大藝海〜藝術を編む〜

言葉を編む「大言海」(大槻文彦)、音楽を編む「大音海」(湯浅学)に肖って藝術を編む「大藝海」と名付けました。伝統に根差しながらも時代を「革新」する新しい芸術作品とこれを創作・実演する無名でも若く有能な芸術家をジャンルレスにキャッチアップしていきます。※※拙サイト及びその記事のリンク、転載、引用などは固くお断りします。※※

クラシックミステリー 名曲探偵アマデウス「リスト “ラ・カンパネラ”」

【題名】クラシックミステリー 名曲探偵アマデウス「リスト “ラ・カンパネラ”」
【放送】NHK−BSプレミアム
    平成24年11月14日(木)12時00分〜12時45分
【司会】筧利夫
    鈴木杏
    鈴木砂羽
【出演】小山実稚恵(ピアニスト)
    中川賢一(桐朋学園大学音楽学部講師/ピアニスト)
【感想】
先日、サムスンの“GARAXY S5”(後継機種は“GALAXY Note Edge”)を購入しました。前評判と異なり“iPhone 6”がハイレゾ音源に対応していなかったので、散々迷った挙句、(ハイレイゾ音源をヘッドフォンで再生してもハイパーソニックを十分に体感できないという方もいますが)今回はハイレゾ音源に対応している携帯端末を選びました。このほかに、ハイレイゾ音源に対応している端末としてソフトバンクから“Xperia Z3”がリリースされる予定なので、ハイレイゾ音源に興味がある音楽好きの方は買替えをご検討されてみてはいかがでしょうか。

ジョー・ブラックをよろしく [DVD]

ジョー・ブラックをよろしく [DVD]

  • 発売日: 2012/04/13
  • メディア: DVD
そんな訳で今日は携帯端末と戯れながら、ブラッド・ピットが主演している映画「ジョー・ブラックをよろしく」(原題:Meet Joe Black)を拝見し、古今東西の「橋」が果たしてきた宗教的又は芸術的な意義について少し思うところあり、ブログの枕として戯言を並べ立てようという趣向です(以下、ネタバレ注意)。この映画をご覧になった方も多いと思いますが、死期の近い大富豪パリッシュ(アンソニー・ホプキンス)のもとに娘スーザンの友人に憑依した死神(ブラッド・ピット)が降臨します。死神はパリッシュとの約束でパリッシュの寿命を65歳の誕生日まで延ばすことになり、それまでの間、死神はスーザンの友人に憑依したまま人間界を見学し、やがてスーザンと恋仲に堕ちるというロマンティック・ファンタジーです。死神はパリッシュとの約束とおり65歳の誕生パーティーの最中にパリッシュを天国へ召しますが、そのラストシーンでパーティー会場となっている庭園に架かっている丸橋(神社の境内に架かっている御神霊や参拝者が渡るための太鼓橋を彷彿とさせるもの)が印象的に使われています。このシーンでは、丸橋を挟んでパリッシュがこの世の名残りを惜しむパーティー会場(此方、光に包まれる現世)と、その向こう側に死神が待つ庭園(彼方、闇に包まれる冥界)が印象的に対比して描かれ、この世への名残りを断ち切ってパリッシュがパーティー会場を一人静かに離れて死神と並んで此方(現世)から彼方(冥界)へと渡橋してきます。その二人の後ろ姿を見て直観的に悟ったスーザンは二人の後を追おうとしますが、死神はパリッシュの親心を汲んでスーザンも一緒に天国へ召したいという恋慕の情を断ち切り、スーザンに渡橋(後を追うこと)することを思い止まらせるために死神とパリッシュの姿が消えた丸橋の彼方(冥界)から死神が憑依していないスーザンの友人(恋人)だけを再び此方(現世)へ送り返し、“彼”と現世で幸せな人生を全うするように促すという結末です。このシーンに登場する丸橋は能舞台の「橋掛り」を彷彿とさせます。即ち、能は「鏡の間」(彼方、異界)と「舞台」(此方、現世)との間に「橋掛り」(異界と現世とを結ぶ臍の緒)がありますが、能の多くの曲は「鏡の間」から「橋掛り」を通って異界の者(亡霊等)が「舞台」に現れ、この世の無念等を謡い舞って消え失せるという顕在劇の形態をとります。ここでも“橋”は二つの異なる世界(現世と異界、批岸と彼岸、日常と非日常等)を結び、出会いと別れの場としてドラマを生み舞台を演出する機能を果たしています。日本では、現世と冥界との境に三途の川(“三途の川”とはこの川を渡る途が三つあることに由来し、善人は橋を渡ることができますが、小悪人は川の浅瀬を、大悪人は川の深瀬を渡らなければならないと言われています。「地蔵菩薩発心因縁十王経」の“一山水瀬。二江深淵。三有橋渡。”)が流れ、その川に橋が架けられていると考えられていますが(因みに、地獄のことをサンスクリット語で“Naraka”(ナラカ)と言いますが、ここから舞台の底のことを“奈落”(ナラク)と言うようになりました。)、これと同じような考え方は西洋にも見られ、例えば、ダンテ「神曲」地獄篇では、地獄にはアケローン川が流れ、冥府の渡し守カロンの舟に乗って地獄へ行き着くとされています。


土佐光信「十王図」三途川の画
善人は橋を渡り、悪人は急流に投げ込まれる様子が描かれています。また、六文銭を持たない死者が三途の川の渡し賃の代りに衣類を剥ぎ取られる姿も描かれていますが、その六文銭真田家の家紋になっています。因みに、千葉県長生郡長南町には“三途川”という名前の川があり橋が架けられていますが、これまでのところ川を渡った人が戻って来れなくなったという話は聞かないのでご心配なく..。このほかに宮城県蔵王青森県の恐山にも三途川という名前の川が存在します。

キリスト教ではヨルダン川が三途の川に相当する役割を果たし、神の国(天上界)と罪の国(地上界)の境と考えられています。旧約聖書ヨシュア記には、モーセの後継者ヨシュア(ヘブル語で“救世主”の意味)に率いられたイスラエル人がヨルダン川東岸から西岸へ渡河し、約束の地カナンへ移住したことが記されていますが、ヨシュアに率いられてイスラエル人がヨルダン川を渡河したことは神の民がイエスに導かれて神の国へ入ることに準えられて語られることがあります。当時は橋や舟がなくヨルダン川を渡河するのは命懸けだったと思いますが(ご案内のとおり死海(他の海と比べて塩分濃度が約10倍なので生物の生息は不可)へと注ぐヨルダン川は急流で死の川とも呼ばれています)、ヨルダン川は罪を洗い流す川であると共に、罪人が渡れない(永遠の劫罰へと魂を沈める)川であって、罪を悔い改めなければヨルダン川東岸(罪の国)から西岸へ渡河し(新約聖書ではヨルダン川は洗礼者ヨハネが人々に懺悔を説いて洗礼活動を行い、イエスに洗礼を授けた神聖な場所として記されています)、約束の地カナン(神の国)へ入ること(ヨルダン川渡河の軌跡)はできないという考え方に結び付いています。因みに、能「墨田川」では、シンボリックな意味で墨田川西岸が現世、東岸が冥界という描き方がされていますが、洋の東西を問わず川は現世と冥界との境であり、その間を橋又は渡し守(ヨシュアは天国への渡し守と言えましょうか)がつないでいて、罪人は容易に渡ることができないという共通のイメージがあるようです。なお、有名な黒人霊歌「深い河」はアフリカからアメリカに連れて来られた黒人奴隷が自分達の境遇をキリスト教の信仰に準えて歌にしたもので(詳しくは別の機会に触れますが、この黒人奴隷の中からジャズ等が生まれたことはご案内のとおり)、この世の苦しみから逃れ深い河(=ヨルダン川)を渡って天国へ行きたいという悲哀が歌われています。因みに、「怖い絵」で有名なドイツ文学者の中野京子さんが「橋をめぐる物語」という面白い本を執筆されていらしゃいますが、その中でゾロアスター教の「審判者の橋」やマホメット教の「細長い橋」など現世と冥界とをつなぐ橋が紹介されていますので、詳しくは本を買ってお読み下さい。


左から、1枚目:ご当地キティ―「落花生かぶりキティー」と千葉県産落花生で造ったピーナッツバター。映画「ジョー・ブラックをよろしく」のなかで死神(ブラッド・ピット)がピーナッツバターを舐めるシーンが度々登場しますが、(故郷自慢で恐縮ですが)日本の落花生(ピーナッツ)の約80%は千葉県産と言われており、千葉県産の落花生(ピーナッツ)は実に香ばしく生豆のままでも十分にテイスティーです。千葉県内でも一番の収穫量を誇る八街市のあたりを車で走ると落花生(ピーナッツ)専門店をよく見かけますが、生豆の他にも、ゆで豆、いり豆、炊込ご飯やお菓子(和・洋菓子)など様々な料理法や楽しみ方があり、お近くに来られた際に落花生(ピーナッツ)専門店に立ち寄られると色々と面白い発見があるかもしれません。2〜3枚目:落花生のゆるキャラ「ピーちゃんナッちゃん」と「ぼっちくん」、落花生畑の「ぼっち」。ひと昔前、日本全国でゆるキャラがブームになりましたが、千葉県内でも一番の収穫量を誇る八街市には落花生の殻を模ったピーちゃんナッちゃんと落花生畑の“ぼっち”(落花生を天日干しするために野積みにしたもの)を模ったぼっちくんというゆるキャラがあり、落花生(ピーナッツ)と同様に人々からこよなく愛されています。因みに、落花生は1つの殻に2粒の豆が入っていることから数字の“1”を1粒の豆に見立て11月11日をピーナッツの日としています。ピーナッツは便秘によく効き、美容や健康にも良いそうなので、来る11月11日は、本場、千葉県産の落花生(ピーナッツ)を食べて、体に“い(1)い(1)日”にしてみませんか。4〜5枚目:千葉県のゆるキャラチーバくん”。現在、総武線の車両にチーバくんがプリントされたものが走っていたのでご覧になられた方も多いと思いますが、千葉県のゆるキャラチーバくん”は千葉県のフォルムを模って強引にキャラクター化したもので、丁度、角が野田市、舌が浦安市、耳が銚子市、足が館山市にあたるチン(バ)獣です。富津岬の部分を出ベソにするか否かを巡って大論争になったらしく、結局、富津岬を切り捨て出ベソにしないことになったそうですが、そのうち“チーバくん”に出ベソの弟が登場するのではないかとも噂されています。

ショスタコーヴィチの歌劇「ムツェンスク群のマクベス夫人」


左上段から1〜4枚目:晴海埠頭に寄港している世界でも屈指、日本最大級の豪華客船「飛鳥Ⅱ」タイタニック号や戦艦大和と同じくらいの大きさです。レインボーブリッジの下を通過する写真が欲しかったのですが、タイミングが悪く失敗してしまいました。上述の携帯電話によるコミュニケーションも人々を結ぶ橋の役割を果たしていますし、世界を巡る豪華客船も同じく世界中の人々を結ぶ橋の役割を果たしていると言えます。左下段から1〜4枚目:晴海埠頭に寄港している世界最初のマンション型豪華客船「THE WORLD」。この日は珍しく晴海埠頭には「飛鳥Ⅱ」と「THE WORLD」の二隻の豪華客船が寄港していましたが、人々の様々な想いや夢を乗せて世界中を旅する豪華客船にはロマンが感じられます。飛行機の旅と違って豪華客船の旅はゆっくりと自分自身や自分の人生を見詰め直す時間が与えられるところに大きな魅力があり、いつか大海原の上で自分自身と向き合って自分の半生を振り返る時間を持ちたいものだと憧れています。救命ボートも豪華なので、これならいつか乗ってみたい気にさせられます..。

さて、今日は撮り溜めていたクラシックミステリー 名曲探偵アマデウスを観たので、その概要を簡単に残しておきたいと思います。


執筆中。続く。


◆おまけ
ダンテ「神曲」を題材にした曲を3曲ほどご紹介しておきます。
リストの「ダンテの神曲による交響曲」より抜粋

チャイコフスキーの幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」より抜粋

ラフマニノフの歌劇「フランチェスカ・ダ・リミニ」より抜粋

クラシックミステリー 名曲探偵アマデウス「サラサーテ “ツィゴイネルワイゼン”」

【題名】クラシックミステリー 名曲探偵アマデウスサラサーテツィゴイネルワイゼン”」
【放送】NHK−BSプレミアム
    平成24年1月26日(木)12時00分〜12時45分
【司会】筧利夫
    黒川芽以
    鈴木砂羽
【出演】加藤知子(ヴァイオリン)
    新日本府ファイルハーモニー交響楽団(指揮:円光寺雅彦)
    野本由紀夫(玉川大学芸術学部准教授)
    関口義人(音楽評論家)
【感想】
最近のブログの枕は千葉ネタ尽しで、千葉に関係のない方は食傷気味になっているかもしれませんが、“○を喰らわば皿まで”の気概で京都や滋賀もひれ伏す故郷自慢の極め付けをアップしたいと思います。千葉礼賛。とかく飲み会での故郷自慢と手柄自慢は嫌われますが、映画「壬生義士伝」において新撰組隊士で北辰一刀流の使い手だった吉村貫一郎中井貴一さん)が「故郷の話が無駄口であるはずがながんす」という名台詞を残しているとおり、手柄自慢はともかく故郷自慢を毛嫌いするのは野暮というものです。..ということで早速、今日9月16日(1863年)は新撰組の筆頭局長・芹沢鴨が暗殺された命日ですが、千葉県流山市新撰組の局長・近藤勇や副長・土方歳三ほか隊士200名が最後に本陣を置いて再起を図った陣営跡(御用商酒造業、長岡屋七郎兵衛邸跡)があります。ここで近藤勇土方歳三は袂を分ち、近藤勇は新政府軍へ出頭して斬首され、土方歳三会津戦争を経て函館戦争で戦死しています。盟友、近藤勇土方歳三の別離の舞台となり別れの酒を酌み交わしたであろう流山の造り酒屋「長岡屋」に因んで男の酒詰合せ「本陣長岡屋」が発売されています。忠義の士、近藤勇(焼酎)と土方歳三清酒)は互いに生き方が異なり袂を分つことになりましたが、貴公も幕末の志士達が命懸けで描いた男のロマンに思いを馳せながら美酒に酔いしれてみませんか。なお、吉村貫一郎鳥羽伏見の戦いで戦死(映画では南部藩大阪屋敷に逃れて切腹)し、千葉県流山市までは来ていません。続く。



<上段左から>
1〜2枚目:市川團十郎祖先居住地の碑と(旧)東光寺薬師堂(千葉県成田市
初代市川團十郎の曽祖父・堀越十郎家宣は武田家の能係の家計で一条信竜(武田信玄の異母弟)に仕えていましたが、武田家が滅亡すると下総国幡谷村(千葉県成田市)に移り住み、その後一時、北条氏の家臣となりましたが、1590年に豊臣秀吉によって北条氏が滅亡すると農民になったそうです。しかし、父・堀越重蔵は農業を嫌って江戸に出て、そこで初代市川團十郎が生まれました。写真は、(旧)東光寺薬師堂の境内に建つ、初代市川團十郎の曽祖父・堀越十郎家宣、祖父・堀越重右衛門及び父・堀越重蔵の三代に亘って住んだ居住地跡の碑です。樹幹が(旧)東光寺薬師堂を遮って地を這うように居住地跡の方へ延びていますが、居住地跡の土地には色々な人の思いが積り積って樹幹を惹きつける霊性のようなものを宿しているのかもしれません。なお、当時の芸術家は有力な戦国大名に召し抱えられるなどして芸能活動を行っており、例えば、観阿弥駿河国の今川家、世阿弥は将軍家の足利家に召し抱えられていましたが、西洋のみならず日本においてもパトロンが文化芸術の発展に重要な役割を果たしてきた一例と言えます。
3〜4枚目:成田山新勝寺延命院旧跡(千葉県成田市
成田山表参道を薬師堂へ向って歩いて行くと延命院旧跡があります。これは1842年に老中水野忠邦による天保の改革(奢侈禁令)のあおりを受けて江戸十里四方追放となった七代目市川團十郎成田山新勝寺延命院に身を寄せています。その名残を写すように延命院旧跡跡の街灯には三升紋があしらわれています。一時、幡谷重蔵と名乗っていたようですが、歌舞伎「東海道四谷怪談」の民谷伊右衛門役をはじめとした「色悪」(外見は二枚目でも性根が悪く、女性を裏切る悪役)の名手で、成田屋相伝の荒事18演目を選んで“歌舞伎十八番”を定め(「十八番」を“おはこ”とも読むのは、市川宗家がこれらの演目を箱に入れて大事に受け継いだことに由来すると言われています。)、荒事をお家芸とする市川團十郎の名声を一層と盤石のものとしました。因みに、「随市川」とは市川宗家は随一の歌舞伎役者という意味で、“随一”と“市川”を掛けた褒め言葉です。
<下段左から>
1枚目:薬師堂(千葉県成田市
1655年に成田山新勝寺の本堂として建立されたもので、この本堂の頃に初代市川團十郎水戸光圀が参詣しました。現在の本堂に建て替えるために、1855年に古い本堂は薬師堂としてこの場所に移築しています。改装して新しく見えますが、現存する成田山の建物としては最も古いものです。なお、子宝に恵まれなかった初代市川團十郎成田山新勝寺に子宝祈願をしたところ、その願いが叶って1688年に二代目市川團十郎を授かりました。初代市川團十郎は御本尊の霊徳に感謝し1695年に成田不動明王を上演しましたが、その際に大向うから「成田屋!」という掛け声が掛かったのが“成田屋”の屋号の由来と言われています。荒事の特徴である“隈取り”や“見得”も不動明王の姿から来ていると言われ、「“不動の見得”で睨まれると病が治る」という噂が広まったことなどから成田山新勝寺の江戸っ子人気が高まり、成田山詣での参拝者が往来する「佐倉街道」(現在の国道296号)の名前が「成田街道」に変ってしまうほど賑わったそうです。因みに、更に時代は遡りますが、1180年に石橋山の戦いで敗れて安房に逃れた源頼朝成田山新勝寺を参拝し、平家追討を祈願しています。
2〜3枚目:成田山新勝寺額堂と七代目市川團十郎の石造(千葉県成田市
1821年に七代目市川團十郎が千両を寄進して額堂(通称、三升の額堂)が建立され、江戸追放が解かれて江戸に戻ると不動明王の御利益に報恩するために自らの石造を造らせて安置しています。当初、額堂は三重塔の横にあったそうですが、1965年に不審火で焼失し、現在は光明堂の横に移築されています。因みに、“千両役者”とは江戸時代に歌舞伎役者の中で特に人気を誇り大衆を魅了した役者を示し、中村座市村座守田座等の座元(興行主)との専属契約において1年間(毎年11月から翌年10月までの1年間契約で毎年11月に役者が入れ替わることから各座元は11月に顔見世興行を行っていましたが、その名残りで現在でも11月の公演を“顔見世”と呼んでいます。因みに、現代の歌舞伎役者は、実質上、松竹株式会社と終身の専属契約を結んでいることになります。)に千両(現在の価値に換算して1億円前後なので、“千両役者”を現代風に言うと“1億円プレーヤー”です。)を超えるギャラを得たことからこう呼ばれるようになりました。最初の千両役者は二代目市川團十郎と初代芳澤あやめと言われていますが、当時は座元から歌舞伎役者へギャラが直接支払われることはなく、必ず、奥役(マネージャー)を通して支払われましたが、奥役がそのギャラの1割前後を手数料として自分の懐へ入れ(“1”のことを「ピン」(ピンからキリまで)と言いますが、“かすめ取る”という意味の「はね」ると併せて「ピンはね」という言葉が生まれています。)、その残金が歌舞伎役者に支払われる慣習がありました。なお、平和大塔の1階にある霊光堂には、市川團十郎に所縁の資料などが展示されています。
4〜5枚目:高浜虚子の句碑(七代目市川團十郎・六代目市川團蔵銅像台座)と五代目芳村孝次郎の碑(千葉県成田市
1910年に七代目市川團蔵が七代目市川團十郎及び六代目市川團蔵銅像(日本で最初の俳優の銅像)とその右横に名優七世市川団蔵と刻んだ碑を建立しましたが、1941年(第二次世界大戦中)に公布された金属回収令により七代目市川團十郎及び六代目市川團蔵銅像が供出されたので、1943年に八代目市川團蔵がその台座の上に七代目市川團蔵と親交のあった高浜虚子の句碑(“凄かりし 月の団蔵 七代目”)を建てたものが成田山公園に残されています。なお、その左横に長唄唄方の名跡、五代目芳村孝次郎(後に改め、四代目松永和楓)の永代御膳料の碑も建てられています。

ステレオタイプなテーマで恐縮ですが、江戸落語上方落語が対比されるように同じ伝統芸能でも江戸と上方では異なる特徴を持っていますので、一度、自分の頭を整理するために、総合芸術たる歌舞伎における江戸歌舞伎(荒事)と上方歌舞伎(和事)の特徴的な違いについて書いてみたいと思います。続く。



<上段左から>
1〜3枚目:成田街道沿いの成田山道道標(千葉県佐倉市)、成田山新勝寺総門と出世稲荷にある石燈籠(千葉県成田市
1831年に七代目市川團十郎成田街道沿いに成田山道と刻んだ道標を建立しており(写真に向って一番右側の石柱)、この道標の右側面に七代目市川團十郎が詠んだ句“天はちち 地はかかさまの 清水可那”が刻まれています(最後に「團十郎」の名前も刻まれていることが確認できます。)。この道標は加賀清水の近くに建てられていますが、七代目市川團十郎も加賀清水を愛飲していたと言われており、この道標の左側面には「この清水を飲めば女性が懐妊する」旨の功徳が説かれています。因みに、この地を領有していた佐倉藩主、大久保加賀守利常の通称「加賀様」と「かか(母)さま」とが掛詞になっています(この近くにある佐倉城祉は日本の名城百選の1つです。)。また、成田山新勝寺総門を入ったところに七代目市川團十郎(改め、七代目市川海老蔵)と八代目市川團十郎が奉納した石燈籠(仁王門に向って左の石燈籠は七代目、右の石燈籠は八代目が奉納したもの)があります。さらに、出世稲荷の鳥居を潜ったところに同様に七代目と八代目が奉納した石燈籠(社殿に向って左の石燈籠は八代目、右の石燈籠は七代目が奉納したもの)があります。
4枚目:市川宗家代々の墓(東京都港区)
昔、市川宗家代々の墓は常照院(東京都港区)にあったそうですが(境内には七代目市川團十郎が奉納した手水鉢があります)、現在は青山霊園に移されています。因みに、常照院には歌舞伎「梅雨小袖昔八丈」に登場する白木屋お熊や浄瑠璃「恋娘昔八丈」に登場する城木屋お駒のモデルとなった白木屋お熊の墓があります。また、落語「髪結新三」の題材にもなっています。
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1〜4枚目:成田山新勝寺表参道と成田山公園
成田山新勝寺の表参道は昔情緒が漂う門前町で、宛らジブリワールドを彷彿とさせるような独特の風情を醸し出す“望楼”が魅力の大野屋旅館登録有形文化財)など風趣に富んだ景観を楽しめます。また、成田山公園は紅葉の名所なので、これからの季節は紅葉狩りにもお勧めです(今年の紅葉祭りは2014年11月15日〜30日)。
5枚目:小野派一刀流の始祖・小野忠明と二代目・小野忠常の墓
成田山新勝寺の近くに柳生新陰流と並んで徳川将軍家の剣術指南役であった小野派一刀流の開祖・小野忠明と二代目・小野忠常の墓があります。小野忠明は千葉県南房総市の生まれで(南総里見八犬伝の舞台になった滝田城の近く)、万喜城主の土岐家(千葉県いすみ市)に仕えていた時代に武者修行で訪れた一刀流の開祖・伊藤一刀斎に師事しています。1590年に豊臣秀吉による小田原城の落城に伴って(これにより北条家の家臣であった初代市川團十郎の曽祖父・堀越十郎家宣は下総国幡谷村(千葉県成田市)に移り住んでいます。)北条方であった万木城主の土岐家は豊臣方であった里見家に滅ぼされますが、1593年に小野忠明徳川家康に200石で召し抱えられ、その後、将軍家の剣術指南役になっています。晩年、小野忠常家督を譲って知行地の下総国埴生郡寺台村(現在の千葉県成田市寺台)に隠棲し、永興寺へ葬られています。なお、小野派一刀流から新撰組隊士・吉村貫一郎(映画「壬生義士伝」の主人公)、坂本竜馬山岡鉄舟等を輩出した千葉周作北辰一刀流等が分派しています。因みに、小野家の知行地・下総国埴生郡寺台村(現在の千葉県成田市寺台)と市川團十郎の祖先である堀越家の居住地・下総国幡谷村(千葉県成田市幡谷)とは非常に近く、また、時代も重なることから、どこかで両者は会っているかもしれません。

【ライブびゅ〜イング】
 成田山新勝寺團十郎祖先住居跡〜市川團十郎ゆかりの地〜

歴史上の“毒婦”や“烈女”が芸術作品や子女教育に与えた影響について書く予定です。続く。



<上段左から>
1〜5枚目:長妙寺の八百屋お七の墓(千葉県八千代市)、円乗寺の八百屋お七の墓と大円寺のお七供養地蔵(東京都文京区)、大円寺のお七地蔵尊(東京都目黒区)
八百屋お七は千葉県八千代市の生まれで、東京都文京区本郷に店を構える八百屋徳兵エに養子に入りました。ある時、家が隣家の火災で焼失したので近くの円乗寺に身を寄せていましたが、お七は寺小姓・山田佐兵衛に恋心を抱きます。お七は家が再建されて家に戻った後も山田佐兵衛を一途に恋い慕い、山田佐兵衛に会いたい一心で家が焼ければ再び円乗寺に移れると1682年(“いろはに”)に家に付け火をし、品川鈴が森の刑場で火あぶりに処せられました。享年16歳、“世の哀れ 春ふく風に 名を残し おくれ桜の 今日散りし身は”という辞世の句を残しています。お七は円乗寺(東京都文京区)に葬られましたが、お七の実母は秘かにお七の遺髪を受け取って長妙寺(千葉県八千代市)に墓を建てお七の御霊を弔いました。なお、円乗寺にある三基の墓碑のうち向って右側の墓碑は、女形の歌舞伎役者・四代目岩井半四郎(四代目市川團十郎が歌舞伎の名跡岩井半四郎が途絶えるのを憂い、自分の門下に四代目岩井半四朗を襲名させて女形の大看板としての隆盛の礎を築いています。)がお七を演じて好評だったことから建立したものです。なお、円乗寺の近くにある大円寺には、お七の罪業を救うために熱した焙烙(ほうろく)を頭に被り自ら焦熱の苦しみを受けた“ほうろく地蔵”が安置されており、首から上の病を治す御利益があると言われています。また、山田佐兵衛はお七の処刑後に剃髪して僧侶となり西運と名乗ってお七の菩提を弔いましたが、目黒の大円寺には西運の石碑と共に“お七地蔵”が安置されており、一途な愛を願う若い女性が熱心に参拝するそうです。八百屋お七は「毒婦」と呼ぶには余りにピュア―で幼過ぎたような気がしますが、一途な恋の炎に身を焦がした少女の狂おしいまでの純情が人々の同情を生むのか、この事件は浮世草子「好色五人女」歌舞伎「八百屋お七歌祭文」歌舞伎「八百屋お七恋江戸染」歌舞伎「松竹梅雪曙」歌舞伎「松竹梅湯島掛額」歌舞伎「三人吉三廓初買」浄瑠璃「八百屋お七恋緋桜」浄瑠璃「伊達娘恋緋鹿子」落語「お七の十」など多くの作品の題材となっています。(毒婦伝は以下に後述します。)
<下段左から>
1〜2枚目:重願寺の花井お梅の墓(千葉県佐倉市)、長谷寺の花井お梅の墓(東京都港区)
小説「明治一代女」で知られる花井梅は1863年に佐倉藩(千葉県佐倉市)の下級武士・花井専之助の娘として生まれ、その後、家族で東京に移り住んで15歳で芸妓になります。花井梅は1887年に某銀行頭取の資金援助を受けて待合茶屋「酔月楼」の女将になりますが、その翌月、箱屋として雇っていた八杉峰三郎に対して不仲な父親との仲を取り持つようにお願いしたところ、八杉峰三郎からその見返りとして男女関係を迫られたことなどから浜田河岸(東京都中央区日本橋)で八杉峰三郎を包丁で刺します。これが花井お梅事件(別名、箱屋事件)の概要で、新内「梅雨衣酔月情話」歌舞伎「月梅薫朧夜」歌舞伎「仮名屋小梅」の題材になっています。美人芸妓の殺人事件ということで新聞がセンセーショナルに書き立て、花井梅は「毒婦」に仕立て挙げられましたが、八杉峰三郎は花井梅が熱を挙げていた若手女形の歌舞伎役者・四代目澤村源之助との関係を壊すなど昔年の恨み辛みも手伝って包丁を所持したのかもしれず、その意味では「毒婦」というより質の悪い男のために人生を狂わせた可哀想な人と言えそうです。長谷寺(東京都港区)に花井梅の墓と“新内各派”と刻まれた卒塔婆が建てられ、その右側に藤田まさとさんが建てた歌碑(“十五雛妓であくる年 花の一本ひだり褄 好いた惚れたと大川の 水に流した色のかず 花がいつしか命とり”と刻まれています)が建てられています。また、重願寺(千葉県佐倉市)には花井梅の墓と伝えられる墓石がありますが(咎人のためか墓碑名は刻まれていません)、生前の花井梅を知る人がその御霊を供養するためにひっそりと建立したものかもしれません。なお、歌舞伎では、女だてらに男勝りの強請や人殺しをする毒婦を主人公とした作品のことを「悪婆物」と言い、上述の四代目岩井半四郎歌舞伎「大船盛鰕顔見勢」で私娼・三日月お仙を演じたのが「悪婆」の始まりと言われています。因みに、歌舞伎の悪婆物に登場する「毒婦」としては、上述の白木屋お熊、八百屋お七や花井お梅のほかにも、高橋お伝歌舞伎「綴合於伝仮名書」浪曲「高橋お伝」谷中霊園にある高橋伝の墓に参ると三味線が上達するという評判で現在でも三味線を習う人の墓参が多いとか)や鳥追お松歌舞伎「廿四時改正新話」)などが挙げられます。いずれも若く色白で細面の美人が凶悪な罪を犯すというギャップに劇(ドラマ)性があり物語にし易いという面があったと思いますが、男尊女卑という時代背景のもと女性はか弱く慎ましやかであるべきであるという固定観念を打ち破るようなショッキングな事件が起こり、「毒婦」としてセンセーショナルに騒ぎ立て特異な事件として整理すると共に、このような規格外の事件を当時の社会秩序(価値観)の中で上手く消化して行く(庶民の心の中で折り合いを付けて行く)ための仕組み(文化的な仕掛け)として、懺悔芝居は時代の共通認識や感覚を取り戻して行くという当時の社会的な免疫(解毒)作用を営んでいたと言えるかもしれません。
3枚目:妙興寺の忠婢さつ(鏡山お初のモデル)の墓(千葉県多古町
妙興寺(千葉県多古町)には浄瑠璃「加賀見山旧錦絵」歌舞伎「鏡山旧錦絵」歌舞伎「加賀見山再岩藤」に登場する鏡山お初のモデルとなった松田さつ(通称、忠婢さつ)の墓があります。松田さつは長府藩士松田助八の娘として生まれ、浜田藩松平家江戸屋敷の側女・岡本道女の召使いとして奉公していました。ある時、岡本道女は老女中・落合沢野の履物を間違えて使用してことを咎められ、家名を辱められたことを苦に自害します。松田さつは岡本道女の仇討ちを決意し、1724年に岡本道女の短刀で斬り付けて落合沢野を見事に討ち果たします(通称、鏡山事件)。その後、松田さつは剃髪して妙真尼と名乗り、松平家に所縁の妙興寺(千葉県多古町)に庵を結んで岡本道女や落合沢野の菩提を弔ったと伝えられています。松田さつの生地跡には妙真寺山口県下関市長府)が建てられ、妙興寺から分骨した松田さつの墓があります。忠婢さつは「烈女」(=信念を貫きとおす激しい気性の女性、貞操を固く守る女性)として話題になり、鏡山事件は“女忠臣蔵”として浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなりました。この他の烈女伝としては、(現代人の感覚からすると違和感がありますが)日本国民として大津事件の落し前をつけるために壮絶な自決を果たした「烈女勇子」(信念を貫きとおした女性)や強引に迫るストーカー男を撃退しその責任をとって潔く自決した「烈女松江」(貞操を守りとおした女性)が挙げられます。このような烈女伝を見てみると、現代の女性に多い傾向として単に「負けん気が強い」又は「我が侭な性分」というものとは異なり、昔の女性は物事の道理や筋目を重んじ、しっかりとした信念と覚悟を持って潔く振る舞える美しい生き方をしていた女性が多かったように感じます。女性の社会的な地位の向上が叫ばれて久しく、現代と昔では随分と社会的な状況は変わっていますが、果たして現代の女性は昔の女性と比べて精神的に自立していると言い得るのか(これは男性にも当て嵌まる問いかもしれませんが)、烈女伝は「自立」ということの意味を見詰め直すための良い機会を与えてくれます。
4枚目:神崎神社の大クス「なんじゃもんじゃの木」(千葉県香取郡
近くにあった観光スポットを案内します。神崎神社(千葉県香取郡)の大クスです。1674年に水戸光圀がこの木を見て「この木はなんというもんじゃろか」と感嘆したので、それ以来、「なんじゃもんじゃの木」と言われています。
5枚目:西栄寺の琵琶首観音(通称「朝ねぼう観音」)(千葉県流山市
近くにあった観光スポットを案内します。西栄寺(千葉県流山市)には琵琶首観音が祀られています。この琵琶首観音は酒盛りをして寝過し、翌朝、天上界の会議に遅れたという逸話があることから通称「朝ねぼう観音」とも言われています。誰かに似ているような気がしますが、ねぼけ眼で顔がむくんでいるように見え、いかにも寝起きのような表情は実に愛嬌があります。

さて、ブログの枕が長くなり過ぎましたが、今日は撮り溜めていたクラシックミステリー 名曲探偵アマデウスを観たので、その概要を簡単に残しておきたいと思います。ご案内のとおりスペインのヴァイオリニスト、パブロ・サラサーテは10歳のときにスペイン女王イサベル2世に招かれて御前演奏を披露し、ストラディヴァリウスとパリ留学を賜った神童です。その後、私財を投入してガヤール劇場にオーケストラを設立するなどパンブローナ(スペイン)を中心に精力的な音楽活動を行い、1878年(上記の花井お梅が芸妓になった年)に彼の代表作となる「ツィゴイネルワイゼン」を作曲しています。因みに、日本で最初のプロ・オーケストラは1904年に設立された東京音楽学校(→東京芸術大学)の東京音楽学校管弦楽団(→藝大フィルハーモニア)で、その後、1915年に山田耕作が東京フィルハーモニー会(→新交響楽団→NHK交響楽団)を設立しています。また、日本で最初のアマチュア・オーケストラとして1901年に慶應義塾大学ワグネル・ソサイエティが設立されています。

ドイツ捕虜オーケストラの碑
故郷自慢の最後にクラシック音楽ネタで締めたいと思います。1915年に第一次世界大戦の敗戦国であるドイツ及びオーストリアの捕虜を収容するための習志野捕虜収容所(千葉県習志野市習志野)が設置され、そこに収容されている捕虜達が習志野捕虜オーケストラを結成してベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、モーツァルトの歌劇「魔笛」、グリーグの音楽劇「ペール・ギュント」及びJ.シュトラウスのワルツ「美しく青きドナウ」等を演奏しています。日本では1926年11月19日にベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の日本初演(独奏:J.ケーニヒ、指揮:近衛秀磨、演奏:新交響楽団)が行われていますが、実はそれよりも早く日本でベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の演奏が行われていたことになります。未だ蓄音機(1910年販売開始)やラジオ(1925年放送開始)が普及しておらず、上述のとおり日本ではオーケストラが設立し始めたばかりの黎明期で、また、一般庶民がヴァイオリンを演奏できる環境にもなかった(1900年に鈴木バイオリン生産開始)と思われますので、おそらく殆どの日本人にとって初めて耳にする音楽だったのではないかと思います。なお、千葉県銚子市新国立劇場美術センターがあり、衣裳、舞台模型や小道具など舞台芸術に関する所蔵品が展示されており、鑑賞会やコンサート等のイベントも開催されていますので、銚子名物“キンメ丼”を食べがてら華やかなオペラの舞台の裏側を見物してみるのも面白いと思います。因みに、ご存知の方も多いと思いますが、オペラの廻り舞台は歌舞伎の廻り舞台を採り入れたものですし、METライブビューイングはシネマ歌舞伎を真似て始められたものです。なお、千葉県銚子市の周辺には地球が丸く見える展望台(犬吠埼の灯台)、実在の人物“座頭市”の住居跡や屏風ヶ浦などもありますので、ついでにこの辺を散策するのもお勧めです。

ツィゴイネルワイゼンの第1部冒頭は聴く者の耳を捉えて離さない哀愁に満ちた旋律が印象的ですが、これは冒頭の“ソ−ド−レ−♭ミ”という旋律に秘密があります。この曲の調性であるハ短調音階(和声的短音階)のソ(属音)はド(主音)へ向おうとする性質がありますが、冒頭の“ソード”の強い流れと“ド−レ−♭ミ”の緩やかな流れの巧みな旋律の作り方が最も人間の心を惹き付ける効果があると言われています(“ソ(5)−ド(1)−レ(2)−♭ミ(3)”という旋律を数字譜で表記し、俗に“5123の魔術”と言われています)。このような例は、ツィゴイネルワイゼンのほかにも、ベートーヴェンのピアノソナタ第8番「悲愴」第三楽章の冒頭(右手の最初の4音ソドレ♭ミの動きに注目)や都はるみさんの「北の宿から」の冒頭(あなたか(ソ)わ(ド)り(レ)は(♭ミ)ないですか・・♪)等にも見られ、いずれも印象深い効果を生んでいます。また、ツィゴイネルワイゼンの冒頭で、オーケストラが“ソ−ド−レ−♭ミ”という旋律(楽譜1ページ目、第1小節〜第2小節)を高音で演奏しているのに対し、これに続くソロヴァイオリンが“ソ−ド−レ−♭ミ”という同じ旋律(楽譜1ページ目、第3小節〜第4小節)を低音で演奏していますが、この落差が聴く人の心を惹き付ける効果があるとも言われており、冒頭の旋律を一層印象深いものとすることに成功しています。なお、ツィゴイネルワイゼンはロマ(ジプシー)音楽の影響を色濃く受けていると言われています。ロマ音階とハ短調音階(和声的短音階)は殆ど一致していますが、ロマ音階はハ短調音階(和声的短音階)のファの音に#がついて半音高くなっている点が異なり(楽譜2ページ、ソロヴァイオリンの部分)、これがロマ(ジプシー)音楽の独特の曲趣(哀愁、屈折など)を醸し出しています。

【楽譜】
http://petrucci.mus.auth.gr/imglnks/usimg/0/00/IMSLP111461-PMLP04860-Zigeunerweisen_small.pdf

サラサーテは手が小さかったのでパガニーニの曲を演奏しなかったそうですが(パガニーニは末端肥大症で普通の人より指が長かったと言われています)、そのハンディーキャップを補うためにサラサーテの曲は小さい手でも音程がとりやすいハイポジション(ヴァイオリンを演奏したことがある方は直ぐに分かると思いますが、高音になるほど音間が狭くなり、ローポジションと比べてハイポジションは1オクターブの間隔が狭くなります。)が多用されています。また、サラサーテはトリル(楽譜6ページ目、ソロヴァイオリンの“tr”部分)やグリッサンド(楽譜7ページ目、ソロヴァイオリンの“dim”部分/楽譜10ページ目、ソロヴァイオリンの“glissant”部分)等の技巧やG線のハイポジションを使った多彩な音色を使って表情豊かな“泣き”(傷心、悲哀、哀愁など)の表現を可能にしています。第2部はゆったりとした時間が流れ、第3部ではチャールダーシュ(ハンガリーにやってきたロマの人々がヨーロッパ各地の舞曲を採り入れて発展させたもので、19世紀にヨーロッパ全土に広がりました。)をベースに気持ちが高揚する曲趣が特徴で、左手の高速ピッチカート(楽譜33ページ目、ソロヴァイオリンの“+”部分)など華やかな技巧を散りばめてクライマックスを盛り上げていきます。なお、チャールダーシュとは哀愁を帯びた緩急のある曲趣で“ラッシュ”と呼ばれる遅いリズムの部分と“フリッシュ”と呼ばれる速いリズムの部分から構成されますが、ツィゴイネルワイゼンでは第1部前半のソロヴァイオリンが即興風に歌いながら伴奏は演奏のきっかけを待つチャールダーシュの間合いの妙と言うべきラッシュと呼ばれる部分、第3部がソロヴァイオリン及び伴奏とも息もつかせぬ速さで駆け抜けて行く躍動感のあるフリッシュと呼ばれる部分に相当します。

ヴァイオリニスト加藤知子さんの演奏を探してみましたが、YouTubeにはアップされていなかったので、サラサーテ60歳の頃の自作自演をアップしておきます。

00:11〜、00:19〜
聴く者の心を捉えるソドレ♭ミ
00:26〜
哀愁感を漂わすロマ音階
00:58〜
第1部は緩やかなラッシュ
01:24〜
泣きのトリル
01:34〜
感情を揺さぶるグリッサンド
01:58〜
サラサーテならではのハイポジション

03:41〜
第2部は優雅な美しい旋律

03:57〜
第3部は躍動感あふれるフリッシュ
05:06〜
超難易の高速の左手ピッチカート
見た目にも盛り上があるクライマックス

◆おまけ
アンコール曲のレパートリーとして定番ですが、ロマ音楽の影響を色濃く受けたモンティのチャールダーシュを、ヴェンゲーロフの透徹のテクニックが冴え映えとする自在(ところによりアクロバティック)な演奏でどうぞ。

映画「ボーカロイド™ オペラ 葵上 with 文楽人形」が大好評につき、再上映されます。なんだかまだ僕は行けそうにないですが(...本当に困ったものです)、宣伝しておきます。是非、感想をお聞かせ下さい!!

香清話〜香に聞く、香を聞く〜

【題名】香清話〜香に聞く、香を聞く〜
【著者】畑正高(松栄堂社長)
【出版】淡交社
【発売】2011年3月24日
【値段】1944円
【感想】
今日は仲秋の名月(月齢14歳)。昔から中国では仲秋の名月に月餅をお供えする風習がありましたが、それが日本へ入ってきてススキと月見団子(又は里芋)をお供えするようになりました。旧 暦8月15日の十五夜の月は里芋をお供えするので“芋名月”、もう1つの名月である旧暦9月13日の十三夜の月は枝豆をお供えするので“豆名月”といいま すが、その年に収穫した農作物をお供えして五穀豊穣を神様に感謝するという意味合いがあるのかもしれません。また、日本でススキをお供えするのは神様の依り代と考えられていたからで、現代のように専ら鑑賞のために月を愛でていたのではなくアニミズム信仰(自然に宿る精霊を信仰)のために月を愛でていたということかもしれません。古来、月は、月の満ち欠けによって潮の干満に影響を与え、女性の月経周期や色々な生理現象とも神秘的な関係があると言われています。日本最古の物語である竹取物語は、月からやってきた絶世の美女かぐや姫は5人の貴公子の求婚を断って8月の満月の夜に「月の都」へ帰ってしまうというファンタジックなストーリーですが、昔から月は多くの和歌に詠まれ、日本人の創造の源泉になってきましたが、月が持つ神秘性に憧れを抱いていたのかもしれません。一方、欧米では、月は死を暗示するものとして月を観ることは不吉なことと考えられていたようで、妊婦が月を観ると胎児が精神異常をきたすという迷信があり、また、満月の日に凶悪事件が起きることが多いとも言われています。英語の“lunacy”(ルナシー、因みに“luna”は月の女神ルナ(=かぐや姫?)の意味)には狂気という意味がありますが、月を観て狼に変身する狼男は狂犬病患者がモデルだったと言われており、月が持つ神秘性が人間を狂気に駆り立てると信じられていたのかもしれません。同じ月ですが、洋の東西で随分と感じ方や考え方は異なるものです。因みに、「竹取物語」を題材としながら全く異なるアプローチで描かれた2つの映画、かぐや姫は宇宙人であったという設定の映画「竹取物語」(市川昆監督/東映)と、人間かぐや姫の真実に迫ろうと試みた映画「かぐや姫の物語」(高畑薫監督/スタジオジブリ作品)がありますので、仲秋の名月を愛でながら古のロマンに思いを巡らせてみるのも風流です。また、2014年1月18日に沼尻竜典さんが作曲した歌劇「竹取物語」日本初演されたようです。残念ながら観に行けませんでしたが、おそらく再演があるのではないかと期待しています。さて、古より愛でると言えば「月」と「桜」。千葉県民以外の方は辟易とされているかもしれませんが、今回のブログの枕は桜尽しでお国自慢を試みてみたい(隠れたテーマは“日本の恋争い伝説とそれが日本の文化芸術に与えた影響”と題し大風呂敷を広げておきましょう)と思います。



<上段左から>
1〜2枚目:西行の墨染桜と貴船神社(千葉県東金市
1180年に平重衡東大寺を焼討ちにしたことから(同年、源頼朝は石橋山の合戦に敗れて真鶴から安房へ小船で逃れており、それが能「七騎落ち」の題材になっています。)、1186年に俊乗坊重源上人が西行法師に奥州藤原氏東大寺再建のための砂金勧進に向うように依頼しています(同年、源頼朝に追われた源義経は同じく奥州藤原氏を頼って平泉へ落ち延びています。)。その途上、西行法師は万葉歌人山辺赤人及び小野小町を偲んで、その所縁の地である千葉県東金市を訪れたところ、自分の故郷と同じ山田村という地名を見て懐かしく思い、この地に京都の貴船神社の分社を造り(境内には「疣(いぼ)神社」があり、ここにお参りすれば疣を取り除いてくれると言われており遠方から参拝に来る方も多いそうです。)、その傍に杖として使っていた深草(京都市伏見区墨染町)の墨染桜の枝を挿して「深草の 野辺の桜木 心あらば 亦この里に すみぞめに咲け」と詠んでいます。その杖が成長して現在の墨染桜(樹齢約800年)になったと言われています。因みに、墨染桜とは、平安時代に上野岑雄が友人の関白、藤原基経を深草に葬った際に、その死を悼んで「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け」(古今和歌集)と詠んだところ、彼の悲しみに感じ入った桜が喪に服すように灰色がかった色に咲いたという故事に由来しており、それが歌舞伎「積恋雪関扉」浄瑠璃「西行法師墨染桜」の題材にもなっています。この故事を大そう気に入った関白、豊臣秀吉は姉の瑞龍尼が法華経に帰依したのを契機に墨染寺(京都市伏見区墨染町)を建立(再興)しており、その境内には歌舞伎役者、二代目中村歌右衛門が寄進した手洗い石が残されています。なお、墨染寺の直ぐ近くに欣浄寺(京都市伏見区西桝屋町)がありますが、そこは深草少将の邸宅跡と言われており、ここから深草少将は山科の小町小町のもとへ求愛のために百夜通いをしたと言われています。それが世阿弥の能「通小町」の題材になっていますが、黒墨桜の枝を杖として旅をしてきた西行法師が小野小町を偲び、その所縁の地である千葉県東金市を訪れて、この逸話に思いを馳せながら古今集の和歌に因んで「深草の・・・」と詠んだのだと思われます。少し脱線しますが、2003年に上海アリス幻楽団からリリースされたゲームソフト「東方妖々夢〜Perfect Cherry Blossom」は西行法師と墨染桜を題材として作られており、その中で墨染桜に因んだ「幽雅に咲かせ、墨染の桜」という曲が使われています。西行の墨染桜は、時を超えて形を変えて我々の心に美しい花を咲かせ続けています
3〜4枚目:能香「西行桜」と桜をモチーフにした香立で薫くお香(お香をお茶菓子に見立てました!召し上がれ❤)
西行法師は「願わくば 花の下にて 春死なん、その如月の 望月のころ」(山家集)という辞世の和歌を残していますが、この和歌のとおり旧暦1190年2月16日(「如月」=旧暦2月、「望月」=満月15日、釈迦入滅の日、新暦で3月末頃)に他界しています。なお、国語(古典)の時間に学習したと思いますが、和歌で使われる「花」とは、奈良時代までは“梅”を指しましたが、平安時代には“桜”を指すようになりました。1140年(平安時代)に鳥羽院に仕えていた佐藤義清は勝持寺で出家して西行法師と号し(NHK大河ドラマ平清盛」で藤木直人さんが演じていた役の人。因みに、藤木直人さんは千葉県佐倉市出身ですが、西行法師は千葉県佐倉市にある勝間田の池にも立ち寄り「水なしと 聞きて ふりにし 勝間田の 池あらたむる 五月雨の頃」という和歌を詠んでいます。)、その寺にある西行法師のお手植えの桜は「西行桜」と呼ばれていますが、世阿弥西行法師が桜の花を愛でた和歌を数多く収めている山家集を題材として能「西行桜」を創作しています。因みに、能香「西行桜」は“ひっそりと咲く桜をイメージした香り” のお香で、沈香をベースにしたフローラルノートの気品に満ちた香りは気持ちを解し心を整えてくれます。大変に美味しくいただきました..(u_u*)
5枚目:オランダの夕陽
↑ウソ、千葉県佐倉市にあるオランダ風車「リーフデ」と夕陽です。
<下段左から>
1枚目:小野小町公園にある小町塚と歌碑(千葉県東金市
千葉県東金市小野は六歌仙(&三十六歌仙)の一人で絶世の美女として有名な小野小町の生誕地と言われており(その後に上京して宮中に出仕)、西行法師が奥州へ向う途中で小野小町を偲んでこの地を訪れています。この一帯は桜の樹が多く、小野小町が幼少期に住んでいた邸宅の一角に小野小町が愛用していた機織りの道具(オサ)が埋まっていると言われています(小町塚)。歌碑には桜の樹に因んで「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」(古今和歌集)と刻まれています。なお、(下ネタで恐縮ですが【R12指定】)糸を通す穴のない待ち針のことを「小町針」と言いますが、これは数多くの男性から言い寄られた小野小町がこれらを全く相手にしなかったことから“穴”のない女と噂されたことに由来すると言われています。お口直しに少し脱線しますが、小野派一刀流(始祖の小野忠明は千葉県南房総市出身)から分派した北辰一刀流の始祖の千葉周作の姪、千葉佐那子(坂本竜馬の婚約者、NHK大河ドラマ龍馬伝」で貫地谷しほりさんが演じていた役の人)は剣や薙刀に秀で「鬼小町」「小千葉の小町娘」と呼ばれていたそうです。直接のつながりはないかもしれませんが、「小野」「千葉」「小町」に因んでご紹介しておきます。
2〜3枚目:三十六歌仙の1人、山辺赤人の墓(赤人塚)と山辺赤人の木像がある法光寺(千葉県東金市
もともと山辺(部)家は伊予国で山林管理の職に就いていましたが、山辺赤人の父が手柄をたて上総国(千葉県)に領地を与えられており(藤原定家と共に「新古今和歌集」を編纂した飛鳥井雅経の家に伝わる古文書「古今抄」に「赤人は上総国山辺郡の人なり」と記されており、現在の千葉県当東金市出身です。)、千葉県東金市山辺赤人と父の墓と伝えられる赤人塚があります。なお、山辺赤人が詠んだ有名な和歌「田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」は壬申の乱で敗れ上総国に逃れた大友皇子天智天皇の子)を悼んで詠んだものと言われており、“田子の浦”とは現在の勝山港の周辺の海(千葉県安房鋸南町下佐久間にある田子台の下の海が“田子の浦”と呼ばれていました。なお、一部に“田子の浦”とは静岡県富士市の海とする俗説もあります。)で、勝山港から富士山を眺めて詠んだものと考えられています。因みに、源頼朝は石橋山の合戦で敗れて真鶴から小船で逃れ、千葉県安房郡居南町竜島の勝山海岸(“田子の浦”)へ漂着しています。
4枚目:三十六歌仙の1人、大江千里の歌碑(千葉県佐倉市
現代の歌手の方は“おおえせんり”と読みますが、平安の歌人の方は“おおえちさと”と読みます。在原業平の甥で古今和歌集小倉百人一首に作品が収められていますので彼の和歌を好きな人も多いと思いますが、印旛沼(千葉県佐倉市印西市成田市)を見下ろす野鳥の森(千葉県佐倉市)に建つ歌碑には大江千里の和歌「下つさの 伊波乃浦なみた津らしも 舟人さわぎから 艪おすな季」(伊波乃浦=印旛沼)が刻まれています。なお、仲秋の名月に因んで、大江千里が月を詠んだ有名な和歌「月見れば 千々にものこそ かなしけれ 我が身ひとつの 秋にはあらねど」(古今和歌集)も忘れてはなりますまい。
5枚目:印旛沼を紅に染める夕陽(千葉県佐倉市
野鳥の森の隣にオートキャンプ場の印旛沼サンセットヒルズ(千葉県佐倉市)があり、ここから見る夕陽がひときわ美しいです。少し凌ぎ易くなってきましたので、野鳥の森でバード・ウォッチングした後に、印旛沼サンセットヒルズでバーベキューを楽しみながら印旛沼を紅の夕陽にしんみりとたそがれてみるのも一興です。

西行について書く予定です。続く。



<上段左から>
1〜2枚目:手児奈霊神堂(真間娘女墓)、真間井(千葉県市川市
奈良時代下総国勝鹿(葛飾)の真間(現在の千葉県市川市真間)に手児(古)奈(てこな)という小野小町に劣らない絶世の美女がいて、万葉集にいくつもの和歌が詠われています。手児奈は多くの男性から求愛されますが、どの男性とも決め兼ねているうちに、手児奈を巡って男性の間で争いが絶えないようになり、遂にはその恋煩いから真間の入江弘法寺の下を流れる真間川の河川敷一帯に海水が入り込んで出来た入江)に身を投げて自ら命を断ってしまいました。古も今も変わらぬ揺れる乙女心、竹内まりやさんの歌「けんかをやめて」と同じような悲しくも切ない恋の物語があります。手児奈は美人薄命の元祖と言われており、行基上人が手児奈の悲話を聞いて哀れに思い、「弘法寺」(当初は「救法寺」と称しましたが、後に弘法大師空海が「弘法寺」と改称)を開いて手児奈の霊を手厚く弔いました(弘法寺の7世日与上人が手児奈の奥津城(墓)があったと伝えられていたところに手児奈霊神堂を建立し(1501年)、現在はそちらに祀られています。)。また、亀井院には手児奈が毎日のように水汲みをしていたとされる井戸「真間井」があります。何故、井戸が語り伝えられているのか歴史ロマンに思いを馳せてみると、美人で評判の手児奈を見染め又はその姿を一目見たいという男性がその叶わぬ想いを胸に秘めながら、手児奈が毎日のように真間井で水汲みをする姿に見惚れていたのかもしれず、そう考えると真間井は叶わぬ恋に身を焦がした男性達の切ない想いが交錯した特別な場所であり、真間井の水は枯れても、男性達が手児奈にそそいだ想いはいつまでも枯れずに残っていると言えるかもしれません。なお、万葉集には、この近傍の出身である山辺赤人上総国(現在の千葉県)の出身)や高橋虫麻呂常陸国(現在の茨城県)の出身)などの歌人が「真間の手児奈」を詠んだ和歌が数多く収録されています。以下にいくつかご紹介しておきます。
われも見つ 人にも告げむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥津城ところ」(山辺赤人
葛飾の 真間の入江に うち靡く 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ」(山辺赤人
勝鹿の 真間の井を見れば 立ち平し 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ」(高橋虫麻呂
葛飾の 真間の手児奈が ありしばか 真間の磯辺に 波もとどろに」(詠み人知らず)
葛飾の 真間の手児奈を まことかも われに寄すとふ 真間の手児奈を」(詠み人知らず)
また、亀井院の裏庭にある離れに北原白秋が暮らしていたことがあり、真間井の水を使って洗顔し、米や野菜等を洗っていたらしく「葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花」という短歌を読んでいます(近くの里見公園に北原白秋が暮らした亀井院生の離れが移築上されています。)。さらに、「真間の手児奈」を題材とした「琴と管弦楽による協奏曲」(大塚西作曲)、歌劇「真間の手古奈」(安東英男作詞/服部正作曲、服部正さんはラジオ体操第一や東邦音楽大学の校歌を作曲した方)、歌劇「TEKONA〜愛、そして手児奈」(源優太台本/会田道孝作曲)、歌舞伎「真間の手古奈」(金沢康隆作/杵屋六左衛門作曲)、長唄「真間の手児奈」(静友己枝作詞/堅田喜三久作調)、能「真間の手古奈」、読本「雨月物語」の一編「浅茅が宿」(上田秋成著)ミュージカルや長唄、戯曲など数多くの作品が生まれています。因みに、万葉集には「真間の手児奈」のほかに恋争いの悲話を詠った和歌が収められており、「葦屋の菟原処女(うないおとめ)」の悲話も有名です。葦屋(現在の兵庫県神戸市東灘区)に菟原処女という可憐な女性がおり多くの男性から思いを寄せられていましたが、菟原処女に求婚していた2人の男性が菟原処女を巡って激しく争うようになり、菟原処女は思い余って自ら命を断ってしまい、その2人の男も後を追って死ぬという悲話が残されています。これが世阿弥能「求塚」の題材にもなっています。
3〜5枚目:真間の継橋、真間を詠んだ小林一茶の歌碑と弘法寺の山門、玉蘭斎貞秀の浮世絵「利根川東岸一覧」(千葉県市川市
かつては弘法寺の下を流れる真間川の河川敷一帯には海水が入り込んで “真間の入江”と呼ばれ、その入江を東西に横切るように長大な砂洲(潮流が運んできた土砂が溜まってできる砂堤で、“天の橋立”が有名)が延びていました。真間の継橋は、その砂洲を中継する架け橋で、玉蘭斎貞秀の浮世絵「利根川東岸一覧」(当時の利(刀)根川=現在の江戸川)のほかに、斎藤月岑「江戸名所図会」の「真間山弘法寺」(絵、長谷川雪旦)、歌川広重の名所絵「名所江戸百景」の「真間の紅葉手古那の社つぎ橋」や小林清親の浮世絵「武蔵百景之内 下総真間つぎ橋」に描かれており、おおよそ現在の位置に橋架されていたことが伺えます。万葉集には「足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 やまず通はむ」(詠み人知らず)と詠んだ和歌があり、小林一茶も「かつしかや 真間の入江にさちあれと 柳ながめて のせぬ舟人」と詠んでいますが(弘法寺小林一茶の句碑には「真間寺で 斯う拾いしよ 散紅葉」の句が刻まれています。)、紅葉の名所として知られる弘法寺から真間の入江と砂洲に渡る真間の継橋を臨む眺めは風光絶佳であったことが伺えます。また、真間の入江の砂洲には“片葉の葦“(葉が片方にしかつかない葦)が生息していましたが、これは手児奈が亀井院にある真間の井に足繁く水汲みに通ったために、その美しさに惹かれて葉がすべて片方に寄ってしまったという伝説が残されています(現在も、真間の入江の名残りと言われている手児奈霊神堂の池に生息する片葉の葦は、手児奈が眠る真間の入江の底へと葉を向けています。)。因みに、宮部みゆきさんが「本所深川ふしぎ草紙」(新潮文庫)の第一話で「片葉の葦」と題する小説を書いています(吉川英治文学新人賞受賞)。真間の継橋から遠い古へと歴史ロマンの橋を継いで思いを巡らせてみると、何故、手児奈が真間の入江に身を投じなければならなかったのか、その乙女心が哀切に胸に響きます。
<下段左から>
1枚目:手児奈霊堂にある縁結びの桂の木(千葉県市川市
さだまさしさんが奉納した桂の木で、桂の木の葉のかたち(ハート型)をあしらった絵馬にカップルの名前を書いて奉じると恋が成就するそうです。さだまさしさんは若い頃に千葉県市川市に住んでいたことがあるらしく、いつか「真間の手児奈」の悲しく切ない恋の物語を素敵な曲にして戴けないものかと願っている人は多いのではないかと思います。
2枚目:弘法寺の涙石(千葉県市川市
弘法寺山門へと続く1千個以上の石段のうち、いまなお涙を流すように濡れ続けている石(通称、涙石)があります。江戸幕府作事奉行の旗本、鈴木長頼が1705年に日光東照宮の造営のために使う石材を伊豆から船で運ぶ途中に千葉県市川市付近で船が動かなくなり、その石材を勝手に弘法寺(当時、鈴木家は弘法寺の大檀那)の石段に使用してしまったことから、幕府から責任を追及されて石段で切腹させられました。その時の鈴木長頼の無念の涙が染み込んで、いつまでもその涙が枯れることなく涙石を濡らせ続けています(写真は2014年9月13日(晴れ)午前10時頃に撮影しましたが、天地神明に誓って涙石に細工などはしておらず、周囲の石が乾いているのに涙石だけが濡れている状態でした。但し、理由は分かりませんが、鈴木長頼の御霊も泣き暮らしてばかりいるのではないのでしょう、涙石があまり濡れていない日もあるそうです。)。なお、鈴木長頼は学識豊かな大工頭だったので、1696年に真間の手児奈に所縁の旧跡を末永く顕彰するために万葉顕彰碑(真間の継橋、手児奈霊神堂入口、亀井院入口に三基の顕彰碑があり「真間の三碑」と言われています)を建てたと言われており、現在もその万葉顕彰碑は残されています。因みに、深草少将の邸宅跡である墨染寺には“涙の水”と言われる「深草少将姿見の井戸」(別称、墨染井)があります。深草少将は百夜通いの最後の夜に大雪のために凍死し小野小町への想いを遂げられませんでしたが、小野小町を恋い慕う一途な想いを断ち難く、今もなお墨染井の涙の水は枯れることがありません。「通う深草百夜の情け 小町恋しい涙の水は 今も湧きます欣浄寺」(西条八十能楽をはじめとして日本の伝統芸能は古人の無念を語り、謡い、舞うことで古人の無念を晴らす怨念鎮魂の思想が背景にありますが、土地の歴史を訪ねて古人の心へ思いを馳せてみると、その心は時を超えて今もなお生き続けていると感じられます。
3〜4枚目:弘法寺の伏姫桜、国府台公園にある里見広次公廟と夜泣き石(千葉県市川市
今年は滝沢(曲亭)馬琴の長編読本「南総里見八犬伝」刊行200年の記念年ですが、その南総里見八犬伝に因んで、弘法寺には「伏姫桜」(樹齢400年)という見事な枝垂れ桜があります。里見家が国府台(千葉県市川市)に城を構えていたことがあったことに由来して命名されたものかもしれません(因みに、南総里見八犬伝の舞台になった館山城(千葉県南房総市)にある里見桜も有名です。)。1564年に下総国当時、千葉県は下総国、上総国、安房国の三国から構成)の覇権争いで、北条氏康(2万)が小岩側、上杉謙信に加勢する里見義弘(8千)が矢切側に布陣して闘っていますが、北条氏康矢切の渡し細川たかしさんのヒット曲になり記念碑もありますが、小岩側は寅さん記念館、矢切側は国府台(里見)公園が近くにあります。因みに、矢切の渡しは11月末日まで運行しており大人は片道200円です。)を亘って夜襲をし掛けたことにより里見義弘が敗れて里見広次ら約5千人が戦死しています。その後、安房国から来た里見家の末姫があまりに凄惨な光景に傍らの石にすがって泣き崩れ、遂には憔悴して息絶えてしまいましたが、それから夜毎にその石から女性の鳴き声が聞こえるようになり、この合戦に参加していた武士が姫を手厚く弔ったところ泣き声が止んだというのが“夜泣き石”の伝説です。この地にも里見の姫にまつわる伝説が花を咲かせています。
5枚目:吉井の水車小屋(千葉県南房総市
吉井の大井戸の近くに「川上の駅」(現在の“道の駅”のようなところ)の跡(千葉県房総市)があり、三十六歌仙の1人、大伴家持が訪れています。これは741年に朝廷が安房国上総国へ併合することを宣言したことに対し、安房国が異論を申し出たことから、その調査の目的で大伴家持安房国に派遣されたものです(因みに、大伴家持は783年に勅使として上総国麻賀多神社(千葉県成田市)を参詣し鳥居を建立しています。)。そこで平郡郎女と恋仲になって平郡郎女から恋歌が送られるようになり、その多くの和歌(「万代と 心は解けてわが背子が 摘みし手見つつ 忍びかねつも」「隠沼の 下ゆ恋ひあまり白波の いち白くいでぬ 人の知るべく」など12首)が万葉集に収められています。とりわけ後者の和歌は万葉集4500首の中でも相聞の秀歌として絶賛されています。因みに、数年前、作曲家の千住明さんと俳人黛まどかさんが万葉集を題材としたオペラ「万葉集」を発表して話題を呼びましたが、万葉集に詠まれている和歌の世界は時代を超えて現代にも相通じるものがあり、音楽によって昔の日本語(和歌を詠む文化が廃れず、未だ日本語が磨き抜かれ洗練されていたころの言葉)が持っていた香気が豊かに薫って、実に美しく耳に響き心に共鳴したことを思い出します。こんな優れた文化を持ちながら現代では和歌を詠む文化は廃れてしまい、その結果、日本語はその豊かな情緒性を失って機能面ばかりが追求されるようになり(例えば、季節を表現し自然の表情を繊細に汲み取る語彙は著しく減って、その最大公約数を効率的に伝達する語彙のみが重用されるなど。更にこれを音楽に例えれば、平均律を生み出したことで音を扱い易くなり音楽を普及し易くなった反面、鍵盤と鍵盤の間に落ちる膨大な音を失ったことで音楽表現の可能性を狭めてしまった状況と相似していると思います。)、また、地面をアスファルトで覆い尽くして人間がコントロールできない自然を徹底的に排除した二元論的な世界(自然界と人間界を分けて考え、人間が自然を支配しようとする西洋(キリスト教)的な価値観。これに対し、日本は自然界と人間界を分けて考えることはせず、“山川草木悉皆成仏”という思想に現れているとおり自然を支配の対象としてではなく畏敬崇拝の対象として捉える東洋(仏教)的な価値観を基調としていましたが、維新から敗戦を経て二元論的な世界観が台頭)の中で生活していることも手伝って、花鳥風月を愛でる風流心や自然の繊細な表情を感じとる鋭敏な感受性を失って、何の潤いもない殺伐とした「活字」だけが氾濫する辟易とした世界に晒されている自分を感じます。古の和歌に触れてしみじみと思いますが、心を洗い流し、心を研ぎ澄ませ、心を満たしていく「言葉」を取り戻さなければならないのではないかと自戒の念を込めて痛感しています。

万葉集と和歌について書く予定です。続く。



東京の新デートスポット、真間の継橋ならぬ平成の継橋とも言うべき東京ゲートブリッジ。東京都内に勤務されている方は、突如、オフィスビルからライトアップされたブリッジが見えるようになったと話題になったと思いますが、葛西方面から羽田方面に抜ける一般道路に掛るブリッジ(通行料無料)で、その名のとおり東京湾を入出港する船はこのブリッジの下を通って入出港します。若洲海浜公園からブリッジの遊歩道へ上がることができ、夜は東京の夜景を楽しむことができます。夜になるとカップルの姿も多く、ブリッジの上(東京中の人が見ている前)で永遠の愛を誓うなんてお洒落じゃありませんか ブリッジの上で東京の夜景をバックに2人のシルエットが重なり合い溶けて行くような写真を撮影してみたいと思っていますが、我こそはと思うカップルが居たらご一報下さい..(*^^*) なお、東京ゲートブリッジの近くにあるレインボーブリッジの下を豪華客船が通る日がありますので、カメラを片手に豪華客船の見物も面白いかもしれません。

さて、ブログの枕が長くなりましたが、そろそろ本題を書きたいと思います。

香道について書く予定です。続く。

香清話―香に聞く、香を聞く

香清話―香に聞く、香を聞く

◆僕がご贔屓にしている東京にあるお香専門店
http://www.shoyeido.co.jp/menu.html

◆僕がご贔屓にしている千葉にあるお香専門店
http://www.shisenkobo.co.jp/

◆おまけ
仲秋の名月に因んで、NHKみんなのうたの曲「月のワルツ」(湯川れい子作詞/諫山実生作曲/安部潤編曲)のジャズテイストの演奏をアップしておきます。グラスを片手にライブに酔いしれてみたい気分にさせられます。

月に因んでもう1曲。シューベルト歌曲「月に寄せて」(D193)をアップしておきます。この曲の歌詞と竹取物語かぐや姫に求婚した貴公子たちの想いを遂げられなかった切ない心情とが重なって心に染みてくるようです。

おまけのおまけ。この懐かしい曲を聴くと青春の甘酸っぱい想い出がよみがえってきます。映画「竹取物語」の主題歌にも使われていた曲、シカゴの「素直になれなくて」(原題:Hard to Say I'm Sorry)を貼っておきます。今、あの人が幸せでいることを祈って..。

松竹歌舞伎アーカイブス〜昭和の名舞台〜「与話情浮名横櫛」

【題名】松竹歌舞伎アーカイブス〜昭和の名舞台〜
【演目】与話情浮名横櫛
     木更津海岸見染の場
     源氏店の場
【出演】<与三郎>市川團十郎
    <お富>坂東玉三郎
    <赤間源左衛門>中村勘五郎(仲蔵)
    <和泉屋大番頭多左衛門>市川左團次
    <和泉屋番頭藤八>坂東弥五郎 
    <蝙蝠安>五世片岡市蔵
【収録】歌舞伎座 昭和63年12月
【放送】衛星劇場(平成26年7月18日16時〜)
【感想】
前回に続いて、千葉に所縁のある歌舞伎の世話物人気演目の1つ「しがねぇ恋の情けが仇。命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から・・・(中略)・・・死んだと思ったお富さん、無事で暮らしていようとは、お釈迦様でも気がつくめぇ」の名台詞で有名な「与話情浮名横櫛」をご紹介します。なお、この名台詞を題材にして創られた歌謡曲お富さん」が昭和29年にヒットしていますが、その軽快なメロディーは一度耳に憑いたら離れず頭の中をグルグルと回り始めてしまう妙な親しみ易さがあります♪



上段左から、1〜2枚目:長唄家元、四代目芳村伊三郎(本名、中村大吉)の墓(千葉県東金市)と親分、山本源太左衛門の墓(千葉県東金市)。与話情浮名横櫛は、千葉であった実話を基に創作されたもので、後年に長唄の家元の名跡である四代目芳村伊三郎を襲名した中村大吉(千葉県大網白里市出身、与三郎のモデル)と山本源太左衛門の女房きち(千葉県茂原市出身、お富のモデル)が不倫家系に陥って木更津に駆け落ちしますが、子分衆に後を追われて中村大吉は全身を切りつけられます。後年、その傷跡を見た八代目市川團十郎がこの実話を基に三世瀬川如皐に脚本を書かせたものです。3〜4枚目:中村大吉の墓がある最福寺徳川家康と日善上人の記念碑。来年(2015年)没後400年を向える徳川家康ですが、東金は将軍家の鷹狩地で八鶴湖を挟んで最福寺の対岸に徳川家康が鷹狩に訪れた際に宿泊した御殿跡(現在は本漸寺)があり、徳川家康が手植えした蜜柑の木があります。
下段左から、1枚目:光明寺(千葉県木更津市)にある与三郎の墓。与三郎の墓には片岡仁左衛門さん及び坂東玉三郎さんが建てた卒塔婆(既に経文と施主は判読不可)があります。2枚目:選擇寺(千葉県木更津市)にある蝙蝠安の墓。3枚目:AQUA木更津にある浮世絵壁画。写真は三代目歌川豊国作「五節句之内 弥生 与三郎 お富」と歌川広重作「富嶽三十六景 上総木更津海上」ですが、木更津駅周辺には木更津に所縁のある浮世絵壁画が展示されています。4枚目:木更津甚句木更津甚句の歌詞の4番で木更津にある證誠寺の狸囃子伝説を歌っている部分の音源をアップしておきます。)を記念して鳥居崎海浜公園(千葉県木更津市)にある芸妓のモニュメント(向って右側が若福)。江戸時代(安政年間)の落語家(千葉県木更津市出身)木更津亭柳勢が木更津甚句を高座で歌って人気を博して江戸界隈で流行し、更に木更津から上京した芸妓の若福がお座敷で木更津甚句を歌ったところ江戸の花柳界で話題となり、それが全国に広まって大流行しました。歌詞の中の“ヤッサイ、モッサイ”とは、木更津船の船頭が「そこをどけ、そこを通せ」という意味の掛け声からとったものだとか。5枚目:成就寺(千葉県木更津市)にある芸妓の若福の墓。なお、京都の花街を舞台に舞妓になるために頑張る少女の成長物語を描いたフィクション映画「舞妓はレディ」が近く公開になりますので、ご興味のある方はどうぞ。因みに、「舞妓」とは概ね20歳未満の芸妓見習いのことで華やかな着物で着飾っていますが、「芸妓」は立方と地方に分かれて、立方は少し落ち着いた着物を着用して舞を担当し、地方は普通の和装で歌や三味線を担当します。偶には粋にお座敷遊びと洒落込んで男を磨いてみませんか。

【ライブびゅ〜イング】
 切られ与三郎(木更津〜品川〜東金)〜歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛」ゆかりの地〜

黙阿弥と瀬川如皐について書く予定です。続く。



上段左から、1枚目:鳥居崎海浜公園(千葉県木更津市)にある見染めの松(別称、袖掛けの松)。江戸の大店の若旦那である与三郎が潮干狩りに来てお富に出会い見染めた場所です。与三郎とお富が着物の袖を松の枝にかけて儚い恋を語ったことから「袖掛けの松」とも言われています。2枚目:恋人の聖地。与三郎とお富に肖って鳥居崎海浜公園は恋人の聖地と言われていいますが、恋人をおんぶして中の島大橋(バックに写っている赤い橋)を渡ると恋が叶うと言われています。なお、狸囃子の童謡で有名な證誠寺(千葉県木更津市)が近くにあるので狸のモニュメントが使われているのだと思います。世上、メス狸は化けるのが上手いと言われていますので、オス狸は騙されないように気をつけなければなりますまい。3枚目:成就寺(千葉県木更津市)にある与三郎とお富が逢瀬を楽しんだ旅館の主の墓。与三郎はここでお富と逢い引きしているところを襲われて全身を切りつけられます。4枚目:“玄冶店”(東京都中央区日本橋人形町)の碑。与三郎とお富が再開する“源氏店”(鎌倉にあるという設定)は、徳川家の御典医であった岡本玄冶の拝領屋敷一帯を指した地名“玄冶店”に由来して名付けられたと言われています。因みに、先日のブログ記事でも触れましたが、“玄冶店”にある料亭「濱田屋」に芸妓の貞奴がおり、後に川上音二郎と結婚して一座と渡仏しますが、その舞台等がプッチーニドビュッシーピカソ等に多大な影響を与えています。なお、当時、パリ社交界で流行した着物風の“ヤッコドレス”は川上貞奴の影響によるもので、“ヤッコ”とは彼女の名前の一字“奴”に由来しています。現在、世田谷美術館で「ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展」が開催されていますので、ご興味のある方はお運び下さい。
下段左から、1枚目:天妙国寺(東京都港区品川)にある長唄家元四代目芳村伊三郎(与三郎のモデル)の墓(向って右側)と新内節中興の祖、三代目鶴賀新内の墓(向って左側)。墓所での写真撮影は入り組んだ隘路での撮影で他の墓碑名が写り込まないようなアングルにしなければならないので本当に難しいです。なお、天妙国寺には徳川家康豊臣秀吉の命で江戸へ国替えになった際に宿泊しています。2枚目:天妙国寺にある一刀流剣術の祖、伊藤一刀斎の墓で、墓標に剣を下段に構える姿が白く浮き上がっていますが、これは自然にできたものだそうです。死してなお構えを解かないとは、これぞ剣豪の心意気です。“切られ与三郎の墓”切られ与三郎の墓と同じところに剣豪の墓があるのは皮肉ですが、柳生新陰流と共に徳川将軍家の剣術指南役になった小野派一刀流の開祖、小野忠明(千葉県南房総市出身)は伊藤一刀斎の弟子です。3枚目:天妙国寺にある浅草遠州流(華道)を興した本松斎一得の墓。八代将軍徳川吉宗公に作品を認められ、松平の“松”の一字を与えられて信享齋一朝を本松斎一得と改めまています。4枚目:天妙国寺にある浪花節浪曲)中興の祖、桃中軒雲右衛門の墓。市川雷蔵の若親分シリーズ三波春夫さんが桃中軒雲右衛門役を好演されておられますが、桃中軒雲右衛門は前幕で覆った立ち机を前にした口演、陰三味線というスタイルを考案し、琵琶や(今年創始200周年を向えた)清元の節調を採り入れて荘重豪快な節を創始して人気を博しました。なお、桃中軒雲右衛門の代表作として、先日のブログ記事でもご紹介した「佐倉宗五郎」や「赤穂義士本伝」などがあります。5枚目:鳶頭のお祭り左七の墓碑(桃中軒雲右衛門の墓の道標の横にある梵鐘型の墓碑)。四世鶴屋南北作「心謎解色糸」に登場する鳶の頭です。天妙国寺には、長唄、新内、華道、浪曲、そして剣術と華々しい歴史上の人物の墓碑が並んでいます。


与話情浮名横櫛に出て来る鎌倉の“源氏店”と徳川家康没後400年に因んで、能「七騎落ち」のその後という切り口で源頼朝と千葉について書く予定です。続く。




上段左から、1〜2枚目:源頼朝の上陸地碑と勝山海岸(浮島の左側に薄っすらと見えている山峰は伊豆大島です)。石橋山の合戦で平家方に敗れた源頼朝ら主従7騎は1180年8月28日に神奈川県足柄下郡真鶴町岩(岩海岸)から小船で逃れ、翌29日に千葉県安房郡居南町竜島(勝山海岸)へ漂着します(地図を見ると分かりますが、真鶴から安房(勝山)まではほぼ一直線で、南総里見八犬伝の舞台になった富山を目指して舟を漕いだと言われています。)。吾妻鏡には「二十九日、武衛(頼朝)、(土肥)実平を相具し、扁舟に棹さし安房国平北群猟島に着かしめ給う。北条殿以下人々これを拝迎す」と記されており、先着していた北条時政や三浦義澄らと合流し、ひとまず安西景益の平松城(千葉県南房総市)へ入って味方を募り再起を図ったと言われています。源氏再興を期して洲崎神社(千葉県館山市)や丸御厨(千葉県南房総市)などへ足を運んだと言われており、房総半島には源頼朝に所縁の地が多く残されています。なお、千葉県安房鋸南町は、浮世絵の祖、菱川師宣の生誕地でもあります。3枚目:逆さ柿(千葉県南房総市)。源頼朝が柿の枝で作った鞭を逆さに地にさして“我わが願いをして成らしめば、この枝かならず芽生えよ”と念じた言われています。なお、この近傍に南総里見八犬伝の舞台になった滝田城と八房の生誕地があります。4枚目:源頼朝が称賛したとされるソテツ(千葉県南房総市)。なお、この近傍に南総里見八犬伝の舞台になった伏姫籠穴があります。5枚目:千葉県安房郡居南町竜島(勝山海岸)から三浦半島の城ケ島大橋を撮影。泳いで渡る人もいるそうです(ウソ)。
下段左から、1〜3枚目:源頼朝が源氏再興を祈願した洲崎神社、その境内にある源頼朝が笠を掛けたと言われている笠掛の松(跡地)と晴れていれば富士山や大島を見渡せる富士見鳥居。この近傍に南総里見八犬伝で伏姫に8つの珠を授けた役行者の石造が祀られている岩屋(養老寺)があります。4枚目:矢尻の井戸(千葉県館山市)。源頼朝が飲み水がないため、岩間に矢尻を突き立てたところ清水が湧いたという井戸跡です。なお、その傍らに源頼朝洲崎神社に源氏再興を祈願して詠んだ「源は おなじ流れぞ 岩清水 せきあげてたべ 雲の上まで」という歌碑があります。5枚目:洲崎灯台から富津岬方面を撮影。写真中央に見える対岸の尖った山が富山になります。なお、矢尻の井戸の近くに源頼朝上陸碑がありますが、源平盛衰記には「安房国洲崎へこそ漕ぎ渡り拾いけれ」と記され、また 義経記には「二十八日の夕暮に安房国洲の崎というところに御船を馳せ上げ」と記されていますので、富山を目指した源頼朝主従は潮に流されて28日夜に一旦は千葉県館山市洲崎へ漂着し、再び翌29日に舟で富山へ向かった可能性も考えられます。因みに、吉川英治さんの「新・平家物語」では洲崎上陸説を採用しています。


さて、ブログの枕が長くなりましたが、そろそろ本題を書きたいと思います。


感想を書きます。続く。


なお、河竹黙阿弥は、ライバルだった瀬川如皐(3世)の「与話情浮名横櫛」(通称、切られ与三郎)のパロディーとして、お富と与三郎を入れ替えて、お富が傷だらけになる「處女翫浮名横櫛」(通称、切られお富)の脚本を書いていますが、9月17日(水)16時〜衛星劇場(CS)で放送されますのでご興味がある方はいかが。

◆おまけ
日本が世界に誇るジャズピアニストの穐吉敏子さんが木更津甚句をジャズアレンジした曲です。かなりイケています♪

平成24年新春浅草歌舞伎「南総里見八犬伝」

【題名】平成24年新春浅草歌舞伎
【演目】南総里見八犬伝
     富山山中の場
     大塚村庄屋蟇六内の場
     円塚山の場
【出演】<庄屋蟇六/犬山道節>市川亀治郎 
    <金碗大輔/簸上宮六>市川男女蔵
    <網干左母二郎>中村亀鶴
    <犬塚信乃>中村歌昇
    <犬村大角> 坂東巳之助
    <蟇六娘浜路>中村壱太郎
    <犬田小文吾>中村種之助
    <犬坂毛野>中村米吉
    <犬江親兵衛>中村隼人
    <下男額蔵実は犬川荘助>坂東薪車
    <伏姫>市川春猿
    <蟇六女房亀篠>坂東竹三郎
    <犬飼現八>片岡愛之助
【収録】浅草公会堂 平成24年1月19日11時00分〜
【放送】WOWOW(平成24年2月25日18時〜)
【感想】
今年刊行200年を向えた滝沢(曲亭)馬琴の長編読本「南総里見八犬伝」を採り上げてみたいと思います。先日、“佐倉義民伝”(東山桜荘子)を紹介しましたが、次回に紹介する“切られ与三郎”(与話情浮名横櫛)と併せて、千葉に所縁のある歌舞伎の人気演目の1つです。



上段左から、1〜2枚目:里見家のお家騒動(1533年、天文の内乱)で敗れた里見義豊勢の最後の拠点となった滝田城跡の本丸跡。物語はこの滝田城を居城とする里見義実が安西影連に攻められるところから始まりますので、ここが南総里見八犬伝発祥の地とされています。3〜4枚目:遠見山の山頂にある里見義実の愛犬八房と伏姫のモニュメント及び朱色の展望台。物語では里見義実が八房に対して安西影連を討ち取れば伏姫を娶らすと約束し、これに従って八房が安西影連の首級を持ち返って伏姫を富山へ連れ去りますが、その場面の彫像です。5枚目:養老寺の開祖、役行者の石造が祀られている岩屋。物語では伏姫が役行者から108個の数珠を授けられますが、そのうち8つの珠に「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の文字が浮かんでいました。
下段左から、1〜3枚目:伏姫籠穴(1枚目の右上にあるのは犬塚)。籠穴の前に設えられた八角形の踊り場で加藤洋一さんの歌劇「伏姫」の初演が行われています。物語では八房に連れ去られた伏姫が籠っていた洞穴で、ここで伏姫が最後を迎えたときに8つの珠が飛び散り八犬士が誕生します。4枚目:富山山頂にある八犬士終焉の地。細く曲がりくねった急斜面の山道を車で山頂まで登っていきましたが、運転に自信がある方でも歩いて登られることをお勧めします。発見士きどりで気前よく車で登っていきましたが、後悔しきりの難所続きで僕にとっても終焉の地になってしまうところでした..。物語では里見家の危機を救った八犬士は里見義実の八人の孫娘をそれぞれ娶り、その後、子供達に家督を譲ってからは富山山中へ姿を隠して仙人になるという結末です。


南総里見八犬伝の受容について書きます。続く。




上段左から、1〜2枚目:里見頼義が築城した館山城とその天守閣から臨む館山湾。物語では滝田城の里見義実を攻め、八房に討ち取られた安西影連の居城です。3枚目:館山城にある八賢士の墓。里見忠義は1614年に安房9万石から伯耆鳥取県倉吉市)3万石へ国替えとなり、里見忠義に最後まで仕え、主人の後を追って殉死した8人の家臣達の法名に“忠義”を意味する「賢」の文字がついていることから“八賢士”と呼ばれるようになり、これが物語の“八犬士”のモデルになったと言われています。昔から犬は主人への忠義に厚く、八賢士の忠義に掛けて「賢」を「犬」に準えて物語を創ったのかもしれません。また、里見忠義の名前に対するオマージュにもなっています。丁度、今年は南総里見八犬伝刊行200年に加えて、里見忠義が伯耆へ国替えになってから400年にあたる記念年です。4枚目:館山城に植えられている里見桜。館山城は桜の名所としても知られてしますが、この里見桜は鳥取県倉吉市群馬県高崎市(里見氏は上野国桑名町の出身)及び千葉県館山市の有志で植樹したものです。写真は季節外れの枯れ木になっていますが、西行の和歌にあるように春を忘れて咲かない桜はありませんので来年の春まで夢を咲かせて待ちたいと思います。「今さらに 春を忘るる花もあらじ やすく待ちつつ 今日も暮らさむ」(山家集西行
下段左から、1〜3枚目:里見義堯と里見義豊とが争った犬掛合戦の古戦場跡、里見義豊の墓所、八房の生誕地にある八房と狸の塚。物語では八房は狸に育てられたという設定になっています。4枚目:館山城内にある八犬伝博物館に陳列されている南総里見八犬伝の読本。


里見家について書きます。安房一帯を平定し、里見家の内紛や北条、武田、上杉、織田、豊臣、徳川や佐竹といった有力な戦国大名の中で乱世を勝ち抜いてきた里見家の波乱に満ちた家史はドラマ性に富んでおり、NHKの大河ドラマで採り上げられることは間違いないでしょう。続く。




上段左から、1〜2枚目:柳生新陰流と並んで徳川将軍家の剣術指南役であった小野派一刀流の開祖、小野忠明の生誕地(千葉県南房総市)。南総里見八犬伝発祥の地であり物語の舞台にもなっている滝田城跡(千葉県南房総市)の直ぐ近くにあり、その墓碑は永興寺(千葉県成田市)にあります。物語では犬塚信乃が剣の達人、赤岩一角先生から剣術指南を受けていたという設定ですが、ここから着想を得たのかもしれません。因みに、小野派一刀流は山岡鉄舟を輩出し、坂本龍馬が江戸留学で門弟となった北辰一刀流北辰一刀流の始祖、千葉周作は千葉氏の末裔)が分派しています。また、千葉には極真空手発祥の地があり、文武共に優れた土地柄と言えます。3〜4枚目:偶々(“玉”の掛詞ではありません❤)ですが、JR内房線木更津駅西口駅前にある狸のオブジェ。物語では八百比丘尼妙椿は里見義実に殺された玉梓の怨霊が八房を育てた狸に憑りついて化身したものという設定になっていますが(八房も里見義実に殺されていますので、玉梓の怨霊と八房の育ての親である狸の怨念が八百比丘尼妙椿に化身したと言えるかもしれません。)、近傍にある狸囃子の童謡で有名な證誠寺(千葉県木更津市)の狸囃子伝説に着想を得たのかもしれません。なお、この狸ほど立派ではありませんが、僕も心には8つの珠(徳)を、亦には2つの珠(玉)を持っています❤❤ 因みに、俗謡「たんたんたぬき」は米国のバプテスト教会ロバート・ローリー牧師が創った讃美歌の替え歌だそうで、些か不慎ではあります。
下段左から、1〜4枚目:證誠寺の境内と童謡碑、狸塚。

滝沢馬琴の長編読本「南総里見八犬伝」刊行200年を記念して、色々な公演が企画されています。正月に国立劇場2015初春歌舞伎公演「通し狂言 南総里見八犬伝」(五幕九場)が開催されましたが、今後も以下のような公演が予定されています。

【お知らせⅠ】
2014年8月30日(土)に道の駅ローズマリー公園内のシアターホールにおいて歌劇「伏姫」(出演:ソプラノ加藤千枝さん、バリトン加藤洋一さんほか)が公演されます。滝沢秀明さんが主演したTVドラマ「里見八犬伝」や薬師丸ひろ子さんが主演した映画「里見八犬伝」でご覧になられたことがある方も多いと思いますが、ファンタジックな舞台に仕上げられているようなのでお楽しみに!

【お知らせⅡ】
2014年10月31日(金)から新国立劇場(中劇場)及び梅田芸術劇場等で脚本家の鈴木哲也さんが書き下ろし、映画監督の深作健太さん(御尊父は映画「里見八犬伝」の監督、故・深作欣二さん)が演出を努める舞台「里見八犬伝」が公演されます。なお、12月6日(土)の千穐楽南総里見八犬伝の所縁の地である千葉県南総文化ホールで公演されます。

◆夏休みの課題図書が終わっておらず、泡(“安房”の掛詞)を噴いているお子様向けに。原作の面白さそのままに、凡そ30分で南総里見八犬伝の物語の世界を味わえます。8つの珠に込められた儒教の教え“徳”を中心に感想文をまとめると先生のハートをワシヅカミにできるかもしれません。

マンガ「南総里見八犬伝」(電子書籍)

◆脱線ついでに、大脱線!地元で話題騒然!!南総里見八犬伝フリークには絶対に見逃せない伏姫のご当地キティ―が登場しました。


さて、ブログの枕が長くなりましたが、そろそろ本題を書きたいと思います。


感想を書きます。続く。



http://www.kabuki-bito.jp/theaters/other/2012/01/post_82-Printout.html

◆おまけ
麗しき里見の姫君、ジャズヴァイオリニストの里見紀子さんが演奏されるラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」のジャズアレンジバージョン。里見紀子さんは横浜市金沢区出身だそうですが、里見家との所縁があるのか否かは分かりません。もう一人の里見の姫君、伏姫へのオマージュとして亡き王女のためのパヴァーヌをアップしておきます。

ザルツブルク音楽祭「聴くことの学校」(全3日)

【題名】ザルツブルク音楽祭「聴くことの学校」(全3日)
【講題】現象による響き(1日目)
    指揮とオーケストラ(2日目)
    響きと構造(3日目)
【出演】ダニエル・バレンボイム(全3日)
    ロビン・ティチアーティ(2日目)
    ピエール・ブーレーズ(1日目)
【演奏】ウェスト=イースト・ディヴァン・オーケストラ(全3日)   
【演目】ベートーヴェン レオノーレ序曲第3番 Op.72a(1日目、2日目)
    シェーンベルク 管弦楽のための変奏曲 Op.31(1日目)
    バルトーク 4つの管弦楽曲 Op.12(3日目)
【収録】2007年8月 ザルツブルク大学講堂(全3日)
【感想】
今日8月8日は「ピアノの日」(ピアノの鍵盤数が88鍵なので)だそうです。1700年頃にクリストフォリによってピアノ(当時の名称はクラビチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテで、音の強弱を出すことの出来るチェンバロの意味)が発明されたときの鍵盤数は54鍵しかありませんでしたが、それから約200年を経て88鍵まで増え、それ以来、ピアノの鍵盤数は88鍵で定着しています。これは人間の耳が音程として聴き分けられる音域が約20ヘルツから約4000ヘルツまでなので、これ以上、ピアノの鍵盤数を増やしても人間にはノイズとしてしか聴き取れないことが理由のようです。ピアノという楽器の発展史から、作曲家の表現意欲とピアノという楽器の改良との関係、ピアノという楽器の改良とピアノ曲の表現可能性の拡大、更にそれによる作曲家の作風の変化との関係等を調べてみると、これまで聴き馴れてきたはずのピアノ曲の異なった魅力(とりわけモダンピアノとピリオドピアノ(作曲当時に使用されていた楽器と同じタイプの楽器)で演奏した場合に同じ曲から感じられる魅力や感興の違い、ピアノの発展史の過程でモダンピアノと比べてピリオドピアノが内包していた機能的制約と作曲法や演奏法との関係を踏まえてその曲が本来持っている等身大の魅力を再認識する新鮮な発見と面白味など)を感得し、感動を新たにする契機になるかもしれません。以下に参考図書をご紹介しておきます。なお、浜松市楽器博物館にはピアノをはじめとして色々な年代の楽器が展示されていますので、お子さんがいらっしゃる方は夏休みの自由研究で訪れてみるのも良いかもしれません。色々な年代の楽器の実物(レプリカ)を見ながらそれらの発生史、発展史を紐解いていけるので興味深いです。

カラー図解 ピアノの歴史---作曲家が愛した、当時のピアノで奏でるCD付

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ピアノはいつピアノになったか? (阪大リーブル001)【CD付】

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上段左から、1枚目:金谷方面から「東京湾観音」(千葉県富津市)の遠景を撮影。東京湾観音は高さ56m(20階建て相当)ですが、「大船観音」(神奈川県大船市)が25m(胸像)で、僕が1m80cm、ガンダムが18m、ウルトラマンが40m、キングコングが45mなので如何に大きいかが分かります。「牛久大仏」(茨城県牛久市)が高さ120m(世界3位)なので、関東の仏像ではこれに次ぐ大きさになります。参考になりませんがご参考まで。2枚目:東京湾観音の中景を撮影。手前の樹木と対比すると、その大きさが分かると思います。3枚目:東京湾観音の蓮台の下にあるミニチュアの東京湾観音です。このミニチュアは僕の身長と同じくらいの大きさなので、如何に東京湾観音が大きいかが分かると思います。4枚目:東京湾観音の近景を撮影。斜陽をバックに撮影しましたが、まるで救世観音の後光(後光とは仏様がその徳の高さから自然と体から放射される光のことを意味しますが、頭の後ろにある後光を「頭光」、身体の後ろにある後光を「身光」と言います。)のようです。5枚目:東京湾観音の内部に安置されているマリア観音。江戸時代の禁教令で弾圧されたキリシタン聖母マリア観音菩薩に仕立て秘かにキリスト教を信仰した名残です。なお、東京湾観音の内部は螺旋階段になっていて頭上まで登れるようになっていますが、下から「天部」(古代インドの神々から生まれた七福神帝釈天、韋駄天、摩利支天など)→「明王」(如来が姿を変えて人々を救う姿)→「菩薩」(お釈迦様が修行中だった頃の姿)→「如来」(お釈迦様が悟りを開いた後の姿)の順番に23体の仏像が安置されていて仏界が表現されています。
下段左から、1枚目:東京湾観音の腕(13階建て相当)から金谷港方面を撮影。「湘南平」(神奈川県平塚市)や「魚見塚展望台」(千葉県鴨川市)では永遠の恋を誓ってカップルの名前を書いた南京錠を鎖に付けると二人の仲は固く結ばれて恋が成就するという伝説がありますが、それらと同様に東京湾観音にもカップルの名前が刻まれた南京錠が❤ 2枚目:東京湾観音の頭上(19階建て相当)の天界から三浦半島方面の地上界を撮影。海風が強いと呼吸が困難になるほどの高所です。3枚目:東京湾観音の耳(17階建て相当)から富津岬方面を撮影。4枚目:大佐和海岸(富津岬近く)に1人佇み、メランコリックに夕陽を撮影。


ブログの枕として仏教について書きます。続く。




上段左から、1枚目:東京湾フェリーの金谷港フェリーターミナルの駐車場に設置されている恋人の聖地「幸せの鐘」です。夕暮れ時にカップルで鐘を鳴らすと永遠の恋が成就するという伝説があります❤ 鐘の下に浮ぶのが東京湾フェリーの船影で、海の彼方に薄っすらと見えるのが三浦半島です。東京湾アクアラインができましたが、ペリーが来航した東京湾浦賀水道)を遊覧する船旅も風情があって良いものです。2枚目:鋸山(千葉県安房郡)の稜線。江戸時代から良質な房州石の産地として知られ、石切り場の跡がノコギリの歯形のように見えることから命名されたそうです。江戸時代の人はどのようにしてあれだけの高地であれだけの巨大な岩肌から石を切り出し下界まで運んだのか、その遺構から石切り職人達の壮絶な生き様が偲ばれます。鋸山の上空に“白夜月”(日没に見える月のこと、日出に見える月は“有明の月”)と成田国際空港へ向う飛行機が見えます。写真をクリックしないと小さくて見え難いかもしれませんが、僕の好きな漢詩山中月」(眞山民)を添えておきます。3枚目:鋸山のロープウェイ乗り場から東京湾浦賀水道)を一望。対岸に見えるのが三浦半島です。4枚目:鋸山の山頂にある石切り場跡、通称「地獄のぞき」。あの先端(親子が写っているところ)まで行って写真を撮ろうとアプローチしてみましたが、あの根元あたり(先端まで下りられず躊躇している3人の姿が写っているあたり)で腰が抜けて断念。お好きな方はどうぞ。
下段左から、1枚目〜4枚目:日本の棚田百選に認定されている「大山千枚田」(千葉県鴨川市)の棚田です。正しく“神のキャンバス”と形容したくなるような心を奪われる美しさです。棚田は“小さなダム”と言われるように保水機能を持っていますが、棚田に水が張られる田植えの時期(ゴールデンウィーク頃と思われます)も美しいので、その時期を狙って再訪してみたいと思っています。女優の井上真央さんが主演され、実話を元に作られた映画「八日目の蝉」で棚田の夜祭りシーン(香川県の中山千枚田)が使われていましたが、大山千枚田の夜祭りは2014年10月17日(金)〜19日(日)に予定されていますので、ライトアップされた棚田の幻想的な夜景をお楽しみあれ。


ブログの枕として米について書きます。続く。


さて、ブログの枕が長くなりましたが、そろそろ本題を書きたいと思います。


概要と感想を書きます。続く。


◆おまけ
「ピアノの日」を記念して、昨年、ヤマハで開催された「むかしむかしの素敵なピアノ 〜19世紀に咲いた華〜』展ピアニストの小倉貴久子さんがクリストフォリの発明したピアノ(クラビチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ)のレプリカを実演された際の模様がYouTubeにアップされていたのでご紹介しておきます。

東京湾観音像に因んで観音経をアップしておきます。今年の正月に日蓮宗大本山清澄寺」(千葉県鴨川市)に御来光を拝みに行った際に日蓮宗の高僧と檀家の皆さんが団扇太鼓を打ち鳴らしながら一斉に題目を唱えられていましたが、澄んだ声で唱和されるお経は信仰心に貫かれた揺るぎない信念のようなものを感じさせる迫力があり(清澄山から臨む峰々に木霊し、宛ら十万浄土に響き渡るような唱題は生で聴くと圧倒されます。是非、ご一聴あれ。)、鳥肌を覚えたことが印象深く思い出されます。以前、野村萬斎さんがMANSAI@解体新書で三番叟について語られた中で「揉之段で肉体を極限の状態まで持って行って体を空洞化させ、鈴之舞で面をかけることで自我を消し去る感覚にな」り、これによって「依代」としての「身体」が出現するという趣旨のことを仰っていましたが、何時間にも亘り隙のないリズムに合わせてお経を唱える唱題行にも全く同じようなことが言えるかもしれません。最近は声明(キリスト教の讃美歌に相当する仏教音楽で、お経をリズム(節)やメロディー(抑揚)に合わせて唱えること)のコンサートも盛んで、クラシック音楽とコラボレーションした演奏会も行われるようになりましたので、信仰・修行としての仏教音楽に加えて芸術としての仏教音楽を見直してみるのも面白いかもしれません。

25年目の弦楽四重奏(原題:A Late Quartet)

【題名】25年目の弦楽四重奏(原題:A Late Quartet)
【監督】ヤーロン・ジルバーマン
【脚本】ヤーロン・ジルバーマン
【撮影】フレデリック・エルムス
【美術】ジョン・キャサーダ
【衣装】ジョセフ・G・オーリシ
【音楽】アンジェロ・バダラメンティ
【出演】<ロバート・ゲルバート>フィリップ・シーモア・ホフマン
    <ピーター・ミッチェル>クリストファー・ウォーケン
    <ジュリエット・ゲルバート>キャサリン・キーナー
    <ダニエル・ラーナー>マーク・イバニール
【制作】2012年
【感想】ネタバレ注意!
今年の「土用の丑の日」は7月29日でしたが、そもそも「土用」とは暦の立春立夏、立秋、立冬の18日前の期間のことを言い、その期間のうち暦の干支が「丑の日」を「土用の丑の日」と言います(2014年は8月7日が立秋なので、その18日前の期間のうち丑の日は7月29日のみとなります。この期間で2回目の丑の日を二の丑と言いますが、今年は二の丑はありません。)。何故、「土用の丑の日」に鰻を食べるようになったのかと言えば、江戸時代の発明家である平賀源内が鰻屋から商売繁盛の秘訣について相談を受けたところ、当時、「丑の日」には「う」のつくものを食べると夏負けしないという言い伝えがあったことから(万葉集三十六歌仙の1人、大伴家持が夏の鰻に託けて皮肉交じりに毒花を咲かせている和歌(ざれ歌)二首が載っていますが、昔から日本人は夏バテ対策に鰻を食していたようです。)、それに肖って「丑の日には鰻を食べよう」という広告を軒先に貼ったところ商売が大繁盛したことに由来しています。僕の自宅近くには印旛沼(千葉県佐倉市印西市成田市)がありますが、テレビ東京の人気番組「出没アド街ック天国」でも紹介されているとおり印旛沼は鰻の名産地としても知られ、印旛沼周辺には鰻屋の名店が軒を並べています。その印旛沼の湖畔には歌舞伎の演目「東山桜荘子(別名、東山殿花王彩幕又は返咲桜草子)」(通称、佐倉義民伝又は佐倉宗吾)でお馴染みで、数多くの浮世絵が作られ、講談や浪花節にも採り上げられる佐倉惣五郎伝説に登場する木内惣五郎(通称、佐倉宗吾)と甚兵衛(任侠の渡し守)の縁の地である甚兵衛公園日本の名松百選)と麻賀多神社(関東一の大杉とそこから歩いて直ぐのところにある宗吾旧宅、そして近隣にある東勝寺の宗吾霊堂)があります。また、近くには、この一帯を領地としていた佐倉藩居城の佐倉城址日本の名城百選)があります。因みに、歌舞伎役者の(故)中村勘三郎さんと演出家の串田和美さんコクーン歌舞伎で「佐倉義民傳」を公演された際に宗吾旧宅や宗吾霊堂を訪れています。
http://www.kabuki-bito.jp/news/2010/05/_photo_75.html



上段左から、1枚目:佐倉惣五郎伝説に出てくる「甚兵衛渡し」の旧跡。佐倉藩領内の名主であった木内惣五郎が打ち続く凶作と重税に苦しむ農民を救うために1652年に上野寛永寺に参拝していた4代将軍徳川家綱に税の減免を直訴し、その願いは聞き届けられたものの当時は直訴は大罪なので処刑されたという実話。その木内惣五郎の江戸出府にあたり任侠の渡し守であった甚兵衛は禁制を破って船を出し惣五郎を送った後に印旛沼に身を投じたという悲話。昔の日本人は“義に生き”“義に死ぬ”実に潔く誇り高い国民性を持った民族だったんですね。2枚目:「甚兵衛渡し」の旧跡は「甚兵衛の森」とも呼ばれて日本の名松百選に数えられ、見事な枝振りの松の大木が生い茂っています。なお、千葉には、名水百選として弘法大師ゆかりの「熊野の清水」もありますのでお立ち寄りあれ。3枚目〜4枚目:推古天皇が西暦608年に創祀した神社で、境内には推古天皇の時代に植樹された関東一の大杉(樹齢約1400年)があり「清澄山の千年杉」(千葉県鴨川市)よりも樹齢は長いと言われています。但し、正確に言えば、関東では「中川の箒杉」(樹齢約2000年/神奈川県足柄上郡)及び「逆杉」(樹齢約1500年/栃木県那須郡)に次ぐ樹齢ではないかと思われます。いずれにしてもこれだけの大杉は滅多に拝めません。因みに、783年に上述の歌人大伴家持が勅使として麻賀多神社へ参拝し鳥居を寄進したそうですが(それ故なのか鳥居には菊の御紋があしらわれています。)、その際に印旛沼の鰻を食されたかもしれません。関東では鰻を背開きにして一旦蒸してから焼くので淡泊で柔らかいのが特徴なのに対し、関西では鰻を腹開きにして蒸さずに焼くのでパリッと香ばしいのが特徴ですが(一説に関東は武士の国なので縁起を担いで切腹をイメージさせない背開きを好んだとか、また一旦蒸すのは鰻の身を大きく見せて見栄を張りたい江戸っ子気質のためとか)、関東風の鰻は大伴家持はんのお口に召したのでしょうか。
下段左から、1枚目:柳家三亀松さんの都々逸に「鉄の鎖で繋いだ舟も、義理じゃ甚兵衛も鉈で切る」という佐倉義民伝からの一節がありますが、宗吾霊廟(東勝寺)のお土産屋さんでこの名台詞が刻まれた「徳利」(とっくり)を買ってきました。佐倉義民伝は木内惣五郎さんの「徳」と甚兵衛さんの「義理」から生まれた物語なので、「徳」と「(義)理」で「徳利(理)」とは洒落ています。宗吾霊廟(東勝寺)を訪れると、村民の身代りになって一命を賭し税の減免を直訴した木内惣五郎さんはこの地域一帯の方々から子々孫々に亘って愛され大切に祀られていることが伺われます。なお、木内惣五郎さんが江戸出府の際に妻子と袂別のための砌り水杯に用いた井戸が残されていますが、その追慕の情も「徳利」に込められているのかもしれません。2枚目:印旛沼湖畔に建つオランダ風車「リーフデ」(千葉県佐倉市)と風にたなびく田園風景(利根川下流の水郷地帯では秋の洪水を避けるために通常の出荷時期より早い9月に出荷される早場米が主流で、もう稲穂が頭を垂れています)。何故、僕が千葉をこよなく愛するのかと言えば、千葉には大地の豊かな恵みと両手を拡げても納まり切らない地を覆うような広い空があるからです。3枚目:陽光に輝く眩いばかりの印旛沼。4枚目:甚兵衛大橋と双子橋の間を流れる印旛排水路にかかる橋脚がない架け橋。高地の架け橋には橋脚がありませんが、これだけ大きなものは首都圏近傍では珍しいのでパシャリ。どうやって鉄骨を渡したのか不思議です。

▼佐倉義民伝を扱った作品
歌舞伎

文楽

浪花節

ところで、最近、フェイスブックを利用してC.W.ニコルさんと友達になりましたが、彼がフェイスブックを使って面白いメッセ―ジを色々と配信されています。先日は間伐した50年杉(国有林の杉木で、戦後の植林政策で人工的に植えられたものと思われます。)の年輪が徐々に細くなっている原因について、これまで適切な間伐を怠ってきたことにより森が荒れ十分な日光を浴びられずに木の発育が阻害されてきたためだと嘆いておられました。自然に触れて自然を身近に感じながら暮らしていると杉木も人間も同じで、ギスギスとした狭い森(人間社会、都会暮し)の中では真っ直ぐ大きな木(人間性)は育み難いのではないかと実感することが多いです。即ち、人間社会(都会暮し)の中で色々なものを消費し疲弊するばかり(人間が造った人口的な世界は“破壊”と“消費”を基調とするシステム)では小さく歪んだ人間性しか育まれず、自然の中で色々なものを感じ吸収して(神が創った自然の世界は“創造”と“再生”を基調とするシステム)こそ大きな視野で色々なものに真っ直ぐと向き合える人間性が育まれるような気がしてなりません。アスファルトばかりを眺めていても、そこから活き活きと力強く生きるための創造力のようなものはなかなか生まれて来ないような気がします。因みに、ラフマニノフは米国に亡命して何も作曲することができなくなった理由について「もう何年もライ麦のささやきも白樺のざわめきも聞いてない」と語っていますが、ロシアの大自然が彼の創作の源であり生きる原動力であったことが伺われます。なお、C.W.ニコルさんは健康な森を取り戻し守るために「C.W.ニコル・アファンの森財団」を設立し、様々な活動を行っています。彼の許可をとって記事を掲載している訳ではありませんが、一般の方の寄付も受け付けられているので心ある方のご協力をお願い致します。また、パソコンやスマホで音楽コンテンツをダウンロードして購入すると音楽制作者が受け取る印税の一部が寄付されるドネーションミュージックという運動があるらしく、坂本美雨さんの「はじまりはじまり」という曲が寄付されていますのでご紹介しておきます。僕はC.W.ニコルさんの考えや生き方に共感を覚えることが多いですが、未来の子供達のために何を残してあげられるのか、未来に責任を持つ大人の1人として考え、実行したいと常々思っています。
http://www.afan.or.jp/



上段左から、1枚目〜3枚目:地球が丸く見える展望台(千葉県銚子市)から夕陽をバックに屏風ヶ浦を一望(風力発電用の風車が林立しています。)、屏風ヶ浦を背にして犬吠埼の灯台、夕陽に頬を赤く染めて愛を語り合うカップル達❤ 地球が丸く見える展望台は銚子の突端にあり三方を海に囲まれ、まるで引っ繰り返したお皿(地球)のてっぺんに立っているかのように360度見渡す限り丸く見える絶景ビューを楽しめます。4枚目:地球が丸く見える展望台に隣接するカフェ「風のアトリエ」。ガラス張りの店内で屏風ヶ浦方面の絶景(夜景もムード満点)を楽しみながらお食事を楽しめます。地球が丸く見える展望台で愛を語り合った後にお洒落な雰囲気の店内で食事と洒落込めば舌もハートもトロけてしまうこと請け合いです。デートに最適❤
下段左から、1枚目〜4枚目:さくらの山公園(千葉県成田市)から撮影した成田国際空港に着陸するタイ国際航空のジャンボ旅客機の機影。さくらの山公園は成田国際空港のA滑走路(北側の着陸進入路)の手前にあるため、頭上スレスレを航空機が飛来していきます。何機見ても無料なので、懐の寂しいお父さんは家族を連れて海外旅行気分(だけ)を満喫されてみるのも良いかもしれません。直ぐ近くに酒々井プレミアムアウトレットがあるので、お父さんの威厳を示す意味でも僅かばかりの小金を散財してみるのも一興です。

閑話休題印旛沼の周辺を散策した後、少し足を伸ばして成田国際空港と地球が丸く見える展望台に立ち寄ることにしました。この夏、旅行の予定もなく慎ましやかに過ごしたいと考えている懐だけは涼しいお父さん達も、空港に行ってジェットエンジンの音を聞いているだけで旅行気分に浸れます。空港(又はその近隣)で飛行機を観るも良し、ターミナルビルでショッピングや食事に興じるも良し、旅行客から旅行気分を少しだけお裾分けして貰って懐に優しい楽しい休日を満喫するのも悪くありません。この夏、成田国際空港では和楽器や洋楽器の演奏など色々なイベントも行われていますので、それに併せて空港に遊びに行ってみるのも良いかもしれません。因みに、世界の空港の利用者数ランキング(2012年)によれば、羽田空港東京国際空港)の利用者数は世界4位で、成田国際空港の利用者数と合算すると約1億人/年となり世界1位の利用者数になります。この狭い国土を逆手にとって羽田空港東京国際空港)と成田国際空港との間をリニア新線で結んで国際ハブ空港にするという「羽田・成田リニア新線構想」がありますが、(これによる内需浮揚や経済効果を期待する以前の問題として)国家財政が逼迫するなか現実的なプランにはなり難いのかもしれません。なお、世界最高の空港ランキング「世界空港賞2013」には成田国際空港をはじめとして日本の空港が軒並みランクインしていますので、日本の空港は世界の中でも最も利用し易い快適な空港と言えます。


上段左から、1枚目〜3枚目:成田国際空港第2ターミナル4階にあるお土産屋さん「横山」「井和井」「おみやげ京成」「ちばぼうきょう」。流石は日本の玄関口たる成田国際空港のお土産屋さんでして、如何にも外国人が喜びそうな“the 日本情緒”が漂うお土産(雑貨等)が所狭しと並んでいるので目を飽きさせません。日本人の僕が見ても思わずほくそ笑んでしまうような心憎いアイディア商品も多く、寧ろ、日本人が忘れかけていた“Nippon”なるものを想い起こさせられるような発見と驚きに満ちています。夏休みに旅行の予定がない人も成田国際空港でショッピングがてら“Nippon”を感じてみるのも面白いかもしれません。因みに、本日、僕は南部風鈴(南部鉄器を使った風鈴を南部風鈴、ガラスを使った風鈴を江戸風鈴と言いますが、平成の御代になって一般家庭にエアコンが普及し風を音で感じて涼む風流心は廃れてしまいました。線香の香りも然りですが、平成の御代になって失われた音や香りは実に多いような気がします。)、玉簪(花挿し(かざし)が転じて簪(かんざし)になったそうですが、玉簪とは耳かきの付いた櫛に珊瑚や翡翠の玉を差した髪飾りのことです。女性の社会進出と共に髪を結う習慣は廃れて簪を挿している人もいませんが、西洋的な染色やパーマだけでなく日本的な髪飾りが見直されても良いような気がしています。)、甲冑タペストリーを購入しました。4枚目:リサイクルショップで見付けてきた盆栽台(丸窓の障子が開閉するので、朝昼夕で盆栽の色々な景色を楽しめます)に成田国際空港で買ってきた玉簪と甲冑をあしらってみました。玉簪の情緒と甲冑の風格のコントラストが盆栽台に表情を生んでいます。現在は松(稚木)の盆栽を飾っていますが、秋には紅葉の盆栽、冬にはクリスマスツリーと角松、春には梅の盆栽と季節感を小粋に演出できたらと思っています。5枚目:小鼓打ちの名手と評され、歌舞伎(かぶき踊り)を創始した出雲の阿国が小鼓を打つ絵柄のタペストリー(成田国際空港で購入)。
下段左から、1枚目〜4枚目:航空科学博物館の展望室から撮影した成田国際空港A滑走路(南側の離陸滑走路)を離陸するユナイテッド航空のジャンボ機の機影。窓から乗客の顔が見えそうな近接感です。手前にヤマト運輸のカーゴ便が写り込んでいるのが実にお洒落♪ 羽田空港東京国際空港)は埋め立て地なので、このような撮影スポットがありません。

さて、ブログの枕が長くなりましたが、そろそろ本題を書きたいと思います。かなり昔に公開された映画になりますが、いよいよ某BS放送で採り上げられたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。


続く、執筆中。


◆おまけ
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第1番全曲から第2番第2楽章まで。ピアノ協奏曲第1番第2楽章はその風情とよいその色彩とよい実に美しい曲想で、ロシアの美しい大自然の景観を音楽で描写しているかのような恍惚感があります。瞑目して聴いているとラフマニノフの心象風景に浮ぶロシアの大自然が目の前に広がって、頬を伝う風の匂いまでも感じられそうなピアニスティックで素敵な曲ですね♪

おまけのおまけ。最近、中国古琴から紡ぎ出される響きの宇宙に嵌っています。中国古琴は実に雄弁で深淵な響きを持った楽器です。映画「レッドクリフ」や映画「HERO」にも中国古琴の演奏シーンが印象的に使われていますので、心を澄ませて響きの宇宙に身を委ねてみては..♪

おまけのおまけのおまけ。遅ればせながら“きゃりーぱみゅぱみゅ”という天才肌のアーティストに注目しています。彼女のミュージックビデオ(例えば、グロかわなタイトルの“きらきらキラー / Kira Kira Killer”)を見ていると、「音楽」(響き、リズム。これまでのポップスのように音楽が言葉に引き摺られるパターンとは正反対で、寧ろ、音楽が言葉から解き放たれて自由に飛翔している印象です。)、「美術」(CGを含む。よくよく見てみると日本の伝統的な文様をモチーフにしていたり、仏教その他の宗教的な世界観(例えば、蓮の花、陰陽道、十字架、アカシックレコード、輪廻転生など)をポップに表現していたりとクラシックとモダンが面白く融合されています。また、一見関係ない事柄の共通項(例えば、リンゴからウィリアム・テルの弓矢とニュートンが発見した万有引力、アダムとイブに禁断の果実を勧めたヘビを関連付けて表現しているところや、人類誕生から発見・発明の歴史を繰り返して文明社会が誕生する過程を禁断の果実を食した人間を飲み込むヘビ(又は古代インドの世界観の中に出てくる虚空中に浮かぶヘビ)と類人猿に扮したお釈迦様の手で踊る人間が未来の筋斗雲であるジェット・エンジンを搭載したスケートボードに飛び乗るという逆接で繋ぎ合わせて表現しているところなど)を見つけ出してイメージを自由に膨らませているところや、恋というポップなテーマでオブラートに包んでいますがその描き出されている世界は深淵なテーマ性を持っており誰かが放った矢に射抜かれてから(弱肉、ハートを射止められる王女マティルデ)生まれ変わって我々に矢を射る(強食、ハートを射止めるウィリアム・テル)までの輪廻転生や自然の摂理自然法則的に言えば半永久的に続く連鎖、音楽的に言えば循環形式)などの一貫したテーマを混沌とした表現の中に破綻なく整然と描き出しているところなどが個人的には興味深いです。)、「振付」(表現しようとしている世界観をシンボリックに体現し又は奇抜にアクセントするパフォーマンスにも惹き込まれます。)、衣装(衣装の細かい飾付けには独創的な感性が散りばめられていて視覚的に飽きさせません。)、「映像作り」(カット割りのテンポなどが小気味良く、その一方で煩くもなく効果的です。)が有機的に絡み合って作り出す独特の世界観は非常に斬新で独創的であり訴求力があるものであって、一見、荒唐無稽に見える表現も強烈なコンセプトと感性によって破綻なく纏められており完成度の高いものと言えます。このように優れたプロダクトを“サブカル”という先入観で一段低く評価する向きもありますが、僕は既成概念に囚われた詰まらない偏見に組みするものではなく“良いものは良い”としてお勧めしたいです。

伊八、北斎からドビュッシーへ −日仏文化交流の麗しき円環−

【題名】伊八、北斎からドビュッシーへ −日仏文化交流の麗しき円環−
【著者】栗原浩太郎
【出版】創英社/三省堂書店
【発売】2014年2月28日
【値段】1400円
【感想】
去る6月3日は「ムーミンの日」だそうですが、語呂合わせが大好きな日本人ならではの記念日です(正式には著者のトーベ・ヤンソンの誕生日である8月9日だとか。因みに、今年はトーベ・ヤンソンの生誕100周年です。)。何故、僕がハンドルネームをスナフキンとしているのかについては、先日、このブログでも紹介したとおりスナフキンの自分自身に素直であろうとする自由な生き方(ボヘニアニズム)に共感していることに由来しますが、(人生の折返し地点を過ぎて僕にはあとどれくらいの時間が残されているのか分かりませんが)死の床にあって自分の人生がマズマズであったと思えるように自分自身の心を欺くことのない人生の選択(人生の折り合いの付け方)をして行きたいものだという心持ちでいます。天文地理学を用いて日本で初めて精巧な日本地図を完成させた伊能忠敬(千葉県九十九里町出身)は51歳(江戸時代の平均寿命は50歳以下なので当に楽隠居の年齢ですが)から天文学の第一人者である高橋至時に師事し、55歳から15年の歳月を掛けて約4万km(≒地球一周分)を踏破して日本地図を完成するという大業を成し遂げていますが、ここまで大きなロマンや情熱を持ち得るかは別として、伊能忠敬の何歳になっても自分の好奇心に忠実であろうとする自由な生き方にシンパシーを感じますし、僕もそのように自分自身に素直に生きたいものだと常々心掛けています。あらゆる人生の問題に対する答えは自分自身の中にこそあり、人生の困難に直面したときは自分の外(他人を含む)に答えを求めようとするのではなく自分自身と向き合って答えを見い出して行く姿勢が大切で、その意味で芸術は自分自身と向き合い自分自身を写す縁として僕にとって掛け替えのないもの(生涯の宝となるもの)なのです。
http://d.hatena.ne.jp/bravi/20130602/p1


左上から、1枚目〜3枚目:よい季節になってきたので水郷として有名な佐原(千葉県佐原市)で水遊び。川面に写る柳の風情と古式ゆかしい町並みが溶け合って独特の雰囲気を湛える本当に魅力的な町です。4枚目:水郷佐原には伊能忠敬が後年に居を構えた旧宅(修復工事中)があり、その近くに伊能忠敬美術館もありますので、是非、お立ち寄り下さい。
左下から、1枚目〜3枚目:九十九里にある伊能忠敬の生家跡(公園)とそこから程近い九十九里海岸。幼少期の伊能忠敬もよく眺めていたであろう九十九里の海岸線を遥かに仰ぎ見ると、晩年に天文地理学を極めて日本地図の作成に着手した伊能忠敬男のロマンの淵源が偲ばれます。因みに、夜の九十九里海岸は太平洋を包み込むように満天の星空が拡がる大パノラマと“日の出”ならぬ“月の出”(水平線から真っ直ぐに海面を照らし出す青白く淡い月光は実に幻想的でロマンチックなので夜のデートにお勧めです❤ 九十九里海岸は車で海岸線まで入れるところも多いので、静かなピアノ曲をBGMに身も心も月光浴に浸ったり、カメラを片手に季節の星座を眺めながら神話の世界を旅してみるなんてお洒落じゃありませんか♪)を拝むことができます。4枚目:川崎大師・西新井大師と並ぶ関東三大厄除大師の一つに数えられる観福寺(千葉県佐原市)には伊能忠敬の墓碑があります(上野の源空寺にも墓碑があります。)。観福寺の有名な枝垂れ梅も見事です。

<写真の追加 2014/11/30>

蛇足ながら、伊能忠敬が千葉県出身であることに因んで、奈良時代には千葉のことを「上球」と記していたようですが、「球」は「房をなして稔る果実」を意味しています。また、平安時代には麻がよく育つ土地柄からその別名である「総」(ふさ)の名をとって「総の国」とも記していたようで、そこから現代でも使われている「上総」や「房総」の呼称が生まれたようです。さらに、千葉には多くの「茅」(ちがや)が生息していたことから古くは「茅生」(ちぶ)とも呼ばれ、それが「千葉」(ちば)へ転じたとも言われています。このように「千葉」の名前は農産物に恵まれた豊かな大地という土地柄に由来しているようです。因みに、そのような土地柄もあってか、伊能忠敬の生家跡の直ぐ近くには、8代将軍吉宗の御下命を受けた蘭学者青木昆陽が関東地方で初めて甘藷(サツマイモ≒“根”が太くなったもの)と馬鈴薯(ジャガイモ≒“茎”が太くなったもの、ジャガイモは根(栄養分を吸収するところ)ではなく茎(栄養分を蓄えておくところ)なので放っておくと芽が出てきてしまいます)の栽培に成功した「関東地方甘藷栽培発祥の地」(千葉県九十九里町)があります。また、千葉は思想学問(日蓮宗開祖である日蓮聖人や儒学者荻生徂徠などを輩出)や文化芸術(今年刊行200周年を迎えた曲亭馬琴の読本「南総里見八犬伝」を生み、小説「野菊の墓」で有名な伊藤左千夫や日本画家の東山魁夷などを輩出、その他は後述)が非常に栄えた歴史のある土地でもあります。芸術好き・自然好きの僕にとっては京都・滋賀に並ぶ鼻血が止まらない魅力的な場所なのです。


左から、1枚目:千葉に遁世して久しいですが、僕の自宅周辺には見渡す限りの大自然が広がり、早朝、まるで大地が呼吸しているように幻想的な朝霧が立ち込めます。“鞭聲粛々夜河を過る”と詩吟が聞こえて来そうな濃霧に包まれることも珍しくなく、都会では決して感じることができない大自然の息吹を感じます。2枚目:千葉は鋸山などの豊かな採石場があり、江戸時代後期に「鋸山の麓に名工あり、その彫技神妙なり」と称され、厳島神社(千葉県南房総市)にある七福神の石造でも有名な名石工・武田石翁を輩出していますが、現在でも県内には数多くの石材店が軒を連ねています。因みに、鋸山の麓の鋸南町浮世絵の祖、菱川師宣の生誕地でもあるので、後述するとおり葛飾北斎は波の伊八と菱川師宣を生んだ千葉と浅からぬ因縁で結ばれていることになります。そんな土地柄を受けて僕の家の玄関前の石造のお地蔵さんはいつもお世話になっている宅配業者さん&郵便局員さんの交通安全と毎日の無事を祈っています。

さて、本題に移りますが、江戸時代末期の千葉県では“安房の三名工”と称された名彫刻師(1)木造彫刻の武志井八郎信由(俗に“波の伊八”)、(2)木造彫刻の後藤利兵橘義光、(3)石造彫刻の武田石翁を輩出していますが(千葉県は=浮世絵の祖・菱川師宣狩野派の祖・狩野正信なども輩出している文化的に肥沃な土地柄ですが)、とりわけ江戸末期には「関東へ行ったら波を彫るな」とまで言わしめた“波の伊八”が欄間彫刻に数多くの傑作を残し、(下の写真を見てもお分かりのとおり)その代表作の1つである「波と宝珠」(行元寺)に着想を得た葛飾北斎は世界的に有名な浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」を創作し(「波と宝珠」は「波」(即ち、運命)に翻弄されて生滅流転する「宝珠」(即ち、人間の魂)を描いていますが、「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は「宝珠」を「富士山」に置き換えてその代りに荒波に翻弄されて押送舟(房総半島から江戸に魚を運ぶ快速舟)に必死にしがみ付くしかない水夫の鬼気迫る姿を描き込むことで同じテーマを扱っていることが伺えます)、さらに、その浮世絵に多大なインスピレーションを受けたドビュッシーは彼の代表作の1つである交響詩「海」を作曲しています(交響詩「海」の初版譜表紙は浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」が使用されていることは有名ですが、富士山がカットされてしまっているので、波の“動”又は“無常なもの”に対照して描かれている山の“静”又は“恒久不変なもの”が生む求心力や緊張感(波の勢いを含む)、遠近感などが削がれてしまっているのは残念です。)。また、この作品はピカソ(絵画「ドラマールの肖像」で用いられている視点移動法など)、ゴッホ(絵画「ローヌ川の星月夜」で用いられている点描法、絵画「アルルの跳ね橋」で用いられている覗き画法など)、モネ、セザンヌ(絵画「サント=ビクトリア山」で用いられている動的遠近法など)、クールベ(絵画「波」で用いられている動的遠近法、点描法など)などの西洋絵画に多大な影響を与えています。このように日本文化及び西洋文化に多大な影響を与えている“波の伊八”ですが、何故か(僕の知る限り)日本の教科書で“波の伊八”が採り上げられることはなく、その作品の芸術的な価値(審美眼をお持ちの諸兄であれば、その作品の生命力、芸術的な価値の高さは一目だと思います。)に反比例して極めて不当に冷遇されています。
http://d.hatena.ne.jp/bravi/20130422/p1
http://d.hatena.ne.jp/bravi/20130715/p1


左から、1枚目:武志伊八郎信由(“波の伊八”)の欄間彫刻「波と宝珠」、2枚目:葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」、3枚目:ドビュッシー交響詩「海」の初版譜表紙、4枚目〜5枚目:“波の伊八”が馬に跨って海に入り波をスケッチしたと言われている太東海岸(千葉県夷隅市)の全景とテトラポットに砕ける波の象形。北斎の大胆な構図(デフォルメ)と共にディーテイルに拘った繊細な描写力が作品に活き活きとした生命力、躍動感を与えています。

上述のとおり“波の伊八”の欄間彫刻の傑作「波と宝珠」は運命(波)に翻弄されて生滅流転する人間の魂(宝珠)をテーマとし、それが葛飾北斎の浮世絵の傑作「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」にも受け継がれていると書きましたが(荒波に翻弄されて舟にしがみつく水夫の表情を描かずに没個性化することで人間の魂をシンボリックに表現し、これが絵のテーマに永遠性、普遍性を与えているように感じられます)、「波と宝珠」や「神奈川沖浪裏」は観る者に強烈なインスピレーションを与える作品であり、その痕跡は交響詩「海」の細部にも発見することができます。例えば、第二楽章「波の戯れ」でハープが掻き鳴らす嬰イ音(以下の楽譜の56(198)ページから、ヴィオラ&チェロからヴァイオリンへと受け継がれて表現される荒波の高なり(楽譜下段、五線譜の左欄外に楽器指定のない段、最下段より低い音を奏でる楽器から高い音を奏でる楽器の順番で記譜され、下から一段づつコントラバス、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリン、第1ヴァイオリンがそれぞれの段を演奏)、その頂点に達したところで「神奈川沖浪裏」に描かれている毛巻のような波が次々と泡沫(水滴)になって潮解して行くイマージュをハープ(楽譜中段、五線譜の左欄外にHarpesと楽器指定のある段)が奏で始める部分は「波と宝珠」そして「神奈川沖浪裏」が持つテーマ性や荒波のモチーフから受けたインスピレーションが見事に音楽へと昇華している部分と言えると思います。但し、この曲で表現されている海(又は波)は描写的(物質的、実体的)なものとは異なり、何もないところ(無)から波(有)が生成されそれと同時に波(有)が泡沫となって消滅(無)して行く間断のない変異のイマージュ、無形の海が無数の有形の波を生成しその無数の有形の波が消滅して無形の海に戻る断続的な変異のイマージュなどが素描され、(意識的か又は無意識的かは別としても)“色即是空、空即是色”や“無常観”といった日本文化のエッセンス(仏教思想)と相通じる世界観(観念)が描かれていると言えるとかもしれません。


左から、1枚目:ドビュッシー、右はストラヴィンスキー。後ろの壁には、葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」と喜多川歌麿の浮世絵「当時全盛美人揃 玉屋内しづか」が掛けられています。ストラヴィンスキー北斎歌麿の作品に見られる「遠近法や量感の図式的解決が音楽において何か類似したものを発見」させると語っていることからも、両者の作品から多大なインスピレーションを受けていたことが伺われます。2枚目:ドビュッシーが所蔵していた漆箱の蒔絵、南州「金の魚」の図柄は、映像第2集の第3曲「金色の魚」の作曲にインスピレーションを与えたと言われています。

【楽譜】
http://conquest.imslp.info/files/imglnks/usimg/b/b6/IMSLP15420-Debussy_-_La_Mer__orch._score_.pdf

因みに、ドビュッシーガムラン音楽や日本を含む東洋音楽の影響も色濃く受けており(同時代人のプッチーニ日本民謡川上音二郎貞奴の舞台や越後獅子の演奏等に強い影響を受けていたと言われています)、ドビュッシーの作品には当時行き詰まりを見せていた機能和声法からの脱却、全音音階や五音音階の使用、拍節から自由なリズムの採用などの特徴が顕著に現れています。交響詩「海」に見られる日本の音楽の影響については、後掲「伊八、北斎からドビュッシーへ −日仏文化交流の麗しき円環−」(創英社/栗原浩太郎著)の135ページ以下に詳述されていますので、ご興味のある方はお買い求め下さい。なお、NHK(Eテレ)の日曜美術館等で“波の伊八”の特集を放送して貰えないものかと何度かリクエストを出していますが、いつも大変に良質の番組を作られる懐の深いNHKのことですから、いずれ時機を見てリクエストを叶えて戴けるのではないかと期待しております。

[rakuten:hmvjapan:11192815:detail]


欄間彫刻「波と宝珠」(行元寺)の前掲の写真を裏から見たもの。実際には、こちらが表面で前掲の写真が裏面ですが、葛飾北斎が前掲の浮世絵を「神奈川沖浪」と題しているのはこの欄間の裏面を題材としているからとも言われています。実物を目の当たりにするとその圧倒的な存在感、作品の生命力に息を呑みますが、これだけ繊細でダイナミックな“動き”のある彫塑、しかも波しぶきの“音”までもが聞こえてきそうな鬼気迫る(死を予感させる)活き活きとした波を見せられた葛飾北斎の感嘆たるや如何ばかりのものであったか察するに有り余るものがあるように感じられます。その葛飾北斎が見た作品(実物)が目の前にあると思うと、尚更のこと感興極るものがあります。白洲正子さんがご著書の中で仏像は薄暗い厨子に収められているから恭しく有り難いものに観えるけれども、蛍光灯に煌々と照らされたショー・ウィンドーに収められているとどうも有難味が薄れて興醒めするという趣旨のことを語られていたと記憶していますが、欄間彫刻もその作品が本来の魅力を発揮し最も活き活きとした生命力を宿す「空間」があるという意味で同じことが言えるかもしれません。


欄間彫刻「波と宝珠」は行元寺(千葉県いすみ市)の離れにある客間(下図のとおり3部屋に仕切られ、庭から見て1室目と2室目を区切る襖の上に1つ目の欄間(黒線)、2室目と3室目を区切る襖の上にある2つ目の欄間(赤線)が「波と宝珠」)に設えられていますが、庭から差し込んだ採光が1つ目の欄間を透かして2つ目の欄間「波と宝珠」に差し込むように細工されており、朝夕や天候によって差し込む採光の明度とそれが生み出す陰影の濃淡、色調などが変化し、それが「波と宝珠」に様々な表情を生み出すという名工“波の伊八”の絶妙な計算が隠されています。写真撮影が禁止されているため、その変化の様子を写真に収めることは叶いませんが、子々孫々に受け継ぐべき稀代の名作と言えましょう。

【客間】
    □
     
    □
    ↑(採光)
    庭


称念寺(千葉県長生郡)の欄間彫刻「龍三体の図」伊八最晩年の大傑作で、向って右に赤龍、左に白龍を従えて、正面から尾を巻き上げて襲い掛かる青龍(昇り龍)の躍動感ある迫力に息を呑みます。これだけの大傑作にも拘わらず、いつ行っても称念寺は人気がなく、また、本堂は仏事がある時以外は締め切られていますので(一応、ガラス戸になっていますので内部を覗き見ることができるように配慮されていますが、ガラスの乱反射に邪魔されて作品の息吹は全く伝わってきません..。写真集を見る限りでも稀代の名工“波の伊八”が丹精を込め神技を尽した大傑作であることが分かります。)、人類の至宝とも言うべき大傑作が人知れず埋もれてしまっている感を否めず大変に残念でなりません。法的に言えば、この欄間は寺社の所有物であり仏事で檀家が拝む以外は一般に公開しないと言われてしまえば身も蓋もありませんが、その芸術的な価値に着目すれば、人類共有の文化的遺産とも言うべき大傑作であり、檀家のみならず広く一般に公開してこそ作品を活かすことにつながるのではないかと思いますし、また、現代人のみならず子々孫々に受け継がれて行くべきものだと思いますので、その公開の仕方や作品の保存の仕方を含めて一層手厚い公の助成が望まれる、と生意気なことを言いたくなるほど惚れ惚れする作品なのです。


飯綱寺(千葉県いすみ市)の欄間彫刻「天狗と牛若丸」と「波と龍」飯綱寺には源義経伊豆半島から飯綱寺に寄って奥州へ船で逃れたという伝説が残されており、これに主題して「天狗と牛若丸」が彫られたと言われています。本堂の入口には青と赤の天狗の面が掲げられ、本堂内の欄間直上の天井には葛飾北斎の師である堤等淋作の龍の絵が描かれています。また、飯綱寺には嵯峨天皇直筆の般若経や関白近衛信房の和歌(小倉山荘色紙和歌)などが所蔵されている名刹です。なお、飯綱寺の程近くに「いすみ市郷土博物館」があり、波の伊八の欄間彫刻に加えて、千葉県いすみ市狩野派の祖、狩野正信の生誕の地であることから狩野派の作品も数多く展示されていますので、お立ち寄り下さい。

▼鴨川郷土資料館の特別展
真福寺(神奈川県横須賀市)にある波の伊八の欄間彫刻「黄公石と張良」が鴨川郷土資料館に展示されていたときの様子が公開されています。これだけ真近に色々な角度から欄間彫刻を拝見する機会はありませんので、その細部に至るまで波の伊八の神技が冴えわたる傑作を堪能できました。この欄間の裏面には全く異なるモチーフとして激流を縫うように泳ぐ鯉の彫刻が活き活きと彫られていていますが、まるでバッハの「フーガの技法」を彷彿とさせる奇跡的とも言える神技に舌を巻きます。
http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=389

▼波の伊八の作品一覧
http://www.tsuchiura.org/~kokentik/miyadaiku/kanto/ihati.html

▼波の伊八の講談をやられる講談師の神田あおいさんのWebページ
http://kandaaoi.com/

▼波の伊八Tシャツ(特注で“4L”サイズまであるので、男性諸兄にも鯔背に着こなせます。)
http://www.ihachi.com/


左から、1〜2枚目:波の伊八の生誕地&工房跡(千葉県鴨川市)、3枚目:波の伊八の工房跡の直近にある金乗院にある波の伊八の欄間彫刻「酒仙の図」と「向拝の龍」、4枚目:波の伊八の工房近くにある鴨川の海、5枚目:ウフフ❤の結果

チバテレビの「ちば見聞録」で波の伊八を採り上げた番組

◆おまけ
ドビュッシーのベルガマスク組曲より第3番「月の光」。休日の夜、ふらっと九十九里海岸へ一人でドライブ。夜のしじまに包まれ青白く淡い月光に照らされた九十九里の海。浜辺に車を止めて零れ落ちそうな満天の星空を見上げならが静かに打ち寄せる波の音が心地よく響く。カーステレオから流れるドビュッシーの音粒が夜空へと澄み渡って行くようだ。音楽と一体になれる至福のひととき..♪

ショスタコーヴィチ「24の前奏曲とフーガ」。瞑目しながら音と音の間に拡がる深淵な精神世界に耳を傾けていると、自分と音楽だけの悠久の時間に浸れます。

シューマン「ピアノ四重奏曲」より第三楽章。ロベルトの妻クララへの愛に溢れています。おまけのおまけ。

ドビュッシーピアノ三重奏曲」より第三楽章。おまけのおまけ。

この世の名残 夜も名残 ~杉本博司が挑む「曾根崎心中付り観音廻り」オリジナル

【題名】ETV特集『この世の名残 夜も名残 〜杉本博司が挑む「曾根崎心中付り観音廻り」オリジナル〜』
【出演】
【放送】Eテレ 2011年10月16日(日) 22時〜
【感想】
皆さん、初詣はどちらに参詣されたのでしょうか。僕は日蓮宗大本山清澄寺(千葉県鴨川市)で初日の出を拝み初詣を終えた後、昨年開場した新しい歌舞伎座の正面玄関横にある歌舞伎稲荷神社へ詣でました。興行初日や千穐楽には歌舞伎役者や劇場関係者もお参りされるそうです。昔から「稲荷神社」では雅楽の調べに乗せて古式ゆかしい巫女舞が奉納されますが、歌舞伎は出雲大社の巫女「出雲の阿国」の踊りから「かぶき踊り」に発展して誕生したと言われていますので、歌舞伎座が稲荷神を氏神としているのは必然と言えるかもしれません。因みに、「稲荷」の語源は「稲成り」と言われ、稲荷神の神使である狐(歌舞伎の演目にも多く登場します)が稲を鼠から守ることから五穀豊穣、家内安全や商売繁盛などのご利益があると言われています。また、「稲荷寿司」の語源は狐(稲荷神の神使)が油揚げを好物にしていたことに由来していると言われていますが、甘く煮た油揚げの袋に酢飯を包んでいるのは狐が稲を鼠から守るという「稲荷」の語源を象徴するものかもしれません。なお、歌舞伎座の向いにある銀座白金やの稲荷寿司は大変に美味なので、是非、お近くにお寄りの際にはご賞味あれ。


左から、歌舞伎稲荷神社(彫刻のディーテイルが見事)、どこかで見覚えのあるお父さんのオイナリサンではなく有名な銀座白金やの稲荷寿司、荻生徂徠の旧家跡
http://www.platinumya.jp/index.html

少し話は飛びますが、人形浄瑠璃の傑作「仮名手本忠臣蔵」の題材となった赤穂事件において本懐を遂げた赤穂浪士は両国から隅田川沿いを南下して永代橋を渡橋し(その手前にある万年橋の袂に吉良邸討入りの8年前まで松尾芭蕉が住んでいた深川芭蕉庵があります)、江戸湊沿いをさらに南下して浅野家江戸上屋敷、築地本願寺の前を通り浅野匠頭が眠る泉岳寺へ引き揚げています。その途上、歌舞伎座の前を通過していますが、歌舞伎座のある一帯は幾重にも歴史が交錯している深淵な地層を持った由緒ある土地と言えるかもしれません。奇しくも昨年は新しい歌舞伎座の開場と併せて近松門左衛門の生誕300周年でしたが、人形浄瑠璃の傑作である近松門左衛門の「曽根崎心中」は江戸時代に上演を禁止されて以来昭和30年になって漸く原作の人形浄瑠璃ではなく歌舞伎で復活上演されたことを思うと不思議な縁で結ばれているのではないかと感慨を深くします。江戸時代には上演を禁止されていた「曽根崎心中」ですが、その作品は身分を問わず愛され続け、当時の御用学者だった荻生徂徠はその詞章(以下に道行の詞章を抜粋しますが、)があまりに美しかったので暗誦していたと言われています。なお、荻生徂徠千葉県茂原市で学んだ後に徳川吉宗の御用学者となり、赤穂浪士の処分議論において忠孝に報いる処分(助命)を主張した学者達に対して御政道を説いて法に従った処分(切腹)を主張した学者ですが、これを題材にした落語、講談、浪曲の「徂徠豆腐」も愛され続けていますので、こちらも存分にご賞味あれ。

道行

 此の世の名残 夜も名残 死に行く身を譬ふれば あだしが原の道の霜 一足づゝに消えて行く 夢の夢こそ あはれなれ

 あれ数ふれば暁の 七つの時が六つなりて 残る一つが今生の 鐘の響の聞き納め 寂滅為楽と 響くなり

浄瑠璃を読もう

浄瑠璃を読もう

ところで、この「曾根崎心中」をニューヨークに住む現代美術作家、杉本博司さんが構成、演出、舞台美術、映像を手掛けてリメイクした杉本文楽「曾根崎心中付り観音廻り」が2011年及び2013年にマドリード、ローマ、パリで興業されて連日1000人を超える観客動員を記録して話題になりましたが、いよいよ本年3月に東京と大阪でこの舞台が再演されることになりました。近年、異ジャンルの芸術家が古典作品に現代的な息吹を吹き込んで、これまでとは違った魅力を古典作品に与える(又は惹き出す)と共に、これによって古典作品のオリジナルの魅力も再認識し、もって芸術受容の可能性、楽しみの幅を拡げようとする試みが盛んに行われていますが、(未だこの舞台を観ていませんが)この杉本文楽の試みは幸運な出会いであったと言えるのではないかと思います。

http://sugimoto-bunraku.com

因みに、杉本文楽の成功をウケて、映画監督の三谷幸喜さんが笑いと涙に溢れる人情喜劇として三谷文楽「其礼成心中」を公演し、こちらも話題になったことは記憶に新しいですが、未だご覧になられていない方はDVDがリリースされていますのでどうぞ。

三谷文楽「其礼成心中」[DVD] (PARCO劇場DVD)

三谷文楽「其礼成心中」[DVD] (PARCO劇場DVD)

さて、杉本博司が挑む新しい人形浄瑠璃文楽の制作舞台裏に密着したドキュメンタリー番組があったので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。

感想を執筆中。続く。


◆おまけ
二代目広沢菊春の浪曲「徂徠豆腐」

コルンゴルト 歌劇「死の都」

【題名】コルンゴルト 歌劇「死の都」
【出演】<Sop>アンゲラ・デノケ(マリエッタ/マリーの声)
    <Ten>トルステン・ケルル(パウル
    <Br>ユーリ・バツコフ(フランク/フリッツ)
    <Ms>ビルギッタ・スヴェンデン(ブリギッタ)
    <Sop>バルバラ・バイアー(ユリエッテ)
    <Ms>ユーリア・エスヒ(ルシエンネ)
    <Ten>クリスティアン・バウムゲルテル(ヴィクトリン)
    <Ten>シュテファン・ゲンツ(フリッツ)  
    <Chor.>ライン国立歌劇場合唱団
    <C_Cond.>チン=リェン・ウー合唱指揮
【楽団】<Orch.>ストラスブール・フィルハーモニック管弦楽団
    <Cond.>ジャン・レイサム=ケーニック指揮
【演出】インガー・レヴァント
【収録】2001年、ライン国立歌劇場
【音盤】Naxos/3,298円
【感想】
どのようなお正月をお過ごしでしょうか。お節やお屠蘇、お雑煮にはそろそろ飽きて、甘い物が欲しくなって来た甘党のあなたへ朗報!銀座コージーコーナーでは、“スイーツ初め”と銘打って1月1日から5日までの期間限定でお正月向けのスイーツを販売しています。今年の目玉は「初夢の赤富士ケーキ」でして、初日の出に染まった赤富士をイメージし、な...何と!チョコスポンジとフランボワーズジャムで濃厚チョコムースをサンド❤ 富士山麓産の練乳入りフォンダンクリームをたっぷりとかけて雪化粧した開運ケーキです。一般に初夢の縁起物として“一富士、二鷹、三茄子”と言いますが、お目出度い紅白に彩られた赤富士ケーキを見ていたら、葛飾北斎富嶽三十六景「凱風快晴(がいふうかいせい)」(通称、赤富士)が連想され、ケーキを買った帰りに大胆にも自宅近くで撮影を敢行しました。スマートな北斎の赤富士に対し、ややメタボ気味の赤富士ケーキのシルエットですが、飽食の時代に生きる平成の日本人を風刺するフォルムと言えましょうか。北斎の赤富士は「凱風」(南風)と銘打たれているように遥か上空の風を感じさせる秋の“いわし雲(上層雲)”を描くことで天に届くような富士の高さを強調する効果を生んでいるのに対し、今日は昼間の“おぼろ雲(中層雲)”(おぼろ雲がお月様にかかると“おぼろ月夜”)が僅かに残る穏やかな快晴で(因みに、皆さんは雲の名前を幾つ知っていますか?)、何やら空の違いが時代の勢い(又は江戸と東京の気質)の違いを象徴しているようにも感じられます(とこじつけてみました)。


左から本日撮った平成版富嶽三十六景「まいうー快食」(韻を踏むだけの馬鹿っぽいネーミングに見えますが、一応、飽食の時代を象徴する標題にしてみたつもりです)と富嶽三十六景「凱風快晴(がいふうかいせい)」(通称、赤富士)、昨年末に撮った平成版富嶽三十六景「海ほたる沖超合金巨大ドリル裏」と富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」大浪をドリルに換えて大胆な遠近法を使った構図を真似てみました。江戸から変わらぬ夕焼けと富士、江戸にはなかったランドマークタワー、飛行機、タンカーの影を対比して空間(奥行+高さ)の遠近感に加えて時間(時代)の遠近感も写し込んでみました。これから平成版富嶽三十六景と題して平成になって様変わりした富士山を取り巻く景色の変化と庶民の文化風俗の変化等を撮りきってみたいと思っています。

ところで、銀座コージーコーナーの“スイーツ初め”では正月に因んで新作の和風洋菓子(「鏡餅ケーキ」、「スイーツおせち」etc.)も販売していますが、最近では伝統と創作を巧みに調和した視覚にも味覚にも訴える面白い和洋菓子を頂く機会が多くなってきました。和菓子は茶の湯の歴史と深く関わっていますが、もともと茶の湯の文化は今年没後800年を迎える栄西禅師が鎌倉時代(1191年頃)に大陸から持ち帰って伝えたことが始まりとされ、茶の湯の流行と共に和菓子も発展してきました。そこで、この機会にブログの枕として和菓子と洋菓子について簡単に何か書いてみたいと思います、、、続く。


左から今年の我が家の「鏡餅」(鏡餅ケーキ)と「お節」(スイーツおせち)、ついでに元日に初詣を終えて立ち寄った鴨川の海で初日の出に向って波乗りするサーファー達を撮影

さて、来年、いよいよ新国立劇場コルンゴルトの傑作と名高い歌劇「死の都」が採り上げられることになり話題になっていますが、その予習も兼ねてケーニック指揮の好演を収めた音盤を聴いてみたくなったので、その感想とその他のコルンゴルトの歌劇について簡単に書いてみたいと思います。まだまだメジャーとは言い難いコルンゴルトの歌劇ですが、銀座コージーコーナーのスイーツに劣らない甘美で陶酔感のある音楽を召し上がれ❤

コルンゴルト:歌劇「死の都」 [DVD]

コルンゴルト:歌劇「死の都」 [DVD]

現在、執筆中。続く。

死都ブリュージュ (岩波文庫)

死都ブリュージュ (岩波文庫)

◆おまけ
新国のホームページとYou Tubeに音源がアップされていますのでリンクします。プッチーニやリヒャルトシュトラウスを彷彿とさせる甘美な音楽にお屠蘇気分で酔いしれて下さい。

http://www.nntt.jac.go.jp/opera/dietotestadt/

年頭の挨拶

   謹賀新年

拙ブログをご覧の皆様、新年あけましておめでとうございます。本年も細々と更新を続けて参りますので、旧倍のご愛顧を賜れば幸甚に存じます。皆様にとっても感動の多い年であることを祈念致します。


僕は日蓮宗徒ではありませんが、日蓮宗大本山である清澄寺(千葉県鴨川市)へ初詣に行くことにし、日蓮聖人が立教開宗の第一声をあげた旭が森(日本で一番早く日の出が拝める場所)で初日の出を拝んできました。清澄寺の僧侶と檀家の皆さんが高らかに「南無妙法蓮華経」と題目を唱え出すと、見る見るうちに雲が赤みを帯び、まるで唱題に合わせるように徐々に雲が晴れて行って、やがて慈愛と威厳に満ちた御来光が天を覆い地に燦々と降り注ぐ光景に圧倒されました。こんなに荘厳で心洗われる初日の出を拝むのは初めての体験で、今年最初の感動体験となりました。御来光に染まる旭が森に建つ日蓮聖人像を拝み、清々しい気持ちで新年を迎えることができました。昨年末に清澄寺を訪れた際、その帰り道に僕の車の前をゆっくりと歩いて横切る野生の子鹿(子猪ではなく子鹿だと思います)に遭遇し、日蓮聖人のお導きかと背筋に鳥肌が立ちましたが、清澄山は実に霊験あらたかな聖地です。



酔ひて候...人生に大いに酔うための今年の僕の抱負は、

◆ブログの枕

  • 葛飾北斎富嶽三十六景に着想を得て平成版富嶽三十六景を撮りきること。
  • 星座の写真と神話の世界を紐解きながら星空のロマンを旅すること。
  • 芸術が育まれた土地の歴史を訪ね、時代を旅すること(時の旅人)。

◆ブログの本文

  • Facebookのお友達の演奏会、舞台、展覧会等へ1つでも多く行くこと。
  • クロスカルチャーの視点からジャンルを超えて美の本質に迫ること。
  • とにかく美しいものに数多く触れて心から感動すること。

◆その他

  • 被写体の真実に迫ることを目標にカメラの腕前をあげること。
  • 心を整える時間(座禅、茶道、和歌を詠む)を作ること。
  • 色々なもの(乗馬、バイク、サーフィン)に乗れるようになること。

仕事の抱負を書き出すと悪酔いしてしまいそうなので、この辺で...
                          
                               など


2014年にアニバーサリーを迎えるもの

◆作家

◆画家

◆俳優

◆音楽

◆宗教・思想

                               など

ワーグナー 偉大なる生涯(原題:WAGNER)

【題名】ワーグナー 偉大なる生涯(原題:WAGNER)
【監督】トニー・パーマー
【脚本】チャールズ・ウッド
【出演】第一部
 <ワーグナーリチャード・バートン
      <コジマ>ヴァネッサ・レッドグレーヴ
      <ミンナ>ジェマ・クレイヴン
      <カール・リッター>ガブリエル・バーン
      <マティルデ>マルト・ケラー
      <リスト>エッケハルト・シャル
    第二部
      <ワーグナー>リチャード・バートン
      <コジマ>ヴァネッサ・レッドグレーヴ
      <ミンナ>ジェマ・クレイヴン
      <ブフォルテン>ラルフ・リチャードソン
      <フィスターマイスター>ジョン・ギールグッド
      <ブフォイアー>ローレンス・オリヴィエ
      <フォン・ビューロー>ミゲル・ハンツ=ケストラネク
      <ルードヴィッヒⅡ世>ラズロ・ガルフィ
    第三部
      <ワーグナー>リチャード・バートン
      <コジマ>ヴァネッサ・レッドグレーヴ
      <フォン・ビューロー>ミゲル・ハンツ=ケストラネク
      <ルードヴィッヒⅡ世>ラズロ・ガルフィ
      <リヒター>スティーブン・オリヴァー
      <ニーチェ>ロナルド・ピックアップ
【演奏】<Orc.>ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
    <Cond.>サー・ゲオルグショルティ
【撮影】ヴィットリオ・ストラーロ
【収録】1983年年度作品
【放送】クラシカジャパン
     第一部 8月 4日21:00〜23:40
     第二部 8月11日21:00〜23:55
     第三部 8月18日21:00〜23:45
【感想】
メリークリスマス🎶 どんなクリスマスをお過ごしでしょうか。今日12月25日をイエスの誕生日(降誕日)と勘違いしている人も多いと思いますが、イエスの誕生日は明らかではなく(聖書にも書かれていない)、正しくはイエスの誕生(降誕)を祝う日です。因みに、サンタクロースは聖ニコライが起源とされていますが、その昔、聖ニコライが貧しくて娘を嫁がせることができない家の煙突から金貨を投げ入れて救ったという逸話に由来し、キリストの誕生(降誕)を祝う日にプレゼントを贈る習慣が生まれたと言われています。そのキリストの生誕(降誕)から約1200年後に我等の千葉県鴨川市にある誕生寺日蓮聖人の生家跡)で日蓮宗の開祖である日蓮聖人が生誕(降誕)しています。



上段左から誕生寺の仁王門、祖師堂と見事な枝振りの松、誕生(降誕)した日蓮聖人が産湯を使った誕生水(湧き水)、誕生堂、日蓮聖人御幼像、下段左から寅さんが産湯を使った寅さんの誕生寺こと柴又帝釈天(日蓮宗)の二天門、帝釈堂、鐘と寺紋(映画で使用されているとらやの暖簾の家紋は帝釈天の寺紋と同じ)、柴又に実在するとらや(最初の数回は映画の撮影でも使用、草だんご300円)、とらやの店内にある階段(映画の撮影でも使用、寅さんの部屋へと通じる奥の階段とは別のその隣の部屋へ通じる表の階段)

日蓮聖人は清澄寺へ入山し、鎌倉に建長寺が建立された年と同年(1253年)に旭が森の山頂に立って朝陽を拝みながら「南無妙法蓮華経」と唱えて日蓮宗の立宗宣言をしたと言われています。日蓮聖人は「立正安国論」において「正法を立て国土を安穏ならしめる」と説いて「南無妙法蓮華経」という7文字のお題目を唱えて「平らかなる心」を培うことで国土は安穏になるという趣旨のことを書かれていますが、お題目を声に出して唱えること(唱題行)で自らの心の中にも宿っているはずの「仏の心」を呼び覚ますという教えのようです。お題目を唱える際に木魚、木柾や題目太鼓(団扇太鼓)を打ち鳴らしてリズムを整えることで、自らの呼吸を整え、自らの心を整えて信仰を培うという意味で、唱題にはリズム(ここで言うリズムとは、メトロノームが刻む人工的なリズムというよりは、自然の摂理を支配する秩序(心臓の鼓動のようなものと言い換えることができるかもしれませんが)に共鳴するということではないかと思います。)が大切だと言われています。この点、日本の伝統音楽には西洋音楽のような明確なメロディーやハーモニーはなく主にリズム(上記と同旨の日本的なリズム)や節によって構成されますが、このような「祈り」(唱題や声明など)が「歌舞音曲」へと発展し、やがて歌舞伎の黒御簾音楽・下座音楽(舞台下手の黒塗りの御簾を垂らした黒板塀に囲まれた中で演奏する歌舞伎の演出効果を高めるための音楽で、その楽器の1つが団扇太鼓)へと昇華した文化的背景に思いを馳せると大変に興味深いものがあります。なお、大利根河原の決闘を描いた「座頭市物語」(第一作)の中で飯岡一家が笹川一家へ殴り込みを掛ける場面がありますが、危難を逃れようと題目太鼓(団扇太鼓)を叩く村民の姿が描かれており、読経や写経を行わなくても「南無妙法蓮華経」の7文字のお題目を唱えるだけで救われるという日蓮宗の教えが当時の読み書きのできない村民の間にも広く浸透していたことを窺わせるエピソードとして印象深く思い出されます。また、日蓮宗の布教は“浪の伊八”の数々の作品をはじめとした仏教美術の発展や、日蓮宗の学問所である三大檀林(飯高檀林中村檀林小西檀林)に代表される教育の普及振興にも多大な影響を与えていますので、いつか機会があったら詳しく触れてみたいと思います。因みに、今年の大河ドラマ「八重の桜」では同志社大学が日本で初めて設立されたキリスト教を普及するための大学として採り上げられ注目を集めましたが、仏教を普及させるために日本で最も古く設立された大学の1つである立正大学(その校名は日蓮聖人の「立正安国論」に由来)は三大檀林の1つ飯高檀林を前身としており、「立正の精神」を理念として日本の宗教・思想教育を支え続けて来た功績を忘れることはできません。(この話題を敢えてクリスマスの日に採り上げてみました。)



上段左から日蓮宗開祖の大本山清澄寺(千葉県鴨川市)の仁王門、日蓮聖人が清澄寺に入山した当時からあった樹齢800年以上の千年杉、大堂と観音堂、日蓮聖人が吐かれた血が笹の葉に飛び散って今でも葉に斑点が残る凡血の笹、若き日の日蓮聖人が心身練磨のために修行した練業場、下段左から日蓮宗の三大檀林(学問所)のうち、霊験あらたかな雰囲気が立ち込める飯高檀林(千葉県匝瑳市)の講堂と立正大学発祥の碑、中村檀林(千葉県香取郡多古町)の山門から本堂へと真っ直ぐに伸びる参道とその脇に立つ信仰の道しるべ、小西檀林(千葉県大網白里市)の中門と講堂

極真空手創始者である大山倍達は1948年に清澄山に入山し、約18ケ月間の修行の末に極真空手を生み出しました。大山倍達が山籠もりをした際の体験として「人間にとって最も怖いのは、飢えと孤独だ」と語っていますが、自らを極限の状態に追い込み自らに打ち克つことによって強い精神と肉体を培い、その並々ならぬ闘争心が下山直後に千葉県館山市で47頭の牛と対決し仕留めた逸話となって現れたのだろうと思います。その意味で、それまで主流を占めていた競技としての空手ではなく、あくまでも実戦としての空手を志向し、いわば空手に魂を吹き込んだ真の武道家と言えるかもしれません。その原点が此処にあるのかと思うと身の引き締まる思いがします。


左から清澄寺バス停前にある極真空手発祥の地の碑、大山倍達が飢えと孤独に克って約18ケ月間の修行を全うした極真空手発祥の地、大山倍達の記念碑、大山倍達が幾度も眺めたであろう極真空手発祥の地から臨む鴨川に沈む夕陽

さて、生誕と言えば、今年生誕200年を迎えたワーグナーの偉大なる生涯を描いた伝記映画がクラシカジャパンで放送されたので、その感想を簡単に残しておきたいと思います。この伝記映画はワーグナーの孫ヴォルフガング・ワーグナーの協力を得て制作された約8時間に及ぶ一大叙事詩で、楽劇「ニーベルングの指環」で定評があるショルティー@ロンドンフィルが演奏を担当しています。因みに、先日から、ワーグナー生誕200周年を記念してルートヴィヒⅡ世とワーグナーの関係を描いた映画「ルートヴィヒ」が公開されていますので、こちらもご興味がある方はいかが。


http://wagner-movie.com/

http://www.ludwig-movie.com/

現在、感想を執筆中。続く。

◆おまけ
ワーグナートリスタンとイゾルデ第三幕全曲をショルティー@VPOの演奏でどうぞ。

オペラの終焉

【題名】オペラの終焉
【著者】岡田暁生
【出版】ちくま学芸文庫
【発売】2013年12月10日
【値段】1365円
【感想】
ソフトバンクは今年発売45周年を迎えるスナック菓子「カール」を販売するMeijiとコラボして、ソフトバンクショップで“つなカール”を無料配布しています。“つなカール”とはツナ味のカールのことではなく、ソフトバンクが「つながりやすさNo1」を受賞したことを記念して“つながる”と“カール”を文字って作った商品名(キャッチ)のようで、確かに“カール”のように「サクサク」と音が聞こえてくるくらいソフトバンクはよくつながります。ご案内のとおり“カール”はポップコーンに着想を得て誕生したトウモロコシを原料とするスナック菓子ですが、僕らお父さん世代にとってはカルビーの“かっぱえびせん”と共に「昭和の味」として我々の舌に強烈に刻まれているスナック菓子の金字塔とも言うべき時代の名品です。アニメにしろ、菓子にしろ、平成に入ってから昭和の産物がリメイクされて注目されるようになってきましたが、昭和の時代は我々日本人が世代を超え、時代を超えて受け継がれて行く何か(風俗流行を超越した文化的価値)を造り出すだけの創造力を持ち得ていた時代であったと言えるかもしれません。某指揮者を彷彿とさせる泥棒髭がチャームポイントのカールおじさん(今年で大石内蔵助の享年と同じ年)をはじめとして時代の風雪を耐えて長く愛されるキャラクター(ペコちゃん、キティーちゃん、ケロヨンetc.)も、昭和の時代に多く生まれたように感じます。果たして平成の時代は次世代へ受け継いで行けるような時代を代表する何かを創造し得ているのでしょうか。その意味でも今回のソフトバンクの広告宣伝、販売促進策に見る「遊び心」(創造力の源泉)は大切にしたいと思います。因みに、“つなカール”の配布は在庫がなくなり次第終了になるようなので、未だ“つなカール”を貰っていない方はソフトバンクショップへ急ぎましょう!


左から“つなカール”と“つなカール(正月パッケージ)”、ソフトバンクスマホがサクサクとつなカールのひみつ(表面、裏面)、発売45周年を迎えた本物“カール”、さらにLINEで使える“LINEスタンプ”もLINEアップ!!

左が本物の“カール”、右が“つなカール”(ちびっこカールですが、味は本格的!)



さて、今年は、ヴェルディワーグナー生誕200年記念に加えて、世阿弥生誕650年記念、近松門左衛門生誕300周年という総合舞台芸術にとって大変に貴重な年になりました。そこで、今年一年を締め括る意味で、西洋の総合舞台芸術である“オペラ”について興味深い題名の本が出版されたので、その感想を東洋の総合芸術である“能楽”に絡めながら書いてみたいと思います。



続く。

◆おまけ
R.シュトラウスの歌劇「バラの騎士」第2幕をクライバーの名演で。

ワーグナーの初期の作品である歌劇「妖精」第1幕より。録音状態は悪いですが..。

ヴェルディの歌劇「オテロ」より。プライドの高さゆえに猜疑心に心乱して行く弱い男をドミンゴが見事な演技力と歌唱力で好演。

人形浄瑠璃文楽名演集 通し狂言 仮名手本忠臣蔵

【ご協力のお願い②】
大阪市は芸術団体への補助金交付に関して観客数に応じて交付金額を増減させる市場評価方式を来年度以降も継続する見通しのようです。国立文楽劇場大阪フィルハーモニー交響楽団等が対象のようですが、(無論、限られた財源のなかで、より公平で納得感がある方式で幅広い芸術団体へ補助金を交付する方法作りは非常に困難を伴うものであると承知したうえで)果たして文化芸術の育成振興を市場評価に晒す方式が妥当性を持ち得るのか、文化芸術の発展史(芸術に大衆性は必要かという問題を含む)を紐解くにつけて大いに議論の余地がありそうですが、先ずは御託を並べるよりも(もし劇場やホールへ行ける環境・状況を取り戻せれば)この年末年始は関東から大阪へ遠征しようかとも考えています。皆さんも芸術鑑賞がてら大阪観光へ“ことりっぷ”してみませんか。
http://mainichi.jp/feature/news/20131112ddn002010045000c.html

【題名】人形浄瑠璃文楽名演集 通し狂言 仮名手本忠臣蔵
【出演】◆大序
     鶴が岡兜改めの段
      竹本相子大夫、竹澤団市 ほか
     恋歌の段
      竹本三輪大夫、竹本南都大夫、鶴澤八介 ほか
      塩谷判官 吉田文雀高師直 吉田作十郎、
      顔世 吉田和生
      若狭助 吉田簑太郎(現、桐竹勘十郎) ほか
    ◆二段目
     桃井館力弥上使の段
      竹本緑大夫、鶴澤清介
     本蔵松切の段
      豊竹小松大夫、野澤勝平(3代 野澤喜左衛門)
      本蔵 桐竹勘十郎(2代)
      戸無瀬 豊松清十郎(4代)
      若狭助 吉田玉松、力弥 桐竹紋寿 ほか
    ◆三段目
     下馬先進物の段 
      竹本三輪大夫、鶴澤清二郎
     腰元おかる文使いの段
      竹本津駒大夫、竹澤団治(現、竹澤宗助)
     殿中刃傷の段 
      豊竹呂大夫、竹澤団七
     裏門の段 
      竹本千歳大夫、鶴澤燕二郎(現、鶴澤燕三)
      おかる 吉田簑助、塩谷判官 吉田文雀
      高師直 吉田作十郎 ほか
    ◆四段目
     花籠の段 
      豊竹呂大夫、鶴澤清介
     塩谷判官切腹の段 
      切 竹本越路大夫、鶴澤清治
     城明渡しの段
      竹本文字栄大夫、鶴澤清二郎
      由良助 吉田玉男、塩谷判官 吉田文雀
      九太夫 吉田作十郎、顔世 吉田文昇 ほか
    ◆五段目
     山崎街道出合の段 
      竹本津国大夫、鶴澤清太郎
     二つ玉の段 
      竹本相生大夫、竹澤団七
      勘平 吉田玉松、与市兵衛 吉田文吾、
      弥五郎 吉田和生、定九郎 吉田玉女 ほか
    ◆六段目
     身売りの段 
      豊竹嶋大夫、野澤錦弥(現、野澤錦糸)
     早野勘平腹切の段
      切 竹本住大夫、鶴澤燕三(5代)
      おかる 吉田簑助、与市兵衛女房 吉田文昇
      勘平 吉田玉松 ほか
    ◆七段目
     祇園一力茶屋の段
      由良助 竹本文字大夫(現、竹本住大夫
      おかる 竹本南部大夫、伴内 豊竹咲大夫
      九太夫 竹本相生大夫
      平右衛門 竹本織大夫(現、竹本綱大夫)
       前 野澤錦糸(4代)
       後 鶴澤燕三(5代)
      由良助 吉田玉男、おかる 吉田簑助
      九太夫 吉田作十郎
      伴内 桐竹紋寿、平右衛門 吉田玉幸 ほか
    ◆八段目
     道行旅路の嫁入 
      竹本津駒大夫、竹本千歳大夫、鶴澤清友
      鶴澤燕二郎(現、鶴澤燕三) ほか
      戸無瀬 吉田文雀、小浪 桐竹紋寿
    ◆九段目
     雪転しの段
      豊竹松香大夫、鶴澤八介
      山科閑居の段
      切 前 竹本住大夫、野澤錦糸
        後 竹本綱大夫、鶴澤清二郎
      由良助 吉田玉男、戸無瀬 吉田文雀
      小浪 桐竹紋寿
      本蔵 吉田玉幸、お石 桐竹一暢 ほか
    ◆十段目
     天河屋の段 
      竹本千歳大夫、野澤錦糸、ツレ 鶴澤清志郎
      由良助 吉田文吾、義平 吉田玉女
      おその 吉田玉英 ほか
      作曲 野澤松之輔
    ◆十一段目
     花水橋引揚の段 
      竹本三輪大夫、竹本文字久大夫、鶴澤浅造 ほか
      由良助 吉田玉男、若狭助 吉田文昇、
      郷右衛門 吉田玉幸、弥五郎 吉田和生 ほか
     光明寺焼香の段
      竹本津国大夫、竹本南司大夫、鶴澤八介 ほか
      由良助 吉田玉男、郷右衛門 吉田玉松
      平右衛門 吉田玉幸、弥五郎 桐竹一暢 ほか
【販売】NHKエンタープライズ
【発売】2010年11月26日
【感想】
今年は近松門左衛門の生誕360周年ということで人形浄瑠璃文楽でも色々な催し物があったようですが、残念ながら、ご案内のとおり諸事情によって観に行くことができませんでした。今日12月14日(但し、新暦では1月30日)は赤穂浪士が吉良邸へ討ち入った日になりますが、久しぶりに人形浄瑠璃文楽の名演を収めたDVD「仮名手本忠臣蔵」を観ることにしましたので、簡単に感想を残しておきたいと思います。

続く。

【1701年3月14日(新暦、同年4月21日)】

風さそう 花よりもなお 我はまた 春の名残を いかにとかせん(浅野内匠頭辞世の句)


左から歌川国芳仮名手本忠臣蔵 三段目 殿中刃傷の場」。江戸城平川門(不浄門)。浅野内匠頭切腹した陸奥一関藩田村邸跡。浅野内匠頭切腹時の血染めの石と梅。

【1702年12月14日(新暦、翌年1月30日)】

  • 04時00分頃 吉良邸(両国三丁目)へ討入り。
  • 06時00分頃 吉良邸を引揚げ。

<吉良邸〜隅田川沿いを南下〜万年橋・永代橋を渡橋〜播州赤穂藩江戸上屋敷(聖路加看護大学)・築地本願寺前を通過〜国道15号線(当時は海岸線)沿いを南下〜泉岳寺

  • 09時00分頃 泉岳寺(高輪)へ到着。
  • 10時00分頃 浅野内匠頭の墓前で報告。
  • 18時00分頃 泉岳寺を出立。
  • 21時00分頃 大目付仙石伯奢守邸(虎の門二丁目)へ到着
  • 02時00分頃 お預け先の各藩邸(細川、松平、毛利)へ到着



上段左から吉良邸跡(勝海舟の生誕地が直ぐ近く)と吉良上野介の首級を洗った井戸。葛飾北斎画「吉良邸討ち入り」で、葛飾北斎は幕府御用鏡師の中島伊勢の養子(妾の子)であったと言われており、その中島伊勢の住宅が吉良邸の真向いにありました。播州赤穂藩江戸上屋敷跡(聖路加看護大学)。下段左から泉岳寺浅野内匠頭の墓前に供える前に吉良上野介の首級を再び洗った井戸。泉岳寺内の浅野家墓所門(播州赤穂藩江戸上屋敷裏門を移築)。浅野内匠頭の墓。

【1703年2月4日(新暦、同年3月20日)】

あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮き世の月に かかる雲なし(大石内蔵助辞世の句)


左から大石内蔵助ほか16名が切腹した肥後熊本藩江戸下屋敷(高輪一丁目アパート)。三田にあった松平家のこの梅の木の下で大石主税ほか9名が切腹泉岳寺にある浅野内匠頭の墓に寄り添うようにして眠る大石内蔵助赤穂義士の墓々。

http://tabikore.com/album/796

ブログの枕とDVDの感想は後ほど。続く。


http://www.shochiku.co.jp/play/kabukiza/schedule/2013/12/_1_52.php






上段の左から内堀り、大手門(高麗門)、大手門(櫓門)、百人番所と大手町の高層ビル群、下段の左から本丸跡(右手が天守台、左手が松の廊下)、松の廊下跡、松の廊下から大奥&天守台方向(この辺一体が松の廊下)、江戸城内地図。松の廊下で刃傷事件があった1701年(バッハや松尾芭蕉が生きていた時代)から約300年を経過していますが、江戸と東京の街並みのみならず日本人の気質までもが随分と様変わりしています。



上段の左から海ほたるから撮影した東京全景、東京スカイツリー八重洲から新橋方面(画面中央のツィンタワーの向う側に歌舞伎座があります。)、東京タワーとレインボーブリッジ、下段の左から六本木から新宿方面(画面右の一番高いビルが六本木ヒルズ、画面左の飛行機の下にあるビルが東京オペラシティー)、羽田空港(円筒形の建物が管制塔)、川崎駅方面(画面中央よりやや左手の3つ突起がある建物の直ぐ近くがミューザ川崎)、横浜ランドマークタワーと横浜ベイブリッジ。本懐を遂げた赤穂浪士は朝6時に東京スカイツリーの周辺にある吉良邸を出立し、八重洲の向こう側にある江戸城を横目に海岸線沿いを南下して朝9時に東京タワーの先にある泉岳寺へ到着したようです。


江戸の空には飛んでいなかった飛行機の腹

ブログの枕とDVDの感想は後ほど。続く。


浮絵忠臣蔵より四段目判官切腹の場面(歌川国直)

◆おまけ
仮名手本忠臣蔵より四段目判官切腹の段

利休にたずねよ

【題名】利休にたずねよ
【監督】田中光
【原作】山本兼一
【脚本】小松江里子
【音楽】岩代太郎
【出演】<千利休市川海老蔵(第11代)
    <宗恩>中谷美紀
    <織田信長伊勢谷友介
    <豊臣秀吉大森南朋
    <おさん>成海璃子
    <石田三成福士誠治
    <高麗の女>クララ
    <山上宗二>川野直輝
    <細川忠興袴田吉彦
    <細川ガラシャ黒谷友香
    <武野紹鴎>市川團十郎(第12代)
    <北政所檀れい
    <たえ>大谷直子
    <長次郎>柄本明
    <千与兵衛>伊武雅刀
    <古渓宗陳>中村嘉葎雄
【公開】2013年12月7日〜
【場所】成田HUMAXシネマズ
【感想】ネタバレ注意!
昨日から公開されている映画「利休にたずねよ」を観てきました。まるで一服の茶を点てられたときのように心が整えられ、久しぶりに自信を持ってお勧めできる映画に出会えたと思います。千葉県成田市の映画館で映画を鑑賞した後、少し時間があったので、近隣の千葉県香取市善光寺へ歌舞伎役者の(初代)松本幸四郎さん(1674年〜1730年、実事・荒事を得意とし、二代目市川團十郎と人気を分けた名役者)のお墓参りに立ち寄ってみました。東京都文京区の栄松院にも初代の墓碑がありますが、もともと初代は同市小見川町出身で、善光寺の墓碑の方が古いと言われていますので、こちらの方が由緒正しい(?)かもしれません。因みに、境内には恋の願いごとが叶えられると言われている「腹切様の碑」もあり、女性を中心に厚〜い信仰を受けています。なお、話は変わりますが、先日、博多に行った際に“明太フランスパン”で有名な辛子明太子の名店「しまもと」に立ち寄ったところ、当代の松本幸四郎さん、女優の松本紀保さん(長女)と松たか子さん(次女)のサイン色紙を発見しました。当代の舌にも適う辛子明太子のようですな。



上段は千葉県香取市善光寺。役者は死しても“華”がある存在、そんな思いを込めて赤い花を一輪添えました。下段は福岡県博多市の辛子明太子の名店「しまもと」

恋多き人生を腹切様にひとしきりお祈りした後、天気が良かったので、近傍の千葉県銚子市まで足を伸ばして屏風ヶ浦を探検することに。屏風ヶ浦は波の浸食によりできた延々10km(銚子市名洗町〜旭市飯岡刑部岬)にも及ぶ海岸の絶壁です。その雄大なスケールはドーバーの白い壁と双璧して見劣らないことから東洋のドーバーと言われている...と由緒書きにはあります。絶壁の高さは約60mほど(15階建相当)あり、その日の天候や時間帯によって屏風(壁面)は様々に景色を変え、晴天の空気が澄んだ夕焼け時には真紅に染まる神の屏風絵の美しさに息をのみます。もう少しカメラの腕前が上達したら夕焼け時の屏風ヶ浦の表情を撮りきりたいと目論んでいます。その後、お腹が空いてきたので、今が旬の魚“金目鯛”の刺身(東京では金目鯛の刺身を食す機会は少ないと思いますが)を贅沢に使った名物「キンメ丼」を食べるために、芸能人御用達(杉良太郎さん、田中邦衛さん、萬田久子さん、志村けんさん、桂米助さんなど)の店でも有名な銚子の魚料理「常盤」へ向かいました。銚子は金目鯛の宝庫として知られていますが、金目鯛の刺身は透き通るような身で臭みはなく、よく身が締まったぷりぷりとした食感で酢飯との相性が良く食欲のそそられる至福の逸品です。金目鯛が旬の季節(冬)は、特にオススメしておきます。
http://d.hatena.ne.jp/bravi/20130212/p1



上段は屏風ヶ浦。下段は左から2枚が飯岡の大鳥居とその向こう側に見える座頭市の住居跡(現在は海ですが、当時は浜で防波堤の先端辺りにあった出稼ぎ漁師用の小屋)、左から3枚目は飯岡灯台のロマンチックな夕陽..チュッ♥、左から4枚目が魚料理「常盤」の名物「キンメ丼」

さて、この映画は直木賞を受賞した山本兼一さんの小説を実写化したもので、これまでの千利休を題材とした映画とは少し趣きを異にし、伝記的叙事詩というよりは、いくつかのエピソード(フィクションを含む)を交えながら千利休が究めた茶の湯の道とは何なのかということに視線が注がれ、その茶の湯の道こそが千利休の生き方そのものに体現、結実されて行く様が丹念に描かれており、それが上に述べた観後感にも繋がっています。この映画は千利休豊臣秀吉の勘気に触れて切腹する当日の場面から始まり、その約20年前にフラッシュバックして織田信長との出会い、豊臣秀吉との葛藤、妻や師弟との関係など、千利休が本格的に茶道を志すことになる青年期から堺の三茶人と持て囃され、そして天下の茶道と呼ばれるまでに登り詰め、やがて黒樂茶碗に究まる千利休の茶道の極致が千利休切腹(死、即ち、究極の侘び)と共に描かれています。「私が額ずくのは美しいものだけ」という言葉を残して天下人、豊臣秀吉と袂を分かち、自らの美意識に忠実であろうとする千利休の茶人としての生き様の美しさに圧倒されます。(そう言えば、自らの創作意欲に忠実であろうと時の権力、スターリン政権に抗ったショスタコーヴィチの生き様が思い出されますが、思えば千利休ショスタコーヴィチも似たような境遇にあったと言えるかもしれません。)


http://www.rikyu-movie.jp/

この映画では千利休の為人とその茶の湯の精神を知るうえで欠かせないエピソードが幾つか出てきます。先ずは、千利休織田信長と最初に出会う場面。織田信長は堺の商人等から名物の品々を献上されますが、その席で千利休は一興を案じます。1つの漆塗りの箱を楚々と取り出し、その中へ筒に入った水を注ぎます。箱の内側には金箔で鳥と波の意匠が描かれていますが、その一杯に張られた水面に夜空に照る月を映して信長へ献上します(公式ホームページの動画「予告編vol.1」)。織田信長はこの風流な一興に大そう感じ入り、どんな名物の品々よりも価値あるものだと称賛して褒美を与えます。織田信長は既成の価値感に囚われず、物事の本質を見極めそこに独自の価値を見出して時代を切り開いて行った人ですが、千利休の美の本質を看破しその面白さに価値を認めます。その意味で織田信長千利休も自分自身の中に独自の価値基準を持った人であったことを端的に物語る大変に興味深いシーンです。また、千利休は寝室で梅の小枝が描かれた掛け軸に蝋燭の光で野鳥の影絵を映し、その景色の変化を“おもしろい”と楽しむ(遊ぶ)場面がありますが、「目で見る美しさ」ではなく、風情の中に美を探求しようとする「心に映る美しさ」(それを“おもしろい”と表現したのだと思います)を尊重する千利休の美に対する態度を描いた心に残るシーンです。(更に付言すれば、茶の湯の一席にあって、亭主と客がこの梅の小枝の掛け軸にどんな景色を心に描くのか、それが侘びの精神ではないかと個人的には思います。)

茶の湯の大事とは、人の心に叶うこと

千利休は弟子の宗二から茶の湯にとって大切なものは何かと問われ、上記のとおり利休が考える茶の湯の精神を語り諭します。「和敬清寂」と言い換えることができるかもしれませんが、これは利休の茶道でもあり生き方そのもの(信条)とも言えるかもしれません。上杉謙信との戦で柴田勝家の援軍に出向いた秀吉は勝家と対立して勝手に援軍を引き上げてしまったことから信長の換気に触れるという事件(史実)がありましたが、信長から切腹を申し渡されるかもしれないと気を病む秀吉が利休の茶室を訪ねます。千利休から茶懐石として茶粥を振舞われますが、その質素な腕を啜りながら百姓時代を懐古して出世栄達ばかりが人の幸せではないと悟り落涙します。利休は茶掛けにある「閑」の字(書体を含む)に込めた心を解いて、いまのような「静かな心」でいつでも茶室に足を運んで欲しいと心尽くしの一服の茶を点てます。茶を点てるとはどういうことなのか利休の茶の湯の精神の真髄に迫る名場面に感じ入りました。

千利休豊臣秀吉より遣わされた使者から秀吉に詫びなければ切腹は免れないと言い渡されますが、既に覚悟が定まっている千利休は心静かに「私が額ずくのは美しいものだけ」と言い残して末期の茶を点てます。千利休は、茶釜から松風の音(以下の和歌を参照)が響くなか、床の間を背にして静かに切腹し、その白装束の周りを真紅の鮮血が覆って末期の一席(利休が大成し、ここに極った侘び茶の道)に自らの生涯で花を添えます。もし千利休豊臣秀吉に額ずいていればその茶の湯の精神は死んでしまいましたが、千利休は自らが美しいと信じるものだけに額ずくことでその茶の湯の精神は永遠に茶道の中に生き続けることになります。茶の湯の道(美)のみに額ずいて見せた千利休の茶人としての生き様そのものが美しく、茶道に生きる人のみならずこの映画を観る全ての人の心を強く捉える映画だと思います。なお、詳しくは書きませんが、高麗の女性との秘事(フィクション)が描かれていますが、末期の一席を観ながら源氏物語に出てくる以下の和歌を思い出しました。皆さんはこの場面を観てどう感じますか。

変らじと 契りしことを 頼みにて 松のひびきに 音を添へしかな(源氏物語第十八帖「松風」第二章「明石の物語」第五段より明石の君の返歌)

なお、市川海老蔵さんの洗練された美しい所作や第12代市川團十郎さんの大きな役者と思わせる独特の存在感(風格)なども見処ではないかと思います。

◆おまけ
you tube”に映画「座頭市」(1989年)の映像がアップされていたのでリンクしておきます。時代考証が良く出来ていて、冒頭(03:43〜)に飯岡の大鳥居(上の写真)と漁師小屋が出てきますが、実在の座頭市の住居跡が忠実に再現されているかのようです。

お茶に因んで、映画「利休にたずねよ」に出演している中谷美紀さんが登場する伊藤園お〜いお茶「ぞっこん惚れちゃった篇」”のTVCMで使われているボロディン弦楽四重奏曲第2番第1楽章をボロディン弦楽四重奏団の演奏どうぞ。

お茶に因んで、金城武さんが出演していたジャワ・ティーの宣伝で使用されていたドビュッシー「夢」をチッコリーニの演奏でどうぞ。