大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

「ムーミン」と「ブリテン」と「歌舞伎」と「SDGs」

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少し気は早いですが(コロナが落ち着いているうちに)、来年の干支である「寅」に因んで、寅年生まれの人及び丑年生まれの人の守り本尊である「虚空蔵菩薩」を祭る日高寺(茨城県那珂郡東海村)と、仏教の守護神である「帝釈天」に仕えて北方を守護する「毘沙門天」を祭る善國寺(東京都新宿区神楽坂)及び一乗院(茨城県那珂市)を参拝しました。日高寺の境内には「狛虎」及び「狛牛」が置かれ、また、善國寺及び一乗院の境内には毘沙門天の神使である「狛虎」が置かれています。因みに、善國寺は寅年生まれの徳川家康が開基し、徳川本家及び分家(渋沢栄一が使えた一橋家及び田安家)の祈願所でした。なお、寺院に「仏」ではなく「神」が祭られているのは、「神」は「仏」が民衆を救うために天上界から地上界へ現れた仮のお姿(権現)であって地上界の万物に宿るもの(八百万の神々)という神仏集合の考え方があるためです。この点、徳川家康は、その死後に後水尾天皇から東照大権現という勅諡号を下賜されていますが、天皇の祖先神に対する東国武士の祖先神(権現)として征夷大将軍(=蝦(東国)を伐する将軍)を神格化するためのものです。一般に「神」は地上界にあって生者を守護するもの(神社はお宮参り、七五三、合格祈願、結婚式、初詣など主に生者に関係する場所)、また、「仏」は天上界にあって死者の魂を救済するもの(寺院は葬式、法要、墓参りなど主に死者に関係する場所)と大雑把にイメージできますが、天照大神大日如来という考え方もあり(神道では天照大神を太陽の神として最高位に位置付けていますが、やがて人間の知能が発達して宇宙を観念するようになると、密教大日如来を宇宙の根本と位置付けるようになります。そのため、この考え方では「太陽」<「宇宙」という関係になり整合性がとれません。)、そう単純には割り切れない大人の事情もあります。もう1箇所、来年の干支である「寅」に因んで、「毘沙門天」の親分である「帝釈天」を祭る柴又帝釈天を参拝しました。ご案内のとおり柴又帝釈天は映画「男はつらいよ」の舞台として日本はもとより中国等のアジア諸国でも広く知られています。車寅次郎の名前の由来については諸説ありますが、車寅次郎を演じる渥美清の実家が「東京府東京市下谷区車坂町」(現・東京都台東区上野七丁目)にあったことから「」が名字(=田のを省略したもので、自らが支配する土地の名前を名乗ったことが始まりです。)となり、また、渥美清の実父の名前が「友次郎」(トジロウ)であったことから「ドラ息子」(放蕩息子)にかけて「寅次郎」(トジロウ)が名前になったというのが実際ではないかと思います。因みに、国分寺駅前には「寅”むすこ食堂」(どらむすこ食堂)という店があり、地元民に愛されています。さらに、映画の中で車寅次郎の叔父が営む架空の団子屋「とらや」のモデルになったのは第1作から第4作まで撮影に使用された「とらや」(当時、柴又屋)と思われますが、出演者の着替えやスタッフの休憩等に使われていた「高木屋」や「亀家本舗」など帝釈天参道にある複数の団子屋から着想を得ているというのが実際ではないかと思います。なお、羊羹の老舗「とらや」の屋号は、社史によれば、歴代店主の毘沙門天信仰と関係があるそうなので、来年の干支に肖った縁起物のお菓子(現在、来年の干支に因んで、虎をモチーフにした特製羊羹「千里の風」(赤坂店)羊羹製「幸とら」(東京ミッドタウン店)を販売中)と言えそうです。
 
①日高寺(茨城県那珂群東海村村松8
②一乗院(茨城県那珂市飯田1085
③善國寺(東京都新宿区神楽坂5丁目36
④芸者小道(東京都新宿区神楽坂3丁目10
①日高寺/虚空菩薩は丑年生まれの人及び寅年生まれの人の守り本尊になっていますが、虚空菩薩を祭っている日高寺の境内に「狛牛」(阿形)及び「狛虎」(吽形)の石像が置かれています。 ②一乗院/日本一の毘沙門天(13m)が祭られ、毘沙門天の神使「虎」の石像が置かれています。なお毘沙門天の異名・多聞天に肖り幼名を多聞丸と言った楠木正成の石像も置かれています。 ③善國寺/寅年生まれの徳川家康が開基し、徳川本家及び分家の一部の祈願所になっていました。善國寺(神楽坂)、正傳寺(芝)及び正法寺(浅草)の毘沙門天は江戸三大毘沙門天と言われています。 ③狛虎(善國寺)毘沙門天を祭っている善國寺の境内に毘沙門天の神使「狛虎」(阿形吽形)の石像が置かれています。この石像は善國寺周辺の江戸庶民が奉納したものと言われています。 ④芸者小道/善國寺周辺は花街として栄え、その当時の名残が芸者新道(東京都新宿区神楽坂3丁目2−20)見番横丁(東京都新宿区神楽坂3丁目6-84)等の地名として残されています。
①寅さんとさくら(柴又駅)(東京都葛飾区柴又4丁目8
②とらや(東京都葛飾区柴又7丁目7−5
柴又帝釈天(題経寺)(東京都葛飾区柴又7丁目10-3
①寅さんとさくら(柴又駅/1999年、ファンや地元商店街の募金で柴又駅前広場に寅さんの銅像が建立され、その後、2017年に寅さんを見送るさくら像が建立されています。 ②とらや柴又駅から柴又帝釈天に向かう帝釈天参道の途中に映画の第1作から第4作まで実際に撮影で使用されていた団子屋「とらや」(当時、柴又屋)が営業を続けています。 ②草だんご(とらや)/映画でも度々登場している柴又名物の草団子に添えられた餡子は大人の口に合う上品な甘さです。店内には出演者の色紙や映画ポスター等が掲示されています。 ②車家の階段(とらや)/実際に映画の撮影で使用された階段がそのまま残されています。映画で登場する架空の団子屋「とらや」のセットを彷彿とさせる間取りになっています。 柴又帝釈天柴又帝釈天毘沙門天の親分の帝釈天を祭っており、その子分の毘沙門天の使い走りとして虎(寅)がいるという関係になり、柴又帝釈天を中心に物語が展開します。
 
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ところで、江戸時代、善國寺の周辺は茶屋が軒を連ねる花街として知られ(その後、幕府非公認の私娼屋が並ぶ岡場所としても発展)、最盛期には約700名の芸者(「芸者(芸妓、舞妓)」=芸事のみなので、原則として「遊女(娼妓)」=芸事+色事とは異なりますが、例外的に芸事+色事を嗜む「ころび芸者」も存在していたようです。)が居たと言われています。その名残りから現在でも神楽坂には「芸者小道」「芸者新道」「見番横丁」(見番=芸者の手配や稽古を行う事務所)等の地名が残されており、また、その近傍にある湯島天神及びその周辺には明治時代になるまでホモセクシャルバイセクシャル等(男色を含む)のための男娼がいる「陰間茶屋」等もありましたので、キリスト教的な価値観に影響されている現代の日本人と比べて江戸時代の日本人は多様な性のあり方について寛容な考え方を持っていたと思われます。丁度、ムーミンの原作者でバイセクシャルだったトーベ・ヤンソンの半生を扱った映画「TOVE トーベ」が公開されていたので、その映画の感想と共に「LGBT(QIA)」(LGBT及びその他の多様な性のあり方)について芸術家又は芸術作品との関係でごくごく簡単に触れてみたいと思います(SDGs:ジェンダー平等を実現しよう」(GOAL5))。
 
 
【題名】映画「TOVE トーベ」
【監督】ザイダ・バリルート
【原作】エーバ・プトロ、ヤルノ・エロネン
【脚本】エーバ・プトロ
【撮影】リンダ・バッスベリ
【美術】カタリーナ・ニークビスト・エールンルート
【衣装】ユージェン・タムベリ
【音楽】マッティ・バイ
【出演】<トーベ・ヤンソン>アルマ・ポウスティ
    <ヴィヴィカ・バンドラー>クリスタ・コソネン
    <アトス・ヴィルタネン>シャンティ・ルネイ
    <トゥーリッキ・ピエティラ>ヨアンナ・ハールッティ
    <シグネ・ハンマルステン=ヤンソン>カイサ・エルンスト
    <ヴィクトル・ヤンソンロベルト・エンケ
【感想】
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この映画はフィンランドにおいて7週連続で興行収入1位を記録し、第93回アカデミー賞国際長編映画賞にフィンランド代表作品として出品されるなど、現在も「ムーミン」がフィンランド人からこよなく愛され続けていることが分かります。「ムーミン」は小説(童話)として誕生しますが、その後、演劇、漫画や絵本等に翻案され、やがて日本でTVアニメ化されると、それが世界60ケ国以上の国々で放送されて世界中に「ムーミン」が広まりました。昔から日本人は、フィンランド人に負けず劣らず「ムーミン」を愛し続けており、2019年にムーミンテーマパーク「ムーミンバレーパーク」(埼玉県飯能市)が開業し、また、今週11月6日(土)10:30からNHKEテレでCGアニメ「ムーミン谷のなかまたち」(全13話)の放送が開始されるなど、その人気は衰えを知りません。さて、この映画は、第二次世界大戦中にフィンランドソビエト連邦との間で戦われた継続戦争(映画「アンノウン・ソルジャー 英雄なき戦場」で描かれているとおり、フィンランド第二次世界大戦以前からソビエト連邦による侵攻の脅威(冬戦争)に晒され、第二次世界大戦ナチス・ドイツが対ソ開戦を決意すると軍事協定を結んでフィンランド領内にナチス・ドイツ軍を駐留させて共同作戦を展開しています)のなか、トーベ・ヤンソン防空壕の薄暗がりで「ムーミン」を描き続けている姿から始まりますが、これは第二次世界大戦及び継続戦争の終結後に華開くトーベの半生を描くにあたってナチス・ドイツソビエト連邦による「帝国主義の恐怖」(ソビエト帝国と揶揄される連邦の実態を含む)、「廃退芸術の弾圧」(ロシア・アバンギャルドの排除を含む)や「同性愛者の迫害」に対する時代の反動と呼ぶべき社会の潮流がトーベの作品や生き方に影響を与えていることを印象付ける効果を生んでいます。
 
 
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第二次世界大戦及び継続戦争が終結して帝国主義の脅威」等から解放されたフィンランド人は、平和と自由を謳歌すべく連日のようにパーティに明け暮れます。そのような時代の洗礼を受けたトーベは「廃退芸術の弾圧」等から解放されて自由な創作活動や生き方が保障されたものの、自らの心に忠実な作品や生き方を求めて時代の既成価値との間で葛藤を覚えるようになります。著名な彫刻家で父のヴィクトル・ヤンソンは、その保守的な考え方から絵画や彫刻等の芸術作品(メインカルチャー)を創作するようにトーベに干渉しますが、トーベは、伝統的な世界での成功に漠然とした憧れを抱きながらも、古い価値観を押し付けようとする父・ヴィクトルへの反発や伝統的な世界への違和感等から、風刺漫画や絵本等の大衆作品(サブカルチャー)の創作に没頭するようになり、やがてその作品が社会的に認められてアーティストとしてのアイデンティティを確立して行く姿が描かれています。トーベは、権威主義的な父・ヴィクトルに対して「国のために作品は作らない」と自らの信念を貫くシーンがありますが、社会主義リアリズムに抵抗して自らの創作意欲に忠実であろうとしたショスタコーヴィッチ等の生き様を彷彿とさせ、その時代的、社会的又は境遇的な状況等は違っても、常に時代の価値観に挑戦し続ける芸術家の矜持のようなものが感じられます。この映画では「ムーミン」に登場する魅力的なキャラクターを着想し、作画するトーベの姿が随所に描かれていますが、トーベの恋人達がモデルとなっているキャラクターも多く、それらの恋人達と共有した大切な時間を含むトーベの人生そのものが作品に投影されています。例えば、スナフキンは、トーベがパーティーで知り合った恋人で政治家のアトス・ヴィルタネン(この映画では既婚者として描かれていますが、実際は未婚者?)がモデルとされており、実際にアトスはスナフキンのトレードマークである緑色のマウンテンハットを愛用し、トーベが「生きる喜びを体現した哲学者」と表現するようにその生き方(ひいては作品)に大きな影響を与えた人物です。この点、「ムーミン」は人生哲学を示唆する名言の宝庫ですが、映画のキャッチコピーである「大切なのは、自分のしたいことがなにかを、わかってるってことだよ。」というスナフキンの言葉(「ムーミン谷の夏まつり」より。なお、今年4月からHisenseのTVCMのキャッチコピーとしても使われており、現代の時代性を端的に表現する言葉でもあります。)に込められているとおり、自らの心に忠実な作品や生き方を求めて時代の既成価値に挑戦したトーベの人生が作品に投影され、それが現代の我々に深い共感を与えています。なお、現在、ファミリーマートで「ムーミンフェア」が開催されていますので、気が向いたらお立ち寄り下さい。
 
 
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ムーミン」に登場するキャラクターのビフランは、トーベの恋人であったヘルシンキ市長の夫人で舞台演出家のヴィヴィカ・バンドラーがモデルとされており、2人だけに通じる秘密の言葉で話すキャラクターのトフスランとビフスランの名前にはトーベとヴィヴィカの名前が隠されていると言われています。トーベは、市議会議員であったヴィヴィカの父から依頼されてヘルシンキ市庁舎の食堂に「都会のパーティー」と題するフレスコ壁画(ヘルシンキ市立美術館所蔵)を残していますが、手前のテーブルに座る女性はトーベ、その後ろで男性と踊る女性はヴィヴィカを描いたものと言われており、未だ同性愛が社会的に認められていなかった時代に大胆にも2人の禁断の愛を市庁舎の壁に表現しています。しかし、トーベは、自分以外の女性とも奔放に関係を結ぶヴィヴィカに激しく嫉妬するようになり、やがて心の自由を取り戻して作品の創作に専念するためにヴィヴィカと別れる決断をします。トーベは、アトス(男性)及びヴィヴィカ(女性)と交際するバイセクシャルでしたが、自ら「私は自分が完全にレズビアンだとは思わないの。ヴィヴィカ以外の女性は考えられないってはっきりわかるもの。」(1946年付、エヴァ・コニコフへの手紙)と語っているとおり、デミセクシャル(下表注記を参照)の傾向があったのではないかと考えられます。このようにトーベは時代の既成価値であるジェンダー・ロール(男らしさや女らしさに象徴される、性別によって期待される社会的役割)に抗いながら自分の心に忠実な生き方を模索しますが、この問題は「ムーミン」の中でも描かれています。例えば、「ムーミン」に登場するメイドのミーサが飼っている気弱な子犬のインク(めそめそ)は猫が大好きで猫と友達になりたいと思っていますが、その気持ちを察したムーミンママは自分の心に忠実な生き方をすることは大切なことであるとしてインクに猫のメイクをしてあげたところ猫の友達が出来たというエピソード(「ムーミン・コミックス第12巻「ふしぎなごっこ遊び」より)として登場します。この点、ジェンダー・ロールの問題は多様な性のあり方が存在している事実(その歴史を含む)を踏まえて考える必要があり、そのためには「LGBT(QIA)」(LGBT及びその他の多様な性のあり方)の概念を整理及び理解する必要があると思いますので、以下では、(トーベやムーミン以外の)芸術家及び芸術作品との関係でごく簡単に触れてみたいと思います。なお、ジェンダーレスとジェンダーフリーの概念を混同している議論を見掛けることがありますが、ジェンダーレスは「性別による区分」を無くす考え方なので、例えば、女性のみが取得できる生理休暇制度は「性別による区別」を前提するもので不適当であるという帰結になりますが、ジェンダーフリーは「性別による区分」を無くすのではなく「性別による差別」を無くす考え方なので、例えば、女性のみが取得できる生理休暇制度は「性別による合理的な区別」なので適当であるという帰結になり得る一方で、女性のみが取得できる育児休暇制度は「性別による不合理な差別」なので不適当であり男性も取得できる制度に改善する必要があるという帰結になり得るという違いがあり、(ジェンダーフリーを手っ取り早く実現するための手段としてジェンダーレスを主張する乱暴な議論を見掛けることがありますが、無用な議論の錯綜を避ける意味で)両者の概念を明確に分けて考える必要があるのではないかと思います。
 
ジェンダーレス :性別による区別を無くす考え方
ジェンダーフリー性別による差別を無くす考え方
 
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「LGBT」という言葉は、2006年にカナダで採択された性的マイノリティの人権保障を求めるための「モントリオール宣言」で初めて使用されました。その後、世界中で性のあり方に関する調査が進むなかで、これまで明らかになっていなかった多様な性のあり方が認識されるようになり、「LGBT(QIA)」(LGBT及びその他の多様な性のあり方)へ概念が拡張及び整理されてきましたが、その多様な性のあり方を正確に認識及び理解するためには「LGBT(QIA)」の概念を構成している個々の要素である「SOGI(ESC)」まで把握する必要があるという考え方が生まれました。この点、多様な性のあり方については、未だ、その概念が流動的な状況にあり正確に整理及び理解することは困難ですが、「LGBT(QIA)」の概念が「SOGI(ESC)」との関係で何に着目して分類されているのかを一覧表で整理するところから始めなければ、いま何が議論されているのかを認識することすら侭ならず、さらに、「LGBT(QIA)」のそれぞれの概念の異同を明瞭にすることで、これらの概念を一律一様に捉えることが適当でないこともはっきりと分かってくるのではないかと思いますので(日本語の「理解」という言葉は「理(筋道を立て)」+「解(バラバラにする)」という意味があり、また、英語の「understand」という言葉も「under(間に)」+「stand(立つ)」という意味がありますが、各々の概念の異同を見極めて「分ける」ことができる状態を「分かる」と言います。)、敢えて間違いを犯すことは覚悟したうえで下表のとおり整理してみました。よって、下表には重大な誤謬が含まれ又は重大な誤解を与える不適切な部分等がある可能性もありますが、そのような趣旨で作成したものなのでノークレームでお願いします。
 
▼LGBT(QIA)とSOGI(ESC)の関係
ジェンダー」とは身体的性と性自認・性表現の関係「セクシャル」とは身体的性と性的指向の関係を意味します。なお、「セクシャル」を性自認性的指向の関係として整理する考え方もありますが、人間は観念的な存在ではなく生物的な存在であり、身体的性を無視して性のあり方を考えることは乱暴なので、下表では前者を前提として整理しています。(下表にある主な用語の概念定義はこちらへ。)
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(注1)Xジェンダー、ノンバイナリー及び第三の性の性自認について
上表で「全性」と表記している性自認とは、ジェンダーバイナリー(男性又は女性で性別を区分する考え方)を前提とするシスジェンダー(身体的性と性自認が一致している状態)及びトランスジェンダー(身体的性と性自認が正反対で不一致である状態)に対し、ジェンダーレス(男性又は女性で性別を区分しない考え方)を前提として身体的性と性自認が不一致である以下の4パターンを意味しています。
・両性:男性及び女性の双方に属すると自認
・無性:男性及び女性の双方に属さないと自認
・中性:男性及び女性の中間に属すると自認
不定性(ジェンダーフルイド):自らの性自認が流動的な状態
(注2)上表以外の性的指向について
これまで性のあり方に関する調査で明らかになった分類のうち、上表には含まれていないものの一部を参考までに挙げておきます。
①自らの性自認とは関係なく特定の対象に係る性的指向を持つ性のあり方
・スコリオセクシャル:シスジェンダー以外の者への偏性愛
・デミセクシャル:強い絆で結ばれている者への偏性愛
②特定の対象又は性質に係る恋愛指向(≠性的指向)を持つ性のあり方
・デミロマンティック:強い絆で結ばれている者への偏恋愛
ノンセクシャル:性的感情は抱かず、恋愛感情のみを抱く
・リスロマンティック:恋愛感情を抱くが、相手からの恋愛感情を望まない
(注3)ホモセクシャル性自認性的指向の関係について
「セクシャル」を性自認性的指向の関係として整理する考え方によれば、例えば、生物学的には男性で自らの性別を女性と認識している人(身体的性=男性、性自認=女性)が性的欲求の対象として女性を選択している場合には、その性的指向レズビアン(同性愛)として整理されることになります。しかし、この場合、身体的性が男性及び女性の組合せとなるので子作りも可能であり、多様な性のあり方を考えるにあたって身体的性が女性及び女性の組合せとなるケースと一緒くたに概念整理してしまうことが果して適当なのか慎重な議論が必要であり、別の概念として整理するのが適当ではないかと思われます。
 
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ところで、各種の調査によれば、現在、日本人の11人に1人は「LGBTQ」のいずれかに該当すると言われていますが、これは人間のみに特異な現象ではなく自然界でも広く見られ、哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、魚類及び昆虫など約1500種類の動物で同性愛的な行動が観察されています。現在でも「自然に反する」という情緒的な理由(センチメンタリズム)や宗教教義上の理由(例えば、新約聖書パウロ書簡からコリント人への第一の手紙第6章に「不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、謗る者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはない」と記されているなど)から同性愛に不寛容な態度を示す人もいますが、寧ろ、動物の同性愛は自然界に広く見られる自然的な行為であり、(宗教的な信条はともかくとして)科学的又は合理的な根拠に基づく考え方ではありません。この点、日本では、平安時代から寺院や宮廷における同性愛(主には男色)に関する記録(天台宗の僧・源信著「往生要集」や藤原頼長の日記等。大河ドラマ平清盛」第14話では藤原頼長平家盛を誘惑する同性愛の場面が登場しています。)が見られるようになり、その後、鎌倉時代になると武士が寺院や宮廷に倣って同性愛を嗜むようになります。これは仏教伝来以前から日本で信仰されてきた神道が性に対して寛容であったことを背景として、僧侶が女人禁制の寺院内で美少年に女装させて性的欲求の対象とするようになったことが始まりと言われており、やがて男性社会(ホモソーシャル)に生きる貴族や武士に広まったと考えられています。このように元々はヘテロセクシャル異性愛)な傾向を持つ人が異性を性的欲求の対象とすることが難い環境に置かれた場合に、その代りとして同性を性的欲求の対象とすることを「機会性同性愛」と言います。とりわけ長期間に亘って遠国へ出陣する機会が多かった戦国武将(例えば、武田信玄織田信長徳川家康伊達政宗等)の男色は有名で、大河ドラマ「おんな城主 直虎」第42話では少年期の井伊直政(万千代)が徳川家康の色小姓となる場面が登場しています。なお、武士同士の男色を「衆道」と言って元服後の成人男性(念者)と元服前の少年(若衆)が同性愛のカップルになることが基本的なパターンでしたが、戦国時代に来日したイタリア人宣教師・ヴァリニャーノは日本の男色文化にカルチャーショックを受けて「色欲のなかで最も堕落したものであって、これを口にするには堪えない」と露骨な嫌悪感を示し、「若衆達も、関係のある相手もこれを誇りとし、公然と口にし、隠蔽しようとはしない」と呆れ果てています。江戸時代になって合戦がなくなっても男色が廃れることはなく、男色及び女色を嗜むバイセクシャル井原西鶴好色五人女」より)や男色のみを嗜むホモセクシャル井原西鶴「男色大鏡」より)が江戸の街に溢れ、やがて町人文化が発展すると町人の間にも男色文化が広がり男娼が登場するなど、日本では古代ギリシャにも匹敵する世界でも屈指の男色文化が発展します。なお、江戸時代の男娼は、女装した男性及び男装した女性による歌舞が評判となった阿国歌舞伎がルーツであると言われていますが、興行を成功させるために、美少年や美少女の役者が好色客と枕を共にしていたと言われています。やがて、阿国歌舞伎は遊女歌舞伎(女性)や若衆歌舞伎(少年)に発展しますが、江戸幕府は売春が目に余る遊女歌舞伎及び若衆歌舞伎を風紀紊乱を乱すという理由で禁止し、成人男性のみで構成される野郎歌舞伎の公演のみを許可します。しかし、舞台で顔を売った歌舞伎役者が男娼となって好色客と枕を共にするようになり、後年、江戸城大奥御年寄の江島(金持ちの中年女性)が歌舞伎役者の生島新五郎(イケメンのホスト)と茶屋(ラブホテル)で密会していたことが発覚した江島生島事件(映画「大奥」)へと発展します。因みに、生島新五郎の弟子・生島半六は、初代・市川団十郎を刺殺する事件を犯していますので、非常にお騒がせな師弟です。なお、上述のとおり男娼がいる茶屋のことを「陰間茶屋」と言いますが、これは舞台に立てない未熟な歌舞伎役者のことを「影舞」(かげま)と呼んだことが語源になっており、また、現代のゲイ用語で性交渉をリードする側を「タチ」と言いますが、これは歌舞伎で男役の役者のことを「立役」(たちやく)と呼んだことが語源になっており、歌舞伎と江戸時代の男色文化には深い結び付きがあります。このため、当初、陰間茶屋は歌舞伎役者がいる芝居町及びその周辺(現在の人形町や銀座等)に多くありましたが、その後、幕府による取締りが強まると徳川将軍家菩提寺である寛永寺に参詣する奥女中やその僧侶がご贔屓にしていた湯島天神及びその周辺にある陰間茶屋のみに減っていきます。その後、明治政府は、西洋諸国から文明国として認められるため、男娼や姦通を禁じる西洋諸国に倣って日本でも男娼や盆踊り(乱交パーティー)等を規制し、日本の男色文化は廃れることになります。なお、江戸時代に男色文化が発展した背景には、当時、封建社会で好きな異性と自由に恋愛結婚できる環境にはなく、また、好きな異性と自由に恋愛したくても婚外子が原因で家督争いに発展する虞があったことなどから、性に寛容であった神道の影響を受け、また、男色に救いを求める僧侶(仏教)の存在を模範として、気兼ねなく付き合える男色家や男娼が持て囃されたという社会事情があったのではないかと考えられます。因みに、日本は男性社会であったことから、男性に関する歴史的な記録は数多く残されている一方で、女性に関する歴史的な記録は非常に乏しく、その結果として女性の同性愛に関する記録も殆ど残されていません。しかし、鎌倉時代に書かれた擬古物語我身にたどる姫君」第6巻には女性の同性愛に関する記述が見られ、また、江戸時代には女性の同性愛のための性具が存在していたことから、少なくとも、女性の同性愛が存在していたことは確認でき、おそらく平安時代の宮廷、江戸城の大奥や吉原等の遊郭など男子禁制の女性社会(ホモソーシャル)では女性の同性愛が存在していたのではないかと考えられます。また、陰間茶屋には男性客だけではなく女性客も訪れていたそうなので、女性客の中には男娼との間で女性の同性愛の疑似体験を求める者もいたのではないかと考えられます。
 
 
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上述のとおり歌舞伎界はその歴史的な経緯から完全な男性社会(ホモソーシャル)になりましたが、過去のブログ記事でも触れたとおり、クラシック音楽界はキリスト教音楽として発展してきた歴史的な経緯(即ち、キリスト教では、アダム(男性)よりもイブ(女性)の方が罪深いと考えられてきましたので、キリスト教音楽を含むキリスト教会の活動から女性を排除してきた歴史的な経緯)から伝統的に男性優位の男性社会(ホモソーシャルが続いてきました(映画「カストラート」)。このことは以下の芸術家の言葉に端的に表れており、ゲイの道は芸に通じると揶揄されるクラシック音楽界がつい最近まで男性優位の男性社会(ホモソーシャル)であったことを物語っています。この点、メトロポリタン歌劇場の元音楽監督だったアメリカ人指揮者のジェイムズ・レバインが少年に対するセクハラ疑惑(小児同性愛)で解任され、その後、新しく音楽監督に就任したカナダ人指揮者のヤニック・ネゼセガンがホモセクシャル(同性愛者)であることをカミングアウトしたことは象徴的な出来事と言えるかもしれません。なお、男性の同性愛者と異性愛者の脳を比べてみると、男性の同性愛者の前交連(右脳と左脳をつなぐ脳梁という部位の一部分)の断面積が男性の異性愛者のそれと比較すると大きい傾向があるという研究結果が公表されています。この点、女性は、右脳と左脳の機能が男性ほど分化しておらず(女性は右脳と左脳を同時に使って処理)、女性の前交連は男性のそれと比べて発達していますので、男性の同性愛者の前交連は女性のそれと似たような働き方をしているのではないかと考えられています。クラシック音楽界で活躍する人に男性の同性愛者が多いとすれば、セクシャルマジョリティである男性の異性愛者とは異なる脳の構造的な特徴があり、独創的な発想をしているためではないかと考えられます。その意味で、この研究結果は女性やその他の多様な性を生きる人がクラシック音楽界で活躍できる可能性が大きいことを示唆するものでもあり、非常に興味深いものと言えます。因みに、アインシュタイン博士は同性愛者ではありませんでしたが、その死後解剖でアインシュタイン博士の脳の前交連の断面積が男性の異性愛者のそれと比較して相当に大きかったことが明らかにされています。クラシック音楽界では、1900年代の後半になって漸くオーケストラの演奏者として女性が採用されるようになり(ザビーネ・マイヤー事件)、また、指導的な役割を担う指揮者や作曲家への女性の進出も徐々に目立つようになってきていますので(映画「レディ・マエストロ」)、とりわけ多様で独創的な才能が求められる芸術の分野で女性やその他の多様な性を生きる人の活躍が期待されます。
 
「この世には3種類のピアニストがいる。ユダヤゲイと下手くそ。」
ゲイの数が一番多いのは音楽関係だよね。二番目が美術家でしょ。」
武満徹
アメリカのクラシックはゲイがつくった。」(バーンスタイン
「いい男は、皆、ゲイね。」
 
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クラシック音楽界で活躍する人に男性の同性愛者が多いためなのか、同性愛を扱ったクラシック音楽作品も存在し、その代表的なものをご紹介しておきます。20世紀最高のオペラ作曲家で親日家としても知られる作曲家・ブリテンは、テノール歌手のピーター・ピアーズを生涯のパートナーとする同性愛者であったことは広く知られており、同性愛を扱ったオペラ「ヴェニスに死す」(同じ題材を扱った映画「ヴェニスに死す」も有名)やオペラ「ピーター・グライムズ等の作品を残しています。また、ブリテンは、来日時に観劇した能楽隅田川」に感動し、これを翻案してオペラ「カリュー・リヴァー」を作曲していますが、能楽の表現様式に倣って、狂女(=梅若丸の母)役をテノール歌手のピアーズが担当しています。ブリテンは、時代の既成価値である異性愛を前提とする模範的な「男性」を演じるように求める世間(イギリスで同性愛が合法化されたのは1967年)との葛藤に苦しめらますが、男性の能楽師が異性装で能面を被り、自らの身体(身体的性等の境界)を越えて、その精神世界の本質へと迫ろうとする能楽の美意識やその芸術性の高さにシンパシーを感じていたのかもしれません。なお、ピアーズは、オペラ「ヴェニスに死す」で美少年に心奪われる老小説家やオペラ「ピーター・グライムズ」で社会に溶け込めない漁師グライムズなど多くのブリテンのオペラ作品で個性的な役柄を初演して成功していますが、時代の既成価値とのギャップに苦しみながら自らの心に忠実な生き方しかできない人間の内面に対するブリテンの温かい眼差しと、そのことに深く共感しているピアーズでなければ表現を尽くすことができない舞台と言えるかもしれません。因みに、撲が知る限り、同性愛を扱ったクラシック音楽作品は残していないと思いますが、チャイコフスキー(ラルフ・プレガー監督の映画「チャイコフスキー・ファイル~ある作曲家の告白」)、ラヴェル(イヴリー・ベンジャミン著作「モーリス・ラヴェル-ある生涯」)やプーランク村上春樹著作「東京奇譚集」)等も同性愛者であった可能性が指摘されており、そのことが彼らの作品にどのような影響を与えた可能性があるのかなどについて研究が待たれます。なお、PLAYBILL(ブロードウェイのニュースサイト)は、プッチーニ作曲のオペラ「ラ・ボエーム」を現代に置き換えた「レント」や映画にもなった「コーラスライン」などLGBT(QIA)を扱った38のミュージカル作品を紹介しており、現代を表現するミュージカル作品がSDGsの取組みにあたって人々の意識を変えるために果し得る役割の大きさを感じさせます。
 
 
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ジェンダー・フリーの問題は、「性別(多様な性のあり方を含む)による不合理な差別」が意識的に行われるものばかりではなく無意識的に行われるものも多いということを念頭に置いて考える必要があると思います。最近、「ブルー=男性らしい色、ピンク=女性らしい色」というジェンダー・バイアスに対し、ジェンダーニュートラルな色のベビー用品やおもちゃなどが増えてきているそうです。そもそも、ピンクが女性らしい色と認識されるようになった経緯は、18世紀にベルサイユ宮殿で始まったピンクブームにまで遡るそうですが、ルイ15世の寵愛を受けていたポンパドール夫人がピンク色のドレスを好み、これに倣ってベルサイユ宮殿に暮らす王室女性達がルイ15世の気を引くためにピンク色のドレスを着用し始め、それがヨーロッパ全域に広がったことが端緒と言われています。その後、1950年代にアイゼンハワー大統領の妻・マミーがベルサイユ宮殿の王室女性達のファッションに憧れてピンク色の洋服を好んで着用するようになり、それに目を付けた企業やメディアが「ピンク=女性らしい色」というイメージで商戦を仕掛けたことがアメリカのピンクブームの契機になったようです。第二次世界大戦後、アメリカのピンクブームが日本にも伝播し、商業ベースに乗って戦隊物の元祖・秘密戦隊ゴレンジャー歌舞伎「白波五人男」がモデル)のモモレンジャーやアイドルユニット・ピンクレディー(ブロードウェイミュージカル「ピンク・レディー」に因んで作られた同名のカクテルから命名)等に代表されるポップカルチャーや広告の影響から「ピンク=女性らしい色」というジェンダー・バイアスが広まりました。このように人工的に作り出された「らしさ」(偏見)は社会の至る所で様々な態様で存在し、個人の趣味・趣向を超えて、その自然的ではない「らしさ」(偏見)に従うことを期待するという形で、それを好まない人達に対する「性別による不合理な差別」が無意識的に行われている状況があるのではないかと思います。もう1つ、人工的に作り出された「らしさ」(偏見)から「性別による不合理な差別」が意識的に行われていた事例として、フランスでは2013年1月31日に廃止されるまで女性のズボン着用を禁止する条例(違反者には罰金)が存在していました。この条例は、1800年に女性は男性をサポートしながら女性らしい生活を送るべきだという男性優位の考え方から女性のスカート着用を推奨する目的で制定され(衣服によるジェンダー・バイアス)、フランス以外の欧米諸国でも性別によるドレスコードが設けられるようになりましたが、事実上、これによって女性は特定の職業や活動に従事することが妨げられてきました。これに対し、女性解放を求めてズボンを着用する女性達が現れ、1960年代にイヴ・サン=ローランが女性用のタキシードやパンツスーツを発表したこと(映画「イヴ・サンローラン」)を契機として、一気に女性のズボン着用が広まりました。因みに、この頃、フランスでは女性が自分の名前で銀行口座を開くことが可能になりました。その後、ユニセックスな服装としてジーンズが普及したことによって、徐々に女性のズボン着用に対する偏見がなくなり、女性の就業や活動の幅が広がることになりました。この点、どのようなことが「性別による不合理な差別」に該当するのかについては具体的に洗い出して行く必要がありますが、取り敢えず、これまでのセクハラ等に加えて以下のようなSOGI(ソジ)ハラを理由とする労災申請や訴訟が急増している現状を踏まえて2021年4月に改正労働施策総合推進法が施行され、以下のようなSOGI(ソジ)ハラ対策を講じる義務が追加されて企業に課されており、今後、具体的な事例等に従ってその内容が拡充、整備されて行くと思われます。
 
【SOGI(ソジ)ハラ】
①LGBT(QIA)に対する差別的な言動や嘲笑、差別的な呼称
②LGBT(QIA)に対するいじめ・無視・暴力
③LGBT(QIA)に対する望まない性別での生活強要
④LGBT(QIA)に対する不当な異動・解雇
⑤LGBT(QIA)のSOGIを許可なく公表(アウティング)

  ☟ 当面、企業に対して課せられている対策義務

【不作為義務】
◆相手の性的指向性自認に関する侮辱的な言動を行うこと。
◆労働者の性的指向性自認や病歴、不妊治療等の機微な個人情報について、当該労働者の了解を得ずに他の労働者に暴露すること。

【作為義務】
◇労働者の了解を得て、当該労働者の性的指向性自認や病歴、不妊治療等の機微な個人情報について、必要な範囲で人事労務部門の担当者に伝達し、配慮を促すこと
◇相談者・行為者等のプライバシー(性的指向性自認や病歴、不妊治療等の機微な個人情報も含む)を保護するために必要な措置を講ずるとともに、その旨を労働者に対して周知すること。
 
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同性愛の差別撤廃を題材とした映画「MINK」プッチーニ作曲のオペラ「トスカ」の音楽が使われています。)や女性の参政権を題材とした映画「未来を花束にして」などジェンダー・フリーを実現するために戦った人々の実話を題材とした映画は数多く存在します。日本でも同性婚や夫婦選択的別姓の導入を求める声は多く、今回の選挙でも争点の1つとなったホット・イシューです。この点、同性婚や夫婦選択的別姓の導入に反対する人々の主張は、日本の伝統的な国家観や家族観と相容れないことを論拠とするものが主流ではないかと思われます。即ち、祖先から子孫へと血を受け継ぐ縦の系統を基本とし、それにより忠孝を重んじる価値観が醸成され、それが様々な社会関係にも適用されてきた歴史的な伝統を守ろうとする立場から、子供を作れない同性婚や縦の系統から逸脱する夫婦別姓を制度的に保障することは、その歴史的な伝統を壊してしまう虞があるというのが大まかな論旨ではないかと理解します。この点、近世から近代になって国家の富の分配の方法が(家父長思想に従って嫡男による)「土地(家督)の単独相続」から(平等思想に従って家族全員による)「金銭の分割相続」へと変遷したこと(その経緯は大河ドラマ「晴天を衝く」で描かれています。)、封建制の崩壊によって「身分の保障」(社会的地位(家督)の世襲)から「機会の保障」(自由競争に基づく実力主義)へと変遷したことや現代的な要因から核家族化が進展したことなどによって、実態上、家父長思想に基づく家制度はその実質を失っており、その限りで伝統的な家族観は崩壊しているように感じられます。自然界(人間以外の多種多様な動物)にもホモセクシャルが確認されるという事実は、必ずしも「生殖」(=子供を作ること)ばかりが種の保存や自然との調和にとって有益であるとは限らないという可能性を示しているものであり、その意味で「生殖」=「生産性」という短絡的な認識から安易な結論に至っている主張に合理性を見い出すことは難しく、もう少し慎重な議論が求められる問題ではないかと思います。人類が次世代のためにSDGsで宣言している「誰一人取り残さない(No one will be left behind)」世界という高い志を実現するために、もう少し知恵を尽くす必要があるのではないかと思います。この点、日本が困難を避けて、伝統を守るために、社会を発展させるために、誰かを取り残さなければならない未熟な世界に留まるという不名誉な決断をするのであれば、「国際社会において、名誉ある地位」を占めることは難しく、誰かを取り残さなければ守れない懐の狭い伝統、誰かを取り残さなければ発展させられない脆弱な社会ということになってしまいそうです。俄かに結論を得ることが難しい問題ばかりですが、今後、更に個別の問題について国民的な議論を重ねる必要があると思います。
 
系統 結縁 規律 備考
伝統的
家族観
縦の関係 家父長思想
(忠孝)
万世一系
天皇
同性愛
家族観
横の関係 平等思想
(契約)
 
◆おまけ
オペラ「ベニスに死す」(ブリテン作曲)は、小説家トーマス・マンがベニス旅行中に出会った美少年に夢中になった体験を基に執筆した小説「ベニスに死す」を台本にしていますが、ブリテンはこの小説を基に映像化された映画「ベニスに死す」(ヴィスコンティ監督)に感銘を受けて作曲を決意しています。 
 
映画「ベニスに死す」(ヴィスコンティ監督)は、マーラー作曲の交響曲第5番第4楽章「アダージョ」をテーマ曲にしていますが、小説「ベニスに死す」の主人公の名前に「グスタフ」がつくのはトーマス・マンと生前に親交があり、この小説を執筆する直前に死亡したマーラーへのオマージュです。
 
オペラ「ピーター・グライムズ」(ブリデン作曲)は、テノール歌手・ピアーズが感銘を受けたイギリス人の詩人であるジョージ・クラブの詩「町」の一節である「ピーター・グライムズ」を台本にしています。オペラの間奏曲が組曲「4つの海の間奏曲」「パッサカリア」へ編曲されています。
 
King Gnuの「The Hole」(作詞作曲:常田大希)のMPVに登場する主人公は「光」という中性的な名前で、愛情と暴力、異性愛と同性愛の狭間を揺れ動く現代のユニセックスな若者像と言えます。なお、常田は「社会と結びついた音楽をしたい」という理由で東京藝大を中退しています。