大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

映画「めぐり逢う朝」(原題:Tousles Matinsdu Monde)

【題名】映画「めぐり逢う朝」(原題:Tousles Matinsdu Monde)
【監督】アラン・コルノー
【脚本】パスカルキニャール
    アラン・コルノー
【出演】<サント・コロンブ>ジャン・ピエール・マリエル
    <マラン・マレジェラール・ドパルデュー
    <マドレーヌ> アンヌ・ブロシェ
    <マラン・マレ(青年時代)>ギョーム・ドパルデュー
    <サント・コロンブ夫人>カロリーヌ・シホール
    <トイネット>カロル・リチャード        ほか
【美術】ベルナール・ヴェザ
【音楽】ジョルディ・サバール(Gamb)ほか
【公開】1993年2月11日
【感想】ネタバレ注意!
今日は17世紀のヴィオラ・ダ・ガンバ(フランス語でヴィオール)奏者の名手として知られるサント・コロンブとその弟子のマラン・マレの半生を描いた映画「めぐり逢う朝」(原題:Tousles Matinsdu Monde)を観ることにしました。マレン・マレはリュリにオペラの作曲を師事してルイ14世付の宮廷楽団員になり、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者の名手として名声を博し、その後、オペラ作曲家としても活躍します。因みに、ヴィオラ・ダ・ガンバの“ガンバ”とは「脚」の意味(Jリーグの「ガンバ大阪」の“ガンバ”も同じく「脚」の意味)で、チェロのようなエンド・ピンがなく脚で挟んで演奏するのを特徴とするので「脚のヴィオラ」とも呼ばれています。なお、ヴィオラ・ダ・ガンバは宣教師によって日本に持ち込まれ、織田信長安土城下のセミナリオでその演奏を耳にしたそうです。織田信長安土城で何度かクラシック音楽を聴いたという記録が残されており、豊臣秀吉大友宗麟クラシック音楽を好んだそうですから、信長や秀吉、宗麟が日本人初のクラシック音楽ファンであったとも言えそうです。

ブログの枕はバレンタインデーに因んで、芸術作品に影響を与えた食文化という切り口で何か書いてみたいと思っています。


現在、執筆中。


さて、そろそろ本題に戻りたいと思います。かなり昔に公開された映画になりますが、その感想を簡単に残しておきたいと思います。


現在、執筆中。


めぐり逢う朝  HDニューマスター版 [DVD]

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◆おまけ
マラン・マレヴィオール曲集第2巻より「ラ・フォリア」をお聴き下さい。因みに、“フォリア”とはスペインやポルトガルで生まれた3拍子の緩やかな舞曲のことです。

マラン・マレヴィオール曲集第4巻より「夢見る人」をピアノ編曲版でお聴き下さい。この時代の曲を楽器を替えて編曲するとピリオド楽器が奏でる魅力とは違った魅力が惹き出されることがあります。

マラン・マレと同時代を生きたフランスの音楽家、リュリ作曲のコメディー・バレ「町人貴族」(前半)とラモー作曲の歌劇「優雅なインドの国々」(後半)より抜粋。当時は杖のような指揮棒を床についてリズムをとりながら指揮しましたが、リュリはこの指揮棒を誤って足にさしてしまったことが原因で死亡しています。

映画「王は踊る」(原題:Le Roi danse)

【題名】映画「王は踊る」(原題:Le Roi danse)
【監督】ジェラール・コルビオ
【脚本】エーヴ・ド・カストロ
    アンドリー・コルビオ
    ジェラール・コルビオ
【出演】<ジャン=バティスト・リュリ>ボリス・テラル
    <ルイ14世ブノワ・マジメル
    <モリエール>チェッキー・カリョ
    <アンヌ・ドートリッシュコレット・エマニュエル
    <マザラン枢機卿>セルジュ・フイヤール
    <マデレーン>セシール・ボワ
    <ジュリー>クレール・ケーム
    <ロベール・カンベール>ヨハン・レイセン
    <コンティ公>イドヴィグ・ステファーヌ     ほか
【美術】ユベール・プイユ
【衣装】オリヴィエ・ベリオ
【監修】ラインハルト・ゲーベル
【公開】2001年7月20日
【感想】ネタバレ注意!
実在の名オペラ歌手のホセ・ヴァン・ダム(バス・バリトン)が主演しオペラ歌手の内面を描いたフィクション映画でその中でクラシック音楽がふんだんに使われている「仮面の中のアリア」や伝説的なカストラート(≒ボーイソプラノ)として名高いファリネッリの半生を描いた伝記映画の「カストラート」などで世に知られる名匠コルビオ監督が手掛けた、作曲家リュリ(左の写真)の半生を描いた映画「王は踊る」を鑑賞することにしました。今年で没後300年を迎え、ヴェルサイユ宮殿を建設したルイ14世は15歳でバレエの舞台デビューを果たし(映画「王は踊る」でも描かれていますが、ルイ14世が「夜のバレ」で昇る太陽を演じたことから「太陽王」という異名で呼ばれるようになりました。因みに、千葉県柏市をホームタウンとするJリーグの「柏レイソル」とはレイ(王)とソル(太陽)を合わせて「太陽王」を意味しています。)、その後、プロの舞踊家の養成を目的として1661年に王立舞踏アカデミーを設立します。やがて王立舞踏アカデミーはルイ14世付の宮廷音楽家であったリュリが開設した王立音楽アカデミーオペラ座)に併合され、その専任の舞踏教師としてルイ14世付の舞踊教師であったボーシャン(5つの足の基本ポジションを体系化するなど今日のクラシックバレエの基礎を築いた舞踊家)が任命され、リュリと共に宮廷バレエを創作します。なお、リュリは、ルイ14世の招聘を受けてヴェルサイユ宮殿を度々訪れていたモリエールの台本によるコメディ・バレ(舞踊喜劇)を数多く作曲し、「無理強いの結婚」や「町人貴族」などの作品がヴェルサイユ宮殿のオペラ劇場で上演されています。..ということで、本題に入る前にブログの枕として「舞台」について少し書いておきたいと思います。


ジェローム作「ルイ14世モリエール」(1862年)


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左上から、
1枚目:「房総のむら」の大木戸
江戸時代から明治時代の初期にかけての千葉県の街並みを再現した「房総のむら」(千葉県成田市)の大木戸。江戸時代には興行見物のために木戸を通行する際に徴収した入場料金のことを木戸銭といいましたが、例えば、江戸時代の歌舞伎見物の木戸銭は現代価値で3百円〜3万円程度、落語見物の木戸銭は現代価値で6百円程度、相撲見物の木戸銭は現代価値で4千円〜5万円程度だったそうで、歌舞伎見物や相撲見物の木戸銭は現代と比べるとやや割高のある贅沢な娯楽、落語見物の木戸銭は現代と比べると圧倒的に割安があり庶民の文化として根付いていたということがいえましょうか。
2枚目:「房総のむら」にある江戸後期の千葉県内の街並み
千葉県内に実在した旧家を再現した江戸時代後期の街並み。江戸後期から明治初期の写真を見ると、江戸時代の街並みは(あるいは現代よりも)清潔であったことが伺えます。因みに、中世のフランスでは「Gardy loo!」(ガルディ・ルー)と叫んで窓から外に人間の汚物を投げ捨てる習慣があり女性用ハイヒールはその汚物を踏まないように開発されたという話は有名ですが、日本では川の水流を利用した水洗トイレが早くから普及し又は人間の汚物が堆肥として高く売買されていたので人間の汚物が街を汚すことはなく、下駄はハイヒールとは異なって舗装されていなかった道でぬかるみにはまらないように開発されたものと言われています。また、江戸時代の日本人は小柄(江戸時代の平均身長は男性で155cm前後、女性で145cm前後で、現代の平均身長よりも20cm以上も低かったことになります。また、カメラの性能にもよると思いたくなるくらい胴長短足の人が多かったことは否めず、食生活や生活スタイルの変化によってこれだけ短期間に人間の体型は変化し得るものなのかと驚かされます)。舞踊のスタイル(狩猟民族の多い西洋のバレエは下半身を中心とした垂直的な動き、農耕民族の多い日本の舞踊は上半身を中心とした水平的な動き)にも影響しますが、下半身を使う狩猟民族は足が長く、上半身を使う農耕民族は胴が長い傾向があるのはその生活スタイルが体型に影響を与えている側面があるのかもしれません。
3〜4枚目:「房総のむら」にある農村歌舞伎舞台と桜の借景
江戸時代後期に千葉県香取郡で実際に使用されていた農村歌舞伎舞台。歌舞伎は出雲大社の巫女と自称する阿国(実際は河原者だったと言われています)が風流踊り、念仏踊り、神楽踊りなどを融合して「かぶき踊り」(大きな刀を持ち派手な服装を纏った“かぶき者”に扮し、それまでの踊り主体の芸能に演劇的要素を加えて茶屋遊びに通う伊達男を演じたもの)を生み出したのが始まりと言われています。その後、「かぶき踊り」は遊女らによって盛んに演じられるようになり当時は高級品であった三味線が伴奏する「女歌舞伎」に発展しますが、1629年に風俗取締のために女性の舞台公演が禁止されたことにより、男性だけの「若衆歌舞伎」や「野郎歌舞伎」へと変遷して現在の歌舞伎の上演形態になっています。歌舞伎はドサ回りの旅役者によって全国に伝えられ、その旅役者が地方の農村に住み着いて指導者になり農村歌舞伎が発展したと考えられています。なお、「かぶき踊り」の誕生と同じ頃に阿通によって三味線に合せて物語を謡う「浄瑠璃」(阿通が義経浄瑠璃姫の恋愛を脚色して“浄瑠璃十二段”を作ったことから「浄瑠璃」と呼ばれるようになったと言われています。)が誕生し、その後、義太夫節などに発展して歌舞伎にも採り入れられています。なお、数年前に平成中村座で借景を用いた演出が話題になったことは記憶に新しいですが、「房総のむら」にある農村歌舞伎舞台の裏には背の低い桜が植えられ、舞台の背扉を開くと桜の借景が舞台を彩る仕掛けになっています。日本の庭園思想は西洋の庭園思想とは異なって、その造形はアシンメトリーな自然の模倣(を憧憬する人工美)であり、人間界(内界)と自然界(外界)との間が明確に区分されない連続性を持った一元論的世界観を体現する空間演出を特徴としますが、舞台演出としての借景は人工的に演出された舞台空間(内界)に凝縮された密度(≒日本庭園)と非人工的に演出された自然空間(外界)の多彩な拡がり(≒借景)とが空間を超越して融合し、舞台に流れる過去に固定された時間(≒日本庭園)と自然に流れる将来に変化していく時間(≒借景)とが時間を超越して交錯して、舞台に切り取られた重層的な「空間」と「時間」の連続性が舞台にダイナミックな奥行を与える効果を生んでいるような気がします。
左下から、
1〜2枚目:歌舞伎座舞台株式会社の松戸工場と歌舞伎座からの銀座の眺め
歌舞伎座舞台株式会社の松戸工場(千葉県松戸市)。歌舞伎座舞台株式会社は歌舞伎座専属の大道具として、松戸工場で歌舞伎座の大道具(舞台装置)を一手に制作しています。歌舞伎座舞台株式会社の前身は長谷川大道具で、1650年頃に初代長谷川勘兵衛が大道具師として中村座をはじめとした江戸三座に出入りしたのが始まりと言われています。長谷川大道具が「廻り舞台」や「セリ」などの歌舞伎を代表する舞台機構を生み出しています。因みに、歌舞伎の廻り舞台がオペラやミュージカルの舞台にも導入された話は有名ですし、メトロポリタン歌劇場が来客数の改善のために松竹が始めた歌舞伎の舞台公演を映画化した歌舞伎シネマを真似てメトロポリタン歌劇場の舞台公演を映画化したMETライブビューイングを開始した話も有名です。実際に、日本のオペラハウス新国立劇場は四面ある舞台を入れ替えることで舞台上のセットを入れ換る仕組みになっていますが、その一面の奥舞台には廻り舞台の機構が備えられています。なお、新国立劇場舞台美術センター(千葉県銚子市)では舞台芸術に関する所蔵品の展示や鑑賞会などのイヴェントも行われていますので、銚子漁港で陸揚げされる新鮮な海の幸(湾内ではなく外洋で採れる魚は身の締りや弾力が違うので頬が落ちます)をご賞味がてら足を運ばれてみてはいかが。
3〜5枚目:名菓、天乃屋の歌舞伎揚
天乃屋の歌舞伎揚は現代を代表する名菓として愛されていますが、商品名のとおり包装紙には歌舞伎で使用されている定式幕(包装紙に使用されている定式幕は萌葱、柿、黒の三色で構成される江戸市村座の定式幕で国立劇場大阪歌舞伎座で使用。因みに、柿、萌葱、黒の三色で構成されるのが江戸森田座の定式幕で歌舞伎座や京都南座で使用。白、柿、黒の三色で構成されるのが江戸中村座の定式幕で平成中村座で使用。)の模様を取入れ、四角いせんべえには「三枡文」(市川團十郎)、丸いせんべえには「丸に二引両紋」(片岡仁左衛門)と歌舞伎役者の家紋が薄っすらと刻印されています。

さて、そろそろ本題に戻りたいと思います。かなり昔に公開された映画になりますが、その感想を簡単に残しておきたいと思います。


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この映画の前半でリュリがポケット・ヴァイオリン(16〜18世紀頃は舞踏教師らがポケット・ヴァイオリンを携帯し、これを演奏しながらバレエのレッスンをつけていました。また、19世紀頃までは音楽家と聴衆の分離(音楽家の中でも作曲家と演奏家の分離を含む)が進んでおらず、音楽を媒介するテレビ、ラジオやCDなどのメディアがなく、高速移動手段も整備されていなかったので宮廷貴族以外の一般市民が教会で演奏される宗教音楽以外の演奏に触れる機会は殆どなかった時代にあって、一般市民はポケット・ヴァイオリンを携帯して自分で演奏することで日常的に音楽を楽しむ習慣があったようです。現代のようにメディアが発達し、高速移動手段やコンサートホールが整備されて何時でも何処でも音楽に親しめる環境になったことは、ある面では聴衆による音楽受容を飛躍的に豊かにした反面、ある面では音楽との関わり方を一層と偏狭的なものにしたという側面もあるような気がします。)を演奏しながらバレを指揮するシーンが登場しますのでお見逃しなく(ポケット・ヴァイオリンのことをフランスでは“pochette”(ポシェット)といい、リュリが胸のポシェットにポケット・ヴァイオリンを入れて指揮するシーンが登場しますが、本当に時代考証が優れている映画です)。更に詳しくお知りになられたい方は、ポケット・ヴァイオリのレプリカが展示されている浜松市楽器博物館に足を運ばれることをお勧めします。なお、18〜19世紀に音楽家と聴衆の分離が進んでいく過程で活躍したディレッタントについて書かれている「モーツァルトを「造った」男〜ケッヘルと同時代のウィーン 」(講談社現代新書)は興味深い内容なので、ご興味がある方は併せてどうぞ。

王は踊る [DVD]

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なお、近くバロック・ダンスの講習会がありますので、バロック・ダンスにご興味がある方や鑑賞の参考にされたい方は、是非、この機会にお運び下さい。
http://www.baroquedance.jp/

◆おまけ
スペインの伝説上のプレイボーイ貴族ドン・ファンを題材としたレーナウの詩を基にR.シュトラウスが作曲した交響詩ドン・ファン」をどうぞ。なお、リュリが作曲したコメディ=バレの台本作家としても有名なモリエールドン・ファンを題材として戯曲「ドン・ジュアン」(ドン・ファンのフランス語名)を書いています。

ダ・ポンテがモリエールの「ドン・ジュアン」を参考にして台本を書き、モーツアルトが作曲をした歌劇「ドン・ジョバンニ」(ドン・ファンのイタリア語名)をどうぞ。

リュリがモリエールの戯曲「町人貴族」を台本にして作曲したコメディ・バレ「町人貴族」より行進曲をどうぞ。

R.シュトラウスモリエールの戯曲「町人貴族」に付属音楽を作曲した組曲「町人貴族」より序曲をどうぞ。

年頭の挨拶

        

【神の仔羊(Agnus Dei)】
今年の干支は「羊」ですが、古く羊は宗教上の儀式において神への生贄として捧げられてきた習慣があり、キリスト教では贖罪のために神(天)から遣わ(降誕)されたイエス・キリストのことを「神の仔羊」といいます。また、キリスト教の司教が持つバクルス(司教杖)は羊飼いが羊を守るために使うシェパーズ・クルーク(羊飼いの杖)を象徴するもの(羊飼いは羊が群れから離れて狼に襲われないように守るのと同様に、信徒を信仰の迷いから導き救うもの)と言われています。因みに、クリスマスツリーの飾り付けにも使われるキャンディーケインもシェパーズ・クルーク(羊飼いの杖)の形を真似て作られたものです。なお、「羊」は羊の上半身を象って生まれた文字ですが、色々な言葉の語源になっています。例えば、中央アジアで羊を放牧していた遊牧民チベット人)のことを「羌」と言いますが、これは羊飼いを意味する「人」と「羊」とを組み合わせて生まれた文字です。また、ジンギスカンに代表されるように古くから羊肉は栄養価が高く滋養のつく食物として重用されていましたが、「養」は「食」と「羊」とを組み合わせて生まれた文字と言われています。このほかにも「羊」を語源とする言葉は数多くありますが、上記のとおり昔から「羊」は神への生贄として犠牲を象徴する生き物とされ、自己犠牲を意味する「我」と「羊」とを組み合わせて「義」という文字が生まれています。また、神の教えを伝える「言」と「羊」とを組み合わせて「善」という文字が生まれ、また、立派な様を示す「大」と「羊」とを組み合わせて「美」という文字も生まれています。「羊」を頂く文字は人としての在り様を教え諭しているようで「羊」という文字と向き合いながら背筋が伸びる思いです(新年から心に“舟を編んで”みました)。今年は「羊」に肖って「真善美」(認識上の真、倫理上の善、審美上の美)を極めるべく一層の精進に励む年にしたいものだと心に掛けています。

ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の仔羊だ」』(ヨハネによる福音書1章29節)


2015年のアニバーサリー


◆作曲家

◆実演家

◆美術

  • 琳派創始400年記念

◆宗教

◆その他

◆お年玉
皆様にとりまして心安らかな一年でありますように、祈りを込めて..。
【“Agnus Dei”の典礼文】
Agnus dei, qui tollis peccata mundi miserere nobis.
神の仔羊、あなたはこの世の罪を取り除き給いしもの、我らを憐れみたまえ。
Agnus dei, qui tollis peccata mundi dona nobis pacem.
神の仔羊、あなたはこの世の罪を取り除き給いしもの、我らに安らぎを与えたまえ。

バーバー「弦楽のためのアダージョ」に“Agnus Dei”の典礼文を付して編曲されたもの

ビゼーアルルの女」の間奏曲に“Agnus Dei”の典礼文を付して編曲されたもの

フォーレ「レクイエム」より“Agnus Dei”

モーツァルト「羊飼いの王様」より

◆お年玉のおまけ
映画「きみに読む物語」より冒頭シーン

新年早々、Gyaoで映画「きみに読む物語」(原題:The Notebook)という素敵な映画に出会いました。人生の黄昏時にあの人があの頃の想い出(白鳥)と共に人生の大河を渡ってやってくる・・・映画の冒頭シーンをアップしておきます。死の床にあって、自分の人生とどのように折り合いをつけるのかは人それぞれ。映画の冒頭で主人公は次のとおり語りますが、この主人公と同じように人生は美しく素晴らしいものであったと言って死んでいきたい(そう言えるように神から与えられた時間を大切に生きていきたい)としみじみと感じさせられる映画です。映画は人生を教えてくれる..。
“I am nothing special, of this I am sure. I am a common man with common thoughts and I’ve led a common life. There are no monuments dedicated to me and my name will soon be forgotten, but I’ve loved another with all my heart and soul, and to me, this has always been enough…”(僕は凡人で、普通の考え方で、平凡な生活を送ってきた。僕に捧げられた記念の物もなく、僕の名前もすぐ忘れられるだろう。でも僕は、1人の人間を全身全霊で愛した、それだけで僕は十分なんだ。)

クラシックミステリー 名曲探偵アマデウス「メンデルスゾーン “真夏の夜の夢”」

今日11月24日は「オペラの日」だそうですが、明治27年(1894年)11月24日に東京音楽学校(現、東京藝術大学)奏楽堂において日本で初めてオペラ(演目はグノーの歌劇「ファウスト」)が上演されたことに由来するそうです。因みに、日本人による初めてのオペラ作品は、前回のブログ記事で触れた坪内逍遥が台本を書き、東儀鉄笛(早稲田大学の校歌を作った人)が作曲した歌劇「常闇」で、明治39年(1906年)に歌舞伎座で初演されています。ご案内のとおり坪内逍遥は江戸時代の勧善懲悪的な戯曲文学を否定して西洋の写実主義を基調とする近代小説を紹介するために西洋の“Novel”について論じた「小説神髄」を発表しています。また、坪内逍遥は今年生誕450周年を迎えたシェイクスピアの全集(因みに、今日の本題であるメンデルスゾーンの劇付随音楽「真夏の夜の夢」はシェイクスピアの戯曲「夏の夜の夢」を題材としています)を日本で初めて翻訳して西洋の演劇を日本に紹介すると共に、ワーグナーに対抗して日本の伝統的な演劇(歌舞伎舞踊)を改良して西洋的な対話劇とは異なる日本独自の舞踊劇(国民楽劇)を創始することを提唱した「新楽劇論」を発表して(この本の中で西洋の“Dance”の訳語として「舞踊」という言葉が使われ、ダンス(舞踊)のうち、特に日本の伝統的な舞踊を示す意味で「日本舞踊」という言葉が生まれます。)、小説及び演劇の近代化を試みています。その後、大正時代になって浅草オペラが生まれ、前回のブログ記事で触れた永井荷風が台本を書き、菅原明朗が作曲した歌劇「葛飾情話」が昭和13年(1938年)に浅草オペラ館で初演されています。これに続いて、昭和16年(1940年)に山田耕作が日本初となるグランドオペラ「黒船〜夜明け」を作曲し、平成20年(2008年)に新国立劇場で全曲初演されています(かく言う僕もこの全曲初演を聴きに行つています。)。なお、オペラ公演を担う日本の歌劇団として、昭和9年(1932年)にテノール歌手の藤原義江によって「藤原歌劇団」、昭和27年(1952年)に東京音楽学校(現、東京藝術大学)の出身者を中心に「二期会」が設立されて数多くのオペラ作品が日本初演されており、その後、「東京室内歌劇場」、「東京オペラ・プロデュース」や「新国立劇場合唱団」などプロ・アマを合わせて数多くの団体が設立されて現在のオペラ隆盛期を築いています。

坪内逍遥の考え方をベースに以下の相関関係を整理中。おそらく綺麗には整理できませんし、現代において、このような整理に拘泥することがあまり意義を持つものだとも思いませんが、曖昧模糊としたままに任せて明確なイメージ(但し、“定義”というほど厳密なものは持ち得ないとも思っていますが)を持っておかないと、メディアが氾濫し表現が多様化するなかで、何となく流行風俗に溺れて“消費”を繰り返すだけに終始し、その“創作”の本質的なところを捉え切れず、足元のおぼつかなさに苛まれる感覚に陥るような気がしてなりません。果てしなく続く。

▼日本の伝統的な演劇の分類
「能劇」
「歌舞伎劇」
「振事劇」(歌舞伎舞踊〜日本舞踊)

▼日本の伝統的な舞踊の分類
「舞」:神仏に奉納される神聖なもの(上半身の水平的な動き)
「踊」:人間が自ら楽しむ俗的なもの(下半身の垂直的な動き)
「振」:所作に劇的な意味を生むもの(“〜のふり”、振り付)
※ 基本的な整理としては「能楽」≒「舞」+「振」、「バレエ」≒「踊」+「振」と分類?
※能の舞台は客席よりも高い位置にあり、観客は舞台を見上げるように見物し、能役者の舞は客席のある下方へアピールする水平的な動きを特徴(その背景には日本は農耕民族であり、腰を屈めて地に足を着けたまま移動しながら上半身を使って田畑を耕し、作物を収穫することから、その舞は水平運動を基調とするようになり、その収穫の恵みをもたらす地(にある万物)を崇める思想を育む)。バレエの舞台は古代ギリシャの野外劇場に代表されるように客席よりも低い位置にあり、観客は舞台を見下ろすように見物し、ダンサーの踊は客席のある上方へアピールする垂直的な動きを特徴(その背景には西洋は狩猟民族が多く、獲物を追うために空を見上げ、矢を射て武器を振るいながら下半身を使って飛び跳ねるように獲物を追い駆けることから、その踊は上下運動を基調とするようになり、その狩猟の恵みをもたらす天(にある唯一無二の太陽)を崇める思想を育む)。

▼西洋の舞台芸術の分類
「歌劇」(Opera):音楽+舞踊(憧憬の美、理想主義的)
「楽劇」(Musikdrama)
「演劇」(Drama):台詞+仕草(人生の再現、自然主義的)


...続く。現在、執筆中。


剣舞(剣舞は日本舞踊以外にもハチャトゥリアンバレエ音楽「ガイーヌ」の最終幕の“剣の舞”等も有名)にも触れる予定。以前、兵法三大流派の1つ“念流”の流れを汲む小野派一刀流(後に北辰一刀流が分派)の始祖、小野忠明(千葉県南房総市出身、千葉県成田市領主)について触れましたが、千葉県との県境に位置する茨城県鹿嶋市は剣聖、塚原卜伝鹿島神宮の神官の子で、鹿島古流と香取神道流(香取神道流のジェダイの騎士たちです。日本最古の流儀と言われる香取神道流は鹿島新当流の基になった権威ある流儀で、その始祖である飯篠長威斎家直は香取神宮で剣法の奥義を極めたと言われています。因みに、ジョージ・ルーカス監督の映画「スターウォーズ」は黒沢明監督の映画の影響を受けて製作されており、例えば、ダースベイダーの黒マスクは武士の鎧兜をヒントに作られていることは有名です。)を学び、後に兵法三大流派の1つ“神道流”の流れを汲む鹿島新当流を創始)の出身地で、茨城県鹿島市から千葉県香取市の一帯を中心に神道流が受け継がれ歴史に名を刻む剣豪を数多く排出しています(因みに、兵法三大流派の最後の1つは柳生で有名を馳せた“陰流”です。)。そこで、武道と舞についても触れてみたいと思っています。

香取神道流に因んで、醤油の老舗キッコウマンの創業者は香取神宮(千葉県香取市)の氏子だったそうで、香取神宮の神紋「亀甲紋」の中に「鶴は千年、亀は萬年」という故事に肖って“萬”の文字を入れたものがキッコウマン(亀甲萬)ロゴマークになっており、大変にお目出度くキッコウマンの醤油を愛用していると長生きしそうです。なお、ビデオレンタルのGEO(ゲオ)ロゴマークも同社創業者の家紋である亀甲紋をイメージしたものです。更に脱線すれば、亀甲紋をモチーフにした亀甲文様は歌舞伎衣装のデザインとしてもお馴染みです。

今週末の紅葉狩り(2ケ所)の写真。正しく神のキャンバスと形容したくなるような奇跡的な美しさです。西洋の庭園はシンメトリーに調和された人工美で貫徹されていますが、これに対して日本の庭園は自然美と人工美とが絶妙に調和され、人工が自然の中へと溶け込んでいる一元論的な世界観を体現した芸術です。僕の拙いカメラの腕前ではその美しさや世界観の半分も切り取れませんが、本当に美しいものに触れたときの圧倒的な恍惚感に打ちのめされます。...(後で整理します)


【題名】クラシックミステリー 名曲探偵アマデウスメンデルスゾーン真夏の夜の夢”」
【放送】NHK−BSプレミアム
    平成21年7月19日(日)20時00分〜20時30分
【司会】筧利夫
    黒川芽以
    美保純
【出演】野本由紀夫(玉川大学教授)
    星野宏美(立教大学教授)
    千住明(作曲家)
    磯部周平(東邦音楽大学教授)
    NHK交響楽団(指揮:阪哲朗)
【感想】

...続く。現在、執筆中。

▼おまけ
ボロディンの歌劇「イーゴリ公」より「ポロヴェツ人(韃靼人)の踊り」(ポロヴェツ人(韃靼人)は遊牧民族)をお楽しみ下さい。人類の起源はアフリカで、「狩猟民族」(紀元前4万年頃に中欧で発祥、社交的・攻撃的..)、「農耕民族」(紀元前2万年頃に北欧で発祥、協調的・計画的..)、「遊牧民族」(紀元前1万年頃に中近東・アジアで発祥、個人的・行動的..)に分化し、各々の生活様式から生まれる民族的な特性の違いが文化面(舞踊のスタイルを含む)にも大きな影響を与えています。

ヘンデルハープシコード組曲第2番より第4曲「サラバンド」(サラバンドとは3拍子の荘重な舞曲のこと)をお楽しみ下さい。バロックダンスは西洋の宮廷舞踏(ヴェルサイユ宮殿の貴族が踊ったメヌエット、ガヴォット、シャコンヌサラバンド)のことで、バレエや社交ダンスのルーツになっています。映画「カストラート」でご存知のコビリオ監督がリュリの半生を描いた映画「王は踊る」の中でもバロックダンスのシーンが踏んだんに登場します。

チャイコフスキーバレエ音楽くるみ割り人形」より第14曲「パ・ド・ドゥ」をお楽しみ下さい。“(グラン・)パ・ド・ドゥ”とはバレエ用語で、プリマ・バレリーナ(最高位のバレリーナ)とダンスール・ノーブル(その相手役となる男性ダンサー)の二人の踊りのことで、この場面では金平糖の精(正確には洋菓子“ドランジェ”の精ですが、日本では一般に広く知られていなかったので“金平糖”の精という邦訳があてられました)と王子の二人の踊りが繰り広げられます。因みに、この舞台では英国ロイヤル・バレエ団のプリンシパルに就任されていた吉田都さんがプリマ・バレリーナを務められています。

歌舞伎舞踊京鹿子娘道成寺」より抜粋。この歌舞伎舞踊安珍清姫伝説に題材した能「道成寺」をベースに生まれましたが、この歌舞伎舞踊には踊りの要素がすべて入っていると言われており、六代目尾上菊五郎がこの歌舞伎舞踊を指して「まだ足りぬ おどりおどりて あの世まで」という辞世の句を残しているほど奥深く華のある曲目です。“花の外には松ばかり、花の外には松ばかり 暮れ染めて鐘や響くらん..”という情景描写に優れた詞章で始まる長唄も耳に心地よく、昔の日本語が持っていた香気ある美しい響きや豊かな詩的表現力に憧れを覚えます。進歩主義に懐疑的な立場を採る僕としては、ある面で日本の文化は後退しているような気がしてなりません。

クラシックミステリー 名曲探偵アマデウス「リスト “ラ・カンパネラ”」

【題名】クラシックミステリー 名曲探偵アマデウス「リスト “ラ・カンパネラ”」
【放送】NHK−BSプレミアム
    平成24年11月14日(木)12時00分〜12時45分
【司会】筧利夫
    鈴木杏
    鈴木砂羽
【出演】小山実稚恵(ピアニスト)
    中川賢一(桐朋学園大学音楽学部講師/ピアニスト)
【感想】
先日、サムスンの“GARAXY S5”(後継機種は“GALAXY Note Edge”)を購入しました。前評判と異なり“iPhone 6”がハイレゾ音源に対応していなかったので、散々迷った挙句、(ハイレイゾ音源をヘッドフォンで再生してもハイパーソニックを十分に体感できないという方もいますが)今回はハイレゾ音源に対応している携帯端末を選びました。このほかに、ハイレイゾ音源に対応している端末としてソフトバンクから“Xperia Z3”がリリースされる予定なので、ハイレイゾ音源に興味がある音楽好きの方は買替えをご検討されてみてはいかがでしょうか。

ジョー・ブラックをよろしく [DVD]

ジョー・ブラックをよろしく [DVD]

  • 発売日: 2012/04/13
  • メディア: DVD
そんな訳で今日は携帯端末と戯れながら、ブラッド・ピットが主演している映画「ジョー・ブラックをよろしく」(原題:Meet Joe Black)を拝見し、古今東西の「橋」が果たしてきた宗教的又は芸術的な意義について少し思うところあり、ブログの枕として戯言を並べ立てようという趣向です(以下、ネタバレ注意)。この映画をご覧になった方も多いと思いますが、死期の近い大富豪パリッシュ(アンソニー・ホプキンス)のもとに娘スーザンの友人に憑依した死神(ブラッド・ピット)が降臨します。死神はパリッシュとの約束でパリッシュの寿命を65歳の誕生日まで延ばすことになり、それまでの間、死神はスーザンの友人に憑依したまま人間界を見学し、やがてスーザンと恋仲に堕ちるというロマンティック・ファンタジーです。死神はパリッシュとの約束とおり65歳の誕生パーティーの最中にパリッシュを天国へ召しますが、そのラストシーンでパーティー会場となっている庭園に架かっている丸橋(神社の境内に架かっている御神霊や参拝者が渡るための太鼓橋を彷彿とさせるもの)が印象的に使われています。このシーンでは、丸橋を挟んでパリッシュがこの世の名残りを惜しむパーティー会場(此方、光に包まれる現世)と、その向こう側に死神が待つ庭園(彼方、闇に包まれる冥界)が印象的に対比して描かれ、この世への名残りを断ち切ってパリッシュがパーティー会場を一人静かに離れて死神と並んで此方(現世)から彼方(冥界)へと渡橋してきます。その二人の後ろ姿を見て直観的に悟ったスーザンは二人の後を追おうとしますが、死神はパリッシュの親心を汲んでスーザンも一緒に天国へ召したいという恋慕の情を断ち切り、スーザンに渡橋(後を追うこと)することを思い止まらせるために死神とパリッシュの姿が消えた丸橋の彼方(冥界)から死神が憑依していないスーザンの友人(恋人)だけを再び此方(現世)へ送り返し、“彼”と現世で幸せな人生を全うするように促すという結末です。このシーンに登場する丸橋は能舞台の「橋掛り」を彷彿とさせます。即ち、能は「鏡の間」(彼方、異界)と「舞台」(此方、現世)との間に「橋掛り」(異界と現世とを結ぶ臍の緒)がありますが、能の多くの曲は「鏡の間」から「橋掛り」を通って異界の者(亡霊等)が「舞台」に現れ、この世の無念等を謡い舞って消え失せるという顕在劇の形態をとります。ここでも“橋”は二つの異なる世界(現世と異界、批岸と彼岸、日常と非日常等)を結び、出会いと別れの場としてドラマを生み舞台を演出する機能を果たしています。日本では、現世と冥界との境に三途の川(“三途の川”とはこの川を渡る途が三つあることに由来し、善人は橋を渡ることができますが、小悪人は川の浅瀬を、大悪人は川の深瀬を渡らなければならないと言われています。「地蔵菩薩発心因縁十王経」の“一山水瀬。二江深淵。三有橋渡。”)が流れ、その川に橋が架けられていると考えられていますが(因みに、地獄のことをサンスクリット語で“Naraka”(ナラカ)と言いますが、ここから舞台の底のことを“奈落”(ナラク)と言うようになりました。)、これと同じような考え方は西洋にも見られ、例えば、ダンテ「神曲」地獄篇では、地獄にはアケローン川が流れ、冥府の渡し守カロンの舟に乗って地獄へ行き着くとされています。


土佐光信「十王図」三途川の画
善人は橋を渡り、悪人は急流に投げ込まれる様子が描かれています。また、六文銭を持たない死者が三途の川の渡し賃の代りに衣類を剥ぎ取られる姿も描かれていますが、その六文銭真田家の家紋になっています。因みに、千葉県長生郡長南町には“三途川”という名前の川があり橋が架けられていますが、これまでのところ川を渡った人が戻って来れなくなったという話は聞かないのでご心配なく..。このほかに宮城県蔵王青森県の恐山にも三途川という名前の川が存在します。

キリスト教ではヨルダン川が三途の川に相当する役割を果たし、神の国(天上界)と罪の国(地上界)の境と考えられています。旧約聖書ヨシュア記には、モーセの後継者ヨシュア(ヘブル語で“救世主”の意味)に率いられたイスラエル人がヨルダン川東岸から西岸へ渡河し、約束の地カナンへ移住したことが記されていますが、ヨシュアに率いられてイスラエル人がヨルダン川を渡河したことは神の民がイエスに導かれて神の国へ入ることに準えられて語られることがあります。当時は橋や舟がなくヨルダン川を渡河するのは命懸けだったと思いますが(ご案内のとおり死海(他の海と比べて塩分濃度が約10倍なので生物の生息は不可)へと注ぐヨルダン川は急流で死の川とも呼ばれています)、ヨルダン川は罪を洗い流す川であると共に、罪人が渡れない(永遠の劫罰へと魂を沈める)川であって、罪を悔い改めなければヨルダン川東岸(罪の国)から西岸へ渡河し(新約聖書ではヨルダン川は洗礼者ヨハネが人々に懺悔を説いて洗礼活動を行い、イエスに洗礼を授けた神聖な場所として記されています)、約束の地カナン(神の国)へ入ること(ヨルダン川渡河の軌跡)はできないという考え方に結び付いています。因みに、能「墨田川」では、シンボリックな意味で墨田川西岸が現世、東岸が冥界という描き方がされていますが、洋の東西を問わず川は現世と冥界との境であり、その間を橋又は渡し守(ヨシュアは天国への渡し守と言えましょうか)がつないでいて、罪人は容易に渡ることができないという共通のイメージがあるようです。なお、有名な黒人霊歌「深い河」はアフリカからアメリカに連れて来られた黒人奴隷が自分達の境遇をキリスト教の信仰に準えて歌にしたもので(詳しくは別の機会に触れますが、この黒人奴隷の中からジャズ等が生まれたことはご案内のとおり)、この世の苦しみから逃れ深い河(=ヨルダン川)を渡って天国へ行きたいという悲哀が歌われています。因みに、「怖い絵」で有名なドイツ文学者の中野京子さんが「橋をめぐる物語」という面白い本を執筆されていらしゃいますが、その中でゾロアスター教の「審判者の橋」やマホメット教の「細長い橋」など現世と冥界とをつなぐ橋が紹介されていますので、詳しくは本を買ってお読み下さい。


左から、1枚目:ご当地キティ―「落花生かぶりキティー」と千葉県産落花生で造ったピーナッツバター。映画「ジョー・ブラックをよろしく」のなかで死神(ブラッド・ピット)がピーナッツバターを舐めるシーンが度々登場しますが、(故郷自慢で恐縮ですが)日本の落花生(ピーナッツ)の約80%は千葉県産と言われており、千葉県産の落花生(ピーナッツ)は実に香ばしく生豆のままでも十分にテイスティーです。千葉県内でも一番の収穫量を誇る八街市のあたりを車で走ると落花生(ピーナッツ)専門店をよく見かけますが、生豆の他にも、ゆで豆、いり豆、炊込ご飯やお菓子(和・洋菓子)など様々な料理法や楽しみ方があり、お近くに来られた際に落花生(ピーナッツ)専門店に立ち寄られると色々と面白い発見があるかもしれません。2〜3枚目:落花生のゆるキャラ「ピーちゃんナッちゃん」と「ぼっちくん」、落花生畑の「ぼっち」。ひと昔前、日本全国でゆるキャラがブームになりましたが、千葉県内でも一番の収穫量を誇る八街市には落花生の殻を模ったピーちゃんナッちゃんと落花生畑の“ぼっち”(落花生を天日干しするために野積みにしたもの)を模ったぼっちくんというゆるキャラがあり、落花生(ピーナッツ)と同様に人々からこよなく愛されています。因みに、落花生は1つの殻に2粒の豆が入っていることから数字の“1”を1粒の豆に見立て11月11日をピーナッツの日としています。ピーナッツは便秘によく効き、美容や健康にも良いそうなので、来る11月11日は、本場、千葉県産の落花生(ピーナッツ)を食べて、体に“い(1)い(1)日”にしてみませんか。4〜5枚目:千葉県のゆるキャラチーバくん”。現在、総武線の車両にチーバくんがプリントされたものが走っていたのでご覧になられた方も多いと思いますが、千葉県のゆるキャラチーバくん”は千葉県のフォルムを模って強引にキャラクター化したもので、丁度、角が野田市、舌が浦安市、耳が銚子市、足が館山市にあたるチン(バ)獣です。富津岬の部分を出ベソにするか否かを巡って大論争になったらしく、結局、富津岬を切り捨て出ベソにしないことになったそうですが、そのうち“チーバくん”に出ベソの弟が登場するのではないかとも噂されています。

ショスタコーヴィチの歌劇「ムツェンスク群のマクベス夫人」


左上段から1〜4枚目:晴海埠頭に寄港している世界でも屈指、日本最大級の豪華客船「飛鳥Ⅱ」タイタニック号や戦艦大和と同じくらいの大きさです。レインボーブリッジの下を通過する写真が欲しかったのですが、タイミングが悪く失敗してしまいました。上述の携帯電話によるコミュニケーションも人々を結ぶ橋の役割を果たしていますし、世界を巡る豪華客船も同じく世界中の人々を結ぶ橋の役割を果たしていると言えます。左下段から1〜4枚目:晴海埠頭に寄港している世界最初のマンション型豪華客船「THE WORLD」。この日は珍しく晴海埠頭には「飛鳥Ⅱ」と「THE WORLD」の二隻の豪華客船が寄港していましたが、人々の様々な想いや夢を乗せて世界中を旅する豪華客船にはロマンが感じられます。飛行機の旅と違って豪華客船の旅はゆっくりと自分自身や自分の人生を見詰め直す時間が与えられるところに大きな魅力があり、いつか大海原の上で自分自身と向き合って自分の半生を振り返る時間を持ちたいものだと憧れています。救命ボートも豪華なので、これならいつか乗ってみたい気にさせられます..。

さて、今日は撮り溜めていたクラシックミステリー 名曲探偵アマデウスを観たので、その概要を簡単に残しておきたいと思います。


執筆中。続く。


◆おまけ
ダンテ「神曲」を題材にした曲を3曲ほどご紹介しておきます。
リストの「ダンテの神曲による交響曲」より抜粋

チャイコフスキーの幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」より抜粋

ラフマニノフの歌劇「フランチェスカ・ダ・リミニ」より抜粋

クラシックミステリー 名曲探偵アマデウス「サラサーテ “ツィゴイネルワイゼン”」

【題名】クラシックミステリー 名曲探偵アマデウスサラサーテツィゴイネルワイゼン”」
【放送】NHK−BSプレミアム
    平成24年1月26日(木)12時00分〜12時45分
【司会】筧利夫
    黒川芽以
    鈴木砂羽
【出演】加藤知子(ヴァイオリン)
    新日本府ファイルハーモニー交響楽団(指揮:円光寺雅彦)
    野本由紀夫(玉川大学芸術学部准教授)
    関口義人(音楽評論家)
【感想】
最近のブログの枕は千葉ネタ尽しで、千葉に関係のない方は食傷気味になっているかもしれませんが、“○を喰らわば皿まで”の気概で京都や滋賀もひれ伏す故郷自慢の極め付けをアップしたいと思います。千葉礼賛。とかく飲み会での故郷自慢と手柄自慢は嫌われますが、映画「壬生義士伝」において新撰組隊士で北辰一刀流の使い手だった吉村貫一郎中井貴一さん)が「故郷の話が無駄口であるはずがながんす」という名台詞を残しているとおり、手柄自慢はともかく故郷自慢を毛嫌いするのは野暮というものです。..ということで早速、今日9月16日(1863年)は新撰組の筆頭局長・芹沢鴨が暗殺された命日ですが、千葉県流山市新撰組の局長・近藤勇や副長・土方歳三ほか隊士200名が最後に本陣を置いて再起を図った陣営跡(御用商酒造業、長岡屋七郎兵衛邸跡)があります。ここで近藤勇土方歳三は袂を分ち、近藤勇は新政府軍へ出頭して斬首され、土方歳三会津戦争を経て函館戦争で戦死しています。盟友、近藤勇土方歳三の別離の舞台となり別れの酒を酌み交わしたであろう流山の造り酒屋「長岡屋」に因んで男の酒詰合せ「本陣長岡屋」が発売されています。忠義の士、近藤勇(焼酎)と土方歳三清酒)は互いに生き方が異なり袂を分つことになりましたが、貴公も幕末の志士達が命懸けで描いた男のロマンに思いを馳せながら美酒に酔いしれてみませんか。なお、吉村貫一郎鳥羽伏見の戦いで戦死(映画では南部藩大阪屋敷に逃れて切腹)し、千葉県流山市までは来ていません。続く。



<上段左から>
1〜2枚目:市川團十郎祖先居住地の碑と(旧)東光寺薬師堂(千葉県成田市
初代市川團十郎の曽祖父・堀越十郎家宣は武田家の能係の家計で一条信竜(武田信玄の異母弟)に仕えていましたが、武田家が滅亡すると下総国幡谷村(千葉県成田市)に移り住み、その後一時、北条氏の家臣となりましたが、1590年に豊臣秀吉によって北条氏が滅亡すると農民になったそうです。しかし、父・堀越重蔵は農業を嫌って江戸に出て、そこで初代市川團十郎が生まれました。写真は、(旧)東光寺薬師堂の境内に建つ、初代市川團十郎の曽祖父・堀越十郎家宣、祖父・堀越重右衛門及び父・堀越重蔵の三代に亘って住んだ居住地跡の碑です。樹幹が(旧)東光寺薬師堂を遮って地を這うように居住地跡の方へ延びていますが、居住地跡の土地には色々な人の思いが積り積って樹幹を惹きつける霊性のようなものを宿しているのかもしれません。なお、当時の芸術家は有力な戦国大名に召し抱えられるなどして芸能活動を行っており、例えば、観阿弥駿河国の今川家、世阿弥は将軍家の足利家に召し抱えられていましたが、西洋のみならず日本においてもパトロンが文化芸術の発展に重要な役割を果たしてきた一例と言えます。
3〜4枚目:成田山新勝寺延命院旧跡(千葉県成田市
成田山表参道を薬師堂へ向って歩いて行くと延命院旧跡があります。これは1842年に老中水野忠邦による天保の改革(奢侈禁令)のあおりを受けて江戸十里四方追放となった七代目市川團十郎成田山新勝寺延命院に身を寄せています。その名残を写すように延命院旧跡跡の街灯には三升紋があしらわれています。一時、幡谷重蔵と名乗っていたようですが、歌舞伎「東海道四谷怪談」の民谷伊右衛門役をはじめとした「色悪」(外見は二枚目でも性根が悪く、女性を裏切る悪役)の名手で、成田屋相伝の荒事18演目を選んで“歌舞伎十八番”を定め(「十八番」を“おはこ”とも読むのは、市川宗家がこれらの演目を箱に入れて大事に受け継いだことに由来すると言われています。)、荒事をお家芸とする市川團十郎の名声を一層と盤石のものとしました。因みに、「随市川」とは市川宗家は随一の歌舞伎役者という意味で、“随一”と“市川”を掛けた褒め言葉です。
<下段左から>
1枚目:薬師堂(千葉県成田市
1655年に成田山新勝寺の本堂として建立されたもので、この本堂の頃に初代市川團十郎水戸光圀が参詣しました。現在の本堂に建て替えるために、1855年に古い本堂は薬師堂としてこの場所に移築しています。改装して新しく見えますが、現存する成田山の建物としては最も古いものです。なお、子宝に恵まれなかった初代市川團十郎成田山新勝寺に子宝祈願をしたところ、その願いが叶って1688年に二代目市川團十郎を授かりました。初代市川團十郎は御本尊の霊徳に感謝し1695年に成田不動明王を上演しましたが、その際に大向うから「成田屋!」という掛け声が掛かったのが“成田屋”の屋号の由来と言われています。荒事の特徴である“隈取り”や“見得”も不動明王の姿から来ていると言われ、「“不動の見得”で睨まれると病が治る」という噂が広まったことなどから成田山新勝寺の江戸っ子人気が高まり、成田山詣での参拝者が往来する「佐倉街道」(現在の国道296号)の名前が「成田街道」に変ってしまうほど賑わったそうです。因みに、更に時代は遡りますが、1180年に石橋山の戦いで敗れて安房に逃れた源頼朝成田山新勝寺を参拝し、平家追討を祈願しています。
2〜3枚目:成田山新勝寺額堂と七代目市川團十郎の石造(千葉県成田市
1821年に七代目市川團十郎が千両を寄進して額堂(通称、三升の額堂)が建立され、江戸追放が解かれて江戸に戻ると不動明王の御利益に報恩するために自らの石造を造らせて安置しています。当初、額堂は三重塔の横にあったそうですが、1965年に不審火で焼失し、現在は光明堂の横に移築されています。因みに、“千両役者”とは江戸時代に歌舞伎役者の中で特に人気を誇り大衆を魅了した役者を示し、中村座市村座守田座等の座元(興行主)との専属契約において1年間(毎年11月から翌年10月までの1年間契約で毎年11月に役者が入れ替わることから各座元は11月に顔見世興行を行っていましたが、その名残りで現在でも11月の公演を“顔見世”と呼んでいます。因みに、現代の歌舞伎役者は、実質上、松竹株式会社と終身の専属契約を結んでいることになります。)に千両(現在の価値に換算して1億円前後なので、“千両役者”を現代風に言うと“1億円プレーヤー”です。)を超えるギャラを得たことからこう呼ばれるようになりました。最初の千両役者は二代目市川團十郎と初代芳澤あやめと言われていますが、当時は座元から歌舞伎役者へギャラが直接支払われることはなく、必ず、奥役(マネージャー)を通して支払われましたが、奥役がそのギャラの1割前後を手数料として自分の懐へ入れ(“1”のことを「ピン」(ピンからキリまで)と言いますが、“かすめ取る”という意味の「はね」ると併せて「ピンはね」という言葉が生まれています。)、その残金が歌舞伎役者に支払われる慣習がありました。なお、平和大塔の1階にある霊光堂には、市川團十郎に所縁の資料などが展示されています。
4〜5枚目:高浜虚子の句碑(七代目市川團十郎・六代目市川團蔵銅像台座)と五代目芳村孝次郎の碑(千葉県成田市
1910年に七代目市川團蔵が七代目市川團十郎及び六代目市川團蔵銅像(日本で最初の俳優の銅像)とその右横に名優七世市川団蔵と刻んだ碑を建立しましたが、1941年(第二次世界大戦中)に公布された金属回収令により七代目市川團十郎及び六代目市川團蔵銅像が供出されたので、1943年に八代目市川團蔵がその台座の上に七代目市川團蔵と親交のあった高浜虚子の句碑(“凄かりし 月の団蔵 七代目”)を建てたものが成田山公園に残されています。なお、その左横に長唄唄方の名跡、五代目芳村孝次郎(後に改め、四代目松永和楓)の永代御膳料の碑も建てられています。

ステレオタイプなテーマで恐縮ですが、江戸落語上方落語が対比されるように同じ伝統芸能でも江戸と上方では異なる特徴を持っていますので、一度、自分の頭を整理するために、総合芸術たる歌舞伎における江戸歌舞伎(荒事)と上方歌舞伎(和事)の特徴的な違いについて書いてみたいと思います。続く。



<上段左から>
1〜3枚目:成田街道沿いの成田山道道標(千葉県佐倉市)、成田山新勝寺総門と出世稲荷にある石燈籠(千葉県成田市
1831年に七代目市川團十郎成田街道沿いに成田山道と刻んだ道標を建立しており(写真に向って一番右側の石柱)、この道標の右側面に七代目市川團十郎が詠んだ句“天はちち 地はかかさまの 清水可那”が刻まれています(最後に「團十郎」の名前も刻まれていることが確認できます。)。この道標は加賀清水の近くに建てられていますが、七代目市川團十郎も加賀清水を愛飲していたと言われており、この道標の左側面には「この清水を飲めば女性が懐妊する」旨の功徳が説かれています。因みに、この地を領有していた佐倉藩主、大久保加賀守利常の通称「加賀様」と「かか(母)さま」とが掛詞になっています(この近くにある佐倉城祉は日本の名城百選の1つです。)。また、成田山新勝寺総門を入ったところに七代目市川團十郎(改め、七代目市川海老蔵)と八代目市川團十郎が奉納した石燈籠(仁王門に向って左の石燈籠は七代目、右の石燈籠は八代目が奉納したもの)があります。さらに、出世稲荷の鳥居を潜ったところに同様に七代目と八代目が奉納した石燈籠(社殿に向って左の石燈籠は八代目、右の石燈籠は七代目が奉納したもの)があります。
4枚目:市川宗家代々の墓(東京都港区)
昔、市川宗家代々の墓は常照院(東京都港区)にあったそうですが(境内には七代目市川團十郎が奉納した手水鉢があります)、現在は青山霊園に移されています。因みに、常照院には歌舞伎「梅雨小袖昔八丈」に登場する白木屋お熊や浄瑠璃「恋娘昔八丈」に登場する城木屋お駒のモデルとなった白木屋お熊の墓があります。また、落語「髪結新三」の題材にもなっています。
<下段左から>
1〜4枚目:成田山新勝寺表参道と成田山公園
成田山新勝寺の表参道は昔情緒が漂う門前町で、宛らジブリワールドを彷彿とさせるような独特の風情を醸し出す“望楼”が魅力の大野屋旅館登録有形文化財)など風趣に富んだ景観を楽しめます。また、成田山公園は紅葉の名所なので、これからの季節は紅葉狩りにもお勧めです(今年の紅葉祭りは2014年11月15日〜30日)。
5枚目:小野派一刀流の始祖・小野忠明と二代目・小野忠常の墓
成田山新勝寺の近くに柳生新陰流と並んで徳川将軍家の剣術指南役であった小野派一刀流の開祖・小野忠明と二代目・小野忠常の墓があります。小野忠明は千葉県南房総市の生まれで(南総里見八犬伝の舞台になった滝田城の近く)、万喜城主の土岐家(千葉県いすみ市)に仕えていた時代に武者修行で訪れた一刀流の開祖・伊藤一刀斎に師事しています。1590年に豊臣秀吉による小田原城の落城に伴って(これにより北条家の家臣であった初代市川團十郎の曽祖父・堀越十郎家宣は下総国幡谷村(千葉県成田市)に移り住んでいます。)北条方であった万木城主の土岐家は豊臣方であった里見家に滅ぼされますが、1593年に小野忠明徳川家康に200石で召し抱えられ、その後、将軍家の剣術指南役になっています。晩年、小野忠常家督を譲って知行地の下総国埴生郡寺台村(現在の千葉県成田市寺台)に隠棲し、永興寺へ葬られています。なお、小野派一刀流から新撰組隊士・吉村貫一郎(映画「壬生義士伝」の主人公)、坂本竜馬山岡鉄舟等を輩出した千葉周作北辰一刀流等が分派しています。因みに、小野家の知行地・下総国埴生郡寺台村(現在の千葉県成田市寺台)と市川團十郎の祖先である堀越家の居住地・下総国幡谷村(千葉県成田市幡谷)とは非常に近く、また、時代も重なることから、どこかで両者は会っているかもしれません。

【ライブびゅ〜イング】
 成田山新勝寺團十郎祖先住居跡〜市川團十郎ゆかりの地〜

歴史上の“毒婦”や“烈女”が芸術作品や子女教育に与えた影響について書く予定です。続く。



<上段左から>
1〜5枚目:長妙寺の八百屋お七の墓(千葉県八千代市)、円乗寺の八百屋お七の墓と大円寺のお七供養地蔵(東京都文京区)、大円寺のお七地蔵尊(東京都目黒区)
八百屋お七は千葉県八千代市の生まれで、東京都文京区本郷に店を構える八百屋徳兵エに養子に入りました。ある時、家が隣家の火災で焼失したので近くの円乗寺に身を寄せていましたが、お七は寺小姓・山田佐兵衛に恋心を抱きます。お七は家が再建されて家に戻った後も山田佐兵衛を一途に恋い慕い、山田佐兵衛に会いたい一心で家が焼ければ再び円乗寺に移れると1682年(“いろはに”)に家に付け火をし、品川鈴が森の刑場で火あぶりに処せられました。享年16歳、“世の哀れ 春ふく風に 名を残し おくれ桜の 今日散りし身は”という辞世の句を残しています。お七は円乗寺(東京都文京区)に葬られましたが、お七の実母は秘かにお七の遺髪を受け取って長妙寺(千葉県八千代市)に墓を建てお七の御霊を弔いました。なお、円乗寺にある三基の墓碑のうち向って右側の墓碑は、女形の歌舞伎役者・四代目岩井半四郎(四代目市川團十郎が歌舞伎の名跡岩井半四郎が途絶えるのを憂い、自分の門下に四代目岩井半四朗を襲名させて女形の大看板としての隆盛の礎を築いています。)がお七を演じて好評だったことから建立したものです。なお、円乗寺の近くにある大円寺には、お七の罪業を救うために熱した焙烙(ほうろく)を頭に被り自ら焦熱の苦しみを受けた“ほうろく地蔵”が安置されており、首から上の病を治す御利益があると言われています。また、山田佐兵衛はお七の処刑後に剃髪して僧侶となり西運と名乗ってお七の菩提を弔いましたが、目黒の大円寺には西運の石碑と共に“お七地蔵”が安置されており、一途な愛を願う若い女性が熱心に参拝するそうです。八百屋お七は「毒婦」と呼ぶには余りにピュア―で幼過ぎたような気がしますが、一途な恋の炎に身を焦がした少女の狂おしいまでの純情が人々の同情を生むのか、この事件は浮世草子「好色五人女」歌舞伎「八百屋お七歌祭文」歌舞伎「八百屋お七恋江戸染」歌舞伎「松竹梅雪曙」歌舞伎「松竹梅湯島掛額」歌舞伎「三人吉三廓初買」浄瑠璃「八百屋お七恋緋桜」浄瑠璃「伊達娘恋緋鹿子」落語「お七の十」など多くの作品の題材となっています。(毒婦伝は以下に後述します。)
<下段左から>
1〜2枚目:重願寺の花井お梅の墓(千葉県佐倉市)、長谷寺の花井お梅の墓(東京都港区)
小説「明治一代女」で知られる花井梅は1863年に佐倉藩(千葉県佐倉市)の下級武士・花井専之助の娘として生まれ、その後、家族で東京に移り住んで15歳で芸妓になります。花井梅は1887年に某銀行頭取の資金援助を受けて待合茶屋「酔月楼」の女将になりますが、その翌月、箱屋として雇っていた八杉峰三郎に対して不仲な父親との仲を取り持つようにお願いしたところ、八杉峰三郎からその見返りとして男女関係を迫られたことなどから浜田河岸(東京都中央区日本橋)で八杉峰三郎を包丁で刺します。これが花井お梅事件(別名、箱屋事件)の概要で、新内「梅雨衣酔月情話」歌舞伎「月梅薫朧夜」歌舞伎「仮名屋小梅」の題材になっています。美人芸妓の殺人事件ということで新聞がセンセーショナルに書き立て、花井梅は「毒婦」に仕立て挙げられましたが、八杉峰三郎は花井梅が熱を挙げていた若手女形の歌舞伎役者・四代目澤村源之助との関係を壊すなど昔年の恨み辛みも手伝って包丁を所持したのかもしれず、その意味では「毒婦」というより質の悪い男のために人生を狂わせた可哀想な人と言えそうです。長谷寺(東京都港区)に花井梅の墓と“新内各派”と刻まれた卒塔婆が建てられ、その右側に藤田まさとさんが建てた歌碑(“十五雛妓であくる年 花の一本ひだり褄 好いた惚れたと大川の 水に流した色のかず 花がいつしか命とり”と刻まれています)が建てられています。また、重願寺(千葉県佐倉市)には花井梅の墓と伝えられる墓石がありますが(咎人のためか墓碑名は刻まれていません)、生前の花井梅を知る人がその御霊を供養するためにひっそりと建立したものかもしれません。なお、歌舞伎では、女だてらに男勝りの強請や人殺しをする毒婦を主人公とした作品のことを「悪婆物」と言い、上述の四代目岩井半四郎歌舞伎「大船盛鰕顔見勢」で私娼・三日月お仙を演じたのが「悪婆」の始まりと言われています。因みに、歌舞伎の悪婆物に登場する「毒婦」としては、上述の白木屋お熊、八百屋お七や花井お梅のほかにも、高橋お伝歌舞伎「綴合於伝仮名書」浪曲「高橋お伝」谷中霊園にある高橋伝の墓に参ると三味線が上達するという評判で現在でも三味線を習う人の墓参が多いとか)や鳥追お松歌舞伎「廿四時改正新話」)などが挙げられます。いずれも若く色白で細面の美人が凶悪な罪を犯すというギャップに劇(ドラマ)性があり物語にし易いという面があったと思いますが、男尊女卑という時代背景のもと女性はか弱く慎ましやかであるべきであるという固定観念を打ち破るようなショッキングな事件が起こり、「毒婦」としてセンセーショナルに騒ぎ立て特異な事件として整理すると共に、このような規格外の事件を当時の社会秩序(価値観)の中で上手く消化して行く(庶民の心の中で折り合いを付けて行く)ための仕組み(文化的な仕掛け)として、懺悔芝居は時代の共通認識や感覚を取り戻して行くという当時の社会的な免疫(解毒)作用を営んでいたと言えるかもしれません。
3枚目:妙興寺の忠婢さつ(鏡山お初のモデル)の墓(千葉県多古町
妙興寺(千葉県多古町)には浄瑠璃「加賀見山旧錦絵」歌舞伎「鏡山旧錦絵」歌舞伎「加賀見山再岩藤」に登場する鏡山お初のモデルとなった松田さつ(通称、忠婢さつ)の墓があります。松田さつは長府藩士松田助八の娘として生まれ、浜田藩松平家江戸屋敷の側女・岡本道女の召使いとして奉公していました。ある時、岡本道女は老女中・落合沢野の履物を間違えて使用してことを咎められ、家名を辱められたことを苦に自害します。松田さつは岡本道女の仇討ちを決意し、1724年に岡本道女の短刀で斬り付けて落合沢野を見事に討ち果たします(通称、鏡山事件)。その後、松田さつは剃髪して妙真尼と名乗り、松平家に所縁の妙興寺(千葉県多古町)に庵を結んで岡本道女や落合沢野の菩提を弔ったと伝えられています。松田さつの生地跡には妙真寺山口県下関市長府)が建てられ、妙興寺から分骨した松田さつの墓があります。忠婢さつは「烈女」(=信念を貫きとおす激しい気性の女性、貞操を固く守る女性)として話題になり、鏡山事件は“女忠臣蔵”として浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなりました。この他の烈女伝としては、(現代人の感覚からすると違和感がありますが)日本国民として大津事件の落し前をつけるために壮絶な自決を果たした「烈女勇子」(信念を貫きとおした女性)や強引に迫るストーカー男を撃退しその責任をとって潔く自決した「烈女松江」(貞操を守りとおした女性)が挙げられます。このような烈女伝を見てみると、現代の女性に多い傾向として単に「負けん気が強い」又は「我が侭な性分」というものとは異なり、昔の女性は物事の道理や筋目を重んじ、しっかりとした信念と覚悟を持って潔く振る舞える美しい生き方をしていた女性が多かったように感じます。女性の社会的な地位の向上が叫ばれて久しく、現代と昔では随分と社会的な状況は変わっていますが、果たして現代の女性は昔の女性と比べて精神的に自立していると言い得るのか(これは男性にも当て嵌まる問いかもしれませんが)、烈女伝は「自立」ということの意味を見詰め直すための良い機会を与えてくれます。
4枚目:神崎神社の大クス「なんじゃもんじゃの木」(千葉県香取郡
近くにあった観光スポットを案内します。神崎神社(千葉県香取郡)の大クスです。1674年に水戸光圀がこの木を見て「この木はなんというもんじゃろか」と感嘆したので、それ以来、「なんじゃもんじゃの木」と言われています。
5枚目:西栄寺の琵琶首観音(通称「朝ねぼう観音」)(千葉県流山市
近くにあった観光スポットを案内します。西栄寺(千葉県流山市)には琵琶首観音が祀られています。この琵琶首観音は酒盛りをして寝過し、翌朝、天上界の会議に遅れたという逸話があることから通称「朝ねぼう観音」とも言われています。誰かに似ているような気がしますが、ねぼけ眼で顔がむくんでいるように見え、いかにも寝起きのような表情は実に愛嬌があります。

さて、ブログの枕が長くなり過ぎましたが、今日は撮り溜めていたクラシックミステリー 名曲探偵アマデウスを観たので、その概要を簡単に残しておきたいと思います。ご案内のとおりスペインのヴァイオリニスト、パブロ・サラサーテは10歳のときにスペイン女王イサベル2世に招かれて御前演奏を披露し、ストラディヴァリウスとパリ留学を賜った神童です。その後、私財を投入してガヤール劇場にオーケストラを設立するなどパンブローナ(スペイン)を中心に精力的な音楽活動を行い、1878年(上記の花井お梅が芸妓になった年)に彼の代表作となる「ツィゴイネルワイゼン」を作曲しています。因みに、日本で最初のプロ・オーケストラは1904年に設立された東京音楽学校(→東京芸術大学)の東京音楽学校管弦楽団(→藝大フィルハーモニア)で、その後、1915年に山田耕作が東京フィルハーモニー会(→新交響楽団→NHK交響楽団)を設立しています。また、日本で最初のアマチュア・オーケストラとして1901年に慶應義塾大学ワグネル・ソサイエティが設立されています。

ドイツ捕虜オーケストラの碑
故郷自慢の最後にクラシック音楽ネタで締めたいと思います。1915年に第一次世界大戦の敗戦国であるドイツ及びオーストリアの捕虜を収容するための習志野捕虜収容所(千葉県習志野市習志野)が設置され、そこに収容されている捕虜達が習志野捕虜オーケストラを結成してベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、モーツァルトの歌劇「魔笛」、グリーグの音楽劇「ペール・ギュント」及びJ.シュトラウスのワルツ「美しく青きドナウ」等を演奏しています。日本では1926年11月19日にベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の日本初演(独奏:J.ケーニヒ、指揮:近衛秀磨、演奏:新交響楽団)が行われていますが、実はそれよりも早く日本でベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の演奏が行われていたことになります。未だ蓄音機(1910年販売開始)やラジオ(1925年放送開始)が普及しておらず、上述のとおり日本ではオーケストラが設立し始めたばかりの黎明期で、また、一般庶民がヴァイオリンを演奏できる環境にもなかった(1900年に鈴木バイオリン生産開始)と思われますので、おそらく殆どの日本人にとって初めて耳にする音楽だったのではないかと思います。なお、千葉県銚子市新国立劇場美術センターがあり、衣裳、舞台模型や小道具など舞台芸術に関する所蔵品が展示されており、鑑賞会やコンサート等のイベントも開催されていますので、銚子名物“キンメ丼”を食べがてら華やかなオペラの舞台の裏側を見物してみるのも面白いと思います。因みに、ご存知の方も多いと思いますが、オペラの廻り舞台は歌舞伎の廻り舞台を採り入れたものですし、METライブビューイングはシネマ歌舞伎を真似て始められたものです。なお、千葉県銚子市の周辺には地球が丸く見える展望台(犬吠埼の灯台)、実在の人物“座頭市”の住居跡や屏風ヶ浦などもありますので、ついでにこの辺を散策するのもお勧めです。

ツィゴイネルワイゼンの第1部冒頭は聴く者の耳を捉えて離さない哀愁に満ちた旋律が印象的ですが、これは冒頭の“ソ−ド−レ−♭ミ”という旋律に秘密があります。この曲の調性であるハ短調音階(和声的短音階)のソ(属音)はド(主音)へ向おうとする性質がありますが、冒頭の“ソード”の強い流れと“ド−レ−♭ミ”の緩やかな流れの巧みな旋律の作り方が最も人間の心を惹き付ける効果があると言われています(“ソ(5)−ド(1)−レ(2)−♭ミ(3)”という旋律を数字譜で表記し、俗に“5123の魔術”と言われています)。このような例は、ツィゴイネルワイゼンのほかにも、ベートーヴェンのピアノソナタ第8番「悲愴」第三楽章の冒頭(右手の最初の4音ソドレ♭ミの動きに注目)や都はるみさんの「北の宿から」の冒頭(あなたか(ソ)わ(ド)り(レ)は(♭ミ)ないですか・・♪)等にも見られ、いずれも印象深い効果を生んでいます。また、ツィゴイネルワイゼンの冒頭で、オーケストラが“ソ−ド−レ−♭ミ”という旋律(楽譜1ページ目、第1小節〜第2小節)を高音で演奏しているのに対し、これに続くソロヴァイオリンが“ソ−ド−レ−♭ミ”という同じ旋律(楽譜1ページ目、第3小節〜第4小節)を低音で演奏していますが、この落差が聴く人の心を惹き付ける効果があるとも言われており、冒頭の旋律を一層印象深いものとすることに成功しています。なお、ツィゴイネルワイゼンはロマ(ジプシー)音楽の影響を色濃く受けていると言われています。ロマ音階とハ短調音階(和声的短音階)は殆ど一致していますが、ロマ音階はハ短調音階(和声的短音階)のファの音に#がついて半音高くなっている点が異なり(楽譜2ページ、ソロヴァイオリンの部分)、これがロマ(ジプシー)音楽の独特の曲趣(哀愁、屈折など)を醸し出しています。

【楽譜】
http://petrucci.mus.auth.gr/imglnks/usimg/0/00/IMSLP111461-PMLP04860-Zigeunerweisen_small.pdf

サラサーテは手が小さかったのでパガニーニの曲を演奏しなかったそうですが(パガニーニは末端肥大症で普通の人より指が長かったと言われています)、そのハンディーキャップを補うためにサラサーテの曲は小さい手でも音程がとりやすいハイポジション(ヴァイオリンを演奏したことがある方は直ぐに分かると思いますが、高音になるほど音間が狭くなり、ローポジションと比べてハイポジションは1オクターブの間隔が狭くなります。)が多用されています。また、サラサーテはトリル(楽譜6ページ目、ソロヴァイオリンの“tr”部分)やグリッサンド(楽譜7ページ目、ソロヴァイオリンの“dim”部分/楽譜10ページ目、ソロヴァイオリンの“glissant”部分)等の技巧やG線のハイポジションを使った多彩な音色を使って表情豊かな“泣き”(傷心、悲哀、哀愁など)の表現を可能にしています。第2部はゆったりとした時間が流れ、第3部ではチャールダーシュ(ハンガリーにやってきたロマの人々がヨーロッパ各地の舞曲を採り入れて発展させたもので、19世紀にヨーロッパ全土に広がりました。)をベースに気持ちが高揚する曲趣が特徴で、左手の高速ピッチカート(楽譜33ページ目、ソロヴァイオリンの“+”部分)など華やかな技巧を散りばめてクライマックスを盛り上げていきます。なお、チャールダーシュとは哀愁を帯びた緩急のある曲趣で“ラッシュ”と呼ばれる遅いリズムの部分と“フリッシュ”と呼ばれる速いリズムの部分から構成されますが、ツィゴイネルワイゼンでは第1部前半のソロヴァイオリンが即興風に歌いながら伴奏は演奏のきっかけを待つチャールダーシュの間合いの妙と言うべきラッシュと呼ばれる部分、第3部がソロヴァイオリン及び伴奏とも息もつかせぬ速さで駆け抜けて行く躍動感のあるフリッシュと呼ばれる部分に相当します。

ヴァイオリニスト加藤知子さんの演奏を探してみましたが、YouTubeにはアップされていなかったので、サラサーテ60歳の頃の自作自演をアップしておきます。

00:11〜、00:19〜
聴く者の心を捉えるソドレ♭ミ
00:26〜
哀愁感を漂わすロマ音階
00:58〜
第1部は緩やかなラッシュ
01:24〜
泣きのトリル
01:34〜
感情を揺さぶるグリッサンド
01:58〜
サラサーテならではのハイポジション

03:41〜
第2部は優雅な美しい旋律

03:57〜
第3部は躍動感あふれるフリッシュ
05:06〜
超難易の高速の左手ピッチカート
見た目にも盛り上があるクライマックス

◆おまけ
アンコール曲のレパートリーとして定番ですが、ロマ音楽の影響を色濃く受けたモンティのチャールダーシュを、ヴェンゲーロフの透徹のテクニックが冴え映えとする自在(ところによりアクロバティック)な演奏でどうぞ。

映画「ボーカロイド™ オペラ 葵上 with 文楽人形」が大好評につき、再上映されます。なんだかまだ僕は行けそうにないですが(...本当に困ったものです)、宣伝しておきます。是非、感想をお聞かせ下さい!!

香清話〜香に聞く、香を聞く〜

【題名】香清話〜香に聞く、香を聞く〜
【著者】畑正高(松栄堂社長)
【出版】淡交社
【発売】2011年3月24日
【値段】1944円
【感想】
今日は仲秋の名月(月齢14歳)。昔から中国では仲秋の名月に月餅をお供えする風習がありましたが、それが日本へ入ってきてススキと月見団子(又は里芋)をお供えするようになりました。旧 暦8月15日の十五夜の月は里芋をお供えするので“芋名月”、もう1つの名月である旧暦9月13日の十三夜の月は枝豆をお供えするので“豆名月”といいま すが、その年に収穫した農作物をお供えして五穀豊穣を神様に感謝するという意味合いがあるのかもしれません。また、日本でススキをお供えするのは神様の依り代と考えられていたからで、現代のように専ら鑑賞のために月を愛でていたのではなくアニミズム信仰(自然に宿る精霊を信仰)のために月を愛でていたということかもしれません。古来、月は、月の満ち欠けによって潮の干満に影響を与え、女性の月経周期や色々な生理現象とも神秘的な関係があると言われています。日本最古の物語である竹取物語は、月からやってきた絶世の美女かぐや姫は5人の貴公子の求婚を断って8月の満月の夜に「月の都」へ帰ってしまうというファンタジックなストーリーですが、昔から月は多くの和歌に詠まれ、日本人の創造の源泉になってきましたが、月が持つ神秘性に憧れを抱いていたのかもしれません。一方、欧米では、月は死を暗示するものとして月を観ることは不吉なことと考えられていたようで、妊婦が月を観ると胎児が精神異常をきたすという迷信があり、また、満月の日に凶悪事件が起きることが多いとも言われています。英語の“lunacy”(ルナシー、因みに“luna”は月の女神ルナ(=かぐや姫?)の意味)には狂気という意味がありますが、月を観て狼に変身する狼男は狂犬病患者がモデルだったと言われており、月が持つ神秘性が人間を狂気に駆り立てると信じられていたのかもしれません。同じ月ですが、洋の東西で随分と感じ方や考え方は異なるものです。因みに、「竹取物語」を題材としながら全く異なるアプローチで描かれた2つの映画、かぐや姫は宇宙人であったという設定の映画「竹取物語」(市川昆監督/東映)と、人間かぐや姫の真実に迫ろうと試みた映画「かぐや姫の物語」(高畑薫監督/スタジオジブリ作品)がありますので、仲秋の名月を愛でながら古のロマンに思いを巡らせてみるのも風流です。また、2014年1月18日に沼尻竜典さんが作曲した歌劇「竹取物語」日本初演されたようです。残念ながら観に行けませんでしたが、おそらく再演があるのではないかと期待しています。さて、古より愛でると言えば「月」と「桜」。千葉県民以外の方は辟易とされているかもしれませんが、今回のブログの枕は桜尽しでお国自慢を試みてみたい(隠れたテーマは“日本の恋争い伝説とそれが日本の文化芸術に与えた影響”と題し大風呂敷を広げておきましょう)と思います。



<上段左から>
1〜2枚目:西行の墨染桜と貴船神社(千葉県東金市
1180年に平重衡東大寺を焼討ちにしたことから(同年、源頼朝は石橋山の合戦に敗れて真鶴から安房へ小船で逃れており、それが能「七騎落ち」の題材になっています。)、1186年に俊乗坊重源上人が西行法師に奥州藤原氏東大寺再建のための砂金勧進に向うように依頼しています(同年、源頼朝に追われた源義経は同じく奥州藤原氏を頼って平泉へ落ち延びています。)。その途上、西行法師は万葉歌人山辺赤人及び小野小町を偲んで、その所縁の地である千葉県東金市を訪れたところ、自分の故郷と同じ山田村という地名を見て懐かしく思い、この地に京都の貴船神社の分社を造り(境内には「疣(いぼ)神社」があり、ここにお参りすれば疣を取り除いてくれると言われており遠方から参拝に来る方も多いそうです。)、その傍に杖として使っていた深草(京都市伏見区墨染町)の墨染桜の枝を挿して「深草の 野辺の桜木 心あらば 亦この里に すみぞめに咲け」と詠んでいます。その杖が成長して現在の墨染桜(樹齢約800年)になったと言われています。因みに、墨染桜とは、平安時代に上野岑雄が友人の関白、藤原基経を深草に葬った際に、その死を悼んで「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け」(古今和歌集)と詠んだところ、彼の悲しみに感じ入った桜が喪に服すように灰色がかった色に咲いたという故事に由来しており、それが歌舞伎「積恋雪関扉」浄瑠璃「西行法師墨染桜」の題材にもなっています。この故事を大そう気に入った関白、豊臣秀吉は姉の瑞龍尼が法華経に帰依したのを契機に墨染寺(京都市伏見区墨染町)を建立(再興)しており、その境内には歌舞伎役者、二代目中村歌右衛門が寄進した手洗い石が残されています。なお、墨染寺の直ぐ近くに欣浄寺(京都市伏見区西桝屋町)がありますが、そこは深草少将の邸宅跡と言われており、ここから深草少将は山科の小町小町のもとへ求愛のために百夜通いをしたと言われています。それが世阿弥の能「通小町」の題材になっていますが、黒墨桜の枝を杖として旅をしてきた西行法師が小野小町を偲び、その所縁の地である千葉県東金市を訪れて、この逸話に思いを馳せながら古今集の和歌に因んで「深草の・・・」と詠んだのだと思われます。少し脱線しますが、2003年に上海アリス幻楽団からリリースされたゲームソフト「東方妖々夢〜Perfect Cherry Blossom」は西行法師と墨染桜を題材として作られており、その中で墨染桜に因んだ「幽雅に咲かせ、墨染の桜」という曲が使われています。西行の墨染桜は、時を超えて形を変えて我々の心に美しい花を咲かせ続けています
3〜4枚目:能香「西行桜」と桜をモチーフにした香立で薫くお香(お香をお茶菓子に見立てました!召し上がれ❤)
西行法師は「願わくば 花の下にて 春死なん、その如月の 望月のころ」(山家集)という辞世の和歌を残していますが、この和歌のとおり旧暦1190年2月16日(「如月」=旧暦2月、「望月」=満月15日、釈迦入滅の日、新暦で3月末頃)に他界しています。なお、国語(古典)の時間に学習したと思いますが、和歌で使われる「花」とは、奈良時代までは“梅”を指しましたが、平安時代には“桜”を指すようになりました。1140年(平安時代)に鳥羽院に仕えていた佐藤義清は勝持寺で出家して西行法師と号し(NHK大河ドラマ平清盛」で藤木直人さんが演じていた役の人。因みに、藤木直人さんは千葉県佐倉市出身ですが、西行法師は千葉県佐倉市にある勝間田の池にも立ち寄り「水なしと 聞きて ふりにし 勝間田の 池あらたむる 五月雨の頃」という和歌を詠んでいます。)、その寺にある西行法師のお手植えの桜は「西行桜」と呼ばれていますが、世阿弥西行法師が桜の花を愛でた和歌を数多く収めている山家集を題材として能「西行桜」を創作しています。因みに、能香「西行桜」は“ひっそりと咲く桜をイメージした香り” のお香で、沈香をベースにしたフローラルノートの気品に満ちた香りは気持ちを解し心を整えてくれます。大変に美味しくいただきました..(u_u*)
5枚目:オランダの夕陽
↑ウソ、千葉県佐倉市にあるオランダ風車「リーフデ」と夕陽です。
<下段左から>
1枚目:小野小町公園にある小町塚と歌碑(千葉県東金市
千葉県東金市小野は六歌仙(&三十六歌仙)の一人で絶世の美女として有名な小野小町の生誕地と言われており(その後に上京して宮中に出仕)、西行法師が奥州へ向う途中で小野小町を偲んでこの地を訪れています。この一帯は桜の樹が多く、小野小町が幼少期に住んでいた邸宅の一角に小野小町が愛用していた機織りの道具(オサ)が埋まっていると言われています(小町塚)。歌碑には桜の樹に因んで「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」(古今和歌集)と刻まれています。なお、(下ネタで恐縮ですが【R12指定】)糸を通す穴のない待ち針のことを「小町針」と言いますが、これは数多くの男性から言い寄られた小野小町がこれらを全く相手にしなかったことから“穴”のない女と噂されたことに由来すると言われています。お口直しに少し脱線しますが、小野派一刀流(始祖の小野忠明は千葉県南房総市出身)から分派した北辰一刀流の始祖の千葉周作の姪、千葉佐那子(坂本竜馬の婚約者、NHK大河ドラマ龍馬伝」で貫地谷しほりさんが演じていた役の人)は剣や薙刀に秀で「鬼小町」「小千葉の小町娘」と呼ばれていたそうです。直接のつながりはないかもしれませんが、「小野」「千葉」「小町」に因んでご紹介しておきます。
2〜3枚目:三十六歌仙の1人、山辺赤人の墓(赤人塚)と山辺赤人の木像がある法光寺(千葉県東金市
もともと山辺(部)家は伊予国で山林管理の職に就いていましたが、山辺赤人の父が手柄をたて上総国(千葉県)に領地を与えられており(藤原定家と共に「新古今和歌集」を編纂した飛鳥井雅経の家に伝わる古文書「古今抄」に「赤人は上総国山辺郡の人なり」と記されており、現在の千葉県当東金市出身です。)、千葉県東金市山辺赤人と父の墓と伝えられる赤人塚があります。なお、山辺赤人が詠んだ有名な和歌「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」は壬申の乱で敗れ上総国に逃れた大友皇子天智天皇の子)を悼んで詠んだものと言われており、“田子の浦”とは現在の勝山港の周辺の海(千葉県安房鋸南町下佐久間にある田子台の下の海が“田子の浦”と呼ばれていました。なお、一部に“田子の浦”とは静岡県富士市の海とする俗説もあります。)で、勝山港から富士山を眺めて詠んだものと考えられています。因みに、源頼朝は石橋山の合戦で敗れて真鶴から小船で逃れ、千葉県安房郡居南町竜島の勝山海岸(“田子の浦”)へ漂着しています。
4枚目:三十六歌仙の1人、大江千里の歌碑(千葉県佐倉市
現代の歌手の方は“おおえせんり”と読みますが、平安の歌人の方は“おおえちさと”と読みます。在原業平の甥で古今和歌集小倉百人一首に作品が収められていますので彼の和歌を好きな人も多いと思いますが、印旛沼(千葉県佐倉市印西市成田市)を見下ろす野鳥の森(千葉県佐倉市)に建つ歌碑には大江千里の和歌「下つさの 伊波乃浦なみた津らしも 舟人さわぎから 艪おすな季」(伊波乃浦=印旛沼)が刻まれています。なお、仲秋の名月に因んで、大江千里が月を詠んだ有名な和歌「月見れば 千々にものこそ かなしけれ 我が身ひとつの 秋にはあらねど」(古今和歌集)も忘れてはなりますまい。
5枚目:印旛沼を紅に染める夕陽(千葉県佐倉市
野鳥の森の隣にオートキャンプ場の印旛沼サンセットヒルズ(千葉県佐倉市)があり、ここから見る夕陽がひときわ美しいです。少し凌ぎ易くなってきましたので、野鳥の森でバード・ウォッチングした後に、印旛沼サンセットヒルズでバーベキューを楽しみながら印旛沼を紅の夕陽にしんみりとたそがれてみるのも一興です。

西行について書く予定です。続く。



<上段左から>
1〜2枚目:手児奈霊神堂(真間娘女墓)、真間井(千葉県市川市
奈良時代下総国勝鹿(葛飾)の真間(現在の千葉県市川市真間)に手児(古)奈(てこな)という小野小町に劣らない絶世の美女がいて、万葉集にいくつもの和歌が詠われています。手児奈は多くの男性から求愛されますが、どの男性とも決め兼ねているうちに、手児奈を巡って男性の間で争いが絶えないようになり、遂にはその恋煩いから真間の入江弘法寺の下を流れる真間川の河川敷一帯に海水が入り込んで出来た入江)に身を投げて自ら命を断ってしまいました。古も今も変わらぬ揺れる乙女心、竹内まりやさんの歌「けんかをやめて」と同じような悲しくも切ない恋の物語があります。手児奈は美人薄命の元祖と言われており、行基上人が手児奈の悲話を聞いて哀れに思い、「弘法寺」(当初は「救法寺」と称しましたが、後に弘法大師空海が「弘法寺」と改称)を開いて手児奈の霊を手厚く弔いました(弘法寺の7世日与上人が手児奈の奥津城(墓)があったと伝えられていたところに手児奈霊神堂を建立し(1501年)、現在はそちらに祀られています。)。また、亀井院には手児奈が毎日のように水汲みをしていたとされる井戸「真間井」があります。何故、井戸が語り伝えられているのか歴史ロマンに思いを馳せてみると、美人で評判の手児奈を見染め又はその姿を一目見たいという男性がその叶わぬ想いを胸に秘めながら、手児奈が毎日のように真間井で水汲みをする姿に見惚れていたのかもしれず、そう考えると真間井は叶わぬ恋に身を焦がした男性達の切ない想いが交錯した特別な場所であり、真間井の水は枯れても、男性達が手児奈にそそいだ想いはいつまでも枯れずに残っていると言えるかもしれません。なお、万葉集には、この近傍の出身である山辺赤人上総国(現在の千葉県)の出身)や高橋虫麻呂常陸国(現在の茨城県)の出身)などの歌人が「真間の手児奈」を詠んだ和歌が数多く収録されています。以下にいくつかご紹介しておきます。
われも見つ 人にも告げむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥津城ところ」(山辺赤人
葛飾の 真間の入江に うち靡く 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ」(山辺赤人
勝鹿の 真間の井を見れば 立ち平し 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ」(高橋虫麻呂
葛飾の 真間の手児奈が ありしばか 真間の磯辺に 波もとどろに」(詠み人知らず)
葛飾の 真間の手児奈を まことかも われに寄すとふ 真間の手児奈を」(詠み人知らず)
また、亀井院の裏庭にある離れに北原白秋が暮らしていたことがあり、真間井の水を使って洗顔し、米や野菜等を洗っていたらしく「葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花」という短歌を読んでいます(近くの里見公園に北原白秋が暮らした亀井院生の離れが移築上されています。)。さらに、「真間の手児奈」を題材とした「琴と管弦楽による協奏曲」(大塚西作曲)、歌劇「真間の手古奈」(安東英男作詞/服部正作曲、服部正さんはラジオ体操第一や東邦音楽大学の校歌を作曲した方)、歌劇「TEKONA〜愛、そして手児奈」(源優太台本/会田道孝作曲)、歌舞伎「真間の手古奈」(金沢康隆作/杵屋六左衛門作曲)、長唄「真間の手児奈」(静友己枝作詞/堅田喜三久作調)、能「真間の手古奈」、読本「雨月物語」の一編「浅茅が宿」(上田秋成著)ミュージカルや長唄、戯曲など数多くの作品が生まれています。因みに、万葉集には「真間の手児奈」のほかに恋争いの悲話を詠った和歌が収められており、「葦屋の菟原処女(うないおとめ)」の悲話も有名です。葦屋(現在の兵庫県神戸市東灘区)に菟原処女という可憐な女性がおり多くの男性から思いを寄せられていましたが、菟原処女に求婚していた2人の男性が菟原処女を巡って激しく争うようになり、菟原処女は思い余って自ら命を断ってしまい、その2人の男も後を追って死ぬという悲話が残されています。これが世阿弥能「求塚」の題材にもなっています。
3〜5枚目:真間の継橋、真間を詠んだ小林一茶の歌碑と弘法寺の山門、玉蘭斎貞秀の浮世絵「利根川東岸一覧」(千葉県市川市
かつては弘法寺の下を流れる真間川の河川敷一帯には海水が入り込んで “真間の入江”と呼ばれ、その入江を東西に横切るように長大な砂洲(潮流が運んできた土砂が溜まってできる砂堤で、“天の橋立”が有名)が延びていました。真間の継橋は、その砂洲を中継する架け橋で、玉蘭斎貞秀の浮世絵「利根川東岸一覧」(当時の利(刀)根川=現在の江戸川)のほかに、斎藤月岑「江戸名所図会」の「真間山弘法寺」(絵、長谷川雪旦)、歌川広重の名所絵「名所江戸百景」の「真間の紅葉手古那の社つぎ橋」や小林清親の浮世絵「武蔵百景之内 下総真間つぎ橋」に描かれており、おおよそ現在の位置に橋架されていたことが伺えます。万葉集には「足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 やまず通はむ」(詠み人知らず)と詠んだ和歌があり、小林一茶も「かつしかや 真間の入江にさちあれと 柳ながめて のせぬ舟人」と詠んでいますが(弘法寺小林一茶の句碑には「真間寺で 斯う拾いしよ 散紅葉」の句が刻まれています。)、紅葉の名所として知られる弘法寺から真間の入江と砂洲に渡る真間の継橋を臨む眺めは風光絶佳であったことが伺えます。また、真間の入江の砂洲には“片葉の葦“(葉が片方にしかつかない葦)が生息していましたが、これは手児奈が亀井院にある真間の井に足繁く水汲みに通ったために、その美しさに惹かれて葉がすべて片方に寄ってしまったという伝説が残されています(現在も、真間の入江の名残りと言われている手児奈霊神堂の池に生息する片葉の葦は、手児奈が眠る真間の入江の底へと葉を向けています。)。因みに、宮部みゆきさんが「本所深川ふしぎ草紙」(新潮文庫)の第一話で「片葉の葦」と題する小説を書いています(吉川英治文学新人賞受賞)。真間の継橋から遠い古へと歴史ロマンの橋を継いで思いを巡らせてみると、何故、手児奈が真間の入江に身を投じなければならなかったのか、その乙女心が哀切に胸に響きます。
<下段左から>
1枚目:手児奈霊堂にある縁結びの桂の木(千葉県市川市
さだまさしさんが奉納した桂の木で、桂の木の葉のかたち(ハート型)をあしらった絵馬にカップルの名前を書いて奉じると恋が成就するそうです。さだまさしさんは若い頃に千葉県市川市に住んでいたことがあるらしく、いつか「真間の手児奈」の悲しく切ない恋の物語を素敵な曲にして戴けないものかと願っている人は多いのではないかと思います。
2枚目:弘法寺の涙石(千葉県市川市
弘法寺山門へと続く1千個以上の石段のうち、いまなお涙を流すように濡れ続けている石(通称、涙石)があります。江戸幕府作事奉行の旗本、鈴木長頼が1705年に日光東照宮の造営のために使う石材を伊豆から船で運ぶ途中に千葉県市川市付近で船が動かなくなり、その石材を勝手に弘法寺(当時、鈴木家は弘法寺の大檀那)の石段に使用してしまったことから、幕府から責任を追及されて石段で切腹させられました。その時の鈴木長頼の無念の涙が染み込んで、いつまでもその涙が枯れることなく涙石を濡らせ続けています(写真は2014年9月13日(晴れ)午前10時頃に撮影しましたが、天地神明に誓って涙石に細工などはしておらず、周囲の石が乾いているのに涙石だけが濡れている状態でした。但し、理由は分かりませんが、鈴木長頼の御霊も泣き暮らしてばかりいるのではないのでしょう、涙石があまり濡れていない日もあるそうです。)。なお、鈴木長頼は学識豊かな大工頭だったので、1696年に真間の手児奈に所縁の旧跡を末永く顕彰するために万葉顕彰碑(真間の継橋、手児奈霊神堂入口、亀井院入口に三基の顕彰碑があり「真間の三碑」と言われています)を建てたと言われており、現在もその万葉顕彰碑は残されています。因みに、深草少将の邸宅跡である墨染寺には“涙の水”と言われる「深草少将姿見の井戸」(別称、墨染井)があります。深草少将は百夜通いの最後の夜に大雪のために凍死し小野小町への想いを遂げられませんでしたが、小野小町を恋い慕う一途な想いを断ち難く、今もなお墨染井の涙の水は枯れることがありません。「通う深草百夜の情け 小町恋しい涙の水は 今も湧きます欣浄寺」(西条八十能楽をはじめとして日本の伝統芸能は古人の無念を語り、謡い、舞うことで古人の無念を晴らす怨念鎮魂の思想が背景にありますが、土地の歴史を訪ねて古人の心へ思いを馳せてみると、その心は時を超えて今もなお生き続けていると感じられます。
3〜4枚目:弘法寺の伏姫桜、国府台公園にある里見広次公廟と夜泣き石(千葉県市川市
今年は滝沢(曲亭)馬琴の長編読本「南総里見八犬伝」刊行200年の記念年ですが、その南総里見八犬伝に因んで、弘法寺には「伏姫桜」(樹齢400年)という見事な枝垂れ桜があります。里見家が国府台(千葉県市川市)に城を構えていたことがあったことに由来して命名されたものかもしれません(因みに、南総里見八犬伝の舞台になった館山城(千葉県南房総市)にある里見桜も有名です。)。1564年に下総国当時、千葉県は下総国、上総国、安房国の三国から構成)の覇権争いで、北条氏康(2万)が小岩側、上杉謙信に加勢する里見義弘(8千)が矢切側に布陣して闘っていますが、北条氏康矢切の渡し細川たかしさんのヒット曲になり記念碑もありますが、小岩側は寅さん記念館、矢切側は国府台(里見)公園が近くにあります。因みに、矢切の渡しは11月末日まで運行しており大人は片道200円です。)を亘って夜襲をし掛けたことにより里見義弘が敗れて里見広次ら約5千人が戦死しています。その後、安房国から来た里見家の末姫があまりに凄惨な光景に傍らの石にすがって泣き崩れ、遂には憔悴して息絶えてしまいましたが、それから夜毎にその石から女性の鳴き声が聞こえるようになり、この合戦に参加していた武士が姫を手厚く弔ったところ泣き声が止んだというのが“夜泣き石”の伝説です。この地にも里見の姫にまつわる伝説が花を咲かせています。
5枚目:吉井の水車小屋(千葉県南房総市
吉井の大井戸の近くに「川上の駅」(現在の“道の駅”のようなところ)の跡(千葉県房総市)があり、三十六歌仙の1人、大伴家持が訪れています。これは741年に朝廷が安房国上総国へ併合することを宣言したことに対し、安房国が異論を申し出たことから、その調査の目的で大伴家持安房国に派遣されたものです(因みに、大伴家持は783年に勅使として上総国麻賀多神社(千葉県成田市)を参詣し鳥居を建立しています。)。そこで平郡郎女と恋仲になって平郡郎女から恋歌が送られるようになり、その多くの和歌(「万代と 心は解けてわが背子が 摘みし手見つつ 忍びかねつも」「隠沼の 下ゆ恋ひあまり白波の いち白くいでぬ 人の知るべく」など12首)が万葉集に収められています。とりわけ後者の和歌は万葉集4500首の中でも相聞の秀歌として絶賛されています。因みに、数年前、作曲家の千住明さんと俳人黛まどかさんが万葉集を題材としたオペラ「万葉集」を発表して話題を呼びましたが、万葉集に詠まれている和歌の世界は時代を超えて現代にも相通じるものがあり、音楽によって昔の日本語(和歌を詠む文化が廃れず、未だ日本語が磨き抜かれ洗練されていたころの言葉)が持っていた香気が豊かに薫って、実に美しく耳に響き心に共鳴したことを思い出します。こんな優れた文化を持ちながら現代では和歌を詠む文化は廃れてしまい、その結果、日本語はその豊かな情緒性を失って機能面ばかりが追求されるようになり(例えば、季節を表現し自然の表情を繊細に汲み取る語彙は著しく減って、その最大公約数を効率的に伝達する語彙のみが重用されるなど。更にこれを音楽に例えれば、平均律を生み出したことで音を扱い易くなり音楽を普及し易くなった反面、鍵盤と鍵盤の間に落ちる膨大な音を失ったことで音楽表現の可能性を狭めてしまった状況と相似していると思います。)、また、地面をアスファルトで覆い尽くして人間がコントロールできない自然を徹底的に排除した二元論的な世界(自然界と人間界を分けて考え、人間が自然を支配しようとする西洋(キリスト教)的な価値観。これに対し、日本は自然界と人間界を分けて考えることはせず、“山川草木悉皆成仏”という思想に現れているとおり自然を支配の対象としてではなく畏敬崇拝の対象として捉える東洋(仏教)的な価値観を基調としていましたが、維新から敗戦を経て二元論的な世界観が台頭)の中で生活していることも手伝って、花鳥風月を愛でる風流心や自然の繊細な表情を感じとる鋭敏な感受性を失って、何の潤いもない殺伐とした「活字」だけが氾濫する辟易とした世界に晒されている自分を感じます。古の和歌に触れてしみじみと思いますが、心を洗い流し、心を研ぎ澄ませ、心を満たしていく「言葉」を取り戻さなければならないのではないかと自戒の念を込めて痛感しています。

万葉集と和歌について書く予定です。続く。



東京の新デートスポット、真間の継橋ならぬ平成の継橋とも言うべき東京ゲートブリッジ。東京都内に勤務されている方は、突如、オフィスビルからライトアップされたブリッジが見えるようになったと話題になったと思いますが、葛西方面から羽田方面に抜ける一般道路に掛るブリッジ(通行料無料)で、その名のとおり東京湾を入出港する船はこのブリッジの下を通って入出港します。若洲海浜公園からブリッジの遊歩道へ上がることができ、夜は東京の夜景を楽しむことができます。夜になるとカップルの姿も多く、ブリッジの上(東京中の人が見ている前)で永遠の愛を誓うなんてお洒落じゃありませんか ブリッジの上で東京の夜景をバックに2人のシルエットが重なり合い溶けて行くような写真を撮影してみたいと思っていますが、我こそはと思うカップルが居たらご一報下さい..(*^^*) なお、東京ゲートブリッジの近くにあるレインボーブリッジの下を豪華客船が通る日がありますので、カメラを片手に豪華客船の見物も面白いかもしれません。

さて、ブログの枕が長くなりましたが、そろそろ本題を書きたいと思います。

香道について書く予定です。続く。

香清話―香に聞く、香を聞く

香清話―香に聞く、香を聞く

◆僕がご贔屓にしている東京にあるお香専門店
http://www.shoyeido.co.jp/menu.html

◆僕がご贔屓にしている千葉にあるお香専門店
http://www.shisenkobo.co.jp/

◆おまけ
仲秋の名月に因んで、NHKみんなのうたの曲「月のワルツ」(湯川れい子作詞/諫山実生作曲/安部潤編曲)のジャズテイストの演奏をアップしておきます。グラスを片手にライブに酔いしれてみたい気分にさせられます。

月に因んでもう1曲。シューベルト歌曲「月に寄せて」(D193)をアップしておきます。この曲の歌詞と竹取物語かぐや姫に求婚した貴公子たちの想いを遂げられなかった切ない心情とが重なって心に染みてくるようです。

おまけのおまけ。この懐かしい曲を聴くと青春の甘酸っぱい想い出がよみがえってきます。映画「竹取物語」の主題歌にも使われていた曲、シカゴの「素直になれなくて」(原題:Hard to Say I'm Sorry)を貼っておきます。今、あの人が幸せでいることを祈って..。

松竹歌舞伎アーカイブス〜昭和の名舞台〜「与話情浮名横櫛」

【題名】松竹歌舞伎アーカイブス〜昭和の名舞台〜
【演目】与話情浮名横櫛
     木更津海岸見染の場
     源氏店の場
【出演】<与三郎>市川團十郎
    <お富>坂東玉三郎
    <赤間源左衛門>中村勘五郎(仲蔵)
    <和泉屋大番頭多左衛門>市川左團次
    <和泉屋番頭藤八>坂東弥五郎 
    <蝙蝠安>五世片岡市蔵
【収録】歌舞伎座 昭和63年12月
【放送】衛星劇場(平成26年7月18日16時〜)
【感想】
前回に続いて、千葉に所縁のある歌舞伎の世話物人気演目の1つ「しがねぇ恋の情けが仇。命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から・・・(中略)・・・死んだと思ったお富さん、無事で暮らしていようとは、お釈迦様でも気がつくめぇ」の名台詞で有名な「与話情浮名横櫛」をご紹介します。なお、この名台詞を題材にして創られた歌謡曲お富さん」が昭和29年にヒットしていますが、その軽快なメロディーは一度耳に憑いたら離れず頭の中をグルグルと回り始めてしまう妙な親しみ易さがあります♪



上段左から、1〜2枚目:長唄家元、四代目芳村伊三郎(本名、中村大吉)の墓(千葉県東金市)と親分、山本源太左衛門の墓(千葉県東金市)。与話情浮名横櫛は、千葉であった実話を基に創作されたもので、後年に長唄の家元の名跡である四代目芳村伊三郎を襲名した中村大吉(千葉県大網白里市出身、与三郎のモデル)と山本源太左衛門の女房きち(千葉県茂原市出身、お富のモデル)が不倫家系に陥って木更津に駆け落ちしますが、子分衆に後を追われて中村大吉は全身を切りつけられます。後年、その傷跡を見た八代目市川團十郎がこの実話を基に三世瀬川如皐に脚本を書かせたものです。3〜4枚目:中村大吉の墓がある最福寺徳川家康と日善上人の記念碑。来年(2015年)没後400年を向える徳川家康ですが、東金は将軍家の鷹狩地で八鶴湖を挟んで最福寺の対岸に徳川家康が鷹狩に訪れた際に宿泊した御殿跡(現在は本漸寺)があり、徳川家康が手植えした蜜柑の木があります。
下段左から、1枚目:光明寺(千葉県木更津市)にある与三郎の墓。与三郎の墓には片岡仁左衛門さん及び坂東玉三郎さんが建てた卒塔婆(既に経文と施主は判読不可)があります。2枚目:選擇寺(千葉県木更津市)にある蝙蝠安の墓。3枚目:AQUA木更津にある浮世絵壁画。写真は三代目歌川豊国作「五節句之内 弥生 与三郎 お富」と歌川広重作「富嶽三十六景 上総木更津海上」ですが、木更津駅周辺には木更津に所縁のある浮世絵壁画が展示されています。4枚目:木更津甚句木更津甚句の歌詞の4番で木更津にある證誠寺の狸囃子伝説を歌っている部分の音源をアップしておきます。)を記念して鳥居崎海浜公園(千葉県木更津市)にある芸妓のモニュメント(向って右側が若福)。江戸時代(安政年間)の落語家(千葉県木更津市出身)木更津亭柳勢が木更津甚句を高座で歌って人気を博して江戸界隈で流行し、更に木更津から上京した芸妓の若福がお座敷で木更津甚句を歌ったところ江戸の花柳界で話題となり、それが全国に広まって大流行しました。歌詞の中の“ヤッサイ、モッサイ”とは、木更津船の船頭が「そこをどけ、そこを通せ」という意味の掛け声からとったものだとか。5枚目:成就寺(千葉県木更津市)にある芸妓の若福の墓。なお、京都の花街を舞台に舞妓になるために頑張る少女の成長物語を描いたフィクション映画「舞妓はレディ」が近く公開になりますので、ご興味のある方はどうぞ。因みに、「舞妓」とは概ね20歳未満の芸妓見習いのことで華やかな着物で着飾っていますが、「芸妓」は立方と地方に分かれて、立方は少し落ち着いた着物を着用して舞を担当し、地方は普通の和装で歌や三味線を担当します。偶には粋にお座敷遊びと洒落込んで男を磨いてみませんか。

【ライブびゅ〜イング】
 切られ与三郎(木更津〜品川〜東金)〜歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛」ゆかりの地〜

黙阿弥と瀬川如皐について書く予定です。続く。



上段左から、1枚目:鳥居崎海浜公園(千葉県木更津市)にある見染めの松(別称、袖掛けの松)。江戸の大店の若旦那である与三郎が潮干狩りに来てお富に出会い見染めた場所です。与三郎とお富が着物の袖を松の枝にかけて儚い恋を語ったことから「袖掛けの松」とも言われています。2枚目:恋人の聖地。与三郎とお富に肖って鳥居崎海浜公園は恋人の聖地と言われていいますが、恋人をおんぶして中の島大橋(バックに写っている赤い橋)を渡ると恋が叶うと言われています。なお、狸囃子の童謡で有名な證誠寺(千葉県木更津市)が近くにあるので狸のモニュメントが使われているのだと思います。世上、メス狸は化けるのが上手いと言われていますので、オス狸は騙されないように気をつけなければなりますまい。3枚目:成就寺(千葉県木更津市)にある与三郎とお富が逢瀬を楽しんだ旅館の主の墓。与三郎はここでお富と逢い引きしているところを襲われて全身を切りつけられます。4枚目:“玄冶店”(東京都中央区日本橋人形町)の碑。与三郎とお富が再開する“源氏店”(鎌倉にあるという設定)は、徳川家の御典医であった岡本玄冶の拝領屋敷一帯を指した地名“玄冶店”に由来して名付けられたと言われています。因みに、先日のブログ記事でも触れましたが、“玄冶店”にある料亭「濱田屋」に芸妓の貞奴がおり、後に川上音二郎と結婚して一座と渡仏しますが、その舞台等がプッチーニドビュッシーピカソ等に多大な影響を与えています。なお、当時、パリ社交界で流行した着物風の“ヤッコドレス”は川上貞奴の影響によるもので、“ヤッコ”とは彼女の名前の一字“奴”に由来しています。現在、世田谷美術館で「ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展」が開催されていますので、ご興味のある方はお運び下さい。
下段左から、1枚目:天妙国寺(東京都港区品川)にある長唄家元四代目芳村伊三郎(与三郎のモデル)の墓(向って右側)と新内節中興の祖、三代目鶴賀新内の墓(向って左側)。墓所での写真撮影は入り組んだ隘路での撮影で他の墓碑名が写り込まないようなアングルにしなければならないので本当に難しいです。なお、天妙国寺には徳川家康豊臣秀吉の命で江戸へ国替えになった際に宿泊しています。2枚目:天妙国寺にある一刀流剣術の祖、伊藤一刀斎の墓で、墓標に剣を下段に構える姿が白く浮き上がっていますが、これは自然にできたものだそうです。死してなお構えを解かないとは、これぞ剣豪の心意気です。“切られ与三郎の墓”切られ与三郎の墓と同じところに剣豪の墓があるのは皮肉ですが、柳生新陰流と共に徳川将軍家の剣術指南役になった小野派一刀流の開祖、小野忠明(千葉県南房総市出身)は伊藤一刀斎の弟子です。3枚目:天妙国寺にある浅草遠州流(華道)を興した本松斎一得の墓。八代将軍徳川吉宗公に作品を認められ、松平の“松”の一字を与えられて信享齋一朝を本松斎一得と改めまています。4枚目:天妙国寺にある浪花節浪曲)中興の祖、桃中軒雲右衛門の墓。市川雷蔵の若親分シリーズ三波春夫さんが桃中軒雲右衛門役を好演されておられますが、桃中軒雲右衛門は前幕で覆った立ち机を前にした口演、陰三味線というスタイルを考案し、琵琶や(今年創始200周年を向えた)清元の節調を採り入れて荘重豪快な節を創始して人気を博しました。なお、桃中軒雲右衛門の代表作として、先日のブログ記事でもご紹介した「佐倉宗五郎」や「赤穂義士本伝」などがあります。5枚目:鳶頭のお祭り左七の墓碑(桃中軒雲右衛門の墓の道標の横にある梵鐘型の墓碑)。四世鶴屋南北作「心謎解色糸」に登場する鳶の頭です。天妙国寺には、長唄、新内、華道、浪曲、そして剣術と華々しい歴史上の人物の墓碑が並んでいます。


与話情浮名横櫛に出て来る鎌倉の“源氏店”と徳川家康没後400年に因んで、能「七騎落ち」のその後という切り口で源頼朝と千葉について書く予定です。続く。




上段左から、1〜2枚目:源頼朝の上陸地碑と勝山海岸(浮島の左側に薄っすらと見えている山峰は伊豆大島です)。石橋山の合戦で平家方に敗れた源頼朝ら主従7騎は1180年8月28日に神奈川県足柄下郡真鶴町岩(岩海岸)から小船で逃れ、翌29日に千葉県安房郡居南町竜島(勝山海岸)へ漂着します(地図を見ると分かりますが、真鶴から安房(勝山)まではほぼ一直線で、南総里見八犬伝の舞台になった富山を目指して舟を漕いだと言われています。)。吾妻鏡には「二十九日、武衛(頼朝)、(土肥)実平を相具し、扁舟に棹さし安房国平北群猟島に着かしめ給う。北条殿以下人々これを拝迎す」と記されており、先着していた北条時政や三浦義澄らと合流し、ひとまず安西景益の平松城(千葉県南房総市)へ入って味方を募り再起を図ったと言われています。源氏再興を期して洲崎神社(千葉県館山市)や丸御厨(千葉県南房総市)などへ足を運んだと言われており、房総半島には源頼朝に所縁の地が多く残されています。なお、千葉県安房鋸南町は、浮世絵の祖、菱川師宣の生誕地でもあります。3枚目:逆さ柿(千葉県南房総市)。源頼朝が柿の枝で作った鞭を逆さに地にさして“我わが願いをして成らしめば、この枝かならず芽生えよ”と念じた言われています。なお、この近傍に南総里見八犬伝の舞台になった滝田城と八房の生誕地があります。4枚目:源頼朝が称賛したとされるソテツ(千葉県南房総市)。なお、この近傍に南総里見八犬伝の舞台になった伏姫籠穴があります。5枚目:千葉県安房郡居南町竜島(勝山海岸)から三浦半島の城ケ島大橋を撮影。泳いで渡る人もいるそうです(ウソ)。
下段左から、1〜3枚目:源頼朝が源氏再興を祈願した洲崎神社、その境内にある源頼朝が笠を掛けたと言われている笠掛の松(跡地)と晴れていれば富士山や大島を見渡せる富士見鳥居。この近傍に南総里見八犬伝で伏姫に8つの珠を授けた役行者の石造が祀られている岩屋(養老寺)があります。4枚目:矢尻の井戸(千葉県館山市)。源頼朝が飲み水がないため、岩間に矢尻を突き立てたところ清水が湧いたという井戸跡です。なお、その傍らに源頼朝洲崎神社に源氏再興を祈願して詠んだ「源は おなじ流れぞ 岩清水 せきあげてたべ 雲の上まで」という歌碑があります。5枚目:洲崎灯台から富津岬方面を撮影。写真中央に見える対岸の尖った山が富山になります。なお、矢尻の井戸の近くに源頼朝上陸碑がありますが、源平盛衰記には「安房国洲崎へこそ漕ぎ渡り拾いけれ」と記され、また 義経記には「二十八日の夕暮に安房国洲の崎というところに御船を馳せ上げ」と記されていますので、富山を目指した源頼朝主従は潮に流されて28日夜に一旦は千葉県館山市洲崎へ漂着し、再び翌29日に舟で富山へ向かった可能性も考えられます。因みに、吉川英治さんの「新・平家物語」では洲崎上陸説を採用しています。


さて、ブログの枕が長くなりましたが、そろそろ本題を書きたいと思います。


感想を書きます。続く。


なお、河竹黙阿弥は、ライバルだった瀬川如皐(3世)の「与話情浮名横櫛」(通称、切られ与三郎)のパロディーとして、お富と与三郎を入れ替えて、お富が傷だらけになる「處女翫浮名横櫛」(通称、切られお富)の脚本を書いていますが、9月17日(水)16時〜衛星劇場(CS)で放送されますのでご興味がある方はいかが。

◆おまけ
日本が世界に誇るジャズピアニストの穐吉敏子さんが木更津甚句をジャズアレンジした曲です。かなりイケています♪

平成24年新春浅草歌舞伎「南総里見八犬伝」

【題名】平成24年新春浅草歌舞伎
【演目】南総里見八犬伝
     富山山中の場
     大塚村庄屋蟇六内の場
     円塚山の場
【出演】<庄屋蟇六/犬山道節>市川亀治郎 
    <金碗大輔/簸上宮六>市川男女蔵
    <網干左母二郎>中村亀鶴
    <犬塚信乃>中村歌昇
    <犬村大角> 坂東巳之助
    <蟇六娘浜路>中村壱太郎
    <犬田小文吾>中村種之助
    <犬坂毛野>中村米吉
    <犬江親兵衛>中村隼人
    <下男額蔵実は犬川荘助>坂東薪車
    <伏姫>市川春猿
    <蟇六女房亀篠>坂東竹三郎
    <犬飼現八>片岡愛之助
【収録】浅草公会堂 平成24年1月19日11時00分〜
【放送】WOWOW(平成24年2月25日18時〜)
【感想】
今年刊行200年を向えた滝沢(曲亭)馬琴の長編読本「南総里見八犬伝」を採り上げてみたいと思います。先日、“佐倉義民伝”(東山桜荘子)を紹介しましたが、次回に紹介する“切られ与三郎”(与話情浮名横櫛)と併せて、千葉に所縁のある歌舞伎の人気演目の1つです。



上段左から、1〜2枚目:里見家のお家騒動(1533年、天文の内乱)で敗れた里見義豊勢の最後の拠点となった滝田城跡の本丸跡。物語はこの滝田城を居城とする里見義実が安西影連に攻められるところから始まりますので、ここが南総里見八犬伝発祥の地とされています。3〜4枚目:遠見山の山頂にある里見義実の愛犬八房と伏姫のモニュメント及び朱色の展望台。物語では里見義実が八房に対して安西影連を討ち取れば伏姫を娶らすと約束し、これに従って八房が安西影連の首級を持ち返って伏姫を富山へ連れ去りますが、その場面の彫像です。5枚目:養老寺の開祖、役行者の石造が祀られている岩屋。物語では伏姫が役行者から108個の数珠を授けられますが、そのうち8つの珠に「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の文字が浮かんでいました。
下段左から、1〜3枚目:伏姫籠穴(1枚目の右上にあるのは犬塚)。籠穴の前に設えられた八角形の踊り場で加藤洋一さんの歌劇「伏姫」の初演が行われています。物語では八房に連れ去られた伏姫が籠っていた洞穴で、ここで伏姫が最後を迎えたときに8つの珠が飛び散り八犬士が誕生します。4枚目:富山山頂にある八犬士終焉の地。細く曲がりくねった急斜面の山道を車で山頂まで登っていきましたが、運転に自信がある方でも歩いて登られることをお勧めします。発見士きどりで気前よく車で登っていきましたが、後悔しきりの難所続きで僕にとっても終焉の地になってしまうところでした..。物語では里見家の危機を救った八犬士は里見義実の八人の孫娘をそれぞれ娶り、その後、子供達に家督を譲ってからは富山山中へ姿を隠して仙人になるという結末です。


南総里見八犬伝の受容について書きます。続く。




上段左から、1〜2枚目:里見頼義が築城した館山城とその天守閣から臨む館山湾。物語では滝田城の里見義実を攻め、八房に討ち取られた安西影連の居城です。3枚目:館山城にある八賢士の墓。里見忠義は1614年に安房9万石から伯耆鳥取県倉吉市)3万石へ国替えとなり、里見忠義に最後まで仕え、主人の後を追って殉死した8人の家臣達の法名に“忠義”を意味する「賢」の文字がついていることから“八賢士”と呼ばれるようになり、これが物語の“八犬士”のモデルになったと言われています。昔から犬は主人への忠義に厚く、八賢士の忠義に掛けて「賢」を「犬」に準えて物語を創ったのかもしれません。また、里見忠義の名前に対するオマージュにもなっています。丁度、今年は南総里見八犬伝刊行200年に加えて、里見忠義が伯耆へ国替えになってから400年にあたる記念年です。4枚目:館山城に植えられている里見桜。館山城は桜の名所としても知られてしますが、この里見桜は鳥取県倉吉市群馬県高崎市(里見氏は上野国桑名町の出身)及び千葉県館山市の有志で植樹したものです。写真は季節外れの枯れ木になっていますが、西行の和歌にあるように春を忘れて咲かない桜はありませんので来年の春まで夢を咲かせて待ちたいと思います。「今さらに 春を忘るる花もあらじ やすく待ちつつ 今日も暮らさむ」(山家集西行
下段左から、1〜3枚目:里見義堯と里見義豊とが争った犬掛合戦の古戦場跡、里見義豊の墓所、八房の生誕地にある八房と狸の塚。物語では八房は狸に育てられたという設定になっています。4枚目:館山城内にある八犬伝博物館に陳列されている南総里見八犬伝の読本。


里見家について書きます。安房一帯を平定し、里見家の内紛や北条、武田、上杉、織田、豊臣、徳川や佐竹といった有力な戦国大名の中で乱世を勝ち抜いてきた里見家の波乱に満ちた家史はドラマ性に富んでおり、NHKの大河ドラマで採り上げられることは間違いないでしょう。続く。




上段左から、1〜2枚目:柳生新陰流と並んで徳川将軍家の剣術指南役であった小野派一刀流の開祖、小野忠明の生誕地(千葉県南房総市)。南総里見八犬伝発祥の地であり物語の舞台にもなっている滝田城跡(千葉県南房総市)の直ぐ近くにあり、その墓碑は永興寺(千葉県成田市)にあります。物語では犬塚信乃が剣の達人、赤岩一角先生から剣術指南を受けていたという設定ですが、ここから着想を得たのかもしれません。因みに、小野派一刀流は山岡鉄舟を輩出し、坂本龍馬が江戸留学で門弟となった北辰一刀流北辰一刀流の始祖、千葉周作は千葉氏の末裔)が分派しています。また、千葉には極真空手発祥の地があり、文武共に優れた土地柄と言えます。3〜4枚目:偶々(“玉”の掛詞ではありません❤)ですが、JR内房線木更津駅西口駅前にある狸のオブジェ。物語では八百比丘尼妙椿は里見義実に殺された玉梓の怨霊が八房を育てた狸に憑りついて化身したものという設定になっていますが(八房も里見義実に殺されていますので、玉梓の怨霊と八房の育ての親である狸の怨念が八百比丘尼妙椿に化身したと言えるかもしれません。)、近傍にある狸囃子の童謡で有名な證誠寺(千葉県木更津市)の狸囃子伝説に着想を得たのかもしれません。なお、この狸ほど立派ではありませんが、僕も心には8つの珠(徳)を、亦には2つの珠(玉)を持っています❤❤ 因みに、俗謡「たんたんたぬき」は米国のバプテスト教会ロバート・ローリー牧師が創った讃美歌の替え歌だそうで、些か不慎ではあります。
下段左から、1〜4枚目:證誠寺の境内と童謡碑、狸塚。

滝沢馬琴の長編読本「南総里見八犬伝」刊行200年を記念して、色々な公演が企画されています。正月に国立劇場2015初春歌舞伎公演「通し狂言 南総里見八犬伝」(五幕九場)が開催されましたが、今後も以下のような公演が予定されています。

【お知らせⅠ】
2014年8月30日(土)に道の駅ローズマリー公園内のシアターホールにおいて歌劇「伏姫」(出演:ソプラノ加藤千枝さん、バリトン加藤洋一さんほか)が公演されます。滝沢秀明さんが主演したTVドラマ「里見八犬伝」や薬師丸ひろ子さんが主演した映画「里見八犬伝」でご覧になられたことがある方も多いと思いますが、ファンタジックな舞台に仕上げられているようなのでお楽しみに!

【お知らせⅡ】
2014年10月31日(金)から新国立劇場(中劇場)及び梅田芸術劇場等で脚本家の鈴木哲也さんが書き下ろし、映画監督の深作健太さん(御尊父は映画「里見八犬伝」の監督、故・深作欣二さん)が演出を努める舞台「里見八犬伝」が公演されます。なお、12月6日(土)の千穐楽南総里見八犬伝の所縁の地である千葉県南総文化ホールで公演されます。

◆夏休みの課題図書が終わっておらず、泡(“安房”の掛詞)を噴いているお子様向けに。原作の面白さそのままに、凡そ30分で南総里見八犬伝の物語の世界を味わえます。8つの珠に込められた儒教の教え“徳”を中心に感想文をまとめると先生のハートをワシヅカミにできるかもしれません。

マンガ「南総里見八犬伝」(電子書籍)

◆脱線ついでに、大脱線!地元で話題騒然!!南総里見八犬伝フリークには絶対に見逃せない伏姫のご当地キティ―が登場しました。


さて、ブログの枕が長くなりましたが、そろそろ本題を書きたいと思います。


感想を書きます。続く。



http://www.kabuki-bito.jp/theaters/other/2012/01/post_82-Printout.html

◆おまけ
麗しき里見の姫君、ジャズヴァイオリニストの里見紀子さんが演奏されるラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」のジャズアレンジバージョン。里見紀子さんは横浜市金沢区出身だそうですが、里見家との所縁があるのか否かは分かりません。もう一人の里見の姫君、伏姫へのオマージュとして亡き王女のためのパヴァーヌをアップしておきます。

ザルツブルク音楽祭「聴くことの学校」(全3日)

【題名】ザルツブルク音楽祭「聴くことの学校」(全3日)
【講題】現象による響き(1日目)
    指揮とオーケストラ(2日目)
    響きと構造(3日目)
【出演】ダニエル・バレンボイム(全3日)
    ロビン・ティチアーティ(2日目)
    ピエール・ブーレーズ(1日目)
【演奏】ウェスト=イースト・ディヴァン・オーケストラ(全3日)   
【演目】ベートーヴェン レオノーレ序曲第3番 Op.72a(1日目、2日目)
    シェーンベルク 管弦楽のための変奏曲 Op.31(1日目)
    バルトーク 4つの管弦楽曲 Op.12(3日目)
【収録】2007年8月 ザルツブルク大学講堂(全3日)
【感想】
今日8月8日は「ピアノの日」(ピアノの鍵盤数が88鍵なので)だそうです。1700年頃にクリストフォリによってピアノ(当時の名称はクラビチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテで、音の強弱を出すことの出来るチェンバロの意味)が発明されたときの鍵盤数は54鍵しかありませんでしたが、それから約200年を経て88鍵まで増え、それ以来、ピアノの鍵盤数は88鍵で定着しています。これは人間の耳が音程として聴き分けられる音域が約20ヘルツから約4000ヘルツまでなので、これ以上、ピアノの鍵盤数を増やしても人間にはノイズとしてしか聴き取れないことが理由のようです。ピアノという楽器の発展史から、作曲家の表現意欲とピアノという楽器の改良との関係、ピアノという楽器の改良とピアノ曲の表現可能性の拡大、更にそれによる作曲家の作風の変化との関係等を調べてみると、これまで聴き馴れてきたはずのピアノ曲の異なった魅力(とりわけモダンピアノとピリオドピアノ(作曲当時に使用されていた楽器と同じタイプの楽器)で演奏した場合に同じ曲から感じられる魅力や感興の違い、ピアノの発展史の過程でモダンピアノと比べてピリオドピアノが内包していた機能的制約と作曲法や演奏法との関係を踏まえてその曲が本来持っている等身大の魅力を再認識する新鮮な発見と面白味など)を感得し、感動を新たにする契機になるかもしれません。以下に参考図書をご紹介しておきます。なお、浜松市楽器博物館にはピアノをはじめとして色々な年代の楽器が展示されていますので、お子さんがいらっしゃる方は夏休みの自由研究で訪れてみるのも良いかもしれません。色々な年代の楽器の実物(レプリカ)を見ながらそれらの発生史、発展史を紐解いていけるので興味深いです。

カラー図解 ピアノの歴史---作曲家が愛した、当時のピアノで奏でるCD付

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ピアノはいつピアノになったか? (阪大リーブル001)【CD付】

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上段左から、1枚目:金谷方面から「東京湾観音」(千葉県富津市)の遠景を撮影。東京湾観音は高さ56m(20階建て相当)ですが、「大船観音」(神奈川県大船市)が25m(胸像)で、僕が1m80cm、ガンダムが18m、ウルトラマンが40m、キングコングが45mなので如何に大きいかが分かります。「牛久大仏」(茨城県牛久市)が高さ120m(世界3位)なので、関東の仏像ではこれに次ぐ大きさになります。参考になりませんがご参考まで。2枚目:東京湾観音の中景を撮影。手前の樹木と対比すると、その大きさが分かると思います。3枚目:東京湾観音の蓮台の下にあるミニチュアの東京湾観音です。このミニチュアは僕の身長と同じくらいの大きさなので、如何に東京湾観音が大きいかが分かると思います。4枚目:東京湾観音の近景を撮影。斜陽をバックに撮影しましたが、まるで救世観音の後光(後光とは仏様がその徳の高さから自然と体から放射される光のことを意味しますが、頭の後ろにある後光を「頭光」、身体の後ろにある後光を「身光」と言います。)のようです。5枚目:東京湾観音の内部に安置されているマリア観音。江戸時代の禁教令で弾圧されたキリシタン聖母マリア観音菩薩に仕立て秘かにキリスト教を信仰した名残です。なお、東京湾観音の内部は螺旋階段になっていて頭上まで登れるようになっていますが、下から「天部」(古代インドの神々から生まれた七福神帝釈天、韋駄天、摩利支天など)→「明王」(如来が姿を変えて人々を救う姿)→「菩薩」(お釈迦様が修行中だった頃の姿)→「如来」(お釈迦様が悟りを開いた後の姿)の順番に23体の仏像が安置されていて仏界が表現されています。
下段左から、1枚目:東京湾観音の腕(13階建て相当)から金谷港方面を撮影。「湘南平」(神奈川県平塚市)や「魚見塚展望台」(千葉県鴨川市)では永遠の恋を誓ってカップルの名前を書いた南京錠を鎖に付けると二人の仲は固く結ばれて恋が成就するという伝説がありますが、それらと同様に東京湾観音にもカップルの名前が刻まれた南京錠が❤ 2枚目:東京湾観音の頭上(19階建て相当)の天界から三浦半島方面の地上界を撮影。海風が強いと呼吸が困難になるほどの高所です。3枚目:東京湾観音の耳(17階建て相当)から富津岬方面を撮影。4枚目:大佐和海岸(富津岬近く)に1人佇み、メランコリックに夕陽を撮影。


ブログの枕として仏教について書きます。続く。




上段左から、1枚目:東京湾フェリーの金谷港フェリーターミナルの駐車場に設置されている恋人の聖地「幸せの鐘」です。夕暮れ時にカップルで鐘を鳴らすと永遠の恋が成就するという伝説があります❤ 鐘の下に浮ぶのが東京湾フェリーの船影で、海の彼方に薄っすらと見えるのが三浦半島です。東京湾アクアラインができましたが、ペリーが来航した東京湾浦賀水道)を遊覧する船旅も風情があって良いものです。2枚目:鋸山(千葉県安房郡)の稜線。江戸時代から良質な房州石の産地として知られ、石切り場の跡がノコギリの歯形のように見えることから命名されたそうです。江戸時代の人はどのようにしてあれだけの高地であれだけの巨大な岩肌から石を切り出し下界まで運んだのか、その遺構から石切り職人達の壮絶な生き様が偲ばれます。鋸山の上空に“白夜月”(日没に見える月のこと、日出に見える月は“有明の月”)と成田国際空港へ向う飛行機が見えます。写真をクリックしないと小さくて見え難いかもしれませんが、僕の好きな漢詩山中月」(眞山民)を添えておきます。3枚目:鋸山のロープウェイ乗り場から東京湾浦賀水道)を一望。対岸に見えるのが三浦半島です。4枚目:鋸山の山頂にある石切り場跡、通称「地獄のぞき」。あの先端(親子が写っているところ)まで行って写真を撮ろうとアプローチしてみましたが、あの根元あたり(先端まで下りられず躊躇している3人の姿が写っているあたり)で腰が抜けて断念。お好きな方はどうぞ。
下段左から、1枚目〜4枚目:日本の棚田百選に認定されている「大山千枚田」(千葉県鴨川市)の棚田です。正しく“神のキャンバス”と形容したくなるような心を奪われる美しさです。棚田は“小さなダム”と言われるように保水機能を持っていますが、棚田に水が張られる田植えの時期(ゴールデンウィーク頃と思われます)も美しいので、その時期を狙って再訪してみたいと思っています。女優の井上真央さんが主演され、実話を元に作られた映画「八日目の蝉」で棚田の夜祭りシーン(香川県の中山千枚田)が使われていましたが、大山千枚田の夜祭りは2014年10月17日(金)〜19日(日)に予定されていますので、ライトアップされた棚田の幻想的な夜景をお楽しみあれ。


ブログの枕として米について書きます。続く。


さて、ブログの枕が長くなりましたが、そろそろ本題を書きたいと思います。


概要と感想を書きます。続く。


◆おまけ
「ピアノの日」を記念して、昨年、ヤマハで開催された「むかしむかしの素敵なピアノ 〜19世紀に咲いた華〜』展ピアニストの小倉貴久子さんがクリストフォリの発明したピアノ(クラビチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ)のレプリカを実演された際の模様がYouTubeにアップされていたのでご紹介しておきます。

東京湾観音像に因んで観音経をアップしておきます。今年の正月に日蓮宗大本山清澄寺」(千葉県鴨川市)に御来光を拝みに行った際に日蓮宗の高僧と檀家の皆さんが団扇太鼓を打ち鳴らしながら一斉に題目を唱えられていましたが、澄んだ声で唱和されるお経は信仰心に貫かれた揺るぎない信念のようなものを感じさせる迫力があり(清澄山から臨む峰々に木霊し、宛ら十万浄土に響き渡るような唱題は生で聴くと圧倒されます。是非、ご一聴あれ。)、鳥肌を覚えたことが印象深く思い出されます。以前、野村萬斎さんがMANSAI@解体新書で三番叟について語られた中で「揉之段で肉体を極限の状態まで持って行って体を空洞化させ、鈴之舞で面をかけることで自我を消し去る感覚にな」り、これによって「依代」としての「身体」が出現するという趣旨のことを仰っていましたが、何時間にも亘り隙のないリズムに合わせてお経を唱える唱題行にも全く同じようなことが言えるかもしれません。最近は声明(キリスト教の讃美歌に相当する仏教音楽で、お経をリズム(節)やメロディー(抑揚)に合わせて唱えること)のコンサートも盛んで、クラシック音楽とコラボレーションした演奏会も行われるようになりましたので、信仰・修行としての仏教音楽に加えて芸術としての仏教音楽を見直してみるのも面白いかもしれません。

25年目の弦楽四重奏(原題:A Late Quartet)

【題名】25年目の弦楽四重奏(原題:A Late Quartet)
【監督】ヤーロン・ジルバーマン
【脚本】ヤーロン・ジルバーマン
【撮影】フレデリック・エルムス
【美術】ジョン・キャサーダ
【衣装】ジョセフ・G・オーリシ
【音楽】アンジェロ・バダラメンティ
【出演】<ロバート・ゲルバート>フィリップ・シーモア・ホフマン
    <ピーター・ミッチェル>クリストファー・ウォーケン
    <ジュリエット・ゲルバート>キャサリン・キーナー
    <ダニエル・ラーナー>マーク・イバニール
【制作】2012年
【感想】ネタバレ注意!
今年の「土用の丑の日」は7月29日でしたが、そもそも「土用」とは暦の立春立夏、立秋、立冬の18日前の期間のことを言い、その期間のうち暦の干支が「丑の日」を「土用の丑の日」と言います(2014年は8月7日が立秋なので、その18日前の期間のうち丑の日は7月29日のみとなります。この期間で2回目の丑の日を二の丑と言いますが、今年は二の丑はありません。)。何故、「土用の丑の日」に鰻を食べるようになったのかと言えば、江戸時代の発明家である平賀源内が鰻屋から商売繁盛の秘訣について相談を受けたところ、当時、「丑の日」には「う」のつくものを食べると夏負けしないという言い伝えがあったことから(万葉集三十六歌仙の1人、大伴家持が夏の鰻に託けて皮肉交じりに毒花を咲かせている和歌(ざれ歌)二首が載っていますが、昔から日本人は夏バテ対策に鰻を食していたようです。)、それに肖って「丑の日には鰻を食べよう」という広告を軒先に貼ったところ商売が大繁盛したことに由来しています。僕の自宅近くには印旛沼(千葉県佐倉市印西市成田市)がありますが、テレビ東京の人気番組「出没アド街ック天国」でも紹介されているとおり印旛沼は鰻の名産地としても知られ、印旛沼周辺には鰻屋の名店が軒を並べています。その印旛沼の湖畔には歌舞伎の演目「東山桜荘子(別名、東山殿花王彩幕又は返咲桜草子)」(通称、佐倉義民伝又は佐倉宗吾)でお馴染みで、数多くの浮世絵が作られ、講談や浪花節にも採り上げられる佐倉惣五郎伝説に登場する木内惣五郎(通称、佐倉宗吾)と甚兵衛(任侠の渡し守)の縁の地である甚兵衛公園日本の名松百選)と麻賀多神社(関東一の大杉とそこから歩いて直ぐのところにある宗吾旧宅、そして近隣にある東勝寺の宗吾霊堂)があります。また、近くには、この一帯を領地としていた佐倉藩居城の佐倉城址日本の名城百選)があります。因みに、歌舞伎役者の(故)中村勘三郎さんと演出家の串田和美さんコクーン歌舞伎で「佐倉義民傳」を公演された際に宗吾旧宅や宗吾霊堂を訪れています。
http://www.kabuki-bito.jp/news/2010/05/_photo_75.html



上段左から、1枚目:佐倉惣五郎伝説に出てくる「甚兵衛渡し」の旧跡。佐倉藩領内の名主であった木内惣五郎が打ち続く凶作と重税に苦しむ農民を救うために1652年に上野寛永寺に参拝していた4代将軍徳川家綱に税の減免を直訴し、その願いは聞き届けられたものの当時は直訴は大罪なので処刑されたという実話。その木内惣五郎の江戸出府にあたり任侠の渡し守であった甚兵衛は禁制を破って船を出し惣五郎を送った後に印旛沼に身を投じたという悲話。昔の日本人は“義に生き”“義に死ぬ”実に潔く誇り高い国民性を持った民族だったんですね。2枚目:「甚兵衛渡し」の旧跡は「甚兵衛の森」とも呼ばれて日本の名松百選に数えられ、見事な枝振りの松の大木が生い茂っています。なお、千葉には、名水百選として弘法大師ゆかりの「熊野の清水」もありますのでお立ち寄りあれ。3枚目〜4枚目:推古天皇が西暦608年に創祀した神社で、境内には推古天皇の時代に植樹された関東一の大杉(樹齢約1400年)があり「清澄山の千年杉」(千葉県鴨川市)よりも樹齢は長いと言われています。但し、正確に言えば、関東では「中川の箒杉」(樹齢約2000年/神奈川県足柄上郡)及び「逆杉」(樹齢約1500年/栃木県那須郡)に次ぐ樹齢ではないかと思われます。いずれにしてもこれだけの大杉は滅多に拝めません。因みに、783年に上述の歌人大伴家持が勅使として麻賀多神社へ参拝し鳥居を寄進したそうですが(それ故なのか鳥居には菊の御紋があしらわれています。)、その際に印旛沼の鰻を食されたかもしれません。関東では鰻を背開きにして一旦蒸してから焼くので淡泊で柔らかいのが特徴なのに対し、関西では鰻を腹開きにして蒸さずに焼くのでパリッと香ばしいのが特徴ですが(一説に関東は武士の国なので縁起を担いで切腹をイメージさせない背開きを好んだとか、また一旦蒸すのは鰻の身を大きく見せて見栄を張りたい江戸っ子気質のためとか)、関東風の鰻は大伴家持はんのお口に召したのでしょうか。
下段左から、1枚目:柳家三亀松さんの都々逸に「鉄の鎖で繋いだ舟も、義理じゃ甚兵衛も鉈で切る」という佐倉義民伝からの一節がありますが、宗吾霊廟(東勝寺)のお土産屋さんでこの名台詞が刻まれた「徳利」(とっくり)を買ってきました。佐倉義民伝は木内惣五郎さんの「徳」と甚兵衛さんの「義理」から生まれた物語なので、「徳」と「(義)理」で「徳利(理)」とは洒落ています。宗吾霊廟(東勝寺)を訪れると、村民の身代りになって一命を賭し税の減免を直訴した木内惣五郎さんはこの地域一帯の方々から子々孫々に亘って愛され大切に祀られていることが伺われます。なお、木内惣五郎さんが江戸出府の際に妻子と袂別のための砌り水杯に用いた井戸が残されていますが、その追慕の情も「徳利」に込められているのかもしれません。2枚目:印旛沼湖畔に建つオランダ風車「リーフデ」(千葉県佐倉市)と風にたなびく田園風景(利根川下流の水郷地帯では秋の洪水を避けるために通常の出荷時期より早い9月に出荷される早場米が主流で、もう稲穂が頭を垂れています)。何故、僕が千葉をこよなく愛するのかと言えば、千葉には大地の豊かな恵みと両手を拡げても納まり切らない地を覆うような広い空があるからです。3枚目:陽光に輝く眩いばかりの印旛沼。4枚目:甚兵衛大橋と双子橋の間を流れる印旛排水路にかかる橋脚がない架け橋。高地の架け橋には橋脚がありませんが、これだけ大きなものは首都圏近傍では珍しいのでパシャリ。どうやって鉄骨を渡したのか不思議です。

▼佐倉義民伝を扱った作品
歌舞伎

文楽

浪花節

ところで、最近、フェイスブックを利用してC.W.ニコルさんと友達になりましたが、彼がフェイスブックを使って面白いメッセ―ジを色々と配信されています。先日は間伐した50年杉(国有林の杉木で、戦後の植林政策で人工的に植えられたものと思われます。)の年輪が徐々に細くなっている原因について、これまで適切な間伐を怠ってきたことにより森が荒れ十分な日光を浴びられずに木の発育が阻害されてきたためだと嘆いておられました。自然に触れて自然を身近に感じながら暮らしていると杉木も人間も同じで、ギスギスとした狭い森(人間社会、都会暮し)の中では真っ直ぐ大きな木(人間性)は育み難いのではないかと実感することが多いです。即ち、人間社会(都会暮し)の中で色々なものを消費し疲弊するばかり(人間が造った人口的な世界は“破壊”と“消費”を基調とするシステム)では小さく歪んだ人間性しか育まれず、自然の中で色々なものを感じ吸収して(神が創った自然の世界は“創造”と“再生”を基調とするシステム)こそ大きな視野で色々なものに真っ直ぐと向き合える人間性が育まれるような気がしてなりません。アスファルトばかりを眺めていても、そこから活き活きと力強く生きるための創造力のようなものはなかなか生まれて来ないような気がします。因みに、ラフマニノフは米国に亡命して何も作曲することができなくなった理由について「もう何年もライ麦のささやきも白樺のざわめきも聞いてない」と語っていますが、ロシアの大自然が彼の創作の源であり生きる原動力であったことが伺われます。なお、C.W.ニコルさんは健康な森を取り戻し守るために「C.W.ニコル・アファンの森財団」を設立し、様々な活動を行っています。彼の許可をとって記事を掲載している訳ではありませんが、一般の方の寄付も受け付けられているので心ある方のご協力をお願い致します。また、パソコンやスマホで音楽コンテンツをダウンロードして購入すると音楽制作者が受け取る印税の一部が寄付されるドネーションミュージックという運動があるらしく、坂本美雨さんの「はじまりはじまり」という曲が寄付されていますのでご紹介しておきます。僕はC.W.ニコルさんの考えや生き方に共感を覚えることが多いですが、未来の子供達のために何を残してあげられるのか、未来に責任を持つ大人の1人として考え、実行したいと常々思っています。
http://www.afan.or.jp/



上段左から、1枚目〜3枚目:地球が丸く見える展望台(千葉県銚子市)から夕陽をバックに屏風ヶ浦を一望(風力発電用の風車が林立しています。)、屏風ヶ浦を背にして犬吠埼の灯台、夕陽に頬を赤く染めて愛を語り合うカップル達❤ 地球が丸く見える展望台は銚子の突端にあり三方を海に囲まれ、まるで引っ繰り返したお皿(地球)のてっぺんに立っているかのように360度見渡す限り丸く見える絶景ビューを楽しめます。4枚目:地球が丸く見える展望台に隣接するカフェ「風のアトリエ」。ガラス張りの店内で屏風ヶ浦方面の絶景(夜景もムード満点)を楽しみながらお食事を楽しめます。地球が丸く見える展望台で愛を語り合った後にお洒落な雰囲気の店内で食事と洒落込めば舌もハートもトロけてしまうこと請け合いです。デートに最適❤
下段左から、1枚目〜4枚目:さくらの山公園(千葉県成田市)から撮影した成田国際空港に着陸するタイ国際航空のジャンボ旅客機の機影。さくらの山公園は成田国際空港のA滑走路(北側の着陸進入路)の手前にあるため、頭上スレスレを航空機が飛来していきます。何機見ても無料なので、懐の寂しいお父さんは家族を連れて海外旅行気分(だけ)を満喫されてみるのも良いかもしれません。直ぐ近くに酒々井プレミアムアウトレットがあるので、お父さんの威厳を示す意味でも僅かばかりの小金を散財してみるのも一興です。

閑話休題印旛沼の周辺を散策した後、少し足を伸ばして成田国際空港と地球が丸く見える展望台に立ち寄ることにしました。この夏、旅行の予定もなく慎ましやかに過ごしたいと考えている懐だけは涼しいお父さん達も、空港に行ってジェットエンジンの音を聞いているだけで旅行気分に浸れます。空港(又はその近隣)で飛行機を観るも良し、ターミナルビルでショッピングや食事に興じるも良し、旅行客から旅行気分を少しだけお裾分けして貰って懐に優しい楽しい休日を満喫するのも悪くありません。この夏、成田国際空港では和楽器や洋楽器の演奏など色々なイベントも行われていますので、それに併せて空港に遊びに行ってみるのも良いかもしれません。因みに、世界の空港の利用者数ランキング(2012年)によれば、羽田空港東京国際空港)の利用者数は世界4位で、成田国際空港の利用者数と合算すると約1億人/年となり世界1位の利用者数になります。この狭い国土を逆手にとって羽田空港東京国際空港)と成田国際空港との間をリニア新線で結んで国際ハブ空港にするという「羽田・成田リニア新線構想」がありますが、(これによる内需浮揚や経済効果を期待する以前の問題として)国家財政が逼迫するなか現実的なプランにはなり難いのかもしれません。なお、世界最高の空港ランキング「世界空港賞2013」には成田国際空港をはじめとして日本の空港が軒並みランクインしていますので、日本の空港は世界の中でも最も利用し易い快適な空港と言えます。


上段左から、1枚目〜3枚目:成田国際空港第2ターミナル4階にあるお土産屋さん「横山」「井和井」「おみやげ京成」「ちばぼうきょう」。流石は日本の玄関口たる成田国際空港のお土産屋さんでして、如何にも外国人が喜びそうな“the 日本情緒”が漂うお土産(雑貨等)が所狭しと並んでいるので目を飽きさせません。日本人の僕が見ても思わずほくそ笑んでしまうような心憎いアイディア商品も多く、寧ろ、日本人が忘れかけていた“Nippon”なるものを想い起こさせられるような発見と驚きに満ちています。夏休みに旅行の予定がない人も成田国際空港でショッピングがてら“Nippon”を感じてみるのも面白いかもしれません。因みに、本日、僕は南部風鈴(南部鉄器を使った風鈴を南部風鈴、ガラスを使った風鈴を江戸風鈴と言いますが、平成の御代になって一般家庭にエアコンが普及し風を音で感じて涼む風流心は廃れてしまいました。線香の香りも然りですが、平成の御代になって失われた音や香りは実に多いような気がします。)、玉簪(花挿し(かざし)が転じて簪(かんざし)になったそうですが、玉簪とは耳かきの付いた櫛に珊瑚や翡翠の玉を差した髪飾りのことです。女性の社会進出と共に髪を結う習慣は廃れて簪を挿している人もいませんが、西洋的な染色やパーマだけでなく日本的な髪飾りが見直されても良いような気がしています。)、甲冑タペストリーを購入しました。4枚目:リサイクルショップで見付けてきた盆栽台(丸窓の障子が開閉するので、朝昼夕で盆栽の色々な景色を楽しめます)に成田国際空港で買ってきた玉簪と甲冑をあしらってみました。玉簪の情緒と甲冑の風格のコントラストが盆栽台に表情を生んでいます。現在は松(稚木)の盆栽を飾っていますが、秋には紅葉の盆栽、冬にはクリスマスツリーと角松、春には梅の盆栽と季節感を小粋に演出できたらと思っています。5枚目:小鼓打ちの名手と評され、歌舞伎(かぶき踊り)を創始した出雲の阿国が小鼓を打つ絵柄のタペストリー(成田国際空港で購入)。
下段左から、1枚目〜4枚目:航空科学博物館の展望室から撮影した成田国際空港A滑走路(南側の離陸滑走路)を離陸するユナイテッド航空のジャンボ機の機影。窓から乗客の顔が見えそうな近接感です。手前にヤマト運輸のカーゴ便が写り込んでいるのが実にお洒落♪ 羽田空港東京国際空港)は埋め立て地なので、このような撮影スポットがありません。

さて、ブログの枕が長くなりましたが、そろそろ本題を書きたいと思います。かなり昔に公開された映画になりますが、いよいよ某BS放送で採り上げられたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。


続く、執筆中。


◆おまけ
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第1番全曲から第2番第2楽章まで。ピアノ協奏曲第1番第2楽章はその風情とよいその色彩とよい実に美しい曲想で、ロシアの美しい大自然の景観を音楽で描写しているかのような恍惚感があります。瞑目して聴いているとラフマニノフの心象風景に浮ぶロシアの大自然が目の前に広がって、頬を伝う風の匂いまでも感じられそうなピアニスティックで素敵な曲ですね♪

おまけのおまけ。最近、中国古琴から紡ぎ出される響きの宇宙に嵌っています。中国古琴は実に雄弁で深淵な響きを持った楽器です。映画「レッドクリフ」や映画「HERO」にも中国古琴の演奏シーンが印象的に使われていますので、心を澄ませて響きの宇宙に身を委ねてみては..♪

おまけのおまけのおまけ。遅ればせながら“きゃりーぱみゅぱみゅ”という天才肌のアーティストに注目しています。彼女のミュージックビデオ(例えば、グロかわなタイトルの“きらきらキラー / Kira Kira Killer”)を見ていると、「音楽」(響き、リズム。これまでのポップスのように音楽が言葉に引き摺られるパターンとは正反対で、寧ろ、音楽が言葉から解き放たれて自由に飛翔している印象です。)、「美術」(CGを含む。よくよく見てみると日本の伝統的な文様をモチーフにしていたり、仏教その他の宗教的な世界観(例えば、蓮の花、陰陽道、十字架、アカシックレコード、輪廻転生など)をポップに表現していたりとクラシックとモダンが面白く融合されています。また、一見関係ない事柄の共通項(例えば、リンゴからウィリアム・テルの弓矢とニュートンが発見した万有引力、アダムとイブに禁断の果実を勧めたヘビを関連付けて表現しているところや、人類誕生から発見・発明の歴史を繰り返して文明社会が誕生する過程を禁断の果実を食した人間を飲み込むヘビ(又は古代インドの世界観の中に出てくる虚空中に浮かぶヘビ)と類人猿に扮したお釈迦様の手で踊る人間が未来の筋斗雲であるジェット・エンジンを搭載したスケートボードに飛び乗るという逆接で繋ぎ合わせて表現しているところなど)を見つけ出してイメージを自由に膨らませているところや、恋というポップなテーマでオブラートに包んでいますがその描き出されている世界は深淵なテーマ性を持っており誰かが放った矢に射抜かれてから(弱肉、ハートを射止められる王女マティルデ)生まれ変わって我々に矢を射る(強食、ハートを射止めるウィリアム・テル)までの輪廻転生や自然の摂理自然法則的に言えば半永久的に続く連鎖、音楽的に言えば循環形式)などの一貫したテーマを混沌とした表現の中に破綻なく整然と描き出しているところなどが個人的には興味深いです。)、「振付」(表現しようとしている世界観をシンボリックに体現し又は奇抜にアクセントするパフォーマンスにも惹き込まれます。)、衣装(衣装の細かい飾付けには独創的な感性が散りばめられていて視覚的に飽きさせません。)、「映像作り」(カット割りのテンポなどが小気味良く、その一方で煩くもなく効果的です。)が有機的に絡み合って作り出す独特の世界観は非常に斬新で独創的であり訴求力があるものであって、一見、荒唐無稽に見える表現も強烈なコンセプトと感性によって破綻なく纏められており完成度の高いものと言えます。このように優れたプロダクトを“サブカル”という先入観で一段低く評価する向きもありますが、僕は既成概念に囚われた詰まらない偏見に組みするものではなく“良いものは良い”としてお勧めしたいです。

伊八、北斎からドビュッシーへ −日仏文化交流の麗しき円環−

【題名】伊八、北斎からドビュッシーへ −日仏文化交流の麗しき円環−
【著者】栗原浩太郎
【出版】創英社/三省堂書店
【発売】2014年2月28日
【値段】1400円
【感想】
去る6月3日は「ムーミンの日」だそうですが、語呂合わせが大好きな日本人ならではの記念日です(正式には著者のトーベ・ヤンソンの誕生日である8月9日だとか。因みに、今年はトーベ・ヤンソンの生誕100周年です。)。何故、僕がハンドルネームをスナフキンとしているのかについては、先日、このブログでも紹介したとおりスナフキンの自分自身に素直であろうとする自由な生き方(ボヘニアニズム)に共感していることに由来しますが、(人生の折返し地点を過ぎて僕にはあとどれくらいの時間が残されているのか分かりませんが)死の床にあって自分の人生がマズマズであったと思えるように自分自身の心を欺くことのない人生の選択(人生の折り合いの付け方)をして行きたいものだという心持ちでいます。天文地理学を用いて日本で初めて精巧な日本地図を完成させた伊能忠敬(千葉県九十九里町出身)は51歳(江戸時代の平均寿命は50歳以下なので当に楽隠居の年齢ですが)から天文学の第一人者である高橋至時に師事し、55歳から15年の歳月を掛けて約4万km(≒地球一周分)を踏破して日本地図を完成するという大業を成し遂げていますが、ここまで大きなロマンや情熱を持ち得るかは別として、伊能忠敬の何歳になっても自分の好奇心に忠実であろうとする自由な生き方にシンパシーを感じますし、僕もそのように自分自身に素直に生きたいものだと常々心掛けています。あらゆる人生の問題に対する答えは自分自身の中にこそあり、人生の困難に直面したときは自分の外(他人を含む)に答えを求めようとするのではなく自分自身と向き合って答えを見い出して行く姿勢が大切で、その意味で芸術は自分自身と向き合い自分自身を写す縁として僕にとって掛け替えのないもの(生涯の宝となるもの)なのです。
http://d.hatena.ne.jp/bravi/20130602/p1


左上から、1枚目〜3枚目:よい季節になってきたので水郷として有名な佐原(千葉県佐原市)で水遊び。川面に写る柳の風情と古式ゆかしい町並みが溶け合って独特の雰囲気を湛える本当に魅力的な町です。4枚目:水郷佐原には伊能忠敬が後年に居を構えた旧宅(修復工事中)があり、その近くに伊能忠敬美術館もありますので、是非、お立ち寄り下さい。
左下から、1枚目〜3枚目:九十九里にある伊能忠敬の生家跡(公園)とそこから程近い九十九里海岸。幼少期の伊能忠敬もよく眺めていたであろう九十九里の海岸線を遥かに仰ぎ見ると、晩年に天文地理学を極めて日本地図の作成に着手した伊能忠敬男のロマンの淵源が偲ばれます。因みに、夜の九十九里海岸は太平洋を包み込むように満天の星空が拡がる大パノラマと“日の出”ならぬ“月の出”(水平線から真っ直ぐに海面を照らし出す青白く淡い月光は実に幻想的でロマンチックなので夜のデートにお勧めです❤ 九十九里海岸は車で海岸線まで入れるところも多いので、静かなピアノ曲をBGMに身も心も月光浴に浸ったり、カメラを片手に季節の星座を眺めながら神話の世界を旅してみるなんてお洒落じゃありませんか♪)を拝むことができます。4枚目:川崎大師・西新井大師と並ぶ関東三大厄除大師の一つに数えられる観福寺(千葉県佐原市)には伊能忠敬の墓碑があります(上野の源空寺にも墓碑があります。)。観福寺の有名な枝垂れ梅も見事です。

<写真の追加 2014/11/30>

蛇足ながら、伊能忠敬が千葉県出身であることに因んで、奈良時代には千葉のことを「上球」と記していたようですが、「球」は「房をなして稔る果実」を意味しています。また、平安時代には麻がよく育つ土地柄からその別名である「総」(ふさ)の名をとって「総の国」とも記していたようで、そこから現代でも使われている「上総」や「房総」の呼称が生まれたようです。さらに、千葉には多くの「茅」(ちがや)が生息していたことから古くは「茅生」(ちぶ)とも呼ばれ、それが「千葉」(ちば)へ転じたとも言われています。このように「千葉」の名前は農産物に恵まれた豊かな大地という土地柄に由来しているようです。因みに、そのような土地柄もあってか、伊能忠敬の生家跡の直ぐ近くには、8代将軍吉宗の御下命を受けた蘭学者青木昆陽が関東地方で初めて甘藷(サツマイモ≒“根”が太くなったもの)と馬鈴薯(ジャガイモ≒“茎”が太くなったもの、ジャガイモは根(栄養分を吸収するところ)ではなく茎(栄養分を蓄えておくところ)なので放っておくと芽が出てきてしまいます)の栽培に成功した「関東地方甘藷栽培発祥の地」(千葉県九十九里町)があります。また、千葉は思想学問(日蓮宗開祖である日蓮聖人や儒学者荻生徂徠などを輩出)や文化芸術(今年刊行200周年を迎えた曲亭馬琴の読本「南総里見八犬伝」を生み、小説「野菊の墓」で有名な伊藤左千夫や日本画家の東山魁夷などを輩出、その他は後述)が非常に栄えた歴史のある土地でもあります。芸術好き・自然好きの僕にとっては京都・滋賀に並ぶ鼻血が止まらない魅力的な場所なのです。


左から、1枚目:千葉に遁世して久しいですが、僕の自宅周辺には見渡す限りの大自然が広がり、早朝、まるで大地が呼吸しているように幻想的な朝霧が立ち込めます。“鞭聲粛々夜河を過る”と詩吟が聞こえて来そうな濃霧に包まれることも珍しくなく、都会では決して感じることができない大自然の息吹を感じます。2枚目:千葉は鋸山などの豊かな採石場があり、江戸時代後期に「鋸山の麓に名工あり、その彫技神妙なり」と称され、厳島神社(千葉県南房総市)にある七福神の石造でも有名な名石工・武田石翁を輩出していますが、現在でも県内には数多くの石材店が軒を連ねています。因みに、鋸山の麓の鋸南町浮世絵の祖、菱川師宣の生誕地でもあるので、後述するとおり葛飾北斎は波の伊八と菱川師宣を生んだ千葉と浅からぬ因縁で結ばれていることになります。そんな土地柄を受けて僕の家の玄関前の石造のお地蔵さんはいつもお世話になっている宅配業者さん&郵便局員さんの交通安全と毎日の無事を祈っています。

さて、本題に移りますが、江戸時代末期の千葉県では“安房の三名工”と称された名彫刻師(1)木造彫刻の武志井八郎信由(俗に“波の伊八”)、(2)木造彫刻の後藤利兵橘義光、(3)石造彫刻の武田石翁を輩出していますが(千葉県は=浮世絵の祖・菱川師宣狩野派の祖・狩野正信なども輩出している文化的に肥沃な土地柄ですが)、とりわけ江戸末期には「関東へ行ったら波を彫るな」とまで言わしめた“波の伊八”が欄間彫刻に数多くの傑作を残し、(下の写真を見てもお分かりのとおり)その代表作の1つである「波と宝珠」(行元寺)に着想を得た葛飾北斎は世界的に有名な浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」を創作し(「波と宝珠」は「波」(即ち、運命)に翻弄されて生滅流転する「宝珠」(即ち、人間の魂)を描いていますが、「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は「宝珠」を「富士山」に置き換えてその代りに荒波に翻弄されて押送舟(房総半島から江戸に魚を運ぶ快速舟)に必死にしがみ付くしかない水夫の鬼気迫る姿を描き込むことで同じテーマを扱っていることが伺えます)、さらに、その浮世絵に多大なインスピレーションを受けたドビュッシーは彼の代表作の1つである交響詩「海」を作曲しています(交響詩「海」の初版譜表紙は浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」が使用されていることは有名ですが、富士山がカットされてしまっているので、波の“動”又は“無常なもの”に対照して描かれている山の“静”又は“恒久不変なもの”が生む求心力や緊張感(波の勢いを含む)、遠近感などが削がれてしまっているのは残念です。)。また、この作品はピカソ(絵画「ドラマールの肖像」で用いられている視点移動法など)、ゴッホ(絵画「ローヌ川の星月夜」で用いられている点描法、絵画「アルルの跳ね橋」で用いられている覗き画法など)、モネ、セザンヌ(絵画「サント=ビクトリア山」で用いられている動的遠近法など)、クールベ(絵画「波」で用いられている動的遠近法、点描法など)などの西洋絵画に多大な影響を与えています。このように日本文化及び西洋文化に多大な影響を与えている“波の伊八”ですが、何故か(僕の知る限り)日本の教科書で“波の伊八”が採り上げられることはなく、その作品の芸術的な価値(審美眼をお持ちの諸兄であれば、その作品の生命力、芸術的な価値の高さは一目だと思います。)に反比例して極めて不当に冷遇されています。
http://d.hatena.ne.jp/bravi/20130422/p1
http://d.hatena.ne.jp/bravi/20130715/p1


左から、1枚目:武志伊八郎信由(“波の伊八”)の欄間彫刻「波と宝珠」、2枚目:葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」、3枚目:ドビュッシー交響詩「海」の初版譜表紙、4枚目〜5枚目:“波の伊八”が馬に跨って海に入り波をスケッチしたと言われている太東海岸(千葉県夷隅市)の全景とテトラポットに砕ける波の象形。北斎の大胆な構図(デフォルメ)と共にディーテイルに拘った繊細な描写力が作品に活き活きとした生命力、躍動感を与えています。

上述のとおり“波の伊八”の欄間彫刻の傑作「波と宝珠」は運命(波)に翻弄されて生滅流転する人間の魂(宝珠)をテーマとし、それが葛飾北斎の浮世絵の傑作「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」にも受け継がれていると書きましたが(荒波に翻弄されて舟にしがみつく水夫の表情を描かずに没個性化することで人間の魂をシンボリックに表現し、これが絵のテーマに永遠性、普遍性を与えているように感じられます)、「波と宝珠」や「神奈川沖浪裏」は観る者に強烈なインスピレーションを与える作品であり、その痕跡は交響詩「海」の細部にも発見することができます。例えば、第二楽章「波の戯れ」でハープが掻き鳴らす嬰イ音(以下の楽譜の56(198)ページから、ヴィオラ&チェロからヴァイオリンへと受け継がれて表現される荒波の高なり(楽譜下段、五線譜の左欄外に楽器指定のない段、最下段より低い音を奏でる楽器から高い音を奏でる楽器の順番で記譜され、下から一段づつコントラバス、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリン、第1ヴァイオリンがそれぞれの段を演奏)、その頂点に達したところで「神奈川沖浪裏」に描かれている毛巻のような波が次々と泡沫(水滴)になって潮解して行くイマージュをハープ(楽譜中段、五線譜の左欄外にHarpesと楽器指定のある段)が奏で始める部分は「波と宝珠」そして「神奈川沖浪裏」が持つテーマ性や荒波のモチーフから受けたインスピレーションが見事に音楽へと昇華している部分と言えると思います。但し、この曲で表現されている海(又は波)は描写的(物質的、実体的)なものとは異なり、何もないところ(無)から波(有)が生成されそれと同時に波(有)が泡沫となって消滅(無)して行く間断のない変異のイマージュ、無形の海が無数の有形の波を生成しその無数の有形の波が消滅して無形の海に戻る断続的な変異のイマージュなどが素描され、(意識的か又は無意識的かは別としても)“色即是空、空即是色”や“無常観”といった日本文化のエッセンス(仏教思想)と相通じる世界観(観念)が描かれていると言えるとかもしれません。


左から、1枚目:ドビュッシー、右はストラヴィンスキー。後ろの壁には、葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」と喜多川歌麿の浮世絵「当時全盛美人揃 玉屋内しづか」が掛けられています。ストラヴィンスキー北斎歌麿の作品に見られる「遠近法や量感の図式的解決が音楽において何か類似したものを発見」させると語っていることからも、両者の作品から多大なインスピレーションを受けていたことが伺われます。2枚目:ドビュッシーが所蔵していた漆箱の蒔絵、南州「金の魚」の図柄は、映像第2集の第3曲「金色の魚」の作曲にインスピレーションを与えたと言われています。

【楽譜】
http://conquest.imslp.info/files/imglnks/usimg/b/b6/IMSLP15420-Debussy_-_La_Mer__orch._score_.pdf

因みに、ドビュッシーガムラン音楽や日本を含む東洋音楽の影響も色濃く受けており(同時代人のプッチーニ日本民謡川上音二郎貞奴の舞台や越後獅子の演奏等に強い影響を受けていたと言われています)、ドビュッシーの作品には当時行き詰まりを見せていた機能和声法からの脱却、全音音階や五音音階の使用、拍節から自由なリズムの採用などの特徴が顕著に現れています。交響詩「海」に見られる日本の音楽の影響については、後掲「伊八、北斎からドビュッシーへ −日仏文化交流の麗しき円環−」(創英社/栗原浩太郎著)の135ページ以下に詳述されていますので、ご興味のある方はお買い求め下さい。なお、NHK(Eテレ)の日曜美術館等で“波の伊八”の特集を放送して貰えないものかと何度かリクエストを出していますが、いつも大変に良質の番組を作られる懐の深いNHKのことですから、いずれ時機を見てリクエストを叶えて戴けるのではないかと期待しております。

[rakuten:hmvjapan:11192815:detail]


欄間彫刻「波と宝珠」(行元寺)の前掲の写真を裏から見たもの。実際には、こちらが表面で前掲の写真が裏面ですが、葛飾北斎が前掲の浮世絵を「神奈川沖浪」と題しているのはこの欄間の裏面を題材としているからとも言われています。実物を目の当たりにするとその圧倒的な存在感、作品の生命力に息を呑みますが、これだけ繊細でダイナミックな“動き”のある彫塑、しかも波しぶきの“音”までもが聞こえてきそうな鬼気迫る(死を予感させる)活き活きとした波を見せられた葛飾北斎の感嘆たるや如何ばかりのものであったか察するに有り余るものがあるように感じられます。その葛飾北斎が見た作品(実物)が目の前にあると思うと、尚更のこと感興極るものがあります。白洲正子さんがご著書の中で仏像は薄暗い厨子に収められているから恭しく有り難いものに観えるけれども、蛍光灯に煌々と照らされたショー・ウィンドーに収められているとどうも有難味が薄れて興醒めするという趣旨のことを語られていたと記憶していますが、欄間彫刻もその作品が本来の魅力を発揮し最も活き活きとした生命力を宿す「空間」があるという意味で同じことが言えるかもしれません。


欄間彫刻「波と宝珠」は行元寺(千葉県いすみ市)の離れにある客間(下図のとおり3部屋に仕切られ、庭から見て1室目と2室目を区切る襖の上に1つ目の欄間(黒線)、2室目と3室目を区切る襖の上にある2つ目の欄間(赤線)が「波と宝珠」)に設えられていますが、庭から差し込んだ採光が1つ目の欄間を透かして2つ目の欄間「波と宝珠」に差し込むように細工されており、朝夕や天候によって差し込む採光の明度とそれが生み出す陰影の濃淡、色調などが変化し、それが「波と宝珠」に様々な表情を生み出すという名工“波の伊八”の絶妙な計算が隠されています。写真撮影が禁止されているため、その変化の様子を写真に収めることは叶いませんが、子々孫々に受け継ぐべき稀代の名作と言えましょう。

【客間】
    □
     
    □
    ↑(採光)
    庭


称念寺(千葉県長生郡)の欄間彫刻「龍三体の図」伊八最晩年の大傑作で、向って右に赤龍、左に白龍を従えて、正面から尾を巻き上げて襲い掛かる青龍(昇り龍)の躍動感ある迫力に息を呑みます。これだけの大傑作にも拘わらず、いつ行っても称念寺は人気がなく、また、本堂は仏事がある時以外は締め切られていますので(一応、ガラス戸になっていますので内部を覗き見ることができるように配慮されていますが、ガラスの乱反射に邪魔されて作品の息吹は全く伝わってきません..。写真集を見る限りでも稀代の名工“波の伊八”が丹精を込め神技を尽した大傑作であることが分かります。)、人類の至宝とも言うべき大傑作が人知れず埋もれてしまっている感を否めず大変に残念でなりません。法的に言えば、この欄間は寺社の所有物であり仏事で檀家が拝む以外は一般に公開しないと言われてしまえば身も蓋もありませんが、その芸術的な価値に着目すれば、人類共有の文化的遺産とも言うべき大傑作であり、檀家のみならず広く一般に公開してこそ作品を活かすことにつながるのではないかと思いますし、また、現代人のみならず子々孫々に受け継がれて行くべきものだと思いますので、その公開の仕方や作品の保存の仕方を含めて一層手厚い公の助成が望まれる、と生意気なことを言いたくなるほど惚れ惚れする作品なのです。


飯綱寺(千葉県いすみ市)の欄間彫刻「天狗と牛若丸」と「波と龍」飯綱寺には源義経伊豆半島から飯綱寺に寄って奥州へ船で逃れたという伝説が残されており、これに主題して「天狗と牛若丸」が彫られたと言われています。本堂の入口には青と赤の天狗の面が掲げられ、本堂内の欄間直上の天井には葛飾北斎の師である堤等淋作の龍の絵が描かれています。また、飯綱寺には嵯峨天皇直筆の般若経や関白近衛信房の和歌(小倉山荘色紙和歌)などが所蔵されている名刹です。なお、飯綱寺の程近くに「いすみ市郷土博物館」があり、波の伊八の欄間彫刻に加えて、千葉県いすみ市狩野派の祖、狩野正信の生誕の地であることから狩野派の作品も数多く展示されていますので、お立ち寄り下さい。

▼鴨川郷土資料館の特別展
真福寺(神奈川県横須賀市)にある波の伊八の欄間彫刻「黄公石と張良」が鴨川郷土資料館に展示されていたときの様子が公開されています。これだけ真近に色々な角度から欄間彫刻を拝見する機会はありませんので、その細部に至るまで波の伊八の神技が冴えわたる傑作を堪能できました。この欄間の裏面には全く異なるモチーフとして激流を縫うように泳ぐ鯉の彫刻が活き活きと彫られていていますが、まるでバッハの「フーガの技法」を彷彿とさせる奇跡的とも言える神技に舌を巻きます。
http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=389

▼波の伊八の作品一覧
http://www.tsuchiura.org/~kokentik/miyadaiku/kanto/ihati.html

▼波の伊八の講談をやられる講談師の神田あおいさんのWebページ
http://kandaaoi.com/

▼波の伊八Tシャツ(特注で“4L”サイズまであるので、男性諸兄にも鯔背に着こなせます。)
http://www.ihachi.com/


左から、1〜2枚目:波の伊八の生誕地&工房跡(千葉県鴨川市)、3枚目:波の伊八の工房跡の直近にある金乗院にある波の伊八の欄間彫刻「酒仙の図」と「向拝の龍」、4枚目:波の伊八の工房近くにある鴨川の海、5枚目:ウフフ❤の結果

チバテレビの「ちば見聞録」で波の伊八を採り上げた番組

◆おまけ
ドビュッシーのベルガマスク組曲より第3番「月の光」。休日の夜、ふらっと九十九里海岸へ一人でドライブ。夜のしじまに包まれ青白く淡い月光に照らされた九十九里の海。浜辺に車を止めて零れ落ちそうな満天の星空を見上げならが静かに打ち寄せる波の音が心地よく響く。カーステレオから流れるドビュッシーの音粒が夜空へと澄み渡って行くようだ。音楽と一体になれる至福のひととき..♪

ショスタコーヴィチ「24の前奏曲とフーガ」。瞑目しながら音と音の間に拡がる深淵な精神世界に耳を傾けていると、自分と音楽だけの悠久の時間に浸れます。

シューマン「ピアノ四重奏曲」より第三楽章。ロベルトの妻クララへの愛に溢れています。おまけのおまけ。

ドビュッシーピアノ三重奏曲」より第三楽章。おまけのおまけ。

この世の名残 夜も名残 ~杉本博司が挑む「曾根崎心中付り観音廻り」オリジナル

【題名】ETV特集『この世の名残 夜も名残 〜杉本博司が挑む「曾根崎心中付り観音廻り」オリジナル〜』
【出演】
【放送】Eテレ 2011年10月16日(日) 22時〜
【感想】
皆さん、初詣はどちらに参詣されたのでしょうか。僕は日蓮宗大本山清澄寺(千葉県鴨川市)で初日の出を拝み初詣を終えた後、昨年開場した新しい歌舞伎座の正面玄関横にある歌舞伎稲荷神社へ詣でました。興行初日や千穐楽には歌舞伎役者や劇場関係者もお参りされるそうです。昔から「稲荷神社」では雅楽の調べに乗せて古式ゆかしい巫女舞が奉納されますが、歌舞伎は出雲大社の巫女「出雲の阿国」の踊りから「かぶき踊り」に発展して誕生したと言われていますので、歌舞伎座が稲荷神を氏神としているのは必然と言えるかもしれません。因みに、「稲荷」の語源は「稲成り」と言われ、稲荷神の神使である狐(歌舞伎の演目にも多く登場します)が稲を鼠から守ることから五穀豊穣、家内安全や商売繁盛などのご利益があると言われています。また、「稲荷寿司」の語源は狐(稲荷神の神使)が油揚げを好物にしていたことに由来していると言われていますが、甘く煮た油揚げの袋に酢飯を包んでいるのは狐が稲を鼠から守るという「稲荷」の語源を象徴するものかもしれません。なお、歌舞伎座の向いにある銀座白金やの稲荷寿司は大変に美味なので、是非、お近くにお寄りの際にはご賞味あれ。


左から、歌舞伎稲荷神社(彫刻のディーテイルが見事)、どこかで見覚えのあるお父さんのオイナリサンではなく有名な銀座白金やの稲荷寿司、荻生徂徠の旧家跡
http://www.platinumya.jp/index.html

少し話は飛びますが、人形浄瑠璃の傑作「仮名手本忠臣蔵」の題材となった赤穂事件において本懐を遂げた赤穂浪士は両国から隅田川沿いを南下して永代橋を渡橋し(その手前にある万年橋の袂に吉良邸討入りの8年前まで松尾芭蕉が住んでいた深川芭蕉庵があります)、江戸湊沿いをさらに南下して浅野家江戸上屋敷、築地本願寺の前を通り浅野匠頭が眠る泉岳寺へ引き揚げています。その途上、歌舞伎座の前を通過していますが、歌舞伎座のある一帯は幾重にも歴史が交錯している深淵な地層を持った由緒ある土地と言えるかもしれません。奇しくも昨年は新しい歌舞伎座の開場と併せて近松門左衛門の生誕300周年でしたが、人形浄瑠璃の傑作である近松門左衛門の「曽根崎心中」は江戸時代に上演を禁止されて以来昭和30年になって漸く原作の人形浄瑠璃ではなく歌舞伎で復活上演されたことを思うと不思議な縁で結ばれているのではないかと感慨を深くします。江戸時代には上演を禁止されていた「曽根崎心中」ですが、その作品は身分を問わず愛され続け、当時の御用学者だった荻生徂徠はその詞章(以下に道行の詞章を抜粋しますが、)があまりに美しかったので暗誦していたと言われています。なお、荻生徂徠千葉県茂原市で学んだ後に徳川吉宗の御用学者となり、赤穂浪士の処分議論において忠孝に報いる処分(助命)を主張した学者達に対して御政道を説いて法に従った処分(切腹)を主張した学者ですが、これを題材にした落語、講談、浪曲の「徂徠豆腐」も愛され続けていますので、こちらも存分にご賞味あれ。

道行

 此の世の名残 夜も名残 死に行く身を譬ふれば あだしが原の道の霜 一足づゝに消えて行く 夢の夢こそ あはれなれ

 あれ数ふれば暁の 七つの時が六つなりて 残る一つが今生の 鐘の響の聞き納め 寂滅為楽と 響くなり

浄瑠璃を読もう

浄瑠璃を読もう

ところで、この「曾根崎心中」をニューヨークに住む現代美術作家、杉本博司さんが構成、演出、舞台美術、映像を手掛けてリメイクした杉本文楽「曾根崎心中付り観音廻り」が2011年及び2013年にマドリード、ローマ、パリで興業されて連日1000人を超える観客動員を記録して話題になりましたが、いよいよ本年3月に東京と大阪でこの舞台が再演されることになりました。近年、異ジャンルの芸術家が古典作品に現代的な息吹を吹き込んで、これまでとは違った魅力を古典作品に与える(又は惹き出す)と共に、これによって古典作品のオリジナルの魅力も再認識し、もって芸術受容の可能性、楽しみの幅を拡げようとする試みが盛んに行われていますが、(未だこの舞台を観ていませんが)この杉本文楽の試みは幸運な出会いであったと言えるのではないかと思います。

http://sugimoto-bunraku.com

因みに、杉本文楽の成功をウケて、映画監督の三谷幸喜さんが笑いと涙に溢れる人情喜劇として三谷文楽「其礼成心中」を公演し、こちらも話題になったことは記憶に新しいですが、未だご覧になられていない方はDVDがリリースされていますのでどうぞ。

三谷文楽「其礼成心中」[DVD] (PARCO劇場DVD)

三谷文楽「其礼成心中」[DVD] (PARCO劇場DVD)

さて、杉本博司が挑む新しい人形浄瑠璃文楽の制作舞台裏に密着したドキュメンタリー番組があったので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。

感想を執筆中。続く。


◆おまけ
二代目広沢菊春の浪曲「徂徠豆腐」

コルンゴルト 歌劇「死の都」

【題名】コルンゴルト 歌劇「死の都」
【出演】<Sop>アンゲラ・デノケ(マリエッタ/マリーの声)
    <Ten>トルステン・ケルル(パウル
    <Br>ユーリ・バツコフ(フランク/フリッツ)
    <Ms>ビルギッタ・スヴェンデン(ブリギッタ)
    <Sop>バルバラ・バイアー(ユリエッテ)
    <Ms>ユーリア・エスヒ(ルシエンネ)
    <Ten>クリスティアン・バウムゲルテル(ヴィクトリン)
    <Ten>シュテファン・ゲンツ(フリッツ)  
    <Chor.>ライン国立歌劇場合唱団
    <C_Cond.>チン=リェン・ウー合唱指揮
【楽団】<Orch.>ストラスブール・フィルハーモニック管弦楽団
    <Cond.>ジャン・レイサム=ケーニック指揮
【演出】インガー・レヴァント
【収録】2001年、ライン国立歌劇場
【音盤】Naxos/3,298円
【感想】
どのようなお正月をお過ごしでしょうか。お節やお屠蘇、お雑煮にはそろそろ飽きて、甘い物が欲しくなって来た甘党のあなたへ朗報!銀座コージーコーナーでは、“スイーツ初め”と銘打って1月1日から5日までの期間限定でお正月向けのスイーツを販売しています。今年の目玉は「初夢の赤富士ケーキ」でして、初日の出に染まった赤富士をイメージし、な...何と!チョコスポンジとフランボワーズジャムで濃厚チョコムースをサンド❤ 富士山麓産の練乳入りフォンダンクリームをたっぷりとかけて雪化粧した開運ケーキです。一般に初夢の縁起物として“一富士、二鷹、三茄子”と言いますが、お目出度い紅白に彩られた赤富士ケーキを見ていたら、葛飾北斎富嶽三十六景「凱風快晴(がいふうかいせい)」(通称、赤富士)が連想され、ケーキを買った帰りに大胆にも自宅近くで撮影を敢行しました。スマートな北斎の赤富士に対し、ややメタボ気味の赤富士ケーキのシルエットですが、飽食の時代に生きる平成の日本人を風刺するフォルムと言えましょうか。北斎の赤富士は「凱風」(南風)と銘打たれているように遥か上空の風を感じさせる秋の“いわし雲(上層雲)”を描くことで天に届くような富士の高さを強調する効果を生んでいるのに対し、今日は昼間の“おぼろ雲(中層雲)”(おぼろ雲がお月様にかかると“おぼろ月夜”)が僅かに残る穏やかな快晴で(因みに、皆さんは雲の名前を幾つ知っていますか?)、何やら空の違いが時代の勢い(又は江戸と東京の気質)の違いを象徴しているようにも感じられます(とこじつけてみました)。


左から本日撮った平成版富嶽三十六景「まいうー快食」(韻を踏むだけの馬鹿っぽいネーミングに見えますが、一応、飽食の時代を象徴する標題にしてみたつもりです)と富嶽三十六景「凱風快晴(がいふうかいせい)」(通称、赤富士)、昨年末に撮った平成版富嶽三十六景「海ほたる沖超合金巨大ドリル裏」と富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」大浪をドリルに換えて大胆な遠近法を使った構図を真似てみました。江戸から変わらぬ夕焼けと富士、江戸にはなかったランドマークタワー、飛行機、タンカーの影を対比して空間(奥行+高さ)の遠近感に加えて時間(時代)の遠近感も写し込んでみました。これから平成版富嶽三十六景と題して平成になって様変わりした富士山を取り巻く景色の変化と庶民の文化風俗の変化等を撮りきってみたいと思っています。

ところで、銀座コージーコーナーの“スイーツ初め”では正月に因んで新作の和風洋菓子(「鏡餅ケーキ」、「スイーツおせち」etc.)も販売していますが、最近では伝統と創作を巧みに調和した視覚にも味覚にも訴える面白い和洋菓子を頂く機会が多くなってきました。和菓子は茶の湯の歴史と深く関わっていますが、もともと茶の湯の文化は今年没後800年を迎える栄西禅師が鎌倉時代(1191年頃)に大陸から持ち帰って伝えたことが始まりとされ、茶の湯の流行と共に和菓子も発展してきました。そこで、この機会にブログの枕として和菓子と洋菓子について簡単に何か書いてみたいと思います、、、続く。


左から今年の我が家の「鏡餅」(鏡餅ケーキ)と「お節」(スイーツおせち)、ついでに元日に初詣を終えて立ち寄った鴨川の海で初日の出に向って波乗りするサーファー達を撮影

さて、来年、いよいよ新国立劇場コルンゴルトの傑作と名高い歌劇「死の都」が採り上げられることになり話題になっていますが、その予習も兼ねてケーニック指揮の好演を収めた音盤を聴いてみたくなったので、その感想とその他のコルンゴルトの歌劇について簡単に書いてみたいと思います。まだまだメジャーとは言い難いコルンゴルトの歌劇ですが、銀座コージーコーナーのスイーツに劣らない甘美で陶酔感のある音楽を召し上がれ❤

コルンゴルト:歌劇「死の都」 [DVD]

コルンゴルト:歌劇「死の都」 [DVD]

現在、執筆中。続く。

死都ブリュージュ (岩波文庫)

死都ブリュージュ (岩波文庫)

◆おまけ
新国のホームページとYou Tubeに音源がアップされていますのでリンクします。プッチーニやリヒャルトシュトラウスを彷彿とさせる甘美な音楽にお屠蘇気分で酔いしれて下さい。

http://www.nntt.jac.go.jp/opera/dietotestadt/

年頭の挨拶

   謹賀新年

拙ブログをご覧の皆様、新年あけましておめでとうございます。本年も細々と更新を続けて参りますので、旧倍のご愛顧を賜れば幸甚に存じます。皆様にとっても感動の多い年であることを祈念致します。


僕は日蓮宗徒ではありませんが、日蓮宗大本山である清澄寺(千葉県鴨川市)へ初詣に行くことにし、日蓮聖人が立教開宗の第一声をあげた旭が森(日本で一番早く日の出が拝める場所)で初日の出を拝んできました。清澄寺の僧侶と檀家の皆さんが高らかに「南無妙法蓮華経」と題目を唱え出すと、見る見るうちに雲が赤みを帯び、まるで唱題に合わせるように徐々に雲が晴れて行って、やがて慈愛と威厳に満ちた御来光が天を覆い地に燦々と降り注ぐ光景に圧倒されました。こんなに荘厳で心洗われる初日の出を拝むのは初めての体験で、今年最初の感動体験となりました。御来光に染まる旭が森に建つ日蓮聖人像を拝み、清々しい気持ちで新年を迎えることができました。昨年末に清澄寺を訪れた際、その帰り道に僕の車の前をゆっくりと歩いて横切る野生の子鹿(子猪ではなく子鹿だと思います)に遭遇し、日蓮聖人のお導きかと背筋に鳥肌が立ちましたが、清澄山は実に霊験あらたかな聖地です。



酔ひて候...人生に大いに酔うための今年の僕の抱負は、

◆ブログの枕

  • 葛飾北斎富嶽三十六景に着想を得て平成版富嶽三十六景を撮りきること。
  • 星座の写真と神話の世界を紐解きながら星空のロマンを旅すること。
  • 芸術が育まれた土地の歴史を訪ね、時代を旅すること(時の旅人)。

◆ブログの本文

  • Facebookのお友達の演奏会、舞台、展覧会等へ1つでも多く行くこと。
  • クロスカルチャーの視点からジャンルを超えて美の本質に迫ること。
  • とにかく美しいものに数多く触れて心から感動すること。

◆その他

  • 被写体の真実に迫ることを目標にカメラの腕前をあげること。
  • 心を整える時間(座禅、茶道、和歌を詠む)を作ること。
  • 色々なもの(乗馬、バイク、サーフィン)に乗れるようになること。

仕事の抱負を書き出すと悪酔いしてしまいそうなので、この辺で...
                          
                               など


2014年にアニバーサリーを迎えるもの

◆作家

◆画家

◆俳優

◆音楽

◆宗教・思想

                               など