヴェントが開催され、講談師・神田あおい師匠が創作した講談「初代波の伊八物語」が一席打たれます。
 
----追記
 
今日は波の伊八没後200年記念イヴェントに参加しました。今年の干支は偶然にも龍(辰)ですが、この地域に古くから伝わる川代神楽の獅子舞(獅子=龍)、講談師・神田あおい師匠の創作講談「初代波の伊八物語」(妙法寺「五体の龍」)、演歌歌手・美月優さんの「波の伊八」(歌詞に「竜の魂」)と波の伊八に因んで龍尽しの演目になっていました。「講談を聞くとタメになる、落語を聞くとダメになる。」という名言がありますが、冒頭、神田師匠の弟子入りしている講談師・一龍斎貞奈さんから講談(偉人の実話)と落語(市井の創話)の違いや講談の楽しみ方(歌舞伎と同様に客席から間合い良く「まってました」「たっぷり」などの掛け声を掛けて興に乗じるなど)が紹介されました。当初、会場は人の出入りが激しく非常に騒々しかったのですが、神田師匠の講談が進むにつれて、その世界観に会場の空気が呑まれて行く様子が分かり、観客のイマジネーションを巧みに誘いながら観客の心をハッキングしていく話芸に魅了されました。神田師匠の創作講談「初代波の伊八物語」は、①大五郎(後の波の伊八)が彫物師・島村丈右衛門貞亮へ弟子入りし、やがて妙法寺祖師堂の向拝「五体の龍」(東京都杉並区)で枠木からはみ出すような迫力の龍(さながら3Dサイネージ)など型破りな作風で才能を発揮して兄弟子達の嫉妬を買ったこと、②波の伊八は浦賀の仕事で勝川春朗(後の葛飾北斎)と出会って「時と天気と天地が入り混じった美しい一瞬」を捉えるような作品を創作したいと志を立てたこと、③波の伊八は大工頭・中井大和守正知から幕府彫物師への登用を打診されるが、その職人気質から「褒められたくて仕事をするようになる」という理由で断ったこと、④波の伊八は衆生を救うような作品を創作したいと宮彫りに打ち込んで行元寺の欄間彫刻「波と宝珠」(千葉県いすみ市)を完成し、これにインスピレーションを受けた葛飾北斎が浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」を創作したことを内容とするプロットでした。因みに、この浮世絵にインスピレーションを受けたC.ドビュッシーが交響詩「海」を作曲し、その初版譜には浮世絵の波が使われていますが、伊八の波は海を渡ってフランス音楽にも影響を与えています。なお、キリンビールの麒麟のエンブレムは波の伊八作の長福寺の本堂欄間「雲と麒麟」(千葉県いすみ市)がモデルとして使用されています。