▼「疲」(ブログの枕)
11月1日は「いい医療の日」だそうですが、「医療」が目指す「健康」とはどのような状態を意味しているのかを紐解いて見ると、「健康とは、肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」(WHO憲章)という非人間的な定義が掲げられており、この定義に従う限り真っ当な社会生活を営む全ての人間は概ね不健康であるという帰結になりそうなのであまり参考になりません。この点、「病気を診る西洋医学、病人を診る東洋医学」と言いますが、それぞれの良い面を包含して「健康とは、病気その他の心身の異常がなく、心身の自然なバランスが保たれている状態」(医学の父・ヒポクラテス(BC400)の健康哲学/ヒポクラテス全集)という身の丈に合った再定義を心積もっておく方が地に足の着いた健康管理ができそうな気がします。一般的に、人間の「健康状態」には「健康」→「未病」→「疾病」の3段階があり、それに対する「医療」には「予防」と「治療」の2種類がありますが、「未病」及び「疾病」の予防(一次予防:健康管理)と「疾病」の治療(二次予防:疾病悪化の予防と三次予防:合併症の予防を含む)の各段階に応じて、「本人」(予防)から「医師」(治療)へと徐々に比重がシフトして行きます。ここで「未病」という概念は中国最古の医学書「黄帝内経」(AD200)において病気に向かう状態(疾病には至らないが健康からは離れつつある状態)として登場し、それが貝原益軒の健康法「養生訓」に採り入れられていますが、自覚症状はないが検査では異常がある西洋型未病(例えば、高血圧や高コレステロールの生活習慣病など)と、自覚症状はあるが検査では異常がない東洋型未病(例えば、三大生体アラームの1つ「疲れ」など)の2種類が存在し、荷重労働、睡眠不足、運動不足、暴飲暴食、ストレスなどの生活習慣の乱れが主な原因とされていますので、未病を予防又は改善するためには生活習慣の見直し(健康管理)が重要になります。ここで未病の1つ「疲」という漢字は、垂の部分の「疒」が病人が寝台にぐったり座っている様子、旁の部分の「皮」が足を引きずり身体が傾いている様子を表す象形文字で、何ものかに取り憑かれて心身が重くなっている状態を意味しています。また、「疲」と似た「病」という漢字は、垂の部分の「疒」は同じですが、旁の部分が「皮」から「丙」(「并」(併、並)の省略形で、「あわせる」「ならぶ」を意味)に転じて、何ものかに取り憑かれて心身が一層と重くなっている状態を意味しています。「病」に関連する「疾」という漢字は、垂の部分の「疒」は同じですが、旁の部分が「丙」から「矢」(「はやい」「きず」を意味)に転じて、何ものかに取り憑かれて心身に傷を負っている状態を意味しています。因みに、「疾患」という言葉がありますが、「患」という漢字は、冠の部分の「串」が2つの貫かれた重しを表し、脚の部分の「心」と併せて、何ものかに取り憑かれて心を貫かれ憂いている状態を意味しています。この点、清少納言の枕草紙には「病は、胸。物の怪。脚の気。はては、ただそこはかとなくて、物食はれぬ心地。」(第188段)と記されており、さらに、紫式部の源氏物語には「おこたり果てたまひて、いといたく面痩せたまへれど、なかなか、いみじくなまめかしくて、ながめがちに、ねをのみ泣きたまふ。見たてまつりとがむる人もありて、「御物の怪なめり」など言ふもあり。」(第4帖「夕顔」)と記されていることから、平安時代には人間に病み憑く(場合によって死に至らしめる)「物の怪」の存在が観念されていました。果たして、「ものゝけ」の本義については「折口信夫全集第8巻(国文学篇2)」(中央公論社)に有名な論考が収録されていますが、それを敷衍すると、元来、「ものゝけ」とは「もの(=霊)」による「け(=疾)」の意味であり、「もの(=霊)」が人間の心身に這入る為に起こる患ひによって「け(=疾)」を生じることを「霊の疾」(物の怪)と言い、当初は「もの(=霊)」そのものよりも「け(=疾)」を物語る文脈で使われていましたが、徐々に「もの(=霊)」そのものを物語る文脈で使われるように変化したという論考が展開されています。当時の医学(科学)では解明できなかった疾病について、日頃の不行状が「もの(=霊)」を呼び寄せて「け(=疾)」を生じるという豊かなイマジネーションを働かせて説明しようと試みていた夢見心地の時代であったと言えるかもしれません。過去のブログ記事で触れたとおり「怒」「憎」「恨」「忙」などの漢字は不幸な状態(何らかの原因で心(脳)が滞って余裕がなくなり「幸」が侭ならない状態)を意味していますが、昔から「流れる水は腐らない」と言われているとおり、これは心(脳)にも同じことが言え、(それを「霊」と観念するかは別としても)何ものかに取り憑かれて「疲」が溜まり(流れ去らずに滞り)、それに「患」わされて「病」へと進行するものなので、常日頃からそうならないために「疲」を発散する(取り去って流す)ように心掛けること(健康管理)が重要になります。「疲労」は、心身の過負荷により生じた「心身の機能低下や障害」とそれを不快と感じる「疲労感」から構成され、ホメオスタシス(人間が生命を維持するために心身の機能や状態を一定に保とうとする恒常性)を保つために発せられる三大生体アラーム(疲労は発熱や痛みと並んで脳がそれ以上の活動を制限し、休息するように促すために送るシグナル)に数えられています。このうち、心身の過負荷により生じた「心身の機能低下や障害」は分子生物学の分野で研究が進んでいますが、「疲労感」は科学的な解明が十分に進んでおらず、今後の研究課題になっています。人間は疲労感により疲労が蓄積していることを自覚して休息をとりますが、意欲、達成感や責任感などが疲労感を隠し(疲労感のマスキング)、疲労を十分に回復しないままで疲労が蓄積される状態が6ケ月以上継続すると疲労が回復しない「慢性疲労」に陥り、各種の疾病、うつ病や過労死などの原因になる(慢性疲労は疾病などへ移行する予知因子)と言われています。日本人には疲労感のマスキングに陥り易いセンチメンタリズムな気質があり、それが慢性疲労から過労死を招く顕著な症例を多発させて国際語「KAROSHI」(オックスフォード英語辞典)まで生んでいますが、疲労やリスクをゼロにすることは現実的に難しいのは当然として、疲労やリスクは「テイク」するものではなく「コントロール」するものであるという知性を持つことが重要です。現在、疲労を効果的に発散して溜めないようにコントロールする方法(健康管理)として休養学が注目を集めています。
▼健康状態と医療
健康状態 医療 主導 種類 内容 健康 一次予防
(健康管理)未病の予防 本人 未病 疾病の予防 疾病 治療 疾病の治療 医師 二次予防 疾病悪化の予防 三次予防 合併症の予防 ※最近では、社会保障給付費の削減などを企図して、健康指導など医師による予防医療(一次予防を含む)の取組みが活発になっています。▼三大生体アラーム
健康状態 アラーム 意義 医療 未病 疲労 身体に休息の必要があることを知らせるための警告信号 予防 疾病 発熱 身体に感染や炎症があることを知らせるための警告信号 治療 痛み 身体に損傷や異常があることを知らせるための警告信号 ※疲労を感じることを疲労感と呼び、疲労感が続くことを倦怠感と呼びますが、倦怠感(疲労)は痛みと並んで多いプライマリーケア(総合診療)の主訴になっていると言われています。この疲労感や倦怠感が6ケ月以上続くことを慢性疲労と呼び、これを放っておくと急性又は慢性の疾病やうつ病、過労死などの原因になると考えられています。
日本リカバリー協会が公表しているデータによると、日本人の約80%が何らかの「疲労」を感じており、そのうちの半数にあたる約40%が「慢性疲労」(半年以上疲労が持続している状態)を感じているという調査結果があり、コロナ禍後に働き方改革が停滞していることも原因してか、令和5年度の過労死等に係る労災の請求件数及び支給件数は前年度比で20%増加するなど高い水準で推移しています。また、慢性疲労により日常生活に支障を来して不登校などに陥っている「小児慢性疲労症候群」(未病)も増加傾向(小中学生の2%、高校生の5%、大学生の10%)にあり社会問題になっています。このように人間の活動や生活を停滞又は破綻させる疲労のメカニズムを(科学的に解明されている範囲で)簡単に紐解くと、疲労はエネルギーの枯渇や(筋肉を挫滅させるような激しい運動を除き)筋肉、内臓、血液や呼吸に対する組織的な影響などにより生じることは滅多になく、環境要因(心身への過負荷など)、疾病要因(がんや風邪などによるホルモン異常など)や老化要因(抗酸化酵素の機能低下など)などをトリガーとして脳の自律神経の中枢(視床下部、前帯状回などの生体機能の維持を司る部位)の処理が増大することで「活性酸素」が発生し、それが脳の自律神経の中枢の機能を低下させて「疲労脳」と呼ばれる状態に陥って、脳が「疲れた」というシグナルを脳の前頭葉腹側面下部(眼窩前頭野)に送り心身の「疲労感」(疲れた、飽きた、眠いなどの諸症状)として自覚させて活動を休止して休息するように促します。この点、過去のブログ記事でも触れましたが、太古の昔、生物の祖先は水素をエネルギーにしていましたが、その後、光合成から得られる糖をエネルギーにする植物の祖先(二酸化炭素及び水を太陽光で分解して糖を生み出し、その副産物である酸素を輩出)が誕生して地球上の酸素濃度が上昇したことで、地球上の生物は絶滅の危機に瀕しました(酸素ホロコースト:活性酸素は物質を酸化して錆びさせる性質があり、現在でも活性酸素は老化の原因)。この環境変化に適応して酸素を採り入れて他の生物から摂取した糖を酸素で分解してエネルギーに転換できるように進化した動物の祖先が誕生しました。通常、酸素は糖を分解してエネルギー(ATP)と水を生成しますが、偶に、不完全な電子と結び付いて水になりきれずエネルギー(ATP)と「活性酸素」を生成してしまうことがあります。このように活性酸素は不完全な電子と結び付くことで不安定な状態にあるので安定を取り戻そうと細胞などの分子を構成している他の原子(原子核)の周囲に漂う電子を奪う化学反応(細胞が酸化して錆びる現象)を引き起こす反応性(活性)が高い物質になり、これによって電子を奪われた他の原子も不安定になってその機能を低下させると共に安定を取り戻そうとさらに別の原子(原子核)の周囲に漂う電子を奪うようになり、それがゾンビのように全体に連鎖して細胞などの分子や細胞で組成されている組織の障害を引き起こし、やがて疾病、うつ病や過労死などの原因になることが分かっています。人間が呼吸して採り入れた酸素のうち約1~2%は活性酸素に変化すると言われていますが、その活性酸素を「抗酸化酵素」で水と酸素に分解して活性酸素の活動を抑制しています。しかし、環境要因や疾病要因などにより抗酸化酵素の防御力を上回る活性酸素が発生し又は老化要因などにより抗酸化酵素の機能が低下すると、活性酸素の活動を十分に抑制できなくなり疲労が蓄積していきます。この点、過労死する動物は人間だけだと言われていますが、上述のとおり人間は他の動物と比べて意欲、達成感や責任感などを司る前頭葉が発達したことから、脳が「疲れた」というシグナルを眼窩前頭野に送っても「疲労感」を隠してしまうことがあり(疲労感のマスキング)、「疲労感なき疲労」が蓄積して過労死に至ることがあると言われています。因みに、カフェイン(コーヒーやエナジー・ドリンクなど)を過剰に摂取すると疲労感のマスキングにつながる可能性がありますので注意が必要です。このため、1993年にEUで発令された「勤務時間指令」で24時間のうち11時間は休息時間をとらなければならないと定められ、これを参考にして日本でも「勤務間インターバル」という勤務制度を数多くの企業が導入しています。疲労があるときに集中力を高めて更に何かに打ち込むと疲労が蓄積し易いと言われており、疲れた、飽きた、眠いなどの生体アラームを自覚したときは、これに逆らわずに活動を休止して休息すること(短期的な心身の活動の休止)が大切ですが、「疲労感なき疲労」を発散して蓄積しないようにするためにはより戦略的な休養をとること(疲労を発散して心身をリフレッシュする長期的な活動)も大切になってきます。この点、休養には「パッシブ・レスト」(蓄積した疲れをとるために、心身を働かせずにリラックスする方法)と「アクティブ・レスト」(疲れが蓄積しないように、軽い運動やストレッチなど心身を動かして疲労を発散させる方法)の2種類があると言われており、心身の健康状態に応じた休養を取ることで疲労を効果的にコントロールすることが可能になります。また、2004年から厚生労働省及び農林水産省が参加する産官学連携で「森林セラピー」の効果を科学的に検証し、予防医療に役立てようとする研究が行われており注目されています。この点、森林の「ゆらぎ」がリフレッシュ作用をもたらすことで副交感神経を優位にして脳疲労を軽減すること(即ち、脳の活動が低下して活性酸素の発生を抑制すると共に、抗酸化酵素の働きが活発化して溜まった活性酸素を効率的に分解すること)が分かっています。この「ゆらぎ」とは、木漏れ日の輝き、体を伝う微風、川の潺、鳥の鳴き声、滝ツボから舞い上がる細かい水の粒子、温度、湿度、風向などが微妙に変化することを意味し、その微妙なズレを生じる「不規則な規則性」(前回のブログ記事で触れた混沌から生じるフラクタルも同様)を特徴とする諸現象のことを言いますが、森林の「ゆらぎ」と人体の「ゆらぎ」がシンクロすることで上述のリフレッシュ作用をもたらすと考えられています。これは量子力学における「量子ゆらぎ」と同じことを意味していると思いますが、万物は粒子でもあり波でもあると考えられており(波動粒子二重性)、生命を育む有機物を豊富に湛えている森林の「ゆらぎ」(波動)が都会生活などで乱れた人体の「ゆらぎ」(生命現象の波動)を整えてくれる作用があるのかもしれません。公共施設(オフィスや学校などを含む)や居住空間は照明、温度や湿度などを一定に保つために「ゆらぎ」がない空間に設えられることが多いですが、最近では、「サーカディアンリズム」(朝、昼、夜で光調、温度や湿度などを変化)を採り入れて公共施設(オフィスや学校などを含む)や居住空間に自然環境に近い「ゆらぎ」を再現することが見直されています。因みに、夜間のスマホライトはこのリズ厶を乱して副交換神経の機能を低下させる可能性がありますので注意が必要です。体を休ませていても脳を休ませなければ、疲労は蓄積される可能性があります。さらに、植物の緑葉成分からなる「緑青の香り」(青葉アルコールや青葉アルデヒドの香り)には抗疲労効果があることが科学的に確認されており、茶香炉やお茶アロマによる「リラックス」の演出などが注目されています。人間は疲労の分だけパフォーマンスが落ち、それが負のスパイラルを生んで、やがてバーン・アウトと呼ばれる状態(燃え尽き症候群)に陥ると言われていますが、「埃が溜まってからするのが掃除ではなく、埃が溜まらないようにするのが掃除である」という掃除の格言と同様に、慢性疲労に陥ると疲労が回復しなくりますので疲労が溜まる前に疲労を発散することが効果的であり、守りの休養(溜まった疲労を取るための休養)から攻めの休養(疲労が溜まらないように発散するための休養)が重要と言えるかもしれません。「掃除」と同じく「休養」が「急用」にならないように常日頃から「埃」も「疲れ」も溜めない心掛けが肝要です。
▼疲労の要因となる因子
要因 因子 予防 環境 心身への過負荷など 〇 疾病 がんや風邪によるホルモン異常など 老化 抗酸化酵素の機能低下など X ▼疲労と健康状態の変化
ステージ 健康状態 負荷 健康 環境要因、疾病要因、老化要因など ↓ ↓ 蓄積 未病 心身の
機能低下疲労、倦怠 睡眠の質の低下 ↓ ↓ 心身の
障害慢性疲労 睡眠障害 ↓ ↓ 発症 疾病 ▼疲労を発散する休養
休養の種類 休養の内容 パッシブ・レスト 睡眠、読書、瞑想、アロマセラピー、映画鑑賞、音楽鑑賞、マッサージ、入浴など アクティブ・レスト 散歩、軽いジョギング、ストレッチ、マッサージ、入浴など ※マッサージや入浴(エナジー風呂)は攻守のバランスのとれた休養と言えるかもしれません。※一般に、音楽を聴くことは心身をリラックスさせる効果があるパッシブ・レストに分類されますが、例えば、クラブミュージックや一部の現代音楽は、脳が複雑なリズム、独特の音響効果、音の変化や力強いビートなどの情報を処理するために負荷がかかることがあり、却って、これらの音楽を聴くことで疲労が溜まる人がいると言われています。但し、そのような複雑な音楽でも「心地良い」と感じることができれば、脳がドーパミンやエンドルフィンなどのポジティブなホルモンを分泌して疲労を軽減させることがあると言われています。
▼今、聴きたい女性作曲家たち(女性作曲家を聴く・その10)
【演題】女性と音楽研究フォーラム結成30周年記念
今、聴きたい女性作曲家たち(女性作曲家を聴く・その10)
~歌とピアノ、ヴァイオリンで綴る多彩な響き~
【演目】<歌曲>
ポリーヌ・ヴィアルド(~1910年)
①ヴィアドル夫人のアルバムより
第1曲 山の子
第2曲 礼拝堂
②6つのメロディーより
第6曲 カディスの娘たち
③6つのメロディとハバネーズより
第4曲 アイ・リュリ!
④フレデリック・ショパンの6つのマズルカより
第3曲 愛の嘆き
第2曲 私を愛して
金井喜久子(~1986年)
⑤ハイビスカス(作詞:川平朝申)
渡鏡子(~1971年)
⑥わがうた(作詞:北原白秋)
⑦祭のまへ(作詞:北原白秋)
吉田隆子(~1956年)
⑧組曲「道」より手(作詞:小倉雪江)
⑨君死にたまふことなかれ(作詞:与謝野晶子)
<ピアノ作品>
ポリーヌ・ヴィアルド(~1910年)
⑩ガボット
セシル・シャミナード(~1944年)
⑪エール・ド・バレエ
リリ・ブーランジェ(~1918年)
⑫明るい庭から
ナディア・ブーランジェ(~1979年)
⑬ピアノのための3つの小品より第1曲、第2曲
グラツィナ・バツェヴィチ(~1969年)
⑭ピアノ・ソナタ第2番より第1楽章
<ヴァイオリン作品>
幸田延(~1946年)
⑮ヴァイオリンソナタ第1番変ホ長調
吉田隆子(~1956年)
⑯お百度詣
レベッカ・クラーク(~1979年)
⑰真夏の月
【演奏】<Mez>水越美和①②③④
<Sop>梅野りんこ⑤⑥⑦⑧⑨
<Pf>宮﨑貴子①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭
蓼沼明美⑮⑯⑰
<Vn>沼田園子⑮⑯⑰
【日時】2024年11月17日(日)14:00~
【会場】白寿ホール
【一言感想】
国立音大教授で「女性作曲家列伝」の著者でもある小林緑さんと音楽評論家の谷戸基岩さんの夫妻が17年前に開催した「女性作曲家音楽祭2007」を聴きに行った記憶がありますが、1993年に小林さんが設立した女性と音楽研究フォーラムの設立30周年を記念して「今、聴きたい女性作曲家たち」と題する興味深い演奏会を開催するというので聴きに行くことにしました。一般に知られている最も古い女性作曲家としてはG.カッチーニの娘のF.カッチーニの名前を挙げることができると思います。歴代の女性作曲家についてはアーロン・コーエン編「国際女性作曲家事典」に詳しいですが、第二次世界大戦まではクラシック音楽界は男性中心社会で女性作曲家の活躍の機会がなく、そのような状況下で歴史に埋もれることなく作品が残り続けてきた女性作曲家は大変に希少な存在です。過去のブログ記事でも触れましたが、第二次世界大戦後に女性作曲家のK.サーリアホさんやO.ノイヴィルトさんなどの世界的な活躍、P.ゲルブ総裁が率いるメトロポリタン歌劇場(今シーズンで2人目の女性作曲家の作品を公開)などの並々ならぬ尽力や30年に及ぶ女性と音楽研究フォーラムの活動成果などにより徐々に女性作曲家の地位が確立し、現代では女性作曲家が男性作曲家を凌ぐ活躍を見せるようになり、漸く音楽を含む芸術作品に性別、人種や国籍などのハードルがなくなりつつあることが実感される時代になったと思います。この演奏会では存命中の女性作曲家の作品は採り上げられていませんが、女性作曲家の来し方行く末に思いを馳せてみたいと思います。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
――>追記
非常に演目数が多いので、ごく簡単に感想を残しておきたいと思います。なお、本日は19世紀半ばから20世紀半ばに活躍した女性作曲家の作品に焦点をあてた大変に貴重な演奏会でしたが、是非、次回は1980年代以降(とりわけ21世紀)に世界中で活躍している存命中の女性作曲家の作品を採り上げる演奏会も熱望しています。
〇ポリーヌ・ヴィアルド(~1910年)
スペイン人作曲家P.ヴィアルドの父母兄姉はすべてオペラ歌手という著名な音楽一家で、父はジョアキーノ・ロッシーニの肝煎りのテノール歌手としてオペラ「セビリアの理髪師」を初演し、また、兄は世界初の咽頭鏡を発明して著書「Hints on Singing」(邦題:ベルカント唱法のヒント)を残しています。P.ヴィアルドはフランツ・リストにピアノを師事していましたが、その後、オペラ歌手でデビューして人気を博し、女性作家ジョルジュ・サンドから紹介されたフレデリック・ショパンとも親交が深かったという華々しい経歴の持ち主です。①第1曲「山の子」はG.サンドに献呈された曲だそうですが、ブリリアントな高音が冴え映えとする歌唱と歯切れが良く弾性のあるリズミカルなピアノによって天真爛漫な子供の快活な雰囲気を伝える演奏を楽しめ、また、①第2曲「礼拝堂」はフランス人画家A.シェフェールに献呈されたそうですが、陰影を帯びた低音による悲しみを湛えた歌唱と彼方で響く教会の鐘の音を連想させる厳かなピアノの連打によって(A.シェフェールとは作風が違いますが)J.ミレーの風俗画「晩鐘」のような風情を感じさせる演奏を楽しめました。この2曲では水越さんが高音域から低音域までの幅広い音域を使いながら異なる曲調を表情豊かに歌い分けていましたが、P.ヴィアルドの姉マリア・マリブランはソプラノからアルトまでの幅広い声域を持つ歌手だったそうなので、それがP.ヴィアルドの作風にも影響を与えているのかもしれないと思いを巡らせながら聴き入りました。②第6曲「カディスの娘たち」はピアノがボレロのステップを刻みながら、その伴奏に乗せて小気味よく喉を使う軽快な歌唱でスペインの若い女性の自由奔放な生き様が表現されていたるように感じられ、P.ヴィアルドの人物描写や情景描写の巧みさが映える面白い曲でした。前二曲とは全く異なる曲調でP.ヴィアルドの音楽表現のバリエーションの豊かさに魅せられました。③第4曲「アイ・リュリ!」はP.ヴィアルドの次女に献呈されたそうですが、憂いを湛えた歌唱と色彩豊かなピアノのギャップによって恋に翻弄されながらも恋に夢見る乙女のデリケートな心模様が表現されているように感じられ、秋の空にピッタリな曲を楽しめました。④第3曲「愛の嘆き」はP.ヴィアルドが親交のあったF.ショパンの「マズルカ」第1番嬰へ短調をへ短調の歌曲に編曲したものですが、水越さんと宮崎さんの好演を得て、嘆きに満ちた心の綾を繊細に織り込んで行くような情感表現に優れた歌唱とその情感に仄かな色彩を添えて行く詩情豊かなピアノが有機的に絡み合う充実した作品に感じられました。④第2曲「私を愛して」はP.ヴィアルドがF.ショパンの「マズルカ」第23番ニ長調をイ長調の歌曲に編曲したものですが、ピアノがアゴーギクを効かせながらオテンバ気味にマズルカのリズムを華やかに奏で、その伴奏に乗せてオペラチックな歌唱に魅了され、徐々にテンポやデュナーミクを増しながら絢爛たるクライマックスを築いていく音楽はまるでベルカント・オペラを観ているような高揚感を覚えるものでした。F.ショパンはオーケストレーションを不得手としていたとようなので1人でオペラの作曲は難しかったかもしれませんが、この2人の共作でオペラを残して欲しかったと思えるような充実した作品に感じられました。
〇金井喜久子(~1986)
〇渡響子(~1974)
〇吉田隆子(~1936)
金井喜久子は日本人女性で最初に交響曲を作曲した方で、沖縄音楽の普及に尽力された方としても知られています。⑤「ハイビスカス」は初聴の曲でしたので、沖縄音楽のエッセンスを十分に聴き分けるまでには叶いませんでしたが、どこか沖縄の風情を感じさせる魅力的な曲でした。渡響子は執筆活動にも精力的でしたが、本日の2曲ともシラビック(メリスマのように1音節を複数の音高で歌うものではなく、(グレゴリオ聖歌などに見られるように聖書などの)言葉を明確に伝えるために1音節を1音高で歌うもの)で書かれた曲で、⑥「わがうた」はニュアンスに富んだ美しい伴奏が印象的な曲、⑦「祭のまえ」は祭り囃子を思わせる賑々しいリズムで日本情緒を感じさえる魅力的な曲でした。吉田隆子は反戦活動により思想犯として投獄の経験もある方です。⑧「手」は強い意志力のようなものを感じさせる曲、⑨「君死にたまふことなかれ」は(オペラ化の構想もあったようですが)ピアノが刻む重々しい低音が深い嘆きを表現しているようで、悲しみを湛えた与謝野晶子の反戦詩が情感豊かに歌われる印象的な曲でした。
〇ポリーヌ・ヴィアルド(~1910年)
〇セシル・シャミナード(~1944年)
〇リリ・ブーランジェ(~1918年)
〇ナディア・ブーランジェ(~1979年)
〇グラツィナ・バツェヴィチ(~1969年)
P.ヴィアルドは上記で簡単に触れていますので紹介は割愛します。⑩「ガボット」は軽快で優雅な印象の曲で、可愛らしいステップを刻むチャーミングな演奏を楽しむことができました。C.シャミナードは500万部以上の楽譜を売り上げる当時人気の作曲家で、その人気に肖ってイギリスの化粧品会社であるMORNYが彼女の名前を付けた香水「CHAMINADE」まで発売しています。⑪「エール・ド・バレエ」はまるでバレエを鑑賞しているような描写表現の優れた曲で、プリエやタンデュなどのエクササイズやピルエットやフエッテのようなターンなどを随所に織り交ぜた臨場感ある曲に想像力を刺激されながら聴き入ってしまいました。彼女の曲を聴くと、何故、絶大な人気があったのか分かります。N.ブランジェは教育者として知られ、彼女に師事していたA.ピアソラは彼のアイデンティティを形成しているタンゴを大事にするように勧められ、その後の彼の成功を導いた話は有名です。⑬「ピアノのための3つの小品」より第1曲は小気味よいスタッカートによるリズミカルな曲調とテヌートによる思索的な曲調の間を揺れ動く印象的な曲、第2曲は杏仁豆腐のような後味の良さを感じさえる短い曲を楽しめました。L.ブランジェはN.ブランジェの妹で女性初のローマ賞の受賞者であり、G.フォーレやC.サン=サーンスなどからも高い評価を受けた逸材です。⑬「明るい庭から」は低声部の重厚な響きをキャンバスにして高声部が印象派の絵画よろしく夢心地に微睡むんでいるような幻想的な雰囲気を醸し出す美しい旋律に彩られたもので、非常に魅力的な曲に感じられました。G.バツェヴィチはA.シェーンベルクやA.ベルクの影響を受けて「今日完成したすべての作品は、明日には過去のものになります。」と看破する野心的な作曲家です。⑭「ピアノ・ソナタ第2番」より第1楽章はパンフレットにおいて「調性の離脱、楽器の特性を活かす書法、豊富なリズム・パターン」を特徴とすると解説されているとおり自在な曲調で、ダイナミックな精悍さとメカニカルな精緻さを併せ持ち、幅広い音域を縦横無尽に駆け巡りながら機械的で無機質な肌触りや神秘的でファンタジックな肌触りなど硬軟を織り交ぜた変化に富んだ語り口で、二度の世界大戦や世界恐慌などに揺れ動いていた当時の時代の暗部も感じられる多彩な曲調を楽しめました。古典(光(調性)の絶対性)と前衛(闇(無調)の絶対性)のどちらにも極端に偏向していないA.シェーンベルクやA.ベルクのようなバランス感覚を持った音楽家のように感じられます。これらの女性作曲家達の華々しい経歴を見ていると、今日の女性作曲家の社会的な地位の確立は、この時代の才能豊かな女性作曲家達が男性社会に分け入って金字塔を打ち立てる功績を残し続けてきたことに依るところが多いと実感されます。このことはその後の時代の女性作曲家達の活動の足場ともなり、現代では女性作曲家が男性作曲家の活躍を凌ぐ活躍を見せているまでになっていると共に、その多様性が性別、人種、国籍やジャンルなどを越えて変革を促すダイナミックな時代の潮流になっているように感じられます。
〇幸田延(~1946年)
〇吉田隆子(~1956年)
〇レベッカ・クラーク(~1979年)
幸田延は妹の幸田(安藤)幸と共に日本におけるクラシック音楽の黎明期に活躍した草分け的な存在です。⑮「ヴァイオリンソナタ第1番」は明るく抜けるような清澄感のあるヴァイオリンと快活に躍動するピアノが印象的な第一楽章、抒情的に歌うヴァイオリンとピアノが印象的な第二楽章が演奏されました。久しぶりに楽器を素直に鳴らし切る弦楽曲を聴きました。吉田隆子は上記で簡単に触れていますので割愛します。⑯「お百度詣」は戦地に夫を送った妻の痛切な想いが込めれた曲で、ピアノが同じフレーズを繰り返すのはお百度を踏む様子を表現したものでしょうか、冒頭のインパクトあるヴァイオリンの重音と終曲のテンションの高い熱演は妻の心の慟哭を表現しているように感じられ、教科書の歴史には載らない市井の人々の肉声が文学や音楽などの芸術作品として受け継がれていることを実感させるもので感慨深いものがありました。ヴィオラ奏者兼作曲家として才能に恵まれたR.クラークはジェンダー・ギャップなどから殆どの楽譜が未出版のまま忘れ掛けられていましたが、1976年にラジオ放送局がR.クラークの特集番組を放送したことが契機となって注目されるようになりました。⑰「真夏の月」はヴァイオリンが神秘的な雰囲気を湛えながらニュアンス豊かに歌い、これにピアノのアルペジオが有機的に絡み合うバランスの良いアンサンブルで、音にドラマがあり、それがクライマックスに向かって高揚して行く構築感のある演奏を楽しめました。沼田さんは懐の深さを感じさせる安定感、信頼感のある演奏で楽器を丁寧に鳴らし切る美観極まる演奏が出色でした。
▼藝大プロジェクト2024第2回「日本が見た西洋音楽」
【演題】藝大プロジェクト2024第2回「日本が見た西洋音楽」
【演目】①信時潔 「いろはうた」(無伴奏合唱版)
②信時潔 「いろはうた」(チェロ、ピアノ版)
(クラウス・プリングスハイム編曲)
③髙田三郎 「山形民謡によるバラード」(弦楽合奏版)
(岡崎隆編曲)
④クラウス・プリングスハイム 「山田長政」(小島夏香補作)
【演奏】<Bar>黒田祐貴(山田長政役)
<Sop>松岡多恵(リカ役)
<Sop>根本真澄(トカウハム役)
<Vc>向山佳絵子
<Pf>江口玲
<Cond>安良岡章夫、谷本喜基(合唱)
<Orch>東京藝術大学音楽学部有志オーケストラ、合唱
<司会>片山杜秀、仲辻真帆
【日時】2024年11月23日(土)15:00~
【会場】東京藝術大学 奏楽堂
【一言感想】
藝大プロジェクト第1回は「西洋音楽が見た日本」がテーマになっていましたが、第2回は「日本が見た西洋音楽」がテーマになっており、古典派(第1回)から後期ロマン派(第2回)まで100年以上も時代が進み、それを更に100年後の時代に生きる我々が聴いてみようという好事家の集いです。今回は東京藝術大学(東京音楽学校)の作曲科を創設したクラウス・プリングスハイムと同時代の日本人作曲家である信時潔、髙田三郎の作品が演奏され、日本は西洋音楽をどのように受容、受肉したのかに迫るというコンセプトのようです。なお、1939年にクラウス・プリングスハイムが作曲した音楽劇「山田長政」は完全なスコアが現存していないことから、今回、現代作曲家の小島夏香さんが補筆完成した版が初演されるようなので大変に楽しみです。同じく山田長政を描いたものに遠藤周作の戯曲「メナム河の日本人」がありますが、誰か新作オペラに仕立てて貰えないかしら。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
―――>追記
最初に毒を吐いてしまいます。藝大プロジェクト第1回は200年以上前の大昔の音楽、その第2回は100年前の昔の音楽でしたが、上記の「今、聴きたい女性作曲家たち(女性作曲家を聴く・その10)」でも言及したとおり、是非、第3回目として1980年代以降(とりわけ21世紀)に活躍している存命中の作曲家による現代の価値観、人間観、自然観や世界観など(これらは直近25年間だけでも大きく変化)を表現する「新しい音楽」を採り上げる演奏会を設けて欲しかったという憾みが残ります。「過去」の研究やアーカイブの整備なども必要的な取り組みだと思いますが(日本では音源や楽譜を含むアーカイブの整備などは国立国会図書館が中心になって精力的に取り組んでいますが)、折角、未来創造承継センターという組織があるのであれば、「過去」ばかりに囚われるのではなく、「現在」「未来」を見据えた挑戦的な試みとして新しい芸術体験を提案できるような「芸」(草木を刈り取ること)ではなく「藝」(草木の苗を植えること)を体現する骨太な取組みにこそ期待したいと思っています。この点、藝大プロジェクト第1回及び第2回ともに忌憚ない感想を述べれば、歴史的な記録として貴重な機会ではありましたが、それらが体現している価値観、人間観、自然観や世界観などは時代錯誤なものであり、また、その音楽は藝大プロジェクト第1回の感想でも書いたとおり、故・湯浅譲二さんの言葉を借りれば「既聴感」(即ち、脳の認知パターンの予測と脳が実際に認知する結果との間の「差分」が殆ど感じられない状態)の枠を超えるものではなく現代人の耳には繰り返しの視聴が厳しいものと言わざるを得ません。今般、藝大の奏楽堂では集客施策として友人紹介キャンペーンが行われていたようですが、かつて藝大の奏楽堂でよくお見掛けした常連客の姿はなく、また、藝大プロジェクト第1回及び第2回ともに客入りは決して芳しいものとは言えず、(かなり厳しいことを書くようですが)現在の藝大のあり様が時代のニーズとマッチしなくなりつつあるのではないかと憂慮を覚えます。未来を担う後進を育成する教育機関であるからこそ、客が担ぎたいと思える神輿になれるように「変わらないために変わり続ける」努力が求められているような気がします。
〇「いろはうた」(無伴奏合唱版)
過去のブログ記事で五十音図を採り上げた際に簡単に「いろは歌」にも触れましたが、パンフレットには「日本語の発音を集成したもので、広く日本人に知られており、仏教の深い含蓄もあることなどから、信時はこの歌詞を「合唱の歌詞として最も望ましい条件を備えている」」として採用し、「東洋旋律の洋楽作法による合金化」(この曲の主題に用いられている東洋旋律とは雅楽の越天楽今様の旋律のこと)の試みとして、この曲が作曲されたことが解説されています。いろは歌と仏教思想に関しては、以下の囲み記事に簡単にまとめていますが、過去のブログ記事でも触れたとおり、「道」(=実践)の宗教である古神道から「教」(=言葉)の宗教である仏教(悟りの宗教)が日本に普及して行くにあたり「いろは歌」が果たした役割は大きく、同じく「教」(=言葉)の宗教であるキリスト教(救いの宗教)がヨーロッパに普及して行くにあたり大きな役割を果たした讃美歌との融合を図った着眼点が非常に興味深く感じられました。冒頭でソプラノとアルトが主題を提示し、これにテノールとバスが歌い沿い、それらが合唱との様々な組合せと共に変奏されて行きましたが、奏楽堂の豊かな残響に澄み渡る透徹のコラール合唱が実に美しく声楽王国の異名を誇る東京藝大の面目躍如たる好演を堪能できました。聖書(キリスト教教義)の言葉を伝えるために生み出されたコラールの伝統を受け継いで、バロック音楽のような技巧的な装飾は排して中世の禁欲的でピュアーな音響を大事にしながら、いろは歌(仏教教義)の言葉が持つ響きの美しさを聴かせることに徹したようなポリフォニー音楽には、西洋音楽と真正面から向き合いながらその精髄を受容、受肉しようと心を砕いていた真摯な姿勢が滲み出ているようで好感しました。
● いろは歌に詠まれる仏教思想この世の「悲しみ」(無常に対する執着)や「迷い」(煩悩)などの仏教思想について、十二音技法よろしく五十音図のヤ行の「イ」「エ」とワ行の「ウ」を除く47文字を一回づつ使って七五調の「いろは歌」が詠まれています。なお、いろは歌の作者は不分明ですが(空海?)、いろは歌を七行書きした末尾の文字をつなげると「とかなくてしす」(咎無くて死す)という暗号になっているとして様々に作者が憶測されています。色は匂えど 散りぬるをわが世誰ぞ 常ならむ有為の奥山 今日越えて浅き夢見じ 酔いもせず【意味】桜花は(=色は)咲き誇っていても(=匂えど)、あっという間に散ってしまうのだから(=散りぬるを)、一体、この世の誰が(=わが世誰ぞ)、いつまでも変わることなくその栄華を保ち続けることができるでしょうか(=常ならむ)。この変わり行く(=有為の)迷いの多い世の中を(=奥山)、今日こそは乗り越えよう(=今日越えて)、儚い夢を見ることもなく(=浅き夢見じ)、現実から目を背けることもなく(=酔いもせず)。● 仏教真理(全ての人が本当の幸せになれる真理)お釈迦さまが雪山童子という修行者であった時に、命と引き替えにして悟られた真理として伝えられています。諸行無常 是生滅法生滅滅已 寂滅為楽【意味】咲いた花がやがて散るのと同じように、生まれた人もやがて死ぬ。無常とは全てのものの免れぬ運命である。(諸行無常 是生滅法)悲しみ(無常に対する執着)や迷い(煩悩)という「輪廻」を超えて、何事にも執着するこなく全てをありのままに受け入れて安らぎ(解脱)を得る「涅槃」の境地を悟ることが大切である。(生滅滅已 寂滅為楽)
〇「いろはうた」(チェロ、ピアノ版)
パンフレットには「編曲者の自筆とみられる楽譜には表紙に“Kiyoshi Nobutoki Irohauta Transcription for Violoncello and Piano by Klaus Pringsheim”とある。」と記載されています。K.プリングスハイムはミュンヘン大学で作曲、音楽理論やピアノを学び、その後、グスタフ・マーラーの薫陶を受けて、1931年から1937年まで東京音楽学校(現、東京藝術大学)で音楽理論などを教授していますが、その傍らで管弦楽曲の指揮なども行い、1937年にはJ.S.バッハのマタイ受難曲を日本初演しています。信時潔が作曲した無伴奏合唱版が東洋から西洋へのアプローチであるとすれば、それをK.プリングスハイムが編曲したチェロ+ピアノ版は西洋から東洋へのアプローチであるという趣きが感じられ、冒頭では日本情緒を感じさえるノスタルジックな曲調が採り入れられていますが、外連味のない端正な書法に徹した信時潔の無伴奏合唱版に対してK.プリングスハイムのチェロ+ピアノ版は和声を巧みに駆使して豊かな彩りを添える曲調で魅了するもので、同じ音楽素材を使いながら全く別の境地を示す器楽曲に昇華しています。西洋音楽の伝統の厚みを感じさせる優れた筆致には師匠としての風格のようなものが滲み出ているようであり、これも教授の一環として弟子が何かを学び取る契機になっていたということなのかもしれません(「優れた芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む」~P.ピカソ)。なお、幕間のトークで仲辻真帆さんの師匠である片山杜秀さんが、K.プリングスハイムから信時潔、髙田三郎ほかの作曲家へと受け継がれてきた日本における西洋音楽の系譜のようなお話をされていたのが非常に興味深く、是非、その研究成果をまとめて公表又は出版して頂けないものかと熱望します。
〇「山形民謡によるバラード」(弦楽合奏版)
パンフレットには「独特な節回しで方言に溶け合うような主題のメロディーは、山形県近江新田地域の子守歌」で、「「日本的和音を基とし、それに揺れを含ませる方法」が用いられている。」と解説されています。まるで子守歌を歌う母親の腕の中で揺られているような揺蕩う和声のなかを、ヴィオラ・ソロが提示した主題が他のパートへと順に受け継がれ、弦楽五部の音色のグラデーションが優美に絡み合うファンタジックな演奏に魅了されました。端正に織り込まれた長大なフーガで全曲が締め括られましたが、奏楽堂の豊かな残響も手伝って弦楽合奏の美観が際立つ演奏を堪能できました。
〇音楽劇「山田長政」
藝大プロジェクト第1回で高山右近、映画「SHOGUN」及び以下に紹介している別の公演で三浦按針(W.アダムス)、そして藝大プロジェクト第2回で山田長政を描いた作品を鑑賞する機会に恵まれました。ご案内のとおり、三浦按針は1600年に暴風で日本に漂着して徳川家康の外交顧問になったイギリス人、山田長政は1612年に通商などのためにタイ(アユタヤ)に自主的に移住した日本人、高山右近は1614年に江戸幕府のキリスト教禁教令によりフィリピン(マニラ)に追放となった日本人という違いがありますが、それらの人物の生き様を通して400年以上昔の日本が初めてグローバリゼーションの波に晒された変革の時代にどのように翻弄され、どのように乗り越えたのかを現在の政権との対比で再考する良い機会になりました。なお、山田長政にはタイ(アユタヤ)を侵略するスペイン艦隊を二度も退けた功績から王女の婿になり、その後、皇位継承問題に巻き込まれて殺害されたという俗説もあります。パンフレットには「ラジオ用の音楽劇である。1939年10月にJOAK(現在のNHK)から放送され」、「この音楽劇の台本は坪内士行による」もので「戯曲集「妙国寺事変」に収められて」いますが、「K.プリングスハイムが曲をつけた「山田長政」は物語的要素が少なく、戯曲集に掲載されている内容の断章のようである。」と解説されています。この解説のとおり、しっかりとしたプロットのようなものはなく音楽も断片的なので、オペラや音楽劇というよりも間奏曲付きの歌曲集と形容した方が良い作品かもしれません。この作品は完全なスコアが残されておらず、本日は現代作曲家の小島夏香さんが補筆完成した版が演奏されました。補筆完成には様々なスタンスがあり得ると思いますが、おそらく今回はK.プリングスハイムの作曲意図を逸脱することは極力避け、可能な限り原曲に忠実に復元するというスタンスで補筆完成されたものではないかと思われます。
● 第1曲(合唱とオーケストラ)
おそらく山田長政が1612年にタイ(アユタヤ)へ移住するために乗船していた朱印船の様子を歌ったものではないかと推測しますが、時代の荒波を超えてタイ(アユタヤ)へ向かう人生の航海を暗喩したものでしょうか、ドラムロールによる雷雨、フルートのトリルによる突風、弦のアタックによる波しぶきなど、非常に描写力のある音楽表現が印象的で、山田長政の運命を暗示するようなドラマチックな音楽が奏でられました。
● 第2曲(オーケストラ)
おそらく山田長政がタイ(アユタヤ)に到着した様子を音楽にしたものでしょうか、グロッケンシュピール、トライアングル、ティンパニー、ゴングなどの多彩な打楽器群による異国情緒が漂う音楽が奏でられました。
● 第3曲(ヴィオラソロ×2とチェロソロ×2)
どのような場面のための音楽なのか分かりませんが、山田長政の幸せな暮し振りを表現したものなのか、叙情的な音楽が演奏されました。ラジオ用の音楽劇として作曲されたものなので、当時のラジオ放送では場面説明のためのナレーションなどが挿入されていたのかもしれません。
● 第4曲(バリトンとオーケストラ)
山田長政がタイ(アユタヤ)に移住して約20年が経過し、日本を懐かしく回顧している場面と思われますが、ヴァイオリン・ソロに導かれてバリトンによる叙情的な歌唱に魅了されました。おそらく台本の影響もあると思いますが、劇的な感情を歌うアリアというよりも詩的な情緒を歌う歌曲という印象の音楽に感じられました。
● 第5曲(ソプラノ(リカ)、バリトン、合唱とオーケストラ)
幸若舞「敦盛」の詞章が歌われましたが、どのような場面を想定しているのか分からず、何とも感想の書きようがありません。
● 第6曲(ソプラノ(トカウハム)とオーケストラ)
山田長政とリカの恋仲に対する嫉妬心を歌ったものなのでしょうか、どのような場面を想定しているのか分からず、何とも感想の書きようがありません。
● 第7曲(合唱とオーケストラ)
ホルンやドラムの彷徨、快活な合唱による野趣漲る勇壮な音楽が奏でられましたが(祭り?)、どのような場面を想定しているのか分からず、何とも感想の書きようがありません。
● 第8曲(オーケストラ)
どのような場面を想定しているのか分かず(間奏曲?)、何とも感想の書きようがありません。
● 第7a曲(フルートソロとヴィオラソロ)
メランコリックな音楽が印象的でしたが、どのような場面を想定しているのか分からず、何とも感想の書きようがありません。
● 第9曲(ソプラノ(リカ、トカウハム)、バリトン、合唱とオーケストラ)
山田長政の偉業を湛える大団円になりましたが、現代音楽や大衆音楽などで「型破り」に慣れてしまっている現代人には「型通り」の健康的な音楽を聴くと、誰か又は何かを称揚して止まない社会主義リアリズムの音楽を連想してしまう憾みがあります。個人的には、人間の本質や美の核心は「光」よりも「影」の方に宿るものだと思っていますが、老輩には些か眩し過ぎる音楽という印象が残りました。
▼新作ミュージックシアター「Silver Mouth」
【演題】横浜国際舞台芸術ミーティング(YPAM)
【演目】ミュージックシアター「Silver Mouth」(世界初演)
<謡>青木涼子(母役)
<歌>ジェイムス・ハリック(銀の狐役)
<音響パフォーマンス>JOLT Arts
【作曲】ジェイムス・ハリック
【日時】2024年11月30日(土)19:00~
【会場】BankART Station
【一言感想】
昨年、オーストラリア人作曲家のジェームズ・ハリックさんが監督を務めるオーストラリアに拠点を置く前衛アート集団「Jolt Arts」と能声楽家・青木涼子さんが最先端のオーディオ・ビジュアル&インタラクティブ・パフォーマンス作品を公演して話題になりましたが、今回の公演ではジェームズ・ハリックさんが謡、歌、音響パフォーマンスを融合した新作ミュージックシアター「Silver Mouth」の公演(11月30日公演)と能の謡と弦楽四重奏のための新作「I wouldn ′ t」などの公演(12月1日公演)が開催される予定になっています。今回は後者の公演は都合が付きませんので聴きに行くことができませんが、前者の公演は万難を排して聴きに行く予定にしています。昨年の公演ではアートとテクノロジーを融合した新しい芸術体験に興奮を禁じ得ませんでしたので、今回の公演も非常に楽しみです。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。なお、今後の青木さんの公演予定のうち女性作曲家に関連するものに限って言えば、2025年2月27日~翌3月1日に現代作曲家の能オペラ「葵」がローザンヌで再演され、2025年6月19日~同21日に現代作曲家の望⽉京さんのオペラ「OTEMBA~不屈の女性たち~」がアムステルダムで開催されるホランド・フェスティバルで世界初演され、また、2025年9月5日~同6日に現代作曲家の小出稚子さんの能声楽とオーケストラのための新作が名フィルの定演で世界初演される予定なので注目されます。
―――> 追記
オーストラリアに拠点を置く前衛アート集団「JOLT Arts」の3度目の来日公演が昨年の公演と同じくBankART Station(新高島駅)で開催されました。昨年の公演で新高島駅周辺の再開発の話題に触れましたが、今年6月にヤマハの体験型「ブランドショップ」がオープンし、新しい芸術体験を模索するエコトーンとして革新のムーブメントを仕掛けるヤマハの野心が感じられる店舗になっており(下表の写真を参照)、横浜の新しいランドマークとして注目されます。本日公演されたオーストラリア人現代作曲家のJ.ハリックさんの新作ミュージックシアター「Silver Mouth」(英語上演)も新しい芸術体験を体現するもので、現代人の知性や感性を前提として現代の時代性を投射する内容は現代人の教養(心の豊かさ)を育み得る芸術表現に感じられました。この作品は謡、歌及び電子音響パフォーマンスから構成されていますが、その歌詞(詞章)は詩的であり抽象的なもので、その表現意図を読み解くことは一筋縄ではいかない印象を受けますが、敢えて、具体的なプロットを提示するのではなく、観客のプロジェクションによって様々な解釈を許容する懐の広い作品と言えるかもしれません。その前提に立って、あくまでも僕の個人的なプロジェクションで捉えた1つの解釈として感想を残しておきたいと思います。この物語には祖母(狼の精霊又は自然主義のメタファー)、母及び娘の3人が登場し、山の森に棲む祖母(狼の精霊と言われるとアニメ「もののけ姫」に登場する山犬=ニホンオオカミを連想しますが)は母や娘に「空に月を引く」ように諭します。個人的には、祖母はオーストラリアを含む世界各国で発生している地球温暖化による森林火災(歌詞の「キャンプファイヤー」は森林火災の比喩?)で犠牲になった生物や自然のメタファーではないかと感じられ、また、祖母が母や娘に「空に月を引く」ように諭す意味は月が地球を冷やす夜を比喩するものとして地球温暖化を阻止する必要性を暗示したものではないかと感じられました。過去のブログ記事で触れたとおり、約45億年前に地球に隕石が衝突して月が誕生したことにより、①月の引力による潮汐と海底との摩擦で地球の自転速度が1/5に減速し(この減速がなければ地表は大型ハリケーン並みの強風が吹き荒れ)、また、地球の地軸が23.4度に傾いたことで地表に安定した環境(地表の温度を夏に温め、冬に冷まして地球全体の温度を平準化)が生まれ、地球上の生物の繁栄が可能になったと言われていますので、月を生物や自然を育んだ祖母と捉えることができるかもしれません。第1幕は「狼の精霊である祖母が、空に月を引っ張ってきます。」と解説が付されています。月を抱く宇宙の拡がりを連想させる電子音響が流れるなかを、白髪にお面を付けたJ.ハリックさんが扮する祖母(能楽の伝統を意識したものか男性の役者がお面を付けて女性を演じています)が杖をつきながら登場して、「高潔な心は義務に従って判断する。あなたは月を引きますか?」と観客に問い掛けながら、月に見立てた照明の前で祈祷を捧げました。第2幕は「母親の口が銀色に変化します・・山の森からの呼び声を聞きます。」と解説が付されています。祖母の呪力を連想させるノイジーな電子音響のなかを、白装束の青木涼子さんが扮する母が摺り足の運びで登場し、木机の前に座りながら謡い舞いました。母は「山麓の川へ向かう。彼女はそこで失われた。私の母はそこで失われた。」と謡いましたが、個人的には、森林火災から逃げるために山の森から麓の川へ向かった狼(生物)が成す術もなく炎に飲み込まれた惨状を暗示しているように感じられました。また、母は「私の母はあの山で銀の口を持ったまま失われた」「彼女の口の銀が私の口に刻まれた」と謡いましたが、「銀の口」はスプーン、即ち、人間の欲望を比喩するものとして人間の欲望が地球温暖化による森林火災の惨禍を招いたことを暗示しているように感じられました。なお、青木さんは英語の詞章を違和感なく謡われており能声楽の真骨頂と言うべき好演でしたが、ネイティブの方にどのように聴こえていたのか興味があります。第3幕は「母親の娘も同じ精霊の声を森から聞きます。娘は月が自分に話しかけていると思い込み、母親は娘を心配します。」と解説されています。母は娘から「私は月の声を聞く・・あなたは月の声を聞く?」と質問され(能の作り物よろしく娘は黒髪のかつらのみで表現され、J.ハリックさんが音声のみを担当されていました。)、母は「娘よ、月と話さないでおくれ」と謡いましたが、母に扮する青木さんが娘の回りを素早い摺り足で運びながら母の狼狽振りを表現しているように感じられました。個人的には、この場面を見ながら数年前にアメリカ大統領ドナルド・トランプさんと環境活動家の少女グレタ・トゥンベリさんが地球温暖化を巡って舌戦を繰り広げていたことを思い出し、不都合な事実から目を背けようとする大人と現実を直視する子供の対比が印象的に描かれているように感じられました。第4幕は「娘に何かが起こる前に問題に対処しようと・・森へ向かいます。」と解説されています。山の森の映像が映し出されましたが、その前を摺り足で運ぶ青木さんの白装束にも山の森の映像がオーバーラップされるように映し出されて、さながら山の森と人間が一体となって共鳴しているアニミズム(過去のブログ記事でも触れた一元論的な世界観:母性原理)を彷彿とさせる幻想的な舞台が出色でした。母は山の森に深く分け入りますが、月(根本的な解決策)を顧みようとせずに山の森(対処療法)に迷い込む大人の姿が印象的に描かれているように感じられました。第5幕は「母親は自分の母親であり娘の祖母である銀の狼に出会います。祖母は、空に月を引くという義務を果たす時が来たと告げます。しかし、母親はそれを拒否」と解説されています。何か大きな力に支配されていることを連想させる電子音響のなかを、山の森を彷徨う母の前に祖母が顕在して「月を引くこと。生命の自然の仮を返すために。」と歌いましたが、母は「私は月を引かない。」と拒否します。個人的には、この場面を見ながら地球温暖化対策として始められたEVシフトがいつの間にか世界各国の自動車会社の競争戦略という矮小化された話に貶められている現状、即ち、地球温暖化で自分の家が燃えるまで誰も本気で月を引こうとしない現状を思い出していました。第6幕は「娘は家族の義務である月を引くために祖母のもとへ向かった。」と解説されています。母が家に戻ると娘の置き手紙があり「私は義務と真実を果たします。そして毎晩、私は月を引くでしょう。」と書き残されているのを読みましたが、個人的には、上述のとおり未来を担う子供の現実を直視する目(イノセント・アイ)は不都合な事実から目を背けようとする大人の目よりも曇りなく月を捉えていることが印象的に描かれているように感じられました。第7幕は「深い悲しみと罪悪感に苛まれた母親は、山の崖へと走り、身を投げようとします。」と解説されています。ミニマル音楽の電子音響が流れるなかを、母に扮する青木さんが台座の上に登って山の崖から身投げしようとしている様子を表現していました。個人的には、母の「銀の口の遠吠えがキャンプファイアーで燃え上がり、悲しみの敗北を燃え上がらせた。」という詞章は人間の欲望(銀の口)が地球温暖化による森林火災(キャンプファイアー)を招いたことを直視した母が絶望の淵(山の崖)に立っていることを表現しているように感じられました。また、母の「鏡の喉を通して私の銀の悲しみを飲み込んで」という詞章は第8幕の「地上の欲望の月の鏡を通して」とパラレルになっているように感じられ、人間の欲望(銀)が月(根本的な解決策)を隠してしまうこと(鏡の喉、月の鏡)を比喩的に表現したものではないかと感じられました。第8幕は「母親は夜に娘と一緒にいられますが、義務を果たさなかった罰として、再び太陽を見ることはできません。」と解説されています。祖母は母に「毎朝、私はあなたを飲み込み、毎夕、私はあたなを月の軌道の中のフクロウとして吐き出す。あたなの子を見守り・・彼女が義務を果たすように。」と歌いながら、絶望の淵(山の崖)から母を救い出し、母と共に舞台から消え失せました。個人的には、太陽は人間の欲望の象徴であり、その裏腹としての森林火災を比喩しているように感じられ、再び、人間が欲望に溺れることは戒めなければならず(森林火災を契機として我々は新しい教養を育み)、森の賢者であるフクロウの知性をもって自然と調和する自然主義の重要性を説いているように感じられました。一聴した限りの感想なので何度も鑑賞しているうちにどんどん違ったものが見えてくるように思われ、それに応じて感想や印象も変り得ると思いますが、そのような大きな器を持った作品に感じられました。
横浜シンフォステージ(神奈川県横浜市西区みなとみらい5-1-2) | ||||
ヤマハミュージック横浜みなとみらい:2024年6月にヤマハ体験型「ブランドショップ」が開店し、音と光と楽器が描く、「新しい景色へ」をテーマとしたMusic Canvasが話題になっており、休日家族連れやカップルなどで大変な賑いとなっている新しいランドマークです。 | AI Duo Piano:光るライトに合わせて簡単なメロディーをピアノで弾くと、それにAIの伴奏と映像が連動して。全くの素人でも音楽を奏でる楽しみを体感でき、小さい子供達が音楽を楽しむ姿が実に微笑ましいです。イノベーションによる音楽演奏の民主化が図られています。 | Hug Me:人間が演奏する楽器に触れることは難しいですが、自動演奏する弦楽器に触れることで、木を伝わる振動を体感することができます。上記のブログの枕で「ゆらぎ」について触れましたが、万物は粒子でもあり波でもあるので人間は五感から知覚する波に共鳴しています。 | Tall Bass:一本の太い弦を弾くことで、どのように音が生み出され、変化するのかその原理を体感できます。過去のブログ記事で触れましたが、空間に音が充満している訳ではなく空気その他の媒質を振動が伝わり、その振動を知覚することで脳が作り出すものが音の正体です。 | Art of Sound:洗練された機能美に彩られた4種類の管楽器のパーツで出来たモニュメント(この角度はト音記号)です。過去のブログ記事でヤマハ銀座店の「江戸の洋琴」を紹介しましたが、遊び(無駄の蓄積)から新しいものは生まれると思いますのでヤマハの挑戦に注目です。 |
▼イギリス歌曲リサイタル「ウィリアム・アダムス。またの名を三浦按針」
【演題】イギリス歌曲リサイタル
「ウィリアム・アダムス。またの名を三浦按針」
【演目】<パート1>
➊松尾芭蕉の「おくのほそ道」より序文
②アンリ・デュパルク 歌曲「旅への誘い」
③チャールズ・スタンフォード 歌曲「ドレイク提督の太鼓」
④ジョン・アイアランド 歌曲「海への情熱」
⑤ピーター・ウォーロック 歌曲集「3つのベロックの歌」より
第3曲「わが祖国」
<パート2>
⑥ガブリエル・フォーレ 歌曲集「幻想の水平線」より
第1曲「海は果てしなく」
⑦アルバン・ベルク 歌曲集「7つの初期の歌曲」より
第1曲「夜」
⑧ガブリエル・フォーレ 歌曲集「幻想の水平線」より
第2曲「わたしは乗船した」
⑨アンリ・デュパルク 歌曲「波と鐘」
⑩イザベラ・ゲリス 歌曲「2つの俳句」より「俳句1」(世界初演)
<パート3>
⑪へンリー・パーセル 歌曲「おお孤独よ、我が甘き選択」
⑫アンリ・デュパルク 歌曲「前世」
⑬イザベラ・ゲリス 歌曲「2つの俳句」より「俳句2」(世界初演)
⑭アイヴァー・ガーニー 歌曲「フランダースにて」
⑮ヴァーン・ウィリアムズ 歌曲集「旅の歌」より
第1曲「放浪者」
<パート4>
⑯ジェラルド・フィンジ 歌曲集「おお、見るも美しい」
第4曲「ただ放浪する者だけが」
⑰アイルランド民謡「マイ・ラガン・ラブ」
⑱ァーン・ウィリアムズ
歌曲集「シェイマス・オサリバンによる2つの詩」より
第1曲「トワイライト・ピープル」
⓳ジョン・ダン 宗教詩「私の病床からの神への賛歌」
⑳ヴァーン・ウィリアムズ 歌曲「フィデルのための哀悼歌」
【演奏】カウンターテナー ファーガル・モスティン=ウィリアムズ
ピアノ 大高真梨絵
ナレーター 竹内大樹
【日時】2024年12月4日(水)19:00~
【会場】ムジカーザ
【一言感想】
先日、映画「SHOGUN 将軍」がエミー賞を受賞し、今般、そのサウンドトラックが2005年2月に発表される第67回グラミー賞/最優秀映像作品サウンドトラック部門作曲賞にノミネートされていますが、このサウンドトラックはニック・チューバさん、アッティカス・ロスさん及びレオポルド・ロスさんが作曲を担当し、日本から石田多朗さんがアレンジャーとして参加して雅楽や日本の伝統音楽に関連するアレンジやレコーディングなどを手掛けています。この公演は映画「SHOGUN 将軍」から着想を得てW.アダムス(三浦按針)がイギリスへ送った手紙の抜粋やカウンターテナーのF.ウィリアムズさんが創作したナレーションから構成されているW.アダムス(三浦按針)の半生を綴った物語で、この公演で歌われる歌曲はW.アダムス(三浦按針)が見たであろう景色や心情などを表現するものだそうです。最近の研究成果によって当時のキリスト教会の世界戦略や豊臣秀吉や徳川家康がそれを知りながらキリスト教会の勢力を自らの覇権のために都合良く利用していた実態などが解明されており、それが映画「SHOGUN 将軍」にも描かれていて興味深かったですが、非常にタイムリーな公演なので聴きに行く予定にしています。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
―――>追記
久しぶりにムジカーザに行きましたが、少し時間があったので小田急線の代々木上原駅前にある俳優の榎木孝明さん(武蔵野美術大学中退)が経営しているアートスペース「クオーレ」に立ち寄りました。現在、榎さんが描いた来年のカレンダー「四季こもごも」に使用されている挿絵の原画の展示会「2025年カレンダー「四季こもごも」展」が開催されていますので、ご興味がある方はお立ち寄り下さい。今日は榎木さんの挿絵が入ったブックカバーを購入しましたが、かごしま茶(榎木さんは鹿児島県伊佐市出身ですが、ご案内のとおり鹿児島県はお茶の生産量で静岡県とトップを競うお茶処)の試供品を頂戴し、毎日、非常に香り高くまろやかな緑茶を楽しんでいます。
パート1:人生の船出
➊+②:歌曲「旅への誘い」
冒頭、俳優の竹内大樹さんによるナレーションで松尾芭蕉の紀行文「おくのほそ道」の有名な序文が読み上げられ、W.アダムスの出自が物語られた後、A.デュパルクの歌曲「旅への誘い」が歌われました。ピアニストの大高真理恵さんが大航海時代に旅への想いを募らせる若きW.アダムスの心情を彩るように海波や洋光を連想させる伴奏に乗せてカウンターテナーのF.ウィリアムズさんが旅への憧れから心急く思いを詩的に紡ぐ歌が聴かれ、おくのほそ道の序文に綴られている松尾芭蕉の旅への思いと重なって、観客の心も(歴史の)旅へと誘われました。
③:歌曲「ドレイク提督の太鼓」
ナレーションで24歳のW.アダムスはスペインの無敵艦隊と戦うF.ドレイク提督の下でイギリス海軍の物資輸送艦の艦長になったことが物語られた後、C.スタンフォードの歌曲「ドレイク提督の太鼓」が歌われました。ダイナミックなピアノ伴奏に乗せて歯切れ良く歌われる勇ましい歌唱はW.アダムスが志を抱いて自信に満ち溢れる様子が表現されているようでした。現代人の感覚からすると大学を卒業したばかりの24歳は青く感じられるかもしれませんが、当時の平均寿命は50歳に満たないと思われますので、現代の働き盛り(40歳前後)に相当すると言えるかもしれません。
④:歌曲「海への情熱」
ナレーションで1598年に東インド会社が保有していた5隻の船隊の航海士総監(船隊の舵取り役)として雇われたことが物語られた後、J.アイアランドの歌曲「海への情熱」が歌われました。前曲とは紅一点、落ち着きのあるピアノ伴奏に乗せて航海士総監としての風格のようなものが感じられる歌唱にはW.アダムスの成長の変遷が感じられて面白かったです。因みに「舵」という漢字は来年の干支である「蛇」という漢字によく似ていますが、「舵」の偏の部分の「舟」は渡し舟の象形文字、「舵」の旁の部分の「它」は人が舟を漕ぐ姿が体をくねらせて進むヘビの姿に似ていることからヘビの象形文字になっています。
⑤:歌曲「わが祖国」
ナレーションでW.アダムスは銀の取引のために南アメリカの西海岸に航海し、その取引が成就しなければ日本へ遠征して銀の取引を行い(因みに、当時の日本は岩見銀山などを擁し、世界全体の銀の産出量の約30%を占めていました)、モルッカ諸島で香辛料を買ってイギリスへ帰るという航海計画であったことが物語られた後、P.ウォーロックの歌曲「わが祖国」が歌われました。イギリスの美しい景色をイメージさせる幸福感に満ちた叙情的な歌唱とピアノが印象的で、長旅で祖国への郷愁が募るW.アダムスの心情が伝わってくるようでした。
パート2:人生の岐路の
⑥:歌曲「海は果てしなく」
G.フォーレの歌曲「海は果てしなく」が歌われましたが、大海原を渡って行くような推進力のあるピアノ伴奏に乗せて遥か彼方に広がる世界に思いを馳せているW.アダムスの心情が生き生きと伝わってくる清々しい歌唱が印象的でした。
⑦:歌曲「夜」
ナレーションでマゼラン海峡を通過する途中で強風の影響から船を停泊せざるを得なかったことが物語られた後、A.ベルクの歌曲「夜」が歌われました。夜の神秘的な雰囲気をイメージさせるピアノ伴奏に乗せて夜の静寂に澄み渡るようなカウンターテナーの透明度の高い美声を堪能できました。
⑧:歌曲「わたしは乗船した」
ナレーションで1599年9月にマゼラン海峡を通過して太平洋に出た後、嵐に遭遇して5隻の船隊は離散しますが、W.アダムスはリーフデ号に乗り換えてフロレアナ島で他の船が到着するのを待っていたことが物語られた後、フォーレの歌曲「わたしは乗船した」が歌われました。太平洋の荒波に揺られているようなピアノ伴奏とは裏腹に全く動揺を感じさせない安定感のある歌唱にはW.アダムスの運命に立ち向かう不屈の精神(商魂)のようなものが感じられました。
⑨:歌曲「波と鐘」
ナレーションで5隻の船隊のうちフロレアナ島に着いたのはリーフデ号ともう1隻のみでしたが、フロレアナ島の住民との衝突で20人の乗組員が命を落としたことが物語られた後、A.デュパルクの歌曲「波と鐘」が歌われました。フロレアナ島の住民との衝突をイメージさせる激しいピアノ伴奏に乗せて鬼気迫る歌が聴かれ、やがてこの衝突で擬制になった20人の乗組員の魂を弔う鐘の音を連想させるピアノ伴奏に乗せて思い掛けない災厄に翻弄されて動揺し、悲しみや恐怖など複雑な感情に入り乱れる歌唱に聴き入りました。F.ウィリアムズさんの歌唱は歌への感情の乗せ方が素晴らしく、心の機微を繊細に表現する表現力が見事でした。
⑩:歌曲「俳句1」
ナレーションで1600年4月にリーフデ号は豊後(大分県)に漂着し、暫く留め置かれたことが物語られた後、イギリス系カナダ人現代作曲家I.ゲリスさんの歌曲「2つの俳句」から「俳句1」(松尾芭蕉の俳句「うき我を さびしがらせよ かんこ鳥」に付曲したもの)が歌われました。精妙なペダリングにより紡がれるピアノ伴奏は余白や滲みのようなものが連想され、F.ウィリアムズさんが口を閉じたまま「ん」(日本語の五十音は口を完全に開く「あ」から口を完全に閉じる「ん」までの50音の仮名で宇宙の全て(阿吽)を表現していますが、「ん」はすべてが終わりすべてが生まれる仮名として音が生まれる前の音を体現しています)で歌われていました。カウンターテナーの透明度の高い美声で芭蕉の俳句が詠まれましたが、その禁欲的な音楽は茶室のように簡素でありながら、そこに深い趣きが宿る研ぎ澄まされた美を発見する味わいのようなものがあり、「侘び」の不完全さが生む風趣が表現されているように感じられました。
パート3:人生の転機
⑪:歌曲「おお孤独よ」
ナレーションでイエズス会の宣教師達がW.アダムスを海賊だと主張して処刑を求めますが、徳川家康の命令で大阪城に投獄されたことが物語られた後、H.パーセルの歌曲「おお孤独よ」が歌われました。涙が滴り落ちているようなピアノ伴奏に乗せて悲しみと溜め息に満ちた歌唱が聴き所になっていました。ヘンデルのオペラ「リナルド」の有名なアリア「私を泣かせてください」に代表されるように、悲しみを歌うカウンターテナーは珠玉の美しさを湛えています。
⑫:歌曲「前世」
ナレーションでW.アダムスが徳川家康に謁見し、徳川家康はイギリス、航海や造船のことなどに高い関心を示していたことが物語られた後、A.デュパルクの歌曲「前世」が歌われました。ミニマル音楽のようなピアノ伴奏に乗せてW.アダムスが複雑な心情を抱えながらも運命を受け入れ始めていることをイメージさせる落ち着いた歌唱が聴かれ、やがてドラマチックなピアノ伴奏に乗せて喜びに満ちた歌唱へと変化しましたが、徳川家康との運命の出会いがW.アダムスの人生の転機になったことを印象付けるピースでした。
⑬:歌曲「俳句2」
ナレーションでW.アダムスは何度も徳川家康に謁見し、イギリスのことについて色々と話しましたが、投獄生活から解放されることはなかったことが物語られた後、イギリス系カナダ人現代作曲家I.ゲリスさんの歌曲「2つの俳句」から「俳句2」(松尾芭蕉の俳句「東にし あはれさひとつ 秋の風」に付曲したもの)が歌われました。グリッサンドを繰り返すピアノ伴奏は徐々に速度を速めながらやがてピアノの鍵盤を上滑りするだけで音を奏でなくなり、F.ウィリアムズさんが「シー」と息を吐き、松尾芭蕉の俳句の言葉を一言づつ嚙み砕くようにして非常にデリケートに詠まれました。そのフラジャイルな肌触り感には人生の儚さ(無常感)のようなものが表現されているように感じられましたが、日本人よりも俳句の心を鋭敏に感じ取り、その世界観を繊細な音(静寂に聴くものを含む)で表現している秀作に思われ、是非、続作を期待したいところです。
⑭:歌曲「フランダースにて」
A.ガーニーの歌曲「フランダースにて」が歌われましたが、幻想的なピアノ伴奏に乗せてW.アダムスのイギリスへの郷愁が感じられる美しい歌唱に聴き入りました。儚い人生だからこそ、この世は美しく切ないものに感じられます。
⑮:歌曲「放浪者」
竹内さんが袴姿に着替えて登場し、ナレーションで徳川家康はW.アダムスの有能さを評価して日本初の洋式帆船の建造を命じます。さらに、1608年にW.アダムスを旗本に取り立て三浦按針という名前を与え、江戸幕府の外交顧問としたことが物語られた後、V.ウィリアムズの歌曲「放浪者」が歌われました。晴れがましいピアノ伴奏に乗せて着物に着替えて脇差を挿したF.ウィリアムズさんが快活な歌唱で、サムライとして新しい人生を歩むことになったW.アダムス(三浦按針)の心映えが印象的に表現されていました。
パート4:人生の終幕
⑯:歌曲「ただ放浪する者だけが」
ナレーションでW.アダムス(三浦按針)は徳川家康から250石の知行を与えられ(現在価値で年収約1000万円程度)、日本を離れることを禁じられたことが物語られた後、J.フィンジの歌曲「ただ放浪する者だけが」が歌われました。W.アダムスが人生を達観しているような心穏やかな歌が聴かれましたが、大航海から大後悔に陥るのではなく、自らの運命を悟りそれをありのままを受け入れながら自らの人生を大きく切り拓いて精一杯に生きた人物であったことが感じられるピースでした。
⑰:アイルランド民謡「マイ・ラガン・ラブ」
ナレーションでW.アダムス(三浦按針)は徳川家康のもとで日本の外交や貿易を支援して日本の新たな貿易ルートの開拓など偉大な功績を残しましたが、やがて徳川家康が死亡したことが物語られた後、アイルランド民謡「マイ・ラガン・ラブ」が歌われました。柔らかい和音を奏でるピアノ伴奏に乗せて繊細に喉を使うニュアンス豊かなアイルランド民謡を堪能できました。パート4全体を通してW.アダムスの鎮魂歌のように感じられましたが、W.アダムスの魂が故郷のイギリスに戻ったことを感じられるピースでした。因みに、この時代、アイルランドはイギリスに実行支配されていました。
⑱:歌曲「トワイライト・ピープル」
ナレーションでWアダムス(三浦按針)は長崎県平戸で1620年5月16日に没したこと(享年56歳)が語られた後、V.ウィリアムズの歌曲「放浪者」が歌われました。F.ウィリアムズさんは椅子のうえに置いた着物と脇差を遺影に見立て、無伴奏でW.アダムス(三浦按針)の魂を慰める優しい歌唱が聴かれ、ピアノが弔鐘の音を奏でながら、ペダリングによる残響がさながらW.アダムス(三浦按針)の魂が天に召されるように儚く空に消え入る静謐な雰囲気が会場を支配しました。
⓳+⑳:歌曲「フィラデルのための哀悼歌」
ナレーションでジョン・ダンの宗教詩「私の病床からの神への賛歌」が朗読された後にV.ウィリアムズの歌曲「フィラデルのための哀悼歌」が歌われ、W.アダムスの鎮魂歌が捧げられました。(合掌)
①按針塚(神奈川県横須賀市西逸見町3-5-7) ②三浦按針屋敷跡(東京都中央区日本橋室町1-10-8) ③黒船橋(東京都江東区門前仲町1-3-7) ④按針メモリアルパーク(静岡県伊東市渚町6) |
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①按針塚:W.アダムス(三浦按針)は徳川家康から神奈川県横須賀市逸見に250石の領地を与えられていましたが、京浜急行の安針塚駅にある塚山公園には按針塚という供養塔(向かって右塔がW.アダムス、左塔が妻)が安置されています。 | ②三浦按針屋敷跡:オランダ東印度会社東洋派遣隊の航海士だったW.アダムス(三浦按針)は1600年に暴風のため大分県に漂着しましたが、その後、徳川家康の通商顧問になり、江戸城下の東京都日本橋室町に拝領屋敷を与えられていました。 | ③黒船橋:黒船川は隅田川の支流である大横川に掛けられている橋ですが、W.アダムス(三浦按針)が黒船を係留していたことから命名されたという説があります。因みに、W.アダムスが乗船してきたリーフデ号は船体が黒く塗装されていました。 | ④按針メモリアルパーク:W.アダムス(三浦按針)は航海術など西洋技術に精通していたことから徳川家康に命じられ、伊東で日本初の洋式帆船が建造されました。「三浦」は領地のある地名、「按針」は水先案内人の意味で命名されています。 |
▼能楽のアップデート:新作能「神武」とミュージックシアター「Silver Mouth」とアヌーナ公演「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~現代音楽と同様に新作能の公演も関東よりも関西が活発な傾向(西高東低)があるように感じられますが、先日、熊野那智大社で世界遺産登録20周年を記念してシテ方宝生流能楽師・辰巳満次郎さんらによる新作能「神武」の奉納公演が行われました。熊野那智大社のご神体である那智大滝が降臨する滝雨の中での公演となりましたが、その模様がYouTubeにアップされていますのでご紹介しておきます。また、今月、能声楽家・青木涼子さんとオーストラリア人作曲家・ジェイムス・ハリックさん/JOLT Artsが能の謡、歌と音響パフォーマンスを融合した新作ミュージックシアター「Silver Mouth」と能の謡と弦楽四重奏のための新作「I wouldn ′ t」などを公演する予定になっており見逃せません。さらに、来月、中世のアイルランド音楽とクラシック音楽やコンテンポラリー音楽などを融合して現代的にアレンジして聴かせる合唱団「アヌーナ」が来日します。合唱団「アヌーナ」は2017年に来日した際にW.イエーツの戯曲「鷹の井戸」を題材にして能と合唱を融合したケルティック能「鷹姫」を上演して大いに話題になりましたが(過去のブログ記事で採り上げていますが、同じくW.イエーツの戯曲「鷹の井戸」を題材にした坂本龍一さんと高谷史郎さんの舞台「LIFE-WELL」なども有名ですが)、今回は小泉八雲(ギリシャ系アイルランド人で日本に帰化したラフカディオ・ハーン)の戯曲「雪女」を題材にして能の舞と合唱を融合した「雪女」の幻想~神秘のコーラスと能舞~が上演される予定になっており大いに注目されます。この点、アイルランドやアイスランドには冬、氷や雪を司る女神、妖精や精霊に纏わる伝説がありますので、ストーリーは全く異なりますが、アイスランドを舞台にしていると言われるディズニー映画「アナと雪の女王」(劇団四季ロングラン上演中)や日本でも古くから存在する雪女の伝説などとの文化的な基盤の類似性のようなものも感じられ、その意味からも興味深いです。いよいよ能楽も伝統から革新へとシフトする潮流が本格的なものになってきているような手応えがあり、非常に頼もしい限りです。▼映画「シムサ」1669年にアイヌ人の首長・シャクシャインを中心に勃発した松前藩に対する武装蜂起「シャクシャインの戦い」(史実)を題材として、俳優・寛一郎が演じる松前藩士・高坂孝二郎の目を通して当時のアイヌ人や和人を翻弄した悲劇をフィクションとして描くことで多文化・多民族共生という現代的なテーマを扱った映画「シムサ」が公開されています。現在、公開中のため、ネタバしないように具体的な内容に関する言及は避けたいと思いますが、史書によれば、シャクシャインの戦いはアイヌ人同士の抗争を発端とし、これに松前藩が絡んだことが直接のトリガーとなって勃発したと言われています。この点、この映画ではストリー展開をシンプルにするために、それ以前からアイヌ人と松前藩との間で鬱積していた問題(不平等な交易、天然資源の乱獲)に焦点を絞って描かれています。前回のブログ記事で「憎」という感情について触れましたが、「憎」は自らが属する「集団」を守って自らの生存可能性を高めるために「何をしたか」(行為)ではなく「何であるか」(対象)に向けられた感情であり、その対象を除去することで癒されると述べましたが、アイヌ人に命を救われた松前藩士・高坂孝二郎がアイヌ人の「憎」と和人の「憎」との狭間で揺れ動きながら「憎」を克服して行く姿を描く感動的な内容になっており、ロシアによるウクライナ侵攻、ハマスによるイスラエル越境攻撃やイスラエルによるガザ侵攻(いずれも民間人の犠牲を厭わない無差別攻撃)と重ね合わせながら、色々と考えさせられる映画でした。人類史を紐解けば、古今東西を問わず、アイデンティティが異なる集団同士で土地の奪い合いを繰り返してきた歴史であり(第二次世界大戦以降は土地の奪い合いから金銭の奪い合い(経済戦争)へと移行しましたが、近年、再び土地の奪い合いに戻ろうとしているのが現在の世界情勢です)、それと根を同じくするものとして日本でもアイデンティティが異なる対象に対する差別感情に基づくヘイト発言が後を絶ちませんが、先日、バイデン大統領が先住民同化政策を謝罪したように自らと異なるアイデンティティを持つ対象を(ヘイト発言を含む)暴力で除去しようと試みたり又は自らのアイデンティティに同化しようと試みるのではなく、前回のブログ記事でも触れたようにお互いの違いを大らかに許容することができる幅広い教養を培うことが益々重要になっていると思います。そんなことを考えさせる映画であり、是非、これからの多様性の時代を拓いていく若い人達にこそ見て貰いたい映画です。