ぶらあび

ジャンルを超え、地域を超え、時代を超えて「時間芸術」(音楽、文学、話芸、香道…)、「空間芸術」(建築、彫刻、陶芸、絵画、書道、華道…)、「総合芸術」(舞踊、演劇、映画、茶道…)など芸術全般の感想を書き綴ります。(オススメ公演情報等はスマホ版で表示されないのでPC版でご覧下さい。)Copyright (C) 2007-2019 Administrator All Rights Reserved.

礒山雅presentsバッハの真髄を探る バッハの宇宙 完結編

【講題】礒山雅presentsバッハの真髄を探る バッハの宇宙 完結編
    第1回 バッハ「マタイ受難曲」−その広大な作品世界−
    第2回 実演で触れる「マタイ受難曲」の聴きどころ
    第3回 J.S.バッハ マタイ受難曲
【講師】礒山雅
【演奏】
  − 第2回
    <Org>大塚直哉
    <Sop>小島芙美子
    <Alt>坂上賀奈子
    <Ten>中嶋克彦
    <Bas>小藤洋平、千葉祐谷、狩野賢一
  − 第3回
    [第1グループ]ケンブリッジ・コンツェントゥス
    <Sop>クララ・ロットソーク
    <Sop>ウルリーケ・プレーガー(リピエーノ、下女1・2、ピラトの妻)
    <Alt>ジーア・ローボー
    <Ten>ジェイソン・マクストゥーツ(福音書記者)
    <Bas>サムナー・トンプソン(イエス
    <Bas>千葉祐也(ユダ、祭司長1)
    <Bas>狩野賢一(ペトロ、ピラト、大祭司カイアファ、祭司長2)
    <Rec>ウルリーケ・プレーガー、アンドレア・ルブラン、菊池香苗、川上和巳
    <Fl>テディー・ファン、アンドレア・ルブラン
    <Ob>グラハム・サン=ローラン、ジャニーネ・クロウズ
    <1stVn>マリカ・ホームクウィスト、ピーター・カマ=レックス
    <2ndVn>タチアナ・ダウベック、ジョイ・グライムズ
    <Va>エミリー・ライドアウト
    <Vdg>西谷尚己
    <Vc>ゾーエ・ヴァイス
    <Vo>モトミ・イガラシ
    <Org>レオン・シェルハーサ 他
    [第2グループ]くにたちiBACHコレギウム
    <Sop>小島芙美子
    <Alt>坂上賀奈子
    <Ten>中嶋克彦
    <Bas>小藤洋平
    <Fl>菊池香苗、川上和巳
    <Ob>尾崎温子、小松洋平
    <1stVn>桐山建志、荒木優子
    <2ndVn>大西律子、小林瑞葉
    <Va>深澤美奈
    <Vc>西澤央子
    <Vo>西澤誠治
    <Org>大塚直哉 他  
【会場】杜のホールはしもと
【開演】19時
【料金】無料
【感想】
かなり昔に相模原市文化財団の主催で「バッハの宇宙」と題するシリーズのレクチャーコンサートが開催され、その内容が大変に充実したものだったので記録として残しておきたいと思いアップすることにしました。このような有意義な企画公演は大歓迎なので、是非、相模原市文化財団の企画担当の方に、NHK「名曲探偵アマデウス」で解説を担当されていた玉川大学芸術学部教授の野本由紀夫先生を講師として、(巷に溢れている楽曲解説本のような通り一辺倒の形式的な解説ではなく)楽譜の解釈の仕方を素人にも分かるように解説する“アナリーゼ”を交えたレクチャーコンサートを企画して貰えると大変に有難いです。

パッション [DVD]
※映画「パッション」
この映画で扱われているテーマが大きく、画面1つ1つに描かれていることが深淵なので、未だ僕にはこの映画の感想を書く自信(準備)がありません。

昔、月刊誌「音楽の友」の特集記事で、無人島にCDを1枚(組)だけ持って行けるとしたら?という読者アンケートが行われ、(予想とおり)バッハのマタイ受難曲が断トツでトップでした。この曲には特別な思い入れがある方も多いのではないかと思います。クラシック音楽はバッハに始まりバッハに帰ると言われますが、最高の人が最高のテキストに最高の音楽を付した最高傑作なので、僕もバッハのマタイ受難曲ヨハネ受難曲を持って行くような気がします。

◆第1回
さて、この「バッハの宇宙」はバッハ研究で高名な礒山雅さんを講師に招いて行われたレクチャーコンサートですが、足掛け6年に及ぶ人気のシリーズで、自宅が近傍ということもあり通い詰めました。そのシリーズの完結編(全3回)として、満を持してマタイ受難曲が採り上げられました。バッハ自身が響かせたであろう作品のイメージを可能なかぎり「厳密に追求」するというコンセプトのもと、学者のジョシュア・リフキンさんを招いて2回のレクチャーと本公演が行われました。先ず、2回のレクチャーではリフキンさんが提唱している「各パートひとりの歌い手による室内楽的な演奏方式」(リフキン方式)の利点を理解するため、マタイ受難曲特有の手法である「2つの声楽・器楽グループの対話」にフォーカスしたレクチャーが行われました。バッハの手記に各パート3人と記したものが残されているそうですが(BCJは各パート3人だったと思います)、リフキンさんはこれが実際に各パートを歌う歌い手の数を記載したものなのか又はそれに補欠要員も含めた総要員数を記したものなのか明確ではないとしたうえで、現存するパート譜が各1冊づつしかないことなどを根拠としてリフキン方式を提唱されています。本公演では各パートを1名(コンチェルティストがリピエニストを兼ねるので総計8名、これに冒頭合唱でコラールパートを歌う別置リピエニスト1名を追加)の歌い手が担当し、また、第1群のテノールエヴァンゲリスト、第1群のバスがイエスを兼ね、さらに、現存するパート譜が「ユダ+大祭司1」と「ペトロ+カイアファ+ピラト+大祭司2」で2つに分かれていることから、これらを第1群又は第2群のバスが兼ねるという編成でバッハの手記に沿って厳格に再現されました。現在では、一般に、ソロパートは合唱とは別に4人のソリストエヴァンゲリスト、イエスの計6名が用意され、第1群が担当するアリアも第2群が担当するアリアも同じソリストが兼ねることが多いですが、これではマタイ受難曲特有の手法である「2つの声楽・器楽グループの対話」が生かされないため、今回はソロパートを8名のコンチェルティストが担当しました。因みに、第1群はケンブリッジ・コンツェントゥス(米国人)、第2群は礒山さんが音楽監督を務めるくにたちiBACHコレギウム(日本人)という組合せとすることで、マタイ受難曲特有の手法である「2つの声楽・器楽グループの対話」を視覚的にも分り易くする工夫が施されました。


このカットはまるで絵画を見ているように計算された構図です。イエスを責め立てる兵士(群衆)とその罪を背負うイエス。誰にも抗うことができない「受難」という宿命に向かって進んでいますが、その方向からは光が差し、光へと導かれているようです。

マタイ受難曲のうち先唱−応唱による対話形式になっているのは、主に以下の曲ですが、これらについて「受難記事」(エヴァンゲリスト、シオンの娘)、「私」(アリア、信じる者)、「私達」(コラール、共同体の立場)という構成上の三要素(3つの視点)を踏まえて歌詞や楽譜を分析し、詳細な解説が加えられましたが、この解説が豊かな作品観賞の手助けをしてくれる示唆に富む内容でした。また、第59曲(ああ、ゴルゴダ)は、それまで支配的であった♯圏(ホ短調)の音楽が完結して♭圏の音楽に移行し、救いへの流れが始まる重要な転換点となっている(第59曲の弔いの鐘は同時に救いの鐘でもある)という解釈は興味深かったです。確かに、それまで緊迫感に満ちた厳しい音楽が第59曲から開放感のある穏やかな印象の音楽へと変化していきます。詳しくは東京書籍から出版されている礒山さんの名著「マタイ受難曲」や「カンタータの森を歩む」に書かれていますので、もっと知りたいという方は本を買って読みましょう。

第1曲(冒頭合唱)
第18〜25曲(ゲッセマネの園)
第26〜29曲(捕縛)
第30曲(第2部導入)
第60曲(イエスの死)
第67〜68曲(埋葬)

◆第2回
前回のレクチャーの内容であるリフキン方式の概要をおさらいし、大塚直哉さんによるオルガン伴奏で第2グループの声楽メンバー(4名)と別置ソリスト(2名)の計6名の声楽メンバーが受難コラール(4曲のコラールの和声の違いから各コラールの性格付けを聴き比べ)とアリアの一部などを試演しました。今回、声楽メンバーの中にはマタイ受難曲を歌うのは初めてという方もいましたが、これまでマタイ受難曲を歌い込んできた(であろう)アルトの坂上さんなどは実に堂々とした迫真の歌唱でした。現在、リフキン方式で演奏された音盤はいくつかリリースされていますが、マクリーシュ盤やバット盤を聴いていると、各パートが1人で歌われることで、この曲の構造がはっきりと浮き立って聴こえてくることに加え、歌い手が言葉に込めた感情や祈りなどがより生々しくダイレクトに伝わってきて、聖書の言葉が生きた言葉として新鮮に耳に響いてきます。マタイ受難曲の底流に流れる精神と静かに向き合っているような聴後感は、厚化粧のリヒター盤やメンゲルベルグ盤などでは味わえない感覚です。この点、大塚直哉さんが「言葉」(マタイ受難曲の歌詞)と「音楽」との結び付きに配慮した音楽作りを心掛けたいと本公演の抱負を語られていましたが、リフキン方式の利点を最大限に活かす音楽作りと言えそうです。

◆第3回
そして本公演ですが、第1グループ(受難を間近で見守る人々、アメリカチーム)と第2グループ(それを遠くで案じる人々、日本チーム)の合唱が器楽を挟んで向かい合うように配置(リピエーノとして2階席に別置のソプラノ1名と第一グループにバス2名を配置)され、この両グループが言葉をキャッチボールすることでマタイ受難曲の特徴である「2つの声楽・器楽グループの対話」が明瞭に感じられる工夫が凝らされていました。その対称性がこれまであまり意識してこなかった楽曲構成や歌詞の意味(性格)を浮き彫りにする劇的な効果を生んでいたと思います。全体的な印象としては荘厳なマタイや鮮烈なマタイとは趣が異なり慈愛に満ちた優しいマタイで、その静謐な印象を与える演奏に静かな感動を覚えましたし、他のお客さんもこの演奏に魅了されていたようで、いつまでもカーテンコールが鳴り止みませんでした。マクリーシュ盤やバット盤は各声部がソリスティックに主張する生々しい合唱が特徴なのに対し、今回の演奏はよりハーモニーを重視したムラのない美しい響きが特徴の合唱だったと思います。エヴァンゲリストは妙に芝居染みたところがなく、どちらかと言うと禁欲的で誠実な歌唱に好感を持ちました。リフキン方式はソリストが合唱も兼ねるためにエヴァンゲリストは歌いっ放しになりますが、マクストゥーツさんの喉は鍛え抜かれているのか最後までヘタッてしまうことなく最後までその美声をフルに活かした安定感のあるパフォーマンスで聴き応えがありました。ややアンサンブルが揃っていないところや多少のキズなど気になる点もありましたが、何度か予定されている本公演を重ねて行くに連れて徐々に演奏の完成度も増してくるものと思われます。

最後に、リフキン方式(OVPP<One Voice Per Part>の編成)によるバッハのマタイ受難曲の音盤をいくつかご紹介しておきましょう。マクリューシュ盤を皮切りにバット盤及びクイケン盤が相次いでリリースされています。マクリューシュ盤は洗練された演奏で全体のバランスが良く完成度の高い演奏だと思いますが(この曲が信仰のための音楽であることを思い出させてくれる名演奏で、これこそが「バッハのマタイ」であると感じさせる何かを持っています。とりわけソリスト陣が秀逸。)、バット盤は編成の大きな合唱に聴かれる予定調和的な美しい響きの世界とは異なり、各声部がソリスティックに主張し絡み合う生気漲る鮮烈な印象の演奏になっています。この両盤の中間に位置するのがクイケン盤で、どちらかと言えばマクリューシュ盤のアプローチに近い印象を受けます。冒頭合唱を例にとれば、マクリューシュ盤はまるで不可逆的な運命「受難」へと一気に突き進んで行くような早いテンポ設定が特徴的でそれがリフキン方式による演奏効果と相俟って音楽に清冽な印象を生んでいるのに対し、バット盤は落ち着いたテンポながらリズムを躍動させて各声部が沸き立ち臨場感ある音場を生み出し、表面的な美しさに止まらない彫りの深い表現で訴求力のある演奏が展開されています。バット盤がリズムを躍動させる縦の動線を際立たせるのを特徴とするのに対し、クイケン盤は旋律を流麗に奏する横の動線を際立たせるのを特徴とし音楽的な美しさ(抽象美)に優れた演奏だと思います。それにより、例えば、冒頭合唱で通奏低音のオルガンによる「E音(ホ音)」(=rde<大地>)から「C音(ハ音)」(=hristus<キリスト>)へと十三度駆け上る上行形の旋律がイエスの昇天を連想させるものとして魅力的に立ち上がってきます。個人的な好みを言えば、こうして三種類の音盤を聴き比べるとバット盤の個性に際立ったものを感じます。最初は生々しい歌唱に違和感を覚えていましたが、それによって聖書の言葉が生きた言葉として歌い語られ、まるで受難劇を目の当たりにしているような迫真性をもって耳に響き、聴き込むほどに感動が深くなって行くのを感じます。決して大合唱では真似できない迫真性と説得力をもった演奏が胸に迫ってくるようです。その点で「聖書の言葉を聞かせる」ことを本来の使命としている宗教音楽の演奏としては実利にも適ったものだと言えるのかもしれません。

▼マクリーシュ盤
バッハ:マタイ受難曲
▼バット盤(1742年頃バッハ最終演奏版)
Bach: Matthew Passion (Bach's Last Performing Version, c. 1742)
クイケン
Bach: Matthaus - Passion

◆おまけ
この曲はラブリー&イージーな音楽ではなく、どちらかと言うと取っ付き難い部類に入る音楽ではないかと思いますが(メンデルスゾーンが復活上演するまで約100年近くも忘れ去られていました)、生涯を掛けても聴き尽くすことができない深みのある音楽で、未だ聴いたことがない人はきっと一生の財産になる音楽ではないかと思います。いくつか抜粋してご紹介しておきます。

▼冒頭合唱
この曲はイエスが十字架を背負いながらゴルゴダの丘へ登るシーンから始まり、過去にフラッシュバックするというドラマチックな構成がろ採られています。通奏低音が一定に刻むリズムは十字架を背負うイエスの重い足取りが表現され、その通奏低音が(キリスト教では象徴的な数字である)13度駆け上がるところはイエスの昇天が象徴されています。

▼第39曲 アリア「憐れみ給え、わが神よ」(アルト)
ペテロが群衆からイエスの弟子ではないかと問われて三度否認するシーン。三度否認したところで鶏が鳴き、「明朝、鶏がなくまでの間に私のことを三度否認する」というイエスの預言を思い出して、我に返ったペテロが後悔して号泣します。ピッチカートは涙を表現しています。もし自分がペテロだったらきっと同じようにしか振る舞うことができず、同様に後悔して号泣したに違いないと思うと、人間の弱さを象徴するシーンとして身に摘まされるアリアです。(39曲〜41曲)

▼第59曲 レチタティーヴォ「ああ、ゴルゴダ」(アルト)
第61曲でイエスの死が描かれていますが、既に第59曲から音楽には「救い」の兆候が現れ始め(十字架を象徴する#の調性から♭の調性への移行)、第63曲(合唱)で天変地異に恐怖した民衆が「やはりあの方は神の子だった」と悟るところから音楽に本格的な「救い」がもたらされます。(58曲〜61曲)

▼終曲コラール
バッハの音楽には必ず「救い」がありますが、終曲コラールは慈愛に溢れ、大きな愛に包み込まれるようです。(67曲〜68曲)