大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用、拡散などは固くお断りします。※※

新年の挨拶②:葵トリオ・リサイタル(B→Cバッハからコンテンポラリーへ)とオペラ「足立姫」(永井秀和/路地裏寺子屋)と麻生海督博士リサイタル「地下劇場」(東京音楽大学大学院後期課程)と東京都交響楽団(第1014回定期演奏会Bシリーズ)と音楽とダンスと芝居による舞台「THE GHOST」(新垣隆/カンパニーイースト)と「2025年問題」<STOP WAR IN UKRAINE>

▼「2025年問題」(ブログの枕)
謹賀新年。少し気は早いですが、正月は忙しいので12月に「新年の挨拶①」及び「新年の挨拶②」の二回に分けて新年の挨拶を投稿します。過去のブログ記事で初詣は女性器の象徴である鳥居から参道(産道)を遡って御宮(子宮)へと至り、再び、御宮(子宮)から参道(産道)を通って鳥居から生まれ直すという意義があると述べましたが、前回のブログ記事で「巳」は「草木の成長が限界に達して、次の生命が宿され始める時期」とされていることから、2025年の生まれ直しには時代の節目という意義も含まれているように感じられます。さて、上述のとおり「巳」は「草木の成長が極限に達して」いる状態を意味していますが、2025年は「ITシステムの朽化」と「人間の朽化」という2つの社会課題(2025年問題)が日本で顕在化する年と言われています。そこで、昨年の新年の挨拶②で採り上げた「タツノオトシゴの子育て」(少子化問題)と裏腹の問題として「人間の老朽化」(高齢化問題)に触れてみたいと思います。因みに、前回のブログ記事で「」という漢字は胎児の姿を象った象形文字であると述べましたが、これに対して「」という漢字は腰の曲がった老人が杖をついている姿(極限に達している状態)を象った象形文字と言われており、お節料理で縁起物とされる「海老」は腰の曲がった老人の姿に似ていることからその長寿に肖って「海」の漢字が使われています。因みに、「老」の対義語である「」という漢字は巫女が神の依代である榊(←境木←神様と人間の境にある木)を翳している姿を象った象形文字と言われていますが、前回のブログ記事で触れたとおり「巳」(蛇)は「若」(神社は安産祈願、お宮参り、七五三、合格祈願、結婚式などに象徴される生きている人のための場所)と「老」(寺社は葬式、法事、お彼岸、墓参りなどに象徴される死んだ人のための場所)という相反する性格(陰陽)が調和して1つの世界ができていることを象徴しています。日本における「人間の老朽化」(高齢化問題)を示す指標として、2024年版高齢化白書によれば、2025年には全ての「団塊の世代」(戦争の終結と兵士の帰還によって発生した1947年~1949年の第一次ベビーブームで生まれた約800万人)が後期高齢者(75歳以上)になることで、日本の人口の5人に1人にあたる2154万人が75歳以上になり、日本の人口の3人に1人にあたる3653万人が65歳以上になるという超高齢化社会を迎え、社会保障の負担増や労働力不足の深刻化(とりわけ医療・介護の分野では高齢者が増加する一方で労働力は不足する二重苦)などが懸念されています。2023年版人口動態統計によれば、2023年の出生者数は約4万人減少して約73万人になり、今後も、この出生者数の漸減傾向は続くと見込まれていますので、65歳以上の人口数は2043年でピークを迎えるものの、2070年まで高齢化率は上昇を続けると見込まれています。このままでは日本は超高齢化社会の状態のまま人口が減少して国勢が衰えて行くという未来予想図になってしまいそうですが、2025年は「巳」の「次の生命が宿され始める時期」でもあることから、次の時代を見据えた新しいビジョンが求められる年とも言えそうです。人間の理論的な限界寿命はヘイフリック限界(細胞分裂の自然的な上限回数のことで、この限界に達すると細胞分裂が停止する細胞寿命)から約120歳と考えられており、これを裏付けるように日本の最長寿命は2022年に死去した故・田中カ子さんの119歳、世界の最長寿命は1997年に死去したフランス人女性の故・J.カルマンさんの122歳が記録されています。この点、人間の自然寿命は環境要因などによって大きく左右され、WHOが公表している2024年版世界保健統計によれば、日本の平均寿命は84.46歳(世界第1位)、世界の平均寿命は73.7歳になりますが、古DNA解析で旧石器時代の人間の平均年齢は約38歳と推定されていることから、人間の平均寿命は科学技術の進歩や経済発展などに伴う環境要因の改善で大幅に延伸されており自然寿命から限界寿命へと近付いています。因みに、細胞分裂の上限回数(約50回前後)は細胞分裂により染色体が短くなるのを防いで染色体の構造を維持する役割を担っている染色体の末端にある非コードDNA「テロメア」によって規定されますが、生誕時に約8~12Kbp(bp=1塩基対)の長さであったテロメアが加齢等により約5Kbpの長さまで短縮すると細胞分裂が停止することが分かっています(ヘイフリック限界)。この点、過去のブログ記事で活性酸素は老化の原因となることに触れましたが、活性酸素はテロメアを傷付けてテロメアの短縮を促進し、細胞老化を加速することが分かっています。2009年にアメリカの分子生物学者E.ブラックバーンさん、分子生物学者C.グライダーさん及び遺伝学者J.ショスタクさんはテロメアの短縮を遅らせ又はテロメアを延伸して細胞老化を防ぐ酵素「テロメラーゼ」を発見してノーベル医学生理学賞を受賞しましたが、その研究成果としてがん細胞はテロメラーゼが暴走することにより過剰に細胞を増殖する仕組みが分かりましたので、今後、テロメラーゼの暴走を止めてがん細胞の増殖を抑える抗がん剤の開発に期待が集まっています。また、抗酸化効果のある食事、適度な運動と休養、嗜好品の節制など生活習慣の改善によってもテロメアの短縮を遅らせ又はテロメアを延伸することが可能であり(テロメア・エフェクト)、それによって単に平均長寿だけではなく健康長寿(健康上の理由から日常生活を制限されることなく長生きすること)を延伸する可能性があることが分かっています。この点、2022年版厚生労働白書によれば、日本における平均寿命と健康寿命の差は2019年の統計データで男性が8.73歳、女性が12.06歳と言われていますが、2025年問題で懸念されている社会保障の負担増を抑制し、労働力不足の深刻化を改善するためには、可能な限り、平均寿命と健康寿命の差を縮めていつまでも元気に社会貢献できる健康寿命を保つように心掛けることが肝要であり、過去のブログ記事でも触れたとおり健康管理が益々重要な時代になっています。
 
 
2024年住民基本台帳(9月1日時点)によれば、100歳以上の高齢者の総数は1963年には僅か153人でしたが、2024年には95,119人と約622倍に増加しており、年々、漸増傾向にあります。これを踏まえると、もはや幸若舞「敦盛」の「人間50年」では真実味が薄く共感が難しくなってきていますので、「人間100年」を前提として新しい時代の無常観を謡い舞う新しい幸若舞が求められている時代と言えるかもしれません。この点、上述のとおり2025年は「巳」の「次の生命が宿され始める時期」でもあることから、人生が大幅に延伸していることを前提として、どのように生きてどのように死んで行くのかという死生観についても新しいビジョンが求められる年とも言えそうです。紙片の都合から諸外国の死生観の変遷まで触れることはできませんが、日本人の死生観(キーワード)の変遷についてごく簡単に俯瞰してみたいと思います。前回のブログ記事でも触れたとおり、日本では蛇の装飾があしらわれている女性を象った土偶(頭に蛇を乗せた土偶)が出土しており、「死者の再生」を願って蛇を男性器の象徴とし、土偶を妊婦の象徴として信仰の対象にしていた可能性が指摘されています。また、アイヌには「イオマンテ」という儀礼(熊の肉や毛皮の恵みに感謝してカムイ(熊の魂)をカムイモシリ(神の国)へ送り返し再訪を願う儀礼)が伝承されてきましが、これらの縄文人の死生観はアニミズムの思想を背景として生命の「循環」を信じ、死者の魂は新たな生命を育む自然に「還元」されるという再生観念を持っていたと考えられています。この点、折口信夫の名著「古代研究」(民俗学篇1)に「妣が国へ、常世へ」(「妣」とは亡き母の意味)という論考が掲載されており、古事記上巻2古事記上巻3の「妣国」とは死者の魂が向かう死後の世界を意味し、肉体の死後に魂が安息して生命の循環が行われる場所(自然)と考えられていましたが、その場所から時を定めて訪れる神が「マレビト」(稀に来る客人)として迎えられ、やがてその神の言葉を伝える人がマレビトに転じ、それが文芸や芸能を司る人と深く結び付いたと考えられており、能「翁」もマレビトを源とするものであると考えられています(折口信夫「日本芸能史六講」)。平安時代中期(宮廷文化)までは生命の謳歌を基調として人生の儚さを風雅の道に昇華して人生を美しく彩る「あわれ」を基調とする文化が育まれ、この感性は平安時代中期までの死生観にも反映されています。大河ドラマ「光る君へ」は平安時代の「女の幸せは男次第」(シンデレラコンプレックス:源氏物語第十七帖「絵合」ではかぐや姫が帝の妃にならなかったことをネガティブに評価しており当時の時代感覚を象徴)という時代錯誤感などから低調に終わりましたが、紫式部はそのような女性の境遇を「宿世」(すくせ)という言葉で表現し、その後の「無常」という考え方を先取りしています。平安時代末期(宮廷文化から武家文化への変遷)には朝廷内の権力闘争に端を発して武士の力が台頭しましたが、「保元物語」には朝廷の治世を背景とした「あはれ」や「はかなし」などの人生を美しく彩る言葉は使われなくなり、武士の乱世を背景として死を避けられない運命として自覚する「無常」という言葉が使われるようになりました。乱世は、現世を「憂き世」として捉える厭世観を深める結果になり、死(無常)を超える永遠のものとしての輪廻転生や浄土思想という考え方への依存度を強めていきました。平安時代末期に西行法師が「花に染む 心のいかで 残りけん 捨て果ててきと 思ふわが身に」(山家集)という和歌を詠み、桜(生のメタファー)が散る無常を悟り仏道に帰依したのに桜の美しさに迷う心(生への執着)から逃れられないことを嘆いていますが、生涯、数寄の道に心を寄せて桜を愛で桜を惜しむ心を和歌に詠み、和歌の道を通して仏教心理(真如)に近づくことを志向しています。桜は美しく咲いて直ぐに散ってしまう儚さ(無常)がありますが、来春も同じように桜は美しく咲くこと(無常を超える永遠)から、無常の悲しみを和らげるものとして強く心を捉えていたと言えるかもしれません。江戸時代(庶民文化)には宗教的な信心から「無常」という考え方を残しながらも、乱世の苦しみや悲しみから解放されて現世を肯定的に捉える「浮き世」という考え方が支配的になり、死の問題を笑いの素材とする落語「死神」のような作品も誕生しています。明治時代以降は宗教的な信心が失われるにつれて「無常」という意識も希薄になり「浮き世」という考え方のみが残りましたが、宗教的な信心に代わって芸術的な体験などを通して生や死と向き合う時代になっています。過去のブログ記事でも触れましたが、生命現象とはエントロピー増大の法則に抵抗して分子の分解と合成を繰り返しながら生命秩序を維持するためのバランス(動的平衡状態)を保とうとする作用のこと(ベリクソンの弧)だと考えられていますが、基本的に分解のスピードが合成のスピードを上回っていること(テロメアの短縮)から徐々に生命秩序の崩壊が進行し、やがて消滅する運命にあります(生命の有限性:過去のブログ記事でも触れましたが、人類は生存戦略として有性生殖を選択して自死のプログラムを実装)。人間が死ぬと、人間の身体を組成している分子はバラバラに分解されて有機物又は無機物として自然界に「還元」され(火葬されると骨以外は気体になり、空中を漂い、雨などによって生命のプールと形容される海や陸に降り注ぐ)、やがてそれらが他の分子と結合して別の有機物又は無機物になる可能性があり(自然界の「循環」、即ち、輪廻)、その意味で生命現象は奇跡的であり尊いものと言えるかもしれません。先日、イギリスで安楽死法案が議会下院で可決(1回目)されて話題になっていますが、「死ぬ自由(自己決定権)」(日本では憲法第13条に定める基本的人権で死ぬ自由が保障されているかという問題)について世界的に議論が活発になっています(下の囲み記事を参照)。生命倫理に関する難しい議論は横に置くとして、死が不可避である以上、自分らしく生きたいのと同様に自分らしく死にたいと考えるのが人情ではないかと思いますが、ここに「死の美学」(個人)と「倫理の美学」(社会)のジレンマが生まれています。映画「楢山節考」や映画「PLAN75」でも、自己決定の「真の自由性」への疑問が投げ掛けられていますが、とりわけ日本のような「社会」の意識(個人の権利)ではなく「世間」の意識(個人の役割)が強く同調バイアスが働き易い社会では、尚更のことセンシティブな問題と言えるかもしれません。本当は本人は生きたいと思っているのに、様々な事情や都合などから死にたいと言わせてしまう状況が生まれてしまうとすれば、それは誰にとっても不幸な社会になってしまいそうです。江戸時代までは規範性の時代を背景として宗教的なロマンティシズムに彩られた集団的な死生観を持っていましたが、現代は多様性の時代を背景として科学的なリアリズムに彩られた個人的な死生観を持つ時代に移り変わっていると思いますので、上述のとおり初詣は新しく生まれ直す節目であるからこそ、改めて、自分の死生観について考え直してみたいと思っています。
 
▼死生観(キーワード)の変遷
時代 文化 死生観(キーワード)
平安 宮廷文化
(治世)
あはれ(風流)
はかなし(風雅)
鎌倉~戦国 武家文化
(乱世)
無常(桜)
憂き世(厭世)
江戸 庶民文化
(治世)
無常(桜)
浮き世(現世肯定)
現代 多様性文化 多様な死生観
(自己決定権)
 
▼日本で認められている死に方
死に方 可否
安楽死 自然な死を待てない 不治&末期で死期を早める 違法※1
尊厳死 自然な死を待てる 不治&末期で延命治療を行わない 法律がなくガイドライン規制※2
自然死 延命治療を行わない 合法
延命治療 死にたくない 延命治療で死期を遅らせる
※1:自己決定の「真の自由性」の問題に加えて、自殺なのか他殺なのかを見極める必要性などの問題も指摘されています。
※2:本人の意思(リビングウィル)が明確で終末期と判断される場合など厳格な条件が定められています。
 
▼世界で認められている死に方
日本 海外
安楽死
※1
積極的安楽死(薬の注射)
オランダ、ベルギー、カナダ、スペイン、ニュージーランドなど※2
医師幇助自殺(薬の処方)
スイス、オーストラリア、イタリア、アメリカ(一部の州)など※3
尊厳死 消極的安楽死
自然死
延命治療 延命治療
※1:キリスト教圏では宗教的に自殺が許されていませんが、医師が介在すれば宗教的な罪にはならないので安楽死を選択する人が多いと言われています。因みに、G7各国の自殺死亡率(2023年)を見ると、日本が16.4人(G7トップ)であるのに対し、イギリスは8.2人と顕著な差があります。
※2:欧米は個人主義なので自分の死に方は自分で決める自己決定権の文化(本人の意思>家族の医師)がありますが、日本は家族主義なので自分の死に方は自分1人ではなく家族の意向を尊重(本人の意思<家族の意思)する傾向があると言われています。
※3:現在、イギリスで安楽死法案が検討されているのはピンク色の部分です。
 
▼葵トリオ・リサイタル(B→Cバッハからコンテンポラリーへ)
【演題】B→Cバッハからコンテンポラリーへ
    267葵トリオ(ピアノトリオ)
【演目】①A.シュニトケ ピアノ三重奏曲
    ②細川俊夫 メモリー ─ 尹伊桑の追憶に
    ③山本裕之 彼方と此方
    ④藤倉 大 nui(縫い)
    ⑤藤倉 大 nui2(縫い2)(世界初演)
    ⑥J.S.バッハ ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ト長調
    ⑦M.ヴァインベルク ピアノ三重奏曲
【演奏】<Pf>秋元孝介
    <Vn>小川響子
    <Vc>伊東裕
【日時】2024年12月17日(火)19:00~
【会場】東京オペラシティー リサイタルホール
【一言感想】
「3つの新しさ」(①ピアノ三重奏というスタイルで聴くバッハの新しい響き、②ピアノ三重奏の新たな名曲、③邦人作品との出会い、そして新しい音楽の産声)をテーマとして、葵トリオ・リサイタル(B→Cバッハからコンテンポラリーへ)が開催されるというので聴きに行く予定にしています。なお、B→CシリーズでJ.S.バッハの曲を採り上げなければならないとしている趣旨は理解していますが、楽器、編成や演目構成などによっては、無理にJ.S.バッハの曲を採り上げなければならないとする必要性もないのではないかと感じているのは僕だけでしょうか。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を書きたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます(チケットは完売)。
 
―――>追加
 
東京オペラシティー・リサイタルシリーズ「B→C:バッハからコンテンポラリーヘ」はそのコンセプトが時代のニューズにマッチしていることもあり、本公演を含めてチケットは軒並み完売になる人気シリーズになっていますが、このシリーズ公演に出演し又は作品を採り上げられることが音楽家にとっての1つのステータスになってきているように感じます。葵トリオは、サントリホール室内楽アカデミーを契機として結成されたピアノ三重奏団で、メンバーの名字である「きもと」「がわ」「とう」の頭文字をとって命名されたそうですが、第67回ミュンヘン国際音楽コンクールのピアノ三重奏部門で優勝し、パンフレットによれば「ピアノ三重奏の王道演目だけではなく、演奏機会の少ない作品や法人作曲家の楽曲にも光を当てる活動が高い評価を得ており、ピアノ三重奏の世界を開拓し続けている。」と精力的な活躍を行われているようなので大変に頼もしいものを感じます。過去のブログ記事でも書きましたが、これからの時代の演奏家は単に定番曲を巧みに弾き熟すだけではなく、世界中の新しい傑作を発掘してその魅力を伝えることができる芸術家としての総合的な資質が問われていると思います。その意味では、コンクールだけでは演奏家としての資質を評価でない時代になっており、演奏家の審美眼で世界中の有能な作曲家の傑作を選りすぐり、その魅力を観客に伝えていく音楽活動の実質が問われる時代になっている思いますので、コンクールよりもグラミー賞に代表される音楽賞の方が時代のニーズに合った価値を体現するものになっているのではないかと感じます。葵トリオはそのような資質を持ったピアノ三重奏団だと思われますので、今後の活躍に大いに注目したいと思っています。
 
A.シュニトケ ピアノ三重奏曲
パンフレットによれば「この曲はアルバン・ベルク財団から委嘱を受けて作曲された「弦楽三重奏曲」(1985)に基づいており、一部の省略を除き、ほぼその編曲作品として1992年に成立しました。」と解説されています。個人的なプロジェクションを前提にして簡単に感想を書きますと、第一楽章はヴァイオリンとチェロが提示する第一主題は幸福感に満ちていましたが、直ぐに、ピアノが奏でる不協和音が幸福感を歪ませて行きました。その後、ヴァイオリンとチェロが提示する第二主題とピアノの和音の下降音型が激しく奏でられましたが、第一主題(幸福)と第二主題(破壊)の対照的な性格が印象的に奏でられていたように感じられました。コラール風の音楽が奏でられた後に、ピアノが追慕の情を体現するような憧憬感が漂う音楽を奏で始めると、直ぐに、激しい曲調に変化して搔き消され、ヴァイオリンとピアノの緊迫感のあるトリルとチェロの彫りの深い低音により激しい慟哭を思わせるテンションの高い演奏が展開されて甘美な感傷に浸ることを許しません。再び、ヴァイオリンとチェロが第一主題を奏でましたが、その歪んだ表情には幸福感はなく、これに続く激しい下降音型には寂寥感が漂っているようでした。一体、何があったのでしょうか。その後、リズミカルな激しい演奏が展開されましたが、再現部を経てチェロの消え入るようなモノローグで第一楽章を閉じました。第二楽章はヴァイオリンが変わり果てた第一主題を奏でるとピアノが教会の鐘を連想させる音を連打し、やがてが爪に火を灯すような繊細なタッチによる儚い演奏が聴かれました。その後、ピアノが淡い記憶を手繰り寄せるように幸福感に満ちた旋律を奏で始めましたが、直ぐに、ヴァイオリンとチェロの不協和がその幸福感を歪ませて行きました。その後、気分が浮き沈みするような起伏の激しい演奏が繰り返され、最後はヴァイオリンが消え入りるように第二楽章を閉じました。葵トリオは、音楽的なビジョンが明快に感じられる演奏で、めまぐるしく変わる曲調を雄弁に表現する好演であったと思います。
 
細川俊夫 メモリー ─ 尹伊桑の追憶に
パンフレットによれば「東洋の音楽を「毛筆のカリグラフィー」と形容した尹。その思想を受け継ぎつつ、細川は「その線から描かれる場所(音のカンヴァス)をより深く探求することで、自分の音楽の場所を創りあげてきた」と述べています。(中略)その創作の根源にある「カリグラフィー」による音楽表現の発露として、このメモリーを聴くこともできるでしょう。(中略)「歌おうとしても歌えないような大きな悲しみを、ピアニッシモによって歌う」と語る細川。」と解説されています。敢えて解説からは離れて個人的なプロジェクションを前提として簡単に感想を簡単に書きますと、ヴァイオリンとチェロがこのうえない微弱音をロングトーンで切れ目なく奏でましたが、無から音が生まれる瞬間を感じさせる、無と音の間を揺蕩うような静謐な空間が紡がれていきました。さながらそれは無の空間に顕在する能楽のシテが纏う気配のようなものと喩えることができるかもしれません。ピアノはさながら水面に水滴が落ちるように1音1音を空間に波紋させていくように奏でられましたが、これは音の涙によって悲しみが空間を満たしていくようなイメージに感じられました。その微弱音が揺蕩う静謐な空間に身を委ねていると、突然、長い全休符が置かれて静寂に心を澄ませる瞬間が訪れ、感覚が研ぎ澄まされて行くのが感じられました。これが何度か繰り返されるなか、突然、その微弱音が揺蕩う静謐な空間の中から感情の覚醒を思わせるようにはっきりとした音像が立ち上がって激しい音楽が奏でなれましたが、再び、長い休符が置かれて、ピアノの和音や内部奏法、弦のハーモニクスやグリッサンドなどによる様々な肌触り感のある微弱音が紡がれた後に、静かに無に帰して行く「空即是色」又は「無常観」の世界観が表現されているように感じられました。厳密には無と空は異なりますが、無(nothing)というよりも空(something)が表現されているもので(無常観とは無ではなく空を拠り所とするもの)、それが「歌おうとしても歌えないような大きな悲しみ」に通じる感覚ではないかと個人的には感じられました。この点、葵トリオは、微弱音をプアーな音響としてではなく、空間に張り詰めた凝縮された音として表現することに成功していたように思われ、だからこそ静寂に心を澄ませる緊張が音楽に生まれていたのではないかと感じられました。
 
山本裕之 彼方と此方
パンフレットによれば「この曲は、ピアノ三重奏曲に典型的な「楽器の音や音程の理論といった伝統から解放されて」います。その言葉通り、従来の旋律やリズムの概念を超えた線と点の戯れがそこにはあり、それを瞬発的に認識していくことが、この作品の本質へと聴く者を近づけます。」と解説されています。個人的なプロジェクション(というより音から受けたイメージ)を前提として簡単に感想を書きますと、ヴァイオリン、チェロ及びピアノが細かい音(点)の連なりを彼方、此方へ交錯させながら、グリッサンド(長い線)や細かくフレージングされてグリッサンド(短い線)を編み込むことで立体的な広がりを持つ音場が生まれ、ピアノが和音を連打するなかヴァイオリンとチェロがめまぐるしく変化しながら「線と点の戯れ」が繰り広げられる面白い曲に感じられました。一度聴いただけでは細かいところまで聴き分けることが難しく、また、明確な文脈を持たない音楽は記憶に留めることが難しいので(即ち、過去のブログ記事でも触れたとおり人間はナラティブ形式でエピソード記憶を行うので文脈を持たない音楽はナラティブ形式に変換することが難しいので)、演奏の感想を書くことがナンセンスなのかもしれず、その場で楽しむ音楽のように感じられました。もう一度聴くと印象が変わるかもしれませんが、取り敢えず、ファースト・インプレッションとして記録に留めておきたいと思います。
 
藤倉 大 nui(縫い)
藤倉 大 nui2(縫い2)(世界初演)
パンフレットによれば「nui(縫い)は、画家バルテュスの妻である節子・クロソフスカ・ド・ローラの書物のなかの着物に関する随筆に触発されて書かれました。」と解説されています。画家&随筆家の節子・クロソフスカ・ド・ローラさんの随筆を読んだ体験に着想を得て作曲されたものだそうですが、個人的なプロジェクションを前提として簡単に感想を書きますと、nui(縫い)は反物の生地を針で縫うようにピアノが2つの音程を交互に紡ぎながらヴァイオリンとチェロがらせん状の下降音を滑り落ちるような優美な旋律線を描きますが、さながら反物の生地の滑らかな質感を連想させるものであり、触覚と聴覚の共感覚に彩られた曲調が面白く感じられました。これが何度か繰り返された後、今度はピアノがらせん状の下降音を彩り鮮やかに駆け抜けるように奏でましたが、まるで花吹雪が舞い散る着物の絵柄を連想させるものであり、視覚と聴覚の共感覚に彩られた曲調が印象的でした。その後、ヴァイオリンとチェロのグリッサンドやハーモニクスなどで着物を縫製する作業や着物の風合いが描写されているように感じられ、さながら着物に袖を通しているような感覚を覚える面白い曲でした。どことなく藤倉さんの弦楽四重奏「アクエリアス」とも曲調が似ています。
 
J.S.バッハ ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタト長調
モダン楽器による演奏は踊るバッハというより歌うバッハという印象を受けましたが、ピリオド楽器と比べて野暮ったくなってしまうようなところはなく、葵トリオのフットワークの軽いアンサンブルによって活舌の良い爽快感のある演奏を楽しめました。詳しい感想は割愛します。
 
M.ヴァインベルク ピアノ三重奏曲
パンフレットによれば、「ピアノ三重奏曲は、室内楽曲が多産された時期の作品で、ピアノの比重が大きい曲になっていますが、それはヴァインベルク自信が卓越したピアニストでもあったからでしょう。」と解説されています。最近、演奏機会が増えているM.ヴァインベルクですが、G.マーラーに対するH.ロットのような存在と言えば良いでしょうか、その作風はD.ショスタコーヴィチと酷似しており新古典主義の傑作の1つに挙げられると思います。個人的なプロジェクションを前提にして簡単に感想を書きますと、第1楽章はチャイコフスキーを彷彿とさせる華々しい演奏で始められましたが、一筋縄では行かない陰影や諧謔などが随所に散りばめられるショスタコ節が魅力的に感じられる曲調で、明瞭なフレージングが諧謔をデフォルメする効果を生んでおり畳み掛けるような構築感のある演奏に圧倒されました。その後、ヴァイオリンとチェロのピッチカード、ピアノのスタッカトがしめやかに奏でられ、ワダカマリのようなものを残しながら消え入るように第1楽章を終えました。第2楽章はピアノのメカニカルな演奏で始まり、そのままヴァイオリンとチェロが細かいリズムを刻みながら丁々発止に呼応する即興感のある演奏に雪崩込みましたが、さながらショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番第2楽章のスケルツォを彷彿とさせるものがありました。この曲が持つポテンシャルを余すところなく引き出す葵トリオのリズミカルで密度の濃い熱演が圧巻でした。第3楽章はショスタコーヴィチの24の前奏曲とフーガを彷彿とさせるものがありますが、ピアノが硬質なタッチで神秘的な美しさを湛える演奏が出色でした。ヴァイオリンが微弱音のピッチカートを奏でるなか、チェロが陰影を帯びた重苦しい独白を朗々と奏でますが、それがヴァイオリンやピアノに受け継がれてテンションを上げながらクライマックスを築いて行く高揚感のある演奏に興奮を禁じ得ませんでした。再び、ピアノが硬質なタッチで神秘的な美しさを湛える演奏を展開し、チェロが微弱音のピッチカートを奏でるなか、ヴァイオリンが寂寥感を湛えた繊細な演奏で消え入るように第3楽章を終えました。第4楽章はリズミカルで小気味よいアンサンブルから徐々にテンポをあげながら感興に乗じた燃焼度の高い演奏が展開され、第一楽章の再現を経てクライマックスを築きましたが、このまま大団円で終わってしまうクラシック音楽にありがちなメルヘンな嘘臭さはなく、ヴァイオリンが奏でる現実逃避感のある麻薬的なワルツからチェロが奏でる鬱々と思索に耽るような独白を経て、ヴァイオリンのハーモニクスとピアノの沈痛な連打で消え入るように終曲になりました。人生にハリウッド映画のような救いや解決がないのと同じように、その真実味のある音楽表現が現代人の心を捉えるのかもしれない、と感じさせてくれる葵トリオの雄弁な演奏を楽しめました。
 
 
▼オペラ「足立姫」
【演目】オペラ「足立姫」(全三幕)
【作曲】永井秀和
【台本・演出】角直之
【出演】櫻(足立姫)役 嘉目真木子(Sop)
    桃役 渡辺智美(Sop)
    梅役 福間章子(Mez)
    一葉役 木村優希(Sop)
    二葉役 山口はる絵(Sop)
    三葉役 松原愛実(Sop)
    四葉役 鄭美來(Sop)
    五葉役 馬場裕子(Sop)
    六葉役 杉田彩織(Sop)
    七葉役 高階ちひろ(Sop)
    八葉役 小原明実(Mez)
    九葉役 吉田安梨沙(Mez)
    十葉役 野間愛(Alt)
【演奏】<指揮>竹内健人
    <尺八>吉越瑛山
    <小鼓>藤舎呂近
    <B-Cl>安藤友香理
    <Cb>小幡明日香
    <Pf>有岡奈保
【制作】永瀬正喜
【舞台監督】小田原築
【照明】青山航大
【メイク】徳田智美
【字幕機材】水野明人
【主催】路地裏寺子屋rojicoya
【日時】2024年12月19日(木)19:00~
【会場】天空劇場
【一言感想】
東京都足立区に伝わる「江戸六阿弥陀伝説」(俗に足立姫伝説)とは、隣村の男と結婚していた足立之荘司の娘・足立姫が姑の嫁いびりに耐え兼ねて、725年に下女12人と共に入水自殺しました。悲嘆に暮れた父は熊野権現から授かった霊木を使って下女12人の御霊を供養するための6体の阿弥陀仏を彫らせ、また、その余り木を使って娘の御霊を供養するための1体の阿弥陀仏も彫らせましたが、その阿弥陀仏を安置するために性翁寺が開基されたと言われています(木余りの寺号の由来)。江戸時代、性翁寺は女人往生の霊場として「江戸六阿弥陀巡り」が盛んとなったと言われています。前回のブログ記事で紹介したましたが、この伝説を題材にしている新作オペラ「足立姫」の世界初演を聴きに行く予定にしています。オペラを視聴した後に時間を見付けて簡単に感想を書きたいと思いますが、オペラの宣伝のために予告投稿しておきます。
 
―――>追記
 
本日の会場は東京藝大北千住キャンパスの横にある東京芸術センター天空劇場でしたが、多目的ホールなので響きはデッドであったものの、約400名収容の小規模なホールは本日の公演に最適のサイズだったのではないかと思います。万葉集に詠われている美女・手児奈(飛鳥時代)のことは知っていましたが、浅学菲才の軽輩なので、このオペラを知るまで悲劇のヒロイン・足立姫(奈良時代)のことは全く知らず、この機会に足立姫の墓が安置されている性翁寺へ墓参りに行ってきました(以下の写真を参照)。なお、会場では和菓子「足立姫」が販売されており、足立区を挙げて街の魅力あるコンテンツとして足立姫を売り出しているようです。
 
【序幕】
本日のオーケストラは、尺八、バスクラリネット、ピアノ、小鼓、コントラバスという変わった編成でしたが、尺八とバスクラの相性が良く、また、小鼓がコントラバスと共に音楽のベースラインを下支えしながら要所要所で舞台を引き締める効果を生んでおり、日本音楽のエッセンスを織り込みながら上手く和洋を融合することに成功していたように感じられました。また、このオペラではライト・モチーフは設定されていませんでしたが、その代わりにテーマ・モチーフが設定されて物語を見通しの良いものにしていたと思います。全体を通して調性感のある叙情的な音楽が付されており、物語の文脈に併せて不協和音や無調感がスパイスとして効果的に使用されている印象を受けました。
 
【第1幕】
プロット:主人公の櫻が他家へ嫁ぐ日に侍女の梅(秘匿しているが櫻の実母)が髪梳きをしているところに侍女の桃(櫻に密かな想いを寄せる同性愛者)が櫻から世話を頼まれていた大切な花を枯らせてしまったとやってきました。櫻は満たされない心の渇きを口にしますが、嫁ぎ先からお迎えの使者がやってきたので侍女と共に嫁ぎ先へと向かいます。
感想:侍女の桃が枯らせてしまった大切な花は櫻の幸せのメタファーであり、櫻が満たされない心の渇き(花枯れ)を口にしていることから、櫻にとって(マリッジ・ブルーとは異なる)気の進まない婚姻であることが暗示されていました。櫻が満たされない心の渇きを歌う場面ではコロラトゥーラなどの技巧を駆使して心の綾を繊細に表現していましたが、デッドなホールでありながらニュアンス豊かな歌唱が聴かれて第1幕の聴き所になっていました。そんな櫻の気持ちも知らずに10人の侍女達(一葉から十葉までの侍女)が嫁ぎ先での優雅な生活を夢見て歌う合唱は憧憬感が漂う美しいもので、あまりソプラノのみの合唱曲を聴く機会がないので新鮮に感じられました。なお、第1幕及び第3幕では「いろは歌」が歌われましたが、過去のブログ記事でも触れたとおり、いろは歌が生まれたのは王朝文化から武家文化へと移り変わる平安時代末期頃ではないかと言われており、仏教の「無常観」(例えば、散る桜を見て「人生の儚さ」(普遍的な真理)を感じること:客観)を表現したものであると言われています。これに対して、「あはれ」(例えば、散る桜を見て「悲しい」(個人的な感情)と感じること:主観)の美意識は平安時代に生まれたと言われており、厳密には足立姫が生きた奈良時代の美意識とはミスマッチがあるのではないかと思われますが、このオペラでは足立姫(奈良時代)の生涯を花の儚さに譬えて表現していますので、敢えて、いろは歌(鎌倉時代)を「あはれ」の美意識(平安時代)に擬えて表現したものではないかと推測します。
 
【第2幕】
プロット:櫻は嫁ぎ先との関係が上手く行かず、櫻を心配する桃は実家に帰ることを勧めますが、櫻は冷却期間を置くために一時的に実家に帰ることを決心します。梅は、旦那様のお手付きで櫻を産んだが、そのことを秘匿していることを桃に打ち明けて、それを嫁ぎ先に知られ、自分の身分が低いことが原因になっているのではないかと気を揉みます。この会話を立ち聞きした櫻は嫁ぎ先との関係を修復することは難しいと考えて自死を決意します。
感想:櫻が可憐な花は枯れて行くと歌う場面では嫁ぎ先での生活が上手く行かないことを(ドロドロとした恨み節ではなく)詩的に表現することで櫻の気品が際立っている印象を受けました。また、侍女の桃が嫁ぎ先でのイジメに耐え兼ねて辛い心情を吐露する場面では不協和が効果的に使用され、嫁ぎ先でのイジメが櫻のみならず10人の侍女達にまで及ぶ苛烈な状況にあることが痛々しく歌われ、嫁ぎ先でのイジメが櫻と10人の侍女達を追い詰めて、その人生を狂わせ始めていることがアリアや合唱によって印象的に歌われました。
 
【第3幕】
プロット:侍女(実は櫻の実母)の梅は嫁ぎ先との不和は自分に原因があると考えて櫻の元を離れる決意をしますが、櫻は自死の覚悟を秘めていたので侍女(実は櫻の実母)の梅と侍女達に実家に帰るように促します。侍女達は櫻が自死の覚悟を持っていると知ると殉死を申し出ますが、そこへ侍女(実は櫻の実母)の梅が戻ってきて全員で入水自殺をします。
感想:侍女(実は櫻の実母)の梅が櫻に一緒に死のうと歌うアリアが迫真のもので第3幕の聴き所になっていました。桜に見立てた和傘を開きながら櫻と侍女達が登場しましたが、後光が降り注ぐような照明と純白を基調とする舞台セットが幻想的な美しさを湛え、阿弥陀如来の救いにより浄土へと導かれていくことが表現されているように感じられました。櫻と侍女達が和傘を閉じて後ろ向きに並ぶと、いろは歌を歌いながら一人づつ倒れ込むことで入水自殺が表現され、花の儚さが印象に残るラストシーンになっていたと思います。
 
なお、最後に全体的な感想として、今回は足立姫の視点で嫁娶から自死までの物語が描かれていましたが、出演者が女性のみであったこともあり、終始、女性のアリアや合唱が続き、些か舞台が単調に感じられましたので、もう少し舞台に変化が欲しかったという憾みが残ります。例えば、姑による嫁いびりの場面(現代でもイジメ自殺は社会問題)や娘を失った父が悲嘆に暮れて仏に救いを求める場面(現代でも子供を失う痛ましい天災、事件や事故が後を絶たない現状)などを採り入れて貰えると、もう少し舞台に変化が生まれたような気がします。また、足立姫と侍女達が自死を選択したことは悲劇ですが、それを感傷的に美化してしまうのではなく(若者の自殺が多い現状を思えば)別の選択肢があったことを父に語らせた方が現代人へのメッセージ性が強く共感が深くなったような気がします。特殊な器楽編成ながら和洋を無理なく融合する音楽は出色であったと思いますし、次回作にも期待したいと思います。
 
足立姫の墓(木餘り 性翁寺)(東京都足立区扇2-19-3
①木餘り 性翁寺:725年、足立之荘司宮城宰相の娘(足立姫)が姑のイジメに耐え兼ねて下女12人と入水自殺し、父は娘供養の諸国巡礼で海中に投じた熊野権現の霊木が偶然にこの地に流れ着いていたので、その霊木で阿弥陀如来像の造営を行基に依頼。 ②足立姫の墓:性翁寺の境内には足立姫の墓が安置されていますが、その墓碑には725年の建立と刻まれています(但し、現在の墓碑は大正10年に再建したものです)。江戸時代には女人往生の霊場として「江戸六阿弥陀巡り」が盛んであったと伝承。 ③軒瓦(木餘):木餘りという屋号は、行基が熊野権現の霊木から六尊の阿弥陀如来像を造営した余りの根元を使って足立姫供養のための阿弥陀如来坐像を彫り、性翁寺の本尊として安置したことから木餘り如来という愛称で庶民の信仰を集めたことに由縁。 ④道標(六阿みだ こん不"ん):西新井大師へ向かう道と性翁寺へ向かう道の分岐点に設けられた道標で、「こん不"ん」(=根分)とは木餘り如来が六尊の阿弥陀如来像を造営した余りの根元を使って足立姫供養のための阿弥陀如来坐像が彫られたこと由来。
 
 
 
▼麻生海督博士リサイタル「地下劇場」
【演題】東京音楽大学大学院後期課程
    麻生海督博士リサイタル「地下劇場」
【演目】①麻生海督 地下劇場1
    ②麻生海督 地下劇場4
    ③麻生海督 地下劇場5 ver.β
    ③麻生海督 地下劇場5
【演奏】<Elec>麻生海督
    <Sax>盛醴正
    <DJ>MYUMYU
    <Pf>山本香紫
    <Tub>山本優宏
【日時】2025年1月8日(水)19:00~
【会場】東京音楽大学池袋キャンパスB館スタジオ
【一言感想】
2025年の聴き初めは、東京音楽大学大学院後期課程・麻生海督博士リサイタル「地下劇場」を聴きに行く予定にしています。麻生海督さんの「地下劇場」シリーズは、麻生さんが博士課程で研究しているJ-POPに表象される「カワイイ」から着想を得て創作している作品群だそうです。前回のブログ記事で触れた「バ美肉」も「カワイイ」から派生した社会現象であり、現代日本人の新しい美意識がどのように音楽的に表現されるのか大変に楽しみです。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
 
演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を書きます。
 
 
 
▼東京都交響楽団(第1014回定期演奏会Bシリーズ)
【演題】東京都交響楽団(第1014回定期演奏会Bシリーズ)   
【演目】①シンディ・マクティー 弦楽のためのアダージョ
    ②ウィリアム・ウォルトン ヴァイオリン協奏曲
     <Vn>金川真弓
    ③セルゲイ・ラフマニノフ 交響曲第2番ホ短調
【演奏】<Cond>レナード・ストラッキン
    <Orch>東京都交響楽団
【日時】2025年1月14日(水)19:00~
【会場】サントリーホール
【一言感想】
毎年、この時期は第九やニューイヤーに象徴される定番曲尽しの演奏会が目白押しなので、地上波TV番組のよろしく非常につまらない状況に辟易としていますが、そんな冬の季節に日本の音楽シーンを牽引する都響が名匠・L.ストラッキンさんとタッグを組んでアメリカ人現代作曲家のC.マクティーさん(L.ストラッキンさんの妻)の作品を採り上げる演奏会を開催するので聴きに行く予定にしています。また、いま油が乗っているヴァイオリニストの金川真弓さんがW.ウォルトンのヴァイオリン協奏曲を演奏する予定ですが、正月から聴き応えのある演奏が聴けそうなので楽しみです。演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を残しておきたいと思いますが、演奏会の宣伝のために予告投稿しておきます。なお、関東のオーケストラの来シーズンの演目が出揃いましたが、都響読響N響及び群響の来シーズンで外国人指揮者、飯森範親さんや下野竜也さんなどが委嘱新作を含む現代音楽を積極的に採り上げるようなので、この「四響」が注目されます。
 
 
演奏会を聴いた後に時間を見付けて簡単に感想を書きます。
 
 
 
▼音楽とダンスと芝居による舞台「THE GHOST」
【演目】音楽とダンスと芝居による舞台「THE GHOST」(世界初演)
【作曲】新垣隆
【脚本・演出】吉田知明
【演奏】<太鼓>林英哲
    <ダンス>大前光市
    <俳優>橋爪淳
    <Bar>吉武大地
【舞台監督】塩谷憲彦
【照明】神山やよい
【音響】福元昭太
【録音】木村雅敏
【映像】中西創
【衣装】稲垣絹代
【デザイン】阿部朝子
【フォトグラファー】大橋愛
【主催】カンパニーイースト
【日時】2024年1月22日(水)19:00~
【会場】東京オペラシティー リサイタルホール
【一言感想】
2014年に「ゴーストライター問題」で話題になった現代作曲家の新垣隆さんが音楽とダンスと芝居による舞台「THE GHOST」を世界初演するというので聴きに行くことにしました。プロモーションによれば、この作品はL.ベートーヴェンが失恋や難聴などの試練に生きる希望を失っていた時期に書いた「ハイリゲンシュタットの遺書」(1802年)を題材にして「生きる」を表現する音楽、ダンス及び芝居によるパフォーマンスですが、L.ベートーヴェンがその人生の挫折を創造的なエネルギーに転換して数々の傑作群を生み出した「傑作の森」の時期に作曲したピアノ三重奏曲第5番ニ長調「幽霊」(1808年)にオマージュが捧げられています(洒落含み)。「なぜ、私は生きているのか?」(主人公)・・(死から)「私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。」(L.ベートーヴェン)・・新垣さんがL.ベートーベンに自分の人生を重ね合わせて語る私小説のような作品かもしれません。舞台を視聴した後に時間を見付けて簡単に感想を書きたいと思いますが、舞台の宣伝のために予告投稿しておきます。
 
 
舞台を視聴した後に時間を見付けて簡単に感想を書きます。
 
 
 
2025年だ!新作集合(新年の抱負)
中国の歴史家・班固らが編纂した史書「漢書」の律暦志には、十二支は自然界の輪廻転生を表したものであるという由緒が解説されていますが、そのうち「巳」は「草木の成長が極限に達して、次の生命が宿され始める時期」とされています。これは文化的な限界点と揶揄されている芸術界の現状を適確に言い表しているものであるようにも感じられます。そこで、今年の抱負は「次の生命」が育まれるように、21世紀以降に創作された現代の価値観、自然観、人間観、世界観を表現する「新作」(その再演を含む)に価値を置いて集中的にキャッチアップしていきたいと考えています。今年で21世紀も1/4が経過しようとしていますが、最近は現代音楽やミュージカルに留まらずに、オペラ、歌舞伎や能楽などでも「既作」だけではなく21世紀以降に創作された現代の価値観、自然観、人間観、世界観を表現する「新作」の上演が着実に増えている手応えがあり、この潮流が一層と確実になることを心から願っています。戦後後遺症に病んでいた20世紀は「既作」ばかりが顧みられて停滞を生んだ時代でしたが、19世紀以前の歴史がそうであったように「新作」をメインにした公演が当り前になるのが本来のあるべき姿ではないかと思います。既作から新しい傑作は生まれず、新作から新しい傑作は生まれますので、それが現世代から次世代に受け継ぐ新しい芸術遺産になると思います。いつまでも先達が残した歴史的な遺産ばかりに頼んで、それらを消費するだけでは「」がありません。
 
▼今年もブックサンタ♬🔔
今年も「サンタ苦労す」の季節がやってきました。今年もあなたのブックサンタを待っているちびっ子がいます。小学生向けの本が不足しているようなので、今年は小学生低学年向けの推し本の中から一生の財産になるように願いを込めて芸術関係の本を選んでみました。1人でも多くのちびっ子を笑顔にしてみませんか?
 
▼あなたに贈る年の瀬の静かな夜更けに人生に溺れるための1曲
ひと吹きでハートをハッキングする孤高のトランぺッター、チャット・ベイカーが奏でるクール・ジャズ「Every Time We Say Goodbye」をどうぞ。