大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

映画「エゴン・シーレ 死と乙女」/映画「未来を花束にして」

賀春。今日2月4日は立春。今年1月1日のブログ記事に「あけましてコケコッコー」と書きましたが、今日こそ「あけましておめでとう」と書きたいと思います。旧暦では立春が正月にあたり、その前日の節分(季かれ目)が大晦日にあたりました。従って、昔は大晦日の節分に豆を撒いて1年の“鬼”を追い払い“福”を招いて正月の立春を迎えるという意味です。即ち、本来は「実りない冬が終わって実り豊かな新しい春(新年)が明け、春の到来を告げる梅の芽が出(お芽出度:オメデタ)ましたね」(賀春)と新年を寿ぐ、季節感を讃えた心の籠った挨拶でした。この旧暦の風習は明治6年に新暦に改まった後も残り、未だ梅の芽も出ていない真冬の元旦に「あけましておめでとう」と心無い意味不明な挨拶を交わしている現代人の姿が滑稽(コッケイ)に見えるので、今年1月1日のブログ記事で今年の干支の酉(鶏)に託けて「コッケイ」→「コケコッコー」と揶揄した次第です。今年生誕150年を迎える夏目漱石の言葉を借りれば、これも文明開化によってもたらされた「文化の上滑り」の1つであって、奇しくも、この夏目漱石が生まれた年に行われた日本で二度目の革命(一度目は天皇政権から鎌倉幕府による武家政権へと移行した革命、二度目は足利幕府から江戸幕府へと続いて武家政権から民主政権へ移行した革命)である明治維新大政奉還)がもたらしたものが何だったのか、その功罪について思いを馳せてみることで、現在という時代をより深く把握するための良き契機になるのではないかと思います。


2017年2月3日撮影、花香る千葉県某所に於いて

今年は明治維新大政奉還)から150年目の節目にあたりますが、丁度、自由や平等について考える契機となる2本の映画が公開されたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。

【題名】映画「エゴン・シーレ 死と乙女」(原題:Egon Schiele: Tod und Madchen)
【監督】ディーター・ベルナー
【脚本】ヒルデ・ベルガー
    ディーター・ベルナー
【出演】<エゴン・シーレノア・サーベトラ
    <ヴァリ・ノイツェル>ファレリエ・ペヒナー
    <モア・マンドゥ>ラリッサ・アイミー・ブレイドバッハ
    <エディット・ハルムス>マリー・ユンク
    <グスタフ・クリムト>コーネリウス・オボンバ ほか
【撮影】カーステン・ティーレ
【美術】ゲッツ・ワイドナー
【音楽】アンドレ・ジェジュク
【公開】2017年1月28日
【場所】千葉劇場 1,300円
【感想】ネタバレ注意!

エゴンシーレの半生を描いた伝記映画は、既に映画「エゴン・シーレ 愛欲と陶酔の日々」(1980年公開)が存在しますが、新たに公開された映画「エゴン・シーレ 死と乙女」も1912年の裁判を中心として“エロス絵画(芸術)”と“ポルノ絵画(猥褻)”の問題が描かれています。個人的には、この問題に行政(警察)や司法(検察、裁判所)が介入して芸術と猥褻の概念について判断基準を定立し、その一方に刑罰まで科すことに合理性がない(果たして普通の公務員に、このような難問題を取り扱えるだけの教養と見識があるのか甚だ疑わしいですし、このような規範定立自体が刑罰の対象を実質的に画する立法作用と言え、三権分立の趣旨にも反している)相当な無理があると思います。仮に芸術と猥褻の概念を区別することに何らかの意義があるという前提に立つとしても、その判断基準は個人の価値観に委ねられるべき問題であって、「表現の自由」と「見たくない権利」との調整は表現者に一定の配慮義務のようなもの(R指定のようなものを設けるなど)を課したうえで、その義務違反による「見なくない権利」の侵害として民事的な解決(差止請求等)が図られれば十分ではないかと考えます。法律が制定され又は判例が示された当時と比べて社会情勢や国民の価値観は大きく変化しており、インターネットの普及により国境を越えてわいせつ物が氾濫している状況(サイバー犯罪条約ではサイバーポルノ自体は規制の対象に含めておらず、児童ポルノのみを規制の対象としています)にあっても日本における性犯罪件数は減少傾向にある現状を踏まえれば、(最近のろくでなし子裁判などを見るにつけても)この問題に行政(警察)や司法(検察、裁判所)が介入することには抑制的であるべきであり、わいせつ物陳列罪等を刑事罰の対象とすることが合理的なのかを含めて再び国会(国民)の議論に戻されるべきではないか思います。

エゴンシーレが浮世絵(春画)を見てインスピレーションを受けるシーンがありますが、

現在、感想を執筆中。


【題名】映画「未来を花束にして」(原題:Suffragette)
【監督】サラ・ガブロン
【脚本】アビ・モーガン
【出演】<モード・ワッツ>キャリー・マリガン
    <エミリー・ワイルディング・デイビソン>ナタリー・プレス
    <イーディス・エリン>ヘレナ・ボナム・カーター
    <アーサー・スティード警部>ブレンダン・グリーソン
    <バイオレット・ミラー>アンヌ=マリー・ダフ
    <サニー・ワッツ>ベン・ウィショー
    <エメリン・パンクハースト>メリル・ストリープ ほか
【撮影】エド・グラウ
【美術】アリス・ノーミントン
【衣装】ジェーン・ペトリ
【音楽】アレクサンドル・デプラ
【公開】2017年1月27日
【場所】千葉劇場 1,300円
【感想】ネタバレ注意!

映画は邦題よりも原題の方が製作者の意図を忠実に表現していることが多いのでいつも原題を重視していますが、この映画に限っては原題よりも邦題の方が製作者の意図を適確に表現していると感じます。エゴン・シーレと同時代のヨーロッパの社会情勢を描いた映画ですが、僅か100年前の出来事とは思えないような惨状が赤裸々に描かれています。当時は女性参政権運動に社会的な理解を得ることは難しく、度重なる逮捕や失職、離婚などの逆境に晒されながらも心が折れることなく信念を貫き、自らの命を掛けて女性参政権を勝ち取る姿には心が打たれるものがあり、ラストシーンで葬列の花束に込められた想いに触れて、我々がこの花束をどのように育み、後世に受け継いで行けるのか、そのメッセージに感銘を深くしました。現代の日本では、憲法上、男女には平等に基本的人権が保障されているように見えますが、未だに社会の色々な仕組みの中に男女間で格差を生じ易い見えない障壁のようなものが残されています。この問題は男女間の格差だけではなく人種や社会的弱者にも同様のことが当て嵌まりますが、これらの障壁を一つづつ取り除いて行くために現代の我々が取り組まなければならない課題は未だ多く、後世にどんな花束を受け継いで行けるのか一人一人の問題として真摯に受け止め、会社や家庭、コミュニティなど日常の中で取り組んで行けなければならないという想いを強くさせられました。

1918年 イギリスで女性の制限選挙権(30歳以上)が認めらえる
1925年 イギリスで女性の親権が認めらえる
1928年 イギリスで女性の普通選挙権(21歳以上)が認めらえる
1945年 日本で女性の普通選挙権が認めらえる
1985年 日本で男女雇用機会均等法が制定
2016年 日本で女性活躍推進法が施行

自由の地を求め、さまよう女がいた。
その地への行き方は?

“理性”という老人は答える。
あそこへは、ただ1本の道しかない。
勤労の川岸へ下り、苦難の川を渡ること。
他に道はない。

身にまとうべての物を捨て去った女性は泣き叫んだ。
なぜ私が人跡未踏の地へ行くのですか。
私は1人きり、本当に1人なのです。

すると“理性”は女に言った。
静かに、何か聞こえる?

女は答えた。
足音が聞こえる。

何百、何千、何万というこちらへ向かう足音が、
お前のあとを継ぐ者の足音だ。
先導せよ。

〜エメリン・パンクハースト〜

◆1913年にエミリー・ワイルディング・デイビソンが女性参政権運動を社会に訴えるために国王ジョージ5世所有の馬の前に身を投げ出したときの実際の映像。これによって女性参政権運動が一気に社会に広がることになります。

◆おまけ
エミリー・ワイルディング・デイビソンへのオマージュとして。イギリスで女性参政権が認めれた1918年にホルスト組曲「惑星」から“木星”の中間部にスプリング=ライスの詩があてられて作られ、イギリスの愛国家及びイギリス国教会の聖歌になった“I vow to thee, my country”(我は汝に誓う、我が祖国よ)をどうぞ。

同じくイギリスで女性参政権が認めれた1918〜1919年にイギリスの作曲家エルガーが作曲したピアノ五重奏曲より第二楽章をどうぞ。

同じくエルガーが1918年に作曲した弦楽四重奏曲より第一楽章をどうぞ。

新年のご挨拶

あけましてコケコッコー..🐓 今年の干支は「酉」(鶏)ですが、中国、東南アジア(タイ、ベトナム)、インド、ロシア、東ヨーロッパ(トルコ、ベラルーシブルガリア)等にも日本と同じく干支があり、これらの国々でも今年の干支は「酉」(鶏)になります。日本では、神様が新年の挨拶に来た順番に動物のリーダーにしてやると約束したが、神様に新年の挨拶に行く途中で「申」(猿)と「戌」(犬)が喧嘩になったので「酉」(鶏)が仲裁し、その仲を“とりもつ”ように挨拶に来たので「申」と「戌」の間の10番目の干支になったという伝承が残されています。海外でもこれと似た「鼠と猫が喧嘩する話」や「鼠が牛の背に乗ってきて一番になる話」等の伝承が残されており、その由緒は共通していると思われます。昔から甲高い雄鶏の鳴き声は太陽神を呼び覚まして夜を明けさせるものとして神聖視され、神様と人間との間を“とりもつ”役割を持っているとみなされてきました。この点、古事記によれば、神社の鳥居(神域と俗世とを隔てる結界)は、天照大神の岩戸隠れの折に、鶏を止まり木に止まらせて鳴かせたところ天照大神が岩戸から出てきて天上界と地上界に光が戻った故事に由来して生まれたと言われています。また、「通り入る」(とおりいる)という言葉が転じて「鳥居」(とりい)になったとも言われていますが、その背景には生殖器信仰(前回のブログ記事で触れましたが生殖器信仰は古代ギリシャを初めとして世界各地に広く見られる原始的な信仰形態)に基づいて「生を司る神社」(「死を司る寺社」とは正反対の性格)の「鳥居」は女性器を表し、「参道」(産道)を通って「お宮」(子宮)へと至るものとされ、お賽銭箱の上方にぶら下がっている「鈴」と「紐」は男性器を象徴し、神社へお参りする度に新しく生まれ直す(安産、お宮参り、七五三、初詣、合格祈願、結婚式等の人生の節目に深くご縁のある場所)という意味合いがあると言われています。このような鶏の神聖視は日本やアジア圏の国々だけのことではなく、例えば、バッハ「マタイ受難曲」のペテロの否認の場面でも、イエスと共にあることを誓っていたペテロが自分へ危難が降り掛かることを恐れて拷問を受けるイエスを「知らない」と三度否認したところで、イエスが予言したとおり雄鶏が鳴く声を聞いて、ペテロは我に返って激しく後悔の涙(ピッチカートによる涙のモチーフ)を流す場面がありますが、この雌鶏の鳴き声はペテロの信仰を開く役割(夜明け)を与えられており、西洋でも鶏が神聖視されていたことが伺えます。



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【上段】
1〜4枚目日本で唯一の料理の神様を祀る高家神社(千葉県千倉)には日本中の料理関係者が参詣し、絵馬には料理の腕前上達や飲食店の繁盛を祈願するものが多く見れます(今年は焼き鳥屋の参詣は控えた方が良いかもしれません..)。なお、映画「武士の献立」では四条流包丁式を執り行う場面が出てきますが、毎年秋に高家神社では本物の四条流包丁式の奉納が行われ、一般人も見学が可能です。また、毎年、高家神社にはヒゲタ醤油(千葉県銚子)の醤油が奉納されますが(日本料理の調味料に欠かせない「醤油」の文字を良く見ると「酉」の文字が潜んでいます)、千葉県は神様御用達のヒゲタ醤油(千葉県銚子)と宮内庁御用達のキッコウマン醤油(千葉県野田)を育む日本有数の醤油の名産地でもあります。因みに、1900年(パリ万博)にフランスでミシュランガイドによるレストラン・ホテルの評価格付けを始めるよりも昔、江戸時代には相撲の番付に準えて色々なものを番付することが流行していましたが、江戸時代(1839年)に発行された醤油番付にはキッコウマン醤油が「大関」、ヒゲタ醤油が「前頭」に名前を連ね、時代の風雪に耐えて、その味を現代に伝えています。
【下段】1枚目:カメラレンズの屈折で実際よりもかなり小さく映っていますが、肉眼で見ると三浦半島東京湾を挟んだ手前の陸地)と伊豆半島相模湾を挟んだ奥の薄い陸影)越しに富士山の雄大さが一層と際立ちます(千葉県金谷港)。2枚目:酉年に肖って白鳥の湖へ。白鳥のほかにも鴨やその他の野鳥も多く、人間慣れしているのか近付いても逃げません(茨城県北浦)。3〜4枚目武田信玄を祭神とする武田神社山梨県甲府)と第12代市川團十郎が開設した歌舞伎文化資料館山梨県三珠)。初代市川團十郎の五世の祖(本人−父−祖父−曾祖父−高祖父−五世の祖)堀越重定(市川團十郎家の本名は堀越姓)は武田家の能係として一条信竜(信玄の弟)に仕えていましたが、初代市川團十郎の曾祖父堀越十郎家宣は三増峠の戦い(神奈川県愛川)で軍功を挙げて山梨県三郷に地行を賜っています。市川家の家紋が三升紋なのは三増峠の戦いに由来し、一番外側の枡は「信玄枡」、中間の枡は「京枡(一升)」、一番内側の枡は「京枡(半升五号)」と言われており、上洛半ばで病に倒れた信玄の無念を晴らす意匠のようにも感じられます。また、「ますます繁盛(枡桝半升)」に肖ったものとも伝えられています。信玄の子勝頼の代に武田家が滅亡し、堀越十郎家宣は千葉県成田に移住しています。

下表は世界各国の鶏の鳴き声を比較したものですが、日本人(正確には日本語を母国語とする人)は鶏の鳴き声を一様に“コケコッコー”と認識し、撲が知る限り、これについて異論を唱えている日本人を見たことはありません。しかし、その一方で、外国人(正確には外国語を母国語とする人)は鶏の鳴き声を少し異なった音として認識しています。これは人種の違いによって生じるものではなく、日本人であっても外国語を母国語として育てられた人はその外国語を話す外国人が認識するのと同じ音として鶏の鳴き声を認識するそうなので、先天的(又は身体的)な要因による違いではなく、後天的(又は知覚的)な要因による違いではないかと言われています。また、同じ日本人であっても時代によって鶏の鳴き声の認識は変化していますが、この認識の変化は日本語の変化と密接に関係しているのではないかと考えられます。例えば、大鏡平安時代)ではペット供養(愛犬の法事)の話で犬の鳴き声を「ひよ」(びよ)と表記し、また、狂言「二人大名」室町時代)では大名が犬の物真似をさせられる場面で犬の鳴き声を「ウウ、ウウ、ベウベウベウベウベウ」と表記しており、犬の鳴き声が「ワン、ワン」と認識されるようになった江戸時代以降とは大きく異なっています。さらに、今昔物語集平安時代)では動物の鳴き声だけではなく人間の赤ちゃんの泣き声を「イガイガ」と表記し、また、「毛詩抄」室町時代)では人間や動物の鳴き声等の擬音語だけではなく自然の描写等の擬態語として日の出を「つるつる」と表記しており、現代の日本人とは全く異なった音の認識パターン(感覚器官としての耳の違いではなく、認識器官としての脳の違い)を持っていたことが伺えます。

◆世界比較(音源

鶏の鳴き声
日本 コケコッコー
アメリ クックドゥードゥルドゥー
イギリス トゥイートゥイートゥイー
スペイン クィクィリクィ
フランス コックェリコ
イタリア ココリコ
ロシア クカレクー
中国 コーコーケー
韓国 コッキオー
インドネシア クックルーユ

◆時代比較(日本)

時代 鶏の鳴き声
奈良時代 コロ、カラ、コロク
鎌倉時代 コカコカ
江戸時代 トーテンコー、トッケイコウ、トッテコウ
現代 コケコッコー

人間の脳は言語脳(左脳)と音楽脳(右脳)に分かれ、左脳は言語音を論理的に捉え、右脳は非言語音(音楽、機械音、雑音など)を感覚的に捉えることに優れています。しかし、自然音(虫や動物の鳴き声、波、風、雨や小川のせせらぎ等)又は自然音に近い伝統邦楽(器)の音(∴基本的に西洋音楽(器)は自然音を人間が扱い易いように人工的に区切られた音で構成されていますが、伝統邦楽(器)はピアノの鍵盤(人工的に区切られた音)と鍵盤(人工的に区切られた音)の間にある自然音も含めて構成されている点が異なります)等は、西欧の言語が持つ音の特徴には似ておらず、西欧人(西欧の言語を母国語とする人)はこれらの音を非言語音と認識して右脳で処理しますが、その一方、日本語が持つ音の特徴とは似ており、日本人(日本語を母国語とする人)はこれらの音を言語音と認識して左脳で処理するという違いがあるようです。このような母国語を基調とする音の捉え方の違いが上表にあるような自然音の認識の違いになって現れていると思います。この点、上表で江戸時代には鶏の鳴き声を「トーテンコー」と認識していたと書きましたが、これを漢字で書くと「東天紅」(朝焼けに染まる東の空)となり、日本人は鶏の鳴き声を左脳で言語音に近い音として認識しそこに何らかの意味を聞き取っていたのかもしれません。松尾芭蕉の俳句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」に代表されるように日本人は自然音を聴いてそこに何らかの意義や情緒を見出す鋭い洞察力や豊かな感受性のようなものを持っており、それが詠歌、伝統芸能、演劇や文学等における自然音(効果音)の巧みな利用という日本人の特徴になって現れているのではないかと思います。しかし、人工物で覆われた街に住む現代の日本人は自然音に触れる機会が圧倒的に減っており、例えば、小学校唱歌「虫の声」は誰でも知っている馴染みの歌でも、この中に登場する5種類の秋の虫の鳴き方(犠音語)を答えられる人は意外と少なく、また、この秋の虫の鳴き方(擬音語)を聞くと違和感を覚える(又はきちんと聞き分けられなくなっている)ことに気付く人も多いのではないかと思います。日本語の変化(豊かな精神世界を育むための言語から経済合理性を追求するための言語へと機能化)のみならずその生活様式の変化も相俟って、現代の日本人の自然音の捉え方も徐々に変化してきているということなのかもしれません。日本人の自然音に対する鋭い洞察力や豊かな感受性のようなものが損なわれて行くことがないように祈るばかりですが...。

第35代横綱双葉山(本名は穐吉定次、木更津甚句以前のブログ記事)で世界的に有名なジャズピアニストの穐吉敏子さんとは親類で両方とも大分県出身)は前人未踏の69連勝という記録を達成しましたが、ついに70戦目で敗れて「われ未だ木鶏足りえず」と洩らしたというエピソードは有名ですが、これは荘子の「木鶏の教え」を引用したもので、何事も「道」を究めた者は心に迷いがなく無為自然な状態(その姿が木鶏に似ている)で事に臨めるので、何もしなくても自と「道」は定まり、それが衆人を従わせる風格や品格となって現れるという教えで、全ての「道」(人生)に通じるものと言えます。そう言えば、あるインタビューでヴィオラ奏者の今井信子さんが「良い演奏をしているときはどんな気持ちですか?」という質問に対し、「無心です」と答えられていたのを思い出しますが、僕が生涯で聴いたシャコンヌの演奏の中で三本の指に入る心に染み入る感銘深い名演奏を聴かせてくれた今井信子さんの無為自然の境地に“木鶏”を見る思いがします。

荘子 外篇 達生第十九「望之似木鶏矣」

紀渻子爲王養鬭鷄。
十日而問、「鷄已乎。」
曰、「未也。方虚憍而恃氣。」
十日又問。曰、「未也。猶應嚮景。」
十日又問。曰、「未也。猶疾視而盛氣。」
十日又問。曰、「幾矣。鷄雖有鳴者、已無變矣。
望之似木鷄矣。其徳全矣。異鷄無敢應者,反走矣。」

紀悄子は斉王の闘鶏を育てていた。
斉王は10日経過後に「あの闘鶏はどうか?」と問うと、
紀悄子は「未だダメです。勝気に焦って虚勢を張るなど気持ちばかりが空回りしています。」 と答えた。
斉王は20日経過後に同じように問うと、
紀悄子は「未だダメです。他の闘鶏の姿や声を見聞きしただけで興奮してしまいます。」と答えた。
斉王は30日経過後に同じように問うと、
紀悄子は「未だダメです。他の闘鶏を睨み付けて闘志を剥き出しにするなど冷静さを欠いています。」と答えた。
斉王は40日経過後に同じように問うと、
紀悄子は「そろそろ良いでしょう。他の闘鶏の声を聞いても全く動じず、まるで木鶏のように泰然自若としています。その姿には道を究めた者の凛とした品格や堂々たる風格のようなものが漂っていて、どんな闘鶏も逃げてしまうでしょう。」と答えた。

上述のとおり荘子は「無為自然」を重要な教えの1つとし、「且夫乘物以遊心、託不得已以養中、至矣。」(荘子 内篇 人間世第四「乘物以遊心」より)と説いて、人の世をあるがままに受け入れ、自分の心を遊ばせて人生を全うすることが豊かな人生を歩む秘訣であると諭しています。そう言えば、昨年、俳優&画家の榎木孝明さんの勧めで美術家の篠田桃紅さん(映画監督の篠田正浩さんの従姉)の著書「一〇三歳になってわかったこと〜人生は一人でも面白い〜」を読んだことを思い出しましたが、荘子の教えと相通じる点が多く、また、自分の人生観とも共感することが多かったので、新年にあたって自分の人生を見詰め直すという意味で少し紹介してみたいと思います。なお、古今東西、撲の知る限り、“なぜ生きる”という問いに対して有効な回答を示すことに成功した偉人・賢人を知らず、おそらく人間には“なぜ生きる”という問いに対して有効な回答を示せるだけの頭脳(知恵)までは神様から授けられていないのではないかと思われ、せいぜい“どのように生きる”という問いに対して人類普遍の原理としてではなく極めて個人的な信条や価値観として語り得る類の問題ではないかと観念しています。この本は“どのように生きる”という問いに対して篠田さんの個人的な信条や価値観が語られているものであり、自分を映す縁(即ち、この本から“どのように生きる”という問いに対する回答を示して貰うのではなく、自分で考えて悟るための契機とするという意味)として非常に有益なものに成り得るので、是非、ご一読をお勧めしたいと思います。

篠田さんの人生訓(この本から抜粋、要約)
自分の意に染まないことはしないようにしています。無理はしません。杭に結び付けた心のひもを切って、精神の自由を得る。誰か式、誰か風、ではなく、その人にしかできない生き方を自然体と言う。

仏教や荘子の教えに「自然」(じねん)という言葉がありますが、これは「自ら然る」(おのずからしかる)という意味で、作為がない「そのまま」の状態が一番望ましいという考え方です。これを人間の生き方について言い換えると、他人に迷惑をかけない限り【注】らにって生きること自由)が人間のあるべき姿(幸せ=人間が心地よいと感じる状態)であるということになります。篠田さんの言葉は、この教えを自らの人生の中で実践して来られ、自らの信条として実感を込めて語られたものなので、個人的には非常に共感を覚えます。命とは神様から与えられた時間のことだと言いますが、人生はこの限られた時間の中で何を行い又は行わないのかという選択の連続であり、また、何かを得るということは同時に別の何かを失うということでもあって(例えば、家庭を持てば自由な時間が減るなど)、一口に、らにって生きる(自由)と言っても、“自ら”とは何者なのかをよくよく弁えていないと、他人の考え方や世間の価値観等に流されて自らの人生を虚しくすることにもなり兼ねません。前述のとおり、“どのように生きる”という意味では、死の床にあって「自らの人生はまずまずであった」と自分自身と折り合いをつけることができる(よって、その基準は人それぞれ)ような人生経験をどれだけ積み重ねられるのかが重要であって、その観点から人生の選択を誤らないように心掛けなければならないと思います。

【注】人間が自由に生きるためにはお互いに他人の自由を侵害しないことを前提としますが、他人の自由を侵害しないための決まり事を定めたものが法律やその他の社会規範(ルール)であり、これらのルールに反しないように心掛ける態度が“他人に迷惑を掛けない”ということです。このことを当世流に言い換えると、「コンプライアンス」(ルールを守って他人の迷惑を掛けないようにすること)や「ダイバーシティ」(ルールを守っている限りお互いに多様性=自らに由って生きることを尊重すること)という言葉がそれにあたり、これらは人間が幸せに生きて行くために必要なことです。

篠田さんの人生訓(この本から抜粋、要約)
生きているうちに、やりたいことはなるべくしておく。私のような歳になると、やれることとやれないことができてきます。体が丈夫なうちは、自分がやっておきたいと思うことはどんどんやったほうがいいと思います。そうすれば、死ぬとき、思い残すということが少ないかもしれません。やっぱり私はこうでよかったと、自分自身が思える人生が一番いいだろうと思います。

最近、「働き方改革」という言葉を耳にしますが、戦後日本の経済政策(プロパガンダ)によって「豊かな老後」のために「現在」を犠牲にして勤労と貯蓄に励むことを美徳とする価値観が日本人に刷り込まれ、その結果、日本は未曽有の高度経済成長を遂げて資源がなくても世界有数の金融資産と技術力を誇る経済大国へと発展しました。しかし、資本主義市場が成熟すると右肩上がりの経済成長は見込めず、労働時間の多さが経済成長に結びつかない(要するに、必要以上の労働はコストしか生まない)時代になって、漸く【「労働」>「生活」】から【「生活」>「労働」】へと発想が転換され、人生において何を優先すべきなのかその考え方が根本的に変わろうとしています。篠田さんは「自分がやっておきたいと思うことはどんどんやったほうがいい」と仰っていますし、荘子も自分の心を遊ばせて人生を全うすることが豊かな人生を歩む秘訣であると諭しています。これまでのように気力が衰えて体の自由も効かなくなる「老後」のためと称して、気力が十分で体の自由も効く「現在」を犠牲にして働くという考え方はナンセンスになり、如何に「現在」を自らに由って生きる(自分の心を遊ばせる)のか、どのような「現在」を積み重ねるのかによってどのような“死の床”を迎えられるのか定まるという意味で、個人の人生の選択の問題として何を優先して「現在」を生きるのかが益々重要になってくる時代だと思います。

人の世を 楽しむことに 我が力 少し足らずと 嘆かるるかな(与謝野晶子

篠田さんの人生訓(この本から抜粋、要約)
私は作品を描き始めると、一切、なにも思わなくなりました。筆が勝手に描いているという感覚で、なにかを表現したい、想像したい、造形をつくりたい、といった私の意識はどこにもありません。

頼るのではなく、自分の目で見て、考える。絵画を鑑賞するときは、解説を忘れて、絵画が発しているオーラそのものを自分の感覚の一切で包み込み、受け止めるようにしています。このようにして、感覚は、自分で磨けば磨くほど、そのものの真価を深く理解できるようになります。世の中の風潮は、頭で学習することが主体で、自分の感覚を磨く、ということはなおざりにされています。

篠田さんは作品を描くときは無意識に筆が運ぶと仰っていますが、人生における老成円熟の境地と同様に、その無為自然な創作姿勢には迷いや衒いなどがない“木鶏”の凛とした品格のようなものを見る思いがします。時代や大衆に迎合する(作為)のではなく、自然な創作意欲に由って生み出される作品こそが時代の風雪に耐えて愛されることは歴史が証明するところです。

篠田さんの言葉を読んでいて、昨年亡くなられた能楽師人間国宝)の宝生閑さんが「能の鑑賞に一番大切なのはその作品に関する知識ではなく花鳥風月を愛でる“風流心”だ」と語られていたのを思い出しました。芸術は自分自身と向き合うための縁であり、そこに芸術鑑賞の醍醐味があると思います。そのためには芸術鑑賞の手掛りを専ら自分の外(知識)に求めるのではなく、自分の内(感受性)に求める姿勢が重要であり、(芸術鑑賞が極めて個人的な体験であることを踏まえれば)その作品の鑑賞を深めて本質に迫って行くためにも有効な姿勢ではないかと感じています。これは人生にも同様のことが言え、自分の人生の諸問題に対する答えは全て自分の中にあり、それを自ら見出すために他人の力を借りることはあっても、それを他人の中に探し求めているうちは自律した大人とは言えないのだろうと思います。人間は一人で生まれ、一人で死んで行く訳ですから、遅くても40歳位までには自分の人生の始末は自分一人でつけられるようになっていたいものです(“四十而不惑”)。前述のとおり、これからは働き方改革で人生の選択の余地が拡がり自分自身と向き合う時間が増えてくると思いますが、自分自身と向き合うための縁としての芸術は人生(心)を豊かにしてくれるものであり、これまで以上に芸術との濃密な関わりを求める人が増え、益々、芸術の存在意義が大きく捉えられるようになるのではないかと思います。

ところで、今年は日本のアニメーション100周年だそうですが、これに関連して、前回のブログ記事で紹介したジャズマンガ「BLUE GIANT」を含めて撲も愛読しているクラシックマンガ「のだめカンタービレ」、茶道マンガ「へうげもの」、バレエマンガ「SWAN−白鳥−」、能楽マンガ「花よりも花の如く」、落語マンガ「昭和元禄落語心中」、古典マンガ「あさきゆめみし」、美術マンガ「GALLERY FAKE」などを「学習マンガ」と言うそうですが、日本のマンガのクオリティ(実写に劣らない空気感までも伝える作画力のみならず、丹念な取材に基づく題材の掘下げなどを含む)の高さは酉肌物です。未だお年玉の使い道が決まっていない良い子の皆さんは、どうせ貯金しても将来ロクなことには使いませんので、できるだけ若いうちに、一生の財産になるようなものを見付けられるかもしれない「学習マンガ」に散財してみるのも一興かと思います。

🐣 2017年のアニバーサリー(50年刻み)

【芸術】

【音楽家

【画家】

【作家】

【施設】

【番外】

酉年は十二支の十番目に位置し、秋を示す干支と言われていますが、丁度、新米の収穫が終わった秋から酒の醸造が行われることから、「酒」という文字の旁の「酉」(酒壷の象形文字)が干支の文字に当てられたと言われています。そこで、トリとして酉年に因み、宗教改革500年を記念してルターの酒にまつわる福飲と、自らに酔って生きた談志師匠の酒にまつわるコッケイ噺をご紹介しておきます。

「私がここに座って美味いヴィッテンベルクのビールを飲む、するとひとりでに神の国がやってくる。」(マルティン・ルターが説く宗(酒)教改革)

「酒が人間をダメにするんじゃない。人間はもともとダメだということを教えてくれるものだ。」(立川談志

◆おまけ
酉年に因んで。雄鶏の話題ばかりでしたので、ラモーの「新クラブサン曲集」第二組曲より「雌鶏」をどうぞ。

雌鶏の機嫌を“とりもつ”ために、もう一曲、ハイドン交響曲第83番「めんどり」より第一楽章をどうぞ。

ジャズ誕生100年にオマージュを捧げる意味で、サンサーンスの「動物の謝肉祭」から「白鳥」を渡辺かづきTrio+里見紀子Stringsによるジャズアレンジの演奏でどうぞ。

◆おまけのおまけ
スメタナ弦楽四重奏曲第1番「わが生涯」から第三楽章をどうぞ。

ジャズとエロス 〜ヴァイオリニストの音楽レシピ〜(牧山順子著/PHP新書)

【題名】ジャズとエロス 〜ヴァイオリニストの音楽レシピ〜
【著者】牧山順子
【出版】PHP新書
【発売】2016年2月29日
【値段】840円(税別)
【感想】
「立秋」(2016年8月7日)から「秋分」(2016年9月22日)まで間の暑さを「残暑」と言いますが、そろそろ夏の雲の合間に秋の雲を見掛けることが多くなってきました。日本語は雲の名前、雨の名前、風の名前、月の名前など自然の繊細な表情の変化を表す語彙が豊富で、昔の日本人が自然を具に観察し(崇め、愛で)ていたことの証でもあります。その背景として、昔の日本人が自然を“支配”の対象(即ち、狩猟民族が獲物を与えてくれる太陽(唯一絶対神)を信仰し、地上にある獲物(自然)は天上にある太陽が人間に下賜された恵みであり支配の対象)と捉えていたのではなく、自然を“畏敬”の対象(即ち、農耕民族が作物を育む大地(自然=八百万の神々)を信仰し、種(無)から作物(有)を創造する大地には神が宿っており畏敬の対象)と捉えていたことが自然に対する鋭敏な感性を研ぎ澄ませることになったのではないかと思われます。因みに、昔から「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、これは彼岸の中日にあたる「秋分」に昼の時間と夜の時間の長さが等しくなり、それ以降は徐々に太陽が照る昼の時間が短く夜の時間が長くなること(俗に秋の夜長)から夏の暑さ(残暑)が和らいで凌ぎ易くなるためで、落ち着いて読書をするのに向いている季節(俗に読書の秋)と言われる所以でもあります。そこで、久しく積読本となっていたジャズバイオリニストの牧山順子さんの新著「ジャズとエロス」(PHP新書)について簡単に感想を簡単に残しておきたいと思います。


地球の地軸と暦の関係については、昔のブログ記事を参照。

牧山さんは、この本で個人的な体験としてクラシックを演奏しているときよりもジャズを演奏しているときの方が「エロス」を感じるという趣旨のことを語られています。ここで「エロス」とは何か?ということを厳密に定義しようとすると人間存在の本質に及ぶ非常に厄介なテーマに触れなければならなくなるので野暮な深入りをせず、この本で牧山さんが語っている音楽的な「エロス」という文脈から読み取れる感覚的なイメージに委ねたいと思います。牧山さんはクラシックとジャズの違いについて、クラシックは過去の偉大な作曲家が創造した芸術を現代に「再現」しようとする試みであるのに対し、ジャズはその時間を生きている音楽家が自分たちの音楽をいま「創造」しようとする試みである点で大きく異なると語られています。この点、ジャズの楽譜を見ると分かり易いと思いますが、クラシックの楽譜と比べると非常に簡素なもので、A4版1枚程度の紙にテーマ(主題)となるメロディーとコード(和音)のみが記されていて、最初にテーマ(主題)となるメロディーを演奏した後に、そのテーマ(主題)のコード進行を保ちながら各奏者がインスピレーションに任せてアドリブ(即興演奏)で自由自在にメロディーを展開し、最後に再び元のテーマ(主題)のメロディーに戻って締め括るというパターン(協奏曲のカデンツアに近いもの)が基本的な演奏スタイルになります。牧山さんがクラシックからジャズへ転身したばかりの頃はジャズのボキャブラリー(将棋で言う”定石”のようなもの)を何も知らずに他の奏者と音楽的な会話を行うことに手間取ったそうですが、ジャズを勉強するために留学したバークリー音楽大学で「いい音は耳で覚えるもの。いい演奏はいい奏者たちとの共演で身につくもの。」と教わり、セッションを重ねて行く中で徐々に他の奏者が奏でる音がクリアに聞こえるようになって余計なことを考えなくても自然に音を返すこと(音楽的な会話)ができるようになったそうです。そういえば、マンガ「ブルージャイアント」第4巻では、主人公のサックス奏者が他の奏者の音を聴くことで音楽と自分が「つながっている」感覚(無意識にメロディーが出てくる感覚)になるシーンが描かれていますが、ジャズ奏者の演奏体験を感覚的に示す臨場感溢れる興味深いシーンです。クラシックでもバロック時代には作曲家と演奏家が明確に分化されていなかったので即興演奏が多く行われ、現代のジャズ奏者と似た演奏スタイルだったと言われていますが、1789年にセネフェルダーによる平板印刷技術の発明で楽譜の印刷が容易になり、音楽が楽譜というメディア(媒体)を介して広く世の中に流通するようになると一部の才能又は人気のある作曲家が作った曲が繰り返し演奏されるようになり徐々に作曲家と演奏家の分化が進んで、バロック時代以降のクラシック(古典派〜ロマン派〜現代)の演奏スタイルは再現芸術的なスタイルへと収斂していきます。これに対して、ジャズは、アフリカから奴隷としてアメリカに連れて来られた黒人が奴隷生活の中で耳慣れた教会の音楽や西洋の民謡等を持ち前のリズム感や音階(≒コード)で見よう見まね(アドリブ)で演奏するようになったことがその起源と言われており、それが現代まで受け継がれて発展したものと考えられます。個人的な好みは別として、どちらの演奏スタイルが優れているというものではなく、全く表現様式や性格的特徴の異なる音楽なので、僕にとっては(それが音楽的な「エロス」というべきものか否かに拘らず)いずれも独自の存在意義を持つ非常に魅力的なものに感じられます。

ジャズとエロス (PHP新書)

ジャズとエロス (PHP新書)

牧山さんは、ジャズに特徴的と言える音楽的な「エロス」は、トランペットの高音とベースの重低音が絡み合って絶妙なコントラスを生む広い「音域」と、音を出さない(焦らす)ことによって生み出される高揚感や期待感としての「間」に感じると語られています。この音楽的な「エロス」は感覚的なイメージなのですが、この本に印刷されているQRコードにアクセスすると沢山の音源(ジャズの演奏)に触れることができる構成になっており、この音楽的な「エロス」を感覚的なイメージとして実際に体感できるようになっていますので、是非、この本を買って体感してみて下さい。ジャズの初心者にとってはジャズの魅力に触れる良き指南本となるはずです。なお、牧山さんはクラシックの演奏ではきちんと心に衣装をまとっているという感覚があるが、ジャズの演奏では素の自分をさらけ出し心が裸になっているという感覚があると語られています。マンガ「ブルージャイアント」第7巻では、ジャズバーの客が若いピアノ奏者に「内臓をひっくり返すくらい自分をさらけ出すのがソロだろ」と語るシーンが出てきますが、僕がジャズに「エロス」を感じる瞬間はジャズ奏者がその全存在を掛けて自分を「さらけ出す」演奏に触れたときかもしれません。

この本の巻末に牧山さんと俳優の松尾貴史さんの対談が掲載されていますが、このなかで松尾さんは相手に求めることが「恋」(利己的な精神作用)、相手に与えることが「愛」(自己犠牲的な精神作用)であり、相手に「恋」をしている時が最も相手に「エロス」を感じている時だと語られていますが、恋愛に準えて「エロス」の哲学的な意味を分かり易く語られています。この点、映画「利休にたずねよ」の中で千利休が「茶の湯の大事とは人の心に叶うこと」と弟子を教え諭すシーンがありますが、茶の湯の道やおもてなしの心は相手を愛しむことにその本質があり、「エロス」(官能愛や性衝動など一方的に相手に求めること)よりも「フィリア」(友情や親愛など相互に求め合い与え合うこと)や「アガペー」(無償の愛など一方的に相手に与えること)に近い考え方なのだと思います。この文脈で捉えると、「エロス」(地上の愛)を司る“キューピッド”(肉体と精神の調和がとれた完璧な存在になることを理想とし、現世における肉体的な本能から生じる欲望を肯定して肉体的な美を讃えたギリシャ神話)と「アガペー」(神聖な愛)を司る“天使(エンジェル)”(肉体的な本能から生じる欲望(キリストによる贖罪の後も人間がつくり続ける罪)を抑制して(悔い改めて)、精神を肉体から解放し、神を信仰する(神を信じて罪の赦しを求める)ことによって来世である天国(神の国)において永遠の安息が与えられると説くキリスト教)の対照的な性格の違いも分かり易いと思います。また、松尾さんはジャズが自在に「間」を作ることができる裁量の余地が大きい音楽で、それによって客や他の奏者は焦らされて求める気持ち(高揚感、期待感)が高ぶり「エロス」を感じせるところがあり、そのスリリングな駆引きが男女間で行われる精神作用としての駆引きと良く似ているのではないかと語っています。この点、どんな舞台芸術でも、この「間」の扱い方が難しく、表現者(医師)による処方や受容者(患者)による服用の仕方を誤ると毒にも薬にもなり得る妙薬です。歌舞伎の世界で「間は魔に通ず」という言葉がありますが、役者にとって「間」は命であり、この「間」を外す「間抜け」は芝居の流れ(リズム)を壊して舞台を台無しにしてしまいます。また、大向こう(舞台から最も距離がある上階後方の席にたびたび通う見巧者の客のことで、歌舞伎だけではなくクラシックの演奏会場でも最後部の席にコアな客が集まる傾向があります。)の掛け声も「間」が大事で、絶妙な「間」の掛け声(“待ってました!”“○○屋!”)は役者の芝居が興に乗って舞台を盛り上げる効果がありますが、この「間」を外すと芝居の興を醒まさせることにもなり兼ねません。牧山さんがアドリブ(即興演奏)で音楽的な対話が上手くできる相手だと表現世界がどんどん広がって行くと語っていましたことも同じような意味を含む趣旨だと思いますが、これこそが舞台芸術の醍醐味と言えるのではないかと思います。なお、この「間」の良し悪しを分けるのが(日本流に言えば)「粋」と「野暮」でして、この「粋」と「野暮」の違いは舞台芸術だけではなく、男女の駆引きや人間の生き様にも当て嵌まると思います。「野暮」とは型(基本)がしっかりと身についておらず、それゆえに型(基本)に振り回されて融通が効かない様子をいい(野暮の語源は、雅楽の楽器「笙」の「也(や)」と「毛(や)」という二本の管から音が出ないので、役に立たないことを「やもう」→「やぼ」というようになったことが始まりとされています)、その一方で、型(基本)はしっかりと身についているが、一々、型(基本)とおりに決まりそれが作為的に感じられて面白さや美しさが感じられない様子を「気障(キザ)」と言って人々から疎んじられます。その中間でバランスされているのが「粋」であり、型(基本)がしっかりと身について洗練されていて、だからこそ型(基本)に捉われずに振る舞っても破綻がなく、その当意即妙、変幻自在な振る舞い(即ち、フェイント、焦らしや駆引きなど)にはエロスに通じる美しさが感じられるのではないかと思います。そう言えば、映画「ドラゴンキングダム」においてカンフーの奥義を語るシーンで「型を学んで、型を追わず」という言葉が出てきますが、これも「粋」と相通じる考え方だと思います。ジャズの演奏に「エロス」を感じさせる「間」にも同様のことが言えるかもしれません。


ジャズに因んで、勝浦にある有名なジャズバー「RAG TIME」をご紹介。今年の中秋の名月は9月15日、満月は9月17日ですが、店の前には童謡「月の砂漠」が作曲された御宿海岸まで続く砂浜が広がり、昼はエメラルドグリーンに輝く海と関東近県から波乗りにくるサーファー達で賑わい、夜は漆黒の闇に覆われた海面を幻想的に照らす月光がバラード調のジャズとマッチし、さざ波の音に揺られながら静かに流れる大人の時間を楽しむことができます。

上記の「エロス」の文脈に沿って、ジャズとは異なるジャンルの芸術である①歌劇「ドン・ジョバンニ」、②能「野宮」に見られる「エロス」及び③「音楽」と「舞踊」に見られる「エロス」(上記①及び②のような“信”としての宗教から生まれた芸術に見られる「エロス」ではなく、“行”としての宗教から生まれた芸術に見られる「エロス」)を題材に、少しだけ話題を広げ(アドリブし)てみたいと思います。

①歌劇「ドン・ジョバンニ」に見られる「エロス」
歌劇「ドン・ジョヴァンニ」では、貴族ドン・ジョヴァンニが手当たり次第に女性を誘惑する稀代のプレーボーイとして登場しますが、ある日、騎士長の娘に手を出したことを見咎められて騎士長と決闘になり騎士長を刺し殺してしまいます。その後も、ドン・ジョヴァンニは仮面舞踏会を開催して女漁りをするなど手癖が改まらず、放蕩の限りを尽くしますが、ある日の晩餐会に騎士長の亡霊が現れてドン・ジョバンニに改心するように迫られ、これを拒否したので地獄へ堕ちるというストーリーです。この作品の性格については、一般に、貴族への皮肉を込めた社会風刺であるとか又はファザー・コンプレックスを抱えていたモーツァルトが亡き父レオポルドを騎士長に重ねた自分への戒めであるなどと言われていますが、その背後には騎士長の亡霊(神聖な愛「アガペー」を体現するもの)がドン・ジョヴァンニ(肉体的な愛「エロス」を体現するもの)を服従させるというキリスト教の価値観が強く指向されています。この作品でドン・ジョヴァンニは誘惑者として登場しますが、従者レポレッロが“カタログのアリア”で「スカートさえはいていれば、あの方のなさることはあなたもご存知のはず」と歌うことからドン・ジョヴァンニが体現する「エロス」は享楽に溺れた本能的なものであることが分かります。また、ドン・ジョヴァンニに誑かされる女性達も被害者であると同時に自らドン・ジョヴァンニが体現する「エロス」の虜になって行くものであり、恰も旧約聖書創世記に登場する禁断の果実(肉体や悪のメタファー)を口にしてエデンの園神の国)を追放されたアダムとイブを彷彿とさせます。この点、ギリシャ神話に登場する英雄ヘラクレスは50人以上の妻を持ち、一見するとドン・ジョヴァン二と似た性格の人物のように映りますが、ヘラクレスは複数人であっても“特定”の女性を愛するという意味で継続的に存立する関係性(精神的な愛「フィリア」と調和された肉体的な愛「エロス」)を指向しているのに対し、ドン・ジョヴァンニは「スカートさえはいていれば」(「カタログのアリア」より)誰でもよく手当たり次第に女性に手を出す誘惑者であるという意味で刹那的に消滅する関係性(肉体的な衝動としての「エロス」)を指向しており、ヘラクレスとは本質的に異なる価値観を帯びた人物像として描かれています。因みに、新約聖書に登場するマグダラのマリアは改心した娼婦(キリストの死と復活を見届ける悔悛した罪人)と言われており、その存在は矛盾する両義性、即ち、娼婦として肉体的な衝動又は愛「エロス」に囚われる罪人の一面と、改心して神聖な愛「アガペー」によって精神(魂)が救われる聖女の一面とを内包していますが、歌劇「ドン・ジョバンニ」ではそのうち娼婦として肉体的な衝動又は愛「エロス」に囚われた罪人の一面を象徴する存在としてドン・ジョバンニが登場し、それを取り巻く登場人物によってキリスト教が体現する神聖な愛「アガペー」との間の葛藤(信仰の闘い)が描かれています。この点、西洋文化史の流れを俯瞰して見ると、そのような社会的な価値観の葛藤の中で西洋文化が変遷し、育まれてきたという見方も可能かもしれません(後述)。

▼誤解を恐れずに以下のような大雑把なイメージでもう少し話を広げていきます。

関係性の比較 精神(理性) 肉体(本能) 価値観
ドン・ジョヴァンニ × 肉体的な衝動としての「エロス」(猥褻)
ギリシャ神話 精神的な愛「フィリア」と調和された肉体的な愛「エロス」(芸術)
キリスト教 ×(原罪) 肉体的な愛「エロス」を抑制する、神聖な愛「アガペー」(宗教)

歌劇「ドン・ジョバンニ」の第2幕第24曲「晩餐会の場」で、享楽に溺れた本能的な「エロス」を体現する誘惑者としてのドン・ジョヴァンニ(肉体、情欲(パトス))に対して改心を迫る騎士長の亡霊(精神、理性(ロゴス))が登場します。この登場シーンでも使われているモチーフですが、歌劇「ドン・ジョバンニ」序曲で弦楽器が奏でる騎士長の亡霊の足取りを表現したモチーフ「ターンタ・ターンタ・・・」(♩.🎵♩.🎵・・・)は、バッハ「マタイ受難曲」冒頭合唱通奏低音が奏でるキリストが十字架を抱えてゴルゴダの丘を登る足取りを表現したモチーフ「ターンタ・ターンタ・・・」(♩🎵♩🎵・・・)と一致しており、(舞台の演出を超えた音楽的なメタファーとして)そこには神が騎士長に化体して降臨したかのような神性なものを暗示させます。この点、果たしてモーツァルトがバッハの「マタイ受難曲」の楽譜を見る機会があったのかについては何も記録が残されていないので分かりませんが、モーツァルトの遺品の中にはバッハの「マタイ受難曲」も初演されたライプツィヒの聖トーマス教会を訪れた際に写譜したバッハのモテットの楽譜が含まれていますので、その可能性は十分にあったと考えられる....などと言ってしまいたくなるのが歴史ロマンというものです。

モーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」の序曲より抜粋
赤枠は、騎士長の亡霊の足取りを表現したモチーフ「ターンタ・ターンタ・・・」(♩.🎵♩.🎵・・・)で、さながら神が騎士長に化体して降臨したかのような神性を暗示。

▼バッハの「マタイ受難曲」の冒頭合唱より抜粋(通奏低音のパートのみ)
赤枠は、キリストが十字架を抱えてゴルゴダの丘を登る足取りを表現したモチーフ「ターンタ・ターンタ・・・」(♩🎵♩🎵・・・)。青枠は、受難(贖罪)が成し遂げられてキリストが13段の階段(音符)を登り昇天する様子(因みに、キリストの磔刑13日の金曜日だったので、キリスト教にとって“13”という数字は重要な意味を持ちます。また、三連符は三位一体を象徴していると言われています。)

このようなキリスト教の価値観が強く指向されることになった時代背景を以下に俯瞰しておきたいと思います。歌劇「ドン・ジョバンニ」は1787年10月にモーツァルトの指揮によってプラハ国立劇場で初演されていますが、当時は(ドン・ジョバンニに象徴されるような)享楽的で軽薄なフランスの貴族文化が開花したロココ時代であり、また、丁度、この年に特権階級をも対象とする税負担に反対するフランス貴族がフランス王政に反乱を起こし、それがフランス貴族の享楽的な生活にも反感を持つ市民にまで広がって1789年のフランス革命に発展する端緒になっています。モーツァルトはこのような時代感覚を巧みに捉えて時代を風刺しフランス革命を予兆するようなエポックメイキング的な作品を世に問うたとも言えそうです。そう言う意味では、騎士長の亡霊が登場する「晩餐会の場」の冒頭で奏でられるフォルテッシモの総奏は古い貴族社会を打ち破って新しい市民社会の到来を暗示しているようにも聴こえてきます。

ギリシャ神話の価値観とキリスト教の価値観の間を揺れ動きながら形成された西洋文化史の流れを、誤解を恐れつつ、かなり大雑把に俯瞰してみました。

古代ギリシャ時代】
ギリシャ神話の価値観(哲学、思想)は肉体と精神の調和がとれた完璧な存在になることを理想とし、現世における肉体的な本能から生じる欲望を肯定して「エロス」を呼び起こす肉体的な美を称賛。ギリシャ彫刻には裸体が多く、また、オリンピックの源流であるオリンピアにおいて裸で競技が行われたのはこれが理由。
*シモニデス(詩人):「死すべき人間の人生など、肉体の幸福無くして何の魅力があろうか。聖なる神々の暮らしとて、それ無くしては何ら羨むべきものではないのではないか。」

ローマ・カトリック時代】
キリスト教の価値観(宗教)現世における肉体的な本能から生じる欲望を抑制し(キリストによる贖罪後も人間によって作り続けられる罪を悔い改め)、精神(霊)を肉体から解放して、神を信仰する(神を信じて罪の赦しを求める)ことによって来世である天国(神の国)における精神(霊)の永遠の安息が約束されると説く。
旧約聖書「創世記」:禁断の果実(知恵の実)を食べた最初の人間であるアダムとイブに対し、神はその罪により2人をエデンの園から追放(失楽園)。アダムとイブの子孫である人間はこの罪(映画「セブン」)を生まれながらにして負っている。

ルネッサンス時代(古典主義)】
キリスト教カトリック)の価値観の束縛から解放されることを指向し、ギリシャ神話の価値観の再生運動(「ルネサンス」の語源は“再生”を意味するイタリア語)の試み。ボッティチェルリ「ビーナスの誕生」に代表されるように、ギリシャ神話的な理想美を指向し、ギリシャ神話を主題として肉体の美しさを描くことでキリスト教カトリック)の価値観に対するプロテスト。

バロック時代】
ルネサンス時代の反動として生まれ、偶像崇拝を禁止していたプロテスタントに対抗して豪華なキリストやマリアの彫像が作られるなどキリスト教カトリック)の価値観の威信回復を図るための壮麗華美な表現様式。

プロテスタンティズム音楽の旗手としてバッハが活躍した時代背景(バッハはプロテスタントの信者でしたが、その最高傑作と言われている「ロ短調ミサ曲」はカトリック典礼音楽(*)で、バッハは神に仕える音楽家として宗派を越えてこの曲を神に捧げたと言われており(Soli Deo Gloria)、「ロ短調ミサ曲」をもって音楽史におけるバロック時代は終焉)
*聖書朗読を重視するプロテスタントは、聖書の言葉を題材とした「カンタータ」「受難曲」「コラール」「オラトリオ」等の教会音楽を使用し、カトリックのように聖体拝領を重視しないのでミサ通常文に音楽をつける「ミサ曲」等の教会音楽は使用されず。

ロココ時代】
バロック時代の反動として生まれ、フランスの貴族文化が開花して「説教」から「飾り」(享楽的で軽薄な官能性)へと変貌。

モーツァルトが歌劇「ドン・ジョバンニ」を作曲した時代背景(モーツァルトフリーメイソンに加入していましたがカトリックの信者で、享楽的で軽薄な貴族文化に対する風刺が籠められていると共に、当時の時代感覚を巧みに捉えたフランス革命を予兆する作品)

新古典主義時代】
フランス革命後はバロック時代の壮麗華美な様式性やロココ時代の享楽的で軽薄な官能性を否定し、“美しい肉体には美しい精神が宿る”とされたギリシャ神話の価値観を古典様式に則って表現。

ロマン主義時代】
ギリシャ神話の価値観を美の基準と考えた新古典主義に対し、フランス革命後の本格的な市民社会の成立に伴う市民文化の多様な趣味に合わせて、美の基準は人それぞれであるという考えが広まり、ドラマチックな表現が流行。

余談ですが、プロテスタントの一派で宗教改革を提唱したルターは、当初、カトリック反ユダヤ主義にも抗議していましたが、後に、ユダヤ人がキリスト教に改宗しないことに失望して反ユダヤ主義を標榜します。時代が進んで20世紀に入り、ナチスはそのルターが標榜した反ユダヤ主義を奇貨とし、ユダヤ人迫害の根拠の1つとしてこれを利用し、時代に暗い影を落とすことになりました。因みに、ユダヤ人が大量虐殺された「ホロコースト」は旧約聖書「創世記」に登場する「燔祭」(はんさい)のことを示し、生贄を祭壇上で焼いて神に捧げる儀式のことを意味しています。なお、多くの宗教は、先ず、神の存在を無条件に受け入ろと悟し、そのうえで、その神がこう仰っているのだからそれを信じなさいという具合にトートロジーに陥っているように思われます。この論理的な飛躍を埋める(超える)ことを「信仰」と言うのでしょうが(そして、どんな論理も「信仰」の前では無力とも言えますが)、禁断の果実を食べ過ぎた私のような大俗物には俄かに得心することは困難です。現代人が抱える生(死)に対する問題は宗教(信仰)の代わりに哲学・思想(理解)に示唆を見出すことが多く、必ずしも、「信仰」という形をとらなくても良い(但し、それが人間によって生き易いことなのか又は生き難いことなのかは別論)と感じている人が多いのが現代という時代性ではないかと感じています。

②能「野宮」に見られる「エロス」
金春禅竹の作と伝えられる能「野宮」は、源氏物語「賢木」を題材にして作られ、光源氏との想い出に浸る六条御息所の哀しい女の性が深まる秋の情趣と共に心に沁みてくる名曲です。旧暦9月7日(新暦で2016年10月7日)、旅の僧が野宮神社を訪れたところ、一人の女が現れて今日は神事なので帰るように頼みます。僧がその理由を尋ねると、女はかつて野宮神社に籠もっていた六条御息所のもとを光源氏が訪ねてきたのがこの日だと告げ、自分こそ六条御息所の霊だと明かして懐かしそうに昔を語り舞いを舞って黒木の鳥居クヌギの木の皮を剥かないまま使用している鳥居)に消え失せるという話です。源氏物語(1008年頃)の主人公である光源氏は平安貴族をモデルに描かれた架空の人物で稀代のプレイボーイとして登場しますが、歌劇「ドン・ジョバンニ」(1787年)の題材となったスペインの伝説上の貴族ドン・ファン、そしてイタリアの実在の作家ジャコモ・カサノヴァ(1798年)と共に世界三大プレイボーイと称されています。この点、光源氏ドン・ジョヴァンニのように女性であれば手当たり次第に手をつける誘惑者として刹那的に消滅する関係性(肉体的な衝動としての「エロス」)を指向しているのではなく、ヘラクレスのように複数人であっても“特定”の女性を愛するという意味で継続的に存立する関係性(精神的な愛「フィリア」と調和された肉体的な愛「エロス」)を指向している人物像として描かれているのではないかと思われます。


狩野柳雪「能之図」より「野宮」。まるで旅の僧(ワキ=見物人)が俗世(見所)から、その俗世(見所)と神域(神社の境内=能舞台)とを隔てるようにして建つ黒木の鳥居(女の性の象徴)に顕在する六条御息所の亡霊(シテ)を見ているような図柄です。宛ら、あの日の今日、野宮神社まで六条御息所を訪ねてきた光源氏への想いを振り切って追い返そうとしたように...。

源氏物語「賢木」の巻では、光源氏との結婚を諦めた六条御息所斎宮(処女を守って姫神に仕える巫女のことを意味し、天皇に代わってお伊勢参りをする皇女を示します。斎宮に選ばれた皇女は宮中で1年間、野宮神社で1年間の2年間に亘り心身を清めるための潔斎を行い、3年目の秋に伊勢神宮へ赴きます。)に選ばれた娘と共に伊勢神宮へ赴く決意をします。そんな六条御息所を哀れに思った光源氏野宮神社を訪れ、「変わらぬ色をしるべにしてこそ、斎垣を越えはべりにけり」(常緑樹の榊の色が変わらないように、あなたへの変わらない思いに導かれて俗世と神域とを隔てる垣根を超えてやってきました。※榊(サカキ)の名前は神と人との境である「境木(さかき)」を意味。)と御簾の下から榊の枝を刺し入れて六条御息所に言い寄りますが、野宮神社で潔斎の日々を過ごし神聖な愛「アガペー」に心を委ねようと決意する六条御息所は「神垣は しるしの杉も なきものを いかにまがへて 折れる榊ぞ」と本歌を詠んで、私のところへやって来たのは間違いですと肉体的な愛「エロス」を体現する光源氏への想いを振り切ろうとします。これに対し、光源氏は「少女子が あたりと思へば 榊葉の 香りをなつかしみ とめてこそ折れ」と返歌を詠んで、懐かしさの余りに訪ねて来てしまいましたと六条御息所への未練を吐露し、六条御息所の心は野宮の深まり行く秋の空のように乱れます。能「野宮」では黒木の鳥居の作り物が能舞台に設えられ、光源氏との想い出に浸る六条御息所の亡霊が女の性を捨て切れず妄執に囚われたまま、再び、黒木の鳥居(女の性の象徴)へと消え失せます。六条御息所の亡霊(タナトス)が心身を清めるための潔斎を行う野宮神社でなお女の性を捨て切れず妄執に囚われて彷徨う姿に究極の生(性)への執着(エロス)が描かれているようです。

なお、誤解を恐れずに言えば、神社は“お宮参り”“七五三”“結婚式”など鳥居(=女性器)をくぐって参道(=産道)を進み、お宮(=子宮)へと至る度に生者の魂が生まれ直す「生」を司る場所として機能していたのに対し(この点、湯島天神靖国神社などは道真公や戦没軍人などを祭神として祀っている、即ち、神として生かしているのであって、仏式に死者を供養するのとは主旨が異なる)、寺社は“葬式”“墓参り”など死者の魂を供養する(源氏物語が作られた中世の時代には戦や疫病、飢饉などが多かったことから死者の魂を供養する怨霊鎮魂の思想が発達し、数多くの仏教が誕生・発展しましたが、源氏物語「葵上」に登場した六条御息所の生霊もそのような思想的な背景を反映するもの)ために訪れる「死」を司る場所として機能していたのではないかと考えられます。このことは神社で神に供えるお賽銭は祈願成就など自分(生、現世)のために行うもの(神社で授かるお札やお守りなども自分のためのもの)、寺社で仏に供えるお布施は慰霊鎮魂など祖先及び死後の自分(死、来世)のために行うものという性格の違いなどにも現れています。因みに、生者が参詣の度に生まれ直す「生」を司る場所としての神社は死者の霊を現世に顕在させる(蘇らせる)装置としての能舞台(本舞台=鳥居、橋掛かり=参道、鏡の間=お宮)に反映され、また、死者の魂を供養する「死」を司る寺社は“草木国土悉皆成仏”という仏教思想に化体しこれを担うワキ(旅の僧)の存在によって能楽の作品の中に結実されています。マテリアリストが大勢を占める現代の日本人は熱心な信仰を持てなくなったことで広陵たる精神世界を失って物質世界に雁字搦めになっている印象を受けます。この点、熱心な信仰を持つことで広陵たる精神世界を育み物質世界で解決できない不条理と折り合いをつけていた中世の日本人の方が現代の日本人よりも遥かに生きる知恵のようなものを持っていたのではないかとも感じられます。

③「音楽」と「舞踊」に見られる「エロス」
上記①及び②のような“信”としての宗教から生まれた芸術に見られる「エロス」ではなく、“行”としての宗教から生まれた芸術に見られる「エロス」について、ごく簡単に脱線(アドリブ)してみたいと思います。“行”としての宗教から生まれた芸術として、先ず、日本の宗教音楽である“法楽(声明)”が挙げられると思います。“法楽(声明)”は、読経(仏教の経典を読唱すること)が庶民に難解であったことから、誰でも気軽に読経できるように経典文や節回しに改良を加えてできたもので、信者が美しい節回しで読経を繰り返しながら、お互いの声に共鳴し合い、やがて法悦の境地(肉体を捨て去り精神を解放する無我の境地、即ち、肉体的な本能を発散(又は抑制)した極限状態で至るエロスの極致とも言うべき神仏等の超自然的な存在と交信できる状態=宗教的なエクスタシー)に達するための“行”としての宗教又はそこから生まれた芸術です。この“法楽(声明)”は、後に謡曲浄瑠璃浪曲や演歌等の日本の伝統音楽へと受け継がれますが、さながら現代のミュージックライブに匹敵するものと言えましょう。因みに、聖書朗読を重視するキリスト教プロテスタント系の教会で歌われる“ゴスペル”(ヨーロッパの教会で歌われる讃美歌に対し、黒人霊歌から生まれたアメリカの教会で歌われる宗教音楽のことで、“GOD”(神)+“SPELL”(言葉)=“GOSPEL”が語源)も聖書の言葉や福音を受容し易くするためのもので、“法楽(声明)”と似た性格を有していると思われます。“法楽(声明)”や“ゴスペル”は、神仏の祝福又はそれを表現する芸術を喜びに感じて(主に神仏の救いを)求める心を満たし、魂を解放する(心を自由にする)という意味を持ち、それは芸術鑑賞の醍醐味にも相通じるものがあるのではないかと思われます。この点、ゴスペルを題材とした映画「天使にラブソングを」映画「ジョイフル・ノイズ」等を見ると分かり易いと思います。

▼“法楽(声明)”や“ゴスペル”はさながらコンサートのような燃焼度の高いライブで、信仰の有無を超えて純粋な音楽としても十分に楽しめます。

“行”としての宗教から生まれた芸術として、次に、念仏(南無阿弥陀仏)を唱えながら鼓や鉦に合せて踊る“踊り念仏”が挙げられると思います。時宗開祖の一遍上人(総本山は神奈川県藤沢市にある遊行寺)は、一度の念仏で極楽往生が約束され、その喜びを“踊り念仏”で表現することで仏と1つになり法悦の境地に達すると説きました。一遍上人は“踊り念仏”を広めるために全国を行脚(遊行)し、人々が行き交う場所に踊り場を設けて人々を“踊り念仏”の輪に引き込みながら集団で法悦の境地に達するという過激な路上パフォーマンスを実践します。これが後に盆踊りや歌舞伎踊りに発展し又は影響を与えることになりますが、さながら現代のクラブに匹敵するものと言えましょう。昔、狂言師の野村萬斎さんが三番叟について「揉之段で肉体を極限の状態まで持って行って体を空洞化させ、鈴之舞で面をかけることで自我を消し去る感覚にな」って、“依代(よりしろ)”としての身体ができ、そこに精霊等の超自然的な存在が“宿る”という趣旨のことを語られていましたし、また、他の能楽師の方々も能面をかぶることで極端に視野を奪われて呼吸も困難になり心身が極限の状態になって自我を捨て去ることができる(即ち、何者かが顕在する感覚になる)という趣旨のことを語られていますが、これらと似た境地になるのかもしれません。この点、“踊り念仏”は、神仏の祝福又はそれを表現する芸術を喜びに感じて(主に神仏の救いを)求める心を満たし、その喜びを歌の代わりに“踊り念仏”で表現する(即ち、さらけ出す)ことで魂を解放する(心を自由にする)という点で、“法楽(声明)”や“ゴスペル”と本質的に共通しているのではないかと思われます。また、旧約聖書「創世記」には、アダムとイブが禁断の果実を食して裸を恥ずかしいと思うようになり(罪の意識)、イチジクの葉で局部(肉体的な本能)を神から隠すようになったと記されていますが、“踊り念仏”も法悦の境地(肉体を捨て去り精神を解放する無我の境地、即ち、人間が罪の意識に囚われて恥ずかしいと思って神から隠していた肉体的な本能を発散(又は抑制)した極限状態に至るエロスの極致とも言うべき神仏等の超自然的な存在と交信できる状態=宗教的なエクスタシー)に達することで魂を解放する(即ち、隠すのではなく、もう一度、さらけ出す=改悛する)という意味では、その精神構造に共通するところがあるように思われますし、これはジャズ奏者がアドリブを演奏する際に天から音楽が降って来る感覚(インスピレーション)にも近いものがあるのではないかと思われます。因みに、ジャズはニューオリンズで誕生しましたが、ニューオリンズにはカトリック信者が多かったので(即ち、プロテスタント信者に比べて人種偏見が軽かったので)、彼らに雇われていた黒人奴隷にはある程度の自由が与えられ、毎週日曜日になると広場に集まり故郷のアフリカ音楽を演奏して踊り楽しむようになり、これがジャズの原点となりました。また、仲間の黒人奴隷が亡くなると教会に集まりマーチング・バンドで葬送行進曲を奏でながら墓地へ向かい、埋葬を終えて自宅に戻るときはマーチング・バンドが陽気でダンサブルな音楽を奏でて死者の霊を弔いますが、これを聴き付けた周辺の住民達が外に飛び出して遺族とマーチング・バンドの行進の列に加わって死者の霊を弔うための“踊り”の輪が膨らんでいきました。これがシカゴに伝わって「ビッグバンド・ジャズ」に発展しますが、ジャズの発生史を紐解くと、さながら“踊り念仏”を彷彿とさせるところがあります。


1〜2枚目:踊り念仏で有名な一遍上人が開祖した時宗の総本山である遊行寺(神奈川県藤沢市)一遍上人像。能「遊行柳」の舞台になった遊行柳(栃木県那須市)は、一遍上人の教えを受け継いだ遊行上人がこの地に立ち寄ったことに由来します。3〜4枚目:遊行寺長生院には歌舞伎や浄瑠璃の人気演目「當世流小栗判官」(近松門左衛門作)や「小栗判官車街道」(竹田出雲・文耕堂の合作)に登場する小栗判官と照手姫の墓があります。また、遊行寺の境内には下総佐倉藩の初代藩主であった老中、堀田正盛の供養塔もあります。5枚目:もう直ぐハロウィン(10月31日)ですが、ミニストップ限定のハロウィンキティー・カスタード&パンプキンを漸く見付けました。古代ケルト人の祭りであるハロウィンは祖先の霊が帰ってくる又は秋の収穫を感謝するという意味で日本のお盆や新嘗祭と同じですが、祖先の霊と共に悪霊も訪れるということで仮装して悪霊祓いをする点が特徴的で、これがキリスト教カトリック)に採り入れられて習俗化し現代に受け継がれてきます。このような異教的なものなどを採り入れたカトリックに対抗してルターが宗教改革(プロテスト)を起こした日が偶然か皮肉か丁度ハロウィンの日(10月31日)であったことから、キリスト教(とりわけプロテスタント)は10月31日をハロウィンを祝う日ではなく宗教改革を記念する日としており、この日は悪霊(闇の世界)と聖霊(光の世界)とが同時に持て囃される奇妙な日になっています。なお、古代ケルト人は神の怒りを鎮めるために処女を生贄として奉げたそうですが、その生贄がリアルかフィクションかは別として、上記②の能「野宮」に出てきた“斎宮”(処女を守って姫神に仕える巫女のこと)と相通じる考え方です。

なお、蛇足ですが、“法楽(声明)”は釈迦の言葉や教えから成る経典を読経するという意味でキリスト教プロテスタント系の聖書朗読(≒読経)に近く、また、“(踊り)念仏”は仏の救いを求めるために祈るという意味でキリスト教カトリック系のミサ通常文(Kyrie ereison≒南無阿弥陀仏)に近いと言えるかもしれません。このように、同じキリスト教でもプロテスタントは聖書の言葉や福音を大切にしこれを朗読することに重きを置くので、カトリックのようにキリスト像やマリア像に祈る偶像崇拝を禁じています。最後に、農耕民族に見られる2拍子表拍の舞踊音楽と狩猟民族に見られる4拍子裏拍のダンス音楽との関係性とエロスについても言及しようと思いましたが、かなり冗長になってしまいましたので、牧山さんが「ジャズとエロス2」を執筆された機会にしたいと思います。

▼伝記映画「ブルーに生まれついて」(2016年11月26日公開)
一時、マイルス・デイヴィスをも凌ぐ人気を誇っていたジャズトランペット奏者でボーカリストチェット・ベイカーの半生を描いた伝記映画「ブルーに生まれついて」が公開されます。ドキュメンタリー映画「Let's Get Lost」をご欄になられていない方は、併せて、この機会に是非。【注】

Lets Get Lost [DVD] [Import]

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【注】この輸入盤の映像方式はPAL方式を採用しているので、一般の日本製DVDプレーヤーでは再生できません。パソコンで視聴するか又は(どうしてもテレビで視聴したければ)変換ソフトやダビング業者を使ってPAL方式をNTSC方式へ変換するか、PAL方式を再生できるDVDプレーヤーを購入する必要があります。

ドキュメンタリー映画「ジャズ喫茶ベイシー」(2017年公開予定)
中尊寺岩手県平泉)を観光した訪日外国人観光客も立ち寄る世界的に有名なジャズ喫茶「べイシー」岩手県一関)のドキュメンタリー映画「ジャズ喫茶ベイシー」が近く公開されます。ここでしか聴けない世界一のサウンドを求めて、全国からジャズファンが集っています(新幹線の停車駅、JR一関駅から徒歩5分)。

▼その他のお勧め映画

◆おまけ
童謡「月の砂漠」のジャズアレンジ。

Jazzical Trioによるベートーヴェンピアノソナタ第13番のジャズアレンジ。(“Jazzical”(ジャジカル)とはジャズとクラシックを融合した音楽のことで、Jazzical Trioは主にクラシックの曲を素材としてジャズアレンジを加えて演奏しているグループ。)

映画「天使にラブソングを2」にも使われていますが、ベートーヴェン交響曲第9番第4楽章の主題旋律に讃美歌の歌詞を付した有名なゴスペル“Joyful Joyful”をPerpetuum Jazzileのコーラスで。

◆おまけのおまけ
上記で紹介したミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」(2017年2月24日公開)から。ジャズピアニストのセバスチャンと女優志望のミアはジャズバーで運営的な出会いを果たして忽ち恋に落ちますが、お互いの夢を叶えるためにその恋が岐路に立たされるという物語で、人生の素晴らしさを教えてくれるミュージカル映画です。

“New Orleans Jazz Styles”でも有名なギロックの「叙情小曲集」から“秋のスケッチ”と“セレナーデ”...メランコリックで儚げな曲調に秋の風情が薫る小品をお楽しみ下さい。

【訃報】ワキ方下掛宝生流の能楽師、宝生閑さん(人間国宝)が逝く

僕を能と出会わせてくれた人。
とても大切な人に、また逝かれてしまった...。
今暫く稀代の名人と冥界を旅していたかった。
衷心よりご冥福をお祈り致します。

【訃報】
人間国宝の宝生閑さん死去 能楽師ワキ方宝生流朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASJ215Q0YJ21UCLV00H.html

理論家としても知られた宝生閑さんの名言を集めた「閑語録」
http://twn.main.jp/simoho/kangoroku/kangoroku.htm

幻視の座―能楽師・宝生閑聞き書き

幻視の座―能楽師・宝生閑聞き書き

◆おまけ
モーツァルトのレクイエムよりラクリモサ(その日こそ、涙の日)
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新年のご挨拶

新年あけましておめでとうございます。皆様はどんなお正月をお過ごしでしょうか?僕は天気が良かったので、我が心の友ハーレーと共に栃木県にある日本で最初のバイク神社(安住神社)に一年の安全を祈願した後、千葉県にある日本で唯一料理の神様を祀っている高家神社(料理人であれば一度は参詣する有名な神社で、例年、映画「武士の献立」でも登場した四條流庖丁書に則った由緒正しい“包丁式”が奉納されます。因みに、「彼氏の心をつかむなら、まず胃袋をつかまなくては!」ということで若い女性の参詣も絶えません!!)に参詣しました。ところで、なぜ新年があけるとめでたいのか?…以前のブログ記事でも少し触れたことがあるかもしれませんが、日本が明治5年まで使用していた旧暦では、丁度、春の到来を告げる梅の花が芽をつける立春新暦2月4日)の前後が元旦とされ(その前日の節分が大晦日になるので、豆を撒いて1年の厄を払い福を呼んでから新しい年を迎えるという粋な趣向)、新しい春が到来して草花が芽吹く時期なので、”新しい年があけて新しい芽が出たな..❤ 嬉しいな..❤❤”という慶びを表した言葉(新年+芽出度い)が、そのまま新暦新暦の元旦は冬本番ですが)でも用いられたことに由来します。このように旧暦から新暦に変わったことで辻褄が合わなくなってしまったこと(例えば、3日に三日月、15日に十五夜(満月)になるとは限らず、また、中秋の名月も年によって日付が異なるなど)が意外と多くあります。

新暦太陽暦(太陽の動きを基準に暦を刻む)
旧暦=太陰暦(月の動きを基準に暦を刻む)

もともと日本は中国から入ってきた太陰暦(旧暦)を基本とし、月の満ち欠けが一定の周期で行われていることから満月から次の満月までを1ケ月として月の動きを基準に暦を刻んでいたので3日に三日月、15日に十五夜(満月)になりました。しかし、明治5年に西洋に倣って太陽暦が採用され、太陽が地球を1周する日数を1年として太陽の動きを基準に暦を刻むことになりましたが、月の満ち欠けの周期と太陽の公転の周期が微妙にズレている関係で、必ずしも月の動きと新暦が一致せず、3日に三日月、15日に十五夜(満月)になるとは限らなくなってしまいました。日本と同様に、イスラム諸国でも太陰暦を採用していた(る)国が多くあります。イスラム諸国の国旗には三日月と星をあしらったものが多く、三日月は発展(これから満ちて行く)、星は知識(昔から天体観測が盛ん)を表していますが、これはイスラム諸国が熱帯地域に多く太陽は忌まわしい存在、逆に月や星はありがたい存在と考えられてきたことが月や星を神聖化することにつながったのではないかと言われています。日本では中国の影響があって昔から月見の習慣があり、沢山の和歌に月が詠まれ、また、かぐや姫などお伽話に月が登場するなど身近な存在として親しまれてきました。これに対して欧米では狼男や魔女等に象徴されるように月に対して良いイメージがなく、このような考え方の違いが太陽の動きを基準に暦を刻むのか又は月の動きを基準に暦を刻むのかという考え方の違いになって現れたのかもしれません。例えば、クラシック音楽を現代の楽器(モダン楽器)ではなく作曲家が生きていた時代の楽器(ピリオド楽器)で演奏すると、これまで不自然に感じられていた部分もその作曲意図や演奏効果(主にモダン楽器と比べてピリオド楽器が内在する機能的な制約を前提とする配慮等)が明確になるということがありますが、文化や因習も現代の尺度ではなくその時代に尺度で照らし直すとこれまで見えていなかったものが見えてきます。諸事につけて、民族、宗教、文化、生活様式や時代、また、各々が置かれている立場、環境や状況等によって物事を測る尺度は異なり得るということで、今年は物事を多面的に捉えて物事を測る尺度の差異(属性)のみではなくその差異を生む根底にあるもの(本質)を見極めることができる広い視野、想像力、洞察力や思慮深さのようなものを磨き、単なる認識(知る)に留まらず理解(分かる)を深められるように心掛けて行きたいと思っています。


トルコの国旗

因みに、「クロワッサン」はトルコの国旗の三日月紋様に似せて作ったパンと言われています。1683年にオーストリアのウィーンがオスマン・トルコ帝国に包囲されたとき、トルコ軍が城に向かって地下道を掘り進む音にパン屋の職人が気付いてウィーンを救ったことから、これを記念してトルコの国旗を象ったパンを作り始めたのが由緒だそうです。その後、オーストリアの皇女マリー・アントワネットがフランス王家に嫁いでクロワッサンの製法やコーヒーを飲む習慣(これもトルコの影響で、詳しくは前回のブログ記事を参照)をフランスに伝えたと言われています。


クロワッサン

なお、上述の高家神社で思い出しましたが、この年末にデカ盛りの聖地「やよい食堂」(千葉県野田市)へ行ってきました。デカ盛りの聖地と言えば“東のやよい、西の美富士”が全国的に有名ですが、やよい食堂はその量にも増して味こそが魅力です。一口食せば、なぜ客の要望に応え続けてこれだけのデカ盛りになっていったのかその理由を得心できます。のれんに“男飯”とあるとおり、店主の心意気が器からはみ出してしまうその迫力に男のロマンを感じずにはいられませんが、確かな舌を持つ味グルメな女性客にも人気の店です。なお、千葉県野田市キッコウマンの創業地で、やよい食堂の近くにキッコウマンの醤油工場があり、その近隣をハーレーで走っていると茹でた大豆の香り(豆腐屋のような香りと言えば分かり易い?)が漂ってきて病みつきになります。デカ盛りのカツ丼の写真の右端にキッコウマンの醤油ビンが写っていますが、やよい食堂の味は地元のキッコウマン醤油が支えています。キッコウマンの創業者は香取神宮(千葉県香取市)の氏子で香取神宮の寺紋である亀甲紋(亀の甲羅をあしらった六角形の紋様)に「鶴は千年、亀は萬(万)年」に肖って「萬」の一字を加えたロゴとし、「きっこうもん」+「まん」で社名をキッコウマンにしています。キッコウマンの醤油を食すると長寿につながりそうな有難い名前です。外国では、“Soy sauce”=キッコウマン醤油と思っている人も少なくないほど多くの人に愛されています。因みに、キッコウマンの関連会社であるヒゲタ醤油の創業地(千葉県銚子市)には上述の高家神社から料理の神様が分祀され、毎年、高家神社(神様)にヒゲタの醤油が奉納されています。ヒゲタ醤油は料理の神様も食する由緒正しき醤油なのです!宮内庁御用達の醤油はキッコウマン、神様御用達の醤油はヒゲタ醤油という訳ですな。ヒゲタ醤油のロゴは会社のマークである入山田紋の“田”の字の四隅に“ヒゲ”をつけたものですが、これはヒゲタ醤油の創業者の夢枕にヒゲの仙人が現れて醤油造りに適した水源を教えてくれたことを感謝するためだそうで、そこから「ヒゲ」+「田(タ)」で社名をヒゲタ醤油にしています。やはりヒゲタ醤油は神懸っていますな。拝みたくなります。


1〜2枚目:相棒のハーレーと共にデカ盛りの聖地「やより食堂」の外観と有名人の色紙が並ぶ店内。3枚目:デカ盛りのカツ丼。4枚目:キッコウマンの醤油工場。

お屠蘇(おとそ)気分に浸る寝正月ほど幸せな時間はありません。お屠蘇とは“病をもたらす鬼(蘇)”を“退治する(屠)”という意味で、一年の邪気を払って長寿を願うために飲む縁起物の酒(日本酒+屠蘇散+本みりん)です。こよなく酒を愛し“義”に生きた戦国武将・上杉謙信は「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒」(我が人生は一睡の夢のようなものだ。この世の栄華は一盃の酒のように儚い。)という辞世の句を残していますが、ようやく僕もこの心境が分かる年代に差し掛かってきました。同じ儚い人生であれば、せめて芸術に浸り人生に酔って生きて行きたいものです。酔ひて候ふ..。

最後に、自分の頭を整理するためにも、今年がアニバーサリー(但し、50年刻み)となる芸術家(但し、ビックネームのみ)等をピックアップしておきます。今年は申(猿)年ですが、「能楽」は「申楽」から発展した芸能で、世阿弥は「申楽」の名前の由来について芸能論「風姿花伝」において「神といふ文字の偏を除けて、旁を残し給ふ。是、日暦の申なるが故に、申楽と名づく。」と述べています。古来、申(猿)は神に仕える動物とされ(能楽は呪術的な性格があり神に奉納され)、また、物真似芸から発展した芸能であることから物真似が上手な申(猿)が名前に用いられたとも考えられています。申(猿)年の機会に改めて能楽書を紐解き、日本文化(能楽など舞台芸能を育んできた因習、宗教(思想)、日本人の由緒等を含む)について考え直してみたいと思っています。

【生誕100年】

【没後100年】

【生誕150年】

【生誕200年】

【没後200年】

【生誕300年】

【没後400年】

【没後500年】

【その他】

【今春公開予定の映画】

◆おまけ
日本では新年に因んだ曲が数多くありますが、西洋ではクリスマスに因んだ曲は数多いのですが新年に因んだ曲が非常に少なく、メジャーなところでは僅かに新年又はその次の日曜日に教会で歌われるバッハのカンタータ(BWV16、41、58、 143、153、171、190)等があるだけです。そこで、敢えて、西洋の新年に因んだ曲の中からバッハのカンタータ第16番「主なる神よ、われら汝を讃えまつる」(BWV16)をどうぞ。

今年没後500年を迎える観世信光と生誕300年を迎える与謝蕪村にゆかりの地を訪ねてきました。(興味のない方はスルーして下さい。)

【マメ知識①:能「遊行柳」】
時宗十九代尊晧上人が地方巡教の際に朽木の柳の精が老翁となって現れたので念仏を唱えたところ成仏したという伝説がありますが、西行がこの伝説の朽木の柳を訪ねた折に「道のべに 清水流るゝ柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」(新古今集山家集)と和歌を詠み(松尾芭蕉与謝蕪村等の歌人も遊行柳を訪れ、歌を詠んでいます。)、後年、この和歌を題材として観世信光が能「遊行柳」を創作しています。なお、観世信光作の曲には能「船弁慶」など源義経伝説を題材としたものもあります。因みに、「遊行」とは仏教の僧侶が布教や修行のために全国各地を巡り歩くことで時宗開祖の一遍上人 のことを遊行上人とも言い、神奈川県藤沢市には時宗総本山「遊行寺」時宗四代呑海上人が開基)があります。遊行寺には、歌舞伎「當世流小栗判官」浄瑠璃小栗判官車街道」などの題材となった小栗判官と照手姫の墓もありますので、別の機会に動画をアップします。

【マメ知識②:源頼朝源義経
1180年 8月 源頼朝が平家打倒のため挙兵。石橋山の戦いで平家方に敗れて真鶴(神奈川)から安房勝山へ船で敗走(能「七騎堂」の題材)
1180年 9月 源頼朝安房で再決起
1180年10月 源頼朝富士川の戦いで平家軍に勝利し、源義経が黄瀬川で頼朝と対面
1184年 源義経が一の谷の戦いで平家に勝利し、源義経が朝廷より検非遺使を拝命(これが源頼朝の不興を買う)
1185年 源義経屋島の戦いで平家に勝利那須与一の扇の的のエピソード)し、壇之浦の戦いで平家滅亡。その後、源義経源頼朝との不和により奥州藤原氏を頼って逃避行(能「吉野静」、能「船弁慶」の題材)
1186年 源義経が奥州入りし、西行東大寺大仏再建のための砂金勧進で奥州入り(鎌倉に立ち寄って源頼朝に謁見した後、小野小町と山辺赤人のゆかりの地(千葉県東金)「上総国山田村貴船大明神縁起」より)、その直ぐ近傍にある当時は景勝地として名高かった勝間田の池(千葉県佐倉市)を経由し(江戸時代の国学者平田篤胤の門人の宮負定雄が著した「下総名勝図絵」より。なお、千葉県船橋市にも勝間田の池がありましたが、上記の著書には西行が千葉県佐倉市勝間田の池に立ち寄って歌を詠んだと記されています。当時は京都の“勝間田の池”に肖って風光明媚な池に同じ名前をつけることが多かったようで、さしずめ現代でいうところの“銀座通り”のような名称だったのでしょう。因みに、歌道の大家として知られる冷泉家の祖、冷泉為相藤原定家の孫で当時の幕府があった鎌倉に別宅を構え、鎌倉の浄光明寺に墓があります。)も千葉県佐倉市の勝間田の池で歌を詠んでいます。)、そこから真っ直ぐに北上して栃木県芳野の遊行柳に立ち寄って詠んだ和歌が能「遊行柳」の題材)
1189年 源義経が藤原泰衝に急襲されて自害し、源頼朝奥州合戦奥州藤原氏勝利して奥州藤原氏滅亡

※ 能「船弁慶」と能「遊行柳」はいずれも観世信光の代表作で一見すると全く関係のない曲目に思われますが、同じ時代に同じ場所に関連する史実を基に創作された詩劇で、白河(福島)から那須(栃木)にかけての一帯は多くの物語を生んだ歴史が交錯する場所なのです。これまで何度も訪れている場所ですが、この土地に深く刻まれた歴史に思いを馳せながら、この地を訪れた西行ら古人も見たであろう景色と同じ景色を眺めつつその心情に心を寄せてみると、何やら感慨深いものがあります。

未来へと紡ぐ平和への想い・・・映画「海難1890」、映画「杉原地畝 スギハラチウネ」、映画「陽光桜−YOKO THE CHERRY BLOSSOM−」、歌「ハナミズキ」


メリークリスマス♪今年も子供達に夢を運ぶ...Harley-Davidson

今年の干支は「羊」ですが、羊年の最後を飾るに相応しい「義」に生きた人々の生き様を描いた心洗われる以下の3本の映画に出会いました。古く羊は宗教上の儀式において神への生贄として捧げられてきた習慣があり、キリスト教では贖罪のために神(天)から遣わ(降誕)されたイエス・キリストのことを「神の仔羊」といいますが、昔から「羊」は犠牲を象徴する生き物とされ、(今年正月のブログ記事でも書いたとおり)「羊」と「我」を組み合わせて自己犠牲を意味する「義」という文字が生まれています。この3本の映画に描かれている人達の生き様を通して自分にとっての「義」とは何なのかを考えさせられ、自分の人生を見詰め直す良い契機になった心に残る映画です。今年はこの映画3本を観ることができただけでも、僕の人生にとって有意義な1年であったと言えるような気がしています。

映画「海難1890」
http://www.kainan1890.jp/
映画「杉原地畝 スギハラチウネ」
http://www.sugihara-chiune.jp/
映画「陽光桜−YOKO THE CHERRY BLOSSOM−」
http://www.movie-yoko.com/

今年は戦後70年という節目でもあります。俗に戦争の傷跡は半世紀残ると言われていますが、先の世界大戦から半世紀以上の時を経て日常生活の中で「戦後」という言葉があまり使われなくなって久しく、先の世界大戦は現代の我々にとってもはや”痛み”を感じない「歴史」として過去に葬られ、実感を伴って語られる機会は少なくなりました。この3本の映画は、戦後70年という節目に、これまで我々が歩んできた戦後史を振り返り、現代の我々が新たに直面している問題を考えさせてくれるという意味でも色々な人(とりわけこれからの時代を担って行く若い人)に是非観て貰いたい映画です。なお、この3本の映画とのつながりで後述しますが、シンガーソングライターの一青窈さんがアメリカ同時多発テロ事件(9.11)の犠牲者の鎮魂のために作った歌「ハナミズキ」の歌詞には、この事件の犠牲者に代わって世界の平和と我が子の幸せを願う(父親の)気持ちが切々と歌われており、この曲を聴く度に父親世代の僕にとって胸が締め付けられるほど切なくなり平和への想い(”痛み”)を呼び覚ましてくれます。この3本の映画と歌「ハナミズキ」のそれぞれに込められた想いを胸に、街を行き交う子供達の笑顔を眺めながら、この笑顔を永遠に絶やさないために、いま我々大人が何を心掛けなければならないのか、そんなことばかりを考えています。

歌「ハナミズキ」(一青窈
http://j-lyric.net/artist/a000624/l002435.html

…ということで、この3本の映画と歌「ハナミズキ」について簡単に感想を残しておきたいと思います。

【題名】海難1890
【監督】田中光
【脚本】小松江里子
【出演】田村元貞役 内野聖陽
    ムスタファ/ムラト役 ケナン・エジェムスタファ
    ハル/春海役 忽那汐里
    ベキール役 アリジャン・ユジェソイ
    お雪役 夏川結衣
    野村役 永島敏行
    藤本源太郎役 小澤征悦
    サト役 かたせ梨乃
    工藤役 竹中直人
    佐藤役 笹野高史
    オザル首相(トルコ共和国)役 デニズ・オラル     ほか多数
【劇場】成田HUMAXシネマズ 1,300円
【感想】ネタバレ注意!
この映画は、1890年に日本人の義がトルコ人を救った実話(エルトゥールル号海難事故)と、その約100年後の1985年にトルコ人の義が日本人を救った実話(テヘラン邦人救出劇)から作られています。1889年、オスマン帝国が日本への親善使節団としてエルトゥールル号を派遣しますが、翌年、その帰路に台風に遭遇して紀伊大島沖に座礁し沈没します。紀伊大島(和歌山県串本町)の島民たちは台風のなか命懸けでエルトゥールル号の乗組員を救出して負傷者の手当を行いますが、生存者は69名のみで残り587名は殉死するという大海難事故となりました。島民は毎日漁に出なければ食料にも事欠く貧民でしたが、それでも島民は何日も漁を休んで生存者の世話に努め、自らは飲まず食わずで生存者に食料を与えて看護に尽くします。やがて生存者は神戸に搬送され、ドラマ「坂の上の雲」でも知られる秋山真之らが乗船する日本海軍の船でオスマン帝国へ無事に送り届けられます。


エルトゥールル号

それから約100年後の1985年、イラクが停戦合意を破ってイランに侵攻し、48時間後からイランの上空を飛行する飛行機を無差別攻撃すると声明を発表したため、イランの在留外国人はそれまでに本国へ帰国しようと空港へ殺到します。イランの日本大使館は日本政府に対して在留邦人が帰国するための救援機を派遣するように要請しますが、空路の安全が保障されず国会の承認にも時間が掛かるという理由で救援機の派遣に難色を示します。自国民の救援を優先する諸外国の救援機は日本人の搭乗を拒否し、在留邦人は絶望的な状態におかれます。そこで、日本大使館らが隣国トルコに救援を要請したところ、トルコのトゥルグト・オザル首相(当時)はこれを快く引き受けて救援機を手配すると約束します。これを受けてトルコ航空では救援機のパイロットを募りますが、その場に居た全てのパイロットが危険を顧みずに志願します。無差別攻撃まで時間がないなか、空港には沢山のトルコ人がトルコの救援機を待っていましたが、約500名のトルコ人は危険を顧みずに陸路でイランを脱出することを選択し、215名の在留邦人を優先して救援機に乗せることに賛成します。


イランの在留邦人を救出したトルコ航空の救援機

この映画では描かれていませんが、後日談として、当時の日本ではトルコが自国民よりも日本人を優先して救出した理由が分かりませんでしたが、在日トルコ大使は「エルトゥールル号の借りを返しただけです。」と短く理由を発表しています。トルコではエルトゥールル号海難事故が教科書に掲載され、約100年前に日本人が命懸けでトルコ人を救出したことに対する感謝の気持ちを忘れず教え伝えてきたことがテヘラン邦人救出劇につながりました。一般にトルコ人イスラム教の教義で「おもてなしの精神」が旺盛であり見返りを求めない民族と聞いていましたが、その誠実で義理堅い国民性に感銘を覚えます。中国の五経に「道を以て欲を制すれば則ち楽しみて乱れず」とあり、自分の欲(利)を道(義)によって抑制する成熟した精神を持つことができれば心は整えられて迷うことがなくなると説かれています。今年の大河ドラマ「花燃ゆ」明治維新前後の日本人の生き様を通して日本人の「志」を描いたドラマですが、志とは自分が正しいと信じ、自分が歩むべき道のことであり、志が定まれば自ずから生きる指針(義)が定まり、生き方が定まれば自ずから自制心(欲を制する強い精神力)が生まれるということを教えられたような気がします。トルコ人を助けた明治時代の日本人も、日本人を助けた現代のトルコ人も、その義心が危険を顧みず人としての道を歩むことを迷わせなかったのだろうと思われ、その誇らしく美しい生き様が現代の我々に感銘を与えるのかもしれません。テヘラン邦人救出劇でトルコが在留邦人のために救援機として非武装の民間機をイランへ派遣したことを考えると、自国民すら救出することが侭ならなかった日本の対応には、戦後復興を経て高度経済成長を成し遂げた日本人が「志」を失い、自らの使命(義)を顧みることなく打算や事情(都合)に流されて人生をやり過ごしてきた姿が浮彫りになってしまっているように感じられ、昔の日本人から学び直さなければならないことも多いような気がしています。上述のことは商売にも通じる考え方で「儲けるは欲、儲かるは道」と言いますが、「欲と雪が積れば道を失う」の格言のとおり欲(利)に走って道(義)を失えば、やがて商売は儲からなくなり行き(生き)詰るということだと思います。その意味でも、現代に生きる自分にとっての「義」とは何なのかについて、先ずは自分の身近なところから考え直してみたいと思っています。


エルトゥールル号座礁した沖合いにある紀伊大島の樫野埼灯台

なお、紀伊大島にはエルトゥールル号海難事故の犠牲者を慰霊するためにトルコ軍艦遭難慰霊碑が建立され、5年毎に日本とトルコの共催で慰霊祭が行われると共に、日本とトルコの友好親善の証としてトルコ記念館が建設されています。また、2005年、エルトゥールル号海難事故の犠牲者587名の慰霊と、世界の平和につながる「思いやりの精神」を風化させないために、トルコの植物園に映画「陽光桜」の主人公である高岡正明さんの遺志である平和の願いを込めた陽光桜587本が植樹されています。さらに、2015年11月からターキッシュ・エアラインズ(トルコ航空)では関西〜イスタンブール間で当時の機体デザインを施した特別機“KUSHIMOTO号”エルトゥールル号海難事故があった和歌山県串本町から命名)を就航し、日本とトルコの人々の平和で幸せな世界への想いをつないでいます。因みに、トルコ料理は、フランス料理、中華料理と共に世界三大料理に挙げられますが、トルコでは食後等にトルココーヒー(世界文化遺産登録)を飲む習慣があるほどコーヒーが愛飲され、世界で最初にコーヒーハウス(喫茶店)ができたのもトルコのイスタンブールです。昔、ヨーロッパではコーヒーは「悪魔の飲み物」として忌避されていました(∴キリスト教ではキリストの血を象徴する赤い飲み物であるワインが神聖な飲み物とされ、イスラム教徒はその教義により酒(ワインを含む)を飲めないので悪魔から黒い飲み物であるコーヒーを与えられたと揶揄されていました)が、1600年頃、コーヒーにすっかり魅了されてしまったローマ教皇がコーヒーに洗礼を施してキリスト教徒がコーヒーを飲むことを公認したとわれています。このような経緯を経て、トルコでコーヒーを飲む習慣がヨーロッパ全土に広がり、それがアメリカ大陸に渡って世界に広がったと言われています。脱線ついでに、トルコでは、日本と同様に靴を脱いで家に入り椅子ではなく床に座る習慣があり、冬場には“こたつ”で暖をとります。また、洋式のトイレのほかに日本の和式トイレと同じスタイルのトルコ式トイレというものがあり、その国民性ばかりではなく生活様式も日本との共通点が多いように感じられます。もう直ぐ卒業旅行シーズンですが、この機会にトルコを旅行してトルコの人々と触れることで、現代の日本人が失いかけている義について考え直してみることも(人生の航海を誤らないために)有意義かもしれません。

海難1890 (小学館文庫)

海難1890 (小学館文庫)

【題名】杉原千畝 スギハラチウネ
【監督】チェリン・グラック
【脚本】鎌田哲郎
    松尾浩道
【出演】杉原千畝役 唐沢寿明
    杉原幸子役 小雪
    グッジェ役 シェザリ・ウカシェヴィチ
    ペシュ役 ボリス・シッツ
    イリーナ役 アグニェシュカ・グロホウスカ
    ニシェリ役 ミハウ・ジュラフスキ
    大島浩役 小日向文世
    大迫辰雄役 濱田岳
    根井三郎役 二階堂智     ほか多数
【劇場】イオンシネマユーカリが丘 1,800円
【感想】ネタバレ注意!
この映画は、日本の外交官・杉原千畝さんがナチスの迫害を受けるユダヤ人を救うために“命のビザ”を発給してその命を救ったという実話をもとに作られています。1939年、杉原千畝さんはリトアニアの日本領事館へ赴任しますが、その直後にドイツとソ連が東ヨーロッパを分割占領するという密約のもと独ソ不可侵条約を締結して、ドイツはポーランドを侵攻し、ソ連リトアニアを含むバルト三国を併合すると宣言します。ナチスの迫害を逃れてポーランドからリトアニアへ来たユダヤ人はドイツと同盟を結んだソ連からも逃れるためにリトアニアからの脱出を試み、日本を経由してナチスの影響が及ばないアメリカ、カナダや上海へ脱出することを望んで日本領事館にビザの発給を求めます。杉原千畝さんは日本政府からビザの発給を禁止されていましたが、ソ連によるバルト三国の併合を目前に控えてビザの発給を求め群がるユダヤ人の窮状を見兼ねて身の危険を冒して2139枚のビザを発給して約6000人のユダヤ人の命を救います。ウラジオストックの日本領事館・根本三郎さんは杉原千畝さんが発給したビザを持っているユダヤ人を日本行きの船に乗船させないようにとの日本政府の指示を無視してユダヤ人を乗船させる決断をし、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現、JTB)の大迫辰雄さんや日本郵船等の協力を得て数千人のユダヤ人を日本へ運ぶことに成功し、杉原千畝さんが発給したビザがユダヤ人の命の灯を灯し続けることになります。その陰にはリトアニアの日本領事館秘書・グッジェや諜報員のイリーナといった(ユダヤ人を迫害又は冷遇していた当事国の)ドイツ人やロシア人の血の流れを汲む人々の献身的な協力があったことを見逃すことはできず、人種を超えて多くの人々が各々の置かれた立場で各々の使命(義)を全うしたことが数千人のユダヤ人の命を救うことにつながったのだと思います。なお、ユダヤ人のニシェリ役を演じるミハウ・ジェラフスキさんは杉原千畝さんからビザの発給を受けるシーンで“命のビザ”(これらの人々の義)の重さを言葉ではなく目で表現する好演を見せています。


杉原千畝さんが発給した命のビザ

この映画では描かれていませんが、後日談として、学者の小辻節三さんは、杉原千畝さんが発給したビザで許される日本での滞在日数が僅か10日間であったことからユダヤ人の窮状を救うべく「義を見てせざるは勇なきなり」(孔子)という覚悟で日本政府との交渉にあたりユダヤ人の長期滞在を可能にするなどユダヤ人のために奔走します。後年、これが原因で小辻節三さんは憲兵隊から激しい拷問を受け、ユダヤ人の友人を頼って満州へ逃れます。折しもソ連が日ソ不可侵条約を破って日本への侵攻を開始し大陸に残された数多くの日本人がシベリアに抑留されますが、今度は小辻節三さんがユダヤ人の友人にかくまわれてソ連軍による連行を免れます。この映画の中で杉原千畝さんと根井三郎さんが日露協会学校で学んだ「人のお世話にならぬよう。人をお世話するよう。そして、報いを求めぬよう。」(後藤新平)という教えを反芻するシーンが出てきますが、映画「利休にたずねよ」千利休が「茶の湯の大事とは、人の心に叶うこと」と弟子を諭すシーンを思い出します。この教えは茶の湯の道ばかりではなく、一般に人を思いやるということにも通じる考え方ではないかと思います。「思いやり」という言葉は“思い”と“遣(や)る”から成り立っていますが、この2つの言葉が示すとおり、自らの心に寄り沿うように人に“思い”を“求める”(報いを求める)のではなく、茶の湯の道と同様に、人の心に寄り沿うように自ら“思い”を“遣る”(心を配る)ことを意味しており、これは「おもてなし」の精神にも当て嵌まると思います。このような偉人伝に接すると、現代と比べて昔の日本人は何か見返りを求めることなく自らの使命(義)を全うすることを信条(プリンシプル)として生きていた人が多く、人を思いやることができる強く豊かな心を持っていたように感じられます。人を思いやることができる人間は、自ら(やその子孫)も人から思いやられ、その連鎖が人々の心に義を育み、より平和で幸せな世界を築くための礎となることを改めて教えられた気がします。


オペラ「人道の桜」〜杉原千畝物語〜

なお、2001年、杉原千畝さんの夫人・幸子さんと有志らが映画「陽光桜」の主人公である高岡正明さんの遺志を継いでリトアニア(杉原通り、ネリス河畔、旧日本領事館)に平和の願いを込めて陽光桜を植樹しています。また、2015年、オペラ「人道の桜」〜杉原千畝物語〜(脚本:新南田ゆり、作曲:安藤由布樹)がリトアニア世界初演され、杉原千畝さんらが灯した命の灯に平和の花を結ぶ活動が続けられています。

杉原千畝 (小学館文庫)

杉原千畝 (小学館文庫)

【題名】陽光桜−YOKO THE CHERRY BLOSSOM−
【監督】高橋玄
【脚本】高橋玄
【出演】高岡正明役 笹野高史
   (青年時代の高岡正明役 ささの翔太)
    高岡艶子(妻)役 風祭ゆき
    高岡正堂(息子)役 的場浩司
    高岡恵子(嫁)役 宮本真希
    近藤太一役 野村宏伸
    近藤静役 川上麻衣子     ほか多数
【劇場】丸の内TOEI 1,800円
【感想】ネタバレ注意!
この映画は、先の世界大戦中に教員を務めていた故・高岡正明さん(愛媛県出身)が「またこの桜の木の下で会おう」と約束して数多くの教え子達を戦地に送ってしまったことを心から悔い、二度とこのようなことを繰り返してはならないという悲壮な決意から戦死した教え子達の鎮魂と世界平和の願いを込めて桜の新品種開発に取り組んだ実話をもとに作られています。当時、植物遺伝学上、人工受粉(花粉交配)で桜の新品種を開発することは不可能とされていましたが、高岡正明さんは自分の教え子達が命を散らした世界各国の厳しい気候条件でも美しい花を咲かせることができる桜を作ることを決意して私財を投じて桜の新品種開発に取り組み、約30年に及ぶ試行錯誤の末に桜の新品種登録第一号となる「陽光」を生み出しました。高岡正明さんは陽光桜の苗木を自分の教え子達が命を散らした国をはじめとして世界各国へ無償で配り、自分の教え子達が散らした命を再び平和の花として世界各国で咲かせるための活動に取り組みます。やがて高岡正明さんの想いが花を結び、高岡正明さんの元には陽光桜の苗木を配ったローマ法王ほか世界の要人をはじめとして世界各国(日本とは気候条件が異なる様々な国)の人々から陽光桜が花を咲かせたという感謝の手紙が届くようになります。この映画では戦中から戦後の様々な出来事を背景としてそんな高岡正明さんの半生が描かれていますが、いまも高岡正明さんの想いは世界の人々の心に平和の花を咲かせ続けています。なお、笹野高史さんは、高岡正明さんが悲しい経験によって周囲の人々に影を落とすのではなく周囲の人々を笑顔に変えながらどんな困難に直面しても世界の人々の心に平和の花を咲かせるという志を曲げることなくその信念を貫いた大らかな人柄と直向な生き様を円熟味ある演技で好演しています。また、的場浩司さんは、父の志に理解を示しながらも現実の問題に直面して苦悩し、その向こう見ずとも言えるほどの情熱に戸惑う高岡正堂さんの姿を熱演し、これによって高岡正明さんの直向な生き様が一層と際立っています。高野正明さんが映画の中で「天に徳を積んでるけん」と言っていた台詞が印象深いですが(単に葬儀費用のことだけを意味しているのではないと思いますが)、何か見返りを求めるのではなく自らの使命(義)を全うすることに生涯を捧げた人の生き様に触れ、我々と同時代をこれだけ大きな人物が生きていた事実に驚かされます。


陽光桜

2001年9月10日、高岡正明さんはその使命を全うされて永眠しますが(享年92歳)、その翌日、世界を震撼させたアメリカ同時多発テロ事件が発生し、世界は「戦後の冷戦」(イデオロギーの対立)から「テロとの戦い」(報復の連鎖)という新しい時代へと突入していきます。この映画は「テロとの時代」に直面した現代の我々に対して、高岡正明さんが陽光桜に込めた平和への想い(遺志)を受け継いで行けるのか、即ち、高岡正明さんが世界の人々の心に咲かせた平和の花を絶やすことなく、これからもより多くの人々の心に平和の花を咲かせていかなければならないというメッセージを投げ掛けているように感じられ、先日のフランス同時多発テロで犠牲になられた皆様のご冥福を衷心よりお祈りすると共に、僕らの世代で報復の連鎖を断ち切っていかなければならないという想いを強くしています。これだけ複雑に組織化された社会に生きていると我々1人1人に大きなことはできないかもしれませんが、我々1人1人が置かれている立場で各々の使命(義)を全うして行くこと、その日常の小さな積み重ねが我々の子供達の世代に本当に平和で幸せな世界を残して行くことにつながると信じたいですし、この3本の映画はそのことを教えてくれているような気がします。

陽光桜 非戦の誓いを桜に託した、知られざる偉人の物語

陽光桜 非戦の誓いを桜に託した、知られざる偉人の物語

歌「ハナミズキ」は、一青窈さんがニューヨークの友人からアメリカ同時多発テロ事件(9.11)の真実を知らされ、この事件の犠牲になった父親が子供との別れを惜しみ、その幸せを願う気持ちを平和への祈りと共に歌詞に込めて作った曲です。この歌詞の解釈は聴く人によって色々とあって良いと思いますが、この歌詞に用いられている比喩や全体の構成などは本当に良く考えられていて、これほど人々の想いと平和への祈りを切々と歌い上げている曲は珍しいのではないかと思います。歌詞の冒頭から“過去(永遠に続くはずだった幸せ)”と“現在(一瞬にして奪われた幸せ)”という時間軸で「空を押し上げて」(広く清々しい五月の青空)と「水際まで来てほしい」(狭く薄暗い瓦礫の下)という正反対の境遇を対置することで、この事件が人々の幸せを一瞬にして奪い去った悲劇性と人々の無念を歌い、瓦礫の下に埋もれた父親が子供に最後の想いを伝えたいという気持ちで「水際まで来てほしい」と哀願する切なさに胸が締め付けられるような思いがします。これに続いて、“現在(一瞬にして奪われた幸せ)”と“未来(永遠に続くことを願う子供の幸せ)”という時間軸で「水際まで来てほしい」と「どうぞゆきなさい」「知らなくてもいいよ」という一見矛盾するような父親の気持ちを対置することで、“この溢れるような想いを最後に伝えたい、でもそれは叶えられそうにないからただ子供の幸せだけを願う”という父親の愛の深さが胸に響いてきます。子供の幸せと世界の平和を願いながら死んでいった父親の想いがハナミズキに託して切々と歌われている心に染みる名曲で、いつもこの曲を聴きながら平和への祈りと共にこのような悲劇が繰り返されることのない世界を僕らの子供達の世代に残さなければならないという想いを新たにしています。戦後70年という節目に上記の3本の映画を観たことで、その想いを改めて強くしています。君と好きな人が百年続きますように...。


ハナミズキ(花水木)

」=アメリカ同時多発テロ事件(9.11)の犠牲になった父親
」=その子供
水際」=あの世とこの世の境(ニューヨークはウォーターフロントの都市)
ハナミズキ」=5月の花(母の日に咲く花)、花言葉:永遠、私の想いを受けて下さい
」=幸せの予兆(ハナミズキへと舞う蝶)

【過去】庭に咲く5月の花“ハナミズキ”と共に蘇る君との幸せな想い出
空を押し上げて
手を伸ばす君 五月のこと

【現在】いまは瓦礫の下に埋もれてしまった僕の君に伝えたい最後の想い
どうか来てほしい
水際まで来てほしい

夏は暑過ぎて
僕から気持ちは重すぎて

【未来】もう僕の想いは君に伝えられないけれど君の幸せだけを願う
ひらり蝶々を
追いかけて白い帆を揚げて

どうぞゆきなさい
お先にゆきなさい

待たなくてもいいよ
知らなくてもいいよ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【僕の果せなかった想い】いま君と一緒に咲かせようと思っていた幸せはつぼみのまま(ちゃんと終わらないまま)で潰えてしまうけれど、どうか君には僕の分まで幸せになって欲しい
つぼみをあげよう
庭のハナミズキ

【平和への祈り】僕の犠牲によって報復の連鎖(波)が止まりやがて世界に平和が訪れることを祈る
僕の我慢がいつか実を結び
果てない波がちゃんと
止まりますように

【君の幸せを願う】そして庭にハナミズキが咲いて君の幸せが永遠に続くことを願う、そのときは僕に代わってその幸せの一部を君の母にも届けてやって欲しい
果てない夢がちゃんと
終わりますように
君と好きな人が
百年続きますように

母の日になれば
ミズキの葉、贈って下さい

世阿弥が著した日本最初の芸能論「風姿花伝」の中で、その書名の由来について「その風を得て、心より心に伝ふる花なれば、風姿花伝と名づく」と書き記していますが、映画「陽光桜」と歌「ハナミズキ」は花に託した平和への祈りが(これらの花を愛でる人はもとより)この映画を観る人、この曲を聴く人の心に平和の花を咲かせるという意味で「心より心に伝ふる花」と言えるかもしれません。

◆おまけ
映画「シンドラーのリスト」のテーマ曲をパールマンの情感豊かな演奏でどうぞ。

戦後70年の節目にこちらの映画もいかが。

ちょっと湿っぽくなってしまいましたのでお口直しに、バッハの世俗カンタータから「コーヒー・カンタータ」(BWV211)をどうぞ。コーヒー党の娘とアンチ・コーヒー党の父親が言い争う曲です。因みに、バッハはコーヒー党でした。

トルコへのオマージュとしてトルコ行進曲をJAZZYなテイストにアレンジしたファジル・サイ編曲版を、ピアニスト白川優希さん(しらてぃー)による即興感のある小粋な演奏でお楽しみ下さい。

陽光桜とハナミズキに因んで、西行の墨染桜(千葉県東金市)をご紹介します。百夜を超えて千夜に亘り、桜の花びらと共に運ぶ深草少将の儚い想い...。

【マメ知識:百夜通い伝説と西行の墨染桜】
小野小町仁明天皇の更衣として宮仕えし、六歌仙の一人として数多くの和歌を残しています。絶世の美女と言われ、数多くの男性から求愛されますが、これを頑なに拒み続け、晩年は京都山科に隠棲したと言われています。小野小町には数多くの伝説が残されていますが、その中でも能「通小町」や能「卒塔婆小町」等の題材になっている百夜通い伝説が有名です。

小野小町に深く思いを寄せる深草少将は小野小町に熱心に求愛していましたが、その直向きで一途な想いに心動かされた小野小町は「百夜、私のもとに通い続けたら貴方と契りを結びましょう」と約束し、深草少将は自らが住む深草(現、欣浄寺)から小野小町が住む山科(現、随心院)までの約5kmの道程(現、京都府道35号線)を毎晩通い続けました。小野小町は深草少将が毎晩1個づつ置いて行くカヤの実を数えて百夜目を待ち焦がれますが、九十九日目の雪の日に深草少将は寒さと疲労のためにカヤの実を手にしたまま死んでしまいます。小野小町はあと一夜を残して想いを実らせることができなかった深草少将の死を心から悲しんで、深草少将が通った道すがらカヤの実を蒔いたところカヤの木が育ち、毎年、カヤの実(深草少将が九十九夜運んだ小野小町への直向きで一途な想い)を実らせたと言われており、その1つが随心院の周辺に小町カヤ(樹齢約1000年)として残されています。

百夜通いの伝説から約300年後に西行東大寺再建のための砂金勧進に奥州藤原氏を訪れる途中で小野小町山辺(部)赤人のゆかりの地(上総国と呼ばれていた千葉県東金市は、小野小町の出身地で、山辺(部)氏の領国)に立ち寄り、深草少将が住んでいた京都深草にある墨染桜の枝を小町小町のゆかりの地と向かい合う丘陵に植樹して「深草の 野辺の桜木 心あらば 亦この里に すみぞめに咲け」と詠んでいます。"心あらば"...それから約800年後に現代の我々が西行が立ったであろう場所と同じ場所に立って今も美しい花を咲かせる墨染桜を眺めながら、西行がこの地に立ち寄って墨染桜を植樹したその心に想いを馳せてみると、百夜通いで儚く散った深草少将の想いが千年の時を経て今もなお絶えることなく墨染桜に美しい花を咲かせ、百夜を超えて千夜に亘り、その花びらと共に深草少将の想いを小野小町のもとに運び続けているように感じられ、その歴史ロマンに想いを馳せる現代の我々の心にも美しい花を咲かせてくれます。これも「心より心に伝ふる花」と言って良いかもしれません。因みに、千葉県東金市の墨染桜は京都深草の墨染桜と同じ品種のウバヒガンです。ウバヒガンは全国でも珍しい品種で、国の天然記念物に指定されています。なお、千葉県東金市の墨染桜は、同人ゲーム『東方妖々夢』の6面ボス 、西行寺幽々子のテーマ曲「幽雅に咲かせ、墨染の桜〜Border_of_Life」としてゲーム音楽にもなっています。

◆おまけのおまけ
ボーイソプラノの透徹な響き、神が仔羊に恵み給うた天上の調べ。心静かにクリスマスを祝いましょう..(u_u#)

クラシックミステリー 名曲探偵アマデウス「ホルスト“惑星”」

【題名】クラシックミステリー 名曲探偵アマデウスホルスト“惑星”」
【放送】NHK−BSプレミアム
    平成21年7月19日(日)20時00分〜20時30分
【司会】筧利夫
    黒川芽以
    山口龍人
【出演】野本由紀夫(玉川大学教授)
    小鍛冶邦隆(東京藝術大学教授)
    平原綾香(歌手)
    NHK交響楽団(指揮:シャルル・デュトワ
    読売日本交響楽団(指揮:パオロ・カリニャー)
【感想】
今日7月4日はアメリカの独立記念日(インディペンデンス・デイ)です。ご案内のとおり、イギリスによって統治されていたアメリカの13植民地がイギリスとの独立戦争を経て1776年7月4日に独立宣言を採択したことを記念しています。因みに、アメリカ独立当時の星条旗に星が13個、赤白の条が13本あるのは13植民地を表していますが、そのアメリカ独立宣言の中で最も重要な部分である自然権思想が盛り込まれている日本国憲法の規定もその条数は13条となっています。なお、メル・ギブソンが主演する映画「パトリオット」では独立戦争の様子をかなり克明に描いていますのでご興味がある方はどうぞ。

【The Declaration of Independence】(アメリカ独立宣言)
“all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.”(すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由及び幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている。)

日本国憲法
「第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

因みに、映画「7月4日に生まれて」という作品がありましたが、個人的には7月4日は大型自動二輪(750cc以上のバイク)の検定に合格した日として僕の第二の誕生日とも言うべき記念日なのです。僕が初めて買ったバイクはアメリカ製のハーレーダビッドソンですが、アメリカ大陸(ルート66号)を横断するためのバイクとして開発され、単なるマシーン(工業製品)ではなく、アメリカのカウボーイ文化が息衝くアメリカのモーターカルチャーそのものを体現しているバイクと言っても過言ではないと思います。


まるで疾駆する駿馬のような流線形のフォルム(ハーレーダビッドソン FLSTF)

西部劇に登場するカウボーイアメリカ開拓時代の象徴として昔はアメリカ人男性の憧れの職業でした。その名称からも明らかな通り、アメリカ大陸の南部から中部に生息していた野生の牛を駆り集め、それら牛の大群を馬と幌馬車を連ねて追いながら西部や東部のマーケットに運ぶこと(ロング・ドライブ)を生業としていましたが、そのファッション(ジーパン、カウボーイブーツ等)や風俗習慣等が現在のアメリカの文化に色濃く影響を与えています。バイクについても同様で、ハーレーダビッドソンに代表されるアメリカン・バイクはホースバック・ライディング・スタイル(ハンドルを馬の手綱、ステップを馬の鐙と見立て、まるで馬に跨るように手と足を前に投げ出して乗車)でバイクに跨り長距離をゆったりと走ることに適したバイクと言われ、宛らロング・ドライブするカウボーイの「鉄馬」(アイアン・ホース)と言った様相を呈しています。実際、ハーレーダビッドソンのエンジン音は馬の蹄の音(パッパカ、パッパカ=ドッドド、ドッドドという3拍子)になっています。そう言えば、グリーグ組曲「ホルベアの時代より」(作品40)の前奏曲の冒頭は弦が草原を駆け抜ける駿馬の足音のように3拍子の爽快なリズムを刻んで疾駆しますが、ハーレーダビッドソンのエンジンが奏でる3拍子の鉄馬のサウンドを連想させます。これに対し、BMWなどのヨーロピアン・バイクはヨーロッパの伝統的馬術「ブリティッシュ馬術」(牛を追い縄を投げるカウボーイの馬術ウェスタン馬術」とは特徴を異にするヨーロッパ貴族のスポーツ競技のための馬術)を思わせるように前傾姿勢でバイクに跨り高速で走ることに適したバイクと言えるかもしれません。このように、ハーレーダビッドソンを代表するアメリカン・バイクにもカウボーイ文化が色濃く影響していると言えそうです。個人的な信条としてバイクは生き様で乗るものだと思っていますが、ハーレーダビッドソンには富や栄誉や愛する女達を捨て、心の自由を求めて人生の旅を続けた西部の男達(カウボーイ)のロマンのようなものが息衝いている気がします。そういう意味で、7月4日は僕にとって人生の独立記念日を意味しているかもしれません。

ハーレーダビッドソンのエンジン音(鉄馬のサウンド

グリーグ組曲「ホルベアの時代より」(作品40)から前奏曲

【楽譜】冒頭18小節目までの3連符
http://javanese.imslp.info/files/imglnks/usimg/1/12/IMSLP322046-SIBLEY1802.23219.ff44-39087009523871score.pdf

なお、余談ですが、上述したとおりハーレーダビッドソンアメリカ大陸(ルート66号)を横断するためのバイクとして誕生しましたが、ルート66号がアメリカのファーストフード文化(ルート66号を往来しながら手軽にとれる高カロリーな食事)を生んだと言われており、例えば、1948年カリフォルニア州サンバナディーノのルート66号沿いでマクドナルド兄弟が「スピーディーサービス」を売りにしてマクドナルド第1号店を開店しています。日本では江戸時代の頃から江戸の町並みに屋台が立ち並び、立ち食いの蕎麦屋、寿司屋やおでん屋などが営業していたと言われていますが、気の短い江戸っ子が手っ取り早く食事を済ませるためのファーストフードとして、その歴史はアメリカよりも古いと言えるかもしれません。

マクドナルド発祥の地

この夏にバイクや車の免許を取りたいという方には、千葉県の津田沼自動車教習所がお勧めです。マイスケジュールコースというユニークな制度があり、通学でも合宿並みの早さ(バイクの免許なら1〜2週間程度)で免許が取れてしまいます。秋の紅葉のシーズンには十分に間に合います!!


上段左から、1〜2枚目:バイクは生き様で乗るもの。心の自由を求めて人生を旅する僕の相棒、ハーレーダビッドソン(ヘイテイジ・ソフティル・クラシック)。上述のとおりアメリカ大陸(ルート66号)を横断するための乗り物として誕生したので、日本のバイクと比べてスケールが大きく、白バイの約2倍の排気量と重量があり、太いトルクで“ドドドド”と地を割くような排気音で走るのが特徴です。これだけ大きな暴れ馬になると腕に覚えのある男性でも持て余し気味ですが、最近は日本でも女性のハーレー乗りが増えそのエレガントな乗り姿は本当にカッコイイです。よく夏は暑くないかと聞かれることがありますが、バイクは全身に風を受けながら走る乗り物なので、さながら強力な扇風機にあたっているようで全身に風が廻りカラッとしてとても清々しいです。3〜4枚目:カウボーイのロング・ドライブに適したドッシリとしたシート。本物の馬の鞍と比較すると殆ど同じ形状をしているのが分かりますが、人間工学に適した形状と言えるかもしれません。5枚目:近所の牧場の馬。千葉県はサーフィンの発祥の地としても知られていますが(プロサーファーとして有名なマイク真木さんも千葉県在住)、乗馬場が多く乗馬が盛んな土地柄でもあり、波ばかりではなく馬やバイクに乗る人も多く人生を謳歌している人達が住む魅力的な県なのです。自分の人生を魅力的にできない人にどうして良い仕事ができましょう。良い仕事人は同時に良い遊び人でもあります。因みに、剣豪の塚原卜伝で有名な鹿島神宮には鹿が飼われていますが、その昔、鹿島神宮の祭神が鹿に乗って春日大社に渡り(実際には鹿島神宮の鹿が神使として春日大社に贈られたということだと思います)、その鹿が奈良公園の鹿になったと言い伝えられています。鹿は神の乗り物、馬とバイクは人の乗り物と言われる由縁です。
下段左から、1枚目:うちの庭にある池です…というのは嘘ですが、僕の家の近所にあるダム湖です。都会の喧騒から離れ、自然の音以外には静寂に包まれた心安らぐ場所で、深緑の森をセピア色に染めあげる夕陽や都会では見ることができない零れ落ちてきそうな満天の星空が美しく、独りになりたいときや、音楽と向き合いたいときに僕の相棒を駆ってふらっとやってきます。ここで瞑目しながらベートーヴェンのピアノ・ソナタの深淵な精神世界に耳を傾けていると、自分と音楽だけの悠久の時間に浸れます。2枚目:世界的に有名な千葉の“CAR-BOY WOOD”。ロサンゼルスにこれを真似したものがあります。3枚目:勝浦海岸。これからの季節は波を待つサーファーで賑わいます。4枚目:割烹かねなか「波の伊八丼」。肉厚の刺身がダイナミックな波のうねりを表現しているように見えます。大原漁港で水揚げされた新鮮な魚は、あまり波が荒くならない東京湾内や相模湾内で育った東京や神奈川の魚と異なり、太平洋(外洋)の荒波で鍛え抜かれた引き締まった身でモチモチっと歯ごたえがよくその引き締まった身に閉じ込められた魚の旨味に胃袋が溶けてしまいそうになります。なお、このブログでも何度かご紹介していますが、“波の伊八”こと武志伊八郎信由は千葉県出身の木造彫刻家で、葛飾北斎は浮世絵「神奈川沖浪裏」を創作するにあたり“波の伊八”の欄間彫刻「波と宝珠」にインスピレーションを受けたと言われています。因みに、ドビュッシーが交響詩「海」を作曲した際の初版譜の表紙には葛飾北斎の浮世絵「神奈川沖浪裏」が使用されておりこの浮世絵からインスピレーションを受けて同曲を創作した可能性が指摘されていますが、“波の伊八”の欄間彫刻「波と宝珠」がなければ、葛飾北斎の浮世絵「神奈川沖浪裏」、ひいてはドビュッシーの交響詩「海」は生まれていなかったかもしれないと言えるかもしれません。ドビュッシー交響詩「海」がお好きな方は、是非一度、行元寺にある“波の伊八”の欄間彫刻「波と宝珠」を肉眼でご覧下さい。僕は何やら鬼気迫るものすら感じさせる躍動感溢れるダミナミックな荒波の彫塑を目の当たりにし、背筋に鳥肌が立ったことを思い出します。これを見た葛飾北斎が衝撃を受け、浮世絵「神奈川沖浪裏」の創作に駆り立てられた理由がよく分かりますし、それがドビュッシー交響詩「海」の中で音楽表現として見事に結実されているようで感動を深くします。“波の伊八”の欄間彫刻「波と宝珠」は人生の荒波に翻弄される魂(=宝珠)を表現した作品と言われていますが、死ぬまでに一度は目にしておきたい稀代の名作です。この他にも千葉県内には人類の至宝とも言うべき“波の伊八”の作品が数多く残されていますので、“波の伊八”の作品と割烹かねなか「波の伊八丼」で心もお腹も一杯に満たして下さい。

    • >ブログの枕はここまで。

さて、かなり古い録画にはなりますが、アメリカの星条旗の星、来る7月7日の七夕と独立戦争の相手国イギリスに因んで名曲探偵アマデウスホルスト“惑星”」を視聴したので簡単に概要を残しておきたいと思います。グスターヴ・ホルストは1874年にイギリス チェルトナムの音楽一家に生まれ、幼いことからピアニストを目指していましたが、右手の神経炎が原因でピアニストを断念し、ロンドンの王立音楽大学に入学して教育者となります。その後、1917年に組曲「惑星」(第一曲「火星」、第二曲「金星」、第三曲「水星」、第四曲「木星」、第五曲「土星」、第六曲「天王星」、第七曲「海王星」)を完成させて大成功します。

組曲「惑星」の中でも第4曲「木星」が有名で(ダイアナ妃の葬儀でも演奏)、その曲の冒頭では同じ音型を繰り返すヴァイオリンの音が複雑に絡み合い、何かが始まりそうな予感を与える効果を与えています。楽譜のヴァイオリンパートを見ると、第1ヴァイオリンの高音がラ・ド・レ、低音がミ・ソ・ラ、第2ヴァイオリンの高音がラ・ド・レ、低音がミ・ソ・ラの音型を繰り返していますが、その音が1音づつづれて複雑に絡み合っているように聞こえます。この音をずらす効果によって混沌とた曲調となり、聴衆が楽曲に惹き込まれて行く効果を生んでいます。

【楽譜】冒頭の第1バイオリンと第2ヴァイオリン
http://javanese.imslp.info/files/imglnks/usimg/5/5f/IMSLP15436-Jupiter.pdf

第4曲「木星」の第4主題(平原綾香さんのジュピターでサビに使われている部分)は聴く者の心を強く惹き付ける印象的な旋律ですが、これは日本的な音階であるヨナ抜き音階(第4(ヨ)音「ファ」、第7(ナ)音「シ」を抜いた音階)が使われているためです。このヨナ抜き音階はスコットランド民謡にも使われており、蛍の光ハ長調)の原曲がスコットランド民謡「オールド・ラング・サイン」であることからも日本の音階とスコットランド民謡の音階とが親和的であることが分かります。第4主題は曲中で3回繰り返されますが、徐々に旋律が上昇して音域が拡がり(第四主題の出だしの音「ソ」→2回目では1オクターブ高い「ソ」→3度目ではさらに1オクダーブ高い「ソ」)、参加する楽器が増えて、クレッシェンドしてこの曲のクライマックスを築く効果を生んでいます。

なお、組曲「惑星」の第1曲から第3曲までは実際の惑星の配列と逆順序になっていますが、この曲は西洋占星術の影響を受けて作曲したと言われており木星を起点として惑星を眺めたときの配列を曲順にしたのではないかと考えられます。ホルストは“組曲の意味は副題から汲み取って貰いたい”と語っていることから、木星を中心に人間の人生を表しているとも考えられ、木星は人生の絶頂期、人生の喜び(Life is beautiful)を表現しているとも言えそうです。

火星:戦争をもたらすもの(ダイナミックで豪快な曲調が激しい戦いを想像させる)
金星:平和をもたらすもの(戦争から一転平穏な落ち着きを取り戻す)
水星:翼のある使者(陽気でユーモア―に溢れる楽曲)
木星歓喜をもたらすもの
土星:老いをもたらすもの(格調高く荘厳な調べ)
天王星:魔術師(オーケストラをフルに生かした独特のリズムが魔術の世界に誘う)
海王星:神秘なるもの(一番遠くの未知の星)

ホルストは40歳を過ぎてから作曲した組曲「惑星」が大成功して人気作曲家となりました。世間は組曲「惑星」のような新作を期待しましたが、ホルストは自分が本当に書きたい音楽(宗教音楽自分の学生達が喜ぶ音楽)のみを作曲したことから、組曲「惑星」以外の曲が世間に受け入れられず批評家から批判されるというジレンマに苦しむことになります。しかし、ホルストは世間的な価値観に迎合して成功することよりも自分の価値観に従って作曲した音楽で成功することを重視しており、このことはホルストの「芸術家は世の中でうまくいかないことを祈るべきである」という言葉にも端的に表されています。自らの創作意欲に充実であろうとしたホルストの芸術家としての真に自由な生き方に共感を覚えます。

第7曲「海王星」のエンディングは、器楽による演奏が終了して女性コーラスのみとなりますが、聴衆から見えない場所に控える女性コーラス(バンダ)が徐々に歌声を小さくし遥か遠くに消え行くように繰り返されます。一生が終わった後に何があるのか誰も自分自身のエンディングは分からない、ホルストはそのことを表現するために女性コーラスの声がどんどんと遠ざかりその後にどうなったのか分からないような終わらせ方にしたいと考えたのかもしれません。太陽系の外に広陵とした終わりのない世界が拡がっているように人生もいつ果てるとも分からない終わりのない旅が続く、心の自由を求めて人生の旅を続ける西部の男達(カウボーイ)の生き様にも相通じるものがあるかもしれません。

【楽譜】最終楽章
http://burrito.whatbox.ca:15263/imglnks/usimg/6/69/IMSLP15439-Neptune.pdf


00:04
ヴァイオリンの音のズレによって聴衆を誘う第1主題
01:02
軽快な第2主題
01:40
民族舞踊風の第3主題が3拍子で現れる
03:01
満を持して第4主題が登場
懐かしさを感じるスコットランド民謡風の旋律
03:42
2回目は自然に1オクターブ高い位置からはじまる
04:21
3回目はさらに1オクターブ上がりフォルテ(強音)になる
04:44
第1主題が再現される
05:47
第2主題が再現される
06:25
第3主題が再現される
07:00
第4主題が短く再現されてフィナーレ

◆おまけ
アメリカのカウボーイ文化を題材に採り上げている歌劇として、プッチーニの歌劇「西部の娘」(抜粋)をどうぞ。

アメリカの風情を伝える器楽曲として、ドヴォルザーク弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」をどうぞ。

アメリカ人作曲家による器楽曲として、バーバーの弦楽のためのアダージョをどうぞ。

映画「アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記」(原題:Chronik der Anna Magdalena Bach)


2015/3/31撮影、弘法寺の伏姫桜(千葉県市川市)デスクトップのパソコンを使ってこの画像をクリックし「オリジナルサイズを表示」を選択してご覧下さい。


左上から、1枚目:弘法寺の点描桜。2枚目:弘法寺で調香した伏姫桜香。ヨーロッパのアロマテラピーは「療法」として発達しましたが、源氏物語第三十二帖梅枝に出て来る“薫物合せ”でも知られているとおり日本の香道は「芸道」として発達してきました。お茶も同様でイタリアの航海旅行記集成に記されているとおりヨーロッパの紅茶は「薬」として普及しましたから、やはり「芸道」として発達してきた日本の茶道とは随分と趣を異にしています。ヨーロッパでは香や茶の即物的な面が重視されて実用のものとして重用されてきたようですが、日本では香や茶が貴族等の知識階級の日常的な遊戯から一定の作法に従って精神的な面を重視した芸道(仏法を込めた茶道、文学に仮託した香道など)へと昇華してきた文化的・社会的な背景の違いがあると思います。三島由紀夫の言葉を借りれば、日本文化は「行動様式自体を芸術作品化する特殊な伝統」を持つ“フォルムの文化”を特徴し、単なる“もの”ではなく、その洗練されたフォルム(能楽、歌舞伎や日本舞踊の“型”に象徴される行動様式又はその行動の連続が生み出す空間芸術)に様式美を見い出す傾向があります。そのため、各芸道の諸道具や陶芸、書画等の美術品もその即物的な価値にも増して、それらをどのように組み合わせて配置するのかという「置き合わせ」(建築空間と相俟って、それらの組合せが生み出す空間芸術)が重視されます。因みに、ヨーロッパではキリスト教会が入浴を快楽の象徴として忌避していたのでシャワーが発明される19世紀までは入浴の習慣がなく肉食で体臭も強かったことから香水が発達したと言われていますが(マリー・アントワネットは月に1回しか入浴せず香水で体臭を誤魔化していた話は有名)、ヨーロッパ人は他人と挨拶するときに頬を合わせる習慣があるので、自分の体臭を誤魔化すために相手の鼻が近づく耳たぶに香水をつける習慣が始まったそうです。3枚目:万葉集に数多くの和歌が詠まれた絶世の美女手児奈が毎日のように水汲みをしていたと言われる亀井院の井戸(真間井)と桜。京の都までその噂が伝わるほどの絶世の美女であった手児奈は数多くの男性から求愛され、その恋争いに心を痛めて真間の入江に身を投げてしまいますが、桜花のように美しくも儚く散ってしまった絶世の美女手児奈の悲恋が偲ばれます。4枚目:亀井院に寄宿していたことがある北原白秋手児奈について詠んだ和歌の歌碑「葛飾の 真間の手児奈が 跡どころ その水の辺の うきぐさの花」。
左下から、1〜3枚目:墨染桜(千葉県東金市)。桜花のように儚く散った深草少将の小野小町を恋慕う想いと、その儚い想いを小野小町の縁の地で花咲かせる西行法師の追慕の情が美しく香っているかのようです。4枚目:今年、没後400年を迎えた徳川家康が鷹狩りの際に宿泊した東金御殿があった八鶴湖の桜と国登録有形文化財八鶴停

【題名】映画「アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記」(原題:Chronik der Anna Magdalena Bach)
【監督】ジャン=マリー・ストローブ
    ダニエル・ユイレ
【脚本】マリー・ストローブ
    ダニエル・ユイレ
【出演】<ヨハン・セバスチャン・バッハグスタフ・レオンハルト
    <アンナ・マクダレーナ・バッハ>クリスチアーネ・ラング・ドレヴァンツ  ほか
【音楽】レオ・レオニウス
【公開】1968年
【感想】ネタバレ注意!
昔から“梅は百花の魁”と言われ、春を告げる花として数多くの和歌に詠まれ愛でられてきましたが(万葉集の時代では“花”と言えば「梅」を意味しましたが、古今集の時代になると“花”と言えば「桜」を意味するようになりました)、今日は江戸時代から梅の名所として知られる湯島天神(東京都文京区)と観福寺(千葉県佐原市)へ梅見に行ってきました。ご案内のとおり、湯島天神には天神様(菅原道真公)が祀られていますが、菅原道真公がこよなく梅を愛したことから各地の天神様を祀る神社の神紋には「梅紋」が使われ、湯島天神の神紋も梅紋をあしらった「梅鉢紋」(左の画)が使われています。

東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(菅原道真



左上から、1枚目:湯島天神の神紋「梅鉢紋」と今を盛りと香り立つ淡紅梅(梅の種類は豊後?紋造?)、2枚目:湯島天神境内に建つ「泉鏡花筆塚」(碑は墨、池石は硯をデザイン?)と“湯島の白梅”、3枚目:湯島天神境内に建つ「講談高座発祥の地」の碑。江戸時代の庶民文化である「講談」は町の辻々に立つ辻講釈や粗末な小屋で聴衆と同じ高さの席で演じられていましたが、1804年に湯島天満宮境内を講釈場(寄席の起源)としていた講談師の伊東燕晋が徳川家康公(今年は没後400年)の偉業を語るにあたって庶民と同じ高さの席では恐れ多いと高さ三尺一間四面の一段高い席を設置したことが「高座」の始まりと言われています。なお、西洋の舞台芸術は貴族文化として発展したことから王侯貴族の席よりも低い位置に舞台が設置され、その舞台を王侯貴族が見下ろすように設計されましたが、日本の舞台芸術は庶民の祭事(神事)として発展したことから神に奉納する歌舞音曲を演じる舞台は一段と高いところに設置され、その舞台を庶民が見上げるように設計されました。4枚目:寄席発祥の地碑(下谷神社/東京都台東区)と正岡子規の句碑。1798年に初代三笑亭可楽が下谷神社境内において初めて木戸銭をとって噺の会を催したのが寄席の始まりと言われています。因みに、この碑に刻まれている“寄席発祥之地”は柳家小さん師匠の文字です。また、その横には「寄席はねて 上野の鐘の 夜長哉」という正岡子規の句碑も建てられています。
左下から、1枚目:講談発祥記念之碑(薬研堀不動院/東京都江東区)。落語の会話芸に対して講談は物語芸と言われますが、日本の話芸の中でも500年と最も古い歴史を持ち、「講釈師、見てきたような嘘をつき」と持て囃されるほど迫真の語りが魅力です。2枚目:順天堂発祥之地碑(講談発祥記念之碑の横)。順天堂の創始者である佐藤泰然は薬研堀不動院(東京都江東区)に蘭方医学塾「和田塾」を創始し、その後、千葉県佐倉市医学塾「順天堂」として移設し、更に、現在の湯島・本郷へと移転しています。3〜4枚目:観福寺(千葉県佐原市)の紅梅と見事な垂れ梅。観福寺は伊能忠敬菩提寺で境内には伊能忠敬の墓があります。

一般に“梅は香、桜は花”と言いますが、春の到来を告げる梅は香りだけではなく、殺風景であった冬景色に彩りを添える“色”としても親しまれています。“梅”と名の付く日本の伝統色を想い着く侭にざっと挙げてみても(下表)、これだけの種類の色名を並べることができます。これは古の日本人が梅の木の種類、梅の木が植えられている場所、梅を鑑賞する時季や天候など諸条件によってその時々に移ろう微妙な色調や美しさを鋭敏に感じ取る繊細な感受性を持っていたことを示すものだと思います。以前のブログ記事にも書きましたが、例えば、雲の名前、雨の名前、風の名前、波の名前など古の日本人は自然の微妙な表情の変化や多彩な美しさの移ろいを感じ取るための実に繊細な感受性とその違いを認識し表現するための豊かな言葉(即ち、精神的な営み)を持っていたと思います。この背景として、農耕民族である日本人は昔から作物を育む大地の恵みに感謝し、万物を育む自然を畏敬の対象として捉え崇拝してきた歴史があり(自然に仏性や神性を求める“山川草木悉皆成仏”や“八百万の神”等の思想に帰結)、生活の中に自然を採り入れて自然と調和して行こうとする態度があったからこそ、自然をつぶさに観察しその表情の違いを鋭敏に感じ取る感受性(それを表現し伝えるための言葉)が育まれてきたのだろうと思います。このことは、例えば、自然の音を模倣するために敢えて音程が不安定になるように作られた楽器(尺八など)や自然との調和によって生み出される精妙なリズム(間)によって奏でられる音楽(邦楽など)、自然の精妙な色調を模倣した日本の伝統色など日本人の一元論的世界観がその文化に色濃く影響を与えていることに端的に表れていると思いますし、また、日本人が世界で最も優れた色彩感覚(微妙な色調を分析し見分ける能力)を持っていると言われる由縁でもあると思います。万葉集の歌に「言霊の幸わう国」(5巻894番)という一節がありますが、日本では言葉に霊力が宿り、めでたい言葉を口にすると幸せが訪れる(即ち、“言祝ぐ”、“寿ぐ”)という考え方が古くからありますが、古の日本人は豊かな言葉を持つことは豊かな感受性を育み、人間を幸福にする作用があるという知恵を持ち、それを実践していたと言えるかもしれません。なお、狩猟民族は獲物を与えてくれる天(太陽)の恵みに感謝し、天(太陽)から与えられた自然を支配の対象として捉えてきた歴史があり(天(太陽)に神性を求める唯一絶対神の思想に帰結)、自然を支配して行こうとする態度があるように思われます。このことは、例えば、人間が支配し易いように音程やリズムの長さを人工的に等分する平均律メトロノーム、人間が配合し易いように色を定量的に表す色素表など、西洋人の二元論的世界観が日本とは全く異なる文化を生み出したように考えられます。

◆“梅”の名の付く日本の伝統色


色調
色名赤梅紅梅色蕾紅梅薄紅梅一重梅梅重栗梅茶栗梅黒梅
色調
色名白梅薄梅鼠白梅鼠灰梅梅鼠梅染楊梅色梅幸梅紫
なお、日本の伝統色と言えば、江戸時代には奢侈禁止令によって贅沢が禁じられ庶民が身に着けられる着物の色、柄や生地まで細かく制約が設けられていましたが(七代目市川團十郎は贅沢な私生活が奢侈禁止令に抵触するとして成田山新勝寺に蟄居を命じられました)、そのような中でもお洒落な庶民のニーズに応えるために微妙な色調を工夫することによって“粋”で洗練されたカラーバリエーション「四十八茶百鼠」が開発され流行しました。とりわけ歌舞伎役者が愛用して人気を博した色のことを「役者色」(下表)と呼び、その役者のイメージカラーとして現在にも受け継がれています。

團十郎

◆“歌舞伎役者”の名の付く日本の伝統色(歌舞伎の役者色)

色調
色名路考茶梅幸岩井茶璃寛茶市紅茶芝翫團十郎高麗納戸
役者二代目
瀬川菊之丞
初代
尾上菊五郎
五代目
岩井半四郎
二代目
嵐吉三郎
五代目
市川団蔵
三代目
中村歌右衛門
五代目
市川團十郎
四代目
松本幸四郎
  ※ “Firefox”や“IE”以外のブラウザでは歌舞伎の役者色が正しく表示されないことがあります。

昔から心理学では色のイメージ効果について注目されていますが、色が何らかのイメージを伝える例として、新生児を示して「赤ちゃん」(赤ちゃんが出生後に最初に認識できる色が人間にとって危険を表す血の色と言われ、新生児がその色に最も良く反応するからと言われています。ベビー服に赤色が多いのもそれが理由。)、若い女性の甲高い声を示して「黄色い声」(古代中国の経典では読経の音程の高低を示すために色が用いられ、黄色は一番高い音程を意味したと言われていますので、日本人と中国人との間では「黄」という色調に関する共感覚が存在するのかもしれません。)や、哀愁を帯びた音楽を示して「青い音楽」(英語の“blue”には「憂鬱」という意味があり“Blue Monday”という使われ方をしますので、日本人と英米人との間では「青」という色調に関する共感覚が存在するのかもしれません。)などの沢山の用例が挙げられます(こうして見ると、信号機の“青”−“黄”−“赤”は色のイメージ効果の観点から最も効果的な配色と言えるかもしれません。)。これは、赤ちゃんの頃は脳が未発達なので視覚、聴覚、味覚、触覚、臭覚の各感覚が未分化な知覚(共感覚)としてしか認識できず、脳が発達するにつれて徐々に知覚が明確に分化されて共感覚は失われて行きますが、大人に成長した後も赤ちゃんの頃の未分化な知覚(共感覚)がイメージとして脳に残されることにより色のイメージ効果が生じるのではないかと言われています。なお、脳が発達する過程において知覚の分化に変異が生じ(即ち、成長しても、ある知覚を司る脳の機能が他の知覚を司る脳の機能と明確に分化せずに、その一部が未分化のままの状態となる結果)、単なる“イメージ”としてではなく“知覚”としての共感覚が残される人もいるらしく、例えば、絶対音感を持つ人の中には音を聞くと、イメージではなく知覚として実際に色を認識する「色聴」の人の割合が多いと言われています。例えば、ピアニストのエレーヌ・グリモーはアメリカ公共放送(PBS)のインタビューの中で「ある音や数字に色調を感じる」と答えています。また、作曲家のフランツ・リストはオーケストラの指揮を行ったときに「ここは紫で」など音を色で表現して指示したので楽団員を困らせたというエピソードが残されています。さらに、ニコライ・リムスキー=コルサコフアレクサンドル・スクリャービン(今年は没後100年)は音階と色との対応付けを行ってお互いに議論したというエピソードが残されていますので、音楽家の間では「音色」や「色彩感のある音楽」を感じるときのメタファーとは異なった知覚としての共感覚を持つ人が多いのかもしれません。

さて、そろそろ本題に戻りたいと思います。かなり昔に公開された映画になりますが、その感想を簡単に残しておきたいと思います。


現在、執筆中。

◆おまけ
今年、没後100年を迎えたスクリャービンのピアノ協奏曲嬰ヘ短調より第2楽章(一部の携帯端末では再生できません。)

ピアノ独奏エレーヌ・グリモーによるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ハ短調より第2楽章

ピアノ独奏エレーヌ・グリモーによるラヴェルのピアノ協奏曲ト短調より第2楽章

映画「めぐり逢う朝」(原題:Tousles Matinsdu Monde)

【題名】映画「めぐり逢う朝」(原題:Tousles Matinsdu Monde)
【監督】アラン・コルノー
【脚本】パスカルキニャール
    アラン・コルノー
【出演】<サント・コロンブ>ジャン・ピエール・マリエル
    <マラン・マレジェラール・ドパルデュー
    <マドレーヌ> アンヌ・ブロシェ
    <マラン・マレ(青年時代)>ギョーム・ドパルデュー
    <サント・コロンブ夫人>カロリーヌ・シホール
    <トイネット>カロル・リチャード        ほか
【美術】ベルナール・ヴェザ
【音楽】ジョルディ・サバール(Gamb)ほか
【公開】1993年2月11日
【感想】ネタバレ注意!
今日は17世紀のヴィオラ・ダ・ガンバ(フランス語でヴィオール)奏者の名手として知られるサント・コロンブとその弟子のマラン・マレの半生を描いた映画「めぐり逢う朝」(原題:Tousles Matinsdu Monde)を観ることにしました。マレン・マレはリュリにオペラの作曲を師事してルイ14世付の宮廷楽団員になり、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者の名手として名声を博し、その後、オペラ作曲家としても活躍します。因みに、ヴィオラ・ダ・ガンバの“ガンバ”とは「脚」の意味(Jリーグの「ガンバ大阪」の“ガンバ”も同じく「脚」の意味)で、チェロのようなエンド・ピンがなく脚で挟んで演奏するのを特徴とするので「脚のヴィオラ」とも呼ばれています。なお、ヴィオラ・ダ・ガンバは宣教師によって日本に持ち込まれ、織田信長安土城下のセミナリオでその演奏を耳にしたそうです。織田信長安土城で何度かクラシック音楽を聴いたという記録が残されており、豊臣秀吉大友宗麟クラシック音楽を好んだそうですから、信長や秀吉、宗麟が日本人初のクラシック音楽ファンであったとも言えそうです。

ブログの枕はバレンタインデーに因んで、芸術作品に影響を与えた食文化という切り口で何か書いてみたいと思っています。


現在、執筆中。


さて、そろそろ本題に戻りたいと思います。かなり昔に公開された映画になりますが、その感想を簡単に残しておきたいと思います。


現在、執筆中。


めぐり逢う朝  HDニューマスター版 [DVD]

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◆おまけ
マラン・マレヴィオール曲集第2巻より「ラ・フォリア」をお聴き下さい。因みに、“フォリア”とはスペインやポルトガルで生まれた3拍子の緩やかな舞曲のことです。

マラン・マレヴィオール曲集第4巻より「夢見る人」をピアノ編曲版でお聴き下さい。この時代の曲を楽器を替えて編曲するとピリオド楽器が奏でる魅力とは違った魅力が惹き出されることがあります。

マラン・マレと同時代を生きたフランスの音楽家、リュリ作曲のコメディー・バレ「町人貴族」(前半)とラモー作曲の歌劇「優雅なインドの国々」(後半)より抜粋。当時は杖のような指揮棒を床についてリズムをとりながら指揮しましたが、リュリはこの指揮棒を誤って足にさしてしまったことが原因で死亡しています。

映画「王は踊る」(原題:Le Roi danse)

【題名】映画「王は踊る」(原題:Le Roi danse)
【監督】ジェラール・コルビオ
【脚本】エーヴ・ド・カストロ
    アンドリー・コルビオ
    ジェラール・コルビオ
【出演】<ジャン=バティスト・リュリ>ボリス・テラル
    <ルイ14世ブノワ・マジメル
    <モリエール>チェッキー・カリョ
    <アンヌ・ドートリッシュコレット・エマニュエル
    <マザラン枢機卿>セルジュ・フイヤール
    <マデレーン>セシール・ボワ
    <ジュリー>クレール・ケーム
    <ロベール・カンベール>ヨハン・レイセン
    <コンティ公>イドヴィグ・ステファーヌ     ほか
【美術】ユベール・プイユ
【衣装】オリヴィエ・ベリオ
【監修】ラインハルト・ゲーベル
【公開】2001年7月20日
【感想】ネタバレ注意!
実在の名オペラ歌手のホセ・ヴァン・ダム(バス・バリトン)が主演しオペラ歌手の内面を描いたフィクション映画でその中でクラシック音楽がふんだんに使われている「仮面の中のアリア」や伝説的なカストラート(≒ボーイソプラノ)として名高いファリネッリの半生を描いた伝記映画の「カストラート」などで世に知られる名匠コルビオ監督が手掛けた、作曲家リュリ(左の写真)の半生を描いた映画「王は踊る」を鑑賞することにしました。今年で没後300年を迎え、ヴェルサイユ宮殿を建設したルイ14世は15歳でバレエの舞台デビューを果たし(映画「王は踊る」でも描かれていますが、ルイ14世が「夜のバレ」で昇る太陽を演じたことから「太陽王」という異名で呼ばれるようになりました。因みに、千葉県柏市をホームタウンとするJリーグの「柏レイソル」とはレイ(王)とソル(太陽)を合わせて「太陽王」を意味しています。)、その後、プロの舞踊家の養成を目的として1661年に王立舞踏アカデミーを設立します。やがて王立舞踏アカデミーはルイ14世付の宮廷音楽家であったリュリが開設した王立音楽アカデミーオペラ座)に併合され、その専任の舞踏教師としてルイ14世付の舞踊教師であったボーシャン(5つの足の基本ポジションを体系化するなど今日のクラシックバレエの基礎を築いた舞踊家)が任命され、リュリと共に宮廷バレエを創作します。なお、リュリは、ルイ14世の招聘を受けてヴェルサイユ宮殿を度々訪れていたモリエールの台本によるコメディ・バレ(舞踊喜劇)を数多く作曲し、「無理強いの結婚」や「町人貴族」などの作品がヴェルサイユ宮殿のオペラ劇場で上演されています。..ということで、本題に入る前にブログの枕として「舞台」について少し書いておきたいと思います。


ジェローム作「ルイ14世モリエール」(1862年)


現在、執筆中。



左上から、
1枚目:「房総のむら」の大木戸
江戸時代から明治時代の初期にかけての千葉県の街並みを再現した「房総のむら」(千葉県成田市)の大木戸。江戸時代には興行見物のために木戸を通行する際に徴収した入場料金のことを木戸銭といいましたが、例えば、江戸時代の歌舞伎見物の木戸銭は現代価値で3百円〜3万円程度、落語見物の木戸銭は現代価値で6百円程度、相撲見物の木戸銭は現代価値で4千円〜5万円程度だったそうで、歌舞伎見物や相撲見物の木戸銭は現代と比べるとやや割高のある贅沢な娯楽、落語見物の木戸銭は現代と比べると圧倒的に割安があり庶民の文化として根付いていたということがいえましょうか。
2枚目:「房総のむら」にある江戸後期の千葉県内の街並み
千葉県内に実在した旧家を再現した江戸時代後期の街並み。江戸後期から明治初期の写真を見ると、江戸時代の街並みは(あるいは現代よりも)清潔であったことが伺えます。因みに、中世のフランスでは「Gardy loo!」(ガルディ・ルー)と叫んで窓から外に人間の汚物を投げ捨てる習慣があり女性用ハイヒールはその汚物を踏まないように開発されたという話は有名ですが、日本では川の水流を利用した水洗トイレが早くから普及し又は人間の汚物が堆肥として高く売買されていたので人間の汚物が街を汚すことはなく、下駄はハイヒールとは異なって舗装されていなかった道でぬかるみにはまらないように開発されたものと言われています。また、江戸時代の日本人は小柄(江戸時代の平均身長は男性で155cm前後、女性で145cm前後で、現代の平均身長よりも20cm以上も低かったことになります。また、カメラの性能にもよると思いたくなるくらい胴長短足の人が多かったことは否めず、食生活や生活スタイルの変化によってこれだけ短期間に人間の体型は変化し得るものなのかと驚かされます)。舞踊のスタイル(狩猟民族の多い西洋のバレエは下半身を中心とした垂直的な動き、農耕民族の多い日本の舞踊は上半身を中心とした水平的な動き)にも影響しますが、下半身を使う狩猟民族は足が長く、上半身を使う農耕民族は胴が長い傾向があるのはその生活スタイルが体型に影響を与えている側面があるのかもしれません。
3〜4枚目:「房総のむら」にある農村歌舞伎舞台と桜の借景
江戸時代後期に千葉県香取郡で実際に使用されていた農村歌舞伎舞台。歌舞伎は出雲大社の巫女と自称する阿国(実際は河原者だったと言われています)が風流踊り、念仏踊り、神楽踊りなどを融合して「かぶき踊り」(大きな刀を持ち派手な服装を纏った“かぶき者”に扮し、それまでの踊り主体の芸能に演劇的要素を加えて茶屋遊びに通う伊達男を演じたもの)を生み出したのが始まりと言われています。その後、「かぶき踊り」は遊女らによって盛んに演じられるようになり当時は高級品であった三味線が伴奏する「女歌舞伎」に発展しますが、1629年に風俗取締のために女性の舞台公演が禁止されたことにより、男性だけの「若衆歌舞伎」や「野郎歌舞伎」へと変遷して現在の歌舞伎の上演形態になっています。歌舞伎はドサ回りの旅役者によって全国に伝えられ、その旅役者が地方の農村に住み着いて指導者になり農村歌舞伎が発展したと考えられています。なお、「かぶき踊り」の誕生と同じ頃に阿通によって三味線に合せて物語を謡う「浄瑠璃」(阿通が義経浄瑠璃姫の恋愛を脚色して“浄瑠璃十二段”を作ったことから「浄瑠璃」と呼ばれるようになったと言われています。)が誕生し、その後、義太夫節などに発展して歌舞伎にも採り入れられています。なお、数年前に平成中村座で借景を用いた演出が話題になったことは記憶に新しいですが、「房総のむら」にある農村歌舞伎舞台の裏には背の低い桜が植えられ、舞台の背扉を開くと桜の借景が舞台を彩る仕掛けになっています。日本の庭園思想は西洋の庭園思想とは異なって、その造形はアシンメトリーな自然の模倣(を憧憬する人工美)であり、人間界(内界)と自然界(外界)との間が明確に区分されない連続性を持った一元論的世界観を体現する空間演出を特徴としますが、舞台演出としての借景は人工的に演出された舞台空間(内界)に凝縮された密度(≒日本庭園)と非人工的に演出された自然空間(外界)の多彩な拡がり(≒借景)とが空間を超越して融合し、舞台に流れる過去に固定された時間(≒日本庭園)と自然に流れる将来に変化していく時間(≒借景)とが時間を超越して交錯して、舞台に切り取られた重層的な「空間」と「時間」の連続性が舞台にダイナミックな奥行を与える効果を生んでいるような気がします。
左下から、
1〜2枚目:歌舞伎座舞台株式会社の松戸工場と歌舞伎座からの銀座の眺め
歌舞伎座舞台株式会社の松戸工場(千葉県松戸市)。歌舞伎座舞台株式会社は歌舞伎座専属の大道具として、松戸工場で歌舞伎座の大道具(舞台装置)を一手に制作しています。歌舞伎座舞台株式会社の前身は長谷川大道具で、1650年頃に初代長谷川勘兵衛が大道具師として中村座をはじめとした江戸三座に出入りしたのが始まりと言われています。長谷川大道具が「廻り舞台」や「セリ」などの歌舞伎を代表する舞台機構を生み出しています。因みに、歌舞伎の廻り舞台がオペラやミュージカルの舞台にも導入された話は有名ですし、メトロポリタン歌劇場が来客数の改善のために松竹が始めた歌舞伎の舞台公演を映画化した歌舞伎シネマを真似てメトロポリタン歌劇場の舞台公演を映画化したMETライブビューイングを開始した話も有名です。実際に、日本のオペラハウス新国立劇場は四面ある舞台を入れ替えることで舞台上のセットを入れ換る仕組みになっていますが、その一面の奥舞台には廻り舞台の機構が備えられています。なお、新国立劇場舞台美術センター(千葉県銚子市)では舞台芸術に関する所蔵品の展示や鑑賞会などのイヴェントも行われていますので、銚子漁港で陸揚げされる新鮮な海の幸(湾内ではなく外洋で採れる魚は身の締りや弾力が違うので頬が落ちます)をご賞味がてら足を運ばれてみてはいかが。
3〜5枚目:名菓、天乃屋の歌舞伎揚
天乃屋の歌舞伎揚は現代を代表する名菓として愛されていますが、商品名のとおり包装紙には歌舞伎で使用されている定式幕(包装紙に使用されている定式幕は萌葱、柿、黒の三色で構成される江戸市村座の定式幕で国立劇場大阪歌舞伎座で使用。因みに、柿、萌葱、黒の三色で構成されるのが江戸森田座の定式幕で歌舞伎座や京都南座で使用。白、柿、黒の三色で構成されるのが江戸中村座の定式幕で平成中村座で使用。)の模様を取入れ、四角いせんべえには「三枡文」(市川團十郎)、丸いせんべえには「丸に二引両紋」(片岡仁左衛門)と歌舞伎役者の家紋が薄っすらと刻印されています。

さて、そろそろ本題に戻りたいと思います。かなり昔に公開された映画になりますが、その感想を簡単に残しておきたいと思います。


現在、執筆中。


この映画の前半でリュリがポケット・ヴァイオリン(16〜18世紀頃は舞踏教師らがポケット・ヴァイオリンを携帯し、これを演奏しながらバレエのレッスンをつけていました。また、19世紀頃までは音楽家と聴衆の分離(音楽家の中でも作曲家と演奏家の分離を含む)が進んでおらず、音楽を媒介するテレビ、ラジオやCDなどのメディアがなく、高速移動手段も整備されていなかったので宮廷貴族以外の一般市民が教会で演奏される宗教音楽以外の演奏に触れる機会は殆どなかった時代にあって、一般市民はポケット・ヴァイオリンを携帯して自分で演奏することで日常的に音楽を楽しむ習慣があったようです。現代のようにメディアが発達し、高速移動手段やコンサートホールが整備されて何時でも何処でも音楽に親しめる環境になったことは、ある面では聴衆による音楽受容を飛躍的に豊かにした反面、ある面では音楽との関わり方を一層と偏狭的なものにしたという側面もあるような気がします。)を演奏しながらバレを指揮するシーンが登場しますのでお見逃しなく(ポケット・ヴァイオリンのことをフランスでは“pochette”(ポシェット)といい、リュリが胸のポシェットにポケット・ヴァイオリンを入れて指揮するシーンが登場しますが、本当に時代考証が優れている映画です)。更に詳しくお知りになられたい方は、ポケット・ヴァイオリのレプリカが展示されている浜松市楽器博物館に足を運ばれることをお勧めします。なお、18〜19世紀に音楽家と聴衆の分離が進んでいく過程で活躍したディレッタントについて書かれている「モーツァルトを「造った」男〜ケッヘルと同時代のウィーン 」(講談社現代新書)は興味深い内容なので、ご興味がある方は併せてどうぞ。

王は踊る [DVD]

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なお、近くバロック・ダンスの講習会がありますので、バロック・ダンスにご興味がある方や鑑賞の参考にされたい方は、是非、この機会にお運び下さい。
http://www.baroquedance.jp/

◆おまけ
スペインの伝説上のプレイボーイ貴族ドン・ファンを題材としたレーナウの詩を基にR.シュトラウスが作曲した交響詩ドン・ファン」をどうぞ。なお、リュリが作曲したコメディ=バレの台本作家としても有名なモリエールドン・ファンを題材として戯曲「ドン・ジュアン」(ドン・ファンのフランス語名)を書いています。

ダ・ポンテがモリエールの「ドン・ジュアン」を参考にして台本を書き、モーツアルトが作曲をした歌劇「ドン・ジョバンニ」(ドン・ファンのイタリア語名)をどうぞ。

リュリがモリエールの戯曲「町人貴族」を台本にして作曲したコメディ・バレ「町人貴族」より行進曲をどうぞ。

R.シュトラウスモリエールの戯曲「町人貴族」に付属音楽を作曲した組曲「町人貴族」より序曲をどうぞ。

年頭の挨拶

        

【神の仔羊(Agnus Dei)】
今年の干支は「羊」ですが、古く羊は宗教上の儀式において神への生贄として捧げられてきた習慣があり、キリスト教では贖罪のために神(天)から遣わ(降誕)されたイエス・キリストのことを「神の仔羊」といいます。また、キリスト教の司教が持つバクルス(司教杖)は羊飼いが羊を守るために使うシェパーズ・クルーク(羊飼いの杖)を象徴するもの(羊飼いは羊が群れから離れて狼に襲われないように守るのと同様に、信徒を信仰の迷いから導き救うもの)と言われています。因みに、クリスマスツリーの飾り付けにも使われるキャンディーケインもシェパーズ・クルーク(羊飼いの杖)の形を真似て作られたものです。なお、「羊」は羊の上半身を象って生まれた文字ですが、色々な言葉の語源になっています。例えば、中央アジアで羊を放牧していた遊牧民チベット人)のことを「羌」と言いますが、これは羊飼いを意味する「人」と「羊」とを組み合わせて生まれた文字です。また、ジンギスカンに代表されるように古くから羊肉は栄養価が高く滋養のつく食物として重用されていましたが、「養」は「食」と「羊」とを組み合わせて生まれた文字と言われています。このほかにも「羊」を語源とする言葉は数多くありますが、上記のとおり昔から「羊」は神への生贄として犠牲を象徴する生き物とされ、自己犠牲を意味する「我」と「羊」とを組み合わせて「義」という文字が生まれています。また、神の教えを伝える「言」と「羊」とを組み合わせて「善」という文字が生まれ、また、立派な様を示す「大」と「羊」とを組み合わせて「美」という文字も生まれています。「羊」を頂く文字は人としての在り様を教え諭しているようで「羊」という文字と向き合いながら背筋が伸びる思いです(新年から心に“舟を編んで”みました)。今年は「羊」に肖って「真善美」(認識上の真、倫理上の善、審美上の美)を極めるべく一層の精進に励む年にしたいものだと心に掛けています。

ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の仔羊だ」』(ヨハネによる福音書1章29節)


2015年のアニバーサリー


◆作曲家

◆実演家

◆美術

  • 琳派創始400年記念

◆宗教

◆その他

◆お年玉
皆様にとりまして心安らかな一年でありますように、祈りを込めて..。
【“Agnus Dei”の典礼文】
Agnus dei, qui tollis peccata mundi miserere nobis.
神の仔羊、あなたはこの世の罪を取り除き給いしもの、我らを憐れみたまえ。
Agnus dei, qui tollis peccata mundi dona nobis pacem.
神の仔羊、あなたはこの世の罪を取り除き給いしもの、我らに安らぎを与えたまえ。

バーバー「弦楽のためのアダージョ」に“Agnus Dei”の典礼文を付して編曲されたもの

ビゼーアルルの女」の間奏曲に“Agnus Dei”の典礼文を付して編曲されたもの

フォーレ「レクイエム」より“Agnus Dei”

モーツァルト「羊飼いの王様」より

◆お年玉のおまけ
映画「きみに読む物語」より冒頭シーン

新年早々、Gyaoで映画「きみに読む物語」(原題:The Notebook)という素敵な映画に出会いました。人生の黄昏時にあの人があの頃の想い出(白鳥)と共に人生の大河を渡ってやってくる・・・映画の冒頭シーンをアップしておきます。死の床にあって、自分の人生とどのように折り合いをつけるのかは人それぞれ。映画の冒頭で主人公は次のとおり語りますが、この主人公と同じように人生は美しく素晴らしいものであったと言って死んでいきたい(そう言えるように神から与えられた時間を大切に生きていきたい)としみじみと感じさせられる映画です。映画は人生を教えてくれる..。
“I am nothing special, of this I am sure. I am a common man with common thoughts and I’ve led a common life. There are no monuments dedicated to me and my name will soon be forgotten, but I’ve loved another with all my heart and soul, and to me, this has always been enough…”(僕は凡人で、普通の考え方で、平凡な生活を送ってきた。僕に捧げられた記念の物もなく、僕の名前もすぐ忘れられるだろう。でも僕は、1人の人間を全身全霊で愛した、それだけで僕は十分なんだ。)

クラシックミステリー 名曲探偵アマデウス「メンデルスゾーン “真夏の夜の夢”」

今日11月24日は「オペラの日」だそうですが、明治27年(1894年)11月24日に東京音楽学校(現、東京藝術大学)奏楽堂において日本で初めてオペラ(演目はグノーの歌劇「ファウスト」)が上演されたことに由来するそうです。因みに、日本人による初めてのオペラ作品は、前回のブログ記事で触れた坪内逍遥が台本を書き、東儀鉄笛(早稲田大学の校歌を作った人)が作曲した歌劇「常闇」で、明治39年(1906年)に歌舞伎座で初演されています。ご案内のとおり坪内逍遥は江戸時代の勧善懲悪的な戯曲文学を否定して西洋の写実主義を基調とする近代小説を紹介するために西洋の“Novel”について論じた「小説神髄」を発表しています。また、坪内逍遥は今年生誕450周年を迎えたシェイクスピアの全集(因みに、今日の本題であるメンデルスゾーンの劇付随音楽「真夏の夜の夢」はシェイクスピアの戯曲「夏の夜の夢」を題材としています)を日本で初めて翻訳して西洋の演劇を日本に紹介すると共に、ワーグナーに対抗して日本の伝統的な演劇(歌舞伎舞踊)を改良して西洋的な対話劇とは異なる日本独自の舞踊劇(国民楽劇)を創始することを提唱した「新楽劇論」を発表して(この本の中で西洋の“Dance”の訳語として「舞踊」という言葉が使われ、ダンス(舞踊)のうち、特に日本の伝統的な舞踊を示す意味で「日本舞踊」という言葉が生まれます。)、小説及び演劇の近代化を試みています。その後、大正時代になって浅草オペラが生まれ、前回のブログ記事で触れた永井荷風が台本を書き、菅原明朗が作曲した歌劇「葛飾情話」が昭和13年(1938年)に浅草オペラ館で初演されています。これに続いて、昭和16年(1940年)に山田耕作が日本初となるグランドオペラ「黒船〜夜明け」を作曲し、平成20年(2008年)に新国立劇場で全曲初演されています(かく言う僕もこの全曲初演を聴きに行つています。)。なお、オペラ公演を担う日本の歌劇団として、昭和9年(1932年)にテノール歌手の藤原義江によって「藤原歌劇団」、昭和27年(1952年)に東京音楽学校(現、東京藝術大学)の出身者を中心に「二期会」が設立されて数多くのオペラ作品が日本初演されており、その後、「東京室内歌劇場」、「東京オペラ・プロデュース」や「新国立劇場合唱団」などプロ・アマを合わせて数多くの団体が設立されて現在のオペラ隆盛期を築いています。

坪内逍遥の考え方をベースに以下の相関関係を整理中。おそらく綺麗には整理できませんし、現代において、このような整理に拘泥することがあまり意義を持つものだとも思いませんが、曖昧模糊としたままに任せて明確なイメージ(但し、“定義”というほど厳密なものは持ち得ないとも思っていますが)を持っておかないと、メディアが氾濫し表現が多様化するなかで、何となく流行風俗に溺れて“消費”を繰り返すだけに終始し、その“創作”の本質的なところを捉え切れず、足元のおぼつかなさに苛まれる感覚に陥るような気がしてなりません。果てしなく続く。

▼日本の伝統的な演劇の分類
「能劇」
「歌舞伎劇」
「振事劇」(歌舞伎舞踊〜日本舞踊)

▼日本の伝統的な舞踊の分類
「舞」:神仏に奉納される神聖なもの(上半身の水平的な動き)
「踊」:人間が自ら楽しむ俗的なもの(下半身の垂直的な動き)
「振」:所作に劇的な意味を生むもの(“〜のふり”、振り付)
※ 基本的な整理としては「能楽」≒「舞」+「振」、「バレエ」≒「踊」+「振」と分類?
※能の舞台は客席よりも高い位置にあり、観客は舞台を見上げるように見物し、能役者の舞は客席のある下方へアピールする水平的な動きを特徴(その背景には日本は農耕民族であり、腰を屈めて地に足を着けたまま移動しながら上半身を使って田畑を耕し、作物を収穫することから、その舞は水平運動を基調とするようになり、その収穫の恵みをもたらす地(にある万物)を崇める思想を育む)。バレエの舞台は古代ギリシャの野外劇場に代表されるように客席よりも低い位置にあり、観客は舞台を見下ろすように見物し、ダンサーの踊は客席のある上方へアピールする垂直的な動きを特徴(その背景には西洋は狩猟民族が多く、獲物を追うために空を見上げ、矢を射て武器を振るいながら下半身を使って飛び跳ねるように獲物を追い駆けることから、その踊は上下運動を基調とするようになり、その狩猟の恵みをもたらす天(にある唯一無二の太陽)を崇める思想を育む)。

▼西洋の舞台芸術の分類
「歌劇」(Opera):音楽+舞踊(憧憬の美、理想主義的)
「楽劇」(Musikdrama)
「演劇」(Drama):台詞+仕草(人生の再現、自然主義的)


...続く。現在、執筆中。


剣舞(剣舞は日本舞踊以外にもハチャトゥリアンバレエ音楽「ガイーヌ」の最終幕の“剣の舞”等も有名)にも触れる予定。以前、兵法三大流派の1つ“念流”の流れを汲む小野派一刀流(後に北辰一刀流が分派)の始祖、小野忠明(千葉県南房総市出身、千葉県成田市領主)について触れましたが、千葉県との県境に位置する茨城県鹿嶋市は剣聖、塚原卜伝鹿島神宮の神官の子で、鹿島古流と香取神道流(香取神道流のジェダイの騎士たちです。日本最古の流儀と言われる香取神道流は鹿島新当流の基になった権威ある流儀で、その始祖である飯篠長威斎家直は香取神宮で剣法の奥義を極めたと言われています。因みに、ジョージ・ルーカス監督の映画「スターウォーズ」は黒沢明監督の映画の影響を受けて製作されており、例えば、ダースベイダーの黒マスクは武士の鎧兜をヒントに作られていることは有名です。)を学び、後に兵法三大流派の1つ“神道流”の流れを汲む鹿島新当流を創始)の出身地で、茨城県鹿島市から千葉県香取市の一帯を中心に神道流が受け継がれ歴史に名を刻む剣豪を数多く排出しています(因みに、兵法三大流派の最後の1つは柳生で有名を馳せた“陰流”です。)。そこで、武道と舞についても触れてみたいと思っています。

香取神道流に因んで、醤油の老舗キッコウマンの創業者は香取神宮(千葉県香取市)の氏子だったそうで、香取神宮の神紋「亀甲紋」の中に「鶴は千年、亀は萬年」という故事に肖って“萬”の文字を入れたものがキッコウマン(亀甲萬)ロゴマークになっており、大変にお目出度くキッコウマンの醤油を愛用していると長生きしそうです。なお、ビデオレンタルのGEO(ゲオ)ロゴマークも同社創業者の家紋である亀甲紋をイメージしたものです。更に脱線すれば、亀甲紋をモチーフにした亀甲文様は歌舞伎衣装のデザインとしてもお馴染みです。

今週末の紅葉狩り(2ケ所)の写真。正しく神のキャンバスと形容したくなるような奇跡的な美しさです。西洋の庭園はシンメトリーに調和された人工美で貫徹されていますが、これに対して日本の庭園は自然美と人工美とが絶妙に調和され、人工が自然の中へと溶け込んでいる一元論的な世界観を体現した芸術です。僕の拙いカメラの腕前ではその美しさや世界観の半分も切り取れませんが、本当に美しいものに触れたときの圧倒的な恍惚感に打ちのめされます。...(後で整理します)


【題名】クラシックミステリー 名曲探偵アマデウスメンデルスゾーン真夏の夜の夢”」
【放送】NHK−BSプレミアム
    平成21年7月19日(日)20時00分〜20時30分
【司会】筧利夫
    黒川芽以
    美保純
【出演】野本由紀夫(玉川大学教授)
    星野宏美(立教大学教授)
    千住明(作曲家)
    磯部周平(東邦音楽大学教授)
    NHK交響楽団(指揮:阪哲朗)
【感想】

...続く。現在、執筆中。

▼おまけ
ボロディンの歌劇「イーゴリ公」より「ポロヴェツ人(韃靼人)の踊り」(ポロヴェツ人(韃靼人)は遊牧民族)をお楽しみ下さい。人類の起源はアフリカで、「狩猟民族」(紀元前4万年頃に中欧で発祥、社交的・攻撃的..)、「農耕民族」(紀元前2万年頃に北欧で発祥、協調的・計画的..)、「遊牧民族」(紀元前1万年頃に中近東・アジアで発祥、個人的・行動的..)に分化し、各々の生活様式から生まれる民族的な特性の違いが文化面(舞踊のスタイルを含む)にも大きな影響を与えています。

ヘンデルハープシコード組曲第2番より第4曲「サラバンド」(サラバンドとは3拍子の荘重な舞曲のこと)をお楽しみ下さい。バロックダンスは西洋の宮廷舞踏(ヴェルサイユ宮殿の貴族が踊ったメヌエット、ガヴォット、シャコンヌサラバンド)のことで、バレエや社交ダンスのルーツになっています。映画「カストラート」でご存知のコビリオ監督がリュリの半生を描いた映画「王は踊る」の中でもバロックダンスのシーンが踏んだんに登場します。

チャイコフスキーバレエ音楽くるみ割り人形」より第14曲「パ・ド・ドゥ」をお楽しみ下さい。“(グラン・)パ・ド・ドゥ”とはバレエ用語で、プリマ・バレリーナ(最高位のバレリーナ)とダンスール・ノーブル(その相手役となる男性ダンサー)の二人の踊りのことで、この場面では金平糖の精(正確には洋菓子“ドランジェ”の精ですが、日本では一般に広く知られていなかったので“金平糖”の精という邦訳があてられました)と王子の二人の踊りが繰り広げられます。因みに、この舞台では英国ロイヤル・バレエ団のプリンシパルに就任されていた吉田都さんがプリマ・バレリーナを務められています。

歌舞伎舞踊京鹿子娘道成寺」より抜粋。この歌舞伎舞踊安珍清姫伝説に題材した能「道成寺」をベースに生まれましたが、この歌舞伎舞踊には踊りの要素がすべて入っていると言われており、六代目尾上菊五郎がこの歌舞伎舞踊を指して「まだ足りぬ おどりおどりて あの世まで」という辞世の句を残しているほど奥深く華のある曲目です。“花の外には松ばかり、花の外には松ばかり 暮れ染めて鐘や響くらん..”という情景描写に優れた詞章で始まる長唄も耳に心地よく、昔の日本語が持っていた香気ある美しい響きや豊かな詩的表現力に憧れを覚えます。進歩主義に懐疑的な立場を採る僕としては、ある面で日本の文化は後退しているような気がしてなりません。

クラシックミステリー 名曲探偵アマデウス「リスト “ラ・カンパネラ”」

【題名】クラシックミステリー 名曲探偵アマデウス「リスト “ラ・カンパネラ”」
【放送】NHK−BSプレミアム
    平成24年11月14日(木)12時00分〜12時45分
【司会】筧利夫
    鈴木杏
    鈴木砂羽
【出演】小山実稚恵(ピアニスト)
    中川賢一(桐朋学園大学音楽学部講師/ピアニスト)
【感想】
先日、サムスンの“GARAXY S5”(後継機種は“GALAXY Note Edge”)を購入しました。前評判と異なり“iPhone 6”がハイレゾ音源に対応していなかったので、散々迷った挙句、(ハイレイゾ音源をヘッドフォンで再生してもハイパーソニックを十分に体感できないという方もいますが)今回はハイレゾ音源に対応している携帯端末を選びました。このほかに、ハイレイゾ音源に対応している端末としてソフトバンクから“Xperia Z3”がリリースされる予定なので、ハイレイゾ音源に興味がある音楽好きの方は買替えをご検討されてみてはいかがでしょうか。

ジョー・ブラックをよろしく [DVD]

ジョー・ブラックをよろしく [DVD]

  • 発売日: 2012/04/13
  • メディア: DVD
そんな訳で今日は携帯端末と戯れながら、ブラッド・ピットが主演している映画「ジョー・ブラックをよろしく」(原題:Meet Joe Black)を拝見し、古今東西の「橋」が果たしてきた宗教的又は芸術的な意義について少し思うところあり、ブログの枕として戯言を並べ立てようという趣向です(以下、ネタバレ注意)。この映画をご覧になった方も多いと思いますが、死期の近い大富豪パリッシュ(アンソニー・ホプキンス)のもとに娘スーザンの友人に憑依した死神(ブラッド・ピット)が降臨します。死神はパリッシュとの約束でパリッシュの寿命を65歳の誕生日まで延ばすことになり、それまでの間、死神はスーザンの友人に憑依したまま人間界を見学し、やがてスーザンと恋仲に堕ちるというロマンティック・ファンタジーです。死神はパリッシュとの約束とおり65歳の誕生パーティーの最中にパリッシュを天国へ召しますが、そのラストシーンでパーティー会場となっている庭園に架かっている丸橋(神社の境内に架かっている御神霊や参拝者が渡るための太鼓橋を彷彿とさせるもの)が印象的に使われています。このシーンでは、丸橋を挟んでパリッシュがこの世の名残りを惜しむパーティー会場(此方、光に包まれる現世)と、その向こう側に死神が待つ庭園(彼方、闇に包まれる冥界)が印象的に対比して描かれ、この世への名残りを断ち切ってパリッシュがパーティー会場を一人静かに離れて死神と並んで此方(現世)から彼方(冥界)へと渡橋してきます。その二人の後ろ姿を見て直観的に悟ったスーザンは二人の後を追おうとしますが、死神はパリッシュの親心を汲んでスーザンも一緒に天国へ召したいという恋慕の情を断ち切り、スーザンに渡橋(後を追うこと)することを思い止まらせるために死神とパリッシュの姿が消えた丸橋の彼方(冥界)から死神が憑依していないスーザンの友人(恋人)だけを再び此方(現世)へ送り返し、“彼”と現世で幸せな人生を全うするように促すという結末です。このシーンに登場する丸橋は能舞台の「橋掛り」を彷彿とさせます。即ち、能は「鏡の間」(彼方、異界)と「舞台」(此方、現世)との間に「橋掛り」(異界と現世とを結ぶ臍の緒)がありますが、能の多くの曲は「鏡の間」から「橋掛り」を通って異界の者(亡霊等)が「舞台」に現れ、この世の無念等を謡い舞って消え失せるという顕在劇の形態をとります。ここでも“橋”は二つの異なる世界(現世と異界、批岸と彼岸、日常と非日常等)を結び、出会いと別れの場としてドラマを生み舞台を演出する機能を果たしています。日本では、現世と冥界との境に三途の川(“三途の川”とはこの川を渡る途が三つあることに由来し、善人は橋を渡ることができますが、小悪人は川の浅瀬を、大悪人は川の深瀬を渡らなければならないと言われています。「地蔵菩薩発心因縁十王経」の“一山水瀬。二江深淵。三有橋渡。”)が流れ、その川に橋が架けられていると考えられていますが(因みに、地獄のことをサンスクリット語で“Naraka”(ナラカ)と言いますが、ここから舞台の底のことを“奈落”(ナラク)と言うようになりました。)、これと同じような考え方は西洋にも見られ、例えば、ダンテ「神曲」地獄篇では、地獄にはアケローン川が流れ、冥府の渡し守カロンの舟に乗って地獄へ行き着くとされています。


土佐光信「十王図」三途川の画
善人は橋を渡り、悪人は急流に投げ込まれる様子が描かれています。また、六文銭を持たない死者が三途の川の渡し賃の代りに衣類を剥ぎ取られる姿も描かれていますが、その六文銭真田家の家紋になっています。因みに、千葉県長生郡長南町には“三途川”という名前の川があり橋が架けられていますが、これまでのところ川を渡った人が戻って来れなくなったという話は聞かないのでご心配なく..。このほかに宮城県蔵王青森県の恐山にも三途川という名前の川が存在します。

キリスト教ではヨルダン川が三途の川に相当する役割を果たし、神の国(天上界)と罪の国(地上界)の境と考えられています。旧約聖書ヨシュア記には、モーセの後継者ヨシュア(ヘブル語で“救世主”の意味)に率いられたイスラエル人がヨルダン川東岸から西岸へ渡河し、約束の地カナンへ移住したことが記されていますが、ヨシュアに率いられてイスラエル人がヨルダン川を渡河したことは神の民がイエスに導かれて神の国へ入ることに準えられて語られることがあります。当時は橋や舟がなくヨルダン川を渡河するのは命懸けだったと思いますが(ご案内のとおり死海(他の海と比べて塩分濃度が約10倍なので生物の生息は不可)へと注ぐヨルダン川は急流で死の川とも呼ばれています)、ヨルダン川は罪を洗い流す川であると共に、罪人が渡れない(永遠の劫罰へと魂を沈める)川であって、罪を悔い改めなければヨルダン川東岸(罪の国)から西岸へ渡河し(新約聖書ではヨルダン川は洗礼者ヨハネが人々に懺悔を説いて洗礼活動を行い、イエスに洗礼を授けた神聖な場所として記されています)、約束の地カナン(神の国)へ入ること(ヨルダン川渡河の軌跡)はできないという考え方に結び付いています。因みに、能「墨田川」では、シンボリックな意味で墨田川西岸が現世、東岸が冥界という描き方がされていますが、洋の東西を問わず川は現世と冥界との境であり、その間を橋又は渡し守(ヨシュアは天国への渡し守と言えましょうか)がつないでいて、罪人は容易に渡ることができないという共通のイメージがあるようです。なお、有名な黒人霊歌「深い河」はアフリカからアメリカに連れて来られた黒人奴隷が自分達の境遇をキリスト教の信仰に準えて歌にしたもので(詳しくは別の機会に触れますが、この黒人奴隷の中からジャズ等が生まれたことはご案内のとおり)、この世の苦しみから逃れ深い河(=ヨルダン川)を渡って天国へ行きたいという悲哀が歌われています。因みに、「怖い絵」で有名なドイツ文学者の中野京子さんが「橋をめぐる物語」という面白い本を執筆されていらしゃいますが、その中でゾロアスター教の「審判者の橋」やマホメット教の「細長い橋」など現世と冥界とをつなぐ橋が紹介されていますので、詳しくは本を買ってお読み下さい。


左から、1枚目:ご当地キティ―「落花生かぶりキティー」と千葉県産落花生で造ったピーナッツバター。映画「ジョー・ブラックをよろしく」のなかで死神(ブラッド・ピット)がピーナッツバターを舐めるシーンが度々登場しますが、(故郷自慢で恐縮ですが)日本の落花生(ピーナッツ)の約80%は千葉県産と言われており、千葉県産の落花生(ピーナッツ)は実に香ばしく生豆のままでも十分にテイスティーです。千葉県内でも一番の収穫量を誇る八街市のあたりを車で走ると落花生(ピーナッツ)専門店をよく見かけますが、生豆の他にも、ゆで豆、いり豆、炊込ご飯やお菓子(和・洋菓子)など様々な料理法や楽しみ方があり、お近くに来られた際に落花生(ピーナッツ)専門店に立ち寄られると色々と面白い発見があるかもしれません。2〜3枚目:落花生のゆるキャラ「ピーちゃんナッちゃん」と「ぼっちくん」、落花生畑の「ぼっち」。ひと昔前、日本全国でゆるキャラがブームになりましたが、千葉県内でも一番の収穫量を誇る八街市には落花生の殻を模ったピーちゃんナッちゃんと落花生畑の“ぼっち”(落花生を天日干しするために野積みにしたもの)を模ったぼっちくんというゆるキャラがあり、落花生(ピーナッツ)と同様に人々からこよなく愛されています。因みに、落花生は1つの殻に2粒の豆が入っていることから数字の“1”を1粒の豆に見立て11月11日をピーナッツの日としています。ピーナッツは便秘によく効き、美容や健康にも良いそうなので、来る11月11日は、本場、千葉県産の落花生(ピーナッツ)を食べて、体に“い(1)い(1)日”にしてみませんか。4〜5枚目:千葉県のゆるキャラチーバくん”。現在、総武線の車両にチーバくんがプリントされたものが走っていたのでご覧になられた方も多いと思いますが、千葉県のゆるキャラチーバくん”は千葉県のフォルムを模って強引にキャラクター化したもので、丁度、角が野田市、舌が浦安市、耳が銚子市、足が館山市にあたるチン(バ)獣です。富津岬の部分を出ベソにするか否かを巡って大論争になったらしく、結局、富津岬を切り捨て出ベソにしないことになったそうですが、そのうち“チーバくん”に出ベソの弟が登場するのではないかとも噂されています。

ショスタコーヴィチの歌劇「ムツェンスク群のマクベス夫人」


左上段から1〜4枚目:晴海埠頭に寄港している世界でも屈指、日本最大級の豪華客船「飛鳥Ⅱ」タイタニック号や戦艦大和と同じくらいの大きさです。レインボーブリッジの下を通過する写真が欲しかったのですが、タイミングが悪く失敗してしまいました。上述の携帯電話によるコミュニケーションも人々を結ぶ橋の役割を果たしていますし、世界を巡る豪華客船も同じく世界中の人々を結ぶ橋の役割を果たしていると言えます。左下段から1〜4枚目:晴海埠頭に寄港している世界最初のマンション型豪華客船「THE WORLD」。この日は珍しく晴海埠頭には「飛鳥Ⅱ」と「THE WORLD」の二隻の豪華客船が寄港していましたが、人々の様々な想いや夢を乗せて世界中を旅する豪華客船にはロマンが感じられます。飛行機の旅と違って豪華客船の旅はゆっくりと自分自身や自分の人生を見詰め直す時間が与えられるところに大きな魅力があり、いつか大海原の上で自分自身と向き合って自分の半生を振り返る時間を持ちたいものだと憧れています。救命ボートも豪華なので、これならいつか乗ってみたい気にさせられます..。

さて、今日は撮り溜めていたクラシックミステリー 名曲探偵アマデウスを観たので、その概要を簡単に残しておきたいと思います。


執筆中。続く。


◆おまけ
ダンテ「神曲」を題材にした曲を3曲ほどご紹介しておきます。
リストの「ダンテの神曲による交響曲」より抜粋

チャイコフスキーの幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」より抜粋

ラフマニノフの歌劇「フランチェスカ・ダ・リミニ」より抜粋

クラシックミステリー 名曲探偵アマデウス「サラサーテ “ツィゴイネルワイゼン”」

【題名】クラシックミステリー 名曲探偵アマデウスサラサーテツィゴイネルワイゼン”」
【放送】NHK−BSプレミアム
    平成24年1月26日(木)12時00分〜12時45分
【司会】筧利夫
    黒川芽以
    鈴木砂羽
【出演】加藤知子(ヴァイオリン)
    新日本府ファイルハーモニー交響楽団(指揮:円光寺雅彦)
    野本由紀夫(玉川大学芸術学部准教授)
    関口義人(音楽評論家)
【感想】
最近のブログの枕は千葉ネタ尽しで、千葉に関係のない方は食傷気味になっているかもしれませんが、“○を喰らわば皿まで”の気概で京都や滋賀もひれ伏す故郷自慢の極め付けをアップしたいと思います。千葉礼賛。とかく飲み会での故郷自慢と手柄自慢は嫌われますが、映画「壬生義士伝」において新撰組隊士で北辰一刀流の使い手だった吉村貫一郎中井貴一さん)が「故郷の話が無駄口であるはずがながんす」という名台詞を残しているとおり、手柄自慢はともかく故郷自慢を毛嫌いするのは野暮というものです。..ということで早速、今日9月16日(1863年)は新撰組の筆頭局長・芹沢鴨が暗殺された命日ですが、千葉県流山市新撰組の局長・近藤勇や副長・土方歳三ほか隊士200名が最後に本陣を置いて再起を図った陣営跡(御用商酒造業、長岡屋七郎兵衛邸跡)があります。ここで近藤勇土方歳三は袂を分ち、近藤勇は新政府軍へ出頭して斬首され、土方歳三会津戦争を経て函館戦争で戦死しています。盟友、近藤勇土方歳三の別離の舞台となり別れの酒を酌み交わしたであろう流山の造り酒屋「長岡屋」に因んで男の酒詰合せ「本陣長岡屋」が発売されています。忠義の士、近藤勇(焼酎)と土方歳三清酒)は互いに生き方が異なり袂を分つことになりましたが、貴公も幕末の志士達が命懸けで描いた男のロマンに思いを馳せながら美酒に酔いしれてみませんか。なお、吉村貫一郎鳥羽伏見の戦いで戦死(映画では南部藩大阪屋敷に逃れて切腹)し、千葉県流山市までは来ていません。続く。



<上段左から>
1〜2枚目:市川團十郎祖先居住地の碑と(旧)東光寺薬師堂(千葉県成田市
初代市川團十郎の曽祖父・堀越十郎家宣は武田家の能係の家計で一条信竜(武田信玄の異母弟)に仕えていましたが、武田家が滅亡すると下総国幡谷村(千葉県成田市)に移り住み、その後一時、北条氏の家臣となりましたが、1590年に豊臣秀吉によって北条氏が滅亡すると農民になったそうです。しかし、父・堀越重蔵は農業を嫌って江戸に出て、そこで初代市川團十郎が生まれました。写真は、(旧)東光寺薬師堂の境内に建つ、初代市川團十郎の曽祖父・堀越十郎家宣、祖父・堀越重右衛門及び父・堀越重蔵の三代に亘って住んだ居住地跡の碑です。樹幹が(旧)東光寺薬師堂を遮って地を這うように居住地跡の方へ延びていますが、居住地跡の土地には色々な人の思いが積り積って樹幹を惹きつける霊性のようなものを宿しているのかもしれません。なお、当時の芸術家は有力な戦国大名に召し抱えられるなどして芸能活動を行っており、例えば、観阿弥駿河国の今川家、世阿弥は将軍家の足利家に召し抱えられていましたが、西洋のみならず日本においてもパトロンが文化芸術の発展に重要な役割を果たしてきた一例と言えます。
3〜4枚目:成田山新勝寺延命院旧跡(千葉県成田市
成田山表参道を薬師堂へ向って歩いて行くと延命院旧跡があります。これは1842年に老中水野忠邦による天保の改革(奢侈禁令)のあおりを受けて江戸十里四方追放となった七代目市川團十郎成田山新勝寺延命院に身を寄せています。その名残を写すように延命院旧跡跡の街灯には三升紋があしらわれています。一時、幡谷重蔵と名乗っていたようですが、歌舞伎「東海道四谷怪談」の民谷伊右衛門役をはじめとした「色悪」(外見は二枚目でも性根が悪く、女性を裏切る悪役)の名手で、成田屋相伝の荒事18演目を選んで“歌舞伎十八番”を定め(「十八番」を“おはこ”とも読むのは、市川宗家がこれらの演目を箱に入れて大事に受け継いだことに由来すると言われています。)、荒事をお家芸とする市川團十郎の名声を一層と盤石のものとしました。因みに、「随市川」とは市川宗家は随一の歌舞伎役者という意味で、“随一”と“市川”を掛けた褒め言葉です。
<下段左から>
1枚目:薬師堂(千葉県成田市
1655年に成田山新勝寺の本堂として建立されたもので、この本堂の頃に初代市川團十郎水戸光圀が参詣しました。現在の本堂に建て替えるために、1855年に古い本堂は薬師堂としてこの場所に移築しています。改装して新しく見えますが、現存する成田山の建物としては最も古いものです。なお、子宝に恵まれなかった初代市川團十郎成田山新勝寺に子宝祈願をしたところ、その願いが叶って1688年に二代目市川團十郎を授かりました。初代市川團十郎は御本尊の霊徳に感謝し1695年に成田不動明王を上演しましたが、その際に大向うから「成田屋!」という掛け声が掛かったのが“成田屋”の屋号の由来と言われています。荒事の特徴である“隈取り”や“見得”も不動明王の姿から来ていると言われ、「“不動の見得”で睨まれると病が治る」という噂が広まったことなどから成田山新勝寺の江戸っ子人気が高まり、成田山詣での参拝者が往来する「佐倉街道」(現在の国道296号)の名前が「成田街道」に変ってしまうほど賑わったそうです。因みに、更に時代は遡りますが、1180年に石橋山の戦いで敗れて安房に逃れた源頼朝成田山新勝寺を参拝し、平家追討を祈願しています。
2〜3枚目:成田山新勝寺額堂と七代目市川團十郎の石造(千葉県成田市
1821年に七代目市川團十郎が千両を寄進して額堂(通称、三升の額堂)が建立され、江戸追放が解かれて江戸に戻ると不動明王の御利益に報恩するために自らの石造を造らせて安置しています。当初、額堂は三重塔の横にあったそうですが、1965年に不審火で焼失し、現在は光明堂の横に移築されています。因みに、“千両役者”とは江戸時代に歌舞伎役者の中で特に人気を誇り大衆を魅了した役者を示し、中村座市村座守田座等の座元(興行主)との専属契約において1年間(毎年11月から翌年10月までの1年間契約で毎年11月に役者が入れ替わることから各座元は11月に顔見世興行を行っていましたが、その名残りで現在でも11月の公演を“顔見世”と呼んでいます。因みに、現代の歌舞伎役者は、実質上、松竹株式会社と終身の専属契約を結んでいることになります。)に千両(現在の価値に換算して1億円前後なので、“千両役者”を現代風に言うと“1億円プレーヤー”です。)を超えるギャラを得たことからこう呼ばれるようになりました。最初の千両役者は二代目市川團十郎と初代芳澤あやめと言われていますが、当時は座元から歌舞伎役者へギャラが直接支払われることはなく、必ず、奥役(マネージャー)を通して支払われましたが、奥役がそのギャラの1割前後を手数料として自分の懐へ入れ(“1”のことを「ピン」(ピンからキリまで)と言いますが、“かすめ取る”という意味の「はね」ると併せて「ピンはね」という言葉が生まれています。)、その残金が歌舞伎役者に支払われる慣習がありました。なお、平和大塔の1階にある霊光堂には、市川團十郎に所縁の資料などが展示されています。
4〜5枚目:高浜虚子の句碑(七代目市川團十郎・六代目市川團蔵銅像台座)と五代目芳村孝次郎の碑(千葉県成田市
1910年に七代目市川團蔵が七代目市川團十郎及び六代目市川團蔵銅像(日本で最初の俳優の銅像)とその右横に名優七世市川団蔵と刻んだ碑を建立しましたが、1941年(第二次世界大戦中)に公布された金属回収令により七代目市川團十郎及び六代目市川團蔵銅像が供出されたので、1943年に八代目市川團蔵がその台座の上に七代目市川團蔵と親交のあった高浜虚子の句碑(“凄かりし 月の団蔵 七代目”)を建てたものが成田山公園に残されています。なお、その左横に長唄唄方の名跡、五代目芳村孝次郎(後に改め、四代目松永和楓)の永代御膳料の碑も建てられています。

ステレオタイプなテーマで恐縮ですが、江戸落語上方落語が対比されるように同じ伝統芸能でも江戸と上方では異なる特徴を持っていますので、一度、自分の頭を整理するために、総合芸術たる歌舞伎における江戸歌舞伎(荒事)と上方歌舞伎(和事)の特徴的な違いについて書いてみたいと思います。続く。



<上段左から>
1〜3枚目:成田街道沿いの成田山道道標(千葉県佐倉市)、成田山新勝寺総門と出世稲荷にある石燈籠(千葉県成田市
1831年に七代目市川團十郎成田街道沿いに成田山道と刻んだ道標を建立しており(写真に向って一番右側の石柱)、この道標の右側面に七代目市川團十郎が詠んだ句“天はちち 地はかかさまの 清水可那”が刻まれています(最後に「團十郎」の名前も刻まれていることが確認できます。)。この道標は加賀清水の近くに建てられていますが、七代目市川團十郎も加賀清水を愛飲していたと言われており、この道標の左側面には「この清水を飲めば女性が懐妊する」旨の功徳が説かれています。因みに、この地を領有していた佐倉藩主、大久保加賀守利常の通称「加賀様」と「かか(母)さま」とが掛詞になっています(この近くにある佐倉城祉は日本の名城百選の1つです。)。また、成田山新勝寺総門を入ったところに七代目市川團十郎(改め、七代目市川海老蔵)と八代目市川團十郎が奉納した石燈籠(仁王門に向って左の石燈籠は七代目、右の石燈籠は八代目が奉納したもの)があります。さらに、出世稲荷の鳥居を潜ったところに同様に七代目と八代目が奉納した石燈籠(社殿に向って左の石燈籠は八代目、右の石燈籠は七代目が奉納したもの)があります。
4枚目:市川宗家代々の墓(東京都港区)
昔、市川宗家代々の墓は常照院(東京都港区)にあったそうですが(境内には七代目市川團十郎が奉納した手水鉢があります)、現在は青山霊園に移されています。因みに、常照院には歌舞伎「梅雨小袖昔八丈」に登場する白木屋お熊や浄瑠璃「恋娘昔八丈」に登場する城木屋お駒のモデルとなった白木屋お熊の墓があります。また、落語「髪結新三」の題材にもなっています。
<下段左から>
1〜4枚目:成田山新勝寺表参道と成田山公園
成田山新勝寺の表参道は昔情緒が漂う門前町で、宛らジブリワールドを彷彿とさせるような独特の風情を醸し出す“望楼”が魅力の大野屋旅館登録有形文化財)など風趣に富んだ景観を楽しめます。また、成田山公園は紅葉の名所なので、これからの季節は紅葉狩りにもお勧めです(今年の紅葉祭りは2014年11月15日〜30日)。
5枚目:小野派一刀流の始祖・小野忠明と二代目・小野忠常の墓
成田山新勝寺の近くに柳生新陰流と並んで徳川将軍家の剣術指南役であった小野派一刀流の開祖・小野忠明と二代目・小野忠常の墓があります。小野忠明は千葉県南房総市の生まれで(南総里見八犬伝の舞台になった滝田城の近く)、万喜城主の土岐家(千葉県いすみ市)に仕えていた時代に武者修行で訪れた一刀流の開祖・伊藤一刀斎に師事しています。1590年に豊臣秀吉による小田原城の落城に伴って(これにより北条家の家臣であった初代市川團十郎の曽祖父・堀越十郎家宣は下総国幡谷村(千葉県成田市)に移り住んでいます。)北条方であった万木城主の土岐家は豊臣方であった里見家に滅ぼされますが、1593年に小野忠明徳川家康に200石で召し抱えられ、その後、将軍家の剣術指南役になっています。晩年、小野忠常家督を譲って知行地の下総国埴生郡寺台村(現在の千葉県成田市寺台)に隠棲し、永興寺へ葬られています。なお、小野派一刀流から新撰組隊士・吉村貫一郎(映画「壬生義士伝」の主人公)、坂本竜馬山岡鉄舟等を輩出した千葉周作北辰一刀流等が分派しています。因みに、小野家の知行地・下総国埴生郡寺台村(現在の千葉県成田市寺台)と市川團十郎の祖先である堀越家の居住地・下総国幡谷村(千葉県成田市幡谷)とは非常に近く、また、時代も重なることから、どこかで両者は会っているかもしれません。

【ライブびゅ〜イング】
 成田山新勝寺團十郎祖先住居跡〜市川團十郎ゆかりの地〜

歴史上の“毒婦”や“烈女”が芸術作品や子女教育に与えた影響について書く予定です。続く。



<上段左から>
1〜5枚目:長妙寺の八百屋お七の墓(千葉県八千代市)、円乗寺の八百屋お七の墓と大円寺のお七供養地蔵(東京都文京区)、大円寺のお七地蔵尊(東京都目黒区)
八百屋お七は千葉県八千代市の生まれで、東京都文京区本郷に店を構える八百屋徳兵エに養子に入りました。ある時、家が隣家の火災で焼失したので近くの円乗寺に身を寄せていましたが、お七は寺小姓・山田佐兵衛に恋心を抱きます。お七は家が再建されて家に戻った後も山田佐兵衛を一途に恋い慕い、山田佐兵衛に会いたい一心で家が焼ければ再び円乗寺に移れると1682年(“いろはに”)に家に付け火をし、品川鈴が森の刑場で火あぶりに処せられました。享年16歳、“世の哀れ 春ふく風に 名を残し おくれ桜の 今日散りし身は”という辞世の句を残しています。お七は円乗寺(東京都文京区)に葬られましたが、お七の実母は秘かにお七の遺髪を受け取って長妙寺(千葉県八千代市)に墓を建てお七の御霊を弔いました。なお、円乗寺にある三基の墓碑のうち向って右側の墓碑は、女形の歌舞伎役者・四代目岩井半四郎(四代目市川團十郎が歌舞伎の名跡岩井半四郎が途絶えるのを憂い、自分の門下に四代目岩井半四朗を襲名させて女形の大看板としての隆盛の礎を築いています。)がお七を演じて好評だったことから建立したものです。なお、円乗寺の近くにある大円寺には、お七の罪業を救うために熱した焙烙(ほうろく)を頭に被り自ら焦熱の苦しみを受けた“ほうろく地蔵”が安置されており、首から上の病を治す御利益があると言われています。また、山田佐兵衛はお七の処刑後に剃髪して僧侶となり西運と名乗ってお七の菩提を弔いましたが、目黒の大円寺には西運の石碑と共に“お七地蔵”が安置されており、一途な愛を願う若い女性が熱心に参拝するそうです。八百屋お七は「毒婦」と呼ぶには余りにピュア―で幼過ぎたような気がしますが、一途な恋の炎に身を焦がした少女の狂おしいまでの純情が人々の同情を生むのか、この事件は浮世草子「好色五人女」歌舞伎「八百屋お七歌祭文」歌舞伎「八百屋お七恋江戸染」歌舞伎「松竹梅雪曙」歌舞伎「松竹梅湯島掛額」歌舞伎「三人吉三廓初買」浄瑠璃「八百屋お七恋緋桜」浄瑠璃「伊達娘恋緋鹿子」落語「お七の十」など多くの作品の題材となっています。(毒婦伝は以下に後述します。)
<下段左から>
1〜2枚目:重願寺の花井お梅の墓(千葉県佐倉市)、長谷寺の花井お梅の墓(東京都港区)
小説「明治一代女」で知られる花井梅は1863年に佐倉藩(千葉県佐倉市)の下級武士・花井専之助の娘として生まれ、その後、家族で東京に移り住んで15歳で芸妓になります。花井梅は1887年に某銀行頭取の資金援助を受けて待合茶屋「酔月楼」の女将になりますが、その翌月、箱屋として雇っていた八杉峰三郎に対して不仲な父親との仲を取り持つようにお願いしたところ、八杉峰三郎からその見返りとして男女関係を迫られたことなどから浜田河岸(東京都中央区日本橋)で八杉峰三郎を包丁で刺します。これが花井お梅事件(別名、箱屋事件)の概要で、新内「梅雨衣酔月情話」歌舞伎「月梅薫朧夜」歌舞伎「仮名屋小梅」の題材になっています。美人芸妓の殺人事件ということで新聞がセンセーショナルに書き立て、花井梅は「毒婦」に仕立て挙げられましたが、八杉峰三郎は花井梅が熱を挙げていた若手女形の歌舞伎役者・四代目澤村源之助との関係を壊すなど昔年の恨み辛みも手伝って包丁を所持したのかもしれず、その意味では「毒婦」というより質の悪い男のために人生を狂わせた可哀想な人と言えそうです。長谷寺(東京都港区)に花井梅の墓と“新内各派”と刻まれた卒塔婆が建てられ、その右側に藤田まさとさんが建てた歌碑(“十五雛妓であくる年 花の一本ひだり褄 好いた惚れたと大川の 水に流した色のかず 花がいつしか命とり”と刻まれています)が建てられています。また、重願寺(千葉県佐倉市)には花井梅の墓と伝えられる墓石がありますが(咎人のためか墓碑名は刻まれていません)、生前の花井梅を知る人がその御霊を供養するためにひっそりと建立したものかもしれません。なお、歌舞伎では、女だてらに男勝りの強請や人殺しをする毒婦を主人公とした作品のことを「悪婆物」と言い、上述の四代目岩井半四郎歌舞伎「大船盛鰕顔見勢」で私娼・三日月お仙を演じたのが「悪婆」の始まりと言われています。因みに、歌舞伎の悪婆物に登場する「毒婦」としては、上述の白木屋お熊、八百屋お七や花井お梅のほかにも、高橋お伝歌舞伎「綴合於伝仮名書」浪曲「高橋お伝」谷中霊園にある高橋伝の墓に参ると三味線が上達するという評判で現在でも三味線を習う人の墓参が多いとか)や鳥追お松歌舞伎「廿四時改正新話」)などが挙げられます。いずれも若く色白で細面の美人が凶悪な罪を犯すというギャップに劇(ドラマ)性があり物語にし易いという面があったと思いますが、男尊女卑という時代背景のもと女性はか弱く慎ましやかであるべきであるという固定観念を打ち破るようなショッキングな事件が起こり、「毒婦」としてセンセーショナルに騒ぎ立て特異な事件として整理すると共に、このような規格外の事件を当時の社会秩序(価値観)の中で上手く消化して行く(庶民の心の中で折り合いを付けて行く)ための仕組み(文化的な仕掛け)として、懺悔芝居は時代の共通認識や感覚を取り戻して行くという当時の社会的な免疫(解毒)作用を営んでいたと言えるかもしれません。
3枚目:妙興寺の忠婢さつ(鏡山お初のモデル)の墓(千葉県多古町
妙興寺(千葉県多古町)には浄瑠璃「加賀見山旧錦絵」歌舞伎「鏡山旧錦絵」歌舞伎「加賀見山再岩藤」に登場する鏡山お初のモデルとなった松田さつ(通称、忠婢さつ)の墓があります。松田さつは長府藩士松田助八の娘として生まれ、浜田藩松平家江戸屋敷の側女・岡本道女の召使いとして奉公していました。ある時、岡本道女は老女中・落合沢野の履物を間違えて使用してことを咎められ、家名を辱められたことを苦に自害します。松田さつは岡本道女の仇討ちを決意し、1724年に岡本道女の短刀で斬り付けて落合沢野を見事に討ち果たします(通称、鏡山事件)。その後、松田さつは剃髪して妙真尼と名乗り、松平家に所縁の妙興寺(千葉県多古町)に庵を結んで岡本道女や落合沢野の菩提を弔ったと伝えられています。松田さつの生地跡には妙真寺山口県下関市長府)が建てられ、妙興寺から分骨した松田さつの墓があります。忠婢さつは「烈女」(=信念を貫きとおす激しい気性の女性、貞操を固く守る女性)として話題になり、鏡山事件は“女忠臣蔵”として浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなりました。この他の烈女伝としては、(現代人の感覚からすると違和感がありますが)日本国民として大津事件の落し前をつけるために壮絶な自決を果たした「烈女勇子」(信念を貫きとおした女性)や強引に迫るストーカー男を撃退しその責任をとって潔く自決した「烈女松江」(貞操を守りとおした女性)が挙げられます。このような烈女伝を見てみると、現代の女性に多い傾向として単に「負けん気が強い」又は「我が侭な性分」というものとは異なり、昔の女性は物事の道理や筋目を重んじ、しっかりとした信念と覚悟を持って潔く振る舞える美しい生き方をしていた女性が多かったように感じます。女性の社会的な地位の向上が叫ばれて久しく、現代と昔では随分と社会的な状況は変わっていますが、果たして現代の女性は昔の女性と比べて精神的に自立していると言い得るのか(これは男性にも当て嵌まる問いかもしれませんが)、烈女伝は「自立」ということの意味を見詰め直すための良い機会を与えてくれます。
4枚目:神崎神社の大クス「なんじゃもんじゃの木」(千葉県香取郡
近くにあった観光スポットを案内します。神崎神社(千葉県香取郡)の大クスです。1674年に水戸光圀がこの木を見て「この木はなんというもんじゃろか」と感嘆したので、それ以来、「なんじゃもんじゃの木」と言われています。
5枚目:西栄寺の琵琶首観音(通称「朝ねぼう観音」)(千葉県流山市
近くにあった観光スポットを案内します。西栄寺(千葉県流山市)には琵琶首観音が祀られています。この琵琶首観音は酒盛りをして寝過し、翌朝、天上界の会議に遅れたという逸話があることから通称「朝ねぼう観音」とも言われています。誰かに似ているような気がしますが、ねぼけ眼で顔がむくんでいるように見え、いかにも寝起きのような表情は実に愛嬌があります。

さて、ブログの枕が長くなり過ぎましたが、今日は撮り溜めていたクラシックミステリー 名曲探偵アマデウスを観たので、その概要を簡単に残しておきたいと思います。ご案内のとおりスペインのヴァイオリニスト、パブロ・サラサーテは10歳のときにスペイン女王イサベル2世に招かれて御前演奏を披露し、ストラディヴァリウスとパリ留学を賜った神童です。その後、私財を投入してガヤール劇場にオーケストラを設立するなどパンブローナ(スペイン)を中心に精力的な音楽活動を行い、1878年(上記の花井お梅が芸妓になった年)に彼の代表作となる「ツィゴイネルワイゼン」を作曲しています。因みに、日本で最初のプロ・オーケストラは1904年に設立された東京音楽学校(→東京芸術大学)の東京音楽学校管弦楽団(→藝大フィルハーモニア)で、その後、1915年に山田耕作が東京フィルハーモニー会(→新交響楽団→NHK交響楽団)を設立しています。また、日本で最初のアマチュア・オーケストラとして1901年に慶應義塾大学ワグネル・ソサイエティが設立されています。

ドイツ捕虜オーケストラの碑
故郷自慢の最後にクラシック音楽ネタで締めたいと思います。1915年に第一次世界大戦の敗戦国であるドイツ及びオーストリアの捕虜を収容するための習志野捕虜収容所(千葉県習志野市習志野)が設置され、そこに収容されている捕虜達が習志野捕虜オーケストラを結成してベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、モーツァルトの歌劇「魔笛」、グリーグの音楽劇「ペール・ギュント」及びJ.シュトラウスのワルツ「美しく青きドナウ」等を演奏しています。日本では1926年11月19日にベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の日本初演(独奏:J.ケーニヒ、指揮:近衛秀磨、演奏:新交響楽団)が行われていますが、実はそれよりも早く日本でベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の演奏が行われていたことになります。未だ蓄音機(1910年販売開始)やラジオ(1925年放送開始)が普及しておらず、上述のとおり日本ではオーケストラが設立し始めたばかりの黎明期で、また、一般庶民がヴァイオリンを演奏できる環境にもなかった(1900年に鈴木バイオリン生産開始)と思われますので、おそらく殆どの日本人にとって初めて耳にする音楽だったのではないかと思います。なお、千葉県銚子市新国立劇場美術センターがあり、衣裳、舞台模型や小道具など舞台芸術に関する所蔵品が展示されており、鑑賞会やコンサート等のイベントも開催されていますので、銚子名物“キンメ丼”を食べがてら華やかなオペラの舞台の裏側を見物してみるのも面白いと思います。因みに、ご存知の方も多いと思いますが、オペラの廻り舞台は歌舞伎の廻り舞台を採り入れたものですし、METライブビューイングはシネマ歌舞伎を真似て始められたものです。なお、千葉県銚子市の周辺には地球が丸く見える展望台(犬吠埼の灯台)、実在の人物“座頭市”の住居跡や屏風ヶ浦などもありますので、ついでにこの辺を散策するのもお勧めです。

ツィゴイネルワイゼンの第1部冒頭は聴く者の耳を捉えて離さない哀愁に満ちた旋律が印象的ですが、これは冒頭の“ソ−ド−レ−♭ミ”という旋律に秘密があります。この曲の調性であるハ短調音階(和声的短音階)のソ(属音)はド(主音)へ向おうとする性質がありますが、冒頭の“ソード”の強い流れと“ド−レ−♭ミ”の緩やかな流れの巧みな旋律の作り方が最も人間の心を惹き付ける効果があると言われています(“ソ(5)−ド(1)−レ(2)−♭ミ(3)”という旋律を数字譜で表記し、俗に“5123の魔術”と言われています)。このような例は、ツィゴイネルワイゼンのほかにも、ベートーヴェンのピアノソナタ第8番「悲愴」第三楽章の冒頭(右手の最初の4音ソドレ♭ミの動きに注目)や都はるみさんの「北の宿から」の冒頭(あなたか(ソ)わ(ド)り(レ)は(♭ミ)ないですか・・♪)等にも見られ、いずれも印象深い効果を生んでいます。また、ツィゴイネルワイゼンの冒頭で、オーケストラが“ソ−ド−レ−♭ミ”という旋律(楽譜1ページ目、第1小節〜第2小節)を高音で演奏しているのに対し、これに続くソロヴァイオリンが“ソ−ド−レ−♭ミ”という同じ旋律(楽譜1ページ目、第3小節〜第4小節)を低音で演奏していますが、この落差が聴く人の心を惹き付ける効果があるとも言われており、冒頭の旋律を一層印象深いものとすることに成功しています。なお、ツィゴイネルワイゼンはロマ(ジプシー)音楽の影響を色濃く受けていると言われています。ロマ音階とハ短調音階(和声的短音階)は殆ど一致していますが、ロマ音階はハ短調音階(和声的短音階)のファの音に#がついて半音高くなっている点が異なり(楽譜2ページ、ソロヴァイオリンの部分)、これがロマ(ジプシー)音楽の独特の曲趣(哀愁、屈折など)を醸し出しています。

【楽譜】
http://petrucci.mus.auth.gr/imglnks/usimg/0/00/IMSLP111461-PMLP04860-Zigeunerweisen_small.pdf

サラサーテは手が小さかったのでパガニーニの曲を演奏しなかったそうですが(パガニーニは末端肥大症で普通の人より指が長かったと言われています)、そのハンディーキャップを補うためにサラサーテの曲は小さい手でも音程がとりやすいハイポジション(ヴァイオリンを演奏したことがある方は直ぐに分かると思いますが、高音になるほど音間が狭くなり、ローポジションと比べてハイポジションは1オクターブの間隔が狭くなります。)が多用されています。また、サラサーテはトリル(楽譜6ページ目、ソロヴァイオリンの“tr”部分)やグリッサンド(楽譜7ページ目、ソロヴァイオリンの“dim”部分/楽譜10ページ目、ソロヴァイオリンの“glissant”部分)等の技巧やG線のハイポジションを使った多彩な音色を使って表情豊かな“泣き”(傷心、悲哀、哀愁など)の表現を可能にしています。第2部はゆったりとした時間が流れ、第3部ではチャールダーシュ(ハンガリーにやってきたロマの人々がヨーロッパ各地の舞曲を採り入れて発展させたもので、19世紀にヨーロッパ全土に広がりました。)をベースに気持ちが高揚する曲趣が特徴で、左手の高速ピッチカート(楽譜33ページ目、ソロヴァイオリンの“+”部分)など華やかな技巧を散りばめてクライマックスを盛り上げていきます。なお、チャールダーシュとは哀愁を帯びた緩急のある曲趣で“ラッシュ”と呼ばれる遅いリズムの部分と“フリッシュ”と呼ばれる速いリズムの部分から構成されますが、ツィゴイネルワイゼンでは第1部前半のソロヴァイオリンが即興風に歌いながら伴奏は演奏のきっかけを待つチャールダーシュの間合いの妙と言うべきラッシュと呼ばれる部分、第3部がソロヴァイオリン及び伴奏とも息もつかせぬ速さで駆け抜けて行く躍動感のあるフリッシュと呼ばれる部分に相当します。

ヴァイオリニスト加藤知子さんの演奏を探してみましたが、YouTubeにはアップされていなかったので、サラサーテ60歳の頃の自作自演をアップしておきます。

00:11〜、00:19〜
聴く者の心を捉えるソドレ♭ミ
00:26〜
哀愁感を漂わすロマ音階
00:58〜
第1部は緩やかなラッシュ
01:24〜
泣きのトリル
01:34〜
感情を揺さぶるグリッサンド
01:58〜
サラサーテならではのハイポジション

03:41〜
第2部は優雅な美しい旋律

03:57〜
第3部は躍動感あふれるフリッシュ
05:06〜
超難易の高速の左手ピッチカート
見た目にも盛り上があるクライマックス

◆おまけ
アンコール曲のレパートリーとして定番ですが、ロマ音楽の影響を色濃く受けたモンティのチャールダーシュを、ヴェンゲーロフの透徹のテクニックが冴え映えとする自在(ところによりアクロバティック)な演奏でどうぞ。

映画「ボーカロイド™ オペラ 葵上 with 文楽人形」が大好評につき、再上映されます。なんだかまだ僕は行けそうにないですが(...本当に困ったものです)、宣伝しておきます。是非、感想をお聞かせ下さい!!

香清話〜香に聞く、香を聞く〜

【題名】香清話〜香に聞く、香を聞く〜
【著者】畑正高(松栄堂社長)
【出版】淡交社
【発売】2011年3月24日
【値段】1944円
【感想】
今日は仲秋の名月(月齢14歳)。昔から中国では仲秋の名月に月餅をお供えする風習がありましたが、それが日本へ入ってきてススキと月見団子(又は里芋)をお供えするようになりました。旧 暦8月15日の十五夜の月は里芋をお供えするので“芋名月”、もう1つの名月である旧暦9月13日の十三夜の月は枝豆をお供えするので“豆名月”といいま すが、その年に収穫した農作物をお供えして五穀豊穣を神様に感謝するという意味合いがあるのかもしれません。また、日本でススキをお供えするのは神様の依り代と考えられていたからで、現代のように専ら鑑賞のために月を愛でていたのではなくアニミズム信仰(自然に宿る精霊を信仰)のために月を愛でていたということかもしれません。古来、月は、月の満ち欠けによって潮の干満に影響を与え、女性の月経周期や色々な生理現象とも神秘的な関係があると言われています。日本最古の物語である竹取物語は、月からやってきた絶世の美女かぐや姫は5人の貴公子の求婚を断って8月の満月の夜に「月の都」へ帰ってしまうというファンタジックなストーリーですが、昔から月は多くの和歌に詠まれ、日本人の創造の源泉になってきましたが、月が持つ神秘性に憧れを抱いていたのかもしれません。一方、欧米では、月は死を暗示するものとして月を観ることは不吉なことと考えられていたようで、妊婦が月を観ると胎児が精神異常をきたすという迷信があり、また、満月の日に凶悪事件が起きることが多いとも言われています。英語の“lunacy”(ルナシー、因みに“luna”は月の女神ルナ(=かぐや姫?)の意味)には狂気という意味がありますが、月を観て狼に変身する狼男は狂犬病患者がモデルだったと言われており、月が持つ神秘性が人間を狂気に駆り立てると信じられていたのかもしれません。同じ月ですが、洋の東西で随分と感じ方や考え方は異なるものです。因みに、「竹取物語」を題材としながら全く異なるアプローチで描かれた2つの映画、かぐや姫は宇宙人であったという設定の映画「竹取物語」(市川昆監督/東映)と、人間かぐや姫の真実に迫ろうと試みた映画「かぐや姫の物語」(高畑薫監督/スタジオジブリ作品)がありますので、仲秋の名月を愛でながら古のロマンに思いを巡らせてみるのも風流です。また、2014年1月18日に沼尻竜典さんが作曲した歌劇「竹取物語」日本初演されたようです。残念ながら観に行けませんでしたが、おそらく再演があるのではないかと期待しています。さて、古より愛でると言えば「月」と「桜」。千葉県民以外の方は辟易とされているかもしれませんが、今回のブログの枕は桜尽しでお国自慢を試みてみたい(隠れたテーマは“日本の恋争い伝説とそれが日本の文化芸術に与えた影響”と題し大風呂敷を広げておきましょう)と思います。



<上段左から>
1〜2枚目:西行の墨染桜と貴船神社(千葉県東金市
1180年に平重衡東大寺を焼討ちにしたことから(同年、源頼朝は石橋山の合戦に敗れて真鶴から安房へ小船で逃れており、それが能「七騎落ち」の題材になっています。)、1186年に俊乗坊重源上人が西行法師に奥州藤原氏東大寺再建のための砂金勧進に向うように依頼しています(同年、源頼朝に追われた源義経は同じく奥州藤原氏を頼って平泉へ落ち延びています。)。その途上、西行法師は万葉歌人山辺赤人及び小野小町を偲んで、その所縁の地である千葉県東金市を訪れたところ、自分の故郷と同じ山田村という地名を見て懐かしく思い、この地に京都の貴船神社の分社を造り(境内には「疣(いぼ)神社」があり、ここにお参りすれば疣を取り除いてくれると言われており遠方から参拝に来る方も多いそうです。)、その傍に杖として使っていた深草(京都市伏見区墨染町)の墨染桜の枝を挿して「深草の 野辺の桜木 心あらば 亦この里に すみぞめに咲け」と詠んでいます。その杖が成長して現在の墨染桜(樹齢約800年)になったと言われています。因みに、墨染桜とは、平安時代に上野岑雄が友人の関白、藤原基経を深草に葬った際に、その死を悼んで「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け」(古今和歌集)と詠んだところ、彼の悲しみに感じ入った桜が喪に服すように灰色がかった色に咲いたという故事に由来しており、それが歌舞伎「積恋雪関扉」浄瑠璃「西行法師墨染桜」の題材にもなっています。この故事を大そう気に入った関白、豊臣秀吉は姉の瑞龍尼が法華経に帰依したのを契機に墨染寺(京都市伏見区墨染町)を建立(再興)しており、その境内には歌舞伎役者、二代目中村歌右衛門が寄進した手洗い石が残されています。なお、墨染寺の直ぐ近くに欣浄寺(京都市伏見区西桝屋町)がありますが、そこは深草少将の邸宅跡と言われており、ここから深草少将は山科の小町小町のもとへ求愛のために百夜通いをしたと言われています。それが世阿弥の能「通小町」の題材になっていますが、黒墨桜の枝を杖として旅をしてきた西行法師が小野小町を偲び、その所縁の地である千葉県東金市を訪れて、この逸話に思いを馳せながら古今集の和歌に因んで「深草の・・・」と詠んだのだと思われます。少し脱線しますが、2003年に上海アリス幻楽団からリリースされたゲームソフト「東方妖々夢〜Perfect Cherry Blossom」は西行法師と墨染桜を題材として作られており、その中で墨染桜に因んだ「幽雅に咲かせ、墨染の桜」という曲が使われています。西行の墨染桜は、時を超えて形を変えて我々の心に美しい花を咲かせ続けています
3〜4枚目:能香「西行桜」と桜をモチーフにした香立で薫くお香(お香をお茶菓子に見立てました!召し上がれ❤)
西行法師は「願わくば 花の下にて 春死なん、その如月の 望月のころ」(山家集)という辞世の和歌を残していますが、この和歌のとおり旧暦1190年2月16日(「如月」=旧暦2月、「望月」=満月15日、釈迦入滅の日、新暦で3月末頃)に他界しています。なお、国語(古典)の時間に学習したと思いますが、和歌で使われる「花」とは、奈良時代までは“梅”を指しましたが、平安時代には“桜”を指すようになりました。1140年(平安時代)に鳥羽院に仕えていた佐藤義清は勝持寺で出家して西行法師と号し(NHK大河ドラマ平清盛」で藤木直人さんが演じていた役の人。因みに、藤木直人さんは千葉県佐倉市出身ですが、西行法師は千葉県佐倉市にある勝間田の池にも立ち寄り「水なしと 聞きて ふりにし 勝間田の 池あらたむる 五月雨の頃」という和歌を詠んでいます。)、その寺にある西行法師のお手植えの桜は「西行桜」と呼ばれていますが、世阿弥西行法師が桜の花を愛でた和歌を数多く収めている山家集を題材として能「西行桜」を創作しています。因みに、能香「西行桜」は“ひっそりと咲く桜をイメージした香り” のお香で、沈香をベースにしたフローラルノートの気品に満ちた香りは気持ちを解し心を整えてくれます。大変に美味しくいただきました..(u_u*)
5枚目:オランダの夕陽
↑ウソ、千葉県佐倉市にあるオランダ風車「リーフデ」と夕陽です。
<下段左から>
1枚目:小野小町公園にある小町塚と歌碑(千葉県東金市
千葉県東金市小野は六歌仙(&三十六歌仙)の一人で絶世の美女として有名な小野小町の生誕地と言われており(その後に上京して宮中に出仕)、西行法師が奥州へ向う途中で小野小町を偲んでこの地を訪れています。この一帯は桜の樹が多く、小野小町が幼少期に住んでいた邸宅の一角に小野小町が愛用していた機織りの道具(オサ)が埋まっていると言われています(小町塚)。歌碑には桜の樹に因んで「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」(古今和歌集)と刻まれています。なお、(下ネタで恐縮ですが【R12指定】)糸を通す穴のない待ち針のことを「小町針」と言いますが、これは数多くの男性から言い寄られた小野小町がこれらを全く相手にしなかったことから“穴”のない女と噂されたことに由来すると言われています。お口直しに少し脱線しますが、小野派一刀流(始祖の小野忠明は千葉県南房総市出身)から分派した北辰一刀流の始祖の千葉周作の姪、千葉佐那子(坂本竜馬の婚約者、NHK大河ドラマ龍馬伝」で貫地谷しほりさんが演じていた役の人)は剣や薙刀に秀で「鬼小町」「小千葉の小町娘」と呼ばれていたそうです。直接のつながりはないかもしれませんが、「小野」「千葉」「小町」に因んでご紹介しておきます。
2〜3枚目:三十六歌仙の1人、山辺赤人の墓(赤人塚)と山辺赤人の木像がある法光寺(千葉県東金市
もともと山辺(部)家は伊予国で山林管理の職に就いていましたが、山辺赤人の父が手柄をたて上総国(千葉県)に領地を与えられており(藤原定家と共に「新古今和歌集」を編纂した飛鳥井雅経の家に伝わる古文書「古今抄」に「赤人は上総国山辺郡の人なり」と記されており、現在の千葉県当東金市出身です。)、千葉県東金市山辺赤人と父の墓と伝えられる赤人塚があります。なお、山辺赤人が詠んだ有名な和歌「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」は壬申の乱で敗れ上総国に逃れた大友皇子天智天皇の子)を悼んで詠んだものと言われており、“田子の浦”とは現在の勝山港の周辺の海(千葉県安房鋸南町下佐久間にある田子台の下の海が“田子の浦”と呼ばれていました。なお、一部に“田子の浦”とは静岡県富士市の海とする俗説もあります。)で、勝山港から富士山を眺めて詠んだものと考えられています。因みに、源頼朝は石橋山の合戦で敗れて真鶴から小船で逃れ、千葉県安房郡居南町竜島の勝山海岸(“田子の浦”)へ漂着しています。
4枚目:三十六歌仙の1人、大江千里の歌碑(千葉県佐倉市
現代の歌手の方は“おおえせんり”と読みますが、平安の歌人の方は“おおえちさと”と読みます。在原業平の甥で古今和歌集小倉百人一首に作品が収められていますので彼の和歌を好きな人も多いと思いますが、印旛沼(千葉県佐倉市印西市成田市)を見下ろす野鳥の森(千葉県佐倉市)に建つ歌碑には大江千里の和歌「下つさの 伊波乃浦なみた津らしも 舟人さわぎから 艪おすな季」(伊波乃浦=印旛沼)が刻まれています。なお、仲秋の名月に因んで、大江千里が月を詠んだ有名な和歌「月見れば 千々にものこそ かなしけれ 我が身ひとつの 秋にはあらねど」(古今和歌集)も忘れてはなりますまい。
5枚目:印旛沼を紅に染める夕陽(千葉県佐倉市
野鳥の森の隣にオートキャンプ場の印旛沼サンセットヒルズ(千葉県佐倉市)があり、ここから見る夕陽がひときわ美しいです。少し凌ぎ易くなってきましたので、野鳥の森でバード・ウォッチングした後に、印旛沼サンセットヒルズでバーベキューを楽しみながら印旛沼を紅の夕陽にしんみりとたそがれてみるのも一興です。

西行について書く予定です。続く。



<上段左から>
1〜2枚目:手児奈霊神堂(真間娘女墓)、真間井(千葉県市川市
奈良時代下総国勝鹿(葛飾)の真間(現在の千葉県市川市真間)に手児(古)奈(てこな)という小野小町に劣らない絶世の美女がいて、万葉集にいくつもの和歌が詠われています。手児奈は多くの男性から求愛されますが、どの男性とも決め兼ねているうちに、手児奈を巡って男性の間で争いが絶えないようになり、遂にはその恋煩いから真間の入江弘法寺の下を流れる真間川の河川敷一帯に海水が入り込んで出来た入江)に身を投げて自ら命を断ってしまいました。古も今も変わらぬ揺れる乙女心、竹内まりやさんの歌「けんかをやめて」と同じような悲しくも切ない恋の物語があります。手児奈は美人薄命の元祖と言われており、行基上人が手児奈の悲話を聞いて哀れに思い、「弘法寺」(当初は「救法寺」と称しましたが、後に弘法大師空海が「弘法寺」と改称)を開いて手児奈の霊を手厚く弔いました(弘法寺の7世日与上人が手児奈の奥津城(墓)があったと伝えられていたところに手児奈霊神堂を建立し(1501年)、現在はそちらに祀られています。)。また、亀井院には手児奈が毎日のように水汲みをしていたとされる井戸「真間井」があります。何故、井戸が語り伝えられているのか歴史ロマンに思いを馳せてみると、美人で評判の手児奈を見染め又はその姿を一目見たいという男性がその叶わぬ想いを胸に秘めながら、手児奈が毎日のように真間井で水汲みをする姿に見惚れていたのかもしれず、そう考えると真間井は叶わぬ恋に身を焦がした男性達の切ない想いが交錯した特別な場所であり、真間井の水は枯れても、男性達が手児奈にそそいだ想いはいつまでも枯れずに残っていると言えるかもしれません。なお、万葉集には、この近傍の出身である山辺赤人上総国(現在の千葉県)の出身)や高橋虫麻呂常陸国(現在の茨城県)の出身)などの歌人が「真間の手児奈」を詠んだ和歌が数多く収録されています。以下にいくつかご紹介しておきます。
われも見つ 人にも告げむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥津城ところ」(山辺赤人
葛飾の 真間の入江に うち靡く 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ」(山辺赤人
勝鹿の 真間の井を見れば 立ち平し 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ」(高橋虫麻呂
葛飾の 真間の手児奈が ありしばか 真間の磯辺に 波もとどろに」(詠み人知らず)
葛飾の 真間の手児奈を まことかも われに寄すとふ 真間の手児奈を」(詠み人知らず)
また、亀井院の裏庭にある離れに北原白秋が暮らしていたことがあり、真間井の水を使って洗顔し、米や野菜等を洗っていたらしく「葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花」という短歌を読んでいます(近くの里見公園に北原白秋が暮らした亀井院生の離れが移築上されています。)。さらに、「真間の手児奈」を題材とした「琴と管弦楽による協奏曲」(大塚西作曲)、歌劇「真間の手古奈」(安東英男作詞/服部正作曲、服部正さんはラジオ体操第一や東邦音楽大学の校歌を作曲した方)、歌劇「TEKONA〜愛、そして手児奈」(源優太台本/会田道孝作曲)、歌舞伎「真間の手古奈」(金沢康隆作/杵屋六左衛門作曲)、長唄「真間の手児奈」(静友己枝作詞/堅田喜三久作調)、能「真間の手古奈」、読本「雨月物語」の一編「浅茅が宿」(上田秋成著)ミュージカルや長唄、戯曲など数多くの作品が生まれています。因みに、万葉集には「真間の手児奈」のほかに恋争いの悲話を詠った和歌が収められており、「葦屋の菟原処女(うないおとめ)」の悲話も有名です。葦屋(現在の兵庫県神戸市東灘区)に菟原処女という可憐な女性がおり多くの男性から思いを寄せられていましたが、菟原処女に求婚していた2人の男性が菟原処女を巡って激しく争うようになり、菟原処女は思い余って自ら命を断ってしまい、その2人の男も後を追って死ぬという悲話が残されています。これが世阿弥能「求塚」の題材にもなっています。
3〜5枚目:真間の継橋、真間を詠んだ小林一茶の歌碑と弘法寺の山門、玉蘭斎貞秀の浮世絵「利根川東岸一覧」(千葉県市川市
かつては弘法寺の下を流れる真間川の河川敷一帯には海水が入り込んで “真間の入江”と呼ばれ、その入江を東西に横切るように長大な砂洲(潮流が運んできた土砂が溜まってできる砂堤で、“天の橋立”が有名)が延びていました。真間の継橋は、その砂洲を中継する架け橋で、玉蘭斎貞秀の浮世絵「利根川東岸一覧」(当時の利(刀)根川=現在の江戸川)のほかに、斎藤月岑「江戸名所図会」の「真間山弘法寺」(絵、長谷川雪旦)、歌川広重の名所絵「名所江戸百景」の「真間の紅葉手古那の社つぎ橋」や小林清親の浮世絵「武蔵百景之内 下総真間つぎ橋」に描かれており、おおよそ現在の位置に橋架されていたことが伺えます。万葉集には「足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 やまず通はむ」(詠み人知らず)と詠んだ和歌があり、小林一茶も「かつしかや 真間の入江にさちあれと 柳ながめて のせぬ舟人」と詠んでいますが(弘法寺小林一茶の句碑には「真間寺で 斯う拾いしよ 散紅葉」の句が刻まれています。)、紅葉の名所として知られる弘法寺から真間の入江と砂洲に渡る真間の継橋を臨む眺めは風光絶佳であったことが伺えます。また、真間の入江の砂洲には“片葉の葦“(葉が片方にしかつかない葦)が生息していましたが、これは手児奈が亀井院にある真間の井に足繁く水汲みに通ったために、その美しさに惹かれて葉がすべて片方に寄ってしまったという伝説が残されています(現在も、真間の入江の名残りと言われている手児奈霊神堂の池に生息する片葉の葦は、手児奈が眠る真間の入江の底へと葉を向けています。)。因みに、宮部みゆきさんが「本所深川ふしぎ草紙」(新潮文庫)の第一話で「片葉の葦」と題する小説を書いています(吉川英治文学新人賞受賞)。真間の継橋から遠い古へと歴史ロマンの橋を継いで思いを巡らせてみると、何故、手児奈が真間の入江に身を投じなければならなかったのか、その乙女心が哀切に胸に響きます。
<下段左から>
1枚目:手児奈霊堂にある縁結びの桂の木(千葉県市川市
さだまさしさんが奉納した桂の木で、桂の木の葉のかたち(ハート型)をあしらった絵馬にカップルの名前を書いて奉じると恋が成就するそうです。さだまさしさんは若い頃に千葉県市川市に住んでいたことがあるらしく、いつか「真間の手児奈」の悲しく切ない恋の物語を素敵な曲にして戴けないものかと願っている人は多いのではないかと思います。
2枚目:弘法寺の涙石(千葉県市川市
弘法寺山門へと続く1千個以上の石段のうち、いまなお涙を流すように濡れ続けている石(通称、涙石)があります。江戸幕府作事奉行の旗本、鈴木長頼が1705年に日光東照宮の造営のために使う石材を伊豆から船で運ぶ途中に千葉県市川市付近で船が動かなくなり、その石材を勝手に弘法寺(当時、鈴木家は弘法寺の大檀那)の石段に使用してしまったことから、幕府から責任を追及されて石段で切腹させられました。その時の鈴木長頼の無念の涙が染み込んで、いつまでもその涙が枯れることなく涙石を濡らせ続けています(写真は2014年9月13日(晴れ)午前10時頃に撮影しましたが、天地神明に誓って涙石に細工などはしておらず、周囲の石が乾いているのに涙石だけが濡れている状態でした。但し、理由は分かりませんが、鈴木長頼の御霊も泣き暮らしてばかりいるのではないのでしょう、涙石があまり濡れていない日もあるそうです。)。なお、鈴木長頼は学識豊かな大工頭だったので、1696年に真間の手児奈に所縁の旧跡を末永く顕彰するために万葉顕彰碑(真間の継橋、手児奈霊神堂入口、亀井院入口に三基の顕彰碑があり「真間の三碑」と言われています)を建てたと言われており、現在もその万葉顕彰碑は残されています。因みに、深草少将の邸宅跡である墨染寺には“涙の水”と言われる「深草少将姿見の井戸」(別称、墨染井)があります。深草少将は百夜通いの最後の夜に大雪のために凍死し小野小町への想いを遂げられませんでしたが、小野小町を恋い慕う一途な想いを断ち難く、今もなお墨染井の涙の水は枯れることがありません。「通う深草百夜の情け 小町恋しい涙の水は 今も湧きます欣浄寺」(西条八十能楽をはじめとして日本の伝統芸能は古人の無念を語り、謡い、舞うことで古人の無念を晴らす怨念鎮魂の思想が背景にありますが、土地の歴史を訪ねて古人の心へ思いを馳せてみると、その心は時を超えて今もなお生き続けていると感じられます。
3〜4枚目:弘法寺の伏姫桜、国府台公園にある里見広次公廟と夜泣き石(千葉県市川市
今年は滝沢(曲亭)馬琴の長編読本「南総里見八犬伝」刊行200年の記念年ですが、その南総里見八犬伝に因んで、弘法寺には「伏姫桜」(樹齢400年)という見事な枝垂れ桜があります。里見家が国府台(千葉県市川市)に城を構えていたことがあったことに由来して命名されたものかもしれません(因みに、南総里見八犬伝の舞台になった館山城(千葉県南房総市)にある里見桜も有名です。)。1564年に下総国当時、千葉県は下総国、上総国、安房国の三国から構成)の覇権争いで、北条氏康(2万)が小岩側、上杉謙信に加勢する里見義弘(8千)が矢切側に布陣して闘っていますが、北条氏康矢切の渡し細川たかしさんのヒット曲になり記念碑もありますが、小岩側は寅さん記念館、矢切側は国府台(里見)公園が近くにあります。因みに、矢切の渡しは11月末日まで運行しており大人は片道200円です。)を亘って夜襲をし掛けたことにより里見義弘が敗れて里見広次ら約5千人が戦死しています。その後、安房国から来た里見家の末姫があまりに凄惨な光景に傍らの石にすがって泣き崩れ、遂には憔悴して息絶えてしまいましたが、それから夜毎にその石から女性の鳴き声が聞こえるようになり、この合戦に参加していた武士が姫を手厚く弔ったところ泣き声が止んだというのが“夜泣き石”の伝説です。この地にも里見の姫にまつわる伝説が花を咲かせています。
5枚目:吉井の水車小屋(千葉県南房総市
吉井の大井戸の近くに「川上の駅」(現在の“道の駅”のようなところ)の跡(千葉県房総市)があり、三十六歌仙の1人、大伴家持が訪れています。これは741年に朝廷が安房国上総国へ併合することを宣言したことに対し、安房国が異論を申し出たことから、その調査の目的で大伴家持安房国に派遣されたものです(因みに、大伴家持は783年に勅使として上総国麻賀多神社(千葉県成田市)を参詣し鳥居を建立しています。)。そこで平郡郎女と恋仲になって平郡郎女から恋歌が送られるようになり、その多くの和歌(「万代と 心は解けてわが背子が 摘みし手見つつ 忍びかねつも」「隠沼の 下ゆ恋ひあまり白波の いち白くいでぬ 人の知るべく」など12首)が万葉集に収められています。とりわけ後者の和歌は万葉集4500首の中でも相聞の秀歌として絶賛されています。因みに、数年前、作曲家の千住明さんと俳人黛まどかさんが万葉集を題材としたオペラ「万葉集」を発表して話題を呼びましたが、万葉集に詠まれている和歌の世界は時代を超えて現代にも相通じるものがあり、音楽によって昔の日本語(和歌を詠む文化が廃れず、未だ日本語が磨き抜かれ洗練されていたころの言葉)が持っていた香気が豊かに薫って、実に美しく耳に響き心に共鳴したことを思い出します。こんな優れた文化を持ちながら現代では和歌を詠む文化は廃れてしまい、その結果、日本語はその豊かな情緒性を失って機能面ばかりが追求されるようになり(例えば、季節を表現し自然の表情を繊細に汲み取る語彙は著しく減って、その最大公約数を効率的に伝達する語彙のみが重用されるなど。更にこれを音楽に例えれば、平均律を生み出したことで音を扱い易くなり音楽を普及し易くなった反面、鍵盤と鍵盤の間に落ちる膨大な音を失ったことで音楽表現の可能性を狭めてしまった状況と相似していると思います。)、また、地面をアスファルトで覆い尽くして人間がコントロールできない自然を徹底的に排除した二元論的な世界(自然界と人間界を分けて考え、人間が自然を支配しようとする西洋(キリスト教)的な価値観。これに対し、日本は自然界と人間界を分けて考えることはせず、“山川草木悉皆成仏”という思想に現れているとおり自然を支配の対象としてではなく畏敬崇拝の対象として捉える東洋(仏教)的な価値観を基調としていましたが、維新から敗戦を経て二元論的な世界観が台頭)の中で生活していることも手伝って、花鳥風月を愛でる風流心や自然の繊細な表情を感じとる鋭敏な感受性を失って、何の潤いもない殺伐とした「活字」だけが氾濫する辟易とした世界に晒されている自分を感じます。古の和歌に触れてしみじみと思いますが、心を洗い流し、心を研ぎ澄ませ、心を満たしていく「言葉」を取り戻さなければならないのではないかと自戒の念を込めて痛感しています。

万葉集と和歌について書く予定です。続く。



東京の新デートスポット、真間の継橋ならぬ平成の継橋とも言うべき東京ゲートブリッジ。東京都内に勤務されている方は、突如、オフィスビルからライトアップされたブリッジが見えるようになったと話題になったと思いますが、葛西方面から羽田方面に抜ける一般道路に掛るブリッジ(通行料無料)で、その名のとおり東京湾を入出港する船はこのブリッジの下を通って入出港します。若洲海浜公園からブリッジの遊歩道へ上がることができ、夜は東京の夜景を楽しむことができます。夜になるとカップルの姿も多く、ブリッジの上(東京中の人が見ている前)で永遠の愛を誓うなんてお洒落じゃありませんか ブリッジの上で東京の夜景をバックに2人のシルエットが重なり合い溶けて行くような写真を撮影してみたいと思っていますが、我こそはと思うカップルが居たらご一報下さい..(*^^*) なお、東京ゲートブリッジの近くにあるレインボーブリッジの下を豪華客船が通る日がありますので、カメラを片手に豪華客船の見物も面白いかもしれません。

さて、ブログの枕が長くなりましたが、そろそろ本題を書きたいと思います。

香道について書く予定です。続く。

香清話―香に聞く、香を聞く

香清話―香に聞く、香を聞く

◆僕がご贔屓にしている東京にあるお香専門店
http://www.shoyeido.co.jp/menu.html

◆僕がご贔屓にしている千葉にあるお香専門店
http://www.shisenkobo.co.jp/

◆おまけ
仲秋の名月に因んで、NHKみんなのうたの曲「月のワルツ」(湯川れい子作詞/諫山実生作曲/安部潤編曲)のジャズテイストの演奏をアップしておきます。グラスを片手にライブに酔いしれてみたい気分にさせられます。

月に因んでもう1曲。シューベルト歌曲「月に寄せて」(D193)をアップしておきます。この曲の歌詞と竹取物語かぐや姫に求婚した貴公子たちの想いを遂げられなかった切ない心情とが重なって心に染みてくるようです。

おまけのおまけ。この懐かしい曲を聴くと青春の甘酸っぱい想い出がよみがえってきます。映画「竹取物語」の主題歌にも使われていた曲、シカゴの「素直になれなくて」(原題:Hard to Say I'm Sorry)を貼っておきます。今、あの人が幸せでいることを祈って..。