大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

ティーレマンと語るベートヴェン「運命」

【題名】ティーレマンと語るベートヴェン「運命」
【監督】クリストフ・エンゲル
【出演】クリスティアンティーレマン(指揮者)
    ヨアヒム・カイザー(評論家)
【曲目】ベートーヴェン 交響曲第5番ハ短調Op.67「運命」
     <Cond.>クリスティアンティーレマン
     <Orch.>ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
【放送】クラシカJAPAN
    平成25年5月18日(土)10時00分〜11時45分
【感想】
このブログの右欄にあるプロフィールの詳細をご覧頂くと分かりますが、僕は昔から「スナフキン」というハンドルネームを愛用しています。ご案内のとおりトーベ・ヤンソンの小説「ムーミン」(主人公のムーミントロールは「カバ」ではなくスウェーデンの「妖精」という設定です)を題材にして日本でも放映されたTVアニメ「楽しいムーミン一家」の中に出てくるキャラクターの1つです。スナフキンというのは英語表記名(スウェーデン語ではスヌス・ムムリク)で、その人生観や世界観によって親友であるムーミントロール等に影響を与えています。スナフキンは自由と孤独を愛する吟遊詩人で、一人旅を好み、ムーミン谷の中ではムーミントロールなどごく一部の人に対してのみ心を許しますが、基本的に人付き合いが煩わしく、それ以外の人に対してはひどく無愛想というキャラクター設定になっています。何故、僕が「スナフキン」というハンドルネームを使っているのかと言えば、僕の為人がスナフキンのキャラクター設定と驚くほど一致しスナフキンの言動に深く共感する(というより僕にとっての必然である)ことが多いことから、自分自身を理解するための便として昔からスナフキンというキャラクターは僕にとって掛け替えのない存在なのです。「ムーミン谷のひみつ」(冨原真弓著/ちくま文庫)という本の中でスナフキンについて興味深い分析が加えられていますので、以下に少しご紹介しておきます。好むと好まざるとに拘わらず、この分析によって浮き彫りにされているスナフキンの特徴は、僕の性格や思想、信条を多かれ少なかれ言い当てるものでもあり、この本を読みながら身につまされる思いがして、何やらこそばゆい感じがします。

ムーミントロールスナフキンに対する友情は片思いに近い。友情にも、恋愛と同じように、片思いはある。当事者のふたりが、きっかり同程度に好意をいただきあうのは、むしろめずらしい。たいていはどちらかが寂しい思いをする。…ムーミントロールは手放しでスナフキンを崇拝し、いつもいっしょにいたいと考えるが、スナフキンはときとして自分だけの世界を友情よりも優先する。

この本では、スナフキンについて「決して徒党を組まず、冬になるとムーミン谷を去って、独り気ままな旅に出る。孤独と静寂を愛し、この2つを守る為には時にハードボイルドになる。親友のムーミントロールに対しても細やかな配慮はするが、常に一定の距離を保ち無暗にベタベタはしない。」と分析を加えています。僕の半生を振り返ると、ここで分析されているムーミントロールスナフキンの関係に類似する状況に思い当たることが多いです。スナフキンは孤独と静寂を愛し、自分の世界を大切にしていきたいと考えていることが伺えますが、(どちらが正しい又は間違っているかという正否の問題ではなく)そのようなスナフキンの生き方にシンパシー(共感というより僕にとっての必然)を感じます。命とは「神から与えられた時間」のことだと言いますが、この分析が示すところを煎じ詰めて考えれば、その神から与えられた時間の使い方をどのように「選択」するのか(自分の人生で何を優先するのか)という問題を示していると思います。とりわけ僕のように人生の折返し地点を過ぎて残された人生の時間に思いを馳せるとき「何をするのか」(夢を拡げて行く)ということよりも「何をしないのか」という「選択」(人生に折り合いを付けて行く)が重要になってきます。死の床に在って(少なからず後悔や心残りはあるとは思いますが)自分の人生はマズマズであったと思えるような「選択」をして行きたいものだと常々心掛けています。

時と所をわきまえぬ押しつけがましい称賛はうっとおしい。のみならず、危険である。称賛する相手に自分を重ねあわせて、エゴを勝手に膨らませ、本来の姿を見失ってしまうこともある。

スナフキンは「だれかをあんまり崇拝しすぎると、ほんとうには自由にはなれないんだよ」と語っていますが、他の誰でもない自分として生きることに満足している独立した人格(「個」として確立している成熟した精神)でなければ本当の自由は得られないという趣旨と理解します。この点、前回、チェリビダッケの言葉を紹介しましたが、芸術を鑑賞するということは作品を写し鏡として作者と対話することによって自分自身を見つめ直すことに他ならず、そこに作品を媒介として自分自身にとっての真実を見い出したときに様々な執着から心が解き放たれ、精神の自由な飛翔が可能になる、それが芸術鑑賞の醍醐味ではないかと思います。現代は商業主義に踊らされた流行・風俗(一過性の社会現象、受動的な消費)のみが氾濫し、時代の風雪に耐え得る真の文化(永続的な創造的営み、能動的な受容)と呼べるようなものが育まれ難くなってしまいましたが、他者に共感を求める生き方よりも、自分自身に素直であろうとするスナフキンの生き方が本当に自由ということであり、また、そのような生き方が世の中に多様性を生み、創造力の源泉となるものではないかと思います。

かれらが「とてもしあわせな家族」なのは、ひとりひとりの自由が保障されているからだ。孤独でいる自由。思想と表現の自由、プライヴァシーの自由である。互いに干渉せずにいるには、ときとして強い意志の力が必要だ。相手がたいせつな存在であれば、なおさらである。けれどもムーミンたちは、互いの自立がしあわせの基礎だと知っている。..ムーミンたちの価値観や生活様式には、伝統や安定を是とするブルジョワ的なものと、自由や気楽さを重視するボヘミアン的なものが、かなり無頓着に混じりあっている。ブルジョワの戯画というべきフィリフヨンカや一部のヘルムのように、古くさい習慣やモノにむやみに囚われることもないが、ボヘミアンの理想というべきスナフキンやミィほど、みごとにふっきれてもいない。

本来、ボヘミアンとは、定職を持たない芸術家や作家又は世間に背を向けた者など伝統的な暮らしや習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている者を指し、良く言えば「簡素な暮らしで、高尚な哲学を生活の主体とし、奔放で不可解」、悪く言えば「貧困な暮らしで、アルコールやドラッグを生活の主体とし、セックスや身だしなみにだらしない」という意味で使われます。プッチーニの歌劇「ボエーム」やミュージカル「ムーラン・ルージュ」もボヘミアンを題材にした舞台ですが、芸術家の根底には多かれ少なかれスナフキンのようなボヘミアニズム(伝統に縛られない斬新さ、自分の表現意欲に素直でいられる自由な心...)があるような気がしています。ショスタコーヴィチは自らの表現意欲に忠実でありたいとスターリン政権との文字通り命懸けの(創作過程における)闘いを繰り広げた話は有名ですが、芸術の源は「自由」にあり、だからそこスナフキンのような生き方に憧憬と共に強い共感(というより僕にとっての必然)を覚えます。

ミュージカル「ムーラン・ルージュ

プッチーニの歌劇「ボエーム」

「雨に濡れたつ おさびし山よ 我に語れ 君の涙の その訳を」(吟遊詩人スナフキン

ムーミン谷のひみつ (ちくま文庫)

ムーミン谷のひみつ (ちくま文庫)

さて、クラシカJAPANで「ティーレマンと語るベートヴェン「運命」」という番組が放送されていたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。音楽評論家のヨハヒム・カイザーがVPOとの間で新しいベートーヴェン交響曲全集を完成させた指揮者のクリスティアンティーレマンベートーヴェン「運命」の性格や特徴、さらには独自解釈を討論するという内容です。フルトヴェングラーカラヤンバーンスタインパーヴォ・ヤルヴィなど、さまざまな指揮者の演奏との比較も出てきて興味深いです。

...続く。現在、執筆中。