大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。

映画「モリコーネ 映画が恋した音楽家」と映画音楽<STOP WAR IN UKRAINE>

▼世界を席巻した20世紀最大の発明(ブログの枕前編)
2020年7月に映画音楽の巨匠、エンニオ・モリコーネが逝去されましたが、E.モリコーネへのオマージュとして公開されたドキュメンタリー映画を鑑賞しましたので、この機会に映画音楽の歴史を大雑把に俯瞰したうえで、その感想を簡単に残しておきたいと思います。過去のブログ記事でも触れたとおり、映画音楽劇音楽の系譜に位置付けられ、その歴史は詩、舞踊及び音楽が結合した古代ギリシャ劇まで遡ることができますが、古代ギリシャローマ帝国に滅ぼされるとキリスト教の教義を題材にしたラテン語による典礼劇(神のための宗教音楽)等が主流となり、やがて十字軍遠征の失敗等からキリスト教会の権威が失墜するとルネッサンスの勃興により人間の本性等を題材にした英語によるシェイクスピア劇(人間のための世俗音楽)等が台頭しました。その後、バロック時代になると古代ギリシャ劇を復活する試みの中からイタリア語によるオペラが誕生しますが、言葉の障壁、和声理論の確立や楽器の発達等の影響から言葉を使わずに旋律美よりも和声美を重視する器楽曲が発達して、言葉を使わない音楽のうち、絵画や文学など音楽以外の要素と音楽を結び付けることなく音の構造のみで表現する絶対音楽(音楽の自律性)が隆盛を極めましたが(ソナタ形式や機能和声等の駆使)、市民社会の台頭を背景として作曲家はより多彩で分り易い表現を求め、言葉を使わない音楽のうち、絵画や文学など音楽以外の要素と音楽を結び付けて表現する標題音楽(音楽の附随性)が発達しますが(ソナタ形式や機能和声等の際限ない拡張)、その影響等からR.ワーグナーは音楽の自律性から劇よりも音楽を重視するオペラではなく音楽の附随性から劇を表現の目的として音楽、台詞、美術等を総合する楽劇を提唱してライトモチーフなど音楽を使って劇を物語る表現手法を考案し、その後の映画音楽に多大な影響を与えました。このような歴史的な文脈を経て技術革新により映画及び映画音楽が誕生しました。1888年にT.エジソンは「キネトスコープ」(覗き穴方式の映写機)や「キネトグラフ」(映像撮影用のカメラ)を発明しましたが、その影響等から1895年にリュミエール兄弟は「シネマトグラフ」(スクリーン方式の映写機+映像撮影用のカメラ)を発明し、1895年12月28日にパリで映画の興行(多数の観客を集めて映画鑑賞料金を徴収すること)を催しており(映画「リュミエール」)、この日が「映画誕生の日」とされています。このような経緯により、現在、映画を意味する日本語には「キネトスコープ」や「キネトグラフ」に由来する「キネマ」(英語)と「シネマトグラフ」に由来する「シネマ」(フランス語)の2種類があります。サイレント映画は、無声なので映像以外の方法で場面の状況説明を補足する必要があったことやシネマトグラフが発する雑音が耳障りであったことなどから、ピアノ、足踏みオルガンやオーケストラなどによる既成曲の生伴奏(日本では和楽器の伴奏や活動弁士による解説等)と一緒に上映されていましたが、やがてD.ショスタコーヴィチなど若手のクラシック音楽家などが映画館でピアノ伴奏のアルバイトをするようになりました。また、映画のためのオリジナル曲を作曲するクラシック音楽家なども登場して、C.サン=サーンス(70)がサイレント映画「キーズ公の暗殺」(1908年)のために作曲した映画音楽「ギーズ公の暗殺」が世界初の映画音楽と言われていますが(駄作などには作品番号を付していないC.サン=サーンスがこの曲には作品番号を付していることから純音楽と商業音楽(映画音楽)を分け隔てなく捉えていたと考えられます)、第一次世界大戦クラシック音楽やオペラ等の古典作品を育んできた中近世的な社会体制や価値観等が崩壊し、これに伴って芸術・文化等も大きく変容した時代の転換点)を挟んで、P.ヒンデミット(26)がサイレント映画「山との闘い」(1921年未完)のために作曲した映画音楽「嵐と氷の中で」、A.オネゲル(30)がサイレント映画鉄路の白薔薇」(1922年)のために作曲した映画音楽「車輪」(この経験から、A.オネゲル交響的断章第1番「パシフィック231」(1923年)を作曲しましたが、それまでのクラシック音楽が題材として扱っていなかったものを音楽に採り入れる契機となり映画という表現媒体の懐の広さを物語る逸話です。)、E.サティ(58)が自作のバレエ「本日休演」(1924年)の幕間に上映するサイレント映画のために作曲した映画音楽「幕間」(この幕間映画にはバレエ「本日休演」の台本、美術及び演出を担当したダダイストの画家・ピカビアとミニマル音楽の先駆者・サティが出演しています。)やD.ショスタコーヴィチ(22)がサイレント映画「新バビロン」(1929年)のために作曲した前衛的・諧謔的な性格に彩られたポピュラー音楽風の映画音楽「新バビロン」などが誕生しました。また、A.シェーンベルクは12音技法を使って特定の映画のためではなく架空の映画を想定して「迫りくる危険」「不安」「破局」という3つの標題を持った「映画の一場面のための伴奏音楽」(1930年)を作曲しました。1895年にT.エジソンはキネトスコープ(映像)とフォノグラフ(音声や音楽)を組み合わせた「キネトフォン」を発明してトーキー映画(トーキング・ピクチャー)の開発に先鞭をつけましたが、1925年にビクターがレコード(電気録音)を開発して、1926年にワーナー・ブラザースが「ヴァイタフォン」(映像が記録されているフィルムとは別に音声や音楽をレコードに記録して、その映像とレコードを映画館で同時に再生して上映する方式)を発明して、第一次世界大戦後の本格的な大衆社会を迎えつつあった1927年に世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」(1927年)を上映してトーキー映画が誕生し、同じ年に日本でもトーキー映画「黎明」(1927年)が上映されて、山田耕作が映画音楽を担当しました。因みに、過去のブログ記事でも触れましたが、同じく1927年に物語と歌を融合したブック・ミュージカル「ショー・ボート」が上演され、ヨーロッパの貴族文化の流れを汲むオペレッタに対するアメリカの大衆文化としてミュージカルが誕生し、ハリウッド(東部)がブロードウェイ(西部)からミュージカル音楽の作曲家を招聘してミュージカル映画が隆盛しました。しかし、ヴァイタフォンはレコードと映像の再生タイミングがズレ易いなどの欠点が問題となり、1927年にフォックスが「ムービートーン」(映像が記録されているフィルムに音声や音楽を記録して(サウンドトラック)、そのフィルムを映画館で上映する方式)を導入して、その欠点を克服することに成功しました。その後も技術的な改良が重ねられましたが、1935年に放送開始されたテレビの普及によって1950年代から映画人気は急速に衰退した一方で、第二次世界大戦過去のブログ記事でも触れたとおり、ヨーロッパを中心とする古い世界秩序からアメリカを中心とする新しい世界秩序へ移行したことに伴うアメリカニズムの台頭)を契機としてアメリカの独自性が発揮されるようになり、J.ディーンやE.プレスリーなどの登場で若者文化が隆盛し、また、1964年から1973年まで続いたベトナム戦争に反対する若者のカウンターカルチャーとしてヒッピー文化が生まれましたが、その時代の若者の姿を描いた1969年に映画「イージー・ライダー」がヒットして映画人気が回復し、若い映画監督が積極的に起用されるようになってロックやポップス等の若者文化の幅広い音楽が映画音楽に採り入れられました(ニュー・シネマ運動)。その後、1975年に開発されたビデオの普及により旧作映画のビデオソフト販売が開始されてビデオソフト市場が急伸し、それまで映画館(大衆)で見ていた映画を自宅(家族)で見るようになりました。1998年にソニーがフィルム映画に比べて編集や保存に優れたデジタル映画を発明し、2002年にデジタル映画「スター・ウォーズ エピソード2」が上映されましたが、その後、インターネットの普及により自室やスマホ(個衆)で映画を見るようになり、個人の趣味嗜好に合わせるようにヒップホップやポストクラシカルなど多様な音楽が映画音楽に採り入れられています。トーキ映画が誕生した以降の映画音楽の歴史は、以下で簡単に後述します。
 
▼映画と映画音楽の歴史
僅か100年の間に社会や技術のイノベーションと共に時代を映す映画も革新し、それに伴って映画音楽の有り様も変化しています。
社会 映画 映画音楽
資本 映画館 映画の誕生
サイレント映画
クラシック音楽
第一次
世界大戦
クラシック音楽の終焉>
トーキー
革命
クラシック音楽
ポピュラー音楽(ミュージカル)
大衆 第二次
世界大戦
現代音楽
ポピュラー音楽(ジャズ、ミュージカル)
ベトナム
戦争
自宅 TV
革命
現代音楽
ポピュラー音楽(ロック、ポップス、ジャズ、ミュージカル)
ビデオ
革命
個衆 自室 デジタル
革命
<ボーダレス社会の到来>
多様な音楽
 
映画音楽=現代音楽+ポピュラー音楽(ブログの枕後編)
上述のとおりサイレント映画では音声や効果音に代わって映像を補足説明するための音楽が映像の全編にベタ付されましたが(ワークナーの楽劇を淵源とし、ポスト・クラシカルやオーディオ・ビジュアルアートの先駆け)、トーキー映画の誕生によって映像と音(音声、音楽、効果音)の同期が可能になると音楽は映像及び音声と有機的に結び付いてバックグランドミュージックとして発展しました。トーキー映画誕生の翌年、W.ディズニーはミッキーマンスを生んだ短編アニメ映画「蒸気船ウイリー」(1928年)を制作するにあたり、トーキー映画の規格である24コマ/秒をメトロノームの代わりにして映像と音を同期させる技法(ミッキーマウスに因んで「ミッキーマウシング」と呼ばれています。)を考案しますが(過去のブログ記事で触れましたが、パソコンのマウスの感度を表す単位を「ミッキー」と呼ぶのもミッキーマウスに由来しています。)、この技法を使って製作された映画「キング・コング」(1933年)で映画音楽家M.スタイナーワーグナーのライトモチーフの手法を採り入れて人物や場面に音楽テーマを設定した初めての映画音楽を作曲し、映像を補足説明するための映画音楽から映像(行動や状況)と音楽を同期して劇的な効果を生む映画音楽へ革新しました。当時、ハリウッドは旧世界(貴族趣味を反映するヨーロッパの伝統)から新世界(大衆趣味が息衝くアメリカの革新)へクラシック音楽家を積極的に招聘していましたが、オペラ「死の都」でR.シュトラウスの再来と言われたE.コルンゴルトユダヤ人)がこれに応えてナチス=ドイツのオーストリア併合でアメリカに亡命して第二次世界大戦終結まで映画音楽の作曲に専念し、映画「風雲児アドヴァース」(1936年)や交響的序曲「スムスル・コルダ」を使用した映画「ロビンフッドの冒険」(1938年)でアカデミー作曲賞を受賞しました。但し、E.コルンゴルトはハリウッド式のキュー・シート(映像のどの部分にどの長さでどのような音楽を付すのかという指示書)に従って映画音楽を作曲するスタイルには馴染めず、オペラの作曲と同様に映像や脚本から受ける自らのイマジネーションに従って映画音楽を作曲したと言われています。また、ロシア革命アメリカに亡命していたS.プロコフィエフ旧ソ連に戻って映像と音の対位法について述べた「トーキに関する宣言(モンタージュ論)」に触発されて映画「アレクサンドル・ネフスキー」(1938年)のための映画音楽を作曲しました。やがて第一次世界大戦第二次世界大戦を契機とするアメリカニズムの台頭を背景としてアメリカの独自性が発揮されるようになると、アメリカの現代作曲家のA.コープランドが映画「我等の町」(1940年)等でアメリカ民謡等の要素を取り入れた明快な作風を映画音楽に採り入れ、アメリカらしさを音楽的に表現することに成功しました(A.コープランドは、アメリカに滞在中に弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」を作曲したA.ドヴォルザークの孫弟子)。その弟子のA.ノースは映画「欲望という名の電車」(1951年)等で人物の外面(行動や状況)に音楽テーマを設定するのではなく人物の内面(性格や個性)に音楽テーマを設定してライトモチーフの手法を拡張し、B.ハーマンは映画「市民ケーン」(1941年)等でライトモチーフの手法を使用することなく物語のテーマに迫る映画音楽を志向しました(手法の革新)。また、テレビの普及により映画人気は急速に衰退した一方で、J.ディーンやE.プレスリーなどの登場で若者文化が隆盛したことを背景として、世界的なジャズ・トランぺッターのM.デイヴィスが映画音楽を担当した映画「死刑台のエレベータ」(1955年)、世界的なロックン・ローラーのB.ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」をフィーチャーした映画「暴力教室」(1955年)やH.マンシーニが映画音楽を担当した映画「ティファニーで朝食を」(1961年)などでジャズ、ロックやポップスのポピュラー音楽が映画音楽に積極的に採り入れられるようになり(語法の革新)、世界的な指揮者のL.バーンスタインは映画「ウェストサイド・ストーリー」(1957年)等でジャズを採り入れた映画音楽を作曲し、また、世界的なピアニストのA.プレヴィンも映画「地下街の住人」(1960年)等でジャズを採り入れた映画音楽を作曲し、J.ガーシュインのミュージカルを題材にした映画「ボギーとべス」(1959年)等で音楽監督を務めるなど、クラシック音楽界で活躍する音楽家がポピュラー音楽等を使った映画音楽の世界へ進出しました(ジャンルの越境)。1956年からテレビで映画が放映されるようになるとテレビ局の資金でテレビ用の映画を製作するようになり映画界はテレビ局の資本に依存しながら共存する道を歩み始めましたが、現在でも、このような潮流は衛星放送やオンライン配信事業者等に受け継がれています。その後、ベトナム戦争を契機とするニューシネマ運動の影響などから若者文化の幅広い音楽が映画音楽に採り入れられ、それまでのようにオリジナルの映画音楽を作曲するのではなく既成曲をコラージュする手法が主流となり、映画「2001年宇宙の旅」(1968年)でクラシック音楽、映画「卒業」(1967年)でフォークロック、映画「愛の狩人」(1971年)でスウィングジャズ、映画「目を閉じて」(1971年)や映画「ロマノフ王朝の最後」(1981年)で現代音楽、映画「ゴットファーザー」(1972年)で古民謡、映画「ペーパー・ムーン」(1973年)でポップス、映画「アメリカン・グラフィティ」(1973年)でロックンロール等が映画音楽に使用されるようになり、映画「小さな恋のメロディー」(1971年)や映画「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977年)などレコード会社とタイアップしてサントラ盤を売ることを意識した映画が作られるようになりました。ベトナム戦争終結後、その閉塞感を吹き飛ばし戦前の古き良きアメリカを取り戻すかのようにJ.ウィリアムズはS.スピルバーグ監督の映画「スターウォーズ」(1977年)及び映画「E.T.」(1982年)や映画「シンドラーのリスト」(1993年)で大編成のオーケストラによるオリジナル曲を作曲して米アカデミー賞作曲賞を受賞し、坂本隆一も映画「ラストエンペラー」(1987年)で大編成のオーケストラによるオリジナルの映画音楽を作曲して日本人初の米アカデミー賞作曲賞を受賞しました。因みに、日本の映画音楽では、早坂文雄黒澤明監督の映画「酔いどれ天使」(1948年)、映画「羅生門」(1950年)や映画「七人の侍」(1954年)等の映画音楽を作曲し、その弟子・佐藤勝黒澤明監督の映画「用心棒」(1961年)の映画音楽を作曲して日本人で初めて米アカデミー賞作曲賞にノミネートされましたが、その年は映画「ティファニーで朝食を」(1961年)のH.マンシーニが受賞しました。この映画で人が刀で斬られる効果音(斬殺音)が初めて採り入れられました。早坂文雄のアシスタントを務めたことがある武満徹黒澤明監督の映画「」(1985年)の映画音楽を作曲し、また、ハリウッドの映画「ライジング・サン」(1993年)等の映画音楽も手掛けていますが、「映画音楽の役割は、映像が示さないもの、映像だけでは表現できないものを顕在化することにある。」と語っています。早坂文雄と新音楽連盟を結成した盟友の伊福部昭は映画「ゴジラ」(1954年)の映画音楽を作曲し、コントラバスと動物の声を合成してゴジラの鳴き声を作成するなど効果音の作成にも熱心に取り組みました。黛敏郎はハイウッド映画の超大作である映画「天地創造」(1966年)の映画音楽を作曲しました。このほかに、芥川也寸志團伊玖麿池辺晋一郎ジブリ映画でお馴染みの久石譲大島ミチル戸田信子等の活躍が顕著です。1981年からMTVの放送が開始された影響から、既成曲をコラージュしたサントラ映画「フットルース」(1984年)、音楽家の伝記を題材としたミュージシャン映画「戦場のピアニスト」(2002年)やブロードウェイ作品を題材としたミュージカル映画シカゴ」(2002年)等がヒットし、このような潮流は現在まで続いています。20世紀後半以降、映画「禁断の惑星」(1956年)で電子音楽、映画「時計仕掛けのオレンジ」(1971年)でシンセサイザー(YMO結成は1987年)、映画「トロン」(1982年)でCG、映画「スターウォーズ エピソード2」(2002年)でデジタル映画、映画「アバター」(2009年)で3Dなどデジタル技術が導入され、また、ビデオ、ハードディスクやインターネット等が実用化されてTV(地上放送、衛星放送)で放映される映画を録画することが可能になり、また、ビデオソフト(VHS、DVD、デジタルコンテンツ)の販売、レンタルや動画配信なども開始されると、それまで映画館で見ていた映画を自宅や自室又はスマホで移動しながら見るなど、好きな時間に好きな場所で好きな映画を見ることができるようになりました。このように映画受容環境の激変や音楽嗜好の多様化を背景として、映画という表現媒体の懐の広さから、ポップス、ジャズ、ロック、R&B、ソウル、テクノ、ポスト・クラシカル、エスニック、フュージョンなど、様々な音楽が映画音楽に使用されるようになりました。さらに、VR(仮想現実の映画体験)、IMAX・ULTIRA(高画質とサラウンドによる臨場感ある映画体験)や4DX・MX4D(上映中の映像に合わせてシートが前後左右に動いたり、寒暖や香り、煙など多感覚型の映画館体験)などの技術が開発されており、映画受容環境はさらに大きく革新しようとしています。近年では、映画「美女と野獣」(1991年)など数多くのディズニー映画の映画音楽を作曲したA.メンケン、映画「タイタニック」(1997年)等の映画音楽を作曲したJ.ホーナー、映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」(2003年)等の映画音楽を作曲したH.ジマー、映画「キングダム・オブ・ヘブン」(2005年)等の映画音楽を作曲したH.ウィリアムズ、映画「モアナと伝説の海」(2016年)等の映画音楽を作曲し、ミュージカル音楽の作曲家としても著名なL.ミランなどの活躍が記憶に新しく、また、映画「コヤニスカッティ」(1998年)を作曲したP.グラス、映画「めぐり逢わせのお弁当」(2013年)を作曲したM.リヒター、映画「博士と彼女のセオリー」(2014年)でゴールデングローブ賞を受賞したJ.ヨハンソンなどの数多くの現代作曲家(ポスト・クラシカル)の活躍も目覚ましいものがあります。なお、映画音楽家R.ポートマンは映画「エマ」(1996年)で女性初の米アカデミー賞作曲賞を受賞していますが、2016年に興行収入上位250本の映画を対象に調査したところ、映画製作に携わるスタッフの中に女性が占める割合は脚本家13%、監督7%、作曲家3%に過ぎないという報告があり、今後、女性を含む多様な才能が映画音楽家を含む映画界に参画し、更なる新風を吹き込んでくれることを期待したいです。
 
 
【題名】映画「モリコーネ 映画が恋した音楽家」(原題「ennio」)
    ジェームズ・ヘットフィールド
    ローランド・ジョフィ
    リナ・ウェルトミューラー
【日時】1月13日(土)
【感想】
今日は2020年7月に逝去した映画音楽の巨匠、E.モリコーネへのオマージュとして公開されたドキュメンタリー映画を鑑賞しましたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。この映画は、E.モリコーネの盟友である映画監督のJ.トルナトーレがE.モリコーネな生前から撮影を開始したドキュメンタリー映画で、本人及び映画関係者のインタビューを挟みながらE.モリコーネの生涯と映画音楽を振り返るものですが、この映画が完成する前にE.モリコーネは他界しました。E.モリコーネは日本でも非常に人気が高く、2003年にNHKの大河ドラマ武蔵MUSASHI」に楽曲を提供したのに続いて、2004年~2005年にはE.モリコーネの指揮による来日コンサートが開催され、小泉純一郎首相(当時)などの著名人も駆け付けてマスコミでも大きな話題になりました。1928年、E.モリコーネはトーキー映画と共に誕生し、幼い頃からトランぺッターの父の手解きを受けており、本人は医者志望でしたが父の希望によりサンタ・チェリア音楽院へ進学してトランペットと作曲法(十二音技法など)を学びました。E.モリコーネはサンタ・チェリア音楽院を卒業後に生活のためにラジオ局やテレビ局でカンツォーネを演奏するための編曲及び指揮を担当しましたが、この頃にE.モリコーネの魅力であるオーケストレーション能力が磨かれました。E.モリコーネは映画「連邦政府」(1961年)で映画音楽家としてデビューし、映画「太陽の下の18才」(1962年)でブレイクする順調な滑り出しで、その翌年にこの曲を木の実ナナがカバーしました。E.モリコーネの小学校の同級生である映画監督のS.レオーネの招聘により、黒澤明監督の映画「用心棒」から影響を受けた映画「荒野の用心棒」(1964年)や映画「続・夕陽のガンマン/地獄の決闘」(1966年)等のマカロニ・ウエスタン(当初、欧米ではスパゲッティーウェスタンと呼ばれていましたが、映画評論家の淀川長治が「スパゲッティでは細くて貧弱そうだ」として「マカロニ」と呼び変えたものが欧米に広まったもの)の映画音楽を担当して大ヒットし、一躍、スターダムへと駆け上がりました。サンタ・チェリア音楽院で学んだ現代音楽の作曲技法、父親の影響によるジャズのリズム感、カンツォーネの編曲経験を活かして鞭や鐘など楽器以外の音、口笛、奇声、不協和音等を織り込む革新的なアレンジ等を駆使し、映画の主題を巧みに捉えた魅力的な旋律美や対位法等を使った色彩豊かなオーケストレーション等による音楽スタイルを確立しました。E.モリコーネは、1本の映画の中で自分の音楽と一緒に他人(クラシック音楽家を含む)の音楽を使われることを嫌っていましたが(自分の絵具に他人の絵具を混ぜられるような違和感と語っています)、映画音楽の作曲にあたってはバッハ(及びバッハが対位法を学び取ったであろうフレスコヴァルディー)まで立ち返ることが多かったそうです。例えば、映画「シシリアン」(1969年)はバッハの「前奏曲とフーガ(イ短調)」から着想を得たそうですが、確かに聴き比べてみると音型が似ていることに気付きます。因みに、E.モリコーネは、RCAレコードから映画「天地創造」(1966年)の映画音楽の作曲を依頼されたそうですが、上述のとおり最終的に黛敏郎が作曲した映画音楽が採用されました。その後、E.モリコーネは、自らの音楽スタイルを洗練させながら、映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト(ウェスタン)」(1968年)、映画「わが青春のフローレンス」(1970年)、映画「ラ・カリファ」(1970年)、映画「夕陽のギャングたち」(1971)、映画「1900年」(1976年)、池田満寿夫監督の「エーゲ海に捧ぐ」(1979年)等の映画音楽を担当し、映画「死刑台のメロディー」(1971)で銀リボン音楽賞を受賞するなど第一期黄金期を築きました。その後、パンパイプの響きが印象的な代表作の映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984年)では製作会社がアカデミー賞への出品を忘れて受賞を逃し、映画「ミッション」(1986年)ではアカデミー賞作曲賞にノミネートされましたが、映画「ラウンド・ミッドナイト」(1986年)のH.ハンコックが受賞し、また、映画「アンタッチャブル」(1987年)でもアカデミー賞作曲賞にノミネートされましたが、上述したとおり映画「ラストエンペラー」の坂本龍一が受賞しました。その後、映画監督のS.レオーネの死を契機として映画界を去って現代作曲家に復帰しようとしましたが、映画監督のJ.トルナトーレ強い招聘により映画「ニュー・シネマ・パラダイス」(1988年)で復帰し、映画「海の上のピアニスト」(1998年)、映画「マレーナ」(2000年)等の映画音楽を手掛け、2007年に映画界への多大な貢献と実績が讃えられて米アカデミー名誉賞が授与され、また、同年にはアメリ同時多発テロの犠牲者に捧げたカンタータ静寂の声」(2007年)を国連で演奏して世界的に話題になりました。さらに、映画「へイトフル・エイト」(2015年)でアカデミー賞作曲賞を受賞するなど映画音楽の巨匠の地位を不動なものとする第二期黄金期を築きました。なお、過去のブログ記事でも触れましたが、E.モリコーネは、サンタ・チェリア音楽院で十二音技法を学び、シェーンベルクは主音が絶対的な存在として振る舞う中心がある調性音楽的な世界観(宗教権威、絶対王政)ではなく十二音が形式的に均等に扱われる中心のない無調音楽的な世界観(社会主義+民主主義、形式的平等)を音楽的に体現し、ベルクは十二音が相対的に均等に扱われる中心のない無調音楽的な世界観(自由主義+民主主義、実質的平等)を音楽的に体現していると語っており、音楽は社会と密接に関係しており、第一次世界大戦及び第二次世界大戦を契機としてシェーンベルクやベルクが登場したのは決して偶然ではないと達観しています。また、E.モリコーネは、インタビューの中で「絶対音楽」(発言の趣旨から「純音楽」のこと?「絶対音楽」≧「商業音楽」≠「純音楽」)に優位性を感じて「商業音楽(映画音楽)」を作曲することに抵抗があったそうですが、1970年頃から経済的な理由で映画音楽の作曲に専念するようになり、少し経済的に落ち着いた1980年頃から現代音楽の作曲も再開したと語っています。但し、E.モリコーネは、映画音楽(商業音楽)は懐の広い表現手段であることから、映画音楽を作曲する際も自らの創作意欲に忠実に実験音楽的な要素も盛り込んでおり、「絶対音楽」と映画音楽の垣根を壊すと共に、映像と物語を結び付け、色々なものを融合できるものだとも語っています。この理念は、例えば、映画「ミッション」の映画音楽で西洋、異郷(南米)及び大自然を融合するスケールの大きな音楽に体現されており、E.モリコーネが目指した音楽の理想が示されているようで感動的です。この映画の中では、某映画のワンシーンを使いながら、①映画音楽がない映像、②ピアノ伴奏だけの映画音楽がある映像、③オーケストレーションを施した映画音楽がある映像を対比していましたが、①から③へ進むにつれてまるで絵画が色を帯び、絵画に命が宿る(詩情が込められる)ような感覚を体験できたことは貴重で、E.モリコーネが映画音楽を手掛けた映画は映像よりも音楽を先に思い出すものが多く、如何にE.モリコーネの映画音楽が強烈な印象として観客の心を捉え、映画のイメージを決定付けているのかを示しています。このように観客の心を捉えるE.モリコーネの映画音楽は、現在でも映画音楽以外の様々なジャンルの音楽等に影響を与え続けています。映画「ワンス・アポン・ア・イン・アメリカ」、映画「ミッション」、映画「海の上のピアニスト」等は、その珠玉の映画音楽と相俟って、僕にとっての「生涯の映画」に数えられる名作であり、映画と映画音楽で人生を教えてくれたE.モリコーネに心から感謝すると共に、哀悼の意を捧げたいと思います。
 
 
▼特選コンサート情報
来る2月7日にピアニスト・法貴彩子が「ソナタの魅力と呪縛」と題してベートーヴェンソナタ形式の駆使)、リスト(ソナタ形式の拡張)及びブーレーズソナタ形式の解体)のピアノソナタを採り上げる非常に興味深い演奏会が開催されます。とりわけブーレーズピアノソナタ第2番は演奏至難な曲であり、現状、この曲を演奏できる日本で活動しているピアニストは、東の横綱瀬川祐美子と、西の横綱法貴彩子とに二分されるのではないかと思います。大阪近郊にお住まいの方は聴き逃せません!
 
◆シリーズ「現代を聴く」Vol.15
シリーズ「現代を聴く」では、1980年以降に生まれたミレニアル世代からZ世代にかけての若手の現代作曲家又は現代音楽と聴衆の橋渡しに貢献している若手の演奏家で、現在、最も注目されている俊英を期待を込めてご紹介します。
 
マイケル・アベルズの「アイソレーション・ヴァリエーション」(2020年)
イギリス人現代作曲家のマイケル・アベルズ(1962年~)は、映画音楽等でも著名で各種の賞を受賞ている現代作曲家の巨匠です。この曲は、2020年にヒラリー・ハーン(1979年~)が初演していますが、2023年2月に開催される第65回グラミー賞(最優秀クラシック・インストゥルメンタル(ソロ)部門)にノミネートされています。なお、シリーズ「現代を聴く」は1980年以降に生まれた方のみを対象にしていますが、ヒラリー・ハーンの演奏で現代音楽を開眼された方も少なくないと思いますので採り上げます。
 
▼ヤン・イー・トーのフルートとバスクラリネットのための「虹色の影」(2020年)
シンガポール人現代作曲家のヤン・イー・トー(2000年~)は、ヨン・シュー・トー音楽院で作曲を専攻する現役の音大生で、ボストン・ニューミュージック・イニシアチブ(BNMI)が主催する第8回若手作曲家コンクールで優勝している将来を嘱望されている期待の俊英です。同コンクールで優勝したこの曲以外にも面白い作品が多く注目しています。なお、BNMIは現代音楽の演奏機会を創出する国際ネットワークとして米国の大学生が組織したものですが、このような芸術を革新するための取組みにも期待したいと思っています。
 
中村由紀の声楽アンサンブルのための「セッティング」(2022年)
日本人現代作曲家の中橋由紀(1995年~)は、2022年にジュネーブ国際コンクールで第2位を受賞して大変に話題になりましたので、改めて採り上げるまでもなく世界的に著名な現代作曲家です。この動画は、中橋由紀がジュネーブ国際コンクールで第2位を受賞した際の映像ですが、J.S.バッハのカンタータにインスピレーションを受けて作曲された曲です。前回のブログ記事で2019年にジュネーブ国際コンクール作曲部門で優勝した髙木日向子を採り上げましたが、最近、日本の若手現代作曲家の躍進が目覚ましいです。